「パパの闘病記」

人間ドック〜診断 (1997.09〜)
フローラン治療開始 (1999.02〜)
フローラン治療2年目 (2000.03〜)
フローラン治療3年目 (2001.03〜)
フローラン治療4年目 (2002.03〜)
フローラン治療5年目 (2003.03〜)

2003.03.18 ★喀血
朝、昼と喀血。止血剤の点滴を開始。
喀血は3日ほどで止まったが、止血剤の点滴は一週間行った。


2003.04.13
少しずつ食事が取れてきて,病院食が再開。

2003.04.19
血液検査の結果、甲状腺の数値が正常範囲になった。

2003.04.23
バイアグラを25mgを一日3回服用へ増量。

2003.05.10 ★薬増量61ngへ
食欲が落ちてきて栄養値も悪化してきたため、栄養剤の点滴を再開。
また、最近息切れが酷いことから、フローランを増量。

2003.05.17
血液検査の結果、甲状腺が再び亢進していた。





ダンナが記した闘病記は、以上です。

体調がよくなったら、パソコンでも触ろうかなって言っていましたが…
なかなか、そこまで回復せず…
2003年7月に人工呼吸器を使用してからは、
ベッドから起きあがることが出来ませんでした。

私も、闘病記を書き残そうという気力がありませんでした。
ただ、その日その日が過ぎれば、それでいい、
伝え残す必要はもうないから…そんな思いでした。

私が友人に宛てたメールから少し拾ってみます。

なっちゃんママ





2003.11.11
『俺は長く生きていいのか?』って聞かれてしまった。

2003.12.25(友人宛mailから)
『いつ急変してもおかしくないので話しておいた方が』と、朝、病院から呼ばれた。
発作が起きた時の処置の再確認をされた。
心臓が限界のようで、動きがもうおかしいんだって。
でも本人に自覚症状がないから、
真実を伝えるべきなのか隠すべきなのか…
今まで苦しんできたんだから、これ以上、苦しめなくてもいいよね。
だから、私も本人に聞かれるまで隠すことにしたよ。
私は最期までマイペース保てるように努力するよ。

2004.2.20
安定していたのに、夜中、喀血して3時間くらい止まらなかったと。
「今回ので吹っ切れた」とダンナは言ってた。
確かにそんな事があった割には、ひどい落ち込みは感じられなかった。
食べる気もあるらしい。

2004.3.2
心臓が小さくなったとダンナからメールがあった。
いよいよ覚悟しなくちゃって思ってたけど、ほっとした。
まだ薬が効くみたい。
いい事・楽しい事…生きていれば必ずあるって信じてる。
小さくても、きっとあるって。

2004.3.7(友人宛mailから)
一昨日、面会に行って来ました。
久しぶりにゆっくりダンナとしゃべってきたよ。

相変わらず横になったままだけど、見かけでは、まぁまぁの調子なのかな。
身体がごまかしが利かなくなってきている事を、悟っているように感じた。
焦りや不安を口にしなくなったから。 怖いだろうし後悔だらけだろうに。

今朝、また少し喀血があったんだって。
止まったけど、吸入している酸素の量が増えたらしい。
「酸素の量が増える」っていうのが、かなり応えると思うんだ。気持ち的に。
今回は喀血のせいだから減らせるかもしれないけど、
その内、酸素の取り込みが悪くなって量をどんどん増やしていく。
増やしても増やしても、細くなってしまった血管では酸素が取り込みきれなくて、
どんなに吸い込んでも「酸素が吸えない」状態に。
苦しくなってしまうから、薬で眠らせて起きたら又薬で眠らせて…
もう迫ってきてるのかもしれない。
私は自信がない。苦しむ姿を横で見ているなんて。
少しでも今の自分から逃げたいから遊びに行ってきます。

2004.3.12
面会に行って、喀血したんだなってすぐにわかった。
夜中にまた喀血して、なかなか止まらなかったらしい。
2004.3.13(友人宛mailから)
今日は、あきぼんを久しぶりにSEAに連れて行った。

ダンナからメールが入っていた。
「また少し喀血したけど一応止まった」
「呼吸が浅く呼吸数が増えて息苦しい感じ」
「17日の卒園式に出られなくなったらゴメン」と。

わがまま言わせてくれってダンナに頼んだ。
その時を家で待っているのは嫌だから。
その時までいつもと変わらない生活を続けさせてほしいって。
その辺は前々から承知済みだけど…
もう家族の最期は見たくないから、いつも通り出掛けてきます。
できれば、どう急いでも間に合わないような場所から、
時間をかけて取り乱さずダンナを迎えに行きたい。

2004.3.14(友人宛mailから)
今日は 喀血はしてないけど酸素流量が11リットル。
血痰や痰が肺に溜まってるかららしいけど…。なっちゃんの末期が10リットル。
最期は15まで上げた。もう、その時が近づいてるのかもしれない。

今日もあきぼんとSEAに行ってきたよ。

明日も一人で行くつもり。
まだ大丈夫って思いたいのと、常に心配をして待っているのが嫌なのの両方なんだろうな。
ダンナとは、最期に交わすであろう言葉をやり取りしたよ。
連日眠れないらしいけど…明日の朝も迎えられるといいな。

2004.3.15
昨日と変わらない体調。

2004.3.16
体調は変わらないとの事。
酸素の量もそのままらしい。

2004.3.17
あきぼんの卒園式。卒園対策委員の仕事を終える事ができてほっとしました。

2004.3.19(友人宛mailから)
一昨日から少し「酸素」の流量を下げる事ができたみたい。
これからあきぼんとSEAに遊びに行きます。
-------

あと1時間もしたらSEAを出るつもり。
ダンナにメールしたら、昼前にまた喀血したんだって。
明日、面会に行くからガンバレと返信したよ。
-------

今、SEAの帰り道。あと20分で家に着くって所で、主治医から携帯に電話入ってしまった。
一時期止まってたんだけど喀血が続いているから部屋移したって
『急がないけど今日一度来て』という事なので あきぼんを実家においてから行ってきます。

2004.3.26
調子の方は横這い状態。
昨日から、少し食欲が出てきたとか。

2004.4.7
あきぼんの入学式。私達の14回目の結婚記念日。

2004.4.19(友人宛mailから)
喀血がひどかったみたい。 血圧が下がったおかげで止まったらしい。
私が行った時は睡眠薬をつかっていたので、
意識もうろうで、まともな会話はないんだけど、
「ごめんね」だけハッキリ言われてしまった。
呼吸がかなり苦しそうだったけど、
このまま喀血しなければ安定してくるんじゃないかって、先生に言われて、
薬で完全に眠ってしまったので、帰ってきました。
また明日の昼頃、様子を見に行ってきます。

2004.4.20
0:30少し前、そろそろ寝ようかなと思ったら、
病院から電話があって、容態が変わったので来て下さいと…
こんな時間では、あきぼんを連れて行けないので、
実家に電話して父に留守番に来てもらいました。

私が焦って行っても、何も変わらない。のんびり行こう。
病棟についたのは1:00を過ぎていたと思います。

0:35だったそうです。
いつも私の事を最優先にしてくれたあの人は、
「見届けたくない」という私の希望通りに最期を迎えました。

数日前、ちょっと喧嘩したんです。
メールでは和解してたんですけど…それを後悔してます。
二人とも、おしゃべり好きで本当にたくさん色んな話をしました。
でも、もっともっと話がしたかった。聞いてほしかった。





葬儀が済み、納骨が済み、新盆が終わり…彼岸が過ぎると誕生日。
その頃には、まだ連絡をしていない方々にお知らせしなくては。
あの人がいなくなった事実をわかっていても、
どこかで悲しみを誤魔化し、半年間を過ごしてきてしまいました。
そろそろ、向き合っていかなくては…
やっとホームページの更新作業をする気になりました。

私達家族を支えて下さった皆様、ありがとうございました。

次女と2人の闘病生活ですが、楽しく生きていきます。

なっちゃんママ

(2004.10.2)


ページトップへ

ホームへ
ギンガムチェック(水色)