赤坂太郎

菅・仙谷攻撃 小沢のカードは「大島」

露骨な人事で小沢を排除した菅・仙谷へのリベンジがねじれ国会で始まる――

「当選おめでとう。日米両国が望むように経済成長できないときに、党代表選で再選されたのは、あなたの指導力のたまものです」

 九月二十三日夕(日本時間二十四日朝)ニューヨーク市内のホテル。米大統領・オバマは、会談相手の首相・菅直人を持ち上げた。六月下旬、カナダ・トロントで二人が初会談したときの菅は目が泳いでいてぎこちなかったが、二度目は落ち着きがあった。

 会談は菅が自身の外交観について熱弁をふるい、オバマが同意する展開で進んだ。このやりとりで予定されていた四十五分間の大半を費やしてしまったが、米側の配慮で会談は一時間以上続いた。懸案の尖閣諸島での中国漁船の衝突事件や米軍普天間飛行場の移設問題の議論は深まらなかったが、会談全体をみると米国が菅を同盟国のリーダーとして認知していることがうかがえた。

 だが、その理由はオバマが菅の指導力を評価するようになったからではない。普天間問題の日米合意の見直しに言及するなど、米国にとってはやっかいな存在の民主党元幹事長・小沢一郎に代表選で勝ったことへの“ご褒美”という側面が大きかった。そのことを知ってか知らずか、菅は会談後「今回は相互理解が深まった」と上機嫌に語った。

 菅も小沢も、もともと一騎打ちは求めていなかった。代表選告示直前、前首相・鳩山由紀夫の仲介の陰で、小沢と親しく外相・前原誠司の後見人でもある京セラ名誉会長・稲盛和夫も動いた。稲盛は「企業合併は、対等より吸収の方がうまくいく。そして吸収された側の人材を活用すれば会社は安定する」という企業経営者らしい表現で「小沢は出馬せず幹事長などの要職につける」という落としどころを探ったが、菅を支える官房長官・仙谷由人らはこの条件を呑まなかった。

 後に引けなくなった小沢が出馬に踏み切った選挙戦は、熾烈(しれつ)を極めた。特に小沢陣営の運動は激しく、しかも荒っぽかった。態度を明確にしない中間派に、関係のある先輩議員が説得を試みるのは両陣営とも同じだが、両方から働き掛けを受けた若手は「小沢陣営からの話は完全な恫喝。『投票しなければポストも次の選挙の公認も保証できない』という話を繰り返された」と振り返る。この若手は結局「小沢ではなく取り巻きの体質が嫌だ」という理由で、菅に一票を投じた。

 九月十四日午後、東京港区のザ・プリンスパークタワー東京で行われた臨時党大会。代表選の議員投票の間は、異様な緊張感が支配していた。単に「どちらが勝つか」でなく「あいつはどちらに入れるか」「裏切らないだろうな」という視線が、投票箱周辺に集中していた。それぞれの書き順から「一画目を横に引いたら菅、縦に引いたら小沢」という見分け方がほとんどの議員に知れ渡っていた。態度を鮮明にしている議員は、わざと大きなジェスチャーで書き、迷っている議員は、その逆だった。

 投票結果は、菅七百二十一ポイント、小沢四百九十一ポイント。菅の完勝だった。この瞬間、四百人を超える党所属議員の大部分は、勝者・菅ではなく小沢の顔色を窺っていた。小沢が次の一手をどう打つかによって党の命運は大きく変わるからだ。目を閉じているようないつもの表情を見せた小沢は、促されて壇上に上がり笑顔で菅と握手をしたが、挨拶もなく三十秒で降壇した。会が終わって退席した小沢はトイレに入り、なかなか出てこなかった。「負けで呆然としているのか」などの囁きが漏れ始めた頃、何食わぬ顔をしてトイレから出てきて去っていった。

 その数時間後、「事件」は起きた。

 同日夜、国会にほど近い赤坂で、菅陣営と小沢陣営がそれぞれ若手中心の祝勝会と残念会を開いた。終了後、両グループが路上で鉢合わせになった。そこで小沢支持の一回生議員が菅支持の議員を見つけ「おい、勝ち組。お前らとは、今後口をきくことはできん」などと悪態をついたのだ。菅の言う「約束通りノーサイド」にはほど遠いことを印象づける後味の悪いシーンだった。

■リベンジを誓った「負け組」

 その後に行われた党役員・閣僚人事は、絵に描いたような脱小沢人事だった。二十一日の副大臣・政務官人事で多少バランスをとったが、参院選敗北の戦犯だったはずの前幹事長・枝野幸男も幹事長代理として執行部に残った。今後の政権運営は代表選の勝ち組だけで決めていくと意思表示したようなものだ。

 人事は仙谷が全権を掌握。民間から総務相になった片山善博は、テレビなどで小沢に批判的なコメントを繰り返していたことなどが決め手になり、仙谷が入閣を進言した。仙谷は当選回数、実績などに基づいて閣僚候補の序列名簿を独自につくり、それをもとに閣僚、副大臣などの名簿を埋めていった。結果として一九九〇年初当選の仙谷の同期が計七人も入閣した。これも小沢側には「仙谷の公私混同人事」と映った。

 二十一日夜、東京・銀座の土佐料理屋「祢保希(ねぼけ)」に十人の「負け組」が集まった。参院議員会長・輿石東、先の参院選で引退した前筆頭副幹事長・高嶋良充、前官房長官・平野博文、そして高嶋が「七人の侍」と名付けた前国対委員長・樽床伸二ら中堅議員だ。

「菅の改革は、家の修理のようなもの。この程度なら(元首相の)小泉純一郎でもできた」

「小沢さんの改革は古い家を壊して新しい家を造ること。織田信長の革命だ」

 酒が入るにつれて話の内容が過激になっていき、最後は「今回の代表選は天下取りの序章だ」とリベンジを誓った。

 翌二十二日夜には小沢、鳩山、輿石が都内の日本料理屋に集まった。輿石が前夜の会合の内容などを紹介すると、小沢は、勇ましい「仲間」たちの言動に目を細めたという。小沢は「仲間」という言葉を、代表選で自分に投票した二百人のことを指して使う。三人の会合でも「仲間」の大切さを何度も力説した。

 この夜は鳩山が激しい菅批判を繰り広げた。菅が小沢と輿石に代表代行就任を打診したことについて「代行なのになぜ二人なのか。最初から断ることを見越しての打診だったのだろう」と語気を荒らげた。小沢は黙って笑っていたが、三人は今後、菅からどんなポストを示されても受けないことを申し合わせた。「反主流派宣言」だ。

 今後、小沢は二百人の「仲間」を最大限利用して手を打ってくる。そして菅以下、執行部もその小沢の手を読みながら動き始めている。

 今後の「ねじれ国会」での政局を読み解くヒントは、九日に断行された自民党の役員人事の中にある。自民党の新役員は二層構造だ。総裁・谷垣禎一と谷垣が「ポスト谷垣候補」と指名した幹事長・石原伸晃、政調会長・石破茂、総務会長・小池百合子という五十代トリオが表の顔。そして幹事長から副総裁に横滑りした大島理森が裏の顔だ。

 今、仙谷や幹事長・岡田克也らは、一九九八年秋の「金融国会」をモデルにした国会運営を考えている。この時もねじれ国会だったが自民党が野党・民主党案を丸呑みし、金融危機は回避された。

 石原は金融国会の現場で奔走した元祖政策新人類。民主党側のカウンターパートは仙谷や枝野だった。政調会長代理として仙谷らに指示したのが岡田だ。さらに言えば仙谷は谷垣と東大法学部の同期生で隣のクラスだった。仙谷らはこのパイプを利用して、自民党との連携を働きかけていくことになる。「政界工作は小沢」という従来の定説を覆すためにも、小沢色を徹底排除して自民党らとの協議に臨む。石破と小池が、かつて小沢と政治行動を共にし、その後袂(たもと)を分かった「反小沢」であることも都合がいい。

 部分連合というと、みんなの党や公明党が対象という印象が強いが、民主、自民両党が「九八年の同窓会」のような顔触れになってから二大政党の話し合いを重視する機運が出始めている。

■ねじれ国会のねじれた構図

 一方、小沢の視界には大島がいる。小沢にとってねじれ国会での成功例は、金融国会ではない。一九八九年の参院選で自民党が参院過半数割れした後の国会対応だ。自民党幹事長だった小沢は公明党や民社党と連携して苦境を乗り切った自負がある。そして大島は政府側の窓口の官房副長官だった。当時は小沢が連日大島をしかりつけていたが、その時の信頼関係は、今も残る。

 八月のある日。小沢と大島は偶然顔を合わせた。大島が「小沢先生の教え通りに参院選を戦ったら、勝つことができました」と声をかけると、小沢は「そうだよなあ」と相好を崩した。脱小沢路線で参院選を負けた枝野らを腹立たしく思っている小沢にとって「小沢流で勝った」という話は痛快だった。

 大島は小沢側近を自認する民主党副代表・山岡賢次とのホットラインがある。今も携帯電話で連絡を取り合う。例えば代表選の前にはこんな調子だった。

「(小沢は代表選に)出るのか」

「出る」

「勝てるのか」

「勝つ。国会議員票では間違いなく四十人以上の差で圧勝だ」

「ホントか」

「俺がうそをついたことがあるかい」

 二人は長い間、国対委員長として連日のように会っていた。だましたことも、だまされたこともあったが気脈は通じている。このパイプは小沢にも、そして大島にも貴重な武器となる。副総裁というポストは「棚上げ」と受け止められることが多いが、かつて金丸信がこのポストに就いた時は、文字通り最高権力者だった。大島は老けてみえるが六十四歳。まだ枯れてはいない。

 十月一日に召集された臨時国会で大島は執行部に「尖閣諸島の問題、政治とカネ、徹底的に民主党を攻撃しろ」と発破をかけている。小沢が新党をつくるにせよ、党内で復権を窺うにせよ、まずは菅執行部を弱体化させる必要がある。大島の戦術は、小沢にも異存はない。

 仙谷らが十二年前の「ねじれ」の人脈を使って政権を安定させようとし、小沢は二十年前の「ねじれ」の人脈で政権を揺さぶろうとする。仙谷・谷垣VS小沢・大島という「ねじれた構図」である。

 秋以降の政局では他の野党の存在も重要になる。菅は九月二十六日、公明党の支持母体・創価学会の名誉会長・池田大作が設立した東京富士美術館を見学。美術館に連絡が入ったのは当日という“電撃訪問”は公明党支持者たちへの秋波と受け止めるのが自然だろう。みんなの党は参院での議席数「11」を背景に政局の主導権を握ろうとしている。たちあがれ日本はもともと政界再編を目指して結党された。小沢と親しい共同代表の与謝野馨らは政局の混乱を好機とみて様々な仕掛けをしてくるだろう。ただ、これらの合従連衡は民主党内の二大勢力の主導権争い、言い換えれば小沢VS仙谷の最終戦争の行方によって大きく変わる。

 小沢は党を割るか。代表選が終わった十四日、若手議員から「二百人で新党ですか」と聞かれた小沢は「危険思想だな」と笑って逃げた。離党を決めてはいないが、排除もしないというのが正確なところだろう。ただ、はっきり言えることは「小選挙区制が定着した現在は本格的な新党結成は難しい」という俗説は、小沢に限っては当たらないということだ。

 今、民主党衆院議員の中には「げたの下」といわれる議員がいる。小選挙区で負けて比例復活した議員よりも、さらに順位の低い議員たちだ。彼らは、圧勝した昨年の衆院選ではバッジをつけたが次に公認されて当選する可能性は低い。それなら「小沢新党」で小沢個人票の恩恵を受けて当選を狙う方が合理的だ。こうした新党待望組は党内で二十人程度いると言われる。「小沢私党」的色彩の強かった自由党の実績から計算すると小沢個人票で二十程度の比例議席を獲得可能だ。これにコアな小沢側近たちを加えれば五十人規模の塊ができる。二百人の「仲間」からは相当目減りするが再編の核を目指すには十分な数だ。

 菅を支える財務相・野田佳彦、政調会長・玄葉光一郎、枝野ら「七奉行」も、小沢が党を出ることをむしろ歓迎している。関係修復は不可能と見切っているのに加え、小沢がいない方が野党との連携協議がやりやすいという判断もある。

「出て壊し 戻って壊す 小沢流」

 この川柳は、九八年十一月、小沢自由党が自民党と連立を組むことが決まったときに菅が詠んだものだ。

 十二年前も今も菅の肩書は民主党代表だ。ただ十二年前は、小沢の「壊し屋」ぶりを傍観できたが、今回は自分の命運にも直結する。 (文中敬称略)


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