増える南米からの移住者 『ワシントン・ポスト』紙 2000年11月30日 アンソニー・ファイオラ アルゼンチンの旅券発給所は、ここ10年来で最悪の景気後退に苦しむこの国から脱出しようとする経済難民であふれている。コロンビアの米国大使館はビザ取得申請者でごったがえしており、ビザ申請の面談予約がとれるのは早くて2002年3月だという。エクアドルでは、過去24ヵ月間に人口の4%に当たる50万人が国を捨て、主にヨーロッパ、ほか米国、カナダへと移住した。 アナリストや政府高官、救援団体は、これを過去およそ10年間で最大の南米からの集団大移動だという。経済的、政治的な重大局面のあおりを受けて、大勢の南米人が海外に拠点を移す一方で、その母国では、頭脳流出や家族の崩壊という懸念が生じている。 特に米国は、メキシコや中米からの政治的、経済的理由に基づく移民を、合法、不法を問わず、多数受け入れてきた。その数は、メキシコだけで30万人にものぼる。しかし現在、南米からも、正確な数字はわからないが、少なくとも年間15万人が米国に移住し始めている。南米大陸が最後に多数の移住者を出したのは1980年代末だった。当時は、超インフレと麻薬、ゲリラによって多くの国々が麻痺状態にあった。 1990年代は、多くの国が自由市場主義に基づく改革を採用し、経済が一時的に回復したことや、また南米のすべての国が民主選挙で政権を選ぶようになって独裁政治の時代が過ぎ去ったため、移民の流出は弱まった。しかしその後、ブラジルとチリ以外の南米諸国では、自由市場改革が招いた地元企業の破綻、予想を下回る海外からの投資、さらに政府の縮小による高失業率と貧困の増加という結果がもたらされた。 「現実を直視しよう。グローバル化や経済の方向転換がこの地域に強い打撃を与えた。そのうちに先進国、特に米国は、南米諸国が経済問題に奮闘する影響の1つが移民の急増だと気づくであろう」と述べるのは、ブエノスアイレスの社会経済学者、アルテミオ・ロペスである。 さまざまな点から判断して、これは富裕層も貧困層も含んだ南米からの最も多種多様な人口移動である。移住者の出身地も、また移住の理由もさまざまである。そしてそれに伴い移住者の流出先と流入先の両方が変わりつつある。 フロリダ州マイアミのディデ郡では、チャベス大統領の民主革命を逃れてマイアミに渡った中流および上流階級のベネズエラ人が、瀟洒なドーラル地区を「リトル・カラカス」に変貌させた。5千万円はする大邸宅からは、ベネズエラ人の主食であるパンの香りが漂う。一方、ベネズエラの首都カラカスでは、洒落た住宅地にたくさんの「売家」の看板が立ち、新聞広告にはテニスやゴルフの会員券などが破格値で売りに出されている。 スペイン南部では、エクアドルからの多数の移民が、オリーブ畑やぶどう畑で働いている。ここではエクアドルに残る家族へ何千ドルもの仕送りを届ける「運び屋業」が大流行である。一方のエクアドルでは、男手不足という事態に陥っている。スペインからエクアドルへの仕送りは、2000年の1年間で10億ドル以上になると予測される。政府統計によれば、これは石油輸出に次ぐエクアドル第二位の外国資本収入源だという。 エクアドルの首都にある「海外にいるエクアドル人のための事務局」局長、レオナルド・カリオンは、驚異的なエクアドルの海外移住者数を示し、「広がる社会的、政治的、経済的問題に起因して南米で移住危機が起きている。移住者の種類や理由は国によって異なるが、その根本には失望がある」という。 コロンビア、ボリビア、ペルー、ベネズエラ、エクアドル、パラグアイ、アルゼンチンは、経済の大変革に加え、政治的緊張にも直面している。例えば、ペルーではフジモリ大統領追放につながった騒動により権力が真空状態となり、経済は脆弱化している。経済学者らはペルーの2000年第4四半期の経済予測をゼロ成長と発表したが、首都リマではそれを絶望と解釈した。 ペルーの米国大使館では、観光ビザの申請件数が1999年の8万5,000件から2000年には13万件と、53%も増加した。アナリストや、2000年にビザを取得した7万6,500人のうちの何人かは、実際には観光以外の目的で米国に移ると語っている。 「ここには仕事もチャンスもない。経済危機で求人は完全に底をついた。この状況が来年に好転するとは思えない」と語るある男性は、やっと手に入れた米国の観光ビザが剥奪されることを恐れて匿名を希望した。リマにある会社に勤めていたが、70人のレイオフによって最近失業し、2000年11月にニューヨークに発つ予定であり、もう戻らないかもしれないという。 南米からの移民の波は、米国に対し管理可能ながら直接的な影響をもたらす可能性がある。アナリストによれば、力強い米国経済は、ペルー、エクアドルなどからの安い労働力、さらにはアルゼンチンなどの先進的な国の教育レベルの高い移民を吸収する力があるだけでなく、むしろ必要としている。さらに、移住先の上位には米国が挙げられているが、スペイン、イタリア、カナダなどの西欧諸国も米国同様に人気がある。ワシントン地区の約35万人のヒスパニック系住民のうち、約24%は南米出身である。 「南米からの移民が今くらいの数であれば、米国は経済的な支援が可能だが、米国経済が下向きになれば、今のような寛容な受け入れは期待できないであろう。しかし、しばらくは南米からの移民が米国から見て問題となることはないだろう」と、ブルッキング研究所の上級研究員、移民専門家の、ジェームズ・リンジーはいう。 しかし、ゲリラ戦の危険から逃れてくる中流、上流階級のコロンビア人に対しては、特に門戸を開放するようにとの圧力が米国政府にはかかっている。マイアミにある移民支援組織のコロンビア・アメリカ・サービス協会(CASA)は、過去12ヵ月に、12万人もの人々が6ヵ月の観光ビザで米国に渡ったと推定している。CASAの会長ジュアン・カルロス・サパタは、戦争や自然災害に遭った一部の国からの移民に与えているような「一時保護」あるいは特別労働ビザを、コロンビアからの移民には与えていないことに対し、米国を非難した。 「我々が問題視しているのは、コロンビアに対して米国がとる二重基準のことである。麻薬反対計画では、コロンビアにその問題が十分あると認めて支持するが、移民となると、コロンビアには支援を正当化しなければならない特別な問題がまるでないかのようにふるまう。そしてコロンビア人が米国に来るのは経済的理由からだと主張する。娘や息子を毎日のように誘拐されている国の国民に対してそういうのである。それは間違っているし、卑怯である」と、ワシントンで昨年、ロビイ活動を行っていたサパタは述べる。 しかし、南米を去る移住者の大半は、実際、経済的必要性を理由に挙げている。最悪なのがエクアドルであり、経済が崩壊し、議論の的であった通貨の米ドル切り替えを2000年に決定したにもかかわらず、インフレと失業の増加は止まらない。 2000年6月、南メキシコのチアパスで27人のエクアドル人がトレーラーの中にほぼ窒息死の状態でいるのが発見された。エクアドルから陸路米国に向かう途中、コヨーテと呼ばれる密入国者の越境を助ける業者に置き去りにされたのだ。2000年3月には、250人ものエクアドル人が乗った船がカリフォルニア沿岸で漂流しているのを沿岸警備隊に発見され、その多くは脱水症状を起こしていた。7月には5人のエクアドルの海兵隊員が、ニューヨーク市に停泊中、船から飛び降りた。 ごく最近の話では、首都キトにある米国大使館の外に並ぶ34歳のエクアドル人女性がいた。南米にあるヨーロッパ領事館の多くにも同様に、周りに長い列ができている。彼女は、45ドルで観光ビザを手に入れるために、アラウシの家から7時間バスに揺られてキトまでやってきたのだった。彼女は米国で不法に滞在し続けて仕事を探すという。 彼女は役所の事務員として月に108ドルを稼いでいるが、地元の通貨スクレの価値が2年前大幅に下がる以前に比べると、60%も収入が減っている。もし観光ビザが手に入らなければ、米国には不法入国するしかないという。海外脱出は家族の中で彼女だけではない。兄弟の1人はスペインへ、もう1人はロンドンに行ったという。 「どんな仕事でも構わない。友人の1人は1週間で300ドルも稼いでいる。300ドルあればその日暮らしから抜け出せるし、母に薬代の仕送りもできる」 移住者は中南米で最も裕福な国アルゼンチンからも跡を絶たない。現在、アルゼンチン人口の大半は、世界第7位の経済大国だった19世紀末~20世紀初頭にヨーロッパから来た移民の子孫で占められている。しかし、10年間におよぶ自由市場改革によって、政府と民間部門がダウンサイジングを急激に断行し、レイオフされた人々を吸収できるほど十分な雇用が創出されなかったために、失業率は16%前後から下がらず、貧困が急増した。アルゼンチン経済が2年間も景気後退に苦しんでいるために、何万人ものアルゼンチン人が、両親あるいは祖父母の出身地であるスペイン、イタリア、ドイツなどに国籍を移し替えようとしている。 「国を捨てるのがつらくないはずがない。母国を愛しているのだから」と述べるのは、4年前に人員削減で工業デザイナーとしての職を失ったセルジオ・パリア(42歳)である。彼は今、お抱え運転手として働き、5人の家族を養うのが精一杯である。 彼の祖父は、イタリアのバーリ出身の大工で、1910年前後の好景気の頃にブエノスアイレスに移住した。現在その孫がイタリアのパスポートを申請中である。 「大変だとは思うが、子供たちの将来を考えると他に方法がない。いつかアルゼンチンに戻るつもりかって? そうしたいとは思っている。もっといいのは、子供がアルゼンチンに戻ることだ。しかし、それにはアルゼンチンの状況が変わらなければ駄目だ」 移住者の中には大学生も含まれ、その多くはスキーリゾートやホテルなどで働くために一時ビザで米国に渡っている。最近の世論調査によれば、大学生の43.1%がアルゼンチンを離れ、戻らないことを考えているという。 ある午後のこと、カリフォルニアを夢見る19歳のミゲル・クラファンが、ブエノスアイレスにある要塞のような米国大使館領事部門の長い列の中にいた。地元の大学で経済学を専攻するアマチュア・サーファーの彼は、希望を見つけるためにロサンゼルスに行くという。「母は私がいなくなることを非常に悲しんでいるが、それでもここに希望がないことは彼女も理解してくれていると思う。ここでは学位を持つ経済学者が大勢タクシーの運転手をしている。私はその1人になるつもりはない」
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