第3部 都市が問われた |
(1)警告はあった/教訓生かす街づくりは 議員 神戸の街づくりは経済効率性の追求が優先し、安全は後回しになっていなかったか。反省から、新しい街づくりを考えていくべきではないか。 笹山幸俊市長 就任早々から、市が株式会社といわれることには反省してきた。長く議論する気はありませんが、理解いただきたいと思います。 二月十五日の臨時神戸市議会。笹山市長は内容に踏み込まず、答弁を切り上げた。 市長就任は一九八九年十月。以来、神戸が旗印にしてきた「都市経営」という言葉を使っていない。しかし、震災を機に、戦災復興以来、五十年の神戸の街づくりが問われているのも事実だ。 神戸市中央区の貿易センタービル十八階にある神戸都市問題研究所。理事長の宮崎辰雄・前神戸市長(83)に話を聞いた。 「神戸に地震が来るとは、夢にも思わなかった。ぬかりがあったかもしれないが、何百年、何十年に一度の大地震に備えるとなれば、それは大変なことになる」 四九―六九年 故・原口忠次郎 六九―八九年 宮崎辰雄 戦後、神戸の街の礎は、この二人の市長によって築かれた。 技術者の原口元市長は、ポートアイランドの建設を発想し、宮崎前市長は後を継ぐ。「山、海へ行く」と形容され、人工島に象徴される「都市経営」は、全国から注目された。 安全を軽視していたのでは、との問いに宮崎前市長は反論した。 「私の都市経営は、安全とは矛盾しない。すぐに壊れるような街は、かえってコストが高くなる。それが証拠に、西神ニュータウンや人工島など新しい街の被害は少なかったはずだ」 □ □ 六甲山を背にする神戸の災害は、まず水害だった。 宮崎前市長が市職員になった翌一九三八年七月に阪神大水害が起きる。降り続いた豪雨で土石流が発生し、死者六百十六人、被害家屋八万七百十五戸を出した。 約三十年を経た六七年七月、再び豪雨に見舞われる。六甲山に四百カ所以上ある砂防ダムは、水害と取り組んできた軌跡である。 地震への警告がゼロだったわけではない。 国の地震予知連絡会は六九年、「過去に大地震があり、活断層が密集している」と京阪神から名古屋地域を特定観測地域に選んだ。 「直下型地震で壊滅的な被害を受ける」。七〇年代初め市が専門家に委託した調査報告書にはこうある。 損保会社の地震保険料率は、兵庫県を上から二番目の三等地に位置づける。 過去五百年の地震データから、全国四十七都道府県を四ランクに区分し、最も高い四等地は東京、神奈川、静岡の三都県。三等地には、兵庫とともに愛知、京都など十三府県が並ぶ。 □ □ 神戸市が地域防災計画の別冊・地震対策編を作るため、部会を設けたのは八五年。前年の西播磨「山崎地震」がきっかけだった。 対策編の想定震度は「5の強」。震源地は、南海道沖、山崎町周辺など三カ所。今回、直下型地震を引き起こした六甲断層帯は外されていた。 直下型を想定すれば、「震度6」の対応を取らざるを得ない。「ライフラインの耐震対策に膨大な費用がかかり、計画が絵にかいたモチになりかねない」と市が求めたからだという。 しかし、当時委員を務めた神戸大学工学部の室崎益輝教授(都市防災)は「市は震度5レベルの計画にも、本気でやってこなかった。専門家の意見に真剣に耳を傾ける姿勢に欠けていた」と指摘する。 対策編は、大火に備えた広域避難所の予定地に灘区の王子公園など七カ所を挙げている。正式な指定は策定から十年たった現在も保留されたままだ。 ■ ■ 死者五千五百二人、行方不明二人を出した震災は都市の安全、自治体の対応に警鐘を鳴らした。教訓を街づくりにどう生かすのか。兵庫県と被災市町が、策定を急ぐ復興計画に必要なものは何か。第三部は震災が都市に突きつけたさまざまな課題を考えたい。
(掲載日:1995年5月15日) |
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