彼女は泣きそうになりながら、真夜中の住宅街を足早に歩いていた。
時刻は午前2時で、真っ暗な歩道には彼女以外、誰もいなかった。
一体なぜこんな目に遭うのか。彼女には全く理解ができなかった。
彼女の名前は吉村佳苗。
高校2年生。
成績はかなり優秀なほうで、今日も日曜日だというのに、朝から塾で物理と化学と数学の講義を受けてきたところだった。
塾からの帰り道に、幼馴染で親友の田中瑠璃と数名のクラスメイト達に遭遇し、カラオケボックスに連れ込まれて4時間ほど軟禁されたが、これはよくある事であり且つ、まだ我慢することが可能な許容範囲内であった。
ありえないのは、駅前に止めておいた新品同然の自転車が、チェーンロックだけを残してどこかにテレポートしていたことであった。
佳苗は我が目を疑った。
泣きっ面に蜂とは、まさにこの事だった。
今から五日前に購入したばかりの42000円の自転車を止めておいたはずの場所には、420円のチェーンロックが無残に切断されて、アスファルトの上で小さく丸まっていた。
「バイク用の極太チェーンにしとけばよかったあああああーあーあ」
度重なる疲労とあまりの理不尽さに、佳苗は生まれて初めて独り言を吐き出しながら歩いていた。
駅から歩き続けて10分ほど経った頃だった。
佳苗は暗闇の中、古い鳥居の前を通りがかった。
薄暗い電灯と古ぼけた階段が目の端に留まり、ふと足を止め、佳苗は少し迷ったが、やはり近道をすることにした。
鳥居の横手にあるこの小汚い階段を登れば、約400メートルの回り道がカットされることになるのだ。
この階段は恐ろしく古くて、近所の老人ホームで「黄泉への階段」と呼ばれているほど急で登りにくい危険な代物だったが、今の佳苗にそんな背景事情はあまり関係なかった。
佳苗は何に代えてでも、一秒でも早く今夜というものを終わらせたかったのだ。
しかし運命はこの数秒後、佳苗の意思と希望とは裏腹に、実に独走性豊かな展開を繰り広げるのであった。
80段ほどもある階段を半分くらい登った時だった。
突然、佳苗の左手の神社の中から金網のフェンスをすり抜けて、無数の「人魂」が漂ってきた。
そしてそれらは佳苗の顔の前までくると、音も無くふっと消えた。
「うわっ!」
いくら苛立っていたとはいえ、これには佳苗も心の底から驚き、危うく崖のような階段から足を踏み外してしまうところだった。
必死で錆びた手摺りにしがみつきながら、反射的に金網の向こうを見ると、暗闇の中に、やけに大きな狛犬のシルエットが見えた。
そしてさらに奇妙なことに、その不気味な狛犬の周りには、先程の人魂達がおびただしい数で漂っているのだった。
人魂は自ら発光してはおらず、まるで周りの空間から光を吸収しているかのように、薄ぼんやりと見えた。その姿は地味で影は薄かったが、逆になんともリアリティーがあって、より一層佳苗をぞっとさせた。
佳苗は恐怖で身動きが取れなくなり、へなへなと階段の上に座り込んでしまった。しかも、目を逸らすこともできず、ただじっと見つめ続けている内に、佳苗の目は意思に反してだんだんと暗闇に慣れてきてしまい、ぼんやりだったその輪郭が、刻一刻とシャープになってくるのだった。
どんなに恐ろしいものが見えてくるのか、佳苗は震えながらそのときを待った。しかし、「それ」をはっきりと認知した瞬間、佳苗の頭から恐怖という2文字は、盗まれた自転車の如く完全にパッと消えて無くなり、代わりにもう一度、先ほどのあの濃厚な苛立ち感が静かにリターンしてくるのを、彼女は全身で受け止めなければならなかった。
「あなた、何考えてるの?」
佳苗は階段の上で立ち上がり、見覚えのある「彼」の横顔を直視しながらそう言った。
「・・明日、物理の小テストがある。エネルギー保存しなくっちゃ」
「彼」は明後日の方向を見ながらそう言って振り向き、佳苗をキリッとした目つきで見つめ返した。
佳苗は目を瞬いた。
全く会話になっていないではないか。
「は? ・・耳、聞こえてる?」
佳苗が聞くと、彼は小さく頷いた。
「ええ、もちろん聞いていましたよ。今、僕が何を考えているかでしょう? ちゃんと答えましたよ。何か文句でもあるんですか?」
彼は何故か、気の抜けたような敬語で呟くようにそう言った。
「・・意味分かんないんですけど」
当惑した表情で、佳苗もつられて丁寧な口調で答えた。
冗談抜きで本当に全く理解できなかった。
こんな気分は、塾でうっかり間違えて、東大数3コースの特別クラスに紛れ込んでしまった、中学2年のあの日以来だった。
佳苗から見て彼は今、神社の中にいる。
もっと正確に言うと、境内左側にある狛犬の頭の上に、背中を丸めて座っている。
そして死んだような目でシャボン玉を飛ばしている。
そんな彼のことを佳苗は呆然としたまま、フェンス越しにじっと見つめている。
もう既に、さっきまでの佳苗の苛立ちは、どこか彼方へ吹き飛んでしまっていた。
目の前には異次元の世界が広がっている。
「あなた、名取 由一君でしょ? 学校のクラスの・・」
「そういう君は・・えーっと、吉・・・さん」
由一は初めて普通の口調でそう言った。
「吉村佳苗よ。・・そこで何してるの? 」
「シャボン玉っす」
由一は、今度は気さくなチンピラみたいな口調でそう言うと、佳苗に向かってシャボン玉を吹いた。
佳苗はしばらくの間、石鹸水の香りと共に全身をシャボンに包まれた。
先ほど佳苗を転落死させかけた地味な人魂の正体は、このシャボン玉だったのだ。
佳苗は自分の体の中で、何かがゆっくりと萎んでいくのを感じた。
「なぜコマイヌの上に座っているのかについて聞いてるんだけど。しかもこんな時間に」
「ここが監視カメラの死角だからさ」
由一はさも当然のように即答した。
「そうなの?」
佳苗は思わず辺りを見回した。
「ああ、このポイントが死角さ。人工衛星『浅草』からのね」
由一はサラッとそう言って、再びシャボン玉を吹いた。
佳苗はキョロキョロするのをやめ、しばらく足元の地面を見つめることにした。少なくとも、そんな名称の人工衛星がありえないことだけは分かる。
「・・・そう」
佳苗は深呼吸をして心を落ち着かせ、再確認することにした。
現在時刻はAM2時2分。
見間違いではない。
私は今、近道をするために通った神社脇の細い階段の、下から数えて40段目くらいの所に立っている。目線の高さは狛犬の上に座っている私のクラスの優等生、名取 由一とほぼ同じで、私達二人の距離は、フェンス越しに約1.5メートル程。名取 由一はシャボン玉を吹いている。動機は不明。ネジが外れている恐れあり。
「・・私はこれから家に帰るところなんだけど、やけに胴の長い狛犬がいるなーと思って、ふと見たらあなたがそこにいたのよね。・・驚いたわ。二つの意味でね。心臓が止まるかと思った。今、午前二時なんですけど。明日、学校よ? しかも、なんでシャボン玉なの? いつからそんなキャラになったの? 」
佳苗は腕時計を見ながら、早口で一気にそう言った。
「昼間だと、こんな所に座っていたら見つかって箒で叩き落されるだろうし、神主さんの家から木魚が飛んでくる可能性も、完全には否定できないだろう? 少しは神主さんの身になって考えてみたらどうだい? 」
由一は穏やかな口調でそう言い返し、意味無く微笑んだ。
「・・・・・・・」
二人はしばらく見つめあった。
佳苗は少し不安になってきていた。由一はクラスでは大人しく、成績もよい。・・・こういう場合は、それらは逆に致命的な状況悪化条件となる。
「・・ねえ、本当に大丈夫? 頭が飛んでるとしか思えないんだけど・・まさか、クスリでもやっっちゃってるわけ?」
佳苗が心配そうにそう言うと、由一は鼻で笑った。
「はっ、まさか。狛犬の上に座ってシャボン玉飛ばしてるだけで薬の疑いかい? 大げさだよ。君だって今までに一回くらいは、交差点のど真ん中に寝転んで転がってみたいとか思ったことあるだろ? えーっと、吉本さん?」
由一は無邪気な笑顔でそう言った。
佳苗は不覚にも少しドキッとしてしまった。
佳苗が由一のこんな笑顔を見るのは、5年前の中学入学式の日から数えて、これが始めてだった。*(注)*(佳苗と由一が通っているのは、私立の中高一貫校)*
(記念すべき第一回目って奴だ。相棒)佳苗の疲れた頭の中で、どこかの誰かがそう囁いた。
「無いわよ。そんな変な願望。それで車に跳ねられたらギネス級のマヌケじゃない。・・それから、私の名前は吉村だから」
「君も座りたいなら、右のが空いてるけど。どう? 長い人生の中で、一度くらい狛犬の上に座ったからって、誰も悪く思ったりしないよ」
由一は今度はシリアスな口調でそう言って、もう一匹のコマイヌを指差した。
「私が座りたい? ・・そこに?」
ここでついに、佳苗は全てにおいて完全に訳が分からなくなってしまった。
そして、もう考えるのをやめようと思った。
今日は本当に地獄だったのだ。
日曜日だというのに、朝の11時から夜の9時半まで塾で悪夢のような授業があった。
それからその後、友達の瑠璃やエミ達に拉致され、行きたくもないカラオケボックスに4時間も強制的に軟禁された。
やっと開放され、駅に着くと、乗ってきたはずの自転車が蒸発していた。
精神的にも肉体的にも、もう本当にへとへとになって、私は今、ここに到る。
よって、クラスメイトの一人や二人が狛犬に乗ってシャボン玉していようがしていまいが、そんなこと私には全く関係ないに決まっている。・・学級委員の山本さんなら、ここで金網を乗り越えてでも由一をコマイヌの上から引きずり下ろすべきなのだろうが、誠に残念なことに、私はただの掲示係なのだ。
「じゃ、お大事にね」
佳苗は本日最高の笑顔でそう言い、右向け右をして階段を登り始めた。
「また明日ね」
由一も明るく爽やかにそう答え、佳苗は再び足を踏み外しそうになった。
しかし、本当に疲れている佳苗は、そのまま振り返らずに階段を登ることにした。
由一は佳苗の足音が聞こえなくなるまで、動かずにそのままの姿勢でシャボン玉を飛ばし続けていた。
数分後、シーンとした静寂の中、由一は狛犬の頭から静かに飛び降り、欠伸をしながら背伸びをした。
暗闇の中で一人、深呼吸をして冷静に考えてみると、正直な気持ち、クラスメイトに見られたことは誤算だったと思った。
そもそも、なぜ午前2時のこのタイミングで高校のクラスメイトとばったり出会うんだろうか。
心臓麻痺になった瞬間に雷に打たれて息を吹き返すのと同じくらいの確率ではないのか?
由一はさらに思った。
しかもつい調子に乗って、余計な訳の分からない態度までとってしまった・・。
このままでは、おそらく明日以降の俺は、良くてあだ名が「コマイヌ」となり、悪くて夢遊病者などという最低な噂が流れ、最悪の場合、気が付けば背中に「変態」と書かれたプリントが貼り付けられていて、柄の悪い奴らにカモられる可能性が跳ね上がるだろう。しかし・・・
「ま、いいや」
由一はそう呟き、最後のシャボン玉を飛ばした。
別に大した事ではない。
もともと空虚で死ぬほど退屈だった学園生活が、少し斜めにヒップホップする程度の話だ。
コーラをシェイクするくらいの被害さ。逆に楽しくなるかもしれない。それに、もしも誰かに見られた場合、端から今夜のことは
「夢でも見たのかい?」
で、押し通すつもりでいたのだ。
本当かどうか分からない、意味不明な内容の話など、どこの誰が信用するものか。
目撃者本人の吉本・・吉村佳苗ですら、明日になれば今夜のことは夢だったのか、現実だったのか、全く分からなくなるに違いない。
由一はそう確信した。
「よし」
由一はそう呟き、一応賽銭箱に10円玉を投げ入れ、深呼吸をしながら鳥居をくぐり、まっすぐ帰宅した。