2010年11月27日 2時30分
極東軍事裁判(東京裁判)で罪に問われた戦犯の釈放に関し、1957年に在日米兵が農民を射殺したジラード事件の影響で、米側が釈放を遅らせる意向を示していたことが、外務省が26日に公表した外交文書で明らかになった。戦犯の釈放は米側が国内世論を見極めながら進められ、米兵が国外で裁かれることで米国の対日世論に悪影響を与えたジラード事件によって、釈放時期が左右されたことが判明した。【野口武則】
ジラード事件は57年12月に執行猶予付きの有罪が確定。その後の58年4月、仮出所中だったA級戦犯10人全員が減刑され釈放された。同年末に連合国のうちで最後まで残った米国に裁かれたB、C級戦犯も全員釈放された。
当時の朝海浩一郎駐米大使が57年9月20日発で岸信介首相にあてた公電で、米政府関係者から聞いた米政府内の考えを伝えた。
公電によると、米側は岸氏と会談する中で、自らもA級戦犯容疑者だった岸氏がA級戦犯10人全員の釈放を望むことを初めて認識。米側は木戸幸一元内相、賀屋興宣元蔵相ら非軍人3人の釈放は「異存がない」とした。しかし荒木貞夫元陸相ら残りの7人は「軍事司令官であり、米国一般民衆はこれらの人は戦時中虐殺を命令した責任者であると考えている」と否定的な見解を示し、「ジラード裁判の途中において釈放することは困難」とした。
さらに米側は「ジラード裁判に対する米側世論はなかなか平静にならず」と懸念を示した。その上でジラード事件の裁判中に米国がC級戦犯を釈放すれば、「日本側の中には米側がジラードの罪の軽減を狙って(戦犯を)釈放したというように取る者も出て来よう」として、日米で裏取引したとみられることを懸念した。
東京裁判の戦犯問題に詳しい内海愛子・恵泉女学園大名誉教授は「米国関係の戦犯釈放が他の連合国に比べてなぜ遅れたか、理由を裏付ける資料がなかった。ジラード事件と米国内世論が理由だと推測される初めての資料だ」と話している。
1957年1月30日、群馬県相馬ケ原米軍演習地で、薬きょうを拾っていた坂井なかさん(当時46歳)が米軍のジラード3等特技兵(同21歳)に撃たれ死亡した。裁判権が日米のどちらにあるか焦点となり、約3カ月にわたり協議し日米関係が緊張した。日本側は、発砲は「いたずら」行為であり公務外のため、裁判権は日本側にあると主張。米軍側が裁判権を放棄した。前橋地裁が懲役3年、執行猶予4年の判決。同年12月、控訴せず判決が確定した。