380番昭三豊春
【小和田氏系図1】
【始祖】小和田大夫清國
【世系】小和田氏は孝徳天皇の御孫、但馬國造日下部表米の苗裔に出づ。
絲井和泉貫主日下部清秀の四男清國が小和田を称す。
【歴史】村上藩内藤氏の足軽にこの氏あり。小和田新六は、天明7年(1787)内藤信敦侯の時、
柔術(制剛流)の達人たるに依って、初めて召抱へられるといふ。
【異説】一説に小和田金吉は小和田道蔵匡利の三男と伝えるも年代齟齬して審かならず、
仮に小和田兵五郎の三男の系に継ぐ。おそらくは別流ならん歟。推定系譜2も参考に挙ぐ。
∴小和田大夫
(1)清國( - )
|
:
|小和田貞左衛門
(1) 某 ( - )
| 天明7年(1787)初而被 召抱之
+――――――――+――――――――+
|小和田新九郎 |小和田新六 |小和田道助
(2) 某 ( - ) 匡安( -1825) 匡春(1795-1858)
|下横目2人扶持3両|内藤家足軽
| +――――――――+
|小和田郡蔵 |小和田勝治 |小和田兵五郎(道助)
(3) 某 ( -1853) 某 ( - ) 某 ( -1871)
| |同心組 墓本悟寺(新潟県村上市細工町)
| +――――――――+―――(?)‥‥‥+
|小和田 |小和田道蔵 |小和田 |小和田金吉 本籍新潟縣越後國岩船郡村上本町
(4) 某 ( - ) 匡利( -1874) 某 ( - ) 金吉(1867-1900) (現 新潟県村上市飯野)
| 郡方懸 禄3石 墓西眞寺(村上市寺町) |税務署勤務 墓泉性寺(新潟県新潟市)
| +――――――――+――――――――+――――――――+
|小和田 |小和田 |小和田 |小和田 |小和田
(5) 某 ( - ) 某 ( - ) 毅夫(1898-1993) 某 ( - ) 某 ( - )
| |中学校校長
| +――――――――+――――――――+――――――――+――――――――+――――――――+――――――――+――――――――+
|小和田 |小和田 |小和田 |鎌田 |小和田 |小和田 | | |
(6) 某 ( - ) 顕 ( - ) 恒 (1932- ) 隆 ( - ) 紘 ( - ) 亮 ( - ) 女子( - ) 女子( - ) 女子( - )
| 専修大学教授 |国際司法裁判所判事
+――――――――+ +――――――――+――――――――+
|小和田 |小和田 | | |
(7) 男子( - ) 男子( - ) 女子( - ) 女子( - ) 女子( - )
↓
嘉永5年(1852)内藤信親が、羽黒神社の神輿を三基寄進した時の様子書いた、江見清斎の日誌には、「一、正月廿七日 今般
町郷中より献金之内を以て、萬民安全之為、神輿御新調可在之旨、取次役小和田道助より被相達候事」とあり、
また「一、五月廿九日 昼八ツ時、神輿為御見分。家老内藤邦衛殿大目付元〆兼重野兵馬殿御奉行ニ而普請奉行引請奉行殿
知久式蔵、大草友男殿、大納戸浅羽五郎太夫殿、右何レモ袴羽折若党壱人、草履取 壱人ツツ、御作事懸り立合安田勇兵衛殿、
大工頭小田作兵衛、縄竹豊瀬安右衛門、小奉行伊久美金平、御吟味懸り立合佐藤右平治、定役宗田慶助、手附斎藤弥茂平、
取次役小和田道助、右之方々也」、「神輿清祓ニ付、初穂入用料トシテ白銀弐枚代金壱両弐分 、右倅差出、
小和田道助ヨリ被相渡請取候也」、「一、六月四日、清祓入用代銭廿三貫十八文、但シ払口九軒分、売揚ケ差遣、
織衛差出、小和田道助ヨリ受取候」とある。
『内藤信敦分限帳(1787)』
『村上藩武術史』
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