日比谷公園の｢ダ・ヴィンチ展｣ - 実物大の｢最後の晩餐｣を仰ぎ見る
日比谷公園で「特別展 ダ・ヴィンチ - モナリザ25の秘密」が開催されている。大噴水の南側にある第二花壇に「ダ・ヴィンチ・ミュージアム」のパビリオンが特設され、広い平面の館内を使ってダ・ヴィンチの芸術と科学技術を網羅的かつ立体的に紹介している。まさにダ・ヴィンチの博物館の出現で、人がダ・ヴィンチの天才を知る上で最高の機会が提供された空間だ。万能の天才ダ・ヴィンチについて、われわれが断片的に知っているものが、ここに一堂に集められ詳しくプレゼンテーションされていて、館内を歩み進むほどに、この人物の底知れぬ天才に圧倒され、凡人の想像の及ばぬ奇跡の頭脳に絶句することになる。まさに近代欧米文明はこの人物に拠っていて、ダ・ヴィンチの万能と英知への畏敬と崇拝が、そのまま欧米近代の普遍性や優越性を認める意識と繋がるところとなっている。館内を歩きながら、そして寒い外に出て、しばし鬱々と考えるのだ。アジアにはこれに匹敵する人物はいたのだろうかと。嘆息しつつ思いが及ぶのは、例の銭ゲバが人からふんだくったカネでダ・ヴィンチの手稿をコレクションした一件で、新自由主義とダ・ヴィンチという思想的問題である。新自由主義という問題が身近に纏わりつくと、ダ・ヴィンチとわれわれとは素直に幸福な関係にならず、どうも途中で屈折する心理で萎えてしまう。そして私の場合、脱構築主義への批判という問題もあるため、ダ・ヴィンチは余計に解釈に手こずる厄介で重たい存在なのだ。
テント小屋のような特設会場の入口で入場券を買って中に入ると、黒柳徹子がモナリザに扮して壁に掛かっていて、「ようこそ」と出迎えの声をかけてくれる。この展覧会は、おそらく世界中を同じ移動小屋の方式でサーキットしていて、今が東京巡業の期間なのだと思うが、この黒柳徹子を使った演出だけが日本のオリジナルの企画なのだろう。イベントの主催はテレビ朝日。展示全体のレイアウトは、(1)手稿、(2)発明模型群、(3)人体解剖図、(4)絵画、(5)モナリザ、(6)最後の晩餐、という構成と順序になっている。無論、展示品はすべてレプリカで、実物は陳列されていない。前半は、科学者・発明家としてのダ・ヴィンチの生涯と業績の説明で、最初にマニア垂涎の手稿の数々が紹介されている。あの独特の赤銅色のページに細かい図案と文字が並び、何が描かれているかわからなくても思わず釘づけになって見入ってしまう。一目見てわかるデッサンとスケッチ、デザインとジオメトリー、優雅で華麗で緻密で精確なダ・ヴィンチの世界。500年の時を超えて、そのセンスとインテリジェンスが放つ訴求と説得に目を奪われる。手稿と対面して、赤銅色の明暗を目に焼き付けているだけで、何か聡明さのエキスを分けてもらい、少しだけ賢くなったような気分に浸れる。手稿は現存するものが6000ページで、失われたものを含めると、その3倍以上だったと言われている。見慣れた晩年の自画像も、手稿の展示と並んで置かれると、ひと味違って荘厳な趣で迫ってくる。
その次は、ダ・ヴィンチが手稿の中で設計考案した発明品の数々を、木や布など当時の材料で製作再現した模型で展示するスペースで、これは一つ一つが大きく、相当に見応えがある。理工系の諸氏に特にお薦めしたい。冒頭のコーナーは、人が空を飛ぶための発明で、ライト兄弟の先駆的起源にダ・ヴィンチを位置づけて紹介する。最初は鳥の翼のようなもので羽ばたくことを考えていたダ・ヴィンチは、やがて、鳥の胸の筋肉が体重比で人間の4倍ある事実に気づき、グライダー、ヘリコプター、飛行機の原型へと原理的模索を進めていく。パラシュート、潜水服の次に土木機械群が並び、さらに、装甲車や機関砲などの軍事兵器の模型も、手稿の図案そのままに、設計寸法大と思われる木工模型品が置かれていた。数が多く、これでもかと並べられていて、発明模型だけでも展示会として十分と思われる空前のボリュームだ。首都圏に住んでいてありがたいとつくづく感じる。発明家ダ・ヴィンチの驚異的才能に目眩を感じつつ、次の空間に足を進めると、医学者ダ・ヴィンチの業績が待っている。これまた、頭蓋骨から脳から内臓から胎児から、精密な人体解剖図が赤銅色で描かれていて、しかも、ここでは図版を拡大して展示しているため、何か異様な雰囲気で迫ってくる。私には一つの既視感があり、それは、手塚治虫の「ブラック・ジャック」の世界である。似ている。人体の臓器や血管や筋肉は、誰が描いても同じタッチになるのだろうか。それとも、二人の天才の間に何か連関があるのだろうか。
この展示の前で念頭に浮かんだもう一つのことは、若いダ・ヴィンチがフィレンツェの工房で徒弟修行していた頃、シニョリーア広場で罪人が吊された現場で、微笑みを浮かべながら死体を写生していたという逸話であり、不世出の天才の人格の中に同居する冷酷という問題だった。神が使わした万能の天才の内面は、凡庸な人間には計り知ることができない。が、同じアスペルガー症候群・多動性障害のゲイツには、きっとその要素が魅力だったのに違いない。できれば、あまり長居をしたくない人体解剖図の展示空間を過ぎると、ようやく待っていた絵画のコーナーになる。ここが特設会場の中央部、展覧会全体の折り返し地点だろうか。だが、周知のとおり、ダ・ヴィンチの絵画は驚くほど点数が少ない。6000ページの手稿や、そこに素描され製図された自然科学系のイラストと比して、芸術として創作された絵画作品は希少で、完成品は20点に満たないと言われている。それらが、狭い壁面に横に並ベられている。レプリカだからという理由からか、絵の前で佇む客は少ない。手稿や模型や人体図の前では黒山の人集りで、その後の「モナリザ」のコーナーも満員電車の中のようだったが、「受胎告知」や「岩窟の聖母」の前はなぜか閑散としていた。パリのルーブルの館内も、同じ展示室に「モナリザ」と「岩窟の聖母」がある。そして、行く前に想像していたような混雑と喧騒は全くなく、靜かにじっくり鑑賞することができた。そのことを思い出した。
この場所に、お目当ての一つの作品があり、それはダ・ヴィンチが30代後半に描いた「白貂を抱く貴婦人」である。ポーランド南部の古都クラクフにあるチャリトルスキ美術館に所蔵され、2001年に日本でも初公開されている。実は、正月にこの絵についてNHK-BShiで特集番組を放送していた。今年はイタリア統一150周年の年であり、それを記念して、NHK-BShiが1月にイタリア特集の番組を次々に放送していて、その中に、ダ・ヴィンチの「白貂を抱く貴婦人」と「最後の晩餐」の特集があったのである。日本とも、今から10年ほど前にNHKが制作したものの再放送だった。その番組では、特に「白貂を抱く貴婦人」に描かれたチェチリア・ガレラーニの人生に焦点を合わせた内容になっていて、彼女が埋葬された教会の墳墓の紹介から始まる映像になっていた。彼女は貧しい庶民の出で、家族のために15歳でミラノ公イル・モーロの愛妾となり、この絵に描かれたのは17歳のときである。野心満々でミラノに出て来たダ・ヴィンチの才能を買ったパトロンのイル・モーロの依頼だった。その後、イル・モーロが高貴な出の正夫人を娶って居城に迎えたとき、チェチリアは城から放逐される身となる。美貌と才能と人気が正夫人の嫉妬を買ったゆえの不遇と言われている。番組の説明では、首飾りの玉が宝石ではなく質素な木製である点と、貴族の女性でしか纏えない高価なマントを身に着けている点のアンバランスが、チェチリアの身分と境遇を象徴していると指摘していた。
ダ・ヴィンチらしく一瞬の動作を捉えた構図で、向かって右側から誰かが呼びかけ、それに振り向いた瞬間の少女の表情を捉えている。注意が向かう方角、光が放射される方角が向かって右側にあり、左側を暗くする空間設定になっている。正面を向いていた少女は首を左に回し、腕の中に抱かれた白貂は、逆に首を右に傾けて顔を起こした刹那のアングル。先週、1/16のNHKの日曜美術館がダ・ヴィンチの特集だったが、やはり、この絵が大きく取り上げられていた。そこでは、正月に放送されていなかった新情報が満載で、高機能カメラによる撮影とコンピュータ処理により、後世に施された加筆が発見・除去され、さらに500年間の絵の具の劣化が補正され、ダ・ヴィンチが描き上げた時点の原作の姿を見事に映像で甦らせていた。この絵は、チャリトルスキが1800年頃にイタリアで買ってクラクフに持ち帰ったが、その後、ポーランドで独立運動が起き、鎮圧に侵入するロシア軍との戦火から逃れるべく、遠くパリに疎開させられるところとなる。ところが、今度は普仏戦争が起きてパリが戦場になり、再び絵はクラクフに帰還。さらに、20世紀に入ると第一次大戦の勃発でドレスデンに避難、戦後、クラクフに戻るものの安息の日は続かず、ナチスの侵攻と占領によってベルリンに押収、1946年にクラクフに三度目の帰郷を果たすという流転の運命を辿った。欧州近代の戦乱の歴史とポーランドの悲劇、その苦難と辛酸をそのまま絵が背負って大陸をさまよい歩くという経緯があった。
パリのIT企業がコンピュータ処理で復元した絵は鮮やかで、映像や写真で見る現物とは全く印象が違う。背景は漆黒の闇ではなく藍色であり、マントも緑ではなくラピスラズリの青である。肌は黄色みを帯びておらず、顔も胸も手も白く、顔には赤みがさしており、白貂の毛の色もずっと白い。ニスの化学変化による黄ばみを処理で除去しただけで、絵は見違えるように明るく生き返っていた。日曜美術館の放送の中でも登場したし、日比谷の「ダ・ヴィンチ展」でも一つのハイライトだが、やはり「モナリザ」が本来の彩色に処理復元されて展示されている。「モナリザ」全体の色調を特徴づけるくすんだ感じが取れ、背景の空と山は青く、表情は白く丸みを帯びてくっきり明瞭になっている。観客が最も密集していた「モナリザ」のコーナーには、額縁を外した素の状態の「モナリザ」の展示があり、これも立ち止まって目を奪われる印象的な一品だった。そして、圧巻は、展示のラストを飾る実物大の「最後の晩餐」で、縦460cm横880cmの巨大な絵が特別室の壁面に映写再現されている。この展示が私には最高の価値で、これだけで十分に入場料の対価となる。日本に居ながらにして、ミラノのサンタマリア・デレ・グラツィエ教会の現物を仰ぎ見ているのと同じ体験を味わえるのだ。イタリア政府はこの名画の修復に20年をかけ、まさに国家を挙げて現在の「最後の晩餐」を復元した。私は、復元された「最後の晩餐」を7年前にブログの看板に採用し、それをずっと使い続けている。つまり１日何時間もこの絵と対面し、二人三脚で日常生活を続けているのだが、飽きることは全くなく、原寸大の作品との対面は格別の感動だった。絵そのものも面白く素敵で華麗だし、絵に関する注釈や分析を知り重ねるのもとても楽しい。イエスを中心とする古代の聖書の世界と、ダ・ヴィンチを中心とするルネサンスのイタリアの世界の二つが重なり、歴史の豊かさに心が満たされ、それへの憧憬と好奇心と探求心を持ち続けてきた自分を再発見する。その当時、小説の「ダ・ヴィンチ・コード」が一世を風靡し、その批評を記事にしたことも、この絵を看板に選んだ理由の一つだったが、「最後の晩餐」を掲げる前、ブログの看板がどうだったか、覚えておられる読者の方はおられるだろうか。この絵は本当に素晴らしい。私は「モナリザ」よりも「最後の晩餐」が好きだ。
