現在位置:
  1. asahi.com
  2. ニュース
  3. 社会
  4. その他・話題
  5. 記事

「震災の日、私の心に感謝の種」遺族代表が追悼のことば(1/2ページ)

2011年1月17日12時23分

印刷印刷用画面を開く

Check

このエントリーをはてなブックマークに追加 Yahoo!ブックマークに登録 このエントリをdel.icio.usに登録 このエントリをlivedoorクリップに登録 このエントリをBuzzurlに登録

写真:追悼のことばを述べる遺族代表の小河昌江さん=17日午前6時2分、神戸市中央区、竹花徹朗撮影追悼のことばを述べる遺族代表の小河昌江さん=17日午前6時2分、神戸市中央区、竹花徹朗撮影

 神戸市中央区であった、市と市民団体による「1・17のつどい」で、遺族代表の小河昌江さんが話した「追悼のことば」は、次の通り。

     ◇

 「感謝」には「種」があると思います。誰かに感謝の気持ちを持った時、自分の心には感謝の種がまかれ、その種はやがて育ち、花を咲かせ、実がなり、そしてまた種を作り、その種は違う誰かの心にまかれ、また花を咲かせていくのだと思います。

 私は、阪神・淡路大震災で母をなくしました。すぐにかけつけた時、2階建てのアパートは見るかげもなく、がれきと土の小高い丘のようでした。道具も知恵も勇気もなく、立ちつくす私の前に現れたのは、近くの工務店の寮に住む若い男の人たちでした。

 彼らは、まだまだひどい余震が続く危険な状態の中、がれきをかき分け、生き埋めになっているアパートの住人を次々に救い出してくれました。

 でも、母はなかなか見つかりません。彼らは余震の合間をぬって、何度もアパートの1階にもぐり、とうとう母をみつけてくれました。

 「お母さん、お母さん」、呼んでも母は答えません。でも、握った母の手はまだ温かい気もして、私は「大丈夫。大丈夫」と自分に言い聞かせ、母に迫ろうとしている死の気配をどこかへ押しやろうとしました。

 救急車も呼べるはずがない状況の中、私と母は1台の乗用車に案内されました。助けて下さった工務店の方の車です。彼は、私と母を乗せ病院へ向かい、付き添ってくれました。

 病院は人であふれかえり、医師たちは足早に廊下を往復し、やがてぽつんと廊下に立ちつくす私のそばで1人の医師が立ち止まり、母の手を取り、一言「何時何分」とだけ看護婦さんに告げ、また足早に去って行きました。

 私は、その時はじめて母の死を現実としてつきつけられ、涙が一気に溢(あふ)れ出しました。

前ページ

  1. 1
  2. 2

次ページ

関連トピックス

PR情報
検索フォーム

おすすめリンク

猫の駅長で知られる和歌山電鉄貴志川線。「猫の手」も借りて地域の足を守った地元の取り組み。

第一線の論客と朝日新聞の専門記者が、「タイムリーで分かりやすい解説」を提供。

人口220万都市で前例のないリコール運動。名古屋市政の混迷を招いたのは誰なのか?


朝日新聞購読のご案内
新聞購読のご案内 事業・サービス紹介