安全な後方にいたのに、早々に前線へと送り出されたのは幸運だった。
少なくともはオルテスそう思っている。
異形の影にのしかかられ、その獰猛な鉤爪の一撃に襲われても考えは変わらない。
オルテスは両手に握った両刃の剣を振り上げ、鉤爪を弾き返す。
刃が震え、火花がかすかに散った。
オルテスは一歩下がり、改めて眼前に立つ敵を見据える。
成人男性の二倍はあろうかという巨体。全身を覆う硬質皮膚の色は赤黒く、それを太い縄束のような筋肉が押し上げている。四本指の先から伸びる爪は、ナイフのように鋭く湾曲していた。
何よりおぞましいのは、オルテスの体を映す漆黒の瞳だ。顔の半分以上を占める巨大でいびつな形をした目には、感情らしいものは見受けられない。だが人間に悪意を持ち、攻撃心の塊であることは明白だ。
何しろ人間は三百年間こいつらと戦い続けてきたのだから。
大陸の東北部より現れ、人間に襲いかかる悪夢のような怪物。
いや、人だけではなく無数の動植物にも危害を加えている。まるで、自分達以外の存在がすべて憎いとでもいうように。
人はこの異形のような化け物を、本能的な嫌悪と恐怖をこめてこう呼ぶ。
悪魔、と。
間合いを計りながら呼吸を整えるためにオルテスはゆっくりと息を吸い込んだ。乾いた平原の空気の中には人間の血肉の匂いや、体臭さえ人間に悪意を持っているのではと思える悪魔の硫黄くさい匂いが混じっていた。
悪魔が、鮫のように牙の並んだ口を開いて咆哮を上げる。魂まで凍てつかせるような金切声。
それを打ち消すほどの気合を喉から迸らせながら、オルテスは前に出た。
悪魔と人間の戦士が出会えば、その決着は生か死か、だ。
恐怖をねじ伏せ、相手に刃を突き立てるしか道はない。
「せえいっ!」
命を刈り取らんと、風を巻いて振り下ろされる爪を、剣身で遮る。オルテスの腕に凄まじい衝撃が走るが、手首を捻って受け流す。
頭上に抜けた悪魔の腕の下にもぐりこむように、踏み込んだ。
悪魔の皮膚は総じて硬く、鋼鉄製の剣といえども適切な角度で打ち込まなければ簡単に弾かれる。しかも刃を食い込ませても、その内側のみっしり詰まった筋肉が阻んでしまうことが多い。
このため、人間の戦士は一撃必殺の確信がなければ、なるべく間合いをとり少しずつ斬りつけて悪魔の体力を削っていくのが鉄則だ。
だが、その鉄則に反してオルテスは大きく剣を振りかぶり、悪魔の胸部に叩きつけた。
悪魔の口元から、小馬鹿にしたような細い吐気が漏れる。攻撃が不発に終わった後で確実に殺してやる、とばかりに。
しかしオルテスの剣は、跳ね返されることも途中で止まることもなかった。高い斬撃音とともに、悪魔の胸から腹までを垂直に切り裂く。
悪魔の皮膚と同色の血を振り撒いて抜けた刃は、わずかな燐光をまとっていた。
反対側の腕を振り上げたまま動きが止まった悪魔に、オルテスは容赦なく追撃をかける。
悪魔の生命力は人間の常識とはかけはなれており、この程度ではやられてくれはしない。
刃を返し、開いたばかりの傷口を抉るように、斬り上げ。
オルテスの両手に、快いとは対極の生々しい手応えが伝わってくる。
悪魔が苦し紛れに振った巨腕に肩口を掠められながらも、剣を引き戻し間髪いれず体当たりするような突きを放った。
切っ先が、二度の切り込みで深く開いた傷口に飛び込み、人間ならば心臓があるはずの部位に容赦なく食い込む。
一連の動きに淀みはなく、悪魔が目の前にいなければ剣舞としても通じるほどなめらかだった。
全身に返り血を浴びたオルテスが軽い跳躍で間合いを取り直すと、悪魔の体がゆっくりと倒れ――そして、地に伏すより早くその全身が瞬く間に淡い光の粒に変わり、四散して消えた。
おぞましい姿に似合わぬ、美しい光に彩られた消滅。それこそが、悪魔が完全に命を失った証だった。
舞い散る光に見とれる暇もなく、オルテスは周辺に視線を走らせた。
呼吸は荒くなり、全身は鉛を詰め込まれたように重い。着慣れたはずの鎖帷子の重量さえ、全身を苛む。
異形の化け物と命のやりとりをすることは、心身に壮絶な負担をかける。
それでも、戦わなければならない。
悪魔相手に交渉も妥協もない、というのはこの世界の常識であるのだから。
人間には悪魔に対する武器は、大きく分けて二つある。
ひとつはオルテスの手にした剣、身に着けた鎖帷子のような装備だ。大地から発掘した鉄などを加工し、生来強い牙や爪・皮膚を持たない人間の体の弱点を補う。
もうひとつが、術法と呼ばれる力だ。
術法はさらにふたつに分けられる。
内力術と、魔法だ。
人間はじめとする万物に宿る〝気〟を引き出し、力に変えるのが内力術。オルテスの剣を輝かせているのは、その技だ。内力術で威力を増した剣撃は、悪魔の皮膚をも斬る。
オルテスはじめとして、この戦場に投入された兵士の半数は、一般的な武芸とともに内力術をあわせて習得した精鋭のはずだった。
だが。
「くっ!?」
平原は、赤く染まっていた。
夕暮れの光のせいだけではない。多くの人間の兵士が倒され、彼らの流す血が大地に沼を作っているのだ。
目につくのは、オルテスが倒したのとそっくりな異形の姿。
悪魔はまだ五十体近いのに、兵士側は三十人ほどまで減らされている――出撃した兵は、総計二百はいたはずなのに。
素人目にもわかる、人の劣勢だった。
「このっ!」
オルテスは、すぐ傍で戦っている兵士に襲いかかる悪魔に気づき、足に鞭打って走りだした。
だが、その剣が悪魔に届くより早く、絶叫があがった。
振り下ろされた悪魔の腕が、槍の柄をへし折った勢いのまま兵士の頭部を潰したのだ。恐るべき膂力だった。
オルテスは歯を噛み鳴らしながら、仇をとるべく悪魔の背中に回りこむと、〝気〟を搾り出して剣に集中した。
苦戦の原因は、わかっている。
本来なら、もうひとつの術法である魔法による支援が入っているはずなのだ。
魔法の原理は、異世界の力をこの世界に導引し、それをもってさまざまな現象を引き起こす技の総称だ。
内力術が主に術者本人の生命力を使うのに対して、より巨大な存在を力の源泉とする魔法は威力という点で圧倒的な優越を誇る。
だが、いつもなら頼りになる逆巻く爆炎や、何物をも貫く氷の刃は一向に悪魔に襲いかかる気配はない。
オルテス達の後方に位置する砦に篭った魔法士達は、沈黙を保ったままだ。
彼らが何もしないのは、怠けや兵士達への悪意からではない。
今回の戦闘が始まる前に、突如出された『魔法使用禁止令』のためだ。
これまでは光を避け、昼間には出現しなかった悪魔達が、夕刻にまで出現するようになった。その数も力も増大しており、戦力の増援・特に一人で数体の悪魔を倒せる魔法士の派遣を求めた司令官の報告と要請に対する、目を疑うような後方からの命令。
命を懸けて悪魔を食い止めている将兵達にとっては、気がふれたとしか思えない愚かな話。
だが、司令官はそれに従った。
軍人にとっては上からの命令は絶対だ。理不尽だと思っても、改善を具申しそれが裁可されるまでは、魔法を使わせることはできない。
本来は、強大な力をもった対悪魔用の軍隊に反乱を起こさせないための鉄の規律が、裏目に出ていた。
オルテスは、悪魔と味方の上層部――タロス同盟軍を構成する六ヶ国の指導者達への怒りを気合に変えて、悪魔の背に突撃した。
弓を引き絞るように全身をひねり、戻す力を剣先に乗せて放った渾身の突きは、悪魔の赤黒い皮膚を紙のように突き破る。
この時、オルテスの視野は疲労と怒りで狭くなっており、すぐ近くにもう一体の悪魔がいたことに気づけなかった。
夢中になって悪魔の背を抉るオルテスの無防備な側頭部めがけて、鉤爪が振り下ろされる。
平原に、血が吹き上がった。
人間の赤ではなく、悪魔の赤黒い血が。
はっとなってテオルドスが顔を上げると、悪魔が頭部から真っ二つになって左右に倒れる光景が目に飛び込んだ。
血煙の向こうに、男が立っていた。その両腕には、今悪魔を屠ったばかりの両刃大剣がある。
悪魔を両断するためには、当然ながら奴の頭に剣が届く位置まで跳躍し、そこから一気に硬い体を切り下げなければならない。
凄まじい腕前だった。
オルテスは、驚愕を押し殺しながら目の前の悪魔の体内に埋め込んだ刃を回してとどめを刺した。
悪魔が光に変わるのを確認してから恩人に顔を向けたオルテスは、
「助かった」
とようやく声を出した。息を切らしかけているため、老人のようにしゃがれていた。
「後衛組か!?」
男は、全身から金属音をさせながら駆け寄ってきた。体のほとんどを防護する鎧を着込んでいるのに、動きに鈍重さはない。
激戦の証のように、剣も鎧も返り血と砂塵でまだら模様だが、大きな怪我をした様子はなかった。
「そうだ! 貴方は前衛組だな?」
オルテスは、唾を何度か飲み込んで喉を潤してから返事をした。
前衛、後衛というのは大まかに分けられた部隊の名称だ。
前衛組は、悪魔の侵攻を発見すると真っ先に飛び出して防ぎにかかる。その重要性から、タロス同盟軍でも特に腕利きの戦士や魔法士が選抜される精鋭部隊。
これに対して、後衛組は前衛組が討ち漏らした悪魔を始末するのが役目。戦況が順調なら出撃さえしないことが多く、箔付けのために参戦した各国の貴族やそのお供が割り当てられる。構成員の半数が、肩書きだけは立派な弱兵だ。
「ここはもう駄目だ、生き残りをまとめて篭城するしかない!」
男が周囲を警戒しながら言う言葉に、オルテスもうなずいた。
前衛組が崩れたところで、速やかに後衛組の出撃が下命された。
前衛組が全滅した後に出しては、各個撃破のいい的になるからだ。
オルテスが幸運だ、と思ったのはそのためだ。
今も悲惨な状況だが、司令官の判断が遅れればもっと無残なことになっていただろう。
「魔法の支援があれば……」
言っても詮のないことだとわかりながら、オルテスの口から絞りだすようなつぶやきが漏れる。
男とともに、近くの味方を救うために駆け出した。
オルテス達が、何とか人心地をつけたのは翌日の昼になってからだった。
砦に命からがら逃げ込み、休むまもなく壁を頼りに防衛戦。要請を受けて駆けつけた近隣の部隊の援軍を受けて、ようやく悪魔を撃退した。
後は泥のように眠り、目を覚ましたときには太陽が中天に達していた。
オルテスは寝台から離れがたいと主張する体を無理やり引き剥がし、湯を何杯か頭から被って汚れを落とした後、軍服に着替えてふらつく足取りで食堂へ向かった。
一個部隊二百人がまとめて食事できるほど広い、石造りの食堂は空席が目立つ。昨日の昼間は、座る場所を探すほどにぎわっていたのに。
一体何人がやられたのか、とオルテスは暗澹たる気分を引きずりながら、カウンターに近づいて料理人に注文を出す。
さして美味くないとわかっている軍隊用のまとめてつくる料理でも、その匂いは空っぽの胃を直撃する。
せかすように料理人の盛り付ける手つきを眺めていたオルテスの背中に、声がかかった。
「よう、お互い生き残れたようだな」
振り返ると、大柄な男がいた。その燃えるような赤毛と、同じ色の瞳は、同盟加盟国のひとつ・商業国家ラームの人間によく見られる。
オルテスは十七の男性としては平均よりやや上の背丈だが、それよりさらに頭二つほど高い。立っているだけで威圧感を与えられそうなほど逞しい体つきをしているが、その上に乗った彫りの深い顔には、人なつこい子供のような笑みが浮かんでいる。
昨日、命を助けてくれた相手だと思い出してオルテスも口元を緩めた。
「貴方も。見たところ大きな怪我もないようで、何よりだ」
二人分の食事が用意されるのを待ってから、オルテスは席についた。男も、向かい合う位置に座る。
「俺はカルバン。姓は無い」
男――カルバンは大きな掌でパンを掴みながら名乗った。
姓がないのは、珍しいことではない。タロス同盟軍の母体である六ヶ国は、それぞれが独自の社会体制を持っている。
一定身分以上ではないと、姓を持つことが許されない国もあるのだ。
だが、ついで名乗られた肩書きに、思わずオルテスは目を見開いた。
「位階は第三位」
同盟軍の階級は、『位階』と呼ばれる。一番上の第一から最下級の第七位まで。位階が同じ場合は、先にその位についたものが上官とみなされる。
第三位といえば、部隊や砦をひとつ預かれる高位者だ。
オルテスの驚き顔を、カルバンは面白そうに見やってから首を振る。
「第三位っていっても、先日昇進したばかりの見習いってやつだ。十三歳の時に、故郷が飢饉だったんで志願してそれでやっとさ」
悪魔を一撃で倒した手並みから、只者ではないと思っていたが、少年の時期から戦い続ける熟練兵だったのだ。
「オルテスだ。オルテス……レバート。第四位」
オルテスは俯いた。
レバート。それは、同盟に参加する国のひとつの名前と同じだった。国名と同じ姓を名乗れるのは、直系王族のみ。
軍に参加した時にすぐに第五位を与えられたのは、出身身分のおかげ。昇進も早いから、叩き上げを前にすると負い目を覚えてしまう。
「おいおい、俺は気にしねえぞ。お前さんが位階にふさわしい働きをしたのはちゃんと見てるぜ。堅苦しいのは抜きの俺、お前でいこうや」
オルテスの心を読んだように、カルバンはパンを持っていないほうの手を振った。
「一応、王弟ということになっているけど。はっきりいって名ばかりだよ」
気を取り直したオルテスは顔を上げた。
これは謙遜ではなく事実だ。
レバート王国では、お家騒動を避けるために国王および王太子と、それ以外の王族に大きな格差をつける。
オルテスが対悪魔部隊である同盟軍に送り出されたのも、その一環だ。戦死しても仕方ない、という意図があるのは公然の秘密。
「レバートといえば、最近は魔法研究で名を上げているな」
カルバンは、そう口にしてから顔をしかめた。表情がゆがむのはオルテスも同じだった。レバートに反感を持っているのではなく、魔法禁止令に意識がいったからだ。
レバート王国は、オルテスの兄・レムスが王位を継いでから魔法研究を大々的に行い、対悪魔用の強力な攻撃魔法を開発していた。
特に、密集した悪魔を何体も巻き込める広域魔法は、同盟軍の戦いを飛躍的に楽にしていると評判だ。
しかし、それを含む一切の魔法が突然禁止されたのだ。
魔法による治癒や防御さえ駄目、というのだからわけがわからない。
内力術系統は別だが、効果の強さという点では魔法の代わりは到底不可能だ。
「魔法が使えればもっと楽に戦えたし、重傷者だって助かったかもしれないのに……」
オルテスは、フォークを取って皿の上の罪の無い肉を刺し貫きながら、つぶやいた。
内力術にも利点がないわけではない。
魔法が、異世界から力を引き出す・暴走しないよう制御する・そして発動という三手順をこなさなければならないのに対し、内力術は熟練すれば念じるだけで発動できる。
だから一秒を争う直接戦闘を行う兵士は、内力術を習得することが推奨される。
兵士が足止めして時間を稼いでいるうちに、魔法士が強力な攻撃魔法を叩き込むのが、対悪魔戦でもっとも一般的な戦術だ。
「上からのお達しだっていうが、なんなんだろうなあ」
カルバンががっしりした顎を動かして食事する合間に首をひねった。
「わからない。突然だったから、後衛組の連中も驚いていた」
故郷では身分の高い者達が、なるべく死なないための配慮として配置される事が多い後衛組だが。決してお荷物一辺倒ではない。
各国に伝手を持ち、情報の入手が早い。それが軍の役に立つこともままあるのだが。
今回は、青天の霹靂だったのだ。
戦っている最中は、上層部を悪罵してやるぞと意気込んでいたが。いざ生還してみると、怒りより疑心が勝る。
悪魔への防衛力が弱まって困るのは、同盟全域であるのに。
「よほどの事情があるんだろうが。説明もろくにないってんじゃ、納得もできんしなあ」
「出てくる悪魔も、どんどん強くなっている。一年ほど前までは、あれほど手強いのは滅多に見た事がなかった。俺が後衛組だったからかもしれないが」
「いや、俺達も似たような感触を持ってたぜ。獣に毛が生えた程度なのがほとんどだったのに、今は術を使わないと歯が立たない奴らばかりだ」
二人は疑問を口にしあうが、答えが出るはずもない。
「カルバン。それと、オルテスだな?」
食事を終えて一服していると、兵士が歩み寄ってきた。胸に、司令官直属の副官であることを示す徽章をつけている。
「司令官がお呼びだ。二人とも、速やかに司令官室へ出頭せよ」