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■推定無罪の原則
疑わしきは罰せず(または、被告人の利益に)――検察官が罪をおかした事実を疑いが残らないほどに証明しない限り、裁判所は被告人を有罪にしてはならないという法諺(ほうげん)だ。その起原はローマ法にさかのぼるとされているが、刑事訴訟にこの原則が適用されるようになったのは近代に入ってからで、人権概念が成熟している国の証でもある。
08年5月、京都府・舞鶴市で、夜道を歩く女子高校生が殺害された事件(舞鶴女子高生殺害事件)の第1回公判が、昨年12月21日に開かれたが、まさに前述の原則が問われる裁判となった。
女子高校生に対する殺人・強制わいせつ致死の両罪で起訴されているのが、中勝美被告(62歳)。裁判は、約1年5カ月、計24回におよんだ公判前整理手続きを経て、ようやく開かれた。
この事件は、いわゆる現場の目撃証言や凶器といった直接証拠が発見されず、中被告の起訴は、いわゆる状況証拠の積み上げによるものだった。
■隣にいた男
08年のこの年、中国・四川省の大地震や東京・江東区でOLのミンチ殺人が話題になった頃である。
舞鶴市に住む高校一年生・小杉美穂さん(当時15歳)は、5月6日夜午後10時過ぎ、母親に就寝を確認されたあと、7日午前2時ころには、自宅からいなくなっていた。美穂さんはそのまま翌朝になっても帰宅せず、心配した母親が警察に捜索願を提出した。捜索の結果、5月8日午前8時45分頃、自宅から約2キロ離れた雑木林のなかで遺体で発見された。衣服は身につけておらず、顔に鈍器のようなものでなぐられた痕があり、ほかにわき腹と背中に傷を負っていた。死亡時刻は5月7日未明と推定された。
警察の捜査で、7日午前0時から1時のあいだに、美穂さんは親族や友人たちに携帯でメールをしたり話をしていることがわかった。そのうちの一人には、「薬局前を散歩している」と話していたという。その後、美穂さんが自宅から殺害現場へと向かう足取りが徐々に明らかになったが、なぜ一人で、真夜中に暗い夜道を散歩する必要があったのか、また、そのとき誰かと一緒だったのか、という核心部分は、いまだに謎のままだ。警察は交友関係を当たったが、犯人像にたどりつくことはできなかった。さらに美穂さんは、日付が変わる前の11時57分に、ガソリンスタンド近くにある工事現場の点滅灯を携帯で撮影し、自身のブログに「イエイ!発見!」と書き込んでいたが、その理由もわかっていない。
唯一ともいえる手がかりは、7日未明の暗い夜道を歩く美穂さんを捉えた3台の防犯カメラだ。また、美穂さんとみられる若い女性の隣には、黒い服を着て自転車を押す男が映っていた。二人は遺体発見現場の方向に向かって府道を歩いていたことは間違いないが、映像は不鮮明で、その男が誰なのかが事件解釈のキーになった。
事件が起きてしばらく経った夏、警察は現場近くに住む中勝美氏(事件当時59歳)を容疑者として特定した。中氏は5月6日夜から7日未明に市内の飲食店を自転車で訪れていて、帰りの道のりと美穂さん足どりと時間帯が重なっている可能性が高かった。さらに防犯カメラに映った「自転車の男」と同一人物と見て「矛盾しない」という鑑定結果も出た。そのうえ、事件当日、中氏は黒い服を着ていたことも判明した。(中氏が犯人だという)決定的な証拠ではないが、状況証拠では"真っ黒"というわけである。
■防犯カメラと犯人しか知り得ない秘密の暴露
09年4月7日、殺害現場の目撃証言や犯行で使われた凶器などの物証を欠いたまま、中氏は殺人と死体遺棄容疑で逮捕され、4月29日に殺人罪と強制わいせつ致死罪で起訴された。
裁判員制度がはじまる(5月21日)直前の起訴だったため、この事件は裁判員裁判ではなく、職業裁判官のみで裁かれることになった。2010年12月21日、京都地裁で開かれた初公判(笹野明義裁判長)では、案の定、状況証拠を積み上げてきた検察側と、無罪を主張する弁護側の真っ向対立となった。
検察側の主張のポイントは以下のようなものだった。
・事件当日に小杉美穂さんと中勝美被告に酷似する男が歩いているのを目撃したトラック運転手がいる
・3カ所の防犯カメラに映っている男性の映像が中被告である可能性が極めて高いという鑑定結果を得た
・中被告は、起訴される前後に「別の男が被害者のものと思われるものを川に投げ捨てたのを目撃した」と供述したが、投げ捨てられた財布や化粧ポーチの色などを正確に述べた。これは犯人しか知り得ない秘密の暴露である
・5月6日から7日にかけてのアリバイ証言が変遷している
いっぽう、弁護側は、こう反論した。
・防犯カメラの映像が鮮明ではない
・中さんと小杉美穂さんが二人で歩いていたというトラック運転手の証言は、夜間のことであり、視認しにくいはず
・他にも目撃者が4人いたはずで、その人たちの取り調べも必要
・供述調書は誘導によって書かれたのではないか
・中さんは事件に一切関係ない
公判の途中、中被告は突然、別人の女性(実名)を挙げて真犯人だと主張し、裁判長から注意されるというハプニングがあった。このほか、中被告が普段から持ち歩いていたとされるバールが事件直後に見当たらなくなったり、所有している自転車の色が事件直後に塗り替えられていたりと、被告に、疑念をもたれる行動があったのは事実で、もしこの裁判が裁判員裁判でおこなわれていたら、「疑わしきは被告人の利益に」の原則にのっとって無罪とされるかは疑問だ。
ちなみに、10年12月、長崎地裁でおこなわれた高齢夫婦殺しの裁判員裁判の判決では、状況証拠を積み上げて死刑を求刑した検察側と、冤罪を主張する弁護側という、無罪か死刑か――オールオアナッシングの判断が問われ、結果は無罪となった。
いっぽう、11月には、歌舞伎町の経営者ら2人が殺された事件の裁判(横浜地裁)で、裁判員裁判初の死刑判決が下されたが、閉廷する前に、朝山芳史裁判長は「重大な結論ですから、裁判所としては、被告に控訴することを勧めます」と異例の発言をした。この発言に対して、死刑判決を下すことになった裁判員は、精神的重圧から少しは解き放たれることになるかも知れないが、いっぽうで、一審の判決はプロの裁判官として自信がないから控訴してほしい、ということになりかねない、との批判が出てきた。
歌舞伎町のケースは、事実認定を争っておらず、死刑か死刑回避かの選択だったが、裁判のプロたちによる舞鶴事件の裁判は、今後も想定されるであろう凶悪事件の裁判員裁判に、はっきりした指針を与えてくれると信じたい。第二回公判は1月27日、判決は3月26日の予定だ。
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96年以前の論文については随時追加していきます。ご了承ください。
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