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[25528] DECEMBER【天使/悪魔 現代伝奇】
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/01/24 15:44

【天使と悪魔の――代理戦争。】


「こまっている人がいたら、たすける」。そんな理想を掲げる高校生、藤川忍が、美しい天使に出逢い、サタンと言う存在を巡る、悪魔たちとの“代理戦争”に巻き込まれていく物語です。

普通の青年が、理想と現実に悩み怯えながら、奮闘します。

作者独自解釈・創作による魔法や魔術、天使や悪魔や竜などの幻想生物が登場します。

長いお付き合いになると思いますが、
ぜひ感想お待ちしています。活力になります。

竜月。





[25528] プロローグ
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/01/19 23:55
   DECEMBER

                           竜月


      ■

 崩壊は棺に眠る
 白銀の鎖に括られて
 未来永劫、絶えること無く

      ■



      0

 
 夜空には朧月が浮かんでいた。
 
 酷く朦朧とした、黄金の月だ。真黒な雲に隠れているけれど、あんなに光っていたらその場所は一目瞭然だった。
 かくれんぼだったら負けないな、と思う。俺は誰よりも上手に昏闇に隠れてみせる。
 
 俺の見上げる夜空は、丸く切り取られていた。
 
 此処は静かな静かな森の深奥(しんおう)。高い木々が生い茂る、人間のものではない世界。動物が植物か、或いは畏るべきモノ共の棲む世界。
 そこに、木々の一切が駆逐された、大きな円形の舞台があった。
 
 舞台。
 
 そう呼ぶのが正しいのか俺は知らないけれど、相応しいとは思う。
 
 真ん中には長方形の石造の祭壇、その周りに四本の樫の木が刺さり、それぞれの棒を純白の布が繋いで祭壇を四角く囲っている。その外には八人の人間。白装束を纏い手に手に小刀を携えて、祭壇に向かい微動だにせず立っている。その顔は白い布で隠されていて窺えない。
 更にその外には篝火、そして同じく白装束の人間が複数いた。ただし、手に持っているのは刀や弓などの殺傷武具だ。火が弱く見え辛いが、顔を何かで覆っていたりもしない。その輪より遠くはもう見えなかった。
 
 そしてどうやら地面にも細工が施されているらしい。
 
 地面を掘り返す要領で、この円形の広場一帯に複雑な魔方陣が刻まれていた。術式や用途は不明。俺はこの手のものには詳しくない。
 
 そんな風に造られた状況だから、俺は舞台と呼ぶ。
 
 俺を、殺すための、舞台。
 
 俺は真ん中の祭壇に裸で寝かされていた。白い布で躯中を祭壇ごと縛られている。指の一本にまで絡んだ白い布は、全身の可動機能を完全に奪い去っていた。唯一、双眸だけを残して。
 
 だから、俺は見ている。
 空だけを見ている。
 
 背の高い木々が視界に割り込んで、限りない筈の夜空は丸く切り取られキャンバスとなる。
 中心で滲むバターみたいな金色。
 気紛れな風に舞う幾枚かの深緑。
 視界の端々で己を主張する紅色。
 無機質を旨とするかの様な純白。
 それらが綯い交ぜになって昏いキャンバスに閃き、俺の世界のすべてとなっていた
 
 美しい、と思う。

 バチッ、と火花が舞った。
 圧倒的な輝きが、目前を通り過ぎた。
 

 自分を思う。
 
 散々殺してきた。
 そして殺される。
 それだけのこと。
 
 散々壊してきた。
 そして壊される。
 それだけのこと。
 
 単純なことだ。
 省みること、鑑みること、ことこの場に至ってもありはしない。
 
 それどころか、何だか酷く落ち着いた気分だった。
 一瞬の波紋もない、凪いだ水面の様な気分。
 
 この気持ちは得難いもので、その理由は解かっている。

 近くに何も殺せるものがないから。
 誰にも何にも手が届かない。
 それでは殺せない。
 そんな単純な理由。


 ――ああ、そう。
   俺は生れて初めて、何も殺さずに生きているんだ。

 
 それにしても意外。殺害絶ちなんてしたら苛々が募る一方だろうなあ、とか思っていたのに。
 その真逆でとても清々しい気持ちじゃないか。

 確かに俺は、動物を植物を昆虫を機械を血縁を運命を因縁を歴史を当惑を激昂を愉悦を悲哀を落胆を概念を世界を哲学を革命を戦争を法律を戒律を音楽を映像を物語を不思議を人間を殺したくなる。

 だけど本当は。
 本当は。

 こんな風に自由に生きたかったのかもしれない。
 
 ただ月だけを見上げて。


「「破ッ!」」
 
 
 人々が吠えた。
 空気が震えた。
 篝火が揺れた。
 
 空気に緊張が走り、風が止む。
 沁み渡る静謐さ。まるで深海の様。
 
 ずっと疑問に思っていた。何で俺一人殺すためにこの様な大仰な儀式めいたことをしているのか、と。捕まって意識を飛ばされた段階で、俺はもう死を受諾していたのに。

「「破ッ!」」
 
 その答えが示されようとしている。
 
 白装束の人間たちの視線がある一方向、森の影の昏い闇に集中する。彼らはもう俺になど興味なさげ。各々が武器を構えて戦闘準備だ。それが少し癪に障る。
 
 その姿は、玩具のブリキの兵隊に酷似していた。きっと、その所作があまりに完璧だったからだろう。
 俺の眠れる殺人衝動を疼かせる程に。
 
 しかしなるほど。俺を拘束したのは何か重要な目的の為のファクターだったのか。これでこの大層な儀式造りも、生まれてこの方、忌み嫌い放置していた自分をどうして今更捕まえに来たのかも、納得がいった。

 ではここで新たな問題が提示。
 ここまで大掛かりな準備をして、迎える相手は、一体誰――?

 ぞわり、と。

「――――――っ!?」

 全身に戦慄が奔った。

 氷柱で貫かれたかと誤認する程の衝撃。

 咽喉を拘束されていなかったら、驚愕の叫びをあげていただろう。
 
 ナニカ。
 ナニカ佳くないものが、森の闇から近付いてくる。
 
 俺だけじゃない。白装束の人間たちも、一様に驚いている。その多くが怯み、中には尻餅をついている者までいた。
 その人間に、俺は内心毒吐く。……なんだよ腰抜けが。近付いてくるナニカと敵対することは、俺は知らなかったがお前たちは最初から知っていたんだろうに。それなのに対峙する覚悟すらしていなかったのか。愚かしい。
 
 ってあれ? …………敵対?
 俺はアイツを敵と呼ぶのか?
 何かも知らないし、姿も見ていないのに?
 
 ……ハ、それこそ愚かしい。
 だって、訴えるじゃないか。
 
 俺の血が。
 俺の躯が。
 俺の魂が。
 奴の生命を停止せよ、と。
 それこそ何よりも確かな存在証明。
 
 俺の近くに立っていた白装束の人間たちの内の、一人が動いた。腰が曲っていて杖を突いているところを見るに老人だろうか。細く掠れた、しかし遠く伝わる声で命令を下す。

「総員、術式を起動せよ」

 その声に、幾人かの者は素早く反応し、音吐朗々と呪文を唱え始めた。しかし、恐怖に囚われた者たちには聞こえていない。ただの一時もその闇から目を離さないようにしながら、じりじりと後退していく。
 老人が、おもむろに手を振るった。

「……う、うわああああああああ!」

 何処からか男の悲鳴があがる。
 倒れ、地面でのたうつその男の背中には、深々と、刃が見えなくなるまで小太刀が突き刺さっていた。白装束に、紅い大輪の花が咲く。

「愚図は要らぬ。そんな輩は早々に儂が冥府に送ってやろう。――さて、他に愚図は居るかの……?」

 それは明確な脅しだった。
 怯えていた人間も慌てて詠唱を始める。
 目前の恐怖と二秒後の異怖。それらを天秤にかけた結果だった。
 
 人はいつだって、目の前の刹那が愛しくて仕方ないのだ。

「ほほ、重畳じゃ。あの男以外、愚図は居ないと見える。では始めるのじゃ。我が一族の大望(たいもう)を今――叶える時ぞ」

 詠唱が重なる。
 地面の刻印に光が奔る。
 ぐにゃり。
 ぐにゃり。
 景色がまるで金魚鉢の様に歪む。
 
 
 その時、俺は。
 月だけを見ていた。


 花を背負った男の苦悶も。
 新たに振るった老人の小太刀も。
 傍らに立つ母親の顔も。
 全く目には入らなかった。
 
 ただ、朧な月だけを見上げて。
 金色の朧な月だけを見上げて。

 詠唱が止み、金魚鉢が割れた瞬間、俺は意識を失った。




[25528] 一日目 (1) 日常
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/01/20 00:10

      ☨

 夢を視た
 酷く恐ろしいユメか、とても楽しいユメか、或いは無色透明のユメか
 そのどれかだったと思う
 けれど其のユメは、片鱗も触れぬ内に浚われて仕舞った
 天使と悪魔に、攫われて終った

      ☨


 「忍は寝ても覚めても寝惚けた顔をしているけど、せめて顔を洗ってシャキっとしてきなさい」と朝一番から幼馴染の痛烈な一言を浴びて、僕、藤川忍は渋々洗面所に向かった。
 廊下の途中、窓の結露を指で拭き取って外を見る。
 朝早く静かな住宅街と、高く青い空が見えた。いい天気になりそうだが、十二月に入って最近は随分と寒くなった。

 寒いのは好きだ。
 全てが内へ内へと籠もっていく気がするから。

 冷たい水に震えながら顔を洗ってリビングに戻ると、奈月はダイニングテーブルの椅子に腰かけて優雅に紅茶を飲んでいた。手には新聞、テレビからは朝のニュースが流れている。まるで彼女が家主のようだ。
 この状況を解説すれば、奈月は僕が寝ている内に鍵を開けて家に上がり込んで、暖房を入れ、紅茶を入れ、新聞を取り、テレビを点け、そして僕の寝起きを罵倒して寛いでいるわけだが、それも最早自然なことだ。例えば僕は紅茶を飲まないのに、いつだったか戸棚を開けたら一式が揃っていたくらいに。
 奈月はじいと新聞を睨んだまま。僕は特に言いつけもないと判断してキッチンに入る。
 昨日の残り物やスクランブルエッグなどで簡単に朝食を作って、奈月の対面に座った。本当なら冬は炬燵で食べたいのだが、「炬燵に紅茶と女の子は似合わないでしょう」と言う奈月の持論で朝はこちらで食べるのが習慣になっている。

「何か面白いニュースはあった?」
「何もないわ。政治の汚職、外国の混乱、殺人事件、パンダの死亡。暗いニュースばかりね」

 奈月はそう言って紅茶の入ったグラスを揺すった。

 彼女の名前は麻生奈月。僕とは小学校の頃からの幼馴染だ。幼い頃はボーイッシュで活発な娘だったが、成長するにつれてとても綺麗な大和撫子になった。長く伸ばした黒髪に目覚ましく成長したスタイル、真っ白な肌は雪のよう。
 ただどうしてか子どもの頃の明朗さはすっかりナリを潜め、吊り上がった眉と脚を組むスタイルが似合うような、シニカルで、斜に構えた少女になったのだが。何故だ。

「それより、ほら」

 奈月は片眉を顰めて、ちょいちょいとテーブルを指差す。
 ……そんな顔も似合うなぁ、とか呆けたことを考えていたから、一瞬反応が遅れてしまった。

「ねえ、聞いてる?」
「あ、ああ聞いてるよ」
「全く、すぐにぼうっとするんだから忍は。早くその朝食を食べちゃいなさい。学校に遅刻するでしょう?」

 言われて、僕は時計を見る。
 ……校門が閉まる迄、つまりは遅刻扱いになるまであと一時間半もあるんだけど。ちなみに僕の家から学校まで徒歩で三十分だ。
 そう奈月に言うと、

「あのね、忍。何度も言うようだけど私は忙しい身なの。クラスの学級委員長として日誌を付けたり花瓶の水を替えたり消耗品を補充したりの雑務を始め、生徒会副会長として冬休みの諸注意を印刷したり三年生を送る会の企画を練ったり来年の人事案を考えたり、やることが行列になって待ってるの」

 ここまでは良い? と僕に問う。
 僕は頷く。
 奈月は多くの人が面倒くさがるようなクラスの仕事を次から次へと請け負っていた。僕がやると言っても聞いてくれない。本人曰く「内申の為」だそうだけど、僕からすればそんな評価を気にしなきゃいけないような成績じゃないと思う。

「だから朝とは言え貴重な時間を一切無駄にしたくないのよ。解かる? 解かるわよね。よし、さあキリキリ食べなさい」

 奈月は腕を組んで顎で小さく促す。
 ……昔、一度だけ。「じゃあ僕を置いて一人で行けばいいじゃないか」と言ったことがあるのだが、そうしたら奈月は初めて見る顔で俯いてしまったので、それ以来僕はその言葉だけは禁句にしている。そしてそれを言えない以上、もう急いで食べるしか僕に選択肢はなかった。
 奈月が再び新聞とテレビに戻ったので、僕は急いで朝食を食べ終えて食器をシンクに運んだ。
 その後二階の自室に戻り制服に着替えて鞄を持って、リビングに戻る。
 奈月は準備万端で僕を待っていた。
 キッチンを見るとティーカップと食器が洗って干してあった。
 「さあ行くわよ」と出て行く奈月。
 僕はその後に付いて家を出た。



 吐く息は白く、後ろへ流れて行く。
 青い空は澄み、美しいなと思った。
 外は矢張り寒かった。僕は黒のコート、奈月は冷え性なので白のコートにチェックのマフラー、それにピンクのミトンまで装備。

「……寒いわね」
「そう?」

 いつも奈月と一緒に登校するけれど、その間にあまり多くの会話は生まれない。ただ、奈月の一歩分斜め後ろを僕が付いていくだけだ。
 だが、それが心地良い。
 奈月が同じように感じてくれていると良いけど
 まだ人気の少ない住宅街を抜けて、大通りに出る。通勤時間なので交通量は中々だ。車を横目に歩道を歩いて、ファーストフードから八百屋まで、幅広い年齢層を集めるが今はまだシャッター街の商店街を抜けて。

「あ、ちょっと待って」
「?」

 青信号の交差点を渡ろうとした途中、振り返る奈月を置いて道を外れた。
 そこには赤信号が変わるのを待っている三人の小学低学年くらいの子供たちが、パタパタと走り回りながらふざけあっていた。元気なのはいいことだけど、

「おうい、危ないよ」

 子供たちが一斉に振り返る。

「えー?」
「なんだよだれだよ」
「ごめんなさい」

 三者三様の反応だけど、気にせずしゃがみこんで目線を合わせた。

「車道の傍で遊んじゃダメだ。危ないだろ?」

 少年たちは無言だったが、お互いにお互いの顔を見て一応納得したようだ。走り回るのを止めた。

「あ、怪我してるじゃないか」

 一番元気な少年の膝小僧が爪の先ほど擦り剥けていた。

「待って。絆創膏持ってるから」
「いいよこのくらい!」

 そう言って少年たちは横断歩道へ飛び出した。「あっ!」と思ったが、今の間に信号は青へと変わっていたらしい。事故に遭うこともなく、少年たちはちらちらとこちらを振り返りながら走り去って行った。
 見送って、通学路に戻る。
 交差点では赤信号を背景に奈月が待ってくれていた。両手を顔の前に揃えて、吐息で暖めている。

「ごめんね」
「……まあ、いいけど?」

 横に並ぶ。
 信号はまた暫く赤だ。

「……いつまで経っても、変わらないのね」

 奈月の方を見たけれど、奈月はこちらに視線はよこさず前を向いたままだった。僕も前を向いて答える。

「そんなに簡単に変われないよ。変わる気もないしね」
「『こまっている人がいたら、たすける』なんて、小学生の発想よ? くだらない」

 思わず苦笑が漏れた。
 奈月がそれを言うかな、って。

 ――『こまっている人がいたら、たすける』って言うのは、幼い頃からの僕の信条だ。
 誰かがこまっていたら、たすけを求めていたら、何をおいてでもたすけよう。そう心に決めている。あの子たちがこまっていたかと言われれば首を傾げる部分もあるが、そこで躊躇わないよう心がけている。本当にこまっている人を、見逃してしまわぬように。間違えたって所詮僕が恥を掻くだけだから。

「なに笑ってんの」

 むっとした表情の奈月に苦笑を返す。奈月の気持ちも解かるから、返す言葉が見つからない。
 そこで信号が青に変わった。奈月はぷいと視線を切って歩き出す。僕は、やっぱり斜め後ろに続いた。





[25528] 一日目 (2) 学校
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/01/20 00:01

 道の先は、通称『大根坂』と呼ばれる急な坂道だ。僕らの学校はその坂の途上、随分と山の上にあるのだ。
 大きく息を吐き出して、校門に到着。
 『N県立三葉高校』
 校門から向って左側には、「授業棟」と呼ばれる、洋風で頂点に尖塔を持った四階建ての建物。中には各教室や職員室、会議室などが入っている。
 校門から向って右側には、「専門棟」と呼ばれる平たくて横に広い二階建ての建物。こちらには体育館や音楽室、調理室などが入っている。
 その二つの建物を硝子張りの渡り廊下が繋いでいた。
 比較的新しくて地元人気も高い準進学校、それが僕たちが通う学校だった。
 遠くから複数の人間のかけ声のようなものが聞こえた。たぶん運動部の朝練だ。
 下駄箱で靴を脱いで階段を上り、授業棟の二階、「2―A」の教室に入る。
 教室にはまだ誰もいなかった。

「――――――」

 誰もいない教室の空気と言うものは、とても独特だ。
 澄み切っていて、それでいて何か淀んでいる感じ。
 中に入ったその瞬間、その刹那だけ、何か這入ってはならないところに這入ってしまったような気持ちになる。
 まるで別のモノたちの世界のような。
 一瞬それと共存してしまったような。
 そんな畏れの感情。
 最もそれも一瞬だけ。すぐに教室はいつもの平凡な空気を取り戻して、僕を迎えてくれる。
 奈月は教室真ん中辺りの席に座って、僕は窓際一番後ろの席に座った。
 奈月は何をするのかな、と見ていると鞄から教科書とノートを取り出して勉強を始めた。
 驚きの真面目さだ。あれが学年トップの成績を叩き出す為の知られざる努力なんだろう。
 僕はどうしようかなと考えながら空を見ていたら眠くなって、机に突っ伏して目を閉じた。
 すぐに意識は闇に包まれた。
 夢は見なかったと思う。


 がやがやと騒がしくなってきて、僕はもそりと顔を上げた。
 教室には既に多くの生徒が登校してきていた。それぞれが雑談や読書に耽っている。
 その中で奈月は自分の席に集まった多くの女生徒たちと談笑していた。
 奈月が輪の中心になっているが、彼女自身は多くは口を開かず他の生徒の話を聞く側に回っていた。
 時折相槌をうち、一言喋り、小さく笑みを浮かべる。
 それだけで彼女が中心なのだ。
 カリスマ、或いは人気者とはああ言う人間を言うのだろう。
 目線を前に移すと、一人の男子生徒が机に伏して眠っていた。
 僕は内心驚いて席を立つ。
 ……どうしてこんな時間に学校に来ているんだろう?
 その生徒の横に立つと、僕はド派手な金髪頭に――拳骨を落とした。

「あいたあっ!」

 後頭部を殴られ更にその衝撃で机に額をぶつけて、悠は大声をあげながら飛び起きた。キョロキョロと辺りを見回して、すぐに僕と目が合って、へたりと脱力する。

「……なんだよぉ。今ものすっごい眠いんだから少し寝させてくれよ」
「厭」
「イヤって……なんでよ」
「なんとなく」
「そんな曖昧な理由で堂々と胸を張るお前に乾杯っ!」

 呆れたように叫んで、悠はのそりと身を起こして大きく背筋を伸ばした。

 彼の名前は利根川悠。悠とは高校に入ってから知り合った。入学式のその日、初対面でいきなり「あの校長ヅラだよな絶対」と話しかけられて以来の友人だ。……改めて回想しても、初対面の人間に話しかける話題じゃ絶対ないと思う。
 短く切ったド派手な金髪をツンツンに立たせ、左耳と左眉にはシルバーのピアスをしている、正直外見だけ見ればちょっと近寄り難い男だ。現に一年経った今でも「あなたたちが友達として成立しているところを見ると、異国異文化交流なんて何でもないことに思えてくるわ」と奈月に言われる。
 だが、僕は思う。
 正反対だからこそ、友達でいれるんではないか、と。
 それぞれが相手に、自分にない部分を見ているから。

「今日はどうしたの?」
「あ?」
「だから、何で悠がHR始まる前から学校にいるのさ。珍しい。いつもだったら午後から登校なのに。雪が降ったら悠のせいだぞ」
「なんか寝起きから散々に言われた!? てか雪降ってもこの時期なら妥当だし!」

 悠は「いやさー」と難しい顔をして頭を掻く。

「昨日の午前3時くらいかな、そろそろ寝るかーと思ったんだけど、目を瞑った瞬間に名曲のフレーズが舞い降りてきたような気がしてな。すぐにギター持って作り始めて……そのまま朝だよ。折角だから学校も来てみた」

 学校は折角、とかで来るものじゃないと思う。
 そう言ったら無駄に大声で笑い飛ばされた。なぜだ。
 悠は学外の友人とロックバンドを組んでいる。彼がボーカルとギター、それに作詞作曲を担当していて、この界隈では少しずつ名前も知られてきているそうだ。「将来はビッグになるんだ!」といつも言っている、実に解かり易い夢追い人だ。
 それを聞いて莫迦にする人間もいるけれど、僕は素直に羨ましいと感じる。
 僕にはまだ人生を懸けられるものが見つかっていないから。

「で、名曲は出来たの?」
「いやそれが、眠くて眠くて何書いてもララバイにしかならない」
「…………」

 それはそれは。

「じゃあ今は思う存分眠ってよ。誰もが眠たくなるような名ララバイが出来たら聴かせて。不眠に悩んだら聞くから」

 悠は机に突っ伏して、ひらひらと手を振った。僕はそれを見届けて机に戻る。
 教室の前の扉が開いた。

「アイタタタ、頭いた。おらー、全員速やかに席に着け。一番最後まで立ってた奴にはビール奢らせるぞ」

 いきなりとんでもないことを言って教室に入ってきたのは時任薫さん、このクラスの担任だ。赤い蔓の眼鏡に赤味がかったロングヘアー、更に赤系スーツの上から白衣を羽織る、と言う壊滅的な組み合わせを何とさらりと着こなしている。ただ漂うお酒の匂いだけは頂けない。何故苦情がこないのか不思議だ。
 教卓の前に立ち、全員の着席を見届けてから出席簿を開く。

「それじゃあ出席を取るぞ……うぷ」

 うぷ?
 生徒の間に無駄な緊張が走る。
 僕はまたかと頭に手をやった。
 薫さんは口元を押さえて俯く。

「……う、うううぷ。や、やばいっ。す、すまんがHRは委員長頼んだ!」

 大声で叫び、飛ぶように大股で教室を出て行く薫さん。
 姿を現してから約十秒、薫さんは白衣を閃かせて再び退場した。

「あーあ、今日はダメだったねー」
「最速記録に近いよ」
「残念でごわす」

 教室に弛緩した空気が満ちる。
 こんな風に薫さんがHR途中で退場するのは、珍しいことではないのだ。
 原因は二日酔い。彼女は無類の酒好きで、「私にアルコールの入っていない時は死ぬ時だ」などと真剣な顔で言うほどの……まあ正直ダメ人間だ。
 とは言え、あんな人でも僕にとっては恩師であり同時に姉のような人だ。だからお酒はせめて控え目にして欲しいのだが、これまでのところ芳しい成果は得られていない。だから何故苦情がこないのか。

「では代わりにHRをやります」

 指名された奈月が教壇に向かう。弛緩した空気に合わせるかのような爽やかな笑みを浮かべて。
 ……あの笑顔の数パーセントでも僕に向けてくれたらありがたいのに。
 教卓から恐ろしい視線が飛んできた気がして、慌てて空に眼を逸らした。




[25528] 一日目 (3) 授業
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/01/20 00:09

 昼になった。
 太陽は真上に上り、冷えた空気を黙々と暖める。
 カツカツとチョークを黒板に叩き付ける音だけが、教室に響いていた。

「では問い五の問題ですが、ここで少年は母親の頬にこびり付いた磯の塩に『なんとも言えぬ思い』を感じています。これは前述した問い四の解説で説明した通り、悲しみであると推察されます。それを踏まえれば選択肢一と二は明確に間違い、三は『怒り』と言う言葉が用いているところが違います。では残るは四と五ですが――」

 教室がこんなにも緊張感漂う静寂に満ちているのは、ひとえに教鞭を振るっている国語教師の菊田直子先生が理由だ。
 後頭部に結い上げた髪と怜悧に映る縁無し眼鏡、年中いつでもきっちりとスーツを着こなしている菊田先生は、現代に順応したスパルタ方針の教師として生徒たちから疎まれ恐れられていた。
 昔のように暴力に訴える教育は今の世の中することは出来ない。しかし彼女は、その場では何もせず飲み込んでおいて、後々成績に対して反映させる。そもそもそれが普通の教育なのだが、その反映のさせ方が実に如実で容赦ない為、先生は怖くなくとも留年・受験が恐ろしいと、多くの生徒が菊田先生の授業だけは静かに受ける。自由な校風(と言う名目のやりたい放題)が目立つこの学園で、これほど静かな授業が出来るのは菊田先生だけだった。

「最後の問題は特に解説はいらないでしょう。今までの問題の総まとめになりますから。では誰かに答えてもらいます」

 その時、ちょうど終了のチャイムが鳴った。
 解答を求められる直前だった生徒たちは一様に胸を撫で下ろし、空気は列挙して弛緩する。
 菊田先生はほんの僅か眉を顰め、

「……仕方ありません。この問題の答えは次回に、」
「ふわああああ―……よく寝た腹減った」

 どっかの莫迦が、莫迦な声を、莫迦なタイミングで上げた。

「さあメシメシ、忍は今日は学食か? それとも購買でパンか? 俺はどっちでもいいからくっついてくぞ」

 窓際の一番後ろから一個前の席、つまり僕の席のすぐ前で授業中器用に背筋を伸ばしたまま眠り続けていた悠は、条件反射のようにチャイムで覚醒して、そして空気を読めなかった。

「ん? ちょっと無視すんなよ。おい忍」

 ……こら、僕を巻き込まないでくれ。

「どうしたんだよ、忍。おい、おい、おーい! って……アレ?」

 そこでようやく教室の静けさに気がついたのか、悠はゆっくりと振り返って教室全体を見回す。
 これからの悲劇を予想して笑いを噛み殺している生徒たちと、腕を組んで自分を見つめている菊田先生を見て、悠は遅過ぎる理解を示した。

「あ、あーっ! え、えっと、あの、……寝てないっスよ?」

 えええ。今更そんな誤魔化しは無理だろう?
 見かけには解からないけれど、菊田先生の怒りは加速度的ではなく一瞬で頂点を振り切ったようだ。

「そうですか。では今の最後の問題を利根川君に答えてもらいましょう。授業をきちんと聞いていた利根川君ならば、簡単なことでしょう?」
「……え?」

 硬直する悠。それもそうだろう。だって、悠は問題集すらも開いていないんだから。菊田先生だって解かっている。だから、これはきっとある種の制裁なのだ。
 菊田先生は決して理不尽に厳しい先生ではない、と僕は思っている。理念と規則を第一に、正当性を持った厳しさで教育に望んでいる立派な教師だ。だから今回も、求めていたのは悠の真摯な謝罪の言葉だったのだろう。
 それなのに。

「え、えっと……ええっとあれどこだくそっ」

 コイツはいつも空気を読めない。
 アタフタと問題集を開いた悠は、黒板に書いてあった問題から自分が聞かれている問いを見つけたようだ。しかし、矢張り解からなかったのだろう。慌てた末に、なんと悠は僕の方を振り向いた。
 ……教えろってこと?
 当然、沈黙を貫く。これは謝罪を求めている菊田先生の教育なのだ。邪魔するわけにはいかない。て言うか、この状況で教えられるわけがないのに。
 悠はそんな僕を泣きそうな眼で見た後、仕方なく問題集を眼の前に掲げて向かい合った。
 ――ここからの悠の心情は、背中しか見えていない僕でも手に取るように解かるほど、解かり易い動き方をした。
 長い問題文に悲愴を浮かべ、選択問題と言う僥倖に喜色ばみ、それでも五択もあるのかと絶望し、ええいままよ当たってくれと的外れな強い決意をして答えを口に――

「先生」

 しようとして阻まれた。
 教室の前の方で、立ち上がった男子生徒に。

「もう終業の時間を過ぎているのですみませんが終わらせてもらえませんか? 寝ていた彼に注意をするのなら、授業の後に呼び出してじっくりとやってください。僕たちまで拘束する必要はないでしょう?」

 「ねえ、みんな」と彼は生徒たちを煽る。悠を面白がりながらも、昼前で空腹に耐えていた生徒たちはその言葉に一斉に盛り上がった。
 そうだそうだ。
 やめろやめろ。
 そうだそうだ。
 控え目ながらも明確なシュプレヒコール。広がって行く喧噪。
 先生は表情を変えず、それを見つめて。
 やがて、持っていた問題集と教科書を閉じて重ね、タン、と教壇で叩いて揃えた。その音に生徒たちはまた静まりかえる。

「……それでは今日の授業は終わります。利根川君は次週までに答えを考えて来るように」

 そう言うと、菊田先生は特に勢い込むわけでもなく淡々と歩を進めて、教室を出て行った。
 何の余計な感情も滲ませない、見事な去り際だと思った。
 ざわざわと、一気に教室に喧噪が戻る。
 結局立ちっ放しだった悠はどかっと席に座ると、何だか難しい顔をしてこちらを振り向いた。噛み切れないものでも噛んでいるかのように不満そうに口を動かして、しかし言葉は出てこない。

「良かったね。次回に持ち越しになって」
「…………」
「どうしたの? 珍しい表情をして」

 そう尋ねると、悠は小さく舌打ちをして教室の真ん中へ目線をやった。
 僕も同じようにそちらを見る。
 そこにはクラスの半分ほどが集まった人だかりが出来ていた。

「すごいね準也クン! あの菊田に文句言うなんて」
「ホントホント。俺もう腹減っててさぁ」
「見たぁ? あの菊田の顔。きゃははははは!」

 湧き上がる一同。
 その輪の中心。

「そんな、大したことじゃないよ」

 派手な容姿をした男――篠原準也は笑った。
 茶色に染めた長髪に切れ長の眼、崩して着た制服と程よく身に付けたシルバーアクセサリーは彼に良く似合っていた。
 男は微笑みながら続ける。

「みんなが困っているのを見過ごせなかっただけさ。俺は菊田の恨みを買ったかもしれないけれど、そんな些細なことに比べれば」

 一同は歓声と拍手を以って男を讃える。
 その様子を、悠は吐き捨てるように罵倒した。

「なーにが、だけサ♪ だ。菊田をとっちめて目立ちたかっただけで、そんな殊勝なこと一ミリも考えてねぇくせに」
「そうなの?」
「決まってんだろ。篠原はそう言う奴だよ」悠の断言する。「大体菊田の恨み買ったからってあいつにとっちゃどうってことねえんだよ。知ってっか? あいつの親はこの街にある有名なロボット工学系の会社の社長なんだぜ?」

 言われて思い返してみたが、篠原の名前も会社の名前も場所だって出てこなかった。知らない僕がダメなのか、知ってる悠が凄いのか。

「まあそんなだから地元への影響力も凄いんだ。その息子に、誰が文句言えるってんだ」
「へえ、そんな事情があるんだ。詳しいね悠」
「この程度は一般常識だし、アイツも隠してねえし、まあ、他にも否応なく、な」

 そう言って悠は酷く嫌な顔をした。
 あまり詳しくは聞けていないが、悠の父親も発展著しい一部上場企業の社長さんなんだそうだ。そう言ったしがらみを嫌い自由に生きる悠とは確執が絶えないらしいが、きっとそこら辺からの情報もあるのだろう。





[25528] 一日目 (4) 友人
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/01/20 00:21

 悠は明るい声で顔を上げた。

「そんなことより俺たちには、解決すべき問題がある」
「と言うと?」
「これだ!」

 どんと、悠は僕の眼前に問題集を突きつけた。

「この問題の答えを教えてくれ」
「ああそういえば」
「これで次回またやってありませんとか言ったら真剣にやべえからな。五分後には忘れちまうだろうし、覚えている今すぐの間に聞いておくのが吉だ。さあ教えてくれ!」
「うん。教えないけどね」
「え?」
「ふんふーん」
「…………」
「あれ? 財布どこいったかな」
「…………」
「あ、そういえば悠ってスイカの種を飲む派? 吐きだす派? それとも黒だけ吐いて白は飲む派?」
「どーでもいいわぁ!」

 卓袱台返しの要領でぽーんと放り投げた問題集が僕の頭を越えて飛んで行った。

「俺の言葉が悪かったのか、それともお前の耳が悪いのか分かんねえけど、とりあえず伝わってねえみたいだからもっかい言うぞ。……さっきのー! 問題のー! 答えをー! 教えてー!」
「ははは、悪いのは悠の言葉でも僕の耳でもなくて、ものの頼み方だよ」
「言外の土下座指令!?」
「こまっていたらたすけたいのは山々なんだけど、どれだけ頼まれても答えを教えるわけにはいかないんだよ」
「なしてよ」
「だって――」

「――私に怒られちゃうからね」

 頭の上にぽんと手がおかれる感触。
 それと同時に涼やかな声が聞こえた。
 振り返って確認するまでもない。僕の頭に手を置くのも、僕が怒られる相手も、奈月以外にはいない。
 奈月は横の馬飼さんの席の椅子を引っ張ってくると、僕の隣に運んで腰かけた。

「ほらこれ」

 さっき放り投げた問題集を悠に差し出す。

「あ、ああ。ありがとう」
「忍は放っておくとその手の頼みごとを全部引き受けちゃうからね。私からの禁止条約違反よ」
「な、なにそれ」

 そんなのあるの? って顔で僕を見る悠に、曖昧に笑みを返す。あるんです。僕も良く解からないけれど何項か禁止条約が。誰かの勉強をやってあげる、も禁止されていることの一つだ。

「大体ね利根川君、勉強くらい自分でやりなさいよ。しかも選択問題よ選択問題! 本文読まなくたって、問題文だけで二択くらいには絞れるじゃない」
「あー……」

 そんなこと出来んの? って顔で僕を見る悠に、また曖昧に笑みを返す。出来ません。少なくとも僕にはさっぱり。

「ま、それでも答えが手っ取り早く聞きたいって言うなら私が教えてあげるけど?」
「ホント!? 良かっ――」
「ただしものの頼み方は考えなさいよね」
「またしても土下座指令!? ……ねえ、キミたち。クラスメイトをなんだと思ってるのかな」

 悠はさめざめと泣いて机に突っ伏す。僕はそれを見て流石に気の毒に……はならなかったけれど。がんばれとは思った。

「まあいいわ。それよりも昼食にしましょう。私はお弁当だけど、忍と利根川君はどうするの?」

 奈月は無地のお弁当の包みを開く。
 僕は財布から三百円取り出すと、「よし飯だ飯だいったん忘れよう! 俺は購買だ」と席から立ち上がろうとしている悠の手にぽんと握らせた。

「フレンチトースト二枚と牛乳でお願いね。お釣りは取っといていいから」
「何だそれっぽっちでいいのか? 小食め。んじゃまあ、ちょちょいと行ってくるから食べないで待ってて――っておぅい!」

 一度扉の前まで行ったのに、わざわざ戻ってきて大声でツッコむ悠。愉快な奴だなあ。

「なんで問答無用で俺が行くことになってんだ!?」
「うーん、ヒエラルキー?」
「格差社会っ!?」
「む、聞き捨てならないわねその言葉。私はまだ頂点を忍に譲る気はないわよ」
「言外で俺が最下位って言ってるよね!?」

 うわーん、と泣きながら悠は購買へ駆けて行った。
 ……フレンチトースト二枚で二百円。牛乳は百十円。
 帰ってきたら何て言うのか楽しみだ。







[25528] 一日目 (5) 小夜
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/01/20 00:35

「ふわ、いい天気だ」

 賑やかに昼食を食べ終わると、悠は再び睡眠、奈月は生徒会の仕事に行ってしまい、特にクラスの雑務もなかったので、僕は専門棟の方の屋上に来ていた。
 ごろりと大の字になれば、視界一杯に広がる青空。
 遮るものなく吹き抜けていく風。
 この場所は、学校の中でも僕のお気に入りの場所の一つだった。
 ただその場に寝転がって、ぼんやりとした時間を過ごすだけ。それだけで、ここは特別な場所になれた。
 もっとも夏場は多くの生徒が食事や休憩に利用するので、こんな風に静かな時間を過ごせるのは今の季節だけなのだが。寒さは厚着と我慢だ。
 授業棟の方にも最上階には尖塔があって、その先端には大きな窓が四方に開いている三畳ほどの展望台がある。そちらも僕がよく時間を潰す場所の一つだった。
 
 空には、一羽の鳩が飛んでいた。
 仲間からはぐれたのだろうか。それとも孤高の鳩なのだろうか。
 ともかく、その鳩は空をひらひらと飛んでいた。

「――――――」

 ……昔、空を飛びたいと思ったことがある。
 『こまっている人がいたら、たすける』願いがあって、誰かをたすけよう、誰かのためになろうと思って生きてきた。けれど常識知らずの僕は、その度に空回って誰かに迷惑をかけて。
 そこで憧れたのが鳥だ。
 編隊を組んで、隣の者とたすけ合いながら大空を飛ぶ。
 それでいて自立していて、単独でも確かにそこに在る。
 意識でも義務でもなく仕組みのように自然と周りをたすけて、当たり前だけどそれを誇らず孤立する。
 そんな生き方に憧れた。
 今では単なる「隣の芝生は青い」的な幻想だと解かってはいるけれど、それでも、まだ――大空には憧れる。

 僕にとって飛行することは、
 誰よりも孤高であろうとする意思だから。

「お兄ちゃん」

 頭上の方からそう呼びかけられて、僕は首を上げて逆さまの視界でそちらを見た。

「探しました。こんなところにいたんですね」

 そこには困ったような笑顔を浮かべてこちらを見る小夜の姿。上下反転しているけれど。

「ああ、ごめん」

 僕は起き上がりながら答える。
 そして改めて、彼女を見た。

 肩の上でくるんと内側に丸まった漆黒の髪に大きくて円らな眼、一切着崩すことなくしっかりと制服を着た小柄なその躯は、冬に咲く一輪の花のようだった。華奢な細腕は、触れたら手折ってしまいそう。
 彼女は時任小夜。僕のことを「お兄ちゃん」と呼ぶが別に本当の兄妹と言うわけではない。彼女は僕が幼い頃からお世話になっている時任家の娘さん――つまり薫さんの妹で、薫さんが姉同様であると同じように小夜とは妹同様の付き合いなのだ。

「どうしたの小夜?」
「あ、うん。あの今日の夜、良ければお兄ちゃんのお家に行きたいんですけれど、予定はないでしょうか……?」

 小夜はまるですごく申し訳ないことを言うかのように、小さな声で言う。
 僕は少々呆れた心持で答えた。

「今日は何の予定もないから構わないよ。……あのね、小夜。そんなに僕に気を遣う必要はないんだよ? 僕の家に来たいなら好きな時に来て、好きなだけいればいいんだ。僕たちは兄妹みたいなものなんだから。……まあ、元々時任の家の居候だった僕が言うのもおこがましいんだけどね」
「そんなっ!」

 僕の言葉に、小夜は珍しく大声を出した。

「お兄ちゃんはお兄ちゃんです! 私のお兄ちゃんなんです。居候だなんて……言わないでください」

 大きな声を出したことが恥ずかしいのか、小夜は深く俯いて身を縮めた。さらりと髪が風に靡いて、可愛らしい旋毛がこちらを向く。
 小夜は大人しいけれど、言わなければならないことはちゃんと言えるいい子だ。
 僕は近付いて、その小さな頭を優しく撫でた。

「わっ、わわっ、お兄ちゃん」
「ありがとう、小夜」
「…………」

 さらさらの手触りは絹を思わせるほど。
 心地よくて笑みが零れる。
 制服のスカートをギュッと掴んで撫でられるに任せていた小夜は、しばらくして頭を上げて、赤く染めた頬に笑顔を浮かべた。
 こっちの心まで和やかにする、優しくて綺麗な笑顔。
 なんて得難い。
 その笑顔は、とても得難い。

 ……小夜と薫さんには両親がいない。
 事故で亡くなってしまったのだそうだ。
 その時、薫さんは高校三年生、小夜は小学校に上がりたてだった。まだ幼い、子供だったのだ。そのショックは計り知れないものがあっただろう。
 けれど、彼女たちは支え合って、こんなにも強く、美しく成長した。
 その苦労を、僕は間近で見た。
 早く大人を目指した薫さん。寂しさに苛まれた小夜。二人を支えてきたお祖父さんお祖母さん。
 数多の困難と数多の苦痛を、時任家の人たちは総動員で乗り越えてきたのだ。
 だから、この笑顔はとても得難い。
 居候のようなものだった僕は、役立たずどころか足を引っ張ってしまうこともあったけれど、微力ながら貢献出来たと思っているし、それを誇りに思う。

「あ、あの」

 僕は――こまっている人をたすけるのだ。

「お、お兄ちゃん」
「ん?」
「あの、いつまで撫でるんですか」
「おっと、ごめんごめん」

 手を離す。小夜は「べ、別に嫌だったわけじゃないんですよ?」と小さな声で弁解しながら、

「それじゃ、また今日の夜にです」

 と言って小走りで屋上を出て行った。
 僕は再び地面に横になって腕時計で時間を確認。後十分ほどの余裕がある。
 一応携帯でアラームを仕掛けて、ゆっくりと瞼を閉じた。
 ふふ。
 何に笑ったのかは、自分でも定かじゃないけど。
 悪い気持ちじゃないよ、絶対に。





[25528] 一日目 (6) 団欒
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/01/20 00:47

 全ての授業を終えて、そして放課後。
 僕は大通りを一人歩いていた。
 奈月は弓道部の部長なので部活、悠はバンドの練習があるからと早々に帰宅したので、帰り道は一人だった。小夜と待ち合わせようかとも思ったが、どうせすぐ後で会うことだし、それに少し寄りたいところもあったので先に帰ることにした。
 校門を出たところで、足を止める。
 この三葉高校は高台の上にある。
 だから、僕の住む街、挟神市を一望することが出来た。

 この学校があるのが東の端、そこから少し西に進むと商店街があって、更に進んで街の中心には、駅やビル群などのそれなりに発達した社会がある。北にはオフィス街、南には住宅街が広がっている。中心と西の間には上から下へ市を両断するように石楠花川と言う川が流れていて、その向こうは西の端まで古い民家と工場群、それに深い山になっていた。東京タワーや通天閣とは程遠い、鉄塔剥き出しの背の低い電波塔が南下した野原に突き立っている。
 それほど大きくもない、それほど都会でもない、挟神の街だ。
 坂を下って、商店街へ。
 草臥れた顔で俯き歩くサラリーマン、買い物籠を片手に店を見て回る主婦、携帯片手に器用に自転車に乗る学生、それなりに多くの人間が行き交っていた。その間を縫うように進む。
 商店街の北の端、人通りも徐々に少なくなってきた頃に、その店は見つかった。
『グルメ上等! 満点宮』
 と、どえらい挑発的なコピーの看板を掲げた、首里城みたいに鮮烈な朱色の店。看板の上部には二匹の龍が向かい合ってのたうち、窓は全て円形の格子窓になっていた。ただ全体的に薄汚れて古びた印象があって、お世辞にも栄えていそうとは言い難い店構えだ。
 『営業中』の札の掛かったドアを押し開ける。りりん、とベルが鳴った。
 店内は薄暗かった。もう夕方なのに一切照明が点いていないからだ。小さな格子窓が幾つかしかないので、採光が十分ではないことも理由の一つに上がる。
 お客さんの姿はなかった。
 キムさんは奥だろうか?

「お疲れさまで――」

 そう言いかけたところで、どたどたどたと大きな足音が。次いでホールとキッチンの間にある観音開きの扉を開け放って、猛烈な勢いでコック姿の男――キムさんが現れた。いや、飛んできた。

「いいいいいいらっしゃいませー! ようこそいらっしゃったアルね。さぁさ、ナニをタべるアルか? チャーハン、ギョーザはモチのロン、おキャクサマがごキボウならパスタやヤキザカナもダすアルよ!」

 真ん丸ででっぷりとした体型に紐のような細目、まるで日向ぼっこをしている猫が擬人化したかのような愛嬌たっぷりのその人は、その顔いっぱいに満開の笑顔を浮かべてやってきた。とんでもないチャイナチックな口調だけれど、彼は「自分は純日本人だ」と言っていた。何に影響を受けたやら。
 僕は多少申し訳ない気持ちで、話しかける。

「キムさん。僕です、忍です」

 その言葉に、右目がほんの少しピクッと開く。
 ……今まで見えてなかったのだろうか。
 キムさんはしばらくまじまじと見つめて、やがて脱力して大きな溜め息を吐いた。

「……はあ、ナンだシノブさんアルか。てっきりおキャクさんかとオモったアル。マッタく、いつもイってるでしょ、マギらわしいからちゃんとハイるトキには『おツカれさまです。ボクですシノブです』ってイってね、って」
「いや、言おうとしたんですけどね」

 言い終わるよりも早く出てくるから。

 僕は時任家を出て一人暮らしを始めた時から、一年以上この店でアルバイトをしていた。自立する為には、どうしてもお金が必要だった。勿論、学生のバイト代で全てを賄える程稼げる筈がないので今だに時任家から多大な援助を貰っているが、いずれは恩も含めて全てを返したい。その為の一歩だ。

「それはそうと、その……手の物を置いてくれませんかね」
「ムン?」

 キムさんは両手を掲げて見やる。その手にはお玉と中華包丁。
 ……そんな物持って接客に出てくるのはちょっと。

「おお、すまないアルね。イマチョウドチョウリのマっサイチュウで」

 キムさんは器用に両手でくるくるとそれら回しながらキッチンに戻って行く。
 僕も続いて中に入った。
 小さい店の癖に随分と広く作られた調理場は、食欲をそそる美味しそうな匂いで満ちていた。ステンレスの銀色がきらきら光る。キムさんはコンロの火を付けて、フライパンを振るい始めた。

「それで、よっ、キョウは、はっ、ナンのヨウジアルか? シゴトはハイっていなかったはずだけれど」
「仕事はありませんよ。今日家に友達が来るので、何か食べ物を頂けないかなあと思いまして」
「いいアルよ。ほら、そこにあるのはゼンブモってイってカマわないアルね。シサクヒンだから。そのカわりそのおトモダチにカンソウはキいてくるアルよ」

 キムさんの後ろの台には、ラッピングされた皿が幾つも並んでいた。どれにも美味しそうな料理がのっている。
 キムさんは趣味は料理、仕事も料理、生き甲斐も料理だと公言して憚らない、そんな人間だ。なので普段お客さんが入っていない時でも大量の料理を試作品として作っては、全部を自分で食べて、また料理を作って……そんな生き方をしている。だからバイトの後、或いはこうして学校帰りに店を訪ねれば、その料理を頂くことが出来るのだ。試作品とは言っているが、キムさんの作る料理はどれもこれも一級品の味だ。不味かった覚えはない。……なのに、この店が栄えないのは矢張り店構えの問題か。
 中身が違うらしい様々な色の違う餃子や、天ぷら粉で上げた鳥の唐揚げなど。並んでいる料理の中から、小夜の好きそうなあっさりとしたものを選ぶ。きっと薫さんも来るので、酒の肴になるものも持って帰ることにした。持参したビニール袋に傾かないように重ねて、水平を何度か確かめる。

「それじゃあ頂いて行きます。お皿は次のシフトの時に返しますね。……次のシフトっていつでしたっけ?」
「んー、ワからないアルね。いいよキのムいたトキにキてくれれば」

 いいのかそれで?
 ともかくキムさんにお礼を言って、店を出た。
 空は夕焼け。赤色模様。
 街はほんのりと燃えていた。
 夕焼け小焼けじゃないけれど、急いで家に帰ろうか。



「美味い。実に美味い。ルナティック美味い。私は心から宣言しよう。人間とは酒を飲む一瞬の為だけに日々無為にCО2を吐き出して生きていると」

 我が家のリビングで。
 小空間を熱心に暖め続ける炬燵に潜り込んで、冷えたグラスに冷えたビールをなみなみと注いで、それを一息に飲み干して――薫さんが発した一言がそれだった。

「絶対違うから。それと無為とか言わない」

 僕は今更指摘しても無駄だと思いながらも、自分は常識人だと見知らぬ誰かに言い訳するかのように小声で文句を挟んだ。
 小夜はもう慣れたもので、そんなやり取りを笑顔で見ながら料理を口に運んでいる。
 テーブルにはキムさんの料理プラス、小夜が我が家で腕を振るったものが並んでいた。飲み物は薫さんは前述の通りビール、小夜は桃のジュース、僕はただの水だ。三人の配置はまず壁際に薫さん、向って右に僕で左が小夜だった。

「何を馬鹿な! 忍はこの酒の一杯よりもXだのYだの縄文時代だのたけし君の気持ちだのを考えている方が楽しいと言うのか! ……ははぁん、解かった。忍はまだ酒の快楽と堕落の心地よさを知らないな? 飲め。さあ飲め。溺れるまで飲め。アル中なんて迷信だぞ?」
「ちょっとお姉ちゃん」

 並々とビールを注いだグラスを俺の頬に押し付ける薫さんを、逆側から小夜が窘める。

「お兄ちゃんはまだ未成年なんだから。お酒なんてダメだよ」
「む、何を言う妹よ。私が酒を飲んだのは二歳の時に源三にオレンジジュースだと騙されたのが最初だぞ。その時は盛大に吐いたそうだが、それを考えれば軽い軽い。そうだ、小夜も飲むか?」
「きゃっ! や、やめてお姉ちゃん!」

 ほれほれとグラスを小夜に近付ける薫さんと、いやいやと懸命に顔を遠ざける小夜。
 僕は笑いながらそれを眺めて、程よき所で薫さんを止めに入る。
 時任家にいる頃はいつも、こんな風にふざけあいながら楽しく食事をしていた。今でもこうして時々やってきては、一人で暮らす僕を気遣ってくれる。

 ――本当に、彼女たちと時任のお爺さんお婆さんには感謝してもしきれない。

 ……僕にも、薫さんや小夜と同じように両親がいなかった。
 彼女たちの両親が亡くなった事故。実はそこには知り合いだった僕の両親もいて、一緒に亡くなったんだそうだ。
 ……ここら辺の表現が曖昧なのは少し事情があるが、それはまた後ほど語ろう。
 そうして身寄りのなくなった僕を、時任家の人たちが預かってくれた。自分たちもとても大変な時なのに。
 だからこの恩は絶対に返さなくちゃならない。
 信条とはまた違う、約束のような想いだった。

「ちゃんと聞いてますか、お兄ちゃん」

 その声ではっとする。
 机の向かいから小夜が涙目で見つめていた。どうやら話を全然聞いていなかったみたいだ。

「ごめんごめん。もう一度言って?」
「ぷう」

 普段大人しい性格なのに、身内――そこに僕が入っていることはすごく嬉しい――だけには心を許して子どもっぽく膨れる小夜が可愛くて、思わず笑いそうになった。……と言うか、笑ってしまっていたらしい。

「ああ! お兄ちゃん笑った! 私のこと笑いました!」
「わ、笑ってないってば!」
「嘘です! 私見ました。ニヤってしたもん、ニヤって」
「少なくともそんな笑い方はしてない!」

 むくれる小夜と、慌てる僕。

「ああ、今日も酒が美味い」

 薫さんはそんな僕たちを見ながら、しみじみ呟いた





[25528] 一日目 (7) 不安
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/01/20 01:14

 楽しい時間はあっという間に過ぎるもの。
 それが、習慣ならば尚のこと。

「それではまたな」

 あっという間に夜も更けて、時任姉妹は帰りの段につく。
 玄関先で片手を上げて別れを告げる薫さん。言葉や話し方はしっかりとしているけれど、その姿は髪はぼさぼさ、服は着崩れ、ずれた眼鏡に赤ら顔と見るも無残な程酔っぱらっていた。

「全く……」
「お、お、お?」

 ぱぱぱ、と全体の乱れを直す。髪は結い上げ直して白衣を整えてスーツのボタンを付け直して眼鏡は外して白衣の胸ポケットに突っ込んだ。
 本当ならこう言うことは小夜の役目なのだが……今の小夜はそんなことに気が回る状態じゃない。

「白衣とスーツしか着てなくて、寒くないの?」
「少しくらい寒い方がいいのさ。酔いが醒めてまた飲めるからな」
「あのね……まあいいや」

 直しついでに姿勢も正す。
 それだけで、それなりに見れる女性になるんだから、ズルイと言うべきか。凄いと言うべきか。
 薫さんは白衣のポケットから煙草を取り出して、銜えて、そして笑う。

「ふふふっ、まるで浮気ばかりするダメな夫をそれでも甲斐甲斐しく送り出すダメな妻のようだな」
「くだらないこと言ってないでお酒は控え目にしなさい。あとその煙草も」
「人生は儘ならないのさ」

 それでは、と少しふらついた足取りで薫さんは我が家を出て行った。最後に真剣な表情でちらりと小夜に目線をやったのは僕へのメッセージだろう。……言われなくても解かってるって。
 眼を転じる。

「…………」

 そこに、深く俯く小夜が立っている。
 表情は髪の毛で影になって見えない。それほど深く俯いている。

「ほら、小夜。もう薫さんは帰っちゃったぞ? お前も帰らないと」
「……嫌、です」

 小さな小さな声だったが、明確な否定。
 気付かれないように溜息を吐く。
 我が儘にウンザリしたわけじゃない。
 改善の先行きが見えない小夜の状況に、苦々しい思いで溜息を吐いたのだ。

「解かった。僕も家まで一緒に行くから。それならいいだろ?」

 小夜は数秒の沈黙の後、小さくこくりと頷いた。
 上着を取って来て、連れ立って家を出る。
 震える寒風が吹き荒ぶ。少し前まで、湧き立つような圧倒的な熱量を持っていた街は、僅か三月程ですっかりとその様相を変えて、心を鎮める神秘的な静謐を抱えていた。民家の窓に灯る光に不思議と距離を感じる。空に光る月には不思議と親近感を覚えた。

「……お兄ちゃん」

 小夜の声が耳に届いた。

「手、つないでいいですか?」
「ああ。いいよ」

 ぎゅっ、と。小さくて冷たい手が僕の手を握り締める。それは強く強く――まるで最期の時に縋るような、そんな必死さが籠められていた。
 風が痛い。
 コートの襟を引っ張って重ねる。

「お兄ちゃん」
「なに?」
「お兄ちゃんは、いなくなりませんよね?」
「いなくなるわけないだろ」

 見上げれば、昏い夜空だった。

「お兄ちゃん」
「なに?」
「お兄ちゃんは、ここにいますよね?」
「手をつないでいるじゃないか」

 明るい月、それしか見えない、昏い空。

「お兄ちゃん」
「なに?」
「お兄ちゃんは、私が大切ですか?」
「勿論。すごく大切だ」

 ささやかな星の光など、月の光量で消し飛んで終っている。
 その空に、ゆっくりと流れる光を見つけた。
 最初は流れ星かと思ったけれど、その光は一向に消えずに動き続ける。
 ――あぁ、あれは飛行機の光だ。
 宵闇を一機舞う、孤高で孤独な鉄の鳥。
 それに抱えられた乗客を思い、それを駆るパイロットを思い、そしてその機体を思い。
 何だかとても切なくなってしまった。

 僕の家から時任の家までは近い。歩いて五分ほどで着いてしまう。最もその条件が無かったら、小夜は当然のこと、薫さんも時任のお爺さんお婆さんたちも、僕の一人暮らしなんて認めてくれなかっただろう。
 ともかくそれだけの距離。
 僕と小夜は、つないだ手も暖まらないまま、時任の家に着いてしまった。
 居間の電気が点いている。お爺さんとお婆さんがまだ起きているのだろう。薫さんはいつも煙草を吸いながら遠回りして帰って来るからまだいない筈だ。

「小夜。着いたぞ」

 小夜は動かない。

「ほら、もう帰らないと」

 促して、つないでいた手を、放す。
 はっと顔を上げた小夜は僕の腕に縋りついて、揺れる瞳を向けた。

「そ、そうだ! お兄ちゃん、今日は泊まって行きませんか? お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも喜ぶと思いますし、お姉ちゃんだって良いって言います。言わなくったって私が説得してみせますから! そうすればもっともっとお話して、一緒に眠って――」
「小夜」

 それだけで、小夜は息を呑んで、言葉を途切れさせる。
 抱きしめられた腕は、少し暖かくなっていた。
 僕はふっと笑って、

「また明日な」

 頭をぐりぐりと撫でた。

「…………」

 小夜はしばらくの沈黙の後、
 
「分かりました」

 笑って、僕の腕から離れた。

「また明日ね、お兄ちゃん」

 吹けば消えてしまいそうな儚い笑顔で、小夜は時任の家に入って行った。
 僕も笑顔で手を振って――扉が閉じた瞬間、空を見上げて、小さく息を吐く。

「お疲れさん」

 後ろから背中を叩かれて振り向くと、煙草を銜えた薫さんが立っていた。「ほれ」と差し出されたのは缶珈琲。僕はお礼を言って受け取る。思っていたより冷えていた躯に、缶珈琲の暖かさがじんと沁み渡った。
 薫さんと二人、時任家の塀に背中を預けて並び立つ。
 背後には時任家の居間があって、暖色系の光と賑やかな声が僕らに届いた。小夜が楽しげに今日の出来事をお爺さんお婆さんに話している。
 薫さんがふーっと紫煙をくゆらせた。

「まだ駄目みたいだな」
「そうだね」

 缶珈琲をカイロ代わりに両手で握りしめる。ほっと息を吐くと、その息は薫さんの吐き出した紫煙と同じように白い靄となって、昏い夜に溶けていった。

「全く。こんなに長い間不安病になるなんて私の妹とは思えない繊細さだな。根っからの日陰精神は気に入らないが、その根気だけは見習ってもいい」
「まるで当たり前のように『不安病』って言葉を使わないでよ。薫さんの創作なんだから」
「なんだ駄目か? 小夜のような性質を表す言葉に『剣呑症』と言う言葉があるが、私はそれよりも実に正鵠を得たと気に入っているんだが」
「……僕は好きじゃない」

 ――だって、『病』なんて付けられると、本当に小夜が病気みたいじゃないか。……小夜は病気なんかじゃなくて『特別寂しがり屋』なだけなんだ。
 大袈裟にするのは、好きじゃない。
 だから、

「小夜は病気だよ」
「―――ッ」

 一言で、息が詰まった。
 薫さんに眼を向ける。
 彼女は僕の視線など何処吹く風、ただ前だけを見つめて、

「『寂しい』『悲しい』『怖い』。それらは確かに誰もが感じる普通の感情だよ。感じる人間に何ら異常は無い。むしろ感じない人間の方が、壊滅的な異状を抱えていると言えるだろうな。でもな忍、ただ『寂しい』って感情。それも、
――往き過ぎて仕舞えば、病となる」

 紫煙が吹き散った。

「病なんだよ。あれはもう、病なんだ。認めろ忍」

 薫さんの言葉は厳しかったけれど、声はとても慈愛に満ちていて。だから僕は、何も言えずに下を向くことしか出来ない。
 何も言えずに。





[25528] 一日目 (8) 過去
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/01/20 01:17

 小夜の『不安病』が発症したのは、僕が一人暮らしを始めて暫く経った時のことだった。
 引っ越しをしたその日、小夜は僕の家に泊まって行った。
 初めての一人暮らしだ。何分慣れないことも多々あったし、それより何より寂しかったから。僕と小夜は一緒に料理をして一緒に食事をして、同じ部屋に二つ布団を引いて一緒に眠った。
 その次の日も、小夜は泊まって行った。
 時任のお爺さんとお婆さんは大らかに許してくれたし、薫さんは「お前まで移り住むつもりか」と、散々からかって笑っていた。
 更にその次の日も、小夜は泊まると言いだした。
 しかしさすがに薫さんは許さず、愚図る小夜を強引に連れ帰って行った。家に着いてから、電話だけは掛かってきた。
 それから暫く、小夜は学校終わりに僕の家に寄って、自分の家に帰ると電話を掛けてくると言うことを繰り返した。
 僕も一人の暮らしに慣れ、時任家も一人の欠損を受け止めて、小夜も場所を移した一人との付き合い方を掴まえて。
 その生活は上手く回っていた。
 否。

 ――上手く回っていると、思っていた。

 破綻の予兆は満月の日の星のように見え辛く、しかし見逃してはいけない小さな瞬きを、僕は見逃してしまった。

 六月のある日。
 僕は高校行事で、車で一時間程の森林公園にキャンプへ行った。二泊三日の、高校入学以来初めてのお泊まり行事だ。みんなでカレーを作ったり、フォークダンスをしたり、肝試しをしたりして、既に仲良くなった人ともまだ話したことの無い人とも親交を深めましょうって言う行事。
 僕は前述した経緯で仲良くなった悠と、殆ど一緒に行動していた。人付き合いが上手くない僕には、他にろくに友達なんていなかったから。悠も面白い奴だけれど、まだその内面が派手な外見の第一印象を打ち破る程浸透していなかったから、同じように友達はいなかった。奈月も一年の時は別のクラスだった。
 それでも、矢張り平時と違う異空間と言うものは、それだけで楽しかった。
 主に班の女子が作ったカレーは美味しかった。肝試しで怯える悠に笑った。夜、悠が「女子の部屋に行って来るぜ!」と出て行ったから鍵を閉めて眠った。
 そんなキャンプの時間はあっという間に過ぎて。
 帰りのバスの車内、圏外になっていた携帯の電波が戻った時。

 ――僕は、自分の間違いに気が付いた。

 小夜からの着信――32件。
 小夜からのメール――119件。
 メールの内容は「今なにしてますか?」から始まって、なかなか返事が返って来ないことに不安になったのか、「事故とか事件とかに逢っていませんよね?」とか「充電が切れちゃったんでしょうか」とかの内容になり、不安に比例して徐々にその頻度が増していき、最後は「私を嫌いになりましたか?」などと言う飛躍した内容のメールが届いていた。
 バスの中だったけれど、すぐに隠れて電話を掛けた。
 小夜は、1コール鳴り終わるより早く電話に出た。
 僕の呼びかける声に、小夜は暫く無言だったけれど、ようやく喋った第一声は「どうして」だった。
 そこから僕はずっと事情の説明。決して忘れていた訳でも面倒だった訳でも、ましてや嫌いになった訳でもなく、単純に携帯が圏外だっただけなんだ、と。
 そして、バスがそっちに着いたらすぐに会いに行く。
 この三日間の話を詳しく聞かせる。
 と言う二つの約束をして、電話を切った。
 その頃には、バスは学校に着く所だった。

 その日、小夜は僕の家に泊まって行った。充血した瞳に薄い隈と酷く憔悴した様子の小夜は、一時も僕の傍を離れようとしなかった。さすがに眠る時は説得して別々にしたが、僕の腕の裾の部分はずっと握りしめられていて、深い皺が刻まれた。
 深夜、小夜が余程疲れていたのかぐっすりと寝静まった後、僕はそっと部屋を抜け出してリビングに向かった。
 何も約束なんてしていなかったけれど、そこにいる筈と解かっていた。案の定リビングの電気は点いていて、扉を開くと、いつもの定位置の座布団に薫さんは座っていた。テーブルには缶ビールが置いてあったが、あまり手をつけている様子は無かった。
 お互い無言のまま。僕はいつもの薫さんの左側に座る。目の前には普段小夜が座っている。今は、誰もいない。

「……様子がおかしいと気が付いたのは、お前がキャンプに行った次の日の朝だ」

 薫さんはこちらを見ること無く話し始めた。

「いつまで経っても小夜が起きてこない爺と婆が心配してな、私が部屋に様子を見に行った。珍しく寝坊でもしたかな、と思って。
 最初はああやっぱり寝坊だ、と思った。カーテンが閉めてあって起きている様子がなかったから。だから起こそうと思って部屋に入ったら、小夜の部屋は……。知ってるだろ? 小夜は綺麗好きだから。部屋だっていつも片付いてた。なのにあの日は、酷い散らかりようで……。
 ベッドに、ベッドに誰かが布団に包まって座っているのが解かった。……正直ちょっとビビってな。小夜、って呼びかけても動かないし返事も返ってこないんだ。もしかしたらそこに泥棒でもいるんじゃないかって思って。
 けど布団をめくればそれはちゃんと小夜だった。安心して、そうしたら次は怒りが湧いてきてな。この部屋は一体なんだー、ってな。小夜、って呼びかけながら肩に手を置いて――そこでようやく小夜の尋常じゃない様子に気が付いたんだ。
 小夜は私の方を見ていなかったし、私の手に反応もしなかった。見ていたのは携帯電話。抱えていたのは、家族の写真と、私とお前と小夜で写った写真だったよ」

 薫さんは缶ビールを一気にあおった。そして、机に叩き付ける。

「くそっ! ……どうして気が付けなかったんだ。予兆は、三夜と香子が死んだ時からあった筈なのに」

 三夜と香子とは、薫さんと小夜の両親の名前だ。僕は死んでしまってから時任家に引き取られたから、会ったことはない。
 薫さんの手に力が籠もり缶を握りつぶす。少しだけ中身が零れる。俯いた薫さんの表情を垂れた髪の毛が覆い隠す。
 僕は薫さんの手にそっと自分の手を被せた。

「僕のせいだ」

 薫さんは顔を上げた。

「僕のわがままで一人暮らしを始めて、それが小夜にとって良くない方向に、こんなことになってしまった」

 そう、小夜は上手く生活していたのだ。両親が死んだ喪失を、その後にやって来た僕で何とかして埋めて。
 それなのに、僕が勝手に家を出たから――

「違うさ」

 逆に、僕の手がぎゅっと握られた。

「小夜のあんな不安定な精神に気付けなかった私たち全ての責任、そして小夜自身の責任だ」

 薫さんの手は暖かかった。
 怖かった。そもそも小夜がどう言う状態なのかも解からない。普段の小夜とのギャップに戸惑う僕たちが慌て過ぎなのかもしれない。……けれど、もっと慌てた方がいいと言う可能性もないとは言えない。
 慰め合って、前に進むようだった。
 その後、僕もビールを一本付き合ってから部屋に戻った。
 小夜はすーすーと穏やかな寝息をたてて眠っていた。
 僕も布団に入る。すると小夜はすぐに僕の腕の裾を掴まえた。
 起きているのかと思ったけれど、小夜は凄く安らかな表情で眠り続けていたので、僕もゆっくりと眠りに落ちた。






[25528] 一日目 (9) 理想、はじまりとおわり
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/01/20 01:20

 凍てつきそうな風に吹かれて、肌寒さが舞い戻る。
 俯く僕の頭に薫さんの手が置かれた。

「そう悲観するな。時間は掛かっているが、少しずつ良くなってきているじゃないか。素直にお前の家から帰るようになったしな」

 確かにそうかもしれない。
 当初に比べれば今の小夜は十分健康な状態だ。医者にももう通っていない。
 だけど、こんなに時間が掛かると思ってしまうことがあるのだ。

 ――小夜の病は、不治の病なんじゃないかって。

 ポン、と頭を軽く叩かれて、思考が中断する。

「無鉄砲なところと我が身を省みないところとごちゃごちゃ考え過ぎるところはお前の欠点だな。二十歳までには治せ」

 薫さんは薄く笑って、僕の背中をそっと押した。

「ほら、早く帰れ。もうすっかり夜も更けた」

 そう言って、薫さんはもう一度塀に背を預けた。どうやら薫さんはもう暫くここにいるようだ。
 僕は別れを告げ、その場を離れた。
 
 そして、一人になる。
 風が強い夜だ。
 寒々しい風にコートが靡いて、黒いコートが闇に溶ける。その冷気は心の隙間に忍び込んで、僕自身を撫で上げた。
 不安。孤独。恐怖。
 囚われそうになって、夜空を見上げる。
 金色の月もささやかな星も孤高の飛行機も、そのどれも姿は見えなかった。分厚い黒雲が隠してしまったのか。それとも堕ちて仕舞ったのか。
 コートの襟を合わせて、胸元を握り締める。
 そして僕は、過去を想う。


 ……僕には、小さい頃の記憶がない。
 朧気で曖昧で繋がりのない記憶の断片の中で、覚えている初めての記憶は、病院で目覚めた時のものだ。
 窓から燦々と光が差し込んで、世界は何もかもが白く見えた。その白の中から滲み出すように白衣を着たおじさんがやってきて、僕の様子を観察して、僕に色々と質問をしてきた。この人が医者だと気付くのはずっと後になった。その質問の中身は記憶に無い。
 次に眼を開けた時、世界はまた白に輝いていた。何時間、或いは何日経過したのかは解からない。この場所は常に純白の世界なのだろうか、それとも世界から夜は無くなってしまったのだろうか、と錯覚したことは覚えていた。
 その視界に、赤色が割り込んできた。
 その赤色の正体は、赤っぽい髪にセーラー服を着た女の子で、つまり若かりし頃の薫さんだった。その時が初対面だった。薫さんが僕に何を言ったのかは覚えていない。けれど、何種類かの感情を混ぜたような複雑な表情だけは、覚えている。
 次の記憶では、僕は、時任家で暮らすようになっていた。
 その頃は何故なのかなんて気にもしていなかった。自分のことも他人のことも世界のことも、興味が無かったのだろう。だから、全ての記憶が希薄で脆弱だ。
 ただ解かったことは、僕は両親と一緒に交通事故に遭ったそうで、両親は死んでしまい、僕は助かったけれど記憶を喪ったってこと。それと僕の名前が藤川忍だってこと。そのくらいしかなかった。そして、それに対して思うことも、特に無かった。

 麻痺していたんだと思う。きっとどこかが。
 壊れているんだと思っていた。あの日まで。
 その呪縛を解いてくれたのは、奈月だった。

 小学校に転入して、しかし僕は矢張り何にも興味を持てず、よく一人で校庭の端に生えていた桜の木の根元に座っていた。
 そんな僕に話しかけてきたのが、奈月だった。
 その時の詳細は矢張り記憶にない。どうしてこんな所にいるの、とか、一緒に遊ぼう、とかだったと思う。奈月ならきっとそんな風に呼びかける。
 僕は返事を返さなかった。そうすることで、彼らはすぐに去って行くと経験で学んだから。
 けれど、奈月はしつこかった。いつまでもいつまでも隣にいて、ずっと僕に話しかけ続けていた。
 根負けしたのは僕だった。

「……どうして?」

 ――これが、僕の記憶にある最初の会話だ。

「それでねそれでね……、え?」

 ――いつまでも胸に焼き付く、原初の会話。

「どうして僕にはなしかけるの?」

 そう聞いた。僕にとっては最大の疑問だった。
 久々に発した言葉は掠れて小さかったけれど、奈月はちゃんと聞きとって、そして笑顔で、桜みたいな笑顔で、答えた。

「なんかこまっているみたいだったから! こまっている人がいたらたすけるのがとうぜんなんだよっ!」

 ――その時、世界が拓けた。
 その言葉。
 その笑顔。
 その彼女。
 青空と白雲、そして新緑の木の葉が視界で踊り、彼女はとても美しかった。
 初めて、美しいと、そう思ったんだ。



 大きく息を吐き、思考から醒める。
 あの幼き頃の誓い、「こまっている人がいたらたすける」。
 僕は今果たせているのだろうか。あの頃の自分に胸を張れるのだろうか。眼の前の小夜一人、満足に救えていないのに。
 きつく胸元を握り締めて、誓いを繰り返す。
 「こまっている人がいたらたすける」
 「こまっている人がいたらたすける」
 「こまっている人がいたらたすける」
 そうでないと、何かが溢れてきそうだから。
 寒風が耳元で吹き荒れる。
 夜は遅々として明けない。
 孤独。個毒。
 喪失。葬室。
 暗闇。昏病。
 静寂。死縞。
 不安。歩暗。
 恐怖。狂負。
 一人。独り。
 言葉が脳内を廻り廻る。
 意味のない言葉たちだ。
 「こまっている人がいたらたすける」。
 それが僕の誓い。
 これが僕の誓い。
 繰り返し、繰り返し。
 夜は遅々として明けない。
 我が家はもうすぐそこだった。

      ☨

 思えばあの時、僕は不安に包まれていたのかもしれない。
 今の日常を、或いは何か別のものを失って仕舞いそうな。
 そんな破滅めいた予感に。

 事実、穏やかを装っていた日常は今日を限りに終わりを告げ、新たなる世界が幕を開ける。
 全ては運命の廻り逢わせ。
 始まりはずっとムカシ。
 その行方は。
 その終焉は。
 今はまだ、誰も知らない。

      ☨




[25528] 二日目 (1) 偽善と偽悪
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/01/20 12:50

      ☨

ココロは硝子に似ている
彼の者はうたうように脆く、ねむるように幼い
垂れた一滴の血液で、その運命を滲ませる
では、此処で問う
其れは、不必要と云う結論に帰結するだろうか
――答えは勿論、否である

      ☨
 
      2


 放課後。
 昨日と同じように悠はバンド活動、奈月は弓道部に行き、僕も用事があるので帰り支度をして昇降口に向かっていた。まだ授業が終わったばかりで、通り過ぎながら横目で見る教室には多くの生徒たちが残っていた。窓から望む校庭にも部活動に打ち込む生徒たちが見える。寒空の中、情熱の青春とでも言おうか。何かに熱中出来ると言うことはそれだけで一定の尊敬に値すると僕は思う。
 下駄箱で靴を取り出し、暖かい室内から寒空の下に出た。小さく震えて身を縮める。

「ん?」

 その時、視界の端の生徒たちが眼に留まった。
 遠くから見ても解かるような派手な色の頭をした生徒が一人と、他にも何人かが、体育棟の裏へと入って行った。
 ――特別なことではないけれど、何かが気に掛かった。
 僕は足の向きを変えた。


「おい、黙ってんじゃねえぞ!」

 林を抜けながら後を追いかけて、僕はそんな声を聞いた。声のした方に近付いて林の影から覗き見る。木々の向こう、体育棟の壁際に四人の男の姿が見えた。

「だからさ、とーっても貧乏で可哀相な僕たちに少し援助をしてくれって言ってるだけじゃないの」

 今、気持ち悪いくらいの猫撫で声を発したのがニット帽の男。その前に怒鳴ったのが見るも鮮やかな金髪の男だった。どちらも壁に手を付いて、その真ん中にいる誰かを囲んでいる。その誰かは金髪の男に隠れて詳しくは見えなかった。制服から、男であることは窺える。

「まあまあ。そんなに大きな声を出しちゃ、優等生くんが怯えちゃってるじゃないか」

 そしてもう一人。独りだけ三人から少し離れた、まるで指揮者のような位置に男がいた。
 えーと、名前は……そう、篠原準也だ。
 茶色の長髪に指に光るアクセサリー。しかし、教室で見た人の良い笑顔とは全く違う、弱者をいたぶる嗜虐の笑みを浮かべていた。
 なるほど。あれが悠の言っていた、篠原の「本当の顔」か。
 準也は手遊びに銀色のルービックキューブを弄りながら、三人に近づく。

「悪い悪い。コイツすっげえ短気でさあ、ちょっとしたことですぐキレちゃうんだよね。もし次キレちゃったら俺でも止められないかも」

 準也は金髪の男を見やる。金髪の男はニヤニヤと笑いながらポケットから刃物を取り出して、見せびらかすように掲げた。
 ……刃物か。少し、対策が必要かな。
 僕はポケットからある物を取り出す。
 囲まれている男の右腕が、震える左腕を押さえるのが見えた。
 準也も目敏くそれに気づき、口の端を吊り上げる。

「素直に財布だけ渡してくれれば、コイツも気を鎮めるだろうしさ。だからほら……おい、なんだよその眼は」

 準也が更に男たちに近付く。
 ――そろそろ行くか。
 僕が林から身を乗り出そうとした――その時。
 囲まれていた男が、自ら一歩前に踏み出した。
 僕の瞳が、初めてその姿全てを捉える。
 夜のような黒髪に静謐な瞳、身長はそれほど高くはなかったがその躯は鍛え上げた一振りの日本刀のような痩躯だった。
 彼は眼の前の人間もナイフも恐れていない。一目でそう感じた。先ず纏っている空気が違う。ちょうど知り合いに、これに近い空気を持った人がいる。彼は強く気高いが、男の纏う空気はより一層冷たく刺々しかった。

「贋者が」

 痩躯の男はそう言った。
 男たちに空白の思考が流れる。人間、予想していなかった言動や事態には、それが予想外であればあるだけ思考も行動も停止するものだ。

「疾うに飽いた。消え失せろ屑」

 痩躯の男はその空白に言葉を差し込む。
 その声、矢張り怯えてなんていなかった。威風堂々と、腕を組んで背後の壁に寄り掛かる。
 その姿に、男たちが黙っている筈がなかった。

「あぁ!? なに言ってんだテメェ」
「調子にノってくれちゃってるじゃないの」

 一触即発の空気。
 二人は許可を求めるように篠原を見る。
 篠原は愉しげに表情を歪めて、

「……やっちゃえよ」

 軽く手で合図をした。
 男たちが待ってましたと獰猛に笑う。
 篠原は横目でつまらなそうに見やる。
 痩躯の男がポケットに両手を入れる。
 こんな風にひりついた空気は苦手だ。
 だから、

「あっれえ?」

 彼らに背を向けて、間抜けな大声を上げて立ち上がった。

「―――っ!?」

 驚いた表情でこちらを振り返る男たち。否、痩躯の男だけはまるで知っていたかのように静かにこちらに視線をよこした。
 僕は視線を意識しながら、気付かない振りで男たちに近付いて行く。このまま何かを探す振りでもしつつ、程よき所で気付いて見せようと思っていたのだが、

「おい」

 向こうから声を掛けられたのなら仕方ないか。
 僕に声を掛けたのは篠原だった。金髪とニット帽をそのままに、ルービックキューブをポケットに仕舞った篠原だけが僕に近付いて来る。他二人は痩躯の男を隠すように僕の視界を遮った。成程、篠原がいち早く声を掛けた上にわざわざ近付いてきたのは現場とあの男に近づけさせない為か。雰囲気でどんなことが行われていたのか察せられない為に。

「藤川。こんな所に何の用だい」

 その表情や口調は、先程までのものとは違い教室で見たソレに近い。爽やかで、気障だった。

「ああ。実は昼に此処に来たんだけど、さっき財布を失くしたことに気が付いて。もしかしたら此処じゃないかと思って探しているんだ」

 僕は嘘が大の得意だ。
 相手を意識的に騙そうと思って露見したことは只の一度もない。
 篠原は一瞬怪訝そうに眉を寄せたものの――それだけでも僕としては驚いた――納得したのか明るい表情を見せた。

「災難だね。でもここらへんで財布は見なかったと思うよ」
「そっか……何処いっちゃったのかなぁ。ところで、篠原たちはこんな所で何を?」

 現状に気付いている素振りなんておくびにも出さない。ただ何となく聞いてみた、と言う態度で質問する。
 これで多少揺さぶってみようと思ったのだが、

「んー? わ・る・いことだよ」

 篠原は一切の動揺を見せず、冗談めかして言い放った。
 ――こいつめ。抜け抜けと。
 僕は慎重に発言を考えて、

「……そう。それじゃ、さっきのは聞き間違いじゃなかったんだね」
「え?」
「財布を出せとかどうとか、さ」
「…………」

 篠原の表情が変わる。
 どうやら後ろの男たちにも聞こえたらしい。顔を見合せて、次にこちらを見た時にはナイフみたいな眼になっていた。

「……ふうん」

 一瞬表情を強張らせた篠原だったが、すぐに余裕の笑みを浮かべると両手を大きく広げた。

「それで? 俺たちがもしもそんなことをしていたとして、藤川はどうするって言うんだい? 教師にチクる? 尻尾巻いて逃げる? それとも俺たちを倒してアイツを助けるって? ハッ、美しい正義感だね。けれどダメさ。どれも許さない。お前は今ここで喋る気が無くなるまで痛めつけて――」
「喋り過ぎると底が知れるよ」

 篠原の表情が歪む。

「この野郎っ!」

 上がった大声に反応して視線をずらす。僕の挑発に、金髪の男が憤怒の表情で走って来るのが見えた。これも聞こえてたのか。耳が良い。まだ。まだ距離は遠い。大量の思考を巡らせる時間がある。
 同じように声に反応した篠原は、すっとその場を退いて金髪の男に場所を空けた。嗤っている。
 足元、上空、周囲に障害物はなし。此処にいる者以外の声は聞こえない。先程の対策は間に合わないようだ。
 ニット帽の男に動く様子はなし。嗤っている。
 痩躯の男に動く様子はなし。無表情。
 十八もの思考の末に、やっと金髪が射程まで辿り着く。
 特に構えることはしない。
 金髪が走りながら右拳を振りかぶる。
 あれを何処にぶつけるつもりだろう――顔――腹――顔と判断。

「おらぁっ!」

 正解。
 躯ごと左――金髪の男の躯の外側へと避け第二撃を遅らせて、再び距離を取る。

「チッ!」

 金髪はまた走って来る。
 右拳から上腕にかけて力が籠もるのを確認。先程と同じ攻撃? ――同じと判断。
 正解。
 右拳が振りかぶられる。
 この攻撃は二度目だ。
 一度目から、容易に位置を予測出来る。
 目測。
 行動。

「おら――っお?」

 金髪の男が最後に着く左足。その足が地面に着くギリギリで、僕の右足がそっとそれを払った。
 空振りするエネルギーは行き場をなくして。

「がっ!」

 金髪の男は倒れて強かに背中を地面に打ち付けた。苦しそうに呻いているがそこまでのダメージはないだろう。きっとすぐに起き上がって来る。
 追い打ち――それは否。
 僕は、誰かを助ける為にいるんだから。
 視線を巡らせる。
 篠原は茫然としていた。痩躯の男は静かに見ていた。ニット帽の男はポケットからナイフを取り出して、こちらに走ってきた。
 次はこっちか。しかも学校で凶器とは。
 射程まで接近、右手に握ったナイフが僕の胸目掛けて突き出される。――しかし不思議だ。彼は自分の行為が齎しかねない結果に覚悟があるんだろうか? そんな関係ない思考が一瞬巡る。
 さっきと同じように腕の外側、左側へぐるりと回転しながら回避し、ニット帽の男と背中を合わせるように同じ方向を向いて手首を取る。
 その手首を掴んでほんの少し前に押し出して態勢を崩させ――一気にしゃがみ込んだ!

「え――うわあっ!」

 ニット帽の男は前につんのめる。最後にフォローを加えて一回転させて地面に倒した。
 危険なので最中にナイフだけは取り上げておいた。刺さりでもしたら一大事だってのに、こんなもの持ち出すな。

「てめえ――」

 歯噛みしながら起き上がる二人。先程よりも遥かにギラついた瞳でこちらを睨んでいる。
 困った、余計にヒリついた空気になってしまっている。
 僕はナイフの刃をしまいながら思考。男たちを警戒しつつ、背後に耳を澄ませた。
 眼の良さと耳の良さにも自信がある。だから解かった。
 ……どうやら対策が間に合ったようだ。

「篠原」

 無言で返される。
 構わない。
 こちらは言うべきことを言うだけだ。

「このことは黙っておくから。もう行ってくれないか」
「…………なんだって?」
「だから、」

 ――おおい、どこー? 忍ーっ!

「早くこの場を離れろ、って言っているんだよ」

 奈月の声が聞こえた。僕の背後、まだ遠く木々に隠れて見えない所から。しかし、その声は徐々に大きさを増して近付いてくる。

「こんな場面と、それにこんなもの見られたらまずいんじゃないか」

 取り上げたナイフをひらひらと振ってみせる。

「お、おい!」
「ヤバいじゃないの」

 焦る金髪とニット帽の男たち。すぐに身を翻して逆方向へ逃げ始めた――が、途中で揃って立ち止まった。
 なぜなら、

「準也! 早くしろって」

 篠原が動こうとしなかったから。

「…………」

 仲間の呼び掛けにも篠原は沈黙を保ったまま、僕の顔をじっと憎悪の瞳で見ている。小さく舌打ち、揺れた長髪が片目を隠す。

「覚えてろよ……!」

 そんな捨て台詞を残して、背中を向けた篠原は仲間と共に木々の向こうへ消えて行った。何だか、ノスタルジーさえ感じる言葉だな、と場違いな苦笑を洩らす。
 そして、僕と痩躯の男が残された。
 奈月を呼ぶ前に少し話をしておこうと、僕は彼に近付いた。

「大丈夫ですか?」
「…………」

 彼は体育館の壁に寄り掛かったまま、静かに俯いている。両手はポケットに入ったままだ。
 黙ったまま返事を返してくれない。もしかして篠原の言葉通り、少しは動揺していたのだろうか。怖がっていたとか怯えていたとかは無いと思うけれど……。
 彼が顔を上げた。
 改めて彼と向かい合う――


 その瞬間、怖気立った。


 否。否。否。否。否。否定。否定したい。否定したい。否定したい。コレ。コレはいけない。コレは存在してはならない。コレは許してはならない。否定。否定。否定。もしも。それが叶わないのならば――いっそ

「偽善者」
「―――ッ!?」

 夢から醒めるように、思考の海から引きずり出された。
 眼の前には痩躯の男。辺りは校舎裏の森の中。
 風景は何も変わっていない。
 一体、何が起きたのか。
 さっきまでの意識は何だったのか。彼の言葉で打ち消されたそれらは、今では何を考えていたのかも、何処から湧き出でたものなのかも解からない。掴むことの出来ない霧のよう。最早不可解しか残っていなかった。
 それよりも――そう。今彼は何と言ったか。

「何だって?」
「偽善者と言ったんだ贋者め」

 静かだった彼の瞳から、何がしかの感情の迸りが見えた。

「押し付けの偽善を振り撒いて自己満足か贋者。愚かしいを通り越して嘆かわしい。それに自分で気付いていないのが更に酷い」

 やおら彼は壁から背を離し、篠原たちが消えて行った森の方へ歩いて行く。僕は、掛ける言葉も見つからずただそれを見送る。
 森の手前で彼は立ち止り、背中を向けたまま言葉を並べた。

「お前が偽善を旨とするのなら、俺は偽悪を旨としよう。そしてお前の偽善を否定する。――さよなら偽善者。またいつか、逢わないことを希う」

 そして、彼は姿を消した。
 と同時に、奈月が現れる。

「あ、いた。もう返事しなさいよ」

 文句を言う奈月は袴姿にポニーテールで、どうやら弓道部の練習中に抜けて来てくれたようだった。
 携帯片手に隣にやってくる。

「それで? この『緊急事態』ってお騒がせなメールはなんなの。先生と来てって書いてあったけれど、近くにいなかったから私しかいないわよ? ……って、ちょっと忍! なにぼうっとしてるの」
「ん? ああ、ごめん」

 全く、と怒る奈月の声を聞きながら、僕の瞳は痩躯の男が消えて行った方をじっと見ていた。
 彼の言葉の意味を考えながら。






[25528] 二日目 (2) 道場
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/01/21 06:28

 石楠花川の川縁を歩く。
 東にある三葉高校から西へ真っ直ぐ街を横断すると、中央と西地区を分断している石楠花川に突き当たる。この川は隣の市から来て、そしてまた隣の市へと抜けて行く、幾つもの市を跨いだとても長大なものだ。
 僕はその傍を歩いていた。木々の緑が眩しい並木道だ。河原にはスポーツの出来るグラウンドや落ち着けるベンチが整備されていて、冬空の下でもサッカーに興じる小学生や愛を語らう恋人たちが元気に利用していた。
 流れる川面に太陽の光が煌めき、僕の視界を鮮やかに彩る。
 僕は、先程のことを思い出していた。
 ――偽善者。
 そう言った彼は、偽悪者として去って行った。
 結局彼が何を言いたかったのか理解できないままで、だから僕は感情を持て余している。
 彼は僕に何を言いたかったのか。
 何が偽善で、何が偽善でなかったのか。
 何が偽悪で、何が偽悪でなかったのか。
 思考が渦を巻いて、巻いたまま脳内の深い所で澱む。そもそもどんな答えを求めているのかが解かっていないのだ。そんな僕の頭から、大切な何かなんて生まれる筈がない。それでも考え続けてしまうのは、僕の悪癖だろう。
 偽善とは、なんだ。
 そうこうしている内に、石楠花川に架かる橋に辿り着いた。この橋の向こうの狭神市西地区には工場群と古い民家の住宅街があり、西の端一帯は森になっていた。
 橋を渡って、更に歩く。洋風の趣は消え、数多くの時代を見送ってきた古い家屋が目立ち出す。
 やがてそんな古い住宅街の中でも一際大きな、歴史を感じさせる平屋が見えた。高い塀に囲まれたその家は、所々で朽ちてしまいそうな木々を晒しながら、それでも尚清楚な雰囲気を敢然と湛えていた。門には『古賀』の表札が掛かっている。
 開いている門をくぐって敷地内に入ると、玄関の扉には向かわずに回り込むように裏手へ向かった。途中、縁側があった。たまに此処に奥さんが座ってお茶を飲んでいることがあるけれど、今日は誰もいなかった。
 家の裏に着く。そこに横に倒した長方形のような形の建物があった。
 此処は古賀道場。古賀流白禅道、と呼ばれる武術を教えている道場だ。僕は中学に上がった頃から四年間と半年程、この道場で武術を習っている。
 『こまっている人がいたら、たすける』。その誓いを貫く為には、護る力が必要だから。
 扉の前に立って、一つ深呼吸。首を左右に振る。
 それは自分の中のスイッチを切り替える、儀式のようなものだ。
 ――日常を生きる、普段の僕では戦えないから。

「お願いします!」

 両開きの引き戸を開けて、挨拶とともに頭を下げる。中からは沸き立つ熱気と程好い緊張と、板張りの床を踏み締める音が響いた。
 道場には既に二人の人間がいた。その内の一人が中に入った僕を振り返る。

「来たか忍。早速着替えて来い」

 威厳あるはっきりとした声で僕にそう言ったのは、背の小さな七十歳程のお爺さんだ。豊富な白髭を蓄え、生え際は少し頭頂部へと後退している。しかしその年齢には比例しない、袴の上からでも解かる程の分厚くしなやかな躯をしていた。
 お爺さんの名前は古賀修禅。現在の古賀流白禅道の承継者にして僕の師匠にあたる人だ。僕はその強さ――心においても武術においても――に憧れている。
 靴を脱いで、冷たい板張りの床を踏む。
 古賀道場の広さは一辺が二十メートル前後。高さは割かしあって六メートルはある。古賀流白禅道の特性上、薙刀のような長物も扱うのでこれくらいの高さは必要、なのかもしれない。良くは解からないが。
 壁にはたくさんの武器が掛かっていた。木刀、日本刀、小太刀、薙刀、槍、棒、手裏剣などなど。
 古賀流白禅道は修禅師匠の五代前の祖、古賀白禅が拓いた武術である。当時、天真正伝香取神道流と言う武術を学んでいた白禅氏は齢四十程の時に新たな武術を創るため道場を出て野に下った。その後様々な武術に触れ、多くの武芸者と戦い、道場を出てから八年の歳月を経た時、彼は古賀流白禅道を創り出したそうだ。それからこの武術は一子相伝、代々古賀家の長男に伝えられてきたらしい。
 古賀流白禅道は、正に総合武術。剣術、居合術、槍術、薙刀術、棒術、柔術、太刀術、手裏剣術、果てには兵学まで学ぶ。実践に役立つありとあらゆる物を取り入れている武術だ。

 掲げられた理念は『美しさ』。
 ――人を殺める殺人術であればこそ、美しくあれ。

 それが白禅氏の思想だったそうである。
 最初にその理念を聞いた時、僕は震えを覚えた。
 理念でありながら概念と相剋する。
 その様が恐ろしくも美しくて。
 ともかく、古賀流白禅道の技は『美しさ』の理念に沿って創立されている。
そして正にその理念を、道場の真ん中で木刀を振るう古賀伊織は体現していた。
 腰から横凪ぎに振り抜かれる刀。剣先は伸ばした右腕の先でぴたりと止まり、静けさを切り裂いて一層の静けさを齎す。制動する伊織先輩の頬を一筋の汗が伝う。その眼は、ただ一心に眼の前に創り出した仮想の敵を睨み付けていた。
 彼の名前は古賀伊織。道場主の古賀修禅師匠の孫で、この道場での僕の兄弟子にあたり、更には学校での一個上の先輩にもあたる人だ。
 すっかり鍛錬に熱が入っている。僕も早く着替えて来よう。
 併設された更衣室へ。手探りでスイッチを押して電燈を点ける。六畳程の室内には幾つかの葛籠が置かれていた。その内の一つに脱いだ服と私物を放り込んで、白と黒の袴に着替える。
 更衣室を出て、修禅師匠の元へ向かった。

「お願いします」
「うむ。早速、今日は此れじゃ」
「はい」

 差し出されたのは木刀だった。遠目で見た時から既に師匠が杖のようにして木刀を持っているのが見えていたので、予想通りと言えばその通りだった。
 受け取って、伊織先輩の邪魔にならないところに立つ。
 古賀道場の鍛錬は、まず修禅師匠に今日の課題を渡されるところから始まる。そしてその武器なり柔術なり徒手空拳なりを、自己鍛錬で磨いて行くのだ。修禅師匠は何も言わない。自分一人で、武器の特性や間合いを掴まなければならない。いきなり手裏剣を渡された時は戸惑ったものだ。
 とは言っても、既に数十度目の課題で、自分用の物すらある木刀だ。
 一振りすれば手に馴染み、間合いは持つ前に解かっている。
 故に考えることは、一つだけ。
 ――如何に古賀伊織を打ち倒すか。その一点。
 古賀道場では自己鍛錬の後、その武器を用いた試合を行う。この道場には現在門下生が僕と伊織先輩の二人しかいないので、必然的に僕は伊織先輩と打ち合うことになるのだ。
 武器にも因るが、僕が伊織先輩に勝つことは極めて稀だ。
 だから、如何にして打ち倒すか。如何にして意表を突くか。木刀を振るいながら考え続ける。

「止め!」

 すっかり寒さも忘れた頃、修禅師匠がようやく鍛錬を止めた。

「それでは試合に移る」

 息を整える時間を取るどころか、一所に僕と伊織先輩を集めることすらもせずに試合開始の宣告をする。それこそが戦いと言う理念であり、この道場の日常だ。
 僕と伊織先輩は、これから試合を始めると言うには随分と離れた距離で目線を合わせた。
 ……わあ。人を殺せそうな視線とはああ言うことかな。
 僕も少しでも息を整えて、集中。
 戦いの要素以外を五感から除外する。
 ――木刀とは言え、一歩間違えば生死に関わる怪我をするかもしれない。しかも伊織先輩は僕より数段上の実力者だ。勝てないんじゃないか。負けたら怪我をしないだろうか。退いても――断絶。
 余計な思考。掠める恐怖。
 殺ぎ落として、戦いに専心する。
 切り換わる。

「始めっ!」

 音と同時に疾走した。
 相手は僕よりも上の実力者だ。ただ素直に斬り合うなんて無策はしない。愚策はしない。
 本来上位者と戦うならば、隙を見て不意を打つか策を張り巡らせて迎撃するかのどちらかを選びたいところだけれど、道場での試合ではそうはいかない。
 ならば、速攻――!
 伊織先輩は涼しい顔で剣を構える。動く気配はない。どうやら僕の攻撃を受けきる覚悟のようだ。それは読み通り。先輩はそう言う戦術を選択すると思っていた。

「うおおおっ!」

 気合いの咆哮。左足を床に踏みこんで、勢いそのままに右上から袈裟に斬りつけた。
 伊織先輩は一歩下がってかわす。
 僕も一歩前に追いかけて、左下の木刀を同じ剣線をなぞって逆袈裟に斬り上げる。
 先輩は再び一歩退く。
 剣先は風圧を感じる程の至近距離を抜けて、ほんの数瞬前まで伊織先輩がいた空間を薙いだ。
 ――古賀白禅流は『美しさ』を求めて、そして独特の連撃思想に辿り着いた。
 一の太刀を、外れたならば再び一の太刀を。それを繰り返す同時代の剣術に対して、可能な限り幾つもの種類の太刀を連続で繰り出す剣術。それが古賀白禅流。
 一太刀ではなく、二太刀。
 二太刀ではなく、四太刀。
 四太刀ではなく、幾太刀も。
 それが『美しさ』であり、強み。
 だから、この程度では止まらない。

「はあっ!」

 振り上がった木刀を頭の横に構え直し、伊織先輩に向けて突きを繰り出す。剣は、彼の者の心の臓を狙っている。
 伊織先輩はそれをも、横にずれるだけであっさりといなした。一級の実力を持つ先輩の、その中でも防御に関しては超一級品だ。この程度は、先輩は何の苦もなくかわしてみせる。
 かわしてみせる――が、
 それこそが、狙い。
 突き出した木刀から左手を離して、右手一本に。
 僕の今までの三撃は、全てこの四太刀目の為にあった。
 三撃をよけ続けて、先輩は僅かながらも体勢を崩している。そして先輩が今避けたばかりの剣は彼の躯の超至近距離にある。そこからの、無理矢理の横薙ぎ。
 伊織先輩がほんの少し顔を強張らせる。

「おおおおっ!」

 全力で木刀を振り抜いた。
 カンッ―――。
 甲高く、響き冴える快音。
 全身を打つ衝撃と手応え。
 僕の振るった木刀は、僕の予想通りの結果を示した。
 そう、予想通り。だからこそ――嬉しくて悔しくて堪らない。
 僕の木刀は、大きく振り上げるようにして逆さまに脇腹に添えられた伊織先輩の木刀に、難なく防がれていた。
 流石は伊織先輩。難しい体勢と構えでの防御を、いとも容易くやってのけた。
 まったくもう。
 とんでもなく悔しい。
 そんで嬉しい。
 尚且つ楽しい。
 困ったもんだ。
 先輩との戦いは、やっぱり楽しくて仕方ない。
 けれど、そんなことを言っている暇などありはしない。
 彼が、そんな時間を与えてくれる筈がないから。

「往くぞ」

 呟くような声。
 伊織先輩の眼が、この戦いで初めて僕を睨み付ける。
 その瞳は、置いてきた筈の恐怖が頭を掠める程の殺気に満ちていた。

「――――――」

 静かなる咆哮。けれどそれは、向かい合う者には確乎たる声として。
 鎬を削り合っていた僕の木刀が、強烈に撥ねのけられた。

「くっ!」

 急いで両手に持ち直し、相手の間合いから退こうとする。しかし、伊織先輩は素早い出足と巧みな足さばきで僕を間合いの中に取り込んでしまう。どれほど下がろうとも、いなそうとも、決して抜け出せぬ間合いの牢獄。
 そして降る、雨あられの剣閃。
 僕に反撃の隙など与えない、打ち下ろし、払い、薙ぎ、切り上げ、突き。
 上から下から来たる攻撃を、懸命に捌きながら後退する。

「―――ッア!」
「ぐうっ!」

 しかし、道場の壁間際まで圧し込まれたところで、遂に僕の木刀は大きく弾き飛ばされて、無防備に尻餅をついた僕の頭に先輩の一撃が――、

「それまでっ!」

 響く師匠の声。
 最後の意地で見開いていた僕の眼の前で、風圧すら感じる鼻の先で、伊織先輩の振るった木刀は停止していた。射竦めるような残心の後、木刀がひかれる。
 僕は止めていた息を大きく吐き出して、脱力した。
 ……やっぱり強い。完敗だ。
 でも、だからこそ、目指し甲斐、倒し甲斐がある。

「二人とも、此方へ」

 修禅師匠に呼ばれ、僕と伊織先輩はその前に並んで正座する。
 修禅師匠は伊織先輩の方を向いて、

「先ずは伊織。お主は矢張りどの武器においても防御に秀でている。それに関しては儂からも言うことはない。しかし、その影響で戦いの序盤、相手の攻撃を見てしまうことが多い。今回は受け切ったが、相手によってはそうはいくまいて。自分から攻めて、崩し、決める。そんな鍛錬を積むのじゃ」
「はい」
「次は忍」

 修禅師匠がこちらを向く。
 僕は師匠の眼を見て、耳を澄ませる。

「伊織に負けはしたが、今回の試合は中々に良かったぞ。最初の四連撃。あれも理に適っていた。ただ最後の片手での攻撃が残念ながら筋力不足だったの。お主も解かっておるとは思うが」

 師匠の指摘通り、そのことは僕も解かっていた。
 片手で剣を振ると言うことは大変に難しい。木刀であっても剣は見た目以上に重いもので、片手のみで剣に威力をのせ、太刀筋を揃えることは、相当の筋力と技術が必須なのだ。
 僕にはそれが足りていない。だから、最後の一撃は易々と伊織先輩に防がれてしまったのだ。

「伊織が三つ目の突きをもっと大きくかわしていれば或いは加速して威力を上げることも可能だったやもしれぬが、まあそれは伊織を褒めるしかないの。……そうじゃな、丁度良い、忍はこれから二刀流の鍛錬をすると良かろう。その鍛錬が威力向上と、ひいては戦いの選択肢の幅へと繋がっていくじゃろう」

 頷いて、師匠の言葉を受けた。
 そして僕と伊織先輩は師匠のアドバイスを課題に、再び個人鍛錬に移る。
 片手で振るう剣は覚束ない軌跡を描き、空間を滑っていく。
 試しながら、確かめながら、自分と剣と向き合う内に、ふと昔のことを思い出した。
 この道場に来た、四年前――。
 理想だけを掲げて、何一つ実現する力を持たないまま奈月に護ってもらっていた自分を。
 まだ届いていない。
「こまっている人がいたら、たすける」
 理想には、まだ届いていない。
 だけど、鍛錬で簡単に息が切れなくなった自分が、何だか嬉しかった。



 鍛錬を終えて更衣室に入ると、伊織先輩はもう着替え終わっていた。黒のセーターにジーンズ。隣の家に住んでいるから薄着でここまで来たようだ。

「お疲れさまでした」
「ああ」

 僕の方を見て、少し口角を上げる。
 学校でも道場でも普段からクールに見えて口数の少ない伊織先輩だけれど、本当の性格は爽やかで体育会系でとても面倒見が良い人だ。曲がったことが嫌いで、誇れる力と揺るぎない正義を持っている。
 ただ言葉数か少なく、学校などではそれが表に出てこない。僕も道場で鍛錬を積み、伊織先輩と試合をするようになって初めて解かった。
 戦いと言うものは、多くを語る。

「今日も勝てませんでした」
「当然だ。俺はお前よりずっと長く此処にいる。そう簡単に負けてたまるか」

 伊織先輩はそう言って挑戦的に笑う。
 僕も苦笑して隣で着替え始める。

「しかしな」
「はい?」

 僕は着替えながら耳を傾ける。

「今日の木刀は良かったよ」

 え? その言葉に驚いて袴から片腕を抜いたところで動きを止める。

「他の武器と比べて攻撃の精度も密度も桁違いだった。どうやら忍は剣の才があるらしい」

 僕はぽかんと口を開ける。そんな風に伊織先輩に褒められるのは初めてのことだった。
 いつでも伊織先輩は自分に執拗に厳しく、そして他人にも同程度とは言わないまでも、高い誇りと志を求める。だから鍛錬の後、試合で気になったことについて厳しい指導を受けることは多々あった。
 しかし褒められたことなんて……。

「剣だったら、俺から一本取る日も近いかもな」
「い、いやそんな!」
「莫迦。俺は負けない」

 それじゃあな。そう言って、伊織先輩は更衣室を出て行った。
 残された僕も急いで着替えて、電気を消して更衣室を出た。
 更衣室の扉が、閉めた自分でも驚くような大きな音を立てて閉まった。道場に残っていた修禅師匠が何事かとこちらに視線をよこす。
 どうやら僕は、かなり嬉しいらしい。






[25528] 二日目 (3) 傲慢と悪徳
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/01/22 15:44

 ネオンが煌めく夜の街。
 その中でも最も輝いているのは、並ぶタクシーのヘッドライトや天気予報とCMを流す大型ヴィジョンなどが目映い狭神駅前だった。
 硝子張りのエスカレーターに改札前の幅広のコンコース、街全体を見渡せる展望フロアまであってかなり大きな造りなのだが、合流している線路は七線とそれほど多くなく、利用者も見込まれていた数には届かなかった不遇の駅だ。狭神の街にはちょっと背伸びしている印象が強い。
 それでも日が沈んだばかりの今の時間、会社帰りのサラリーマンや遊ぶ若者で駅前は賑わっていた。

 道場から帰宅している時、駅前で篠原準也を見かけた。向こうもこちらに気づいたようで、僕は片手を上げて挨拶をする。すると篠原は、信じられないものを見たように驚いて、次いで憎しみのこもった表情を浮かべた。
 どうしてそんな表情を浮かべるのか。
 その表情の意味が僕には解からない。
 篠原は周りの友達――良く見れば、放課後に出逢ったニット帽と金髪もいた――に何か一言言うと、僕の方へとやってきた。
 僕から声を掛けた。

「やあ、こんばんは」
「…………」

 篠原は制服姿のままだった。放課後に別れた後、あのまま街で遊んでいたのだろうか。

「ごめん呼び止めて。別に用事があったわけじゃないんだ」

 だからもう友人たちのところに戻ってくれていいよ。そう言外に込めたつもりだった。しかし、準也は僕を睨みつけたまま動こうとしなかった。何か用事があるのだろうかとも思ったけれど、それでいて、何か話しかけてくるわけでもない。
 僕はとりあえず黙って準也の行動を待った。
 暫くの沈黙の後、

「どうして」
「え」

 静寂を破った声は、まるで自分に問いかけるかのように小さな声だった。

「どうしてお前は、俺に話しかける」

 準也の表情は変わらない。強い視線で僕を睨んでいる。

「今日の放課後、あんなことがあったばかりだろう。なのに何故お前は」

 しかしそれとは対照的に、声は脆弱だった。薄く細く、吹けば飛びそうなタイトロープ。視覚と聴覚のイメージの差異は、僕に虚構の夜の摩天楼を幻視させた。真円の月が光り、影絵のように街は出来、スポットライトが輝くような、ハリボテの街。
 僕は普通に答えた。

「だってクラスメイトだから」

 それだけ。
 だってそうだろう。
 それ以上もそれ以下も、ある筈がなかった。話したのも今日の放課後が初めてなんだから。
 何故篠原はそんなことを聞くのか?
 ただただ不思議だった。

「…………ッ!」

 歯軋りの音が聞こえた気がした。
 僕は驚いてしまった。
 篠原の表情が、あまりに、左右非対称に歪んでいたから。

「な……なんなんだよてめえは!」

 人混みに怒声が響き渡る。多くの人がこちらに眼をやったけれど、立ち止まる人はほとんどいなかった。

「落ち着き払ってふざけた眼ぇしやがって! くそっ、気持ち悪りぃんだよ!」
[お、落ち着いて」

 近付いて、肩に置こうとした手を――強く撥ね除けられる。
 僕はその豹変にまた驚いて、絶句し数歩下がる。
 叩かれた手首の骨が、じんじんと痛んだ。
 その頃には異変に気付いた篠原の友人がこちらにやってきていた。その内の二人――金髪とニット帽は僕を見て躯を仰け反らせる。
 篠原の友人たちは事態を把握しかねているようで、篠原を見たり僕を見たり、「どうした?」と声をかけたり、混乱している様子だった。
 しかし、篠原はその全てを無視して。

「この――偽善者が!」

 周りの友人たちを振り払って身を翻すと、早足で雑踏の中へと消えて行ってしまった。「おい、準也!」友人たちは戸惑いながらも急いでその姿を追う。その友人たちも、すぐに見えなくなった。
 そして後には、僕だけが残された。
 人が行き交う道の真ん中で、僕は篠原が消えて行った方向を見つめたまま、考えていた。

 ――今日は一日に二度も偽善者と呼ばれた。
 篠原は、敵対していた痩駆の男と同じことを言った。
 だけど解からない。
 何が偽善なのか?
 誰が偽善なのか?
 善とは何を以って善なのか?
 偽とは何を以って偽なのか?

 どれだけ考えても解からない。
 答えは出ない。何せ心当たりがないのだから。
 だけど、骨の痛みはしぶとく残留している。
 心の奥に、暗い錘のようなものを感じたのは、確かだった。
 見て見ない振りは、出来そうにない。

      ☨

「くそっ、くそくそくそくそくそくそくそぉ!」

 夜の公園に、怒声と何かが倒れ散らかるような音が響いた。
 騒音の主は篠原準也。彼が罵声を吐きながら金属製のゴミ箱を蹴り飛ばしたのだ。ゴミが周囲に散乱し、中身が残っていたアルミ缶から紫色のジュースが零れる。液体は垂れて流れて、遊歩道に黒いシミを広げていく。
 近くのベンチに座って愛を語らっていたカップルが、そそくさとその場から逃げ出す。準也はその二人なんて気にもかけずに、結果空いたベンチのど真ん中に乱暴に座った。

「……くそっ」

 ポケットから煙草を取り出して、火を点け、深く吸い込む。しかし、準也の心は一向に落ち着かなかった。
 原因は、つい先程の藤川忍との邂逅。
 そもそも準也は、藤川忍と言う人間について、随分と前から計りかねていた。

      ■

 篠原準也は、祖父は文部省官僚、父は会社社長と言うエリート一家の次男坊として生まれ育った。
 幼い頃からの英才教育で、勉強をやらせれば常にトップ5に入り、部活のサッカーでは原動力として県大会優勝に導き、ピアノや絵画と言った芸術方面にも長ける、そんな優秀な人間に育っていった。
 しかし、それは単に努力と時間と金の賜物であった。
 彼自身の才能は、望まれたような天才ではなかった。
 それは奇しくも、兄が証明することとなる。
 兄は、勉強は全国トップクラス、部活でも準也と同じサッカーで全国ベスト4、芸術も全般に長けたが、中でもバイオリンにはとびきり非凡な才能を発揮した。
 優秀だった父親はその才の差にすぐに気が付き、兄に自分の次を担う者として全幅の期待を寄せた。そしてそのことに、準也自身もすぐに気が付いてしまった。
 準也が非凡だったのは、ただ一つ。
 それは場の空気を読む眼。人の心を推測する眼。
 その観察眼だけは、厳しい社会で揉まれた父親にも天才の兄にも勝るものを持っていた。
 目の前の人間は何を求めているのか。
 この場ではどんな行動を取るのが相応しいのか。
 そう言ったことを、準也は幼い頃から考えながら行動していたのだ。それは彼が家族から見放されるのが怖かったから。落ちこぼれとして放逐されたくなかったから。そんな童心の必死さから身に付いた哀しい力だったのかもしれない。
 そんな素晴らしい観察眼を持ったからこそ、父の信頼が自分から離れていくのを敏感に感じ取ってしまい、深く絶望してしまったのは皮肉である。
 そうして準也はエリートコースから外れ、進学校とは言え、ただの公立の高校に入学した。
 道を外れたとは言え、英才教育を受けてきた元エリート。公立高校の中では彼は全てにおいてトップクラスだった。
 クラスの面々は皆彼を尊敬し、崇め、集った。準也もそんな彼らの気持ちを敏感に察して気を良くしながら、完璧な人気者の“演技”を披露し続けた。
 しかし、ほんの数人だけ、彼の演技で踊らない人間がいた。

 一人は、利根川悠。
 準也は暫く知らなかったが、彼は優良企業の社長の息子だった。それしちゃああの恰好は、とも思ったけれど。
 彼は準也と同じように街で遊んでいるらしいし、こちらを睨むような目線を向けられたこともあった。もしかしたら正体を把握しているのかもしれない。そう考えて、準也は自らあまり近付かないようにしていた。

 一人は、麻生奈月。
 クラスの中で男子の人気者は準也、では女子は誰かと言えば間違いなく奈月だった。
 当然準也はすぐに声をかけた。彼女と仲良くなれば自分の評価ももっと上がると思ったし、付き合う相手としては顔も性格も悪くないなとも思った。
 最初から付き合えるもんだと考えている辺り、彼は矢張り入学以来のちやほやで、相当の天狗になっていたのだろう。
 しかし、実際話しかけてみると彼女の対応はとても素っ気なかった。準也はそれを照れているもんだと判断して、より積極的に話しかけ続けたのだが――ある日。

「いい加減にしなさいお坊ちゃん」

 特別教室の片づけを二人きりでやっていた時、ちょっとしたスキンシップ、と肩に手を触れて、返ってきた言葉がそれだった。
 準也は絶句し、硬直した。
 その間に、奈月は今まで付きまとわれたことに対する文句や説教を散々ぶちまけて、あっという間に教室を出て行ってしまった。
 こんな性格の女だったのか、と。準也が自慢の観察眼で読み違えた人間は、彼女が初めてだった。
 それ以来、逃げたと思われぬように声は掛けつつも、心中では一定の距離を置いていた。

 そして最後の一人。藤川忍。
 クラスメイトだった忍に対して、準也は特に何とも思っていなかった。気付いていなかったと言ってもいい。それほど、準也はクラスの中心にいて、忍はクラスの外にいた。
 しかしある日。奈月に手酷い扱いを受けた後。
 いつでも奈月の傍にいる男は一体何なのかと気になって、奈月がいないタイミングを見計らって、準也は初めて忍に話しかけた。

「なあお前」
「ん?」

 少し眼にかかるくらいの黒髪に中背の身体、遠くから見た印象通り特に目立つ部分のない男だった。彼の驕り高ぶった精神は、自然と彼を見下げ始める。
 より深く観察しようと、忍の眼を覗き込んで。

 ――墜ちて終いそうになった。

 準也の観察眼は非凡である。
 その優秀な観察眼は、扉を開けて、表層を潜って、暗がりを舞い踊って、大地を駆け抜けて、そして忍の深層を目指す。
 どこだ。
 どれだ。
 お前の本当の姿は――。
 そしてようやく大地の終わりを見つけて、準也はその先に忍の正体があると思って飛び込んで――しかし、大地はそこで唐突に終わっていた。
 大地の突端から臨む景色は、昏闇しかなかった。
 眼下を覗き込んだ準也は、その闇に魅入られて。
 そのまま、深淵に墜ちて終いそうに――

「うわあっ!」

 声を上げて後ずさる。
 ガタガタッと後ろの机に当たったことも、それでクラス中の眼を集めていることも気にせずに、準也はらしからぬ怯えた瞳を忍に向けた。
 それは、初めての経験だった。
 今まで準也の観察眼は、ありとあらゆる感情を捉えてきた。父に向けられた諦観、兄に向けられた嫌悪、男の嫉妬、女の求愛、悠の疑念、奈月の侮蔑。
 しかし忍は。
 準也が声を掛けた時。
 黙って眼を合わせた時。
 そして今、うるさく後ずさった時。
 どれにも薄く表情を動かしはしたけれど、その本質を映す眼は、如何なる感情も映してはいなかった。
 つまり、自分のことを何とも思っていないのだ。
 空っぽ。
 空虚。
 失われた伽藍。
 そんな人間を、準也は初めて見た。

「なに?」

 忍に話しかけられても、もう準也に語る言葉はなかった。
 ――アイツはとびきり変人だ。
 準也はそう言う風に結論付けて、すぐにその場を離れた。
 けれどもそれは、恐らく得体のしれないモノへの、根元的な恐怖だったのだろう。
 プライドの高い準也は、そんなことには気付かない。

      ■

「くそ……」

 火を点けた煙草を一本吸い切る頃になっても、準也の心は波立っていた。
 ――放課後あんなふざけた真似をしておいて、更にその日のうちにもう一度のうのうと姿を見せるなんて、ナメているとしか思えない。もしかしたらわざと姿を見せて挑発してきたのかもしれない。
 準也はそんな風に感じていた。
 加えて、どちらの時も準也から先に――まるで逃げ出すように――現場からいなくなっていたことが、より一層プライドを傷付けていた。
 チリチリと何かが準也を焦がしている。
 準也は、忍が自分を見下し、嗤っている幻覚を視る。
 ――あそこを離れたのは、アイツがくだらないことばかり言うからだ!
 準也は幻視する忍に心の中で叫んだが、勿論誰にも届く筈はなかった。
 準也は幻視する。
 中学卒業の日、「好きな所へ行け」と言った父親を幻視する。
 自分を無視して通り過ぎた過日の兄を幻視する。
 おまけを見るような眼を向けた父の知り合いを幻視する。
 公立への進学を告げた時の担任の顔を幻視する。
 嫌悪の籠もった奈月の顔を幻視する。疑念の籠もった悠の顔を幻視する。
 
 そのどれもが、
 自分を指差して嗤っているように見えた――

「くそがああっ!」

 煙草を地面に叩き付ける。まだ灯っていた火が大地で弾けて、赤い火花が、暗闇に場違いな程美しく散った。
 準也は思う。
 こんなもんじゃない。
 俺はこんなもんじゃない。
 あんな屑共とは違う。
 生まれた時から違う。
 誰よりも気高い。
 誰よりも賢しい。
 誰よりも――強い。
 あいつらにそれを解からせないと、気が済まない!
 準也は知っていた。
 自らの力を知らしめる為にはどうすればいいか。
 父の姿を、よく見てきたから知っていた。

 ――力を知らしめる為には、
  矢張り力が必要なのだ。

「力……チカラだ」

 モノローグは遂には言葉になり零れ出す。
 それはとてもとても小さな声。
 暗闇すら震えない粘ついた声。
 此処は誰もいない公園だ。
 その声は誰にも届かない――その筈だった。
 しかし、


「チカラが欲しいのカ?」


 返答はあった。

「なっ!?」

 周りに誰もいないと思っていた準也は驚き、そして恥を掻いた気がして辺りに怒声を投げかける。

「誰だこの野郎!」

 前後左右を見回すが、誰の姿も見えない。そもそも準也の周りはすぐ傍の外灯のお陰で明るかったが、夜に堕ちた公園全体は少ない外灯では照らし切れず、視界が著しく悪かった。隠れられたら見つけられない。
 準也はその闇を仇のように睨み付ける。

「何処だ。姿を見せろよ!」

 ぐるぐると回る視界。
 ぎらぎらと輝く両眼。
 誰も見つからない。
 しかし、そんな彼に再び声がかかり、

「こっちだヨ」

 その声は頭上から聞こえた。
 準也が見上げた、その先に。
 果たして、姿はあった。
 ――影。
 準也は最初そうとしか見えなかった。なぜならその人物は唯一光の届かない外灯の上に立っていたから。三日月を躯で隠してしまっていたことも、その理由に当たる。
 だがすぐに眼が慣れて、準也は、その異形を視認した。
 ――ソレは、外灯の上にしゃがみ込んでいた。
 顔半分を覆い隠すように分厚い前髪が垂れて、その髪は鉛のようなくすんだ色をしていた。覗く片方の顔は痩せ細り頬骨が浮き出ていて、眼はらんらんと輝き、唇は大きく裂けている。手脚も不自然に長いようで、しゃがんでいるソレはどう見ても四肢を持て余していた。
 躯は真っ黒。黒い塊のようにしか準也には見えなかったので服装は解からなかったけれど、ジャラジャラと全身に鎖が巻き付いているのは見えた。
 そして。そしてだ。
 どうしても眼を逸らせない事実。
 それを準也は見る。
 見たくなくても、視てしまう。
 ソレは、全長四メートルはありそうな、一対の黒い羽を背負っていた。

「う、うわああああっ!」

 悲鳴を上げて、尻餅をつく。準也は怯えた瞳でソレを見上げながら、懸命に後ずさる。

「オ? まあ待てヨ」

 ソレは外灯から飛び降りて、準也を跨ぐように着地した。

「ひっ!」

 準也は息を呑み、蛇に睨まれた蛙よろしく動けなくなってしまった。
 ソレはぐっと躯を前に倒すと、自分の貌をくっつくほどに準也の顔に近付けて、そして囁いた。

「ハナシくらい聞いていってくれヨ? 寂しいじゃないカ」

 そして、続ける。

「オレの名は悪魔ベリアル。“反基督(アンチキリスト)”。オマエがオレに協力してくれれバ、オレはオマエの望みを叶えることが出来ると思うゼ? 秩序を壊す形で」

 キシキシキシキシッ!
 ベリアル、と名乗ったソレは、鋼を擦り合わせたような耳障りな声で笑った。
 準也の視界にはベリアルの貌。そして三日月。そしてひらひらと舞う黒い羽根。
 準也は、震える唇で、震える声を紡いだ。

「オ、オマエは……何だ?」

 べリアルは口を大きく裂いて嗤って――

「オレは―――」

      ☨




[25528] 二日目 (4) 運命の彼女
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/01/23 14:05
      ☨

 運命が呼んでいる。

 駅前でいきなり篠原に罵倒されて、そしていなくなって、僕は考え込んだまま家路を辿っていた。
 まだ駅からそれほど離れていないけれど、人通りはぐっと減った。車はまだ走っているけれど、矢張りこの街はこんなもんだなと思う。店も次々ネオンを落としていた。
 そんな静かな街で、僕は考える。どうやら答えが見つかりそうにないことは解かっていたけれど、それでも、考え続けることが必要だと根拠もなく感じていた。いつか答えと、そして問いに出会えるような予感があったから。
 考えに没頭している僕の耳に、

「……いいじゃんか。ねえ」

 風に乗って、男の声が届いた。
 そちらを見ると、ビルとビルの間の路地裏で四人の人間がたむろしていた。姿は暗くてよく見えないけれど、

「遊ぼうよ。暇なんでしょ?」
「…………」

 あまりいい雰囲気ではなさそうだ。
 暫く注視していると、どうやら壁に寄り掛かる女の子を囲むように男三人が立ち、そして真ん中の男が女の子を再三に亘って誘っているようだった。女の子は囲まれていて姿は確認出来ないけれど、何も喋らない。怯えているのだろうか。
 何とかしなきゃ、と一歩踏み出して、思わず苦笑を漏らした。
 ――昼間と全く同じシチュエーションだ。もしかしたらこれが『偽善』ってやつなのかな、と思って。
 だとしたら、確かに僕は偽善者なのかもしれない。
 男たちまで後四メートル。
 その時、真ん中のサングラスの男が何も喋らない彼女に痺れを切らして、「ねえ!」と手を伸ばした。
 その手が肩に触れて。
 僕が一歩踏み出して。

 ――甲高い音が僕の耳朶を叩いた。

 僕も周りの男たちも、驚きを表情に浮かべる。
 肩に置かれた男の手を、女の子が打ち払ったのだ。それも男が顔をしかめてうずくまる程、強烈に。
 そして、呆ける僕たちを尻目に、彼女は壁から背を離して、堂々と胸を張って言い放った。

「下がれ下朗」

 綺麗な声だった。
 夜明のような。
 月夜のような。
 深遠の水面のような声。
 彼女を月明かりが照らし出す。
 そして、僕は彼女の姿を見た。

「貴様たちのような者がこの私に触れることは許さない。早々に立ち去れ。それなら今の無礼は見逃してやろう、下賤の者よ」

 彼女は街には場違いな空色のドレスを着ていた。胸の白薔薇のコサージュが暗闇の中で浮かび上がるように映える。とても繊細な金髪はさらさらと揺らぐ光のようだった。
 とても美しい人だ。
 そして僕は、気が付くと走っていた。
 ものの二秒で路地裏へ。

「うわっ」
「なんだ!?」
「キャッ!」

 一人目の男の肩を突き、うずくまる男を蹴り倒して、奥の男を右手で退ける。そして彼女の手をしっかりと掴んだ。長手袋に包まれた手は、すべすべで冷たかった。
 僕は彼女を連れて路地裏の奥へと走り出した。
 暗く細い路地裏を障害物を避けながら走る。
 もうすぐ抜ける、と言うところで後ろから「な、なんなの!?」「待てこらあ!」と、二つの声が聞こえた。僕はそのどちらにも答えずに、彼女を先へと誘ってから路地裏に積んであった段ボールの山を思いっ切り突いて崩す。狭い通路を覆うように崩れたそれは、男たちを少しくらいは足止めしてくれるだろう。
 大通りへ出て、僕はまた走り出す。
 右に行こうか左に行こうか悩んで、僕は結局右へと走り出した。左は僕の家の方向だが、人通りも少なく、それに家まで付いて来られたら面倒なことになる。再び駅前へと戻る道を駆け出した。

「ちょっと!」

 このまま駅前まで行って人の波に紛れ込めば逃げ切れるだろう。それとも今すぐまた横道に逸れた方が良いだろうか? それはそれで彼らは見失う気がするけれど、矢張り人の多い所に行こうと思った。周りに人がいる状況では、たとえ追い付かれたとしても揉め事は起こしにくいだろう。
 よし、じゃあこのまま――

「だから、ちょっと!」

 行こうとしたところで左手を強く引っ張られて、僕はがくんと動きを止めた。振り返ると、左手の先の彼女が両手で懸命に僕の手を掴んで引き止めていた。
 僕は少し荒れた息を整えながら問う。

「なに? 急がないとあいつら追って来ちゃうよ」
「そうじゃなくて! なんなのよ貴方」

 彼女はそう言って僕の手を振り払うと、腰に手を当てて怒った表情と素振りを見せた。
 初めて彼女と向き合った。彼女は僕と同じくらいの身長でとてもスタイルが良く、そしてむっとした顔でもやっぱり息を呑む程綺麗だった。ドレスは見たこともない鮮やかな空色をしていた。初めて見る色だ。群青と純白が混じり合って、時々ゆらゆらと揺らいで、風に流れているように見えた。
 僕は首を傾げた。

「なにって……どういうこと?」
「だから、貴方は何者でいきなりどういうつもりってこと!」

 言われて考える。そう言えば、已むを得なかったとは言え何も告げずに乱暴に連れ去ったのだから、彼女は僕も警戒して然るべきだった。

「ええと、僕は藤川忍。怪しい者じゃありません。君がさっきの男たちと何かトラブルみたいだったから一応助けようと思ってるんだけど」
「……ああ!」

 彼女は少し考えた後、納得したように手を打った。

「そっかそっか、助けてくれたんだ。ありがとうね、シノブ」

 彼女は笑顔で僕の手を握り締めて、上に下にぶんぶん振って感謝の言葉を述べた。僕は彼女のくるくる変わる表情に何だか圧倒されっ放しだ。

「わたしはミカエル。よろしくね」

 それを聞いて思ったことは二つ。いい名前だなってことと、外見で解かっていたけれど外国人ってのがこれではっきりした、ってことだった。どちらもどうでもいい。

「それにしても……凄い格好してるね」
「そうかな?」

 彼女はスカートの裾を摘まみながらくるりと回る。空色のドレスの裾がふわりと膨らんで、本当に青空のように見えた。こんなドレスで街中を歩いていたらそれは目立つだろう。しかも金髪で、そして美人だ。絡まれるのも無理はない。……さっきから綺麗だの美人だの、心の中でとはいえ言い過ぎて恥ずかしくなってきた。
 場を濁すために質問する。

「ミカエルさんはこんな所で何をしてるの?」
「さんなんていらないよ。わたしはね――」
「待てやこらあっ!」

 怒声に僕とミカエルは振り返る。あの三人組がこっちへ走って来ているのが見えた。サングラスの一人が他の二人に比べて足が速いらしく、突出している。
 僕はミカエルを背にして、身構えた。
 後三歩。
 かなりのスピードだ。接近してきても減速は軽微である。
 後二歩。
 両腕を伸ばしてきた。勢いそのままで掴みかかって来る気か。男に武道の心得はなさそうだ。順当な選択だろう。
 後一歩。
 袖を取って、袖釣り込み腰……いや、却下。背中にミカエルがいる。同様の理由でスピードを利用するような投げ技は全部NGだ。
 後零歩――。
 両手が目前まで迫る。そのタイミングで男が最後に踏み出した、否、踏み出すべきだった足を、足払いで刈り取った。放課後にやったことと同じだ。争わず、怪我も負わさずに無力化するにはこれ以上ない技術だ。ついでに言うと実は僕のお気に入りでもある。
 悲鳴を上げて、男は背中から地面にぶっ倒れる。その際頭だけは打たないように後頭部は手で支えてフォローしておいた。これで怪我の心配はない。

「行くよっ」
「へ? きゃあっ!」

 ミカエルの手を握って、もう一度走り出す。走りながら後ろを振り返ると、倒れた男が手を借りながら苦しそうに起き上がるところだった。まだ追い掛けて来るだろうか。
 それにしても、

「意外と根性のある不良だね」

 少し和ませようと、息を切らしながら話しかける。
 けれど、ミカエルから返答はなかった。
 疑問を感じて、僕は繋いだ手の先を振り返る。

 ――そして僕は、眼が離せなくなってしまった。

 彼女はじっと僕を見つめていた。
 喜んでいるわけでも、怒っているわけでも、哀しんでいるわけでも、楽しんでいるわけでもない。
 ただ、まるで仮面のような表情で。
 じっと僕を見つめていた。
 そして何だかそれが、少しだけ怖かったのだ。
 理性に反して感情が、その手を離そうとするほどに。

「ねえ」

 彼女が口を開く。

「どうして逃げるの?」
「え」
「貴方、もしかして格闘技とか武術とか習ってるんじゃない?」

 確かにその通り。僕は小さく頷く。
 この頃には、もう走っているとは言えない程度のスピードになっていた。

「だったら戦えばいい。倒しちゃえばいい。戦って倒して、彼らを乗り越えてこの場を去ればいいわ。貴方は彼らより強いんでしょう?」

 それは静かな恫喝に聞こえた。
 彼女は決して強い口調で言っている訳ではない。けれど、その言葉には託宣のような導きの力を感じた。まるで感情が籠もっておらず、問題文を読み上げているかのような冷徹さ。
 僕は息を呑み、そして遂には立ち止まる。
 辺りはシャッターの閉まった店の建ち並ぶ道で、この地域のこの時間としては良くあることなのだが、今は不気味と感じるほどに人通りはなかった。
 彼女に正対するには、何故か勇気が必要だった。
 彼女の突然の変貌に、思考は若干混乱していた。
 けれど――、

「どうしたの? ようやくやる気になった?」
「いいや」

 間髪入れずに否定の言葉を重ねる。
 質問への答えだけは、僕の中でクリアーだった。

「やらないよ。僕は、そんなこと、やらない」
「どうして?」
「戦って、良いことなんて本当は一つも無いんだよ」

 僕は『解かったようなこと』を言う。
 まるで世界の全てを知っているような、『解かったようなこと』を、平気で言う。
 だけど、たとえこれが理想でも妄想でも偽善でも、甘ったれの若輩者の夢物語でも、確乎たる僕の信念であることだけは強固で無垢で、確かだった。
 信念は、誰にもケチ付けさせない。

「僕の求めてきた力は、『誰かを護る為の力』だよ。『相手を倒す為の力』じゃない。だから僕はそんなことをしないんだ」
「それは単なる戯言遊び。どんな修飾布を付けたって、結局はどちらも同じ、破壊し撥ね付けることしか出来ない力でしょう?」
「違うよ。力を持っている者の、心が違う。心が違えば、それは違う力だ」

 握り合う手にぐっと力が籠もる。

「戦いは悲劇を生む。悲劇は感情を傷付ける代物だから、力では護れない。だったら、悲劇を生まないようにするのが僕に出来る最善の護り方だと思うんだ」
「じゃあ、相手が自分や大切な人を傷付けようとしていたら、貴方はどうするの?」

 それが一番難しい質問。
 僕が抱えるパラドックス。
 解かったようなつもりでも、解からない未来。
 だから。

「それはまだ解からない」

 けれど。

「誇れる自分で在りたいと思う」

 僕はそう、正直に応えた。
 ミカエルの瞳を見つめ返す。
 彼女は無表情で僕を見定める。
 その青い瞳が僕を射抜いて、

「あはははははっ!」

 大笑いした。
 …………。
 ――え?





[25528] 二日目 (5) 誓約
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/01/24 13:31

「え?」

 彼女の雰囲気が急に変わる。
 戸惑う僕を尻目に、ミカエルは満面の笑みで僕の肩をばんばんと叩く。痛い、んだけど混乱していてそれもあまり感じない。

「あはははは! 貴方良い。良いわシノブ。すっごく良い」
「ま、待って。痛いイタイよ。何なのさ?」
「――好きよ」

 …………え!?
 な、何を突然。

「シノブのその考え方好き。わたし、とっても気に入ったわ」
「あ、ああ。そう」

 僕はドキドキした胸を押さえる。こんな綺麗な人にいきなり「好き」だなんて言われたら、びっくりするじゃないか。

「好きだけど……けれど、戦わないといけない時ってあるわ」
「うん。あるだろうね」

 例えば小学校の頃、僕はいじめと戦わなければならなかったのだろう。奈月に任せることなく、自ら拳を握って。

「わたしにとっては、今がそうなの」

 そう言ってミカエルは、僕に手を差し出す。

「協力してくれないかしら?」
「え?」
「わたしはこれから戦わないといけない。避けられない、大きな戦いがあるの。ただそれには協力者が必要で、そこで貴方に協力してもらいたい」
「戦いって? それに、協力者って……」
「ごめん、詳しく話している時間はないみたい」

 ミカエルの目線を辿って振り返る。
 まだまだずっと遠いけれど、あの三人が走って来るのが見えた。本当に根気のある不良だ。どうしよう、ちょっと好感持ってきちゃった。

「協力してくれれば、さしあたりあの三人からはすぐ逃がしてあげられるわ」
 
 言われて、少しだけ考える。
 ゆっくりとは言え随分戻った。もうちょっと行けば人通りも出てくるだろう。そうすれば彼女によく解からない協力するまでもなく逃げられるが――いや、そうだな。
 そう、考えるまでもないことだった。

「解かった。協力するよ」

 ミカエルの手を取った。
 思考が決着したのは、つまりこう言うこと。
 僕は――『こまっている人がいたらたすける』のだから。
 手を取られたミカエルは眼を丸くする。

「えっ!? いいの?」
「なんだよ驚いて。言ってきたのはそっちからでしょ」
「そうなんだけど……こんなにあっさり了解してもらえるとは思ってなかったから」

 ミカエルは少し照れたように笑う。さっきまでの綺麗だったイメージとはまた違って、とても可愛らしく見えた。

「じゃあ、はいこれ」

 ミカエルはドレスのポケットから何かを取り出して、僕に差し出した。
 それは、指輪だった。
 無色透明の宝石、おそらくダイヤモンドの填った銀色の指輪。宝石に詳しくなんてないので本当のところは解からないけれど、本物だとしたら絶対に高価なものだな、と思った。

「着けて」
「こんな高そうな物いいの?」
「ええ」

 ミカエルの手から指輪を摘み上げる。宝石には素手で触ってはいけないと何となく聞いたことがあるような気がしたので、触れないように遠慮がちに持った。
 左手の薬指、とミカエルに指示されてその通りに填める。不思議とサイズは合っていてすんなり嵌まった。
 月明かりに掲げる。ダイヤモンドは内部で光を反響させて、月明かりよりも清廉な光を抱えた。とても美しい、見惚れるような輝きだった。男の僕でもいつまでも眺めていたくなるような、そんな気持ちになる。

「ほら、ぼうっとしている暇はないわよ」

 ミカエルに窘められて、僕は名残惜しみながら手を下げる。
 そこで聞こえてきた怒声。
 後ろを振り返ると、肩で息をしている不良たちが膝に手を付いて休みながら、それでもこちらを睨んでいた。いや、ホント頭が下がります。

「どうしよう。あと少しなのに」

 ミカエルが困り顔をする。周りを見るけれど矢張り僕たち以外の人影は見えない。狭神の夜はこんなものだ。

「しかたないね。僕に任せて」

 僕はミカエルに一つ頷いて、彼らの元に向かう。
 金髪の男は息を切らせながらも虚勢を張った。

「はあ、なんだこの野郎……! はあ、はあ。やる気か!?」
「やる気はないよ。だから少しだけそこで待ってて」

 手のひらをぐっと相手に突き出す。相手はぽかんと僕を見ていた。
 よし。僕はミカエルの元に戻る。
 なぜかミカエルもぽかんとしていた。

「はい、時間取れたよ」
「…………今のでいいの?」

 どう言う意味だろう?
 色々と納得いっていない様子だったけれど、彼らが言葉通り仕掛けて来ないことを見て、再三首を傾げながら言葉を続けた。

「それじゃあ今から言うわたしの言葉を複唱して。ちなみにシノブ、英語は話せる?」
「アイキャントスピーク」
「コラ、ふざけない。じゃあ日本語で」

 ミカエルは眼を瞑り、胸に押し当てるようにして両手を重ねる。大きく深呼吸をして夜空を仰ぐ。
 細くて真っ白な首筋が顕わになり、僕の眼に留まった。皺一つ無い滑らかな首はまるで陶磁器のようで、真夜中に輝いて見えた。大きく浮き出た鎖骨も、ドレスをなだらかに持ち上げる胸も、空色に揺れるドレスも、全てが神秘的な程に美しい。改めて、僕は息を呑む。
 ミカエルが眼を戻した時に眼が合って、僕は慌てて俯いた。

「始めるわ」

 指輪を填めた左手を取られて、身を固くする。
 気付くと彼女は繋いだ右手だけ長手袋を外していた。
 彼女の冷気が、僕の熱を奪っていく。
 僕の熱が、彼女の冷気を解いていく。
 頬の火照りだけが熱い。
 彼女の唇が紡ぎ出す旋律を、僕は盲目で複唱した。




 大天使ミカエルの名に於いて神に盟約す

 我フジカワシノブは 大天使ミカエルと誓約を結ぶ
 我は器
 強靭なる憑代として 彼の者の叡智を顕現す
 彼は剣
 いと高き天眷として 我と世界の生を守護す
 
 深遠の水面に映る神の御霊よ
 許諾の意志を金色の光と示せ




 唄うような、謳うような。
 奇異なる響きの言の葉だった。
 上空から吊り上げられているかのような浮遊感を躯に感じる。
 ただそれ以上に異常だったのは、僕の唱える言葉が最後に近付くにつれて、左手の宝石が眩く輝き始めたことだった。
 最初は仄かに。
 遂には劇的に。
 辺り一面を黄金の色に染め上げる。
 まるで、優しい太陽のようだった。

「ミカエル! これは何?」
「成約の光よ。貴方がわたしの契約者となった証」

 一つも意味が解からない。
 そんな説明では解からないよ、と言おうとしたが、ミカエルに「今から大事な話をするわ」と先手を取られて言葉を呑みこむ。
 宝玉は輝き続けている。

「今からわたしは一時的に姿を消すわ。聞かないで。今は説明している時間はないみたいだから。そうしたら、貴方にはこう言って欲しいの。『―――』。そうすれば、あの三人から争わずに逃げることが出来るわ」

 僕はミカエルの言葉に耳を傾ける。
 その途中、そう言えばいくらなんでも不良の皆さんが静か過ぎるな、と思って視線を向けると、彼らはお互い顔を見合せて困惑と異怖の表情を浮かべていた。「なんだよあれ」との声が聞こえる。
 この黄金の光に怯え驚いているのだろう。
 気持ちは解かる。
 僕だってそうだ。
 彼らと同じで心を震わせている。
 違うのは、左手の温度だけ。

「準備はいい?」
「ああ」

 その手が離される。
 けれど、もう冷たさは僕の手の熱と混じり合って宿っていた。

「貴方に神の加護があらんことを」

 ミカエルはそう言って――消失した。
 最後に微笑みを残して、僕の眼の前から、溶けるように。
 黄金の光も、一息の間に収束して消えた。
 右を左を。
 確認する。
 けれど眼に映るのは夜の街ばかりで、本当に、何処にも姿は見えなかった。
 一瞬、夢なのかもしれないと思った。彼女に出逢ってから今までのことが全て夢で、僕はずっとこの道端で、自失して呆けていたのではないか、と。
 僕は左手を夜空に掲げる。
 月明かりが目映い。
 ――ああ、そうだ。
 この左手が、全てを証明しているじゃないか。
 高貴なる宝石が。
 残留する冷気が。
 確かに、彼女の存在を。
 僕は落ち着きを取り戻したけれど、不良たちは理解の範疇を超えた事態の連続に、いい加減に限界を迎えたようだった。
 彼らは「なんなんだよ!」と叫びながらこちらに走って来る。
 僕は動かない。
 構えたりもしない。
 内なる声の響きに沿って。
 ミカエルの言葉を信じて。
 左手を握り、そして一言。


「ミカエル」


 気が付いたら空だった。

「え?」

 躯に感じる浮遊感と風。
 夜空に包まれた全視界。
 眼の前にあった筈の不良たちとシャッター街と地面は遥か眼下に遠のき、更にそれらは急速に離れて行っている。
 不良たちの眼を丸くした表情が見える。
 きっと、僕も同じような表情をしているだろう。
 止まらない。
 止まらない。
 僕は、空へ、浮き上がり続けている。
 それをたっぷりと時間を掛けて認識して、そして中空で叫んだ。

「……うわああああああああぁぁぁっっ! 死ぬーっ!」

 僕の叫びは、空に溶けた。






[25528] 二日目 (6) 夜空の純白
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/01/26 00:02

「うわーっ! 落ちるーっ! 止まれーっ! 待ったでも落ちるなーっ! ……はあ、はあはあ」

 浮かび上がって行く自分を止められず、恐怖と混乱の極みで叫び続けていた僕だったけれど、いい加減疲れて息切れとともに脱力した。
 もう何さ。意味解かんない。僕高い所とか割とダメだから。降ろして。お願いだ神様。地上大好き。
 暫くすると上昇は止まったようで、僕は同じ高さを仰向けでフワフワと漂っていた。横を見ると電波塔が見える。あの電波塔はこの街で一番高い。
 ……下は見えないけれど、その事実だけで恐怖を通り過ぎて何だかもうガックリした。

「あー……どうなってんだろ。どうしよっかな」

 空には三日月が輝いている。
 当たり前の話だけど、地上より空に近くて地上より光の少ないこの場所からは、たくさんの星が瞬いて見えた。
 暗い夜空に散らばった宝石の美しさに、僕は一瞬だけ自己の危機を忘れて陶酔した。

『おちついた?』

 耳元で突然声が聞こえた。
 その声はついさっき聞いた覚えのある声で。

「ミカエル!?」
『わ、わ、あわてないあわてない』
「うわわっ」

 慌てて動いたせいで体勢を崩しかけて、わたわたと安定を取り戻す。
 再び仰向けに落ち着いたところで、またミカエルの声が聞こえた。

『もう、危ないじゃない』
「ミカエル、どこにいるんだ?」

 周りをきょろきょろと見回すが、当然誰の姿も無い。けれど、彼女の声はすぐそばから響いている。

『ここよ、ここ』

 そう言った時、僕の左手の薬指の指輪が、ぱあっと黄金色の光を灯した。更に光は緩やかに明滅を繰り返す。暗い夜空に、まるで星のように。

「え……?」

 まさかそんな。
 左手を眼の前に持って来て、まじまじと見つめる。
 そんな僕の行為を肯定するかのように、宝石はより一層煌びやかに光を放って輝いた。
 眼が眩むほどの光量に、左手を顔から離して眼を瞑る。
 そして再び開けた時、光はすっかり消え去っていて、夜は夜のままの姿でいた。
 僕が呆然としている中、ミカエルの声は再び響く。

『そう正解。わたしはその“誓約の宝玉”の中よ』
「“誓約”……?」

 聞き慣れない言葉。
 けれど、ミカエルの明るい口調からでも歴然とした重みを感じる、そんな言葉だった。
 だけどそんなことの前に、僕には聞かなければならないことがあった。

「それは良いんだけど、ミカエル! 何で僕は飛んでるの? これは君のせい? だったら今すぐ降ろして欲しいんだけど! 怖い!」

 いつまでもこんな空中をなすがまま浮かび続けるなんて真っ平だ。空を飛ぶのは人間の夢だ、なんて言うけれど、それはあくまでも飛んでいることの根拠とある程度は落下しない安心があっての話だと今気が付いた。

『そ、それは、うーん、まあわたしのせいかと言われればその通りなんだけど……』

 ミカエルははっきりしない答えを返す。
 ただ僕は必死だったので、だったら早く降ろしてくれ、と左手の薬指に向かって体勢を崩さない程度に暴れ騒ぎ倒した。
 ――思えば僕も混乱していて必死だったのだろう。
 いくら彼女が不思議な存在感を持っていても、人体消失を見せられても、発光する宝石を渡されても、挙句空を飛んでも。
 それを彼女のせいなのか、と考えていること自体が馬鹿げた話だった。
 常識も根拠もロジックも、何処かで死んでしまっている。
 けれど。

『シノブ。ちょっと振り返ってみてよ』

 この時ばかりはその直感が大正解だったようで。
 僕は言われるがまま首だけで後ろを振り返った。

「…………?」

 最初、予想と違う光景が見えて思考が停止した。
 暗い夜と、その夜に沈んだ街が見えると思って振り返った僕の視界には、それとは真逆の、真っ白な、とびきり真っ白なナニカがいっぱいに映った。
 進化の過程で手に入れた優秀な双眼は、即座にそれにピントを合わせて認識する。
 羽根。
 羽。
 白い羽。
 それは、羽だった。
 幅広の鳥の羽とは違う、細くて長い長大な羽。
 羽の先は僕が精いっぱい手を伸ばしても遥か届かない程の距離にあり、恐らく目算で二メートルはありそうだった。
 そんな羽が、片側に三翼。合わせて計六翼。
 僕の躯を支えるかのように、ゆっくりと空を漕いでいた。

「…………」

 それらを認識した上で、僕は再びの思考停止状態に入る。
 羽根?
 羽?
 白い羽?
 とても綺麗な羽根。汚れ一つない純白。見惚れてしまう程……いやいや、そう言う問題じゃない。羽根? 羽? いや、なら何が問題だ? ミカエルの声が聞こえる。『あ、あははは』。笑っている。ああ、なんて綺麗な羽根。触わったら、きっと気持ちが良いだろう。
 僕は無意識に羽に手を伸ばす。
 手から伝わるのは高級な絹のような滑らかな手触り。すごい。サラサラだ。
 腕を伸ばして羽を伝うように撫でて行き、そして、腕を捩じってその根元の方へ。
 上質な手触りが、突然安物の荒い生地に変わった。
 触り慣れた感触に、脳はすぐに答えを導き出した。
 ブレザーだ。
 羽を撫でていたその手が、ブレザーに触れたのだ。
 あれ? コートは?

「…………」

 そして僕は、現実思考へと帰還を果たす。
 背中へと続く羽の感触。
 伝って行った、その先のブレザー。
 コートは捲くれ上がっているようだ。
 そして、いつの間にかブレザーに空いているらしい破けた穴の感触と、その中に消えて行く絹の手触り。
 おおい。
 嘘だろ。
 マジかって。
 僕は首元から、背中に手を突っ込む。
 冷たい手が背筋に触れて鳥肌が立つけれどそれどころじゃない。指先で伝って撫でて行った先、僕の手は背中に癒着している絹の手触りにぶつかって止まった。
 ほお、どうやらこの羽は、僕の背中から生えているようだ。
 うんうん。
 なるほど。
 よおし。
 息を一杯に吸い込んで。

「……ぅうわああああぁぁっ! なんじゃこりゃーっ!?」

 二度目の叫び声も、結局夜に溶けた。





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