その3 日本代表バンコクの悲劇
時は3ヶ月前に戻るが、2000年4月、日本代表合宿の最終選考合宿が小田原アリーナで行われた。世界選手権出場を賭けたアジア選手権は5月5日からタイのバンコクで開催される。
最終合宿で代表に残ったメンバーは、ゴールキーパーが金澤、定永、札幌ベアフッドの高間専一郎、フィールドに須田、相根、上村、市原、藤井、前田、難波田、鈴村、アスパの安川知弘の合計12名であった。この12名の数がのちにバンコクの悲劇を生む一つの要因になった。
カスカベウはファイルフォックスを押さえて最多の3人、相根、市原、前田を送り込んでいる。以降、この3人は長らく日本代表の中枢メンバーとなった。
2000年5月、本番のアジア選手権予選が始まった。予選リーグは、日本は強敵イランと同組のグループAに入った。グループAには強敵イランがいる。結果はウズベキスタンに4-2、イランに2-6、マカオに12-1、キリギスに6-0で3勝1敗となり2位通過を果たす。ここまでは予定どおりの戦いであった。むろん、1位はイランで4勝0敗である。結果、グループBの1位カザフスタンと対戦、勝てば2位以上で世界選手権出場を果たす。しかし、前半を2-1でリードしながら後半はリズムを崩し、藤井のレッドカード退場もあったりして6-9で敗戦、3位決定戦に回ってしまう。
3位決定戦の相手は地元タイである。地元タイの熱狂的応援があったとはいえ、前半は3-2のリードで終えた。しかし、試合内容は押していたが後半にやられ、結局6-8で敗戦、世界選手権出場の夢はならなかった。
アマチュア、経験不足、フィジカル不足といえばそれまでであるが、前半リードしながらあと一歩で世界選手権を後半戦で逃したこと、昨年の戦いぶりからなんとなく行けそうな気分があったことなどから、大会終了後、敗因分析のさまざまな議論が巻き起こった。
実際、2000年5月15日、取材に行ったスポーツカメラマン六川則夫(のちもイランで行われた第3回アジア選手権をはじめ、数々のフットサル国際試合を取材)を迎えて、サポティスタ主催神田サッカーナイトシリーズの一つとして20人程度の関係者、一般参加も含めて報告会、討論会が行われた。また、フットサル専門雑誌ピヴォでも座談が組まれ、総括記事が書かれた。
当時、よく言われたことは、プロ意識、気持ちの欠如と競技フットサルの置かれた環境問題であった。前者では、アスリートがタバコを吸っていいのかといったものもあった。
後者は、企業の後ろ盾があるわけでもなく、自らの生活を犠牲にして、練習場の確保から、大会のセッティング、技術、戦術の勉強、取得まですべて選手自らが自分でやらなければならない状況では勝つのは難しいと言ったものであった。要は、アマチュアであるということである。しかし、今も一部のチームあるいは選手を除いてアマチュアといえばアマチュアなので、10年がかりでまだ道半ばと言える。
さらに、それが発展して、ならばJリーガーを起用すべきではないかといったJリーガー待望論も出て来た。この待望論は、今ではそんな議論は影を潜めたが、丁度、Jリーガーのセカンドライフが問題になっていた時期と重なったこともあったように思う。
実際、次のアジア選手権の代表選考はどちらかというと元Jリーガーを起用する方向に振れるのであった。
しかし、今にして思えば世界選手権出場を逃した原因はちょっとした判断ミス、不運が重なったものではなかったか。
ちょっとした判断ミスとは、当時は予算がなかったせいか帯同メンバーはきっちりベンチ入りの12名、その中でゴールキーパーに3人を割いた点である。したがって、フィールドは9名で、暑いタイで戦うには厳しかった。不運なことに、難波田のケガ、藤井のレッドカード退場のアクシデントが起きてしまった。せめてフィールドプレーヤーの数を増やしていればと悔やまれる。実は、予算上12名帯同か14名帯同かなかなか決まらなかったらしい。ひとつには直前までラモスが選考されていたらしく、その枠を取っていたとも考えられるが、結局ラモスはケガでバンコクには来なかった。予算の少なさは当時のフットサルの位置付けを物語るものであろう。ちなみに第3回アジア選手権からは14名帯同となった。
そして、根本的には、当時は通年リーグもなければ、長期に渡って強化を図る専従監督もいないかったことが世界選手権に行けなかった原因である。サッカーがドーハーの悲劇でまだ日本は世界に行くのは早いと運命付けられたのと同様、フットサルもバンコクの悲劇でまだ世界に行くのは早いと判断されたのであろう。実際、今にして思えばまだ早いと言わざるを得ない環境であった。むろん、今だから言える話であるが、恐らく、かりにグアテマラに行けたとしても結果は見に見えていたし、大きな変化は何も起こらなかったであろう。
ちなみにバンコクの悲劇という言葉は、フットサル専門誌ピヴォの記事で使われた言葉である。
さて、このブログを書いている2010年5月27日(木)、第11回のアジア選手権準々決勝が行われ、日本はキリギスタンを破って準決勝に駒を進めた。まさに10年前と同じベスト4まで来たわけである。当時と比べて日本代表のレベルは上がったのかというテーマは大変興味深い。しかし、まだ結果も出ていないので別の機会に譲るとして、ここでは、前述したメンタル面、環境面について10年前と最近を比較してみよう。
あれから10年、さすがにJリーガー待望論は影を潜めた。また、タバコ問題もないと思われる。気持ちがないとかアマチュアだといった面はどうであろうか。これも、Fリーグが設立されてから3年、少なくとも、当時、言われた街のアンチャンが日本代表になったという状況ではなくなった。環境面もFリーグが出来て大幅に改善された。
しかし、改善がもたらす逆効果の面で気になる点がある。それは、環境が与える選手のモチベーションへの影響である。無論、自国の名誉をかけて戦う、自分の存在価値をかけて戦うことは普遍的だとしても、当時と今では大きく環境が変化した。
第1に、矛盾するかも知れないがFリーグが出来たことである。当時は、日本代表に入って日本が活躍することが、フットサルの全国リーグ、プロリーグができる道と信じて、戦う部分があった。それこそあの当時は世界選手権に行ければすぐにでもプロリーグの道が開けるくらいの期待があった。しかし、少なくともそのFリーグはすでに存在している。
第2は、当時は、日本代表で活躍することがフットサルで飯が食えるすなわち海外でプレーするステップだった。実際、相根、市原、鈴村、木暮、小野、高橋らは代表で活躍して、その後、海外でプロ生活を送っている。今は、完全なプロリーグではないが、Fリーグにいれば、クリニックやスクール収入の道も開ける時代となった。逆に海外に出ても、今の経済情勢からはとりわけ収入面で海外が良いという状況ではなくなった。
第3は、当時は、この三国志でもわかるとおり、日本代表活動と日常行われるフットサル競技の整備が渾然一体、同時平行で行われていたことである。つまり、代表で得たノーハウを自分のチーム活動にストレートに反映できる時代であった。監督がいなかった時代のせいもある。今は、組織がしっかりしているため、日本代表は日本代表、日常のチーム活動は所属チームの監督の指示にしたがったチーム活動とはっきり分かれている。
このように、時代は大きく変化した。選手達には、この時代の変化に負けない強い気持ちで日本代表を目指し、戦ってもらいたいものである。
(続く・・・毎週日水+随時更新・・ご指摘・ご意見お待ちしています。)