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【格闘技】

第2のプロレス人生に挑む 黒いカリスマ・蝶野正洋

2011年1月15日 紙面から

蝶野正洋愛用サングラスを着用し一緒にポーズをとる門馬記者=東京都渋谷区のアリストトリストで

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 干支(えと)のうさぎにあやかって「オレの飛躍の年に」と、今年第2のプロレス人生に挑むのが、年男でもある“黒いカリスマ”蝶野正洋(47)だ。昨年、育った新日本を退団し、アントニオ猪木率いるIGFのエグゼクティブプロデューサーに就任。2月5日の福岡国際センター大会が初仕事となる。アパレル事業「アリストトリスト」を経営、マルチタレントとしても大活躍だ。蝶野は今、何を考え、何を起こそうとしているのか。60分1本勝負でこわもての素顔に迫ってみた。 (門馬忠雄)

◆年男「飛躍の年」

 9月で48歳になる。21歳のデビュー時、この年齢までリングに立っていると想像しただろうか。

 「まさかこの年齢までやっているとはね。猪木さんが昭和18年生まれ、藤波辰爾さんが28年生まれで、自分が38年生まれ。ちょうど10歳ずつ違うわけですよ。自分が入った時、猪木さんが42歳ぐらいかな。おやじだなぁー、こんな年までプロレスやりたくないなーって思っていましたよ(笑)。若いころは練習もきついし、体も痛い。こんな痛いこと、40のジジイにもなってやるのかよって…」

◆「プロレス業界人」

 プロレスラーとして大きな転機を迎えた。

 「自分を名乗るとしたら、プロレスラー、プロモーター、プロデューサー。三つが正業。『プロレス業界人』でしょう。IGFは昨年の両国大会(12月3日)を見た。猪木さんという大看板があるが、その内側はびっくりするくらい少ない人たちだけで運営していて、それでもちゃんと成り立っている。すごいなあーと感じましたね。興行的に大黒柱がないんですよ。柱がないのに家が建っている。なんなんだ、この家はって。だから、もう少したったら面白くなるなあーと感じましたね。はっきりとした団体でもないし、選手を教える場所や機関もない。これからこういう団体が増えてきます。これを統合し、現場をしっかり仕切れる人間がいないと変なものになっていく。そういった基本となるプロモート業をやっていこうと思っています。スカウト、新人養成についてもこれからです」

 黒を基調にした蝶野正洋オリジナルブランド「アリストトリスト」(ARISTRIST)を設立して10年。アパレル業界を取り巻く環境は非常に厳しいが。

 「10年、どうにかしがみついてきましたよ。繊維業界って景気の変動をモロ受ける。ロゴマークはマルティーナ(夫人)のデザインです。ARISTは最上級、RISTは庶民を意味するとかで、一種の造語です。スーツ、シャツ、パーカー…すべて彼女のアイデアとデザインです。別段、その才能があったとか、専門の学校に行っていたわけではないですよ。ドイツのおばあちゃんが古いミシンを嫁入り道具にくれてね。94年1月4日の新日本東京ドーム大会で、当時IWGPチャンピオンの橋本(真也)選手に自分が挑戦する試合。タイツからガウンまで縫うという話になって、手縫いで2晩寝ずにかかって、ドームに出かける30分前にやっとできてね。それからですよ。デザインとかファッションは彼女が仕切って、経営は自分が見ています。スタッフは6〜7人、多い時は10人ぐらい。社長はマルティーナです」

◆妻が“フォール”!?

 87年春、ヤングライオン杯優勝でヨーロッパ遠征の切符を手に入れ、ドイツで知り合ったのがマルティーナさん。蝶野なりのワイルドな口説き文句があったのか。

 「ホームパーティーで知り合った。最初、彼女は英語をしゃべれなかったんですよ。自分が英語しゃべれたので、おれとの会話から覚えたようですね。あのころ、よく海外に出たり入ったりしていた。ドイツで別れて2週間ぐらいしたら、遠征先の米国に来るというんですよ。で、カンザスに来た。これでしょうね。おれがどうのこうのじゃなくて彼女の行動力。海のものとも山のものともつかない日本人プロレスラーと巡業地でめぐり会って飛んできたんですから。そのころ、自分は食うのがやっと、必死だったですよ」

◆94年武闘派に転向

 帰国して新日本の主力に成長。94年8月にG1クライマックス3度目の優勝を飾り、超満員の客席に向かって「よーく聞け、おれがG1男の蝶野だ。文句あるか!?」の絶叫パフォーマンスをやってのけ、武闘派(ヒール)に転向。黒のキャラクターを確立した。

 「あの時、選手会長だった。正規軍の若い世代のトップを任されていた。でも、会社的なものは嫌だった。だから面白くなかった。イライラしてね、アメリカンスタイルのものをやりたいんだと言ったら、会社からダメ出しが出た。だから、後先を考えずに衝動で…。彼女にガウンを作ってもらって黒にイメージチェンジですよ。言った以上はイメージを変えなければならない。おれが蝶野だって投げかけてみたものの、では何なんだって変な期待がふくらんで…。とにかく、一匹おおかみでやりたかった。あれで動かなかったら一生動かなかったでしょうね」

◆三銃士別離の発端

 藤波社長体制下に約4年間、現場監督を任された蝶野。かつての闘魂三銃士、橋本がゼロワンを設立。武藤敬司が全日本に移籍。袂(たもと)を分かってそれぞれ団体のトップに立った。蝶野は新日本を仕切った時点で「オレが社長」という野心はなかったのか。

 「いや、そういう欲はなかったですよ。やっぱりレスラー目指して入ってきたんで。自分ね、15年ぐらい前に頸椎痛めて、1年でも長くやろうという気持ちになった。そこに降ってわいたように現場監督という話がきて、そっちの方が必死だったですよ。年食ってからもレスラー稼業を楽しみたい、そんな夢がありましたからね。だから、武藤さんにしろ橋本にしろ、道が分かれたきっかけを作ったのはオレなんですよ。オレがアリストトリストを立ち上げた時でしょう。所属レスラーが別の事業をやる。会社はそれを認めてくれた。それが2人をあおった。あいつが車買ったから、オレも…というようなライバル関係はあったと思う。だから、業界内で独立してどうのこうのという考えは全くなかった」

◆家族とファミレス

 蝶野の出身地は東京都三鷹市になっているが、正確にはカナダのバンクーバー生まれ。幼少時に父親の勤務で帰国した。英語が堪能でも実際の夫婦げんかはどうなのだろう。マルティーナさんとはドイツ語、英語、それとも日本語でやり合うのだろうか。

 「いやあー、チャンポンですよ。子どもができてからは日本語だね。子どもたちは日本語を覚えましたからね。ママも覚えたから…。2人でいたら英語ですね。英語でまくしたてられたら、太刀打ちできませんね。反論できない(笑)。食事は基本的には日本食かな。自分はチャンコ作りますが、いいかげんなものですよ。バサッバサッと材料ブチ込んで…(笑)。オレよりかみさんの方が上手です。きのうも食べました」

 一男(4歳)、一女(1歳)の父親。子どもの睡眠時間に合わせて寝るという家族思い。よきパパぶりだそうで。

 「子どもが小さいから、仮面ライダーにウルトラマン。今まで行かなかったファミリーレストラン。ドリンクバーってあるじゃないですか。子どもが好きですから…。前は恥ずかしかったけど、いまは平気。周りの目は無視、このままの格好ですよ。朝は8時ぐらいに起きて、夜は子どもの時間に合わせて9〜10時になると眠くなるんです。おやじですね」

 

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