2010年5月アーカイブ

 その4 勝てないカスカベウ

 2000年5月、第2回のFDCカップが開催された。前回と同じ山中湖スポーツセンターで決勝大会が行われたが、決勝戦はなんとカスカベウ対ウイニングドッグであった。昨年末の選手権関東予選以来の再戦で、またしてもウイニングドッグが3-2の粘り勝ちで優勝を飾る。まだ、カスカベウの傷は癒えていない。

 

続く2000年6月、コパジャル2000が開催された。カスカベウは昨年2位であったし、ファイルフォックスやほかにも強豪チームが出るだけに是非勝ちたい大会であった。 

 

関東の出場チームはカスカベウ、ファイルフォックス、ウイニングドッグ、ガロ、プレデター、それとフットサル世田谷、キューピーなどである。フットサル世田谷は以前紹介した施設の名前が冠のチーム、キューピーは第2回の関東フットサルリーグに参入の千葉のチームでのちに柏フットサルクラブRAYOとなる。選手には小竹洋一、亀井靖之、丸太洋輔などの千葉県選抜を擁していた。

 

関西勢ではアスパがあいかわらずがんばって出場していた。

 

対する日系ブラジル人チームは、イパネマズKOWA(前回優勝)、CIBRASIL(リガ天竜1部)、ujiippon(リガ天竜2部)などである。

 

結果は、昨年に続いてイパネマズKOWAが優勝、2位にはカスカベウ、3位はファイルフォックスであった。MVPはヒカルド比嘉、ベスト5にはダニエル大城、難波田、甲斐、ゴールキーパー定永が選ばれた。

 

またしてもカスカベウは勝てなかった。また、残念ながらというべきか、予選ブロックの組み合わせの都合でカスカベウ対ファイルフォックスの対戦も実現してない。また、実現したとしてもファイルフォックスの助っ人日系人はイパネマのメンバーとなったため、参考にはならなかっただろう。

 

以降、運命の第6回選手権まで両者は対戦することはなかった。なぜなら、本来なら対戦するはずの都リーグには手続きの関係でまだカスカベウは参入していなかったからである。

 

(続く・・毎週日水更新+随時更新・・ご指摘、ご意見お待ちしています。)

 

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 その3 日本代表バンコクの悲劇

 時は3ヶ月前に戻るが、2000年4月、日本代表合宿の最終選考合宿が小田原アリーナで行われた。世界選手権出場を賭けたアジア選手権は5月5日からタイのバンコクで開催される。

 

 最終合宿で代表に残ったメンバーは、ゴールキーパーが金澤、定永、札幌ベアフッドの高間専一郎、フィールドに須田、相根、上村、市原、藤井、前田、難波田、鈴村、アスパの安川知弘の合計12名であった。この12名の数がのちにバンコクの悲劇を生む一つの要因になった。

 

 カスカベウはファイルフォックスを押さえて最多の3人、相根、市原、前田を送り込んでいる。以降、この3人は長らく日本代表の中枢メンバーとなった。

 

 2000年5月、本番のアジア選手権予選が始まった。予選リーグは、日本は強敵イランと同組のグループAに入った。グループAには強敵イランがいる。結果はウズベキスタンに4-2、イランに2-6、マカオに12-1、キリギスに6-0で3勝1敗となり2位通過を果たす。ここまでは予定どおりの戦いであった。むろん、1位はイランで4勝0敗である。結果、グループBの1位カザフスタンと対戦、勝てば2位以上で世界選手権出場を果たす。しかし、前半を2-1でリードしながら後半はリズムを崩し、藤井のレッドカード退場もあったりして6-9で敗戦、3位決定戦に回ってしまう。

 

 3位決定戦の相手は地元タイである。地元タイの熱狂的応援があったとはいえ、前半は3-2のリードで終えた。しかし、試合内容は押していたが後半にやられ、結局6-8で敗戦、世界選手権出場の夢はならなかった。

 

 アマチュア、経験不足、フィジカル不足といえばそれまでであるが、前半リードしながらあと一歩で世界選手権を後半戦で逃したこと、昨年の戦いぶりからなんとなく行けそうな気分があったことなどから、大会終了後、敗因分析のさまざまな議論が巻き起こった。

 

 実際、2000年5月15日、取材に行ったスポーツカメラマン六川則夫(のちもイランで行われた第3回アジア選手権をはじめ、数々のフットサル国際試合を取材)を迎えて、サポティスタ主催神田サッカーナイトシリーズの一つとして20人程度の関係者、一般参加も含めて報告会、討論会が行われた。また、フットサル専門雑誌ピヴォでも座談が組まれ、総括記事が書かれた。

 

当時、よく言われたことは、プロ意識、気持ちの欠如と競技フットサルの置かれた環境問題であった。前者では、アスリートがタバコを吸っていいのかといったものもあった。

 

後者は、企業の後ろ盾があるわけでもなく、自らの生活を犠牲にして、練習場の確保から、大会のセッティング、技術、戦術の勉強、取得まですべて選手自らが自分でやらなければならない状況では勝つのは難しいと言ったものであった。要は、アマチュアであるということである。しかし、今も一部のチームあるいは選手を除いてアマチュアといえばアマチュアなので、10年がかりでまだ道半ばと言える。

 

 さらに、それが発展して、ならばJリーガーを起用すべきではないかといったJリーガー待望論も出て来た。この待望論は、今ではそんな議論は影を潜めたが、丁度、Jリーガーのセカンドライフが問題になっていた時期と重なったこともあったように思う。

 

 実際、次のアジア選手権の代表選考はどちらかというと元Jリーガーを起用する方向に振れるのであった。

 

 しかし、今にして思えば世界選手権出場を逃した原因はちょっとした判断ミス、不運が重なったものではなかったか。

 

ちょっとした判断ミスとは、当時は予算がなかったせいか帯同メンバーはきっちりベンチ入りの12名、その中でゴールキーパーに3人を割いた点である。したがって、フィールドは9名で、暑いタイで戦うには厳しかった。不運なことに、難波田のケガ、藤井のレッドカード退場のアクシデントが起きてしまった。せめてフィールドプレーヤーの数を増やしていればと悔やまれる。実は、予算上12名帯同か14名帯同かなかなか決まらなかったらしい。ひとつには直前までラモスが選考されていたらしく、その枠を取っていたとも考えられるが、結局ラモスはケガでバンコクには来なかった。予算の少なさは当時のフットサルの位置付けを物語るものであろう。ちなみに第3回アジア選手権からは14名帯同となった。

 

そして、根本的には、当時は通年リーグもなければ、長期に渡って強化を図る専従監督もいないかったことが世界選手権に行けなかった原因である。サッカーがドーハーの悲劇でまだ日本は世界に行くのは早いと運命付けられたのと同様、フットサルもバンコクの悲劇でまだ世界に行くのは早いと判断されたのであろう。実際、今にして思えばまだ早いと言わざるを得ない環境であった。むろん、今だから言える話であるが、恐らく、かりにグアテマラに行けたとしても結果は見に見えていたし、大きな変化は何も起こらなかったであろう。

 

ちなみにバンコクの悲劇という言葉は、フットサル専門誌ピヴォの記事で使われた言葉である。

 

 さて、このブログを書いている2010年5月27日(木)、第11回のアジア選手権準々決勝が行われ、日本はキリギスタンを破って準決勝に駒を進めた。まさに10年前と同じベスト4まで来たわけである。当時と比べて日本代表のレベルは上がったのかというテーマは大変興味深い。しかし、まだ結果も出ていないので別の機会に譲るとして、ここでは、前述したメンタル面、環境面について10年前と最近を比較してみよう。

 

あれから10年、さすがにJリーガー待望論は影を潜めた。また、タバコ問題もないと思われる。気持ちがないとかアマチュアだといった面はどうであろうか。これも、Fリーグが設立されてから3年、少なくとも、当時、言われた街のアンチャンが日本代表になったという状況ではなくなった。環境面もFリーグが出来て大幅に改善された。 

 

しかし、改善がもたらす逆効果の面で気になる点がある。それは、環境が与える選手のモチベーションへの影響である。無論、自国の名誉をかけて戦う、自分の存在価値をかけて戦うことは普遍的だとしても、当時と今では大きく環境が変化した。

 

第1に、矛盾するかも知れないがFリーグが出来たことである。当時は、日本代表に入って日本が活躍することが、フットサルの全国リーグ、プロリーグができる道と信じて、戦う部分があった。それこそあの当時は世界選手権に行ければすぐにでもプロリーグの道が開けるくらいの期待があった。しかし、少なくともそのFリーグはすでに存在している。

 

第2は、当時は、日本代表で活躍することがフットサルで飯が食えるすなわち海外でプレーするステップだった。実際、相根、市原、鈴村、木暮、小野、高橋らは代表で活躍して、その後、海外でプロ生活を送っている。今は、完全なプロリーグではないが、Fリーグにいれば、クリニックやスクール収入の道も開ける時代となった。逆に海外に出ても、今の経済情勢からはとりわけ収入面で海外が良いという状況ではなくなった。

 

第3は、当時は、この三国志でもわかるとおり、日本代表活動と日常行われるフットサル競技の整備が渾然一体、同時平行で行われていたことである。つまり、代表で得たノーハウを自分のチーム活動にストレートに反映できる時代であった。監督がいなかった時代のせいもある。今は、組織がしっかりしているため、日本代表は日本代表、日常のチーム活動は所属チームの監督の指示にしたがったチーム活動とはっきり分かれている。

 

このように、時代は大きく変化した。選手達には、この時代の変化に負けない強い気持ちで日本代表を目指し、戦ってもらいたいものである。

 

(続く・・・毎週日水+随時更新・・ご指摘・ご意見お待ちしています。)

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その2 関東リーグ発足その光と影

  2000年3月、いよいよ正式な第1回関東リーグが始まった。都県リーグの上位リーグが常設されるわけで、フットサルの普及、技術レベルの向上に期待がかかった。しかしながら、まだ通年リーグではなく3月5日から26日までの間の3日間、小金井総合体育館、千葉公園体育館、小田原アリーナなどで行われた。

 

 参加チームを紹介しよう。東京からは府中水元クラブ、ガロ、小金井ジュール、東京リーグ選抜、神奈川からウイニングドッグ、エスポルチ藤沢、ぺったんこ、千葉からプレデター、千葉リーグ選抜、茨城からマルバ、F.U.A、群馬から渋川カルテットの12チームである。ここには、準備が整わず、ファイルフォックス、カスカベウの名前はない。また、山梨、栃木はまだ県リーグがないため、チームを送り込むことはできなかった。

 

 試合方式は会場、費用の関係から12チームをA、B両ブロックに分かれてリーグ戦を行い、ブロック同士の順位決定戦を行う変則的な方式でこの方式は第2回まで続いた。

 

 結果であるが、1位、2位決定戦はガロとプレデターが対戦、1-1の引き分けとなり、記念すべき第1回大会優勝はガロ、プレデターの同時優勝となった。3、4位決定戦はマルバが5-3で小金井ジュールを下し、マルバが3位となった。その マルバには、赤い彗星と異名をとった赤い靴は履く彗星のごとく足が速い鈴木洋一(のちにウイニングドッグ)、清水健、根本和典、斉藤俊彦、GK杉山哲一(のちにファイルフォックス、名古屋オーシャンズ)らがいた。

 

 期待された関東リーグであるが、ファイルフォックス、カスカベウが参加していないため、困った現象も起きた。それは、3ヶ月後に開催された第16回の全国選抜フットサル大会には、建前上、関東リーグが設立されたため、ファイルフォックス、カスカベウの選手は選ばれなかったからである。

 

その第16回全国選抜大会は、2000年7月、北海道で開催された。この大会は同月末に行われるスペインの名門バルセロナとの親善試合に出場する日本選抜の選考を兼ねていた。

 

 前回と同じく、選抜を組めたのは北海道と関東であったが、関東選抜は、監督に松村、コーチに中村恭平、選手はガロからゴールキーパー石渡、関、横田、府中水元クラブから鞁島、中村俊仁、小田野直規、エスポルチ藤沢からGK小林康紀、黒岩、豊島明、奥村、プレデターから岩本、ウイニングドッグから木暮、鈴木、小金井ジュールから古林直樹、渡辺裕貴が選ばれている。

 

 豊島(のちにロンドリーナ、湘南ベルマーレ)は、かって横浜マリノスユースに在席、サッカーでブラジル留学の経歴の持ち主である。いずれはフットサル日本代表に選ばれる逸材であった。

 

 大会結果の方は、関東選抜が地元北海道選抜を2-0で下し、優勝した。準優勝の北海道選抜にはゴールキーパーの角田麻人がいたが、これをきっかけに上京、最初はウイニングドッグに入り、のちにガロ、カフリンガへと進んだ。また、小野寺隆彦がいたがのちにエスポラーダ北海道の監督になっている。

 

 選抜大会開催の6日後、選抜大会の優秀選手で構成される日本選抜とスペインの名門FCバルセロナとの親善試合が幕張メッセの会場で行われた。優秀選手の大半が関東選抜であったため、関東選抜対バルセロナの様相であったが、1-9で日本選抜は敗れた。

 

 せっかくの国際大会であったが、ファイルフォックス、カスカベウの選手がいなかったのは残念なことであった。ちなみに両チームは公式な関東リーグに参加するよう薦められる。ファイルフォックスは都リーグに所属していて、第2回から昇格、カスカベウは新チームであったことからまずは都リーグから出発せざるを得ず、関東リーグにお目見えするのは第4回からであった。

 

(続く・・毎週日水+随時更新・・ご指摘、ご意見お待ちしています。)

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その1 呉越同舟のブラジル遠征 

 2000年2月、失意のカスカベウは成田空港にいた。マリオ安光が企画したブラジル遠征に参加、BARUERI CUP(バルエリという街で行われる)に出場するためである。もう1チーム、これまたファイルフォックスに選手権決勝で敗れ、再出発を図りたいアスパがいた。

 

 BARUERI CUPの出場チームはグループAがコリンチャンス(オスカーの古巣)、ウインプロ(のちにファイルフォックス小松竜一が留学、日本代表が練習試合も行う)、GM/シボレー、日本のアスパ、グループBがバネスパ(のちに難波田、木暮が留学)、パルメイラス(のちのシュライカー大阪ドゥダの古巣)、アルエリ、日本のカスカベウである。ブラジルの出場チームはトップクラスのチームばかり、しかもこのBARUERI CUPの合間を縫ってサンパウロFC、BORDONなどとも試合をした。夢のようなフットサルツアーだ。

 

ところでBORDONといえば、お気づくの方もおられるだろう。のちに藤井がアスパから独立、立ち上げたチーム名と同じである。なんでも、このBORDON戦で大量にもらったユニフォームがBORDONと書いてあったのでユニフォーム流用のため命名したとのこと。いかにも藤井らしい。

 

さて、結果は、両チームとも全ての試合で10点以上の大差を付けられるもので順位は最下位であった。しかし、両チームにとって選手権の負けを取り戻すほど収穫のあるツアーだった。とにかく、ディフェンスばかりしていたのでディフェンスが強くなったことは確かである。

 

 この遠征には、実は両チーム以外に3人のメンバーが帯同していた。ファイルフォックスのオスカーと難波田、そしてウイニングドッグの木暮で彼らもカスカベウに混じって試合に出場した。この出会いが、のちに木暮がファイルフォックスに移籍、カスカベウと対決するきっかけになろうとは本人も当時は知る由もない。

 

 2000年3月、彼らにとって息つく暇もなく、日本代表の選考会が始まった。それは5月に行われる第2回のアジア選手権のためのもので、今度は正真正銘、3位になれないとこの年に行われる第4回の世界選手権に出場できない。

 

 監督は前回にひき続いてマリーニョ、コーチはのちに第4回アジア選手権日本代表監督になる目黒FCの原田理人で、各地で選考会が行われた。

 

 最終選考会に残った関東勢のメンバーを紹介するとファイルフォックスから上村、難波田、渡辺、カスカベウから市原、前田、相根、目黒FCから須田(前回大会はコーチで元浦和レッズ)、ゴールキーパーの古島、プレデターから岩本、ウイニングドッグから木暮、アムニスバカジュニアーズから清野乙彦(元名古屋グランパス)、NACからゴールキーパー金澤(かってエスポルチ藤沢)が選ばれた。

 

 ちなみにアムニスバカジュニアーズとは、すでに紹介したサッカーのサポーターウルトラニッポンで有名は植田が立ち上げたチームで東京都リーグに所属、好成績を納めた時期もあった。また、清野は、ヴェルディジュニアユースから帝京高校、名古屋グランパスの経験の持ち主で木暮の小学校時代のサッカーチームの先輩である。

 

 関西勢は、アスパから藤井、安川知広、異色はフットサル経験がこの時はほとんどない元ヴィッセル神戸の鈴村拓也(のちにマグ、スペインリーグ、デウソン神戸)であった。

 

(続く・・・毎週日水+随時更新・・・ご指摘、ご意見お待ちしています。)

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その9 ファイルフォックス2連覇

  明けて2000年2月、第5回選手権が始まった。この年から会場は駒沢体育館に移され、駒沢がフットサルの聖地と言われるようになった。

 

 見所は、優勝候補の筆頭ファイルフォックスが連覇なるか、これに第3回選手権の覇者アスパがどこまで食い下がるか、そして進境著しいウイニングドッグがダークホース的存在といったところであろうか。実際、ベスト4にはこの3チームに浅利 真がキャプテンを努める東北代表のFC小白川が入った。FC小白川は、山形大学サッカー部4年生を中心に作られたチームで、のちに東北ではパラゴスタといわれるくらい強いフットサル専門チームの母体となったチームだ。また、浅利は何度も日本代表候補に選ばれている。

 

 今大会の特徴は、戦前からの予想がそうであるように、フットサル専門チームの台頭が著しい大会といえる。第2回の府中水元クラブの優勝、第3回のアズーの準優勝という歴史を経て、第4回はファイルフォックスの優勝、もはや第5回は戦前の予想からしてフットサル専門チームが上位に並ぶほどになった。

 

 結果は、FC小白川を12-1という大差で一蹴したファイルフォックスとこれまた11-3の大差でウイニングドッグをのけたアスパの決勝戦となった。ダークホース的存在だったウイニングドッグは、地域予選の勢いが本戦では気負いに変わり、反則を連発、2人の退場者を出す始末で自滅してしまった。

 

 決勝は、戦前の予想どおり、ファイルフォックスの試合巧者ぶりが光り、アスパを圧倒、前半2-1、後半4-1の安定した点差で勝利、2連覇達成で第5回大会の幕を閉じた。

 

 この年のファイルフォックスの日系ブラジル人の助っ人は、比嘉、ジョナスであったが彼らのバランスの取れたフットサルが相当機能していた。

 

 3位決定戦は、ウイニングドッグ、対FC小白川で行われたが、退場者でメンバーを欠くウイニングドッグに精彩はなく、3-2でFC小白川が勝って3位入賞を果たした。

 

 時は2000年代に入り、チーム勃発から4年を経て、第4回、第5回選手権とファイルフォックスが2連覇、この勢いはまだまだ続くのであろうか。

 

ちなみに以前紹介した山下が準備したフットサル専門雑誌、フットサルマガジンピヴォは、この年の4月、ファイルフォックスの優勝を特集記事にして隔月発行で創刊された。

 

創刊の経緯を聞くとこんな答えが返って来た。

 

山下がフットサルに初めて触れたのは確か1996年でした。元々は、クルマ雑誌の編集を長くやっていたのですが、サッカーが大好きだったので、余暇には業界関係者とサッカーを続けていました。そんなある日、サッカー仲間のあるカメラマンが「今度、体育館でサッ カーやろうよ」と言い出し、我々を引っ張っていったのが地下鉄丸ノ内線・茗荷谷駅からほど近い文京スポーツセンターでした。

 

実はそこでやったのがフットサルだったのです。行く道、「こんなところでサッカーやったって」と文句たらたらだったのに、始めた瞬間からフットサルの虜になりました。あげくに、「こんなおもしろいスポーツに専門誌はあるのか、ない!? ならオレたちが始めるしかない」という雑誌屋特有の身勝手な発想で食いついたのが創刊のきっかけです。以来、数年の準備期間をおいて2000年4月7日に創刊号を世に出しました。この10年、振り返ると大変なことばかりが頭をよぎります。でも、フットサルというスポーツが魅力的であることが僕にとって大きな救いです。

これからの10年もフットサルの魅力を全身で伝えていきます。

 

(続く・・毎週日水+随時更新・・ご指摘、ご意見お待ちしています。これで第2章は終わりです。第3章はカスカベウの逆襲です。お楽しみに) 

 

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 その8 カスカベウの悲劇

 神奈川は予想どおり今年から東京を回避したウイニングドッグと戦力強化を図ったエスポルチ藤沢が勝ち進んだ。決勝は両者の戦いとなった。結果は、3-2でウイニングドッグが勝利、しかし、神奈川は2チームが関東予選に進めるので、この2チームが関東予選に進むことになった。

 

 千葉はプレデター、茨城はマルバが順当に関東予選にコマを進める。

 

 そして、悲喜こもごもの関東予選が1999年12月18、19日、埼玉県足立郡吹上町体育館で開催された。

 

 まずは予選リーグ、神奈川代表ウイニングドッグと千葉代表プレデターが同組で対決することとなった。プレデターは助っ人にダニエル大城、シーナを擁したが、チームワークがかみ合わず、ウイニングドッグに0-2と負けてしまい、予選リーグ敗退となってしまった。

 

 神奈川代表のエスポルチ藤沢は、茨城代表のマルバを下し、予選リーグを突破するが、なんと県予選で当たったウイニングドッグといきなり決勝トーナメント1回戦で再び対戦することとなってしまった。

 

 そして、プレデターを下して勝ち上がったウイニングドッグは、県予選ですでに破っている自信からかエスポルチ藤沢を9-1の大差で破り、決勝戦まで進む。

 

 ファイルフォックスに敗れたとは言え、本命の東京代表カスカベウは順調に予選リーグを勝ち上がる。

 

 東京第2代表のガロは予選リーグを勝ち上がるものの伏兵群馬代表の群馬コーチャーズに敗れ、決勝トーナメント1回戦で敗退の番狂わせとなってしまった。

 

 結局、決勝戦はその群馬コーチャーズを8-2の大差で下したカスカベウとエスポルチ藤沢を下したウイニングドッグの対決となった。

 

 この両者の過去の対戦はというと民間大会で何回か対戦しており、分はカスカベウにあった。しかし、両者はすでに紹介したとおり、カスカベウのエスポルチ藤沢時代に同じ練習場のコートで交流があり、お互い手の内は知り尽くしていることもあり、むしろ、心理的にはウイニングドッグの方に分があった。なぜなら、カスカベウから見たら最も当たりたくなかった相手であろうし、ウイニングドッグから見ると、カスカベウはエスポルチ藤沢のイメージが強く、エスポルチ藤沢には負けないという妙な自信があったからである。

 

 案の定、カスカベウは、ウイニングドッグの豊富な運動量と激しい気迫に手を焼くことになる。先制点を挙げるが追いつかれ、再び1点差とするがまた追いつかれる展開に、ついに逆転を許し、結果は2-5で敗戦となってしまった。カスカベウは、エスポルチ藤沢時代から2年連続して選手権出場を逃してしまう。

 

 甲斐が監督を兼務していたが、選手とのかけもちではどうしてもヒートアップしたときに間を置くなどの冷静な試合運びが出来ない。都予選に続いて悔いが残る結果であり、こののちもカスカベウは監督不在に悩まされることとなった。

 

 ウイニングドッグが神奈川にまわり、東京ではカスカベウがファイルフォックスに敗れ、関東予選に回った。その展開の「あや」が微妙な組み合わせを生み、悲喜こもごもとなる関東予選であった。

 

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その7 プレデター登場と両雄激突

アトレチコミネイロの衝撃を受けている間に、再び選手権地域予選の季節がやって来た。関東は都予選に優勝すると開催地枠の関係でストレートに決勝大会に進出できる。東京の2位は関東予選にまわる。一方、他の県は優勝チームが(県の登録チーム数によって第2代表あり))関東予選に出場できる。したがって、都予選の結果と関東予選の組み合わせがどのようになるか、チームは一喜一憂したものである。

 

すでに紹介したが、1997年塩谷が率いるBocchiというサッカーチームがあり、そこに、嶋根、帖佐浩二郎(のちにフリースタイルフットボール球舞に所属)などがいた。嶋根は井の頭くなでフットサルも掛け持ちでやっていて、その井の頭くなは、第4回選手権の東京都予選でファイルフォックスに大差で破れチームとしては転換点を迎えていた。そこで嶋根と塩谷が中心となり、新たなチームを作りなおそうと言うことで、島根と幼馴染の岩本昌樹(のちにバルドラール浦安)を誘い、井の頭くなの岡山、島根、岩本や帖佐の通う明海大学のサッカー部の先輩、後輩が合流し出来たチームがプレデターである。

 

 当時、岩本はサッカー九曜クラブでサッカーをやっていた。九曜クラブといえば、前出の相根、黒岩、遠藤、横澤らがフットサルに転向している。岩本もその刺激も受けて、最初はかけもちでサッカーとフットサルをやっていたが、次第にフットサル専従となっていった。のちにスペインリーグに渡ったり、日本代表候補、日本選抜に選ばれるなど、活躍をしている。

 

 嶋根や岩本の出身が千葉であったこと、また明海大学のサッカー部出身者が結成当初チームの半数を占めていた事もあり、プレデターは活動拠点として千葉を選んだ。

 

 この年、ファイルフォックス、カスカベウは東京、プレデターは千葉、ウイニングドッグは東京を避け、本来の神奈川から出場することとなった。

 

 その神奈川には、甲斐らが抜けたエスポルチ藤沢が新たな陣容を構え、選手権に臨む。監督は大塚、選手に黒岩、広山、関野ら残ったメンバーに加え、社会人サッカーチーム厚木マーカスで一緒にサッカーをやっていた奥村敬人(のちにロンドリーナ、湘南ベルマーレ)、奥村の友人で国士舘大でサッカーをやっていた阿久津貴志(のちにロンドリーナ)、井久間、竹花、さらには横沢直樹(のちにロンドリーナ、タイリーグ)、多田大輔(のちにブラックショーツ)らを擁したのだった。

 

 むろん、この時点では各チーム、どんな組み合わせで関東予選を戦うかは知る由もない。

 

 こうして、1999年末、第5回の選手権地域予選が始まった。それでは2強と第3勢力の各チームの戦いぶりを紹介しよう。

 

 まずは激戦区、東京都予選であるが、2連覇を狙うファイルフォックスにはメンバーに変動があった。小野大輔(のちにフトゥーロからスペインに渡る)、アスパから原田、板谷、イパネマズKOWAからチアゴ山崎が加わり、ダニエル大城はプレデターに移籍となった。

 

 ファイルフォックス、カスカベウ、府中水元クラブ、ガロら強豪チームは順調に決勝トーナメントに進んだ。しかし、小金井ジュールは予選敗退となってしまった。

 

 そして、カスカベウは府中水元クラブと1回戦で当たる。結果は、11-4でカスカベウの圧勝に終わった。これは、名門府中水元クラブとはいえ、普通のサラリーマンとして働きながらフットサルをしているチームとフリーターもしくはフットサル施設スタッフで働きフットサルに割く時間が多いフットサル専門チームの差が出てきたことを意味し、次第にその傾向が強まる現れであった。

 

 続く準決勝では、ファイルフォックスとカスカベウが激突する。

 

 この戦いは今でも語り草になるほど激しいものであった。というのも、アズーで同じメンバーだった甲斐、オスカーの両雄が今は戦っていることもあるが、審判の微妙な判定が次第に両者の気持ちをヒートアップさせ、ファイルフォックスの5ファウルによる前田の第2PKやカスカベウ相根の審判猛抗議の退場、人数が少ない時のゴールキーパー遠藤のナイスセーブの連発など劇的シーンが数多く詰まっているからである。

 

 結果は6-4でファイルフォックスが勝利、決勝戦にコマを進めた。一方のカスカベウは3決に回ることになった。もう一つの山は、ガロが勝ち進み、決勝はファイルフォックス対ガロとなった。結果は4-2でファイルフォックスが勝利、ガロは先制点を奪い、2-2の同点までは粘ったが最後はファイルフォックスの地力に及ばなかった。

 

 結局、東京はファイルフォックスが優勝、ストレートの全国切符を手に入れ、2位のガロと3決を制したカスカベウ2チームが関東予選に回ることになった。

 

続く・・毎週日水+随時更新・・ご指摘、ご意見お待ちしています。次回はカスカベウの悲劇です。) 

 

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その6 アトレチコミネイロの衝撃

 1999年8月15日、急速にレベルアップしたはずの日本フットサル界を驚かす衝撃的な試合が東京の駒沢屋内球技場で行われた。ブラジルのプロフットサルチーム、アトレチコミネイロとファイルフォックスとカスカベウ合同チームの試合が行われたのである。

 

 アトレチコミネイロは、当時のブラジルリーグの優勝チームでジーコフットサルクラブ(ジーコブランドのフットサルスクール運営団体)の設立イベントで来日したのだ。トビアス、ファルカン、レニージオ、インジオ、エウレオ、レナトなどブラジル代表メンバーもしくは同クラスを擁していた。今でも滅多にブラジル代表との試合はお目にかかれないことを考えると夢のようなチームである。

 

 そのチームと国内最強の2チーム合同チームいわば日本代表チームが戦うのであるから、駒沢屋内球技場には多くの観客が集まった。

 

 日本チームのメンバーは、ファイルフォックスから上村、渡辺、原田、GK定永、カスカベウからは甲斐、前田、相根らが出場した。結果は、1-14で大敗、今でこそ、日本とブラジル、スペインの代表戦でそのくらいの大差がつくことは情報として知っているが、当時は世界基準を知らなかったから、まさに驚愕、衝撃であった。

 

ちなみに、前日には日系ブラジル人選抜とアトレチコの試合が行われたが、こちらも2対17の大敗であった。日系のメンバーは、ダニエル大城、ジョナス、ドウダ、チアゴ、シャンジらベストのメンバーであったから、いかに日本と世界に差があることを2日間に渡って思い知らされたことになる。

 

 さて、話は現在の2010年5月12、15日のことになる。この日、アジア選手権の壮行試合として、日本対ロシア戦が行われた。結果は、4-7、1-5で敗戦であった。

 

 11年前の日本代表に近いカスカベウ、ファイルフォックス合同チーム、甲斐、市原、相根、前田、上村、渡辺、ゴールキーパー定永らとブラジル代表に近いアトレチコミネイロの親善試合が1-14で敗戦、これを比較しても意味がないと思われる方もいると思うが、せっかくの10年の歴史を振り返るブログなのであえて比較してみたい。

 

 当時の負け方は、小気味いいほどのダイレクトパスやツータッチの簡単で正確なパスに翻弄され、最後は無人のゴールに決められる負け方であった。さわやかに負けたというと語弊があるが、ブラジルの凄さに感嘆したものであった。

 

 今回の負け方は、若い平均21才のロシア代表のBチームに速いカウンターと正確なミドルシュートにやられた。しかも、多くはミスからボールを奪われ、あるいは失ってのものであった。ロシアの凄さに感嘆ではなく、昔よく見たカウンターの得意なミニサッカーチームに簡単にカウンターをくらう習いたてのフットサルチームと言った感の日本代表であった。 

 

 考えて見ると、日本のこの10年間のフットサルの求めて来たものは、ミニサッカーからの脱却であり、正確なパス回しで相手を崩すフットサルを目指していた。その原点はこのアトレチコミネイロにあったような気がする。これが悪いとは言えないが、ゴールを奪うというよりは相手を崩す、もっと悪い言い方をすればかっこよくフットサルをすることに注力して来たように思う。ゴールを奪うというシンプルさを忘れていたのかも知れない。

 

 実際、昨年の全日本選手権決勝がその良い例である。王者の名古屋オーシャンズは、そのプライドからかボール回し、ボールキープ力にこだわり、シンプルにカウンターで攻める普段戦ったことがないフウガにあえなく敗れてしまった。

 

 つまり、今の若い選手達は大胆に言うならば、ロシアのようなカウンター型フットサルに慣れていないかその対処方法を忘れてしまったのではないだろうか。それはこの10年間の歴史とそのうちの3年を費やしたFリーグに原因がありはしないか。

 

 Fリーグのどのチームも似たようなフットサルしかしない。強いていうならば、カウンター型フットサルに取り組んでいるのはパサジー大分くらいである。

 

 日本代表がFリーグの鏡とするならば、チームごとにもっといろいろな特色あるフットサルをやってもらわないと日本代表は強くならないのではないかと考えた次第である。

 

(続く・・・毎週日水+随時更新・・ご指摘、ご意見お待ちしています。現在と照らし合わせたコメントをたまに書いていますが、それは青色にしてみました。) 

 

 

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その5 登竜門の大会

 時は2ヶ月前に遡るが、1999年5月、新しい試みの大会が開催された。それは第15回全国選抜フットサル大会である。それまでの選抜大会は地域から選抜されたチーム同士の大会であったが、この15回大会から地域の個人が選ばれ、その選抜チーム同士で優勝を争う大会に変わったのである。逆に地域の選抜チームの大会はのちに地域チャンピオンズリーグとなった。ちなみにその前までの選抜大会の優勝チームは、12回、13回が府中水元クラブ、14回がアスパとなっている。

 

 サッカーだと国体があってそれが選手個人の励みや個人の発掘につながるが、フットサルには国体がない。本大会はその替わりの役割を狙うものであった。しかしながら、この時に選抜チームが組めた地域は北海道と東京だけで、まだフットサルの普及が進んでいないことがうかがえる。

 

 もう一つ、本大会の目玉は、さきに行われた第1回アジア選手権の日本代表メンバーのほとんどが日本フットサル連盟推薦の日本選抜として出場している点であった、

 

 結局、決勝は日本選抜と関東選抜の戦いとなり、3-2で日本選抜が勝利、日本代表の面子を保ったが、恐らく戦った関東代表もしくは観戦していた選手も日本代表を手に届くところにあると感じたのではないだろうか。その関東選抜には、ファイルフォックスから前田、エスポルチ藤沢から黒岩、甲斐、広山、安田、ウイニングドッグから小原(拓)小原(信)、木暮、府中水元クラブから鞁島、のちにフトゥーロ監督の歳森 浩一郎、小金井ジュールから寺本、原、目黒FCから横山らが選ばれている。

(なお、この選抜は、3月に行われた関東リーグプレ大会が選考基準になっているため、その時のチーム名で表記している。)

 

 ちなみにこの選抜大会の目論見に合致した選手が木暮である。木暮はこの選抜大会に選ばれ、日本選抜と戦ったことが、サッカーからフットサルへ転向したきっかけになったという。実際、その後、日本代表となっている。

 

 1999年6月、当時の民間大会として規模、参加チームの実力ともNO1と思われる第1回のFDCカップの決勝大会が山中湖スポーツセンターで行われた。春頃から予選が全国で始まり、日本一を競うものである。主催は(株)セリエ、大会スポンサーはフットサルダイジェストで、予選からの結果がフットサルダイジェストのフットサルコーナーに掲載されるので、競技志向の選手にとっては励みになる大会であった。まだ、フットサル専門誌ピヴォが創刊されていなかったため、いわゆる定期刊行物のマスメディアに掲載される唯一のフットサル大会だったのではなかろうか。なお、(株)セリエはサッカー大会の運営、サッカーの海外応援ツアーの旅行を主催していたが、のちにフットサル日本代表の応援ツアーも手がけることになる。

 

 

 この第1回大会の優勝はカスカベウであった。ちなみに第2回大会優勝はウイニングドッグ、続いてEstrela、BFC KOWA、フトゥーロ、カフリンガと続くが、優勝チームから見てもわかるとおり、レベルの高い大会で、当時としては強くなりたいあるいは目立ちたいチームの登竜門となる大会であった。

 

 ちなみに、翌年の2000年8月には、同じくメディアと結びついた登竜門大会、第1回ピヴォチャンピオンズカップが開催されている。

 

 余談になるが、FDCカップの優勝チームは、同じく(株)セリエが主催する日韓親善フットサル大会に出場する副賞があった。カスカベウは韓国に遠征、韓国でも優勝を果たしている。このとき、同時に女子の日韓親善フットサル大会も行われ、その大会に参加していたチームが女子の強豪チームでのちに公式第1回全日本女子フットサル選手権大会に優勝するパラレッズであった。彼女らが本格的に競技フットサルに転向した理由はこの大会でカスカベウの試合を見て刺激を受けたからだという。こんなところにもカスカベウの影響が出ている。

 

(続く・・毎週日水+随時更新・・・ご指摘、ご意見お待ちしています。)

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その4 両雄と日系ブラジル人

 1999年4月、静岡県浜松アリーナにて、珍しい大会が開かれた。日本の競技フットサルのレベルアップに大きく貢献した大会と言っても過言ではないコパジャル(COPA JAL、ジャルカップともいう。)である。日系ブラジル人のチームに混じって日本人チームが参加するカップ戦で、甲斐にブラジルのフットサル留学を薦めたマリオ安光が主催者である。もともと、日系ブラジル人だけの大会だったのだが、日本のフットサルの普及状況を見て、日本人チームの参加を呼びかけた。スポンサーは日本航空のブラジル旅行専門の代理店JINTERでブラジル旅行客の集客を目論んでのことであるが、社長吉村恭悟のフットサル普及の功績は大きい。

 

 この大会に、ファイルフォックス、カスカベウが出場したが、ファイルフォックスは4位、カスカベウは予選リーグ敗退であったから、いかに日系ブラジル人チームの実力が高いかがわかる。また、両チームに日系ブラジル人が深くかかわっていることがわかる。

 

 優勝した日系ブラジル人チームは、群馬を拠点とするイパネマズKOWAで、ダニエル大城、のちにプレデターやウイニングドッグの助っ人参加したこともあるシーナ、それとオスカーも変則的にファイルフォックスから参加していた。このチームは3ヵ月後に開催される日系ブラジル人チームと日本人チーム混在の通年リーグ、後述するリガ天竜でも優勝していて、当時は恐らく日本一のチームだったに違いない。

 

 1999年7月になると、当時としては実力最高の通年リーグが天竜市で始まった。それは前述したリガ天竜で、日系ブラジル人チームのリーグに日本人チームが混じって、7月にスタート、翌年の1月までの全6節の通年のリーグを戦おうというものであった。

 

 リーグは1部と2部があり、1部は9チーム、日本人チームはファイルフォックス、カスカベウ(スポンサーの関係でピットスポットの名称で出場)、関西からアスパ、府中水元クラブ、2部は10チーム、日本人チームはウイニングドッグが参戦している。

 

 余談になるが、このリーグに足しげく通い、フットサル記事を書くライターらしき人物がいた。それは、翌年日本初のフットサル専門誌ピヴォを創刊した編集長の山下浩正であった。のちにメディアとしてフットサル界に大きくかかわるわけであるが、原点は天竜の地だったかも知れない。

 

 コパジャルおよびこのリガ天竜は当時の日本人チームのレベルアップに大きく貢献したと考えられる。理由は、日本人チームとブラジル日系人チームと混在であるから、当然、日本人チームは本場のブラジルフットサルを勉強できた。何よりも、あたかもブラジルへ行ったような雰囲気を味わえる点、日本人チームのモチベーションは上がったものである。次に、ファイルフォックス、カスカベウ、アスパ、府中水元クラブなど日本ではトップクラスのチームが関東、関西から車で3時間あまりをかけて通うほどレベルが高いという点である。3点目は、期間は比較的短いが、通年制を取っていて、いわゆるリーグ戦の特長である長期に渡って真の実力を発揮できる場である点である。当時は、通年リーグはまだ少なかった。実は、このリーグがのちにスーパーリーグを生み出す原動力となった。

 

 日本人チームの成績であるが、カスカベウが2位に入る健闘を見せたが、やはり3時間の車の移動はハンデもあり、ファイルフォックスは4位、府中水元クラブが5位、アスパAは6位に終わった。2部のウイニングドッグも成績はふるわなかった。それでも、本場ブラジルのフットサルが少しでも学べる点は魅力的で、第2回以降もプレデター、ガロなどが参入した。

 

 優勝は、コパジャルに続いてイパネマズKOWAであった。メンバーにはダニエル大城、比嘉、ジョナス、山崎チアゴらがいた。

 

 ダニエル大城、比嘉ヒカルドの名前でわかるとおり、彼らはオスカーつながりでファイルフォックスの助っ人で選手権になると顔を出していた。ダニエル大城は日系ブラジル人の街、群馬の大泉町にブラジルフットサルセンターなるフットサル施設を経営、同じく日系ブラジル人チームと日本人チーム混合の大会やリーグを開催している。ちなみに9月に行われた大会にはカスカベウ、ウイニングドッグ、プレデターが出場している。なお、イパネマズKOWAはその後BFC KOWAへと発展、のちに群馬県より関東リーグ2部に昇格している。 

 

 コパジャル、リガ天竜、ブラジルフットサルセンターの大会などを通じて、日本人チームと日系人チームの交流が盛んになり、この頃から日系ブラジル人が日本人チームのメンバーに助っ人で入ることが多くなってきた。例えば、翌年の選手権のウイニングドッグは監督にマリオ安光、選手ではCIBRASILのシャンジ、プレデターでは大城ダニエル、シーナなどである。

 

 それには理由がある。日系ブラジル人にとって、日本の選手権やリーグ戦に出場することは彼らの存在感を示すことになり、名誉であることと場合によってはアルバイト料が入るメリットがある。一方、日本人チームにとっては即戦力の補強である。しかし、必ずしも成功するわけではない。やはり、選手権だけの即席ではチームワークに難があり、日系ブラジル人選手の方が実力は上であるから孤立してしまうケースが多く、逆に弱点になってしまう場合もあった。

 

 さて、現在はというと、残念ながら日系ブラジル人の姿は関東では少なくなった。当時から10年もの年月が経過し、経済情勢も大きく変化した。少なくとも関東リーグではもはや復活は望めないだろう。

 

 しかし、Fリーグは日系ブラジル人ばかりでなく、幅広く外国人をもっと積極的に取り入れてもよいのではないだろうか。ちなみに2009年Fリーグの外国人もしくは日系ブラジル人選手の数は、2009年の順位順に並べてみると、名古屋オーシャンズ5人、ペスカドーラ町田2人、シュライカー大阪3人、バルドラール浦安1人、デウソン神戸3人、湘南ベルマーレ3人、合計6チーム、17人である。(監督を除く、国籍の数ではない)

 

 さて、そのうち、ベスト3のチームを見てみると、選手は全員レギュラークラスでかつ人数も全体の半数近くの8人を占めていることがわかる。チームを強くし、リーグを活性化するヒントではないだろうか。 

 

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その3 追うカスカベウとスポンサー

 

 1999年3月、記念すべき大会が開催される。それは、関東フットサルリーグ(以降関東リーグと称す)のプレ大会である。関東リーグの正式な第1回大会は翌年の2000年3月であるが、事前準備の大会が開かれたのである。参加チームは前出の府中水元クラブ、ウイニングドッグ、エスポルチ藤沢、小金井ジュール、目黒FC、マルバなどである。この時は、優勝はウイニングドッグ、2位小金井ジュール、3位エスポルチ藤沢、4位府中水元クラブとなっている。

 

 この大会のあと、甲斐は、最強のチーム作りを目指し、エスポルチ藤沢と決別、カスカベウを立ち上げる。これに、市原、相根、安田がついていくことになり、ファイルフォックスから前田、グレートホッチポッチから安藤、サッカー社会人リーグ九曜クラブの縁でゴールキーパー遠藤晃夫(のちにファイルフォックス)らが合流した。

 

 拠点はファイルフォックスと真っ向勝負、東京に移し、東京体育館と羽田にある東京ベイフットサルクラブを主練習場にした。この東京ベイフットサルクラブは、バンフスポーツのちの名古屋オーシャンズのゼネラルマネージャーで(株)バンフスポーツ社長、桜井嘉人が運営するフットサルコートであった。そこでカスカベウと桜井は出会うことになり、ほどなく、カスカベウはバンフスポーツのスポンサードを受けることとなる。

 

 バンフすなわち桜井の野望はここから始まったのだが、それが実を結ぶにはしばらく時間がかかった。

                                                                                                                             

 ちなみに、この東京ベイのフットサルの現場運営には川前真一(のちに日本フットサル施設連盟事務局長、本ブログサイト運営会社(株)リンクアンドシェア社長)が携わっており、その経験からのちにフットサル施設業界の発展に尽くすのであった。日本フットサル施設連盟は、2003年4月に設立されている。

 

 この頃からフットサル施設が競技志向チームになんらかの支援を行うことが広まった。山中湖スポーツセンターのアズーに始まり、FUNフットサルクラブのファイルフォックス、横浜フットサルクラブのエスポルチ藤沢、ウイニングドッグ、そして東京ベイフットサルクラブのカスカベウ、なかにはフットサル世田谷のようにコート名を冠にするチームも現れた。関西ではASPAがその例である。

 

 なお、フットサル世田谷はのちに女子のパラレッズ、FUNフットサルクラブは、FUNレディーズをスポンサードして、女子フットサルの発展にも貢献した。

 

支援内容の多くは練習コートの提供、選手を運営スタッフとして雇用、フットサルクリニックの開催などであるが、アマチュアチームにとっては貴重な支援となり、競技フットサルのレベルアップに貢献したといえる。施設にとっても、集客や長い目で見たフットサルの普及などのメリットがあった。しかしながら、この支援関係は矛盾もはらんでいた。すなわち、公式競技は室内で行うものであるから、お手本とする競技志向のチームが室内すなわち公共施設に流れるのではないかという心配と次第に競技志向とエンジョイ志向の差がはっきりしてくると集客効果も薄れるからである。また、チーム側も公共施設の開放が進むにつれ、公共施設利用を重視した。

 

フットサルチームの応援といえば、シューズ、ユニフォームなどの用品サプライヤーのスポンサードもこの頃から盛んになっていった。アスレタとカスカベウ、トッパーとファイルフォックスの関係は、のちにフットサルブーム到来もあって、相互に大きなメリットをもたらした。

 

とりわけ、ユニフォームのアスレタは、のちのことになるが、カスカベウの優勝で大ヒット商品に成長する。アスレタは(株)アスレタ株の社長、丸橋一陽がデザインしたもので、すでに消滅してしまったブラジル代表のコーヒー豆のロゴを復活させたことで有名である。ヒット要因は、ブラジルのコーヒー袋で見かける親しみやすいロゴと、ブラジルのテイスト、そしてTシャツ風ユニフォームが、街で着たままフットサルができるフットサルのいつでもどこでもスタイルにぴったりマッチしたからであろう。今ではフットサルだけにとどまらずお洒落な街着としての地位を確立した。なんでも、アスレタを新宿のスポーツショップ、ギャラリー・2に持ち込んだが、ヒットした時は、3、4ヶ月で5千枚近く売れたという。カスカベウ、アスレタ、ギャラリー・2の関係は、ペスカドーラ町田となっても続いている。

 

ちなみに、現在、ファイルフォックスのユニフォームがアスレタのもう一つのブランド、パンタナール(ブラジルの湿地帯)である。サプライヤーが同じという点は、そもそも2強がアズーから出発したことを考えると因縁めいていて大変興味深いものがある。

 

(続く・・・毎週日、水+随時更新・・・ご指摘、ご意見お待ちしています。)

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その2 第1回アジア選手権

  1999年2月になると、もう一つの大きな大会に向けてフットサル界が動き出した。それは、3月5日からマレーシャのクアラルンプールで開催される第1回のアジア選手権である。1ヶ月前に行われた第4回選手権が選考の場になり、監督は元JSLフジタのちにトヨタのマリーニョ、コーチに目黒FCで元浦和レッズの須田、ファイルフォックスからはキーパーの定永、エスポルチ藤沢から同じくキーパーの金澤、フィールドはファイルフォックスから上村、府中水元クラブから中村(俊)、エスポルチ藤沢から市原、相根らが選ばれた。

 

 アスパからは藤井と原田が選ばれ、グレートホッチポッチから安藤が選ばれている。グレートホッチポッチは、第3回選手権では鹿屋体育大学サッカー部で出場していた卒業メンバー中心で構成されたチームで、第4回選手権では3位になっている。なお、ファイルフォックスの前田、府中水元クラブの難波田も選ばれたが怪我で辞退した。

 

 ところでなんといっても特筆は、元Jリーガーラモス瑠偉がマリーニョ人脈から選ばれ、出場したことである。このことは、のちに何度となくフットサル界とJリーグとの関係が議論されるきっかけとなった。

 

 結果は決勝トーナメントに進んだがイランに2-5で敗戦、3位決定戦でもカザフスタンに2-2の同スコアからPK戦で敗れ、4位に終わった。残念ながらラモス効果は発揮できなかった。実は、この大会はグアテマラで開催予定の第4回FIFAフットサル世界選手権のアジア予選を兼ねるはずだったが、決定は次回に持ち越されたため、結果的にもう一度日本はチャンスを得ることができた。(理由は参加国の数が少なかったからで、その上、3位までが世界選手権に出場できる)

 

 戦後の評価であるが、日本は強豪イランに2-5と敗れたものの予想したほど大差ではなく、3位決定戦もPK負けということで、次回は3位に入れるだろうくらいの楽観論があった。結果的にはそれが命とりになるのだが・・・・。

 

 ちなみにサッカー日本代表サポータで有名なウルトラス ニッポンの植田朝日もラモスつながりか現地で応援をしていた。植田はのちにボンボネーラ、ボカならぬバカジュニアーズなどのフットサルチームを立ち上げ、少なからずフットサル界に影響を及ぼした。

 

 ところで、丁度、第11回のアジア選手権が始まるので、当時のアジア選手権はどんな位置付けだったか語っておこう。ちなみに、壮行試合ロシア戦が5月12日、15日と行われるが、壮行試合は、2004年のアルゼンチン戦が最初で、以降、ウクライナ、ブラジル、アルゼンチン、ウクライナと計5回行われている。成績はブラジル戦の2敗を除いて、ホーム開催かつ親善試合だけにすべて互角に戦っている。

 

 

 さて、フットサルの原点は「する」にあるため、エンジョイ志向層、いわゆる「するフットサル」の人口増に日本代表はつながったのだろうか。残念ながら、当時は日本代表の試合が始まったばかりなので望むべくもないが、2回、3回と開催が進んで今となっても施設関係者の話を聞くと厳しいという。簡単にいえば、エンジョイ志向層の多くは、見るのはサッカー、するのはフットサルと割り切っており、サッカーで刺激を受けて「する」ことはあっても、フットサル日本代表の試合には無関心が多いという。実際、2002年のサッカーワールドカップ日韓共催を境にフットサル施設、フットサル人口は飛躍的に増加した。サッカー人口のパワーはやはり凄い。

 

 次に、「見るフットサル」の位置付けはどうであったろうか。サッカーでは、日本代表戦を数多く日本で開催し、これが「見るサッカー」人口を増やしてきた。しかし、フットサルは残念ながら日本での開催が少ない。むろん、これも第1回、第2回の当時だけで論ずることは早すぎるが、今となっても日本で開催されるのは年間でアジア選手権前の壮行試合くらいのものである。また、開催されたとしても、室内競技の宿命であるが、競技場が2千人から3千人の収容能力であるから、サッカーの1回4万、5万人に比べたら20分の1の動員力にしか過ぎない。ましてやテレビ中継もない。残念ながら当時は「見るフットサル」の人口増に日本代表はなかなかつながっていない。

 

 しかし、あれから10年ほど経過、当時、フットサルにはまったエンジョイ層は30代半ばから40代になった。また、子供を持つ年令にもなった。Fリーグも出来たことであるし、ベースの人口は増えてきた。これからは、年令層が上と子供をターゲットにすれば、プロモーション次第で日本代表の国内の試合はそれなりの役割を果たすのではないだろうか。

 

 

 では、当時の日本代表はどんなインパクトをもたらしたのか。簡単にいえば、早く簡単に日本代表になれる機会を選手に与えたということである。黎明期のマイナースポーツがオリンピック種目になり、オリンピック選手になれることがエキスパートを生み出す理屈と同じである。速く簡単にというと当時の日本代表選手に失礼に当たるが、少なくともサッカーの競技志向プレーヤー人口の多さに比べると、圧倒的にフットサルのそれは少なかったので確率的に当然といえば当然である。その結果、なんとなく遊びやサッカーの延長線上でフットサルを見ていた選手達を専門フットサルプレーヤーへと駆り立てたのであった、

 

 もっとも、サッカーのように学校あるいは企業の厳しいピラミッド構造の淘汰の仕組みによって選出されたわけではないし、無論プロでもないから、サッカーを見てきた世間一般からすると、戦いぶりやモチベーションに物足りない印象を受ける。幸い、この大会は世界選手権がかかっていなかったので4位の批判も少なかったが、次の大会では、アマチュア選手のモチベーションに批判が集中するのであった。

 

 また、淘汰、育成の仕組みが当時はないに等しいものだから、しばらくはなかなか若い選手が出て来ない情況が続いた。

  

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第2章 ファイルフォックス時代(1998年11月~2000年2月)

その1 ファイルフォックス初優勝

  1998年11月、第4回選手権都予選が始まった。その決勝トーナメント1回戦、ファイルフォックスは、井の頭くなを一蹴する。続いて、小金井ジュールと当たり、これも下して、準決勝で府中水元クラブと対戦する。ファイルフォックスの勢いは止まらなかった。このまま、府中水元クラブも破って決勝に進む。優勝すれば開催地枠でストレートに決勝大会へ進める。

 

 奇しくも、このブログを書いている最中にバルドラール浦安の監督にセグンド゙監督の岡山(孝介)が就任するたニュースが伝えられた。実は、この大会の井の頭くなの選手兼監督が岡山であった。今から約12年くらい前の話である。

 

 もう一方の山では、初出場同士のガロ対ウイニングドッグが決勝トーナメント1回戦で当たった。結果は乱打戦となり、サッカーに一日の長があるガロが10-6で勝利、準決勝に進む。

 

 しかし、そのガロもサッカーの学芸大学蹴球部に破れ、都予選敗退となってしまう。ガロもウイニングドッグもこの敗戦をきっかけにサッカーを脱して、本格的にフットサルに取り組み、のちには関東予選で対決するまでに成長するのであった。

 

 決勝はファイルフォックス対学芸大学蹴球部となり、ファイルフォックスが勝利、ストレートで本戦出場の切符を手に入れた。

 

 続いて、12月、関東予選が開催された。

 

 エスポルチ藤沢は神奈川県予選で優勝、関東予選に進出する。しかし、府中水元クラブがファイルフォックスに破れたため、関東予選に回り、当たってしまう。

 

 そして、刺激を受け、十分研究したはずの府中水元クラブに敗れるという皮肉な結果になってしまった。

 

 だが、その府中水元クラブも決勝で筑波大サッカー部に破れ、4回目にして選手権出場を逃してしまう。この結果、以降は選手権に出場することなく、第3勢力に甘んずることとなる。

 

 こうして、第4回選手権の予選大会は、三国志1強のファイルフォックスが生き残り、もう1強カスカベウの前身エスポルチ藤沢は破れ、第3勢力の府中水元クラブ、小金井ジュール、のちのプレデターにつながる井の頭くな、ガロ、ウイニングドッグも決勝大会進出は叶わずそれぞれの思いで、1998年を終えることとなった。

 

 明けて1999年1月、第4回選手権が始まった。初出場のファイルフォックスは、前回メンバーに加え、渡辺英明(のちにフトウーロ)、前田喜史(のちにカスカベウ、名古屋オーシャンズ)、日系ブラジル人チーム、イパネマズKOWAからの助っ人、ダニエル大城、比嘉リカルド(元新潟アルビレックスのちにデウソン神戸)なども加わり、戦力に厚みを増して出場している。この結果、次々とサッカーチームを破り、ついに初出場、初優勝してしまう。決勝の相手は、関東予選で府中水元クラブを破った筑波大サッカー部であった。また、前回大会でアズーが敗れたルネス学園甲賀サッカークラブの卒業生で構成するアスパも予選リーグで下している。なお、このアスパには原田(健二)がいて、原田は翌年、どうしてももっと自分のレベルを上げたくて、関西から上京、ファイルフォックスに入るのであった。

 

 優勝要因の一つには、監督オスカーも含め日系ブラジル人の影響が大きく、ブラジルを源流とする彼らの卓越した足元の技術、ゴール前の決定力はファイルフォックスのみならず日本のフットサル界になくてはならない存在となった。

 

 ダニエル大城はのちに兄のエジバウドと群馬県大泉にブラジルフットサルセンターなるコートをオープン、日本人との交流大会開催を通じて日本のフットサルレベルアップに貢献した。その後、ダニエルはブラジルに帰国、日本人のブラジルフットサル留学生を受け入れるスクールを開いている。

 

 比嘉リカルドは、のちに帰化して日本代表に選ばれ、同じく日本のフットサルのレベルアップに代表選手の立場で貢献している。その後、Fリーグ、名古屋オーシャンズ、デウソン神戸でプレー、今はデウソン神戸監督としてあいかわらず日本のフットサルを牽引していることはご存知のとおりである。

 

(続く・・毎週、日水プラス随時更新・・・ご指摘、ご意見お待ちしています。)

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その8 インターネットとフットサル

1998年の年も押しせまった12月初旬、神田駅構内のとある喫茶店で不思議な座談会が開催された。それはサッカー情報サイトのサポティスタ運営者、浜村真也(のちに大人のためのサッカー教室、Doシロートフットサル大会などを運営)が開催する神田サッカーナイトである。インターネットを通じて情報を知ったサッカー好きがサッカーの情報交換、座談をリアルな場で行うもので、定期的に開催されていた。

 

これにフットサルが取り上げられたのであった。講師は大塚でフットサルの歴史、フットサルの現状と課題などが熱っぽく語られた。サポティスタが、一般メディアで取り上げられにくい現場のテーマを取り上げるサイトだけに、これにフットサルが取りあげられたことは大変興味深い。ひとつにはまだまだサッカーの亜流だという見方と考えられるし、フットサルがブレイクする予兆とも考えられる。ちなみに、フットサルネットの山戸は、この座談に参加しており、ネットにその模様を報告している。

 

この例でもわかるように、インターネットはマスメディアが取り上げないようなテーマでも瞬く間に全国に様々な情報を安い費用で速く発信することができる。フットサルは、学校スポーツでもなく企業スポーツでもなく、さまざまな所属母体の仲間が集まってコミュニティを形成して行うスポーツであるから、インターネットとフットサルは相性が良かった。

 

そのフットサルとインターネットの相性の良さに着眼、まだフットサルもインターネットも黎明期だったこの頃、早くもフットサル情報のポータルサイトを立ちあげた2人の人物がいた。1人は前述した山戸で、1997年1月に「フットサルネット」を立ち上げている。

 

もう1人は、1999年に(株)クラブハウスを設立する関西の本多克己(のちに(株)シックス)で、サッカー情報を含め、イベント会社時代の1996年から「soccerboy.com」、独立してからリニューアルして「FC JAPAN」を立ち上げている。

 

当時は、用具、技術、施設、競技どれをとっても、情報不足のフットサルであったから、インターネットの情報発信は極めて有用であった、2人がフットサルの発展に果たした役割は大きい。恐らく、インターネットがなかったらこのスピードでフットサルは普及しなかったのではないだろうか。

 

ちなみに、「フットサルタイムス」を運営する北谷仁治も(株)クラブハウスに参加、今は独立して同サイトを運営している。また、山戸は2000年1月に開催された第20回サッカー医・科学研究会で、「フットサルとインターネット/スポーツコミュニティとネットの融合」という題目でスピーチ発表している。

 

しかしながら、のちに前述2つのサイトともう一つ立ち上がるサイトを加えた3つのサイトでランキング戦争が勃発するとは誰も想像できなかった。

 

インターネットとフットサルの関係に着目したのは、ポータルサイト運営者ばかりではなかった。いわゆるフットサルの大会、イベント企画を行うイベント会社の中にも積極的にインターネットをツールとして活用する人物がいた。

 

時はもう少し先の1999年のことになるが、1人はF-NETブランドで大会を開催する金子諭である。金子は大学時代、みずからフットサルをやっていたが、あわせて大会の企画、運営を安い学生アルバイトを動員して行っていた。結局、大学を卒業しても就職はせず、フットサルの大会運営のちには施設運営も手がける(株)エフネットスポーツを立ち上げた。2000年9月のことである。フットサル界のいわゆる学生企業家といえようか。金子は、徹底的に大会運営の合理化を図るため、大会申し込みはインターネットに限るとし、チームの申し込み状況の管理、成績の速報まですべて連動するシステムを導入、飛躍的に業績を伸ばしていった。

 

もう1人の人物は、フットワンリーグを運営する武田利也である。のちに(株)スポーツワンを立ち上げている。武田が着目したのは、リーグ運営のドゥイットユアセルフで、インターネットを活用して、チーム間の連絡は電子メール、大会結果もホームページから入力するなどインターネットツールをチームに提供、自分達で運営することで安くかつ1年間を通じたリーグとすることでコミュニティ形成の楽しさを提供することをビジネスコンセプトとした。1999年8月にこれを立ち上げている。

 

今や、インターネットも新局面を迎え、それこそブログ、Twitter、動画の時代に入っており、このフットレポがどんな影響を巻き起こすのか興味は尽きない。

 

それにしても、関東リーグの公式サイトがオープンするのは、2003年5月であったから、紹介した動きからは4~5年遅れていたことになる。

 

いよいよ、第4回選手権が始まる。勃発したチームはどのような戦いをみせるのであろうか。第2章に続くのでお楽しみに。

 

(第1章終わり 第2章に続く・・毎週、日水+随時更新・・・ご指摘、ご意見お待ちしています。)

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その7 関東三国志2強勢力図考察

 1998年11月、いよいよ第4回選手権の東京都予選が始まった。そこには、すでに選手権優勝経験の府中水元クラブ、4位経験の小金井ジュール、昨年東京都予選ベスト8の井の頭くな、初出場のファイルフォックス、ウイニングドッグ、ガロ、目黒FCらのチームがピッチにいた。

 

同時に神奈川県予選もはじまり、神奈川県予選にはこれまた初出場のエスポルチ藤沢が本命で参加していた。

 

三国志の2強、ファイルフォックスとエスポルチ藤沢、のちのカスカベウは、東京の府中と神奈川の藤沢、横浜あたりに拠点を構えることになるが、この2拠点は当時のフットサル情報ネットワークと密接に関係していて、最終的にはFリーグの勢力地図につながっている。

 

まずは、府中市であるが、ここにはファイルフォックスがいて、まわりには人材交流が盛んに行われた府中水元クラブのちのFリーグ府中アスレティック、そしてフトウーロがいる。

 

フットサルは、スペースがない、ゴールが狭い、室内の水平な床面でボールは比較的正確に滑るなどの特性から、空間(スペース)と時間(タイミング)をどうコントロールするか、極めて知的なスポーツである。したがって、プレーヤーが上手くなるためには情報や知識が必要となる。結果、情報源、知識源に必然的にプレーヤーは集まってくる。そこが府中市である。

 

その象徴的なスポットが府中市にある「とよしまスポーツ」店である。今でこそ、フットサル専門用品の調達には困らないが、当時はペナルティ、トッパー、アンブロなどのフットサルシューズをいろいろ選べる店を探すのは苦労したものだ。しかし、ここは店主の豊嶋文明自らブラジルへ行って仕入れるなど商品が豊富に揃っている。また、自ら府中市のフットサル協会の事務局長を勤め、日系ブラジル人をブラジルから呼んだり、逆にフットサル留学を斡旋したりと日本とブラジルのフットサル人材の交流にも力を注いだ。そんなわけで、自然と選手は遠くても足を運び、シューズを求めたり、情報を仕入れたりしたものである。

 

すでに紹介したチームのほとんどの選手が一度は「とよしまスポーツ」を訪問したのではないだろうか。また、エスポルチ藤沢の大塚もさかんに出入りしており、中村らとの交流を深め、オスカーが一時期アズーに参加したきっかけにもなっている。実際、中村と大塚はこの頃エフエフアトリエなるフットサル大会の企画・運営会社を設立、フットサルの普及に努めたこともあった。

                                    

しかし、情報、知識があっても基礎の技術がなければ上手くはなれない。府中市を中心とした周辺はヴェルディ、FC東京のJリーグチームの拠点と近かったことからそもそもサッカーが盛んで人材が育つ環境があった。フットサルにおいてはとりわけヴェルディ下部組織出身者は多い。それはサッカースタイルがブラジルを源流とした個人技を特徴としていてフットサルに近かったこと挙げられる。実際、三浦知、ラモスらが活躍していた1991年に第1回全国少年ミニサッカー選手権大会(のちにフットサル選手権大会・バーモンドカップ)が開催されたが、その優勝は読売ヴェルディであった。ちなみにその大会の決勝は読売SC対沼津FCで、読売には木暮、沼津FCには小野伸二(のちに浦和レッズ、サッカー日本代表)がいた。小野はこの大会で優秀選手に選ばれている。

 

そんなヴェルディの練習拠点、稲城の読売ランドの山を北もしくは北西に下ると府中、調布、小金井、多摩、八王子などが近い。府中周辺、多摩、八王子には上村、鵜飼、下山、伊藤雅範(のちにFC東京、デウソン神戸)、久島寿樹(のちにU17サッカー日本代表、カフリンガ)、前田大輔(のちにバンフ東北、カフリンガ)、鈴木隆二(のちにブラジル、ファイルフォックス、名古屋オーシャンズ)、宮田義人(のちに府中アスレティック)らが読売ランドへ通っていたのだ。

  

一方、読売ランドの山を南もしくは南西に下ると川崎、横浜さらには湘南へと広がる。読売ランドに通っていた湘南の広山と甲斐が出会い、アズーにつながる。また、ウイニングドッグの木暮、小原(信)も、中学時代は川崎から読売ランドに通い、ウイニングドッグとエスポルチ藤沢は横浜の練習コートが同じで、お互い切磋琢磨の仲であった。そのほか、川崎から、石塚尊信(のちにカフリンガ)、岩見裕介(のちにファイルフォックス、ステラミーゴ岩手花巻)、林浩平(のちにシュライカー大阪)の名前が挙げられる。

 

そのエスポルチ藤沢はカスカベウ、ロンドリーナと分かれていったが、結局は、町田市のペスカドーラ、平塚市の湘南ベルマーレへと引き継がれていったのである。

 

情報ネットワークの話になったので、次回はインターネットとフットサルについて、少し触れてみたい。お楽しみに。

 

(続く・・・毎週、日水+随時更新・・・ご指摘、ご意見お待ちしています。)

 

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その6 ガロ、ウイニングドッグ

  神宮を拠点に活動していたエリースFCの横田もいよいよ立ち上がる。エリースFCのメンバーとガロを設立したのだ。東京にこだわり、正式にはガロFC東京と命名した。陣容は、監督兼選手で、横浜マリノス出身の河上哲也、下山修平(のちにシャークス)、村松淳二(同)、関新(のちにシャークス、湘南ベルマーレ)、石渡良太(のちにペスカドーラ町田)などがいた。

 

 1998年5月、神奈川県川崎市を拠点とするチームにのちにアジアの最優秀選手まで昇りつめる18才の新人が入団した。

 

 それは、ウイニングドッグであり、木暮賢一郎(のちにファイルフォックス、名古屋オーシャンズ)である。 ウイニングドッグは当初は川崎市社会人リーグに所属するサッカーチームであった。1997年、小原拓也、小原信也の兄弟で創設、小原信也は、中学はヴェルディジュニアユースに所属、高校卒業後は新潟アルビレックスに所属したこともある実力者であった。

 

 木暮はヴェルディジュニアユースに所属、小原(信)の後輩に当たり、丁度、大学受験浪人時代に小原(信)に誘われ、ウイニングドッグに参加した。練習コートが家から近かったこともある。

  

 ウイニングドッグも他のサッカーチームと同様、遊びでフットサルをやっていたが、民間大会で優勝する経験から次第にフットサルにのめりこんで行った。

 

 とりわけ、アズーからエスポルチ藤沢に移行しつつあった甲斐、市原らの影響が大きい。偶然にも横浜市営地下鉄センター北にあるフットサルクラブ横浜で両チームは練習しており、交流が生まれた。ウイニングドッグは、彼らの練習ぶりを見て、今まで民間の大会で数多く優勝していた自分達のフットサルは何だったのかというくらいに衝撃を受けた。木暮も当初は大学に入ったらサッカーに戻るつもりでいたが、次第にフットサルに興味を持つようになったのである。そして、第4回の選手権に挑戦することになるが、エスポルチ藤沢を避け。東京からエントリーを選んだ。この時、木暮の小学校時代の同級、国学院でサッカーをやっていた岩田雅人もサッカーを辞めて、ウイニングドッグに参加している。岩田はのちに木暮とともにファイルフォックスに移籍する。

 

 このガロとウイニングドッグは少なからず因縁がある。それは、第4回選手権の東京都予選でお互い初出場で初対決したことである。そして、2チームはその後もいくつかの死闘を演じることになるのだった。

 

 (続く・・・毎週、日水+不定期更新・・・ご指摘、ご意見お待ちしています。) 

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その5 目黒FC、エスポルチ藤沢、ファイルフォックス

  1998年4月、アズーが準優勝を遂げたことで、新年度が始まるとその刺激を受けて、さらに多くのフットサル専門チームが勃発する。また、フットサルの普及もこの頃から盛んになり、都府県レベルの地域リーグが発足、東京都では第1回のフットサルリーグが始まった。このリーグには、府中水元クラブ、小金井ジュール、目黒FCなどが参加した。

 

 目黒FCは、目黒を拠点とするチームで、監督にはのちに第4回アジアフットサル選手権日本代表監督の原田理人が監督、元セレッソ大阪で第3回アジア選手権日本代表の横山恵介、同じく元浦和レッズで第2回アジア選手権日本代表須田芳正らを擁するチームで、無論、第4回選手権には挑戦する。のちに目黒FCはIPD FCへと変わっていくが、フウガ(FUGA)と少なからず因縁がある点は興味深い。しかし、その話はのちのことである。(フウガは当初フウガ目黒と名乗っていた。) 

 

 この年の大きなトピックスはなんと言っても選手権準優勝のアズーが解散、カスカベウの前身となるエスポルチ藤沢とファイルフォックスに分かれたことである。この三国志の2強リーダーが実は当初同じチームメイトであったことは合従連衡の象徴ともいえる。

 

 アズーで悔しい思いをした甲斐は、さらに上を目指すためにチームの活動拠点をもっとアクセスの良い場所に移すことを決意した。そして、大塚のもとで藤沢、横浜あたりに拠点を移し、エスポルチ藤沢を創設する。

 

 メンバーには、先の選手権で知り合った中学時代からブラジルサッカー留学経験を持つ市原誉昭(のちにプレデター、バルドラール浦安)が加わった。市原はブラジルのサッカー留学を終え、甲斐と同じくプロサッカーを目指すが叶わず、選手権で知り合った甲斐に合流する道、すなわちフットサルの道を選んだのだった。以降、日本代表のキャプテンを努めるなど日本の競技フットサルに大きく貢献するのであった。

 

 エスポルチ藤沢は神奈川から第4回選手権に挑戦する。

 

 このブログを書いている最中、市原が電撃的にバルドラール浦安からペスカドーラ町田に 移籍のニュースが流れた。いわば、相根に続いて市原も古巣に戻ったことになるが、フットサルというスポーツが濃密な人間関係を作るのか、人間関係がフットサルをより高いものに作り上げて行くのか、考えさせられるニュースであった。

 

 一方、ブラジルフットサルをもたらした眞境名オスカーは、かねてより日本のフットサルには監督が必要と思っていた。そこに、鵜飼孝(のちにシャークス)がトップでやらないかと誘ったことで、ファイルフォックスの設立を決意、府中に戻って府中人脈を中心に人材を集めることとなった。鵜飼は中学時代、ヴェルディジュニアユースに所属、U-13の世界選手権、東海大菅生高校からブラジルサッカー留学を経験するなどの経歴を持ち、これを機会にフットサルに転向するのであった。

 

 この2人に府中水元クラブから上村、難波田、前田喜史(のちにカスカベウ、名古屋オーシャンズ)、定永久男(のちに名古屋オーシャンズ)らが加わった。難波田と前田は高校が同級であった。また、定永は大阪の日系ブラジル人主体のチームでゴールキーパーをやっていたが、オスカーの日系人脈で誘われ、東京に出て来たのである。

 

 ファイルフォックスは東京から第4回選手権を目指す。

 

 1998年夏、甲斐と市原は短期間ではあるが、ブラジルのカスカベウにフットサルの武者修業に出かける。誘ったのは、マリオ安光で、豊橋、天竜あたりでフットサルのスクールや大会の開催、ブラジルへフットサル留学の斡旋などを主たる仕事にしていた。府中市と同じように豊橋、天竜地域も日系ブラジル人が多く働いており、フットサルが盛んに行われていた。そして府中市を中心とする関東地方とも情報チャネルを築きつつあった。

 

 ちなみにカスカベウは安光のブラジルの故郷の街で、サンパウロから西に500キロ離れた場所にある。実はこの近くにはロンドリーナという街もあり、2つの街がのちにチーム名の由縁になったことは大変興味深い。

 

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著者プロフィール

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木暮 知彦
関東フットサルリーグ広報委員。1998年よりフットサルの普及に努め、現在に至る。

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