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(cache) 掃溜ノオト

2011/1/24

ご迷惑おかけしました。  フラクタル

S水P、I田Pに相談したところ「てめぇふざけんなよ業界なめてんのかよ降りるなら家族ごと殺すぞカス(一部意訳)」ときつくお叱りを受けましたので(笑)、作品本編の引退は当面なくなりました。
しかしこの騒動で皆様にご心配とご迷惑をおかけしましたので、その責任も併せてこのブログは予定通り閉鎖したいと思います。
ご理解の程宜しくお願い致します。



2011/1/19

答えのない質問  雑感

大学時代の授業か、その頃読んだ本かは忘れたが、
ニーチェなりハイデガーなり、所謂「モダニズム以降」の哲学者は、過去の哲学者の批判をしている内はえらくキレ味抜群なのだが、じゃあそれに成り代わる新しい思想を語り始めたとなるや途端に歯切れ悪く芯のないものになる、という言説があって。
それが妙に合点がいった記憶がある(I教授かなぁ?)。

「ポストモダン」がちっとも終わらないこの100年、状況はまったく変わっていないのだろう。

2011/1/11

(旧)妄想ノオト 回顧録  批評

久し振りにふとこれを思い出したのでふと再録。
(某批評サイトにも実は掲載しています)


『リリイ・シュシュのすべて』(2001/日)

 美しい。

 貧困な語彙を何度も搾り出しても、この言葉しか浮かんで来ない。暴力的なまでの美しさ。いや、これこそ、総ての「思春期」が持つ「陵辱され続ける事の美しさ」。

 同じ「中学生」というテーマでこの作品は塩田の「害虫」と並置する事も出来よう。まるでネガとポジ。勿論、宙ぶらりんの天才・塩田明彦と映画の娼婦・宮崎あおいが組んだ「害虫」こそネガであり、この「リリイ」がポジである。「害虫」は闇という胎盤に宮崎の肉体と血の匂いを染み込ませる。「リリイ」では、光が射精時の噴き零れる体液のようなハレーションで一片たりとも世界にその身を晒すまいと恐怖に打ち震えるシルエットに狂ったように襲いかかる。情け容赦ない光の陵辱を受ける少年、少女達。ストーリーを追うまでもなく、これは何人もの中学生達が男女問わず光にレイプされ続けている、その記録に過ぎない。

 手持ちカメラから伝わる欲情のたぎり、震えと共に、光という名の異臭を放つ精液を、「映像」だとか「同時代的」だとかいう逃げ場から飛び出して、岩井は遂に映画に浴びせ掛けた。

 他の氏の評で、「これまで作られてきた数々の作品が全て”ゴミ箱”に捨てられてしまうような感覚」 とあるが、しかし、仮に映画が100数年前「映画」となってしまったが為に「映画」で「あり得なく」なってしまったというのなら、それを「ゴミ箱」に捨てる事は当然の帰結。つまり、遅過ぎたのだ。

 この映画の中で唯一、光の犯罪から逃れられたもの、それが「文字」。 知覚の七割を占める筈の視覚が最早おとぎばなしと化し、インターネットやデータベース上の「文字」のみが≪「リアル」≫。そう論ずる事で岩井の「同時代性」を指摘するのはまた、実に易しい。 しかしこの「リリイ」が結局、視覚そのものの生々しく痛々しいオーガスムスに痺れている様を誰もが感じ得るのならば、これは正に東浩紀の論じる「見えるもの-見えざるもの」の二元論からの解放であり、現実とサイバースペースに「染み渡る」自我を生々しく捉えようという試みである筈だ。映画からの解放。それは「視覚」そのものからの解放。何もサイバースペースに逃げ込む事ではない。「染み渡る」自我が世界の隅々まで「触覚的に」触れ合う瞬間なのである。それが丁度恰も超時代的だと叫ばれている昨今、いや、それは実は、みんな体得して来た「当たり前の技術」なのだと、岩井は映画の肉体を貫きながら、不気味な程静かに諭すのだ。

 ≪「リアルだけが」≫。

2011/1/7

高峰秀子逝去  

まだこれを書いていなかったとは、筆不精にも程がある……!

年の瀬にひっそりと発表があった。「デコちゃん」の死。
30年も前に引退していたのでほとんど話題にならなかったが、間違いなく(私なんぞがいちいち言うまでもなく)日本映画を彩った大女優十指のひとりだった。

デコちゃん。
『秀子の車掌さん』の愛くるしさ。
『カルメン故郷に帰る』の艶やかさ。
そして『浮雲』の凄み。

忘れられない。
デコちゃん。
デコちゃん。
デコちゃん。

映画の中で貴女は永遠に生き続けます。
最大級の敬意と哀悼を。
ありがとうございました。

合掌。

2011/1/4

「萌え」はロックであった  批評

1974年の第一次アニメブーム以降長きに亘り「カウンターカルチャー」の怪気炎をあげていたはずのアニメ界は次第に、SF・ファンタジーなどを中心に、予備知識や教養など無しでは観られない、観ることを許してくれないある種の「スノビズム」に汚染されてしまった。
この固着化した空気を打破する新たな「カウンター」として登場したのが「萌え」という概念であった。

この変化は私が学生の頃。肌感覚で確かに憶えている。
20世紀も本当に終わりの頃だ。

言わば「萌え」が「ロック」だった、そんな時期があったのだ。

だが今はどうだろうか?
「萌え」という名の「動物化」されたファシズムが覆い尽くしてはいまいか。
時代の必然でもあるが、誰もが今その皮肉を噛みしめるべきではなかろうか。