「ヨウタ、学校はどう? 楽しい?」
「んー……。別に。普通」
「普通って。お友達は? 出来たんでしょ?」
「まあ人並みに」
高校に入学して早四ヶ月。月日は矢のように飛び、勉強勉強部活勉強の日々は僕に思い出をつくる暇さえ与えてくれない。それとも単に思い出に残るような鮮やかな日々ではないのか。
入学した頃に期待した漫画のような熱い友情ストーリーがあるわけでも、胸トキメク出会いがあるわけでもなかった。
まあ人生こんなものだと達観した域に早くも達してしまって、毎日つまらない日々である。
「なんか楽しい事ひとつくらいあるでしょう」
「楽しいは楽しいけど、そんな心に残ることはないよ」
母はいったい僕の青春に何を期待しているのか、そんな事ばかり聞いてくる。
今日も朝から僕の色あせた青春ストーリーを不服そうな顔で聞くのはやめてほしい。別に僕だって好きでこんな生活してるわけじゃない。
友達のくだらない会話も、先生のつまらないダジャレの後にくる笑いも、そりゃあつまらないことはないけど。誰かに話すような事は何一つ無い。
母は諦めたようで、しばらくの沈黙したあと話を変えた。
「そういえば、来週の日曜日お母さんソラちゃんのお見舞い行くけど一緒に行く?」
朝の占いをぼやっと見ながら上の空な返事を返した。
「ソラ? また入院したの」
「ええ。大分体は丈夫になったって聞いたけど――」
ふとテレビの時計を見ると遅刻ぎりぎりの時間を指していた。
「あっ。やば。時間だ」
母の言葉を耳の端で捕らえながら、急いで朝飯をかきこんで席を立った。
急いで鞄をひっつかむと玄関に駆け込んで、靴の中に足をつっこんで履ききらないままドアノブに手をかけた。
「ちょっとヨウタ、行くの、行かないの?」
「部活あるから無理! じゃあ行ってきます!」
提出日の期限が近づいているのを思い出して朝から気が重くなった。
思い鉄のドアを開けるとセミの大合唱が耳を襲った。朝っぱらから暑い日差しをガンガン送っている太陽に背を向けて駅に向かった。
音楽を聴きながら電車にゆれているうちに考え事を一つ。
――最後にソラに会ったのはいつだったっけ。
八つ下の従姉妹の子。あの時はまだ五歳くらいだったかな。僕がまだ中学生の時だ。やたら色白で手足も細くて、見た目通りの病弱な子だと聞いた。けどいつもニコニコ笑っていて、遊んでいるうちにそんな事も忘れてしまったけど。
母親達がおしゃべりをしている間子守を任せられたっけ。親には絵本とか絵を描いて遊べって言われてた。絵を描くのは好きだったんだけど、野球が好きだったあの時の僕はだんだんつまらなくなってきて、ソラに柔らかいボールを使ってキャッチボールしようと誘ったんだ。必死でボールを捕まえようとするソラと遊んでると楽しかったけど、親に見つかって怒られた。ソラは体が弱いのになんて事させるんだとソラの居ない所でこっぴどく叱られた。
あまり良い思い出じゃないな。よかれと思ってやったのに。
お見舞い行けないのは大正解だったかも。どうもあの子と遊ぶのは苦手だ。
――また、入院したのか。しばらくそんな話しは聞かなかったから、体は丈夫になったんだとばかり思っていた。
次の駅でドアがあいて、制服を着た学生が十人くらい乗り込んできた。ほとんどは自分と同じ学校の制服だがほんの二、三人違う制服を着ている。
朝だと言うのに生徒達は元気いっぱいで、一気に車内の喧噪が酷くなった。電車のドアの側にある手すりによりかかりながらウォークマンの音量を上げる。
向かいに立っている大きなスポーツバックを腰あたりにさげた丸坊主の生徒はこちらに背を向けて外の景色を眺めていた。バッグには大きな文字で学校の名前が刻まれている。
自分もあの鞄をかける道を選べただろうか。いや、選べたら良かったのに。
そのたくましい背中に羨望せずにはいられなく、僕は背中を向けて窓の外に目をやった。
野球をはじめたばかりの頃はよかったんだ。まだ望みがあった。自分もやればできると信じていた。けれど、そうではなかった。
人間、センスというものがあり、それが皆無だとどれだけ練習しようがどうしようもないのだと、あの三年間で思い知らされた。まあ、つまり、根性が無かったというだけの話しになるけど。
高校では野球はあきらめて美術部に入った。インドア人間の道が自分に合っている道なのかはさだかではない。元々絵は好きだったし、美術の成績もそこそこだったけど、本格的にやるとなると気がめいった。大きなカンパスを前にどうしてもおろおろしてしまう。
いやいや。頭を振った。今度こそ、最後まで粘るんだ。
――と言ってもこれはなぁ。
未だに真っ白なスケッチブックに自分で自分に呆れた。これはセンスとかの問題じゃない。モチーフすら決まらないなんて……。
はあとため息をついて、椅子に倒れるように座り込んだ。周りを見渡せば黙々と作業に没頭している部員達。もう既にカンパスに思い思いの色で彩っている。
こんなんだったら、まだ野球やってたほうがましだったかな。
窓の外に目をやれば暑い中野球部が汗水流して練習をしている。彼らは輝いている。泥だらけのユニフォームも焼けた小麦色の肌も、額から落ちる汗も、全てが輝いて見える。
どうして僕だけこんな風にくすぶっているんだろう。みんなまっすぐに道をすすんでいるのに、僕はぐにゃぐにゃとうねりながら進んでいる。どうしてこんなふうになってしまったんだ。
「まだ何も描けないのか」
背中から声がして身を縮めた。
「す、すみません。今週中には下書きを……」
目も合わさずに言うと顧問は深いため息をついて何も言わず去っていった。ああー……呆れられてる。春の作品もまともに仕上がらなかったから当然か。
なんで美術部なんか入ったんだろ。
今更な思いが浮かんできて、自分が嫌になった。何もできないのを苦痛に感じて、僕は思いきって道具を片づけて美術室を出た。
今日はもう帰ろう。寄り道いっぱいして気分転換でもしよう。
玄関を出て、運動部の声につられそうになったが、無理矢理背中を向けた。僕はそっちには行かないって決めたんだ。
こんな変な時間に、流石に帰ろうとする生徒は居なくてほっとした。なんとなく誰かに会うのは嫌だった。
ところが、校門のあたりにきて人影をみつけた。女子生徒が校門の側にしゃがんで何かと話しをしている。肩までの長さの髪の毛が顔が隠している。
ジベタリアンの類かと眉根をよせた。しかし仕草を注意深く見ていると、犬か猫を撫でている動作のようだ。その生徒は僕には全く気づいていないようで夢中で動物と戯れている。
動物――動物かいてみるのもいいかもしれないなあ。なんて思ってその子が遊んでいる動物を見ようと目をやると――目を疑った。
驚きのあまりか、我知らず、足を固めて突っ立ったまま、その様子を見ていた。
彼女は、僕には“見えない犬”を撫でてかわいがっていた。
声までかけて、彼女は笑いながら――
「あはは、かわいいなあ犬ー、うれしいの? 犬ー」
「あ、あの?」
恐る恐る声をかけると、その子は僕の声に飛び上がって驚いた。その驚きように僕も驚く。僕の顔を見て彼女の顔がさっと青くなるのが見て取れた。
しばらくお互い見つめ合ってどうやって声をかけようか模索している間に、
「だ、誰にも言わないで!」
と、その女子生徒はそれだけ僕に言いつけて走り去っていった。
――なんだったんだ今のは?
ぽかんと口をあけたまま、さっきまで彼女が撫でていた“見えない犬”がいた場所を見た。確かに何も居ない。アスファルトの上には犬どころか草すら生えていない。
きっと、幽霊とか見える子なんだと、歩きながら自分の中で結論づけた。この学校だってけっこう大きい。こんなに人間が居るんだから、隠しているだけで、そんな人間が一人くらい居てもおかしくはないだろう。幽霊なんて見たことはないし半信半疑で今まで生きてきたが、あの子のお陰でその存在を肯定できるかもしれない。
あの校門の所に何か居ると思うと少し背筋が寒くなったが、納得できたのはいいことだ。適当に頭の中で片づける。
気分転換なのに変なものを見てしまった。やっぱり寄り道はやめてさっさと家に帰ろう。
一晩考えて、結局良い案は何も浮かばなかった。
またやってきた窓枠の向こうの朝を呆然と見て、心の中でため息をついた。あー学校に行きたくない。起きあがった体でそのまま前に倒れ込んで、ベッドにつっぷした。あー学校行きたくない。
「起きなさい! 遅刻よ!」
しばらくすると借金の取り立てみたいに母に戸を叩かれて、それからのそのそ起きあがって服を着替えた。
いい案が浮かばなかったのも、寝付きが悪かったのもきっと昨日へんなものを見たせいだ。
いつもはなんとなく通り過ぎる校門の前で少し歩く速度を落とす。
やっぱりあそこになんか居るのか? ――なんか居るよーなそんな気がしてくるのはなんでだろう。
僕はできるだけそこから離れ、息まで止める徹底ぶりで校門を通った。
何やってるんだろう僕。
放課後を迎え、また白いスケッチブックと睨めっこだ。あまりにも何も浮かばなく、しまいにはイライラしてきて、無意識に鉛筆を机にカチカチぶつけていると先輩に睨まれた。
ときたまグラウンドの方からカキンという心地のよい音を聞くとどうしてもそっちに目が行ってしまう。もう何度も見ないようにしようとしているのに、いつのまにか首がそっちを向いているのだ。
今日だって同じだった。授業は寝こけながらなんとかやりすごして、相変わらず絵の構想は浮かばない。いつもと変わらない日だったのに。
このときだって無意識だった。見ようなんて思わなかった。
――カキン
丁度大きいフライが上がった。もしかしてホームランか。いや違う。ただの外野フライだ。野球部だっていつもどおりだ。
走れ、取れ、取れ、よしそこ――なんだあれは?
フライを取りに行った選手の向かう先に何か、真っ青で大きなな何かがいる。野球部はあれに気づいているのかいないのか、少しも動じずに球を追いかけ、取り損ねた。
見間違いかと目をこすっても確かにそれはそこにある。青い、小さな山ほどの大きさがある。ただのブルーシートだろうか。いや、心なしか少しずつ動いているような気がする。
あっ。今何か細長いものが揺れた。
こんもりとした青い山から伸びた細いものは床をさぐっている。何か探しているの?
僕の目はグラウンドに釘付けになっていた。泥まみれで汗を光らせる野球部員でも、可愛いマネージャーでもない。
グラウンドに突如現れた、見たこともないくらい真っ青な――
「こら」
頭に軽い衝撃があって、突然現実に引き戻された。見上げれば青白い顔を怒らせた顧問が僕を見下ろしていた。
「そんなに野球部が気になるなら野球部に入ればよかったろ」
「すみません。でもっ」
僕は今見た不思議なものを誰かに教えたかった。あれは何かと説明してほしかった。
しかし、視線を戻した先には、泥だらけの部員しか居なかった。グラウンドには青い色をしたものすら置いていない。
「――あれ?」
「いいから、お前はさっさと下書きしろ」
もう一回頭を丸めた資料で叩かれて、僕は首をかしげながらスケッチブックに向かった。
今度は鉛筆をまっさらなスケッチブックに置いた。
そう、さっき僕の目に映ったのは、見たこともないくらい真っ青な――象。