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急にハドソンのことが語りたくなった - Hisakazu Hirabayashi * Official Blog

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急にハドソンのことが語りたくなった

昨日はハドソンのことが、語りたくなって突然USTをはじめてしまった。「ハドソンがコナミの完全子会社化、3月29日付で上場廃止となる予定。ソーシャルゲームなどの展開に活用することを狙っている」というニュースが流れた。その報を知った人の驚きもなかった。なんか寂しくてね。

まず逸話から。ハドソンの電話番号の下4桁は「4622」。当時の札幌本社も、東京支店も「4622」。確か米国、香港に支社があった時期があったが、そこの電話番号も「4622」だった。創業者である工藤裕司社長が、C62形蒸気機関車をこよなく愛していたから。シロクニをもじって。

国鉄C62形蒸気機関車の車軸に「ハドソン形」というのがあるそうで、社名はハドソン。

ハドソンの創業は、蒸気機関車の写真などを売る、趣味でやって、趣味人が集まるような店だった。ところが、その店はアマチュア無線のショップ「CQハドソン」に変わる。工藤社長はアマチュア無線好きでもあった。

アマチュア無線の免許番号は‥‥電話番号の局番みたいなものだけど、エリアごとに定められていて北海道は「8」だった。だから企業のマークは蜂。

アマチュア無線の店は、マイコンショップに変わる。すると、マイコンを触りたい学生たちが集まる。集まってはソフトをつくる。そのソフトを販売することによって、販売店は、今でいうところのパブリッシャーになっていった。

当時のメディアはカセットテープ。通信販売で売ると、郵便配達をする人が巨大な袋を持って毎日、ハドソンにやって来る。中に入っているのは現金書留。テレビ番組のインタビューで工藤社長が、「毎日サンタクロースが贈り物を届けてくれるみたい」とおっしゃっていたのを覚えている。

そんなマイコン、パソコンソフトの雄となったハドソンだけど、方向変換をする。同業のソフトハウスが、これからはパソコンの時代、MSXも出る‥‥と活気立つ時に「いや、ゲーム専用機だ」と読み、ファミリーコンピュータ用のソフト販売に参入。

テーカン(テクモの旧社名)の『スターフォース』や、子会社化したコナミの『プーヤン』というアーケードゲームをファミコンに移植して発売したのはハドソンだった。

ファミリーコンピュータに、まだサードパーティという概念がなかった時代、最初のサードパーティになったのはハドソン。確か、数ヶ月遅れでナムコがサードパーティになったと記憶している。

ファミリーコンピュータ全盛期にハドソンは巨大な利益を上げる。だが、こんなにいい時代は長くは続かないと、『ロードランナー』がヒットした時点で、ハード開発をはじめたという。それがのちのPCエンジン。

つまり、ここまでで何が言いたいかというと、ハドソンという会社は先見性が高くて、ほぼ日刊イトイ新聞やスマップの歌詞じゃないけど、Onlyな会社。Lonlyを恐れない。

あと、ハドソンには工藤兄弟という経営者がいながら、他の役員の方たちの個性が強かった。同じタイプの人が集まるゲーム会社、カリスマトップがいるゲーム会社、いろいろ見てきたけど、ハドソンの経営者の方々は多士済々だった。

なかでも印象深く、お世話になったのは中本伸一さん。『ボンバーマン』の隠れキャラで出てくる。彼はマイコンショップのハドソンに入り浸っていた北海道大学の学生だった。当時プログラムした『爆弾男』というゲームをファミコン用に移植した人もでもある。

『ボンバーマン』を移植する時間は72時間だったという。寝ずにプログラム書いた。中本さんはガムなどを噛みながらプログラムを書くクセがあって、そのガムも尽きた頃は、あたりに転がっている鉛筆をかじってモニターから目を離さなかったと聞いた。

ひとりが72時間作業して、売上が100万本を超えるソフト。今ではありえない話。

ところで、中本さんは「カセットの時代は終わる。ゲームは大容量メディアが必要になる」と力説していた。これはPCエンジン用CD-ROMが出る前ではない。世の中に、CD-ROM規格が誕生したころ。これもまたすごい先見性だ。

PCエンジンは、NECホームエレクトロニクスから発売されたが、最初に持ち込んだのはソニーだった。しかし、ソニーは断った。

中本さんは、ネットワークのことについてもビジョンを持っていて、将来は仮想空間で人と人同志が触れ合って遊ぶだろう。そこではギャンブルとかもできるんだよ‥‥といいながら、パチスロの攻略本を見せてくれたこともあった。

だから、セカンドライフが出て、驚いている人たちが‥‥申し訳ない‥‥あわれに思ったくらいだった。北海道の中本さんの部屋で、私が1991年に聞いた話だと思った。

細かい技術だけど、ハドソンはスーパーファミコンのロムカセットに、時計を埋め込むチップを開発した。ゲームに実時間を持ち込もうとした、最初の試みかもしれない。セカンドライフ同様、今のソーシャルゲームやブラウザゲームのように、「時間」とゲームは相性がいいと思っていたのだ。

モバイルに強いハドソンというイメージがあるかもしれないけど、iモードを知った瞬間に中本さんはこれをゲームにすると豪語していた。試作品をこっそり見せてくれたのは、すすきのの夜、某割烹にて。

中本さんには、ゲームや技術のことだけではなく、物事の考え方を教わった、というか考えさせられた。

CD-ROMが生まれたばかりのころ、「これからは大容量化の時代がやってくる」と言った。ところが、90年代も後半になると「CD-ROMは金と体力を消耗するだけのメディア。これからは容量の小さいものをつくる」という。話す言葉は正反対。

言葉は正反対だけど、根っこは同じであることが私には伝わる。新しいことをする、おもしろいものをつくる、他社と違うことをする‥‥に変わりはない。その手段が時にCD-ROMであり、携帯電話である。

よく政治家の発言が違うと、「ブレた」と言う。私はあの論議が愚かしいと思う。言葉はブレていいんだ、根っこがブレない人は表層に出る言葉はかえってブレやすいんだ。逆に言葉だけをブレないようにすると、思考の根っこがブレてしまうことが起きる。

ハドソンという会社のおもしろいところは、先見性にある。SL写真、アマチュア無線、ファミリーコンピュータ、CD-ROMと常に先を見てきた。携帯電話もね。

ハドソンの思い出話、そしてお世話になった役員の方たちの良いことばかりを書いてきたけど、悪いことを言おう。そして、それが2000年代の経営不振を招いたと思っている。新聞報道で言われているような、北海道拓殖銀行の経営破綻は本質ではない。

たとえば、中本さんは90年代の終わりに私になんと言ったか。「GからCへ」と言った。「何ですか?」と尋ねた。2000年代は「ゲームをつくっている時代じゃないよ、コンテンツをつくる時代だよ」。これを物凄く略すと「GからCへ」となる。

脳トレをはじめとする、従来の形にはまったゲームではなく、インタラクティブだからできるコンテンツの登場を予見していたんだ。

ところが、コンセプトが社員全員で共有できているかというと、そうは思えなかった。「GからCへ」ではわかりにくくて当たり前。たとえ、わかったとしてもそれは観念的なことなので、現場では過去のタイトルをシリーズ化していく‥‥という普通のゲーム会社になってしまう。

つまりハドソンという会社は、日本のゲームソフト会社では屈指のビジョナリーカンパニーであったにもかかわらず、そのユニークさがあまり知られることなく、「桃鉄の会社」などと思われているのが残念でならない。

ハドソンはなくならない。だが、昨日・今日と凡庸な記事によって語られている。歴史も、経営者のビジョンも、そこで働く人たちの思いとは無縁のところで。

「ソーシャルゲームに注力」。
「ハドソンが急落。一時、基準値比73円安の314円を付け、大証ジャスダック市場の値下がり率1位となった」‥‥等々。

ハドソンとはどんな会社なのか?
その陰にどんな栄光と不運の歴史があったのか?
記録にとどめておきたかった。
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