真実はどこに、、、嘘がまかり通るこの世の中!真実を知りたいと思うのは当然だ!

韓流歴史観を正す!

日教組の嘘教育の洗脳から抜け出そう!

以下Remnantより引用

韓流歴史観を正す
日本は、破産状態にあった朝鮮を建て直し、救った
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日韓併合前、李朝末期の朝鮮の人々は、極貧の中にあった


 かつて「日本は朝鮮の人々に対して、とてつもなく悪いことを繰り返してきた」ということが、よく言われてきました。
 これはもともと韓国の人々が叫んだものです。いわゆる「韓流歴史観」です。それに同調した日本国内のいわゆる「反日的日本人」もそう叫んできました。
 しかし、朝鮮半島の日本統治時代は、彼らが言っているほど悪いものだったのでしょうか。いいえ、もしあの日本統治の三六年間がなかったならば、今日の朝鮮半島、とりわけ韓国の繁栄は決してなかったでしょう。


破産状態にあった朝鮮

 一九世紀から二〇世紀前半にかけての世界は、弱肉強食の植民地化の時代でした。西欧の列強諸国はアジア各国を次々に植民地化し、アジアの国々から搾取して、自国を富むものとしていました。
 大東亜戦争(太平洋戦争)前には、アジアのほとんどの国は、西欧諸国の植民地となっていたほどです。そうした中、ただひとり、西欧諸国の植民地とはならずに、アジアで自主独立を保ち、近代的な国家を築き上げた国がありました。
 日本です。日本は必死な思いで明治維新を成し遂げ、西欧諸国と同じような力をつけようと努力し、それに成功していました。これによって日本は西欧の支配をまぬがれ、対等の立場で生き抜こうとしていたのです。
 そうした中、お隣の朝鮮は、国造りの面で非常にたち遅れていました。当時の朝鮮は、いわゆる李朝(りちょう)末期の時代で、混乱し、国としての体さえなしていない状態であり、崩壊寸前でした。防衛力もなく、財政は破綻し、国家的破産状態にあったのです。
 朝鮮の民衆はつねに、飢餓と、疫病と、重い税金にあえぎ、極貧の中を細々と命をつないでいました。支配者層は支配者層で、その貧しい民衆から搾り取ることしか考えてない独善的な人々でした。
 彼ら王族と「両班」(ヤンバン・官吏貴族)は、労働を蔑視する人々で、みずからは決して労働をしませんでした。そして、人口のほとんどを占める一般民衆を、生かさず殺さずの状態におき、そこから搾取していました。
 当時朝鮮にいたイギリス人旅行家、イザベラ・バードは書いています。
朝鮮には二つの階級しか存在しない。盗む側(王族・両班)と、盗まれる側(平民・奴隷)だ」
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「朝鮮には二つの階級しか存在しない。盗む側(王族・両班)
と、盗まれる側(平民・奴隷)だ」(イザベラ・バード)
 また朝鮮では、学問は排他的な朱子学があるだけで、科学も、医学もありませんでした。学校も病院も治水施設等もほとんどなく、中国の文豪・魯迅からは「世界一貧しい国」とまで呼ばれた国が朝鮮でした。
 外国人は、ソウルを「世界有数の不潔な街」と評し、道で糞尿を踏まずに歩くのは不可能だったと述べています。街には鼻をつく悪臭が満ちていました。また当時の朝鮮にいた宣教師は、あまりに水がきたないので、風呂に入れば、入る前よりも汚れてしまうほどだったといいます。
 商売はいまだに物物交換が主流で、ろくな産業も道路もありませんでした。また人々は、冬の寒さをしのぐ薪とするために山の木をみな切ってしまうので、山がいたるところハゲ山と化していました。そのために泥水が流れだし、農業も壊滅状態にありました。
 しかし一番の問題は、そんな極貧の状態で、内乱が頻発していることでした。政治は混乱し、いまや李朝末期の朝鮮は崩壊寸前だったのです。国際連盟の事務局次長であった新渡戸稲造は、「枯死国朝鮮」と呼び、国家的な死に瀕したのが朝鮮だと述べました。
 また当時、朝鮮人の玄永燮は、
 「日韓併合前の朝鮮は地獄であったといってもよい
 と述べています。


助け舟を出した日本

 そんな状態でしたから、朝鮮が西欧の植民地となるのは、もはや時間の問題だったのです。あるいは中国(清)の一部となるか、ロシアの一部となるか、といった状態でした。こうした朝鮮の実情を、「他国のこと」として放置しておくことは簡単なことだったでしょう。
 しかし日本には、これを放置しておくことのできない事情がありました。地図をみればわかりますが、ユーラシア大陸から日本列島に向かって、グィと突き出た形になっているのが、朝鮮半島です。
 この朝鮮半島に、もしロシア、中国(清)、または西欧の勢力がいすわってしまえば、日本はその侵略から自国を守る方法がなくなってしまいます。そうなれば、朝鮮は、いわば日本の喉元(のどもと)に突き出されたナイフのような役目を果たしてしまうでしょう。
 ですから日本にとっても、朝鮮半島の実情は決して無視できないものだったのです。朝鮮が自立的な独立国家として力をつけてくれない限り、日本も危うい状態が続くでしょう。
 また朝鮮は、かつて古代の日本に、大陸の先進文明を伝えてくれた国です。いわばお世話になった国です。その国がいまや崩壊しようとしており、外国の餌食になっていく姿を、日本がじっと見ているわけにはいきません。
 これは、たとえば長屋に住んでいる人の場合にも似ています。お隣でボヤがあったり、ドロボウが入り込めば、決して無関心ではいられないでしょう。また、お隣の家族が病気であったり、極貧の状態におかれていれば、やはり何かしらしてあげようと思うのが人情というものです。
 それで明治の日本が願ったことは、朝鮮半島に、外国に侵されることのない、日本と同じ独立の気概と力を持った近代的国家が誕生することでした。そのために日本は、官民をあげて朝鮮の近代化運動を支援していきました。
 日本は、朝鮮に助け舟を出したのです。
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李朝末期のソウル南大門

 それにはまず国交がなければなりません。日本は、朝鮮との間に対等な国交を求めました。友情を持っておつき合い出来れば、朝鮮の近代化を支援していくことも可能になるでしょう。それで日本は、外交官を朝鮮に派遣しました。
 ところが当時の李王朝(李氏朝鮮)の政府は、この申し出を冷たくあしらったのです。というのは、中国の属国であった朝鮮には、旧態依然とした唯我独尊的な思想が幅をきかせていたからです。
 朝鮮には「中華思想」というものが強く支配していました。これは、中国は世界文明の中心であり、そこから遠ざかる国ほど「野蛮で」「劣った国」であるという思想です。
 この思想を持った朝鮮からみると、中国から遠い日本は「野蛮な国」であり、「劣った国」です。彼らは、日本が西欧列強の支配から独立を守るために明治維新を成し遂げた意味がわかりません。
 朝鮮の人々は、洋服を着て西洋のマネをし始めた日本人を、「禽獣」にも等しい者とみなし、軽蔑して、日本の使節を追い返すことまでしました。


東亜のトラブルメーカーだった朝鮮

 日本と朝鮮の関係について書いたある中学生用の歴史教科書には、
「日本人の心の中には、朝鮮人を差別する間違った意識がありました」
 と書かれています。しかし、これは歴史の事実の半分しか述べていません。実際は、このように朝鮮人が、先に日本人を蔑視したのです。
 とはいえ、朝鮮人による日本人への蔑視は、日本人にとって大きなことではありませんでした。それは朝鮮人の自由として、ほっておくとしても、朝鮮がこのような旧態依然とした体制でいる限り、いずれ朝鮮が崩壊し、そこに列強の勢力がいすわってしまうことは目に見えています。
 そこで、日本は朝鮮を、強引なかたちでですが開国させます。それまで朝鮮は、かたくなに鎖国政策を続け、自分の中にこもっていたのですが、通商を始めさせ、外国に対して門戸を開かせたのです。日本もかつて黒船のペリー提督によって無理矢理、開国させられました。しかしそれが結局は良かったということを、日本人は知っていたのです。
 朝鮮は、日本に対して開国すると、続けて西欧諸国に対しても開国しました。しかし、朝鮮の内部では、近代化を推し進めようとする人々と、それまでの旧態依然とした伝統にこもろうとする人々が対立し、内乱やクーデターが起きていました。
 こうした不安定な中、王族は「勢道(せいどう)政治」――すなわち王の一族が国を私物化し、国政を欲しいままにする政治を続けていました。
 日本の大使館も二度襲われ、多くの日本人が虐殺される事件も起きました。しかし大使館を襲うことが、国際社会の中でどんな意味を持つかということも、朝鮮の支配者にはわかりません。
 また朝鮮の支配者は、あるときは近代化のために日本と手を組んだかと思うと、今度は自らの保身のために清国(中国)に媚びを売り、次にはロシアに媚びを売るというように、一貫性のない、行き当たりばったりの政治を行ないました。
 その無節操な行動に、日本だけでなく周辺の国々も振り回されていきます。当時の朝鮮は、世界から「東亜(東アジア)のトラブルメーカー」と思われていました。そして日本は、この朝鮮のために、日清・日露の二つの戦争を戦わざるを得なくなったのです。


朝鮮を独立させるために動いた日本

 日清戦争は、清国が条約を破って朝鮮に軍隊を出したことから始まりました(一八九四年)。
 清国は、それまでにも朝鮮を属国化し、年貢を取り立てていましたが、朝鮮に対する支配を強化しようと働きかけてきました。朝鮮を隷属させようと働きかけてきたのです。
 中国には、もともと「天下、王土に非らざるものなし」といって、見えるところすべては中国の王の領土、中国の版図だという領土意識があります。要するに、手の届く世界はぜんぶ俺のもの、という意識です。
 今日も中国は、台湾は俺のもの、チベットは俺のものというように、見えるところは全部自分の領土という姿勢を取り続けています。本当はそんなことを言える資格は全くないのですが、当時、清国は、朝鮮に対してもそのような強引な態度に出てきました。
 清国によるこの朝鮮の奴隷化を放置しておくならば、朝鮮はますます自立できず、近代化に取り残されるでしょう。それで日本は、清国のくびきを朝鮮から排除しようとします。日清戦争がこうして勃発しました。
 当時の日本人には、日清戦争は決して侵略戦争ではなく、義戦であるという明確な認識がありました。明治天皇の詔勅に、
 「朝鮮は、(日本)帝国が、そのはじめより、導き誘って諸国の仲間となした一独立国である。しかし清国は、ことあるごとに、自ら朝鮮を属国であると主張し、陰に陽に朝鮮に内政干渉し、そこに内乱が起こるや、属国の危機を救うという口実で、朝鮮に対し出兵した」
 それで、やむを得ず、朝鮮を清国から解き放つために戦いを決意した、としています。当時、クリスチャンの内村鑑三も、これは朝鮮独立のための義戦だと書きました。
 内村鑑三はまた、この義戦は「文化を東洋に施きたく、その平和を計るにあり」とし、「日本は東洋における進歩主義の戦士、ゆえに進歩の大敵である支那(清国)諸国を除けば、日本の勝利を希望しないものは、世界万国にあるわけがない」と書いています。
 日本はこの日清戦争に勝利し、朝鮮を清国から独立させます。一〇〇〇年にわたって中国の属国であった朝鮮は、このとき初めて独立国家となりました。その宣言(下関条約)に、
朝鮮は自主独立の国であって…」
 と明記されています。永年の中国のくびきから朝鮮を解き放ち、独立国としたのは日本でした。
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日清戦争時の広島予備病院。日本は
朝鮮の独立のために清国と戦った。
 しかし、日清戦争が終わった後、今度はロシアが朝鮮半島にねらいを定めてきました。ロシアは当時、膨張主義と侵略を繰り返し、領土を広げていました。朝鮮がロシアの手に落ちれば、朝鮮の未来がないばかりか、日本も危ない状況となります。
 そこで、ここに日本とロシアが戦う日露戦争が勃発しました(一九〇四年)。日露戦争も、やはり朝鮮半島をめぐる戦いでした。ロシアは、強大な白人の帝国でした。もし、この戦いに日本が破れれば、朝鮮も日本もロシアに占領され、ロシアの一部となったでしょう。
 つまり、これは朝鮮と日本の存亡をかけた戦いだったのです。しかし、日本はこの戦いにも完全な勝利をおさめます。そのとき、世界中の人々が驚愕したことは言うまでもありません。東洋の黄色人種の島国が、白人の強大な帝国ロシアを打ち倒したからです。


朝鮮を救う残された道

 日本はこうして、清国とロシアのくびきを、朝鮮半島から何とか排除しました。けれども、それで朝鮮人自身に、自主独立の国造りの意識や、気運が生まれたわけではありません。
 このあいだも、ずっと日本は、朝鮮が近代化して力をつけていけるように、あらゆる側面から支援していました。かつて日本に明治維新の志士たちがいたように、朝鮮人の間にも、朝鮮の維新を成し遂げようとする志士たちがいました。日本に留学して学ぶ朝鮮人も多くいました。
 日本はそうした朝鮮人を援助していきます。日本が願ったのは、「朝鮮人による朝鮮人のための朝鮮維新」でした。しかし彼らの働きは、朝鮮国内の根強い「華夷秩序」(かいちつじょ 中華文化圏以外を野蛮な国とする)思想や、「衛正斥邪」(えいせいせきじゃ 朱子学の伝統以外を排除する)思想に阻まれてしまいます。
 そして朝鮮人による朝鮮維新は、残念ながら、失敗に終わります。クーデター、裏切り、あざむきが渦巻きました。朝鮮を自立させるために尽力してきた伊藤博文も、満州のハルピンで朝鮮人に暗殺されてしまいます。
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朝鮮を自立させようと尽力した伊藤博文

 朝鮮はもはや、ひとり立ちできない状態でした。こうして朝鮮人自身による近代化の道が挫折したとき、日本はみずから朝鮮統治に乗り出しました。日本は、日本と朝鮮を一つの国家、合邦国家としたのです。いわゆる「日韓併合」(にっかんへいごう)です(一九一〇年)。
 これには、朝鮮側でも「一進会」のように日韓併合を推し進めた朝鮮人グループがありました。彼らは、日本と一つになることが、朝鮮を救う唯一の残された道だと考えていました。彼らの協力のもと、日韓併合が実現したのです。
 日本が朝鮮を併合したのは、朝鮮という領土を欲しくてのことではありません。朝鮮という貧しい国と一つになることは、日本にとって大きな荷物となることは目に見えていました。
 しかし、朝鮮を自立させることは、日本の望みであっただけでなく朝鮮国内の開化派の切なる願いであり、日本はそれを助けたかったのです。
 併合国家、合邦国家というのは、近代ヨーロッパでも、たとえばノルウエーとスウェーデン、ノルウエーとデンマークなどが、かっては同君合邦国家を作ったことが知られています。オーストリア・ハンガリー帝国、チェコスロバキアなどもそうです。
 それは世界でもよくある方法であり、国を建て直すための効果的な方策だったのです。日韓併合は、正当な法的手続きによったものでした。当時の列強諸国も承認し、また賛成しています。中国も反対せず、ロシアも承認しました。これは、朝鮮を救い、自立させる最後の手段と考えられました。
 これは、たとえば家長に仕事がなく、病気がちで収入のない崩壊寸前の家庭に、国が生活保護の制度を適用することに似ていないでもありません。その家庭が立ち直るまで、援助をしながら自立を助けていくのです。
 同様に、日本は直接、朝鮮の再建と自立に取り組んでいったのです。日韓併合により、以来、三六年間、朝鮮は日本の領土の一部となりました。


生まれ変わった朝鮮

 日韓併合当時、日本人は決して朝鮮を「植民地」とは考えていませんでした。むしろ日本本土の延長と考えていました。西欧の植民地ではどこも、搾取が行なわれていましたが、日本は朝鮮に対し巨額の投資を行なって、国造りをしていったのです。それは朝鮮を、日本本国の延長と考えたからです。
 朝鮮統治は、最初から最後まで、日本にとってはいつも「持ち出し」でした。日本の税金によって朝鮮の建て直しを行なったのです。もともと朝鮮には、搾取できるような富も、資源もありませんでした。搾取というなら、日本政府は日本人から搾取して莫大な富を朝鮮半島につぎ込んでいったのです。
 たとえば黄文雄著『韓国は日本人がつくった』(徳間書店)によると、朝鮮での歳出はいつも一五〜二〇%の赤字で、その赤字分はいつも日本本国から補填されていました。また朝鮮の京城帝国大学の図書館予算は、東京帝国大学の一〇倍にものぼりました。
 地租(土地の税金)にしても、日本国内が二五%だったのに対し、朝鮮ではたったの三・八%。それだけ朝鮮人の負担を軽くしたのです。
 米価の設定も、生産者の手取り価格は一石あたり五〇円であるのに対し、消費者価格は四三円(一九四一年)。逆ざやです。つまり、生産者からは高く買い取り、消費者には、買った値段より安く売っていたのです。
 いかに朝鮮の人々が手厚く保護されていたか、この一事をみてもよくわかります。
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日韓併合時代、朝鮮における政治の中心だった朝鮮総督府
 また、日本による統治以前、朝鮮は衛生事情がきわめて悪く、西洋医学もなかったため、毎年、疫病によって多くの人々が死にました。しかし日本は、朝鮮国内の衛生事情を改善し、医学知識を教え、病院を建てました。その結果、疫病も猛威をふるうことはなくなりました。
 日本統治以前の朝鮮は、どこへ行ってもハゲ山で、土地はやせていて、毎年、多くの餓死者を出しました。当時の朝鮮を旅したジェロトケビチの『朝鮮旅行記』や、シャルル・ダレ神父の『朝鮮事情』にも、その惨憺たる状況が描かれています。
 しかし、そこにダムを造り、治山、治水事業を行ない、やせた土地を開墾し、荒れ地を農地に変えていったのは日本人たちでした。日本人はまた朝鮮人に愛林思想を教え、山に木を植え、また効率のよい農作技術も教えていきました。
 こうして「日帝三六年」の間に、農業生産は飛躍的に拡大したのです。朝鮮の人口も、二・四倍に増加しました。これには衛生事情の改善や、医療、また食糧事情の改善などが影響しています。
 日本統治以前、朝鮮にはろくな道路も、港湾も、鉄道も、空港もなく、整った貨幣制度もなく、近代的な法律体系もなく、産業の基盤となるインフラはほとんどありませんでした。しかし日本は、それらのものを、わずか三六年で疾風怒濤のように整備していきました。
 李朝末期の朝鮮はまた、ソウルを除くほとんどの地域で、強盗のはびこる社会でした。内乱も頻発し、道にころがる死体を見るのは日常的なことでした。けれども日本統治下で治安は安定し、強盗の多くは姿を消し、また李朝末期に比べれば内乱もはるかに少なくなったのです。朝鮮人の玄永燮は、
 「日韓併合によって旧来の習はすべて改められ、生命に満ちあふれた新朝鮮に生まれ変わった
 と述べました。


日本は奴隷制を廃止した

 日本が朝鮮を併合したとき、朝鮮の王族は尊重され、日本の皇族からの厚い待遇を受けました。これは、かつてのフランス革命のときにルイ一六世がギロチンにかかったことや、ロシア革命の際に王室が滅ぼされたことと、きわめて対照的です。
 またイギリスがビルマを植民地としたとき、ビルマの王室は悲劇の運命を歩みました。しかし日本統治下の朝鮮王室は、存続しただけでなく、きわめて厚遇されていたのです。
 一方、日本は、朝鮮にそれまで存在していた奴隷制を断固、廃絶しました。朝鮮には、あのインドのカースト制にも匹敵するひどい階級差別が存在していたのです。これは日本の江戸時代の士農工商とも違い、東アジア社会ではほかに見られない最も頑強な階級差別でした。
 とくに最下級の奴婢は、売買される奴隷であり、財物とみなされ、家畜と同様の扱いを受けていました。主人が奴隷を殺しても、殺人罪にはなりませんでした。奴隷は、朝鮮人口の約四三%もいました
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朝鮮の奴隷(奴碑)。日本はこれを廃止し、万民平等とした。

 日本はその奴隷制度を廃止し、階級差別をなくし、そこに万民平等を敷いたのです
 朝鮮の国土開発計画は、こうした元・奴隷を「労働者」として雇うことによって行なわれました。その際、日本は彼らに「日当」を支払いました。当たり前のことと思うかもしれませんが、かつての李朝朝鮮時代には奴隷に給料が支払われることはなかったのです。
 日当が支払われたことは、朝鮮半島の歴史始まって以来、破天荒のことでした。日本統治時代は彼らにとって、文字通り奴隷からの解放であったのです。日本の強権統治を批判する向きもありますが、このような未開社会を改革するには、強権統治以外にはなかったでしょう。
 李朝時代の朝鮮の階級別人口は、奴婢(奴隷)が約四三%、良民(常民)が約五〇%、残りの約七%は「両班」(ヤンパン)と呼ばれる人々でした。良民は普通の人々、「両班」は特権階級の官吏、公務員です。日本はこうした階級制度の廃止を断行しました。
 階級制度の廃止で、奴婢と良民は喜びました。しかし両班にとっては、それは特権の喪失を意味しましたから、彼らは日本に対し恨みを持ち続けました。日本が大東亜戦争に負けて朝鮮半島から引き上げていったとき、朝鮮の指導者となったのは、この両班の流れをくんだ人々でした。
 彼らは、朝鮮の教育界を反日一色にしていきました。


両班が反日運動の流れをつくった

 日本に恨みを抱いたこの「両班」と呼ばれた人々について、もう少しみてみましょう。
 李朝時代の朝鮮に君臨した支配層は、王族とこの両班でした。一方、江戸時代まで日本を支配していたのは、武士たちです。
 支配層の考え方や思想は、国全体の国民性に深く影響します。
 日本の武士たちは、忠実、誠実、勤勉、正直、勇気、先取性、自主独立等を人間の徳と考える人々でした。また「滅私奉公」という言葉があるように、私利私欲は悪であり、公に奉仕することこそ人の道という考えを持っていました。
 一方、朝鮮の両班の人々は、労働を蔑視し、「箸と本以外に重いものを持たない」といわれるほどの労働蔑視論者でした。彼らは、額に汗して労する農民たちをさげすみながら、その農民たちから搾取して自分たちの生活を支えていました。
 両班は、儒教の一つである朱子学を奉ずる人々でした。朱子学では、人間を「君子」と「小人」に分けます。小人とは一般の働く人々で、君子は、働かずに身を動かさないことが原則なのです。聖人君子は働いてはいけないとされ、彼らは極端に労働をさげすみました。
 スポーツも、彼らは忌み嫌いました。すなわち、本を読み、労働せずに暮らすのが彼らにとって正しい生き方なのです。怠惰と、異常に高い気位が彼らの特徴でした。その最高の美徳は、働かずに得る不労所得でした。両班の実態について、グレゴリー・ヘンダーソンは『朝鮮の政治社会』のなかで、
 「国家と民衆を食い物にして私腹を肥やすことしか考えていなかった
 と記しています。彼らは「公」に奉仕するのではなく、私利私欲に生きる人々だったのです。そして、国内では極度に頭を下げる事を嫌い、少しでもプライドが傷つけられるような事になれば、烈火のごとく怒りだす人々でした。
 しかしその一方、両班は、中国に対しては「事大主義」(じだいしゅぎ)を通しました。事大主義とは、大きな勢力に逆らわず、ペコペコして、追従して生きる態度をいいます。
 一〇〇〇年にわたって中国の「属国」であった朝鮮では、宗主国・中国の意向にいつもペコペコして、年貢を納め、中国の要求には何でもお従いしますという態度がしみついていました。両班はその代表的な人々だったのです。
 中国に対するその卑屈な態度は、そのうっぷんを晴らすかたちで、国内では逆に、彼らの異常に高い気位となって現われていました。


自己批判をした韓国人

 この事大主義は、ほかにも、その後の韓民族の民族性の多くの源泉となりました。朝鮮の作家であり、思想家でもある李光洙(一八九二年〜?)は、李朝の成立によってゆがめられた韓民族の民族性を、次のような言葉で表しています。
「虚言、詐欺、相互不信、美辞麗句、空理空論、阿諛迎合、面従復背、大勢従応、無知、悪口、卑屈、臆病、無決断、反社会的利己心…」
 属国根性はこれらを韓民族に植えつけた、というのです。
 大東亜戦争後にも、韓国の優れたリーダーであった朴正熙大統領(一九七九年に暗殺された)は、自著の中で韓国人の民族性の欠点をきっぱり指摘し、自己批判をしました。彼は、韓国民が克服すべきものとして次の事柄をあげています。
1 事大主義
2 怠惰と不労所得の観念
3 開拓精神の欠如
4 企業心の不足
5 悪性利己主張
6 健全な批判精神の欠如
7 党派意識
8 特権・エリート集団意識
 いずれも、一見してかつての両班たちの伝統から来たものであることが、わかります。どんな民族にも、もちろん欠点はあります。日本人にもあります。しかし、韓民族が今日も持つこれらの欠点は、両班の精神性を受け継いだものであることを知る必要があるでしょう。
 これらは、日本統治時代に形成されたものではありません。それ以前からあったものです。そして、日本統治時代が短かったために両班の特質が消し去られず、それが今も韓民族の中に生き続けていることが問題なのです。
 もし日本に罪があったというなら、日本の最大の罪は、朝鮮での統治が短かすぎて両班の精神性を消し去れなかったことでしょう。


強制連行、従軍慰安婦は本当か
 
 近年、かつての日本軍による朝鮮人の「強制連行」が騒がれたことがあります。朝鮮人を無理矢理連れてきて、日本で働かせたというのです。これを言い出したのは、在日朝鮮人でした。
 しかし、事実は全く逆です。日本統治時代に、多くの朝鮮人が貧しい朝鮮を離れ、われ先にと、裕福で高い給料をもらえる日本に働きにやって来た、というのが事実です。
 彼らの流入は、日本の内地の失業者を増やしただけでなく、犯罪者となって悪事をする者も多くいました。それで政府は、これ以上朝鮮人が日本に流入しては困ると、制限をかけたほどです。
 強制連行どころか、阻止したいほど勝手に入ってきたのです。そして日本の敗戦後は、彼ら朝鮮人は、望むなら「タダで」朝鮮に帰ることもできました。費用は国が払ってくれたのです。しかし多くの朝鮮人が日本に残りました。
 そして戦後五〇年もたってから、在日朝鮮人は、自分たちは「強制連行」されて連れてこられた、と騒ぎ立てたのです。
 しかし、もし強制連行なら、なぜこの五〇年間、韓国から帰還要求がなかったのかの質問に、彼らは答えようとしません。また、もし強制連行ならなぜこの五〇年間、韓国に帰ろうとしなかったのか、の質問にも彼らは答えません。
 さらに、彼らは日本での劣悪な労働環境などを口にしますが、当時は日本人もみなそうだったのです。たとえ劣悪な労働環境であっても、朝鮮で働くよりは給料が高かったので、彼らは望んで日本に働きに来ていました。
 にもかかわらず、彼らは自分が被害者であると言いたがるのです。このような被害妄想は、日本人には到底理解できません。しかし、ここに両班以来の精神性が今も生きているのをみるのです。
 いわゆる「従軍慰安婦」にしてもそうです。韓国は一九八〇年代意向、日本に対してしきりに「従軍慰安婦」問題を追求してきています。しかし、韓国の歴史をひもといてみるならば、「慰安婦」というのはもともと韓国の文化であったことがわかります。
 朝鮮半島は昔から、アジア最大の「貢女」の産地とみなされていました。そこからいつも中国に対して、「慰安婦」が届けられていました。そうした「慰安婦」は、日本の吉原などの大衆文化とは違い、国家管理売春として行なわれていたのです。
 最近まで韓国は管理売春国家として有名でした。「妓生」などは今でも存在します。韓国では昔から「慰安婦」の輸出や売却、韓国人経営の「慰安所」の輸出などがなされてきたのです。
 韓国人は、かつて日本が多くの朝鮮女性を「従軍慰安婦」として強制連行したと非難しますが、そもそもその事実を示す客観的証拠など存在していません。また、たとえあったとしても、日本を非難するよりもまず、自国がなしてきた数多くの慰安婦の歴史を反省するほうが先決でしょう。
 台湾の歴史家・黄文雄氏は、韓国人の欠点として、「悪いことを反省するのではなく、他人のせいにする」ことをあげています。残念ながら、ここにも両班以来の精神性が残っているのです。


韓国は他国を侵略したことがない?

 今も韓国では、両班の流れを汲んだ反日的な人々がつくった教科書を用いて、歴史教育が行なわれています。そこには一体どんなことが書かれているのでしょうか。そこには、
 「韓国は、他国から侵略されたことはあるが、他国を侵略したことは一度もない平和愛好の民族である」
 と書かれています。そして多くの韓国人は、教えられたとおり、これを事実として疑いません。けれども、実際には韓国は何度も他国を侵略しています。
 元寇のとき、朝鮮半島の高麗軍約一万人は、モンゴル軍に合流して日本を二度侵略しました。その際、彼らは壱岐(いき)、対馬(つしま)の住民を虐殺しています。また二〇〇人の童男童女を強制連行して、高麗の王に献上しました。
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壱岐にある元寇の船の碇(いかり)石。左京鼻沖で
発見された。高麗(朝鮮)軍は、二度にわたって
日本を侵略し、壱岐・対馬の住民を虐殺した。

 ソウルの「戦争記念館」には、韓国も二度にわたり日本を侵略したことがある、と明記されています。また、朝鮮が清国の軍隊と合同で五回にわたって明を討ちに出たことや、羅禅遠征などは、「征伐」だから、あるいは強制された不本意な参戦だから、「侵略」ではないというのでしょうか。
 最近では、韓国軍は、ベトナム戦争のときアメリカ軍に合流し、「ベトコン」(南ベトナム解放民族戦線)叩きに出かけています。あれが侵略でなくていったい何なのでしょうか。
 このように、韓国が一度も他国を侵略したことはないという話は、韓国人に自信を与えるものでしょうが、作り話であり、史実とはまったく関係のない虚言です。
 これに限らず、韓国の歴史教科書は、多くのウソと偏向した知識とで書かれています。両班以来の自分本位の伝統は今も生きているのです。韓国の人々は、もっと自国の歴史を直視する眼を持つ必要があるでしょう。「正しい歴史認識」は韓国人にも必要なのです。
 韓国が「侵略された」という話にしても、かつて朝鮮戦争(一九五〇〜五三年)のとき、中国共産軍は、朝鮮半島の北から南までをくまなく蹂躙しました。このときの韓民族の犠牲者は、「日帝三六年」の比ではありません
 「日帝」時代の反日運動の犠牲者は、多く見積もっても一万人以下です。そして日帝時代に、朝鮮半島の人口は倍増したのです。一方、朝鮮戦争の推定死傷者は五〇〇万人にも達し、半島の人口は激減しました。そのうち、かなり多くの者が中国共産軍による犠牲者です。
 にもかかわらず、韓国人は中国による侵略には一言もふれず、日本による「侵略」は声高に叫びます。いまだに両班時代の「中華主義」が、韓国人の知性をくもらせているとしか言いようがありません。
 韓国人が、自分の民族の優秀性を誇る性向は、決して悪いことではないでしょう。しかし、いつまでも被害者意識から抜け出せず、「悪いのはすべて日本」と責任を他に押しつけ、自己批判できないのであれば、世界は誰も相手にしないでしょう。
 「日韓併合時代の真実は長老に聞け」で述べたように、今日の韓国人の反日主義は、戦後の初代韓国大統領・李承晩の徹底した親日派排除、および虚偽に満ちた反日教育によって生じたものです。それは戦後になって作られたものなのです。
 私は以前から不思議に思ったものです。韓国には「犬も歩けば教会にあたる」といわれるほど教会が多く、クリスチャンが人口の三〇%もいるというのに、なぜ神の祝福が中程度にとどまっているのか。
 韓国人の反日感情は、韓国に対する神の祝福を押し下げているのです。聖書には、憎しみを持っていては祈りは聞かれないと、書かれています。韓国は、本当はもっと神の祝福を受けていいはずなのに、存分に受けないまま終わってしまっているのです。
 もったいない話です。もし韓国人クリスチャンが率先して、自国の歴史を客観的かつ冷静な目で見、反省すべきことは反省し、感謝すべきことは感謝できるようになるなら、韓国は偉大な神の祝福を受け、もっと大きな世界的貢献をなす国となっていくことでしょう。
 日本人クリスチャンは、その韓国の同胞のために祈っていくべきではないでしょうか。 

久保有政著


日米戦争はなぜ起きたか 

真実を知れば日本人は自身を取り戻す!
日教組の嘘教育の洗脳から抜け出そう!

Remnant サイトより
転載
日米戦争はなぜ起きたか 
大東亜戦争への道
アメリカは、自分の真の敵が誰かを見誤った
日本が自衛戦争に出ざるを得なかった理由。

      macarthor.jpg 
ダグラス・マッカーサー元帥。彼は戦後、
日本の戦争は「自衛戦争だった」と証言した

 一九四一年の日本による真珠湾攻撃から、一九四五年の終戦に至るまで、日本とアメリカは戦争を交えました。
 それ以前の日本とアメリカは、一時は兄弟のように良好な関係を持っていた時期もあります。にもかかわらず、両者は戦争を交えました。これについて、
 「この戦争は日本の侵略的態度に対し、アメリカが懲罰に出たもの」
 とする、いわゆる自虐史観が広く語られてきました。日本を一方的な悪として、アメリカを一方的な正義とする歴史観です。
 しかし、これはアメリカが戦後、自分の戦争を正当化するために唱えた歴史観であり、客観的にみれば決してそのようなものではなかったのです。
 日米戦争の責任は、アメリカと日本の双方にありました。
 両者は、中国で利害が対立したのです。アメリカは、自国の経済圏から日本を閉め出す一方で、中国においてアメリカの割り込みを執拗に求めました。そのために中国に進出していた日本とぶつかり合ったのです。
 日米はなぜ戦争をしなければならなかったのか。その本当の歴史をみてみましょう。


日本の戦争は自衛戦争だったと証言したマッカーサー

 日米戦争においてアメリカ軍を率いて日本と戦ったのは、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥でした。マッカーサーは日米戦争終結から六年後の一九五一年五月三日、アメリカ上院の委員会で、かつての日本の戦争についてこう証言しました。
 「日本が戦争に飛び込んでいったのは、おもに自衛(security=安全保障)の必要にかられてのことだったのです」
 マッカーサーは、かつての日本の戦争について振り返り、日本は戦いたくて戦ったわけではない。またそれは侵略戦争でもなく、むしろ「自衛のためだった」と証言したのです。
 今日も、左翼や「反日的日本人」が、「かつての日本の戦争は侵略戦争であった」と言っています。しかし、かつて日本と戦った当のマッカーサー本人が、「日本の戦争は自衛戦争であった」と言っているのですから、これは大変注目に値します。
 ある日本の地方議会で、議員のひとりが、
 「かつての日本の戦争は自衛戦争だった」
 と言いました。すると他の議員たちから、
 「なにをバカなことを言っているのか、侵略戦争だろう」
 と野次が飛びました。そのとき彼は、マッカーサーの証言を正確に英語で引用し、黒板に書いて、説明を加えて言いました。
 「日本と戦った当のマッカーサー自身が、日本の戦争は自衛戦争だったと言っているのです」
 こう言うと、議会はシーンと静まりかえり、もはや野次は消え失せたそうです。
 日本はなぜこの「自衛戦争」に出なければならなかったのでしょうか。それには次にみるように、幾つかの要因がありました。


西へ、西へと進んだアメリカ

 アメリカは、西部開拓史にみられるように「西へ、西へ」の開拓によって大きくなっていった国です。アメリカは、はじめはあのように大きな国ではありませんでした。テキサス州なども、もとはメキシコの領土でした。しかし
 「リメンバー・アラモ砦!」
 を合い言葉にメキシコと戦争をし、テキサスをはじめ西部の広大な土地を手に入れたのです。
 彼らはまた土着民のインディアンたちを殺しながら開拓を続け、そのインディアンたちとの戦争は二五年間続きました。合衆国の司令官たちは、
 「インディアンを絶滅すべし」
 と発言、容赦ない絶滅作戦が展開されました。女・子供も虐殺、生活環境を破壊し尽くし、インディアンの数が激減したところで、インディアンの組織的反抗は一八九〇年に終結しました。
 しかし、アメリカ人の「西へ、西へ」の侵出欲はおさまらず、ついに海を越えたのです。
 一八九八年、アメリカの戦艦メイン号が撃沈された事件が起きました。アメリカはそれを契機に、スペインとの戦争を始めました。合い言葉は、
 「リメンバー・メイン号!」。
 アメリカはこの戦争に勝利し、短期間でキューバ、フィリピン、プエルトリコ、グアムを手に入れました。
 メイン号爆破は、スペインのしわざと宣伝されました。しかし、その真相は一〇〇年経った今も不明です。当時、スペインは事件の調査を約束し、戦争を避けようと極限まで譲歩を重ねていました。けれどもアメリカは、有無を言わせず開戦に踏み切ったのです。
 「リメンバー・アラモ砦!」「リメンバー・メイン号!」「リメンバー・パールハーバー!」。アメリカの戦争はいつも「リメンバー!」でした。
 アメリカは不思議な国で、戦争の際には、いつも都合よく敵国からの攻撃があり、「リメンバー!」の合い言葉で国民世論がまとまって開戦に至るのです。

    
日本軍による真珠湾攻撃(1941年)。「リメンバー・アラモ砦!」
「リメンバー・メイン号!」「リメンバー・パールハーバー!」。ア
メリカの戦争はいつも「リメンバー!」だった。
 戦争はスペイン領だったフィリピンでも行なわれました。アメリカは現地の独立運動を利用して戦いながら、「独立」の約束を破り、領有化しました。
 フィリピン人はアメリカに対し独立運動を起こします。しかし弾圧され、推定二万人が殺害され、また破壊に伴う飢餓と病気で二〇万人が死にました。
 フィリピンを手に入れたアメリカは、フィリピン人に対し英語を公用語とし、徹底的な洗脳政策を開始。知的な者ほど率先してフィリピン古来の文化を捨て、積極的にアメリカ化していきました。
 同じ年、アメリカはハワイも武力で脅迫して併合し、アメリカ領としました。こうしてアメリカは、日本の目と鼻の先までやって来たのです。
 当時のアメリカ人は、自らが非白人劣等民族の領土を植民地化することによって文明をもたらすことを、神から与えられた「明白なる天意」(マニフェスト・デスティニィ)と称していました。
 メキシコ、ハワイ、グアム、フィリピンと領土拡張を進めたアメリカの西進は、この「明白なる天意」のスローガンのもとに行なわれました。それは、傲れる白人の支配欲と欲得を正当化するためのスローガンだったのです。


「門戸開放」の利己的目的

 ここまで来ると、中国大陸はすぐそこでした。アメリカはついに中国大陸を目指しますが、当時すでに中国大陸ではヨーロッパ諸国の分捕り合戦が進んでいました。つけ入る隙がない。それでアメリカは一八九九年に
 「中国の門戸開放、機会均等」
を主張します。要するに、「私も入れてくれ」ということです。一見、理想主義的で、ごもっともな意見ですが、その裏には利己的な欲望が隠されていました。
 アメリカは自分の勢力圏であるプエルトリコ、フィリピンなどの「門戸開放」は絶対に主張しません。さらに、一九二九年以降の大恐慌以後は、アメリカは自由貿易を捨ててブロック経済に入り、自分の経済圏から他国を閉め出しました。
 すなわち、自分の経済圏からは他国を閉め出して閉鎖主義をとる一方、中国には門戸開放を求めるという、完全なダブル・スタンダードだったのです。それは自分の利益にだけなることを求めたものでした。
 また、当時の中国はひどい内戦状態にありました。ヨーロッパ各国は租界の治安を守り、貿易を続けるために、すでに莫大な労力と資金を費やしていました。日本も中国に合法的な特殊権益を持っていました。
 当時、内戦と匪賊(ひぞく)の横行する中国では、「門戸開放」など非現実的なことであり、「門戸開放」で得をするのはアメリカだけだったのです。アメリカは労せずに権益を手に入れようと躍起になっていました。
 ところが厄介なことに、アメリカ人はこれを利己的な戦略ではなく「公平で理想的な行為」と信じ込んでいました。また、自分たちは欧州人のような覇権主義者ではないとすら思っていました。
 アメリカは過去に、メキシコやスペインとの戦争を通して領土を拡大してきたのに、そういう自国の歴史を都合良く忘れていたのです。
 アメリカは、「門戸開放」「公平な権利」の主張を自画自賛、現実には何の意味もないその主張を各国に執拗に求めました。このアメリカの態度に、ヨーロッパ各国は内心苦笑しつつ、「ええ賛成ですよ」と言いながら実行はしないという対応をとるばかりでした。
 アメリカはこの「門戸開放」を、そののち実に四〇年間にわたって繰り返し唱え続けます。そしてこれが、中国大陸における日米の対立の火種となっていったのです。
 

ロシアの脅威と日露戦争
 
 さて、この東アジアをわがものにしようと虎視眈々と機会をねらっている、もう一つの国がありました。ロシアです。
 ロシアは、すでに広大なユーラシア大陸に次々と領土を広げ、さらに東アジアもねらっていました。ロシアは欧米諸国以上に侵略欲の強い国でした。
 日清戦争(一八九四年)後、清国に勝利した日本は、清国との条約により、遼東半島と台湾を譲り受けました。ところがロシアは、そのときドイツ、フランスを引き連れた「三国干渉」により日本に圧力をかけてきて、「遼東(りょうとう)半島を清国に返せ」とおどしてきます。
 日本には当時、その圧力を跳ね返すだけの力はありませんでした。それで日本は苦渋を飲み、遼東半島を清国に返還します。「臥薪嘗胆」(がしんしょうたん)という言葉が生まれたのも、この頃です。
 ロシアは清国に、「さあ遼東半島を返してあげた。その報酬をくれ」といって、清国から次々に権益をもらいます。さらにロシアは、なんと清国に返還させたその遼東半島に、自分が居座ってしまったのです! ロシアはそんなひどいことを公然と行なう国でした。
 ロシアは南下政策を推し進め、満州地域を占領し、さらに朝鮮へ干渉し始めました。「これでは次は日本が危ない」と、日本は危機感をつのらせます。こうして日本とロシアの間に「日露戦争」(一九〇四年)が勃発したのです。
 日本は日露戦争に勝利しました。それはギリギリの勝利、辛勝でしたが、初めて有色人種が白人に勝ったという世界史上の大事件でした。
 日露戦争後、日本はロシアとの講和条約により、樺太の南半分や、遼東(リャントン)半島、また南満州鉄道を譲り受けました。南満州鉄道とは、ロシアが満州を支配するために敷いた東清鉄道の南半分です。日本はこの鉄道を経営することになりました。
 当時の世界では、強い国が他国の経済的な特権を持つことが認められていました。日本もこの権利を持つことになったのです。鉄道は経済発展の重要な基礎ですから、日本はこの権利を得たことを喜びます。
 しかし、日露戦争で膨大な戦費を使い果たしてしまった日本には、この鉄道を経営する資金の見通しがたちません。そうした中、アメリカの大実業家ハリマンが来日し、日本政府に、
 「資金を提供するので、南満州鉄道をアメリカと日本で共同経営しよう」
 と持ちかけました。ハリマンは「鉄道王」と呼ばれた人で、大きな鉄道会社を経営、世界的に有名でした。この提案に対し、桂太郎首相や、元老・井上馨、その他政財界の多くの人々は賛成し、近く協定を結ぶと仮約束しました。
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鉄道王エドワード・ハリマン
 井上馨などは、それは日本の防衛のためにも良いと考えていました。というのは、日本は侵略的なロシアの進出を阻止ために日露戦争を戦ったのですが、日本一国では満州を守ることはできないでしょう。そこにアメリカが入ってくれば防衛は強固なものとなると考えたからです。
 しかし、このとき外務大臣の小村寿太郎(じゅたろう)は、講話会談のため、まだアメリカにいたので日本にいませんでした。彼は帰国してこの話を聞くと、「とんでもないことだ」と言って猛反対したのです。理由は、
 「莫大な戦費を使い、数十万の兵士の血を流して手に入れた権利を、外国に売り渡すまねはできないし、講和条約の趣旨にも反する」
 というものです。たしかに、満州における権利は日本人の多大な犠牲を払って獲得したものであり、一方、アメリカはそれを労せずして手に入れることになります。
 結局、小村の意見が通り、日本はハリマン提案を拒否しました。南満州鉄道は日本だけで経営することになったのです。
 しかし、以来アメリカ人の多くは、
 「日本は満州を独り占めしようとしている
 と不快感を持つようになりました。アメリカには、鉄道は領土獲得の基礎という考えが強くあったのです。鉄道が敷かれるところ、自分たちの領土が広がる、という考えです。このためハリマン提案の挫折は、アメリカ人に深い失望をもたらしました。
 この出来事もまた、歴史の大きな分かれ目でした。この時から三六年後、日本とアメリカは戦争をしますが、もしこのとき満州の鉄道を日本とアメリカが共同経営していれば、日米は協調路線をとり、日米戦争はなかっただろう、という見方もあります。


日米戦争は避けられたか

 たしかに、満州の鉄道を共同経営していれば、その後の歴史は全く違った方向へ向かったことは間違いありません。日米は同じ利害を持ったからです。もし日米の政治家が道をあやまらず、うまく協調路線を歩んだならば、日米戦争はなかったかもしれません。
 けれども、本当に日米戦争がなかったかどうかは、結局、想像の域を出ないことです。というのは、当時のアメリカは今のアメリカではなかったからです。当時のアメリカは、今日のような様々な人種の融合した社会ではなく、人種差別的観念のきわめて強い国家でした。
 アメリカはもともと、インディアンに対する虐殺で始まった国です。またその後も、近代に至るまで大規模な黒人奴隷制が存在しました。黒人奴隷はリンカーンの時代に解放されたものの、人種差別は国内に根強く残っていたのです。
 当時のアメリカ国内の人種差別は、ひどい状態でした。レストランも、トイレも、バスも、学校も、公共施設はみな、「白人用」と「有色人種用」に分けられていました。
 アジア人種に対する迫害も、すでに一八〇〇年代から始まっていました。アメリカ西海岸では、ヒステリックな中国人移民排斥運動が起き、虐殺事件も発生しました。そののち、矛先は日本人に対して向けられたのです。
 日本人移民に対する迫害も、すでに一八〇〇年代に始まっていました。勤勉な日本人移民が成功を収めるのを見て、アメリカ人の中には嫉妬と憎悪に燃える者も多くいました。同時に、白人のロシアを破った民族として、恐怖心をも持ったのです。
 当時の多くのアメリカ人にとって、日本人とは得体の知れないエイリアンのような存在に映りました。そして「日本人は油断ならない」「日本をつぶすべきだ」という観念が、アメリカで広まっていったのです。
 いわゆる「黄禍論」です。とくに日本人移民の多かったカリフォルニアでは、駅やトイレ、街角には「ジャップは消えろ」「ジャップを焼き殺せ」のなぐり書きが見られました。散髪屋に入ると「動物の散髪はしない」と断られ、不動産屋に入ると「日本人が住んだら地下が下がる」と断られる。
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黄禍論の台頭により、1886年、英国商船の海難事故で
乗船していた日本人が救助されずに死亡した。ノルマン
トン号船長いわく、「助けてもらいたいなら、何ドル出す?
早く言え、時は金なり」
 日本人は、B級映画、小説、漫画の格好のネタとなりました。そして、どぎつい邪悪なイメージばかりが大衆に強烈に植えつけられていったのです。また「新聞王ハースト」と呼ばれる男は、連日、何の根拠もない日本脅威論を書き立てました。ハーストは、
 「新聞の売上げを増やすためなら、国を戦争に追い込むことも辞さない」
 と言われた人物で、総人口の〇・一%しかいない日本人があたかもアメリカを征服するかのように書き、世論をあおりました。
 さらに、日露戦争直後の一九〇六年、サンフランシスコで大地震が起きたのですが、そのとき排日暴動が起き、日本人移民が暴行、略奪を受けました。
 日本からは、震災の復興のためにと、五〇万円(現在の十数億円相当)もの見舞金がアメリカに送られました。ところが感謝の言葉もないばかりか、日本人移民の子はその資金で再建された校舎には入れず、ボロ小屋のような校舎に隔離教育されたのです。
 さらにそののちアメリカは、感情的で差別心むき出しの「排日移民法」を成立させてしまいます。日本人移民の総数は、一ヶ月あたりのヨーロッパ系移民よりも少なかったにもかかわらず、日本人移民は土地所有も帰化も認められず、権利を剥奪され、新たな移民も完全にストップしました。
 この排日移民法は、日本国民の感情をいたく傷つけました。このような人種偏見の強かった当時のアメリカと、日本が、本当に満州で仲良く対等にやっていけただろうかというと、かなりの疑問が残るわけです。


日本を敵視したオレンジ計画

 このようにアメリカが、日本人を国内から締め出しても、日本はアメリカとの戦争は全く考えていませんでした。アメリカとは仲良くやっていきたかったのです。
 日本が最も脅威と感じていたのはロシアでした。アメリカではありませんでした。しかしアメリカのほうは、ロシアの脅威をまったく気にせず、ただ日本というライバル国家をつぶしたいと思っていました。アメリカは日露戦争直後の一九〇六年に、
 「オレンジ計画
 なる作戦を立案しています。いろいろな国を色別して、日本はオレンジだったのですが、これは長期的な日本制圧プランでした。日本を第一の仮想敵国とみなし、戦争準備に着手した計画だったのです。
 オレンジ計画は年々改訂され、最終的にはなんと、日本の本土を無差別に焼き払って占領することまで盛り込まれていました。これは日本人の大量虐殺を意味します。
 アメリカはそのような計画を、ヒトラーのナチス・ドイツに対しても、共産主義のソ連に対しても立てたことはありません。白人国家に対しては決して立てなかった。ただ黄色人種の日本に対してだけ立てたのです。
 この計画は、「いずれ日本を叩きつぶすぞ」という計画でした。一九四五年の大東亜戦争終結に至るまでのアメリカの行動はすべて、このオレンジ計画に基づいて遂行されたものでした。
 大東亜戦争末期に、アメリカ軍は日本の本土爆撃をなし、各都市を焼け野原として、民間人約六〇万人を虐殺しました。兵士ではない民間人を殺すことは、明確な国際法違反です。しかし、それさえもすべて、もとはといえばオレンジ計画に盛り込まれていたことなのです。
 なぜアメリカが、日露戦争直後という非常に早い段階に、日本に対してこれほど強硬な姿勢を持ったのか。当時はまだ日中戦争さえも始まっていない時代です。その根底にみえるのはやはり、
 「アジアに白人が進出するのはOKだが、黄色人種の日本が出しゃばるのは許せない
 という、アメリカの人種差別意識なのです。アジアに対するイギリスの進出はOK、ドイツも、フランスも、ロシアもOK、しかし日本はダメという対抗意識です。
 その意識が、「オレンジ計画」となってまとまりました。当時のアメリカには、
「日本人の大脳は、欧米人の灰白色より白い。原始的なままで、思考力は劣る」
 と言ってのける人類学者もいたほどです。このように、「なぜ日本なのか」ということを考えるとき、やはりその根底に人種偏見があったと言わざるを得ません。日米戦争の根深い原因が、そこにあったのです。
 オレンジ計画が作成された時から、アメリカの日本に対する執拗な嫌がらせと、挑発が始まりました。
 アメリカはまず満洲と中国への介入のために、中国の抗日運動を煽りたてます。それは日本を深く悩ませるものでした。日本政府は一九二三年の国防方針書に、
 「米国は……経済的侵略政策を遂行し、とくに支那(中国)に対するその経営施設は、悪辣な排日宣伝とともに、日本が国運をかけ幾多の犠牲を払って獲得した地位を脅かしている」(現代語訳)
 と記し、中国におけるアメリカの「悪辣な排日活動」を憂えています。のちに日中戦争が泥沼化した背景には、アメリカによる中国の抗日運動の扇動があったのです。
 アメリカは日本叩きのために、中国の混乱を利用していました。また日中戦争が始まったとき、アメリカは中立を捨て、蒋介石の軍隊へのあからさまな支援もしていきました。
 やがてアメリカは日英同盟を解消させ、日本への石油禁輸、ABCD包囲網など、日本への挑発を続けました。さらに、最終的に日本に「ハル・ノート」をつきつけ、ついに直接的な武力衝突へと誘い込んでいったのです。
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アメリカは領土を広げるたびに、星条旗の星の数を増やしてきた。
その領土獲得欲はさらにアジアに向けられ、次のターゲットは
中国だった。しかしそこに立ちはだかったのが日本だった。
 
大東亜戦争は人種戦争だった

 日米戦争、大東亜戦争とは何か。それは根本的に「人種間闘争」「人種戦争」でした。また、傲れる白人支配に終焉をもたらすための戦争でもあったのです。
 アメリカと日本の行動をもう少し詳しくみてみましょう。
 日本は第一次世界大戦後、国際連盟に「人種差別撤廃法案」を提出します。それは白人の黄色人種に対する差別に苦しんでいた日本にとって、きわめて重要な意味を持っていました。当時の日本は世界の五大国の一つであり、唯一の黄色人種の国家でした。
 日本の非常な努力の結果、この画期的な法案には、多くの国々が賛成しました。ところが、議長であったアメリカ大統領ウィルソンが発した鶴の一声、
 「この提案は全会一致でなければ可決すべきでない」
 で結局、否決されてしまったのです。国内で人種差別をしていたアメリカは、人種差別撤廃法案を断じて認めるわけにはいかなかったのです。
 このように世界で初めて「人種平等」を国際舞台の場で提唱したのが日本であり、それを力づくでつぶしたのが、アメリカやイギリスでした。
 ウィルソンは、「民族自決」を唱えた大統領として知られています。しかしそれはあくまで欧州の民族に関してだけで、アジアやアフリカの民族など眼中になかったのです。すべては白人支配の存続と、自国の利益をねらったものでした。
 アメリカとしては、黄色人種と対等につき合っていくつもりは毛頭なかったのです。日本は、このように人種偏見のうずまく欧米諸国を相手に渡り合っていかなければならなかったのです。それがどれほど大変なことだったか。
 日本は第一次世界大戦に参加した結果、ドイツ領だった南洋諸島(マリアナ諸島、マーシャル諸島、パラオ諸島、カロリン諸島など)を統治することになりました。
 そこには日本統治により、やがて学校や病院が立てられ、ミクロネシア人の半数以上が初めて実用的な読み書きができるようになりました。住民全員に予防接種も実施され、漁業、農業、鉱業、商業が振興され、製糖業も目覚ましく発展して、住民の生活水準は著しく向上しました。
 人々の多くは今も親日的で、パラオでは八割の人が名前の一部に日本名をつけています。またパラオの国旗が日の丸に似ているのも、親日感情の表れです。
 第二次世界大戦後、この地域はアメリカの統治下に移されました。しかしアメリカは、この地域を水爆の実験場程度にしか扱いませんでした。またアメリカ人が、二宮金次郎像を引きずり下ろし、南洋神社を取り壊したことは、現地の人々にとって耐え難い行為だったといいます。
 この南洋諸島は、グアム島の東隣りに位置します。グアムはアメリカ領、一方の南洋諸島は日本領です。すぐ隣り合わせでした。しかもグアムとアメリカ本土の間に、日本領が入った形です。アメリカはひそかに、この邪魔者・日本への敵意を燃やしました


共産主義に無頓着だったアメリカ

 アメリカはこのように日本に対してライバル意識を持つ一方、共産主義の拡大には全く無頓着でした。
 一九二三年〜二四年にかけて、すでに共産化していたソ連は、外蒙、および烏梁海(ウリヤンハイ 蒙古西方辺境)の地域を、卑怯な手を使って侵略し、そこを共産化してしまいました。
 このときアメリカはどうしたかというと、その恐るべき意味を理解せず、一言の批判も加えなかったのです。またアメリカは、共産主義の侵略・拡大に対し何の措置もとりませんでした。
 アメリカにとっては、それは白人同胞のしたことであって、所詮は対岸の火事にしか思えなかったからです。
 当時、共産主義の拡大の脅威を本当に認識していたのは、アジアでただひとり日本だけでした。共産主義の拡大がやがて世界とアジアを危機に陥れることを、日本は充分認識し、その拡大に対抗していたのです。
 ところが、アメリカはその日本を、ことさらに敵視し叩こうとしました。そこには、日本はアメリカの中国進出の障害だとみる利己的理由があったからです。
 世界情勢をもっと大局的にみれば、本当に障害なのは日本ではなく、むしろ、すでに始まっていた共産主義のアジア侵略でした。ソ連の共産主義者は外蒙への侵出後、甘い言葉をもってさらに中国に近づき、中国を共産化しようとねらっていたのです。
 こうした共産主義者の侵略、またアメリカの態度について、後にダグラス・マッカーサー元帥は、
 「太平洋において米国が過去百年に犯した最大の政治的過ちは、共産主義者を中国において強大にさせたことだ」(一九五一年五月、上院軍事外交委員会)
 と述べています。アメリカは世界情勢を見誤っていたのです。


中国の内戦に巻き込まれた日本

 そうこうするうちに、中国の共産主義者の謀略により、日本は中国の内戦に巻き込まれてしまいます。
 当時、中国の共産軍は、蒋介石の国民党軍に追いつめられ、風前の灯火となっていました。それで共産軍は、中国内戦に日本軍を引き込み、日本軍と国民党軍を戦わせて、その間に共産軍の建て直しを計ろうとしたのです。
 日本には、もともと中国内部に入っていくつもりなど、全くありませんでした。満州国が成長してくれれば、充分だったのです。それはソ連の脅威を防ぐ防波堤となったでしょう。
 日本は実際のところ、広大な中国の内戦にまでかまっている余裕など、ありませんでした。ましてや侵略の意志もありません。しかし度重なる中国側からの挑発、また中国側の謀略により、日本は満州国を守るため、万里の長城の内側に足を踏み入れていきました。
 日中戦争(当時は支那事変と呼ばれた)の勃発です(一九三七年)。
 日本は蒋介石の軍と戦いました。しかし、日本は何度も和平に持ち込もうと努力しました。ところが和平が成立しそうになると、必ずといっていいほどそれを邪魔する事件が起き、和平は破綻したのです。
 それらの事件の背後には、ソ連またはアメリカの手引きがありました。彼らは日中が戦うことを望み、それを誘発したのです。
 ソ連の目的は、日中戦争によって日中両国が弱体化したところをねらって、両国を共産化することにありました。一方のアメリカは、日中戦争によって日本を弱体化させ、それによって中国の巨大市場をわがものとしようとねらっていたのです。
 つまり、この日中戦争を単に「日本の軍部の暴走」だとか、「明治憲法の欠陥」「参謀本部の無能さ」などで説明することは、単なる一面の説明にすぎません。戦争の原因を日本国内のことだけで説明しようとするのは、自虐史観におとしいれるものです。
 戦争の原因は、むしろ外にありました。外から迫り来る悪意は、日本に否応なく決断を迫り、日本を巻き込んでいったのです
 このときアメリカは、日本を叩くため、蒋介石の国民党軍に対し莫大な援助をしていきました。なぜなら、蒋介石が戦ってくれるなら、アメリカは自分の血や汗を流さずに中国から日本を追い出し、中国に自分の権益を築けるからです。
 しかし、蒋介石への援助が日本叩きに効果がないことがわかると、アメリカはやがて直接対決に日本を誘い込んでいきます。


中国に幻想を抱き続けたアメリカ

 日中戦争開始は、日本にとって歴史の大きな分かれ目でした。満州国建国までは、まだ良かったのです。それはのちに、ほとんどの国が承認するところとなりましたから。
 けれども、日本が万里の長城を越え、中国内部にまで足を踏み入れたことは、アメリカの怒りを買うこととなりました。アメリカとの戦争を避けるという観点からするなら、日本は満州までにとどめておき、中国内部へは絶対に足を踏み入れるべきではなかった、との意見があります。
 日本は満州国をひとり立ちさせることだけに力を使うべきであり、日中戦争は何としても阻止すべきであったと。確かに、もしそれができたなら、確かにアメリカとの戦争も避けられたかもしれません。
 しかし当時アメリカは、日中戦争を望み、それを利用したのです。
 全く理解しがたい話ですが、アメリカ人は自国に来た中国人は徹底的に差別し排斥していながら、遠い中国大陸には、ロマンチックな幻想を抱いていました。その幻想は、一九三〇年代には、パール・バックのノーベル賞受賞作『大地』に描かれた中国人の姿への感動によって強められました。
 また当時の大流行作家ジェームズ、ヒルトンは、中国奥地に神秘的な理想郷「シャングリラ」があるという荒唐無稽(こうとうむけい)な小説『失われた地平線』を書き、これが映画化されて空前の大ヒットとなりました。
 また『タイム』『ライフ』誌を創刊、ラジオ、映画、ニュースにも大きな影響力を持ったヘンリー・ルースは、宣教師を父とし中国で育ったという個人的な思い入れから、親中・反日の報道に徹していたのです。
 彼は、蒋介石夫妻を「自由中国」の象徴と絶賛しました。中国にいるアメリカ人外交官が、いくら「現実の中国はそうでない」と説明しても、アメリカ本国の政府や国民の反応は全く違う方向を向いていました。
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毛沢東と組んで日本軍と戦った蒋介石(写真は1945年)。
アメリカ人の多くは蒋介石の正体を見誤っていた

 一方の蒋介石も、アメリカ人のこの奇妙な幻想をたくみに利用しました。蒋介石は、自分の軍がなした中国民間人虐殺を日本軍のしわざにみせかけ、その捏造写真をアメリカ国内にばらまいて、反日宣伝を繰り広げました。
 「日本の暴虐」を証拠づけるとされた有名な捏造写真の数々は、この時期に、蒋介石の国民党によって作られたものです。
 また蒋介石夫人の宗美齢は、アメリカで開かれた講演会で、「日本の暴虐」を訴えて泣いて見せました。英語はペラペラ、しかも美人、またキリスト教徒を演じる蒋介石夫人の語る言葉によって、異教徒の日本人と戦う敬虔なキリスト教徒夫妻というイメージが作られ、アメリカ世論はまんまと蒋介石の国民党支持にまわっていったのです。
 アメリカの著名人や、マスコミ、政治家はすっかり騙されました。たとえばオーウェン・ラティモアは、自分に逆らう者を機関車のボイラーで焼き殺すようなやり方をしていた蒋介石を、「真に民主的なリーダー」とまで呼んだほどです。
 蒋介石は民主的なリーダー、日本軍は暴虐な人々という観念がアメリカ人に作り上げられていったのです。一方、そのころ一般のアメリカ人の六〇%は、世界地図のどこが中国か指し示せないほど何も知りませんでした。
 また大東亜戦争開戦後のイギリスで、
 「蒋介石は、中国内外における巧みな宣伝に支えられてはいるが、その実は、腐敗した政治家たちに囲まれているファシストにすぎない
 と評されるようになっても、アメリカは騙され続けました。イギリス外務省極東部長アシュレー・クラークは、アメリカを訪れた際、
 「現実の中国についての限りない無知
 に驚愕したといいます。
 

偽書『田中上奏文』

 その頃、中国の共産主義者がつくった偽書『田中上奏文』(田中メモリアル)が出回るようになりました。これは「日本は世界征服の陰謀を企てているという内容の反日文書で、アメリカ議会でも回し読みされました。
 これが偽書であることは、当時の日本の正式な上奏文形式に合致していないことなどからも明らかです。しかし、アメリカ人の反日感情を燃え上がらせるのに、大きな効果を発揮しました。
 日本を、「美しき民主中国」を脅かす強暴な侵略者として非難する声があがったのです。田中上奏文は、その後延々と反日宣伝に使われました。結局、こうして作られたアメリカの幻想により、中国の内戦は泥沼化し、日本は抜け出せなくなってしまったのです。
 しかし、日本は中国に足を踏み入れた以上、中国の内戦を終結させ、中国を再建するために活動していきました。それは自力で内戦を終結できない中国を平定し、アジアに新秩序を建設するという、道義的介入でもあったのです。
 日中戦争が始まって約一年半後には、日本は中国の約半分を占領しました。そして中国の民衆を保護し、そこに近代的な農業や、産業、法制、教育などを持ち込み、中国再建に取り組みました。
 しかしアメリカは、本国に巨大な国土を持ちながら、本土からはるかに離れた地球の裏側の中国に経済市場を求め、日本に対して「お前は引っ込め」とばかりに干渉し続けてきました
 アメリカは、中国の蒋介石の軍隊への援助を強めました。アメリカ(そしてイギリス)は蒋介石に対し、幾つかのルートを通し、多大な軍事物資や、武器、そのほか経済的な供給をなしていました。
 もしこのアメリカなどからの莫大な援助がなかったら、重慶の山奥に逃げていた蒋介石の軍は、日本の前に降参し、講和に持ち込んでいたことでしょう。しかし莫大な援助を受けていたことにより、彼の軍は持ちこたえていきます。


ルーズベルトの幻想

 それにしても、蒋介石はなぜ日本と戦い続けたのでしょうか。蒋介石にとって本当は日本は敵ではありませんでした。彼の本当の敵は共産軍でした。
 にもかかららず、彼が日本と戦い続けた一つの理由は、もし日本と和解すれば「弱腰!」と大宣伝され、失脚させられてしまうからでした。彼はみずからの保身のために戦い続けたのです。
 もう一つの理由は、彼は日本と戦うことによって、アメリカの援助をさらに引き出し、その援助を対共産党戦のために温存することを計っていました。彼は「日本と手をにぎるぞ」と脅しをかけながら、さらなる援助を引き出していました。
 そうやって、アメリカからの援助を対共産党戦のために温存していたのです。要するに蒋介石にとって、日本との戦争は「金づる」でした。彼は権力をにぎるために、アメリカと日本を利用したのです。
 もっともその蒋介石の夢は実現しませんでした。彼は結局、共産軍に負け、台湾に逃げてしまうはめになるからです。
 しかし蒋介石の野望によって迷惑を受けたのは、アメリカと日本でした。なぜなら、両者はそののち大戦争を交えなければならないはめになったのですから。
 さて、この蒋介石を不幸にも信用していたのが、アメリカで大統領になったルーズベルトでした。ルーズベルトの特殊なアジア人観は、その後の日米関係に決定的な影響を与えています。
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フランクリン・ルーズベルト大統領。彼は徹底した反日
主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近に
はソ連のスパイがうごめいていた

 ルーズベルトは、「いつも中国人には親しみを感じている」と言っていました。なぜなら、彼の祖先が中国とのアヘン貿易で儲けたからでした。彼はまた、蒋介石を偉大な指導者と讃美し、援助を惜しみませんでした。
 その一方でルーズベルトは、日本は世界征服の陰謀を企てている悪の帝国と信じていました。彼は「田中上奏文」とほぼ同じ内容の話を学生時代に聞き、それを信じ続けていたのです。
 さらにルーズベルトは、スミソニアン博物館教授アレス・ハードリシュカに、「日本はなぜ邪悪なのか」を内々に研究させ、その結果、
 「日本人が邪悪なのは、我々よりも頭蓋骨の発達が二〇〇〇年遅れているからだ」
 というようなことを本気で信じていました
。そのために彼は、日本人を病原菌にたとえ、「日本人の根絶」を理想として抱いていたのです。
 ルーズベルトはまた、中国に対しては甘い幻想を抱き、さらに共産主義のソ連に対しても甘い幻想を抱いていました。ルーズベルトには共産主義への警戒感がほとんどなかったのです。
 そして第二次大戦中は、ソ連と同盟を組み、あの大虐殺者スターリンと仲良くしました。ルーズベルトは、スターリンの望むものをあげていれば、彼は侵略やアメリカの邪魔をしないだろうなどと言っていました。
 そのためルーズベルト政権の中枢には、ソ連のスパイ網が広がり、暗躍を続けていました。アメリカはその後、そのために悩まされることになります。
 さて、アメリカやイギリスが蒋介石の国民党軍を支援したため、日中戦争は、日本対白人の代理戦争の様相を呈しました。蒋介石は、白人の傀儡となり、戦争は泥沼化しました。


日本の息の根を止めようとしたアメリカ

 このアメリカやイギリスが蒋介石に援助物資を送っていたルートを、「援蒋(えんしょう)ルート」といいます。「援蒋ルート」の全輸送量の半分以上を占めていたのは、仏領インドシナから中国へのルートでした。
 日本はやむなく、そのルートを遮断するため、ベトナム北部に軍隊を進駐させます(一九四〇年九月)。
 この進駐は、当時のイギリスやアメリカ、ソ連がしていた軍の外国への進駐に比べ、非常に紳士的なものでした。とくにソ連のバルト三国への進駐は、侵略にほかなりませんでした。アメリカ、イギリスも不戦条約違反を犯していました。
 一方、日本のベトナム北部への進駐は、二ヶ月に及ぶ辛抱強い外交交渉の末、その地域を支配していたフランス政府からOKをもらってのことだったのです。
 ところが、このときアメリカは、自国やイギリス、ロシアなどのしたことには何もふれず、ただ日本を非難して、日本を封鎖するための「ABCD包囲網」というものを作りました。
 ABCDとは、アメリカ (America)、イギリス (Britain)、中国 (China)、オランダ (Dutch)の頭文字です。これはアメリカ主導に行なわれた日本に対する厳しい経済制裁でした。ABCD包囲網により、日本には石油や鉄をはじめ、生活必需品などが入らなくなってしまいました。
 しかし、こうしたこともすべて、先に述べた「オレンジ計画」の一環だったのです。
 今日も、アメリカはしばしば他国に対して「経済制裁」という手法をとります。最近では、イラクや北朝鮮に対する経済制裁などです。しかし、最近のアメリカは同じ経済制裁をするにしても、たいていは行き過ぎない、賢いやり方をするようになっています。
 あまりやり過ぎると、向こうが牙をむき、戦争を起こしてくるからです。けれども、ABCD包囲網という経済制裁は、まさに日本に「死ね」と言うほどのキツイものでした
 ですからこの経済制裁は、戦争を誘発するものだとして、ルーズベルト大統領の前のフーバー大統領は決して行なわなかったのです。しかしルーズベルトは、この経済制裁に踏み切りました。
 貿易に依存するしか生きていく方法のない日本は、まさに窮地に立たされました。さらに、一九四一年にアメリカは日本人の在米資産を凍結し、また日本に対する石油の全面禁輸を実施しました。
 石油が入らなければ、車も走らず、飛行機も飛ばず、工場も動きません。日本の産業は停止してしまいます。石油の備蓄をわずかしか持たない日本にとって、これは死活問題でした。
 これほどキツイことをすれば、日本は戦争を決意するだろうということは、もちろんアメリカにもわかっていました。しかしアメリカは、それを望んでいたのです。
 以前私は、イスラエルに住むユダヤ人歴史家のアビグドール・シャハン博士が来日したとき、彼を連れて日本の神社を案内したことがあります。そのとき彼はしみじみと、こう言いました。
 「多くの人は、日米戦争は日本軍の真珠湾攻撃によって突然始まったと思っているが、そうではない。その前に、アメリカが日本に対してしてきた悪辣な事柄の数々を知らなければ、なぜ日米戦争が始まったか理解できない」
 まさにそうなのです。日米戦争は、真珠湾以前から始まっていました。
 それでも、日本はこのときもまだ、米国との関係修復のために最後の努力を積んでいました。日本は、野村駐米大使と来栖(くるす)臨時大使を派遣し、交渉に当たらせたのです。彼らは、日米首脳会談を強く申し入れました。
 日本側は、ABCD包囲網を解いてくれるなら、中国大陸からの撤兵も考慮するとの案を用意していました。そして中国でのアメリカに対する門戸開放、機会均等も約束すると。これはちゃんと記録にもあることです。日本側は大きな妥協の条件も用意していたのです。
 しかし、当時のルーズベルト大統領は、話し合いの場に出てきませんでした。
 もし両者が誠心誠意、交渉のテーブルについて話し合ったなら、日米戦争は回避されたに違いありません。ところが、アメリカ側はこのとき、のらりくらりするばかりで、交渉の要求にも、示した条件にも返答しなかったのです。
 そしてやがて一九四一年一一月二六日、アメリカのハル国務長官は野村大使と来栖大使を呼び出し、突如、あの悪名高い「ハル・ノート」という一方的な対日要求を通告してきました。
 これが、日本に真珠湾攻撃を決意させるものとなったのです。

小沢氏出馬の真相!


ある方のブログによると、、、、、、、、、、、、、、、

この方も別のブログよりの情報を引用した掲載と言う事ですが、

真偽は、?


ここから、以下転載です!


AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA

『マスコミに出ない政治経済裏話』 ブログ さんの解説によると、



〜〜〜〜〜〜〜〜〜以下引用



米国対日工作担当者マイケル・ジョナサン・グリーンが原子力潜水艦で八丈島に行ったことを、ルース大使は知らなかった。

このことが本国のディビッド・ロックフェラーに知られるとマイケル・ジョナン・グリーンは失脚を免れない。

昨日、テレビで放送されたことで、失脚する可能性が大となった。最悪の場合、暗殺される。
 菅首相は、マイケル・ジョナサン・グリーンが失脚すると、ディビッド・ロックフェラーの後ろ盾がなくなり、シティグループに関係の深い仙谷や、マイケル・ジョナサン・グリーンと密接な関係にある前原誠司の立場が弱くなるとみて、早々と手を切り、小沢、鳩山、菅のトロイカ体制に戻り、ずっと民主党にいたいと考えている。(36計逃げるが勝ちの「逃げ菅」得意の戦法) だがしかし、、、、、、、、、、、、、、、、、、

~〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜続けて引用




◆鳩山由紀夫前首相が25日、菅首相に提示した「菅首相続投、強力内閣・役員人事案」に仙谷由人官房長官が強く難色を示して抵抗したため、99%実現すると思われた人事作業が土壇場でオジャンとなり、菅首相と小沢前幹事長が激突することになった。
 鳩山前首相が提示したのは24日夜、ホテルニューオータニ6階ダイニングバーの個室で小沢前幹事長と約3時間会談し、「菅首相続投、強力内閣・役員人事案」として作成したものだった。「菅首相、小沢幹事長」を軸に、連立する予定のたちあがれ日本の与謝野馨共同代表、みんなの党の渡辺喜美代表代表、新党改革の舛添要一代表、国民新党の亀井静香代表らが入閣する強力政権の布陣であったという。小沢前幹事長は、公明党との連立も考えているので、この人事案に公明党の幹部名が入っていた可能性があるが、不明である。一方、このなかに岡田克也外相、前原誠司国土交通相の名前はあったのに対して、「脱小沢」の急先鋒・仙谷官房長官と枝野幸男幹事長の名前はなかった。
 枝野幸男のはともかく、仙谷官房長官が外されたのは、単に「脱小沢」の急先鋒であるというのが原因だったわけではない。仙谷由人官房長官の公設第2秘書・矢野清城氏に問題があった。矢野清城氏は公明党の矢野絢也元委員長の長男である。2009年11月に第2公設秘書に登録されているが、それ以前は、矢野元委員長の長男を伏せて私設秘書として務めていたという。
◆矢野元委員長はこれまで公明党の支持母体・創価学会と訴訟事件を抱えて、「仏敵」と呼ばれており、公明党との連立を模索してきた小沢前幹事長にとっては、矢野元委員長の長男を公設秘書にしている仙谷官房長官を閣僚のまま温存しておくのはなんとしても都合が悪い。小沢前幹事長が2月26日夜に公明党の支持母体である創価学会前会長の秋谷栄之助・最高指導会議議長と東京都内 のホテルで密かに会談したのは、仙谷官房長官を牽制する目的があったとも見られていた。
 なにより英国ロスチャイルド-ローマ法王庁(バチカン)-創価学会が連携して、小沢救済に当たり、ディビッド・ロックフェラーやブッシュ前大統領側から放たれる刺客によるテロを未然に防ぐため、欧州から小沢一郎前幹事長護衛組織が日本に向けて続々送り込まれつつあると言われてきた緊迫した状況の下で、小沢前幹事長の目には、仙谷官房長官は極めて危険な存在に映っているのである。
◆それでも、仙谷官房長官は「菅首相続投、強力内閣・役員人事案」を一目見た瞬間、不快感を示しながらも、そこは告示までに何回か折衝を繰り返していけば、閣内に残れるものと考えていた。ところが、案に相違して、人事案を持ってきた鳩山前首相は、一発で認めて受け入れるよう要求した。思惑が外れた仙谷官房長官が、暴力団や総会屋を弁護して鍛えてきた経験から、ヤクザまがいの凄みのある恐ろしい形相で「とても飲めるような人事案ではない」と猛烈に反発した。菅首相は、仙谷官房長官を切ることもできず、鳩山前首相の仲介は、この瞬間に失敗したという。
 マスメディアは、菅首相側が「脱小沢」の旗を降ろして「挙党体制」を築こうとしなかったことが原因で、鳩山前首相の仲介が失敗に終わったと報道しているけれど、実際は、菅首相が反創価学会側の仙谷官房長官を外す、つまりは本音では切りたいのに「仙谷切り」ができなかったためというのが、真相のようである。
◆せっかく鳩山前首相と小沢前幹事長が、苦心の末に「菅首相続投、強力内閣・役員人事案」により、強力布陣を築こうとしたにもかかわらず、菅首相が仙谷官房長官を切れなかった裏には、何があるのか。「菅首相は仙谷官房長官に尻尾を握られている」という見方が、永田町界隈で取りざたされている。いずれはっきりしてくることであろう。いずれにしても、菅首相と小沢前幹事長が死闘を続け、両陣営がスキャンダル合戦を華々しく展開しているうちに、噴出してくることが予想される。楽しみである。

AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA

「南京大虐殺」は 捏造(ねつぞう)だった!

 「南京大虐殺」は
捏造(ねつぞう)だった

この証拠を見よ。
日本兵による犯罪は少数あったが、「大虐殺」はなかった。


「南京大虐殺」とは?
 
 1937年12月、日本軍は支那事変を終結させるため、南京へ侵攻。12月13日にそこを占領しました。いわゆる「南京大虐殺」とは、その占領から約6週間の間に数十万人単位の人間(市民や捕虜)が日本軍によって南京で虐殺されたとする説です。中国共産党が公式に述べてきたものとしては、その数30万人。中国にある南京大虐殺記念館の外壁には、大きな文字で「300,000」の数が、犠牲者数として掲げられています。
 この「南京大虐殺」は、日本でも戦後、共産党員や共産主義シンパなどを中心に広められ、そののち多くの人々を巻き込み、教科書にまで書かれ、日本人の「自虐史観」の根底に置かれてきました。しかし今日では、このような30万人もの大虐殺は実際にはなかったことが、多くの証拠によって明らかになっています。
 日本兵たちによるある程度の犯罪はありました。しかし、それはどこの国の軍隊にもある程度のものであり、むしろ南京での日本軍の活動をみてみると、非常に人道的なもののほうが多く目につきます。
 日本軍が南京を占領したとき、中国兵の多くは軍服を脱ぎ捨て、民間人に化けて南京の安全区に逃げ込みました。そのため日本軍は、掃討作戦を行なわなければなりませんでした。日本軍は彼らを見つけだしたとき、武器を隠し持っているなど特に反抗的な不法戦闘員数千名を処刑しました。国際法では、こうした不法戦闘員は「捕虜」としての扱いを受けることができず、処刑されても致し方ないとされているからです。こうした不法戦闘員の処刑が、誤って「捕虜の虐殺」と伝えられた面があります。
 また安全区に逃げ込んだ中国兵の中には、日本軍になかなか捕まらず、民間人に化けて安全区内で強姦や、略奪、殺人などを行ない、それを日本兵のしわざに見せかけたり、あるいは被害者を脅迫して「日本兵が犯人」と言わせるなど、反日工作を繰り返していた者たちがいました。こうした反日工作により、あたかも日本兵が残虐の数々を繰り返していたかのように伝えられた面があります。
 そうした事情はありますが、いわゆる「南京大虐殺」はなかったのです。以下、その証拠をみてみましょう。
 
南京に戻ってきた住民

 南京市の人口は、日本軍の南京への攻撃開始前に約20万人でした。20万人しかいない所で、どうやって30万人を殺せるでしょう。しかも日本軍の南京占領後、南京市民の多くは平和が回復した南京に戻ってきて、1ヶ月後に人口は約25万人に増えているのです。もし「虐殺」があったのなら、人々が戻ってきたりするでしょうか。
 日本軍の南京への攻撃開始の約1週間前の1937年11月28日に、警察庁長官・王固磐は、南京で開かれた記者会見において、「ここ南京には今なお20万人が住んでいる」と発表しています。そののち日本軍は12月13日に南京を占領しました。それから5日後、12月18日には、南京国際委員会(南京の住民が集まっていた安全区を管轄する委員会)が人口「20万人」と発表しています。また12月21日には、南京外国人会が「南京の20万市民」に言及、さらに南京陥落から1ヶ月後の1月14日には、国際委員会が人口「25万人」に増えたと公表しているのです。
 住民が戻ってきました。上智大学の渡部昇一教授によると、南京陥落から1ヶ月後に日本軍が約「25万人」の住民に食糧を配ったとの記録も残っています。

南京入城に際し、新聞記者たちも同行

 南京が日本軍によって陥落したとき、日本軍兵士たちとともに、多くの新聞記者やカメラマンが共に南京市内に入りました。その総勢は100人以上。また日本人記者たちだけでなく、ロイターやAPなど、欧米の記者たちもいました。しかし、その中の誰一人として「30万人の大虐殺」を報じていません。
 アメリカのパラマウント・ニュースも、南京占領の記録映画をつくっていますが、その中に「30万人大虐殺」は報じられていません。また当時、中国で「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」というイギリス系の英字新聞が発行されていましたが、たとえば1937年12月24日(南京陥落の11日後)の紙面をみると、日本軍が南京市民に食糧などを配って市民が喜んでいる光景が、写真入りで報道されています。これが一体「大虐殺」のあったという都市の光景でしょうか。
 また南京で実際にどのようなことがあったか、日本の当時の新聞を閲覧してみても、よくわかります。そこには、日本兵が武器も携帯せずに南京市民から買い物をする姿、南京市民と歓談する光景、日の丸の腕章をつけて微笑む南京市民の姿などが、写真入りで解説されています。また、平和回復を知って南京に戻ってくる住民、中国の負傷兵を手当する日本の衛生兵たち、再び農地を耕し始めた農民たち、そのほか多くの写真が記事と共に掲載されています。
 それは平和が戻り、再び以前の生活を取り戻し始めた南京市民と、日本兵たちの心と心の交流の姿なのです。当時、報道は「検閲」の下に置かれていたとはいっても、これらは到底「大虐殺」があったという都市の光景ではありません。

蒋介石は一度も「南京大虐殺」に言及せず

 中国国民党の総統・蒋介石は、もともと南京にいた人です。しかし彼は、日本軍が攻めてきたことを知ると、南京の防衛はさっさと部下にまかせて、南京を出てしまいました。そののち終戦に至るまで、蒋介石は中国人民向けに何百回ものラジオ演説を行なっています。ところが、その中で彼はただの一度も、「南京で大虐殺があった」等のことは言っていません。もし大虐殺があったのなら、これは非常に不自然なことです。蒋介石の認識の中にも「南京大虐殺」はなかったのです。

日本軍によって殺された民間人はわずかだった

 日本軍の司令官・松井石根(まつい・いわね)大将は、南京攻略を前に、「決して民間人を殺してはならない」と全軍に厳しく命じていました。
 そして、南京攻略戦の最中、南京にとどまった市民たちは皆、南京城壁内に特別に設定された「安全区」の中に避難していました。南京にいた外国人たちもみな、安全区に避難していました。日本軍は、その安全区内にも中国兵が多くいることを知っていましたが、安全区を攻撃することはしませんでした。
 そのため、たまたま流れ弾に当たって数人が死傷したものの、そうした事故を除けば、安全区の住人は全員無事でした。実際、南京占領後、安全区のリーダーであったドイツ人、ジョン・ラーベは、「日本軍が安全区を攻撃しなかったことを深く感謝いたします」との感謝状を松井大将に手渡しています。
 また攻略戦終了後、日本軍の監督・指揮のもとで、「紅卍会」という南京の中国人団体が、死んだ中国兵の埋葬作業を行ないました。彼らは埋葬した人々のリストを残していますが、その中に女性や子供の遺体はほとんど含まれていません。これは、民間人の犠牲者がほとんどいなかったことを示しています。
 また南京安全区の安全と秩序の維持のために、南京攻略戦の前から、南京に住む欧米人らは「南京国際委員会」というものを作っていました。彼らは、日本軍による南京占領後に南京で起きた犯罪事件をまとめ、被害届として日本軍に提出しました。それは、南京で見聞きした日本兵による犯罪(強姦、略奪、殺人)等を記録したもので、日本軍に取締りを求める内容でした。
 その被害届には、日本兵によるとされる犯罪が425件記されています。その大部分は伝聞にすぎず、資料的な問題はありますが、たとえすべてを事実と仮定しても、そのうち殺人事件はわずか49件にすぎません。つまり、どうみても「大虐殺」などなかったのです。
 しかも、その49件のうち、国際委員会の委員が直接目撃したものはわずか2件でした。あとはみな伝聞です。また、その2件のうち1件は、ジョン・マギー牧師が目撃したものですが、日本兵が、軍服を脱いで民間人に扮している中国兵を探している中、不審な者を見つけて身元を尋ねたとき、急に逃げ出したので撃ち殺したというものでした。しかし、これは国際法上、合法的なものです。
 もう1件のほうも、合法的なものでした。つまり国際委員会の委員は誰も、南京において違法な殺人を目撃していないのです。ましてや大虐殺を目撃していません。
 また南京が陥落したとき、多くの中国兵は軍服を脱ぎ捨てて、民間人になりすまして安全区内に逃げ込みました。そのため、日本軍は彼らを見つけだすために掃討作戦を行なわなければなりませんでした。
 兵士は帽子をかぶっているので、額の上部に日焼け跡がなく、その帽子の跡で兵士とわかります。また兵士は、手をみると、度重なる銃の発射でタコができています。それに兵士は、南京市内に家族がいません。そうしたことなどで日本軍は兵士と市民を区別し、兵士を発見すると、逮捕しました。
 その際、誤認逮捕が皆無であったとは言えないかもしれません。しかし、たとえ誤認逮捕があったとしても、その数はわずかだったと言えるでしょう。
 このように南京攻略戦の最中、およびその後にかけて、日本軍によって殺された民間人の数は、ごくわずかしかいなかったのです。

岡村寧次大将の記録は?

 一方、虐殺肯定派の人々は、しばしば岡村寧次(おかむら・やすじ)大将が書いた次の文章を、しばしば引用します。
 「上海に上陸して、一、二日の間に、このことに関して先遣の宮崎周一参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、杭州特務機関長萩原中佐等から聴取したところを総合すれば次のとおりであった。
1)南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。
1)第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある」(『岡村寧次大将資料』)
 しかし、岡村大将はこの報告を上海で聞きました。彼自身は南京へ行っていません。先に述べたように、南京にいた国際委員会の人々は、日本兵らによる暴行として425件の事件を報告しています。その大部分は伝聞であり、すべてを事実とはとれないのですが、たとえすべてを事実と仮定しても暴行事件は425件にすぎず、「数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行」という岡村大将の記述は、間違ったうわさに過ぎなかったことが明らかです。また「給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある」という記述も、後述するように、南京においては事実ではありませんでした。

軍服を脱ぎ捨て民間人に化けた中国兵たち

 捕虜の虐殺はあったか、という問題について見てみましょう。
 この問題をみるために、まず、中国兵とはどんな兵士たちだったか、についてみてみたいと思います。中国兵は、じつは国際法感覚のほとんどない兵士たちでした。
 多くの日本兵たちが「軍服を着ていない中国兵」たちを目撃しています。
 たとえば橋本以行(はしもと・もちつら)氏は、南京攻略戦の最中、揚子江岸で見た中国兵たちについて、「小銃や機銃を大事に携行していても、正規兵の服装をした者は一人も見当たらない」(証言による『南京戦史』10、130頁)と語っています。また彼ら揚子江岸の中国兵らは、降伏勧告にも応えず、戦闘を続けたので、日本軍は攻撃を続行。中国兵はジャンク舟に乗って逃げようともしましたが、多くは溺死し、遺体は下流の揚子江岸にうち上げられました。
 その写真が残っていますが、この写真がのちに虐殺肯定派の人々によって「南京大虐殺の証拠写真」として使われました。しかしそれは戦死体だったのです。
 また南京の城壁内で、ニューヨーク・タイムズのティルマン・ダーディン記者は、「軍服を一斉に脱ぎ捨てる中国兵たち」に出くわしています。
 「私は一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃したが、それは滑稽といってよいほどの光景であった。多くの兵士は下関へ向かって進む途中で軍服を脱いだ。小路に走りこんで便衣(民間人の普通の服)に着替えてくる者もあった。中には素っ裸になって一般市民の衣服をはぎ取っている兵士もいた」(ニューヨーク・タイムズ 1937年12月22日付)
 また南京陥落後、南京城壁内へ入った日本兵たちもみな、この「脱ぎ捨てられた中国兵の軍服」が街路の至るところに散乱しているのを目撃しています。彼ら中国兵は、民間人になりすますために、軍服を脱ぎ捨て、民間人の服に着替えたのです。民間人の服を盗む者もいれば、民間人を撃ち殺して衣服をはぎ取る者も多くいました(南京のジェームズ・エスピー副領事の報告)。
 このように軍服を脱ぎ捨てて民間人に扮した中国兵が死んだとき、その死体は、死体だけを見た者には「民間人の虐殺死体」に見えたでしょう。ですから、こうした中国兵の行動は、日本軍の側に多くの誤解を生じさせる元となったのです。
 もう少し中国兵の行動をみてみましょう。
 日本軍が南京に達する以前に、蒋介石は、すでに早々と南京から脱出していました。また南京防衛をまかされた唐生智将軍も、敗北色濃くなったとき、敵前逃亡して南京から出てしまいました。残された中国兵らには混乱が走りましたが、敗戦が決定的となったとき、中国兵らには3つの選択肢がありました。
 一つは、降伏することです。降伏すれば「捕虜」として扱われることになります。
 二つ目は、南京から逃げ出すことです。そのとき、日本軍に殺されるかもしれません。また中国には、「督戦隊」というものがありました。これは戦いを督促する中国人部隊で、背後にいて、戦場から逃げ出す中国兵を見つけると撃ち殺す兵士たちなのです。逃げる中国兵を撃ち殺す中国兵です。そんな非人間的な部隊が、中国にはありました。ですから、南京から逃げ出そうものなら、彼らに撃ち殺されるかもしれません。
 実際に、中国督戦隊に撃ち殺された中国兵たちが多くいました。ダーディン記者は、南京城壁の北側の門において、高さ1メートル半にも積み重なって小山を形成していた中国兵の死体を目撃しています。これは日本軍が殺した中国兵ではなく、中国督戦隊に殺された中国兵だったのです。なぜならダーディン記者は戦後、こう語っています。
 「これは、この門から脱出しようとした中国兵の死骸です。中国兵はあちらこちらで城壁によじのぼり、脱出を試みました。これらの死体の山は、日本軍がここを占領する前にできたように思うのです。この地域で(日本軍の)戦闘はありませんでした」(1987年8月14日のインタビュー、質問者は笠原十九司、伊原陽子。『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』P571 青木書店)
 つまり、それは中国督戦隊によって殺された中国兵らの死骸だったのです。
 そして中国兵に残された三つ目の道は、軍服を脱ぎ捨て、民間人に扮して、安全区の中に身を隠すことでした。少なからぬ兵士たちがこの道を選びました。
 そのため日本軍は、南京占領後、この民間人に扮した中国兵たちの掃討作戦を行ないました。そして次々に摘発しましたが、武器を隠し持っているなど危険な中国兵たちは、発見されると、処刑されました。市街戦の準備とみなされたのです。その数は数千人に達しました。
 問題は、これが国際法上、合法か否かです。しかし、こうした不法な戦闘員の処刑はどこの国でも慣習的に行なわれていたことであり、また「ハーグ陸戦法規」(1907年)にも定められていたことで、明らかに合法的でした。つまり、兵士は明確に兵士とわかるよう軍服を着用しなければならず、また武器は隠さず公然と携帯しなければならないのです。
 その法規を守らなければ、捕らえられても「捕虜」としての保護は受けられません。法を守らない者は、法の保護を受けられないのです。彼らは「不法戦闘員」として扱われ、処刑されても仕方ないというのが国際法上の理解でした。こうした点で、数千人の「不法戦闘員」の処刑は、「捕虜の処刑」でも「捕虜の虐殺」でもなく、合法的なものだったのです。

捕虜は虐殺されなかった

 一方、虐殺肯定派がよく引用するものに、第16師団長・中島今朝吾(なかじま・けさご)の日記があります。とくに12月13日に捕虜にした7000〜8000人の中国兵についての次の記述です。
 「この7000〜8000人、これを片づけるには相当大きな壕がいるが、なかなか見当たらない。一案として100人、200人などに分割してのち、適当な箇所に誘って処理する予定だ」(現代文に修正)
 つまり、この大量の捕虜を殺害して壕に埋めてしまおう、という処理予定を考えたともとれる内容です。当時はたしかに、ただでさえ食糧の調達など大変でしたから、このような大量の捕虜を一体どうしたらいいのか、ということは確かに大問題でした。それで、中にはこうした考えを持つ者もいたようです。
 けれども、中島日記をみても、彼ら捕虜を実際に殺害したという記述はありません。また当時の日本軍の記録をみると、この7000〜8000人の捕虜は結局殺害されず、捕虜収容所に送られたことがわかるのです。当時の膨大な資料の集大成である『南京戦史』(偕行社)は、様々な資料を引用し、こう結論しています。
 「これらを総合すると、堯化門(仙鶴門鎮)付近の捕虜約七千二百名を中央刑務所(第一監獄所)に護送し収容したことは明らかである」(P324)
 また資料によれば、当時南京の捕虜収容所は、これら7200人の捕虜を含む、計1万人ほどの捕虜を受け入れたとなっています。彼らの多くは、そののち釈放され、故郷に帰されました。あるいは苦力(クーリー)として労役に雇われた者も多く、また後に上海の捕虜収容所に移送された者もいました。
 さらに、そのうち約2000名は、のちに汪兆銘の親日政権の南京政府軍に編入されました。その中に、劉啓雄(りゅう・けいゆう)少将もいました。彼は南京安全区に潜んでいたところを摘発され、しばらく苦力として使われていましたが、1940年に南京に成立した汪兆銘政府において和平救国軍の軍長となった人です。
 また中島今朝吾・師団長の言葉の中に「大体捕虜はせぬ方針なれば」というのがあったことが、よく指摘されます。実際、大量の捕虜をかかえこむことは大変なだけですから、捕虜は少ないほうがいいわけですが、「捕虜はせぬ方針」について、大西 一 参謀はこう述べています。
 「それは、銃器を取りあげ釈放せい、ということです。中国兵は全国各地から集っていますが、自分の国ですから歩いて帰れます」 (「正論」61.5 阿羅健一著「日本人の見た南京陥落」)
 さらに大西参謀は軍命令、師団命令で捕虜殺害命令など絶対に出ていない、と断言しています。資料をみても、捕虜殺害の記録はありません。また支那事変当時の日本の新聞にも、釈放されて故郷に帰る中国兵たちが荷物を持ち、ニコニコ顔で写真におさまっている姿などが載っています。

虐殺はなかったとする証言

 当時の南京を実際に知る多くの人々は、南京で「虐殺はなかった」と証言しています。
 たとえば、南京の日本大使館で働いていた外交官補の福田篤泰(ふくだ・とくやす)氏は、日本軍による南京占領の当時を振り返って、こう語っています。「日本軍に悪いところがあったことも事実である。しかし20万、30万の虐殺はおろか千単位の虐殺も絶対にない。……いわば衆人環視の中である。そんなこと(虐殺)などしたら、それこそ大問題だ。絶対にウソである。宣伝謀略である」(田中正明『南京虐殺の虚構』35-37頁)

 日本軍と共に南京に入った東京日日新聞の金沢喜雄カメラマンは、こう語っています。「私は南京をやたら歩いていますが、虐殺を見たことがなければ、兵隊から聞いたこともありません。虐殺があったなんて、あり得ないことです。死体はたくさん見ています。敗残兵がたくさんいましたし、戦争だから撃ち殺したり、殺して川に流したことはあるでしょう。しかしそれは、南京へ行く途中、クリークで何度も見ている死体と同じですよ」(阿羅健一『「南京事件」日本人48人の証言』p.42)

 東京日日新聞の佐藤振寿カメラマンも、こう語っています。「虐殺は見ていません。12月16、7日頃になると、小さい通りだけでなく、大通りにも店が出てました。また多くの中国人が日の丸の腕章をつけて日本兵のところに集ってましたから、とても残虐行為があったとは信じられません」(同p.53)

 福岡日日新聞の三苫(みとま)幹之介記者には、お嬢さんが一人おり、南京には家族で赴任していたので、お嬢さんは1年生から5年生まで南京の日本人小学校に通っていました。彼女に南京大虐殺のことを来てみると、こういう答えでした。「そんな話は全然聞いたことがありません。あちらでは近所の支那人の子供ともよく遊びましたが、彼らからもそのような噂すら聞きませんでした」(同p.138-141)

 歩兵第13連隊(熊本)第4中隊のU中尉はこう語っています。「抗州湾上陸以来、私は(中国の)女たちが、墨や油や泥を顔や手足に塗り、ことさらに臭気を放つようなボロをまとって、わが軍の入城を迎えるのを知っております。彼女らは、なるべく醜悪に見えるように努めていました。……日本の兵隊は支那の軍閥の兵隊とは全然素質が違うのだ、ということが了解できると、それから徐々に生地を出し始める。黒い顔が白くなり、汚い服がきれいな服に変わるのであります。南京の難民地区でも、私はやはりそうした女の移り変わる姿を見ることができました」(東中野修道『1937南京攻略戦の真実』p.124)

 南京攻略戦に参加した野砲兵第22連隊長・三国直福大佐は、こう証言しています。「昭和13年8月にまた南京に戻ってきました。この時も虐殺があったという話は聞いていません。もう日本人の商人もたくさん来ていました。南京の街は朗らかでした。町の人とも親しく話しましたが、その時も、中国人からそんな話(虐殺)を聞いた記憶はありませんでした」

 第十軍参謀・谷田勇(たにだ・いさむ)大佐は、こう証言しています。「(昭和13年11月以降、私が担当していた課は、支那復興のため)南京での経済指導を行なうので、寸暇もないほど多忙であった。したがって課長以下、日中官民と接触して、これを理解し、かつ中支那の風物に親炙(しんしゃ)する機会がはななだ多くなっていった。この時、中国官民と親交を重ねたが、たとえ酒食の席においても南京虐殺に関する話を聞くことはなかった」

日本兵による悪事の証言の信憑性

 ところで、日本兵たちの犯した犯罪について、虐殺肯定派がしばしば引用するのが、松岡 環著『南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて』です。この本には、日本兵が中国で犯してきたという数々の非道な行ないが、102名の元・兵士の証言の形で書かれています。しかしこの本に関し、亜細亜大学の東中野修道教授はこう批判しています。
 「百二名の兵士はみな『匿名』『仮名』なのである。……誰が証言内容に責任を持つのか。証言内容が真実かどうか第三者的に検証できないようでは、客観的報道、客観的記録とは言いがたい。……百歩譲って『証言』が事実だとしても、彼らの多くは憲兵の目を逃れて軍紀違反の違法行為を繰り返しながら処罰を免れてきた悪運強き戦争犯罪人でしかなかったことを明らかにしただけなのである」(『諸君』平成十四年十一月号)。
 また歩兵第33連隊第5中隊の第1小隊長だった市川治平氏は、この本をこう評しています。
 「本当にばかばかしい本です。私のところに聞き取りには来ませんでしたが、元気な2人の戦友に尋ねたら、2人にも来なかったと言っています。まともな話をする人には行かないようです。確かに予備役には悪い事をする人もいましたが、この本をざっと読んだところ、強姦などの話は、創作8割、本当2割でしょう」(「正論」平成14(2002)年11月号 阿羅健一著「南京戦・元兵士102人の証言」のデタラメさ)
 また、アイリス・チャン著『ザ・レイプ・オブ・南京』にも引用されている田所耕三という人物は、南京陥落後約10日間にわたって、殺人と強姦を行ったと述べています(『アサヒ芸能』昭和四十六年一月二十八日号)。ところが、竹本忠雄教授(筑波大学)、大原康男教授(国学院大学)によれば、彼の所属する部隊は陥落2日後の12月15日には南京から転進していて、この人物が10日間も南京に残留したはずがありません。実際彼自身、のちに取材に応じて「記者が何かおもしろいことはないかと聞いてきたので、あることないことを喋ったんだ」と、この発言自体の信憑性を否定しています。
 また曽根一夫という人物は「手記」を出版し、そのなかで南京戦と南京陥落後の虐殺事件の実行と、目撃談を書いている(『続・私記南京虐殺』など)。しかし、この人物は手記のなかで自らを歩兵の分隊長と称しているが、実際は砲兵の初年兵でした。また、入城式には彼の属する部隊の一部が参加しただけで、部隊そのものは南京城内に入ってもいません。従って、彼が書いているような虐殺を南京やその近郊で見ることも実行することも不可能であったのです。南京戦中、行動をともにした戦友もそうした虐殺行為を目撃・実行することはあり得ないと証言しています。つまり、曽根の「手記」そのものがまったくの創作だったのです。

市民・捕虜と日本兵の交流・温情

 南京を占領した日本兵たちの、市民や捕虜に対する態度は実際はどのようなものだったのでしょうか。以下は彼らの証言です。

「敵の大軍は、わが軍のために完全に撃破されました。見れば、幾十となく敵の死体がころがっております。中にはまだ虫の息でうねっておる者さえおります。これを見られた隊長が、『苦しいか、今、薬をやるぞ』と何かやられますと、一兵士は目を開けて、『水、水』と、かすれた声で哀願しました。誰かが水を飲ませてやりますと、両手を合わせ涙をたたえ、『謝、謝』(シェーシェー)と伏し拝みました。……今までにわが中隊では幾十人となく、敵兵を救い、郷里に帰してやりました。その中には中隊のために骨身を惜しまず、弾丸下もものともせず、じつに勇敢によく働いた者もたくさんあります。そして彼らが郷里に送り帰される時は、別れを惜しんで泣いて別れるのでした」(歩兵第47連隊:大分 第2中隊 伍長S・S)(『1937南京攻略戦の真実p.165)

「(南京への途上)露営のとき、私は道路の警戒を命ぜられました。特に監視すべき方向はこの方向と道路上をさすと、指したところに忽然と姑娘が現われて、窈窕(ようちょう)たる姿態が楚々(そそ)として、この方に来るじゃありませんか。誰だって面食らいます。……『日本の兵隊さんね』、流暢な日本語なんです。年の頃27、8、聞いてみると、上海から逃げてきたけれど、皆殺されたり、はぐれたりして、これは支那軍のほうにいると危ないと思い、やってきたという。
 『日本語はどこで覚えた』と聞くと、『長崎に4年、活水女学校を卒業して、上海の日本人書店に雇われていた』と言います。……いろいろ調べられるけれども、くさいところは無いらしい。ちょうど中隊に通訳がいなくて何かと不自由していたこととて、通訳代わりに使うことにしましたが、炊事をさせると日本人の味の好みを心得て、乙なところをみせる。所帯慣れしているから、兵隊に程良く愛嬌を振りまく。皆で大切にしたものです。
 ときには宵待草(よいまちぐさ)や、荒城の月を聞かせてくれました。毎日の行軍も宿営も楽しみでした。……しかし、南京へ南京への猛追撃に、我々に伍して行けるはずがない。中隊長殿が見かねて上海の方へ帰されたが、その日の行軍のけだるいこと、道の遠いこと、足の重いこと、皆考え込んでしまっていました。
 『おい、きついなあ』『うん』。返事も上っすべり。誰かが思い出し風に、『変なこと言いっこなしよ、皆兄弟じゃないか』と彼女の口真似をすれば、とたんに爆笑がわいたものです」(歩兵第13連隊:熊本 第11中隊 歩兵曹長K・S)(同p.190-192)

「私が洗面していると、前にきて頭をぴょこんと下げ、『兵隊さん、おやよう』とはっきりした日本語で、支那人から挨拶されました。不審に思ってよく聞くと、『大阪に18年間いました』という。……(彼の相談に乗ってあげると)彼は一時間ばかりして喜んで戻ってきました。そして言うことには、『家族も安心しました。長男が27歳になっていますが、長男も日本語が上手に話せます。皆の者に「日本軍が来たからもう安心しておれ」と、言ってきました』と、いかにも落ち着いたものです。齢は50歳くらいでしたが、達者な男で、南京攻撃、安慶上陸から漢口攻略まで、1年3ヶ月の間、日本軍のため忠実につとめ、大きな功績を残して行きました」(第2野戦病院 T・Y)(同)

 都新聞の小池秋羊記者は、こう述べています。「食糧がなく飢餓状態で、食糧をくれ、とわれわれにすがりつく人もいました。私たちの宿舎には発見された米が何俵もありましたので、難民区のリーダーを宿舎に連れていき、米や副食品などを大八車二台分やりました」

 南京の病院で勤務していたアメリカ人、ジェームズ・マッカラム医師は1937年12月29日の日記にこう書いています。「(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。若干のたいへん愉快な日本兵がいました。私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました」(東京裁判 速記録210) 
 さらに、こう書いています。「12月31日、今日私は民衆の群が該地帯から中山路を横断して集まるのを目撃しました。あとで彼らは、行政院調査部から日本軍の手によって配分された米を携帯して帰って来ました」。「日本人の善行を一つ報告しなければならない。とても気持ちのよい日本人が最近病院にやってきた。彼らに患者の食料の不足を告げたところ、きょう、百斤の豆と牛肉を持ってきてくれた。この一ヵ月というもの肉は食べられなかったので、この贈り物は大歓迎だ。他に欲しいものはないかと言ってくれた」(『南京事件資料集[1]アメリカ関係資料編』p263)

 また南京戦により、12月13日の南京陥落からしばらくは、南京市街は水道も電気もとまり、夜は真っ暗といった状態でした。しかし翌年1月元旦から南京全市に、電燈がともり、水道がよみがえりました。1938年1月3日付の朝日新聞によると、電気については日本人技術将校以下80名と中国人電工70名の協力、また水道も同様に150名の編成で、不眠不休で取り組んだ結果であるといいます。また1月3日には、多くの南京市民が日の丸と中国の五色旗を振り、市街で「南京自治政府」(リーダーは中国人)の発足を祝っています。

南京大虐殺と南京事件を区別すべき

 以上みてきたように、南京での「30万人大虐殺」はなかったのです。20万、あるいは千単位の虐殺もありません。
 とはいえ、南京で強姦、略奪、暴行、殺人などの非道な犯罪がなかったわけではありません。いや、実際のところ、かなりありました。その中には、日本兵たちが実際に犯した犯罪も少数あります。
 けれども、一方では、じつは民間人の服を着て南京安全区に逃げ込んでいた中国兵たちが犯した事件も非常に多かったのです。彼らは事件の加害者が日本兵だったと見せかけたり、被害者を脅迫して、加害者は日本兵だったと言わせたりしました。それで加害者が日本兵だったと思い込んだ人々(国際委員会の欧米人など)は、日本軍の残虐を声高に叫んだのです。これが、のちに大きく膨らんで、「南京大虐殺」というウソへと発展していきました。
 もし、こうした中国兵や日本兵らが南京で犯した強姦や略奪等を「南京事件」と呼ぶとすれば、たしかに「南京事件」はありました。そうした意味で、当サイトでは「南京大虐殺」と「南京事件」を区別しています。
 つぎに、この「南京事件」の真相について詳しく見てみましょう。

中国兵らによる悪事の数々

 南京戦に参加した日本兵らの証言によれば、南京をはじめその周囲で悪事を積み重ねていたのは、日本兵ではなく、むしろ中国兵のほうでした。中国軍がどんな性質のものだったかについて、南京に向かっていたある日本兵はこう記しています。

「(通りかかった)この町には、かつて蒋介石の大軍がたむろしていたのですが、空陸一体の皇軍の進撃に、敵はもろくも敗退したのです。城内の住民は食糧は申すまでもなく、家財道具もことごとく支那軍のために強奪され、男はみな壕掘りに、連日連夜酷使されたということでした。このような国の民こそ全く可哀相でなりません」(歩兵第47連隊:大分 第1大隊第2中隊 歩兵伍長 H・G)(『1937南京攻略戦の真実』p.200)

 また梶村 止(かじむら・いたる)少尉は、南京戦に参加したのち、南京から上海方面に移動しました。1938(昭和13)年1月15日の彼の日記によると、上海付近に駐屯していたとき、近くの村人が中国兵に襲われ、梶村少尉の隊に救いを求めてきました。しかし村人に案内され、梶村少尉一行30余名が現場に急行したときは、敵の40〜50名が逃走したあとでした。梶村少尉はこう記しています。「自国の兵隊の悪事を、自国民の敵軍に報告。討伐を願うという矛盾が、とりもなおさず支那軍隊がいかなるものであるか、この一時にて判断できる」。また梶村少尉らが村を立ち去るとき、村人らは「非常に名残を惜しんでくれた」と書いています。(同p.188)

 アメリカのティルマン・ダーディン記者は、南京で日本軍を迎え撃つ中国軍の様子を、こう書いています。「中国軍による焼き払いの狂宴(12月7日以降)…南京へ向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。村ぐるみ焼き払われたのである。中山陵園内の兵舎・邸宅や、近代化学戦学校、農業研究実験室、警察学校、その他多数の施設が灰塵に帰した。…この中国軍による焼き払いによる物質的損害を計算すれば、優に2000万ドルから3000万ドルにのぼった。これは、南京攻略に先立って何ヶ月間も行われた日本軍の空襲による損害よりも大きい」(ニューヨークタイムズ)。

 南京のアメリカ領事館の副領事ジェームズ・エスピーが行なった報告にも、南京陥落時の中国兵の行動について書かれています。「中国兵自身も略奪と無縁ではなかった。……日本軍入城前の最後の数日間には、疑いもなく彼ら自身の手によって、市民と財産に対する侵犯が行われた。気も狂わんばかりになった中国兵が、軍服を脱ぎ棄て市民の着物に着替えようとした際には、事件もたくさん起こし、市民の服欲しさに、殺人まで行った」(エスピー報告)

 福岡日日新聞の三苫(みとま)幹之介記者は、南京に入ったのち、安全区にいる中国人夫妻にインタビューを行ない、記事にしました。以下はその抜粋です。
「記者 日本軍がやって来たとき、君たちはどこに何をしていたか。
 黄  私たち夫婦は、国際委員会で設定された南京城内西北の山西路からズッと入った難民区にいました。……中央軍の支那兵が銃創を持って夜となく昼となく代わる代わるやって来て難民を検察し、食糧や物品を強奪し、お金と見れば一銭でも二銭でも巻き上げていきました。最も恐がられたのは拉夫、拉婦(拉致されること)で、独身の男は労役に使うため盛んに拉致されていき、夜は姑娘が拉致されていきました。中央軍の支那兵の横暴は全く眼に余るものがありました」

日本兵の犯罪は少数あった

 つぎに、日本兵が南京で犯した犯罪について見てみましょう。
 南京攻略戦を指揮した松井石根大将は、南京陥落から5日後の12月18日、全軍と共に慰霊祭を執り行いました。それは日中双方の戦死者を弔うものでした。慰霊祭において松井大将は、一同の顔を眺めまわしたのち、異例の訓示を始めたのです。
 「諸君は、戦勝によって皇威を輝かした。しかるに、一部の兵の暴行によって、せっかくの皇威を汚してしまった。何ということを君たちはしてくれたのか! 君たちのしたことは、皇軍としてあるまじきことだった。諸君は、今日より以後は、あくまで軍規を厳正に保ち、絶対に無辜(むこ)の民を虐げてはならない。それ以外に戦没者への供養はないことを心に止めてもらいたい」(前田雄二『戦争の流れの中に』p。122-124)
 大将のやせた顔は苦痛で歪められていたといいます。松井大将は、戦争が始まる前は直接、蒋介石にも会い、「日中合同して大きな強いアジアを造ろう」と呼びかけるなど、平和のために尽力し、中国を愛した人でした。南京を攻略する前にも、日本兵たちに厳正に軍規を守るよう通達した人でした。
 にもかかわらず、南京陥落後、市民に対する「一部の兵の暴行」があったのです。松井大将は憲兵隊から報告を受け、それを深く嘆きました。この「暴行」とは強姦か略奪等の犯罪だったとも言われています。ただし決して、のちに言われたような「大虐殺」ではありません。なぜなら、松井大将はのちに東京裁判においてこう証言しているからです。
 「南京占領に関する周到な配慮にもかかわらず、占領当時の倥惚たる情勢において一部若年将兵の間に、忌むべき暴行を行なった者があったようである。これは私のはなはだ遺憾とするところである。……憲兵隊長よりこれを聞き、各部隊に命じて即時、厳格なる調査と処罰をなさしめた。……私は南京陥落後、昭和13年2月まで上海に在任したが、その間、昭和12年12月下旬に南京でただ若干の不法事件ありとの噂を関知しただけで、何らそのような事柄に関し公的な報告を受けたことはなく、当法廷において検事側の主張するような大規模な虐殺・暴行事件に関しては、1945年終戦後、東京における米軍の放送により、初めてこれを聞き知ったにすぎない。……検事側の主張するような計画的または集団的な虐殺を行なった事実は断じてない」(口述書1947年11月24日。現代文に修正)
 つまり松井大将は、南京占領当時、一部の若年将兵の間に、暴行事件、犯罪があったことを認めたものの、東京裁判で主張されたような「大規模な虐殺・暴行事件」は否定しました。
 では、日本軍の間に、いったいどの程度の犯罪があったのでしょうか。詳しくはのちに述べますが、実際はある程度の犯罪はあったものの、当時のロシア軍や中国軍が占領地で犯してきた数々の犯罪に比べるなら、はるかに少数のものでした。また、アメリカ軍兵士が太平洋戦争中に占領地等で犯してきた犯罪と大差ない、という意見もあります。
 しかしそれでも、南京攻略は世界の注視する中の出来事でした。それゆえ厳正に軍規を守ることが求められていた時のことで、松井大将にとっては、一部将兵の犯した事件は彼を深く悲しませたのです。
 つぎに、南京の安全区に隠れていた中国兵たちが犯した犯罪を見てみましょう。

安全区に隠れた中国兵らの反日攪乱工作

 1938年1月4日付のニューヨーク・タイムズ紙は、こう報じています。

 「南京の金陵女子大学に、避難民救助委員会の外国人委員として残留しているアメリカ人教授たちは、逃亡中の大佐一名とその部下の将校六名がそこでかくまわれていたことを発見し、心底から当惑した。実のところ教授たちは、この大佐を避難民キャンプで二番目に権力ある地位につけていたのである。
 この将校たちは、支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、それから女子大の建物に住んでいて発見された。彼らは大学の建物の中に、ライフル六丁とピストル五丁、砲台からはずした機関銃一丁に、弾薬をも隠していたが、それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのものであると自白した。
 この元将校たちは、南京で掠奪したことと、ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には犯人は日本兵だと言いふらしていたことを、アメリカ人たちや他の外国人たちのいる前で自白した」(東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』p.275)

 このように、安全区に逃げ込んだ中国将兵らはアメリカ人教授らのもとでかくまわれ、しかもそのうち中国人大佐は、避難民キャンプで二番目に権力ある地位を与えられていたという。彼らは南京で、略奪や、少女たちの強姦などを行ない、それを日本兵がやったと、うそぶいていたのです。この教授たちとは、マイナー・ベイツ、ルイス・スマイス、ミニー・ヴォートリン、ロバート・ウィルソンらです。これはもちろん、安全区の中立を定めた日本軍との協定への違反でした。それまで教授たちは、南京での非道な行ないのすべてについて、日本軍を非難してきたのです。しかしそれら非道な行ないの多くが、じつは教授たちのもとでかくまわれていた中国兵たちのしわざだったのです。
 『チャイナ・プレス』1938年1月25日付も、こう報じています。

 「その報告書の主張するところによれば、彼らのなかには南京平和防衛軍司令官王信労(音訳)がいた。彼は陳弥(音訳)と名乗って、国際避難民地帯の第四部門のグループを指揮していた。……また、前第八十八師の副師長・馬中将や、南京警察の高官・密信喜(音訳)もいると言われている。馬中将は、安全区内で反日攪乱行為の煽動を続けていたと言われる。また、安全区には黄安(音訳)大尉のほか十七人が、機関銃一丁、ライフル十七丁を持ってかくまわれ、王信労と三人の元部下は掠奪、煽動、強姦にたずさわったという」(東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』p.277)

 このように、安全区に逃げ込んだ中国兵らは、「掠奪、煽動、強姦」にたずさわり、それを「反日攪乱行為」として行なっていました。すなわち、それらの犯罪を積み重ねたうえ、それらを「日本兵がやった」ように見せかける、あるいは被害者を脅して「加害者は日本兵だ」と言わせていたということです。ここに「煽動」と訳されている言葉は、原文では「intimidating」(脅迫。おどして事を行なわせる)なのです。

隠れていた大勢の中国兵ら

 いったいどれほどの中国兵が安全区内に隠れ、こうした反日攪乱行為を繰り返していたのでしょうか。ニューヨークタイムズ1937年12月17日付には、こう報道されています。

 「昨日、南京の日本軍司令部(が発表したところによると、今もなお)…市内には、軍服を捨て、武器を隠し、平服を着た兵士2万5000人がいると信じられている」(南京事件資料集・アメリカ関係資料編p.415 青木書店)

 つまり、この時点でなお非常に多数の中国兵が、民間人の服を着て隠れていると考えられていました。全員でないとしても彼らの多くは、安全区内で「掠奪、脅迫、強姦」にたずさわり、それを日本兵がやったようにし、反日攪乱行為を続けていたのです。小林よしのり氏もベストセラー『戦争論』の中で、「南京の安全区に二万人の国民党ゲリラが入り込み、日本兵に化けて略奪・強盗・強姦・放火を繰り返し、これをすべて日本軍のしわざに見せかけていた」と書いています。
 また、大阪朝日新聞1938年2月17日付はこう報道しています。

 「皇軍の名を騙り 南京で掠奪暴行 不逞支那人一味捕る 【同盟南京二月十六日発】
 皇軍の南京入城以来、わが将兵が種々の暴行を行なつているとの事実無根の誣説(ぶせつ)が一部外国に伝わっているので、在南京憲兵隊ではその出所を究明すべく苦心探査中のところ、このほど漸くその根源を突き止めることが出来た。
 右は、皇軍の名を騙って掠奪暴行至らざるなき悪事を南京の避難地域で働いていた憎むべき支那人一味であるが、憲兵隊の活躍で一網打尽に逮捕された。
 この不逞(ふてい)極まる支那人は、かつて京城(現在の韓国ソウル)において洋服仕立を営業、日本語に巧みな呉堯邦(二十八才)以下十一名で、皇軍入城後日本人を装ひ、わが通訳の腕章を偽造してこれをつけ、…三ヶ所を根城に、皇軍の目を眩ましては南京区内に跳梁し、強盗の被害は総額五万元、暴行にいたつては無数で、襲はれた無辜(むこ)の支那人らは、いずれも一味を日本人と信じきつていたため、発覚が遅れたものであるが、憲兵隊の山本政雄軍曹、村辺繁一通訳の活躍で検挙を見たものである」

 このように、日本語を話し、日本人通訳の腕章を偽造するなどして、暴行を繰り返していた中国兵らもいました。
 これらについては、マルクス主義歴史学者として知られる笠原一九司(かさはら・とくし)教授(宇都宮大学)でさえも、「(安全区に逃げ込んだ中国兵にとっては)日本軍をおびやかすだけでは不十分であった。…『強姦、略奪、その他の暴行をすべて日本軍のしわざとする』という散発的な抵抗が存在した」と述べています。(Nanking Atrocities)
 松井大将自身も、東京裁判においてこう証言しました。「戦時における支那兵、および一部の不逞(ふてい)の民衆が、戦乱に乗じて常習的に暴行略奪を行なうことは周知の事実である。南京陥落当時の暴行・略奪においても、支那軍民が犯したものもまた少なくなかった。これを全部、日本軍将兵の責任に帰せようとするのは、事実をゆがめることである」(口述文 現代文に修正)

南京国際委員会が提出した被害届は、
ほとんど中国人からの伝聞

 南京に住む欧米人らがつくっていた「南京国際委員会」は、南京の日本大使館に対し、日本兵が犯したとする強姦、略奪、殺人等の暴行事件を「被害届」として幾度にもわたって報告し、改善を求めました。それら事件の総数は、1938年2月までに計425件にのぼりました。その内容はたとえば、
「事例5: 12月14日の夜、日本兵らは家々に押し入り、女性をレイプし、連れ去った。その地域はパニックになったため、何百人もの女性たちは昨日、金陵大学内に避難してきた」
「事例10: 12月15日夜、多くの日本兵たちが桃園の南京大学のビルに入り、30人ほどの女性たちを強姦した」
 こういった事例が延々と続くものです。この被害届は、私たちに何を語っているでしょうか。
 まず、たとえこれら425件の内容がすべて真実と仮定してみても、そのうち殺人事件は49件にすぎません。もし事実「30万人大虐殺」が南京であったのなら、これは非常におかしなことです。南京国際委員会の被害届をみる限り、30万人大虐殺はおろか、1万人、1000人虐殺もなかったことになります。
 また、殺人事件49件のうち、国際委員会のメンバー自身が目撃したものは、たった2件にすぎませんでした。そしてそれら2件は両方とも、先に述べたように合法的なものだったのです。他のものはすべて中国人から聞いた伝聞でした。
 強姦事件についてはどうでしょうか。竹本忠雄、大原康男・両教授はこう述べています。   
 「委員会が記録した『被害届』に記された強姦事件(未遂を含む)は何件か。集計すると合計で361件である。しかも誰が事件の目撃者であったのか、誰が誰に聞いて記録したのか、記録者のある事例は僅かに61件であった。この内、日本兵がやったという確証があり、真相究明ないしは逮捕のために日本軍に通報された件数は僅かに7件であった。……なお、日本軍に通報があった7件については、『シカゴ・デイリーニューズ』(1938年2月9日)に報道されているとおり、日本軍は犯人を厳しく罰している。処罰は厳しく、部隊から不満の声が漏れたほどであった」(再審「南京大虐殺」世界に訴える日本の冤罪)
 南京における日本大使館に勤務していた外交官補佐の福田篤泰(ふくだとくやす)氏も、彼が見た国際委員会の状況について、こう証言しています。
 「当時、ぼくは役目がら、毎日のように外人が組織した国際委員会の事務所へ出かけた。出かけてみると、中国の青年が次から次へと駆け込んでくる。『いまどこどこで日本の兵隊が15、6の女の子を輪姦している』。あるいは『太平路何号で日本軍が集団で押し入り物を奪っている』等々。
 その訴えをマギー神父(牧師)とか、フイッチなど、3、4人が、ぼくの目の前でどんどんタイプしているのだ。『ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずにそれをタイプして抗議されても困る』と幾度も注意した。
 時には、彼らをつれて強姦や掠奪の現場に駆けつけて見ると、何もない。住んでいる者もいない。そんな形跡もない。そういうことも幾度かあった。…テインパリーの例の『中国における日本軍の暴虐』の原資料は、フイッチかマギーかが現場を見ずにタイプして上海に送稿した報告があらかただ、と僕は思っている」(国際委員会の日本軍犯罪統計)
 このように南京国際委員会が作成した被害届は、ほとんどが中国人から聞いたことを、検証もせずに、ただ書き連ねたものにすぎなかったのです。

ジョン・ラーベのリポート

 この南京国際委員会の長は、ドイツ人のジョン・ラーベという人でした。
 彼もまた日記などに、日本軍が犯したという残虐や暴行を数多く記しています。それはどの程度信用できるものでしょうか。たとえば彼は、
 「民間人の死体はいたるところに見られた。その死体には、私が調べたところ、背中に撃たれた傷があった。逃げるところを背後から撃たれたらしい」(1937年12月13日の日記)
 と記しています。しかし、先に述べたように中国兵の多くは逃げる際に、軍服を脱ぎ捨てて民間人の服に着替えており、これらの死体は実際には民間人ではなく、中国兵でした。彼らは逃走する際に、日本兵、あるいは中国の督戦隊に殺されています。ところが、このラーベの記述は、そうした事情を無視しています。
 またラーベは、同じ日に、
 「日本兵たちは、市内をめぐり、10〜20人程度のグループに分かれて店々や家々を手当たり次第、略奪してまわった。これは私の両目が目撃したものである」
 と記しています。組織的な略奪のように書いているわけですが、竹本忠雄、大原康男・両教授はこう書いています。
 「入城した日本軍は、まず宿舎の確保に苦労し、宿舎に充てた建物の設備補充のため、将校の指示のもとに無人となつた建物から家具やフトン等を持ち出した。それらを『徴発』した際には、代償を支払う旨の証明書を添付したが、そうした事情を遠巻きに見ていた外国人や中国人は理解せず、日本軍が組織的に掠奪をしていると誤認した可能性がある」(再審「南京大虐殺」世界に訴える日本の冤罪)
 この「徴発」とは、戦闘によって疎開した後の人家で、食糧や必要物資の調達を行なうことで、日本軍はそれを行なった場合には、つねに代価を支払ってきました。南京でもそれが行なわれた、ということです。つまりラーベが「日本兵らによる略奪」と思ったのは誤解なのです。
 また、ラーベはドイツ人ですが、当時のドイツは、蒋介石率いる中国国民党と結びつきが強く、党に顧問を派遣していました。当時(1937年)はまだ、日独伊三国同盟の締結前であり、ドイツは中国国民党と深い関係にあったのです。ラーベ自身、国民党の顧問でした。
 ラーベは、ドイツ・ジーメンス社の南京支局長でもあり、ドイツが国民党に売った高射砲、その他の武器取引で莫大な利益を得ていました。ラーベは武器商人なのです。そのためラーベは、当時、ドイツが国民党との取引をやめて日本に接近することを恐れていました。彼の収入源が断たれるからです。こうしたラーベにとって、日本の悪口だけを言うことはごく自然な成り行きだったのです。
 実際、東中野修道教授によれば、ラーベは12月12日以来、2人の中国人の大佐をひそかにかくまっていました。大佐たちは、南京安全区内で反日攪乱工作を行なっていたのです。これはラーベが日本軍との間に交わした協定に明らかに違反する行為でした。また彼の1938年2月22日の日記にも、彼がもう一人別の中国人将校をかくまっていたことが記されています。
 このようにラーベは、中国人将校らによる反日攪乱工作を手伝っていました。
 松井大将の元・私設秘書だった田中正明氏は、このラーベが書いた報告書や日記には数多くの矛盾点があると批判し、こう述べています。

 「12月9日、松井軍司令官は休戦を命じ、城内の唐生智軍に『降伏勧告のビラ』を空から全市にばら撒いて講和を呼びかけている。その間攻撃を中止して、10日正午まで待機した。…しかるにラーベの12月9日の日記には、『中華門から砲声と機関銃の射撃音が聞こえ、安全区内に響いている。明かりが消され、暗闇の中を負傷者が足を引きずるようにして歩いているのが見える』。全然「降伏勧告のビラ」も休戦のことも触れておらず、戦闘は続いていたことになっている。…
 ラーベの日記には『局部に竹を突っ込まれた女の人の死体をそこら中で見かける。吐き気がして息苦しくなる。70を越えた人さえ何度も暴行されているのだ』とあるが、強姦のあと『局部に竹を突っ込む』などという風習は、支那にあっても、日本には絶対ない。…
 金陵大学病院医師マッカラム氏は、『(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。若干のたいへん愉快な日本兵がいました。私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました』と、東京裁判に提出した日記の中に書いている。…ところがラーベ日記には、安全区内に毎日のように火事と強姦が続いたという“地獄絵”が描かれている。一体どちらが本当なのか?…
 ヒトラーがジョン・ラーベの原稿に信をおかず、彼を逆に入獄せしめた理由が、私にはわかるような気がする」(講談社刊『南京の真実』は真実ではない!)

 このようにラーベの報告や日記は、内容が非常に偏っており、誤解と偏見と、また、何とか日本の残虐を訴えてドイツと日本の同盟を阻止したいという思惑とが、混ざり合ったものでした。そのためその内容は、軍服を脱ぎ捨てた中国兵たちや、督戦隊に殺された中国兵たち、また安全区に隠れた中国兵らによる犯罪などの事実には一切ふれず、ただ日本軍の暴行だけを書き記すものとなったのです。
 実際、日本軍による南京占領の翌月、1月9日に南京に戻ったドイツ大使館のシャルフェンベルク事務長は、自分の目で実情を確かめた上で、「ラーベが語る日本軍の暴行事件」について、2月10日付で漢口のドイツ大使館にこう書き送りました。
 「ラーベは最近、日本兵による血なまぐさい事件をまたぶり返し、それを阻止すべく、あいかわらず奔走している。だが私の意見では、ドイツ人はそんなことを気にとめるべきではない。なぜなら南京の中国人らが日本人に頼り、仲良くなっていることは、見れば明らかなことだ。第一、暴行事件といっても、すべて中国人から一方的に話を開いているだけではないか」(再審「南京大虐殺」世界に訴える日本の冤罪)
 ラーベは、表向きは暴行事件の被害者の救済などに奔走し、中立を装うなどしていました。それでアイリス・チャン(南京大虐殺に関する本の著者)の本などでは、シンドラーに比すことのできる善人であると、持ち上げられています。
 しかしその実をみれば、ラーベは中国人将校たちをかくまって反日攪乱工作を手伝い、また自身の虚偽のリポートを通しても、自分なりの反日攪乱工作を続けていたのです。
 こうした人物が南京国際委員会の長だったわけですから、彼の姿勢は委員会の他のメンバーたちにも当然、深く影響していました。委員会の他のメンバーたちが残した日記その他の記録が同様なものとなったのは、そうした成り行きだったのです。

強姦事件の真相

 つぎに、南京国際委員会のメンバーが残した南京における強姦事件の記録について、もう少しみてみましょう。
 ラーベは1937年12月17日の日記に、「昨晩、1000人近くの女性、少女が強姦されたと言われている。金陵女子大学の学生だけでも100人が強姦された」と書きました。また金陵女子大の教授ミニー・ヴォートリン女史はその日、「ああ神よ、野獣のような日本兵らの蛮行を止めてください」と書いています。ジェームズ・マッカラム医師も、12月19日の日記にこう書きました。
 「これほどの残虐は、聞いたことがなく、読んだこともない。強姦! 強姦! 強姦! 我々の見積もりによれば、一晩に1000人が強姦され、そうしたことが毎日ある。反抗すれば銃剣で刺されるか、撃ち殺されるだろう。…人々はヒステリックになっている。女性たちは毎朝、毎日、毎夜、連れ去られる。日本兵たちは、気のおもむくまま出入りし、好き勝手に行動しているようだ」
 しかし、これらの強姦事件は、実際にラーベ、ヴォートリンやマッカラムが自分の目で目撃したことかというと、そうではありません。『言われている』「見積もりによれば」とか「〜しているようだ」と書かれていることからもわかるように、いずれも伝聞なのです。犯人が「日本兵だった」、というのも伝聞です。委員会のメンバーたちが記した強姦事件は、ほとんどが中国人から聞いたものでした。
 そしてこれらの日記が記されてから約2週間後、南京で強姦を繰り返していた中国兵らが、日本の憲兵によって逮捕されます。アメリカ人教授たちのもとでかくまわれ、避難民キャンプで2番目の地位を与えられていたこの中国兵らは、強姦を犯しては、「犯人は日本兵だ!」と言いふらしていました。ニューヨーク・タイムズが報じたように、彼らが逮捕され、それを自白したとき、アメリカ人教授らは「心底から当惑した」のです。
 また大阪朝日新聞が報じたように、2月になると、「日本語に巧みで・・・日本人を装い・・・通訳の腕章を偽造してこれをつけていた」中国兵らが逮捕されました。彼らも、日本人になりすましては強姦等、暴行を繰り返していました。そして彼らが逮捕されてのち、強姦事件等はほとんど見られなくなりました。
 このように、南京の西洋人らが非難した「日本軍の暴行」の多くは、じつは民間人の服を着て隠れていた中国兵によるのしわざだったのです。実際、マッカラムの1938年1月8日の日記にこんな記述があります。マッカラムは、ある中国人避難民が、
「強姦や略奪、放火などは日本兵がやったのではなく、中国兵がやった。それを証明できる」
 と言うのを聞いた、と書いているのです。安全区にいた避難民たちの中には、そこで起きていた強姦や、略奪、その他の事件の多くは、じつは中国兵らによる反日撹乱行為であることを知っている者たちもいたわけです。
 しかし、詳しい検証もせず、うわさをそのまま信じ込んでいたのが、委員会のメンバーたちでした。彼らはそのために、南京には「日本兵の暴行があふれている」と思い込んでいたのです。これについて竹本忠雄、大原康男・両教授も、こう書いています。
 「安全区に設けられた19カ所の難民収容所の責任者は、婦女子ばかり4000名を収容した金陵女子文理学院をミニ・ヴォートリン女史が務めたほかは、すべて中国人であった。当然のことながら、この難民収容所の治安維持は中国人たちが担当したが、その責任者を何と、市民に偽装した中国軍将校が担当しているケースもあった。そして強姦事件の多くは、安全区委員会が設置した『難民収容所』で起こっており、『難民収容所』が解散した1938年2月以降、そうした強姦事件は起こっていない。難民収容所の責任者たちが主張した『日本軍兵士の犯罪』を額面通り受け取ることは、きわめて危険だと言えよう」(再審「南京大虐殺」世界に訴える日本の冤罪)
 両教授はこうも書いています。
 「そもそも当時の南京には、女性は安全区にしかいなかった。そして日本軍司令部は、安全区に集中している外国権益を保護し、安全区委員会メンバーとの無用の摩擦を避けるため、また、多数の中国軍兵士が潜伏していて危険であるとの判断から、日本軍兵士に対し安全区への立ち入りを禁止した上、要所に見張りまで立てた。このため日本兵は勝手に安全区には入れなかったし、危険を侵してまで入ろうとする兵士もいなかった」(同)
 先に見たように、南京で起こった強姦事件のうち7件は、実際に日本兵が犯したものであり、犯人は処罰されています。また他に、日本軍が調査していたものも数件あり、計10件程度ありました。あるいは、知られていないものも含めるとすれば、多くて数十件程度の日本兵による犯罪があったと考えられるでしょう。
 しかし他の大部分は、隠れていた中国兵らによる犯行だったと言ってよいのです。また委員会メンバーの記述には、憶測、誇張、デマ、誤解等も少なからず含まれていました。

マギー・フィルムの真相

 日本軍による南京占領の期間中、その光景をアメリカ聖公会の牧師ジョン・マギーは、8ミリフィルムに残していました。そのフィルムは、のちに日本の残虐性を表すものとして、虐殺肯定派の間でよく使われました。
 しかし、実際にその映画を見ても、明らかに虐殺されたとわかる死体は一つも映っていません。字幕は「日本軍の暴行」等とつけられているものの、日本兵が捕虜を処刑しているシーンも、何千もの死体シーンもなく、映っているのは、ほとんどが生きている人々ばかりです。
 またマギーは東京裁判で、「あちこちで殺人が行なわれていた」と証言したものの、「あなた自身が目撃したものはありますか」と聞かれて、「一つだけあります」と答えました。しかし、それは日本兵が、民間人に化けた中国兵の掃討作戦をしているとき、不審な中国人をみて身元を尋ねると急に逃げ出したので、撃ったというものでした。これは合法的なものです。彼は非合法の殺人を一件も見ていません。つまりマギーは、30万人虐殺も、4万〜5万人虐殺も見ていないのです。
 またマギー自身が目撃したものとして、ほかに強姦事件が一つ、盗みが一つありました。あとはみな伝聞でした。この「強姦事件」というのも、日本兵がある中国人男性の妻のもとへやって来たのを目撃したというものですが、マギー自身は強姦現場を見たわけではありません。その日本兵は、その中国人妻かその夫に不審な点を見出し、問いただそうとやって来たのかもしれません。また「盗み」というのも、ある日本兵が中国人の家からアイスボックスを持って出るのを目撃したというものです。このようにマギー自身は南京陥落の前も後も市内にずっといたのに、「日本兵による大規模な残虐行為」は一つも目撃していないのです。
 もっとも、マギーが記した「南京市内で起きたむごたらしい一家惨殺事件」は有名です。彼のフィルムにも、その事件でかろうじて生き残ったという少女の姿が映っています。ところが、この惨殺事件には大きな矛盾点があります。事件は次のようなものでした。

「12月13日、約30人の兵士が、南京の南東部にある新路口五番地の中国人の家にやってきて、なかに入れろと要求した。戸は、馬というイスラム教徒の家主によって開けられた。兵士はただちにかれを拳銃で撃ち殺し、馬が死んだ後、兵士の前に跪いて他の者を殺さないように懇願した夏氏を撃ち殺した。馬夫人がどうして夫を殺したのか問うと、かれらは彼女も撃ち殺した。
 夏夫人は、1歳になる自分の赤ん坊と客広間のテーブルの下に隠れていたが、そこから引きずり出された。彼女は、一人か、あるいは複数の男によって着衣を剥がされ強姦された後、胸を銃剣で刺され、膣に瓶を押し込まれた。赤ん坊は銃剣で刺殺された。何人かの兵士が隣の部屋に踏み込むと、そこには夏夫人の76歳と74歳になる両親と、16歳と14歳になる二人の娘がいた。かれらが少女を強姦しようとしたので、祖母は彼女たちを守ろうとした。兵士は祖母を拳銃で撃ち殺した。
 妻の死体にしがみついた祖父も殺された。二人の少女は服を脱がされ、年上の方が二、三人に、年下の方が三人に強姦された。その後、年上の少女は刺殺され、膣に杖が押し込まれた。年下の少女も銃剣で突かれたが、姉と母に加えられたようなひどい仕打ちは免れた。さらに兵士たちは、部屋にいたもう一人の7〜8歳になる妹を銃剣で刺した。この家で最後の殺人の犠牲者は、4歳と2歳になる馬氏の二人の子どもであった。
 年上の方は銃剣で刺され、年下の方は刀で頭を切り裂かれた。傷を負った8歳の少女は、母の死体が横たわる隣の部屋まで這って行った。彼女は、逃げて無事だった4歳の妹と14日間そこに居続けた。二人の子どもは、ふやけた米と、米を炊いたとき鍋についたコゲを食べて暮らした。…兵士たちは毎日やってきて、家から物を持って行ったが、二人の子どもは古シーツの下に隠れていたので発見されなかった」

 この恐ろしい事件について、マギーは、この「30人の兵士」は日本兵であったと考えていたようです。しかし結論からいうと、この兵士たちは、日本兵ではありません。
 なぜなら、まず、マギーはこの話を「(生き残った)8歳の子から部分部分を聞き出し、いくつか細かな点で近所の人や親戚の話と照合し、修正した」と書いています。つまり、これは伝聞であるだけでなく、さらに他者の話をも合わせて「修正」された話です。
 さらに、東中野教授によれば、12月8日以降、南京市民は中国軍によって全員「安全区」内に強制的に集められていました。ところがこの一家は、安全区の外側にいました。マギーは事件の日付を12月13日と書いていますが、この日は日本軍の安全区外への砲撃が強く、日本軍が市内に入ってくる日ですから、その日に安全区外にいることは最も危険なことです。にもかかわらず彼らが安全区外にいた、ということは、この事件は実際には12月13日に起きた事件ではないと考えられ、本当は12月8日以前あるいは13日以前に、中国兵たちによって起こされた事件と考えられるわけです。
 さらに、「膣に瓶を押し込む」「膣に杖を押し込む」などといった殺し方は、まさに中国式です。中国には昔から、そういうむごたらしい殺し方をする風習がありました。日本兵はそんな殺し方はしません。このように、どうみてもこれは中国兵たちの犯行なのです。

マイナー・ベイツの虚偽報告

 マイナー・ベイツは、南京国際委員会においてリーダー的存在となっていました。彼は、東京裁判における主要な証言者です。「日本の残虐」を世界に広めた中心的人物といっていいでしょう。ベイツは、戦後の東京裁判で、
 「日本軍侵入後、何日ものあいた私の家の近所の路で、射殺された民間人の屍体がゴロゴロして居りました」
 と証言しています。ところが、これらは真っ赤なウソでした。
 なぜなら、「東京日日新聞」の若梅、村上両特派員は、占領2日後の12月15日、大学の舎宅にベイツ教授を訪れ、インタビューを行なっています。その時ベイツ教授は、上機嫌で2人を迎え、「秩序ある日本軍の入城で南京に平和が早くも訪れたのは何よりです」といって両記者に握手しています(東京日日新聞 昭和12(1937)年12月26日)
 さらにそのとき両特派員は、「家の近所の路で射殺された民間人の屍体がゴロゴロしている」というような光景は見ていません。12月13日に南京城内に入った第6師団の歩兵第13および47連隊の日本兵たちも、
 「(南京城内では)敵兵はもとより住民の姿さえほとんど見なかった」
 と証言しています。同じ日、南京城内に入った都新聞の小池秋羊記者も、
 「城内はどの家も空き家で、物音一つしませんでした。犬、ネコの姿一つ見受けられず……」
 と証言しているのです(南京事件p.144)。誰も、「路にゴロゴロ横たわった民間人の屍体」など見ていません。
 一方、南京の安全区に逃げ込んだ中国兵を掃討する作戦を担当した第7連隊の兵士たちも、連隊に発せられた命令は、「市民を殺すな。皇軍の名を汚してはならない」であったと証言しています。彼らは、「民間人に危害を及ぼさないよう非常な注意を払った」と述べています。
 またベイツと同様、南京安全区内で日々を過ごした同盟通信の特派員・前田雄二氏も、ベイツの言ったような虐殺死体の存在を否定して、こう述べています。
 「いわゆる“南京大虐殺”というのは、2、30万人という数は別にしても、主として住民婦女子を虐殺したものだ。ところが殺されなければならない住民婦女子は(全部)「難民区」内にあって、日本の警備司令部によって保護されていた。そして私の所属していた同盟通信社の旧支局はこの中にあり、入城4日目には私たち全員はこの支局に居を移し、ここに寝泊まりして取材活動をしていた。すなわち難民区内が私たちの生活圏で、すでに商店が店を開き、日常生活を回復していた。住民居住区の情報はちくいち私たちの耳目に入っていたのだ。
 こういう中で、万はおろか、千あるいは百をもって数えるほどの虐殺がおこなわれるなど、あり得るはずはなかった。すなわち『捕虜の処刑・虐殺』はあったが、それは戦闘行為の枠内で論ぜられるべきものであって、非戦闘員の大量虐殺の事実はなかった。それがさも事実があったかのように伝えられ、教科書にまで記載されていることは、見過ごしていいことではない。なぜ歴史がゆがめられたのか。それは、戦後の東京裁判史観によるものだろう」(内外ニュース社発行「世界と日本」 59・4・5、413号)
 ベイツは、南京で虐殺があったと証言したものの、実際に虐殺死体を自分の目で見たわけではありません。彼の報告はすべて伝聞体です。南京国際委員会が提出したあの「被害届」においても、殺人の事例の「証言者」の欄にベイツの名はありません。アメリカ領事館のジョン・アリソン領事から市民虐殺の証明を求められたときにも、ベイツはその証明ができませんでした。

ベイツによるすりかえ

 マイナー・ベイツはまた、
 「埋葬死体の証拠からみると、4万人近くの非武装の者が、南京城の内外で殺された。そのうち約30%は兵士になったことのない者たちだった」
 と書きました。30%は純粋な民間人だった、というのですが、竹本忠雄、大原康男・両教授によれば、ベイツがいった「埋葬死体の証拠」(紅卍会による埋葬)においては、埋葬死体のうち女性と子供の比率はわずか0.3%でした。しかもこれは日本軍による南京戦のときだけでなく、翌年の1938年7〜8月の埋葬死体も含んでのことですので、もし南京戦の死者だけに限れば、女性・子供の比率は0.3%以下になります。つまり、埋葬死体に民間人はほとんど含まれていなかったのです。
 また「埋葬死体の証拠からみると、4万人近くの非武装の者が」と書いている部分は、「紅卍会」による計約4万人の埋葬をさしています。紅卍会は、日本軍のもとで、ほとんどの戦死者の埋葬作業を行なった中国人の団体です。しかしそれら埋葬された死者は、武装した中国兵の戦死者たちであって、「非武装」の者ではないのです。つまりベイツは、実際は武装した中国兵の死者を「非武装の者」と書いて、あたかも民間人の大量虐殺があったかのように、すりかえています。
 また多くの研究者は、紅卍会が埋葬したという「4万人」も、かなり水増しされた数字と考えています。中国人の間では数字の水増しは日常のことでした。埋葬作業を指揮した丸山 進氏の証言によれば、実際に埋葬した遺体数は合計で14,000〜15,000でした。言うまでもなく、これは虐殺されたという「4万人」あるいは「30万人」にも、ほど遠い数字です。
 このように、紅卍会による「4万人」とされた埋葬死体をあたかも「虐殺死体」であるかのように装うことは、事実をすり変えることだったのです。実際のところ埋葬は14,000〜15,000人程度であり、またそれらは非武装の者でも民間人のものではなく、中国兵の死体だったのです。
 またそれらの中には、軍服を脱ぎ去った中国兵たちの死体も多く含まれていました。中国兵の多くは逃げるときに軍服を捨て去り、民間人の服に着替えたので、その死んだ姿は民間人とかわりありません。
 彼ら中国兵は、すべてが日本軍に殺されたわけでもありません。実際は中国督戦隊に殺された者も多かったのです。歴史家の黄文雄教授は、日中戦争を通じて、日本軍に殺された中国兵より、督戦隊の中国兵に殺された中国兵のほうが多かったくらいだ、と書いています。
 しかしベイツはそうした状況を無視し、自分で見てもいない民間人虐殺を声高に世界に発信しました。
 さて、日本軍による南京占領から5日後、1937年12月18日付ニューヨーク・タイムズに、「南京の街路は、女子供を含む民間人の死体で満ちていた」という記事が載りました。これは一体どういうわけでしょう。これはティルマン・ダーディン記者の記事ですが、やはりダーディン自身が見た事柄ではありません。なぜなら、彼はこれを「南京の外国人は……目撃した」という伝聞体で書いているからです。
 じつは、これはダーディンが12月15日に南京を去るとき、ベイツから聞いた話でした。ベイツは1938年4月12日の自身の手紙の中で、12月15日に南京を去るダーディンはじめ欧米の特派員らに、南京の状況を書いたリポートを渡したと書いています。つまり情報の発信源はベイツでした。
 また1938年、ティンパリー編著の『戦争とは何か』という本が出版されました。この中で「日本軍による南京での市民虐殺」が大々的に取り上げられ、アメリカ人に日本軍の非道を訴え、その後の日米戦争の一因となった本です。しかしティンパリーは上海にいた人で、南京にはいませんでした。じつは、その情報はベイツからもたらされたものでした。そう、ティンパリー自身が本の中に書いています。つまりこれもまた、ベイツが発信源でした。
 ベイツはこのようにして、「日本軍による南京での市民虐殺」という虚偽を世界に広めたのです。
 ベイツは、じつは蒋介石率いる中国国民党の顧問でした。国民党の戦略は何だったか。それは、たとえ虚偽を用いてでも「中国の悲惨」と「日本軍の残虐」を世界に訴え、アメリカを味方につけて日中戦争に巻き込み、アメリカが日本を叩きつぶしてくれるようにすることでした。そのため、ベイツはこの国民党の戦略に沿って、日本軍の残虐行為という政治的謀略宣伝を世界に発信したのです。
 国民党の戦略について、アメリカのジャーナリストで、中国国民党宣伝部の顧問であったセオドア・ホワイトは、こう書いています。
 「アメリカの新聞雑誌にウソをつくこと、だますこと……アメリカを説得するためなら、どんなことでもしてよい、(という政策が)中国政府唯一の戦略になっていた」(『歴史の探究』p.76)

スマイス調査が証明する「日本軍による民間人死者は少なかった」

 最後に、南京の金陵大学教授ルイス・C・スマイスによる戦争被害調査(『南京地区における戦争被害:1937年12月〜1938年3月』)をみてみましょう。これは南京城内とその周辺地域における人的・物的被害を調べたものであり、加害者が日本軍か中国軍なのかを特定していないものの、被害の実態を知るうえで貴重な資料です。
 調査方法は、市術地では50戸に1戸、農村部では約250世帯に1世帯を抽出し、彼が中国人助手と共に面接調査したものです。大雑把な調査ではありましたが、南京における唯一の学術的調査といっていいものです。これは「南京大虐殺」を肯定するものでしょうか。否定するものでしょうか。
 このスマイス調査によれば、南京市街地での民間人の被害は、暴行による死者が2400、拉致4200(拉致されたものはほとんど死亡したものとしている)、さらに南京周辺部(江寧県)での暴行による死者が9160、計15,760人が民間人の被害ということでした。これは「30万人」虐殺説には程遠い数字です。また、これは「犯人」を特定せず、被害だけの数字であり、その中には、じつは日本軍による死者よりも、中国軍による死者のほうが多数含まれているのです。
 というのは、ダーディン記者の記事にもあったように、中国軍は、南京城外の農村地区のほとんどを焼き払いました。そこでは、多くの中国人が死んだのです。また、安全区の中国人が証言していたように、中国軍は働ける男をみれば拉致して兵士にするか、労役に使いました。またエスピーの報告にもあったように、中国兵は軍服を脱ぎ捨てて民間人に化ける際、服を奪うために民間人を撃ち殺すことも多かったのです。このようにスマイス調査が示す民間人死者のうち、その大多数は中国軍による死者と言ってよいのです。
 すなわちスマイス調査は、日本軍による民間人の死者はわずかであった、ということを証明していると言ってよいでしょう。

久保有政著

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南京の本当の写真
(クリックして拡大)
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南京への日本軍の入城式で、食糧やタバコの配給を受け、歓声をもって迎える南京市民毎日版支那事変画報 1938.1.11発行)


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南京市民に食糧等を配る日本兵たち。(イギリス系新聞「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」1937.12.24付 南京占領の11日後)
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南京市民と楽しく会話する日本兵ら(1937.12.20撮影 南京占領の7日後 支那事変写真全集1938年刊)

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日本軍による南京占領5日目の朝日新聞
(右)武器も持たず中国人から買い物をする日本兵。


(中上)南京に戻ってきて畑を耕す中国人農民。
(中下)平和になって南京に戻ってきた中国人ら。
(左)中華街の名物、街頭床屋。子どもも大人も手
製の日の丸の腕章をして笑っている。
(朝日新聞 1937.12.18付)

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南京占領8日目の朝日新聞。タイトルは、「きのうの敵に温情《南京城内の親善風景》」
(右上) 治療を受けている中国傷病兵
(左上)日本軍将兵の情に食欲を満たす投降兵
(真ん中)中国人のお店で買い物をする日本兵ら
(右下)山田部隊長と語る敵の教導総隊参謀、沈博施小佐
(左下)南京城内でくつろぐ中国人市民ら
(朝日新聞1937.12.21付)

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南京の病院の中国負傷兵と看護する日本兵(ノースチャイナ・デイリー・ニュース 1937.12.18付 南京占領の5日後)

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中国負傷兵を看護する日本の衛生兵(南京占領の7日後 1937.12.20林特派員撮影 朝日版支那事変画報1938.1.27刊)

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「中国人は日本人カメラマンが行くと、積極的に子供をかかえて撮影に協力してくれる。日本兵や日本人を恐れていなかった」(カメラマン佐藤振寿氏。南京占領の2日後 1937.12.15撮影 南京安全区にて)

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日の丸の腕章をつけ、通りで野菜を販売する南京市民(1937.12.15 南京占領の2日後)


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南京陥落直後、南京近郊にて中国人の子供と手をつないで歩く赤星昂(あかぼしたかし)少尉(夫人提供)
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安全区で南京市民に食糧や菓子を配る日本兵ら(南京占領の5日後 1937.12.18付 東京日日新聞より)

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疫病防止のため南京市民に予防措置を施す日本の衛生兵(南京占領の7日後 1937.12.20林特派員撮影 朝日グラフ 1938.1.19刊)

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日本兵から菓子をもらって喜ぶ南京の家族(1937.12.20撮影 朝日版支那事変画報1938.1.27刊)

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釈放されて郷里へ帰る前に笑顔で写真におさまる中国兵捕虜たち(朝日版支那事変画報 1939.8.5刊)

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劉啓雄(りゅう・けいゆう)少将。彼は南京安全区に潜んでいたところを捕らえられ、しばらく苦力として雇われていたが、のちに汪兆銘の親日政府の軍の軍長となった(朝日版支那事変画報 1938.1.1刊) (Asahi-ban Shina-jihen Gaho, No. 14, Jan. 1, 1938)

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南京の中国人家族に紙幣を渡す日本兵(1937.12.27影山特派員撮影 南京占領の14日後 朝日版支那事変画報1938.1.27刊)

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南京の街路で日本兵相手に商売をする中国人(毎日版支那事変画報1938.2.1刊)


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平和の戻った南京で、ジョン・マギー牧師のもと日曜礼拝を持つ中国人クリスチャンら(朝日新聞1937.12.21付の「南京は微笑む」の記事より)

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戦禍の終わったことを知り、防空壕から出てきた南京の女性たちを庇護する日本兵ら(南京陥落の翌日12月14日。朝日新聞1937.12.16付)

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南京市内で日本兵に雇われて食糧を運ぶ中国人ら(1938.1.20撮影)。日本軍は食糧を市民に配ったので、南京では餓死者が一人もいなかった。(支那事変写真全集(2))

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手足をもぎとられた中国負傷兵と、彼らを看護する日本兵(南京捕虜収容所で 1938年初春 毎日グラフ:日本の戦歴)

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南京の捕虜収容所で、手製の楽器を演奏して楽しむ中国兵捕虜たち(毎日版支那事変画報1939.5.20刊)

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日の丸と中国の五色旗を振り、南京自治政府発足を祝う南京市民ら(1938.1.3)




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「南京大虐殺の証拠」
として使われたニセ写真

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アイリス・チャンの「ザ・レイプ・オブ・ナンキン」をはじめ、「南京大虐殺」の証拠として幾度も使われてきた写真。しかし日本兵とされる男の服は立折り襟で、これは1938年6月1日の軍服改正後のものだから、南京占領当時のものではない。また写真は彼らがいかにして殺されたか――虐殺か戦死かを語っていない。また軍服を脱ぎ捨てた中国兵も多かった。

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日本陸軍の軍服(上は1938年6月1日以前。下は6月1日以後)

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1937年秋にAP通信は、この写真を、日本兵が生身の中国人を銃剣の練習台にしているものとして報じた。アイリス・チャンの本でも、同種の写真が幾つか載っている。しかし左の兵士は立折り襟で、当時の日本兵は誰も立折り襟ではなかったから、これは日本兵ではない。1939年1月の米国「ローダウン誌」は、これはじつは中国共産兵が中国人捕虜を苦しめている写真だとしている。

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「日本兵によって生き埋めにされる中国人たち」とされた写真。しかし「日本兵」らは銃をもって彼らを脅していない。中国人らはあたかも自ら進んで穴の中に入ろうとしているかに見える。また各人の大きさに不自然さがあり、東中野教授らは、これは複数の写真の合成と考えている。


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「揚子江岸の虐殺死体と、そこを歩く日本兵」とされた写真。しかしこれらは虐殺死体ではなく、戦闘で死んだ中国兵の戦死体だった。揚子江方面で戦った日本兵たちの証言によれば、中国兵は銃を持っていても誰も軍服を着ておらず、降伏もしなかった。そのため最後まで戦闘が続いた。これは戦死して岸辺に打ち上げられた中国兵の死体である。

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これも南京大虐殺の犠牲者と偽られた写真。こうした「さらし首」の風習は、日本では明治以降にはなく、中国では1930年代になってもまだ各地でみられた。1938年2月12日にも、上海のフランス租界で、さらし首事件が起きている。これは、中国の内戦の犠牲者、あるいは中国人によって殺された政治犯か馬賊の首であろう。


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「中国人を処刑する日本兵」とされた写真。しかし、日本人は日本刀を片手では振り下ろさない。必ず両手で振り下ろす。この刀のかまえ方は、中国の青龍刀の振り下ろし方である。つまり、これは中国人によるヤラセ写真だ。この「日本兵」になりすました男は、他のニセ写真にも現われる。

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中国の南京大虐殺記念館で、日本軍の虐殺の証拠として展示されている写真。だが、これは南京で撮影されたものではない。幼児虐殺の風習は、日本の全歴史を通じてなかった。しかし中国や朝鮮半島にはあった。虐殺否定派は、これは中国の内戦の犠牲者、あるいは朝鮮半島でとられた写真と考えている。松井大将は、南京戦のさなか赤ん坊の声を耳にし、部下に赤ん坊を救いに行かせた。そしてミルクをやり、その子を南京入城式のときに部下に背負わせ、その後も赤ん坊を育てたことは有名だ。

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この写真は、1938年1月10日付の米国「ライフ」誌に掲載されたもの。その解説には「南京陥落の直前、12月14日に……」とあるが、12月14日は「南京陥落の直前」ではない。解説はまた、このさらし首になった男は「反日的だった中国人」とし、あたかも犯人が日本軍であったかのような印象を読者に与えている。しかし、日本軍にはこうしたさらし首の風習はなく、おそらくこれは中国内戦の犠牲者、あるいは私怨の犠牲者であろう。


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空襲で負傷した息子を抱く中国人(「ライフ」1938.1.10付)。1937年12月6日撮影となっているので、南京攻略戦の時のものではない。左の兵士は、帽子の形からして中国兵であろう。ところが、「バトル・オブ・チャイナ」などの反日映画の中で、これは「南京大虐殺」の一部として使われた。



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「南京での日本軍の公開処刑」とされた写真。しかし、周囲の人々は夏服を着ていることからみて、これは冬に起こった南京陥落当時のものではない。また公開処刑の風習は明治以降の日本にはなく、一方中国には1930年代にもまだ各地にあった。否定派は、これは中国人によるヤラセ写真と考えている。

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「日本兵によって殺され、膣にパイプを押し込まれた老女」とされた写真だが、犯人が日本兵であるという証拠は何もなかった。またこうした殺し方は、典型的な中国式であり、日本人の殺し方ではない。


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「日本人水兵が中国人の首を切り落とした直後」と説明された写真。しかし刀を持つ男の服は日本海軍のものではない。また首の男は髪が短く、こんな持ち方で重い首を持てるだろうか。また首の下の黒塗りにも不自然な点があり、否定論者はこれは中国人がつくったヤラセ写真と考えている。



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南京とは関係ないが、上海の爆撃跡で泣き叫ぶこの赤ん坊の写真は、中国系アメリカ人H・S・ワンの撮影で、1937年10月4日付「ライフ」に掲載された。アメリカ人の反日感情を一気に盛り上げたことで有名である。しかし、のちにシカゴ・トリビューンの特派員が同じ場所、同じ時間に撮られた他の写真をも紹介し、これはカメラマンが赤ん坊をここに連れてきて、悲惨な光景に見えるようにして撮ったヤラセ写真であることを明らかにした。
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貴重な当時のドキュメンタリー映画「南京」(YouTube)も参照下さい。

*南京安全区の避難民の様子
www.youtube.com/watch


*兵民分離のため南京市民に「良民証」を発行する日本軍
www.youtube.com/watch


*新年1938年を迎えた日本兵と、共に喜ぶ南京の子供たち
www.youtube.com/watch
































































































































































































































































































































































































































































































































































































日中戦争の真実

日中戦争の真実 
日本は、内戦に明け暮れる中国を救おうとした
ローマ法王も、日本の行動を支持していた
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日本兵らと遊ぶ中国人児童ら(1937年)
日本兵たちは中国の民衆からは温かく迎えられていた。

 前項「中国の『正しい歴史認識』の正体」では、「夷(い 外国)をもって夷を制す」の中国政治家の考え方により、日本が中国の内戦に引き込まれていったことをみました。この項では、中国における日本の軍隊の行動について、もう少しみてみましょう。


中国民衆を虫けらのように殺した中国軍

 中国軍と、日本軍の間には、大きな質的差異がありました。それは、中国軍は同胞である中国民衆を行く先々で強奪し、また大量殺害したのに対し、日本軍は行く先々で彼らを救済しようとしたことです。
 中国では伝統的に、民衆とは、戦乱で虫けらのように殺される存在であり、少なくとも権力者から愛護を受ける対象とはなっていませんでした。梁啓超は、中国の民衆を「戮民」(りくみん 殺戮される民)と呼んでいます。
 たとえば、「国共合作」により共産軍と組んで日本との戦いを始めた蒋介石の軍隊は、一九三八年、日本軍の進撃の道をはばもうと、黄河の堤防を爆破しました。このとき、大雨が降ったこともあって一一の都市と、四千の村が水没し、水死者一〇〇万人、その他の被害者六〇〇万人という大惨事となりました。
 しかも、それだけでは終わりませんでした。この人為的水害の結果、黄河の水路が変わり、周辺に大飢饉が広がったのです。そして、被災地で食糧不足に悩んだ中国軍部隊は、民衆から食糧の強奪を始めたため、飢饉はさらに深刻化しました。その惨状をみた当時のアメリカ人記者は、
 「道ばたには凍死者と餓死者があふれ、飢えた人々は屍肉を食べていた」
 と報じています。中国側はまた、事件直後から、堤防決壊を日本軍のしわざとして宣伝もしていました。しかし中国側のこの自作自演は、のちに外国人記者に見破られています。
 この堤防決壊のとき、日本軍兵士は一人も死にませんでした。それはただ、中国人を大量殺戮しただけで終わったのです。
 堤防決壊の直後、日本軍は堤防の修復作業を行なっただけでなく、被災した民衆の救助と、防疫作業を行ないました。日本軍は、中国軍から虫けらのように扱われた中国民衆を、必死になって救済したのです。
 こうした中国軍の性格は、蒋介石の軍だけでなく、毛沢東の共産軍でも同様でした。いや、共産軍はもっとひどいものでした。共産軍は、民衆から「共匪」(きょうひ)すなわち共産主義の匪賊と呼ばれていました。それは彼らが行く先々で、民衆に略奪、殺人、強姦を働いたからです。
 中国の軍隊は、共産軍でも国民党軍でも、基本的に軍隊というより、ルンペンを寄せ集めたような集団にすぎなかったのです。彼らが軍隊に入ったのは、占領地区で略奪が出来るため、食いっぱぐれがなかったからです。
 ですから中国の司令官は、ある土地を占領すると、最低一週間は兵士たちの好きなように略奪や強姦をさせました。また、そうしないと司令官が殺されてしまったからです。
 日中戦争における戦闘は、たいていの場合、日本軍が攻めると中国軍が撤退し敗走する、という形で進みました。ですから、激戦地を除けば、中国側が宣伝するほど日本軍に殺された中国兵の死者は多くはありませんでした。
 むしろ中国兵の死者の多くは、中国人が中国人を殺したものでした。中国の軍隊というのは、兵士たちの後ろに「督戦隊」(とくせんたい)がいたのです。督戦隊とは、後ろで「敵を殺せ、殺せ」と叫びながら兵士たちを戦わせ、逃げる兵士がいると、その兵士を撃ち殺す中国兵です。
 つまり中国兵が中国兵を殺したのです。中国史家・黄文雄氏によれば、日中戦争時の死傷者は、日本軍によって殺された中国兵よりも、そうやって督戦隊に殺された中国兵たちのほうが多かったくらいだといいます。
 また、中国兵は負傷すると、置き去りにされました。ある戦場で、中国兵の一団が塹壕(ざんごう)の中で戦死していました。それを発見した日本兵たちは、思わず涙を流したといいます。なぜなら彼らの足には、逃亡防止のための鉄の鎖がつけられていたからです。
 日本軍と中国軍とでは、質の上でそれほどの差があったのです。
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道端に打ち倒されていた孫文の銅像に青天白日旗をかけてあげ
る日本兵。中国の伝統文化への尊敬心から出た行為である。
現地市民の間でも、日本軍は、シナ軍よりもよっぽど信用
できるとの評価を得ていた。


本当の人民解放軍は日本軍だった

 また中国軍と日本軍の性格を大ざっぱにみるなら、次のように言うことができます。
 中国軍が通った地は至る所、はげたかの大軍が通ったように略奪されました。さらに彼らは占領地域を去るとき、日本軍に何も残さないようにするため、「焦土(しょうど)作戦」を取りました。
 つまり退却のたびに、道路や工場、橋、潅漑施設、その他の施設を次々に破壊したのです。そのため中国軍が通るところすべてが荒廃していきました。彼らの行動の特徴は、略奪と破壊だったのです。
 それによって中国経済は破壊され、農業も工業も壊滅的被害を受け、人民は苦しむばかりとなっていました。とくに悲惨だったのは、民衆の大半を占める農民たちでした
 一方、そのあとにやって来た日本軍は、当初から農民たちの救済と、中国経済の再建に取り組んだのです。日本軍が占領した地域は、中国本土の人口の約四〇%、また耕地面積の五四%に及びましたが、日本はすぐにその地域での農業再建、道路や潅漑施設の復興、工場の再建などに取り組みました。
 日本は中国の住民の救済、治安維持、戦災復興などに取り組んだので、それまで軍隊とは匪賊にすぎないと思っていた中国民衆は驚き、日本軍を熱烈に歓迎しました。統率がとれ、略奪や悪事を働かず、民衆を救う軍隊というものを、彼らは生まれて初めて見たからです。
 本当の「人民解放軍」は中国軍ではなく、日本軍だったのです。
 日本が占領地域でとくに力を入れたのは、農民の救済でした。日本政府はすでに一九三八年に中国での農業復興の計画を発表し、実行に移しています。それは日本・満州・支那(中国)の三国が相携えて、互助関係を築くことを目的としたものでした。
 それにより、日本の占領地域での農業は飛躍的に増大しました。日本人技術者が中国農民に、日本の農業技術を提供していったからです。もちろん戦時下のため、悪戦苦闘はありましたが、それでも日本の努力は多くのところで実を結んでいました。
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中国人の子供や大人と共に正月の
万歳をする日本兵たち(1938年)
すでに日中戦争が始まっていた時である。
 農業だけでなく、軽工業、重工業などの再建にも取り組みました。日本はまた中国に鉄道を敷き、病院を建てました。疫病の多かった中国の衛生事情の改善にも努めました。さらに、絶望視されていた中国の製糸業を復興させたのも、日本の対中国投資によるものです。
 日本は、満州や、朝鮮、台湾などで行なっていた近代化建設事業を、中国でも、すでに日中戦争のさなかから始めていたのです。それによって占領地域のインフラ整備、産業の復興が行なわれました。
 日本政府の推計によると、一九三八年から終戦の四五年までの日本の対中国投資の累計は、約四七億円にも達していました。当時の日本の国家予算は約二〇億円ですから、どれだけ巨額かわかるでしょう。
 これは戦争に使ったお金ではありません。中国の国土と経済の復興に使ったお金なのです。このように、中国軍が各地を焦土化し、同胞を虫けらのように殺していたときに、日本は中国民衆の救済と、中国の近代化のために働き続けていました。
 中国人民の本当の敵は、日本軍ではなく、中国軍だったのです。中国軍は、蒋介石の国民党軍も、毛沢東の共産軍も、その頭の中にあったのは中国人民のことではなく、権力奪取のみでした。しかし日本は、なんとか中国を救おうと奔走していたのです。
 ですから、中国の老人でこの時代のことを体験した人々の中には、親日的な人々が大勢います。ふだんは中国政府の叫ぶ反日イデオロギーの中で大きな声では発言できませんが、彼らは当時の日本人が中国人にしてくれたことを知っているのです。戦後、日本人が中国大陸から引き揚げてくるとき、多くの日本人が帰りそこなって、そこに取り残されました(いわゆる中国残留孤児)。しかしそのとき、残留日本人を助けてくれた中国人たちがかなりいました。そうした中国人の多くは、戦時中の中国兵がいかに悪かったか、また日本軍が中国の民衆を助けたことを、よく知っていたので、日本人を助けてくれたのです。
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中国人の子供を可愛がる日本兵(1938年)

ローマ法王は日本の行動を支持した

 もともと、中国の内戦に巻き込まれたかたちで、中国内部に足を踏み入れた日本軍でした。しかし踏み入れた以上、日本は、そこが共産主義国家になってしまうのを防ぐため、多大な尽力をなしました。またそこに、欧米の侵略や搾取の餌食とならない自立した民主的国家が誕生するよう、手を差し伸べたのです。
 日本は中国を「自分の領土」とするために戦っていたのではありません。日本は中国の「領土保全」をかかげ、誰からも侵略されない、中国人による中国人のための安定した国家がそこに誕生することを目指したのです。そして日本と手をたずさえて、アジアを共産主義から守る防波堤になること、そこに一大経済圏が生まれることを目指しました。
 ですから、日中戦争(支那事変)が始まった年である一九三七年、一〇月に、当時のローマ法王、平和主義者として知られるピオ一一世(在位1922-39)は、この日本の行動に理解を示し、全世界のカトリック教徒に対して日本軍への協力を呼びかけました。法王は、
 「日本の行動は、侵略ではない。日本は中国(支那)を守ろうとしているのである。日本は共産主義を排除するために戦っている。共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ
 といった内容の声明を出しています。
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ローマ法王ピオ11世。日本軍の行動を理解し、
全カトリック教徒に、日本軍への協力を呼びかけた

 この声明は当時の日本でも報道されました(「東京朝日新聞」夕刊、昭和一二年一〇月一六日および一七日)。新聞は、
 「これこそは、わが国の対支那政策の根本を諒解(りょうかい)するものであり、知己(ちき。事情をよく理解している人)の言葉として、百万の援兵にも比すべきである。英米諸国における認識不足の反日論を相殺して、なお余りあるというべきである」
 と歓迎の意を表しています。ローマ法王がこのように日本の行動に賛意を表してくれたことは、欧米の誤解や反日主義に悩まされてきた日本にとって、非常にうれしいことでした。
 けれども、そのピオ一一世も、やがて一九三九年には世を去ってしまいます。そのため欧米の反日主義や、日米戦争勃発を防ぐまでには至らなかったのです。


共栄圏をつくろうとした日本
 一九三七年から始まった日中戦争でしたが、日本はすでに一九四〇年には、すでに中国の華北と、華中の一部を支配下におき、その統治を親日政権である汪兆銘(おうちょうめい)の南京政府にゆだねていました。
 日中戦争は八年間続いたと一般にいわれますが、実際には日中の戦闘は一年半あまりで終結し、あとは日本軍はそれ以上領地を広げようとせず、占領地域でのインフラ建設や、経済建設に集中したのです。
 その支配地域では、経済、財政、物価、治安が安定し、民衆の生活は他と比べると天国と地獄ほどの差がありました。鉄道もつくられ、人々や物資の移動が容易になりました。よく「日本軍は一方的に略奪と破壊をした」かのように語られることがありますが、実際は全く逆だったのです。
 だからこそ、汪兆銘の南京政府や、そのもとにいる多くの中国人は日本を支持し、日本と共同して、その地域の発展のために働いたのでした。
 汪兆銘の南京政府が支配する地域では、戦前にも増して平和と繁栄を謳歌していました。その象徴が上海です。日中戦争中ですら、そのダンスホールや映画館はどこも満員という活況を呈していました。
 ロシアから逃げてきたユダヤ人たちの居住区も、この上海に設けられ、彼らはそこで安全に暮らしていました。
 一方、蒋介石や毛沢東が支配していた地域は、悲惨でした。ただでさえ彼らの軍隊が入ってきたので食糧が不足したばかりか、略奪、搾取が横行したため、たちまち住民は地獄の生活へと転落したのです。
 もっとも蒋介石は、日本人のような規律ある生活習慣を目指した「新生活運動」を実施し、中国兵の乱れた規律を正そうと努力はしましたが、それでもなかなか実を結ぶことはできませんでした。
 日中戦争中、アメリカがいわゆる「援蒋ルート」を通して、重慶にいる蒋介石軍に様々な物資を送り届けていたことは、よく知られています。兵器、弾薬、医薬品、食糧などですが、しかし山を越え、川を越えているうちに、重慶まで届いた物資は多くても当初の何分の一かに減っていました。
 それらの地域を支配する匪賊や、他の武装勢力に、通行料として一部物資を渡していたからです。当時、日本の支配地域以外の中国大陸には、匪賊が約二〇〇〇万人もいたといいます。それは中国軍の約一〇倍に相当します。彼らは略奪で生計をたてていたのです
 また無事に重慶に届いた物資も、国民党幹部のポケットに入ってしまい、他の者には行き渡りませんでした。このように当時の蒋介石の政府が、米国の支援を食い物にしていたことは有名です。
 このように、日本の支配地域と、そうでない地域とでは中国民衆の生活に格段の差があったのです。日本はすでに日中戦争のさなかから、中国を近代的民主国家として自立させ、アジアの同胞として共に相携えて共栄圏をつくるために、非常な努力を積んでいたからです。
 しかしその望みも、やがて日本が日米戦争で敗戦を迎えたことにより、挫折しました。
 そのとき、日本は中国につくった工場や施設、インフラなどを破壊することなく、すべて正確な資産リストを添えて、中国の未来のためにそのまま置いてきました。それらは戦後の中国経済の発展の基礎となったものです。
 日本が去ったとき、中国では再び「国共内戦」、すなわち国民党軍と共産軍の内戦が勃発しました。これは実質的に、日本が残した遺産の奪い合いでした。そしてこの内戦での死者は、日中戦争中の死者よりも多かったのです。
 またこの国共内戦に共産軍が勝利し、中国を統一したとき、共産党はかつて自分たちがなした中国民衆への殺戮、略奪、搾取などを、すべて日本軍の悪行と宣伝して若者たちに教える教育を始めました。
 以前、私がこれら中国の歴史を「レムナント誌」に掲載したとき、ある日本人は「こんなことがあったなんて知りませんでした。一般に世間で言われていることと何と違うでしょう」と言いました。しかし、日本に留学しているある中国人クリスチャンが手紙をくれたのですが、こう書いていました。
 「先生は中国に関し真実を書いています。がんばってください
 中国人も、知っている人は知っているのです。
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「中国無名戦士の墓」と書いた墓標の前で、慰霊祭
を行なう日本兵(1938年)。日本軍は戦闘が終わると
敵味方の区別なく、戦闘地にお墓を作ってきた。
中国の文化にはこのようなものはない。


「南京大虐殺」はなかった

 今まで見てきたように、日本軍の進出は内戦の終結、平和の確立、共栄圏の建設を目的としたものであって、決して破壊や虐殺を目的としたものではありませんでした。これは、国土の焦土化や、民衆の殺戮を平気で行なっていた中国軍とは、きわめて対照的です。
 日本には、もともとサムライの時代から、民衆の虐殺や焦土化の思想はなかったのです。日中戦争は北京の近くで始まりましたが、北京は無傷でした。武漢三鎮も無傷のまま。他の都市も全部無傷です。日本軍は、都市を破壊する気も、住民を虐殺する気もさらさらなかったのです。
 日本軍は、都市に近づくときには必ず自由都市(オープン・シティ)宣言をしました。降伏するなら、都市を破壊することもしないし、住民の安全を保証するということです。歴史ある都市を戦場にし破壊していけないからです。
 日本軍は圧倒的に強かったので、たいていの都市では、中国軍はたいした抵抗をすることもないまま逃げ去り、都市は明け渡されました。しかし南京で、中国軍は珍しく若干の抵抗をみせました。
 南京防衛軍司令官の唐生智が「俺に頑張らせてくれ」と言ったので、蒋介石も「頑張れ」と言ったのです。彼が最後まで頑張れば、ある程度、中国軍の統制もとれたでしょうが、この司令官は情けないことに、途中で逃げ出してしまいました。
 司令官を失なった中国兵たちは、自分たちも逃げようとしました。けれども彼らの多くは、逃げる味方の兵隊を後ろから撃つ「督戦隊」に殺されました。また中国兵の中には、逃げれば督戦隊に殺されるし、残れば日本軍に捕まるということで、民間人を殺し、その着物をはぎ取って着る者たちもいました。
 こうした民間人に化けた中国兵は、それがばれたときに日本兵によって殺されることもありました。そのようなことはありましたが、南京で、日本軍による住民の大量虐殺というようなことは決してなかったのです。
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日本軍による南京占領5日目の写真(朝日新聞)
(右)武器も持たず中国人から買い物をする日本兵。
(中上)南京に戻ってきて畑を耕す中国人農民。
(中下)平和になって南京に戻ってきた中国人ら。
(左)中華街の名物、街頭床屋。子どもも大人も手
製の日の丸の腕章をして笑っている。
 「南京大虐殺」がなかったことを如実に示す証拠写真である。


 中国は、かつて日本軍は南京で三〇万人の住民を虐殺したと、宣伝しています。しかし、これは中国共産党が流したでっち上げです。なぜなら、もし南京大虐殺があったなら、南京の安全地区にいた外国人は必ず、そのことを世界に発信したはずですけれどもそのようなことはありませんでした
 また、日本が南京に入る前にいた南京の人口は約二〇万人でした。これはいろいろな調査で一致している数字です。二〇万人の都市で、三〇万人を虐殺するのは不可能です。
 また、日本が南京を占領したあと、逃げていた市民たちが戻ってきて、一ヶ月後には人口二五万人になっています。これは南京学会が緻密に調査して出した、信頼できる数字です。また大虐殺が行なわれた都市に、住民が戻ってくるわけがありません。
 また南京大虐殺の「証拠写真」と言われるものも、今日ではすべて全く関係のない写真か、捏造によるものであることが、明らかになっています。東中野修道著『南京事件「証拠写真」を検証する』などに、詳しく書かれています。
 何年か前、中国系アメリカ人のアイリス・チャンが、英語で『ザ・レイプ・オブ・南京』という本を出し、アメリカでハードカバーで約五〇万部も売りました。これは日本軍が南京で三〇万人虐殺という蛮行を行なったと宣伝する本で、アメリカ人にウソをばらまいたものです。
 しかしそののち、彼女が書いたことや、そこに使った写真があまりにインチキであることが、多くの批判書によって明らかになりました。そうした中、彼女は二〇〇四年の暮れに、ピストル自殺しています。
 その理由として、『ロンドン・エコノミスト』はその記事の中で、彼女は自分が書いたことがあまりにインチキと批判されたため、それが「南京虐殺はなかった」と主張している人たちに有利に働いて、それを気に病んだのではないだろうかと推定しています。
 また、南京攻略の司令官だった松井石根大将には、こんなエピソードも残っています。南京攻略戦の最中、焼け跡から赤子の泣き声が聞こえてきました。彼は秘書の岡田尚に「捜して来い」と命じました。
 救助された赤子を、松井大将は温泉に入れ、毛布にくるむと、自分の目を細めて抱き上げました。彼は、松井の一字をとって松子と命名してかわいがり、ミルクを飲ませて育てました。南京の入城時には、岡田秘書がこの赤子を背負って入城しました。
 南京で、日本軍兵士による犯罪がまったくなかったわけではありません。多少のものはありました。しかし、それは戦後アメリカ占領軍兵士たちが日本で犯した犯罪と、同程度のものです。中国軍やロシア軍などが占領地で犯した横暴などに比べれば、はるかに小規模のものでした。当時南京に入った記者たちは、「南京市民の表情は朗らかだった」と証言しています。なかには劉啓雄(りゅう・けいゆう)少将のように、南京戦で日本軍の捕虜になりながら、のちに汪兆銘の親日政府において和平救国軍軍長になった人までいたのです。
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南京占領8日目の写真(朝日新聞)。タイトルは、
「きのうの敵に温情《南京城内の親善風景》」
(右上) 治療を受けている中国傷病兵
(左上)日本軍将兵の情に食欲を満たす投降兵
(真ん中)中国人のお店で買い物をする日本兵ら
(右下)山田部隊長と語る敵の教導総隊参謀、沈博施小佐
(左下)南京城内でくつろぐ中国人市民ら

さらに詳しくは「南京大虐殺は捏造だった」ページへ


満州は中国の領土ではない

 つぎに、満州のことをみてみましょう。朝鮮半島の北隣、現在の中国人が「中国東北部」と呼ぶ地です。
 満州というのは、もともと中国に清朝をうち建てた満州族(女真族)の故郷です。清朝は満州族がつくった王朝であって、漢族は被支配民族だったのです。
 中国で「義和団の乱」(北清事変・一九〇〇年)が起きたとき、ロシアはそのどさくさにまぎれて、満州を不法に占領し、そこに居すわってしまいました。満州にロシアが居すわることは日本にとっても脅威でしたから、日本はロシアを追い出すために、日露戦争を戦います。
 日本は日露戦争に勝利し、満州からロシアを追放すると共に、満州を清朝に返してあげます。ジョンストン(満州国皇帝となった溥儀の家庭教師)の書いた『紫禁城の黄昏』には、日本が満州を清朝に取り返してくれたときのことが詳しく書かれています。
 日本はこのとき、満州における鉄道の権利と、遼東半島の租借権を獲得します。それは満州を取り返してくれたことに対する、清朝からのお礼の意味もありました。
 しかし、満州は当時、盗賊の跋扈する無法地帯であり、今日のイラクより治安の悪い所でした。そのため国際条約のもと、権益を守るために日本の「関東軍」がそこに駐留していました。今日でいう平和維持軍、守備軍です。
 この満州には、張作霖の一家が統治者として支配していました。関東軍は当初、この統治者と共同路線を歩もうとします。しかし張は、盗賊あがりの暴君で、満州の民衆にすさまじいばかりの搾取を行なっていました。盗賊がそのまま支配者となっていたのです。G・B・レーは、
 「張作霖一家が三千万民衆から搾取した収入は、南京政府の収入より多くなくとも之に匹敵するものであった
 と書いています。さらに張の親子は、条約を無視して満州の経済権益を日本から奪い取ろうとするなど、露骨な背信行為に出てきました。それを目の当たりにした関東軍は、軍事行動を起こし、張の軍隊を満州から駆逐します。
 これが満州事変です。これは日本軍の武力侵略の第一歩であると語られていますが、実際のところ当時、日本軍による張の軍隊の駆逐をみた満州全土の民衆は、大喝采を叫び、日本に感謝したのです。なぜなら張の軍閥政権は、
 「軍費を捻出するために広大肥沃な満州の土地を荒らし、民衆の膏血の七、八割は軍費に充てられ、商民の三割はついに破産した」
 と言われたほど、ひどい搾取を行なっていたからでした。
 当時の諸外国の反応も、日本の行動はやむを得なかったとしました。アメリカ公使、ジョン・V・A・マクワリーは、張の行動は中国国民党政府が仕掛けたものであり、これは彼らが『自ら招いた』災いだ述べました。アメリカの新聞記者、ウォルター・リップマンも、
 「日本は激しい挑発に直面しながら、通常の国際的基準からすればきわめて忍耐強かった」
 と記述しています。当時のイギリス陸軍の元師も、
 「彼ら(日本)はひどい挑発を受けてきた。……彼らが満州で地歩を固めれば、それは共産主義の侵略に対する真の防壁となる
 と述べました。
 さて、そののちこの満州の地に、日本の指導によって「満州国」がつくられました。満州国の皇帝となったのは、清朝のラスト・エンペラーだった溥儀です。
 清朝が滅亡したとき、日本の公使観に溥儀が逃げてきたのです。清朝というのは、満州人が中国を支配した王朝でした。ですから満州は、清朝を支配した皇帝の故郷です。溥儀は、自分の故郷の満州に帰り、そこに国をつくりたいと言いました。
 それで日本は、その希望を受け、満州に満州国を建国したのです。満州国では、皇帝が満州人であるだけでなく、大臣もひとり残らず満州人か清朝の遺臣でした。日本はその建国を指導したわけです。満州国はまだひとり立ちできる状態ではありませんでしたから、日本はその建国をバックアップしました。
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満州国の首都・新京。
すばらしい国造りが進んだ。

 中国は、日本によるこの満州国建国も、「中国の領土への侵略だった」と非難します。しかし実際のところ、かつて満州の地が中国の領土だったことは一度もありません。なぜなら、満州は万里の長城の外側(関外)の地なのです。
 かつて清朝打倒の革命運動を主導した孫文のビジョンにも、満州は含まれていませんでした。孫文にとって、満州は中国ではなかったからです。蒋介石も、
「満州は中国の領土ではない」
 と公言していた時期があります。ところがその後、蒋介石の政府も、毛沢東の中国共産党も、満州の経済発展をみると一転して「満州は中国の領土だ」と言い出しました。しかし、まったく厚顔無恥と言わざるを得ません。満州が中国の領土である根拠など、どこにもないのです。
 人々の中には、
 「満州は清朝の皇帝の故郷だったのなら、やはり満州は中国の領土ではないのか」
 というかたもいるかもしれません。しかし、たとえば元の時代に、中国はモンゴルに支配されました。では、モンゴルは中国の領土かというと、そうではないでしょう。
 また、かつてインドネシアはオランダに支配されました。ではオランダは、インドネシアの領土かというと、そんなことは暴論ということになるでしょう。同様に、満州は清朝を支配した満州人の故郷ですが、中国の領土ではないのです。


奇跡の国・満州国

 清朝が滅びたとき、満州人の皇帝が満州に自分の国家を建てるのは、きわめて合理的なことでした。満州国は、わずか一三年間の王国でしたが、世界史上、奇跡の国でした。
 そこには建国以降、年間一〇〇万人を超える人々がなだれこみました。人々は中国内地の略奪、虐殺、貧窮に満ちた生活を捨て、この平和な桃源郷を目指して移住してきたのです
 一九三二年の建国時に約三〇〇〇万人だった満州の人口は、終戦時の一九四五年には、四五〇〇万人以上にも増えていました。現在の日本の人口の約半分もの人々が、そこに暮らしていたのです。もし今日の中国人がいうように、当時の満州が略奪と虐殺の地獄だったなら、絶対にこのような現象はみられなかったはずです。
 満州国では「五族協和」をかかげていました。いろいろな民族の人々が、満州国の平和と繁栄にあこがれ、自分もそれにあやかりたいと競ってやって来ました。そして彼らにより、この何もない原始的だった地が、きわめて短期間のうちに近代的な法治国家、平和国家、一大重工業国家として成長したのです。しかし、
 「五族協和といっても、実際は日本が指導した国で、その中枢には日本人が大多数を占めていたではないか」
 という批判もあるでしょう。けれども、これは満州国がひとり立ちする時までは、やむを得ないことでした。なぜなら日本人以外は、字も読めない人々がほとんどであり、教育もなく、国家の理念すら理解しない人々だったからです。
 そうした中、日本がリーダー的な役割をすることが求められたのです。そして実際、満州国には、様々な民族が年間一〇〇万人以上なだれ込み、共に国造りに励んだのです。
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満州国の新京・日本橋町。満州国は、周囲からみると別天地であり、
様々な民族が年間100万人以上なだれ込み、共に国造りに励んだ。


 かつて盗賊的な軍閥に支配され、搾取にあえいでいたこの地は、満州国の建国によって全く生まれ変わりました。治安がみごとに確立され、つぎには近代的な司法制度、法律が完備され、賄賂の悪習も追放されました。
 政府の財政も確立されました。貨幣の統一もわずか二年間で達成されました。満州の総面積は、現在の日本の領土の約三倍あります。日本人はその広大な国土に、鉄道、道路、港湾、空港のほか、上下水道、治山治水、電力供給など、様々な国土開発計画を実施しました。
 首都・新京は、じつに先進的な百万人都市として建設されました。路面はすべて舗装され、東京にもなかった下水道が敷かれ、水洗便所が使用されました。また、以前は鍋・釜しか製造できなかった満州は、やがて自動車や飛行機まで製造する一大産業国家に変身しました。
 日本はそこに学校を建て、教育を普及させるとともに、病院を建て、風土病、伝染病を駆逐していきました。もちろん、まだまだ改革しなければならないものは残っていましたし、戦時経済のひっ迫した状況もありました。
 しかし全体的にみれば、そこは搾取や略奪のない、生命・財産の保護される平和郷であり、周辺地域から比べれば非常に優れたアジア人の王道楽土となっていたのです。
 もし日本が敗戦することなく、満州国が存続していたら、満州国は間違いなく、その後のアジアにおいて巨大な発展を遂げ、アジアの平和と繁栄に寄与する重要な国家となっていたでしょう。まさにアジアのアメリカ合衆国となっていたに違いありません。
 しかし日本の敗戦後、満州国は中国の一部(東北部)とされました。そして日本がそこに残した遺産は、その後の中国の重工業の九〇%を支え、中国の経済的基礎となりました。戦後の中国は、この満州国の遺産で食いつないだのです。


日本の道義的行動

 今までみてきたように、日中戦争とは、中国人からの度重なる戦争への挑発を受けた日本が、やむなく中国の内戦を平定するために乗り出していった行動でした。日本はその中国内戦に終止符を打ち、そこに、中国人による近代的国家をつくることを支援したいと考えていたのです。
 日本は中国を「侵略」したというより、同じアジアの同胞である中国の再生を願い、手を差し伸べたのです。日本の進出は、中国の国民党軍や共産軍からみれば「侵略」だったとしても、中国の民衆からみれば「救済」だったのです。
 日本の願いは、自立した近代的民主国家となった中国と共同して、この東アジアに、共存共栄の経済圏をつくり出すことでした。また共に、西欧やロシアによるアジア侵略に対する防波堤となることだったのです。
 それは、実際もう少しで可能だったでしょう。しかし、日米戦争で力をそがれた日本は、やがて敗戦を迎え、その願いも中途で挫折してしまいます。日中戦争において日本は決して負けてはいませんでした。ただ日米戦争で敗戦となったがゆえに、日本の努力は挫折したのです。
 それでも、日本がアジア各国に与えた独立心は、やがて育ち、実を結んでいきました。黄文雄氏はこう述べます。
 「大日本帝国は、八〇年にして人類史に計り知れない貢献を行ない、遺産をもたらした。負の遺産はほとんどない。『過去の一時期』に問題があるとすれば、それはただ日米戦争に負けたことだ」
 日本ほど、アジアの独立と繁栄のために貢献した国は、他にありません。日本がなければ、今日のアジアの独立と繁栄はなかったでしょう。
 その過程で、悪戦苦闘はありました。日本は中国において一番苦労しました。なぜこれほどまでに中国で苦労しなければならなかったのか。その一つに、日本人と中国人の気質の違いがあげられます。
 かつて日本の明治維新を成功させたのは、武士たちの力でした。彼らは「至誠」を美徳と考える人々で、「私」に仕えず「公」に仕える者でした。そして彼らは、維新が成功すると、士農工商の階級制度を廃止し、自分たちも刀を置き、町民となっていったのです。誰もが「国民」という平等の世界に、甘んじて身を投じていきました。
 一方、中国の革命家たちに共通するのは、すさまじいばかりの「保身」すなわち「生き残りの哲学」です。「夷をもって夷を制し」、他を蹴落として何としてでも自分が生き残る、という権力への強烈な願望です。これは五〇〇〇年間、ずっと戦乱の世に生きなければならなかった中国人の身にしみついた性質なのでしょう。
 このとき、自分が生き残るためには民衆の命さえも顧みません。中国の内戦では、おびただしい民間人が虐殺されました。民間人に対する略奪、強姦も至るところで行なわれ、彼らは人々から、軍隊というより「匪賊」と呼ばれていたほどです。
 これは、日本の武士たちの戦いの様子とは大きく違います。日本の戦国時代は、武士同士が戦ったものであり、民間人は殺しませんでした。あの関ヶ原の戦いでも、百姓たちは弁当をもって山の上から戦闘を見物していたほどです。
 しかし中国の内戦では、革命家は民間人の死体を山ほどつくるのが常でした。共産党の毛沢東は、日中戦争および戦後の文化大革命、その他を通し、中国人同胞を数千万人殺しました。蒋介石も、先に述べたように数多くの民間人を犠牲にしています。
 蒋介石といえば、戦後、連合国の会議において、列強による日本の分割統治に反対し、天皇制存続を訴え、また日本への賠償請求権を放棄するなどをしてくれた人です。そこには、西安事件以来、彼が不本意にも共産党の意向にそって日本軍と戦争をしたことに対する後悔もあったのかもしれません。
 賠償請求権を放棄してくれたことは、日本にとってありがたいことではありました。しかし、中国を焦土にしたのは日本軍ではなく、蒋介石であり、また毛沢東なのですから、日本に賠償請求する権利はもともと彼らにはないのです。
 また、日本は戦後台湾に莫大な資産をそのまま残し、蒋介石はそれを受け継ぎました。その結果、彼は賠償以上の莫大な富を手に入れているのです。
 蒋介石は戦後、共産軍に負けて台湾にのがれたとき、そこで「白色テロ」と呼ばれる恐怖政治を行ない、多くの台湾人を犠牲にしました。このように中国では、伝統的に「誠」よりも「生き残り」が強く優先されたのです。


中国人の詐道

 この生き残りのためには、様々な策略が練られます。有名な孫子の『兵法』に、「兵は詐道なり」(兵の道はいかに人をだますかにある)とあります。黄文雄氏はまた、
 「日本人は『誠』の民族であり、中国人は『詐』(だますこと)の民族である
 と述べています。戦乱がたえず、虐殺が日常茶飯事だった中国では、生き残るために「詐」つまり騙(だま)すこと、人を陥れることが何より必要な術とされたのです。奸智(かんち)にたける者だけが勝ち残る。袁世凱(えんせいがい)は、その奸智と裏切りの達人でした。毛沢東も奸智にたけ、日本軍を中国の内戦に引き込むことに成功しました。
 この奸智は、昔も今も中国人の気質として続いています。かつて新渡戸稲造は、中国人は「嘘をつくことを恥と思わぬ厚顔無恥な人々」だと嘆きました。ヨーロッパの大思想家カントやモンテスキューまでも、哲学や法学の大著の中で、「中国人は嘘つき」と説いています。
 残念ながら、それは今も変わりません。中国共産党は現在も、たとえば「日本軍による南京大虐殺」という厚顔無恥な嘘を叫び続けています。また、かつて自分たちが中国民間人に対して行なった殺戮を、すべて日本軍のしわざと叫び続けているのです。
 近代以降の中国では、むかし孔子や孟子が説いた道徳は力を失なっています。日本人がこれまで何となく抱き続けてきた「中国は道徳性の高い国」との観念は、幻想にすぎませんでした。
 もともと聖人の出る国というのは、乱れた国なのです。キリストがお生まれになったユダヤは、当時ローマ帝国の支配下にあって、圧制と暴虐が満ちていました。そこでキリストが敵への愛を説かれたのです。
 シャカが生まれたインドは、カースト制というひどい階級差別が存在し、そこでシャカは人間の平等を説きました。一方、中国は昔から騙し騙される社会であり、弱みをみればつけこむ社会であるので、孔子や孟子が現われて仁や義を説いたのです。
 乱れた国だからこそ、世界的な聖人が現われたのです。中国では、昔から家族倫理はあっても、公共倫理が希薄でした。今も、中国の指導者からして、国の内外に嘘をつくことを恥とも思っていません。中国では、
 「良心ある人は社会から疎外され孤立する
 という諺が生きているほどです。
 ある日本人が中国に旅行に行ったときのことでした。町の商店に入ると、店員が、
 「だんな、うちの商品はみな本物です。他の店にはニセモノしか置いていませんよ」
 と言いました。そんな言葉を、どの商店に入っても言われる。こんな商売上の嘘ならまだしも、「南京大虐殺」といった政治的な嘘を声高に叫ぶのは、日本人としては本当に困ったものです。
 さらに中国政府は、中国共産党がいかに人民にやさしく、日本軍がいかに残虐だったかという彼らがいう「正しい歴史認識」――私たちからみれば嘘の歴史を国民に教えています。
 また中国の歴史教科書には、元の時代の中国が日本を侵略した「元寇」に関する記述すらありません。中国の教科書には、共産党を讃美する虚偽の歴史が書かれているだけです。
 中国は歴史の国です。とはいえ、中国の歴史は常に「勝てば官軍、負ければ賊軍」の観念で書き換えられてきました。支配した者はいつも自己の歴史を美化し、また負けた者には対しては「賊軍」の仕打ちを加えてきたのです。
 勝った者が善玉であり、負けた者は悪玉とされ、負けた者には徹底的な糾弾と懲らしめが加えられました。今日、中国の政治家が日本の政治家に対し居丈高なのでは、その伝統によるものです。
 もっとも、中国人のすべてがそうだということではありません。民間レベルでいうと、最近の中国の経済発展と共に中国人が海外の人々と接する機会や、海外の情報に接する機会も増えてきました。そして教養のある中国人も増え、それにともない、人格的に尊敬できる中国人も増えています。
 私自身、中国系アメリカ人や、中国系日本人の友人、中国に住む中国人の友人等がいますが、彼らは本当に尊敬できる人物です。彼らのような人々ばかりだったなら、どれほどいいでしょうか。けれども、残念なことに中国では、政治家や共産党員、また一般の商売人の中にはまだまだ、平気でウソをつく人々の多いのが実情です。
 クリスチャンも、こうした中国の実情に無知ではいられません。中国はいまも独裁国家であり、自由と人権の抑圧された国です。言論の自由も普通選挙もなく、経済発展はしているものの、体質的には前近代的な国家です。また、いまも台湾を武力統一する気持ちを持っており、その機会をねらっています。
 中国は今もアジアの不安定要因の一つです。私たちは、中国国内にいる多くのクリスチャンたちの思いに合わせ、中国とアジアのために今後も祈っていきましょう。


久保有政著


エイズは生物兵器として開発されたらしい、、、!

AIDSウイルスとは、

ヒト免疫不全ウイルス(ヒトめんえきふぜんウイルス、英: Human Immunodeficiency Virus, HIV)のことで、人の免疫細胞に感染し免疫細胞を破壊して、最終的には後天性免疫不全症候群(AIDS)を発症させるウイルス。

リンパ球に結合するHIV-1
リンパ球に結合するHIV-1

誰がエイズを開発したのか?

と言うタイトル、、、

人為的に作られたものだと言うのだが!

果たして真偽は?


オルタナティブ通信より
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誰がエイズを開発したのか?

1961年、ベトナム戦争中、ケネディ大統領は枯葉剤の使用を許可する。
ベトナム全土の農産物を全滅させ、敵国ベトナムを飢餓に陥れようと言う作戦であった。
農産物を「枯れ死に」させる目的で開発された枯葉剤の中身は、強烈な発ガン物質ダイオキシンであり、2007年現在でもベトナムでは枯葉剤の影響で奇形児が誕生し続けている。

ケネディのこの枯葉剤散布作戦を実際に指揮したのは、メリーランド州フォートデトリックの米陸軍細菌兵器研究所の化学兵器部隊であった。
フォートデトリックは、遺伝子組み替え技術を使った生物兵器=ウィルス・細菌兵器の研究所であり、化学兵器部隊は付随的な部隊であったが、枯葉剤を実際に
開発したのは米国最大の化学企業モンサント社であり、フォートデトリック研究所とモンサント社の一体化が枯葉剤の開発、実戦使用を巡って明らかになる。

ベトナム戦争後、モンサント社はこの枯葉剤を農業用の除草剤として大々的に転用、販売し始める。しかし、この除草剤を使用すると雑草だけでなく農産物そのものまで枯れさせてしまう難点があった。そのためモンサント社は、遺伝子組み替え技術を使いダイオキシンでも枯れない農産物の種子=遺伝子組み替え食品を開発し、枯葉剤・ダイオキシンと遺伝子組み替え食品を「ワンセット」で販売し始める。
現在、私達が日常的に「食べさせられている」遺伝子組み替え食品は、常に強烈な発ガン物質ダイオキシンに汚染されている危険性を持つ事になる。

元々、ダイオキシンに汚染されても枯れない「食品」として、遺伝子組み替え技術は「開発」された。そして遺伝子組み替え技術により農産物はダイオキシンに
汚染されても枯れないが、それを食べた人間は必ず癌にかかる。

現在、モンサントは世界最大の遺伝子組み替え食品企業として、世界最大規模の穀物商社カーギル社と提携し、米国を中心とした食品の生産・流通の独占体制を形成しつつある。
コーンフレークのケロッグ社、インスタント・コーヒーのネッスル(ネスレ)社は、このダイオキシン企業モンサント・カーギルの傘下にある。

ベトナム戦争後、米国政府は生物兵器としてエイズ・ウィルスを開発、流布する。
このエイズを「遺伝子組み替え技術を使い」開発したのはフォートデトリック研究所であったが、フォートデトリックと「遺伝子組み替え技術の世界のトップ企業モンサント」は一体化していた。
実働部隊としてフォートデトリックで生物兵器エイズを開発した企業が、モンサント社である可能性は極めて高い。
なお、モンサントの最大株主=経営者は、ブッシュ前大統領一族とロックフェラーである。

http://alternativereport1.seesaa.net/article/49605295.html
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イルミナティー陰謀論を唱える人々、〜○×▲!

世界を支配しているのは、ユダヤの国際金融資本で

ユダヤの陰謀がー○×▲ーーと思っている人!

そう触れ回っている、どこぞのUNO先生とか、、、

もと4BUSUの記者さんとか、が言っている事、

信じてる人、

過去の記事ですが、、、これ読んでみて↓


オルタナティブ通信より、、、
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日本におけるロスチャイルドの手先達


 米国ブッシュ政権も終わりに近づき、ブッシュ大統領の最大支持基盤であったキリスト教原理主義教会の内部で、分裂抗争が激化しつつある。「日本人、黒人等々と言った有色人種は劣った人種であり、核戦争で絶滅させよ」と強硬に主張する、このキリスト教原理主義教会の内部では、右派と極右派が、過激な「内ゲバ」を繰り返して来た。

それが、現在のイスラエルのガザ進撃を巡り、再び噴出して来た。

 元々、キリスト教徒「のみ」が救われると考える、この排他的な宗派では、ユダヤ教徒=イスラエルは「邪教」でしか無かった。
ユダヤ教徒はキリスト教に改悛する事によってのみ、救われる事になる。そして、
その救いの時=神の再臨の時は、核戦争による人類絶滅の瞬間に「やって来る」と言うのが、このキリスト教原理主義教会の持論である。

そのため神の再臨=神の国の到来を待望する、この米国最大の宗教組織は「核戦争によって人類が絶滅する事」を待望する。この宗教的情熱が米国の軍事産業、核兵器産業と結び付く時、米国の最大産業である軍事産業の「経済的支援」によって、この宗教は「世俗的な最大宗教勢力、政治勢力」になる事が可能となった。
世界各地で戦争が起こり、兵器販売の売り上げが伸び、第三次世界大戦に近づく事、世界各地で核兵器販売が伸び、核戦争が近づく事は、「軍事産業の利益であり、同時にキリスト教原理主義教会の待望する神の再来のための利益」となる。

このキリスト教原理主義教会は軍事産業からの寄付金で、TVに多数の宣教師を登場させCMを流し、全米各地の学校に寄付を行い、各地域に豪華な教会を建設し信者を獲得してきた。アメリカ大統領の就任式では、このキリスト教原理主義教会の宣教師が新大統領に宣誓を行わせ、聖書に「手を置かせる」。

現在のイラク戦争の計画を立案したブッシュの国防政策会議議長リチャード・パールが、このキリスト教原理主義教会の「政治部」の幹部であり、同時に、核ミサイルの最大手メーカー・レイセオン社の「ミサイル販売営業担当者」であった。パールは政界に入る直前まで、世界各地で核ミサイルの販売営業を行っていた。ニックネームは「ミスターミサイル」である。このレイセオンの重役がチェイニー副大統領である。

こうした人事に、キリスト教原理主義教会と核兵器産業、そして米国政権の「一体化」を明確に見て取る事が出来る。



 現在、核戦争を起こす最も危険性のある地域の1つが中東である。そして、イスラエルの核準備を「拡大させ」、2009年現在のイスラエルによるガザ進撃に見られるような戦争を中東に起こすことが、軍事産業と核兵器産業の利益となる(注1)。それはキリスト教原理主義教会の待望する「世界核戦争」の開始に近づく事にもなる。元々、ユダヤ教を邪教と考えて来た、キリスト教原理主義教会の極右派(ネオコン派と人員が重なる)は、ここで軍事産業との結託による経済的利益を優先し、イスラエル支援=ユダヤ教支持派に「態度を変える」。

しかし、「原理主義的な」右派にとっては、極右派が邪教のユダヤ教を支援する事は「裏切り」となる。

米国軍事産業と結び付く事によって、ブッシュ政権と言う世俗の権力と一体化し、布教活動の資金を得、教団として拡大路線を走り、イスラエルへの支援と中東戦争の拡大を支持する現実派のキリスト教原理主義教会・極右派。
その極右派に対し「裏切り者」として怨念を持ち、「内ゲバ」を始める右派。

ここに右派と極右派の、激しい対立が始まる。

そして、イスラエルと結託した世俗権力の極右派から「排除された」キリスト教原理主義教会の右派の怨念が、「反イスラエル=反ユダヤ主義=ナチス組織の姿を取り」、全米各地のキリスト教原理主義教会の外郭団体に姿を現す。

 この外郭団体の一角を占める出版社がエミッサリー・パブリケーションズ社等であり、当然その主張は「アメリカ連邦政府はユダヤに乗っ取られた」と言う物である。
同時に、既存のカトリック等もユダヤに乗っ取られた、と言うものであり、その乗っ取りの先兵はフリーメーソン、イルミナティと言う組織である、と言う主張になる。

既存のキリスト教から「一線を画する」事で存在意義を確立してきたキリスト教原理主義教会にとって、カトリック・既存宗教は「敵イルミナティに乗っ取られた物でなくては、ならず」、
連邦政府の政権と一体化し権力を握った極右派から「脱落した自分達・右派の正当性」は、連邦政府は「ユダヤに乗っ取られた」と言う事で、「初めて手に入る」。

これが、現代における「ユダヤ陰謀論」「イルミナティ陰謀論」の出自、正体である。

日米の大手書店に並ぶ膨大な数の「ユダヤ陰謀論」書物は、しばしば最も眼に付く場所に平積みされ、ベストセラー扱いされているが、その営業力=資金力は、「人類絶滅を目的と謳うキリスト教原理主義教会・右派」の、巨大な組織力・資金力に拠っている。

このキリスト教原理主義教会・右派系「企業」エミッサリー・パブリケーションズ社の出版物ミッドナイト・メッセンジャー、ユースタス・マリンズの書籍等を、その宗教・軍事産業的な背景への「無知」から、「鵜呑みにし」、反ユダヤ主義の宣伝を行っているのが日本のイルミナティ陰謀論者である。

 こうした日本のイルミナティ陰謀論者が、イルミナティなどと主張し始める以前から、キリスト教原理主義教会の内部では、全ての戦争、災難はイルミナティという悪魔組織によって引き起こされてきたと言う「陰謀論」の主張が繰り返されてきた。既存のキリスト教は、イルミナティという悪魔組織に「乗っ取られており」、それに「汚染されていない新しい自分達の宗教団体こそが世界を救う」という「自己宣伝」である。

「人類絶滅を最終目的とするキリスト教原理主義教会」が、自己宣伝のために「開発したデマ」が、イルミナティ陰謀論であり、その極右派と右派の「内ゲバ」から生み出されてきたのが、ユダヤ陰謀論である。

 このイルミナティ陰謀論の代表的著作が、91年出版のパット・ロバートソンの「新世界秩序」等である。ロバートソンは、全ての戦争はイルミナティの陰謀であると主張し続けている。

そして、かつてアルコール中毒であった子ブッシュ大統領を更生させたキリスト教原理主義教会の宣教師が、このパット・ロバートソンである。ロバートソンは、英国金融街シティの中枢スコットランド銀行の米国代表として、90年代倒産の危機に陥ったロックフェラー=ブッシュ一族のシティバンクに対し、サウジアラビアのアルワリド王子の投資資金を呼び込み、「救済の段取り」を付けた人物として有名である。

「日本人等の有色人種は、劣った人種であり、核戦争で絶滅させるべきである」と強硬に主張するキリスト教原理主義教会が、対日・工作=イデオロギー戦争用の「武器・弾薬」として生み出し、宣伝して来たものが、イルミナティ陰謀論であり、ユダヤ陰謀論である。確信犯的に、あるいは、その無知から、この対日・絶滅戦略に「操られている愚者」が、イルミナティ陰謀論者、ユダヤ陰謀論者の正体である。



 80年代から、日本国内で「ユダヤ陰謀論」の書物を大量販売し、日本における「イルミナティ陰謀論」「ユダヤ陰謀論」の「ブームの火付け役」となり、また後続の「反ユダヤ主義による」売名・売文業者の「師匠」となって来たのが宇野正美である。

宇野は、キリスト教原理主義教会の宣教師である。

また宇野とは別に、近年、「シオン長者の議定書」を盲信し、ユダヤ陰謀論・イルミナティ陰謀論を唱える書物を出版している某宣教師も、このキリスト教原理主義教会に所属している。

 こうしたユダヤ陰謀論者達の唱える、様々な悪行を重ねて来た「ユダヤ系銀行」と称するものの、
経営者の圧倒的多数は、「実は」ユダヤ教徒ではない。具体的な人脈・人間の顔を見れば、こうしたユダヤ陰謀論のデマは、簡単に見抜く事が出来る。

宇野は1980年代から、1999年に、大恐慌が起こり、第三次世界大戦が、「ユダヤの陰謀」によって引き起こされると主張してきた。これはキリスト教原理主義教会独特の「人類終末戦争=核戦争による神の再臨」待望という「願望」から生み出されて来た。

しかし、「実際に」、1999年、第三次世界大戦が「起こったであろうか?」。

イルミナティ陰謀論者の中の、「シオン長者の議定書」を盲信するキリスト教原理主義教会の某宣教師は、コンピューターが西暦2000年に誤作動を起こすと言われた、所謂、西暦2000年問題に際し、コンピューターの誤作動によって核ミサイルが発射され、人類は滅亡の危機に立たされると主張してきた。キリスト教原理主義教会の主張する「人類終末戦争」が訪れる、と言うのである。

また、過激派のトロツキスト集団・第四インター出身で、反ユダヤ主義の書物を翻訳・量産し続ける某イルミナティ陰謀論者は、西暦2000年問題で、ユダヤの画策により社会に大混乱と騒乱が誘導されると主張して来た。

しかし、西暦2000年の到来と同時に、核ミサイルの誤射が連発されたであろうか?

核戦争が起こったであろうか?

西暦2000年に、社会に大騒乱が起こる「イルミナティの陰謀」が起こったであろうか?

起こっては、「いない」。

ここに、こうしたユダヤ陰謀論、イルミナティ陰謀論者の「デマ宣伝」の正体が、明確に現れている。

世界核戦争は、キリスト教原理主義教会の信者達の「世界核戦争が起こって欲しい」と言う、妄想の中にだけ「存在したのである」。

2009年、イルミナティ陰謀論者は、今度は「中国・ロシアの間に大戦争が起こり、そこから第三次世界大戦が起こる」と「大予言」している。

 こうしたイルミナティ陰謀論・ユダヤ陰謀論の「姿を取った」キリスト教原理主義教会の「宣伝工作に踊らされ」、ロスチャイルド、ロックフェラー系企業の具体的分析、現実の政治経済・軍事の冷静な分析を怠り、イルミナティ、ユダヤ教についての、宗教本、古文書の読解に専念して「くれれば」、ロスチャイルドも、ロックフェラーも「安泰であり、大喜び」であろう。イルミナティ陰謀論者、ユダヤ陰謀論者の正体が、ロスチャイルドの「部下」である事は、その出自がキリスト教原理主義教会にある事によっても、十分、証明される。

 なお、日本のイルミナティ陰謀論者の内部で、雑誌「フォーブス」の元記者(一種の世俗化・大衆迎合的な傾向を持つ)と、過激派出身のナチス本の翻訳・量産屋の2名が、イスラエル問題を巡り、対立を深めている。これは、世俗化の方向を選択した米国キリスト教原理主義教会の極右派と、原理主義に固執する右派との、イスラエルを巡る対立の「超縮小コピー」である。2名共、「精神科医師による投薬の効果が無くなって来た様なので、医師と病院を変える事」を、お勧めする。

患者さん、お大事に。



*注1・・・それは、軍事産業を中心に世界経済を、現在の「金融恐慌から回復させるためには、どうしても必要である」。そのために「こそ」、現在中東で戦争が起こされている。

日韓併合時代の真実 (詳細版)

日韓併合時代の真実
かつて日本と朝鮮が手を取り合って、仲良く生きていた時代があった Chosen01.jpg

日韓併合(1910-1945年)前の朝鮮。飢えと貧困にあえぐ人々。
[1880年代のソウル南大門大通り(中心街)]
日本はこの朝鮮を建て直した。


親から聞かされた「日本人は親切だった」

 日本には今日、悲しい風説が飛び交い、それによって多くの人々が惑わされています。たとえば、
 「日本はかつて朝鮮を侵略し、朝鮮の人たちを弾圧し、虐待し、搾取し、ひどいことをした」
 といった類の風説です。学校でも習ったでしょう。あたかも事実であるかのように。
 日本は悪者だ、と教え込まれてきたのです。しかし、こうした主張が本当なのか、それとも事実とは違うのか、私たちは、当時の実体験を持つ長老たちに聞かなければなりません。
 韓国人の女性で、呉善花(お・そんふぁ)さんというかたがいます。日韓関係についてたくさんの本を書いているかたですが、彼女は小さい頃、親の世代から「日本人はとても親切な人たちだった」と聞かされていました。
 ところが、学校に入学すると、先生から、「日本人は韓国人にひどいことをした」と教わって、すさまじいばかりの反日教育を受けたのです。それでいつしか、学校で教えられるままに、「日本人は韓国人にひどいことをした」という認識が、彼女の中で常識となっていました。
 彼女はその後日本に渡って、日本で生活するようになりました。すると、かつて親から教えられた「日本人はとても親切な人たちだった」という言葉が、再びよみがえってきたのです。
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日韓併合時代中、1936年のソウル、南大門通り。

 それで彼女は、日本と韓国の歴史について、もう一度勉強し直しました。やがて彼女は、韓国で受けた反日教育というものが、非常に偏った、間違いだらけのものであることを知るようになります。そして、反日主義から抜け出したのです。
 彼女はのちに、『生活者の日本統治時代』(三交社)という本を出版しました。これは、かつて日本が朝鮮を統治した時代――つまり日韓併合の時代(一九一〇〜一九四五年)を実際に体験した日本人や韓国人にインタビューして、それをまとめたものです。
 そこには、日本統治下の朝鮮を実際に体験した日韓一五人の証言が書かれています。いずれも、今はかなりお年をめされた方々ばかりです。
 彼らは貴重な証言を残してくれました。彼らの体験談を通し、あの朝鮮における日本統治時代は実際はどんなものだったか、ということが非常にはっきり見えてきます。
  私たちは彼らの証言に耳を傾けてみましょう。
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日韓併合前のソウルの様子

日本統治下の朝鮮を体験した人々の証言

 たとえば阿部元俊さんは、大正九年、三歳のときに朝鮮に渡り、そこで学生時代を過ごした人です。文字通り、日本統治下の朝鮮を体験したのですが、彼はこう言っています。
 「私が朝鮮にいたころ、日本人による朝鮮人いじめの話は、噂としてもまず聞いたことがありません。とくに、ソウル郊外の水原にいたころは、日本人が少ないからと珍しがられて、地域の人たちはみな親切にしてくれていましたしね。
 少なくとも水原では、私の知る限り、日本人と朝鮮人とが衝突したとか、喧嘩したとか、何かのトラブルがあったといった話は聞いたことがありません。……ソウルでもそうでした。……学校では、
 『ここは朝鮮だ、我々は他人の国によそからやって来て住んでいる。朝鮮人と喧嘩したり、朝鮮人をいじめたりは絶対にしてはいけない
 と盛んに言われていましたし、親からも厳しくそう言われていました。……
 私の父は医者で、貧困な農民たちの治療に励んでいましたが、それで病原菌をもらってしまいまして、腸チフスと赤痢にかかってしまいました。父が病院を辞めるときには、多くの朝鮮人が家にやって来て、『どうか辞めないで、ここにいてください』と泣いて別れを惜しんでいました。……
 戦後、日本に帰ってから、朝鮮に住んでいた日本人は朝鮮人をさかんに苦しめたという言葉を、当然のようにぶつけられましたが、自分の体験からすると、いったいそれはどういうことなのか、どう考えてもわかりません。
 喧嘩ということだけでなくて、問題になるようないじめとか、差別とか、一般生活者の間ではほとんどなかったということを、私は自分自身の実体験から自信をもって言うことができます

 このように阿部さんは、一般庶民のレベルでは朝鮮人と日本人は仲良くやっていたと、証言しています。今日、韓国の学校教育では、
 「日帝は、全国いたるところで韓民族に対する徹底的な弾圧と搾取を行ない、支配体制の確立に力を注いだ」
 「日帝の弾圧に苦しめられたわが韓民族は、光復(戦後の解放)を得るまでの間、植民地政策に対して自主救国運動を展開した」
 等と教えられています。このようなことを教えられると、日本人はまるで朝鮮でヤクザのようにふるまい、日本人は朝鮮人を虐待し、両者は至る所で非常に仲が悪かったような感じですね。しかし、実際に朝鮮における日本統治時代を体験した人々に聞くと、まったく違う様子だったのです。

 たとえば、生まれも育ちも朝鮮の新義州(今日の北朝鮮北部)という林健一さんも、こう語っています。
 「日本人による朝鮮人差別ということは、まったくありませんでした。学校で生徒同士は完全に対等で、上級生の朝鮮人が下級生の日本人を呼び寄せて、『お前は服装がなっていない』とか説教することなんかがたびたびありましたね。……
 朝鮮を出て、日本の内地に行きたいとも思いませんでした。朝鮮の人々はよかったですし、私も居心地がよかったですから。……骨をどこに埋めるかと聞かれれば、『朝鮮』と答えたものです」

 また、日本統治下のソウルで青春時代を過ごした吉田多江さんは、こう語ります。
 「近所の子どもたちともよく遊びました。私は朝鮮の女の子たちの長く束ねた髪の毛がうらやましくて、私がさわりたいと言うと、よく触らせてくれました。……何の区別もなくつき合っていました。……
 仲のよかった思い出がいっぱいで、朝鮮人と日本人の間でいじめたりいじめられたりといったことは、本当に見たことも聞いたこともありません。……朝鮮はとても治安がよくて、日本人を襲う泥棒や強盗の話など聞いたこともありません。……横暴なふるまいなど一切ありませんでした。
 戦後になって日本に送還されるときも、家財道具を盗られるなんてこともなく、こちらから知り合いの人たちにあげましたし、彼らはみな喜んで感謝の礼を表してくれました。こんな素晴らしいことって、あるでしょうか。世界に誇れることだと思います。……
 創氏改名(日本人名を名乗ること)を強制的にさせたとも言われますが、私のまわりの朝鮮人はみな終戦までずっと朝鮮名のままでした。
 戦後の韓国で言われてきた歴史には、あまりに嘘が多いと思います。……私はソウルで生まれ、成年になるまでソウルで生きてきましたが、日本人と韓国人が基本的に仲良く生きてきたことは、双方の民族にとって誇るべきことだと思っています」


朝鮮人と日本人は仲良く生きていた

 また同じく、日本による朝鮮統治時代を体験した韓国人の朴承復さんも、こう語っています。
 「学校では日本人生徒たちからも先生からも、差別されたことはありませんでした。……今でも日本人の同期生たちと会うと、彼らは韓国語で話したがります。……今なおそれほど親しくつき合っている日本人の同期生が何人もいます。
 商業学校の恩師二人は、とても尊敬できる方でした。一人は松尾先生で、国語の先生でした。この先生は韓国人、日本人にかかわりなく尊敬されていました。……
 もう一人は横尾先生です。この先生は日本人生徒たちからは嫌われていました。めちゃめちゃに厳しくて、過ちを犯せば決して許さない方でした。しかし、私はなぜか特別に可愛がってもらいました。いろいろな相談にものっていただいた大恩師です。
 卒業後、朝鮮殖産銀行に務めましたが、差別的な扱いを受けたことは全くありません。……行員家族全員で地方の温泉地へ一泊旅行に行ったりもしました。日本人も韓国人も区別なく、みんな仲良く楽しく遊んで過ごしました。
 日帝時代にそんなことあり得ないと言われるかもしれませんが、過激な人や極端な人たちの一部での喧嘩や衝突はあっても、一般の日本人と韓国人のぶつかり合いなんか、見たこともありません。…
 多くの日本人は、朝鮮人から家をちゃんと借りて住んでいました。日本人が勝手に韓国人の家を奪い取るなど、そんなことはなかったです。当時の日本人は本当に質素でした。……私自身は当時の日本人に対して悪い印象は全く持っていませんでした

 また、ソウルの京城帝国大学で学んだ韓国人の閔圭植さんは、こう語っています。
 「私は個人的には日本人と仲がよくて、悪い感情はありませんでした。日本人が韓国人に恐怖を与えたとか、韓国人が日本人に殴られたとか、何か嫌がらせをやられたとかいったことは、個人的には見たことも聞いたこともありません。……
 日本人が韓国人の家を奪って勝手に使うとか、土地や財産を搾取するとかいうことも、まったくありませんでした。神社参拝については、何かの日には学生全部が連れて行かれました。行かなくても別に厳しい文句は言われませんでしたが」

 また、日韓共同映画『愛の黙示録』を作り、三〇〇〇人の韓国人孤児を育てた日本人・田内千鶴子さんの生涯を描いた監督・金洙容さんも、こう語っています。
 「農場の日本人たちはとても勤勉でした。日本人は早くから科学的で先進的な農法を使っていました。……日本人の経営する農場には、韓国人たちもたくさん働いていました。日本人は日当をきちんと計算して渡してくれました。彼らはとても礼儀正しく、日当を支払わないようなことはまずしません

 また、新義州の中学や高校に通っていた李萬甲さんは、こう語っています。
 「朝鮮人は私一人でしたが、日本人の同級生みんなに親切にしてもらいました。……日本人の先生には立派な方がいらっしゃいました。……
 創氏改名は昭和一五年からのことでした。ほとんどの人が変えていましたね。……しかし、官庁に務める人でも、変えないからといって首になるようなことはありませんでした。……
 日本人が韓国人の生活を侵害するとか、略奪するとか、そんな類のことは日本人は全くしませんでした。日本人は法に反することをしないようにと、非常に気をつけていました
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 新興工業都市、興南(日韓併合時代、1942年)
日本人も朝鮮人も協力しあって働いていた
 
朝鮮人に助けられた思い出

 さらに、新義州の朝鮮人学校で教鞭をとっていた佐久間房子さんは、こう語ります。
 「朝鮮人家庭を訪問することはかなり多かったです。招待を受けて他の先生たちと一緒に行きますと、家族全員が出てきて丁寧にお辞儀をしてくれます。その丁重な歓待ぶりには、いつもこちらは恐縮するばかりです
 この佐久間さんは、戦後、日本へ送還されるとき、朝鮮人に助けられた経験があるといいます。
 「収容所の三畳ほどの部屋に八人で暮らしていましたが、何かのおりに朝鮮人の元従業員たちが来てくれて、そのたびに『こんな狭いところで生活しているなんて、かわいそうだ』と涙を流してくれるんです。……
 やがて送還船に乗ることができました。送還のときには、下に住んでいた朝鮮人たちが泣きながら見送ってくれました。……あの人たちの命をかけた好意は一生忘れることはできません」
 このように朝鮮人に助けられた、親切にされたという日本人も、非常に多かったのです。

 また、朝鮮総督府(日本による朝鮮統治の中心)の警察幹部だった坪井幸生さんは、かつて朝鮮で共に働いていた多くの朝鮮人と、深い友情を持ち続けているといいます。坪井さんはこう言っています。
 「彼らとは今も、本当によい気分で話ができるのです。こういう私たちの関係を、『日本は悪いことをした』式の見方をする人たちは、どうみるのでしょうか。日帝時代に、日本が朝鮮に対して悪いことをしたのであれば、警察部長をやっていた私などは、その悪の最大のものと言われるでしょう。そうであれば、彼らがつき合ったりするはずがありません」

 私たちクリスチャンが気になる神社参拝については、どうでしょうか。昭和一八年から朝鮮総督府で働いていた工藤真澄さんは、こう語っています。
 「朝鮮では神社数が圧倒的に少なくて、神社のない地域がたくさんあるわけです。学務課では、参拝するのかどうかについて議論されていましたが、強制へ向けて動くというのうようなことはありませんでした
 いずれにしても、終戦直前の一年ほどの間のことです。その一年間、ソウルでは朝鮮神宮に中学生以上が月に一度、参拝するようにしていたかもしれません。平壌では、神社参拝を義務にしたり強制したりしたことはありません」
 また、朝鮮総督府には、朝鮮人の職員も多かったといいます。工藤さんはこう語っています。
 「朝鮮人とは同じ役人として一緒にすわって仕事をしていましたし、朝鮮人課長の下に日本人課長補佐がいることもありました。そういうなかで、とくに日本人と朝鮮人がぶつかり合うようなことは見たことも聞いたこともありません。……日本人が特権的に振る舞える条件など全くありませんでした」

 また日本統治時代、ソウルの京城帝国大学で学んだ吉田道弘さんは、こう語ります。
 「私は第一五回の卒業生で、予科のときのクラスには日本人が二五人、朝鮮人が一〇人いました。同級生の一人に金永善がいました。彼とはとくに仲がよかったです。……
 金永善は戦後、国会議員になりましたが、李承晩政権の反日政策に反発して、野党にあり続けました。彼は与党政権から弾圧を受けて、監獄にまで入れられたんですが、田中総理がお願いして出ることができました。彼はのちに駐日大使となって、日本に派遣されました」

 
日本人は不法なことをしないよう気づかっていた

 さらに、一番始めに述べました阿部元俊さんは、従軍慰安婦問題に関する質問に、こう答えています。
 「日本人が朝鮮の田舎に行って、若い娘たちを奪ってきたと言われますね。そんなことはあり得ないです。もしそんなことをしたら誘拐犯ですし、懲役刑を受けることになります。いや、法律の問題以前に、村の人たちにめちゃめちゃにやられてしまいますよ。……
 またそんなことがあれば、必ず私の耳にも入ってきたはずです。でも、そんな話も噂も一度も聞いたことがありません。これはね、当時朝鮮に住んでいた日本人の名誉にもかかわることです。……
 警察署長も朝鮮人でしたし、裁判所の判事、検事などにも朝鮮人がいました。朝鮮総督府では、局長、部長、課長にも朝鮮人がいました。もちろん警察官は、朝鮮人だろうと日本人だろうと同じ権限を持っていました。
 そういう状況下で女狩りが堂々と行なわれ、一人として問題にする者がいなかったなんて、あり得ないことです。全人口の一%にすぎない日本人が、そんなに悪いことをして安全に生きられたわけがないんです
 阿部さんは、従軍慰安婦問題というのは、戦後になされた歴史捏造にすぎないと断言しているわけです。阿部さんはまた、戦時中の徴兵についてはこう語りました。
 「昭和一八年に、学徒動員となり、日本人学生たちは強制的に呼び出されて戦地に向かいました。……そんなときでも、大部分の朝鮮人は戦地に行く必要がありませんでした。正直な話、朝鮮人がうらやましかったですよ。『これは差別じゃないか』と言ったりもしたもんです。
 朝鮮人までが徴兵されるようになったのは、昭和一九年四月からのことでした。……自ら志願して戦地に行った朝鮮人たちもたくさんいました。……しかし志願ではなく戦死した人たちもいますし、……それを思うと本当に心が痛みます」

 以上、いろいろな方の証言をみてきました。いずれも、日本統治下の朝鮮を実体験された方々です。
 これらの証言からみえてくるものは、かつて日本人と朝鮮人が手を取り合って生きていた時代があった、ということです。庶民レベルでもごく普通に仲良くつき合っていました。また朝鮮総督府内でさえ、机を並べて日本人と朝鮮人が共に働いていたのです。
 日本が朝鮮を支配した三六年間において、両者の間に若干の衝突事件はありました。しかしそれらはきわめて散発的なものでした。規模も小さいものでした。日本統治下の台湾に比べれば、朝鮮の反日運動はきわめて少なかったのです
 全体的にみれば、日本統治下の朝鮮において、日本人と朝鮮人の間には良好な関係が築かれていました。もちろん当時、日本と朝鮮は一体でしたから、戦争末期には朝鮮国内でも徴兵や徴用(労働に呼ばれること)が行なわれ、苦痛を感じた者たちも多くいました。
 しかし、それは日本人も同じだったのです。日本と朝鮮は運命共同体になっていました。
 だからこそ、朝鮮で徴兵制が敷かれる以前にも、朝鮮人の中には自ら志願して兵士となり、日本人と一緒に敵と戦おうという人たちが少なくなかったのです。その朝鮮人志願兵の倍率は、昭和一七年にはなんと採用数の六二倍にも達し、非常に狭き門でした。
 それほど多くの朝鮮人が、志願してまでも日本人と共に戦いたいと願ったのです。彼らの中には特攻隊の隊員となって散っていった人々もいました。このように朝鮮の人々と日本人が共に生きていた時代が過去にあったことを思うと、私は感無量の思いです。
 戦争末期の朝鮮は、たしかに苦しい時ではあったでしょう。しかし、日本の内地も同じでした。いや実際は、日本の内地より朝鮮のほうがはるかに恵まれていたのです。
 なぜなら日本の内地は、アメリカ軍の爆撃を受けて多くの都市が破壊されました。しかし朝鮮は、そうした攻撃を一切受けなかったからです。また、戦争末期の朝鮮の物資欠乏や苦しみでさえも、かつての李朝時代の朝鮮の悲惨さに比べれば、はるかに恵まれたものでした。
 また日本の統治がなければ、朝鮮半島は二〇世紀前半までにロシアか中国の領土となっていたでしょう。そして朝鮮民族も、朝鮮文化も消滅していたに違いないのです。
 志願兵となった朝鮮人兵士らは、そのことを理解したからこそ、日本人たちと共に戦地に赴いたのです。そうした事実を、今の韓国人はほとんど知りません。しかし私は、これは日本と朝鮮が手をたずさえ合って生きた「古き良き時代」といってもいいとさえ思っています。
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朝鮮ホテル(1940年、ソウル)
左端の女性は舞踏家・崔承喜

朝鮮のひとり立ちを助けた日本

 やがて日本が敗戦を迎え、朝鮮から日本人たちがみな去っていったとき、ひとりの人が韓国へ戻ってきました。彼の名は李承晩(イ・スンマン)。彼は、それまでハワイにいましたが、アメリカから韓国初代大統領の座を与えられ、韓国を支配するようになりました。
 もともと熱烈な反日主義者だった李承晩は、日韓併合時代中、ずっとアメリカに亡命していましたので、朝鮮における日本統治を体験していません。彼は日本統治を知らない。その彼が、韓国初代大統領の地位につくと、親日派の人々をすべて追放し、もはや反日でなければ韓国では生きられないようにしました。
 家庭でも学校でも職場でも、親日的発言はすべて禁止され、日本の悪口だけが許されるようになりました。虚偽と捏造によりゆがめられた歴史観が学校で教え込まれ、少年少女は、すさまじい反日教育の中で育てられていったたのです。
 そうやって、今日の韓国の反日主義が形成されました。北朝鮮の金日成の場合も同様です。今も北朝鮮、および韓国には言論の自由はありません。そして客観的な歴史教育もないのです。
 しかし少なくとも日本人は、自分の親や、おじいさんやおばあさんの世代の歴史をきちんと知っておく必要があります。日本はなぜ朝鮮を統治したのでしょうか。
 それはごく簡単にいえば、当時の朝鮮は、国家的な破産状態にあったからです。日本はその朝鮮に、助け舟を出したのです。
 これはちょうど、生活力を失った家庭に、国が生活保護を適用することにも似ていました。生活保護法では、その家庭がひとり立ちできるまで、国が保護を加え、援助をしていきます。また職員が生活や仕事に至るまで、事細かに指導していきます。
 同様に、かつて日本は朝鮮をひとり立ちできる国家にするために、朝鮮を統治していったのです。
 これは、朝鮮と日本との間の国際的合意のもとで行なわれたことでした。また、当時の世界の多くの国々が賛成し、承認したものでした。
 そして日本は、実際に朝鮮をひとり立ちできるまでに建て直したのです。恨まれるようなことをやったわけではありません。
 また、日本が朝鮮を統治したのは、ちょうどある会社が、破産状態にあった別の会社を吸収合併して建て直すことにも似ていました。いわば日本株式会社が、破産した朝鮮株式会社を吸収合併して建て直したのです。
 こうした吸収合併の際、日本株式会社は、朝鮮株式会社を経済的に支えるだけでなく、様々な人材を送り込んで技術や経営の指導にあたります。そうやって会社を建て直していくのです。それと同様のことが、朝鮮の国家再建においても行なわれました。
 実際、たとえば朝鮮殖産銀行の頭取として働いていた有賀光豊さんも、ふだんから、
 「朝鮮は、我々がお手伝いして立派な国に育て上げ、そのうえで本来の持ち主に返すべきだ
 という信念で働いていました。息子の敏彦さんがそう述べています。朝鮮に経済的な自立をもたらし、やがてひとり立ちできるようになったら、独立国へ導いていこうと彼は願っていました。
 これは、当時朝鮮で働いていた多くの日本人たちの共通意識だったのです。韓国人の李萬甲さんも、日本統治時代を振り返ってこう語っています。
 「私が通っていた高等学校には、上村先生という日本人の先生がいらっしゃって、立派な方でした。先生は、韓国人の生徒たちが集まっている場で、よく言ってくださった言葉があります。それは、
 『君たちが独立するためには経済の力だ』
 という言葉でした」
 このように日本人は、朝鮮が力をつけて、やがて独立国家となれるよう、自立させるために働いていたのです。


真の日韓友好への道

 もちろん、日本の統治が完全だったというわけではありません。失策や失政もありました。また日本人の中には悪い人たちもいました。内地から来たといって威張っていた日本人もいなかったわけではありません。一方、朝鮮人の中にも悪い人たちもいました。
 しかし全般的にみれば、当時日本人と朝鮮人とは仲良く共に手を取り合って生きていたのです。もし歴史を虫メガネでみれば、小さな部分には、汚れもあったでしょう。けれども、私たちは全体的な姿にあらわれた良い事柄を決して忘れてはいけないのです。
 なぜ私は、こうした過去のことを長々と語ってきたのでしょうか。それは、過去について真実を知ることが、私たちの信仰生活にとっても、きわめて大切だからです。
 多くの人々が、「日本人は悪者だった」と言ってきました。教会でもそれが語られてきました。それを聞かされた私たちも、なんとなくそれを信じ込まされてきました。しかし、上に述べたように、実際にそれを体験した人々の証言によく耳を傾けることが非常に重要です。
 聖書の中にも、こう記されています。
 「昔の日々を思い出し、代々の年を思え。あなたの父に問え。彼はあなたに告げ知らせよう。長老たちに問え。彼らはあなたに話してくれよう。』」(申命記三二章七節)
 この箇所は、指導者モーセが、イスラエル民族に向かって語ったものです。
 イスラエル民族は、すでに出エジプトをし、シナイ半島の荒野を放浪していました。荒野の各地で宿営し、キャンプ生活をしていました。その生活は、決して楽なものではなく、辛いものだった。エジプトでの奴隷生活に比べれば、それははるかに良いものだったのに、ある人々は不平をこぼしていいました。
 「エジプトでは少なくとも、もっとおいしい物を食べられた。肉鍋もあったし、パンも腹一杯食べられた」
 また、こういう人々もいました。
 「モーセは、あの繁栄したエジプトから我々を連れだして、こんな荒野でのたれ死にさせようとしている。モーセは我々に悪を行なったのだ」
 彼らは、モーセは悪者だと非難したのです。しかしそのとき、モーセは皆の前に立って言ったのです。
 「あなたの父に問え。彼はあなたに告げ知らせよう。長老たちに問え。彼らはあなたに話してくれよう
 と。あなたがたは風説に惑わされてはならない。当時の実体験を持つあなたがたの父や、長老たちに話を聞きなさいと。彼らの数は今では少なくなったけれども、彼らの言う言葉に耳を傾けることが大切だと言いました。そのときに真実がわかるからです。
 真実に立つことは、信仰生活の基盤です。日本人は悪者だ、という偏った見方、間違った罪責感は、日本のリバイバル(信仰の覚醒)の妨げになることを、どうか知ってください。
 健全な罪責感は、悔改めと神への信仰に導きます。しかし間違った罪責感は、日本人を神から遠ざけます。それは私たちの観念をゆがんだものとし、健全な信仰生活を邪魔するものです。
 ましてや、クリスチャンが「日本人は朝鮮にひどいことをした」「日本人は悪者だ」と、間違った罪責感を広めてはいけません。それは自ら首を絞めるようなものです。そんなことを言い広めるクリスチャンの説くことを、誰が信じるでしょうか。
 私は自分を日韓友好論者と思っています。日本と韓国は仲良くすべきです。しかし本当の友好は、相手が言ったことをよく調べもせずに謝ることで築けるものではありません。真実の歴史を認識して初めて築けるものです。
 たとえ向こうが、「日本人はひどいことをした」と言っても、その時ろくに調べもせずに「すみませんでした」と言ってはいけないのです。たとえばみなさんは、ある日突然、あなたのもとに人が来て、
 「あなたのおじいさんは、ドロボウをしたのです。償ってください」
 と言ったとしましょう。そのとき、どうしますか。ろくに調べもせずに「すみません」と謝るでしょうか。いや、やはり、まずきちんと調べるでしょう。本当にそんなことがあったのか。日韓の関係についても、まさしくそうなのです。
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日本は莫大なお金をつぎ込んで、朝鮮を近代国家に変えて
いった。これは朝鮮に造られた水力発電所、水豊ダム。
当時出力世界2位のダムで、朝鮮及び満州の電力をまかなった。

日本は悪者だと言うことが宣教ではない

 以前、私がこうしたことを語ると、ある日本人がかんかんに怒って、私に言ってきました。
 「悪が善を消すことはできる。しかし善は悪を消せない。日本統治時代に良いことがあったとしても、悪いことが少しでもあったならば、日本の統治は間違っていたのだ」
 しかし、私はそうは思いません。もし間違ったことがあったならば、それは個々に反省し、悔い改めればよいことです。
 私たちは全体的な見方を忘れてはいけないのです。「日本人は悪者だった」という見方は、非常に皮相的で、偏っています。私たちはそうしたレッテル張りから解放されなければなりません。
 私たちに与えられている神様からのメッセージは、「日本人よ、おまえは罪人だ」「悪者だ」ではありません。
 「日本人よ、あなたは神に愛されている」
 です。
 イエス様が人々にどのような接し方をされたかを、思い出してください。イエス様は、あの取税人のかしらザアカイに対してさえ、「おまえは罪人だ」とは一言も言われませんでした。むしろ、「この人もアブラハムの子なのだ」と言われました。神の愛の中にある人なのだと。
 またイエス様は、あの五人も夫を取り替えたサマリアの女に対して、「あなたは罪人だ」と一言も言われていません。むしろ彼女に、本当の信仰を説かれたのです。
 姦淫の現場を捕らえられて連れられてきた女に対しても、イエス様は「あなたは罪人だ」とは言われていません。むしろ「わたしは世の光です。わたしについてきなさい」と言われました。
 福音書を調べてみると、イエス様が、パリサイ派の人々や律法学者の偽善を責められたことはありました。しかし主がご自身のもとに来る人々に、
 「あなたは罪人だ」「悪者だ」
 と言われたことは一度もないことがわかります。イエス様は、そう言える立場にあるかたなのに、どんな人間に対しても、そう言うことがありませんでした。
 イエス様がある日、生まれつきの盲人の近くを通られたとき、弟子たちが質問しました。
 「イエス様、彼が盲目に生まれついたのは、彼自身が罪を犯したからですか。それとも両親が罪を犯したからですか」
 しかしイエス様は、
 「この人が罪を犯したのでも、両親でもない。神のわざがこの人に現われるためなのだ
 と言って、彼の目を開かれました。イエス様は、誰をも「あなたは罪人だ」とは言われなかったのです。
 イエス様は人々に、ただ神の愛と、真の道を説かれました。これは非常に大切な点です。もしあなたが、人々に「あなたは罪人です」「悪者です」と説くことが福音宣教だと思っているなら、それは違います。
 私たちクリスチャンにとって大切なのは、日本人に対して「日本人は罪人だ」「悪者だ」と説くことではありません。むしろ大切なのは、
 「日本人よ、あなたは神様に愛されています」
 と言うことです。神が「ご自分のひとみのように」日本を愛し、世話し、守り、日本をいつくしんでくださった事実を伝えることなのです。
久保有政著

※学び、伝道、教会活動等にご自由にお役立て下さいとの筆者のコメントにより
 出版物などになっていないので、転載させていただきました!

真実の歴史認識『日本近代史』

自虐史観から
真実の歴史認識へ
日本を悪者とする自虐史観はもうやめよう
aindo
インドのオールドデリー市街、チャンドラ・ボース公園の
「インド独立義勇軍(INA)と日本兵たち」の像(日の丸に注目)。
日本兵はインド兵と共に戦い、それがインド独立の基礎となった。


 ある日本人の学校教師が、戦後、マレーシアを訪れました。
 かつて日本軍は大東亜戦争(太平洋戦争)中に残虐非道を尽くした、と思っていた彼は、マレーシアにおける日本軍の活動を調査しようと思ったのです。
 彼は、マレーシアの上院議員ラジャー・ノンチックに会って言いました。
 「日本軍はマレー人を虐殺したに違いありません。その事実を調べにきました」。
 すると、ノンチック議員は驚いて言ったのです。
 「日本軍はマレー人を一人も殺していません。日本軍が殺したのは、戦闘で戦ったイギリス軍や、それに協力した中国系共産ゲリラだけです。それに、日本の将兵も血を流しました」。
 そのような話が、『教科書が教えない歴史』(扶桑社文庫)という本に紹介されています。


日本軍はマレー人を一人も殺さなかった
じつはこのノンチック議員は、かつてマレーシアの独立に半生をかけた人です。
 マレー半島は、かつて150年もの間、イギリスの植民地支配に苦しんでいました。マレー半島だけではありません。当時アジア諸国において、独立国は日本とタイだけであり、他のほとんどは欧米列強の植民地と化していたのです。
 当時、欧米列強は、アジアは白人のために資源を供給すべき国々、白人に隷属すべき国々とみなしていました。彼らはアジア諸国から収奪し、搾取を続けていたのです。
 しかし1941年、日本は真珠湾攻撃と同時に、マレー半島に進撃。イギリス軍を打ち破りました。日本軍はその後、マレーシア独立のために訓練所を造り、マレー人青少年の教育に力を注ぎました。
 訓練生と共に汗を流す日本人の姿は、マレー青年たちに大きな感銘を与えました。
 「自分たちの祖国を自分たちの国にしよう」
 ――そうした機運が彼らの内に育てられたのです。さらに日本政府は、南方特別留学生制度を創設。アジア諸国独立のため、指導者養成を目指しました。  
                                                              f   
                                    マレーシアのラジャー・ノンチック上院議員   
                            「日本軍はマレー人を一人も殺していません」

 ノンチックは、その第一期生の一人でした。彼は、同じように独立の熱意に燃えるアジアの青年たちと共に、留学生として日本に派遣されます。
 日本人教官たちは留学生たちを、わが子のように厳しく優しく指導し、「独立を戦いとるためには、連戦連敗してもなお不屈の精神を持つことだ」と励ましてくれたといいます。
 日本政府は食糧難の中にも、苦労して留学生の食糧まで集めました。この日本留学の経験は、ノンチックの人生を変えるものとなったのです。
 そののち1945年、日本は敗戦を迎えます。ノンチックは、そのとき決意を新たにしました。
 「日本はアジアのために戦い疲れて破れた。今度はわれわれマレー人が自分の戦いとして、これを引き継ぐのだ」
 ノンチックらは、祖国独立のための戦いを続け、ついに1957年、祖国独立を果たしました。さらに、彼ら日本に来た南方特別留学生たちが中心となり、現在のASEAN(東南アジア諸国連合)が設立されたのです。
 ノンチックは、こんな詩を残しています。
かつて日本人は清らかで美しかった。かつて日本人は親切で心豊かだった。アジアの国の誰にでも、自分のことのように一生懸命尽くしてくれた」。
 かつて日本軍は、東南アジアを舞台として戦いました。しかし東南アジア人を相手に戦ったのではなく、東南アジアを東南アジア人の手に取り戻すために、欧米人を相手に戦ったのです。


日本は「とてつもなく悪い国」だったか

 今日、大東亜戦争中の日本軍の「侵略」行為や、「残虐」行為が取りざたされることがあります。しかし私たちは、歴史というものを偏り見てはいけません。誰かが、
 「日本はアジア諸国を侵略した」
 と言えば、それで日本軍の行動がすべて侵略だったように思うなら、間違いです。
 現在の日本の学校で使われている歴史の教科書は、第二次世界大戦前後の日本のことを、「とてつもなく悪い国だった」と教えます。そのような教育を受けた日本人が、先のノンチックの話などを聞くと、
 「えっ、そんなことあったの?」
 「信じられない」
 と驚きます。このような日本人たちを見て、ノンチック自身、たいへん歯がゆい気持ちでいたそうです。
 私たちが教科書を通して教えられてきたことは、あまりにも一面的なものだったのではないでしょうか。
 歴史というものは、様々な出来事の積み重ねから成っています。私たちは、そうした歴史のすべてを知ることはできないでしょうが、少なくともバランスのよい理解をすることは、大切なことです。
 日本は悪いことだけをしたという考えに偏るのではなく、また、日本は全く悪くなかったというのでもなく、公平に歴史の真実を見つめる歴史観が必要です。
 戦後、タイの首相になったククリット・プラモートは、まだ自分が新聞記者だった頃に、こんな記事を書きました。
 「日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子どもはすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が米・英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか
 それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。12月8日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大な決意をされた日である。われわれはこの日を忘れてはならない」(「12月8日」サンヤム・ラット紙)。  
                                               kk  
                                                ククリット・プラモート(タイの元・首相)  
                                          「日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した」

 この言葉の通り、日本軍の東南アジア進出という一撃は、欧米列強による植民地支配を崩壊させました。大東亜戦争後、アジア諸国はすべて独立したのです。
 

インドネシアを独立させた日本人

 欧米列強の植民地だったのは、インドネシアも同じでした。インドネシアは、じつに約350年もの間、オランダの植民地だったのです。
 オランダの行なった「愚民政策」「貧民政策」――つまりインドネシア人を愚民、貧民のままに押さえ込むという政策のもとで、インドネシア人の平均寿命は、一説によれば35歳にまで低下していました。
 それだけにインドネシア人のオランダへの反感は根強かったのです。それで人々の間で、
 「いまに北方から黄色い強者が空から降り、圧政者を追放してくれる」
 という12世紀の王、ジョボヨヨの予言が信じられるようになりました。
 ですから大東亜戦争が始まった翌年、日本軍がインドネシアに上陸すると、現地の人は日本軍を歓迎し、積極的に作戦に協力しました。彼らの目に日本軍は、自分たちを解放してくれる「北方の黄色い強者」と映ったのです。
 日本軍はオランダ軍を破り、インドネシアに軍政をしきました。しかし、その軍政は、オランダの政策とは大きく違っていました。
 それはインドネシア人の自覚を高め、独立を勝ち取らせることを目指したものだったのです。事実、日本軍は、オランダ語に代えてインドネシア語を採用し、インドネシア人を軍事訓練し、住民組織を作らせ、また行政組織の重要な仕事をインドネシア人に委譲しました。
 これらのことは、たとえば1958年発行のインドネシアの学校用歴史教科書にも、日本占領の利点として記されています。
 また日本軍は、インドネシア義勇軍(PETA)を編成。日本人が隊長となって、防衛のための様々な訓練をインドネシア人に行ないました。
 ところが、そののち日本は敗戦。インドネシア義勇軍も解散させられますが、その4万人の隊員たちは、続くインドネシア独立戦争のための主力となります。
 インドネシアは、日本敗戦の2日後の1945年8月17日に独立を宣言しました。しかし、オランダやイギリスは再びインドネシアを植民地にしようと、一方的に攻撃してきたのです。
 これがインドネシア独立戦争です。このときインドネシア独立のために、自分の意志でその戦いに参加した日本人たちが数多くいました。
 その数は、千人とも2千人とも言われます。彼らは「共に生き、共に死ぬ」(共生同死)を誓って独立戦争に参加。その多くは戦死しました。しかしこの血の犠牲を通して、インドネシアは独立を果たしたのです。
 日本の軍政に問題がなかったわけではありません。しかし、インドネシアでは独立記念日に向けての記念パレードで今もなお、インドネシア人によって日本の軍歌が誇らしげに歌われています


フィリピン、ビルマ、インドを独立させた日本人

 一方フィリピンでは、日本人、原禎元大尉の率いる義勇隊が、フィリピン独立運動を支援。フィリピン人と共に、米国の軍隊と戦いました。
 ビルマでも、鈴木啓司大佐をはじめ、多くの日本人がビルマ人と共にビルマ独立義勇軍を編成し、独立運動を展開しました。
 インドでも、インドの独立のために援助した日本人が数多くいました。インドは1947年に独立。それまでのイギリスによる植民地支配に終止符を打ちました。
 この少し前に、インド法曹界の長老、パラバイ・デサイ博士はこう語りました。
 「インドはまもなく独立する。この独立の機会を与えてくれたのは日本である。インドの独立は日本のおかげで、30年も早まった。
 インドだけではない。ビルマも、インドネシアも、ベトナムも、東亜民族はみな同じである。インド国民はこれを深く心に刻み、日本の復興には惜しみない協力をしよう」。
 また、東南アジア諸国独立における日本人の貢献について研究した、台湾の黄文雄(こうぶんゆう)氏もこう書いています。
 「犬養毅、頭山満をはじめ、明治維新以来、アジア各地の革命や独立運動のために自らの命や財産をかけた日本人は、数え切れないほど多い。……民族・国家を超えて献身的に尽くす日本人の精神は、世界でもまれに見る特筆すべき義侠心である」。
 このように東南アジアの人々の日本に対する思いには、中国や韓国の人々の感情とは、まさに逆のものがあります。
 とはいえ東南アジアでも、しばしば反日デモが繰り広げられることがあります。これはなぜでしょうか。

 私たちは、その反日デモをしている人間が誰なのかを、よく見きわめなければなりません。黄氏はこう述べています。
 「反日運動……を主導しているのは、華僑と、何らかの政治的意図のある日本のマスコミなのである。東南アジアの住民は基本的に親日的であり、大規模なデモになるような反日感情は持っていない」。
 東南アジアには、昔から「華僑」と呼ばれる中国人がいます。彼らは欧米列強による植民地時代には、白人と結託して現地人から搾取をしていました。
 当時、華僑は居住地の民族とは決して同化しないだけでなく、現地人を蔑視し、利益をほとんど地元に還元せず、吸い上げるばかりだったのです。
 またインドネシアなどではとくに、その商業活動は悪質で、統治者と結託し、彼らの手先となって、オランダ人よりも過酷にインドネシア人から搾取するほどでした。
 東南アジアの現地人と、華僑との間には、このようなわけで今も根強い反感と対立があります。それはこうした過去があるからなのです。
 かつて日本軍は、東南アジアから欧米人を追放するだけでなく、華僑の追放も行ないました。ですから華僑の中には、今も根強い反日感情を持っている人々が少なくありません。しかしそれは、東南アジアの現地人の感情ではないのです。


台湾で仁政を敷いた日本人

 一方、台湾ではどうだったでしょうか。
 台湾は、日本にとって最初の植民地となった地でした。かつて日清戦争の結果、台湾は、国際条約である下関条約によって日本に割譲された地だったのです。それは合法的に日本の領土となりました。
 日本領有当初の15年間は、住民による激しい武力抵抗が続きました。日本政府は、ゲリラの討伐に明け暮れました。けれども台湾の武力抗争は、日本統治時代に始まったことではありません。
 それ以前の清国による統治時代のほうが激しかったのです。しかし大正デモクラシーの影響が及ぶようになると、台湾では無政府主義者も、共産主義者、独立運動家、議会主義運動家などもみな武力を捨てて、平和的な政治運動に変わりました。それは時代の流れでもあったのです。
 一方、韓国も日本の植民地となった地でした。今日、韓国人が日本の統治時代に関して述べる批判は痛烈です。ところが台湾はどうかというと、かつての日本の統治時代をそれなりに評価する、親日的な人々が多くいます
 これには幾つかの理由があるでしょう。しかしその一つに、統治者となった人々の方針や人柄の違いもあります。
 1940年から44年まで、台湾総督をつとめたのは、長谷川清という日本人でした。  
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                                                          長谷川 清 台湾総督  
                                               その仁政は台湾の人々から慕われた

 長谷川は、台湾総督になり、日本人の現地人に対する不当な差別を取り締まりました。台湾人に対して公正な態度で臨むよう、政策を進めたのです。その結果、台湾では、現地人に対する不当な差別や、いじめがほとんど見られませんでした。台湾出身の金美齢は、これを思い、
 「日本精神は公正の精神である
 と書いています。
 長谷川はまた、前任の総督の時代に行なわれた台湾の伝統宗教や伝統芸能の弾圧を取りやめ、その復活を認めました。皇民化とは、形だけ日本人に見せることではなく、今日のアメリカのように、人種・宗教が違っても日本国民としての愛国心を育てることだと、彼は主張したのです。
 彼の治世は、長谷川「仁政」と言われ、今も台湾人から高い評価を受け、慕われています。
 台湾における日本の治世に、全く問題がなかったわけではありません。しかし長谷川以外にも、台湾の人々と共に働き、台湾の人々のために活動した日本人が数多くいました。
 そうした働きのゆえに、日本人の働きを高く評価する人々が、台湾には少なくないのです。
 日本が敗戦国となるまで、台湾は日本の植民地でした。しかしそれは、欧米の植民地政策とは大きく異なるものでした。
 欧米諸国は、植民地からの収奪を続け、利益を現地に還元することはほとんどありませんでした。現地の人々は欧米諸国から、取られる一方だったのです。
 それに対し日本は、台湾を内地の延長と考えていました。その地の近代化のために、日本は莫大な国家予算をつぎ込んだのです
 当時、台湾は辺境の地であり、流刑地だったような所で、道路はほとんどなく、ダム、水道、電気、衛生など、インフラ(公共設備)は全くといっていいほど整っていませんでした。
 そこに技術者を送り込み、お金をつぎ込み、現地の人々と共になってインフラ整備を進めたのが、日本でした。植民地時代に日本が台湾から得た利益より、台湾への支出のほうが、はるかに上回っていたのです。
 日本にとって、台湾の植民地時代は、出る一方でした。今日の台湾の経済発展は、この日本による植民地時代の恩恵によるところが大きい、と言えます。黄文雄氏はその著『捏造された日本史』(日本文芸社刊)の中で、
 「台湾の近代化は、日本人の経営なくしてあり得なかったことは、誰も否定できない
 と書いています。


なぜ日本は明治維新に踏み切ったか

 つぎに、中国や韓国について見てみましょう。
 大東亜戦争に至る時代の日本の行動に関する中国や韓国の批判は、痛烈です。なぜでしょうか。日本は悪いだけだったのでしょうか。
 いや、事情は単純なものではありませんでした。
 話は、明治維新から始まります。日本は、それまでの幕藩体制を放棄して、明治維新を断行し、近代国家に生まれ変わりました。
 それは古い体制のままでは、野蛮国として、やがて欧米列強の植民地とされてしまうことが、火を見るより明らかな状況だったからです。
 欧米列強による植民地獲得競争が、当時すでに激化し始めていました。たとえば日本がまだ徳川時代だったとき、隣の中国で「アヘン戦争」が起きました。
 それまでイギリスは、中国から大量にお茶を買って、輸入していました。その代金として、イギリスは中国に大量の銀を支払っていました。
 そのときイギリスは、きたない手を使って、その大量の銀を取り戻そうと考えたのです。
 まず、密貿易でアヘンを中国に入れます。そして人々の間に、はやらせます。アヘンは麻薬ですから、喫煙者は中毒になります。中毒になれば、もっと欲しがります。
 そうやって大量のアヘンを中国に売り込んだのです。こうして銀を取り戻すことに成功しました。
 この出来事は、欧米人の多くが当時、有色人種であるアジア人を人間とは思っていなかったことを、端的に示しています。
 しかし中国側は、イギリス側のこの策略に気づき、怒ります。アヘン患者の蔓延を国家の危機と考え、アヘンの密輸を禁じたのです。そして約2万箱ものアヘンを廃棄させました。
 これにイギリスが反発し、「アヘン戦争」が勃発したのです。結果は、兵器に優れたイギリス側の圧勝でした。
 アヘン戦争以後、中国はしだいに欧米列強の植民地と化していきます。日本人は、こうしたことを伝え聞いたのです。当時、中国の上海でこの様子を見た高杉晋作は、こう書き記しました。
 「中国人はほとんどが外国人の召使いのようだ。英仏の人が街を歩けば、中国人は傍らによって道を譲る。上海は中国の領土だが、英仏の植民地ともいえる」。
 そして、わが国もこのままでは欧米列強の植民地になってしまう、という強い危機感を持ちました。実際、欧米列強によるアジアの植民地化は、どんどん進行中でした。
 イギリスによるインド植民地化は明治維新の十年前には終わっていました。ビルマ植民地化は明治19年、マレー半島の完全な植民地化は明治42年、フランスがベトナムを奪ったのが明治20年、インドネシアが正式にオランダ領となったのが明治37年でした。さらにアメリカのハワイ併合が明治31年、フィリピン奪取も同じ年でした。

 他方、北からは不凍港を求めて南下してくる最大の脅威ロシアがあったのです。
 こうした野盗の群れが走り回る世界にあっては、自立国家を守るために、どうしても明治維新によって近代化を達成する必要があったのです。


近代国家に生まれ変わった日本

 日本は明治のこの大改革に成功し、それまでの封建制度を改めて、近代的国家に生まれ変わりました。
 明治維新というのは、とくに武士階級の人々の多大な犠牲によって実現したものです。それまで武士たちは、藩に属していました。それぞれの家柄に応じて、給料(禄)をもらっていました。
 その給料のもとになったのは、農民から集まった年貢です。しかし、明治政府はこの年貢が藩に集まるのではなく、すべて政府に集まるようにしました(廃藩置県)。
 こうして藩を廃止するのみならず、江戸時代までの主役であった武士階級を一挙に廃絶したのです。これは武士とその家族約180万人が失業し、収入を失なうことを意味しました。
 もしこんなことをヨーロッパで行なったら、ひどい反乱となったでしょう。実際、当時東京にいた外国人は、ヨーロッパでこんなことをしたら、血で血を洗う大惨事になっただろうと言いました。
 しかし、反乱は起きなかったのです。藩主以下、武士達は、天皇の布告に従いました。そして刀を置いて、町民になり、商売や事業を始めたのです。
 その背景にはまた、先見の明のある数多くの武士たちがいたからでもあります。明治維新とは、世界に例をみない「無血革命」だったのです。
 日本が幾つもの藩に分かれていてバラバラでは、外国が攻めてきたとき、とうてい太刀打ちできません。また当時、藩ごとに別々の通貨や尺度があったので、豊かな経済活動のための基盤ができていませんでした。
 そのために藩を廃止し、中央集権にしました。また士農工商の身分制度を捨て、みなを「国民」となしました。憲法をつくって法治国家とし、共通の通貨や尺度をつくって、産業発展の基礎をつくったのです。
 学校制度を充実し、生まれや家柄によらず、努力さえすれば地位や富を得られるような社会にもしました。こうして日本は、近代国家への変貌を遂げたのです。


旧態依然とした当時の中国と朝鮮

 しかし、ただひとり、日本が近代国家への変貌を遂げても、すぐ近くの朝鮮や中国は旧態依然としたままでした。
 それどころか、中国や朝鮮の国内状況は混迷を深め、ひどく弱体化していたのです。統治者は国益を考えず利己的に行動し、役人の間には賄賂が横行して、腐敗が国家をおおい、内戦が多発していました。

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日韓併合前、1897年の韓国・ソウルの南大門。国家は破産状態
で、国民も為政者もアジアに迫り来る危機を理解していなかった。


 かつて幕末に勝海舟などは、東アジアに侵略してくる欧米勢力に対し、日本は中国や朝鮮と手を携えて当たるべきだと主張していました。ところがその中国と朝鮮の実状を知れば、まことに頼りにならないものだったのです。
 このままでは、中国も朝鮮も、食うか食われるかの弱肉強食の世界の中で、欧米列強の植民地と化すのは必至でしょう。そこで日本は、まず朝鮮とこの問題を話し合うため、外交官を派遣しました。
 しかし当時の李王朝(李氏朝鮮)の政府は、この日本の申し出を冷たくあしらったのです。
 というのは当時朝鮮の人々は、中国を世界の中心と見る「中華思想」、およびその中国からへだたるほど文化的に遅れた野蛮国であると見る「華夷秩序」の中に、どっぷりつかっていました。
 それで朝鮮の人々には、日本人が欧米のものまねをして国をつくりかえ、洋服を着始めた姿が、たいへん愚かに見えたのです。彼らは日本人を軽蔑し、嫌悪して、日本の使節を追い返すことまでしました。当時ニューヨーク・タイムズは、
 「日本人が話し合いを持とうとした試みを、朝鮮人が非友好的な横柄さであしらった結果、両国の関係は日々険悪となっている」
 と報じました。朝鮮はまことに扱いにくい相手だったのです。それなら日本は、朝鮮とのつきあいをあきらめて、放っておけばよかったじゃないかというと、そうはいきませんでした。
 地図をみればすぐわかるように、朝鮮半島はユーラシア大陸から日本列島に向かって、グイと突き出た形になっています。もしこの朝鮮半島にロシアまたは欧米諸国の勢力が居座ってしまえば、日本にとっては、のど元に凶器を突きつけられたような格好です。
 実際、ロシアはすでに手ぐすねを引いて、朝鮮や清国のほうへ領土拡大をねらっていました。欧米列強も清国に進出しつつありました。
 そうなれば日本も、安んじてはいられなくなります。当時ロシアや欧米が、植民地からいかにひどい搾取を続けていたかについて、日本のリーダーたちはよく知っていたからです。江戸時代を通じて武家社会であった当時の日本人は、中国や朝鮮の人々に比べ、危機意識に格段の差がありました。
 この状況は、たとえば長屋に住んでいるお隣同士の関係に似ていました。壁一枚を隔てたお隣の家が火事になれば、自分の家も類焼をまぬがれません。ですから、内政干渉と言われても、日本は隣の家の火の始末に関心をもたざるを得なかったのです。
 「そこで、明治の日本が最も願ったことは、朝鮮半島に、日本と同じ独立の気概をもった、外国に侵される心配のない近代的な国家が誕生することでした
 と東大の藤岡信勝教授は述べています。
 日本が朝鮮を無理に開国させたのも、そのためでした。かつてアメリカの黒船が、鎖国日本を無理に開国させたように、日本も朝鮮に対してそのようにしたのです。
 それまで、朝鮮は清国の属国でした。しかし、日本が朝鮮を開国させたとき、日本はその条約の第一条に、
 「朝鮮国は自主の邦にして、日本国と平等の権を保有」
 する旨を明記しました。これは日本が、朝鮮は清国の属国ではないことを宣言したもので、画期的なものでした。以後日本は、朝鮮の自立と近代化に、手を貸していきます。
 日本は何とか、朝鮮が列強の支配を受けない近代的な独立国家になってくれるよう、努力を重ねていきました。しかし朝鮮の自立的な近代化の道は、やがて挫折します。
 そのとき、日本は自ら朝鮮支配に乗り出しました。けれども、そうやって乗り出せば乗り出すほど、やがて日本は朝鮮と中国の内戦の泥沼にひきずり込まれていきます。
 そして気づいたときには、もはや抜け出せなくなっていたのです。


朝鮮と中国を近代国家にしようとした日本

 日本は明治時代に、日清、日露の戦争を経験します。これらは両方とも、朝鮮半島をめぐる争いでした。
 日清戦争は、朝鮮で起きた内乱を契機として始まりました(1894年)。それを鎮めるため、日本と清国の両軍が朝鮮に出兵しました。
 これにより、朝鮮内の反乱(東学党の乱)は抑えられましたが、今度は、日清両国に対立が深まりました。
 清国は、朝鮮をあくまで自分の属国と主張し、日本を懲らしめようとしました。一方日本は、朝鮮を独立国として認め、朝鮮から清国の支配を排除するために戦ったのです
 こうして日清両国の間に、戦争が始まりました。欧米は日本の敗北を予想していましたが、結果は日本の圧倒的勝利でした。
 兵員の数からいえば、じつは清国のほうが圧倒的にまさっていたのです。しかし清国軍はよく訓練された兵士ではなく、統制もきちんととれていなかったので、劣勢になればすぐ降参してしまうような者たちでした。
 そのうえ彼らには、盗賊なのか軍隊なのか、区別できないような性格もありました。『日清交戦録』第16号の外国人の手記によると、清国軍はソウルから平壌への撤退中に、沿道の村々を略奪したうえ、四方に逃亡したといいます。
 また、国民意識の差も大きかったと言えます。当時、日本では戦時公債を発行して戦費を集め、国民の関心づくりも徹底していました。
 ところが、清国は戦費をイギリスから高利で借りていました。かの孫文の談によれば、当時、清国の民衆で、清国が日本と戦争をしていることを知っていた者はほとんどいなかったとのことです。
 日本が清国との戦争に勝利したとき、日本はその勢いで行けば、北京にまで進み、清国を倒すこともできたでしょう。しかし、伊藤博文はそこまでしませんでした。彼は講和に持ち込み、清国の保全をはかりました。
 清国の民衆はそののち、清国が日清戦争に負けたことを知るようになります。けれども当時、清国の民衆の中には、日本に脅威を感じる者はいても、日本との戦争を日本の「中国侵略」と思うものは一人もいませんでした。
 むしろ東夷(東の野蛮国)の小国が、天下国家の清帝国を打ち負かしたという事実に、ある種の畏敬を覚えました。
 そして、もし清国も日本のように「明治維新」をやるなら、欧米列強の支配を受けるのではなく、彼らと対等の独立国家となる力をつけられるのではないか、という希望が生じたのです。
 それで中国のリーダーたちや民衆の中に維新派の人々が生まれていきました。
 維新派の人々の中には、日本に学びに来る者も多くいました。そして日本は、彼ら留学生を積極的に受け入れたのです。それは、
 「清国が近代化し欧米列強に抗することができれば、アジアにとっても日本にとっても好ましい」
 という「清国保全論」が日本国内にあったからです。日本に学びに来た清国の留学生たちは、優に1万人を超えました。
 また日本に留学生が来るだけでなく、日本人教師たちも、清国に派遣されました。それは清の実力者、李鴻章らの招きによるものです。その数は約2000名にのぼりました。
 こうして日本から学んだ中国人らは、のちに中国近代化運動のリーダーとなっていきます。


北京市民に慕われた日本軍人

 日清戦争で、清国が日本に負けたことからもわかるように、清国は図体は大きくても、その内情は混迷を深めていました。
 そうした中、「義和団事件」が起こります(1900年)。これは中国から欧米勢力を排除しようとする民衆の反乱でした。しかしそのやり方は、かえって中国の混乱を増すばかりでした。
 このとき、彼ら暴徒を鎮めるためにイギリス、フランス、アメリカ、ロシア、ドイツ、イタリア、オーストリア、日本の8カ国連合軍が出動します。
 日本も出兵したわけですが、これは日本にとっては難しい選択でした。同じ黄色人種でもあり、うかうか介入するのはどうかという意見もありました。
 しかし、イギリスの強い後押しもあり、日本政府は兵力派遣を決意しました。これは日本政府のPKOの前身ともいえるものです。
 日本の兵力派遣は、中国の国内の混乱を平定することを目的としていました。しかしこの混乱に乗じて、自分の領土拡大をはかった国がありました。
 ロシアです。義和団事件が満州に飛び火し、ロシア人が殺傷される事件が起きると、ロシアはそれを口実に、満州占領を行ないました。
 ロシア軍は怒濤のように満州に流れ込み、街を焼き、一般兵士は好き勝手に略奪し、虐殺し、市民の生活を脅かしました。
 こうした軍隊の横暴は、中国人には昔からよく知られたことでした。ロシア軍だけでなく、中国の軍隊も同じ様なものだったからです。
 とくに中国の敗残兵が、好き放題に略奪を働き、婦女暴行を働き、虐殺するのは、中国の伝統文化の一つといっていいほどでした。
 しかしその中国人たちを驚かせたのが、日本の軍隊だったのです。北京に入城し、そこを平定した日本軍の規律は厳しく、末端の兵士に至るまで非行をすることがなかったからです。
 「この様子は、北京市民にとって有史以来初めて目にする光景だった」
 と中国人歴史家が述べています。そのため北京市民は、布や紙に「大日本順民」と書いて日本軍を歓迎しました。
 日本軍は略奪や暴行を厳しく取り締まり、そのために治安はすぐに回復し、商店も営業を再開できました。
 これに引き替え、ロシア軍に占領された地域は悲惨でした。その地の住民たちは続々と日本占領区に逃げ込み、保護を求めてきました。ロシア軍管区を日本軍管区に替えて欲しい、という懇願が出されたほどです。  

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                                                                   柴五郎中佐  
                                               彼の軍隊は中国の庶民から尊敬された

 日本軍管区を指揮していたのは、柴五郎中佐でした。しばらくして、柴中佐に日本から帰国命令が来ました。そのとき、町の老若男女はこぞって別れを惜しみ、涙ぐんだといいます。


東アジアからロシア軍を追い払った日露戦争

 ロシアは満州を占領し、支配下におきました。義和団事件がおさまっても、ロシアは満州から軍を引き揚げず、そこに居座りました。
 ロシアは膨張主義をとった国です。強引な領土拡大を次々に行なっていました。そして土地を支配すると、そこから略奪していました。
 そのロシアにとって、次のターゲットは朝鮮でした。日本の近代史は、このロシアの脅威に動かされたものであると言えます。
 もし朝鮮半島がロシアの支配下に入れば、日本はもはや、首もとにナイフを突きつけられたようなものです。
 ところが当時の朝鮮は、日本ほどの強い国家意識を持っておらず、政治経済の近代化もできていませんでした。兵力も微々たるものでした。それで朝鮮半島の領有をめぐり、やがて日本とロシアの間に、日露戦争が勃発します(1904年)。
 それは朝鮮半島と満州からロシアを追い払うための戦争でした。日本がその開戦を決意した背景には、ロシアの南下に反発するイギリスやアメリカの支持もありました。
 日本軍はよく戦い、連戦連勝して、ロシア軍を打ち破りました。朝鮮と満州からロシア軍を追い払ったのです。
 その日本の勝利は世界を驚かせました。黄色人種がはじめて、白人に戦争で勝利したからです。しかも相手は、大国ロシアでした。
 これはまた、白人支配に苦しんでいたアジア諸国にも、大きな希望をもたらしました。
 「我々も日本のように維新を行なうなら、欧米の支配から脱し、独立国家になれる
 という気概を彼らの間に生んだのです。日露戦争における日本の勝利は、植民地の束縛の中にあったアジア諸国やアフリカ諸国に、計り知れない希望と勇気を与えたのです。
 そうした意味で、日露戦争は世界史的意義を持つものでした。
 ロシアにとって日露戦争は、極東における彼らの侵略政策が、一時的に失敗に終わった出来事にすぎません。しかし日本にとって、それは国家の存亡を賭けた戦いだったのです。
 また、この日露戦争の時の話として、日本軍に捕まったロシア人捕虜たちの話があります。
 当時、ロシア人捕虜の収容先の一つとして、四国の松山がありました。そこには約6000名の捕虜が収容されました。そのとき県は、
 「捕虜は罪人ではない。祖国のために奮闘して破れた心情をくみとり、一時の敵愾心にかられて侮辱を与えるような行動はつつしむこと」
 と県民に訓告していました。
 松山に来た捕虜の大半は、傷病兵でした。彼らに対し赤十字の医師や看護婦らは、懸命に治療と看護に当たりました。手足を失った者には、当時の皇后陛下より、義手、義足が贈られました。
 当時捕虜だったF・クブチンスキー氏は、日記にこう書き記しています。
 「敵国でこのようなやさしい思いやりを予期したであろうか……。医師や看護婦の献身的な心くばりは、真の人間愛の表れである。それは神聖にして不滅のもので、キリストの愛と名づけられるものである」。
 また日本政府は、日露戦争後の明治40年、戦死したロシア兵たちのために忠魂碑を建てました。まず敵兵のための忠魂碑を建てたのです。その2年後に、戦死した日本兵のための忠魂碑を建てています。


満州は「無主の地」だった

 「もし日清・日露戦争で日本が負けたら」という仮定をするなら、どうでしょうか。朝鮮は、中国よりはロシアの一部になっていたことでしょう。ロシアの勢力は、たいへん巨大だったからです。
 日本の大陸政策は、よく「中国侵略」ととらえられてしまいます。しかし、じつは日本の朝鮮政策と、満州進出は、ロシアの南下を防ぐのが目的でした。
 日本にとっては、なによりロシアの膨張主義に対抗することが、危急の課題だったのです。
 日露戦争後、日本は、朝鮮が二度とロシアの勢力と結びつくことがないよう、朝鮮の外交権を奪います。そして日本の従属下におきました。これには欧米の支持もありました。
 さらに1910年になると、日本は朝鮮を併合(日韓併合)。朝鮮を日本との合邦国家とします。朝鮮は日本の一部とされました。
 しかし、この日韓併合は行き過ぎだったとの批判もあります。なぜなら当時、すでに日本は日露戦争で南満州を手に入れていました。それでロシアがただちに朝鮮に侵入してくる心配は、なくなっていたからです。
 しかし当時、朝鮮の国家財政は破綻。朝鮮の指導者には腐敗がはびこり、国内は荒れ、自立的再建はもはや不可能という状況にありました。これ以上放置しておけば、アジアに混乱をもたらす呼び水になったと考えられ、日韓併合はやむを得なかったとの意見もあります。
 一方、満州について見てみると、満州はかつての万国公法の基準から言えば、当時まだ「無主の地」でした。アメリカ国務長官ヘンリー・スチムソンはかつて『極東の危機』の中で、
 「日露戦争当時、満州はほとんど空き地同然の辺境で、最初に植民に成功した国民の手に帰すべき、競争の目標物として放置されていた」
 と書いています。事実はまさにそうで、日本は日露戦争後、移民競争に負けじと、盛んに満州移民を推進していきます。
 そしてそこに、一大文明圏がつくられていきました。それは中国人からみると別天地、パラダイスのように見えたほどです。そのため中国人の流民も、日本人以上にそこに移民してきました。
 そもそも当時の中国は、地方軍閥間の争いによって内戦が続いていました。しかも彼ら地方軍閥は、住民に重い税を課し、搾取していました。
 それは先取りで、むしり取る税です。数年先や、数十年先まで、なかには百年後の租税まで取り立てるものまでありました。
 そんなふうですから、日本の経営する満州の地は、彼ら苦しめられてきた者たちにとって、パラダイスのように思えたのです。そして年に百万を超える中国人流民が流れ込んで来ました
 日本は満州の荒野に鉄道を敷き、殖産興業につとめ、教育に力を注ぎました。この殖産興業は、戦後、中国への置きみやげとなり、今も社会主義中国の工業の基礎となっているほどです。
 では、なぜその後、中国と日本との間に戦争が起こったのでしょうか。


中国の内戦の泥沼にひきずり込まれていった日本

 それには複雑なものが、からみ合っています。しかし大きな目で見ると、日本は中国の内戦の泥沼に巻き込まれていったことがわかります。
 中国は、あたかも巨大なブラック・ホールのように、日本をその泥沼にひきずり込んでいったのです。
 当時の中国を、まとまった一つの国家のように考えたら誤りです。当時、中国は内戦によってズタズタに引き裂かれた地であり、国家の体をなしていませんでした。
 さて中国の内部では、欧米や日本のような近代国家になることを目指す維新派と、ロシアのような共産国家になることを目指す共産主義勢力とが対立していました。
 維新派勢力の代表は蒋介石、共産主義勢力の代表は毛沢東です。当初、蒋介石の軍隊は毛沢東の軍隊よりも圧倒的に優勢でした。
 一時、共産軍は全滅に近いところまで行ったほどです。ところが共産軍は劣勢を挽回するために、あることを計画します。
 それはこれ以上、蒋介石軍と真っ向から戦っては、もはや勝ち目はない。だから日本軍をこの中国に引きずり込み、日本軍と蒋介石軍とを戦わせて、どちらか生き残った方と戦う、ということでした。  

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                    毛沢東の戦略は、日本軍と蒋介石軍を戦わせることだった

 そうすれば日本軍と蒋介石軍が戦っている間に、自分たちの戦力の回復を計れます。また、日本軍と蒋介石軍のどちらが生き残ったにせよ、その時点では弱体化していますから、それと戦えばよいのです。
 さらにこうすれば、日本国内の力も弱体化し、日本を共産化する道も開けます。こうして共産主義勢力は、日本軍を戦争へと挑発し始めたのです。
 じつは当時日本は、中国側との間に起こり始めていた抗争や、いざこざを、何とか和平に持ち込みたいと願い、様々な努力を続けていました。
 蒋介石の顧問にW・H・ドナルドというオーストラリア人がいました。彼がのちに証言したところによれば、日本は1938年から1941年の間に中国側に対し、12回も和平提案を行なっていたのです。
 しかもその条件は、中国側に有利なものでした。中国に対する領土的要求は含まれていませんでした(ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡・日本』メディアファクトリー刊)。
 日本はもともと、中国の領土を支配しようなどと妄想していたわけではないのです。日本が繰り返し和平提案を行なったことからみても、日本は好きこのんで戦争を続けたわけではありませんでした。
 日中戦争の発端と言われる蘆溝橋事件(1937年)にしても、日本軍と、蒋介石の国民党軍との間に起きた、小さな衝突事件にすぎませんでした。
 またこの事件でさえ、じつは犯人は共産軍だったと指摘する人もいます。この事件の翌日、中国共産党は、日本との開戦を主張する激烈な声明を出しました。そして蒋介石に対日開戦を強く迫りました。
 また共産党は、現地の停戦協定が成立し戦争が終わりそうになると、各地で日本人に対するテロを繰り返し、戦争を挑発しました。
 中国共産党の活動は、日本軍と蒋介石軍とを戦わせるという、コミンテルン(国際共産党)の方針に基づいたものだったのです。日本は、その戦略にまんまと乗せられてしまいます。
 そして日本軍と蒋介石軍が戦っている間に、共産軍は勢力を回復、やがて蒋介石軍を打ちのめし、政権を取り、中国を共産化してしまいます。中国が共産化したとき、毛沢東は高らかに笑って言いました。
 「中国が統一され、人民共和国政権が誕生したのは、みな日本の中国侵略のおかげだ。我々は日本に感謝しなければならない」。
 ずいぶん皮肉な言い方をしたわけですが、日本のこの中国「侵略」は、毛沢東率いる共産軍の策略に乗せられたものだった、ということを忘れることはできません。
 共産主義の理念の中では、いかなる策略も、暴力も、共産主義世界実現という大義の前には正当化されます。目的のためには手段を選ばなくてよいとされるのです。
 そして共産主義では、過去の歴史もすべて、共産主義体制に都合のいいように解釈されます。
 今日も中国共産党の指導者は、日本の政治家に会えば、「日本の戦争責任」や「正しい歴史認識」を口にします。それを聞いて、日本の政治家がうろたえる姿がテレビに映ります。
 しかし、うろたえる前に、過去の歴史をよく知っておかなければなりません。
 

「南京大虐殺」はあったか

 今日、中国大陸で日本軍が残虐行為を働いたとして、「南京大虐殺」などが取りざたされることがあります。日本軍が南京の市民30万人を虐殺したというのです。
 この「南京大虐殺はあった」「いや、なかった」など、意見は真っ向から割れています。
 戦後に連合国が日本を裁いた、いわゆる「東京裁判」では、南京攻略時の司令官であった松井石根(まついいわね)陸軍大将が、南京大虐殺の責任者とされ、死刑判決を受けました。
 しかし松井大将とはどういう人物だったかというと、かの孫文とも親交があり、孫文の唱えた「大アジア主義」に深く共感している人でした。
 彼は南京攻略の前にも、日本軍の規律を厳しく定め、決して罪なき人を殺傷したり、中国の人々を軽んじたりすることのないよう事前に強く指示を出していました
 ですから、東京裁判の時にただひとり日本無罪論を展開したあのインドのパール判事は、この松井の事前指示を根拠に、彼の無罪を主張したほどでした。
 また今日、「南京大虐殺」が中国共産党の広げたデマによるものであることを示す、多くの証拠が出てきています。
 南京攻略時の南京の人口は約20万人でした。しかし占領1ヶ月後には、戦闘の終わった南京に住民が戻ってきて、人口は25万人に増えています。彼らに日本軍が食糧を配布したという記録があるのです。これだけみても、「住民30万人の大虐殺」が大ウソであることがわかります。
 虐殺のあったところに、中国人住民が戻ってくるでしょうか。しかし彼らは何万人も、1ヶ月後には安心して戻ってきて、日本兵に物を売ったり、また農業を始めたり、商売をしたりしているのです。そういう記録写真、記録映画があります。
                             nankin 
                                       日本軍による南京占領5日目の写真(朝日新聞) 
                                       (右)武器も持たず中国人から買い物をする日本兵。 
                                       (中上)南京に戻ってきて畑を耕す中国人農民。 
                                       (中下)平和になって南京に戻ってきた中国人ら。 
                                       (左)中華街の名物、街頭床屋。子どもも大人も手 
                                              製の日の丸の腕章をして笑っている。 
                                「南京大虐殺」がなかったことを如実に示す証拠写真である。


 ナチスドイツがユダヤ人虐殺を国是として推し進めたのとは、わけが違うのです。戦争文化的に見てみると、住民虐殺や略奪の行為は、日本の戦争の歴史には見られなかったものです。たとえば関ヶ原の合戦のときなど、百姓衆は弁当を持って、朝から山にでかけて戦闘を見物していました。
 賤ヶ岳の戦のときは、民衆は傘をさし、山の斜面を埋め尽くして観戦に興じたといいます。日本の戦争文化には、住民虐殺や略奪は存在しなかったのです。
 それに対して、住民の虐殺と略奪は、中国ではごく普通の、伝統的な戦争文化でした。中国には「屠城」という言葉があり、これは城(都市)の住民を殺し尽くす大虐殺をいいます。
 また、いわゆる「三光」作戦(焼き尽くし、殺し尽くし、奪い尽くす)というのも、もともと中国の言葉であり、中国の伝統的な戦争文化です。
 実際に都、南京では、昔から王朝が替わるたびに虐殺が行なわれていました。その様子は、正史の列伝に詳しく書かれています。
 日本軍の南京大虐殺の「証拠」として、よく髑髏を山にしてある写真が紹介されますが、あれは「万人塚」といって、中国人が戦争のあとによくやったものです。それが日本軍によるものではないことは、多くの専門家によって見破られています。
 万人塚は斬り取った敵の首数を誇るためのもので、中国の古い歴史書には、よく5万、10万の首をとってそういう塚をつくったという記述があります。
 日本には首塚というものはありますが、あのように敵の首をたくさん集めて塚にする文化はありませんでした。
 戦後の東京裁判の時、アメリカはすでに長崎、広島に原爆を落とした後であり、日本住民の大量無差別殺戮を行なっていました。これは当時の国際法にも違反する残虐行為です。その被害者は計約30万人。東京大空襲でも、アメリカは日本住民約10万人を殺していました。
 それでアメリカは、日本の戦争行為の中にも、それと「五分五分になるような」戦争犯罪を探していました。日本が「とてつもなく悪い国だった」という証拠を出さなければ、アメリカの行為が正当化されません。
 ところが、探しても見つからなかったのです。数千人規模の虐殺ならどの国の戦争にもありますから、その程度の数字では迫力がありません。
 そこで突如出てきたのが、日本軍による南京での「30万人大虐殺」説でした。
 その根拠とされた証言は、あやふやなものでした。「証拠写真」として提出されたものも、全く別の場面のものであったり、捏造されたものでした。そこには中国軍の情報戦略、プロバガンダが見えているのです。
 また、中国にある南京大虐殺の記念館に行くと、日本兵が人間の肝を食べている像が展示されています。しかし、はたして日本兵はそこまでやったでしょうか。
 人食いは中国の食文化にはありましたが、日本ではそうではありません。明の李時珍の『本草綱目』には、人間の肝は薬用効果があると紹介されています。
 また記念館には、日本兵が銃剣で赤ん坊を串刺しにしている描写があります。しかし、これも中国の戦争話にはよく出てくるもので、日本の戦争文化ではありません
 南京大虐殺として言われているものの中には、中国共産党の情報戦略と、戦後日本人の誤解があるのです。


朝鮮に対する日本統治はどんなものだったか

 つぎに、日本と韓国との関係を見てみましょう。
 アジア諸国の中で、韓国人の反日感情は今も根強いものがあります。
 先に述べたように、統治者の方針や人格が、住民の感情に深い影響を与えることがあります。台湾の人々に慕われた長谷川総督のような人物も、日本の朝鮮総督府にもいたことはいたのです。
 そして日本が朝鮮半島を支配していた時代、日本人と朝鮮の人々は概して仲良くやっていました(「日韓併合時代の真実」を参照)。実際、朝鮮では官公庁でも学校でも軍隊でも警察でも、日本人と朝鮮人が共に働いていました。朝鮮人の上司のもとで、日本人が働いていることも多かったくらいです。そして、もめ事というもめ事も、ほとんどなかったのです。
 それがなぜ、戦後の韓国や北朝鮮の人々は、こんなにも反日になってしまったのでしょうか。
 それは、戦後に日本人が去ったあと、それらの国々を支配した支配者のイデオロギーによるのです。戦後、韓国を支配した初代大統領・李承晩は、日本による朝鮮半島支配の間中、アメリカに亡命していた人です。彼は日本による朝鮮半島支配を経験していません。
 彼は、徹底した反日の人で、アメリカによって戦後、韓国大統領の座を与えられると、親日の韓国人をすべて追放し、反日の韓国人だけを登用して、全土に反日の思想統制、反日教育をしきました。北朝鮮の金日成も同様です。こうして韓国も北朝鮮も、以後、反日一色となってしまったのです。
 歴史的にみると、じつは朝鮮の人々は、最初に日本人を蔑視しました
 朝鮮には「衛正斥邪」(えいせいせきじゃ)といって、朱子学(儒教の一派)の伝統を守り、欧米勢力を排除する思想がありました。これは、
 「欧米人は金と色にまみれた汚らわしい害獣であるから、世界で唯一の汚れなき地である朝鮮を守るために、欧米を撃退しなければならない」
 という思想です。これは単に反欧米というだけでなく、反近代化の思想でもありました。
 そのために、アメリカの商船を焼き払って乗組員を皆殺しにするといった暴挙さえ、多発していたほどです。ましてや、欧米文化の真似をして明治維新をした日本など、とんでもない輩に見えました。
 また、朝鮮には先に述べたように、世界文明の中心である中国から遠ざかるほど野蛮な劣等国だ、という考えがありました(華夷秩序)。
 ですから、自分たちより「劣る」日本民族に支配されたという屈辱は、朝鮮の人々の激しい反発となって表れたのです。このように日本と朝鮮の関係は、初めから困難を極めました。
 そうした中、1910年、日本は朝鮮――当時の大韓帝国を併合し、日本との合邦国家としました。いわゆる「日韓併合」です。これは、イギリスの連合王国でたとえるなら、イングランドとスコットランドの関係にも似ています。
 「日韓併合」は、日韓併合条約にあるように、少なくとも形の上では双方の「合意」に基づいてなされたものでした。しかし、日本側の強い圧力で行なわれたものであったのも事実です。これにはまた、欧米からの支持もありました。
 当時、新渡戸稲造などは、もし朝鮮が自立できるならば、ヨーロッパのベルギーのように小さくても独立したほうがよい、と考えていました。しかし日本が手を離したら、いずれ中国かロシアの植民地にされてしまう運命にあると考える者が、大勢を占めました。
 アメリカのルーズベルト大統領なども、朝鮮が自立できないなら、むしろ日本と合併したほうがよいという意思を示しました。実際、1905年1月に、韓国の保護国化に承認を与えています。
 また韓国人の間にも、この併合を熱心に推進したグループがありました。「一進会」といいます。
 その指導者、李容九は来日した際、樽井藤吉の『大東合邦論』という本に出会いました。当時、欧米諸国は東洋に進出し、次々に植民地を広げていました。樽井は、欧米諸国に対抗するため、こう主張していました。
 「ドイツがプロシアを中心に連邦を組んだように、日本と韓国が合邦し、支那(中国)と連合して欧米にあたらなければならない」。
 この意見にすっかり感動した李は、韓国と日本の合邦を積極的に唱え始めたのです。彼は韓国で同志を集め、日本に協力して、反日的勢力と戦いました。彼ら「一進会」は、最盛期には百万人を号しました。


中国の統治に比べるとはるかに優遇されていた日本統治下の朝鮮

 一部の日本人学者を含め、多くの韓国人・朝鮮人の学者は、日本による朝鮮統治時代を、史上最悪の植民地統治と書き立てます。そして日本政府関係者が、
 「日本の統治では良いこともした」
 などと一言でも発言すれば、すぐに「妄言を吐いた」とされ、蜂の巣をつついたような騒ぎになります。しかし、日本の植民地統治のすべてが悪夢のようにひどかったわけではありません。
 日本統治以前、清国が朝鮮を属国支配していた時代には、清国の朝鮮に対する扱いは奴隷以下でした。朝鮮の国王の地位は、清国朝廷の延臣以下とされたのです。
 さらに清国は、属国や地方からの収奪を続けていました。そのために朝鮮国内は混乱し、一揆や争乱は絶えませんでした。朝鮮の国家財政は破綻。自力で建て直すのは不可能という状態にありました。
 一方、日本統治下になると、韓国人の皇族・貴族は一貫して日本の華族と同等の扱いを受けていました。
 またすでに日本統治下の1896年に、朝鮮人の士官が11人も、日本陸士に入っていました。以後終戦に至るまで、朝鮮人は日本人と同じように軍事教育を受け、中将まで出ていたのです。
 さらに、イギリスやフランスなどが植民地からしぼり取っていたのとは逆に、日本は朝鮮の近代化のために莫大な投資を続けました。日本は国庫から出す一方だったのです。
 日本は朝鮮に鉄道を敷き、道路をつくり、港湾を築き、製鉄、造船、重化学などの工場をつくり、農業を改良しました。
 保健衛生施設の普及などに力を注ぎました。伝染病やアヘン中毒患者は激減しました。
 日韓併合以前、朝鮮の教育事情をみれば、就学率はわずかに1%。しかし昭和18年には、61%に達しています
 いま韓国人が使っているハングル文字は、15世紀につくられたものですが、日本統治以前は、漢文を用いる貴族階級から軽蔑されていたため、実用化していませんでした。しかし日本はハングルを普及させ、それを初めて小学校教育に導入したのです。
 フランスの人文地理学者のマサビュオー氏は、『新朝鮮事情』(白水社)の中で、冷静かつ客観的見地から、日韓併合が韓国に近代化をもたらしたことを、率直に認めています。 
                        nanndaimontouchityu.jpg  
                                               日本統治中のソウル南大門  
                                              日本統治によって、朝鮮は大きく発展した

 こうしたことは韓国の教科書には書かれません。しかし歴史的な事実なのです。
 また、よく日本の「武断政治」(武力による力づくの統治)が非難されます。しかし、それは大韓帝国時代の皇帝や「両班」(やんぱん 官吏)による恐怖政治ほど「武断」ではありませんでした。
 日本統治以前の朝鮮は、硬直した官僚国家ということでは中国以上であり、専制君主国家として世界屈指の恐怖政治を行なっていました。両班と呼ばれる官僚が、民衆に対し生殺与奪の権をふるい、目に余る横暴を行なっていたのです。
 韓国人エッセイスト呉善花氏によれば、当時の朝鮮人は、日本の憲兵警察による両班取り締まりを、大いに感謝したほどだったといいます。
 つまり日本の朝鮮統治は、「強者が弱者をむりやり支配する侵略」というような単純な状況ではなかったのです。
 日本の憲兵警察は、じつは日本人だけで成っていたのではありませんでした。半数以上は、朝鮮人の補助憲兵らでした。ところがそれまで内紛が絶えなかった朝鮮では、朝鮮人憲兵の中に、ひそかに朝鮮人同胞に私怨を持つ者が少なくありませんでした。
 彼らの中には、日本の権力を借りて、朝鮮人に怨みを晴らす者がいました。これは後に、朝鮮の人々の日本に対する悪感情を生みました。
 また韓国のキリスト教について見てみると、かつての王朝時代にキリスト教は何度も厳しい弾圧を受け、ほとんど広がりませんでした。それは先に述べた朝鮮の「衛正斥邪」の思想が、激烈な反キリスト教、反欧米思想であったからです。
 では、いつ韓国のキリスト教が急成長したかというとそれは日本の植民地時代においてでした。19世紀末からプロテスタントの宣教師が数多く朝鮮に入り、社会福祉や教育にも力を入れながら宣教をなしたのです。
 のちには日本の「皇民化政策」による迫害を受けたものの、それでも平壌などでは、日本の植民地時代を通じてキリスト教が盛んでした。これは日本統治の初期・中期などの朝鮮は、それ以前の王朝時代に比べ、かなりの自由があったことを示しているのではないでしょうか。
 当時、日本は「内鮮一体」(内地と朝鮮の一体)のスローガンを掲げていました。少なくとも日本政府は、朝鮮の人々を見下すのではなく、相互に支え合う連合国家の形成を目指していたのです。


日米戦争はなぜ起きたか

 つぎに日米戦争について見てみましょう。
 日露戦争の前から、また日露戦争中も、アメリカは概して日本に好意的でした。小国が大国ロシアに立ち向かったというだけで、アメリカ人は感動しました。
 当時、日本は、戦争に勝ったら満州をロシアから解放し、各国の自由な経済活動の場にすると約束していました。
 アメリカ実業界は、以前から中国にビジネス進出することを夢見ていましたから、日本のこの約束を信じ、イギリスと共に日本の戦費のかなりの部分を肩代わりしてくれたのです。
 ところが、日本は日露戦争で戦死者が10万人を越えてしまいました。その尊い犠牲の結果、ロシアから講和で得たものは南満州における鉄道経営権などにとどまり、賠償金はゼロでした。
 国民は憤激し、新聞は国民の怒りをあおり、東京では大暴動事件までおきました。「十万の地であがなった満州」「満州を失うな」は国民的スローガンとなりました。
 日本は以後、満州の開発に乗り出していきますが、かつて約束していたアメリカなどとの共同開発をしない方向に行ってしまいます。これはアメリカには、日本が満州をひとり占めにしようとしているものと映りました。
 その後、日本が主張していた人種差別撤廃法案をアメリカが拒否する出来事や、アメリカにおける日本人移民排斥などの動きが起こります。
 じつは日本は、もともとアメリカとは戦争をする気など毛頭ありませんでした。敵視もしていませんでした。アメリカとは出来るだけ仲良くやって行きたかったのです。
 しかし日露戦争以来、アメリカのほうが最初に、日本を仮想敵国と考えるようになります。それは白人のロシアを打ち破るほどの強国、黄色人種の日本の存在は、あなどれないと見るようになったからです。
 アメリカと日本の対立を決定的にしたのは、1940年の日独伊「三国同盟」でした。
 しかし、三国同盟を結んだ当時の元・外相、松岡洋右の念頭にあったのは、アメリカとの戦争を防ぐこと、そして日中戦争を解決することでした。この思惑とは逆に、これはアメリカとの戦争を誘発するものとなってしまったのです。
 当時の世界は、1929年以来の世界恐慌を乗り切るため、英米を中心に自国経済圏内の貿易を優先する「ブロック経済政策」がとられていました。しかし貿易しか活路のない日本にとって、この排他的・閉鎖的で日本を占め出すブロック経済は、真綿で首がしめられるような苦しみを与えました。
 こうした現状を打破し、国家と国民の生存を確保するため、日本政府は「大東亜共栄圏」建設構想を打ち出します。これは、満州・台湾・朝鮮からなっていたミニ・ブロックを、本格的なものに拡大しようとしたものでした。
 しかしこの計画は、米英仏などの利害と激しく対立しました。
 そのため日本政府は、これらの行き詰まりを一挙に打開する方法を模索したのです。そうして締結されたのが、日独伊の三国同盟でした。
 イギリスを敵視するこの同盟に加わることで、アメリカの譲歩を引き出せるのではないか、そしてアメリカとの国交を正常化し、中国との戦争も終わらせられる、と踏んだのでした。
 けれども、これは綱渡りのような危険な戦略でした。また、アメリカという国のあり方を、余りに知らなすぎたやり方だったと言わなければなりません。
 この意図は、アメリカには通じるはずもありませんでした。三国同盟の報を聞いたルーズベルト政権は、ガソリンなどの日本への輸出禁止、中国の蒋政権への資金・武器援助の大幅増で応えたのです。
 三国同盟締結は、日本の意図とは逆に、日米関係を悪化させてしまったわけです。怒ったアメリカは、日本と戦争をして、この問題に決着をつけることを願いました。
 最近明らかにされた事実によると、日本の真珠湾攻撃の約5ヶ月前に、アメリカは日本の本土爆撃を含む日本攻撃を計画していました。大統領のゴー・サイン、自署名入り作戦文書が、アメリカの国立公文書館で発見されたのです(産経新聞1999年7月15日朝刊トップ記事)。
 日本の真珠湾攻撃は、「宣戦布告なき卑劣な奇襲攻撃」と言われています。しかしじつはアメリカは、日本の真珠湾攻撃より前に、自ら宣戦布告なき攻撃を計画していたわけです。
 しかし、この「最初の一発」をアメリカ側が打ったのでは、国際世論はアメリカを非難し、味方してくれないでしょう。決闘を行なうにしても、相手に最初にピストルを抜かせ、それに早撃ちで応戦するのが理想とされるところです。
 つまり最初の一発は、日本に打たせなければなりません。それでアメリカは、「ハル・ノート」と呼ばれる無理難題を日本に突きつけます。日本軍の真珠湾攻撃の10日前のことでした。
 これはアメリカ議会も、アメリカ国民も全く知らないところで、大統領の独断で秘かに日本政府に提出されたものでした。この無理難題は、日本に開戦を決意させるに十分な内容を盛り込んだものだったのです。
 そして日本の真珠湾攻撃が行われたとき、大統領は日本の「だまし打ち」を非難し、米国国民は日本の「卑劣さ」を怒りました。こうして日米戦争が開始されたのです。
 当時病床にあった松岡は、真珠湾攻撃の報を聞き、泣きながらこう語ったといいます。
 「三国同盟の締結は、僕一生の不覚だったことを、今さらながら痛感する」。
 日米開戦こそ、本当は松岡が最も防ぎたかったことだったのです。


背後にコミンテルンの謀略

 では、日米戦争は、日米間の衝突だけで起こったのでしょうか。そうではありませんでした。
 その背後には、もっと複雑な力が働いていたのです。アメリカのW・ビュリット駐ソ大使は、1935年7月19日に、
アメリカを日本との戦争に引き込むのがソ連政府の心からの願望
 だと本国に知らせています。当時、コミンテルン(国際共産党組織)の戦略は、日米を戦わせて両者を弱体化させ、その機に乗じて、中国、またやがては日本、そしてアメリカをも共産化させることにありました。
 ちょうど蒋介石軍と日本軍を戦わせて、両者を弱体化させ、その間に共産軍が力をつけて、ついには中国を共産化してしまったのと同じ戦略です。
 アメリカはこの報告を受けていましたが、それでもある程度、この共産勢力の策略に乗せられてしまった形だったのです。
 アメリカは、共産主義の拡大を何としても防ぎたい、と願っていました。しかし、アメリカはのちにソ連と結託して日本と戦います。そして中国から日本を追い出しますが、その結果、中国の共産化を許してしまうのです(大東亜戦争終結の4年後の1949年)。
 また、アジアにおけるソ連の勢力を拡大させてしまいます。それによってベトナムは共産化し、朝鮮半島は分断され、北朝鮮は共産化してしまいました。この点で、明らかにアメリカの極東政策は失敗だった、ということができるでしょう。
 さらに、コミンテルンの魔の手は、日本国内にも及んでいました。
 1933年、リヒャルト・ゾルゲという人物が、ドイツの新聞記者を装って来日しました。彼はドイツ大使館に出入りして大使の信頼を得、通常の取材では入手できないような情報まで知るようになりました。
 このゾルゲは、じつはコミンテルンのために働くソ連のスパイでした。また、ゾルゲに協力した日本人の中に、尾崎秀実がいました。彼は近衛首相の側近であり、私的にも親しい間柄でした。
 彼らは近衛内閣に偽情報や意図的な影響を与え、日本がさらに中国に首をつっこむようにさせました。またそれによって日本が米英と対立を深めるように、仕向けたのです。
 こうして、日本を「北進」させず「南進」させて日中戦争を拡大し、日米戦争をも引き起こすというコミンテルンの謀略が実ったわけです。
 ゾルゲと尾崎は、大東亜戦争の始まった年の1941年、スパイ活動がばれ、逮捕されます。翌年、死刑判決を受けました。しかし、そのときには日米はすでに戦争をしていたのです。


偽書が及ぼした影響

 また日米戦争において、「田中上奏文」と呼ばれた偽書の影響も、決して小さいものではありませんでした。偽書というのは作り話、でっちあげです。
 これは1927年当時の田中義一首相が天皇に提出したものという体裁をとった文書で、日本はやがてアジア全土を侵略、征服し、またその後は世界征服を目指す、という内容を語ったものでした。
 この偽書は、中国でつくられ、日本の侵略の意図を暴露するものとして喧伝(言いふら)されました。この偽書を作った犯人は、ユダヤ人を陥れた『シオン長老の議定書』と同様、コミンテルンであったといわれています。
 「田中上奏文」の英訳コピーは、米国議会の議員たちの間でも、まわし読みされました。そして日本の邪悪な意図を示すものとして、その後の米国指導者たちの判断と行動に少なからぬ影響を与えたのです。
 戦後、連合国が日本の戦争を裁いた「東京裁判」でも、日本断罪をなしたアメリカ人らは、この偽書を偽書と知らなかった読者でした。
 そしてその影響は今日も残っています。なぜなら、いま日本の学校で教えられている歴史教科書は、おもにこの「東京裁判史観」および占領軍の、
"War Guilt Information Program"(戦争についての罪悪感を日本人に植えつける計画)
 をそのまま受け継いで書かれているからです。つまり当時のアメリカ側の論理――日本は一方的にアジアを侵略した、悪者だったという歴史観に立って記述されています。ある高校生は、歴史の授業の日に、
 「ああ、また日本の悪口か」
 とこぼしました。こんな授業では、若者が日本に誇りを持てないのは当然でしょう。日本の悪いところを悪いと言うのは、よいのです。悔い改めるべきことはあります。
 しかし日本だけが悪かった、あるいは、日本は悪いことだけをしたと言うなら、これ以上の歴史の歪曲はありません。一面的な偏向教育は、青少年の健全な育成をもたらしません。


勝てば官軍、負ければ賊軍

 東京裁判というのは、戦後、勝者が敗者の戦争犯罪を一方的に裁いた裁判です。
 大東亜戦争が終結したとき、日本の総理大臣は東条英機首相でした。彼は裁判の被告席にすわったとき、戦争をするに至った日本の立場を次のように説明しました。
 まず戦争の直接の原因は、1929年以来の世界恐慌に始まったと、東条は述べました。
 それによってアメリカなどの国が、いわゆる「ABCD(米、英、中、オランダ)ライン」の経済封鎖によって、資源を持たない日本を追い込んだことを述べました。
 また武力包囲、日本資産の凍結、物資の禁輸などによって日本を排除しようとしたこと、それによって窮地に立たされた日本は、もはや実力(武力)で資源獲得をする以外になくなったことを、主張しました。
 つまり東条にとって、この戦争は明確に自衛戦争であったのです。日本の存亡をかけた、生きるか死ぬかの戦争でした。
 またその一方、東条は、日本は東アジアの保全と中国との協力を求めていながら、中国に対して強引な武力行動に出たしまったことの反省を述べました。
 日本は、国際連盟で人種平等を唱えながら、中国に不平等条約を強要し、維持し続けたという矛盾をおかした。またそのために、半植民地の状態から抜け出そうとしていた中国の民族主義と、激しく対立してしまったとも述べました。
 東条はまた、東京裁判を批判して言いました。世界戦争が勃発する背景には、歴史的に根深い原因が相互にある。戦争責任を一方の指導者にかぶせても、それは解決にならない。また国際法上、外交上の開戦責任を論じても、本質的な原因を究明することにはならないと、主張しました。
 それは東京裁判が「文明と人道」を法基準とするなら、戦争犯罪の追求は当然、連合国側にも及ぶべきものではないか、という主張だったのです。
 東条の弁明は、堂々としたものでした。戦争をして、一方が完全な悪玉で、一方が完全な善玉であるということはあり得ないのです。
 しかし、東京裁判はもともと、勝者が敗者を一方的に裁くものでした。東条の主張が聞き入れられるはずもありません。
 「勝てば官軍、負ければ賊軍」の言葉もあるように、勝った方の行為は正当化され、負けた方が悪とされるのが世の常です。
 しかし、アメリカ人の中にも、日本を弁明して立つ人がいました。
 ベン・ブルース・ブレークニー弁護人は、1948年3月10日の最終弁論において、連合国側、とくにアメリカがいかに経済的・軍事的に日本を追い込んだかを、論証しました。そして大東亜戦争は、連合国の「不当な挑発」によって引き起こされたものだと、訴えたのです。
 彼は日本を去るとき、日本の全被告に対してこう述べました。
 「わたしは最初日本に着いたときには、これはとんでもない事件を引き受けたものだと、後悔しないでもありませんでした。
 けれどもその後、種々調査、研究をしているうちに、私どもがアメリカで考えていたこととは全然逆であったことを知りました。
 つまり日本には、20年間一貫した世界侵略の共同謀議なんて断じてなかったことに、確信を持つに至ったのです。したがって起訴事実は当然、すべて無罪です」。


トインビーの評価

 このように、かつての大東亜戦争は、様々の出来事が重なり、こじれあって起こったものです。
 しかし、雨降って地固まるといいましょうか、日米はかつてケンカをしましたけれども、ぎくしゃくした過去を乗り越えて、今や両者の関係はこれまでになく仲のいいものとなっています。
 私たちは過去を知った上で、未来の平和を築いていかなければならないのです。
 英国の歴史家、アーノルド・トインビーは、日本の近代史についてこんな分析をしました。
 19世紀以来の食うか食われるかの帝国主義時代の中で、日本の取るべき選択肢は一つしかなかった。それは明治維新を断行し、近代国家に生まれ変わることだった。それがなかったら、日本は欧米の植民地になっていただろうと。
 また日本に来たこともあり、日本を愛したトインビーにとって、大東亜戦争は悲しい出来事でした。しかし彼は、日本の無謀さを批判しながらも、戦後は、
 「日本は米英を一時的に打ち破り、植民地帝国を解体へ追い込んだ。そしてアジア諸国民のためになる働きをした
 と、その一面を評価しました。  
                                   toinpi  
                                    トインビー。彼は「日本はアジア諸国民  
                                     のためになる働きをした」と述べた。

 明治維新以来、日本の外交は、悪戦苦闘の連続でした。その歴史を、一面的にだけとらえて自虐史観に偏ることは、今後の日本の歩みにマイナスになるだけです。


韓国への賠償問題は?

 次に、いわゆる「賠償問題」を考えてみましょう。
 今も韓国ではしばしば、日本による個人への賠償を求める声があがります。しかし、日本は韓国への賠償をまだしていないのでしょうか。
 いいえ、かつて1965年、日本と韓国は日韓条約を結び、すべての賠償問題を終了しました。岡田邦宏著『「戦後補償論」は間違っている』によれば、そのとき日本は無償で3億ドル(約1080億円)、有償で2億ドル(約720億円)、さらに民間借款で3億ドルを支払ったのです。
 また日本は、韓国内に持っていた財産を放棄し、その上で、
 「両国民の間の請求権に関する問題が、完全かつ最終的に解決された
 ことで両国は合意しました。民間借款を除いた5億ドルだけでも、当時の韓国の国家予算の1・45倍にあたる膨大なものです。
 韓国の人々の中には、「あれは単なる経済協力にすぎなかった」と説明する人もいます。しかし「請求権に関する問題」が「完全かつ最終的に解決」されたと条約にあるのですから、これは賠償問題の終了を意味します。
 韓国は、このお金を「軍人、軍属、労務者として召集・徴収された」者で死亡した者の遺族への補償に、一部使いました。
 しかし大部分は、道路やダム、工場の建設など国づくりに投資しました。その結果「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長を遂げたのです。
 韓国はこのように、日本から得たお金を個人補償として人々に分配することよりも、全国民が豊かになることを選びました。それは韓国自身がとった行動であり、出した日本がその使い道についてあれこれ言うことはできません。
 個人に対する補償を日本政府に求める韓国人は、こうした事実を知る必要があります。日本人も、貧しかった中で、一生懸命働いて賠償要求に応じてきたのです。
 しかし日本にとって歯がゆいのは、韓国政府がこうした過去の条約を知りながら、国民から補償を求める声があがったときに何も言わないことです。それは、言えば、偏った反日教育ばかり受けてきた韓国人の感情を抑えられないからかもしれません。
 補償問題については、こうした歴史の経緯を正しく理解しなければなりません。


日本はアジア諸国に賠償をしなかったか

 では、韓国以外のアジア諸国への賠償はどうでしょうか。
 1951年、日本はサンフランシスコ条約を結んで、連合55カ国中、48カ国と講和をしました。その条約とそれに続く個別の国との協定において、日本は、戦争で与えた損害に対して賠償を行なうことを約束。そこから戦後処理が始まりました。
 岡田氏の前著によれば、日本はたとえばフィリピンに賠償金約1980億円、借款約900億円、インドネシアには賠償金約803億円、借款1440億円を支払いました。
 このほか賠償、補償の総額は約3566億円、借款約2688億円で、合わせて6253億円にのぼります。これ以外にも事実上の賠償として、当時日本が海外に保有していた財産は、すべて放棄して現地に残しました。
 たとえば日本政府が海外に持っていた預金、鉄道、工場、建築物、はては国民個人の預金、住宅まで含み、当時の計算で約1兆1千億円にも達しています。
 なお中国の蒋介石政権は、対日賠償請求権を当然持っていましたが、「以徳報怨」(怨みに報いるに徳を以てせよ)の精神に立ち、一切の賠償請求権を放棄してくれました。彼は、今後日本と中国が手を取り合って「大同の世界」(真の平和が実現した世界)を実現していこうと、呼びかけたのです。
 この蒋介石の賠償請求放棄は、敗戦国日本にとって、どれほどありがたいことだったでしょう。ただし日本は、中国や台湾に莫大な資産をそのまま残してきたので、その残してきた資産は、単なる賠償以上にその後の中国、台湾の発展の基礎となったのです。
 また、1972年に日中国交回復がなされ――このときの中国は共産主義政権でしたが――以来、日本は中国に対し莫大な「財政支援」を続けてきました(約6兆円)。
 これは、日中間の賠償問題はすでに決着がついているので、日本は隣国・中国への友情のしるしとして、財政支援という形でしてきたのです。
 しかし、中国の共産主義政権は、国民にいまだにこれを知らせていません。中国の国民は、中国は賠償権を放棄して日本に恩義を与えたということだけを、聞かされているようです。
 いずれにしても、このように日本は、戦争被害を与えた国に対し、賠償を行なってきました。一方ドイツは、国に対する賠償を行なうのではなく、個人に対する賠償の方法を取りました。
 ドイツ人の考え方は、ナチスの戦争責任は国家にはなくすべて個人にあり、したがって戦争被害者もすべて国家ではなく個人である、というものです。それで、個人に対する賠償を行ないましたが、ドイツは戦争被害を受けた国家に対する賠償は一切行なっていません。ドイツは、被害国との講和を一切結んでいないのです。
 このように日本とドイツの賠償の仕方は、異なる形のものです。どちらがいいというのではなく、両方ともそれぞれの仕方で賠償を行なったのです。
 日本は戦後の貧しい時代に、賠償を約束した国々に対して、それをきちんとすべて実行してきました。毎年の返済額は、国家予算の3割近くにも達しました。
 ちなみに1955年のスチュワーデスの初任給は、7000円でした。今日、こうした事実が忘れられ、戦後補償の問題が間違った形で討議されることがあります。
 しかし補償問題が言われるとき、私たちは右往左往するのではなく、歴史の経緯をよく理解した上で対処していかなければなりません。
 キリストは、「平和をつくる者は幸いです」(マタ5・9)と言われました。真の平和をつくるには、過去の歴史に対する偏らない理解も必要です。その上でこそ、積極的で効果的な平和活動も生まれてくるのです。            

[参考文献]
◎「教科書が教えない歴史」(藤岡信勝/自由主義史観研究会)扶桑社文庫
◎「捏造された日本史」(黄文雄)日本文芸社
◎「国民の歴史」(西尾幹二)産経新聞社
◎自由主義史観研究会ホームページ 


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月の物性
 ・ 太陽の直径約13万kmに対して、月の直径は400分の1の3,476km、地球の直径約12,742kmの約4分の1。
 ・ 地球から太陽までの距離1億5000万kmに対して、地球から月までの距離は、400分の1の38万4000km。
 ・ 地球にはいつも同じ方向を向けている(公転周期=1恒星月=約27.32日)。
 ・ 裏側の方が膨らんでいる。地形も複雑。
 ・ クレーターと海の成因からすれば、表も裏も同じような地形になるはず。
 ・ しかし、実際には、月の海は表側に集中し、クレーターは裏側に多い。
 ・ 裏の地殻が表よりも40〜50kmも厚い。
 ・ 月着陸船等の数回の衝突実験で、月面は約一時間から3時間も振動しつづけ「鐘のように鳴り響いた」。
 ・ 小さな振幅から次第に大きくなってピークを迎え、そのピークが長く続いた後徐々に減衰していくという、地球の地震のパターンとは全く違っていた。
 ・ 地球の地震波はせいぜい数10秒。月面の内部には、地下数十kmのところから大きな空洞になっていることが推定される。
 ・ 月の岩石は約53億年前〜70億年以上、アポロ17号での石は、約200億年前のもので、約46億年前に誕生した地球よりも古い。
 ・ 月は、地球が誕生する46億年以前から銀河系宇宙に存在していた古い惑星。
 ・ 月の表面の岩石の密度は2.96で、地球の表面の平均密度2.27より重い。月全体では3.34、で地球全体での5.52の6割しかない。
 ・ 月には高温の核は存在せず、過去においても強力な磁場が存在した形跡がない。
   月の岩石には36ガンマという強い化石磁場が含まれている。
 ・ 地表1,5m以上ドリルで孔をあけられなかった。NASAの科学者は「月は内核と外面が裏返しになっているようだ」と述べる。
 ・ 月の内部が空洞になっていることから月には磁場がない。探査機でも確認。
 ・ 月の内部は空洞であるため重心がない。
 ・ 「月の外郭は二重構造になっている。外側の第一外郭は素石殻。 内側の第二外郭は人工的に作られた堅固な金属殻で、海の部分は第一外郭が極めて薄いか、まったくない場所。 隕石の衝突によって第一外郭が破損したので、第二外郭(船体)を強化するために、耐熱性金属成分を大量に含む溶岩状物質を人工的に作り、破損箇所に注ぎ込んだ。その結果できあがったのが海である」という説がある。
 ・ 水蒸気が月の深部から漏れ出ているのを検出。
 ・ ヴァシンとシュシェルバコフは、月の内部に「直径約3,300kmの別の天体があり、その表面に諸施設が配され、この内部球体と外郭の間には約43kmに及ぶ空洞部があり、そこに生命維持用のガスが蓄えられている」と言っている。

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