日本の裁判がとても長い理由とヘンテコ経済評論家のレゾンデートル
藤沢数希提供:金融日記
2011年01月16日23時26分
昨年の大晦日は、久しぶりに田原総一朗氏の朝まで生テレビを見ていました。
池田信夫氏と森永卓郎氏のやり取りはなかなか面白かったです。森永氏に限らず、論理的にも実証的にもどうにも間違ったことを平気でいう経済評論家はたくさんいます。経済評論家に限らず、政治家もそうですしテレビに出てくるコメンテーターの多くもわかる人が聞けば明らかな間違いを、なんとももっともらしくいいます。
「自給率をあげないと日本は大変なことになるので、TPPに参加するのは日本にとって大きな損失となる」
「強欲な資本主義による会社買収はけしからん」
「派遣村のような悲劇を繰り返さないために、労働者の権利を強化しないといけない」
そして良識ある識者は、そんな彼らの嘘というか欺瞞を「論破」しようとします。時に彼らはまったくものごとがわかっていない馬鹿だと罵ったりします。僕もそんなことをしていた時期もありました。それにしても、どうしてこういうことをいって改革をひたすら阻もうとする「識者」がこの国には次から次に現れるのでしょう。
その前に、話は変わりますが日本の裁判について考えてみましょう。これは日本に限ったことではないかもしれませんが、とにかく裁判というのは長い。オウム真理教の
麻原彰晃の裁判など11年も続きました。
旧国鉄が民営化して解雇された元労働組合員が起こしていた裁判も、つい最近、23年以上の歳月を経て多額の解決金によって和解になったようです。もちろん、そんな社会的な関心を呼ぶ重大な裁判ばかりではなく、離婚裁判や解雇された従業員が会社を訴える裁判なども何年も続くことが多いです。国土計画などで国の計画に不服の住人が裁判で10年も戦っているなんてよくある話です。それにしてもどうしてこんなに裁判は長いのでしょうか?
裁判官や裁判所で働いている公務員が無能で怠け者だからでしょうか? しょせんお役所仕事でまったく効率化されないからでしょうか? たしかにそういう面もあるかもしれません。しかしいくらお役所仕事が効率が悪いといっても、ビジネスの世界では2、3時間で決定できることに10年もかけたりしないでしょう。裁判が長いのは、実は明確な理由があります。それは裁判では通常どちらか片方に裁判をなるべく長引かせたいというインセンティブが存在するからです。
たとえばオウム真理教の麻原彰晃のケースを考えてみましょう。サリンという毒ガスで多数の無実の市民を殺傷した麻原は死刑が求刑されていました。この場合、裁判が10年もかかって麻原が途中で病死でもしたら、それは裁判で勝ったことと同じです。麻原の弁護士はひたすら屁理屈をこねたり被告のさまざまな権利を最大限に使って裁判の進行をとにかく遅らせることが仕事なのです。もちろん弁護士はクライアントの最善の利益にためにがんばるのが当たり前で、そうすることは正当です。
会社が従業員を解雇して、この従業員が裁判を起こしたとします。もしこの場合に会社側が給料を払わなかったら、この元従業員は判決を待たずして負けが確定でしょう。そんな裁判を継続できるほどの資力がないからです。強い方が兵糧攻めをして勝ってしまいます。だから日本の司法制度は、こういう場合は従業員側に犯罪などのよほどの解雇事由がなければ「仮の」地位保全の命令をだします。これで会社側はこの裁判しかやらない従業員に給料を満額払い続けることが確定します。これでのらりくらりと地裁、高裁、最高裁と10年も裁判を続ければ、会社は年収10年分プラス裁判費用の損失です。逆にいえば元従業員は全く働かずに毎月毎月満額給料が貰えることになります。
離婚裁判も同じで、夫から離婚してほしいといわれても10年も裁判でがんばっている奥さんもたくさんいますが、これも結局は裁判をしている間ずっとお金が振り込まれるからなのです。このように裁判というものは往々にして、片方にそれをなるべく引き伸ばすインセンティブが働くものです。もちろん資力がある方が常に勝つような司法制度も問題なので、これはこれでしょうがない面もあるとは思いますが、日本では資力がある方がとことん毟られるというのが実態でしょう。
そろそろ日本にたくさんいる「へんてこりん」な経済評論家のレゾンデートル(存在理由)がわかってきましたね。たとえば、
労働市場改革が日本経済にとって極めて重要なことは多くの「まっとうな」識者の間では意見の一致するところですが、これは要するに、大企業の終身雇用と年功序列に守れている自らの働きよりはるかに多くの賃金を受け取り解雇もできないような人たちや、同じく終身雇用と年功序列で守られている公務員の賃金を下げたり解雇できるようにして、労働市場の流動性を高めよといっているのです。そうすることによって人材が組織を移動し、適材適所になり国全体での生産性は向上するし、若年層を雇用する余裕が企業に生まれてくるでしょう。つまり雇用が流動化すると社会全体では得しますが、一方で必ず困る人たちがいて、彼らはもうすぐ満額の退職金を受け取り勝ち逃げできると思っているのです。だから彼らにしてみれば、自分が勝ち逃げできるまでの間、とにかく時間稼ぎをして改革を先延ばしにしてくれる経済評論家は何よりもありがたい。改革を阻止してくれる政治家も全力で応援したいのです。そういった経済評論家は裁判をとにかく長引かせるためにあらゆる専門知識を駆使する有能な弁護士と同じ役割を演じているのです。このように非常に切実な需要がある以上、そういった経済評論家や政治家がいなくなることは絶対にありません。だから彼らを経済が全くわかっていない馬鹿だと罵るのは全くもって間違っています。彼らは改革を先送りするという目的のために非常に聡明に自らの役割を演じているに過ぎません。こうやって考えると「日本の美しい田園風景を守りたい」「
国家の品格を思い出せ」などといった文学的な表現をもっと深く鑑賞できるようになるかもしれませんね。
参考資料
裁判のカラクリ、山口宏