哲学、心理、経済あれこれ

 2004/09/15  ヤンキーの彼女は何故かわいいのか?


マインドコントロールにはいろいろな手段があります。人を操ることが上手な人が無意識に行っているものとしては、「認知的不協和低減の法則」がよく知られています。例えば、僕が50人に心理学の実験の被験者を頼むとします。50人を一日中拘束して実験につきあわせ、半分の25人には報酬を与え、残りの半分には何も与えずに帰します。1、2週間後彼らにアンケートをとると不思議な結果になります。報酬をもらった被験者より、報酬をもらわなかった被験者のほうが実験を高く評価し、実験者にも好意的であることが確認さるそうです。
 「一日中拘束された」が、「報酬をもらった」ならば、被験者の心に「不協和」は起こりません。しかし、「一日中拘束された」にもかかわらず「報酬をもらわなかった」ことは被験者の心の中で「不協和」となる。「不協和」の状態は人間にとってつらい。そこで、何らかの形で「協和」になるようにするのです。例えば「一日中拘束された」と「報酬はもらわなかった」という「不協和」を解決するために、人間は無意識のうちに「実験が価値あるものだから報酬をもらわなくてもよかった」とか、「実験者を好きだから報酬をもらわなくてもよかった」という風に、自分の心を変化させていくのです。事実は変化させられないので、心の方を変化させて「協和」を生み出していく。人間は、好きだからその人に何かしてあげるのではなく、何かしてあげるからその人を好きになる側面を持っています。
 「ヒモ」と呼ばれるような女性に甘える男性は「認知的不協和低減の法則」をうまく利用しています。男性にに甘えられた女性が断りきれずに何かしてあげるとします。しかし、好きでもないのに何かしてあげるのはおかしい。ここで女性の心に「不協和」が生まれる。この「不協和」を解決するために、「この人が好きなのだ」と気持ちが変わっていくのです。
 もちろん、断られてしまってはだめです。「その男性を断った」という事実が、その男性をますます嫌いにさせる。断られない程度の相手に何かさせて、そのハードルを徐々に高くしていくのがマインドコントロールです。昔、「つり橋の法則」と呼ばれていたのも同じです。好きでもない男性と一緒につり橋を渡っているとき、つり橋が揺れて男性にしがみつけば、「好きでもない」と「しがみついた」の不協和を解決する方向で気持ちが変化する。つり橋に行かなくても、例えば、最初から映画に誘えば女性は警戒する。席は近いし映画館は暗い。そもそも映画はカップルで行くものという固定観念がある。そこで、まずは友人と一緒にランチに誘うのです。それから、映画→遊園地のジェットコースター→二人だけで観覧車と進みます。(笑)
 渋谷や新宿を歩いていると、「ちょっといいですか?」と声をかけてくる輩がいます。もちろん、立ち止まった時点で彼らのマインドコントロールに引っかかっています。「かかわりたくない」気持ちと「立ち止まってしまった」事実は明らかに「不協和」ですが事実は変えられませんので、「かかわりたくない」とか「何も買いたくない」という気持ちが低減していくのです。「ヤンキーがいい女を連れている」のも「ヤクザの論理が通りやすい」のも全て同じ原理です。
 彼らの道理がどんなにおかしくても怖いからなんとなく「断れない」。「おかしければ断らなければならない」という信念との間に「不協和」が起きる。この「不協和」を解決するために、「彼の言っていることは一面の真理ではないか?」と自分を納得させようとする人が多いのです。家庭内暴力が消滅しにくいのも、ヤクザ的リーダーは皆から嫌われているどころか、皆が進んで彼に協力しようとするのもこれで説明できます。
 2004/09/15  007は何故プレーボーイなのか?


エディプス・コンプレックスを乗り越えることができなければ、人間は真の「成長」を遂げることができない。これは、一面の真理です。たしかに文学作品や映画、漫画等様々なジャンルで、エディプス的葛藤の超克が取り上げられ、人間の「成長」が表現されています。しかし私たちは、葛藤を乗り越えられない人(または、乗り越えようとしない人)が、常人には存在しない魅力を持っていることも忘れてはいけません。
 『007』シリーズは『ハリー・ポッター』と多くの共通点を持ちながら、主人公のジェームズ・ボンドが「成長」しない点で、むしろ正反対の作品だとも考えられます。ボンドは典型的な「永遠の少年」です。ハリー・ポッターと同じく孤児として育った彼は、恐らくは母親に対する強い飢餓的愛情を持ち、これを乗り越えることができません。それゆえいくつになっても危険を好み、女性を次々にかえていきます。
 ちなみに、ハリーとボンドの最大の違いはどこにあるのでしょうか?理想とする父親像の存在です。ボンドの両親は登山中の事故で他界したことになっていますが、ハリーの両親は「悪い」魔法使いヴァルデモードとの戦いで他界しています。子供が同一化の対象とすることのできる、ゆるぎない正義感をもった父親が存在しているのです。ハリーは父親と同じ学校での寮生活を通して、その生き方を知り、父親のような選手になりたいという願望を初めとして、父親との同一化を成功させ、善悪を身につけていきます。
 さて、ボンドは映画の中で一度だけ結婚しています。第4作目の『女王陛下の007』です。俳優がそれまでのショーン・コネリーからジョージ・レーゼンビーに変わって真面目な人になった。ところが、この作品は空前の大失敗。これまでで最低の観客動員数を記録します。俳優のせいだと考えた製作者はショーン・コネリーに頼み込んで再登板させていますが、はたして俳優のせいだけなのでしょうか?結婚するようなボンドには人間の深層に働きかける魅力がなかったのかもしれませんね。
 90年代に日本で大ブームを惹き起こしたアニメ『エヴァンゲリオン』はもっと確信犯的です。このアニメでは主人公のシンジ少年はほぼ毎回「お父さんなんて大嫌いだ」と吼えまくる。ストーリーもエディプス的葛藤そのままで、死んだ母の魂が宿るエヴァンゲリオンというロボット(?)に乗りこんで敵と戦うわけですが、お母さんとの(正しくはエヴァンゲリオンとの)「シンクロ率」というものがあって、これが高いと戦闘能力が上がる。お母さんとどれだけ一体化するかが重要となるのです。
 シンジ少年がエヴァンゲリオンに乗り込むとご丁寧にコックピットが液体で満たされるというのも母親への胎内回帰願望を表していますね。しかも、母親の死んだ理由が父親にあるらしく、よってシンジ少年のいつもの発言「お父さんなんて大嫌いだ」となります。全身丸ごとエディプス・コンプレックスです。
 また、シンジ少年の前には彼を魅惑する美少年も登場します。エディプス・コンプレックスを乗り越えられない人間の愛する女性は母親だけです。それゆえ、多くは他の女性を真に愛することができないカサノバ症候群となりますが、社会的抑圧を感じない人は、同じ理由から、男性を愛するようになると考えられています。
 『ハリー・ポッター』でも、第三巻でハリーが最も大事にしているのは、ハーマイオニーではなくてロン少年であることが告白されています。
 2004/09/15  スターウォーズは何故ヒットするのか?


 人を感動させる物語(ヒットする映画、漫画などジャンルを問わず)には、深層的な意味が隠されています。そして、その中でもエディプス・コンプレックスをテーマにしたものが多い。いろいろな理由でエディプス的葛藤を乗り越えられない人達が多く、彼らはそうした物語を熱狂的に支持するからです。もちろん、うまく乗り越えられた人にとっても、(フロイトいわく)人間にとって最も重要なテーマは「成長」であり、その契機となるエディプス的葛藤が最重要テーマとなるのは理解できます。
 『スター・ウォーズ』という映画をご存知ですか?この映画は9部作という壮大な計画で(現在は6部作になるか、9部作になるか微妙とのこと)最初に公開されたのは第4部にあたる部分でした。続いて第5部、(『帝国の逆襲』)、第6部(『ジュダイの…』と制作されてから、今度は時代をさかのぼって、第1部(『エピソード1』)、第2部…となかなか複雑な構成で進んでいます。
 『スター・ウォーズ』は第一作目(第4部)から全世界で熱狂的な人気を集め続けています。なぜなら、一見絵空事に見える宇宙戦争の深層に、人間の真実(=エディプス的葛藤)が描かれているからです。簡単に第4部〜第6部までの筋をお話しましょう。
 第一作目(第4部)からこの映画は奇妙な結末を迎えます。なんと、(1)主人公のルーク・スカイウォーカーは愛するレーア姫と結ばれない(笑)。これはSF映画としてはかなり斬新な終わり方です。映画がヒットしなければ続編は作られないでしょうから、主人公は宙ぶらりんなままです。それどころか続編ではレーア姫は主人公の友人(この映画で一気にスターになったハリソン・フォード)に惹かれ始め、第6部でついに二人は結婚してしまう。しかし、物語では意外な真実が明らかになる。(2)実は愛するレーア姫は自分の双子の兄妹だったことが判明するのです。さらに、(3)主人公は最初の師を殺したダース・ベーダー卿との対決のために、ヨーダという師匠のもとで修行するのですが、(4)その憎むべきダース・ベーダ卿は実は自分の父だった…。
 帝国と共和国との戦争などの表面的なことは一切無視しました(笑)。(1)はもちろんエディプス的葛藤の象徴である三角関係を描いています。(2)は(本来は母親との)近親相姦的欲望の変形ですね。(3)は同一化するべき父親像を求め続ける姿を表します。同一化するべき理想的な父親像が存在しないために、主人公は代理の父親を探しているのです。師弟関係は何より重視され、女性との恋愛はご法度です。そもそもヨーダのモデルとなったのは「ヨダさん」という日本人男性で、『スター・ウォーズ』製作者のジョージ・ルーカスが父親のように慕った南カリフォルニア大学の先生でした。
 (4)は最も重要。『スター・ウォーズ』はエディプス神話の再来ですね。母との近親相姦的愛情に邪魔な存在である父親を亡き者にしようという父親憎悪です。『スター・ウォーズ』は結局、息子と父親との戦いなのです。ルーカス自身も、「自分は父への強い憎悪を持っている」と認めています。もちろん、この映画は単にルーカス個人的深層の投影された映画ではありません。そのテーマが誰もが心の奥底に持つ、エディプス的葛藤であるからこそ、普遍的な人間の心情の投影になっているのです。また、最終的に主人公のルーク・スカイウォーカーが、父親(ダース・ベーダー)への憎悪を解消することで、真の成長を遂げるという結末も、この作品を価値あるものにしているのでしょう。
 2004/08/21  星の王子様の深層


人間の成長には母親への愛情あきらめて、父親との同一化を成し遂げることが必要です。さて、それがうまくいかないとどうなるのでしょうか? 例えば、両親が不仲であったり、同一化するべき父親像が欠けていたり、母親が息子を溺愛していたりした場合です。フロイトはこのような場合、子供は母親への愛情をあきらめられずに、他の女性を本当に愛することができなくなると考えました。
 『星の王子様』という小説をご存知ですか?やはり「蛇」で始まって「蛇」で終わる物語です。主人公は子供時代に、ウワバミ(=大蛇)が象を飲み込んだ絵をみなに見せては、「これは何に見える?」と聞きます。でも、絵が下手で(?)みなは「帽子」と答える(笑)。成長してパイロットになった彼は砂漠に不時着して、星の王子様に会う。そして、誰も理解してくれなかった絵を彼だけが「蛇」であると見抜いて無二の親友になるのです。
「象」というのは、大きな動物の象徴です。つまり、人間が大きくなって大人になった状態を表します。その「象」を「蛇」が飲み込むということは、どんなに大人になっても、母親の支配的な愛情から逃れることができないことを表しているのです。
 そして、王子様も最後は蛇にかまれて死んでいきます。だからこの話は最初から最後まで母親に飲み込まれている。そして、この危険(エディプス・コンプレックスを乗り越えられない危険)は誰にでもあるがゆえに、この作品も多くの読者に受け入れられるですね。
 ユングの高弟フランツ博士は、『星の王子様』のこのような深層を見抜き、母親との強い絆を持ち続ける人間を「永遠の少年」と呼びました。フランツ博士によれば、彼らに共通する特徴は、「地に足をつけて歩く」ことを嫌い、「サラリーマン」のような安定した職、「9時から5時まで」というように拘束されることを嫌うことだとしました。彼らは芸術家にあこがれたり、危険で冒険的なことが大好きです。また、多くの場合付き合っている女性に対し、「自分の求めていたのはこの人ではなかった」とすぐに不満を持ち、次から次へと女性を変えていきます(カサノバ症候群)。また、「本当に愛する女性は母親だけ」なので、同性愛的傾向を持つこともあります。
 実際、『星の王子様』の作者、サン・テグジュペリは、次から次へと年上の女性とつきあったあげく、20歳以上も年上の女性と結婚しましたが、すぐに破局。彼の本職は『星の王子様』の主人公と同じく、地に足をつけて歩かないパイロットです。危険を好み、第一次世界大戦の交戦空域を飛んで帰らぬ人となっています。つまり、彼こそ典型的な「永遠の少年」でした。この作者の姿をそのまま投影したのが『星の王子様』のパイロットであり、王子様なのです。
  「永遠の少年」という言葉は、フロイトの(元)弟子だったユングの、さらに弟子のフランツ博士の言葉ですが、同じフロイト派のエリクソンの「モラトリアム」という言葉とつながっています。小此木啓吾は「アイデンティティ」という語とともに「モラトリアム人間」という語を広く普及させました。「モラトリアム人間」とは例えば「私は〜であり、〜として誇りを持って生きていく」という「アイデンティティ」をいつになっても形成できず、「夢を追いかける」フリーターが蔓延するという、現代の病を表す言葉です。
 2004/08/21  ハリー・ポッターはなぜ蛇語を話すのか?


『ハリー・ポッター』第一巻で、ハリーは蛇と話します。「そりゃ魔法使いだから蛇とだって話せるだろうさ」と、気にも留めない人も多いでしょう。ハリー自身も、「魔法使いなら蛇と話せて当然」と思い込んでいました。でも実は違ったのです。蛇と話すことができるのは、ハリー自身が最も憎むヴァルデモードのようなごく限られた悪い魔法使いだけ。だから第二巻で、蛇語が話せるという理由からハリーは仲間はずれにされてしまいます。
 そうです。悪い魔法使いをたくさん輩出したスリザリン寮の寮章も蛇がモチーフでした。ハリーは組み分け帽子(新入生が入る寮を決めてくれる帽子)が、当初ハリーをスリザリン寮に入れようとしていたことを思い出して、さらに悩みます。『ハリー・ポッター』では「蛇」のモチーフがこのように重要なシーンで登場します。さて、「蛇」は何を象徴しているのでしょうか?
 精神分析で「蛇」は「強い女性」、「母」の象徴です。(ギリシャ神話に出てくる怖い女性メドゥサは、髪の毛が蛇でできていて、見るものを全て石に変えてしまう。大蛇の姿を見たものが石にされるエピソードは『ハリー・ポッター』にも出てきますね。)だから、例えば「蛇」にかまれた、なんて夢を見ようものなら、(日本では「お!縁起がいいねぇ。」なんてことになるかもですが、)精神分析家には「母親の支配的な愛情に飲み込まれている」と言われるかもしれません。
 ハリーはもちろん母親の愛情に飲み込まれているわけではありませんが、額のイナズマ形の傷で母親と強く結ばれています。母親が自分の命を犠牲にして、息子を守るためにかけた魔法の跡がイナズマの傷なのです。こういったテーマは文学作品で最も魅力的なテーマで、人びとの心を惹きつけてやみません。
 精神分析家フロイト(フロイト自身は決して自分のことを精神分析家とは考えていませんでしたが・・)は、その初期の研究で、「エディプス・コンプレックス」が人間の成長に決定的な影響を与えると考えました。(エディプスとは父を殺し、母と結婚したギリシャ神話の登場人物の名です。)子供は母を愛します。しかし、母には父という男がいる。子供→母親→父親という三角関係ですね。この三角関係に悩むことがエディプス・コンプレックスです。子供は父に対する嫉妬から父を憎むようになる。人間の恋愛というのはこのように原初は三角関係で、夏目漱石の主要な作品のほとんどが三角関係を描いたのものであるのも、そこに理由があるという説が有力です。そしてこの三角関係を乗り越えていくことに人間の真の成長があるのです。
 武者小路実篤の『友情』では、三角関係をあきらめた主人公が力強く成長していきますね。フロイトは、このあきらめは「父との同化」によって可能になると考えました。母の愛する父を、自分の中に取り込むことで納得するわけです。そして、自分に対して世界のルール、善悪を外から押し付けてくる父を自分の中に取り入れるということは、善悪を自分で判断できるようになるということです。ハリーも、父のような、命がけで正義と誇りを守る魔法使いになろうと努力することで、立派な青年へと成長します。ローリングが言うように、『ハリー・ポッター』は真の成長物語なのです。
 2003/07/13  劣等感コンプレックス



 生徒さんにはいつも「偏差値なんて気にするな」と言っています。そんなことを言うと「偏差値を上げにここに来ています!」と、お叱りを受けそうですね。でも、他人と比べるとか、「一番を目指す!」という考え方は決して人を幸せにはしません。
 アドラーという心理学者がいます。彼は子供時代に虚弱体質や「くる病」に悩まされました。そして、ものすごく努力して医者(眼科医)になるのですが、後にフロイトに師事、精神分析家に転身した人です。
 彼は自分の過去を振り返って、異常に努力する人間は強い劣等感を持つ人ではないか?と考えました。顔が醜かったり、身体に障害があったり、背が低かったりといった劣等な部分の補償(心理学の用語で、バランスをとること)のために人は努力する。しかし、この努力は過補償といって、途方もないものになることが多い。そして、ここが大事なのですが、そんな努力が人を幸せにするはずがありません。
 まず彼は「劣等感は必ず優越感を混入させているのだ」と見抜きました。コンプレックスという言葉がありますね。これを劣等感のことだと誤解している人が多いのですが、「コンプレックス」には本来、劣等感という意味はありません。「コンプレックス」とは複合体のことです。色々な心理コンプレックスの中で「劣等感コンプレックス」だけがあまりに有名なので、「劣等感コンプレックス」のことを日本人が勝手にコンプレックスと呼んでいるのです。
 では「劣等感コンプレックス」とは何と何の複合体でしょう?劣等感と、その反対の優越感との複合体なのです。そして、この矛盾した二つの心理を同時に持つことが人を苦しめるのです。
 劣等感だけでは人は苦しみません。例えば僕が生徒さんに英語で負けたとする。僕は今晩悩んで眠れなくなるか?それどころか爆睡ですよ。僕は英語の講師ではないので、生徒さんよりできなくてもこれっぽちも気になりません。では、国語で負けたら?もちろん爆睡です(笑)。じゃなくて、悩みますねそりゃ。何故か?国語だけは自分が誰よりもできると思っているからです。つまり、劣等であることに苦しむ人とは、実は見えないところで自分は上なのだという優越感を持っている人、えらそうな奴なのです。もっと簡単に言えば、自分が人より上だとか下だとか、そんなどうでもいいことを大事にしているようなつまらない人間だから、劣等感コンプレックスに苦しめられるのです。劣等感に苦しんでいる人に同情する必要はありません。
 さてさて、具体的に有名人に登場してもらいましょう。豊臣秀吉と、ヒトラーです。おそろしく共通点のある二人ですね。まず、顔がブサイクです(笑)。背が低く、身分も低い。劣等感のかたまりだからこそ世界征服を企だてるのです。世界征服を企むということは、自分が誰よりも一番上になりたいという欲望のあらわれです。それは彼らの強い劣等感の裏返しなのです。例えば秀吉は手が奇形だったというかなり確かな説もあります(宣教師の謁見の文書。)もちろん身分はそのへんの人で、田舎者でセンスも悪い。まぁ、劣等感のかたまりになるのも無理はないか・・。
 『秀吉と利休』という野上弥生子の小説があります。寵愛していた利休に、秀吉はなぜ切腹を申し渡したのかをテーマにしている小説です。さっきから言っているように秀吉は劣等感のかたまりです。それに対して利休は背が高く(利休は身長180センチ以上)、センスもよく、生まれもいい。そんな利休ですら自分の下(部下)であることで、秀吉は大変な優越を感じることができ、自分の劣等感も忘れられたのです。それゆえ、利休が自分から離れようとすることで、寵愛は一転、憎悪へと変わって行く。利休の離反は秀吉に、自分の劣等感を突きつけるものとなるからですね。小説ではこのへんの心理描写も秀逸です。是非読んでみて下さい。
 ヒトラーも同じですね。よく「ヒトラーの絵がもう少しまともだったら、世界は変わっていた」と言われます。絵が下手なのにヒトラーは画家を目指していたのです。彼は美大に落ちて、政治家になりました。最初から挫折しているのです。顔や身長にも大変な劣等感を持っていたようで、ナチスが唱えるアーリア民族の優越性というところには「身長が高い」というのが必ず入っています。「自分はどうやねん!」と思わず突っ込みを入れたくなりますよね。
 しかし、そんな二人だからこそ、恐ろしく努力します。劣等感を覆い隠すために、他の部分では人より優越であろうとするからです。(これを心理学で「補償」と言うことはさっき勉強しましたね。)しかし、そうして人の上に立てば、かえって自分の劣等性が大きなものとなってまた自分を襲ってきます。上に立てば立つほど、秀吉の生まれの悪さ、育ちの悪さ、センスの悪さ、身長の低さは目立ってきます。身分が低ければ、生まれやセンスが悪くても平気ですが、身分が上がってくれば、周りの人はみな生まれもよく、育ちももよく、センスもよいのです。だから、彼はもっと大きな劣等感を抱えることになり、さらに努力して周りの人に勝とうとする。これは永遠に続き、一番でなければならないという強迫観念にとらわれるようになっていきます。「補償」は必ず「過補償」となるのです。天下統一を成し遂げた後でも、それに飽き足らず、家臣の反対を押し切って。世界制覇に乗り出し、結局その途中で秀吉は他界します。もちろん彼の人生が幸せであったはずがありません。
 もうわかりましたね。異常な努力は消すことのできない劣等感が生み出すものです。だから、異常な努力を目指す必要はありません。それはあなたを幸せにもしません。「そこそこの努力」を継続していくことの方がずっと大事なのです。そして、人と比べるのではなく、昔の自分と比べて「俺って向上したなぁ」と言えるようになればいいのです。
 


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