現在位置:
  1. asahi.com
  2. ニュース
  3. おくやみ・訃報
  4. 記事

「いとし・こいし」の弟、喜味こいしさん死去 83歳

2011年1月23日20時15分

印刷

ソーシャルブックマーク このエントリをはてなブックマークに追加 Yahoo!ブックマークに登録 このエントリをdel.icio.usに登録 このエントリをlivedoorクリップに登録 このエントリをBuzzurlに登録

写真漫才を演じる喜味こいしさん(左)と夢路いとしさん=大阪・道頓堀の浪花座

写真喜味こいしさん=昨年11月、大阪市北区の朝日新聞大阪本社、滝沢美穂子撮影

 戦前から活躍、しゃべくり漫才の名人芸で知られた兄弟コンビ「夢路いとし・喜味こいし」の弟、喜味こいし(きみ・こいし、本名篠原勲〈しのはら・いさお〉)さんが、23日、肺がんのため死去した。83歳だった。通夜は26日午後7時、葬儀は27日午前11時30分から大阪市阿倍野区阿倍野筋4の19の115のやすらぎ天空館で。喪主は長男篠原敏昭(としあき)さん。

 2003年9月にいとしさんが亡くなった後は、「兄貴以外とはできん」と、漫才の第一線からは身をひいたが、テレビ番組にゲスト出演するなど「上方演芸界のご隠居」的な存在として親しまれた。1年ほど前から入退院を繰り返していたが、大阪府立上方演芸資料館(ワッハ上方)の催しに出席したり、12月にもテレビ番組の収録に参加したりと活動を続けた。

 旅回りの芸人を両親に、埼玉県で生まれた。芝居の子役から、荒川芳丸に入門、2歳上のいとしさんと芳博・芳坊として子ども漫才を始めた。戦後、いとし・こいしに改名。ラジオの演芸ブームに乗って脚光を浴び、テレビや映画、舞台にも活躍の場を広げていった。漫才ではツッコミを担当、温かみのあるしゃべくりで人気を博した。代表作は、1991年の湾岸戦争を夫婦ゲンカに置きかえた「わが家の湾岸戦争」、ちびた鉛筆をなめながらメモを取る「交通巡査」、「ジンギスカン料理」など。役者としては、ミヤコ蝶々さんの舞台に欠かせない存在だった。

 志願して陸軍兵となり、1945年8月6日、広島で被爆。「芸人が涙を見せたらおしまいや」と、被爆体験は積極的に語らなかったが、いとしさんが亡くなった翌年の04年8月6日、広島市で開かれた原水爆禁止世界大会で、初めて大勢の人前で話した。その後はメディアの取材や講演で広島の惨状を詳しく語るようになり、「戦争やって何が残るんですか」が口癖だった。

 亡き兄とともに上方漫才大賞、上方お笑い大賞などを受賞。99年には大阪市無形文化財に指定された。03年に菊池寛賞、05年に「上方演芸の殿堂入り」。93年に漫才コンビとして初めて紫綬褒章、98年に勲四等旭日小綬章を受けた。

PR情報
検索フォーム


朝日新聞購読のご案内
新聞購読のご案内 事業・サービス紹介