きっと、だいじょうぶ。

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きっと、だいじょうぶ。:/19 「正論」を語るとき=西野博之

 毎年、寒さが一段と厳しくなったなと思う頃に、子どもの受験に関しての相談がいくつか寄せられる。

 追い込みの時期だというのに、勉強に取り組む様子がない息子のこと、不登校をしている娘の高校進学のこと。

 親の話を聞いていると、かなりイライラしているのがよくわかる。「いつまでダラダラしているのか。さっさとやるべきことをしなければ」とか、「なぜこの大事なときに頑張れないのか。情けない」などなど。

 聞いている私まで、身が縮んでくる。「息子に、このままじゃ、あんたの将来まっくらだよといってきかせた」と。試験に落ちたら人生が終わってしまうのだろうか。

 子どものために良かれと思い、親は叱咤(しった)激励するのだろう。「正論」を背負った親の言葉はいつしかエスカレートしていく。鋭い刃となって、子どもの心に突き刺さる。

 長年子どものそばに寄り添っていると、この時に親や先生から言われた言葉に傷つき、自分を否定し続けている若者たちに出会う。肝心なところで踏ん張れないダメなやつ。生きてる価値もないやつだと。

 「正しい」事を言うときは人を傷つけやすいものだと知っていたほうがいい。相手に理があると思うから、子どもは反論すらできない。

 私は小さいころから、グズでノロマな子といわれていた。物事に取り掛かるのに、やたらと時間がかかるのだ。「早くしなさい」「計画的に予定を立てて取り組みなさい」。親や先生からこの「正論」を耳にタコができるほど聞かされた。だが、50歳を過ぎた今でも、改善された兆しはない。相変わらず段取りは悪く、先の読みは甘く、締め切りに追われる人生。早めに着手したほうがいいことは百も承知だが、できないのだ。「正論」を伝えさえすれば、子どもは変わるというのは、幻想に過ぎないと、わが身をもって知ったというのは、勝手な言い訳だろうか。

 子どもを見ていてハラハラ、ドキドキするくらいなら、見ないほうがいい。できないところを指摘し続けて自信を失わせるよりも、そこを補う別の力を育てたほうがいい。ほど良く他人(ひと)に依存し周りの協力を得るのも、生きていく上で大事な力である。

 かつて私は、人と同じような速さでできないことがコンプレックスだった。いま周りに迷惑をかけながらも、たくさんの人とのつながりの中で、助けられて生きていることに幸せを感じている。(NPO法人フリースペースたまりば理事長)=次回は2月6日

毎日新聞 2011年1月23日 東京朝刊

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