チラシの裏SS投稿掲示板




感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[25364] バガラバ
Name: 鬼虫兵庫◆7ce726e6 ID:f0ecf01f
Date: 2011/01/14 21:21
まえがき

どうも初めまして私、鬼虫兵庫と申します。
この作品は第二回講談社BOX新人賞PowersでStones賞を受賞した作品です。
死蔵するのもなにかと思いましてこちらの方で連載させていただくことに致しました。
受賞時は未完のままではありましたが、今回は完結まで続けていきたいと思います。
長いお付き合いとなるかもしれませんが、何卒よろしくお願い申し上げます。

それではどうぞ



あらすじ

オハイオ。片田舎の教会から大量殺人犯の遺体が消えた。
ニューヨークセントラルパーク。紅葉で公園が赤く色づく中、池田は黒人の男オクターブから事件の捜査を依頼される。
そして遠く離れた日本では、女子高生の真夏がいつもと変わらぬ日常の中にあった。
事件は次第に様々な人間を巻き込み、不可解な方向へと拡大を見せる。

霧が誘う世界、そこは―
異世界、跳躍、皆殺しバトル、開幕。



[25364] ―凶兆1―
Name: 鬼虫兵庫◆7ce726e6 ID:f0ecf01f
Date: 2011/01/12 14:37
―凶兆1―

雨が降っている。
雲は重く垂れ籠め、雨粒は際限なく地面を叩く。
地響きのような低音がノイズのように響き、全ての音を掻き乱す。
一瞬、雷鳴が轟き雨音を裂いた。
それは有り触れた小さな教会だった、礼拝堂と比べると広範な墓地が広がり、芝生の上には白い墓石が等間隔に連なっている。
教会に隣接する林の中、迷彩柄のレインコートを着た赤髭の男が白い息を吐き出しながら震える手で携帯食を口にしている。
男の目の前には三脚とそれに備え付けられたカメラがあり、レンズは一軒の家を捉えている。
雨は男にとって全くの不運だった。雨は写真の出来も悪くするし体温も奪う。
だが男は尚も辛抱強くその場でレンズを構え続けていた。
不意に目の前を巨大なトラックが横切る。後部には折りたたまれたショベルカーが乗っているのが一瞬見えた。
近くで工事でもするのだろうかとも思ったが、さして気にもとめない。そのトラックが目の前で停車し、視線を遮らなかったことに感謝した。
ファインダーを覗きもう一度家の入り口にピントを合わせ直す。
その時、男の集中とは別の方向から音が聞こえた。
木をなぎ倒す音、轟音というわけではないが不気味な音が響く。

「…………?」
男はその中でも尚も一軒の家に集中していたが、その尋常ならざる音が連続して聞こえると男はカメラを三脚から外し音の方へと足を進めた。
音はどうやら教会の方から聞こえているらしい。丁度今、男がいる場所とは反対側になる。
男は湿った枯れ葉と枝を踏みしめながら林の中を歩く。あの音はもう既に消えてしまっている。
林を抜け墓地に入るかというところで男の足が止まった。
豪雨の中、墓石を掻き分け進む男達の姿が見えたからだ。
皆、黒服の上にロングコートを着込み、この雨だというのに傘も差していない。
男は無意識のうちにカメラを構えた。



「何処だ!」
口を開けたのは黒い帽子を被った男だ。帽子の暗影の下、僅かに見えるのは黒ぶちの眼鏡と白い髭を生やした老顔、そして鷲型の高く尖った鼻。

「あの角辺りの墓です! ありました! これです!」
黒人の若い男が答えた。コートは既に濡れ尽くしていた。

「名前! 罪状!」
「ロバート・フィッシュ、少女誘拐殺人十五件、1956年死刑執行!」
ラッピングされた薄紙を見ながら叫んだ。異常な雨音と雷音が、男の声を掻き消してしまっている。声は間近にいた帽子の男の耳にすら届かない。

「聞こえないぞ! どれだ! はっきり言え!」
「ロバート! フィッシュ!」
持っているリストを上から順になぞる、ロバート・フィッシュの所で指が止まり、叫んだ。

「よし始めろ!」
墓石の背後に広がる林に向かって合図を出すと、林を突き抜け巨大なショベルカーが姿を現した。
辺りの墓石をなぎ倒しながら進む。
先端には迅速に掘り起こすためか通常の物より巨大なバケットが装備されていた。

「ここだ! 掘れ!」
ショベルは石碑をなぎ倒し、敷石と共に泥をかき上げ横の墓石の上に無造作に掬い捨てる。
一瞬も休むことなくショベルは地面をかく。
豪雨が音を紛らせているが振動が大きい。ショベルが墓を掘り起こす度、地震のような地響きが起こった。

「手早く済ませ!」



教会の一室、礼拝堂の右奥にある小部屋は神父の寝室になっていた。
就寝していた彼は何のものともわからぬ不気味な地響きに気づき目を覚ます。
ぼんやりとした意識の中、初め、近くで工事でもしているのだろうと思ったが、目に入った時計はまだ朝の六時を指している。工事にしては早すぎる。
神父はベッドから身体を起こし、寝室に備え付けの小窓から外の様子を覗く、豪雨の中でもその外の様子ははっきりと見えた。

「何てことだ!」
これは夢かと自分に問うことも忘れ、気づいたときには神父は寝間着のまま外へと走り出していた。



「何をしている! ここは聖域だぞ! お前たちは自分が何をしているのかわかっているのか!」
雨に濡れることも泥水を跳ね上げることも気にせず神父は大きな手振りと共に男達に駆けよった。
黒服の男達は数秒の間黙りその奇態を眺めていたが、神父の気づかぬ程度の目配せを交わしている。

「止めないか!」
更に声を荒げ神父はショベルカーの前に身を乗り出しながら両手を大きく振り上げる。
神の名を叫び、身体を張ってショベルカーを止めようとするがショベルカーはそれを気にとめる様子もなく平然と地面をかき続けている。止まる様子は微塵もない。

「神父はいないと聞いていた……担当は誰だ! なんてへまをしてくれる!」
帽子の男が大声を上げ顔に不快感をあらわにする、それと同時に神父の後ろに音も無く男が回り込んだ。神父はそれに気づいていない。

「お前達は自分たちが何をやっているのかわかっているのか! 墓荒しなど……神の……名を…………」
吐き出すような低い唸り声を上げ、神父は膝をついた。
短髪の男が牧師の襟首にペン型の注射器を突き刺したのだ。
強烈な鎮静剤によって昏睡させられた神父はそのまま泥水の中へ頭から崩れ落ちた。

「どうします?」
「教会の中にでも放っておけ」
「生きたままですか?」
「…………ここは神の領域だからな」
明らかな皮肉めいた口調でそう呟き、男は耳にしていたイヤホンマイクに手を当てる。

「通報はされていないだろうな」
『大丈夫です、有線も携帯も使われていません』
イヤホンの声が答えた。

「出ました!」
黒人の男が叫んだ、雨に濡れた泥の間から腐りきった木棺が顔を覗かせている。

「かまわん! そのまま突き壊せ!」
ショベルカーが強く木棺を叩く、腐りきっていたそれは即座に崩れ内部を剥き出しにした。
男は木棺の隙間からペンライトを差込み中の様子を見るが、そこには何もなかった。ただ空の棺の中に雨水が流れ込んでいるだけである。
あるはずのものはそこには無かった。

「やはり! ありません!」
帽子の男は憤り両手で腰を叩いた。

「糞! 次の墓は!」
「レイモンド・ヒュース! ここから近い集団墓地内にあります!」
「よし! 今からそこに向かうぞ!」
「わかりました!」
掘り出した墓をそのままに男達は動き始めた。
泥水は空の木棺の中に流れ続ける。
程無く木棺は溢れ、一瞬の喧騒は雨の中へと消えた。
だが暗い林の中、僅かな人の気配が残っている。それは酷い怯えと共にそこから動けない小動物のような本当に僅かな気配だった。



[25364] ―凶兆2―
Name: 鬼虫兵庫◆7ce726e6 ID:2553af8b
Date: 2011/01/12 14:39
―凶兆2―

ニューヨーク。
セントラルパークの紅葉は燃えるような色へと色づき始めていた。日中は小春日和といった陽気だがまだ朝はだいぶ冷え込む。
日も明けきらない薄暗がりの中、二人の男がベンチに腰掛けコーヒーを飲んでいる。

「池田、二日前にオハイオで起きた墓荒らしの件は知っているよな?」
ニット帽を深くかぶった黒人の男が喋ると息が白く広がった。今朝は大分冷え込んでいる、目の前をジョギングしている男の吐き出す息も白く曇っていた。

「一応ニュースでは見た、確か三日前にもドイツでも同じような事件があったな、だが俺はそれよりも死刑囚が脱走した話の方に興味がある」
池田と呼ばれた男は東洋系ではあるが彫りの深い顔立ち、短髪、口髭を生やした三十半ば程度の男だった。片手をダークスーツのポケットに突っ込み、もう一方の手でコーヒーを飲んでいる。

「そいつに関して少しばかり面白い話があるんだが」
「オクターブ」
少し間を置き

「こんな朝早くに呼び出して何の話かと思えば、そんな話か? 俺はカルト宗教には興味は無い。なんでも現場にはカルト系の教本が置かれてたそうじゃないか。あれはカルト教団の仕業だよ」
「池田戦(いけだせん)ともあろう男がそんな話を鵜呑みにしているのかい?」
「さあ、あまり興味が無いもんでな」
「ま、そう言わずこいつを見てくれ」
オクターブがポケットの中から封筒を取り出し、中から一枚の写真を取り出す。写真には巨大なショベルカーとその影に隠れるよう立っている黒いロングコートの男達の姿があった。
雨が降っていたせいか写真の精度は良くない、だが男達が立っているのが墓場であるのと、ショベルがそれを掘り起こそうとしているのはわかる。

「こいつは?」
「俺の知り合いが他のネタを追っている時、偶然取ったものだ。池田どう思う?」
「スーツに黒いロングコート、カルト教団員といった人体ではないな」
池田はその写真を暫く注視した後、オクターブに向かって

「他の写真は無いのか?」
その言葉を聞くなりオクターブは持っていた封筒を逆さまにして叩いた。数枚の写真が封筒の中から滑り落ち、再びそれを池田に手渡す。
他の写真に目を移す度、連続写真のように状況が変化する。
墓を掘り起こすショベル。男達の不鮮明な顔のアップ。その場に現れた牧師。そしてそれを昏倒させる男。墓が掘り起こされ何か確認している黒人の男。それが最後の一枚。

「その知り合いによると連中何かを確認するとすぐにその場からいなくなったんだと、様子が尋常じゃ無かったしとても後は追えなかったらしいが……」
「…………」
もう一度写真を見直す。その中、割と鮮明に写っている男の写真に目がとまる。
黒ぶちの眼鏡で白い髭、鷲型の鼻の横顔。
池田はその写真を指で軽く数回叩きながら何かを考える仕草を見せた。

「こいつは、見たことがある顔だ、たしか昔……どこかで見たことがある」
池田はしばらくの間その記憶を思い出そうとしたが、やめて話を続ける。

「ともかく、この装備とやり口……こいつらは政府の人間だ」
「馬鹿な、政府の人間が墓荒らしをしたっていうのか? 何のために?」
「さあな、だがこのカメラマンに言っておいたほうがいい『間違ってもこの写真を持ち込んだりするな』とな」
「なるほど……かなりハードな写真と言うわけか……」
「政府がカルト教団に見せかけて墓荒らし……何か相当やばいことをやっている証拠だ」
「政府の力を使えば公式に墓を暴くこともできただろうに、そこまで急ぐ必要がある何かが起こったということか? だが墓を暴く必要がある事態なんて俺には想像もできんが……」
「さすがに俺もそこまではわからん、だがこれは本来ここでこうやって話しているのも危険なほどの話題だよ」
「おいおい、脅かすなよ」
オクターブが辺りを見回す、周囲には誰もいなかった。

「探ってみてもいいが……」
深いため息の後

「こいつは厄介だぞ」
池田の言葉にオクターブはにやりと笑みを浮かべる。

「いつものことだろ?」
「そうだったな……今後こいつに関してはオフラインのみだ」
「わかった」
頷きながらオクターブはもう一度辺りを見渡した。遠くに犬の散歩をする老人の姿が見えた。視線に入る人の姿はそれだけだ。

「さて……行くかな」
池田が飲み終わったコーヒーのコップをゴミ箱に放り投げ、ベンチから立ち上がる。

「池田。ロバート・フィッシュ、レイモンド・ヒュース、ネイサン・ウェンスター、……リグレット・ミックシェイサーこいつらから何を思い浮かべる?」
オクターブの問いかけに池田はやや時間をおいて

「殺人犯、まあリグレットは軍人だったが……」
と答えた。

「そうだよな、そうなんだよな……」
呟き続けるオクターブを背にし、池田はベンチを後にする。

(確かに奇妙な事件ではある……)
道の上には散り始めた紅葉がまばらに広がっている。
後何日か経てば落ち葉によって色づき、一面が色絨毯のように様変わりすることだろう。

(死人を掘り起こして何をするつもりだ)
公園から通りに出るその間際、端にあった街灯に寄りかかるようにして一人の少女が手持ち無沙汰な様子で立っていた。
池田は少女に向かって

「待たせたな、鯉(こい)」
と声をかけた。
紺のスカートに白シャツ、赤色のネクタイをしている少女で頭のてっぺんは寝癖で跳ねている。
地顔なのか或いは本当に眠いのか、眠そうな目をしていたが、あどけなさの残る愛嬌のある顔付きの少女だった。

「まあ大して待っていませんでしたが、少し寒いですね」
「飯でも食いに行くか?」
「先生、ではラーメンを食べに行きましょう」
「朝からか? まあいい、じゃあ行くか」
目覚めを迎え始めた町の中へと歩みだす、町はその喧騒を取り戻し始め、また新たな一日が始まろうとしていた。



…………
普段と変わらぬ日常、大抵皆そこから始まる。戦争も革命も人の死も、既にその日常の時点で劇鉄は上げられている。
それらは僅かな人間、或いは誰一人として気づかれることなく進行し、銃口がこめかみに突きつけられた時、初めて彼らは認識するのだ。
もはや予兆は終わりを告げた。
そして



[25364] 第一話 皆殺しの霧街 『浸食1』
Name: 鬼虫兵庫◆7ce726e6 ID:f0ecf01f
Date: 2011/01/12 14:45
Bagalaba



『二十人いた部隊も今や五人だけになってしまった。明日は最後の攻勢をかける。恐らくこれが最後の日記になるだろう。
…………
もしこの世界に迷い込み、この日記を見たものがいるのなら、私は君に何ができるだろうか……?
そうだ……もし私が生き残り、元の世界にたどり着いたのなら、私は君に生き残るために必要なヒントを残そう。私は生きて元の世界に戻る。そして君もこの世界から戻ってきてくれ。
幸運を祈る』



第一話 皆殺しの霧街 



―浸食―

「私を殺したことを後悔するがいい」
男の声。
この声の主が誰であるのかを知っている。
闇。声のみ低く響く。

「さあ、私の所に来い」
「まだそこへ行くには早い」
答えはすぐに闇に飲みこまれた。
意識も何もかもゆっくりと沈み込んでいく。
やがて全てが消えた。



…………

「……せい……先生、コーヒーがいいですか? オレンジジュースがいいですか?」
まどろんでいた池田は鯉の問いかけで目を覚ました。

(夢を見ていたのか?)
現実の世界へと引き戻される。ここは高度三万フィート。オハイオ行きの飛行機の中にある。
少なくともここは夢の世界ではない。
通路側に目を移すとキャビンアテンダントが飲み物を配っている最中だった。

「ああ……コーヒーにしてくれ」
いつの間にか寝てしまったらしい。
指で軽く両目の眼球を押し眠気を払う。

「あ、すいません、もしかして寝てました?」
すいませんと言いながらも大して悪びれた様子の無い鯉が、コーヒーのカップを手渡す。
いや大してではなくこの顔はまったく悪びれてない顔だ。
鯉の顔を見ながら池田は色々な悪口を思いついたが、くだらないと思考を切り上げ、鯉のコーヒーを受け取った。

「まあ、少しだけ寝ていた。鯉、お前こそさっきまでいびきかいて寝てたんじゃなかったか?」
「ちょっと嫌な夢見ちゃって……それで目が冴えちゃいました」
「ふうん」
池田は珍しいこともあるものだと思ったが、誰にでもナーバスな一面はあるものだ。実際自分があのような夢を見るとは思いもよらないことだった。心の底では罪悪感やらなにやらが渦巻いているのだろうか? とにかく今はそんなことは考えないことにした。

「そういえば先生」
「なんだ?」
「あの女の人の話は何だったんですか?」
オフィスを出る前、その直前に訪れた老婦人の話を鯉はしているらしい。

「聞く必要もないだろう、あの仕事は断るつもりだ。別の依頼があることだしな」
「何で断るんですか?」
「なんで断るかだと?」
鯉に言われ、池田は数時間前の出来事、そしてこの数日の無駄に過ごした日々のことを思い出した。
調査は完全に手詰まりに陥っていた。
事件に関する情報は非常に少なく、手に入る情報は全てなんらかの色づけが施された偽の情報だった。ただ、少ない情報の中わかったことは似た事件が世界の各地で散発的に起こり、その頻度が時間と共に増えているということだ。だがこれは事件の手がかりというには遠い。
池田は全く進行しない状況を打開するため、結局今日になって事件が起きたオハイオに飛ぶことに決めた。
オフィスに彼女が現れたのはそれを決めた矢先のことだ。



「十年前の在日米軍機失踪事件ですか?」
「ええ、そうです。私の夫はその失踪した輸送機に乗っていました」
池田の問いかけにテーブルを挟み座っている初老の白人女性は言いながら頷いた。
顔には疲労の色が濃い。憔悴しきった様子ではあったがその眼光は驚くほどに強い。何かの強い意志がこの婦人を動かしていることがはっきりと見て取れた。

「いいですかエレナさん……ええと、ご主人の名前は……」
池田の目の前の机の上には数々の資料が散らばっている。それはエレナ婦人が全て用意した資料……といっても当時の事件のスクラップや失踪した人物の経歴程度の物ではあるがそれでも相当の資料が積み上げられていた。

「ビック……ビック・ウェンスターです」
エレナはその資料の山の中から資料を取り出しそれを池田に手渡した。
その男は米国旗を後ろに、軍服を着込んだ黒人の男だ。直立し視線はしっかりと彼方を見つめ。その視線は実直な性格を表しているようにも見える。
池田はその資料を見ながらも、この依頼が到底達成不可能な難題であることに気がつき始めていた。

「失礼ですが……この事件は既に日米の合同で徹底的に捜査が行われました。それによってこの事件は事故と判断されたんです。今更私が調査をしたところで新しい情報を見つけれるとはとても思えませんが……」
言い終わった後、口をつけたコーヒーは既に冷め切っていた。
思えば鯉がそのコーヒーを入れたのはだいぶ前のことになる。今鯉は奥の部屋でオハイオ行きの準備で天手古舞いになっているはずだ。時折ここまで物が崩れる音が聞こえてくる。何か壊して無ければいいのだが……と思いながら冷えたコーヒーを一気に飲み干した。

「それでもお願いしたいんです。たとえ何も見つからないとしても、それが一つの区切りになるのなら……」
「…………」
池田はエレナの前にあるコーヒーに目を移す。エレナはそれに全く手もつけず、視線はソファーに座った時からじっと池田に集中している。その様子は病的な程だ。
オフィスに来る依頼者にこういった手合いは少なくはない。
完全に自殺と断定され、全くそれを疑う余地がない事件、何年も前の海難事故での失踪の調査。病的なまでに疑い、自分の満足がいく結果が出るまで調査を繰り返させる。結局彼らは現実に起こった出来事を受け入れたく無いために、違う現実を無理矢理絞り出したいのだ。たとえそれが存在しないとしても。
池田はエレナがそういった一人であると見ていたが、少し気にかかる点もある。

「しかし、何故十年後の今になって調査の依頼をなさったんですか? 調査をするには時間が経ちすぎている……」
「…………」
エレナは視線を自分の横に置いていた手提げ鞄に移し、その中から一冊の黒い手帳を取りだし、そのページの初めの方のページを開き、それを池田に見える形で手渡した。
いや手帳というにはそれは少し大きい、むしろ日記帳といった方が適当かもしれない。

「これは? 日記帳ですか?」
「ええ」
日記に目を通す。日付は一二月四日と記されている。

『十二月四日、日本の米軍基地に到着、任務に就く。今日は冷え込み雪も降っているこの調子なら明日は積もるだろう、明日の移動スケジュールに影響しなければいいのだが……就任早々にこう天候が悪いとはついてない』
その短い日記の文章を何回か読み返していた時、池田の視線が十二月四日という日付に集中し止まった。

「ん、まてよ……この日記はあり得ない……」
顎に手を当て再びその文章を読み直し、視線をエレナに移す。

「ご主人はこの事件以前に日本に駐留したことは?」
「いえ、一度も。主人が日本にいたのは事件の前日だけです」
「…………」
池田は一度大きく息を吐き出し、その日記の内容をもう一度読み直した。
確かにこの日記帳は奇妙だ。



「なんで奇妙なんですか?」
不意に鯉の言葉が池田の意識を現実に引き戻す。
鯉はちびちびとオレンジジュースを飲みながら興味深そうな様子で池田の方を向いていた。

「話すより、実物を見てもらった方が早いだろうな」
胸ポケットから日記帳を取り出しそれを手渡す。

「これがその日記ですか?」
「ああ、だがそれは預かりもんだ。それにすぐ返すつもりだから汚したりするなよ」
「了解です」
ちびちびと飲んでいたオレンジジュースを一気に飲み干し、鯉はそれを受け取った。

「十二月四日ですよね。え~と……なんでしょう? なんかの記念日とかでしたっけ?」
「まあ……この事件を詳しく知ってないのならそれも無理はないかもしれん、十二月四日は米軍機の墜落する前日だ」
「え? 前日? え~と……」
手帳をテーブルの上に置き腕組みをし、しばらく考えた後

「ああ! なるほど!」
鯉が少し周りに迷惑になる程の声を上げて手を打った。

「声を落とせ……」
「次の日に墜落したのなら日記帳が自宅にあるはずないですもんね。……あ、でも日記帳が遺品整理で自宅に送られたとか?」
テーブルの手帳を再び手に取りそれをまじまじと見つめる。
手帳は所々牛革が激しく傷つき、かなり傷みが進んでいる。かなり使い込まれたように見えるその日記帳には妙な違和感がある。

「……この手帳、確かに傷んではいるけど、海底から引き上げたって感じではないですしね……基地に置き忘れた日記帳を送り返したとか?」
「俺も始めそう思った、だが婦人の記憶だとそれは絶対に無いということだ。それにビックは次の日のフライトで自分の転属用の荷物と一緒に移動している。それが本当なのならこの日記帳はビックと共に消えたことになる」
飛行機がぐらりと揺れた。
雲に入ったらしい。窓の外が白く、暗くなった。

「エレナさんの記憶違いとか……それとも単なる記述の間違い……でたらめ日記だったとか? 依頼を受けて欲しいためにエレナさんが嘘をついているとか?」
「疑えばきりがない、だがその答えを知る術はないな。とにかく婦人はこの日記帳に何かを感じ、俺に依頼を持ちかけた……というわけだ」
「じゃあ依頼を受ければいいじゃないですか。この日記帳、絶対怪しいですよ」
「そう簡単にいくかよ……確かにこの日記は奇妙だが、事件に関してはなんの役にもたたない、ただ一点、これが自宅の書斎にあったという点を除けば、これは何の変哲もないただの日記帳だ」
「むう~……」
鯉は唸りながら日記帳をめくる。
ほとんどのページには何も書かれていない。恐らく日本赴任に合わせて買ったものなのだろう。書かれているのは失踪する前日の出来事だけだ。だが、その割には妙に痛みが激しい。使い込まれている感じがするが書かれているのは数行だけ。
奇妙な日記。何かを訴えかけている。

(何を?)
珍しく真剣な顔つきで鯉は考え込んでいるが、いくら時が経とうとも答えがでることはない。日記はあまりにも離れたところにある。
少なくとも今は。

「…………」
無言のまま白紙のページをしばらくの間パラパラとめくる。釈然としないまま手帳をたたみ外張りの革に視線を移す。

「そんなことをしても……何か見つかるのか?」
「なんだか気になるんですよ。すごく」
手帳を裏返した時、その動きが止まる。

「…………?」
目を細め、裏の革の細部を顔に近づけてそれをまじまじと見つめ声を上げた。

「先生、この裏の方に何か文字が書いてありますよ?」
「なんだと?」
手帳を受け取り、裏の革張りを眺めてみるが何かが書いてあるようには見えない、ただ革張りが痛みきっているだけのように思える。

「何も書いてないぞ」
「ああ、見にくいなら光に当ててみるといいかもしれません」
手帳に外の光を当てようと思ったが窓の外には雲が覆い日の光が弱い。仕方なく座席の上の明かりをつけそれに手帳を照らし、角度を変え、下からのぞき込む形を取ってやっとその文字を見ることができた。

「こいつはひどく読みづらいな……文字と言うよりはほとんど傷だ」
文字は傷んだ皮の皺と激しい痛みに隠れほとんど読むことが出来ない。それでもその文字を無理矢理読むとすればそれは

「……Ba……ga……la……ba?」
と読めた。
だが池田の知る限りそんな言葉は聞いたことが無い。どこかの地名でも誰かの人の名前でもない。何かの暗号かとも思ったがそれにしては単純過ぎる。

「バガラバ……」
「一体どういう意味なんでしょうか?」
「ビックの愛称とも思えん……こいつに本当に意味があるかどうか……」
「でもなんか嫌な感じがするんですよねこの言葉……不気味というかなんというか」
「考えすぎだ……意味なんてない。或いは本当にただの傷かもしれん」
池田は手帳のその文字をもう一度見直した後それを再び胸ポケットの中に戻した。

「そうでしょうか? う~ん……」
鯉は腕を組みながら唸る。
池田は鯉の様子を横目で見ながらコーヒーに口をつけた。
再びぐらりと飛行機が揺れた。
窓の外はもう白くはない、黒い雲が機体を覆い始めている。



「う~ん……」
コックピットの中、機長がレーダーを眺めながら鯉と同じような唸りをあげた。

「妙だな……こんな積乱雲(CB)、レーダーに映っていなかったぞ」
「確かに妙ですね、レーダーにも反応はありません」
「こういったレーダーに映らない積乱雲(CB)はたいしたことはないはずなんだが……」
「多分すぐ抜け切れますよ」
「とにかくこのまま直進し、雲の中を突っ切るしかない」
レーダーに映らないその雲はしかし、黒い雷雲となり強烈な閃光をあげた。



[25364] 第一話 皆殺しの霧街 『浸食2』
Name: 鬼虫兵庫◆7ce726e6 ID:2553af8b
Date: 2011/01/12 14:53
機体がガタガタと大きく揺れ始め、頭上にあるベルト着用のサインが点灯した。
池田はコーヒーを飲みきり座席のベルトを締め直す。

「揺れだしたな」
「そうですね」
すぐ横、窓の外は黒い雲が立ちこめ、時折雷鳴の光が窓から機内へと差し込む。
どうやら乱気流の中に入ったらしい。暗い雲は飛行機の窓に張り付いたように暗く、窓からの光をほとんど消していた。

「人は死んだらどこへ行くんだろうな?」
夢の記憶が脳裏をよぎり、池田は思わずそんなことを口にした。確かに窓の世界に広がる光景はこの世とは確かに違う別の世界のように思えた。

「いきなり不吉なこと言わないでくださいよ」
唐突な言葉に鯉は目を細めて池田を睨む。

「いや、俺もさっき夢を見てな、俺より先に死んだ奴が手招きするんだ。お前、早くこっちに来いってな」
「…………」
鯉の口が何かを言おうとするまま半開きで止まった。今まで飛行機の揺れにはまったくおびえていなかった鯉の表情が初めて動揺を含んだことに池田は気づいた。

「どうした?」
「実は私も同じ夢を見たんです」
「ほう……こう偶然が重なるとは珍しいな」
「偶然なんでしょうか? 私には何か本当にその世界に引きずり込まれるような怖さがありました。酷く現実的な……夢です」
「フロイトによるところ夢の中で表される旅とは彼方へと向かう死を連想させるそうだ。或いは旅とは人生そのものなのかもしれん。だから逆に考えれば旅の最中にそういった夢を見るのも不思議ではないとも言える」
「…………」
「大丈夫だ。俺は地獄に行くとしてもお前は天国行きだ。保障してやるよ」
池田の言葉にも鯉の表情は晴れない、それどころか表情は一層暗さを増したように見える。
飛行機は相変わらず乱雲の中を揺れながら飛び、時折大きく揺れた。

「でも……」
「なんだ?」
鯉はそのまま押し黙り、無言の時間が過ぎ、雷鳴の光が再び機内へと漏れる。

「私は妹を殺しました」
「…………」
短く唸り、片手で両方のこめかみを押さえるようにして池田は顔をしかめた。

「あれは……殺らなければお前が死んでいたんだ。それにあいつを殺したのは俺だ、お前じゃない」
言った後、深く息を吐き出し、気を静める。

「止めようこの話は……すまないな、嫌なこと思い出させた」
「いえ…………」
大きな揺れ、荷物が一瞬宙に浮き床に落ちた、機内には機長の乱気流に入ってはいるが運行に支障はないとのアナウンスが流れた。

「おっと、こりゃあ飛行機が落ちるか落ちないかの方が心配のようだな」
「そうですね」
堅い笑みを浮かべ鯉は答える。その表情にはまだ深い悲しみのようなものが渦巻いているのが傍目からも良くわかった。
機内に雷鳴が響く。
黒い雲は低い唸りをあげ、飛行機は軋む。乗客の悲鳴も重なり、それらの様々な音がぶつかり合い機内の中は騒がしさを増し始める。

「参ったな……」
呟きとほぼ同時、女性の悲鳴が響いた。
それは雷鳴や飛行機の揺れにおびえて発せられた悲鳴ではない、明らかに性質が違う。何かの逼迫した緊張の高い悲鳴。
反射的に座席のベルトを外す。鯉も池田とほぼ同時に既にベルトを外していた。

「…………」
「出ますか?」
「ああ」
鯉が座席から腰を浮かせ作った僅かな隙間を通り、池田は通路に身をくり出した。
乗客の視線は悲鳴の方に集中している。その隙を利用しギャレーの中に身を隠す。
池田の行動に気づいている人間はいない。
半身を出し前の区画を覗くと体躯のいい男の後ろ姿があった、そして背中越しに手に持っているナイフが見える。

(……ハイジャックか? このご時世に)
猫のように身をかがめた鯉がギャレーの中に身を滑らせる。

「……どうですか?」
池田同様、乗客の目に鯉は映っていない。

「良くないな、恐らくハイジャック。それも恐ろしく手際が悪いハイジャック。そのくせずぶの素人というわけでもないようだ。柄物は恐らくカーボンナイフ、スローイングナイフかもな、あまり切れ味はなさそうだが」
「ちょっとおかしい人でしょうか?」
「ハイジャックをやる奴にまともな奴なんているのか?」
「……ごもっともです」
悲鳴が更に増す。
前の区画は完全にパニックに、それ以外の区画の人間にはまだ状況がつかみ切れていない。だが悲鳴は悲鳴を呼びこみ、恐怖とパニックが機内全体に伝染し始めている。

「俺が仕留める。お前はここから他の乗客に気を配っていろ」
身を出そうとした瞬間だった。
客席の中から一人の女が立ち上がり、銃を男の背中に構え声を張り上げた。池田の動きが完全に邪魔される形になった。

「動かないで! 航空保安官(エアーマーシャル)よ!」
言葉とその男の敏捷な動きはほぼ同時だった。
空中でナイフの刃を指で掴み、振り向きざま女に向かって投げつける。ナイフは女の銃を掠めつつ肩口を切り裂いた。
女の銃口が逸れた。
男の頭部と心臓をめがけて放たれたはずの二つの弾丸はあらぬ方向に跳び座席と天井に着弾する。
男はその巨大な体格に似合わず素早すぎるほどの速さで女に迫った。第三射を放とうとしていた女はその男の動きに躊躇してしまっていた。避けるべきかそれとも攻撃をするべきか、コンマ数秒、その僅かな時間が男との間にあった距離を消失させた。
銃口を向けられていることにも躊躇せず男は女に覆い被さるように押し倒し、馬乗りの形をとる。一方の手で銃を地面に押さえつけ一方の手で新たなナイフの柄を握った。
早い。
ナイフは一瞬の内にのど元に振り下ろされる。
のどを切り裂く寸前、飛び出していた池田の足がそれよりも僅かに早く男の顎を蹴った。
振り下ろしたナイフよりも速く、男は上半身をのけぞらせ、身体を折り曲げるように仰向けに倒れそのまま地面に崩れ落ちる。一瞬、ぴくりと起き上がろうとする動きを見せたが、男はそのままの窮屈な姿勢のまま動きを止めた。
池田は男を倒した後も通路の中に身体を沈め、辺りの様子をうかがう。
僅かな間の内、共犯の存在が無いことを確認するとその警戒を解き、始めて女に声をかけた。

「躊躇するな」
「あ……」
唖然とする女をよそに池田は視線を前方に動かす。
再び悲鳴が起きた。

「あんたはこの男を縛り上げていろ」
短く言い捨て、池田は女を乗り越え前方に向かって通路を進む。
幾つか前の座席にまでたどり着くと血を吐き出し荒い呼吸をしている白人の男を見つけた。あの女のそれた銃弾が男に被弾していたのだ。航空保安官(エアーマーシャル)が使う貫通性の少ない特殊弾丸ではあったが座席を貫通し肺へとめり込み致命傷となるのに十分な破壊力を持っていた。
呼吸の度にゴボゴボと泡を立てるような音が聞こえる。それは既に呼吸ではなくなりつつある。息を吐き出すことも吸い込むことも出来ず、男は血の気の失われた顔で笛のようなヒューヒューとか細い音を立てもがき苦しんでいる。

「助けて……助けてください! お願いです」
隣に座っていた身内らしい女が悲鳴混じりに池田にすがりつく。だが男の生命はもはや助けようの無いところまで弱まっていた。池田が座席のベルトを外すよりも早く、男の呼吸は止まった。既に男の意識は無くなっている。心臓の鼓動はまだ止まってはいなかったがそれももうすぐ止まる。
女が悲痛な叫び声をあげた。心臓の鼓動が弱まり次第に不規則になっていく、女の叫び声が慟哭へと変わる頃、男は完全に死んだ。
池田はその場に居たたまれなくなり通路を引き返す。
通路に立っていた鯉が池田の様子と男の後ろ姿を見ながら声をかけた。

「どうでしたか?」
「駄目だった……もう少し早く動いていれば死ぬことも無かっただろうに」
「……でも、あの時先生が動いていたら二人の間に入ることになりましたから……あの……その、仕方ないですよ」
「それでもと思ってしまうのが人間だ」
鯉の言うとおり池田が動いていれば自らの身を危険に晒すことになっていた。本能がその動きを止めたが、心の奥底には後悔の念がこびりついている。
閃光が機内の中に漏れた、共に爆発音に近い雷鳴が機体を大きく揺さぶる。激しい乱気流にぶつかったのか、機体が激しく揺れ、傾いた。
男の死体も大きく揺さぶられる、頭をもたげるようにして無機質な動きで上半身を折り血のにじんだ背中をあらわにする。通路に落ちそうになる死体をベルトが何とか支えていた。飛行機の揺れはそこまで大きくなっている。
池田も座席の手置きを掴み、身体を支える。窓から時折漏れるその強過ぎる光は機内がまるで暗闇の中にあるかのように錯覚させた。何度かの閃光と共に機内の照明も点滅し、時折明かりが消え深い闇に落ちる。
乗客は先ほどのハイジャックのことなど忘れてしまったかのように乱気流におびえていた。悲鳴と飛行機が空気を切り裂く音、雷鳴、それらが滅茶苦茶に混じり合い耳をつんざく異常な音となった。
その中

『――ウウウアアアアアアアア』
獣の鳴き声、或いは人のうめき声のような不気味な音、轟音の中でも音は不気味に分離し響いた。まるで頭の中に直接鳴り響いているかのような音。耳をふさごうともその音を遮ることは出来ない。その音は全ての音を飲み込みそして更に大きく増殖していく。今までに聞いたこともない音、或いは機体に何らかの異常が起きたのではないかと思った乗客が叫び声を上げた。
機内はパニックに陥っている。ハイジャックが引き金となり、乱気流とその音が恐怖に拍車をかけた。

「なんだこの音は!」
「ひ、飛行機に異常があるんじゃないのか!」
叫び声が上がる機内の混乱を注視しながら、池田は音の原因を探る、音は機の外から聞こえているようではない、機内のどこからか聞こえてきている。

「なんだこれは……」
機体の揺れの僅かな収まりを突き、鯉が池田の横に身体を寄せる。

「先生! これ音じゃなくて鳴き声ですよ!」
「鳴き声だと! 馬鹿な! どこから!」
この異常な音のせいで叫ぶような大声を上げなければ会話もままならない。

「…………」
鯉が耳に手を当て、音を探るような仕草を見せる。

『――オオオオオオンンンンン……』
声がまた響いた。

「――からです!」
鯉の声は鳴き声と雷鳴にかき消され聞くことが出来ない。

「どこからだ!」
池田が叫んだ後、鯉が男の死体を指さして再び叫んだ。

「この人からですよ!」
「何を馬鹿な!」
鳴き声と共に雷鳴が響く、閃光が機内を照らし機内灯が消えた瞬間。男の上半身が硬直したかのようにビクンと跳ね上がった。

「…………っ!」
突然のことに驚き、二人は死体から飛び退いた。飛行機の揺れの反動で起き上がったのでは決してない、この死体は何かの力によって自らの半身を起こしたのだ。筋肉の痙攣かとも思ったがどうにも様子が違う。首はうなだれ下を向いたままだったが上半身は深く背を曲げながらも完全に起き上がっている。
異常、その死体が起き上がった異常。それと共に今まで鳴り響いていた轟音が静まっていく。雷光は煌めけどもその音は聞こえない。エンジンの音も飛行機が空気を切り裂く音も全てが消え失せ、後には不気味な高いキーンという音のみが残った。平穏な静寂ではない、むしろ緊張は異常なまでに張り詰めている。弦を引き伸ばしていくかのようにその緊張は高まる。
緊張が極限まで至った瞬間、張り詰めた弦が切れるその瞬間、死体の頭が痙攣し天井を見上げた。

『ウアアアアアアアアアアア―――――――――――』
男の叫び声。顎が外れるほどに口を開き、苦悶に満ちた声を上げる。
目は見開かれているが完全に白目を向いている。両手の爪を首に突き立て掻きむしり、皮膚を破り血を流す。
明らかに人ではない。人以外の何かが男の死体に乗り移り操っているとしか思えない。それは悪霊が取り憑いたかのような異常な光景だった。

「馬鹿な! 完全に死んでいたはずだ!」
池田にもこの状況が掴みきれない。或いは幻覚を見ているかとも思った。だが目の前の死体は確実に実体となり叫びうごめいている。

『アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア―――――』
耳をつんざく絶叫が再び男の口から漏れた。
池田と鯉はあまりの不快音に思わず耳を手で塞ぐ。だが、声は弱まることをしらず耳へと到達する。手では絶叫を止めることが出来ないのだ。声は耳にではなく頭の中に直接響いている。
乗客の悲鳴も雷鳴も再びその音量を上げる。全ての音が異常に混じり合いかき乱すように機体は揺れ、全ては混乱する。混乱は混乱を呼び、全てが戻ることの出来ない狂乱に陥った。


                        
……音が消える。
死体の口が閉じ、声が消え失せ。機体は地上に降り立っているかのように安定を取り戻す。何一つ音も揺れ動くものも無い。地上、雪の世界に降り立ったかのように静寂が訪れる。それは異常な静寂である。現実の機体は尚も揺れ動き、乗客は叫び声を上げ狂乱のなかにある。機内の状況は異常なままだったのだ。ただその場から池田と鯉だけが切り離され取り残されていたのだ。まるで間近のスクリーンで無声映画を見ているように。
世界と見えない隔たり、池田と鯉、そして正確にはエアーマーシャルの女、ハイジャックの男、そして男の死体。それだけがこの場から取り残され正常の中にあった。いやその者達こそが真の異常の中に落ちていたのだ。
死体がゆっくりと頭を池田と鯉の方へと向け、白目のままその血にまみれた口を開いた。

「ようこそ」
死体は笑みを浮かべ一言呟いた。そしてその口から大量に吐き出した。霧を。
体内から体液を滴らせるように、次第にそれは死体の鼻や目、耳、全身の毛穴から汗を滴らせるように機内へと充満させていく。霧はその速度とは似合わぬほどの速さで広がり機体の中に充満する。霧はそれ自体がぼんやりとした光を放ち不気味に白く輝いていた。
だがそれを乗客が気づいてる様子はない、彼らはあくまで今にも墜落しそうな飛行機の揺れにおびえているに過ぎない。この霧が見えているのは僅か数名でしかないのだ。

「…………!」
声を出そうとしたがそれが音にならない、池田の声は喉で完全に消え去っていた。

(なんだこれは!)
鯉も自分の喉に手を当て声の異常を確認しながら池田を一瞥し、僅かに視線を合わせる。
遠く遠く遙か彼方から再びあの鳴き声が聞こえる。狼の遠吠えのように遠く暗く響く。

(また、あの声か)
死ぬ人間だけが耳にする死の音、叫び、この世にそんなものがあるとすればこれがそうだ。これがそういうものだ。今まさにそういう状況にあるのだ。
霧は全ての視界を白へと変え、不気味な一色の世界へと変貌させていく。逃れようとしても霧はもはや全身を包み込もうとしていた。全身が包み込まれる寸前、池田は遠く離れた霧の裂け目に少女の姿を見た。おびえた表情で。だがその少女は池田の姿をじっと見つめていた。
霧が全身を包む。



何も聞こえない。辺りは不気味な白い世界に包まれていた。うなるような低い風切りの音が聞こえたように思えたが恐らくそれは気のせいだ。ここには何の音も無い。
池田は辺の白い世界を見渡しながら『鯉』と声を出した。だが相変わらず喉はなんの音も鳴らさず、少しもその静寂を揺らがせることは出来なかった。辺りを見渡しても目に入るのは何も無い白い世界。奇妙なことにこの光は目を瞑っても開けているのと同じように感じることが出来る。
居場所を失うような錯覚、目の前にあるはずの座席、隣にいるはずの鯉、手を伸ばしても何にも触れることも出来ず、心を静めても何の気配も感じることが出来ない。
自分の鼓動さえも脈打っているのかどうかもわからない、ただ漠然とした単純な本当に存在しているのか酷く曖昧な感覚、渾然となり充満する。

「…………」
(気圧の急低下による意識混濁……いや、意識はこんなにもはっきりとしている。ただはっきりとしていると勘違いしているだけなのか? あの男の死体もただの幻だったのか?)
白い世界の中、ゆっくりと自分の身体がぼんやりと浮かび上がり始めた、濃い霧の世界。
姿が見えるといっても身体の上半身程度までしか視界は利かない。後はただ白いだけ。

(妙だ……飛行機の床というよりは石畳の上に立っているようだ……)
何度目かの鳴き声。
今度はすぐ近くから、人の呻きにも悲しみ、苦しむ唸りにも似たその声。
すぐ後ろから聞こえる。
その声の本当の正体をただ振り返りだけすれば知ることが出来る。ただそれだけでいい。それだけでそれを見ることが出来る、知ることが出来る。

「…………」
身体は恐怖を感じている。それを決して見てはいけない。全ての皮膚が泡立つような感覚、その行動を拒否している。これは見てはいけない何か。確実に死を招く何かだ。

(だが俺は振り向かなければならない。それが今まで生残れた唯一の答えだからだ)
振り返ろうとした時。池田は誰かに突き落とされるような強い衝撃を感じた。



[25364] 第一話 皆殺しの霧街 『浸食3』
Name: 鬼虫兵庫◆7ce726e6 ID:2553af8b
Date: 2011/01/12 15:01
「先生!」
地面へと叩きつけられる錯覚と共に池田は飛行機の座席で目を覚ました、ゆっくりと目を開けると間近に不安げな鯉の顔がある。

「ああ、大丈夫だ」
答えると鯉はやっとその顔に笑顔を浮かべた。

「あれは…………夢を見ていたのか……」
考えたが、目の前に広がる光景は尚も異常な状態にある。客室には尚もドライアイスの煙のような濃い霧が沈殿し、視界の半分を白く変えている。そもそも池田はこの席に座ってなどいなかったはずである。だが辺りの座席の配置から考えるとここは離陸時に座っていた自分の席のようだった。

「どうなってやがる……この席に俺を戻したのはお前か?」
意識を平常に取り戻そうと両方のこめかみを強く片手で押さえる。

「いえ、私も今それに気づきました。変ですね……確か私達は通路に立っていたのに……」
視線を宙に浮かせたまま異常な状況を頭の中で整理する。しばらくして池田が重い口を開いた。

「……鯉、あの男の死体を見たか?」
「それは死体自体を、ということですか? それとも死体が口を開いて霧を吐き出したことを、ですか?」
鯉の答えに池田は少し言葉を詰まらせた後、手で払う仕草を見せながらけだるそうな声で

「ああ、もういい……わかった」
言いながら視線を辺りの客席に移すが、乗客の姿は見あたらない。満席と言うわけでは無かったが少なく見積もっても二百人前後の人間はいたはずだ。

「他の人たちは何処に行ったんでしょうか?」
「二百人近くの乗客がいたんだ、そう簡単にいなくなるわけがないだろ」
立ち上がり辺りを見渡そうとしたが、腰のベルトがかけてあることに気がつく。

(ご丁寧に座席に戻しただけではなくベルトまでかけ直したのか?)
ベルトをはずし立ち上がる。鯉も既にベルトをはずし通路に出ている。
濃い霧に包まれた機内は見通しがあまり利かないが、座席に人の姿が無いことはわかる。皆が座席の下に潜り込んでいるので無ければ、視界に入る全ての座席には一人の乗客もいないことになる。ただ延々と無人となった客席が続いているだけだ。

「一瞬の内にか? 俺たちは思ったより長い間気を失っていたのか?」
アナログの腕時計に目を移す。時刻は夕方の五時三七分を指している。この機の出発時刻は五時丁度、水平飛行に入りしばらく経った後、あの異常が起こったことを考えるとほとんど時間は経過していないことになる。もっともこの時計が誰かに操作されていないという確証はない。

「どうなってやがる」
飛行機は今、静かに平行飛行を行っている。乱気流もなく、機内にはジェット音しか響いていない。
窓の外は雲に覆われているのか白く塗りつぶされたように真っ白で視界は利かない。
鯉が一つ一つの座席を見て回りながら口を開く。

「おかしいですね……さっきまでは確かに皆いたはずなのに……ほら席の上に子供の持っていたぬいぐるみや、ひざ掛けが残ったままです」
確かに誰もいなくなった客席の上に乗客の痕跡が残っている。膝掛けや人形だけではなく座席の下には乗客の荷物がそのまま残っている。座席の上に手を触れるとわずかな人のぬくもりを感じた。

「乗客が消えた?」
「神隠しですか? やっぱり」
「馬鹿な……常識的に考えろ。オカルトや超常現象からは思考を切り離して考えるべきだ」
「でもこれってまるであれみたいじゃないですか、えーと……ほら、あの誰もいない無人船に乗り込んでみるとコーヒーからはまだ湯気が出ていたっていう……ああそうだマリーセレスト号の話」
「そりゃコナンドイルの創作だ、だいたい無人船に乗り込む頃にはコーヒーだって冷めてる。あれはスコールか何かが原因……ああ、まあいい……とにかくそんなとこだ」
「じゃあ……え~と、機内の急減圧? 霧もそのせいで二人とも意識混濁のせいで幻を見ていたとか?」
「近いが、それだと乗客が消えたことの説明がつかない」
「じゃあそれに加えてどこかの特殊部隊が乗客をどうにかして消してしまったとか? 或いはこれはまだ夢の中とか?」
「そうだな……その中だと最後のが可能性が高いな」
「頬つねってみますか?」
少しの間、池田は顎に手を当て考える素振りを見せていたが、鯉の頬に手を伸ばす。

「痛っ痛たたたたた……ちょっと先生、痛っ痛い、止めてください~」
鯉が池田の手を振り払う。頬が少し赤くなった。

「なんだ? 『つねってみますか?』って言ったじゃないか」
「それは自分で自分の頬をということですよ。といいますか普通わかるでしょ。人の頬抓る人なんてまずいませんよ」
「痛かったか?」
「……そりゃ……まあ」
「じゃあこれは現実だな」
言いながら池田は通路をコクピットの方に向かって歩き始める。

「…………ほっぺたを抓るのってそういうやり方でしたっけ……」
「今は自分の感覚に自信が持てないんだよ、俺もこれが本当の自分なのか自信が持てないくらいだ。すまんね」
背中を向けたまま池田がまじめな口調でそんなことを言ったので、鯉は言葉を止め「なるほど……」と頷いたがすぐに首を振って妙な考えを振り払った。

「いや、なるほどじゃない、わけわからない。私も自分の感覚に自信が持てないんで先生のほっぺたを抓らせてくださいよ」
「嫌だよ、自分のを抓ろ」
問答を……というより鯉の愚痴を二三聞く内、前の区画にたどり着いた。
すぐに席に座っているハイジャックの男の姿が目に入る。正確には座っているというよりは座らされている。手錠をかけられた上、座席に乱暴に縛り付けられた男は気を失ったまま苦しそうにうなり声を上げている。何か悪夢でも見ているのだろう、額に粒になった汗を浮かべ、時折『助けてくれ』『死にたくない』といった言葉を途切れ途切れに吐き出していた。

「いい様だな」
男の他にあのエアーマーシャルの女の姿も見えた。似たような様子でうなり声を上げ、時折苦しげに手置きをつかみ、もがくような様子を見せている。この区画にはそれ以外の人の姿は見あたらない。

「こいつら以外の乗客はいないのか……それにこの様子を見る限り俺たちを座席に運んだのはこいつらじゃなさそうだな」
「変な話ですねぇ……」
「他の乗客が消えたとして、なぜ俺たちだけがこの機に残された。その理由がわからない」
「う~ん、強いて理由を挙げるとすればあの男性の生き死に関わった人間……ですかね?」
「それだと少なくともお前は直接の関係は無いはずだ」
池田はゆっくりと移動しながら座席を確認する。死体のあった座席も何も無くなっていた。ただまだ乾ききっていない血痕が座席の上に残っている以外はそれは全くの正常であった。

「死体も消えたか……」
「じゃあ座席に座っていなかった人っていうのはどうです?」
「ハイジャックの男は異変時にはこの座席に座らされていた。それにそんな原因だったら客室乗務員の一人や二人ここにいてもいいはずだ」
「じゃあ何でなんでしょうか? 誰かが意図的に私達を取り残して残りの乗客をどこかに移動させた……一体何のために?」
「理由やら意味などは考えるべきじゃないだろう、この状況自体が異常で異質で実に馬鹿げている」
「なるほど……じゃあこんなのはどうです。特殊部隊が昏倒ガスを使って皆を眠らせた後乗客を貨物室に押し込んだ。私達が残された理由はわからないですけど……」
「ガスを俺やお前が見逃したというのか? そこまで落ちぶれちゃいないよ。お前も同じだろ? 何も感じなかったはずだ……それにそれを行うには時間がかかりすぎる。この時計が正確なら俺たちが意識を失っていた時間はせいぜい数分といったところだ」
「こんな手間のかかることをする人なら、先生の時計くらいいじってると思うんですけど……」
「だからこいつはあまり当てには出来ない。だが座席に残ったぬくもりからみても何十分も経ったというわけでは無いはずだ。それだけの時間に二百人近い昏倒した人間を運び出せると思うか?」
「難しいでしょうね……」
「まあ、もっとも方法が無いわけではない……」
「といいますと?」
鯉の問いかけに池田の顔が突如として神妙な顔つきに変わる。そのまま視線は機体の扉へと移る。

「機体のドアを開けれる高度まで降下し乗客を機外へと放り投げる。これなら可能だ」
「うぇ……」
鯉は妙な声を上げながら何も見えないはずの窓に目を移した。見えるのはただの白い雲だけだ。

「それこそ本当に狂気の沙汰ですね。出来ればそれは間違ってて欲しいですけど……」
「…………」
池田は顎に手をやり更に深考を重ねる。心の奥底では乗客達は既に死んでいるという思いが巡っている。皆死んだ。あの異変、全ての乗客。池田の脳裏には最期の瞬間にみたおびえきった少女の顔が焼き付いている。誰が何のために……これは常識の範疇で解決出来る問題ではない。真実にたどり着くため異常人になる必要がある。

「うああああああっ! 何処だ! 何処だ! 何処だ! ここは!」
池田の思考は叫び声によって中断された。
既に身体を叫び声の方向へと向けている。ただ声に驚いて飛び跳ねた鯉と違い、本格的に警戒をする様子はなく片方のポケットをズボンに突っ込んだままであった。池田の様子からして、その男の悲鳴はある程度予測できた異常だった。

「起きたか……テロリスト」
「どうなってやがる! ここは何処だ! 俺はどうしちまったんだ!」
「忘れたのか? ここは飛行機の中だよ」
池田が機内の壁に突き刺さったままになっている投げナイフを抜き取り、男の首元に構えるような格好を見せる……が、あまり威嚇する意識は無いのかそのままの格好でナイフを内ポケットの中へとしまった。

「飛行機……」
男は一度辺りを見渡し落ち着きを取り戻そうとしていた様子だったが、辺りの異常な状況を見、語気を再び荒げる。

「他の乗客はどうした! 何故誰もいない! この霧はなんだ! あの男の死体は……あれが……口から霧を……あれはなんだったってんだ!」
鯉と池田の表情がさっと変化した。この男もあの光景を見ていたのだ。

「……まいったな、あれが現実だったていうのか?」
あれは幻覚ではなかったのか? 池田はポケットに押し込んでいた左手を出し無精髭をかまうように手を当てた。
二人だけが見たというのならば幻覚の偶然の一致とも考えられなくもないが三人が同じものを見たとなるとそうはいかなくなる。

(現実とすれば何らかの暗示或いはあの男の死体に何らかの特殊な細工が……いや、あの男は間違いなくただの人間だった……)
「きゃあああああ! 止めて! 止めて! もうあの声を聞かせないで! お願い! 助けて!」
再びの絶叫がまた池田の思考を遮る。
女の絶叫が機内中に響いた。
喉を潰してしまうほどの声、絶叫と定義することの出来ぬ程の叫び。人が本当の恐怖に陥った時にしか吐き出すことの出来ぬ、最も原始的で荒々しい叫び。狂った、聞いたこともないような絶望に包まれた声。

「おい落ち着け。大丈夫だ」
池田は急ぎ女の元に駆け寄った。放って置くと女はそのまま自殺をしかねないほどの取り乱しようだった。ブロンドの髪を振り回し。恐怖に怯え。狂人の如くに叫び声をあげ続けている。

「心配ない」
池田が女の目の前に駆けより声をかける。
同じように鯉も女の元に駆けよった。二人の姿を見ると僅かな平静を取り戻し、玉のような汗を浮かべ、息を荒げながらも外面の平静を装い震える声で答えた。

「だ、大丈夫よ……ちょっと嫌な夢を見ただけだから……」
女はハイジャックの男と同じように辺りの様子に目をやった。床に漂っている霧は幾分薄くなっているが未だ床の視界を遮るほどに濃く沈殿している。そして乗客は何処にもいない。座席に縛り付けられている男が首だけでこちらだけを振り向き睨んでいるのが唯一見ることが出来る乗客の姿だった。

「他の乗客は……? もう地上に着いたの? この霧は?」
「乗客は消えた。ここはまだ空の上。この霧が何なのかは俺にもわからない」
「冗談でしょ?」
「そうならいいんだがな……」
女は鯉に視線を移したが鯉もどういう反応をしていいのかわからず、ただ慌てた苦笑を顔に浮かべる。

「乗客が消えた? ……どうやって?」
「今俺たちもそれを探っている……傷は大したことがないようだな」
「傷?」
池田の視線に女はその傷のことをに始めて気がついた。僅かに血がにじんでいるようだが確かに大した傷ではない。

「ええ……どうやら大したことはないようね」
池田は女に手を差し出し握手を求める。

「俺は池田戦、こいつは戌亥鯉。あんたは?」
「アイラ・ブラッドフォード……航空保安官(エアーマーシャル)よ」
アイラはまだこの状況が把握し切れていない様子だったが池田の差し出した手を握った。

「俺はテッド・ロビンソンだ」
首だけ振り向き、池田達を見ていたハイジャックの男が乱暴そうに声をあげる。

「お前には聞いてないが……まあ覚えておくよテッド」
「…………」
鯉の注意が不意に会話ではなく飛行機後方に集中する。池田がそれに気づき反射的に半身を隠した。

「なんだ?」
「男性のようですが……こちらを警戒しているのか、気配を隠すような足取りです」
「化け物じゃあるまいな?」
池田は内ポケットのナイフの柄を掴んだ。

「まさか……普通の男性のようですけど……」
後方、池田達の座っていた座席より後ろは霧が濃く視界が利かない。たかだか数十メートルの距離ではあるが最後方どころか二つ目の区画すらぼやけて見える。
一歩一歩気配を殺し、息を殺した足取り、霧の中一歩踏み込み、一歩また足を前に出すゆっくりとした動き。自らの気配を消そうと最大限努めている。
前の区画にそれがたどり着き、その姿があらわになるかという瞬間、音も無く霧の中から飛び出したナイフが男の首元に当てられた。突然のことに男は声を上げることも忘れ、ただ両手を上にあげ。完全に固まった形になる。
気弱そうな男。栗色の髪を七三にわけ縁の太い眼鏡をかけている。古典的なイメージで言えばそれは学者か博士のように見えた。
薄いグレーのスーツを着込んだその男の背は低く、池田の伸ばしたナイフの先も併せて随分下を向いている。

「誰だ」
「わ、わ、私は怪しい者じゃありません。その……突然誰もいなくなったものですから……あ、あの、よ……様子を見に来たん……ですけど……あ、あなたは、テテ……テロリストの方ですか」
「馬鹿言え」
ナイフを引くと腰が抜けたのか、男は尻餅をつくような形で床に倒れた。倒れた風の拍子で霧が僅かに舞った。

「い……い一体どうなってるんです……乱気流に入ったと思ったら急に周りの乗客が消えて……霧も……どど、どうなってるんですこれは……」
「それは俺たちも知りたいくらいだ、すまなかったな、俺は池田戦だ」
手をさしのべ男を引き上げる。引き上げながら池田の脳裏に新たな疑問が浮かび上がった。
この男は何故この飛行機に残ったかということである。
飛行機に残ったのが元軍人やエアーマーシャルだけならばまだ関連性があった。だがこの男の出現によってその関連性も失われてしまったようである。

「わ、私はトーマス・クラーク。ニューヨークであの……げ、外科医をしています」
「外科医?」
「な、何か問題でも?」
「いや……」
(外科医に元軍人、エアーマーシャル……なんとも奇妙な組み合わせじゃないか。これになにか意味があるとでもいうのかこの五人に共通性が?)
単純に考えればこの五人に関連性などない。だがあれだけの乗客の中からこれらの人間が選ばれた? のには何らかの意味があるはずだ。適当に選んだにしてはトーマスを除く池田達に妙な一致があるのも気になる。

「鯉」
「はい、他の乗客が残っていないか探せ、ですよね?」
「そうだ。だが後部はこちら側より霧が濃い。十分注意しろ」
池田は内ポケットのナイフを取り出しそれを鯉に投げた。狙って投げたかのような早いスピードだったが難なく受け取り、それを右手に構え感触を確かめる。投げナイフなので柄の形がそもそも持って戦うことを前提に作られていない。二三回握り直し握りにくいナイフの感触を確かめた後、もう一度池田に視線を合わせた。

「それでは先生行ってきます」
「ああ、気を付けて行ってこい」
「勿論ですよ」
鯉はそう言い放ち、その場を後にした。後に残った池田はそれを見届けてから視線をコックピットへ視線を移す。池田の今までの挙動を見ていたテッドが本当に感心している様子で池田に声をかけた。

「よう、どうやらあんたも普通の人間じゃないようだな、あんたも元軍人かい?」
池田は明らかに不快そうな表情を見せる。

「そんなに大したもんじゃない、ただの悪ふざけのようなものだ」
池田の視線はテッドの問いかけに答えていても尚もコックピットに集中したままである。

「問題は山積しているがまずは一番の問題を解決することにしよう」
「あ、ああ……そ、そうですよ、ぼ、僕もそのことが気になってここに向かっていたんです。乗客が皆いなくなったとしたらこの飛行機は誰が操縦しているんです!」
トーマスの言葉に周囲の表情がさあっと青ざめた。
そうだそれが一番の問題なのだ。
今この飛行機は無人で飛んでいる。



[25364] 第一話 皆殺しの霧街 『浸食4』
Name: 鬼虫兵庫◆7ce726e6 ID:f0ecf01f
Date: 2011/01/12 15:08
「あまりいい雰囲気じゃないなぁ……まあ当たり前だけど」
深すぎる霧の中、鯉は走っていた。
後部の霧は思いの外濃い。照明も切れているのか酷く暗く視界もほとんど利かない。

(……気のせいかな……この飛行機こんなに広かったっけ? なんだかすごく走っている気がするんだけど……)
この飛行機の全長はせいぜい七十メートル程度だったはずだ。
だが、鯉は明らかにそれ以上の距離を走っている。錯覚という次元ではない。疑念は既に確信へと変わりつつある。

『……ちゃん……』
「……!」
とっさにナイフを正面に身構える。
少女の幼い声。すぐ間近から聞こえた。
やはりおかしい。大きく構えを取ってみても座席にかすりもしない、とてもこれは機内通路の広さではない。
まるで霧の深くかかった暗い草原に立っているかのようだ。
声は間近から聞こえたが、気配はない。

(聞き間違い? 何かの音を声と間違えた?)
『お姉ちゃん……』
飛び退き真後ろに構える。すぐ後ろから、今度は間違いなく聞こえた。

「誰かいるの?」
ナイフの構えを崩さず鯉は答える。

『忘れちゃったの? お姉ちゃん?』
悪戯っぽい笑い声が起こった。

「……くーちゃん?」
突然、霧の中から影が躍り出た。跳躍し鯉に向かって飛びかかる。ほとんど反射的に避けた。影は鯉をかすり再び霧の中に紛れる。ナイフを突き立てるような余裕は無かった。鯉自身、突然のことに呆気にとられてしまっている。

「痛っ!」
腕に血がにじむ。
影は明らかに鯉を攻撃する意志を持って向かってきている。身体が勝手に反応しなければもっと深い傷を負っていた。

(人? ……いやあれは獣みたいな動きだった)
気配も音も再び霧の中に紛れる。ただ深い闇の中、少女の笑い声が遠く響く。

(幻覚? 夢? いや……これは違う、これは現実だ。どのみち痛みのある夢なら夢も現実もどっちも同じことじゃないか)
再び真後ろから気配が迫る。今度は瞬間的にその気配を掴むことが出来た。頭めがけ襲いかかった所を反るようにかわし、襲いかかって来た影に向かってナイフを振り上げた。
ぐしゃりと肉にナイフを突き立てた感覚が手に走る。手応えはあった。ナイフの刃は確実にその影の横腹を捕らえていた。
黒い影は叫び声一つあげず地面へと落ちる。影が落ちたところだけ穴が空いたように霧が晴れる。黒い影は獣のように見えた。血を流しているがうずくまりうめき声すらもあげていない。ぴくりとも動かずそれは死んでいるか、或いは初めから無機的な生物とは違う物だったのではないかと思われた。

「…………」
ナイフを影に構え、警戒しながら距離を詰める。暗い。影はほとんど闇と同化してそれが何なのか判別することも出来ない。

「…………!」
ぴくり影が動いた。震えながら手負いの獣のようにゆっくりと前足で立ち上がる。その獣が振り返ったその顔。ぎらぎらと暗い闇の中でも輝き過ぎるほどの光を放ち目だけが闇の中に浮かび上がっているかのように見える。それがじいっと鯉の目を睨み付けたまま全く動かない。それがまるで生き物では無いかのように固定され不気味に無機的に鯉の目を睨み続けた。
……全身が粟立ち、血が冷水に変わったかのような急激な寒気が走った。息苦しくなり呼吸が途切れ途切れ荒々しく変化していく。

「…………」
固まったような獣が洞穴のような暗い口を開く。

『じゃあね』
……と、電光が走るように機内のランプが一斉に灯った。急に辺りは明るさを取り戻し霧は嘘のように晴れ、床にもその痕跡を認めることが出来ない。
全ては正常に戻った。ただ相変わらず乗客はいなかったし、窓の外は変わらず真っ白なままである。

「…………あ」
と不抜けた声を吐き出し、鯉は足を内に折り、へなへなと床に座り込んだ。
機内が明るくなった時、一瞬だがその獣の顔がはっきりと見えた。それはすぐに明かりと共に消えてしまったが、今でも目の奥に残像のようにはっきりと焼き付いている。
獣の顔は確かに

(私……いや……違う……あれは…………違う、私じゃない……あれは……あの顔は……)
ゴォォォォという低いジェット音が響いている。その以外はもう何も耳にすることが出来ない。



「…………」
鯉が前の区画に戻ってきた時はほとんどの放心状態にあった。
目は宙を泳ぎ、右手から流れる血は流れるままにして、床に転々と血の跡を付けて残している。
始めその状態を見たアイラが面食らった。まるで気が抜け別人のように覇気を失った鯉を目の前にして声をかけるのを躊躇した程であった、がすぐに気を取り戻した。

「なかなか帰って来ないからみんな心配していたのよ、大丈夫だったの? その怪我は?」
「先生達はどこです?」
鯉は一応ちらりと血の滲んだシャツを見たが、大して気にもとめず座席に目を移した。
あのハイジャックの男は以前と同じまま座席に縛り付けられていたが、池田と医者の男の姿はない。

「先生? ああ池田さん? 彼ならコックピットの前にトーマスさんと一緒にいるわ」
「そうですか」
そのままコックピットに向かう鯉をアイラが引き留めようとする。

「ちょっと! 手当した方がいいわよ!」
「大丈夫です。このくらい……」
そのままコックピットに向かおうとする鯉をテッドが見、笑みを顔の半分に深く浮かべた。

「よう嬢ちゃん。随分と酷い面をしてるじゃねぇか、その顔はすごく嫌なものを見た顔だ。よく知ってる。俺もそんな顔の奴をよく見てきたからわかる」

「…………」
何も答えることなく。アイラの静止をも振り切り、鯉はコックピット前へと向かった。

「鯉か……」
振り返りもせず呟く。
コックピット前、池田はコックピットの扉に向かって何かの作業をしている。その横には顔を青ざめさせたままのトーマスの姿があった。

「誰か他に残っている乗客はいたか?」
「…………」
「どうした?」
池田は鯉の方に振り向くが、鯉の様子を一目見ただけで再び視線を元に戻す。

「何かあったようだな」
「いえ……大したことは無かったんですが、その……他に人はいませんでした」
「そうか……ご苦労だったな」
「いえ……」
「そう暗くなるなよ。そんなに陰気でいられるとこっちまで暗くなっちまうぜ」
「すいません……」
暗く沈み、陰気な声で鯉が謝ると池田は鼻から大きく息を吐き出しながら苦い笑みを顔に浮かべた。

「あ、あの……怪我、怪我してますよ」
その会話の中ずっとそわそわしていたトーマスが意を決したかのような表情でそう言った。言葉の最中も後もずっと身体をそわそわさせたままである。

「ああこれは大丈夫です」
「い、一応私はこういったことの専門ですから……ちょっと待っててください。ギャレーかどこかに救急箱のような物があるかもしれません」
と鯉が止める間も無くトーマスはその場から走って後部の方へと走り出していった。
その後ろ姿を半ば呆然と見つめる。

「鯉、後部に危険は無いのか? トーマスのおっさんを危険に晒すわけにいかんぜ」
「あ……ええと大丈夫です。危険はもうないと思います」
「もう無いか……まあ何があったかは知らんがそう落ち込むな」
「……すいません」
「……またそれか」
しばらく二人の間に無言の時が流れ、ジェット音と僅かな金属同士がぶつかるカチカチという小さな音だけが響いた。
沈黙はトーマスが救急セットを抱えて帰ってくるまで続いた。



「た、大したことはないですね。これくらいだと縫う必要もないですし……傷も残らないと思いますよ。よ、よかったですね」
「ありがとうございます」
まくり上げた右手をトーマスの前につきだしていた鯉は暗い声で無愛想に答えた。
トーマスはピンセットで脱脂綿に消毒液を浸しそれを鯉の傷口に当てている。あれほどの血を流していたはずなのだが、傷口は驚くほどに小さかった。トーマスにもどうしてこれほど小さい傷があれほどの血を出していたのかわからない。傷が深いというわけでもない。これはカッターか何かで浅く本当に僅かな傷を付けた程度の傷でしかない。トーマスはそれを疑問に思いながらもあまり表情に出すまいと注意しながら傷口にガーゼを当てそれをテープで固定した。

「トーマスさんはニューヨークで外科医をしているんですよね?」
「え、ええ、ああそうです。向こうはいつも本当に目が回るような忙しさなんですよ。休みもまともに取れない。休んでいてもいつも呼び出される。本当にちゃんと休みが取れるのは月に数えるくらいしかありません」
「オハイオへは何をしに?」
「あ、ええ……」
トーマスは口ごもりその丸顔に少し言いにくそうな表情を浮かべる。

「ああ、言いにくいことだったら別にいいです」
「ああ……いえ、まあ大したことじゃないんですけどね……あの……」
内ポケットに手を伸ばし、二つ折りのキーケースを広げ鯉に広げて見せた。内側には透明なポケットの中に押し込まれていた家族の写真があった。トーマスと背の高いブロンドの長い髪の女性。そして赤ら顔で椅子にちょこんと座っている少女の姿が映っている。

「かわいいですね。お子さんですか?」
「ええ……あのオハイオには別れた妻と娘がいまして……その、久しぶりに休みが取れたものですから会いに行こうかと思ったんですが……まあこんな有様で……」
「へえ……このくらい歳だとかわいいんでしょうね」
鯉の言葉にトーマスは少し照れた表情を浮かべる。

「ああ、でも随分と昔の写真ですから。娘も今ではすっかり大きくなってしまって……そのなんですか、反抗期ってやつですかね。最近では口をきいてくれなくなってしまって」
「ああ、そうなんですか」
確かに写真を見直すと写っているトーマスの姿が若干若いようにも思えるが、鯉には今と大した違いが無いように見えた。

「長い喧嘩をしているようなものですかね……。妻とはよく話しますが会う度に向こうの生活が変わっていってしまって。もしかするともう少ししたら、もう会わなくなるのかもしれません。こう自然に関係が消滅するみたいに」
「はあ……大変そうですね」
「まあ、私に全部非がありますから。文句は言えないですよ。家族のために時間を作ることもしなかったし。ほとんどほったらかしみたいなもんでしたから。愛想をつかれてもしょうがないです」
「う~ん、私は結婚もしたことも無ければまともな家族生活もしたことが無いんで何ともいえないんですが……なんというかその……娘さんと早く仲直り出来るといいですね」
「はい……そう上手くいけばいいんですけどね……」
「そんな弱腰でいたら駄目ですよ。男はどーんと胸を張っていかないと」
「はは胸ですか。確かにそうですね。次に合ったときは頑張ってみますよ」
トーマスとの会話で鯉にも元の明るさが戻ってきたようである。
池田もその様子を背中で感じながら口元に笑みを浮かべた。ただ、笑みを浮かべたのはそれだけが理由ではない。
コックピットの扉がカチッという金属音と共に開いた。池田がさっきからずっと開けようとしていた扉が開いたのだ。

「わっ、ほ、本当に開いた」
「下がっていろ。何が起こるかわからんぞ……」
扉を開こうとしている鯉に池田がナイフを投げ返した。受け取りながらそれを構え僅かに飛行機の扉を開けそこにトラップが仕掛けてないか確認する。
僅かに扉を開けただけだがワイヤートラップのような類の仕掛けはならされてない。また人の気配も無い。
ゆっくりと扉を慎重に開ける。
音も無く扉は開いた。慎重に身を機内に滑らせるが人が襲いかかってくるような気配も何か罠が仕掛けられている様子もない。
池田はコックピットの中に入り一通り中を見渡した後、ナイフを内ポケットの中にしまった。

「コクピット内は正常か……まあ誰もいないということを除けば」
「ああ、本当に誰もいないんですね……先生これからどうするんですか?」
鯉がコックピットの色んなところを覗き込みながら言った。

「最悪、無線が通じればどうにかなるかもしれない、管制塔の指示があれば少しはマシになるだろう」
先生はコックピットの中、両座席の丁度間にある無線機の計器をいじりながら無線のマイクを握る。

「メーデーメーデー、非常事態発生。応答を願う……こちら…………」
無線を受信に切り替え返事を待つ。
周波数帯を変えて何回か試みてみるが一向に返事が返っている様子はない。
同じことを何回も繰り返すのに飽きたのか、途中から池田はマイクを使ってオリジナルのジョークを喋り始めたが、無線機からはいくらたってもなんの反応も返っては来なかった。

「別に先生のジョークがつまらなかったからじゃあないですよね?」
「たとえ管制塔が凍り付いていたとしても、何かしらの反応は返して来るだろう。そうじゃないと困る」
「ですよね」
池田はコックピットの座席に座り足を乱暴に投げ出して窓の外を眺めた。相変わらず何も見えない。

「と、ということは……どういうことですか……このままみんな死んでしまうんですか」
トーマスが取り乱しながらコックピット内に入り、また身体を震わせる。池田は横目でそれを眺めながら、片手で適当に無線機の装置をいじり興味なさげに

「まあそうともかぎらんだろ」
と答えた。

「む、無線はどうなんですか本当に何も反応が無いんですか?」
トーマスが飛びつくようにして無線機に迫り、装置を動かす。操作法を知らないのか適当にスイッチを入れたり切ったりするだけで無線機は何の反応も示さない。

「無駄だよ、応答は無い。全くのノーサインだ。それに航空機が応答不能になった場合、戦闘機のスクランブルが行われてもおかしくは無いが、その様子もない。もしかするとここは通常の空間ではないのかも知れん」
「そ、そんな……馬鹿な!」
尚もトーマスは無線に応答を求めるが返事は帰ってくる様子は微塵もなかった。

「本当に別の空間に来てしまったんでしょうか?」
鯉の問いかけに池田は無言のまま真白い空間に目を移す。窓の外はべっとりと白いペンキで塗りつぶしたように真っ白なままだ。

「別の空間、別の世界、まあ宇宙のことを考え出したらこの世が存在すること自体不思議だらけだ。何もないところから宇宙が生まれたのならば、他の世界が存在することだってなんら不思議ではない。だがな、それが我が身に降りかかるとはとても考えられないのが人間ってもんだ。乱気流ごときで異世界へと引き込まれるのなら世界の人間は半分に減っている」

「そ、その通りです……ば、馬鹿げてますよ、こんなこと……」
池田はそれから少しの間窓の外を眺め、なにかを考える様子で暫く黙った後再び口を開いた。

「とにかく……少しでもいい。飛行機に関する操縦法を知っている人間が操縦桿を握る。そして残りの人間はそこにある操縦法に関するマニュアルを読み解く。その後のことは無事地上についてから考えればいい」

「でも、ホントにここ地面があるんですかねぇ?」
鯉が笑いながら呟いたが、冗談のつもりで言った言葉が二人の表情を異常に緊張させてしまったことに気がつき所作なさげに身体を縮めた。
確かに普通ならそんな心配をする方が馬鹿げている。だが今は乗客のほとんどが消えるという異常な事態の中にある、この異常な状況、地上がそのまま存在している保証はない。
地上があるのか、それとも得体の知れない暗黒が広がっているのか、それは誰にも予測のつかないことだった。

「だが降りるしかない、どの道、下には降りるしかないんだ。降りるかそれとも落ちるかだ、どっちも似たようなもんだろ?」
窓の外、白い雲は何の変化も無くただ流れ続けている。



[25364] 第一話 皆殺しの霧街 『浸食5』
Name: 鬼虫兵庫◆7ce726e6 ID:f0ecf01f
Date: 2011/01/13 05:56
「さて、じゃあ本題に入るとしよう。この中に誰か飛行機を操縦できる人間はいないか?」
池田は客室へと戻り、全ての乗客を目の前にしてそう切り出した。

「一応言っとくけど私は無理よ」
アイラは開口一番言い放つ。
もちろん池田自身もこの質問に無理があることを理解している。

「俺が空軍出身だったら良かったんだがな、残念ながら俺は陸軍だ」
テッドが片頬に深い笑みを浮かべながら大して残念でもなさそうに言った。

「ハイジャックする奴が操縦法も知らなかったのか?」
「わざわざそんなこと知っている奴がいるかよ。俺はただ人生が嫌になったからハイジャックをしただけだ」
「ふん……」
池田がトーマスに視線を向けるが彼は視線が合っただけですぐにその頭を左右に振る。

「わ、私は無理ですよ。車を運転するのもおぼつかないくらいなんですから」
「まいったな」
状況は酷く絶望的なところまで追い詰められているようだ。池田はしばらく腕組みをして考えたが、いいアイディアは思いつきそうにない。

「先生なんで私には聞かないんですか?」
「……あ? そりゃ……お前飛行機なんて操縦したことなんて無いだろう」
池田が全く相手にしないといった様子でそう言い放つと、鯉はその頬をふくらませながら

「失礼な、私は何度が飛行機を操縦したことがありますよ」
と答えた。
その表情は何処までも自信に満ちあふれている。
確かにアメリカではセスナくらいの小型機なら、鯉程度の年齢でも操縦経験がある人間がごく僅か、いることはいる。
辺りの表情が若干明るさを取り戻したかのようにも見えたが、池田の表情は尚も暗いままである。
それもそのはずだ、池田には鯉が飛行機を操縦しているところなど見たことも聞いたこともない。自分のしらないところでそういったことをやっているとも考えられなくも無かったが、その可能性は限りなくゼロに近かった。

「しかしなぁ……」
先生も鯉の発言に極度の不信感を抱きつつも、この状況の中では毒を食らうしか方法が無いことも知っていた。本人が操縦できるというのならば何も経験がない他の連中よりはまだましだろう。だがそれはあくまでまだましなだけであって、とてもいい選択とは口が裂けてもいうことはできない。
池田は苦い苦い表情を顔に浮かべながら低い声を吐き出す。

「だとするとこの機の操縦は鯉に任せることになるが……」
「はっ! 死んだな! こりゃ!」
テッドが大声を張り上げる。皆口には出していないが大体同じようなことを思っていることだろう。十代半ばのこんな少女に命運を託すのはいかにも不安なことである……が、それが最善の方法なら仕方ない。これは選択と言うよりは妥協に近い。

「操縦の補助は俺がやる。残りの人間は着陸に関するマニュアルをさらってくれ。あと機内からの脱出に関する項目も調べて欲しい」
池田がコックピットの中の棚から分厚いマニュアルを取り出してそれをトーマスに手渡す、一通り動きを指示した後、テッドの傍らに立った。

「人手が足りないんだろ? この縄をほどいてくれよ」
威嚇するような人を食ってかかったような態度でテッドは笑みを浮かべた。池田はその言葉を無視して内ポケットの中からナイフを取りだし、それを振り下ろす。
あまりの動きの速さにテッドは殺されるという恐怖感から目を瞑った。だが目を再び開けたときには身体を縛り付けていた縄が全て断ち切られていた。

「アイラ、手錠をはずしてやれ」
「いいの? 彼は犯罪者よ?」
「そういうことを気にしている場合じゃないんだ、一刻も早く準備を整えるために人手はあるにこしたことはない」
テッドは突然の解放と池田の意外な行動に面食らい、しばらく口をきけない様子でいたが状況がつかめると青ざめ薄い汗を浮かべた。
投げナイフで太い縄を一振りで断ち切るなどと言う芸当はそう簡単にできるものではない。よほどナイフの扱いに精通し、腕力が無ければできることではない。そもそも投げナイフは突き刺さる能力は高くても切れ味がいい刃物ではないのだ。心の奥では自由になれば反抗するという思いが少しあったが、その気勢が完全にそがれた。気迫は無かったが今も身体の奥に恐怖がしみこんでいる。

「おもしろくねぇな……」
池田に不快感を持ったというより、恐怖を感じてしまった自分自身に腹が立つ。テッドは苦々しいように息を吐き出した。



池田がコックピットに戻った時、既に鯉はコックピットに座り色々な計器に目を通していた。手慣れた感じを見ると本当に操縦法をわかっているようにも見えるし、適当に機器をいじっているだけのようにも見える。

「…………」
池田は無言のままコックピットの副操縦席に腰を深く下ろす。しばらくぼんやりと飛行機の計器類を眺めていたが、ふとその視線を止める。
トーマスとテッド、アイラがそれぞれの作業を行い、コックピットの近くにいないことを確認すると、池田は鯉に向かって口を開いた。

「なあ、本当のことを言えよ、飛行機の操縦なんてしたことないんだろ? 怒らないから言ってみな」
「……失礼な、嘘じゃないですよ。実は数回どころか何百回と操縦をしたことがあります」
「……………………」
池田は座席に再び座り、深く腕組みをする。眉を寄せ苦り切った表情を浮かべ、一度手で顔を覆い、それをそのまま頭に当てる。
しばらくそのままの姿勢でいたが、やがて表情をまるで頭痛持ちのようにゆがめ、宙を見つめながら重い口を開いた。

「ゲームでの話か?」
「…………」
何も答えず鯉はニコリと毒気の無い笑みを浮かべる。
ああ、いい笑顔だ、と思わずいってしまいそうなほど本当にいい笑顔だった。
だが今の池田にはそれが悪魔の微笑みのように見えた。池田はただ顔に引きつった笑顔を浮かべるのが精一杯で、互いにそのままお互いの顔を見合ったまましばらくの時間が経った。

「お、怒らないでくださいよ」
鯉が笑顔の上に冷や汗を浮かべる。何も言わない池田の引きつった笑顔が怖くなった。

「…………」
「でも最近のは出来がすごくいいんですよ。へたなシミュレーターより出来がいいのも多いんですよこれが」
「…………」
池田はその段階になって鯉が飛行機のゲームを熱心にやっているのを思いだした。
表情がより暗くなる。
まず始めに飛行機を毎回も墜落させている映像が頭の中に蘇る。次に着陸した回数より墜落した回数の方が多いことを思い出す。墜落した赤い画面を見て、「ああこいつの操縦する飛行機には死んでも乗りたくないな」と考えていたことを思い出す。
あれは操縦ではない、テロだ。

「よく自信たっぷりに操縦したことがあるなんて言えたな……」
「だって、一応操縦したことがあるのは本当なんですもん。ゲームの中ですけど」
「なら次からは私は魔法が使えますって言えよ」
「ああ、なるほど確かに、空も飛べますとも言えますね」
「…………」
いい加減、池田も鯉の発言に突っ込みを入れるのがめんどくさくなった。というよりもうそういったことで悩むのがばかばかしくなった。無い袖は振れない。こうなれば少しでも操縦のノウハウを知っている者がいてよかったとポジティブに考え直すことにした。無理矢理だがもはやそう思い込むことでしかこの状況に救いを求めることが出来ない。池田は突如頭に浮かんできたキリストか仏陀かよくわからない神に救いを求めた。

「……で、どうなんだ? 機長殿、着陸は出来そうなのか? まさかAボタンは無いんですか? とか間抜けなことは言うなよ」
「ハハハ、まさかそんなこと言いませんよ」
笑いながら鯉は操縦席を見回す。こんなことで安堵するのは本当はおかしいのだが、池田は安堵の息を吐く。

「そうか……ならよかった」
「……で、□ボタンはどこですか? 見あたらないんですけど……」
「…………」
何かを言いたそうなままの表情で池田が固まる。

「もういいから喋るな……頭が痛くなる……」
「いやだなー冗談ですよ、冗談」
また毒気のない笑みを浮かべながら鯉は操縦席の周りを見回し始めた。
妙に暗く低いため息が鯉から漏れたような気がしたが、池田はそれを聞かなかったことにした。それは聞いてはいけない類のものだ。
…………
それとほぼ同時に客席の方からメモを手にしたトーマスがコックピットの中に入ってきた。よほどに慌てているのか池田と鯉の顔も見ず、早口で捲し立てるものだから、二人ともトーマスが何を言っているのか全く理解できなかった。声もかけもせずいきなり指差しながら説明されただけではただ面食らうばかりだ。

「あと着陸に必要なものは一応これに書いてあるので二人とも目を通しておいてください」
手渡された説明書は口頭と比べ非常に理にかなったものだった、それを見るだけで装置の役割と動かし方はそれで大体理解することが出来る。というより二人ともトーマスの口頭の説明はさっぱり理解出来無かったので、かじりつくようにそれを眺めた。
一通りの装置の動作を確認し終わると、そのメモを座席の前に張り付ける。

「ありがとう、あと座席の上に足をあげてクッションやら毛布をベルトに咬ませて着陸に備えておけ」
「毛布に……座席の上に足ですか?」
「まあ経験上の行動ってやつだ。他の連中にも伝えておけよ」
「わ、わかりました。池田さんは何か昔にやっておられたんですか?」
「さあて、それは無事についたときの楽しみにしておくんだな、さあ早く座席に戻れ、もうしばらくしたら自動制御装置を切る」
「わ、わかりました、健闘を」
「ああ」
「もちろんですとも」
トーマスが客席に戻ると池田はそれまで作っていた偽りの笑顔を崩し、酷い苦悶の表情を浮かべた……が、それもすぐに表情から消した。

「なんだか先生の経験上ってのはあまりいい気がしませんね……」
鯉は以前、池田から聞いた悲惨な情景を思い出しながら呟いた。その飛行機の件は確かどこかのジャングルの川に不時着して仲間が足を失ったとかどうこうという話だった。

「あまり嫌なことを思い出させるな……これからって時に……」
「そりゃ先生も飛行機も嫌いになるはずですね」
「大丈夫だ、もう二度と飛行機には乗らない」
「ははは」
「さて……」
ゆっくりと息を吐き出し、操縦席のベルトを締める。

「あとは神頼みか、仏陀だろうがキリストだろうがなんだろうが、頼めるものには全て頼もうじゃないか」
窓の外、白い壁を眺めながら呟いた。鯉もベルトを締め、メモを見直し、計器と装置の動かし方を復習する。
池田は髪をボリボリと掻いた後、夢の記憶を振り払うかのように首を小さく振った。
鯉も流石に緊張するのか随分と緊張した面持ちになっている。
これは夢なのか、或いは現実なのか、未だそれがわからない。鯉も池田も同じことを思っているだろう。本当にばからしい、冗談にも程がある。このわけのわからない世界、一体なんなのだ。鯉も池田も互いにその答えを模索している様子だったがそれを止めた。二人とももう数秒の後には目の前の計器の山に意識を集中していた。

「自動制御装置をはずす! 準備はいいか!」
池田が客室にまで聞こえる大声を上げた。すぐに「OKよ!」というアイラの声が聞こえた。続いてそれより小さく消え入りそうなトーマスの声。テッドの声は無愛想な低い声だった。

「行くぞ、鯉」
「OKです。任せてください」
自動制御のスイッチを切ると、その反動かどうかがわからないが、ぐらりと機体が大きく揺れた。鯉が操縦桿を握って操作してしばらくゆらゆらと不安定な上下操縦を繰り返した後、何とか安定を取り戻す。
隣に座っている池田が何か言いたげな様子で鯉を見ている。
その目を見るだけで鯉は池田が何を言いたいのかが大体わかったが、鯉はニコリと笑みを返しただけで操縦桿を握り直す。大体ゲームの経験だけで飛行機を操縦しているのだから池田が不安に感じるのも無理はない。

「よし……雲の下に下りるぞ」
「了解です」
操縦桿を倒すと飛行機は次第にゆっくりとした角度で降下を始めた。
同時に機体全体にドンという大きい衝撃が走った、尚も機体は白い雲の中にあるがこの衝撃は雲に突入した衝撃に近い。
この全く利かない視界では計器だけが頼りとなる。

「大丈夫です、こういったシチュエーションは何回かやったことがあります」
と答え平静さを保ちつつ操縦桿を握る。

「雲を抜けたらいきなり山に激突なんてことはないだろうな」
「無いですよ多分、自信は無いですけど多分大丈夫です。多分」
「多分が随分と多いな……」
そういえばそうだなと思いつつ、鯉はゆっくりと操縦桿を押した。



客席の中、座席の肘掛を握り締めテッドは飛行機の丁度真ん中の席に座っていた。
トーマスを介して伝えられたようにテッドは座席の上に丁度座禅を組むような形で足を組んでいる。
ここからは外の景色は見えない。テッドも外に何が広がっているのかは気になる。
だが、着陸時のことを考えなるべく危険性の少ない中央の席に陣取ったのだ。
アイラは窓側の席、出来るだけ扉に近いキャビンアテンダント用の椅子に座り、着陸後すぐに扉を開けることが出来るように備えていた。
怖い。
トーマスの顔のすぐ横には白い色に塗りつぶされた窓があった。この雲を抜けたとき自分は何を見てしまうのか……。
歯がかみ合わず、なりそうになるのを必死にこらえた。
もうすぐ飛行機が雲を抜ける。



「抜けた!」
鯉の声と同時に白い空間から一気に色が戻った。だが地上は雲の下にある。暗い光の中コックピットから広がる都市の光景は薄暗く沈んだように見えた。

「コロンバス周辺……じゃない、シンシナティか? ……いや違う。……妙だな、この街の形状……俺たちはオハイオに向かって飛んでいたはずなのに俺の知る限りこんな街はない」
蛇行する川幅の広い大きな川が眼下にある。これがオハイオ川だとするとここはシンシナティ周辺ということになるが、それにしては大きいハイウェイが見当たらない、建物がびっしりと立ち並んでいるところから見ると、そこまで郊外というわけでもなさそうであるが。池田も空からの街の把握にそこまで自信があるというわけでは無かったが、少なくとも記憶にある街と地上に見える街はかみ合わない。

「この街……」
わずかな池田の呟きをブザーの警告音が掻き消す。

「どうした?」
「あれ? ……どうやら燃料が残り少ないようです」
「馬鹿な、さっきまで燃料系には随分と燃料があったはずだぞ」
だが確かに鯉が指差す計器をみると、その値は底をつきかけている。

「確かに私もそう記憶しているですけど……一応言っときますけど、別に私着陸するために燃料を捨てたなんてこと無いですからね。おかしいな……」
「どうしてこう悪いことが続くかね……」
燃料が漏れ出してるのか? とも思ったがそれならば何らかの警告音が鳴ってもいいはずである。
とにかく今はこんなことを考えている場合ではない。
池田は座席から身を乗り出し町の形状を再度見直す。

「とにかく早く着陸できるポイントを見つけろ、ぐずぐずしてると墜落する羽目になるぞ!」
「もちろんわかってますけど、ここ一面街だらけでとても着陸できそうな場所なんて無いですよ。大きな道路も無いですし、墜落出来そうな場所は一杯ありますけど……」
「街から離れるだけの燃料はないのか?」
「そんな余裕無いです」
「くそ! この際幅の広い道路でもいい!」
「あ! 着陸できそうなところがありました!」
旋回中の飛行機の窓から外を覗き込みながら鯉が声を上げた。

「どこだ! そこに向かえ!」
「ほらあの向こうに川が見えるじゃないですか」
鯉の指さす方向、旋回を行っている右の窓に街の全景が映っている。その真ん中、ちょうど街を分断するかのように大きな川が流れていた。

「確かにあるな、で、あの川の周辺に着地ポイントがあるのか!」
「いえ、あの川です」
鯉が何を言っているのか理解できず、池田は口をあけたまま二の句をあげれず固まってしまう。
しばらく鯉のその短い言葉を分解し、かみ砕き、細分化し、再構築した後やっと言葉を絞り出した。

「お前は何を言っているんだ?」
「だからあの川に着陸……じゃなかった、着水するんですよ。といいますかそれしか方法ないです」
「それは着陸でも着水でもない。墜落だ」
「早くしないと、もう燃料がありませんよ! 大丈夫ですシミュレーターでもこういった着水を何度も試みたことがあります」
「試みてどうなった?」
「そりゃまあ成功するわけないですよ。だってゲームの中での川への着水なんて墜落と同じ扱いなんですから」
「つまり成功をしたことは無いんだな」
「ええ、でもいける気がするんですよ。ゲームの中では無理でしたが。現実の世界では大丈夫な気がするんです。それに同じように川に緊急着水した例もないわけじゃあないんですよ。だから大丈夫です」
警告音は相変わらずなり続けている。

「ああ……まったく俺としたことが」
悩んだところで問題が解決するならば、ずうっと悩み続けていよう、だが、今はその時ではない。もう選択肢はそれしかないのだ。

「ぐだぐだと迷う真似をするとはまるで普通の常識人じゃないか」
独り言を呟き、底をつき始めている燃料計に目をやり、そのままその川へと視線を移す。

「鯉、やれ、落とせ、落とすつもりでやれ!」
「了解!」
池田の言葉に鯉は緊張と興奮が入り交じったような顔で言った。いやその顔はむしろ純粋な好奇心のようなものの方が強い。わき上がってくる様々な感覚をぞくぞくとむしろ楽しむように感じ鯉は操縦桿を握っている。
興奮が緊張を上回った。戦場に立つ兵士のような異常な狂気に近い高揚感に包まれている。
操縦桿を倒すと同時に飛行機は勢い良く川へと向かって降下を開始した。感覚的には川に向かっているというより町に落ちていっている感覚に近い。

「おい! 大丈夫なのか!」
「街中の川に着水ですからね。大丈夫です! いけます!」
鯉の額に汗がにじんだ。
飛行機は次第に高度を落とし川へと着水する態勢に入った。
警報音が再び鳴り響く。今まで鳴っていた燃料計の警報だけでなく、高度計の警報、そして車輪が出ていないことの警報が新たに鳴り始めたのだ。

「…………」
警報音の切り方までは池田も鯉も知らない。音を無視して操縦に専念した。
機体は減速しながら降下する。
もし減速が足りず、機体の頭が下がりすぎれば機体は回転し、水面と激突する。勿論機体はバラバラになり命もない。飛行艇のフロートが水面の上に静かに滑るように慎重に行われる必要がある。しかもそれをジェット機で。これは奇跡的な感覚と運が無ければやってのけれるものではない。
機体が地上に近づくにつれ、地面の動きが段々と速く感じるようになった。町の連なりの中に一本の長く川幅の広い川が次第に近づき景色が流れ始める。機内から見ると地上とはまだわずかに距離があるように感じるが、地上の景色はめまぐるしく動き変化し始めている。

「三十秒!」



鯉の声は客室にいた二人にも十分届いていた。
テッドはその三十秒の意味をわかっていながらも心の中ではっきりと何が起こるのか言えと叫んでいた。だが今はそれを口に出すような状況ではない。それに声を出せるような状態ではない。

「おお……神よ…………」
トーマスはそう呟くだけで後は必死に座席の肘置きを掴み震えた。
高度が下がる。飛行機の底がもう地上の建物に接触しそうなほどだ。
町並みの景色も今は飛ぶように流れている。
鯉が操縦桿をわずかに引くと機体の頭が上がり尻を付くような形になった。
着水する!
その瞬間、強烈な衝撃が走った。巨大な棍棒で力任せに殴られたかのような一撃。機体の大きさよりも遥かに大きい水しぶきが上がった。
だが尚も飛行機の速度は落ちない。
スロットルを逆噴射に入れ、鯉は操縦桿を必死に握っている。
ランディングは完璧だった、が飛行機の速度が思ったよりも落ちない。このまま速度が落ちなければ機体は川の土手に激突する。
水しぶきと機体のすさまじい揺れ。上下に叩きつけられるようなバウンドを繰り返しながら機体は川の土手へと向かっていた。

「ぶつかるぞ!」
「わかってます!」
操縦桿を操作し方向転換を図るがそれはほとんどその意味を成さない。川の土手は間の前へと迫る。
もう避けることは出来ない。

「いかん!」
機体は川の土手へと激突し、今までのものとは比べものにならないほどの衝撃が走った。同時に意識は闇の中へと消えた。



[25364] 第一話 皆殺しの霧街 『ザッピング オクターブ』
Name: 鬼虫兵庫◆7ce726e6 ID:f0ecf01f
Date: 2011/01/13 21:14
―ザッピング オクターブ―



ニューヨークの警察署、オクターブは地下の駐車場から署内へと続く薄暗い階段をゆっくり上っていた。
空港で池田達を見送った後、市内を適当に巡回し、丁度刑事の格好で署内に帰ってきたところだ。

(最近になって、俺もこの姿が板についてきたようだ)
オクターブは薄暗い階段の影を眺めつつそんなことを思った。
始め警察署などあまり居心地のいいものでは無いだろうと高をくくっていたが、今となっては或いはここが一番の安息の地なのではないかと感じる時がある。
今、オクターブは表向きニューヨーク市警の一警官である。オクターブにとっては追われる側から追う側への大転換をやってのけたわけで、これほど痛快なことはなかった。
だがそれもそう長くは無い。実際この生活はもうじき終わる。オクターブはそう踏んでいた。どうもあの写真と関わってから辺りがきな臭くなってきた。周囲にも不穏な空気が漂いつつある。
この辺りが潮時である。
今の環境を捨て、新たな環境を得るということは非常に手間がかかる。だが、そこでの躊躇はいつも非常な危険がつきまとうことをオクターブは知っている。
このまま一警官として人生を終わらせてもいいとも思っていたが、どうも運命がそれをよしとしないようであった。

(あんな訳のわからない写真に手を出すべきでは無かったな……池田にも悪いことをした)
そう思わずにはいられない、あの写真には異常な危険が潜んでいる。それは池田の言っていた程度ではなく、それ以上のもっと危険な何かである。
オクターブにもまだその危険の正体が掴みきれない。

「…………?」
一階のフロアにたどり着くと、いつもと様子の違う喧噪が耳に飛び込んできた。
署内は確かにいつも騒がしいが、今日の様子はそれとはまた違う騒々しさがある。
電話のベルがひっきりなしに鳴っているのと、それに対応する連中が声を上げているのはそう珍しくは無いが、そのざわめきの中に妙な緊張感が含まれているのを感じた。

「どうしたんだ一体? テロでもあったのか?」
近場にいた婦警を捕まえ、事情を聞こうとすると

「ああ、ディック、もしかするとそうなのかも……とにかく今はとんでもない騒ぎよ」
オクターブの変名を呼んだ彼女は、そう言って緊張した面持ちを見せた。どうやら冗談でもない様子だ。
オクターブは人を掻き分け、そのざわめきの元、中心点であろう分室の中へと入った。その中は既に手の空いている十人以上の警官で溢れていた。皆、声も出さずテレビの音に聞き入っている。

「おい、どうしたんだ?」
「し! 静かに、今、丁度それを言うところだ」
テレビには女性キャスターが映っていた。どうやらその背後の風景は飛行場のようである。

『……ニューヨーク、ラガーディア空港発、コロンバス空港行きの航空機が消息を絶って既に三時間の時間が経ちました。レーダーから消失し、管制塔と全く連絡が取れないことから当局は当機体がペンシルベニアの森林地帯に墜落したものと見て現在その消息を追っています。今のところ機体の消息に関する情報は入ってきていません、この機体の乗客は……』
「墜落……」
テレビからは尚も飛行機墜落に関する情報が流れ続けている。
だがその声ももう耳に入ってこない。
…………。
自分自身が異常なほど動揺しているのがはっきりとわかった。額からは汗が噴出し、体中の毛が逆立つ、脈拍は高まり、手が小刻みに震える。
オクターブは部屋の中から飛び出した。出るなり携帯電話を使い、池田に連絡を取ろうとするがつながらない。何度連絡を取ろうとしてもただ電波がつながらないというメッセージが流れるばかりだ。

(どうなってやがる、池田が乗った飛行機が墜落。こいつが偶然で片付けられてたまるか!これは絶対にまずい! だが本当に航空機を墜落させたのか? あれほどの民間人を犠牲にまでして?)
オクターブはその混乱の中にあって一度目を瞑り呼吸を整え、その動揺を無理矢理心の奥に沈める。
慣れたものだ……昔のようにはいかないが、僅かな時間で完全にその動揺を押し込めることが出来る。取り乱し、混乱した頭もゆっくりとだが元に戻った。
動揺は収めたが、尚も様々な思考がめまぐるしく駆けている。
この飛行機はオクターブが三時間前にたしかに見送ったものだ。もちろんその飛行機には池田と鯉が搭乗したはずだ。搭乗待合室から抜け出さない限り池田達はこの飛行機に乗ったと考えた方がいい。あの男のことだ、事前に何らかの異変を感じ、飛行機に乗らなかったことも考えられる。オクターブはそもそも池田が根っからの飛行機嫌いなのを知っている。他人が操縦する飛行機に乗るくらいなら自分で操縦した方がマシと考える男だ。その可能性も無いわけではない。
だが何故、飛行機は墜落した?
チケットの手配がばれていたとは考えにくい、事前に確実なルートを使い、偽名のチケットを用意し、その上、直前に別の便へとスライドまでさせている。手配がばれていたとしても何故池田を消す必要がある?
あの写真……。

(数百人を巻き込んでまで?)
…………。

(フェイザーズ)
オクターブの記憶の底からある言葉がわき上がり、沈めた動揺を再び浮かび上げる。

(馬鹿な、何を考えている。確かにいくら殺そうとも構わなかった連中だ……だが奴らのわけがないじゃないか。あり得ないことだ。死人が蘇ったとでもいうのか?)
動揺する心をもう一度無理矢理静め、オクターブは地下の駐車場へと向かった。階段を降りるその時もまだ事件のニュースが部屋の中から漏れ聞こえていた。



地下駐車場。
上の静寂とは打って変わり静寂の中にある。
都市の喧噪から置き去られた場所、僅かに遠く車のクラクションやサイレンの音が聞こえる他は何の音もしない。
都会の中にあっては異常すぎる程の静寂。

(ん……?)
駐車場に一歩踏み出したオクターブはその瞬間、僅かな異変を感じた。……が、それを表情に出さず何事も無かったかのように車に向かいキーレスで車のドアを開ける。

「…………」
ドアを開ける動作の途中、オクターブの動きは止まった。
殺気、押さえようとする様子が微塵もないそれは、明らかな殺意を溢れるに任せていた。
手に持っていた鍵を地面へと落とし、ゆっくりと両手をあげる。
車のドアの上をレーザーポインターの光点が一瞬走った、恐らくそのポインターは今、オクターブの後頭部に集中しているはずである。

「オクターブ、随分と探すのに苦労したよ、だがやはりお前も人間だ、時にとんでもないへまを犯すものだな」
男の声が聞こえた。聞いたことも無い声だ。

「さてなんのことだか? 俺は……」
不意に飛び退き体を入れ替える、後ろに回り込まれた男に危うく腕を取られそうになる。
動きが早い、普通の人間の動きではない。
鍛えてどうこうというレベルの動きではない。恐らくかなり特殊なプログラムによって育成、或いは作成された者の動きだ。
数人の男が闇に紛れ、間を詰める。一人を倒したその一瞬の隙を突かれ、腕を取られた。それと同時、金髪の男の掌底がオクターブの顎を捉える。
一撃、意識を朦朧とするには十分だった。体中から力が抜け視界がブレきったカメラを通して見るようにぼやける。音が反響し頭の中で何回も響く。

「ぐぅ……」
「話に聞いていたほど大したことはないな、なあおい!」
金髪の男は言いながらさらに腹部に一発パンチを食らわせた後、膝で金的を打ち、最後に側頭をもう一度掌底で力任せに殴った。

「お前に聞きたいことがある」
言いながら男はもう一度オクターブの顎を殴りつける。
羽交い締めを解かれたが立ち上がるには少々ダメージを受けすぎた、起き上がることもできずそのまま地面へと落ちる。
意識が途切れる直前、見上げた男の顔は暗いライトの陰に隠れ、ただ真っ黒に見えた。



…………
何分経ったのだろうか?
或いは数時間が経過したのだろうか?
オクターブは朦朧とした意識の中、椅子に縛り付けられ、目の前から強烈なライトで照らされていた。
ライトの光以外は何も見えないただの暗闇、窓も無く音も無い。人の姿は見えないが気配が至る所に存在している。気配の一つが動き、明かりの中へと姿を現した。
金髪の短い髪の男は、明かりの中、パイプ椅子を手に持ち、照明の前に置き、椅子に座る。
ライトの逆行で男の顔はよく見えなかったが、僅かに見えるその表情は侮蔑に満ちあふれた表情のように見えた。

「オクターブ、さて質問だ」
男の声が不鮮明に揺らいでいるように聞こえた。恐らく自白剤の影響だろう。

「古い……この手の自白剤を使うやつがいたとはいまどきこの手は無いな……ナチの真似事でもしているつもりか?」
しゃべる度に口の中が痛み、血が滴り落ちた。どうやら意識を取り戻す前にもしこたま殴られていたらしい。
オクターブに投与されている自白剤、内実は麻薬に近いものでしかない。意識を昏倒させ事実を引き出すといったものだがオクターブはこういったものに対する処法を知っている。その効果は薄い。

「まあ君にとっては気休め程度のものだろうが廃人にされないだけでもましだと思ってもらわなくては困るね」
「おお、そりゃあ勘弁」
血がこぼれ落ちるだけではない、声を出すたび自分の声が頭の中に響いた。朦朧とした意識の中、わけのわからない言葉の数々が頭の中をめぐり、声になって頭の中に響く。オクターブはそれをかき消すように精神を鎮めた。

「お前が我々のしようとしていることをどれほど知っているのかはこの際関係ない。私達が聞きたいのは池田戦という男の経歴だ」
「池田の? 池田なら、あの墜落した飛行機に乗っていたんだぜ。今更やつの履歴を知っても何の徳もあるまい」
「彼は死んではいないよ。恐らくはだがね……」
「どういうことだ?」
男の表情に明らかな不快の色が浮かんだのが僅かな光の中見えた。
男は素早く立ち上がり、オクターブの腹を力任せに殴りつけ、何度か殴った後、軽く息を吐いて再び椅子に座る。ポケットの中から煙草の箱をとりだし、煙草に火を付けそれを一服する、オクターブがその傷みにもだえているのをしばらく観察した後、やっと口を開いた。

「私の質問に答えるのが先だ」
だが、男は続けて煙草の煙をオクターブの顔に向かって吐き出し、僅かに笑みを浮かべ

「だが、まあいい……教えてやる。これはまだどこにもリークされていない、そしてこれからもどこにも漏れることの無いことだが……」
と前置きし、その言葉の調子を変える。

「コロンバス空港行きの乗客は数人を除き既にほとんどの乗客が死体となって発見された。もっともどれも死体といえるほどの状態ではない、上空三万フィートから落下したのだ、原型を留めている方がおかしい」
「三万フィートから落下?」
「お前には理解できないことだ、理解する必要も無い。どの道それらは本当に墜落したこととして処理される」
「わからないどういうことだ……何故池田が生きているといえる、その死体の中に何故いないとわかる。墜落したことにするとは……飛行機は……本当は墜落していないのか?」
「私がたとえ真実を言ったとしてもお前は私が頭がおかしくなったと思うだけだ」
男は苦笑を交えそう呟き、続けた。

「さあ話を元に戻そう、お前はかつて池田と同じ部隊フェイザーズハウンドに所属していた。過去のオーパーツ、狂人部隊。唯一わかったのは数少ない隊員の名前と、その表向きの素性のみ、その部隊が何のために存在し、何を行っていたのかその一端すら我々は掴むことが出来ず、あの池田という男にも接触すら許されなかった」
「当然だ、その程度の根回しは……」
「だが、既に我々の縛りは解けた、そしてお前を補足した今、それらの謎は全て明かされる。そうだろ? 或いはここで死ぬかね?」
「馬鹿め、どの道生かして帰す気などないくせに……」
オクターブは呟きながら笑みを浮かべ

「だがなあいにく俺と池田は死にたがりの狂人達の中でもはねっ返りだったもんでね。どんな絶望的な状況に陥ろうとも死を選ぶようなマネはしない。必ず打開し、生還する。そう互いに誓い、生きてきた」
「となるとこの状況下はまさにその絶望的な状況だというわけだな。さあどう打開する。今すぐそれを見せてくれないか? さあ今すぐ!」
男は銃を取り出し、その標準をオクターブの膝に構えた。
その引き金がまさに引かれようとした瞬間

「ハ……ハハハハハ、これが絶望的な状況だと?」
オクターブの表情が別人のように変わった。
その様子にオクターブを取り囲んでいた男達は息を呑んだ。それが本当に別人の顔のように見えたからである。

「もう芝居も飽きた、この程度にしよう」
オクターブの口調が明らかに変わった、それまでにあった感情は消え去り、冷酷な口調のみが暗闇の中へと響く。

「教えてやろう、ルーキー共。我々が犬となり殺してきた人間の数、その所業。そしてその縛めが解けた時、我々の存在を抹殺しようとする組織に対抗し、どれほどの血を流してきたか。これが絶望的な状況? 笑わせるな、この程度の状況、我々にとっては単なる平穏の一部でしかない」
「…………」
「フェイザーズは人間とはかけ離れた存在。貴様らが想像することも出来ないほどの狂人、その力の強梁さゆえ、それが存在し続けることさえ許されなかったのだ。もっともそれを知っている人間はもういない。この意味がわかるか?」
オクターブの表情がまた変化した。

「自身の不運を呪うがいい。お前達は俺をなめすぎた。俺が貴様らのようなルーキーにただ捕まえられるとでも思っていたのか? 何故情報を得るためにわざと捕まえられたとは考えなかったのか?」
オクターブの言葉は自分の置かれた立場とはまるで逆のもののように聞こえた。だがその声は確実な自信に満ちあふれている。
瞬間
ライトが割れ、部屋の光が消えた。
光が失われる寸前オクターブがわずかに動き、口に含んだ何かを吐き出したように見えた。それがライトを割った。

「明かりをつけろ!」
叫び声と共に数発の銃声が鳴りそれと同じだけのマズルファイアーが光った。
部屋の中に明かりが戻る。数人の男が地面に倒れ、血を流している。
だが、椅子に縛り付けられているはずのオクターブの姿が無い。部屋の唯一の扉は開けられたような痕跡はない、またあの短期間でそれをやってのけれるとはとても思えなかった。

「奴はどこへいった!」
声を出した金髪の男の後ろから銃声が聞こえ、立っていた残りの男が他の者と同じように地面へと崩れ落ちた。

「くっ!」
振り向きながら銃声の方向へ銃を向けるが、弾き飛ばされる。
その時、男は信じられないものを見た。
自分と全く同じ顔をした男が目の前に立って銃を向けていたからである。

「ば、馬鹿な! 貴様! 一体! 誰だ!」
「最後に一つ教えてやろう、オクターブとは八度音程、一段飛びにその姿を変えるという俺のコードネームだ」
声はまるで男の声そのものだった。
オクターブは銃を男の眉間に構え引き金を引く。パンという乾いた音の後、男の頭蓋から血と脳漿が噴出した。
地面に倒れ、死んだ男の顔に向けて尚も数発の弾丸を撃ち込む、原型を留めぬほどに顔を破壊した後、やっと銃撃を止めた。

「悪いな……俺も死にたくないんだ」
オクターブは手早く男のジャケットを剥ぎ取りそれを羽織った。血糊と脳漿がべっとりとつき血で汚れていた。

(あいつなら殺さなかっただろうか? あいつも不器用だが、俺も不器用だ)
扉を開け、男になりきる。
銃声を聞きつけ、部屋の外にいた男達が廊下に殺到し始めたところだった。

「た、隊長! 一体何があったんですか!」
「や……やられた、お前らは中にいる奴を始末しろ……」
オクターブは壁にもたれるようにして、さも重症を負っているように装った。
そして男達が自分の横を通り過ぎた後、平然と立ちあがり、扉から部屋の中に入ろうとしている男達の後頭部に向けて銃を放った。
男達は叫び声も上げることもなく、起こったことを理解する間もなく倒れた。

「恨むなよ……」
呟き、オクターブは死体となった男達を哀れむような悲しい目で見つめた。

(多少の情報は得れた。……が、これではまだわけがわからない……墓暴きと作られた飛行機事故、そして池田の失踪、フェイザーズ、これらが一つにつながるとでもいうのか。一体どういうことだ、何が起こっている……)
オクターブは釈然としない疑問と身体に纏わりついた血の匂いに嫌気を感じながらも再び街の中へと舞い戻る。
街は既に夕暮れの中へと落ち、夜を迎え、明かりが灯り始めていた。その夜景を見ながらオクターブは警官としての自分が終わったことに改めて気づき、深く長いため息を吐き出した。



[25364] 第一話 皆殺しの霧街 『ザッピング 早坂真夏』
Name: 鬼虫兵庫◆7ce726e6 ID:f0ecf01f
Date: 2011/01/15 00:02
―ザッピング 早坂真夏―



日本、島根県松江市
特になんともない変化の無い日常。
変化といえば中間テストが終わってようやく一息ついたというくらいのものだろう。
三年生はそれこそ大学受験に向けて猛烈な勢いで勉強をしているけれども、二年の自分には大して関係は無い。いや厳密には関係がないこともないけれども今から将来のことを考える気にはどうにもなれない。ただ自分に箔をつけたいがために受験をするような気がして、どうにも大学進学自体にも興味がわかない。そもそも進学して就職して、お金をもうけて……結局生きるために稼ぐための苦労を今してるのだと考えるとなんだかむなしい気になる。
まあこんなひねくれてて人生を達観したような女子高生もいまどき珍しいといえば珍しいのかもしれないけれども。夢を追わなくなったのはいつからだろうか? なんてね……。
そんなことを考えながら、ポニーテールで紺色のセーラー服を着ていた少女は高校へと続く長い坂道を歩いていた。背中には斜め掛けにした肩掛け鞄がぶら下がっている。中にたいして教科書を入れていないのか鞄は酷く薄い。
ぼんやりと眠気を引きずりながらずり落ちたマフラーを首に巻きなおす。
今日は薄くわずかな霧が掛かっている。
紅葉で色づく高校の山も今の場所から見ると薄く霧がかかりばんやりとして見えた。
朝早く出たせいか少女の周りには生徒の姿はない。
部活の朝練に出ている生徒はもう既に校内にいるのだろうが、普通こんな早い時間に学校に行く生徒はいない。

「おう、めずらしい。真夏か」
ふいに後ろから声がかけられた。
振り向くと短い髪の自転車に乗った少女が片足を地面について立っていた。

「なんだ奈美か、あんた朝練にしてはちょっと遅いんじゃないの?」
「遅刻というやつだよ、早坂君。というより真夏は来るのがだいぶ早いんじゃないの?」
「まあなんでだろう? 珍しく目が冴えた?」
「その割には眠そうだな」
「確かに……今は眠い」
「真夏も陸上部にでも入ればいいのに、真夏の足ならすぐにレギュラーになれるよ。私が保証してやる。つーかあの遠い家から走りで学校まで通っているような変人は絶対に陸上部に入るべきだ。うん」
確かに真夏は自転車通学でも遠いような距離を走って学校まで通っている。今日も家から延々と走り、学校下にある武家屋敷通り近くまでたどり着いた後、歩いているのだ。マフラーなど走るのに邪魔になるものはかばんの中にしまって走っている。
それこそ陸上部のように毎日トレーニングをしているようなものだった。

「う~ん、まあ遠慮しとく、私基本は朝弱いし。まあ確かに走るのは好きなんだけどね」
「じゃあなんで陸上部に入らないの? もったいない、何か部活でもやってた方が進学にも有利なのに」
「そういった義務的なのが絡むと走りたくなくなる」
言いながら真夏は学校へと続く坂に向き直り、歩き始めた。

「相変わらずわけわからないな~。まあ、ここでずっと喋くってると監督が本気で怒りそうだからあたしはもう行くよ」
「そうしなさい」
「考えときなよ」
「何を?」
「だから部活のことだってば」
立ちこぎで坂を上りながら奈美は後ろを振り返りそう言った。本当は学校下の坂は自転車を押していかないといけないのだが、奈美は構わず自転車に乗って坂を上っていっている。

「だからやらないって」
答えたが、既にその言葉が届かないほど奈美は遠くに行ってしまっている。

「……ふう」
また肩からずり落ちたマフラー巻きなおす。吐いたため息が白く曇った。

「今頃始めるのもね……」
やりたくないわけではない。が、いつの間にかずるずるとここまで来てしまった。中学時代には県の代表として全国駅伝で走ったこともある。だが、中学の終わりごろに怪我と高校受験が重なり、なんとなくそのまま走ることから遠ざかってしまった。
まあ今年の校内のハーフマラソンでも優勝しているし、そこまで走ることが衰えているわけではないとは真夏も思っている。奈美を抜いた時には

「本職を抜くなー帰宅部ー!」
と皮肉を言われたものだ。

「…………」
長く伸びたポニーテールに手を伸ばす、走るのをやめてから伸ばしてきた髪だが、それが随分と伸びた。
しばらくその場に立ち止まり、昔を思い返していたが、やめて、再び坂を上った。



学校での四限の授業が終わり、昼休みになった。
いつもより四限目の英語の授業は長く感じた、相変わらず何をやっているのかさっぱりわからないし、妙に眠気が強かった。
さすがに机に突っ伏して寝るようなことは無いが、黒板を見ているうちに何度も意識が飛んで頭を机に打ち付けそうになった。
授業が終わった後、体を強く伸ばしてみたが、身体に妙な疲れがたまっている感じがする。
毎日走っているので走りから来る疲れはわかる、だがこれはそういった肉体的な疲れとは違うような気がする。
それが何であるかは説明できないが。
周りでは皆、弁当を取り出したり学食へと急いで向かったりしている。
その中、真夏はけだるそうに机に突っ伏した。

「学食にいかないの?」
奈美が突っ伏している真夏に向かって声をかけた。いつもなら、いの一番に学食に向かうのにこんなにだれている真夏は珍しい。

「朝の反動が今更来た……のかも。学食行くなら私の分も買ってきて、チョコレートのドーナツさえあれば後はなんでも良いからあとは適当に……」
「なんだか本当にお疲れのようね。元気印のあんたがめずらしい……」
「私もたまにはそういう日もあるのよ……」
「まあ、いいわ、んじゃ適当に買ってくるけど文句言わないでよ」
「頼む~」
軽く手を上げて答えると奈美は小走りで学食へと向かっていった。

「ふぁ……なんだか今日はほんとに……疲れた……なんでだろ…………」
…………
霧の中。深い深い霧。
間近の風景すら見えない中、真夏は立っていた。
全く視界は利かないがあたりはぼんやりと白い光で包まれている。耳を澄ますと遠くから気味の悪い鳴き声が聞こえた。

「ああ、夢か……へんな夢だな、これは……」
自分の姿を見る、制服姿なのはわかるが足元が霧でかすれて見えない。
本当に立っているのだろうか?
遠くから聞こえる奇妙な鳴き声は自分に向かって段々と迫ってきているようだった。

「まあ、放っておけば覚めるでしょ……」
だがその鳴き声は自分に向かって迫ってくる。次第にだが確実に、声は耳をつんざく程の大きさにまでになった。手で自分の耳をふさいでもその音をさえぎることが出来ない。

「!」
その鳴き声が自分のすぐ間近にまで迫った時、声は突然止まった。だが、唸りのようなわずかな吐息がまだ残っている。
すぐ自分の後ろからその息づかいと共にその生暖かい風を感じる。
振り返らないといけない、振り返らないとどうにかなる。だが、振り返れない。

(振り返りたくない……)
じっと恐怖に耐えていた真夏だが、体中の勇気を振り絞り、その後ろを振り返った。



「わあああああっ!」
とんでもない叫び声をあげて真夏は飛び起きた。
教室にいる生徒どころか両隣の教室、廊下にいた生徒すら何事かと覗きに来るほどの大声。終いには遠くにいた教師までがその場に駆けつけた。
真夏はそんな喧噪の中、自分が教室の中にいることを確認してからやっと落ち着きを取り戻した。だが心臓は未だに高鳴っている。

「あんた一体、なんつー大声出してんのよ」
丁度学食からパンを買ってきた奈美があきれた顔をして立っていた。

「あ、ははは……。はぁ……いやちょっとへんな夢を……」
「はぁ? 夢? あきれた……」
真夏の一つ前の椅子を引っ張り出し、座り、買って来たパンを机の上に広げ、奈美は片手を真夏の前に差し出す。

「?」
わけもわからず、その手にお手をするような恰好で手を乗せる。

「何寝ボケてるの……お金よ、お金、私もおごってやるほど余裕なんか無いんだからね、四百円でいいわ。後、口」
「口?」
「よだれがたれてる」
慌てて口を袖で拭う。
すぐその後ドタバタとかばんの中からお金を急ぎ取り出し奈美に手渡した。

「毎度」
「うう……」
「なにがうう……かね、全く」
しばらく教室はざわめいていたが、その元凶が真夏の寝ぼけにあるとわかるとやがて元の平静へとたち戻った。

「いやほんとにへんな夢だったんだよ、ほんとに……」
「へえ、まあ一応聞いてあげるわ、どんな夢?」
自分のパンをかじりながら奈美は大して興味があるわけでもなさそうに訊ねる。

「えっと……霧の中に自分が立っていて……嫌な変な鳴き声が聞こえて……その声が段々近づいてきて、それが私のすぐ後ろに迫ってきて振り返ると……」
真夏の言葉がそこで止まった。

「振り返ると?」
「振り返ると……え~と、何かが、何かがいたんだよ。それで私はそれで悲鳴を……あれほんとになんだったけな?」
「あきれた、思い出せない程度のもんにあんな絶叫をあげてたの? まあ、あんたは昔から怖い話が苦手だもんね。そうだ、霧といえば最近流行ってるこういう噂話知ってる?」
奈美は言った後、パンを無理矢理口に押し込むよう食べ、嬉々とした様子で身を乗り出した。

「なに、怖い話なら……」
「まあまあ、良いから聞きなって」
真夏は浮かない表情でいたが、奈美は構わず話を始める。

「最近妙に夜霧がかかるのが多いと思わない?」
「夜霧? ああ田んぼの辺りとか湖の近くとかだと確かによくかかってるけど……」
「そのよく夜霧がかかる場所、そこが危ないのよ」
「なにが? どう危ないの?」
「鈍いわね、最近中学生が行方不明になった事件があったでしょう。あれがその夜霧がかかってるとこで起きたのよ」
「ああ、あの……」
真夏は数日前に見たニュースを思い出した。
確か、市内の女子中学生が下校時に行方不明になったという事件だ。まだ見つかったという話は聞いていない。ニュースでは事件か事故なのかわからないということだったが、真夏ならまだしも、普通の女子中学生が学校からの帰りに田んぼやため池に立ち寄って行方不明になるとは考えにくい。町の大半の人間はこれは事故ではなく事件であると思い始めていた。

「というわけでその夜霧に巻き込まれた人間は神隠しにあってしまうのよ、っていう噂」
「神隠しって……」
今時、小学生でも本気にしないようなことだ……と思いながらも真夏はさっきまでの霧の記憶がよみがえりぶるっと身震いした。

「まあ、実際は変質者かなんかの仕業なんだろうけど、気をつけなよ。行方不明になった場所にも近いんだしさ、確か婆沼の辺りだったかなぁ。ああ、丁度あんたの帰り道だ、うん」
婆沼は別に有名でもなんでもない小さな沼だったが、農道から小道に入りしばらく進んだところにある地元の人間からは気味悪がれている沼だ。時々地元から離れた人間が釣りをしに来てそのまま行方不明になるということが何度か起こった。人が近づかないように囲いがしてあるが、それでも入り込む輩はいるらしい。魚がスレてないこともそういった輩を引き寄せる原因になっているのかもしれない。

「怖いこと言わないでよ……」
学校でも事件を受けて出来るだけ一人では下校しないようにという連絡がなされているが、真夏は帰宅部ということもあっていつも一人で下校している。
夏の時期は明るいうちに家に帰れるのだが、今の時期、授業終わりと同時に帰っても家に着く頃にはすっかり日が落ちる。
それに奈美の言うように真夏の家は婆沼が近い。
奈美は真夏の様子に満足するかのように話を続ける。

「最近まで何日か連続で捜索してたんだけど昨日なんかはいったん捜索を止めたらしいよ」
「……なんで?」
よせばいいのにまたそれを聞き返してしまう。自分でもこの反射的な頭が憎く思える。

「もう少し放って置くとね死体の中にガスが溜まって独りでに浮いてくるのよ。ぷかぁってね……」
「もう止めてください、本当に許してください、すみません」
耳を塞ぎながら泣きそうな声で言うとそこでやっと奈美は話を止めた。



放課後、HRが終わり、皆が下校の準備を始めた瞬間には既に真夏は教室を飛び出していた。

「あそこまであからさまに反応しなくてもいいのに、相変わらずわかりやすい奴だな」
一言だけ別れの挨拶を受けた奈美がその背中を見送り、あきれた様子で苦笑を顔に浮かべる。



「まったく、嫌な話、聞かせるんだから、もう!」
奈美への愚痴をこぼしながら真夏は家へと続く道を走る。最近日が急に短くなってきた、学校を出るときも既に空の色が少し変わり始めるほどだ。真夏は走りながら自転車で学校に通うことを今更ながらに考え始めたりもした。
町を抜け小さな山を一つ超えた先、田んぼが続く道までたどり着いて、一度足を止めた。
田んぼの先に夕日が落ちようとしている。刈り取られた稲の田んぼが延々と続く風景、全てが夕焼けに包まれていた。何気なく立ち止まった真夏はその光景を無言で眺めていた。
遠くに見える山に夕日が落ちようとしている。日の光が更に変わり深紅の色が辺りを包んでいく。目の前に広がる田んぼ、山、空、全てが赤い色に染まり、世界を全て赤い色に染めた。
美しいがあまりの赤の強さに少し不気味に感じてしまう。
それほどに赤い。

「……綺麗だな」
少しの間、その風景を眺める。やがてまた走り出そうとした、足が止まった。

「……あれ?」
始め自分の感覚を疑った。まるで映画で場面が切り替わるかのように目の前の風景が変わったからだ。恐ろしいほどに音が消え風景がストンと切り替わった。今は虫の鳴く声が聞こえているが確かにさっきまでは何も聞こえなかった。
それより……。

「どこここ……」
辺りを見渡すがこの場所に見覚えはない。いや、あるかもしれないがそれはかなり曖昧な古い記憶に思われた。道もアスファルトではなく土をならしただけの小道で草に覆われている。

「なんで急にこんなところに……私、確かに田んぼのところにいたよね……」
自問自答するのが馬鹿らしいほどそれは確かなことだった。だが、この目の前の風景もまた現実である。見渡してもここが何処なのかわからない。だが、わき起こる嫌な予感を感じながらゆっくりと振り返るとそこが何処なのかわかった。真夏は思わず腰が抜けそうになった。

「な……なんで、ここ婆沼……なんで私こんなところに……なんで……」
歯が震え、涙が溢れそうになる。混乱し、どうにかなってしまいそうになるのをこらえ、どうにか自分にこの異常を納得させそうとした。あまりに婆沼や事件のことを考えすぎたために無意識の内にここに向かってしまったのだ。そうだそうに違いない。子供の頃からここには来てはいけないと言われていたが昔ここにたった一度だけ来たことがある。だからここへの道も知っている。そうだそうに違いない。
何とか納得させそうとしても足が言うことを利かない。ブルブルと震え、金縛りに遭ったかのように一歩も逃げ出すことが出来ない。視線もそこから逸らすことが出来なかった。見える沼の手前の黄色と黒のロープ、立ち入り禁止の看板。ここでやはりあの女の子は死んだのだ。恐怖の中でそう思った。
その時。
ぷかり……。
何かが浮き上がった。そして、その何かは真夏の顔を見て口を開いた。人の形をかろうじて保ったその口は確かに「ようこそ」と声を発した。

(夢だ!)
これは夢の続きに違いない、こんな現実離れした馬鹿なことなどあるはずがない。叫べばいい。叫べばこの空気を振り払い。夢から覚めることが出来る。
声を出そうとするがそれがでない。声は喉でかき消されたかのようになんの音も発しない。
あの鳴き声が聞こえる。
聞き間違えだと思った、だがその声は確かに聞こえる。あの夢の時と同じように自分の後ろからゆっくりと迫ってきている。

(これは夢だ、これは夢だ……夢だ夢だ夢だ)
声と共に何かが後ろにいる、すぐ後ろで獲物を狙う獣のように様子をうかがい今にも飛びかかろうとしている。
振り返れば何が。
そのままでいる方が今は怖い。振り返らなければ死ぬ。そういう違う恐怖が全身を支配している。

(振り返らないと振り返って夢から覚めないといけないんだ)
後ろを振り向いた時、強い風が舞った。目を開けることが出来ないほどの突風。

「…………!」
心臓が止まる程の恐怖に怯え、真夏は全身を硬直させた。
しばらくしてゆっくりと目を開けると、そこは既に辺りが白い世界で覆われていた。錯覚かと思い自分の手を見るが、そこにはちゃんと自分がいる。が足元は見えない。真夏は辺りを見渡した。どれだけいろんな方向を見渡してもただ白い世界が広がっているだけ。

(これが現実なんかもんか……きっと夢の続きか、それとも事故かなにかにあって……夢を見ているとか……)
いくら見渡しても辺りは全て白色に支配されている。
あまりに何も見えないので、平衡感覚がおかしくなってふらついて倒れそうになる。

「誰か、いますか!」
声が声となりやっと叫べた。この異常な事態を体験している他の人間を見つけ、この異常な状況から少しでも逃れたかった。そうすればこの悪夢から逃れられる。

「…………?」
何かの音が聞こえる。あの鳴き声ではない。

「……何の音だろ? 鐘の音?」
遠くから聞こえるのは確かに鐘の音のように聞こえた。教会の鐘のような音、遠くで鳴っているのか随分と反響しぼやけた音だが確かに聞こえる。低い唸りのあるような鐘の音。

「なんで鐘の音が聞こえるんだろう? お寺の鐘とは全然違うみたいだし……」
もしかして本当に別の世界に神隠しにあったんじゃないんだろうかと思い始めたとき、不意に後ろからドンと強く突き飛ばされた。

「っ!」
叫び声も上げる余裕もなく、地面へと尻餅をつく。見上げると眼鏡をかけた赤毛の外国人が真夏を見下ろしていた。元々気弱そうな顔なのだろうがその顔が更に気弱そうに真夏を見下ろしている。

「な、なんだ、や、やっぱり人がいるじゃないですか、や、やっぱり私は間違っていなかった! わ、私は間違っていない!」
混乱しているのか、男は真夏に謝る素振りすら見せず、目の前から再び霧の中へと姿を消した。自分の他にこの異常な事態に遭遇している人間がいることはわかったが、その人間はただ独り言を発しただけだ。真夏にはわけがわからない。

「……? どういうこと?」
深く何も見えない程の霧がゆっくりと晴れ始める。やがてその目に風景が戻ってきた。
その目に見えた光景、それは古めかしい西洋の町並みだった。



[25364] 第一話 皆殺しの霧街 『霧の街1』
Name: 鬼虫兵庫◆7ce726e6 ID:f0ecf01f
Date: 2011/01/16 00:07
―皆殺しの霧街―



朦朧な意識と痛みの中、池田は目を覚ます。
わずかな間か、或いは長い間気を失っていたのか、そのどちらなのかわからなかったが、とにかく自分が無事なことだけはわかった。目を移した先、操縦席の鯉も一応これといった外傷は無いように見えた。

「助かったか……」
コックピットのシートベルトを外す、ベルトがかかっていた場所が酷く痛むが、骨は折れていないようだ。前面のガラスの一部は着水の衝撃で割れコックピットの中に飛び散っている。
恐らくそれで頭を切ったのだろう、顔に血が流れ落ちた。

「まだこの機体から脱出するまでは安全とはいえないか……おい、鯉、起きろ」
鯉の肩を持って揺さぶると、すぐに応じるように目を覚ます。

「ああ、先生、どうもおはようございます」
「寝ぼけてる場合じゃない、早いことここから脱出するぞ」
客室に入り、三人の安否を確認する。気を失っているようだが三人とも一応無事なようだ。機内の右側面の一部は川の土手にぶつかった衝撃でめくれあがり、外の風景が見えるほどに破壊されている。池田が機内を歩くと通路に土手の石が中に転げ落ちているのに気づいた。同時にきつい燃料の臭いが鼻につく。

「……早いことここから離れた方がよさそうだ」
「燃料漏れですか? 確かにくさいですね」
機内にはジェト燃料の匂いが広がっている。これだけの衝撃と破損を受けながら燃料に引火していないのは奇跡に近い。エンジンの辺りから黒い煙が立ち上り機内に流れ込んでいる。このまま燃料に引火し爆発を起こしてもおかしくない状況である。

「お前はアイラを起こせ、起きないようなら担ぎ出せ、俺はトーマスとテッドを起こす」
池田はテッドの座席に近づき様子を窺う。外傷も無い、うなり声を上げ、気を失っている様子だったが池田がベルトを外した頃には朦朧としながらもその意識を取り戻した。

「助かったのか……」
テッドの意識が戻ったと見ると池田はすぐにトーマスの座席に移動した。

「おいトーマス! 起きろ!」
声をかけ、体を揺さぶっても起きる気配がない。池田はトーマスの意識が回復しないと見ると、シートベルトを外し、手早く肩に担ぎ上げめくりあがった大きな穴のところまで移動する。座席を踏み台にすると、半壊した隔壁のすぐ下に地面が見えた。地面と機体の距離は一メートル程度の高さしかない。機体自体が乗り上げながら土手を削り取っているような形になってる。上手く飛び越せば土手の上に降りることが出来そうに見えた。
担いだまま池田がその穴から飛び降りるとすぐ後を追って鯉が飛び降り、その後、同じようにしてテッドとアイラがそれに続いた。

「よう、目が覚めたようだな」
「一応ね、まだ頭がガンガンしてるけど」
機体から足早に離れながらアイラと言葉を交わす。アイラの顔色はすぐれなかったが、特に怪我はないようだった。しばらく歩き、機体が爆発しても安全な距離まで離れた後、地面にトーマスを降ろし一呼吸置くと、目の前に自慢げな表情で鯉が立っていることに気づいた。

「だから行ったでしょ、大丈夫だって」
池田はおもしろくない。

「上手くいきすぎだ、逆に不安になる」
二三の嫌みでも言おうかとも思ったが、視線をすぐに辺りの景色に動かした。わずかに見える街の外観は古い西洋の町並みだった。あまり見慣れた感じの町並みではない。川の対岸は霧が視界をさえぎ、見ることができない。

「こんな霧、着陸するときにはかかっていなかったのに……おかしいですね」
「そんなことより、こんな大惨事にもかかわらず野次馬の一人もいないのはいかにも不自然じゃないか、この町自体が死んでるみたいだぜ」
「確かに……」
町には誰の姿も見えない。音も無く、動いている物も見あたらない。静的な状況の中、唯一の動的な物と言えば、機体からあがり続けている黒煙くらいのものだ。異常な静寂と誰もいない妙な違和感が周囲の緊張感を増幅させていた。

「まるで誰かに監視されているみたいね……」
アイラが街を見渡し呟く。

「監視か……」
「ふん! そんなものただの気のせいだ!」
テッドもそう言い放ったものの、自分自身もここから妙な気配を感じていることに気がついていた。アイラの言葉の通り、人のいる様子はまったく無いが、確かに街の中から誰かに見られているような気配が漂っている。或いはそれは緊張感から来る単なる錯覚かもしれないが、街は確かに不気味な気配に包まれている。

「鯉、近くに人の気配はあるか?」
言葉より早く鯉は既に目をつむり、耳を澄ませている。

「いえ……気配は無いです。あと、匂いなんですけどそっちの方は飛行機の燃料がくさくてどうにも……」
「わかった、何か気づいたら知らせろ」
「わかりました」
鯉は答えると土手のコンクリートの上によじ登り、膝を抱えるような恰好で五感を集中させた。黒煙をあげる機体から僅かな音が聞こえるがその他は何の音も聞こえてこない。
アイラが街の様子に視線を集中させたまま口を開く。

「池田さん、これからどうするつもり?」
「さあてな、無人のわけのわからない町にたどり着くなんて状況は俺も想定していなかった。まあ飛行機が爆発する危険性が低くなったら機内から食料やら荷物やらを取りに行ったほうがいいだろう。それまではあまり下手に動き回らんことだ」

「同感ね」
「う……うう……」
地面に寝かされていたトーマスが唸り声を上げながら目を覚ます。

「目が覚めたか」
「こ、ここはどこです、私は一体どうなったんですか? そうだ、飛行機が着陸してそれで……」
「着陸ではないがな……まあ一応無事に地上には着いたがどうにも様子がおかしくてね。しばらくはここいらでじっとしていた方がいいだろう」
「…………」
トーマスはゆっくりと身体を起こし、しばらく無言でその場に座り込む。が、体を震わしひどく緊張した様子で再び口を開いた。

「で、でも私たちはいち早く助けを求めに行くべきじゃないですか。だ、誰もいない町なんてあり得ませんよ。た、たぶん飛行機が落ちそうになったから避難命令が出ているだけなんですよ! そうに決まってます!」
トーマスの気弱な性格からは思いもよらない強い口調で叫びながら立ち上がる。混乱と緊張の混ざった表情、その様子には冷静さは微塵も感じることが出来ない。

「落ち着けよ、よくはわからないがこの街からは少し嫌な感じがする。あまり動きまわらないほうがいい」
「わ、わかりました! い、今から私が助けを求めに行ってきます!」
池田の手を振り払い、トーマスが距離をとる。一刻も早くこの異常な状況から逃れられる平常に駆け寄りたいという意識がパニックを引き起こした。それまで以上に張り詰めていた緊張の糸がゆるみ、その反動で冷静な判断が出来なくなったのかもしれない。この状況の中、池田達の元を離れ、えたいのしれない町の中に一人で向かうという選択は通常では考えられない。

「おい」
「だ、大丈夫です! 大丈夫ですよ!」
言い放ってトーマスはふらつきながら霧の中へと走り出した。霧は濃く、トーマスの姿はすぐに見えなくなった。しばらく革靴の音が聞こえていたが、それもやがて静寂の中へと消えた。

「~~~…………」
土手の上に座っていた鯉は眉を寄せ、目をつむったしかめっ面で耳を押さえている。

「集中したんで……耳がおかしくなるかと思いました」
「困ったものだな……まったく」
「先生、どうするんですか?」
「通常なら頼まれても放っておくところだが、街の探索ついでにトーマスを連れ戻すのもまあそう悪い手じゃない。どの道ここで何かの情報を掴まないと手詰まりになる。日が暮れる前に早いとこそれを見つけてどうにか対処を考える必要がある……」
トーマスの消えた方向、古い建物が散在している。その先石畳の道の先は霧に隠れてぼんやりとしか見えない。
道の脇には古いガス灯が等間隔に立っているのが見えた。
その風景に視線を移している僅かな視線の端、テッドが動きを見せたことに気づいた。トーマスの様子をじっと無言のまま眺めていたテッドは池田とアイラに注意を払いながら気づかれないように静かに距離を取る。

(逃げるな)
思った瞬間、案の定、テッドは声もあげず別方向に向かって走り出した。

「止まりなさい!」
突然のことに僅かに動きが遅くなったものの、アイラはテッドの背中に向かって銃を構えた、だがその標準が定まった頃にはテッドの姿は霧の中に消えてしまっている。しばらく姿の消えた方向に銃を構えていたが、それを下ろす。

「信じられないわ……どういうつもりなのかしら……」
「俺がハイジャックに失敗した男なら同じように逃げるだろうな、まあここが本当に普通の町だったならだが」
顎に手を当て考える。川の対岸も深い霧に覆われ何も見えない。着水前に見た限りではこの川の幅は2、300メートルといったところのはずだ。

「エレナ、悪いが銃は俺に渡してもらう、もちろん俺より銃の腕が立つというなら渡す必要はないが」
「すごい自信ね、私だって航空保安官(エアーマーシャル)よ……と本当は言いたいところだけど……」
エレナはホルスターに入れていた銃を取り出し池田に渡した。池田は受け取った自動式P229の弾倉を確認し、一度構える。弾丸はプレフラグメント、P229四十口径、強化スライド。銃撃の正確性とその堅牢性から航空保安官の正式採用になっている銃である。

「本来ならばもっと貫通力が欲しいところだが、今この状況では上出来か……」
手に感触をなじませた後、

「さて、じゃあ行くとするか」
霧の中へその一歩を踏み出した。



霧の濃い街、川から離れるまでは建物は散在しているだけだったが、川からある程度離れていくと二階建てから三階建ての建物が両際に立ち並ぶ道に入る。道幅は比較的広い。がどの道もやはり石畳で舗装され建物も相当に古い外観である。皆百年前の西洋の町といった感じで近代的な雰囲気は全く感じられない。すさんだ灰色の建物が続き、空はどんよりと曇っている。まるで灰色の色を失った白黒の世界の中に陥ったかのような感じである。

「アメリカというより、むしろヨーロッパのような印象だな。そうだな、例えるなら……」
そこまで言ったきり言葉が止まる。

「先生?」
「いや……何でもない。十分に注意しろ、ここらは死角が多いぞ」
言いながら銃のスライドを動かす。

「あ、はい、集中しときます」
人の気配は相変わらず無い。時折、家の扉を開けてみるが、中には誰もいず、人が生活しているような様子も無い。家の中は埃が積もりかなりの年数が経っているように見えたが、不思議と蜘蛛の巣などは張っていない。この街には生物の存在が欠落しているようだった。

「ペンシルバニアに炭鉱火災によって放置された町があると聞いたことがあるが、どうもそれとは様子が違うようだ。全く一体どうなっているんだか……」
池田たちは建物の片方に沿うような形で進んでいる。それでも危険ではあるが、家の両方から狙われる危険性がある道の真ん中を通るよりは幾分かましである。いざとなれば路地の中に身を隠すことも出来る。広いとはいえない道を覆うように建物が迫っている。脇に走る路地は更に狭く、また、より暗い。
池田は右手に銃を持ち、すぐにでも対処できるようにそれを軽く持ち上げるような形を取り、道を進む。
しばらくした後、また一つの家の扉を開けるが、その中も他と全く同じような状態だった。

「これだけの街に住人が一人もいないというのはどういうことだ?」
「確かに変ですね。普通人が住んでいたら多少なりとも匂いがするもんなんですがそれも無いですし……」
「狐にでも化かされてるんじゃないだろうな。まったく……」
暗く狭い道が延々と続き、家の全ては同じように沈黙していた。

「……ん」
急に鯉の表情が変わり、目を瞑り、耳を澄ませる様子を見せる。池田もそれと共に無言のまま壁に背を付け、銃を構える。エレナもそれに倣い壁に背を付け辺りの様子に気を配った。少なくとも人の気配は二人には感じられない。

「ああ、違いますよ……人の気配と言うわけではありませんが、聞こえませんか?」
「何?」
「ほら、離れた場所からですけど、鐘の音が……」
「鐘の音?」
耳を澄ませると鯉の言ったとおりわずかではあるが鐘の音が聞こえる。ぼんやりとした酷く響きすぎている鐘の音。

「確かに聞こえるな……この町は無人ではないと言うことか?」
「さあ、さすがにそこまではわかりませんが、あまり気分のいい鐘の音じゃないですね。ボ~ンボ~ンって幽霊が泣いてるみたいな音ですよ。気味が悪いなぁ……」
「鐘の音か……」
背を壁際から離れさせ呟く。得体の知れない嫌な予感が池田の脳裏をよぎった。

「探索はこれで一旦中止して、一度、飛行機に戻ろう。出来れば荷物庫から必要なものを取っておきたい」
池田の言葉に無言のまま二人が頷く、辺りにあふれ出そうとしている不気味な気配の予感は更に高まろうとしていた。



戻ると飛行機から立ち上っていた黒い煙は完全に収まっていた。爆発の可能性はゼロではないが、ある程度安全な状態になったと見ていい。

「…………!」
飛行機が見える地点まで近づいた池田の足が止まり、手で二人を制した。この時異変を感じているのは池田だけではない。地面には明らかに新しく踏み荒らされた痕跡が残っている。無論それは何者かがこの道を通って飛行機に向かったということを示している。

「やはり、誰かいるのか……」
建物を影にしながら飛行機に迫る。この辺りの建物の高さは低いうえに家々の間の間隔が広い。うっかり家の間に立ってしまうと全身をさらすことにもなりかねない。ゆっくりと慎重に距離を詰め、また同時に鯉も辺りへの警戒を強めた。
飛行機の外観が完全に見える距離になると、その異常ははっきりとした形となって見ることが出来た。半壊している貨物室や客室の荷物が荒らされ辺りに散らばっている。手当たり次第に荒らしたのか、貨物室の亀裂付近はバックやスーツケースの破壊された残骸が山のように積み上げられていた。
だが

「もう、誰もいないようですね……」
と鯉が言うように、もうそこには誰の姿も無かった。

「まいったな、これじゃ俺の荷物も取られたかな?」
池田が貨物室の亀裂から中に入る。中の荷物ケースは斧か何かで強引に破壊されたのか、引き裂かれたように破壊され中の荷物が荒らされつくされている。貨物室の床には川の水が半分まで浸水していた。

「…………」
貨物室の中は荒らされた荷物で埋め尽くされていたが、頑丈な銃砲刀剣用の鋼鉄製のケースだけは多少の損壊はあったものの無事だった。

「どうやら大丈夫なようだ」
池田はそのケースにかかっている厳重な鍵を手に取り、開ける。中には一つのアタッシュケースとギターケースだけが入っていた。

「鯉、お前のだ」
ケースの中から取り出した。ギターケースを鯉に渡し、池田は持っていた銃をエレナに返す。

「もう、いいの?」
「ああ、目的の物が見つかったもんでね」
いいながら池田は手早くそのケースを開ける。
銃身の長い45口径自動式拳銃が二丁。それが腰の深い位置でグリップを上に向けた状態で銃身を交差する形をとったホルスターに収納されている。いくつかのマガジンホルダーが付属していてそれにはずっしりとした重みがあった。池田はそれらをなれた手つきで腰に巻く。
他にも色々な道具をスーツのポケットやら適当な場所に押しこませる。。
鯉は受け取ったギターケースを既に肩にかけ、その恰好とは全く似合わない大きなホルスターを腰に巻きつけていた。ホルスターにはマガジンケースの他、鯉にとっては大きすぎるS&W M500の銃身8インチモデルが背中辺りにぶら下がっている。どう見ても大きすぎ、どう考えてもそれは不釣合いすぎるように思える。

「鯉、お前、そのままでいいのか?」
「はあ……まあ普段からこの恰好ですし、やっぱり代えたほうがいいですか?」
「いや慣れているのなら別に構わん」
池田は言って立ち上がる。

「少し気づいた事がある。何者かはわからないが貨物室を荒らした連中はなぜかスーツケースにはあまり手を出さず、旅行鞄ばかりを狙っている。あと、どうもここを荒らした後すぐに慌ててこの場を去ったような様子がある」
「……? どうしてなんでしょうか? 一体何が目的でそんなことを?」
「さあな、ここにきた連中が何者なのかも何が目的なのかもわからない。だがわずかには推測は出来る……これは俺の勘だが、ここの近くにいるのは危険だ」
「同感ですね。私もそんな気がしてました」
鯉はいいながら身を震わせている。

「なんだか、本当に嫌な感じなんですよね。この機体を荒らしにきたのがどんな人なのかもわからないし……いやそもそも人でもないのかも……それにもう日が落ち始めてもいい時間じゃないですかそれなのにまだこんなに明るい……」
鯉の言ったとおりだった。そのことを失念していた池田も自身の腕時計を見てその異変に気づく、時計の針は午後六時をさしている。この時期ならば既に暗くなっていてもおかしくない時間帯だ。それなのに街は霧に包まれぼんやりとした白い光に包まれている。これは夕暮れどころではなくむしろ朝の光景に近い。

「ここまできたなら、少々、現実離れした考えが必要なようだな。夢でないのならこれは現実。この世界には痛みもあれば感覚もある。さあどうやってこの神隠しから脱するか、そうだな俺達は神隠しにあったんだ。今まで世界の十億人に一人も遭遇したことの無いような事態にな」
池田は呟く。そして神隠しという言葉にふと思い出し。今までスーツのポケットの中に押し込まれていたビックの日誌を取り出した。

「神隠しか、同じようなことがまさか自分に降りかかるとはな……いや感覚的には神隠しにあったのは元の世界か……」
ページを何気なくめくる。十年前の十二月の日記の先、白紙のページであるはずのページをめくった時、その池田の手が止まった。

「……? これは?」
『全く、わけがわからない。我々は突然の乱気流の後、不時着をした。真下は海上のはずなのだが街があり。その中、直線道路に不時着をした。機体のサイズから考えてギリギリの選択だった。着陸の際、右主翼に損傷を受けたが幸い誰も怪我はなかった。だが、奇妙なことは不時着をしたその街がとても日本の街並みには見えないことだ。人の姿も全く見当たらない。ここは一体どこなのだろうか? 我々はこれから一端の休息の後、それを解決するためにこの街の探索に出るつもりである。或いは……いやこれは本当に馬鹿馬鹿しいことなのだが、この世界はもしかすると我々のいた世界とは別の世界なのではないだろうか? いや、これは本当に馬鹿馬鹿しいことではあるのだが……』
「どういうことだ。こんな文章書かれていなかったはず……どういうことだ……これは?」
頭の中が混乱する。池田はその日誌を再びポケットの中に押し込んだ。

「先生? どうかしましたか?」
「いや、日誌が……いやそれは後だ。今は少しでも安全な場所に移動しよう。少なくとも背水の陣を敷くよりはマシな場所をな……まずはそこで状況を一度整理するとしよう……」
池田はそこまで言ったところで口を閉ざし、遠くの一点を見つめ。

「バガラバ……か」
静かに呟く。あの手帳に書かれていた奇妙な文字、池田はここがその名であるという漠然とした、だが、奇妙な確信に満ちた思いを感じていた。



[25364] 第一話 皆殺しの霧街 『霧の街2』
Name: 鬼虫兵庫◆7ce726e6 ID:f0ecf01f
Date: 2011/01/17 00:13
真夏は霧のかかる中、町を歩いていた。既に夜になる時間のはずだが街は明るく白い光の中にある。
これを夢だ錯覚だと色々と考えた真夏だったが、今は一端考えるのを止め、街の中を歩いている。真夏は始め自分がいた細い道を適当に歩いていたが、歩いている途中大きな道にぶつかり、今はその道をたどっている。
この道広く、ざっと見ても四車線以上の幅がある。車線と言っても道に車線のラインが引いてあるわけではない。しかもそれどころか道はアスファルト舗装ではなく石畳である。道の脇には大きな歩道が沿い延々と続いていた。人の姿は無い。無論車の姿も無いが、この外観ならば

「馬車の方が似合うだろうけどね」
と真夏が呟いた通り、町並みはそれほどに古い。左右に立ち並ぶ建物の外観も煉瓦造りの小さな窓をつけたような建物が目立つ。横に長い三階建て程度の建物はあったがそれ以上の階層の高い建物は真夏の場所からは見あたらない。霧のために視界が利かないということもあったが十階建て以上の建物があるとは思えなかった。

「あの眼鏡をかけた外人さんに会ったきり誰とも会わないなぁ……にしてもあの人、外人さんの割には日本語上手かったなぁ……日本語だったよね? 私英語いっつも赤点だし、英語がわかるわけないし……」
言ったもののその記憶に自信がもてない。
というのも男は英語を喋ったように聞こえたのである。ところが真夏にはそれがすんなりと日本語で理解できた。それでわけがわからず今混乱している。

「まあいいやそんなことは今どうでも、とにかく誰か人を見つけて泊まる所と食べるものをどうにかしないと……」
言いながら真夏は既に自分が元いた場所に帰るという選択を考えていないことに気づいた。それほどまでにもう自分の中では考えが混乱し、どうしていいのかがわからなくなっている。
「……ん?」
霧の向こう、延々と続く石畳のメインストリートの先、霧に霞む黒い巨大な影があることに気が付いた。
大きい。
道をほとんどせき止めるようなほどの巨大な影が広がり、道がそこで分断されているような印象を受ける。

「何だろあれ?」
警戒よりも好奇心が先に出た。真夏は用心することもなく、その影に向かって走っていく。
近づくにつれて石畳の道が崩れ始めた。今まで整然と整っていた石畳が急にでこぼこになり、地面を露出している箇所が増え始めた。影に近づけば近づくほどそれがはっきりとした形になっていくことがわかる。影が何なのかがわかるほどにまで近づくと、石畳の道は完全になくなり、道路は掘り起こされ赤土が広がっていた。

「飛行機? だよね?」
灰色の機体の所々は酷く錆付いていた。右の主翼は折れ曲がり大破して地面に落ちている。それに伴い機体も大きく左に傾き、左翼は地面に着くような形になっている
機体はプロペラ機、普通の飛行機より多少ずんぐりとした印象を受ける。

「なんで飛行機が、道の真ん中に……?」
わけがわからないまま真夏は飛行機の周りをぐるりと回る。飛行機の横には土を盛って作られた低い壁のようなものが作られていて、その手前側はその土を掘った後なのか五十センチ程度の溝がそれに沿っているのが見えた。丁度、機体の真後ろまで回りこむとそこに十字架が立てかけられていた事に気づく。みな鉄パイプを針金で巻きつけた簡単な十字架だったが、盛り土に盛られたその様子をみてそれがすぐに墓だということがわかった。
墓の内、一つは何故か掘り起こされたのか、十字架が横に放り投げられ墓のあったと思われる場所には大きな穴があいている。或いは墓を作っている最中だったのだろうか?

「気味が悪いなぁ……」
十字架の針金で巻きつけられたところには鉄製のプレートが打ち付けられていた。鉄のプレートにナイフで削られたような文字が書かれている。錆付いてはいるが何とか読むことは出来る。

「永遠の命と共に彼の魂は決して消え去ることは無い ジョン・K・ミラーここに眠る。ウイリアム・ベクスターここに眠る、ジャック・J・ローリングストン。ベン・スティーブンソン。スコット……」
それぞれの十字架に打ち付けられていたプレートを順々に見ていった真夏はそこまででそれ以上読むのをやめた。墓はまだその倍以上あったが全部読んでいくと余計に気がめいりそうになると思ったからだ。名前の下には誰々を愛した、どこに生まれ、といった文章が書かれていたが、それも詳しく読む気にはなれない。だが、それらを見ている最中

「やっぱり何故だか知らないけど英語が読めるようになってる……」
ということを確信した、文章が自然と頭の中に入ってくる。まるで元から英語圏に住んでいたネイティブスピーカーになったような感覚だ。英語も話そうと思えば話せるような気がする。考えることもなく英語が頭の中で文章にすることが出来る。

「今、英語のテストをしたらクラスで二番目くらいにはなれるかな、なんてね……」
これだけの現象でも相当に異常だが。真夏にとってはこの今の状態の方が遥かに異常であったので、大して今は深く考えないことにした。どの道これは深く考えても解決できる手合の問題ではない。

「……ん?」
墓の方に気をとられていたが、その場所から斜めに傾いている飛行機の後部ハッチが開いているのが見えた。中は暗くこの場所からは何も見えないが何か中にありそうではある。

「不気味だけど中に入ってみるかな……」
恐る恐る飛行機に近づき、後部ハッチから伸びているスロープを登る。スロープの片方は地面に着いているがもう一方が浮いている形になっているのでスロープ自体が傾いていたが問題にするほどではない。

「……あれ」
飛行機の中は予想に反して何も無かった。
目が暗闇に慣れるにつれて薄暗い機内の中が見えるようになった、中には座席すら設置されておらず、普通の飛行機よりも広い空間が広がっているところを見るとこの飛行機はどうやら輸送機のようだった。それでも備品程度のものはありそうなものだが、やはり中には何も無い、正確には何も無いというよりは何もかもが持ち去られたような印象を受ける。
飛行機の壁にはナイフで削った救いを求める言葉や十字架が彫られてそれが飛行機の小さな窓からもれるわずかな外光でぼんやりと浮かび上がる。機体の中は錆と埃が積もっていることから相当の時間が経過し、放置されていることがわかった。
一応コックピットまで行ってみたが、めぼしい機械の類は全て持ち去られていて、この飛行機はもう既に廃棄物に近いようだった。

「やっぱり誰もいないのかなぁ……でもさっきの人は……」
考えながら飛行機の中から出たその足で再び当てもなく道を進み始める。肩を落とし、暗い表情を浮かべぼんやりとした町をぼんやりとした感覚で歩いていく。いくら歩いてもこの世界から逃れることが出来ないようなそんな気がし始めてきた。だが、真夏は確かにこの町にたどり着いた時、他の人間と出会っている。当面はそれだけが唯一の頼りだったが、真夏もあれが本当に起こった出来事なのか自信がもてなくなり始めている。

「…………」
道をしばらく歩くと大きな十字路に当たった。見渡すと左に続く道の方にこの道にかかるものより濃い霧がかかっているのが見える。その濃い霧はまるで洪水のようにこちらに溢れ出してきている。

「霧の中に入るのは気味が悪いけど、もしかすると霧の中に入ると元の世界に戻れるかもしれないし……」
真夏は自分に言い聞かせるように呟き、霧が濃く広がる道へと足を踏み出した。道を進めば進むほど霧は濃くなっていく。
この道は川か何か、霧を発生させるものに向かっているのかも知れない。

「絶対に元の世界に戻らないと……こんな陰気くさいとこ私は嫌だ」
真夏の歩く速度は次第に速くなっていく。しばらくするとそれがほとんど走るほどの速さにまでなった。
……と、霧の中に何かの建物が見えた。
霧で視界があまり利かないがそれは城のように見えた。西洋の城だ。城壁がぐるりと囲み、霧でぼやけた先にはいくつかの塔がそびえているのが見える。

「お城? こんなお城があることなんて……テーマパークぐらいのものだよね? ……じゃあここはどこなんだろ? わっ、と……」
城を横目に走っていた真夏の足が止まる。まっすぐ続いていた道が川にぶつかったのだ。
川には作りかけの橋が架かっているがとても渡れるまでに完成していない。土台だけが組みかけてあるだけでぱっと見るとそれは橋にも見ることが出来ない、よくよく見ることによって始めてそれが作りかけの橋であることがわかる程度のものだった。

「作りかけ? 解体しているわけじゃないよね……」
橋を目の前にして真夏は立ち止まり、再び辺りを見渡した。
目の前には川が流れている。対岸は見えない。

「百歩譲って世界のどこかに飛ばされたとして、どうして人がいないんだろう? まあ、始めにあったあの眼鏡の人のことは一応今は置いといて、何か公害か何かが起こって放置された街とか? え~と、たとえばチェルノブイリ? でもあそことこことはちょっと印象が違うなぁ……」
頭の中の知識を総動員してもこの難問は解けそうにない。真夏はう~んと唸り声を上げた。

「あーこんなんだったら地理とか世界史とかもうちょっとちゃんとやっとくんだった……」
言った後、しばらく無言になる。何か忘れている気がすると頭に手をやってしばらく考えた後、ぽんと手を打ち、肩に掛けていた鞄の中を漁る。

「あるかな……あればいいな……あ! あった!」
背中と腹がくっつきそうな薄いかばんの中に奇跡的にそれはあった。地理の資料集である。結構かさばるので普段は家に持ち帰ったりはしないのだが、たまに、ごくたまにだが真夏は海外旅行に思いをはせ、暇つぶしに資料集を見ることがある。
その偶然が今日、奇跡的にこの鞄の中にこの資料集を紛れこませていた。

「運がいいのか、悪いのか……いやまあ、間違いなく悪いだろうけど……」
ペラペラとページをめくる、ヨーロッパの城がいくつかあったがそれのどれとも違う。真夏は城の方に向き直り一枚一枚写真と照らし合わせて間違い探しをするように調べていく。
ある項目にまで到った時、そのページをめくる手が止まった。

「似てる……」
写真をよく見た後、城に目を移す。資料に載っている写真は上空からの写真なので横からみた印象は違うが、城の塔の位置など城壁の形などどれをとっても瓜二つのように見えた。

「ロンドン塔……すごく良く似てるけど……でもこの写真では城のすぐ横には変わった形の橋があるけど……ええとタワーブリッジだったっけ?」
川に目を移す。
資料の中にあるタワーブリッジはそこにはない。ただ橋の基礎のようなものが川の中にあるだけである。

「まさかこれがこの橋ってわけじゃないだろうし……やっぱりただ良く似てるだけなのかなぁ……」
日本からロンドンに飛んだというだけでも普通ならありえないことだが、今はそんな常識の中で物事を考えている場合ではない。
真夏は何回か資料と城を見直したが、それを再び鞄の中に押し込んだ。
どの道、ここがロンドンであろうが、それはたいした問題の解決にはならない。今一番の問題は何故ここに誰もいないのかということである。どうにかしてここから自力で日本に帰ったとしてもそこに誰もいないのなら帰る意味が無い。
だが多少のヒントにはなった。ロンドンは真夏が旅行したいと思っていた都市の一つだ、大まかだが頭の中に地図は入っている。

「まあ、ここはロンドンじゃなくて何かのテーマパークの中だという可能性もあるけどね」
呟き、作りかけの橋に目を移す。これが本当にタワーブリッジだとすると現代の風景に合わない。そもそも街全体の作りが古すぎる。現代のロンドンならば現代風の構造物が一つくらい合ってもいいようなものだがそれが無い。

(あの飛行機は確かに現代のものだったんだけど……)
誰もいない町。この町は確かに死んでいる。

「本当に誰もいないのかな……」
しばらくその場で足を抱え、ぼおっと川を眺めていたがそうしていても問題が解決に向かうわけではない、真夏は立ち上がり川の堤防の上によじ登った。

「こうなったら、もう一度大声で助けを呼んでみようかな」
始め出会った男がいたのだから誰かはいるはずだろう。真夏はそう思いながら息を思いっきり吸い込んだ、吸い込みすぎて少し気分が悪くなるぐらいにまで息を吸い込み

「誰かー! いませんかー!」
大声は霧で隠れた川の対岸へと反響し、木霊になって返った。だがそれに対する返事は一向に返ってくる様子は無い。

「……もう一度」
叫ぼうとしたその息が途中で止まる。
何か今までに感じたことが無いような不気味な感覚。例えようのない感覚が体中を電流が走るように駆けたのだ。例えるのなら狼の群れに取り囲まれたような感覚。無論、真夏は実際に狼の群れに囲まれたことはない。いや、それは狼の群れなどより遥かに厄介な何か、それが迫ってきている、そんな気がした。

「…………」
今ここで声を出したのはまずかった。それは間違いなく言える。真夏は堤防から飛び降り既に走り出している。どこへと向かう場所はない。だがここにいるのは間違いなくまずい。
真夏は今来た道を急ぎ引き返し、走る。



「女性の声。若い……私位の歳です。ここから二キロ行った場所。あと……」
鯉の言葉よりも先に池田は辺りを見渡している。

「ああ、わかってる嫌な雰囲気だ。その声に反応してここいらの獣が目を覚ましたようなそんな感じの……鯉! アイラ! 走るぞ!」
「わかったわ」「わかりました」
池田が先頭をきって走る。辺りにただよっている気配は蠢くように流動していた。
あの声の主が誰なのかはわからない。だが池田たちにとっては自分達以外で初めての他の人間なのは間違いない。その人間と出会えたのならこの町に関するヒントを得られる可能性もある。
池田は道を走りながら考え、そして注意していた。この気配いつどこから何かが現れても不思議ではない。

(声の主が無事ならばいいが……)
池田は気配にただならぬ不安を感じている。ジャングル戦でゲリラに囲まれたときのような緊張感。音も何もないが、殺気だけが空気の中に充満している。今はまさにその状態。

(まるで寝付いた子が叩き起こされたような騒ぎじゃないか)
「こっちです」
危うくそのまま直進してしまう池田を鯉が呼び止めた。
道の角を曲がり走ると霧の中に城の姿が見え始め、直後、道の行き止まりの先、作りかけの橋が目の前に広がった。
だがそこには既に誰の姿も無い。だがわずか前にここに少女がいたことは間違いない。

「だめです、もうここにはいませんね……匂いをたどってみます」
鯉がその場から踵を返し再び走り出そうとしたが、池田は辺りに広がっている風景を見、立ち止まっている。

「こいつは……」
鯉の言葉に反応するわけでもなく池田の視線はただその川に集中している。一度城に視線を移した後、再び川に視線を戻す。

「先生?」
「わかった……ここがどこなのか、そうではないかと薄々感じてはいた……だがこの風景を見て確信した、ここはロンドンだ」
「ロンドン……ですか?」
「ロンドンですって?」
鯉の呟きのすぐ後、アイラが信じられないと言った様子で池田の言葉を繰り返した。

「ああ、この城はロンドン塔だ。そしてこれがタワーブリッジ」
池田の指差す先には川に作られた橋の基礎がぽつんと立っている。

「川に浮いてるようなあれがタワーブリッジですって? 何を馬鹿な……」
「今詳しく説明している暇はない。声の主を追うのが先決だ。鯉!」
「匂いは元の道に戻っています。ついてきてください!」
鯉が走り始めた。
辺りに充満する気配は鯉が向かう方向に向かって集中している。

「こいつはまずい……」
池田は呟き、体中に充満し始めていた戦慄を抑えた。



走っている真夏は何も考えずにあの飛行機のあった地点へと向かっていた。
少なくともあそこにいた時は周りに誰もいる気配はなかった。それにあの飛行機の中に人がいる様子が全く無いことからも考えて、そこに戻るほうが全くの未知の場所に向かうよりは賢明な選択のように思えたのだ。

「……!」
だが、その不気味な気配は動き、明らかにこっちに向かっている。追われている、何かが追ってきている。
あの大きな十字路にいたり、真夏は止まった。走りなれているだけあって息は全く切れていない。

(どうする? このままあの飛行機のあったところに戻るより路地の中に入って身を隠した方がいいんだろうか)
迷っている暇はない。真夏は多少の危険を覚悟し路地の中に入った。
路地の中は暗く狭い。見た目的にはそう狭すぎる道というわけではなかったが、かかる霧と三階立て程度の建物が両側に覆いかぶさるように建っている様子から酷く暗く感じる。
道の中を適当に走り抜ける。ジグザグに走っている内、その追われている気配が少し治まったような気がした。

「今のうちにここら辺の建物の中に身を隠さないと……」
と思う真夏の鼻先に何かの匂いが漂ってきた。

「……? なんだろ、この匂い、なんだかとてもおいしそうな匂い……誰かがいるの?」
匂いは近い、すぐ近くの家の中から漂ってきているようだった。あまりそうここに立ち止まっているわけにもいかないが、匂いがして誰かが住んでいるのならば匿ってもらえる可能性もある。そう思った。

「助けてもらえるかも、いやもしかすると追われてるっているのもただの考えすぎなのかもしれないし……」
匂いのする方に向かって真夏は無意識のうちに向かっていた。匂いの元にはすぐにたどりついた。
割とまだ広い通りの角に看板が出ている店がある。匂いはそこから漂ってきているようだ。
匂いに集中しているせいなのか追われているという気配はほとんど消えたような気がする。

(やっぱり……追われているのは気のせいだったのかな?)
用心しながら店の扉に近づく。身体をほとんど扉の外に置いて扉を開けた。
ギィィという金具が軋む音と共に扉はゆっくりと開いた。
顔だけをそこから出して中を覗いてみると、中はわりと広く丸いテーブルと椅子が並んでいるのが見えた。店の客席側は暗かったが、店の奥の厨房と思われる辺りにはランプの火が灯っている。人の気配は無いが、ここに人がいた様子はある。あの飛行機のように何年も放置されているといった感じではない。

「…………」
恐る恐る店の中に入る。店の中は遠くに灯るランプの光とドアから漏れる薄い明かりだけで暗く、危うくつまずきそうになる。慎重に椅子とテーブルの隙間を通りぬけるとやっと厨房が見える位置までたどり着いた。コトコトと何かが煮えているような音が聞こえる、匂いと共に鍋から広がっている湯気が広がっていた。

(料理……してるのかな? 誰かが……)
ガチッ!

「……っ!」
何かを踏んで物が壊れた音が聞こえた。足をどかすと足の下に縁の太い眼鏡の片方のフレームがつぶれて壊れていた。

(……ああ壊しちゃった……ここの店の人のだろうか?)
思ったがすぐに考え直す。

(……でも眼鏡落として普通そのままにしないよね……何も見えなくなるだろうし……)
じゃあ誰の眼鏡だ?
思った、よくよく見るとその眼鏡は酷く汚れているように見えた。暗くほとんど見えないが、レンズの反射する光が油のようなもので汚れているのだけが見えた。眼鏡だけでなく地面全体が少しヌルヌルとしているようである。

「?」
真夏は一応それをよくよく見てみたがよく見えない。手にとって見るのはなんだか嫌だったのでそれはそのままにしてカウンター横の入り口から厨房の中へと入った。
厨房の中には弱火で煮込んでいる寸胴鍋があるのがすぐ上に吊るされているランプで見えた。
だがここにいたり、料理の匂いとは違う匂いが鼻先につく、いい匂いというものとは違う。どちらかというと臭い。

(なんだろこの匂い……)
厨房の中に入れば入るほどその匂いがきつくなってくる。
その時、不意に天井に何かがぶら下がっているのが見えた。

(干し肉か何かかな?)
ぶら下がっているのを指で触れると引っ掛かりが悪かったのかそれがドンと地面に落ちた。

「わあああっ!」
腰砕けに後ろに尻餅をつく。
人の腕。
ぶら下がっているのは人の腕だった。見間違えかと思ったがそうではない、それは人の腕だ。塩漬けにされた人の腕。肩から切り落とされた人の腕がフックで吊るされていたのだ。よく見るとそれだけではない天井にはまだ色々の人間の部位が切り分けられ吊るされている。

「あああああ……」
息を吐き出すばかりで声を出すことが出来ない。地面にはまだ乾ききっていない血が広がっていてそれが手にべっとりとついた。

「に、逃げないと……ここから逃げないと……」
腰が抜けたのか上手く立ち上がることが出来ない。
全く見えなかったが地面には相当の血が広がっている。
真夏の肩を叩くようにドンと何かが真夏に向かって倒れ掛かった。危うく気を失いそうになるのをこらえて振り向くと頭を割られた死体が真夏に倒れ掛かっている。

「わ!」
振りほどきそのまま飛び退くようにして立ち上がた。よりかかりを失ったその死体は前のめりに崩れ落ち、その頭から血が混ざった脳漿を地面に広げる。
真夏はその男に見覚えがある。

「こ、この人……私が始めに会った……」
「お客さん?」
「……っ!」
真夏は声にならない叫び声をあげた。
聞き間違えではない、確かにどこからか声が聞こえた。声のすぐ後、店の中が急に暗くなった。それと同時に扉に鍵をかける音が響く。

「何がお好みですかお客さん? ここにはなんでも揃っていますよ、足、腕、心臓、ああそうだ……卵巣は今は切らしているんですよ。まあそれも当てができましたがね」
「…………」
声はどこから聞こえている?この店のどこかから暗闇の中から?
声だけではない、ナイフ同士をこすりあわせるような音が店の中に響いている。
どこだ? どこだ?
店の入り口はいつの間にか閉まっていて店内はほとんど真っ暗に近い。
厨房の中から店内の様子を探るがどこにも男の姿はない。
歯が鳴る。
店の外まで一気に走れば逃げれるか? いや、店の扉には鍵がかけてある。でもそれしか逃げ道はない、どう考えてもそれしか方法がない。無理にでも扉に体当たりをしてでもこじ開けるしかない。
店の外に走り出すタイミングを計る。
どこからか聞こえるナイフの擦れあう音。音は真っ暗の店内の中からどこからか聞こえている、店の暗闇は完全ではないほんの僅かな外の光がブラインドの隙間から店内に細い線となって伸びてる。

(よーいどんで飛び出す。いいか真夏、よーいどん、スターターピストルと同時に店の入り口まで一気に走る。できるできるできる……)
真夏は自分自身に言い聞かせ、そして走り出す体制を取った。
よーい。
走り出そうとした瞬間、店に漏れている光が何かに反射した。暗闇の中、それだけが鮮明に見える。刃を擦りあわせる二本のナイフ、それとそれを操る大きな手だけが暗闇の中にぼんやりと浮かんでいる。
瞬間、そのナイフの一つがきらめき真夏の頭をかすめすぐ脇に突き刺さった。
投げられたナイフは強力な力で壁に突き刺さり、構えていた真夏を再び尻餅をつかせるような形にしてしまう。
今のは確実に狙って投げられたものだ。

「……あっ」
完全に腰が抜けた。尻餅をついている体制から起き上がるのには手間がかかる。血に滑り体制を元に戻すのに苦労しているその前に大きな男が立ちふさがった。完全に目の前全ての空間をその男に占領されてしまっている。
男の顔は見えない、だが男の下げている長いエプロンには血がべっとりとこびりつきその内のいくつかはまだ血が固まりきっていないものが見えた。

「こ、殺さないで……」
「殺す? 殺しはしませんよ、食べるんです」
「え……あの……」
それってつまり殺すってことなんじゃないのか、と口にしようとしたが余裕などない。
真夏は腰が抜けた状態で後ろに、男の死体を乗り越え必死に後ろに下がった。

「怖がることなんてないんですよ。すぐに怖がれなくなるんですから」
男のナイフが振り上げられた。真夏の背は奥の壁に突き当たってしまっている。もう逃げ場はない。
僅かな明かりの中、ナイフの鋭い銀色の光が煌めいた。

(嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ!)
振り下ろされるナイフに目を瞑り全身をこわばらせたその瞬間、鮮血が真夏の制服を濡らした。

(……あっ!)
瞬間、反射的に血が飛び散った箇所を……傷口を押さえようとした。だがその傷口がない。
だが血は尚も吹き出し続けている。

(どこを……どこを刺された)
目を恐る恐るあける。開けた真夏の目に映ったのは真夏に今にも倒れかかってこようとする男の死に顔だった。
その瞬間、真夏の意識は彼方へと飛んだ。



[25364] 第一話 皆殺しの霧街 『霧の街3』
Name: 鬼虫兵庫◆7ce726e6 ID:f0ecf01f
Date: 2011/01/18 00:12
池田は店に着くのと同時にドアを蹴破った。蹴破ったドアの先、暗い室内、僅かに煌めく物が見える。男がナイフを突き立てようとしていると瞬時に判断しそのナイフめがけ撃った。
撃ちながら一気に飛び、更に男の頭に標準をあわせる。

「よう! 伊達男!」
男が振り向くのより早く、引き金を引いた。ドンという大きな音と共に男の頭は破裂し辺りにその内容物をぶちまける。
こちらに向かおうとしていたためなのか、男の死体は銃のすさまじい反動を受けつつも尚もその場に立っていた。
だが、やがて頭を垂れるように頭を落としそのまま勢いよく地面へとその身体を落とした。

「……間に合わなかったか」
思ったのはどこからも叫び声も何も聞こえなかったためである。
助けを求める声もうめき声も聞こえない。その店の中はもはや沈黙に包まれていた。

「…………」
池田の一発目がはじき飛ばしたナイフが壁に突き刺さっている。その他にももう一本ナイフが壁に突き刺さっていた。

「先生……」
鯉が恐る恐る店内に入ってくる。

「どうやら声の主は間に合わなかったようだ。寸での差か……」
歯がみをして池田は店の奥を睨み付けている。また助けることが出来なかった。そう思った。

「……いえ、あの……一応大丈夫みたいですよ。その死体の人の下……」
「あ?」
池田は鯉の指さす先、壁にもたれかかるようにして倒れている男の横腹を蹴り、それを横にどける。
男の下からは血だらけの制服をまとった少女が現れた、首に手を当てて脈を取ると確かに生きている。血だらけではあるがその血は今死んだ男のもので少女自身には外傷は無いようだ。

「なんだ、気を失っているだけか……」
「よかったですね、間に合って」
「……間に合わなかった連中もだいぶいるようだがな」
少女をどけたその下には窮屈な形で折れ曲がっている男の死体がある。

「こいつ……トーマスか!」
「えっ……トーマスさん……なんですか」
頭を割られほとんどその顔も原型を留めないほどに破壊されているが着ているその薄いグレーのスーツはトーマスのものだった。

「トーマスさん……酷い、こんなことになるなんて……」
鯉がトーマスの死体に近づく。
死体のすぐ近く、血にまみれた床にはあの家族の写真が入ったキーケースが落ちていた。

「私が、必ずこれを届けます……」
鯉は小さく呟き、それを手に取り、トーマスの死体から離れた。
ついで池田が死体に触れる。

「身体が暖かい、まだ血が固まりきっていないところをみるとせいぜい数十分前といったところか……それにしても……」
トーマスの頭蓋は見事に割られている。体中にナイフを突き立てた後があるが出血が一番酷いのは頭蓋からの出血だ。恐らく身体の傷は死んだ後につけられたものだろう。

「…………」
この殺しの手口に池田は見覚えがあった。だがそれには大きな矛盾がある。
池田は身体を横にし、死んでいる男の脇腹をもう一度蹴り男を完全に仰向けにした。元は太めの人の良さそうな顔なのだろうが、今その目は驚きの絶頂の中見開かれ、何もない空中を濁った瞳で見つめていた。

「ロバート・フィッシュ……」
言葉の落ち着きとは別に池田の表情には驚きが浮かんでいる。

「先生……知り合いですか?」
「ああ、俺が一方的に知っているだけだがな」
「この人も私たちと同じように来た人でしょうか?」
「そう考えるにはいくつか矛盾がある……いいか鯉、こいつは十五人の少女を誘拐しその人肉を料理して食らった変態殺人鬼だ。だが俺の記憶が正しいのならばこいつは半世紀近く前に死んでいる。死刑執行でな」

「半世紀? 死刑? それなら他人のそら似なんじゃ……」
「いやこの顔は間違いなく奴だ」
「実は死刑が行われなかったとか?」
「鯉、言っただろ? 五十年も前の殺人犯だぜ。今まで生きていりゃ100歳近いはずだ」
「息子、親戚……とかとか」
「鯉、もういいから、この嬢ちゃんを連れて外で待ってろ」
「わかりました。というか元々そうするつもりです。ここは嫌な匂いがしすぎで……吐きそうです」
と鯉は嘘なのかほんとなのか口に手を当てる仕草をした後、少女の脇の下から手を入れて持ち上げ、足を引きずらせながら店の外にまで連れ出していく。

「ああ、あと警戒しとけ」
「わかってますよぅ」
店からほとんど外に出ていた鯉は少し煙たげに言ってその場から消えた。

「……さて」
池田はトーマスの死体を飛び越え、厨房の中へと入った。

「なるほど、これは酷い」
池田は天井から吊るされた腕や足の塩漬けを眺めながら呟く。地面には塩漬けにされて半ば白くなった腕が一本落ちている。

(三人……一人は若い女、残りの二人は成人の男……か……嫌な匂いだ)
血の匂いと煮込まれているスープの匂いの中にあってもその匂いははっきりと鼻につく。ほんのわずかに甘く、苦い。人間の体液を全て混ぜ合わせそれを発酵させたかのような匂い。
腐臭。
それが肺の奥底にこびり付く。匂いは昔の記憶がよみがえる。叫びと恐怖、死体の山山山…………いつかは自分自身をこの匂いで満たす時が来るのだろう。
それはいつか?

「…………」
コトコトと旧式の石炭コンロの上で鍋が煮立っている。
野菜の切れ端と何かの肉が時々その対流で浮かび上がるのが見えたが、恐らくそれも人肉だろう。

「この手口と食人、間違いなくこれはロバート・フィッシュの仕業だ……だが奴は男の肉を食うような志向はなかったはずだが……」
コトコトと煮える鍋の音と匂いが身体にまとわりつく。だが外に出て考えるよりこの現場にいて考えを巡らせる方が何かを掴める気がした。いや実際に池田は何かを掴みつつある。

「……ロバート・フィッシュか、確か荒らされた墓の中の一つがこいつのものだったな……死体、それの消失、そしてこの世界、ロンドン……それも昔のロンドン……」
池田はそこで考えを一旦止め、とりあえず外に出ることにした。あの少女のことも気になる、何よりわずかに匂う腐臭をこれ以上嗅ぐのがいい加減嫌になった。腐臭は身体に纏わりつきしばらくは離れない。それはよく知っている。

「この匂いだけはどうやっても慣れないな……」
厨房を出る際、床に落ちていた壊れた眼鏡を見つけた。池田はそれを手に取り、トーマスの顔に掛ける。

「すまんが今はまともに弔うこともできん。成仏してくれ」
片手拝みをし、そのまま店を出た。
店の外に出ると店からだいぶ離れたところに鯉達がいるのが見えた。
恐らくこの店から漂う匂いを嗅ぎたくないのだろう。無理も無い。
早足で鯉たちに近づく、少女はまだ意識を取り戻していず、地面に横たわっていた。

「一応様子を見てきた」
「中の様子はどうだったの?」
とアイラが聞いてきたので池田は見たままありのままの光景を丁寧に説明する。途中アイラの顔がこわばり、明らかな不快感を顔に表したのにも気づいたが、続けていると

「もうわかったわ……それ以上は止めてちょうだい」
といってアイラはそれ以上の話を聞くのを断った。
隣、少女に寄り添うように座っていた鯉がジト目で池田を見ている。

「なんだ、鯉?」
「……だから先生は独り身なんですよ」
「なんだと? 一体何の関係がある?」
言い返した時、少女の目がうっすらと開いた。

「ここは……」
という少女の呟きに池田は

「地獄だな」
と答えると今度は鯉の手刀が池田の向こう臑を叩く。

「……たたた」
「もう大丈夫ですよ。なんというかもう危険は去りましたから」
「冗談だろ。まだ危険だらけ……」
言いかけた池田の言葉を鯉の鼻息がかき消す。

「私……死んだの?」
「いえ大丈夫ですよ、生きてます。それどころか怪我もありませんよ」
「でも私、その男にナイフで殺され……」
「それはこのおじさんが助けてくれたんですよ」
「ちょっと待て、鯉。おじさん?」
「じゃあ……あれは夢? だったのかな……」
「夢じゃないさ、全部現実、まあ或いは夢か……」
「もう……先生、問題をややこしくしないでくださいよ」
「ああ、すまんね」
と池田は全く悪びれる様子も無く両手を軽く上げ、肩をすぼめて謝るふりをした。

「ここは現実、これは現実?」
まだ心の整理もつかないといった表情のまま少女は起き上がった。呆然としてはいるがやっと話せるようにはなってきたようだ。

「嬢ちゃん名前は?」
「あ……早坂真夏……です」
蚊の泣くような声で答えた。

「日本人か、まあ奇妙なところで出会うものだな。俺は池田戦、日本人だ、この女性はアイラ・ブラッドフォード。それでこのガキが戌亥鯉……? 鯉、どうした?」
見ると鯉が鼻をつまんでしかめっ面をしている。

「いえ……やっぱり先生から臭い匂いが……」
鼻声で答える。

「わかりきっているようなことをわざわざ言うな」
スーツを嗅ぐとあの嫌な匂いが確かにはっきりと匂った、こびり付いているこれは当分消えそうにない。

「あんなものをおいしそうなだと思ってしまうなんて……」
匂いは真夏の鼻先にまで届いていた、匂いはあの光景を思い出させ、あやうく吐きそうになるのを口を押さえてなんとか止めた。

「まあ忘れることだ」
答えた後すぐに

「とにかくこうやってゆっくり喋っている暇があるわけじゃない。今はあの妙な殺気も治まったが、この街の中に俺達の敵になる存在がいることは間違いない。どうにかしてここから逃れる術を探し出さないと……」
「池田さん達も……あの変な霧に包まれてここに来たんですか?」
真夏が口を押さえたまま言った。

「霧? ああ……そういえば確かに霧に包まれたが……お嬢ちゃんは霧に包まれてどこから来たんだ? 日本からか?」
「日本の島根からです……」
池田がヒュウと口笛を吹く。

「そいつはまた随分と遠くから来たもんだ。俺達はニューヨークからオハイオに向かう飛行機の中からここにたどり着いたんだ。まあ異常さでいったらどっちもどっちか」
「飛行機? あの羽の折れた飛行機ですか?」
「羽の折れた? はて? 折れていたかな?」
「折れていませんよ。堤防に乗り上げはしましたが……」
鯉が釘を刺した。言うとおり池田が飛行機の記憶を呼び戻すと、確かにあの飛行機は損傷は酷いが羽は折れていない。

「じゃあ多分違うと思います。私が見た飛行機はだいぶ古くて捨てられたようなものでしたし……」
「古い飛行機……か。その飛行機のあった場所に案内してくれないかな?」
「でも……中には何もありませんでしたよ」
「少しでもここに関する情報は欲しいんだ。そいつを調べれば元の世界に帰るヒントが得られるかもしれないからな」
「……わかりました」
ここでじっとしているよりは気が晴れる。真夏は暗い表情を振り払いやっと気を取り戻し立ち上がった。
その横、アイラはあの話の後、青ざめ、相当の衝撃を受けている様子なのが傍目からもはっきりとわかった。

「アイラ、聞いた通りだ、飛行機の残骸に向かう」
「あ……え、ええ……わかったわ」
アイラの言葉は真夏のそれと同じく暗く、そして小さく消え入りそうなほどだった。



墜落した飛行機の姿が見渡せるところにまで来ると、池田が真っ先に声を上げた。

「ハーキュリーズ!」
c-130輸送機。これを池田は知っている。以前これと同型の輸送機に乗った経験もあった。

「ああ、あの輸送機の……」
「見たところアメリカ軍のもののようだな……」
池田が近づいて見上げた先、折れ曲がった羽の少し後ろの辺りには星型のアメリカ空軍を示す国籍マークが描かれている。だが今はその飛行機の標識も判別しづらいほどに汚れさび付いていた。

「どうやら墜落してからだいぶ月日が経過しているようだな。……? あそこにあるのは塹壕か?」
道に対し線上に掘られ盛り土がされているものが目に留まる。

「少々簡易的なもののようだが……なるほどこれなら飛行機の後部ハッチまでをある程度カバーできる。プロの仕事だ」
よくよく見るとその壁は飛行機の破損したパーツを流用し補強してあるようだ。溝の中に中腰になれば体の全てを隠すことが出来る、簡易的なものにしてはよく出来ていた。

「そしてあれが墓か……」
飛行機から少し離れたところにある墓を見る。ゆっくりとそれに近づき真夏と同じように一つずつ眺め、全てを見終わった後、皆のいる方に向き合った。

「?」
向き直った時、一人遠くで輸送機を眺めているアイラの表情に何故か僅かな違和感を覚えた。だがそれの原因はなんなのかわからない。

「…………」
「先生どうでしたか?」
鯉の問いかけに我を取り戻しはっとなる。
彼女が単にアメリカ軍機が墜落しているのに驚いているといった表情ではないことだけは確かだがそれ以上のことはわからない。

「輸送機の内部も見てみないことにはなんともな……」
輸送機の内部は確かに真夏の言った通り何も無かった。ただ、中の側面にはいくつかの文章が刻まれ、それが後部ハッチから漏れる光と、ハーキュリーズ内部の小さな丸窓からの光でぼんやりと照らされていた。
池田はホルスターのケースにしまっていたLEDライトを取り出し、照らす。
暗い内には光に当たる僅かな文章しか見ることが出来なかったが、照らし出すと壁一面に文章が書かれていることに気づく。
一節、その名前を見つけた池田のライトの動きがそこで止まる。

「ビック・ウェンスター」
「えっ!」
池田の声に反応した鯉が駆け足で走り寄る。

「じゃあ! あの失踪した飛行機って! もしかしてこれですか!」
「……そうなるな、十年前、彼らもここに来たんだ」
壁に書かれている文章の日付は飛行機が失踪した次の日から書かれていた。日付ごとにライトを動かし順に追っていく。

「日付が経つにつれて筆跡の種類が少なくなっているな……文章の内容も次第に暗いものになっているようだ」
「それってつまり……」
「何者かに殺されていっているようにこの文章だと推測できる」
「一体誰に?」
「さてそこまではわからないが、あの外の墓には明確な一日ずつの日付のずれがあった」
「一日ごとにって……それって変ですよね……単なる偶然でしょうか」
「敵対する何者かが一日ごとに彼らを殺していった……とも考えられる、だが奴らも戦いの素人ってわけじゃない。それがこともなく一日置きに殺されていったとなるとこれは相当厄介なことになる……」
池田はそう言ってしばらく物思いにふけるように押し黙った。

「まあいい。鯉、外で警戒しとけ」
「あ、わかりました」
外に出て行く鯉と入れ替わりの形で真夏が中に入ってきて

「あの……何かわかりましたか?」
と聞いた。
池田は真夏の方を向いてその表情がだいぶ元気を取り戻したように感じた。

「よお嬢ちゃん、もう大丈夫かい?」
「あの……嬢ちゃんってのは……そのちょっと……」
「ああ、悪い、早坂」
「……で、何かわかったんですか?」
「いやそれもこれからだな……」
池田は思考を巡らす。
殺されるとして何に殺されたのか? それも一日置きに。互いに食人行為を行うほどの異常性はこの文章の中からは見られない。だが確実に彼らは何かに怯えている。それは何か? 彼らもそれに気づかなかったのか? ここがロンドンだとしてあのタワーブリッジは完成していなかった……となるとここは一体いつのロンドンなのか?

「タワーブリッジの完成年か……くそ、どうにも思い出せないな……もっとも元から記憶に無いだけかもしれんが……」
「1894年ですよ」
真夏が答えた。
手には鞄の資料集が握られロンドンのページが開かれていた。

「1894年?」
「……と、これには書いてあります」
「着工は?」
「えーと……1886年ですね」
「1886年……」
となるとここは1886年から1894年の間の時代ということになる。
あのタワーブリッジは完成には程遠かったが一応着工をしている様子はあった。
…………

「1888年か」
呟いた。
この世界人間が異常に少ないという点を除けば、ここが1888年のロンドンだと考えても不思議は無い。
池田がその着工から二年後の1888年と考えたのには二つのわけがある。
一つはタワーブリッジの工事の進行状況から見て二年程度の時間が経過しているだろうということ、そしてもう一つは1888年という年の重要性である。殺人者、1886年から1894年の間、ロンドン、とこれだけの材料が揃えば頭の中にその考えが浮かんだのも至極当然のことだった。

「なんで1888年だと思うんです?」
「ジャックザリッパーが活躍したのが1888年、最も世界中の人々に殺人者の記憶を植え付けたのは間違いなくその時代だ。殺人者と1888年が結びついてもおかしくはない」
「1888年のロンドンに飛ばされたこともおどろくようなことじゃないと?」
「現実に起こってしまったものは受け入れるしかないさ、ただ或いはここが単なる1888年のロンドンを模して作られた都市なのか、または夢を見ているという可能性もまだ残っている、だが俺の直感ではやはりここは1888年のロンドンだよ。証明の仕様はないがね」
「……帰れるんですか? 私達、このロンドンから……」
「さて……それを今から考えるんだ。早坂もなにか気づいたことがあったらなんでもいってくれ何かのヒントになるかもしれないからな」
「わかりました」
「あと……早坂は学校の帰りにここに?」
「あ……ええ、そうですけど」
「なるほどな。まあなんでもいいが、教科書は学校におきっぱなしにするなよ」
中身がまるで入っていない真夏の肩掛け鞄を見ながら池田は苦笑を浮かべる。

「大きなお世話です。そういう池田さんも学校におきっぱなしにした口なんじゃないですか?」
「俺か……まあそうだったな。もう酷く昔のような気がするが……」
池田は呟き、遠い目をする。その表情が見ようによっては暗い表情のようにも見えた。真夏は聞いてはいけないことを聞いてしまったのではないかと思って少し後悔した。

「あ、すいません……」
「なんで謝る? 少し昔を懐かしんでいただけさ。ああ、そうだアイラはどうしている?」
「さあ、あの人ならずっと外でこの飛行機を眺めてましたけど……」
「そうか……なら悪いがちょっとここに呼んできてくれないか?」
「あ、はい、別にいいですけど……」
真夏が出て行くのを見た後

「過ぎ去りし少年時代(アンファンス・フィニ)か……」
呟き、暗い色の苦笑を浮かべた。



[25364] 第一話 皆殺しの霧街 『霧の街4』
Name: 鬼虫兵庫◆7ce726e6 ID:ba9b8594
Date: 2011/01/19 00:01
アイラは真夏が外に出てからしばらくして中に入ってきた。
表情は暗く、何かにあせっているような表情のように見えた。

「何か用かしら?」
「あまり遠まわしに話を切り出すのは俺は好きじゃない。はっきりと言おう。知っていることをすべて話してもらおうか」
「……なんのこと?」

明らかにアイラの表情に動揺の色が浮かんだのを池田は見逃さない、アイラはそれを表に出すまいとしたようだが池田の目はその色をはっきりと捉えていた。

(鎌をかけたのが当たったか……)
「こういう状況で隠し事をするのは互いのためにならんだろ? できれば正直に答えて欲しい」
「まるで尋問でもしてるかのようね」
「そうだ、これは尋問だよ」
「…………」
池田の表情に冗談の色は無い。
今、アイラが何かを隠しているとすればそれは即危機につながる可能性があった。この状況下ならなおさらのことだ。

「……参ったわね」
アイラはしばらく悩んだ様子を見せた後、ブロンドの髪を掻いた。髪留めを解き、かけていた眼鏡もはずす。

「どうせ、皆ここで死ぬのよ。ここから誰も帰ってきたものはいないんだから」
「やはり政府の人間か……」
「あなたをマークするのが私の仕事……真実に近づき過ぎないように監視し、そしてそれを阻止することが私の任務……」
(オクターブの情報がだだ漏れしていたか……まったく……)
ふうと息を吐きながらポケットしまい込んでいたタバコを取り出す。口にくわえ、火をつけようとしたが、思い直しそのタバコを再び箱の中に戻した。

「政府は何を掴んでいる?」
「……数ヶ月前、墓地の移転に伴う遺体の移送を行っていた最中、そこにあるはずの遺体が無くなっていることに気づいたのが事の始まり。始めはそんなこと大して問題にもされなかったわ。確かに遺体が無くなってもそれが公にならない限りは問題にするようなレベルのことではないもの」
「だが事は政府が本腰を上げなければならないほどに深刻化した……数ヶ月の間に一体何が起こった?」
「死刑囚の脱走、カルト教団の墓暴き……」
アイラは輸送機の壁にもたれかかりながら続ける。

「これらはただの表面上の出来事……実際は死刑囚は忽然と姿を消し、かつて死刑を執行された遺体も消えた。私達にはこれが一体どうして起こったのかそして何故起こったのかが全くわからなかった。だけどこのことが公に知られるのは非常にまずかったのよ……」
「……わからんな。それがわかっていて何故あんなリスクの高い真似を……」
アイラは同じ姿勢のまま視線だけを動かし池田の目を見た。

「コルトナー高官が急病で倒れたのは知ってる?」
「確か……次期国務次官最右翼と称されていた男だな」
「そう、実際は彼も消えた内の一人よ。軍出身だという経歴は知っていると思うけど、彼は正確には元デルタの人間なの」
「なるほど……」
池田は視線をアイラに合わせ、軽く頷いて見せる。

「殺人者は何も犯罪者に限ったわけではない……それで合点がいった。何故俺達がここに引き込まれたのか……全員が人を殺したことがある人間。トーマスも外科医という立場上、過失云々を抜きにしても人の命を奪ったことがあると考えれば、飛行機の多数の乗客の中で俺達だけがここに来たことが説明できる。まあ俺が悪人ではないと言うつもりはないが……とにかく政府のケツに火がついた以上この問題を早期に解決する必要が生じた……というわけだな」
「問題はそれだけではなく普通の人間にまで波及し始めようとしているの、この問題はもはや政府内で最高レベルの緊急事態に分類されたのよ」
「確かに普通に考えて真夏が人を殺したようには思えん。……結局、わかっているのはその程度、政府もこの件に関して何も掴めてはいない……そういうことだな?」
「私だって十年も前の事件がこの事件と関係していたなんてはじめて知ったくらいよ、検証はされていたけど所詮はその程度。十年前の事件と関係するのなら失踪者がその頃から頻発してないとおかしいでしょ、でもその兆候はない。つまり十年前の事件とはこの件は無関係、または関係が薄いと結論付けられたのも仕方のないことだわ」
「なるほどな」
池田は顔に笑みを浮かべる、その様子を見たアイラが硬い表情のまま

「あなた怖くないの?」
言った。

「怖いね、だが俺自身人生を達観しているような節があってね。本当に自分が怖いと思っているのか、あまり自信が持てないな」
「さっきの男、確かにあれは墓から消えたロバート・フィッシュだわ。殺人者が蘇り人を食っているというのによくそんなことが言えるわね」
「それは違う」
池田ははっきりとした口調で言い、そして身体を壁から離す。

「平穏な市民、町の雑踏に紛れ殺人者が蘇ったというなら、確かにそれは脅威だ。だがこの状況下最も恐ろしいのは犯罪者ではなく殺しのプロだよ」
池田の言葉が言い終わる瞬間、

「アラート!」
鯉の声が輸送機の中に響いた。
既に池田は輸送機の縁に密着し銃を抜いている。

「状況は?」
「私達が歩いてきた方向から誰かが迫ってきています。歩く速度。足どりはかなりおぼつかない感じです」
「敵か?」
「今のところなんとも……もしかすると私たちと同じ生存者なのかも……」
「だといいんだがな」
霧の中そのたった一人の男はゆっくりとこちらに向かって歩いている。霧のためその姿は見えないがその男の他には誰の気配も無い。

(よほど腕に自信がある奴か生存者……或いは……)
「……! この足音……これテッドさんですよ」
「テッドだと?」
池田は飛行機の側面から霧の中をのぞき込む。相変わらず人影すら見ることは出来ないが、池田にもその近づいてくる気配が感じられた。

「生きていたか……まあ悪運のいい奴だ」
次第にテッドの姿が見えてくる。テッドは片手をあげゆっくりとした歩調でこちらに向かって歩いていた。

「何? 知り合いなの?」
真夏が鯉に訊ねると鯉はその気配に集中している素振りのまま答える。

「まあ……そうですね。私たちの他に飛行機でここに来た内の最後の一人です」
「なんだ……良かった。またあのさっきみたいな人だったらどうしようかと思ったよ」
「…………」
だが鯉の頭の中にはテッドが近づくにつれて釈然としないものがわき上がり始めていた。池田の方に視線を移すと池田もそうなのか表情はすっきりしていない。

「……妙だな……こいつは妙だ」
テッドは尚もゆっくりとこちらに向かって歩いてる。声を張り上げれば十分に声が届く程の距離にまで迫った時、突然として池田と鯉の銃口がテッドに向けられた。

「動くな! テッド! それ以上近づくな!」
真夏は状況が掴めず唖然としている。

「えっ……なになに? あの人味方じゃないの?」
「味方かもしれませんが……これは……まずいです」
テッドは再び片手をあげ池田達に合図する。遠目でテッドの表情は見えていなかったが、その表情は蒼白でいかにも卒倒してしまいそうなほど憔悴していた。あげている手も遠目からわかるほど大きく震えている。

「駄目だ……止まれない! 止まれないんだ!」
声は恐怖に震えている。
だが、真夏には訳がわからない。何故彼は恐怖する必要があるのか周りには私たちの他には誰もいないというのに……。

「それ以上近づくと撃つ! 止まれ!」
「駄目だ! 止まれない!」
恐怖に震え泣きそうな声を張り上げながらもテッドは歩みを止めない。一歩一歩ゆっくりと池田達に向かって迫っている。

「先生!」
「糞!」
池田が声を吐き出したのと銃弾が放たれたのはほぼ同時だった。銃弾はテッドの右足を貫きその動作を止める。だがテッドはそれでも進むのを止めようとしない。這うように池田達に向かって迫る。
その時、全く予期しない爆発が起きた。爆発といってもそう大きなものではない。だがその爆発はテッドの動かなくなった足を吹き飛ばすだけの威力があった。

「ぎゃあああ! 足が! 足が!」
「えっ?」
真夏は爆発音におびえながらも塹壕から頭を出し様子をのぞき込んでいる。池田の弾丸はテッドの足に当たったことはわかる。だがその後なぜテッドの足が爆発したのか? 真夏にはさっぱりわからない。だが少なくとも銃を構えている二人にはその状況が理解できている。
テッドは片方の足を爆発させられた後も地面を這い足を止めようとしない。まるで前に進まなければ死ぬかのように進むことをやめない。いや、その認識は実際正しかった。

「体中に何らかの器具が取り付けてあります……恐らく動きを止めたら爆発するようにセットされた高度な装置が……」
独り言のように呟いた鯉の言葉を聞きながら池田の視線はテッドに集中している。

「嫌な記憶を甦らせるじゃないか……この手口……」
池田の顔に汗が浮き上がりそしてそれが流れ落ちた。

「嫌だ! 俺は死にたくない! 頼む! 撃たないでくれ!」
「……それがそいつの狙いだよ」
テッドの言葉が届いていないかのように池田が呟く。そしてその銃口の標準がテッドの額に合わせられた時、その異変は突如として起こった。

『ウオオオオオオオオオオンンン―――――』
鳴き声それと共に遠くから鐘の音が鳴り響く。

「またあの声か!」
声と共に強風が吹き荒れ霧が舞う。霧は辺りに異常なほど満ちあふれテッドだけではなく間近にいる池田達の姿も消すほどにあふれた。

(視界が利かない……くそっ)
「嫌だ! 死にたくない! 助けてくれ! 助けてくれ!」
テッドの声が聞こえる。だがその声はまるで瞬間的に移動しているかのように様々な場所から聞こえてくる。池田は声を探るが声は尚も移動し続けている。

「どうなってやがる……」
『ウオオオオオオオオオオンンン―――――』
再びの声。思わず身構える。声はすぐ近くから聞こえる。自分のすぐ後ろにいるのではないかというほどのプレッシャー。

「少なくともこいつは俺の知っている相手ではない。こいつは一体何なんだ……」
その時、

「あはははは……」
緊張感とはおよそかけ離れた笑い声が聞こえた。テッドの声だ。だがその声は狂気に支配されたといった声ではない。その声は心底喜んでいるような、楽しげな声に聞こえた。

(なんだ……)
「綺麗だ……本当に美しい……」
テッドの声が霧の中、響く。先ほどまでの緊張、死の恐怖にとらわれた声とは全く違う。その声は何処までも明るくそして楽しげだった。

(…………)
池田にはそれがかえって不気味に感じる。テッドは一体何を見ている? 何を感じているのだ?
『ウオオオオオオオオオオンンン―――――』
声が響いた。そして

「ああ、これは『最も美しいもの』だ」
テッドの言葉が鮮明過ぎる程に聞こえ、そしてそれっきり声は消えた。
鐘の音。
遠くから鐘の音が聞こえる。何かの終わりを告げるかのように、何かの鳴き声のようにその鐘の音は鳴り響く。
ゆっくりと霧が晴れ始める。
ぼんやりとした視界の中、地面に倒れている人影が見えた。テッドだ。池田はそれに標準を合わせ、尚も警戒する。

「っ!」
が、すぐにその警戒の必要はないと銃口を構え直し、視線を辺りに集中させた。
テッドは既に死体と成り果てていた。既にそれが人間であったのかどうかを知ることすら難しい、それほど体は無残にバラバラになっていた。猛獣に襲われたかのように体は原型を留めていない。そして死体の顔は何処にも見あたらなかった。

(なんだ、一体……あれは敵なのか? 一体あれはなんなんだ……)
頬を汗が伝い落ちる。池田にも理解することが出来ない何者かが迫りそして通り過ぎていった。

(…………)
霧が薄くなり鯉と真夏の姿が見えた。真夏は一体何が起こったのか理解できないといった表情で唖然としている。頭を恐る恐る塹壕の中から出し、テッドの死体を見つけると青ざめた顔つきでそのままずるずると再び塹壕の中へと戻る。
鯉は銃を構え警戒しながらも真夏と同じ表情を顔に浮かべ唖然としている。

「一体あれは何だったんだろう……テッドさんは本当に笑い声を上げていた……」
だが、この異常の中、思考の混乱の中にあっても鯉の神経は霧の先に僅かな異常を知覚した。

「あ、アラート!」
「……! なんだと、またあいつか?」
銃口を霧の中に構える。池田には敵の気配は感じることが出来ない。

「いえ、違います……人です。数は正確にはわかりませんが数十人規模、小隊レベルだと思います。駆け足の速度で距離は600、足音はかなり消しています」
「……600? 既にそこまで接近しているのか?」
「あの異常の間に距離をつめられたようです。移動の音も小さく相当な練度です。早くここから撤収した方が良さそうです」
鯉の言葉を聞き、飛行機の中、膝を抱え震えていたアイラが真っ青な顔のままおぼつかない足取りで立ち上がった。その表情は既に常人のものではない。

「もう終わりよ……みんな死ぬのよ。軍の人間ですら歯が立たなかったのよ。私達ではどうにもならないわ。さっきのを見たでしょ、あれはあたし達には理解すらできない化け物のなのよ……」
「馬鹿なことを」
アイラは池田の言葉にも耳を貸そうとしない、だらりと首をもたげうつろな視線を宙に向けている。

「……くそっ」
輸送機から飛び出し、塹壕の中に身を隠す。既に身を隠していた真夏が池田に視線を向けた。鯉は身体を半分塹壕から出し音に神経を集中させている。

「足の速度はそれほどではないですが後100秒で敵の射程に入ります」
池田は先ほどの異常を切り離し、思考を通常時へと強制的に戻す。

「直線的で妙に行動が単純過ぎる。裏に待ち伏せを張らせている可能性が高い。路地を抜けるのは少々勇気がいるな……スナイピングするとしたら出来るか?」
「霧が深いですからね。まあそれは向こうも同じことなんですけど、400まで近づいて大きな音を立ててくれたならなんとか……それ以上だとほとんど適当に撃つだけになりますけど……」
「……いや、やはり撃つな。この霧だと距離を詰められると厄介だ。少々危険だが路地の中を突っ切ろう」
「……危ないですね。アイラさんはどうします?」
「いざとなれば気を失わせてでもつれていくさ」
輸送機に目を移す。アイラは相変わらず外に出てくる気配は無い。

(……くそ、まったくこんな時に)
池田が視線を一度敵の方向に移した瞬間、全くの不意の出来事が起こった。

「助けて!」
アイラの声。
完全に不意を突かれた、声に反応した時には既にアイラは塹壕のラインを越え飛び出してしまっている。

「戻れ! 何をやっている!」
「私はここで死にたくないのよ! 私の好きなようにやらせてもらうわ!」
アイラは霧の中を進みながら更に声を上げる。テッドの死体を乗り越え、更に奥へと進んでいく。

「取引をしましょう! 私の知っている情報をあなた達にあげる! その代わり私を見逃して頂戴! 悪い取引じゃないと思うわ!」
左右に連なる建物に声が響く。全くの静寂の中、その声のみが響いた。

「……足が止まりました」
塹壕内の鯉が呟く。

「馬鹿が……人食い鬼と交渉か?」
問題はそれだけではない、今のアイラの声で大体の距離を掴まれた恐れがある。つれもどそうにもアイラはどんどんと道の先の方に向かっていってしまっている。
流れ弾の危険性から考えて前に出るのは無理だ。
アイラは更に進んでいく。

「私の他にも今、三人いる! 一人は男! 残り二人は若い女よ! それを引き渡す代わりに私を助けて!」
「……おいおい」
池田は塹壕の影からアイラの背を覗いているが、もうアイラに声を上げることはしない。

「撃ちますか?」
と鯉が呟いたのに鯉の隣にいた真夏はぎょっとなった。
ここから撃つということはアイラをということだろうか?
真夏の驚きと戸惑いをよそに池田は

「放って置け、どの道もうだめだ」
呟いた。
その直後、赤いペンキを空中にぶちまけたかのように、血がぱっと飛び散り広がった。
瞬間的なその光景とは別に身体はゆっくりと膝から折れ、そして上半身を仰向けにするような形で地面へと崩れ落ちる。
辺りには僅かに空気を切り裂くシュッという音だけが聞こえたに過ぎない。
身体は小刻みな痙攣を繰り返し、頭から流れ出す血は辺りの地面だけを深紅の色に染め上げる。が、それもすぐに止まった。
灰色の世界に鮮やかすぎる赤色が浮き上がっている。

(全く視界が利かない状況でヘッドショット一発、音だけで距離を把握したか……こんな真似が出来る奴がいるのか?)
塹壕の中に身を完全に隠す。池田の脳裏に過去の記憶が蘇る。その人物、思い当たらないわけではない。

「…………」
「500メートル地点からの狙撃、銃声からして……SVD(ドラグノフ)だと思います」
「SVD(ドラグノフ)? M24じゃなくか?」
アイラが狙撃されてから激しい銃撃が巻き起こった。銃弾の有効射程からはまだ随分と離れているはずだがそれにも構わず銃弾が飛び、空気を切り裂きながら頭の上を飛び越えていく。

「確かに弾丸は同じですけど……あの音……SVD(ドラグノフ)で間違いないと思います」
「……SVD(ドラグノフ)か」
考えを巡らせていたが、塹壕に身体を寄せていた真夏の頭が目に入り、それを上から押さえつける。

「……真夏もっと頭下げろ。頭持って行かれるぞ」
「あ……え? すいません……」
押さえつけられたすぐその場所を弾丸がえぐる。
真夏はびくりと身体を震わし、ほとんど塹壕の地面に這うまでに身体を沈める。

「適当に撃っているというより狙っているな……」
身体を塹壕の外に出そうにも銃撃が激しい、隙を突いて外に出るまでの余裕がない。

「射程外であるはずの場所から銃を撃ち続け足止め、接近し敵を殲滅。そんな馬鹿みたいなことをしてのける連中……」
弾丸が正確に塹壕に突き刺さる。銃撃は時間が経てば経つほどそれは激しさを増した。

「ここの塹壕の位置は完全に把握しているようだな。それもそうか……」
「どうします? これじゃあ路地に入り込もうにも入り込めませんよ」
「路地に入っても待ち伏せ……ここに残り接近戦、練度の恐ろしく高い小隊クラスと対決。馬鹿な」
銃声に紛れ、筒内の爆発によって飛び出したポンッという音が二回僅かに聞こえた。

「グレネード!」
池田と鯉の二人が叫び塹壕から立ち上がる。
一発ずつの弾丸を放物線を描くグレネードに向かって放つとそれが空中で爆発した。

「とにかく! ここにいるのはまずい! 一度ここから逃げるぞ!」
「でもどうやって!」
塹壕の中に身を沈めながら叫ぶ。

「莫迦! そいつを盾にして真夏ごと路地の中に駆け込め!」
「そうでした」
背負っていたギターケースを後ろ手にポンと叩きながら鯉はそれのベルトをたぐり丁度身体の右にそのケースで壁作るような格好をしてみせる。

「真夏さん! 何があっても私の横を離れないでください! 身体はなるべく低く!」
「え?」
聞き返した時には既に真夏の手を引いて進み始めている。

「走りますよ。低く横に」
「……あっ」
鯉が身を低くして走り出したのに真夏は慌ててついて行った。鯉が素早く入れ替わり、真夏のスカートの上を掴み腰に手を当て、離れないように押し出している。

「…………」
真夏は銃器に関して詳しいわけではないがこんなギターケースで銃弾が防げるものだろうか?
鯉の横にほとんどすがりつくような形でついて行っている真夏はそのギターケースのみが銃弾を防ぐ唯一の方法であることにそんな心細さを感じた。だが、もう既に塹壕から身体は全て出てしまっている。今はこのギターケースと鯉に頼るしかない。

「……っ!」
銃弾が飛び、それがギターケースに当たり高い金属音を響かせる。
それも一、二発ではない。十数発の弾丸がそのギターケースに着弾し、火花を散らしている。
真夏は鯉の陰に隠れながら低く走る。
路地までは後数メートルといったところだが、銃撃は尚も激しい。だがそれがギターケースを貫くことはない。

「~~!」
真夏には何故弾丸がケースを貫かないのかなど考えている余裕はない。もう無我夢中気を失いそうになるのをぐっとこらえながら鯉の横に必死について行くのがやっとだ。

「真夏さんもう大丈夫ですよ」
と鯉が呟き、建物の陰に立ち上がった後、真夏は建物の陰で地面に中腰のまま立てないでいた。

「おい、いつまでそんなところに座っているつもりだ! ここからが正念場だぞ!」
いつの間にか路地の先には池田がいて、真夏を睨み付けていた。
そんな莫迦な、いつの間に私たちを追い抜いたんだ。と、考える余裕もないし、考える暇もない。
真夏は気合いを入れて立ち上がり、震える足を両手でバンバンと数回叩き。

「もう大丈夫です! いきましょう!」
「よし! 建物の角では一瞬だけ止まれ! いいな? 一瞬だぞ!」
「は、はい!」
その路地は暗い、ただでさえ薄暗い光が、両側に立ち並ぶ灰色の建物のせいで余計に暗く感じる。
真夏は池田の後を追いながら、この建物のどこかに敵が潜んでいたら隠れようがないなどと考えてみたりした。
思っている内に銃撃。同時に池田は銃を撃っている。
銃弾が放たれた先、だいぶ遠くの建物から人なのかよくわからない黒い影が地面へと落ち、叩きつけられた。

「俺の後ろを離れるな、俺が死んだら盾にするぐらいの感じでいろ!」
「死ぬつもりですか」
「莫迦! そういう心持ちでいけってことだよ!」
喋っている間にも池田は銃を撃っている。今度は銃が放たれた先、建物の中ででたらめな方向に銃が乱射されるのが見えた。
走る。それも早く、一瞬、角で立ち止まり、池田がその先を見たかと思う次の瞬間には飛び出し、同時に銃を放っている。
本当に狙って撃っているのか真夏には判断のしようもなかったが、とりあえず今は真夏はその背中を追って必死に走るしかない。
次の路地に入った時、池田の肩越しに黒い大きな物が立ちふさがっているのが見えた。それが何かと考えるまもなく

「……ぐえっ」
真夏の襟首がつかまれ強引に路地の右にある建物の隙間に放り投げられた。
直後、爆音にも近い弾丸の音が路地の中に響いた。
今までの弾丸とは比べ物にならないほどの破壊力。弾丸は土煙をあげ、地面に敷いてある石畳を粉々に粉砕した。
げほげほと咳き込む真夏の横には既に池田の姿がある。
弾丸が建物の角を削り、石の破片が飛び散り辺りに舞った。
池田は銃を一丁抜き取り、それを左手に構えている。隙を見て半身を出し、左手で狙おうとしているのだが、今は銃撃が激しい。

「メデューサ? しかも手持ち? ……嫌だね……どうにも」
向かい、建物の陰で鯉が同じように身を隠し、M500を構えた。

「知り合いですか?」
真夏が池田の顔をのぞき込みながら呟く。

「あ? どうしてそう思う?」
「そんな顔してますよ」
「かもしれん……というだけのことだ。あんな真似をできるのは俺の知っている限り一人しかいないもんでな」
隙を見て銃を放とうとするが、少しでも身体を出そうとすれば強烈な掃射が走り、レンガが破片となって飛び散る。
池田達が隠れている隙間は数メートル先で完全に壁になり行き止まりになっている。
このまま強烈な銃撃を受け続ければ壁が削られ、跳弾によって撃ちぬかれてしまう危険性がある。
だが、出られない。銃撃は止んだり撃ったりを繰り返していたが少しでも身を出す隙は今は無かった。

「このまま、ここでもたついていたら大通りの連中に追いつかれる、そうなると万事休すだ」
「じゃ、じゃあどうするんですか?」
「ここを切り抜けるんだよ。出来るだけ早くな」
真夏の問いかけに当たり前のことを言い返した。だが今はその当たり前のことが出来ないでいる

「…………」
向かい側にいる鯉が背負ったままのギターケースを少しあけ、そこからスタングレネードを取り出す。
鯉が合図を送り、池田もそれに無言で答えた。

「早坂、耳塞げ」
「えっ?」
聞き返した時には既に鯉の投げたスタングレネードが弧を描いている。
地面に落ちる僅かな音が聞こえたかと思った瞬間、すさまじい爆発音と閃光が走った。
瞬間、鯉と池田は共に半身を出し、銃を放った。
スタングレネードの煙が立ち上がる先、撃ち込んだ数発の弾丸は確実にその大きな影を捉えた。だが確実に命中した影は倒れることなく、それどころか再びの掃射を行って見せる。

「くそ!」
危うく掃射に巻き込まれそうになるのを再び影に隠れてやり過ごす。
二人ともその射手の胸と頭にそれぞれの銃弾を撃ち込んでいた。通常ならばそれで相手が倒れないはずは無い、だが尚もそれはそこに立ち続けている。
銃の貫通力、破壊力から考えればそれは到底考えられないことだ。
いや……

(こりゃどうにも疑問は確信へと変わったってやつかね……)
池田は舞い散るレンガの破片から身を隠しながら過去の記憶を蘇らせていた。

「フェイザーズの猟犬(ハウンド)」
「えっ?」
池田の言葉は意図して出てきたものでない、自然と口から出てきたものだった。
弾丸は命中はしているが人を貫いたと言う感覚ではない。鉄塊にぶち当たり弾き飛ばされたといった感覚に近い。

「テンペスト」
池田の僅かな呟きに路地の向こう側にいる鯉の表情が変わっている。
煙草を取り出し火をつける。空になった煙草の箱を路地に投げるとそれが空中で四散した。

「死者が蘇るか……」
池田の呟きをかき消すように路地に大音声が響き渡った。

「いい加減かくれんぼは止めねえか! 出てこいよ! 差しで勝負しようぜ!」
「メデューサ構えて何言ってやがる。俺だと奴が気づいたらどうなることやら……まあ少しは楽しみでもある」
「一体あの人? ……とはどういう関係なんです?」
「一方的に恨まれているだけ、それだけだ」
散発的な銃弾が威嚇するように壁をえぐる。

「……恨み?」
「今はそんなことはどうでもいい」
煙草をふかし、ふうと煙を吐き出す。吐いた煙が霧に紛れた。

「俺が一人で奴を引き付ける。その間に鯉と一緒に逃げろ」
「逃げろって……逃げた後どうするんです? どうやってまた集まるんですか? まさかこのままここで死ぬつもりなんじゃないでしょうね?」
「さすがの俺もそんなに死にたがりじゃないさ。そうだな、大英博物館の前で一時間後。十分以上待っても現れなかった時は死んだものと思え」
「大英博物館……ですか?」
「ああ、そうだ資料集の中に場所ぐらい載っているだろう?」
池田は向かい側にいる鯉に同じ主旨のことを口だけを動かし伝える。
「さてと……じゃあな、気をつけろよ」
「池田さんも」
薄い笑みを浮かべた後、池田は大声を上げた。

「テンペスト! 久しぶりだな!」
銃を構えていた射手の手が止まった。

「今だ! 行け!」
池田が真夏の背中を押し出す。
それに合わせた鯉が同時に駆け出し路地から走り去った。
射手はその二人のことなど全く眼中に無いのか、銃身を動かし後を追うようなそぶりすら見せない。
銃撃の射程から二人が逃れるのを確認し、池田はやっと安堵の息を吐いた。

(とりあえずは上出来……)
「貴様……」
射手は尚も立ったまま硬直している。その表情は次第に驚きから怒気へと変わろうとしはじめていた。

「こんな地獄でまた合うとはなんとも素敵じゃないか! なあサノヴァビッチ(くそやろう)!」
銃撃!
明らかな殺意を含んだ銃弾。壁を一気に削り取り、石のかけらと跳弾が舞う。
銃弾の掃射の中をかいくぐり池田は大きく跳び、前に転がりながら反対側の隙間に身を隠す。

「少しは落ち着けよ! テンペスト!」
「黙れ!」
銃弾は間髪をいれず跳び、建物のレンガを粘土のように削り取っていく。
同時に銃弾の角度が次第にきつくなり始めているのを池田は感じている。
恐らく、銃を撃ちながら距離を詰めていっている。このまま距離を詰められれば勝機はない。

(いや、ただ一点チャンスがあるとすれば……)
メデューサはベルト式の給弾システムをとっている。ベルトには通常百十発ごとの区切りがある。このまま弾を撃ちつづければそのベルトを交換する時点で大きな隙が出来るはずだ。だが今の時点、その隙を窺ったところでこちらの銃撃がまったく通用しないのでは逃げるしか方法がない。無論、ベルトの交換のタイミングを見誤れば掃射の餌食になることは必至であった。メデューサの一撃を受ければそれは即死を意味する。

「一か八かだな、弾丸をピンポイントで……」
池田は二丁の拳銃を構え、壁を背に深い息を吐いた。過去の記憶が蘇る。
これほどの死地を経験したのは何年振りだろうか?
風が吹き、霧が濃くなった。
口にくわえていた煙草を吹き捨てる。赤い煙草の火が弧を描き地面へと落ちる。
一瞬、銃弾が止まった。同時に金属のギミックが動く音が聞こえる。
タイミング!
池田は躊躇せず路地に飛び出した。
銃弾を霧に紛れる影めがけて撃つ。弾丸は金属にはじかれ鋭い火花を散らした。

「馬鹿め! どこを狙っている!」
「…………」
池田は銃を放った体勢のまま路地の中央に立っている。

(なるほど、銃弾を跳ね返すはずだ)
テンペストの身体は全身を特殊な強化素材で包んでいた。一見するとそれは人間では無くロボットのようにさえ見えた。掘りの深い無骨な顔が強化素材の隙間から覗く。
その強化素材だけで数百キロの重さになっているだろう。常人なら動くどころかそれ自体の重みに押しつぶされてしまう。だがその男にはそれを軽々と動かせる程の異常なまでの筋力がある。
テンペストは既にベルトを交換し終えた。既にこの路地から逃れる術は無い。

「随分と素敵になったものだな」
「無駄口を叩けるのも今のうちだけだ。まずは足から潰してやろう。お前が俺にしたように……」
「俺が? それは逆恨みってもんだぜ」
「黙れ! 怖いか? じっくりと嬲り殺されていくのが! ああ!」
「さてな? やるならさっさとやったらどうだ? 腰抜け!」
池田の挑発にテンペストは銃身を起こし答えた。銃口は池田の足元に向いている。言葉の通り、足から順に体を破壊するつもりだ。
池田の頬を汗が流れ落ちる。
テンペストが引き金を引いた瞬間、爆発が起きた。
だがそれは銃弾の発射ではない。暴発だ。
池田の放った銃弾は一つ残らず。メデューサの内部に命中していたのだ。
異常発射によってその高圧をもろに受けた銃身は爆発し、その破片を辺りにばら撒いた。テンペストもその衝撃をもろに受け大きくのけぞっている。

「ぐっ! 貴様!」
「だからお前は莫迦だというんだ。自分の持っている銃には細心の注意を払うものだ」
「殺す! 貴様は必ず殺してやる! 殺す!」
メデューサを放り投げ、テンペストは猛然と池田に向かって突進した。池田もそれに応え、照準を合わせた。
だが直後、二人の間に黒い影が落ちる。
気配も無く、音も無く。それは建物の上から飛び降り、丁度二人の間に降り立った。地面に着地する際それは僅かにトンという軽い音を出したに過ぎない。
その少女はどこを見るわけでもなく丁度二人に横顔を向けるような形で屹立する。

「鯉?」
池田が思わず口にしたほどその少女は鯉に似ている。
だがそれは鯉ではない。
ブーツ、皮手袋、ズボン、シャツ、コート、全身を黒一色で包み。その表情はどこまでも無表情で、感情を捉えることが出来ない。顔には鯉よりも長い髪が乱れその表情を半ば隠していた。

「どけ! ファウスト! 邪魔をするな!」
テンペストの声にもその少女は動じることなく視線すら動かすことをしない。

「即刻帰還せよとの命令です」
「ほざけ!」
かまわず突進をしようとしたテンペストの首元に少女のナイフが突き立てられた。
動きの起点を抑えられたテンペストは思わずその場で硬直する。
強化素材のアーマーをナイフで貫けるはずはないはずだが、その少女の突き立てた飾り気の無い銀色のナイフはテンペストを殺せるだけの威圧感、存在感を持っている。
銃を構え、テンペストと対峙していた池田も完全に虚を突かれ動けないでいた。
銃、その引き金を引くだけで少女を捉えられる、だがその銃撃を避けられナイフを突き立てられるイメージが頭に強烈に焼きつく。そしてそれは確実に実現されると感覚が認識している。
外見的には圧倒的有利にも思える中、この場を支配しているのはそのたった一人の少女だった。

「この行動、命令違反と捉えてもよろしいですか?」
少女の冷たい声が路地に響く。
鯉の声とそっくりではあるが、声にはまったく抑揚がなく、機械で合成したかのような冷たさしかない。

「だが! 今、池田を殺れるチャンスなんだぜ! それでも戻れというのか!」
「即刻帰還せよとの命令です」
少女は言葉を繰り返した。

「……糞! 命令! 命令! このリグレットの犬が! 池田! 貴様は俺が殺す!」
言葉を吐き出し、テンペストは地震のような地響きと共に跳躍した。巨体は一度壁を蹴り建物の屋根の上へと登り、一瞬の内にその場から姿を消す。

「…………」
鯉に似たその少女がただ一人路地に残ったが、少女はなおも池田には横顔を向けているのみで目をあわそうともしない。
だが姿を消す直前、その固定された視線が一瞬だけ動き、池田と目があった。
赤色の瞳は鯉と同じものだったが、その瞳は限りなく血の匂いを感じさせる。
深く冷たいその瞳の奥、何かわずかな感情の揺らぎのようなものが見えたがそれも一瞬の後、霧の中へと消えた。

「…………」
銃をホルスターに戻し、しばらく呆然と宙を眺める。

「ファウスト……参ったな、奴もここに……鯉の奴と出会わなければいいが……」
冷たい溶けた鉛が身体を流れていくような嫌な感覚が全身に広がる。
池田はしばらくの間その少女がいた場所を眺め続けていた。
何も無いはずの空間、その場に強烈な威圧感だけが残っている。


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.479548931122