現在位置:asahi.com>健康>メディカル朝日コラム> 記事 イベリコ豚delicious study2007年02月05日 医局のコンピューターに向かってK先生が真剣になにやら仕事をしている。邪魔しないようにと静かにしていたが、話かけてきたのはK先生からだった。「先週さぁ、イベリコ豚とスーパー豚(スーパーで売っている普通の豚肉。特別な豚にあらず)の違いがはっきりしないって言ってたじゃない? でもさ、イベリコ豚はやっぱりうまいと思うんだよ」。何を考えているかと思ったら。「イベリコ豚のうまさを客観的に示すにはおいしさの有意差(注1)が証明できればいいわけだ」「おいしさの有意差ねぇ。どうするの?」と私。
「キロ当たりの旨味成分含有量差を計るとかどうかな?」「旨味成分って……? そうだ。旨味調味料って言えば味の素があるね。味の素の主成分L−アスパラギン酸ナトリウム量を計るの?」「さすが、真田先生、頭いいねぇ。それいいんじゃない?」「ちょっと待ってよ。だったら味の素しこたま振りかけたらうまいってことになっちゃうよ」「味の素が作られた時はそういう理屈だったんだけどな。うちのおふくろ、何にでもかけてたぞ」「K先生、そういうこと言っていると年がばれますよ」 などと言っていたら、医局にM先生が入ってきた。イベリコ豚のおいしさの証明方法について検討していることを説明する。「おいしさっていうのは、総合的なものだからね。食感、舌触り、塩加減、アミノ酸、甘み、苦み、酸味、供される時の温度etc、そういうdeliciousを構成するfactorすべてにおいて、イベリコ豚の有意な高値が認められた時に初めて有意を持ってうまいと結論付けられるね」。さすが、基礎系データで認められたM君。イベリコ豚delicious study in vitro(注2)。 ソファでくつろいでいた放射線科T先生が新聞をたたみながら参加してきた。「どの塩分量が最もうまいと感じるかなんかは人によって違うよ。うまいという快感は、塩分や成分の絶対量で規定されるものじゃない。通常から塩分摂取量が多い東北出身者は、かなりの塩分濃度まで耐性があるはずだ。結局は脳がうまいと感じるかどうかだ。それを食べた時に、脳の味覚快感中枢が興奮するかどうかを調べるんだね。PET(注3)使ってもいいかも」 おお! 斬新なアイデア。うまさ快感説。イベリコ豚delicious study with PET。「とりあえずスーパー豚食べても『うまい』とは感じちゃうんだからダメじゃん? 有意差が出るかな?」。ふ〜む。一同腕組みして考える。「臨床上の薬剤効果判定研究と同じで、スーパー豚とイベリコ豚でどっちがおいしいかってブラインド(注4)かけて有意差が出ればいいんじゃないの? 非劣性が証明できればいい」と私。「見た目が違うとバレる」「じゃあ、カツにすればいい。衣がかかっていれば分からない」「調理者の思い入れが入らないようにダブルブラインド(注5)だともっといいな」「いいねぇ、そのstudy design」 後日、くだんのレストランに無理を言って、イベリコ豚カツとスーパー豚カツのうまさ判定研究が行われた。被検者ボランティアはこの前食べに行った面々と、新たに加わった医師数名。テーブルの上には1人当たりA、B札のついた2枚の皿の上にカツが3切れずつのっている。口直しのご飯と水とサラダ少々もある。「皆さん、ご自分の前のA・B各皿のおいしいと思うほうを紙に書いて私に渡してください。座席番号も忘れずに」。主任研究者K先生が説明する。「投与量は1人各カツ3切れまでです。たくさん食べると味覚が鈍りますので、投与量は守ってください」 各自、量が少ないだの、ワインはないのか、だの勝手なことを言いつつ、A・B皿からカツを取って食べ始める。Aがうまい、いやBだよと声が聞こえる。「人によってイベリコ豚がどっちの皿に盛ってあるかは違いますから、答えが違っていていいんですよ」。さすがK先生、ちゃんとランダム(注6)化してある。全員グルメでならした医師だ。己の舌を信じて自信満々。回答用紙を回収し、座席表と照らし合わせて正しくイベリコ豚が表記されているのかを検証。 後日、以下のような紙が医局に張り出された。 「イベリコ豚delicious studyの結果p <0.05の有意差を持ってスーパー豚のほうがおいしいと回答された。これはイベリコ豚の味を否定するものにあらず、人間は日頃食べ慣れているものをうまいと感じるものと考案する。諸氏の食生活に同情する。主任研究者K」 K先生、ごめんなさいね。悪いのはイベリコ豚ではなく私たちの舌でした。
(注1)有意差:統計学的に確かな差異 (注2)in vitro:試験管内の (注3)PET:positron emission transaxial tomography 陽電子放射横断断層撮影 (注4)ブラインド:盲検。比較試験の際に、どの試験対象が与えられたかを伏せること。 (注5)タブルブラインド:二重盲検。この場合、調理者も試食者もともに、どの豚肉を扱っているか分からない状態で試験を行うこと。 (注6)ランダム:無作為。バラバラの状態。
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