- 2008年4月14日 00:47
- 1886年(明治19年)
(写真:前列左より清水則遠、正岡子規、後列左より柳原極堂、吉川祐輝)
正岡子規の幼なじみで松山出身の清水則遠(のりとお)という青年がいました。
正岡子規と秋山真之と清水則遠の三人は馬が合い、どこに行くにも一緒でした。
1886年(明治19年)4月14日、この清水が病にかかり命を落とします。
栄養不足からくる脚気が悪化して起きた心臓麻痺でした。親元から届くはずの仕送りが届かず、薬が買えなかったのでした。
(秋山真之の)留学中に子規君の病気はだんだん進んで来て、枕許で談柄に窮した時などにはよく同郷人の人物評をやった。子規君の口にかかると大概のものは子供のようになってしまうが、其の中で軽重されたものは真之君と、も一人清水則遠という人であった。
此の人は後にかかげる「七変人評論」中の記事を見ても略わかるが、ぼうッとした牛のような人であったらしい。一体がちょこちょこした重みのない松山人のうちで、此清水という人などはたしかに異彩であったに違い無い。惜しい事に脚気衝心で早く亡くなられたという事じゃ。余は古く子規君と一緒に谷中に在る其の墓に詣った事を記憶している。
子規は幼なじみの死に激しいショックを受け、一時錯乱状態に陥ったと云います。
この時、子規をしっかりと支えたのが秋山真之です。
「のぼるさん、しっかりおしや」
と、落ち着かせ、励ましあい、清水の葬儀を執り行いました。
亡くなった清水の実家宛てには、子規が出した手紙が残されています。長さは7メートルを超え、現存する子規の手紙の中で、最も長いものになります。
葬儀に出られない松山の遺族の為に、友を送った日の様子を絵を交えて、面々と記し、傍に居ながら救えなかった無念さと、詫びる気持ちを、繰り返し綴っています。
子規はこの手紙のなかで、次のような誓いを立てています。
ご令弟の名をあげることを今後の自分の一生の目的にするつもりです。
そのためにはまず第一に、僕の名をあげることにつとめ、命をかけようと思います
志半ばにして亡くなった友人の死に、子規と真之に必ず立身出世し、功を成し遂げようと決意します。
子規はその後、幼い頃から興味を抱いてきた俳句や和歌を、文学の一つとして研究し大成します。
そして自著の「筆まかせ」において、友人清水則遠のことを長文にて紹介しています。
そして真之は、日露戦争で東郷平八郎の軍事参謀に抜擢され、日本を勝利に導いた名参謀として、その名を歴史に刻むことになります。
1918年(大正7年)2月4日、真之は盲腸炎を患い小田原で亡くなりますが、死の直前に詠んだ辞世の句
「不生不滅 明けて鴉の 三羽かな」
この三羽の鴉とは、子規と真之と、そして志半ばで亡くなった清水則遠のことではないかと謂われます。
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