2011年1月17日12時23分
追悼のことばを述べる遺族代表の小河昌江さん=17日午前6時2分、神戸市中央区、竹花徹朗撮影
神戸市中央区であった、市と市民団体による「1・17のつどい」で、遺族代表の小河昌江さんが話した「追悼のことば」は、次の通り。
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「感謝」には「種」があると思います。誰かに感謝の気持ちを持った時、自分の心には感謝の種がまかれ、その種はやがて育ち、花を咲かせ、実がなり、そしてまた種を作り、その種は違う誰かの心にまかれ、また花を咲かせていくのだと思います。
私は、阪神・淡路大震災で母をなくしました。すぐにかけつけた時、2階建てのアパートは見るかげもなく、がれきと土の小高い丘のようでした。道具も知恵も勇気もなく、立ちつくす私の前に現れたのは、近くの工務店の寮に住む若い男の人たちでした。
彼らは、まだまだひどい余震が続く危険な状態の中、がれきをかき分け、生き埋めになっているアパートの住人を次々に救い出してくれました。
でも、母はなかなか見つかりません。彼らは余震の合間をぬって、何度もアパートの1階にもぐり、とうとう母をみつけてくれました。
「お母さん、お母さん」、呼んでも母は答えません。でも、握った母の手はまだ温かい気もして、私は「大丈夫。大丈夫」と自分に言い聞かせ、母に迫ろうとしている死の気配をどこかへ押しやろうとしました。
救急車も呼べるはずがない状況の中、私と母は1台の乗用車に案内されました。助けて下さった工務店の方の車です。彼は、私と母を乗せ病院へ向かい、付き添ってくれました。
病院は人であふれかえり、医師たちは足早に廊下を往復し、やがてぽつんと廊下に立ちつくす私のそばで1人の医師が立ち止まり、母の手を取り、一言「何時何分」とだけ看護婦さんに告げ、また足早に去って行きました。
私は、その時はじめて母の死を現実としてつきつけられ、涙が一気に溢(あふ)れ出しました。