CCI

   2008年7月号 No.720




新世紀への提言




三屋 裕子
(スポーツプロデューサー)
 元全日本のバレーボール選手。1958年福井県生まれ。筑波大学大学院修士課程コーチ学専攻修了。筑波大学在学中、ユニバーシアードでの活躍が認められ、79年全日本入り。81年には名門日立に入社。ロサンゼルス五輪で銅メダル獲得。五輪後、かねてからの希望であった教職の道に転身。現在、バレーボールの普及のため、バレーボール教室、講演会のほか、テレビ、ラジオなどでも活躍。
 筑波スポーツ科学研究所副所長、(社)日本プロサッカーリーグ理事、健康日本21推進フォーラム理事、(財)日本バレーボール協会理事など。
  

  


スポーツもビジネスも、
人づくりが大切です


 バレーボール元全日本代表の三屋裕子さんは、ロサンゼルス五輪で銅メダルを獲得。さわやかな笑顔と高さのあるシャープな攻撃で、女子バレーボールブームに火をつけた。競技から引退後も、教育の現場やバレーボール教室、あるいはテレビやラジオなどで、現役時代同様に親しまれている。
 今後も、そのバイタリティと教養、温かな人柄で幅広い活躍が期待される三屋さんに、ご自身とスポーツとの関わりなどについてお聞きした。

背が高いのがコンプレックスだった

― 三屋さんがバレーを始められたきっかけは何だったのですか。

三屋 一言で言えば、背が高かったことへのコンプレックスから逃れたかったからです。小学校五年生になったとき一四〇センチだった身長が、小学校卒業時には一七〇センチまで伸びました。学校ではいじめにも遭いました。何より悲しかったのが、着たい服が着られないこと、履きたい靴が履けないことでした。背が高いことが嫌でたまりませんでした。
 中学校に進んだとき、一人の先生からこう言われたのです。「いくら嫌だと思っていても、お前からその身長を取ることはできない。人間、考え方一つだ。嫌だと思っていたら欠点だろうが、それを上手に活かしたり、武器にしたりすることもできるんじゃないか」そして、バレーをすすめられました。実際始めてみると、みんなから認めてもらえましたし、背の高いことがプラスにもなりました。

― 中学時代のバレー部は、いわゆる名門ではなかったのですよね。

三屋 ええ。監督は国語の先生、コーチも英語の先生でしたから、ごくごく普通の学校です。

― 三屋さんは、すぐに注目されたのではないですか。

三屋 いえいえ。バレーは始めたばかりで下手でしたから、二年生までは芽は出ませんでした。ただ、バレー部と掛け持ちで陸上をしており、走り幅跳びでは一年から県大会で優勝していましたから、もともと瞬発力はあったようです。三年になってテクニックがついてくると、県内の高校から声も掛かるようになりました。でも、そのときは高校でもバレーをしようとは思っていませんでした。家が福井の田舎だったので、次女の私はいずれ家を出ないといけません。父親は、家を出るなら資格がいる、その資格は教師がいい、教師の資格を取るまでは親が面倒を見てやると、ずっと言い続けていました。私も県立高校に進学し、大学に入って教員免許を取るつもりでした。
 ところが三年のとき、バレー部が県大会で優勝してしまいました。全国では一回戦で敗退しましたが、この大会の最長身者として雑誌で紹介されたのをきっかけに、大阪の四天王寺高校、東京の八王子実践高校、中村高校など、全国レベルの高校からオファーが来ました。子供ですから、一気に夢が膨らむわけです。

― オリンピックも夢ではないと思えてくるのですね。

三屋 ええ。全国レベルの高校でバレーを続けるなら、いずれにしても親元を出なければいけません。だったら日本一の学校へ行こうと、八王子実践に入りました。

全国優勝が義務づけられたチーム

― 高校では寮生活ですか。

三屋 合宿所ですね。炊事や洗濯、掃除は自分たちでやります。今まで家事などしたことないのに、がちがちの上下関係のなかで身の回りのことを全部やり、しかもハイレベルの練習についていかないといけません。「後悔しても知らないぞ」と言う親の反対を押し切って上京したものの、入って一週間経たないうちに後悔しましたね。夜布団のなかに入って泣く日が続きました。

― 当然個室ではないですよね。

三屋 大部屋です。プライベートなスペースといえば、プラスチックの衣装ケースひとつだけでした。

― よく耐えられましたね。

三屋 一回だけ弱音を吐いたことがありました。「帰りたい」と家に電話すると、「いちばん遠くから入学した熊本の子は、帰りたいって言っているのか。そうでないのならお前も我慢できるだろ」そう言われました。

― 二年生、三年生になると楽になるのではないですか。

三屋 いざ二年になると、一年のときの方が楽だったなと感じましたね。いわゆる企業の中間管理職と同じで、三年生と一年生の間で板ばさみなんです。バレーに限らず生活のこともすべて、一年に教えるのは二年の役割で、一年生ができなければ、怒られるのは二年生でしたから。
 三年生になれば、チームの実績を残さなければならないというプレッシャーとの戦いです。八王子実践高校は、全国優勝が必須なので、コートのなかでの責任、勝敗の結果責任が非常に大きくなりました。これはこれでしんどかったですね。

― 練習を重ね、学年が上になるにしたがって、自分が上手くなるのを実感できるのですか。

三屋 まず、なかなかうまくできない期間がすごく長く続きます。けれど、何かの拍子にきっかけを掴むと、そこからトントントンと上達します。その繰り返しです。だから、できない期間にどれだけ辛抱できるか、自分に対する我慢強さが大事になりますね。

全日本の練習と学生生活の両立

― 高校卒業後は、どうなさるか決めていたのですか。

三屋 進学するつもりでした。父から「金メダルじゃ飯は食えない。教師になれ」と言われ、高校卒業後は大学に行くことが、八王子実践に行かせてもらう条件だったからです。高校の先生も分かっていたことです。実業団からオファーがあったときも、先生から「大学に行くのは回り道だ。進学したら、オリンピックという道はないぞ」と言われましたが、私は大学に行って学校の先生になる。でも、チャンスがあればオリンピックも狙ってみよう、そんなふうに考えていました。

― 実際、大学に入学されてもバレー部に入られましたね。

三屋 自分でも何だか知らないうちに、自然に入部していました。目の前にチャレンジするものがあると、やらずにはおれない習性があるのかもしれません。元来競争が好きではないのですが、スポーツをしていると競争の場に自ずと置かれます。いざ競争のスタートラインに立ってしまうと、絶対に勝ちたいと思うのです。たとえば、大学選抜の合宿があれば、絶対に最終メンバーに残るために、自分が何をすべきか考え、実践します。おかげさまで一年生から、ユニバーシアードに出場させてもらえました。競走の場に立ったら勝ち残りたいと思って積み重ねてきたことが、大学三年のとき全日本の監督の目に留まり、モスクワ五輪のメンバーにも入れていただきました。

― そのモスクワ五輪は、ボイコットにより参加できませんでした。

三屋 茫然自失でした。私は五輪の一年ほど前から全日本に参加させていただきました。大学では教員の必修科目を履修し、レポートで代替がきく授業はそうして、キャンプ地の大阪と筑波を週に二、三往復していました。大阪で徹底的に絞られて疲れ果てた体で大学に戻り、翌日の試験に臨もうと勉強しても頭に入るはずもなく、苛立ってはノートを壁に何度ぶつけたことかしれません。そんな思いをしながらなんとか単位も取り、卒業の目処もたちました。教育実習も五輪の後にさせていただけるところを見つけ、ようやくの思いでたどり着いたオリンピックでした。それまでの苦労に耐えてこられたのは、オリンピックで金メダルという夢があったからです。モチベーションを急に奪われることが、どれほどアスリートにとって辛いことか、身をもって知りました。

― 今年の北京五輪でも、一部の国で開会式への参加、不参加が議論されています。

三屋 ボイコットを決めるのは、選手であるべきです。政治家の方が決めることではありません。選手が自分の主義・主張によってボイコットする分には構わないと思います。五輪を目標に取り組んできた選手のプロセスを無視して、政治的圧力で一方的に「出るな」というのは、いかがなものでしょう。
 競技場にイデオロギーだとか、宗教だとか、民族間の対立を持ち込んだら、ただの殴り合いです。人種や宗教や信条が違っても、スポーツのルールのなかで戦うからこそ、万人が認める結果が出るわけです。
優先順位を間違えて後悔したくない

― 大学卒業後、三屋さんは日立の実業団チームに入られました。

三屋 モスクワ五輪に参加できなかったことで、オリンピックの夢はあきらめ、バレーそのものもやめるつもりでした。秋に教育実習も済ませ、就職先の学校も決まりそうでした。そんな折、一度くらい世界の大会に出ておけと言われ、それもそうだと考えたのです。教師はバレーをやめてからでもできるけれど、教師になってしまったら、バレーは二度とできないだろう。優先順位を間違えたら後で後悔することになると思い、一年後のワールドカップと二年後の世界選手権までチャレンジすることにしました。
 私を見出してくれた監督がいるユニチカには恩も義理もあったのですが、結局自分の攻撃的なバレースタイルに合う日立に決めました。二年後にはやめるという条件付きです。実際、実業団や全日本の試合の合間に、公立高校の採用試験も受け、合格もしていました。
 ところが、世界選手権が終わったとき、「これでやめさせていただきます」と監督に話すと、ものすごく怒られたんです。「これからの全日本は、日立中心で組んでいくんじゃないか。お前は何を考えているんだ」そう言われて迷いました。教師になるのは、自分ひとりの夢だが、オリンピックに行くのは、チーム全体の夢だったからです。ここでも私は、バレーを選びました。でも、親は大反対でしたね。

― 実業団の練習は、やはりきつかったのでしょうか。

三屋 最初は、実業団って楽だなと思いましたね。バレーだけしていればいいわけですから。勉強しながらバレーをやって、自分の身の回りのことも全部管理していた大学時代とずいぶん環境が違いました。
 ただし、日立が強くなるにしたがって、練習は厳しくなりましたね。求められるレベルが飛躍的に上がりましたし、自分のなかでも妥協できないことが出てきます。次第にそれまであった余裕もなくなりました。私は日立に入ってから八キロ痩せました。

― チームのほかの皆さんの顔つきも変わってくるのでしょうね。

三屋 女性ばかりが四六時中集団でいると、足の引っ張り合いがあるのではないかと言われますが、そんな余裕はありません。自分のポジションを守るのに必死です。実力がなければポジションは守れませんから、他の選手にない才能を身につけることに集中するわけです。食事ひとつでも、無駄なものは食べたくないと思いますし、観たいテレビよりも睡眠時間をとりますし、すべて自分のコンディショニングを優先させます。人のことが羨ましいだとか思っている暇などないですよ。

教えることは、自分を成長させること

― ロス五輪の出場を決め、念願のオリンピックに出場したわけですが、実際にその舞台に立ってどんなことを思いましたか。

三屋 同じ世界大会でも、世界選手権やワールドカップは、あくまでバレーだけの大会です。しかし、オリンピックは、それぞれの種目で世界最高のテクニックと能力をもった人が、世界各国から集まります。今まで自分が経験したことのないスケールの大会でしたね。
 でも、本当にオリンピックの凄さを知ったのは、ソウル五輪のときテレビの解説者として行ったときです。オリンピックに関わる人の多さ、支える人の多さ、盛り上げようとする人、報道する人、こうした人々が膨大な数に上ることに驚きました。こんなに凄い大会に出ていたのだと、自分がバックヤードに入って初めて気づきました。こんなに多くの人たちのエネルギーで、選手は支えられているんだと思ったとき、なんて贅沢な大会に出してもらえたのかと感謝しました。

― ロス五輪が終わられてからは、どうされたのですか。

三屋 八月十五日に帰国し、その二週間後には國學院高校で教師をしていました。ここで半年お世話になり、翌年四月から学習院大学の助手になりました。

― 指導される側から、教える立場に立たれていかがでしたか。

三屋 教えるってことは、深いなと感じました。なぜできないんだろうと最初は当然思います。だからどうやったらできるようになるか考えます。教えることは学ぶことだと思いました。教えるために、教える側が学ぶのです。
 自分が教えられた通りに教えてしまうと、できない子がほとんどです。できるようになるにはどうしたらいいか謎解きのように考えました。そして、どう教えたらいいのかを私に教えてくれたのは、結局生徒たちでした。私は生徒と交換日記をして、そこに授業の感想を書いてもらい、彼らが指摘してくれたことを次の授業から改善していきました。彼らがいろんなことを教えてくれたから、私は少しずつ先生になれた気がしました。今もそう思いますが、教えることって、自分を成長させることですね。

大学院で学んだスポーツの新しい魅力

― 筑波大学で助手、講師を務められた後、三屋さんは九二年に大学院に進まれましたね。

三屋 スポーツというものを、体ではなく言葉で伝えられるように、もう一度勉強し直そうと考えたからです。また、自分がこれまでやってきたことが、スポーツとして正しかったのかどうかを検証したいという思いもありました。
 ちょうど「健康」というキーワードが出てきたころです。これまでのアスリートとしての私は、スポーツをするために健康でなければならないと考えていました。いいパフォーマンスをすることが目的で、健康であること、つまりコンディショニングは目的のための条件でした。ところが、スポーツが体のコンディショニングの役に立つという逆の考え方があることにあらためて気づいたのです。健康であることが目的で、スポーツはその手段であることが新鮮でした。スポーツは、勝敗を決するためだけではなく、老いに対するチャレンジであり、あるいは充実した老後を送るために必要なエッセンスでもあります。スポーツのもつ新しい魅力を知り、もっとたくさんの人にスポーツをしてもらうために、スポーツと健康について勉強しようと思いました。

― これまで勝つためのスポーツを追求し、トップアスリートを育ててきた三屋さんにとって、一八〇度の方向転換ですね。

三屋 ええ。私のライフワークも、長く楽しむスポーツや、健康のために適度に動くスポーツを教えることに変わっていきました。平成十年ごろから、リアルな現場で、より多くの人にスポーツの良さやスポーツで体を動かすことの良さを伝える仕事をさせていただいています。

今後は、スポーツと健康がテーマ

― 一方、三屋さんは二〇〇四年にシャルレの代表取締役に就かれ、三年間務められました。シャルレとのお付き合いのきっかけは何だったのですか。

三屋 シャルレが実施する助成制度の選考委員をずっと務めさせていただいたのがご縁です。

― 社長をやってくれと言われたときはどうお考えになりましたか。

三屋 さすがにできないと思いましたね。連結で六百億円以上の売上のある会社ですから、できるわけがないというのが正直な気持ちでした。

― 実際にやってみていかがでしたか。改革半ばで退任されたわけですが、もっと時間があれば業績回復に成功したとお考えですか。

三屋 描いたプランはある程度形になってうまくいったと思います。ただし、ビジネス界特有のオーナーとの付き合い方について、私の方に配慮が足りなかったかもしれません。

― ビジネスの世界はお金も欲も絡みます。ときに権力闘争もあります。ずいぶんご苦労されたと思うのですが。

三屋 スポーツの世界は、ロイヤリティのみですからね。競技に対するロイヤリティ、チームに対するロイヤリティ、指導者に対するロイヤリティ、アスリートは純粋なロイヤリティのみでスポーツに取り組んでいます。アマチュアの場合は特にそうです。こうした世界からすると、ビジネス界の打算の論理に当初は戸惑いました。

― この三年間で、三屋さんが得たものはございましたか。

三屋 ものすごくいい経験をさせていただいたと思います。いちばん勉強になったのは、企業も人をどう動かすかがポイントだということです。スポーツも人づくりが大切です。プレーヤーのモチベーションをいかに上げるかという点について、スポーツもビジネスも同じだと思いました。

― これからどんなお仕事をしていこうとお考えですか。

三屋 先ほどもお話した、スポーツと健康をテーマにした活動に取り組んでいくつもりです。大学で教えることも、ビジネスに挑戦することも、すべての可能性を視野に入れていますが、まずこの三年間で空白になった部分を埋めて、一年ほど時間をかけてじっくり足場を固めたいと思います。その上で次のステップに進みたいですね。

― ご活躍を期待しています。本日はお忙しいところありがとうございました。


  




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