Shinya talk

     

 

2011/01/02(Sun)

新年に際して

野口英世の母親である野口シカがアメリカに居る息子に宛てた手紙がある。
この一幅の手紙は知る人ぞ知る、書家はそれを見て初心に還るという代物なのだが、その手紙は子供が書いたように稚拙だ。

というのは野口の母は文字が書けず、野口がノーベル賞を取ったときになんとしてでも自分の気持ちを伝えたく、代筆を頼まずそのために文字を手習いし、手紙をしたためた。

手紙はひらがなで書かれているが、読み通すのが困難なくらい、字の形が定まらない。

だがそこには人間が言葉を吐く、書く、という動機と伝えたい、という心が一如となって美しくもある書が展開されている。

文字と心がこのように隙間もなく一如となった書を他に知らない。
自分も書をするがその手紙を見ると軽い絶望感に打たれる。
書家がそれを手本とする所以である。
だが誰もおそらくその無心には行けない。

昨日たまたま見たNHKのドキュメントで現在ベストセラーとなっている「くじけないで」という詩集を書いた柴田とよさんの言葉にも野口シカに似たものを感じる。

90歳を越えて、鉛筆で自分の思いを書くようになったらしいが、その言葉は凡庸ながら、言葉と思いの間に隙間のない無心と一如を感じる。

おそらくそのようなものが人の心を動かしたのだろう。

たとえば昨年鳴り物入りでベストセラーになった水嶋ヒロ(雑誌で彼の写真を撮ることになっていたが結局撮らなかった)の小説などは作品そのものより売るためのプロモーションが先行するという、音楽分野を筆頭にあらゆる分野で起こりつつある、仕掛け花火的現象のひとつだが、たとえばAKB48などは当然プロモーション先行型だが、この数年間に100曲もの新曲を必死で発表している(中にはいい歌もある)という実の部分を忘れてはならない。昨今カバー曲などと言って昔の他人の歌でお茶を濁し、それがまた売れる(これは単なるカラオケだろう)という堕落したアーティストが増えている音楽状況の中ではきわめてまともなのである。

プロモーション先行型にもそのようにいろいろとあるわけだが、同じベストセラーでも「くじけないで」のような結果を想定しない自然発生的なものもあるわけだ。

同じ意味で昨年の大晦日に行なわれた「K−1ダイナマイト」の各試合がおそろしくつまらなかった。とうぜんこのような興行はプロモーションが先行するわけだが、ひとたびリングの上に立つ者は一切の雑念を排して闘魂を見せねばならない。

ところが昨今の格闘家は勝つ目的だけが先行して試合の実がない。勝とう勝とう、という思いだけがリングに漂っていて、そこには戦いの動機が見えないのだ。勝つことが戦いの動機であればそんなにつまらない試合もない。名前は忘れたがメーンイベントの試合もそういう意味で面白くなく、石井慧の試合も面白くなかった。石井慧の試合がいつも面白くないのは、そう言った勝ちたいという邪念が先行し、他者(戦いの相手)に対する想い(それが怒りであっても憎しみであっても良いわけだが)が見えないからだ。

かつての格闘技、とくにプライドにはそのような試合がしばしば見られたことからするとこれも時代というものかも知れない。

石井慧はアメリカに行って関節技ばかり習わず、会津に野口シカの手紙を見に行って心と表現の間に隙間のない一如の精神を見習う方が先だろう。

またこの一如の心は新年に際してこのトークを読んでいる方々や私自身も心しなければならないことである。