視界いっぱいに広がる蒼穹。
何処までも続く水平線。
大地へと降り注ぐ太陽の輝きは、何をも差別する事無く遍く全てを照らしている。
風を受けて木々が揺れ、砂塵が舞い、自然の薫りが鼻腔を擽る。
海風に煽られて真っ白なシャツは羽ばたき、潮の匂いが心を満たす。
此処には何もなく、故に全てがある。
醜い争いはなく、島民は皆互いを助け合い、自然と共に生きて死ぬ。
それが当たり前で、それは当然の事。
穏やかな時間。
止まってしまったかのような緩やかな時の流れ。
その微温湯に溺れながら、少年もまた島の皆と同じく生きて死んで行く。
こんな時間がいつまでも続けば良いと思った。
こんな時間がいつまでも続くと思ってた。
生まれ故郷を離れた遠い異国の地であろうとも、この島が好きだったから。
『ケリィはさ──』
この島で出逢った少女が歌う。
優しい声で、僕の名前を呼んでくれる。
君との会話が好きだった。
それはきっと、初恋だった。
『──どんな大人になりたいの?』
少女の何気ない問いかけに、少年(ぼく)は────……
/1
「…………っ」
微睡の中で夢を見た。
それは酷く懐かしい、自分にとっての原初の記憶。
少年は少女になんと答えたのだったか、今はもう思い出せない。思い出す事は出来そうにない。
「──もし」
未だ完全に覚醒していない瞳を、斜め前方へと投げかける。そこには相席していた名も知らぬ老紳士の姿があった。
「気分が優れないのですかな? もしそうなら──」
「いえ、お気遣いなく。ちょっと、夢見が悪かっただけなので」
「ああ、なるほど。これはとんだ失礼を。失礼ついでに、どんな夢だったのか、お聞きしても?」
「……酷く懐かしい(ふるい)夢を見ましてね。いや、今はもうそれがどんなものだったのかさえ、曖昧だ」
「良くありますな。夢は所詮夢、微睡の中に消えていくもの。
しかしそれで良いのかもしれません。夢は見る者に甘美か苦痛か、そのどちらかしか味わわせてはくれませんからな」
ならば今見た夢は、そのどちらなのだろうか。
それは懐かしむべき見果てぬ夢か。
それは忘れ去るべき苦悩の悪夢か。
「いやはや、本当に失礼でしたな。老人の一人旅は寂しいものでして。つい余計な事を窺ってしまった」
こちらが顰め面をしていたせいか、老紳士は取り繕うように言った。
ここはとある列車の車内。
流れ行く風景は後ろへと消えていき、目的地目指して直走る。
窓の外に広がる景色は何処か懐かしさを覚えるもの。その景色と列車の揺れが、あの微睡を誘発させたのかもしれない。
何れにせよこちらも時間を持て余していたところだ。
後少しで目的地に到着する。それまでは、老紳士の戯言に付き合うのも悪くはないかと口を開く。
「その気持ちは分かりますよ。僕も何かと移動の多い日々を過ごしていまして。手持ち無沙汰になる事は良くあります」
「ほ、ならば丁度良い。爺の戯れに付き合ってはくれませぬか」
「僕でよければ」
「では。先ほど一人旅と申しましたが、ちょっとした私用で出掛けておっただけでして。今は妻を待たせている我が家への帰路なんですよ」
「僕は逆ですね。これから旅の目的地に向かうところです」
「ほう。それにしては持ち物が少ない。旅慣れしておる証拠ですかな?」
「はは、元々物を余り持たない主義でしてね。仕事に必要なものは先に現地で待たせている連れに預けておいたので、手荷物はこれくらいしかないんですよ」
必要最低限の衣服を詰めた旅行鞄。その連れに預けるわけにもいかなかった一抱えもありそうな木製の箱。
この男がどんな目的で何をしに何処に向かうか不明瞭ながら、旅に不釣合いなその木箱が気に掛かった老紳士だったが、余計な詮索はせず次の話題に移った。
「しかし、そちらはどちらから?」
「ああ、ちょっと北欧の方から」
「それはそれは結構な遠方からのお越しだ」
「驚かれるのも無理はありませんね。
僕の風貌は何処からどう見ても日本人のそれですし、自分でもこんな格好で海外から来る人間は珍しいと思っていますよ」
黒いぼさぼさの髪に黒い瞳。肌の色は黄色人種のそれ。着古したコートの様を見れば、とてもそんな遠方からの旅行客とは思えまい。
「すると御実家はこちらに?」
「生まれはこっちですけどね。子供の頃に海外へ出たきり、戻ってくるのは久しぶりなんです。妻と子──娘も向こうに残しての、単身赴任のようなものですよ」
「それは寂しい事でしょう」
「まあ、長くても半月で終わる仕事です。それが終われば当分の暇を貰えそうなので、最後の踏ん張りどころというヤツです」
互いの旅の目的を話し合ったところで少しだけ間が開いた。どちらも初対面、余り突っ込んだ事を聞けないが故に話題を探すのに時間がかかった。
「ところで少し、お伺いしたい事があるのですが」
そう、着古したコートの男が言う。話題に詰まっていた老紳士は快い笑みを浮かべ問いを受け取る。
「何ですかな」
「この世界から、争いを失くす事は出来ると思いますか?」
「…………」
余りに唐突な話題の飛躍。しかも世界規模の問いともなれば、老紳士の瞠目と沈黙の理由も致し方ないと思えよう。
「ああ、すみません。自分よりも人生経験の豊富な方に、一度訊いてみたかったものですから」
老紳士の年の頃を思えば、戦争経験者であってもおかしくはない。世界規模の戦いをその身で体験した者に、一度その問いを投げかけてみたかった。どんな答えが返って来るか、知りたかった。
「世界から争いはなくせるか……でしたな」
老紳士は真摯に考えを巡らせている。こんな突飛で荒唐無稽な問いかけを、真剣に思案してくれている様は、この御老人の心根の良さを物語っているかのようだった。
沈黙する事一分弱。老紳士は下げていた顔を正面に戻した。
「それはとても、難しいでしょうな」
そしてそんな、当たり前の言葉を口にした。
「同じ人種で構成されるこの国の中でさえ争いはなくなりません。多様な人種、多様な文化で構成されている国もありますが、その中ではより多くの問題を抱えていると聞き及んでおります。
であれば、国と国、文化と文化、価値観の違う人間同士が、完全に手を取り合う事の難しさは、考えるまでもないでしょう」
それは歴史が証明している事実。人の歴史は争いの歴史。一時静寂に包まれても、時が流れれば当然のように人は争いを始める。
人は違うという事を許容出来るようには造られていない。個人間であれば話は別だが、地域や国のレベルになれば、そこに絡む利権や権力、欲望の限りが尽きる事は有り得ない。
究極、誰だって自分が一番だ。好き好んで不遇の道を歩きたい者などそうはいまい。故に争う。故に奪う。
闘争は欲望の別の呼び名。その悪が尽きぬ限り、人という種の根本が変わらない限り、その歴史は幾度でも繰り返す。
自らの滅びか、自らの住まうこの星の全てを喰らい尽くすその日まで。
「……そうですか」
──安心した。
この世界より争いはなくならない。そう聞いて、コートの男は安堵した。
「それでも私は、この国が好きですがね」
老紳士は快活に笑いそう言った。
『間もなく────』
丁度良く流れる次の停車駅を告げるアナウンス。コートの男は旅行鞄と木箱を手に立ち上がる。
「有意義な時間をありがとうございます。これで仕事に打ち込めそうだ」
小さく目礼をし席を出て行くコートの男。
老紳士はその背に、最後の問いを投げかけた。
「差し支えなければ教えて頂きたい。貴方は、どんな仕事を──?」
その問いにコートの男は──衛宮切嗣は、子供のように朗らかに笑って答えた。
「──僕はこれから、世界を救いに行くんだ」
+++
冬木市。
その都市は日本の地方都市の名だ。海に面し山に囲まれた、冬でも温暖な気候に包まれる新興都市。
市の半分を占める古くからの町並を残す深山町と今現在目覚しい発展を遂げている新都の二つの街と町で構成されている。
コートの男──衛宮切嗣がその都市に降り立ったのは、老紳士と別れてから更に幾つかの列車を乗り継いだ後──あれから数時間後の深夜だった。
あのまま列車に乗っていればこの都市の駅も通過した筈だが、切嗣はわざわざ無用な乗換えや遠回りをしてこの都市に乗り込んだ。
その道程だけで切嗣が一般的な観光客でない事などすぐにも知れよう。
切嗣がそんな無駄を好んだ理由の一つは深夜の到着を目的とした事。もう一つは尾行を警戒してのものだった。
はっきり言ってしまえばそのどちらも取り越し苦労、無駄骨に過ぎなかったが、それはもはや切嗣の習性のようなものだった。
まともに日の当たる場所を歩けるような人生を歩んできたわけじゃない。闇から闇へ、そしてその暗闇の中を蠢く外道共を刈り取って来たからこその警戒心。衰えたとはいえ、心は既に全盛期のそれに回帰している。
平常に、無心に、周囲に何も気取られる事なく闇に溶け込み街に沈み込んでいく。
新都駅前パークから見上げる星空を、建設途中の摩天楼達が覆い隠している。発展目覚しい新都の目玉の一つとなる予定の高層建築物──通称センタービルがそのお披露目をするにはもう少しばかり時間が掛かりそうだ。
少し奥まった位置にあるオフィス街に目を配れば、駅前よりも多くのビルが乱立し、鎬を削るように天を目指してその背の高さを競っている。
新都の発展は冬木市全体に多大な利益を齎す事だろう。深山町に古くから住む人々やそちらで商売をしている人間からすれば憤懣やる方ない思いの者もいるだろうが、個人の意思で都市の発展を妨げる事は出来ない。
しかしそれらはもう少し先の話で──その時まで、この都市が残っていれば、の話だ。
切嗣は手荷物を持ち駅前より少し離れた位置にある路地に向かう。そこに待っていたのは闇に浮き上がる白いワンボックスカー。黒いフィルムが窓の全てを覆い隠している点を除けば、何処にでもあるただの一般車両だ。
そのワンボックスカーの助手席側に回り足を止める。すると黒塗りのウィンドウが少しだけ開き、ハンドルを握る女性と目があった。
それだけで二人の意思疎通は完了した。切嗣は手荷物を後方の扉から車内に乗せ、自身は助手席に滑り込み、ものの一分足らずで新都駅前パークよりその姿を消し去った。
+++
「簡単にでいい。近況の報告を」
互いに挨拶もなく、切嗣はそう切り出す。
「現在参加の確認されている遠坂時臣、言峰綺礼、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトの三名は既にこの都市に身を潜めている模様です。
現在地の確認されているマスターは遠坂時臣のみで、彼は自身の屋敷から外出した様子はありません。念の為使い魔で監視も続行していますが、目立った変化は今のところありません」
「流石は御三家の一角か。堂々とした居直りだな。自分の陣地がこの都市で一番安全だと確信しているらしい。それが砂上の楼閣の天頂に立っている事にも等しいと、気付いてすらいない。
他のマスター連中の情報は何もないのか?」
「はい。時計塔からの情報によると、ロード・エルメロイが用意した聖遺物を紛失したという情報はかなり前に入手しております。
もしこれが盗難によるものであれば、その何者かがマスターとしてこの都市に潜伏している可能性はあるかと」
「推測の域を出ない話だな。間桐に関しては?」
「頭首である間桐臓硯より正式に今回の聖杯戦争に間桐からの参加者はない、との表明が提出されたようです」
「……きな臭いな。間桐の頭首は妖怪じみた存在だと聞き及んでいる。全てを鵜呑みにするにはまだ早いか」
「現在判明している情報は以上です」
「そうか」
流れ行く夜景を見ながら、切嗣は嘆息する。
聖杯戦争。
妻と娘を遠く異国の地に残し、参戦を覚悟した魔術師の祭典。
七人の魔術師(マスター)と七騎の使い魔(サーヴァント)による闘争の宴。
冬木市を舞台に行われる、六十年に一度の殺し合い。始まりより明確な勝者なく、都合三度繰り返した戦争の、その四度目。
万物の願いを叶えるという聖杯を賭け、互いの生と死を賭して臨むバトルロイヤル。
勝者にはその祈りを叶える祝福を。
敗者はその命を散らし無残な死を。
たった一人の勝者が決するまで、決して終わる事のない無慈悲な殺し合い。他の六人の祈りを退け、その命を奪い取り、なお我が祈りこそを叶えよと傲慢に言ってのけられる者だけが、聖杯によって祝福される。
切嗣はその争いに身を投じた。六人六騎の敵を殲滅し、他に比するもののない己が祈りを叶える為だけに、この死線へと踏み込んだ。
愛しきものを守る為。
胸に抱いた理想を貫く為。
世にはありえぬ──争いのない世界を築くその為に。
矮小なその身を賭して、子供じみたその夢想を現実とする為だけに銃を執る。
「間もなく到着します」
外を眺めていた瞳を車内に向け、ハンドルを握る女性を見る。
黒い髪の切れ長の目を持つ妙齢の女性。中性的な容姿でありながら、何処かナイフのような鋭利な雰囲気を身に纏うその女性の名は久宇舞弥。
衛宮切嗣がこの戦いに臨む以前──未だ世界には救いがある筈だともがきながら戦場を渡り歩いていた頃に拾った戦争孤児。
それが今や衛宮切嗣の片腕にまで上り詰め、彼女のサポートなしでの任務遂行など切嗣自身も考えられなくなるほどに成長した。
その成長が、果たして彼女にとっての幸福なのかは分からない。
これまで続いた戦いの日々が、彼女にとっての正しい未来であったかなど、切嗣には判じ得ない。
そんな事を想う事さえ、きっと許されて良い筈がない。
切嗣は舞弥を自身のサポートの道具として生き永らえさせ、完成させた。
彼女は切嗣の命令に唯々諾々と従い行動し、命令があればたとえ幼子とて機械の如く精密に容赦なく殺害する。
切嗣は彼女の在り方に疑問を抱かない。そう造り替えなければ、この男の隣に居つづける事など不可能だったのだから。
だから此処にあるのは事実だけ。久宇舞弥はその命散らすまで衛宮切嗣に尽くし、果てるのみ。
彼女の人生について口を出す資格も権利も切嗣にはなく、その問いを封殺したまま、この最後の戦いを共に駆け抜けるだけだ。
やがてワンボックスカーは停車する。新都より冬木大橋を超え深山町へ。その一画、日本家屋の立ち並ぶ道路で停車した。
車から降りると目に留まるのは古び鄙びた門構え。結構な敷地面積を持つ武家屋敷へと何の感慨もなく二人は入っていく。
正面の入り口からではなく横道に逸れて中庭へ。手入れなど行き届いていない草木の生い茂った庭を突っ切り、縁側に荷物を置いた。
「全ての機材の搬入は済んでいるな?」
「滞りなく。銃火器の整備や調整(メンテナンス)も最終確認(チェック)も既に」
「ならば早速召喚を行う。手伝え」
「はい」
切嗣が戦闘に用いる各武装はこの冬木へと渡る以前、常冬の森で一度全てのチェックを済ませている。魔術師衛宮切嗣の愛銃も、この戦いの為に調達されたものも全て。
この都市は戦場だ。その場所に踏み込むにあたり、切嗣と舞弥が何の準備も済ませていないなんて事は有り得ない。
十年近くのブランクも、出来る限りの射撃訓練と肉体強化で取り戻した。戦場における感覚のようなものまでは完全に取り戻せてはいないが、今の切嗣は戦場を駆けずり回っていたあの頃と比べて遜色はない筈だ。
いや、迷いを抱えながら、自問自答しながら銃を握っていたあの頃を思えば、やるべき事が明白で、そしてこの戦いが全てに決着を着けるものと理解しているのだから、その意志力は過去に勝る。
今の衛宮切嗣は、この戦いに勝利する為に鍛え上げられたもの。その心は鋼の如く何にも揺るがず、ただ聖杯の頂を目指して邁進するのみ。
その過程で踏み躙る事になるであろう全てのものにさえ、躊躇はない。世界の全てを、六十億の人間を救う事に比べたら、この街一つ犠牲にしたところでお釣りは余るほどくるのだから。
庭の片隅に打ち棄てられたように立つ古めかしい土蔵の中で、その作業は進められる。
月明かりだけを頼りに露出した地面に特殊な塗料と切嗣の血を混ぜ込んだ液体で陣を構成する。ものの数分、たったそれだけの作業で、後に残すは最終工程──契約の呪文を唱えるのみ。
これから喚び出されるもの、そしてその後に待ち受けるであろう展開について軽く話し合った二人。切嗣は土蔵に残り魔法陣の正面に立ち、舞弥は然るべき準備の為に屋敷の中へと赴いた。
「さて──」
──始めるか。戦いを終わらせる為の、最初の儀式を。
言葉にはせず、代わりに口から紡ぎ出されるは契約の祝詞。
サーヴァント召喚の為の呪文は朗々と、高らかに歌い上げられ、発光する魔法陣と差し込む月明かりの中に溶けていく。
その声に澱みはなく、澄んだ祈りにように木霊する。
衛宮切嗣がその胸に抱く、余りに清い祈りのように。
この世界は争いに満ちている。
そしてその争いの中に響くのは慟哭と怨嗟の歌声。
権利や利権といった一部の者の私欲を満たす為だけに、無辜の人々は嘆きの声を張り上げる。ただ平穏に暮らせればいいのに。ただ健やかに生きられればそれで満足なのに。人の悪意は、そんな祈りを許さない。
一つ手に入れればまた一つ。十を掴めば更に十。人の欲望に際限はない。手に掴めば掴むだけ、もっともっと欲しくなる。その渇きを潤せるものは徐々に減り、最後には他者より奪う他になくなる。
故に争いは起こる。いつの世も。いつまでも。永遠に。永劫に。人が人である限り、その連鎖は止まらない。神なんてものが存在するとするのなら、人は最初からそう造られているのだから。
ならばその醜い連鎖を食い止めるにはどうすればいいか。
そう考えた切嗣の行動は単純で、より多くの人を救う為に少数の人間に犠牲になってもらう事だった。
別にその犠牲が権力者である必要はない。要は争いの火種になりそうなものを事前に刈り取ることで、より大きな野火を防ごうという考え。
戦火を出来る限り小さくする為に、全く無関係な人間を手に掛けた事もある。けれどそうする事でより多くの人間を救う事は出来た。
自分自身を天秤に変え、その両皿に載る命の多寡だけで討つべきものを決定する。そこに貴賎はなく切嗣個人の価値観も先入しない。
あくまで計るのは命の量。事実、切嗣は彼自身の大切な人でさえ、その手に掛けた過去を持つ。
しかしそれでも、そこまでしてもその行いはあくまで負の連鎖を食い止めるだけ。断ち切る事は決して出来ず、ましてや人間一人の手で出来る事なんて限られていた。
衛宮切嗣が救った人間の数は、彼の関係しない場所で死んだ者の数には到底及びもしないものでしかなかった。
だから──だからこそ切嗣は救いを求めた。
人の身では為しえぬ奇跡。人の手で届かぬ終焉を掴む為に──
この地の聖杯にはそれだけの力がある。
たとえその杯が神の血を受けぬ偽物であったとしても、それが真実祈りを叶える代物であれば、それは間違いなく聖杯と呼べるものなのだから。
「────告げる」
膨大なエーテル流が乱舞し、荒れた土蔵の中を乱流する。
砂塵が舞い、目も開けられぬほどに激しく猛る風の中、切嗣は決してその瞳を閉じる事無く最後の言葉を謳い上げる。
「抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ────!」
此処に契約の呪文は完了する。
声は此方と彼方を結び、言葉は彼の地より願い宿す英霊を喚ぶ道となる。
衛宮切嗣が喚ぶべき英霊は最優のクラスに座する最強の剣の使い手。
マスターたる切嗣が持ち得ない、確固たる強さと誠実さを併せ持つ至高の王。
「問おう──」
その身は遍く騎士達の導であり誇り。
十の戦場を越えて不敗。
ただの一度の敗走もなく。
手に掴み取るは約束された勝利のみ。
星の輝きにも似た光──今なお信仰と栄光を語り継がれる御伽噺の主人公。
「──貴方が私のマスターか」
幾千の時を超え、騎士の中の騎士が、今宵現世へと熾天より舞い降りた。
+++
月の雫に濡れる金砂の髪。
宝石のように美しく煌く翠緑の瞳。
目も醒める蒼で彩られたドレスと、その身を覆う白銀の甲冑。
そして目の前にするだけで感じられる威圧感。
手の甲が灼熱し、刻まれていた令呪が赤く燃え上がる。
目の前の存在こそが人にあって人ならざるヒトだと告げている。
この『少女』がおまえのサーヴァントだと、明確に告げていた。
「…………」
切嗣をして一瞬、我が目を疑うほどの衝撃。
歴史上男性であると語り継がれている筈の存在が、年端もいかぬ少女の姿で現れたとすれば、切嗣の驚愕は驚くほど小さなものだと言えよう。
「マスター……?」
怪訝な瞳で見つめてくる少女の瞳を見つめ返し、目の前の存在が本当に望んだものであるか確認すらしようとせず、淡々と、冷静に、
「──告げる」
当初の予定通り、その命令を下した。
「その素性、状態にまつわる一切に嘘偽りなく全てを述べよ──令呪を以って命ずる」
「なっ──!?」
召喚完了直後の灼熱にも劣らぬ熱が切嗣の手の甲を焦がし、三画しかない絶対命令権の一画を空に昇華させて、その意図の読めない命令は発動した。
召喚の直後、互いの名を交換するその前、目の前に現れたその瞬間とも呼ぶべき間隙。その隙を衝いて発動された命令は白銀の少女の身体を縛りつけ、強制的にその口より命令に沿った言葉を吐き出させた。
己の素性。
来歴。
その最期。
祈りの正体。
クラス名。
真名。
能力値。
保有スキル。
宝具。
現在の状態。
ありとあらゆる情報を洗い浚い澱みなく喋り続けるセイバーと名乗ったサーヴァント。その表情は疑問と苦悶に濡れ、瞳は土蔵の隅に捨て置かれていた木製の箱に腰掛けて耳を傾けている己がマスターを睨み付けている。
切嗣は少女から発せられる怒気にも一切関知する事無く、瞳を閉じたまま黙し続ける。
「………です。はっ──、か、はぁ、……っ」
およそ半刻。休みなく喋り続けていたセイバーの弁が止まり、その声は苦しみを伴い音を吐き出す。
それも当然、それだけの長い間話し続けて苦しくない筈がないのだから。
たとえその身がエーテルで編まれた仮初のものであったとしても、確かにこの世界に存在する以上、痛覚は痛みを知らせ酷使された肉体は現実の枷に縛られる。つまるところ、セイバーが次に発する言葉もほぼ予測可能という事だ。
「マスター……!」
枯れかけの声をそのままに、セイバーのサーヴァントは詰問を開始する。
「何故、このような事に、令呪を……!」
令呪はマスターに与えられたたった三度の命令権。絶対遵守の戒めだ。それは理の外に身を置くサーヴァントを縛り付ける事も、一時的な強化をも可能とする聖杯戦争における一つの切り札。
切嗣はその切り札をサーヴァントの素性を知るその為だけに使用したのだ。たった一画とはいえ、余りに無駄な浪費。これで他のマスターより一つ不利な立場になったと言わざるを得ない。
「その程度の質問、問われれば答えていた! 令呪を使ってまで、今問うべき事ではないだろう!?」
セイバーの怒りは当然だ。
この戦いに喚ばれるサーヴァントもまた聖杯に託す祈りを抱えている。その祈りを叶える為にマスターとの共同戦線を繰り広げていくのだ。
しかしこの程度の事に無為に令呪を使用するマスターと共に戦っていけるのかという疑問が生じる。
疑問は猜疑を招き、二人の関係に罅を入れる。罅だけならばまだいいが、これが完全に壊れてしまえば、もはや聖杯を手にする事など不可能だろう。
だからセイバーが問うのは当然のこと。この令呪にどの程度の意味があるのかを知らねばならない。本当に無知で蒙昧な理由であったのならば、今後の関係に多大な影響を及ぼしかねないのだから。
セイバーの憤怒の声にも射殺さんばかりの視線にも動じる事無く、切嗣は重い腰を上げ口を開いた。
「では逆に問おう。今おまえが述べたその全て、ただの質問で一つも余さず逃しもなく答えられたか?」
「それは……」
きっと無理、だろう。素性や真名、宝具などはともかく自らの抱える祈りやその最期について、何の隠し立てなく述べられたかと問われれば、きっと首を縦に振る事は出来ない。それほどのものを、このセイバーは抱えているのだから。
「そしてもう一つ。おまえは新しい剣を手にする時、その剣の正しい情報を把握しようとは思わないのか?」
剣の製作者や作られた年代。切れ味や秘めたる能力について、知りたいと思わないわけがない。切嗣のそれは行き過ぎてはいるが、間違ってはいない。
サーヴァントとは、聖杯戦争におけるマスターの手にする剣だ。その正しい運用方法を知る為には、まずその素性の全てを完璧に把握していなければ話にならない。
互いに言葉を交わし、時間をかけて良く知るというのも一つの方法だろう。だが切嗣はそれを否とした。そんな時間はないと断じた。
最善にして最短、最効率の運用を最初から行う最良の方法が、このやり方であったというだけの話。
「別に納得しろとは言わない。ただ理解しろ。おまえも祈りを抱えこんな時の果てにまで迷い込んだのだろう。ならばその祈りを叶える為に最善の方法を模索しろ。最良の手段を選択しろ。それだけ出来れば他には何も必要ない」
信頼も手を取り合う事も背中を預ける事も不要。ただ聖杯の頂を目指しその瞬間に応じた最善を行い続けろと切嗣は言う。
口にするのは簡単だ。行動に移すには困難で、他者に理解を求めるのは更に難解だ。
それでも胸に抱いた祈りが本物ならば清濁併せ呑むしかないと理解に至ると確信する。この少女の祈りは、それほどまでに強固で揺るがし難いものである筈だから。
「……非礼を詫びますマスター。貴方の言う事はもっともだ。
しかし一つだけ確認したい。我々は既に令呪の一つを失った。これは他のマスターにアドバンテージを自ら捧げたようなもの。それでなお、聖杯を手にするその頂まで勝ち抜くだけの自信があるのですね?」
「当然だ」
一瞬の迷いもなくそう口にする。
揺るがし難い祈りを抱えているのは何もセイバーだけではない。切嗣自身もそうであるのなら、この令呪の使用も作戦工程の一段階に過ぎない。
全ては勝利の為。その手に聖杯を、奇跡を掴み取る為の布石。ならばその意志に迷いなどあろう筈がない。
「それを聞いて安心しました。ならば我が剣、如何様にも使って頂いて構いません。
誓いを此処に──我が身我が剣はマスターの剣として盾として、共にこの戦いを勝ち抜く事を誓いましょう」
一画を欠いた令呪が発光する。灼熱ではない温かな輝き。それはマスターとサーヴァントが互いを認め合った事に起因する、合図のようなものだった。
此処に契約は完了した。
魔術師殺しの衛宮切嗣と最優のセイバーとのタッグが、この夜結実をみた。
+++
契約の完了と共に差し出されたセイバーの掌。白銀の手甲に覆われたそれは、誓いの握手を望んでのものだろう。
しかし切嗣はそれを一瞥しただけで黙殺し、今後についての話を始めた。
「僕達の採るべき作戦は簡潔にして明瞭。互いが最善を尽くせる戦場に身を置き、各々が倒すべき敵を討つ。それだけだ」
「……口にするのは簡単ですが。そう上手くはいかないでしょう」
「いかせるさ。その為のセイバー(おまえ)だ」
切嗣は懐に手を忍ばせ、掴み取ったものをセイバーへと放り投げる。容易く掴み取ったセイバーは、見慣れぬものに目を白黒させていた。
「これより先は別行動だ。後の指示はそれに従え」
「は……? まさかマスター、貴方は一人で戦場に挑もうというのですか!?」
「何度も言わせるな。互いが最善を尽くせる戦場に身を置くと。僕とおまえでは戦いの舞台が違いすぎる。同じ戦場にいてもまるで意味がない」
別行動には別行動の利点がある。マスターとサーヴァントの戦場が違うという事も理解は出来る。
だがそれは、共に行動する事のメリットさえも放棄するという事に繋がる。
「…………」
いや、ほんの短い時間とはいえ、衛宮切嗣という男に触れたセイバーは、その身に宿る直感を信じる事にした。
この男の言に嘘はない。全ては勝利の為の行動であり作戦。祈りの成就は全てにおいて優先される事項であると。
「承知しました。御武運を、マスター。御身が窮地に陥りし時は、必ずや駆けつけます」
その激励にも応えず、切嗣は背を向け土蔵の外へと歩き出す。
──ああ、駆けつけて貰うさ。何度でもな。そうでなければ勝利はない。
心の内にその言葉を秘め、月明かりの降る庭園と躍り出た。そこに待機していたのは事前に頼んでいた準備を終えたであろう舞弥の姿。
「必要なものが少しだけ増えたようだ。手配は任せる」
「はい。既に何件か当たっています」
本当に手回しが良い。
これならば背中に憂慮は一つとしてありはしない。
今夜最後の作戦行動を開始した舞弥の背を見送りながら、切嗣は庭園で月を眺めた。
月光に濡れながら、懐より取り出したのは煙草のケース。一本を引き抜いて、安物のライターで火を灯す。
肺を満たす紫煙に懐かしさを覚えながら、今後の展望に想いを馳せる。
既に知れている敵はどれも強敵ばかり。未だ情報のない連中も、そう易々とは勝たせてはくれまい。
それでも戦うと決めた。この祈りを叶える為に、他の何を犠牲にする事も厭わないと覚悟した。
この地で流れる血を最後に、この世界より争いを失くす為に。
そんな子供じみた夢想を後生大事に抱え、男はこの地に辿り着いた。
聖杯よ、我が祈りを受け取れ──そして世界を光で満たしてくれ。
叶わぬ願いをその手に掴む為。
まずはその手で刈り取るべき敵手達を撃滅する愛銃を再び手にすべく、切嗣は屋敷の内へとその姿を消した。
+++
切嗣が姿を消した土蔵の中で、セイバーは受け取った機器を装着した。それは小型に改良された通信装置。耳に装着するだけで遠方との通話を可能とする代物だ。
セイバーはその事情により霊体化が出来ないという失点を逆手に取る手段。
現代の魔術師は機械を軽んじている傾向にある。これで少なくとも念話を行い傍受される可能性は潰えた。
機器を耳につけてから数分。
『聞こえますか、セイバー』
切嗣のものではない女性の声が、セイバーの耳朶に響いた。
「貴方は……?」
『私は切嗣の助手を務める者です。そしてこの戦いの間、貴方のサポートを行う者でもあります』
「…………」
切嗣が単独で戦場を駆けるつもりならば、なるほど、バックアップ要員は存在して然るべきだ。ただでさえマスター単独での行動はリスクが付き纏うというのに、そこにサーヴァントであるセイバーの行動方針の指示まで並行して行うのは無理がある。
一瞬の油断が死を招く戦場を横行しようというのだ、まず考えるべきは自身の安全。切嗣の敗北はセイバーの敗北を意味するのだから。
「分かりました。私は貴方の指示を切嗣(マスター)の指示として受け取れば良いのですね?」
『理解が早くて助かります』
「一つだけ訊いておきたい。貴方の名前は?」
『それを述べる必然性はありません。
私は切嗣と貴方をサポートする為だけに存在するもの。ただのオペレーター(NPC)として扱って頂いて構いません』
「……なるほど」
流石は切嗣がその背を預ける者だ。この女性もまた、無駄な行為が嫌いらしい。
「それで、私は今後どう動けば?」
『指示はその都度行います。今夜に関しては、この屋敷の中から出なければ自由にして頂いて結構です。
明朝、霊体化の出来ない貴方の下に必要な物資を届けますのでそれまでは待機でお願いします』
「承知した」
『では良い夜を、セイバー』
プツン、と音を立てて耳元の機器から音が消える。今夜はこれ以上の指示はない、という事に間違いはなさそうだ。
セイバーも切嗣に倣い土蔵の外に出る。
先ほどまではあった切嗣ともう一人の人物の気配もこの屋敷の中には既にない。それぞれの目的の為の行動を開始しているのだろう。
セイバーには特別やるべき事はない。待機を命じられた以上不用意な行動をするわけにいかなかった。
「────」
だからセイバーは、縁側に腰掛けぼんやりと空を仰いだ。蒼白い月の輝く綺麗な夜を、ただじっと見つめていた。
彼女は星見による占いのようなものを多少なりとも心得ている。しかし今夜は月の光が余りに強く、そして美しいが故に星見には適した夜ではない。
それを差し引いても、白銀の騎士は自らのこれからの命運を占おうとは思わなかった。これより先の道程は自らの手で切り拓くものだ。
艱難辛苦に塗れて、それでもなお這い蹲ってでも進まなければならない過酷な道。ならばこの一時、最後とも呼べる休息の時間を、穏やかに過ごしたいと思った。
何より。これほどの美しい夜空を前に、そんな無粋な事をしたいとは思わなかったのだ。
「どの時代から見る空にも、貴方はそこにいるのですね」
夜を照らす丸い月。冴え凍る輝きを煌々と地上に降らせ続けるその月を、懐かしむように眺めている。
セイバーにとって見ればそれは数分前の出来事。でも確かに此処は、あの時代より遥かな未来だ。
時の彼方で願うは祈りの成就。何をおいても叶えなければならない尊い祈り。他の六人六騎を退け、セイバーは願い叶える聖杯を必ず掴む。
「その為にこの場所へ来た。その為に──この身は剣となった」
今やその身は王ではなく騎士でもなく、ただマスターの為に振るわれる剣だ。
そう諦観し、そう覚悟し、そうであれば何を犠牲にしても心を痛める事はないと自分に暗示をかける。
「何を踏み躙っても、誰を傷つけてでも、私は必ず──聖杯を……」
空へと手を伸ばす。掴み取れそうな月へ目掛けて手を伸ばす。
幾ら伸ばしてもその輝きは掴めず、掌は虚しく空を切るだけ。
その手が掴むべきは空に浮かぶ月ではない。
屍の上に輝き、血で満たされる黄金の杯なのだから。
/2
戦いは何時如何なる時に起こり得るか、それは誰にも予期し得ない。
予期出来るのは自ら騒乱を巻き起こそうとする者か、戦場になり得る全ての地点を監視している者だけだろう。
前者は予期するとは言い難く、後者はそんな芸当をやってのけられる者は限られる。
故にウェイバー・ベルベットという若輩魔術師にとって、目の前に起こった全ての事象が予期しえないものだった。
+++
彼は歴史は浅く、魔術の薫陶も未だ持ち得ない未熟な魔術師だ。
鳴り物入りで時計塔に入学したと思っていたのは当然本人だけで、事実、入学後の彼に対する周囲の扱いは冷め切っていた。
魔術を司る協会における最高学府である時計塔において、もっとも重視されるのはその血統であり歴史。血の濃さは魔術師の力量を如実に表し、歴史の深さは脈々と受け継がれてきた刻印の密度を物語る。
ほとんど魔術を聞きかじった程度でしかないウェイバーに、誰もその目を向けない事はある種の必然だった。
それでも彼は努力した。血や歴史など才能と経験と努力で覆せるものであると信じて疑わなかった。それがたとえ、持たざる者の醜い嫉妬心からの頑なさであったとしても、それは彼の心を支え続けた唯一のものだった。
しかして当然、彼の血の滲む努力は徒労に終わる。
血と歴史。それが何代も続く経験と努力の賜物であるのなら、四半世紀も生きていない小僧の血の滲む“程度”の努力で覆す事など不可能にも近い。
あるいは。彼に本物の天賦の才があったのなら、また別の行く先もあっただろうが、虚しくもウェイバーには人並程度の才能しか、この時はまだ持ち得なかった。
周囲から向けられる嘲笑。
蔑みの目。
当然のような冷遇。
深められた血統と積み重ねられた歴史だけが全てであるこの魔窟に反感を抱き書き上げた論文。
それは現状の閉塞感と腐敗の原因。そしてその打開方法を論理的かつ合理的に書き上げた──と少なくとも本人は確信していた──代物であり、魔術界に新風を齎すと意気揚々と提出したレポートは、今を輝く時計塔の花形講師に破り捨てられ、彼の心はそれでも折れなかった。
諦めない事に才能があるのなら、彼はその才は間違いなく持っていた。
耳に届いた、憎き講師がこれより参戦する大儀礼の名。
聖杯戦争。
万物の願いを叶える願望機。
七人七騎の殺し合い。
偶然にも手にした聖遺物。
渾身の論文を破り捨てた講師への幼い復讐心。
そして勝者となった暁に齎されるであろう栄光。
幾重にも重なり渦巻く感情を胸に、少年は極東の地日本へと飛び──
そして最高の手札を引き当てた。
「なのに──」
ならば一体、目の前の光景は何だというのか。
手綱を握るのも困難な気性の荒いサーヴァント。マスターとサーヴァントの関係をまるで無視した豪放磊落にして破天荒な王を名乗る者。燃えるように赤い鬣と真紅のマントを靡かせる大巨漢。
「ぬぅ……!」
繰り出される赤き閃槍。間断なく繰り出されるそれを迎撃する無骨な剣。
ただただ視界に光る槍閃を受け、流し、回避し続けるウェイバー・ベルベットのサーヴァント。
こんな筈じゃなかった。こんな予定じゃなかった。なんで──
「おいっ! なんで、おまえっ、圧されてるんだよっ!? そんなヤツに、あんなヤツのサーヴァントなんかに──!」
槍を振るうサーヴァントの遥か後方、余裕の笑みを浮かべる一人の男。
ウェイバーの論文を流し読みしただけで破り捨てた憎き男。
濃密な血と深い歴史、そして類稀な才能──その全てを持ち合わせた神童が、三日月の笑みを浮かべ笑っていた。
+++
事の起こりは偶然。もしそれが偶然でないのなら、全ては因果に則った筋道だったのだろう。
ウェイバーにはまだこの戦いの意味が理解できていなかった。勝利の果てに手に入る栄光にばかり目が眩み、その場所へ辿り着くまでの困難さを、彼は真実理解していなかった。勝利の為に流れる血は、何も相手のそれだけではないという事を。
此処は冬木教会の膝元にある外人墓地。その場所で赤き槍を担うサーヴァントと、紅い巨躯のサーヴァントが対峙していた。
痩躯でありながら必要十分な筋肉を持つ槍の英霊は、乱立する十字架を軽やかに躱し、足場にし、盾にして戦闘を有利に進める。対する巨躯のサーヴァントは手にした無骨な剣で相手の槍を受けるばかり。
その巨体に似つかわしくないスピードを以ってしても、槍の英霊のそれに比べれば児戯にも等しい。故に無駄な翻弄を良しとせず、どっしりと構え迎撃の態勢で致命傷だけは確実に避けていた。
しかしそんな様は、戦場に立つのは初めてで、ましてやそれが常軌を逸した殺し合いであると知れるのなら、ただの若造でしかないウェイバーには、自分のサーヴァントが一方的な防戦を余儀なくされているようにしか映らない。
響く剣戟の音。耳を劈く鋼の応酬。闇夜に咲いては消えていく火花の雨。その戦いの行方を、二人のマスターが後方より俯瞰する。一人は額に汗を滲ませ焦燥に駆られながら。一人は余裕の笑みを口元に浮かべながら。
「何故、か。むしろこちらが聞きたいな、ウェイバー君。君は何故、私のサーヴァントに対抗できると思ったのかね?」
ウェイバーにとって憎き男──ケイネス・エルメロイ・アーチボルトが謳う。
「サーヴァントのパラメーターにおける基本ステータスを決定付けるのはマスターからの魔力供給量だ。君のそれと私のそれ、どちらが多いと思っている? よもや自分がそのサーヴァントに相応しいマスターだとでも思っていたのかな?」
ケイネスの口は軽やかに回る。当然、自身と相手の力量差が分かりきっているからだ。
「ならば勘違いも甚だしいな、ウェイバー・ベルベット。ああ、君が私の聖遺物を盗んだ事など瑣末な事だ。どれだけ高位なサーヴァントを呼ぼうとも、マスターが木偶では意味がない」
「うっ……」
反論のしたいウェイバーだったが、目の前の現実がそれを押し止める。圧しているケイネスのサーヴァントと圧されている自分のサーヴァント。
そして自身の内包する魔力量が、ケイネスのそれの足元にすら及ばない事も理解が出来てしまうから。口を衝く言葉が何一つ浮かんで来ない。
もし強引に口を開いても、出てくるのはきっと、ただの負け惜しみに過ぎないのだから。
「しかし一応は訊いておこうか。貴様は何故、私の聖遺物を強奪した」
「…………」
奪おうと思って奪ったわけじゃない。偶然にもそれは転がり込んできて、そして血統と歴史に取り憑かれ腐敗し切った時計塔で勝ち取る栄誉よりも、この地で掴む栄光の方が華々しいと、そう思っただけに過ぎない。
聖杯を巡る闘争において、ケイネスが持つような経歴や肩書きは何ら意味を為さない。戦場にあるのは実力のみ。ただ己の力のみが全てを証明する。その野蛮さを良しとして、ウェイバーは冬木へと乗り込んだ。
だがウェイバーは侮った。見縊っていた。ケイネスの肩書きや経歴が、一体何に裏付けられているのかを。
そして彼の講師が、ただ一つの聖遺物を紛失した程度で、その輝かしい経歴に添えるべき最後の花を諦めるような男ではないという事を。
故にこの対峙は必然であり、この時の出会いは全くの偶然。けれど合い見えた以上、どちらも退く足を持たない。
「ハァ────!」
マスター達の会話を余所に、墓地の中心で踊るサーヴァントの戦いは激化する。もはや視認すら不可能な速度で赤き槍は繰り出され、致命傷を回避する事のみを念頭に置かねば巨躯のサーヴァントには打つ手はない。
これは序盤戦における緒戦の初戦。どちらも互いに様子見の体を残してはいる。現に槍の英霊は手にした赤き槍に呪布のようなものを巻きつけその真価を覆い隠し、巨躯のサーヴァントは無銘にも近い剣を振るっているに過ぎない。
どちらもが切り札を隠し持っている。彼らがかつて英雄と呼ばれた時代、そのシンボルとして用いた武具、あるいはそれに類するもの。
英霊の半身とも呼ぶべき宝具を。切ってしまえばその真名さえ知れてしまう、けれどそれに見合った威力を持つであろう絶対の切り札を。
「さぁどうするねウェイバー君。このまま君のサーヴァントが嬲り殺しにされるのを黙って見ているつもりかね? マスターとしての役割を果たしてはどうなんだ? ああ、失敬、そんな頭を持ってはいなかったか」
憐憫を滲ませた嘲笑が戦火の中に混じり溶ける。馬鹿にされた少年は、それでも奥歯を噛み締めるしかない。それも当然、彼は知らないのだ。己がサーヴァントが如何なる宝具を所有しているかを。
現有する戦力を正しく把握していない以上、下せる命令は曖昧模糊。何に対してどう指令を出せば良いか、分からない。そもそもの話、戦いを経験した事のないウェイバーが、下せる命令など何一つとして有り得ない。
いや、ある種何も命令しない事がこの場合の最善ではあろう。無闇矢鱈に適当な命令を出して場を乱すよりは、戦いの全てをサーヴァントに預けてしまう方が利口だろう。
ただウェイバーは、それを意識して行っているわけでも、無意識に行っているわけでもなく、ただ、何をどうすれば良いか分からないだけなのだが。
何かをしたかった。何かをしなければならないと思った。
碌にサーヴァントを支援出来る魔術も習得していない。戦場における心構えだって出来ちゃいない。奔放な王者に振り回されるだけの、未熟なマスター。今の自分が置かれている現状を確かに把握し理解して、そして納得する。
何も出来ない。
ウェイバー・ベルベットには、何を為す術もない。
それでも何かをしたいと願ったウェイバーに今出来る事。それは、
「おいっ! おまえは強いんだろっ! 世界を手に入れるんだろ!? だったらそんなヤツさっさと倒せよ! なあ────!!」
腹の底から声を上げ、ただただ己がサーヴァントの勝利を願う他になかった。
「ふぅぬぅぅぅぅん……!」
雷光の速度で放たれた赤き閃槍を、両手で握り締めた渾身の一撃で以って弾き返す。速度を重視した槍は圧倒的な怪力に弾かれ、一瞬ばかりの隙を生む。けれど槍の英霊は焦りもなく軽やかなステップで後退し場を仕切り直した。
「ったく煩い坊主よなぁ全く。こう真後ろでぎゃあぎゃあと喚かれちゃ戦いに集中出来んではないか、なあ槍使い(ランサー)」
「…………」
無駄口を叩く事を許可されていないのか、あるいは主の手前無駄な問答などするつもりなどないのか、槍の英霊は静かに佇む。己がマスターの指示を待つ。
「煩いって……だ、誰のせいだと思ってンだ!? おまえがそんなヤツに負けそうになってるせいだろっ!?」
「誰が負けそうだこの阿呆。彼奴も彼奴のマスターもこの場で余を討ち取ろうなどとは微塵も思っておらんよ。貴様を挑発してこっちの宝具(てふだ)を晒させるのが目的よ」
「ほう、腐っても私が喚び出そうとしたサーヴァントだ。その程度、看破出来て当然か」
「本気で余の首を獲ろうというのなら、そんな小細工はさっさと外しておるだろうさ。なあ槍兵」
巨躯のサーヴァントの視線の先には、赤い槍に巻きついた呪布が風に靡いている。
槍に記された何らかの刻印を覆い隠す為のものか、槍自体に付与された能力を制限する為のものなのか、判然とはしなかったがどの道全力での戦闘に制限を課しているのは間違いのない事だった。
「加えて槍兵よ。貴様、何か妙だぞ? それだけの腕を持ちながら何処か違和感を感じさせる槍捌きだ。
何がおかしいのかは分からんが、貴様の槍は妙……いや、読み易すぎる気がするぞ?」
ウェイバーには己がサーヴァントが何を言っているのかまるで分からなかったが、相手のサーヴァントと、そしてマスターの眉間に僅かばかりの皺が寄るのを見て取った。何か相手の隠しているものに触れたらしかった。
「ふん、流石は王を名乗る者。良い目をお持ちだ。で、それでどうする? その読み易い槍をすら防戦とするしかなかった貴方に一体何が出来ると?」
「貴様らに勝てる」
振り上げられたキュプリオトの剣。暗闇に輝く鋼の刃は、風を斬り闇を断ち王者の手によって振り下ろされた。
瞬間──その異常が顕現する。
振り下ろされた剣閃から滲む膨大な魔力。剣の辿った道筋は、何もない空間をこそ断ち切った。顎門を開く虚空の洞。開かれた門より出ずるは、王がその手にした剣で戒めの楔を断ち切った雷神の戦車──
「活目せよ。これが余の宝具──『神威の車輪(ゴルディアス・ホイール)』である!」
主の命に従い参上した御者台を牽く二頭の神牛が嘶いた。
地を掴む蹄は力強く。上げる雄叫びは夜を裂いて余りある咆哮。彼らの声に呼応するように、雷光が一瞬火花を散らした。
「…………」
現れた強壮な宝具を見やり、ケイネスは目を細める。ウェイバー・ベルベットが彼の聖遺物を盗んだとするのなら、召喚される者の真名は知れていた。
だが一体どのクラスに招かれ、どのような宝具を所有するかは、想像は出来ても確信は持てなかった。
英雄が所有する武具は何も一つとは決まっていないし、クラスの制限に引っ掛かれば持ち込めない宝具もあるかもしれない。だから招かれた英霊の真なる実力を把握する術は実際にその目で能力と宝具を見極めるしかないのだ。
「……ふむ」
その為にケイネスはわざわざランサーの能力に制限を課し、戦闘においても様子見を徹底させた。こちらが最初から本気を出せば相手もそれに応じるだろうが、他のマスター連中が盗み見ていないとも限らない。
故にこちらが切る手札は最小限に、相手により多くの札を切らせるのが彼の目的であり──
「見て取ったぞ騎乗兵(ライダー)。貴方の宝具、そしてクラスをな」
その目論見は成功を収めたと言える。
「ほう、そりゃ良かったな。余は別に隠し立てはしとらんぞ? 天地に憚るものなど何もない。この征服王イスカンダルにはな────!」
誰が何処で聞き耳を立てているとも知れぬ戦場の只中で、巨躯のサーヴァントは自らその真名を謳い上げた。ウェイバーとて呼ばぬよう細心の注意を払っていたというのに、何たる様か。
「オ、マ、エェェェェェェ! なんで自分で真名バラすンだよッ!?」
「何を言う坊主。知られたところで何かが変わるか? 何か不都合があるか? たとえあったとしても捩じ伏せよう。余の征服の前に立ちはだかる悉くを打ち倒し、余の祈りの礎に変えるまでよ!」
それは御三家の構築したサーヴァントシステムに喧嘩を売るにも等しい行為。真名は秘匿して然るべきもの。
名を知られてしまえば如何様にも対抗策を講じる事が出来る。だからクラス名でその名を隠し、宝具の能力もまた極力制限して戦っていくのだ。
しかして征服王イスカンダルはあえてその全てを晒して戦う事を良しとした。名を隠し切り札を隠して戦う事など性には合わぬと。そしてそれらを知られ対策を講じられても問題など何一つとしてありえぬと。
それは己に絶対の自信を持つが故の無謀。余りにも馬鹿馬鹿しいが、こうまで突き抜けてしまえば逆に清々しささえ感じさせる。
「く……ククク、……クハハハハハハ…………!」
闇に響く高笑いはケイネスのもの。
「ああ、全く。こうまで豪胆な王だとは思いもしなかった。良かったなウェイバー君。ここまで強大な自我を持つサーヴァントなら、君が手綱を握る必要もあるまい。したいがままにさせるが最良だろう。
そして感謝しようではないか。こんな王だと知っていれば、私は貴方を召喚しようなどとは思わなかっただろう。いや、こればかりは救われた気分だ」
正しく魔術師であるケイネスにとって見れば、御し切れぬ可能性を持つサーヴァントなど論外もいいところだ。
もしこの赤毛の王を召喚していたらと想像するだけで怖気が走る。
マスターとサーヴァントの関係は、正しく上下でなければならないとケイネスは思っており、ならば従えるべきはマスターを君主と仰ぐ騎士であるべきなのはある種の当然と言えよう。
自身を王と仰ぐ者を傅かせる困難さを、どうやらケイネスは見誤っていたらしい。
「余としても貴様のようなマスターに招かれんで幸いよ。確かに坊主がマスターであるよりも十全な力を発揮出来よう。しかしな、あれも駄目これも駄目と抑えつけるような奴がマスターでは窮屈だ。
それならば、まだ坊主の方が余は心地良い」
別段ウェイバーは好きで赤毛の王を自由にさせているわけではなく、出来る事なら上下関係を正したいと心底思っているのだが、こうも堂々と憎きケイネスよりもマシだと言われては、毒気も多少は抜けていくというものだ。
「さぁて、ランサー。第二幕と行こうじゃないか。単なる近接戦闘では余は貴様やそれを得意とする連中には及ばんだろうが、余には余の戦術というものがある。
世界に覇を唱えし征服王が軍略──その身で受けきる覚悟があるのなら、いざ尋常に掛かって来いッ!」
啖呵を切り、そして手にした剣を握り締める王者と、それに呼応して地を蹴り始める二頭の神牛。対するランサーもまた膨れ上がる戦闘の気配を察し、手にした赤き魔槍を両の手に担おうとして──
「良い。今宵はこれまでだ──退くぞランサー」
呟きと共に闇夜に生じる霧。それはやがて濃霧となりケイネスとランサーの姿を覆い隠していく。
「ぬ、逃げる気か」
『ああ、逃げるとも。何故わざわざ真正直に戦ってやらねばならない? 真名とクラス、そして宝具が知れたのなら、これ以上の戦闘には何の意味もない。
まだ戦いは始まったばかりなのだぞ? そう急かずとも何れ決着は着けてやるさ。なあウェイバー・ベルベット』
「────っ」
魔術による撹乱か、声の発生源は不明で、それでなお背筋をも凍らすほどの敵意を滲ませた音がウェイバーの耳朶に木霊する。
『何れ雌雄を決しようじゃないか。サーヴァント同士は無論の事、私と君のそれもな』
それだけの言葉を残し、僅かにあった気配もまた消えていった。そして霧が晴れた時、墓地に残されたのはウェイバーと不満げな顔をした王だけだった。
「ふん、逃げ足の速い奴らめ」
それは悪態であり、そして賞賛であった。
敵の情報を知り、そして相手が宝具に訴えた以上、こちらもまた宝具によって応じなければならなくなるのはもはや必定。
であれば、未だ七騎全てが揃っているかも不明な現状、無駄に手札を明かす事を良しとせず、素早く撤退に移ったのは戦略として正しい。
赤毛の王も生前は数多の騎士を率い戦場を馳せた者。退く事は決して臆病ではない。それが理に適った撤退であるのなら、それは何ら恥ずべき事でもないのだから。
「すまんな、わざわざ呼び出しておいて骨折り損とは。次こそは必ずやその力、借り受けるぞ」
二頭の神牛に労いの言葉を掛け、ゼウスの仔らは嘶きを以って王の言葉に応えその姿を虚空へと消していった。
「なぁにを呆けておる坊主」
「あっ……え……?」
そこでようやく、ウェイバーは戦いが終わったのだと気が付いた。そしてそのまま、崩れ落ちるように膝をついた。
「ま、最初の戦場ならば最後まで立っておっただけでも及第点だ。褒めて遣わすぞ」
「な、んだよ、偉そうに……くそっ、これじゃあこっちは損しただけじゃないか」
真名を知られ、クラスを知られ、宝具を知られた。そして相手のサーヴァントについての情報は一切合切得られなかったでは、余りにも無残な敗北だ。それも自分のサーヴァントが自分から暴露しまくったせいなのだから尚の事始末に負えない。
「損しただけ? そりゃ違うだろ。坊主、貴様はこの夜何を得た」
「え」
「貴様はこれまで戦場とは無縁の日々を送っておったのだろう? そしてこの夜初めてその場所に立ったのだろう? それで何も得るものはなかったか? 何一つ知ったものはなかったのか?」
「────」
そんなわけがない。戦場という特殊な環境に身を置く困難さ。ただ立っているだけ気圧されてしまう自分の弱さ。
勝利による栄光にばかり目が眩んで、その過程における過酷さを侮っていた。戦場に立つ本当の恐怖をこの夜初めて思い知った。
これが戦い。
これが殺し合い。
これは、戦争なのだ。
命の遣り取り。
一瞬の交差で命は儚くも散る戦場。
流れる血は等しく、勝利はただ一人の手にしか掴めない。
それが聖杯戦争で、自らが足を突っ込んだ地獄の名だ。
そう理解するだけの時間を得て、実感を得て、ようやく、身体に震えが走った。
「逃げ出したくなったか? 怖くなったか? 良いぞ、それを誰も責めはせぬ。弱さを恥じる事はない」
優しげな目でウェイバーを見下ろす赤毛の王。
確かに怖い。たとえウェイバー自身が戦わずとも、これだけの恐怖を味わったのだ。ならばもし、自らが戦わなければならない時が訪れたら、戦えるのか? この王の隣に立ち、死力を尽くせるのか?
あのケイネス・エルメロイ・アーチボルトに、歯向かえるのか──
「────んな」
「おぅ?」
「ふざけた事、言ってんじゃねぇよ。ボクはオマエのマスターだ! そのボクがオマエに全部任せて後ろで震えてるなんて真っ平だ!」
この戦いに臨むと決めたのは、そこに輝かしい栄光があったからだ。ただそれは、誰かに与えて貰うものなんかじゃ決してない。自分の手で掴み取るべきものなのだ。
だからこの威風を纏う王の陰に隠れ、この男の戦果を分け与えて貰うだけなんてのは、この上なく気に食わない。
魔術師として死を観念していたとしても、戦場での死の恐怖を克服したわけじゃない。だから怖い。本物の殺意を向けられて、恐怖した。
それでも嫌なのだ。
他人のお零れに預かるなんて無様だけは、絶対に許容出来ない。それを許しては、あの時計塔で貴族連中に媚び諂っていた奴らと何も変わらないのだから。
この場所で戦うと決めたのは自分の意志で。それを曲げる事なんて出来はしない。してはならない事だと思うから。
ウェイバー・ベルベットは──己が足で立ち上がる。
「ほぉ……」
「分かったか!? ボクは逃げないぞ。マスターとして、戦うんだ!」
「言う事は一人前だが。足の震えは隠せてないぞ?」
「うるさいッ! このバカッ! 怖いものは怖いんだ! それの一体何が悪いッ!」
「フッ、悪くはないさ、むしろ良い。恐怖を知り、痛みを知り……そしてその後に勝利を知れ坊主。そうすれば、貴様は真っ直ぐに伸び行こう」
自分自身の痛みを知らない者は、他人の痛みもまた理解出来ない。それはとても悲しく愚かな事だと王は歌う。
「フン、全く以って心地良いぞマスター。余のマスターは共に戦場を馳せる勇者でなければな。少しばかり背丈が足らん気がするが、その分心根の清さは十分だ」
「背丈は関係ないだろこのバカッ! 自分がでかいからっていい気になるなよ!?」
「はっはっはっは、良い良い。まっこと余は気分が良いぞ」
「あ、くそ。頭掴むんじゃねええええええええええええ!」
──こうして緒戦の幕は閉じる。
未熟な少年魔術師と赤毛の王はそれぞれの信じた道を征く。
今は未だ遠き聖杯の頂を目指し、矮躯と巨躯の主従は共に戦場を駆け抜けていく──
+++
聖杯戦争における緒戦──それは火蓋を切って落とす狼煙のようなもの。
当然、それを監視していた者は存在する。
久宇舞弥。
彼女は切嗣からの指示を遂行し、セイバーにこの夜最初で最後の指令を伝えた後、休む間もなく活動を再開していた。
切嗣と舞弥がコンビを組む時、後方よりのバックアップが舞弥の主な任務だった。それはセイバーというもう一人の味方を得ても変わる事のない役割分担。
舞弥が探り暴き、切嗣が仕留め排除する。
故に舞弥の戦闘能力は決して高い部類ではない。それでも魔術師が忌み嫌う科学の力を用いる事によってある程度は善戦出来るだろうが、切嗣のように戦闘に特化したものを持たない舞弥の不利は否めない。
よって舞弥が表立って戦場に立つ事はまず有り得ない。あるとしてもそれは切嗣からの指示があった場合のみの、影としての役割を負うだけだ。正面から合い対し、敵と切り結ぶような場面は数えるほどしかない。
舞弥の戦場は切嗣らが立つ血みどろの戦いの渦ではなく、その遥か後方──情報戦というの名の戦場だ。
情報は戦いにおいて最重要に位置付けられるほどに重要性のあるもの。相手の素性を知り武器を知り、隠れ家を知り、行動の予定までをも把握出来ればまず間違いなく勝利は手に出来る。
逆に相手の情報に踊らされた場合、こちらが一気に不利になるのは否めない。
彼女は切嗣よりその情報戦における一切を託されていた。彼女の情報を信頼し作戦を構築し実行に移す。もし舞弥が致命的なミスを犯せば、死ぬのは彼女ではなく切嗣なのだ。
故に舞弥には一つのミスも許されない。僅かな情報の誤差が何れ大きな歪みとなり切嗣を襲う可能性を否定する事など出来はしないのだから。
それ故か、彼女が習得した魔術は諜報に特化したものばかりで戦闘向きのものは極端に少ない。切嗣よりの指示があっての魔術教練なれど、舞弥はそれ以上に打ち込み才能など持ち得ない事を努力のみで覆した。
結果、今現在冬木市において彼女の死角は存在しない。
とあるホテルの一室に持ち込まれた無数の機材は現代における情報を最効率で取得できる電子機器の類。
切嗣が入国する遥か以前より舞弥はこの都市に侵入し、ありとあらゆる場所に電子の瞳を設置した。
しかしそれだけでは都市一つを監視するには足りず、舞弥がもっとも習得に優先を科した使い魔を無数に放ち、全てを監視包囲している。
先のケイネス、ウェイバー両陣営の戦闘も無論の事監視をしており、ケイネスが手に入れた情報とほとんど同等のものを傷の一つもなく手にしていた。
更にこれから帰路に着く両者の行動を備に監視し続ければその隠れ家も発見出来る。敵に所在を知られる事の不利を知らぬ愚か者はいまい。
故に、今や情報戦の全てを制圧していると言っても過言ではない舞弥を抱える切嗣の陣営は、圧倒的に有利な状況下にあると言えよう。
右の瞳で随所にばら撒いた使い魔の瞳を借り世界を俯瞰し、左の瞳で電子の瞳の映す世界を把握する。更に指先はキーボードを叩き続け、ケイネス、そしてウェイバーの素性に探りまで入れている始末。
これまでの経歴は当然として、入出国の履歴や出立日。冬木市への進入経路から拠点を割り出す助けとする。時計塔に置いている協力者からも情報を引き出し、切嗣とセイバーが僅かでも動きやすい状況を作り上げる為、舞弥は不眠不休で情報の全てを網羅する。
両名についてのある程度の情報の整理が終わった頃、ふと、舞弥の指先が止まる。
右の瞳の見る……一匹の使い魔の目が捉えた映像が舞弥の行動を停止させた。
人気のない、闇に染まる街中を歩く一人の男の後姿。ロングコートにも見えるそれは神父服に間違いはない。
特に異常なところは何もなく、ただその様こそが逆に異常だと告げていた。
その人物は言峰綺礼。
此度の監督役──言峰璃正の実子にして遠坂時臣に師事し、後に決別を果たしたとされる男。聖堂教会、魔術協会どちらにも足を突っ込んでいる異端者であり、今回の聖杯戦争の参加者でもあるこの男。
そんな男が一体何を目的としてこんな深夜に街を徘徊しているのか。敵を求めて? それにしては悠長な足取りだ。隠れ家に帰る途中? あるいは何か他の目的が? ならばどちらにしろこのまま監視を続行すべき。
そう舞弥が判断を下した瞬間──
──言峰綺礼は、使い魔の瞳(こちら)を直視した。
「────痛ッ!?」
刹那、舞弥の右目に走る激痛。同時に映し出していたヴィジョンが断絶された。
「馬、鹿な……」
たった一匹使い魔を潰された程度で舞弥の肉体にフィードバックは起こらない。ならば何故今、舞弥の瞳に異常が起きたか、答えは余りにも簡単だった。
右の視界のチャンネルを回しても、映る映像は一つしてなく。室内に響くのは砂嵐のような音。
結論──
冬木市に放っていた使い魔の全てが、全くの同時に、潰された。
それだけではない。舞弥の耳朶に届くのは監視モニターより流れる機械的な雑音。電子の瞳の全てもまた、その機能の一切を破壊されたようだった。
故に舞弥の驚愕は当然であり妥当だろう。一体あの男──言峰綺礼は何をした? どのような手段に寄れば使い魔の目と機械の目、その二つの全てを同時に破壊出来るというのだろうか。
「切嗣に……報告を……」
これは捨て置いて良い事態ではない。たとえもう一度使い魔ないし機械を設置したとしても恐らくはまた潰されてしまうだろう。
これでは舞弥を抱えたアドバンテージがまるで確保出来ない。情報戦の有利を言峰綺礼ただ一人に奪われてしまう。
それは余りに巧くない。切嗣の想定する作戦行動には、舞弥のバックアップが当然のように組み込まれているのだから。
夜は深まり朝へと向かう。
陽が昇り、新しい一日の到来と共に戦火はより拡大していく。
戦いの火蓋は切って落とされ、賽は既に投げられたのだから。
それぞれの思惑を胸に、戦いは錯綜し混迷を極めていく────
/3
「言峰綺礼……か」
明朝。
陽の昇り始める頃合に舞弥より連絡を受けた切嗣は安ホテルのベッドに腰掛け、片耳に通信機を取り付けたまま思案に耽っていた。
切嗣が現在拠点にしているホテルは舞弥が滞在するホテルとは別であり、この夜を越える為だけにチェックインを済ませた仮初の宿である。
舞弥は数多くの機器を扱う為に容易に拠点の変更は出来ないが、身一つで行動する切嗣には何の制約もない。故に必要があれば適当なホテルに泊まるし、なければ不眠で夜を越す事も辞さない。
セイバー召喚を行った屋敷はまだ必要のない拠点だ。アインツベルンはそれとは別の拠点も有しているし、今までほぼ無人だった屋敷に頻繁に出入りしてはいらぬ勘繰りを受けかねない。
あの場所はセイバーの為に、サーヴァントを召喚する為だけに用意された場所だ。少なくとも今はまだ、あの屋敷で骨を休める必然性は存在しなかった。
サーヴァント召喚直後のマスターに降りかかる多大な疲労を睡眠によって養った切嗣は、覚醒した思考を現状の把握、そして対策に割いた。
使い魔と電子機器の全てを一瞬にして破壊し尽くしたと思われる言峰綺礼。他のマスターの関与は認められていない。少なくとも潰される直前に把握していた瞳は他の参加者を捉えてはいなかったからだ。
「……気になるのは、何故こんな真似をしたのか、だな」
『……? どのような手段を用いたか、ではなく?』
「現状、手段については推測の域を出ない。生身の人間一人には不可能な芸当である以上考えられるのはサーヴァントか、複数人による仕業かだが。どちらに絞っても意味がないし時間の無駄だ。
どうせ考察するのなら手段ではなく理由の方が遥かに意義がある」
『単純に私達の優位性を排除するのが目的ではないと?』
「それもあるのだろうが、この早期に全てが暴かれ破壊されるのは想定外だ。これは手段に通じるが、人外の力が関与している可能性が多分にある。
そしてそんな芸当が可能ならば、当然諜報能力に関しても相手はかなりのアドバンテージを有していると考えられる」
一呼吸置き、切嗣は続ける。
「そこで問題になるのは、こちらは向こうについては何一つ把握していなかった事だ。こちらの監視網を放置していては何れ露見する可能性があり、早期に手を打ったとも考えられるが、これは同時にこちらに相手の異常性を知らせるシグナルになる」
今こうして議論している事がその証左だ。参加表明のされた連中に関しては全員の素性を洗ってあるが、言峰綺礼はそこまで警戒に値する人物ではなかった。
魔術師(マスター)としての位階を比べるのならケイネス・エルメロイ・アーチボルトや遠坂時臣の方が遥かに高位だ。
言峰綺礼自身のマスター適正は低くとも、サーヴァントは充分に警戒に値する。いかなるサーヴァントを召喚したのかは不明ながら、舞弥が入念に準備し設置した監視網を早々に暴き、破壊するだけの諜報能力を有すると考えられる。
「何よりだ、監視網を把握しているのなら破壊する意味がない。自分はその網に掛からないように動き他の参加者より優位に立ち続けるだけで充分だ。こんな真似をしては、僕達の標的にしてくれと言っている様なものだ」
──あるいは。それが目的か?
言葉にはせず、そんな思いを胸中に沈み込ませる切嗣。
こちらのアドバンテージが完全に潰され、相手にそれを上回るほどの諜報能力があると知った以上、これを放置して他のマスターを狩りに行く理由がない。そちらに現を抜かすという事は、言峰綺礼に背中を見せるのと同義なのだから。
『何か手を打ちますか?』
「…………」
打たなければならない。打って来いと、言峰綺礼は言っている。だがまだ、考えるべき事がある。
言峰綺礼の目的が見えない。切嗣を誘き出す真意が読み切れない。こんな挑発的な真似をしてまでも、切嗣を釣りたい理由が言峰綺礼には存在するのか。あるいは、第三者の差し金か……?
「……言峰綺礼は確か、遠坂時臣に師事していたんだったな」
『はい。教会で幾つもの部署を転属した後、教会から出向という形で遠坂に弟子入りしています』
敬虔な教会の信徒であればおよそ有り得ない出向。主を第一に考え、神の御業を掠め取り扱う魔術師を敵と断じる教会において、一時的とはいえ敵側に所属するなんて事は不可能にも近い所業だ。
しかし、かつて見た言峰綺礼の経歴からは、そこまで敬虔な信徒である印象は受けなかった。信仰の僕であるのなら、エリート街道を外れてまで血生臭い実戦部隊になど志願はしまい。
……そう、どちらかというのなら。言峰綺礼は神の愛を疑っている節がある。
いや、今はこの男の経歴などどうでもいい。重要なのは遠坂時臣に師事していたという事実。そして令呪の発現によって袂を別つ事となったと公表されている点。
もし未だ綺礼と時臣の間に繋がりがあり、これが時臣の策略の一環であるのなら、辻褄は合う。言峰綺礼に利のない挑発も、時臣自身に利する行動であると考えれば納得はいく。だがそれも、完全に鵜呑みにするわけにはいかないが。
「ならば一つ、こちらも仕掛けてみるか」
どちらにせよ言峰綺礼の有する諜報能力を放置するわけにはいかない。敵の掌で踊らされるのは御免だが、そうする以外に道がないのなら受けて立とう。どの道何れ全ての敵を倒すのだ、順序に理由は必要ない。
「舞弥、僕は少し動く。それに合わせて手駒(セイバー)を動かしてくれ」
脳裏に描いた作戦行動を通信機越しに舞弥に伝える。全てを伝え終えた後、切嗣は古びたコートを羽織り部屋を後にする。
稀代の魔術師殺しは、最初の標的を見定めた。
+++
言峰璃正は冬木教会を預かる敬虔な信徒であり、第三次聖杯戦争より引き続き監督役を拝命された神父である。
戦時下という特殊な状況に置いても恙無く粛々と監督役の任を全うした手腕を買われての歴任。特に今回に限っては、璃正本人も天秤の役回りだけに納まらず個人としての思惑も内包している。
交友のある御三家の一角、遠坂の当主時臣と実子たる綺礼の参戦。三度目の戦いでは終ぞ聖杯は現れなかった。教会に所属する者としては何処ぞの者とも知れぬ輩に掠め取られ意図不明な思惑に使用されるくらいなら、誰の手にも渡らないのが僥倖だ。
しかし今回は違う。聖杯を──贋作であるそれを魔術師として正しく使用すると確信できる友がおり、息子もまたその勝利に秘密裏に手を貸しているのだ、これで聖杯が顕現しなければ永劫誰の手にも渡らない方がいいとさえ思えるほどの布陣。
凡才なれどその思想と努力によって培われた手腕は一級品。召喚したサーヴァントもまた最強に相応しい力の所有者。そこに綺礼のサポートがあれば、敗北など有り得ない。あってはならない。
元より監督役に公平なジャッジなど期待されていない。彼らが行ってきたのはただの尻拭い。世間に神秘が露呈しないよう裏工作をするだけの存在だ。
同じ魔術師が采配を振るえば公平は期待できない。しかしそれは、教会の者であっても変わりはしない。元より完全に平等で公平なジャッジなど、人間には土台無理なものであるのだから。
だがそれでも璃正は敬虔なる神の僕なのだ。そこに偽りは許されず、嘘は神の愛に背を向ける背逆の行い。故に戦いの幕が開いた今、表立っての支援など論外だ。彼に為せる事はこうして神前にて祈りを捧げる事だけ。
友の実力を信じ、友の勝利を祈る。無論、息子の安否をも。
その時、軋む音を耳朶に聴く。祈りを捧げていた祭壇より振り返れば、門扉を開き姿を見せる一人の男の姿。
「…………」
璃正は一目見てそれが参拝に訪れた信徒ではないと、確信した。擦り切れたコートを羽織り、ぼさぼさの黒髪には手入れの後など見られない。言ってしまえばみすぼらしいの一言に尽きる身なりの壮年の男性。
その様だけを見れば人生に疲れ路頭に迷う人間が神の棲家に一晩の宿を借りに来たのかとも思ったが、それも違う。男の瞳が語っている。黒く深く渦を巻く底知れぬ闇を内包した力強き瞳が、ただ視線だけで男の生き様を語っていた。
「例年、この場所へ参加登録を行いに来る者は少ない。しかし、訪れた者を歓迎するだけの意思が常にこちらにはある。歓迎しよう、第四次聖杯戦争(ヘブンズフィール4)に参戦したマスターよ」
「話が早くて助かるよ、言峰璃正神父。僕は衛宮切嗣。アインツベルンの後ろ盾を得て参戦したマスターだ」
「衛宮……アインツベルン……」
監督役である以上、参加表明のされたマスターについては璃正もまたある程度把握している。千年の歴史を紡ぐ大家アインツベルンが誇りを擲ち、勝利の為に招聘した悪名高き魔術師殺し──それが目の前に立つ衛宮切嗣だ。
「…………」
魔術師の中にあっての異端。請け負った依頼の全てを標的の殺害で完遂するフリーランスの殺し屋。それも最悪に部類されるほどの。
およそ魔術師であっても彼らには彼らなりの美学があり誇りがある。だが目の前の男にはそれがない。殺しの手段は多種多様で取り止めもなく、女子供とて容赦はしない。それどころか、標的を抹殺する為に旅客機ごと爆破したと噂されるほどの男だ。
この男の殺しの基本的な手段は暗殺だ。故にマスターの中でも決して姿を見せない類の者であろうと思っていた璃正は、度肝を抜かれたと言ってもいい。
そして同時に疑問が生じる。暗殺者が何を目的にわざわざ教会などに足を運んだか、という一点。
「何か警戒されているようだが、必要ない。ここは一応の中立地帯なんだろう? 貴方を殺したところで僕に利点はないし、教会に目をつけられ無意味なペナルティを負わされるのは御免なんでね」
「ならば、何用で当教会に参られた」
「何、少しばかり訊きたい事があってね。ああ、言峰神父。ここは禁煙なのかな?」
「神の御前だ。出来れば控えて貰いたい」
そう言われ、切嗣はコートの内へと滑り込ませていた手を何も取らずに引き抜いた。
「じゃあ用件だけを伝えよう。貴方の実子、言峰綺礼とその師である遠坂時臣──二人は今も繋がっているな?」
「────」
冷徹な瞳。鋭利な視線は全てを見透かすように璃正を見る。ここは神の棲家でこの立ち位置は神前。そして璃正は敬虔なる信徒。問われたものに答えないわけにはいかず、虚偽は決して許されない。たとえ神が許そうと、璃正が己を許せはしない。
「何をおかしな事を。綺礼と遠坂時臣氏は既に切れていると公的に発表されている。故に二人が内通しているなどという事実は、何処にもない」
だが、だからこそ、璃正はその言葉を紡ぎ出した。
「……そうか」
それで話は終わりだと言うように、切嗣は背を向ける。
「邪魔をしたな言峰神父。教会による正しい運営を期待する」
心にもない言葉を述べ、魔術師殺しは教会を去った。
後に残された神父は数秒、訪問者の消えていった扉を眺め続け、
「おお……神よ、我が罪を許し給え」
嘆きと共に振り返り、跪いて祈りを捧げた。
時臣と綺礼は現在も繋がっている。その事実を知りながら、神の御前で言峰璃正は嘘を吐いた。許されざる罪を犯した。
けれど神父は己の不義を嘆きはしない。神がこの身に罰を下すというのなら甘んじて受けよう。それ以上の裁可を望もう。
全ては友の勝利の為。我が子の勝利の為。
その為ならばこの非才の身がどれほどの過酷に突き落とされようと嘆きはしない。悲しみはない。恨みを持つなど以ての外。これまで敬虔に神にのみ尽くしてきた男が犯す、最初で最後の過ち。
それも全ては今この戦地で戦う者達の勝利を願うゆえ。
璃正は一人、神前で長く祈りを捧げ続ける。その祈りが、無意味なものと気付かずに。
+++
「決まったな」
遠坂時臣と言峰綺礼は内通している。そう切嗣は確信した。
璃正についても粗方の素性は調べてある。何処までも神に忠節を尽くす信徒。そんな男が嘘を吐いた。
神父が嘘を口にする一瞬、ほんの一瞬だけ目が泳いだのを切嗣は見逃さなかった。確証など無論の事どこにもないが、切嗣の観察眼と勘があの言葉は嘘だと断じた。自らの判断を今更疑うような男ではない。
故に二人は繋がっているものとして行動する。
当面の問題は綺礼のサーヴァントだ。しかしこれが時臣の策略にしろ綺礼の思惑にしろ切嗣をここまで挑発してきたのだ、ならば今度はこちらから挑発をし返してやる。
相手の目的が切嗣、ないしセイバー、あるいはそれ以外であろうとこちらを狙っているのは間違いない。ならば逆に誘い出す。無防備な背を晒し、襲い掛かって来いと挑発する。
紫煙を吹かしながら見上げた空は赤から藍へと変わり行く時分。時間も丁度いい。これより深まりゆく夜の最中、サーヴァントを連れず無防備に街を歩くマスターがいれば襲わない手はない。
切嗣ならばそれが誘いであっても奇襲する。それを打破するだけの手札は既に揃っているのだから。
「それにしてもあれほどの信徒に嘘を吐かせる遠坂時臣ないし言峰綺礼はそれほどの傑物なのか……? まあいい。敵は全て殺す。ただ、それだけだ」
コートの裾を翻し、魔術師殺しは夜に没する街中へと消えていく。彼にとっての最初の戦いが、今此処に幕を開ける。
/4
闇に没した深夜の新都。
行き交う人々は疎らで、せいぜいが駅前パークが少々賑わっている程度。閑静な住宅街は完全に音を失い、オフィス街には点々と明かりが灯るだけの、深海に沈んだかのような街並の中を蠢く影が一つ。
月の明かりの届かない摩天楼の片隅を跳梁する黒衣と白面。
此度の聖杯戦争において暗殺者(アサシン)の座(クラス)に招かれたサーヴァントが暗闇の中を駆け抜ける。
今宵、彼に与えられた命令はただ一つ。昨夜行った挑発行為を受け、行動するであろう敵マスターの排除。
この身はサーヴァント。人外に位置する怪物だ。生身の人間でしかないマスターを討ち取る事など容易く、そしてそれを生業にするが故の警戒心を持ち合わせている。
闇の中に身を潜め、対象を探し出し、付け狙い、相手が気を抜いた瞬間を狙い撃つ。暗殺とは、見敵必殺の心得だ。こちらの気配を一つとして見せず、相手が刺されたと気付いた時には全てが遅い。それをこそ、真の暗殺と言えよう。
故に彼は細心の注意を払っていた。対象を発見して半刻。当て所なく街を徘徊する対象を備に観察し続けた。周囲から人の気配が消えるのを待ち続けた。殺しに最も適した一瞬を待ち焦がれた。
降り注ぐ月の明かりが雲間に遮られ街は完全な暗闇へ。周囲に人影はなく、標的は孤立無援。仕掛けるのなら、今──!
「キッ──!」
攻撃態勢へと移ると同時に、これまで彼の存在を覆っていた気配遮断のスキルはほとんど意味を為さなくなる。故に暗殺者は漏れ出す殺気を留めようとせず、むしろ撒き散らし標的に向けて加速した。
闇を滑る影。手には闇色に塗られた短刀(ダーク)。黒に浮かぶ白き面貌は、標的がこちらの殺意に気付き振り向く姿を目視した。
だが遅い。相手がこちらを目視するよりも早く、この手の短刀がその首を両断する──!
「キェェェェアァァ──!」
繰り出される短刀。黒衣の腕より放たれた不可視の刃が標的の首を貫く──そう思われたが、狙われた獲物は異常な速度でその一撃を回避した。
「……?」
今、一体何が起きたのか訝しむ暗殺者。だがそれよりも早く敵が動く。今はただ、殺し損ねたという事実だけがある。
敵はホルスターに手を忍ばせ、引き抜いた銃で渾身の一撃を見舞ってくる。しかしただの銃弾が霊的存在であるサーヴァントに通用する道理がない。手にしたダークで弾き飛ばし、今一度敵手の首を刈り取らんと身体を沈み込ませる。
相手はただの人間だ。必殺の一撃を躱した事は賞賛に値するが、マスターがサーヴァントと対峙して勝てる可能性は皆無に近い。
見敵必殺。姿を見られた以上、もはや撤退の文字はない。その首を刈り取らなければ彼のプライドに傷がつく。
「キェ────!」
姿が露見してしまった以上、投擲では確実な殺しは出来ない。ならば手ずからその首を刎ねるまで。
銃弾を撃ちながら後退する敵に向けて影は走る。敏捷性においてアサシンの追随を許す者などそうはいまい。瞬く間に距離を詰め、今必殺の刃を振り下ろす。
「オワ、リダ……!」
振り上げられた短刀。舞い散る鮮血。夜を染める赤が、一面を染め上げた。ぐるぐると回る、彼の視界の中で。
「キ……?」
そこでようやく、彼はおかしな事実に気が付いた。手にした短刀はまだ相手の首を刈ってはいない。振り上げただけで、振り下ろしていない筈だ。
ならば今、彼の視界を染める赤は、一体何処から噴出した血だというのか。そして何故彼の視界は、宙を舞うように回り続けているのだ……?
「敵の背を狙ったのはそちらが先だ。よもやこの奇襲を卑怯などとは言うまいな?」
聞き慣れない声を聞く。ぐるりと視線を動かせば、先程まではいなかった筈の存在を目視した。白銀の甲冑と蒼のドレスを身に纏った黄金の髪の騎士。不可視の何かを振り下ろした姿勢で、彼女はこちらを見据えていた。
ああ……オレは今、殺されたのか。
彼はやっと、自分が首を刎ねられたのだと理解した。同時に、宙を舞った頭蓋は路面へと打ち付けられ小気味の悪い音を響かせた。
彼が最後に見たものは、暗殺者を暗殺してのけた少女騎士が、相手を殺した感慨もなく背後に立つマスターであろう男へと振り返る姿だった。
+++
切嗣の作戦は完了した。
自らを囮にし敵を誘き寄せ、セイバーに打倒させる。そう言えば単純な作戦だが、こうも巧く行くとは思っていなかった。いや、逆に簡単に事が済みすぎて、余計に猜疑の念が沸いてくる。
「敵サーヴァントの排除を完了しました……マスター?」
「舞弥、言峰綺礼は?」
セイバーの報告を無視し、予備として拵えてあった使い魔の眼を借り戦場を俯瞰している舞弥に問う。相手がアサシンであった以上、セイバーが相手では話にもならないのは分かりきっていた事だが色々と解せない点が多すぎる。
あの程度のサーヴァントに舞弥の監視網が破られたのか? 仮にそうだとしてもあの一体でどうやって全ての眼を潰したというのか?
思考に意味はなく、迷路を脱す解はない。回答を齎せる者がいるとするのなら、それは言峰綺礼以外に有り得ない。
『対象を捕捉。新都の奥……南方に向けて疾走しています。恐らく、冬木教会が目的地かと思われます』
サーヴァントを失ったマスターが教会……監督役に保護を求めるのは至極当然だ。サーヴァントを失ったとしても再度はぐれサーヴァントと契約する可能性はゼロではないし、そんな可能性を内包する敵を生かしておく理由はない。
だからサーヴァントを失ったマスターは教会に保護を願い出る。その地以外に、脱落者の安全を約束する場所はないのだから。
それは裏を返せば、教会に保護されてしまっては手が出せないという事だ。中立地帯を謳う教会での戦闘行為は御法度なのだから。
言峰綺礼を捕らえるには彼が教会に辿り着く前に確保しなければならない。たとえこの一連の戦闘が茶番であったとしても、事実としてサーヴァントは消滅したのだから言峰綺礼は教会の保護対象者だ。
……キナ臭すぎるな、言峰綺礼……!
胸中で吐き出し、舞弥よりの報告を受けると同時に切嗣は駆け出した。
何より行動が迅速すぎる。まるでアサシンが敗北する事を事前に知っていたかのような撤退の早さだ。これで疑うなという方がおかしい。
距離的に考えれば追いつくのは難しいだろう。この状況を見越しての行動なのだとすれば尚の事だ。それでも追わない理由はない。追いつける可能性がある以上は。
「マスター? 何処へ……」
『セイバー、敵マスターを捕捉。逃走中です。追走し撃破して下さい。進路は南東、標的の逃亡先は住宅街を抜けた奥にある冬木教会です』
「了解した……!」
切嗣が駆け出した後、事態の把握出来ていないセイバーだったが、直後に舞弥からの通信を受け、疾風の速さで追随する。
「先行します。地理が不明なのでどちらが速いかは不明ですが、とにかくあの丘を目指します」
言ってセイバーは地を踏み、ビルの壁面を蹴り上げ、空高く舞い上がった。ビルの合間を抜けていくよりはビルを飛び越えていく方が速いと判断したようだ。
切嗣も置いていかれるわけにはいかない。切嗣がこの地点でアサシンに襲撃されたのは何も偶然だけではない。逃走用の経路確保として、足を用意していたからだ。
疾走していた足を止め、ビルの陰に止めてあった車へと乗り込む。現代の技術を組み込みカスタマイズしてあるメルセデス・ベンツ300SLクーペのエンジンは既に温まっている。
切嗣が乗り込むと同時に踏み込んだアクセルの加速を受け、夜の闇を斬り裂く疾走を開始した。
+++
かつて代行者であった時代、言峰綺礼は狩る側の立場だった。
主の教えに背く異端者を追い詰めその命を刈り取る。協会側と小競り合いがあったとしても、一方的に追われた事などそうはない。あったとしても、逃げ果せるだけの算段は常にあった。
けれど今は違う。綺礼を追いかけるのは人外の極地に位置するサーヴァント。そして魔術師殺しと恐れられた暗殺者なのだ。
いつ背後より足音が響くかと警戒を緩める事は許されず、サーヴァントならばそれこそ眼前に降って沸いても何らおかしくはない力を有しているだろう。
捕捉されればそれで終わり。綺礼はサーヴァントを失った事になっている(・・・・・)。故に誰からの助力も期待は出来ない。
ただ己のみを頼りとし、追い縋る悪鬼と羅刹から逃げ切り教会に駆け込む。そんな聖杯戦争の敗北者を演じなければならない。
駆け抜けた時間は五分か十分か。踏破した距離はどれほどか。綺礼にとってみれば永遠にも等しい時間駆け続け、ようやく、目的の場所へと辿り着く。
「止まれッ!」
「────っ!?」
瞬間、闇に木霊する清廉なる声音。振り仰げば、風を纏い空を走ってきたのか見紛うほどの速度で白銀の少女騎士が姿を現す。
止まれと言われて止まる者などそうはいない。事実綺礼も追い縋るサーヴァントを目視した瞬間より強壮に足を衝き動かした。
既に教会の敷地内に入っている。後数十メートルの距離、逃げ切る事が難しい筈がない。
直後、滑り込んでくる切嗣のメルセデス。急ハンドルを切り車体を流しながら、開かれたウィンドウから差し向けられる黒の銃身。激しい揺れの中、定められた照準に寸分の狂いすらなく、綺礼の姿を射線状に捉え撃鉄は撃ち落された。
メルセデスが乗り込んで来た刹那、綺礼は後ろを振り向かないまま僧衣の裾に腕を滑り込ませ黒鍵の柄を引き抜き、発砲音を聴いた直後に十字の刃を投擲した。
切嗣が不完全な姿勢、それも車中からの最悪の状態から完全に綺礼を捉えた事が極技であるのなら、発砲音だけを頼りに寸分の狂いなく銃弾に黒鍵を当てて見せた綺礼のそれは絶技にも等しい。
弾け飛ぶ銃弾と黒鍵。綺礼の足は止まらず、だがここにはもう一人──最警戒すべき敵がいる。
「やぁああ……!」
黒鍵の投擲による時間のロス。その間隙を衝き、セイバーはとうとう間合いに綺礼を捉えた。振り上げた視えざる剣が敵を両断すると思われた瞬間──
教会の門扉は内側から開き、綺礼は間一髪その隙間に身体を捻じ込ませ、セイバーの振り下ろした剣は木造の扉を破砕するに留まった。
「何やら騒々しいと思えば。ここは我ら教会の管轄地にして聖杯戦争における唯一の中立地帯だ。これ以上の戦闘行為は監督役として止めなければならない」
璃正神父が姿を見せ、そう説いた。セイバーはその鋭き眼光で数秒見やった後、剣を何処かへと消失させた。
璃正が内側から扉を開けなければ、綺礼は倒せていた。だがそこまで追い詰めながら倒せなかったのはセイバーの落ち度であり、綺礼に僅かばかりの運気があっただけの事。たとえそれが、予め取り決められていた策略であったとしても。
「失礼しました。標的が保護対象になった以上我々にこれ以上の戦闘行為の意思はありません」
「そうか。では私は脱落したマスターの手続きがあるのでな。これで失礼するよ」
言って璃正は教会の門扉を閉じた。破砕され痛々しい傷痕を残した扉から、立ち上がった言峰綺礼が振り仰ぐ。
その視線はセイバーを超え、その遥か後方──メルセデスの運転席に座する男へと向けられていた。
『────』
無言の交錯。二人が初めてその視線を交わした時。
どちらともが理解した。理性による理解を超越した所にある、言わば本能のような芯が全くの同時に二人の胸中に警鐘を鳴らした。
──この敵は。
おまえにとっての仇敵であると──
言葉など交わしていない。戦闘と呼べる行為ですらまともに行っていない。
にも関わらず、ただ視線の交錯だけで二人は互いが互いにとってのあってはならない存在だと感じ取った。
綺礼が先に視線を切る。今はまだ、脱落したマスターを演じなければならない。たとえ今後、あの男と対峙する機会があったとしても、今は関係はないのだから。
切嗣もまた、綺礼を倒し損ねた以上この場に留まる理由はないと断じたのか、メルセデスを駆り街中へ向けて消えていった。セイバーもそれに追随するように消え去り、教会前の広場はようやく静寂を取り戻した。
+++
その後、教会内でサーヴァントを失った事による保護を求める宣誓を行い、璃正もまたそれを了承し、綺礼は教会の奥にある客間にて、ようやく胸を撫で下ろした。
「ふぅ……茶番にしてはえらく骨の折れる仕事だった」
事実、あと少しでセイバーに両断されるところだったのだ。璃正の機転がなければ綺礼は本当の意味で脱落していたのだから。
『すまないね綺礼。君には苦労をかけてしまった』
「導師……聞いておられたのですか」
彼の目の前にある真鍮で形作られた宝石仕掛けの通信機が起動している事に気が付かなかった。それほどまでに、この場所に来て気を抜いてしまったのかと綺礼は今一度自身を引き締め直した。
『ああ、楽にしてくれて良い。君の当面の役割は終わりを告げたのだ、後はそこで保護されている振りをし続けてくれればそれでいい。無論、君の手駒にはもう少しばかり働いてもらう事にはなるがね』
「承知しております。その為にこんな猿芝居を打ったのですから」
アサシンの『一体』を犠牲にする事で綺礼を脱落者として扱わせる策略。それはここに功を奏した。
これで綺礼は表向きサーヴァントを失ったマスターでしかなく、けれど存命中の『他』のアサシンは影で暗躍する。そういう仕掛けだった。
「しかし衛宮切嗣らを騙し切れるとは思いません。であれば、あの追走は有り得ない」
『いいのだよ。疑われる事など承知の上だ。どれだけ疑おうと所詮推測の域を出る事はないし、今宵の茶番を盗み見ていただけの輩には、背中を狙い撃たれては厄介なアサシンが早々に消え去ったようにしか映りはしない。
何より──衛宮切嗣を挑発したいと言ったのは君だろう、綺礼』
時臣の最初の策では彼自身のサーヴァントにアサシンを倒させるつもりだったが、それでは余りに茶番が過ぎると標的を変更した。
あわよくばマスターの一人でも狩れればいいと期待していたが、流石にそこまでは高望みだった。それを置いておくとしても、時臣にしてみれば相手は誰でも良かったのだから、綺礼のその提案を退ける理由はなかったのだ。
『それで、感想は。件の魔術師殺しを君はどう見る?』
「噂通りの男のようです。人を殺す事に何の躊躇いも覚えない殺人者。手段を問わない戦いであれば、あれほど厄介な相手もいないでしょう。
あの男には理念がない。あるのは勝利への執着だけなのですから」
あるいは勝利への執着心こそが、あの男の理念へと通ずる何かなのかも知れないが。今の綺礼には分かりはしない。
「そして……恐らくはセイバーであろうサーヴァントも充分以上に警戒が必要でしょう」
『それは、私のサーヴァントを直に見た上での台詞かな?』
「はい」
『……ふむ。アインツベルンが誇りを金繰り捨ててまで聖杯を獲ろうという気概だけは、正しく本物なのだろうな。私に言わせれば、手段を選ばなくなった時点で彼らを同胞とは思えないがね。
だが同時に、形振り構わない相手がいかに厄介かは、私自身良く知っている』
時臣は正調の魔術師でありながら、凝り固まった魔術師然とした思考をしていない。時に柔軟に、時に大胆に。誇りと血統だけを重んじ他を侮蔑する無様は行わない。誇りを捨ててまで何かを得たいと考える連中の思考を理解するだけの頭がある。
『とりあえずはまあ、様子見と行こう。未だ所在の知れない敵も多い。足場は出来るだけ固めておきたいからな。その為には綺礼にはまだまだ働いてもらう事になるが、今はとりあえず羽を休めておくと良い』
「はい、導師」
『用件があればこちらから連絡する。綺礼──重ねて言うようだが、私の指示があるまでは無用な動きは謹んで欲しい』
「承知しております」
それで通信機は動きを止めた。綺礼は伸ばしていた背筋をソファーへと凭れさせた。
「言われずとも動きませんよ。動くだけの理由が、私にはないのだから」
言峰綺礼には戦う理由がない。未だ聖杯が何故こんな異物をマスターとして選んだのかと疑問に思い続けている。
+++
遡ること聖杯戦争の始まる三年前。
その時既に、綺礼は世界の全てに絶望していた。二年前に死病に憑かれた妻を亡くして以来、無為な日々を過ごしてきた。ただ淡々と、黙々と、下される命令に従い動いていただけの木偶だった。
別段、妻に対して愛情があったわけではない。その後の人生全てを投げやりに過ごすだけの価値があの女にあったとは思っていない。
しかし綺礼は妻の死の直前、己の闇を垣間見た。世界に紛れ込んだあってはならない異物だと、自分自身を理解した。
それは自分を殺してしまいたくなるほどの異常。正視に耐えられない塵のような有様。それでも綺礼は自分を殺さなかった。殺してはならないと思ったのだ。
だってここで綺礼が死んでしまえば、あの女の死が無価値なものになってしまうから。それを無価値にはしたくないと、心の何処かで思ってしまったのだから。
それは全て過去に置き去りにした記憶。
水底の奥に沈めたモノ。
この時の綺礼はその当時の事を思い返さない。
しかし自身が歪んでいる事だけは、把握していた。
トリノにある遠坂家の別邸で父親である璃正に初めて遠坂時臣を紹介して貰った日。令呪の発現したその翌日の話。
そこで綺礼は聖杯戦争に纏わる概略を聞いた。だからこそ、こんな己が聖杯に選ばれたなどという時臣と璃正の説明には納得がいかなかった。
「ならばこういうのはどうだろう。遠坂を勝者足らしめる為にその友人の息子である君が選ばれた」
師はそう冗談交じりに言い、
「理由がない、なんて事はない。それは恐らく、君自身の心の奥底に眠っている祈りを聖杯が感知したのだろう。それは君が望む願いなのか、望まざる願いなのか、そこまでは私には分からないが」
「望まざる願い? それは願いと呼べるものなのですか?」
「人間の心というのはそう簡単なものではないのだよ。それを悪い事と知りながら、心の中で憧れている、なんて話は何処にでも転がっている。
望まざる願いの全てが唾棄すべき悪だとは断じ得ない。単に自分には相応しくないというものも、これに含まれるだろう」
「…………」
「何れにせよ分からないのなら探してみればいい。無為に時間を過ごすよりも、有意義にはなると思うよ。無論、勝利は譲らないがね」
朗らかに笑いながらそう謳い上げた。
この令呪の発現に意味があるのなら、その意味を探す為に戦うのも悪くはないかもしれない。既に主の教えとは決別した身だ、魔術師の門徒となる事に抵抗などない。
「一つだけ、お願いがあります。どうせ魔術を覚えるのなら、治癒系統のものを覚えたいのですが」
「ふむ。教会ではそれは特に異端とされる代物だが、何か理由でも?」
「いえ……」
さしたる理由などない。あるとすれば、それはきっと、記憶の奥底に仕舞い込んだ筈の誰かの顔を、思い出してしまったからなのだろう。
「まあ、構わない。君が習得したいというのなら助力しよう。その他の魔術についても相性を見て覚えてもらう事になるが、構わないね?」
「はい」
「ならばこれで一時、私と君は同門だ。魔術師は他者に辛辣だが、身内に対しては甘いところがある。かと言って鍛錬に容赦をするつもりはないが。
では────歓迎しよう、言峰綺礼。君はこれより、我らの同胞だ」
そうして綺礼は、遠坂家へと招かれた。
+++
「今もってなお私には理由がない。戦う理由も、聖杯を求める理由も」
時臣の支援に徹しているのは彼が父の友人であるからで、綺礼個人の意思ではない。戦う理由がない以上、時臣のサポートを行う事にも疑念の差し挟む余地はない。
順当に戦いが進めば勝利するのは時臣だろう。最強にも近いサーヴァントと彼自身の実力を以ってすれば、時計塔の花形講師とて打倒し得ない敵ではない。
もし時臣が敗れるとすれば……
「衛宮……切嗣……」
視線を交わしただけで理解が出来るほどの異端。アレは、何処か自分自身と似ていると感じた。胸に渦巻いた感情が嫌悪であるのなら、それは同族を見初めたからなのかもしれなかった。
六十億の人間の中にあって、自分唯一人だけ壊れていると思っていたのに、まさか他にもいるとは思ってすらいなかった。自分を特別だと思った事など一度もない。何かの間違いで生まれた異端者が、二人もいるなどとは想像もしなかっただけだ。
衛宮切嗣が言峰綺礼と同じ闇を抱える外れた者であるのなら──
「私の心底が求めているという答えを齎すのは、おまえなのか……?」
言葉は音となり空に消え、返る言葉は有り得ない。問うべきか問わざるべきか。聖杯が見出したという綺礼の祈りは、彼自身が知るべきものなのか。
その解答は未だなく。
解答を求めるかどうかすら定かではなく。
言峰綺礼の迷いは、更け行く夜の中に今もこうして埋もれている。