■新訳男女 語り合おう■

わが子は抱きたいけれど…
不妊治療を受けていた衆院議員の野田聖子さん(50)が男児を出産したことについて、さまざまな意見をまとめた「新訳男女-語り合おう」。今回は「産む・産まないの選択」について、子どものいない30―40代の女性に聞きました。
●「他人の卵子には違和感」「血を絶やさぬ責任ある」「愛情注ぐ家族が欲しい」
「いろんなことを言う人がいる中で、よく産んだと思う。すごいなあ」。自営業女性(38)は生まれた子にも「本当によかったね、おめでとう」と伝えたいという。そして「世間はそっとしておいてあげてほしい」とも願う。
野田さんは米国で第三者の卵子提供を受け、事実婚の関係にある男性の精子との受精卵を移植し妊娠、出産した。女性も子どもが欲しくて不妊治療をしているが、他人の卵子を使うことには「違和感」がある。「そこまで医療技術の力を借りていいのか分からない」
不妊治療は、続けるよりやめる方が難しいとも言われる。自分たちは40歳をめどに諦めるつもりだ。「子どもがいない生き方も夫と2人で考えていきたい」
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別の自営業女性(38)も不妊治療をしている。流産も2回経験した。卵子提供による出産については「良いとも悪いともいえない」と複雑だ。自身は子どもを望む強い気持ちがそれほどない気がする。授かる機会があるなら、子どもを受け入れられるよう体を整えておこう、という思いで治療に臨んでいる。
しかしそれでもなぜ子どもにこだわるのかと考えると「血を絶やしてはいけない」思いが根底にある。家族は何も言わないが、夫の親戚から「子どもは?」と聞かれる。「長男の嫁」という責任をひしひしと感じる。「自分自身の幸せというより、夫や夫の家族に悪い気がする」
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独身で両親と暮らす会社員女性(41)も、子どもがいないことを「申し訳ない」と感じている。最大の理由は「ずっと続いてきた血を自分が途絶えさせてしまう」から。それに自分が生きている意味の揺らぎも感じる。「産める可能性があるのにしない自分は人としてどうなのか」。野田さんは特別なケースだと思うものの、高齢出産の限界がさらに分からなくなった。「可能性」はどこまで広がっていくのだろうか。
野田さんのブログに共感する文章があった。「私がこんなに『子ども』に固執したのは子どもであった私が、とてつもなく母に愛されたことによる」と。自分も両親に愛されている。それが申し訳なさにつながっているのかもしれない。
愛情を注ぐ先が欲しいという思いもある。自分のためにだけ生きると、いつの日か「もういいや」と人生を諦めてしまうのではないか。自己中心的かもしれないけれど、やはり子どもという「家族」がほしい。
=2011/01/14付 西日本新聞朝刊=