鬼哭街×デビルメイクライ3
【鬼剣 魔剣】
浦東金融貿易区。
さながら竹林の如く立ち並ぶ摩天楼と、それらが放つイルミネーションの光の海は、ここが亜細亜において文化と経済の中心である事を誇示しているかのようだ。
道路には前時代より変わらぬ有輪の自動車が、そしてビルの合間では空中に敷かれた誘導軌道の上を推力推進車両(スラスト・ヴィーグル)が流れ行く。
都市と言う無機質な肉体に通う血脈は、昼と言わず夜と言わず、休む事はない。
ここは上海。
一千万を超える人間が住まい、二十世紀の昔から世界に名立たる大都市十指の内に数えられた魔都である。
そして、大きな街は自然と清濁を併せ持つ。
英国系金融機関の香港上海銀行を中心に中国金融の中心となり。
二十世紀後半、改革開放政策により外国資本が流入して上海はさらに目覚ましい発展を遂げた。
中国のみならず、東洋においての経済の中心地、それが表の顔としての上海。
だが、人の世には常に裏と影が潜む。
ナイトクラブやショービジネスの堅気でも足を踏み込めるものから、ドラッグに非合法なサイボーグパーツ、武器を中心とした裏社会。
それら犯罪を中心とした後ろ暗いしのぎを行うのが、幇である。
遥か昔、南京条約によって香港島が割譲されるより前からこれらの組織は存在し、国家権力の目の届かぬ都市の暗部で蠢き、成長した。
今この上海を、つまりは全亜細亜の中心地にて最も栄えた組織こそ――青雲幇である。
武林に名を馳せし多くの侠客を抱え、武力、経済力の基盤はユーロシンジゲートからロシアンマフィアまでもが脅威として認識するほどの大組織だ。
そして、組織が大きければ大きいほど、敵も多くいる。
その日、月下の上海旧市街において屍山血河が築かれた理由も、詰まるところそんなものだった。
場所は人通りも少ない旧市街、表向きは仏人起業家が買ったという事になっていたビル。
だが実際の持ち主は、香港に裏サイバネティックス産業の流通を奪われたロシアンマフィアの大物である。
利潤を奪った青雲幇への奇襲を企てた彼らは、こうして旧市街に潜伏し、幇会の経済的基盤である上海義肢公司へ攻め込む準備をしていたようだ。
照明の落ちたビルの中で倒れている武装サイボーグの諸々は、誰もが火器で武装していた。
しかし、彼らの死体は実に妙だった。
傷のどれもが銃火器による損傷ではなく、鋭利な刃物による斬撃で急所を裂かれている。
さらには、一切外傷がなく、ニューラル神経系を焼き尽くされている者さえいた。
果たして下手人はどのような者か。
普通ならばこう考えるだろう。
相手を力任せに両断する膂力を持った重装甲サイボーグに、高出力電磁パルスを発生させる光学兵器を持った者。
と。
だがしかし、現実の回答はその想像を遥かに超えたものだった。
「……」
静かな、暗く闇の立ちこめたビルの中を無言で歩く下手人の姿は、誰がどう見ても生身の男だった。
黒い髪、ややこけた頬、鋭さを湛えた眼差しに暗中にあってなお黒い外套姿。
肝の小さい者が暗夜に出会えば、死神か幽鬼とすら見紛うだろう。
いや、実際今夜この場で屠られた者からすれば、正に死神と形容して相違あるまい。
一切の改造を施されていない着のままの五体。
手には得物である、血濡れの倭刀を引っさげていた。
誰が信じようか、この男は段平の一振りを以って銃火器で武装したサイボーグの巣窟に斬り込み、これを殲滅したのである。
肉の身が振るう刃が超硬質の多重積層装甲を裂き、血の通う掌が置換されたグラスファイバーの人工神経組織を焼いた。
それは、今は廃れた武林の一派と、その秘奥に他ならない。
かつて武林には、大きく分けて二つの体系が覇を競っていた。
片や筋骨に頼り、膂力や瞬発力を鍛える外家。
片や呼吸や血流を律する事で経絡を繰り、氣を練る内家。
極め尽くすとなれば、通常の人体を超えた力を氣で練り上げる内家の方が上。
それが昔から武林における常識だった。
しかし、サイバネティックス技術の普及により外家拳士の多くが肉体を機械化し、軍用兵器すら上回る戦力を有してより状況は一変した。
誰もが簡単に機械仕掛けの体を得られ、その機身で以って鍛えた功夫を発揮する。
それは並みの内家拳士の及ぶところではない、圧倒的な力だった。
今まで量と質の拮抗を保っていた内家と外家のバランスは崩壊し、今武林に跋扈するのは総身を機械化したサイバー外功派がほとんどである。
しかし、この黒き死神の男は違う。
生まれ持った生身の体にて繰るは、深淵なる内家内勁術の武技。
己を狙う銃口の火線を殺気と意で読み、軽功術により接近。
そして振るうは、主力戦車の前面装甲にすら斬り込む、勁を練り上げた倭刀の一撃だ。
数多の戦地を巡り歩いた兵士崩れのロシアンマフィアをして、その功夫の冴えは想像を絶するものだった。
最初は生身の男と侮り三人斬られ、狼狽が故に二人が斬られ、純粋なる功夫の前に三人が斬られ。
残る一人は、男の掌から放たれた超高出力の電磁パルスで絶命した。
それこそ男の会得した内家武術、戴天流が編み出した対サイボーグの秘奥、紫電掌である。
丹田にて練った練った氣で電磁パルスを生み出し、それを掌より相手の身に放つ。
いかに神経パーツをシールドしていようと、直接機械の体に電磁パルスを打ち込まれれば、あるのは絶対的な死。
この技を駆使するが故に、彼はこう呼ばれている。
青雲幇が凶手、紫電掌の孔濤羅(コン・タオロー)と。
「……ふむ」
濤羅は愛用の倭刀を手に、怪訝な顔をして屋内を進んだ。
事前に幇会の掴んだ情報通り、都合九人のロシアンマフィアの尖兵を冥府に送ったわけだが、どうにも解せない。
一流の武術家にして、殺し屋、凶手として死地を潜り抜けた鋭敏な第六感が何者かの気配を察知したのだ。
まさか、情報にない敵の伏兵だろうか。
しかし、だとしたら襲い掛かるなり逃げるなり、取る行動があろう。
濤羅が一戦交えた事は、銃声や悲鳴で知れていよう。
もしや怯えて隠れているのだろうか。
だとしたら……探し出して斬り捨てるのは正直忍びない。
任務である敵組織の殲滅、幇への忠義、人としての情。
諸々の感情が、胸の内で波濤となって渦巻く。
眼差しに陰鬱を溶かしながら、濤羅は気配を辿ってゆっくりと歩んだ。
行き着いた先は、近代的なビルの中にあって異質な書斎だった。
壁紙から床に敷かれた絨毯、頭上から照る照明も、並ぶ木製の本棚も、全てが前時代的な古雅を漂わせている。
そこで濤羅は思い出した。
このビルの前所有者は、随分な書物の収集家だったらしい。
職場であるこのビルに、私的な蔵書の保管スペースを幾つも作ったそうだ。
気配を探りながら、濤羅の視線は並ぶ本の背表紙を見る。
書かれているのは異国の文字であるが、読み取れる単語はどれも卦体なものばかりだった。
悪霊、霊魂、心霊、交霊術、魔術、魔法。
そして……“悪魔”。
なるほど、ここの以前の主は相当なオカルト好きだったらしい。
ビルを買収したロシアンマフィアの走狗共も、不気味がって手をつけなかったわけだ。
そんな事を考えながら毛足の長い絨毯を踏みしめて進み、ついに濤羅は気配の主を見つけた。
そこには、後ろ姿を無防備に晒す青年がいた。
身長百九十センチは超えていよう、引き締まった長身。
その身に纏うのは、深遠なる海原を思わせる蒼き外套。
後ろに撫で付けて逆立った銀髪が、灯りを受けて艶やかに輝いている。
(やるならば……今が好機か)
相手は濤羅に背を向けている。
彼の軽功術を駆使すれば、それこそ物音一つ立てず跳躍し、指一つ動かす暇もなく首を跳ねられよう。
殺すならばせめて苦痛なく。
濤羅は手にした得物、愛用の倭刀の剣柄を握り、静かに鯉口を切る。
だが彼が一歩を踏み込むより速く、蒼き外套の青年が振り返った。
「……ッ」
その瞬間、濤羅は肌が粟立つのを感じた。
自分を見つめる異国産まれの美貌と、澄んだサファイアの双眸。
五体の全細胞がその眼差しに危険を関知して、警鐘を鳴らしている。
一呼吸で間合いを詰める筈だった歩みを寸前で止め、濤羅は黒鞘から僅かに刀身を覗かせたまま目を細めた。
果たして、彼は何者だろうか。
濤羅の踏み込みを事前に察し、青雲幇の凶手をして震える程の気迫を放つ。
明らかに先ほど屠ったロシアンマフィアの兵隊連中とは、一つ格が違う。
よく見れば、相手も得物を一振り持っていた。
本を持つ右手とは反対の左手が握るのは、奇しくも濤羅と同じく倭より伝来した刀剣。
いや、それは伝来したなどではなく、正調にかの国で鍛えられし業物だろうか。
鍔や柄頭、鞘尻の拵えには、雅趣薫る細緻な彫金が施されている。
下げ緒も、珍しい編み方をされた柄巻も、美しく染められていた。
そして長大だ。
憶測するに刀身だけでも三尺を上回って余りある。
濤羅の倭刀も相当な大太刀であるが、相手の日本刀はそれよりも長く大きい。
こんな物を持ち歩くとは、もしや、彼もまたどこぞの武林に名を馳せた剣客であろうか。
自然と濤羅の思考は、そのような帰結に至る。
「ここの連中では、ないな。一体どこの誰だ」
下手なチンピラ連中であれば震え上がるであろう、気迫に満ちた濤羅の詰問。
だがその声音をすら、異国の美男子はそよ風の如く受け流す。
「――答える義理などない」
まるで路傍の石ころでも見るような眼差し。
倭刀を抜刀寸前で構える濤羅の姿に、微塵の警戒すら抱いていない。
ただの馬鹿か、よほどの傑物か。
どちらにせよ、斯様な問答をする相手に姿を見られた以上、濤羅の取る道は一つであった。
「恨みはないが……死んでもらう」
言うが早いか、既にその身は相手を刃圏に捉えていた。
全身の経絡を巡り、丹田で練り上げられた内勁の力は風のような踏み込みを実現する。
おおよそ三丈あまりの距離、普通ならば刀剣の間合いには遠きその彼我の距離が一呼吸で詰められ、倭刀の刀身が踊る。
頭上より照る蛍光灯の光を反射し、濡れたように光る兇刃の一閃。
しかし、本来訪れる筈だった骨肉を絶つ感触はなく。
「くッ!?」
代わりに濤羅の苦悶が迸り、鍛え上げられた刃同士の睦む衝撃と共に甲高い金音が鳴り響いた。
あろう事か、意よりなお速い濤羅の内家剣術を前に、異国の美剣士は単純な反射によって斬り返したのだ。
その長大な日本刀を、一体いつ抜いたのか。
相手の意を動きより速く察する内家剣術家の濤羅をして測り損ねるほどの早業である。
二跨ぎ後退し、距離を取る濤羅。
心中には必殺の剣を防がれた感嘆と、相手の身に対する純粋な驚愕が満ちる。
「お前……サイボーグではないのか?」
濤羅ほどの剣客ともなれば、一合刃を交えれば相手が如何なる類の者か察しはつく。
肉体のどの箇所を、どの程度機械化したサイバネ拳士であるかを。
今彼の目のまで悠然と刃を構えた男は、あろう事かサイボーグではなかった。
それは純然たる肉の体。
濤羅と同じく生身の体である。
しかも内勁を練った様子も見られぬというのに、重装甲サイボーグが如き膂力で濤羅の内勁剣を斬り返した。
武林のいかなる常識の内にもない、さながら“悪魔”染みたこの事実に、歴戦の凶手の額に汗が流れる。
「お前ら“人間”と違って、俺にそのような下賎な術は必要ないのでな」
「……?」
まるで自分が人でないとでも言いたげな台詞に、濤羅は疑問符を浮かべる。
だが、相手はそんな事などお構いなしで殺気を大気に滲ませ、笑んだ。
「興が乗った。少し遊んでやろう――人間」
◆
遥か二千年前、人界を悪魔の侵略が襲った。
人の世と次元を隔てた先、存在する悪魔の住まう地、魔界。
その魔界の王、魔帝ムンドゥスが数多の悪魔の軍勢を従え、人の世界までも掌握せんと侵攻を行った。
人と魔、その力の差は甚だしく、人々は魔の軍勢を前に屈さんとした。
だが、そこに希望の光が射す。
悪魔でありながら人の心と正義に目覚めた、魔剣士スパーダ。
彼はその刃を以って数多の同族を斬り伏せ、遂には主君ムンドゥスをも倒し、人の世に平和をもたらした。
今でも世に神話、童話の類として語られる、伝説の魔剣士スパーダの物語。
しかし誰が知ろう、その物語が真実であったなど。
神話の物語には続きがある。
スパーダは魔帝を倒した後も二つの世界を封印で絶し、魔界の侵攻に備えて人の世に残った。
そして世界中を巡り、ついに安住の地を定めて根を下ろし、妻を娶った。
妻との間に双子の子宝に恵まれ、悪魔としての生を捨てた彼は、遂に人界において人として天寿を全うした。
だが、まるでその時期を見計らったかのように、残された妻子を悲劇が襲った。
魔界にてスパーダに倒された時の傷を癒していたムンドゥスが配下の低級悪魔を放ったのだ。
彼の妻は殺され、双子は離れ離れとなった。
双子の片割れ、ダンテは悪魔への憎しみから便利屋を営む傍ら、悪魔狩人として人に害を成す悪魔共を狩る道を選んだ。
しかし双子のもう一方、バージルはまったく違う道と考えを選んだ。
バージルが憎んだのは、己の無力。
大切な者さえ守れず、ただ奪われ蹂躙された自分自身への怒りだった。
母の死から感じた己への無力、力こそが全てという考えを持つようになった彼は優しさや正義感といった感情を捨て、悪魔として生きることを選んだ。
人としての感情を断じて父から継いだ悪魔の力を極める、それこそが己が道と信じ。
父の形見の一つ閻魔刀(やまと)のみを共に、バージルは世界を巡り歩いた。
ある時は人界に顕現した悪魔を斬り、ある時は人を斬り。
強くなる為の糧として父スパーダの痕跡を探す。
多くはただの神話や民話レベルの愚書であったが、中にはかつてスパーダが駆使した魔力・魔術の使い方が記されているものもあった。
戦いの中でそれらの技を自分でも使えるかと試し、いつしかバージルは並みの悪魔を話にせぬまでの力を得る。
されど渇きが癒える事はなし。
力を、もっと力を……。
内から湧き上がる渇望のまま、そうしてバージルは魔都上海に訪れた。
目的はその筋の情報から仕入れた、悪魔に関する書物。
さる蒐集家の残した蔵書であった。
探し当てた目的のビルには、何やらキナ臭い連中の巣窟と化していたが、特に気にする必要もなかった。
元より見せてくれなどと頭を下げるつもりもない。
勝手に忍び込み、勝手に読んで帰れば良い。
もし咎められたとて、斬って捨てるだけの話だ。
いざ忍び込んで目的の書斎を漁ったバージルだったが、内容は期待していたようなものではなかった。
多くの書がそうであるように、それらもまた単なる愚にもつかない民話の類だった。
心中に湧く失望のうち、バージルは虚しく文字を目で追う。
だが、ふとビルの中で何やら騒がしい音が響くのを感じた。
聞こえてきたのは銃声と悲鳴、剣戟の甲高い残響。
丁々発止の合唱。
いつしか音が止み、何者かの気配が近づいてくる。
振り返れば、そこに立っていたのは一人の男だった。
長身痩躯に黒の外套、黒髪をした闇色の姿。
薄い皮製の手袋をした手には、得物たる倭刀が握られていた。
艶の失せた黒鞘といい、飾り気のない柄頭といい、銘刀の類ではありそうにない。
だがその過酷な風月を偲ばせる蒼然の程は、熾烈な使い込みに耐え抜いた業物の証とも取れる。
刃渡り三尺あまりの大太刀からは、眼前に居合わす己を斬らんとばかりに鋭い剣気が迸っていた。
そして僅かな問答の末、斬り込む峻烈なる刃の閃き。
最初は相手にする気などなかったバージルだが、その刃を前にほくそ笑む。
思い起こせば、最後に刃を振るったのは果たしていつだったか。
たまには人の使い手と斬り結ぶのも悪くはあるまい。
凄絶な薄笑みを浮かべ、バージルの手が白塗りの柄糸で結ばれた剣柄を握る。
そして、闘争の火蓋は切って落とされた。
◆
凶手の屠った屍から、緩やかに死臭が立ち上る屋内で、二人の剣士が間合いを計り合う。
片や内家内勁術を極めた戴天流の使い手。
片や父譲りの妖刀を振るう半魔の美剣士。
埃の舞う淀んだ空気の中、交錯する両者の眼差しは切れ味すら感じさせる。
音もなく、声もなく、毛足の長い絨毯の上で靴底がにじり寄る。
幾秒か、幾分か、時間の感覚すら危うくなる気迫の応酬。
まず踏み込んだのは、半魔の美剣士だった。
「Die!!」
相手への死を叫び、疾走と共に放たれる居合の抜き打ち。
内家軽功術を使えるわけでもないというのに、その速度たるや、濤羅をして驚愕せしめるものだった。
右側方から薙ぎ払われる刃の一閃。
内家武術家の対応は回避だった。
軽功術の妙を尽くした跳躍は一瞬にして相手の間合いより離れ、距離を取る。
斬撃の刃圏の内にあった本棚が刃に遅れて両断され、自重に任せて崩れ落ちた。
重い木材の塊が絨毯の上に落ち、斬り裂かれた本の紙片が紙吹雪の如くゆるやかに舞い散る。
古びた本のかび臭い匂いの中、濤羅が調息し、反撃の内勁を練り上げた。
内勁の力を練られた倭刀の刃が、軽功術の踏み込みで神速の突きと化す。
戴天流が一撃必殺の刺突技、貫光迅雷。
重装甲サイボーグの多重積層装甲すら容易く陵辱する内勁剣の一撃が、紙片の吹雪を縫って閃く。
相手の意を読み、動きの機先を制する内家の剣、避ける暇もあるまい。
そう断じて余りある濤羅の刺突はしかし、血の花弁でなく火花の飛沫を産んだ。
応ずるは妖刀の白刃。
一度居合いから抜き放ち、大きな隙を生んだ長大なる大太刀は既に迎撃の形を取っていた。
脳天目掛けて迫る死閃を下から掬い上げるようにバージルは凌いだ。
読まれたか、それとも単純な反射か。
答えは両方。
幾千の死闘に身を委ねた剣士の慧眼、そして魔の眷属たる半魔の身が成す絶技に他ならない。
だが自らの一手を防がれてなお、濤羅の心中に焦りはなかった。
内家の深奥とは即ち、機先を制する相手の意を読み取り、後の先にて斬り返す事。
反撃として振り下ろされるバージルの上段が生む刃圏も、既に濤羅の意識は十全に捉えていた。
大気を裂く超絶の上段斬り落としを、濤羅は僅かな体捌きだけで見事に躱す。
そして繋がる凶手の連撃。
倭刀を持つ右手体側を引くように足を運び、裡門頂肘の肘打ちがカウンターとして炸裂した。
内勁を練られ、サイボーグの強化樹脂製ボディすら軋ませる肘がバージルの体の真芯に決まる。
「ぐおッ!」
硬い肘が肉の体に沈み込む、低く歪な音色。
美剣士の顔が苦悶に歪み、身を戦慄かせて怯み下がる。
これを見逃す戴天流に非ず。
次なる刹那、脇に引かれた倭刀の白刃は血を求むる餓狼の如く猛り吼えた。
身を捻り、黒の外套を死神の黒衣とばかりに棚引かせ、懇親の斬撃一閃。
死角より相手の頚部を裂かんと横薙ぎに振るわれるのは、戴天流が技の一つ鳳凰吼鳴。
斬った! 振るいきる刹那、濤羅をしてそう確信する会心の斬閃である。
だが、倭刀の禍々しく鋭い煌きが絶ったのは虚空。
濤羅の双眸は、数歩跨ぐ程度の距離を後退していた蒼き外套の美剣士を見た。
(……何だと?)
ありえない。
そう心中で驚愕しつつも横薙ぎに振るった刃をすぐさま戻し、正眼に据えた峨眉万雷の構えとする濤羅。
しかし心の内で生まれる疑問符は、相手の想像を絶する移動に今も疼く。
一体先ほどのは何だ?
後ろに退いた動きがあれば、その意を読めぬ戴天流内家内勁術でない。
まさか身を動かさずに移動する方法でもあろうというのか。
瞬間移動、そんな世迷言が黒衣の凶手の胸中で過ぎる。
だが、濤羅のその考えは微塵も誤ってなどいなかった。
「刃の上で俺を凌ぐか……人の武技も、そう舐められたものでもないらしい」
感嘆を交えた言葉を零しながら、異国の剣士がするりと納刀する。
音もなく吸い込まれるように鞘の内に刃が納まり、最後に鍔が鞘口に触れる僅か手前で止まった。
再び居合の構えを取るバージル、それを正面から見据える濤羅。
両雄の間に流れる空気が、今までにも増した気迫の重圧に満ちる。
先ほどの不可思議なる移動を見た故か、濤羅は待ちに徹して揺るがない。
絨毯を踏みしめる足は根を張ったように動かず、刃の鋭さを湛えた双眸は美剣士の一挙手一投足を逃すまいと眼差しを注ぐ。
さあ、これをどう攻むる。
相手を見据える凶手の眼差しは、まるで挑発するかのような色を帯びた。
「面白い……」
戦意をそそる濤羅の視線に、バージルの口元が獰猛に綻んだ。
並みの使い手ならば、その軽妙にして深遠なる内家の剣を前に竦みもしよう。
だがこの男は人の仁徳や義忠、慈愛も正義も捨て、ただ力のみを求めて闇に堕ちた剣士。
今さら何を恐れよう。
居合いに構えたバージルの総身から、闘気と共に揺らめく蒼き燐光、魔力が溢れる。
未だかつて見た事もない、妖しくも美しき仄光に濤羅の警戒が増す。
次はどう来るか、どう刃を振るうか。
居合に構えた以上、初手の形には検討がついていた。
再び右側方から神速の居合いが訪れるは必定。
ならば後の先を以って迎え打たんと、濤羅の構えた倭刀は魔剣士の刃を待ち構えて不動の内に剣気を滾らせる。
研ぎ澄まされた眼差しを絡め、睨み合う二人の剣士。
まず動いたのは、闇色の外套だった。
短い一歩を濤羅が踏み込み、バージルの居合を誘う。
そして、銀髪の美しき剣士はその誘いに乗った。
しなやかに引き締まった長躯が肉食獣のように撓み、剣柄を握る手に力が篭る。
濤羅は来るべき居合の斬閃を待ち、鉄壁の峨眉万雷。
バージルが大きく一跨ぎ、距離を詰めんと迫る様に全神経を集中させた。
だが次なる刹那、濤羅の瞳はありえぬ光景を見た。
今正に斬り込まんと踏み込んだ異国の剣士が――消えたのだ。
まるで熱砂の上に出でた蜃気楼の如く、蒼き外套も白銀の髪も、ふっつりと消失した。
だが殺気は消えずに残っていた。
否、移動したと言った方が正しいだろう。
切っ先のように鋭利な殺意の圧力を、果たして濤羅は背後から感じた。
「ッ!?」
黒の髪と外套を振り乱し、振り返る凶手。
その眼差しの先には、顔が触れんばかりにまで接近した魔剣士の美貌があった。
濤羅の貌が驚愕の一色に染まる。
それは内家、外家を含むあらゆる武術を超越した技法。
悪魔が魔力を以って成す、魔法魔術の類であった。
特にバージルが得意とするのが空間を操る術。
先ほど濤羅が振るった必殺の鳳凰吼鳴を躱したのも、この空間転移を用いての回避である。
千里の距離ともなれば無理もあるが、数歩の間であれば一瞬にして距離を詰めることが出来る。
いかな剣の達人とて叶わぬ瞬間移動。
さしもの濤羅も、これには即応を果たせなかった。
剣を振るうにしても近すぎる、かといって掌打の類を出すにしても、内勁の練りが不完全である。
引かんとする濤羅、だが美剣士の技は逃すまいと宙を薙ぐ。
繰り出すは刃でなく鞘。
長大な日本刀を抜くよりも挙措に無駄のない、鞘による打撃が翻る。
横薙ぎの打撃が濤羅の脇腹を打ち、筋骨の軋みが鈍く響いた。
「がぁッ!」
内勁を練って硬気功による防御もままならなかった。
肋骨は砕け、息が詰まる。
衝撃によって蹈鞴を踏む濤羅に、さらなる追撃が狂える牙を剥いた。
今度こそ我が白刃に血を吸わせん、その意気を以っての居合抜刀の構え。
既に凶手の身は、魔剣士の刃圏の内にあった。
麗しき美貌を狂悦に歪ませ、バージルは迷う事無く踏み込んだ。
微塵の淀みなく流れる鞘走り、抜き放たれる三尺超の刀身は凶手の首級を欲して妖しく煌いた。
死ぬ。
砕かれた脇腹より全身をつんざく痛みに悶えながら、濤羅の心が死を認識する。
だがその瞬間、迫り来る死の斬閃にもう一つの刃光が牙を剥いた。
高らかなる金音一声。
首を刎ねんと奔った魔剣士の刃が、下段より逆流れた倭刀に斬り上げられていた。
その時、濤羅に剣をどう振るおうかという意はなかった。
正しくこれこそ内家内勁剣術の深奥。
一度鞘より放てば、打ち手の意に先んじて敵を絶つ。
戴天流刀術を会得せし、一刀如意の境地である。
粉砕骨折を起こした肋骨が肺腑に刺さり、口元を血の朱で濡らしながらなお、濤羅の眼差しが力を持つ。
いかに相手が己の想像を絶する技を繰ろうと何がある。
我が手には、この半生を賭けて磨いた剣技があるではないか。
そう思った時、濤羅の手は既に次なる刃を振るっていた。
死地にあって涼やかな境地に立った凶手が放つは、戴天流の秘術を尽くした殺法。
まず深く踏み込んで、袈裟懸けに刃を振り下ろす放手奪魂の一刀。
軽功術の妙技にて神速に達した剣を、バージルは事も無げに刃を掲げて防ぎきる。
だが、この一手が防がれる事は既に承知済みである。
一度防御に回った魔剣士に、内家剣士の刃は驟雨と化して攻めた。
次いで紡ぐは横薙ぎの斬撃、鳳凰吼鳴に、相手を眩ます虚手を幾重にも入り混ぜた連続技、連環套路が唸りを上げる。
軽く、速く、鋭く、そして柔靭に。
気孔と内勁術によって繰り出される濤羅の刃、それを悪魔の力と反射神経で防ぐバージルの刃。
繚乱と二つの白刃が踊り狂い、濡れたように反射する光で文目を描いた。
甲高い金音の合唱が、幾重にも幾重にも鳴り響く。
果たして、それは何合目だったか。
受け手から攻め手に転じようと、美剣士が強引に鍔競りへと持ち込もうと踏み込み。
それを読んだ黒衣の凶手が軽やかに身を引く。
受けるどころかむしろ誘い込むように剣を引かれた事で、バージルの身が余計な力を込めて踏み込んでしまった。
崩れる体勢のまま蹈鞴を踏み、振り返った時には濤羅の追撃が吼える。
バージルが見たのは、一面の黒。
翻った長衣の裾を目眩ましとして放つ電光石火の蹴り技、臥龍尾の炸裂。
麗しい美貌が蹴りの衝撃で歪み、口内から血を流しながらバージルがよろめく。
その隙は、もはや致命的だった。
黒の眼差しに屠る相手への憐憫を孕み、濤羅の身が風と化す。
鋭く硬い刃が肉と骨を貫き抉る音色が響き、鮮血が毒々しい華を裂かせた。
「……ッ」
声にならぬ声を上げ、己の胸に深々と刺さって心臓を貫く刃を、バージルは見つめた。
今度こそ決まった、戴天流必殺の刺突技、貫光迅雷。
紛う事無く心の臓を貫いた刃は、返す刀で臓器を抉りながら音もなく抜かれた。
迸る血の飛沫。
蒼き外套を紅く染め、異国の美剣士が、どう、と倒れる。
死闘だった。
愛用の倭刀を残心に構え、濤羅は名も知らぬ異国の剣士の力量に感嘆した。
内家でも外家でもない、魔としか形容できぬ技前。
もし一歩間違えば、今こうして倒れていたのは自分かもしれない。
そう心中にて肝を冷やしながら、濤羅は刃を血振りして鞘に収め、場を立ち去ろうと歩む。
だが、しかし……。
「勝ったつもりになるのは――まだ早いぞ」
死した筈の屍の声が、その足を止めた。
振り返る。
そうすれば、今しがた絶命した美剣士が、ゆっくりと立ち上がっていた。