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医局の窓の向こう側   


医局人事冬の陣その2

2007年01月15日

 読者の皆様いかがお過ごしでしょうか。ちょうど今頃、正月当直の代休をお取りになる勤務医の方もいらっしゃるでしょうか。しかし今年度も残りわずか。待ったなしの医局人事です。

イラストイラスト・木村りょうこ

 夜の11時を回った頃、I医局長は重い足取りでエレベーターに乗り込むとB2のボタンを押した。2月の医学部研究棟は暖房もなく、冷え込んでいる。ため息混じりの深呼吸は、白い湯気となって薄暗いエレベーターの中で消える。ヒュ〜ン、ガコンと古びたエレベーターは目的階へ到着した。

 地獄の底へ落ちたみたいだ、と医局長は思ったものの、よくよく考えたらむしろ自分が地獄に落とすほうの立場なのだと思えてきた。「医局長なんてこの任期いっぱいでこりごりだ」。エレベーターを下りた廊下は節電のためにすべての電灯が消されていて真っ暗。その暗がりの中をたった1カ所だけ、奥の光が漏れている部屋に向かって歩き出す。ドアを押し開け、かつては自分も入り浸った実験室へ入る。コンプレッサーやファンの音だけで人の気配がしない。

「O先生、O先生」気弱な声で医局長は呼びかけた。丸まった背中を起こしてO先生が振り返った。「ああ、I先生。こんばんは」。それだけ言うとすぐにくるりと向き直ってしまった。「実験どう? 進んでる?」肩越しに手元をのぞき込みながら医局長が言った。「ええ。まぁ。この実験、この子たち(マウス)にかかってますからね。今のところ順調。こうやって毎日世話していると僕の気持ちが分かってくれるみたいで、いいデータ出してくれるんですよ〜。ね〜、ちーちゃん!」。

 ちーちゃんと呼ばれたマウスはカジカジと試料を食べていた。「こいつらには名前が付いているんだぁ」。ご機嫌を取るために医局長は言った。「こいつらなんてやめてください。ちーちゃん、白ちゃん」。むっとするO先生。「し、心血注いで世話しているんだね……」と目を合わさないように医局長。「もちろんです。朝、夕2度のエサやりと体重チェックは欠かせません。感染症にならないように細心の注意を払います」「毎日?」「そう!毎日」。O先生は黙々とマウスの世話を続けた。

 しばらくの沈黙の後、医局長が口を開いた。「来年の人事なんだけどさぁ……」

「はぁ。教授がまた勝手なこと言ってるんですか? I先生も調整しなくちゃいけないから大変ですね。僕は大学院だから関係ないけど、動かされる人はたまったものじゃないですよね、そんな場当たり人事」「場当たり人事?」。さすがにちょっとむっとする医局長。「そうですよ。場当たり人事。1年で人が変わるなんて場当たりでしょう。決定を伝えるI先生も恨まれますよね。この辺りはN大学とのジッツ(注1)争いもあるから大変なのは分かるけど、長期計画ってものがあるでしょう」「僕、恨まれてるのかな?」。みぞおちの辺りをさすりながら医局長。「そりゃ恨まれるでしょ。ま、I先生、僕が学位取ったら1回は御礼奉公でちゃんとご指定のところへ行きますから」。O先生は背中を向けたまましゃべりながら、マウスの体重を慣れた手つきで計り続ける。

 I医局長は絞り出すように言った。「来年の4月から○○病院へ行くことになったから」「先生も大変ですね。医局長自ら出陣ですか」「いや、僕じゃなくて」「誰ですか?」。返事がないので振り返ると、医局長の人差し指はまっすぐにO先生を指さしていた。

 真夜中の実験棟にO先生の絶叫が響き渡る。「僕は院生ですよ! お金払っているんですよ!」「だから学徒出陣」「なにふざけたこと言ってるんですか!」「じゃあ御礼奉公の前倒し」「この子たち(マウス)どうするんですか? 実験どうするんですか?」「ちゃんと研究日あるから。今以上にサポートするから」「今だってたいしたサポートしてもらってません! ちーちゃんの世話どうするんですか? 絶対いやです。そんな無茶言うなら医局なんてやめてやる」

 I医局長は痛む胃を押さえながら、O先生にちょっとだけ会釈だけして黙って実験室を出た。「ぼくのことが憎いかもしれない。ちーちゃんや白ちゃんだってどうなるか分からない。確かに場当たり人事だ。だけどね、医局に所属するというのはそういうことさ。O先生」という言葉を飲み込んで。

注)ジッツ:関連病院

筆者プロフィール

真田 歩(さなだ・あゆむ)
 医学博士。内科医。比較的大きな街中の公立病院で勤務中。診療、研究、教育と戦いの日々。開業する程の度胸はなく(貯金もなく)、教授に反発するほどの肝はなく、トップ研究者になれる程の頭もない。サイエンスを忘れない心と患者さんの笑顔を糧に、怒濤の日々を犬かきで泳いでいる。
 心優しき同僚の日常を、朝日新聞社刊医療従事者向け月刊誌で暴露中。アサヒ・コムにまで載っちゃって、少し背中に冷たい汗が・・・。

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