新うさぎおいしあの山

  たまり・水たれ・すまし

 

スローフードにLOHAS

この国でトレンドとなった言葉は

商品化されてはすぐ、消えていきます。

自給自足の生活。

その言葉からは、ほろ苦さとともに

郷愁にも似た複雑な思いが立ち昇ります。

さて28回めは「たまり・水たれ・すまし」のお話です。

いずれも、味噌から作った調味料。

それらの調味料を通してLOHASだったかもしれない

かつての農村生活の重みをほんの少しでもお伝えできればと、思います。

  Lifestyles of  Health and Sustainabilityの略。

環境や自然、健康に優しいライフスタイルを指します。

 注: お使いのブラウザによっては多少見づらい点があると思いますので、

その点はご容赦くださいませ。

 

 お急ぎの方はコチラ↓から。小見出し毎に段落のウインドウを開きます。

 自給自足が当たり前だった、かつての農村生活

必然が残した室町時代にまで遡れる調味料

たまり   水たれ  すまし  いま好まれている調味料とは

 

 

秋田県南地方に残っていた古い古い時代の調味料のお話の前に、

ちょっと固〜いお話から入らせてくださいませ。

 

      昔は貴重品だった、醤油

   

平成の今ではどこの異次元の話かというぐらいにピンとこないのですが、

その昔、醤油はたいへんな貴重品だったそうです。文献に醤油が初登場す

るのは江戸時代初頭に発刊された『易林本節用集』だそうです。

ただし『易林本節用集』は室町時代中期の古本の伝写と言われていますので、

すくなくとも室町時代中期には醤油があったとされています。

けれども室町時代から江戸時代にかけて、

醤油は支配者階級と富裕階級の食品でした。

その醤油が米よりも安い値段で買えるようになったのは、

明治に入ってからといわれています。

太平洋戦争の間は、味噌も醤油も統制配給品でした。

戦中戦後の代用醤油という言葉からも、質の劣悪さが想像できます。

醤油は終戦後異常高騰し、

自由販売がようやく認められたのは昭和25年からとのことです。

 

 

       自給自足が当たり前だった、かつての農村生活

 

それでは、少し昔に遡りましょう。昭和50年代前半あたりまでの

秋田県南地方の農村地帯の常識にこんなものがありました。

それは、新米の季節を過ぎて年が明けても古米を食べる家が

中流の証だったことです。

食糧の備蓄が、文字通り「命の綱」であった時代の名残でした。

ほかにも食生活のほとんどを

自家の田畑で採れるものでまかなってこそ

「かまどもちのよい(家計のやりくり上手な)主婦」として

1人前とみなされたのです。もっと言えば、秋田県南地方の農村地帯では

普段の日の食事にお金をかけることは、ある時期まで悪徳でした。

食事にお金をかける日は、節供日などのちょっとしたハレの日、

祝儀不祝儀などの節目の日と決まっていたのです。その常識の縛りは、

かなり薄められたとはいえ、昭和50年代前半あたりまでは、

意識のはしっこに残っていました。

 

 

       必然が残した、室町時代にまで遡れる調味料

 

いまでも秋田県南の農村地帯には

「金をかけずに手間をかける」という言葉が残っています。

一人前の主婦の「かまどもちのよさ」を支える根本が、

自家醸造の味噌と、昔は「味噌から作った調味料」でした。

それは醤油の原料となる小麦が取れない土地柄*1のせいで

秋田では醤油の自家醸造が普及しなかったことによります。

そうした理由で、

プレ醤油というべき室町時代にまで遡れる調味料の製法が残りました。

文献によると、醤油誕生以前の調味料は

「以呂利(いろり、色利とも表記)」― カツオを煮詰めたものだそうです。

そして「たまり*2」 ― 味噌が熟成する際に分離する液です。

この「たまり」こそが、今も秋田県南地方に残っているプレ醤油です。

「たまり」以外のプレ醤油には

「薄垂れ」「生垂れ」「垂れ味噌」などがあったそうです。

平野雅章氏に『醤油味噌の文化史』という本があります。

そのなかに、

室町時代末期と推定される『包丁聞書』からの引用がありました。

それによると

「味噌1升を水3升で溶いて袋に入れ、したたり落ちる液汁」という

調味料があったそうです。

この調味料は

江戸時代の『料理物語』に「生垂れ」として記載されています。

また分量の記載はないのですが

味噌を水で溶いて水のうで濾して作る液は

江戸時代の『和漢精進料理抄』に「薄垂れ」として出てきます。

「生垂れ」「薄垂れ」に酷似した調味料の製法が、

実は私がごく小さな子どもの頃まで

「水たれ」という名で実家に残っていました。

こうした調味料が残ったことは、秋田県南地方が昭和になってからも

米作中心の経済を営んできたからだと考えられます。

それは言いにくいことですが、

消費経済の潮流に乗る時期が遅れたからだとも言えます。

 

*  1 秋田県では、小麦はほとんど収穫できません。

例外的に収穫できたのが

稲庭うどんで有名な湯沢市稲庭町三梨(みつなし)地区です。

*  2 東海地方の豆味噌のことを溜(たまり)とも言うそうですが、

ここでいう「たまり」は、味噌の醸造過程で分離する液のことです。

もちろん東海地方の溜醤油とは違う、全く別の調味料です。

 

 

      たまり

 

「たまり*3」は、味噌の熟成過程にできる「茶色いつゆ」です。

しかし「たまり」は、

むやみやたらに味噌桶から汲み上げていいものではありません。

なぜなら、味噌の味を左右する重要な要素が「たまり」だからです。

味噌桶には2斗押し、3斗押し、5斗押しなどの大きさがあります。

このなかで「たまり」を汲み上げていいのは

3斗押し以上の味噌桶からです。

間違っても1斗押し程度の味噌桶からは

「たまり」を汲み上げてはいけないと厳しく戒められていたそうです。

また3斗押しの味噌桶からでも、

汲み上げられる「たまり」は年間2升。

それ以上汲み上げると、味噌の味が格段に痩せてしまうと

固く戒められていました。

いかに貴重品だったか、おわかりいただけますでしょうか。

「たまり」は祝儀不祝儀の本膳料理の吸物下地や、

お正月の清まし雑煮(すましぞうに)、

節供日の清まし餅(すましもち)*4など、

ちょっとした行事の日に大事に使われました。

戦後の混乱期、日常の「したしっこ(お浸し)」に

「たまり」を使えたお宅は、相応の田畑を持っていたお宅です。

昭和39年以前に生まれた方なら、

記憶の底を探っていただけませんでしょうか。

一家の主婦が後生大事に管理していた

茶色の液体が入ったビンのことを。

買い求めたお醤油を日常の生活に使うことが当たり前となった

昭和40年代に入ってからも、ちょっとした行事の日には、

姑が「吸物は、たまりで作らねば」と家事を仕切っていたことを。

ちなみに「たまり」で作ったお吸物は、

しょっぱさの奥にまろみが隠れている味でした。

いまでも残っている「たまり」は秋田県南地方が

声高に誇っていい食文化だと思います。

     

*3 「たまり」は湯沢市の味噌屋さんで、

今でもそれぞれの商品名で製造販売されています。

*4 清まし餅(すましもち)は、地域によって出汁が異なりますが、

清まし汁に搗きたての水切り餅を入れた椀物。

『餅』の著者・藤田秀司氏が言うお雑煮との違いは、

お雑煮は「のし餅」を切って焼いた餅を使いますが、

清まし餅は搗きたての水切り餅を使うことにあります。

清まし餅は、地域によって汁餅とも呼ばれます。

なお秋田市の餅菓子「すまし餅」については、現在リサーチ中です。

*5  単位 1升  約1.8リットル   1斗 約18リットル

 

 

         水たれ

 

「生垂れ」「薄垂れ」と酷似した作り方の調味料を

実家では「水たれ」と呼んでいました。

「水たれ」も「たまり」と同じように

吸物下地やお正月の清まし雑煮、節供日の清まし餅、

貝焼きのベースなどとして使っていました。

ただし「水たれ」は

誰にでも簡単に作れるものではなかったというのです。

言い換えれば、

作り手によって出来不出来が大幅に左右される不安定な調味料と言えましょう。

母から聞いた祖母の「水たれ」の作り方は、次のとおりです。

まずボール(手桶)、サラシ袋、味噌を用意します。

ボールに水をはり、味噌をトロトロに溶かすそうです。

その水溶きした味噌をサラシ袋に入れます。

次にボールをもう一つ用意し、

その上にキガミ(和紙)を敷いた笊をのせます。

この笊の上に水溶き味噌を入れたサラシ袋を置き、

10時間以上かけて自然に滴らせたそうです。

このとき決してサラシ袋を手で押したり、

もんだりしてはいけないそうです。

すると、

したたる液が長時間かけて笊の下のボールにたまったそうです。

この液こそが「水たれ」です。

惜しむらくは、明治生まれの農村婦人の技術なので

分量が計量されていなかったことです。

同じ方法で母は何度か試みたそうですが、

祖母の味は再現できなかったといいます。

ただ母の名誉のためにお断りしておきますが、

母の実家は「たまり」を日常使いするのに

不自由しない規模の農家でした。ですから母の花嫁修業の科目から

「水たれ」作りが外されていたことと、

農村地帯ですら消費経済の中に取り込まれつつあった時代でしたので、

「水たれ」作りの技術が、実家では途絶えてしまったのです。

祖母が現役の主婦だった時代、この「水たれ」で作ったお吸物や

清まし餅の味は格別でした。醤油ベースで作るお吸物や清まし餅とは、

味の奥深さ、品の良さがまるで違いました。

けれども実家では「たまり」も「水たれ」も、

もう何十年も前に途絶えた味です。

 

 

       すまし

 

『聞き書き 秋田の食事』によると、

旧仙北郡と県北のほとんどの地域が「たまり」以外のプレ醤油として、

水溶きした味噌を火にかけたものを袋に入れ、

そこから滴り落ちた汁を使っていたそうです。

「水たれ」との大きな違いは、水溶きした味噌に火入れすることです。

このタイプのプレ醤油は『聞き書き 秋田の食事』によると、

県北では「すまし」と呼ばれていたそうです。

この「すまし」と酷似した調味料が

『醤油味噌の文化史』(平野雅章)に出て来ます。

それは、室町時代末期の『包丁聞書』記載の

「垂味噌 ― 味噌1升に水3升5合を煎じて3升とし、袋に入れ、

それを締めてたらしたもの」。

「すまし」もおそらく「水たれ」同様

気の遠くなるような時間がかかり、

なにかコツがあったはずだとまでは、私にも推測できます。

 

『聞き書 秋田の食事』のご用命はコチラから

 

 

       いま好まれている調味料とは

             

秋田県南地方では醤油に類似する調味料の嗜好が

「白だし」にかたよっています。お醤油でさえ、東北では珍しい

淡口醤油が製造販売され、好まれています。

この嗜好の因がどこにあるのか、それはとても興味深いことです。

 

 

 

参考:『みその本』(柴田書店)『味噌』(柴田書店)

『醤油味噌の文化史』(東京書房社)『週刊朝日百科』(朝日新聞社)

『聞き書き 秋田の食事』

 

 

      2007年4月20日

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