6千人を超える犠牲者を出した阪神・淡路大震災から1月17日、16年がたった。神戸市内の各教会などで追悼の祈りがささげられる中、神戸市長田区のたかとり教会は、全日本仏教青年会/神戸青年仏教徒会の僧侶らと合同で、「1・17 祈り&交流会」を開いた。
前日16日夕には、教会聖堂で、全日本仏教青年会による「阪神大震災十七回忌法要」を行った。全国各宗派からの僧侶、ベトナム人の仏教徒、多国籍のカトリック信者、地域の人々らが集まり、聖堂からは人があふれた。40人ほどの僧侶、10人ほどの司祭が参加した。
ペルー人による聖歌で始まった。僧侶らによる読経の中、十字架や位牌などが置かれた壇で、参加者全員が亡くなった人たちを思い、焼香した。最後に、震災3周年に出された「いのり追悼と新生・宗教者による神戸メッセージ」が神田裕神父(大阪教区)と亀山俊彦(しゅんげん/神戸青年仏教徒会)師によって読み上げられた。
法要後、各国料理を食べ、交流会がもたれた。
まだ、空き地が
たかとり教会の信徒会長をしている出口悟さん(53)は、震災がなければ教会に帰ってこなかったという。「地震の後、母に『教会見てきて』と言われて来てみたら、えーっということに。親友と教会のがれきを片付けたりしたけど、他の信者さんたちは帰る。でも、よくよく考えたら“そや、自分の家が大変やったから”。うちは被害があまりなかったからボランティアをやって」
ベトナム人のファン・バン・クゥさん(57/たかとり教会)は80年ごろ来日して、家族と住んでいたが、地震の時、たまたま妻と小さな子どもはベトナムに帰国中だった。「もう死んだかと思われた。2、3日後公衆電話ができてやっと連絡が取れて。ベトナム戦争も経験したけど、戦争と違って地震は逃げられないね。16年は早かった。今はみんな安定している。やはり日本は文明社会で助かった。もっと貧しい、中国のような国だったらもっと大変だと思う」
兵庫教会の水澤佐起さんは当時東京に住み、地震10日後に実家の須磨に戻れた。「朝東京を出て、尼崎からバスを乗り継ぎ、着いたのは夜でした。ふるさとはぐちゃぐちゃになっていて。5年前にこちらに戻り、表通りはきれいになりましたが、一つ入ると空き地が。ここも震災だったのかなあと。足の不自由な人を多く見るような気もします」
「もう、大変だったよ」。ペルー人のホアン・カスティージョさん(55/住吉教会)は、住んでいたアパートが倒壊。小学生の3人の子どもたちも骨折するなどし、友人は亡くなった。いま、成長した息子の1人はボクシングの日本チャンピオンになっている。
新しい世を、一緒に
氷点下となった翌17日早朝には、教会中庭に多くの人が集まり、「追悼と新生の祈り」をささげた。ゴスペルが歌われた後、震災の時刻、5時46分には僧侶が吹くホラ貝が死者に届くよう、星空にこだました。続いて読経の中、焼香。最後にあいさつした全日本仏教青年会の宮寺守正(しゅしょう)理事長は「生きている限りつらいことや悲しいことがある。それが年輪のようになり、強く人に優しく成長できる。次の時代の子どもたちにそれを伝えたい」と呼び掛けた。
ここでも最後に読まれた「神戸メッセージ」はこう結ぶ。「地震に負けないで、勇気を持って新しい世を一緒につくってゆきませんか」
たかとり教会聖堂で16日夕方に行われた「阪神大震災十七回忌法要」
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