寺島実郎の発言

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連載「脳力のレッスン」世界 2007年6月号

極東ロシアというブラックボックス

新潟空港からわずか1時間半のところにウラジオストックはある。しかし、日本の航空会社の便はなく、ロシアの航空会社が旧ソ連製の老朽化した機体で、新潟、富山と週2便ずつ運行しているにすぎない。それほどまでに見えない存在としての極東ロシアが、再び日本の進路に意味を持ち始めている。

ウラジオストックと日本の縁

1860年、明治維新の7年前、帝政ロシアは中国との北京条約でウスリー河東岸地域を手に入れ、ウラジオストックという街の建設に着手した。ウラジオストックとは「東に征服せよ」(東征)という意味で、文字通りロシア帝国の極東進出の基点であった。

日本とウラジオストックの歴史的関係は深く、明治維新直後の1871年(明治4年)には「大北電信」と訳されたデンマークのグレート・ノーザン・テレコム社が、コペンハーゲン=ラトビア=モスクワ=イルクーツク=ウラジオストックと繋いだ電信を長崎まで伸ばした。ウラジオストックは日本にとって欧州の入り口であった。 ウラジオストックを起点とするシベリア鉄道は1901年に完成した。後にロシア革命で惨殺されたニコライU世が、皇太子時代に日本を訪問し、「大津事件」で負傷、帰国途上のウラジオストックで、1891年に起工式を行なっているから、10年で建設したことになる。これによりモスクワと13日間(現在は7日間)で結ばれることになった。1904〜05年の日露戦争時にはその輸送力で日本軍を悩ませたが、かつては多くの日本人が欧州を訪れる回路であった。

1912年(明治45年)5月、与謝野晶子が夫鉄幹を追ってパリに向った時も、500人もの友人達に新橋駅で見送られて東海道経由で敦賀に向かい、敦賀からロシア船でウラジオストックに渡り、シベリア鉄道に乗って12日後にパリに到着したのである。晶子はパリでの再会の喜びを「恋するにむつかしきこと何のこる 三千里さえ1人にて来し」と詠んだ。4ヶ月の欧州滞在の後、晶子はマルセイユから船で40日をかけて帰国した。シベリア鉄道がいかに欧州との距離を縮めたかが分る。

20世紀における極東ロシアと日本の関係は、総じて不幸な関係の連続であった。「日本近代史とはロシアの脅威と向き合った100年」という表現もあるが、双方の帝国主義の拡張圧力が衝突した日露戦争、そしてロシア革命を経て「共産主義の脅威」に脅えたシベリア出兵、さらに第二次大戦後のシベリア抑留、冷戦期の東西対立など、良好な関係を構築できるような状況ではなかった。相互不信と憎悪を増幅した時代が続いたともいえる。

極東ロシアの三州に670万人のロシア人が住むが、その3分の1はウクライナ系だといわれる。1883年にウクライナの港オデッサから海路で最初の農業移民1600人がウラジオストックに送り込まれ、1902年までに5.7万人に達したという。その後も1917年のロシア革命期や第二次大戦期を経て、独立志向の強いウクライナはソ連邦の体制派から弾圧され、「シベリア送り」となる者が少なくなかった。旧満州にはウクライナ独立派によるウクライナ人社会が形成されていたという。日本にもウクライナ人の一部が流れ込んでおり、昭和の名横綱たる大鵬の父親も実はウクライナ人であった。

極東ロシアの新しい意味

1991年のソ連崩壊のロシアにとっての意味は、532万平方キロの土地を分離独立によって失ったということであるが、バルト三国の独立によって西の海の出口を失い、ウクライナの独立によってオデッサなど南の黒海への出口を失ったことでもある。東の出口としての不凍港のウラジオストックの潜在価値は高まったといえる。しかも、台頭するアジア経済と向き合うためにも、ウラジオストックをはじめ極東ロシアは21世紀のロシアにとって重要である。

しかし、ソ連崩壊後のロシアには極東ロシアに予算を振り向ける余裕がなかった。ようやく数年前から極東への予算配分を増やし始め、2012年のAPEC首脳会議をウラジオストックに招致する計画を睨み、五年間で極東ロシアのインフラ充実のために1000億ルーブル(日本円で約4700億円)の連邦予算を投下する構想を発表している。

背景にはエネルギーの増産による潤沢な収入がある。2006年のロシアの原油生産は972万BDとなり、天然ガス(石油換算)の生産量と合わせると2300万BDに達し、石炭を除く化石燃料の生産力でロシアが世界一の地位を確立したことを意味する。しかも、エネルギー価格が高止まりという状況を背景にエネルギー収入が急増、「ロシアのオイルマネー」という存在が世界経済を揺るがす要素になってきた。

エリツィンが任期途中で退任し、プーチン大統領が唐突に登場した2000年夏、沖縄サミットが行なわれた頃、ロシアは混迷の中にあった。大方の人は悲観的展望でロシアを見ていた。ところが、2006年夏のサンクトペテロブルグでのサミットにおけるプーチンは「自信あふれる蘇るロシア」を演出してみせた。「エネルギー帝国主義」という言葉が使われるほど、エネルギー戦略をテコに存在感を高めるロシアの姿が鮮明になってきた。

本年3月、EUが共通エネルギー政策を発表し、「再生可能エネルギーで一次エネルギー供給の2割を目指す」という驚くべき目標を掲げたのも、「原子力の見直し」という動きをみせる国が増えたのも、「ロシアにエネルギー戦略での生殺与奪権を握られたくない」との欧州の心理が働いていることは間違いない。このところロンドンで耳にする話題は、いかにロシアのオイルマネーがロンドンの金融市場に入り込んでいるかという事例ばかりである。

ウラジオストックで最も印象に残るのは「あふれる日本車」である。走っている車の8割が日本車ということだが、そのほとんどは日本海側の港湾から積み出された中古車である。昨年も推定で14万台の中古車が極東ロシアに輸出されているという。複雑なのは、日本のメーカー企業が正規のルートを確立しているわけではなく、主としてパキスタン系の企業が日本国内の中古車を確保し、極東ロシアの受け皿企業を介して輸出しているという変則ビジネスモデルが肥大化したのである。

日本車の性能に対する極東ロシア市場の評価は極めて高く、特に厳寒の冬季に対応できる4WD型のランドクルーザーやプラドなどの車種への需要は強い。一時、韓国車が攻勢をかけたこともあったが、市場の評価が日本車の優勢を決定づけた。中古のプラドが約800万円するというから、購買力に驚かされる。車だけでなく、スーパーマーケットなどの品揃えをみても、日本産の高級果物を含めて高価なブランド力のある品が充実していて、富裕層の消費水準の高さがうかがい知れる。

2006年の日本の貿易総額に占めるロシアとの貿易比重はわずかに1.2%にすぎない。日本海を取り巻く地域連携たる「環日本海構想」も、北朝鮮問題のごとき政治要素もあるが、極東ロシアがリングの失われた部分として低迷してきたことも実体として進捗しない要素であった。ロシアは、人口制約のあるこの地域において、労働集約型の産業ではなく、アルミ精錬やエネルギー関連産業などの産業振興を意図して動き始めた。

ウラジオストックの極東工科大学など科学技術系のアカデミズムを有することも今後への有望要素となろう。日本、中国、韓国との産業連関の中で、極東ロシアの潜在力を生かした相互補完型の地域連携を実現する構想は絵空事ではなくなってきた。

プーチンの強権主義的政治手法に対して批判の声も聞かれるが、ロシアが二一世紀の世界史の正面に再登場してきたことは間違いない。日本としても眼前にあるユーラシア国家ロシアを正視し、新たな関係を創造せざるをえないであろう。