―凶兆1―
雨が降っている。
雲は重く垂れ籠め、雨粒は際限なく地面を叩く。
地響きのような低音がノイズのように響き、全ての音を掻き乱す。
一瞬、雷鳴が轟き雨音を裂いた。
それは有り触れた小さな教会だった、礼拝堂と比べると広範な墓地が広がり、芝生の上には白い墓石が等間隔に連なっている。
教会に隣接する林の中、迷彩柄のレインコートを着た赤髭の男が白い息を吐き出しながら震える手で携帯食を口にしている。
男の目の前には三脚とそれに備え付けられたカメラがあり、レンズは一軒の家を捉えている。
雨は男にとって全くの不運だった。雨は写真の出来も悪くするし体温も奪う。
だが男は尚も辛抱強くその場でレンズを構え続けていた。
不意に目の前を巨大なトラックが横切る。後部には折りたたまれたショベルカーが乗っているのが一瞬見えた。
近くで工事でもするのだろうかとも思ったが、さして気にもとめない。そのトラックが目の前で停車し、視線を遮らなかったことに感謝した。
ファインダーを覗きもう一度家の入り口にピントを合わせ直す。
その時、男の集中とは別の方向から音が聞こえた。
木をなぎ倒す音、轟音というわけではないが不気味な音が響く。
「…………?」
男はその中でも尚も一軒の家に集中していたが、その尋常ならざる音が連続して聞こえると男はカメラを三脚から外し音の方へと足を進めた。
音はどうやら教会の方から聞こえているらしい。丁度今、男がいる場所とは反対側になる。
男は湿った枯れ葉と枝を踏みしめながら林の中を歩く。あの音はもう既に消えてしまっている。
林を抜け墓地に入るかというところで男の足が止まった。
豪雨の中、墓石を掻き分け進む男達の姿が見えたからだ。
皆、黒服の上にロングコートを着込み、この雨だというのに傘も差していない。
男は無意識のうちにカメラを構えた。
「何処だ!」
口を開けたのは黒い帽子を被った男だ。帽子の暗影の下、僅かに見えるのは黒ぶちの眼鏡と白い髭を生やした老顔、そして鷲型の高く尖った鼻。
「あの角辺りの墓です! ありました! これです!」
黒人の若い男が答えた。コートは既に濡れ尽くしていた。
「名前! 罪状!」
「ロバート・フィッシュ、少女誘拐殺人十五件、1956年死刑執行!」
ラッピングされた薄紙を見ながら叫んだ。異常な雨音と雷音が、男の声を掻き消してしまっている。声は間近にいた帽子の男の耳にすら届かない。
「聞こえないぞ! どれだ! はっきり言え!」
「ロバート! フィッシュ!」
持っているリストを上から順になぞる、ロバート・フィッシュの所で指が止まり、叫んだ。
「よし始めろ!」
墓石の背後に広がる林に向かって合図を出すと、林を突き抜け巨大なショベルカーが姿を現した。
辺りの墓石をなぎ倒しながら進む。
先端には迅速に掘り起こすためか通常の物より巨大なバケットが装備されていた。
「ここだ! 掘れ!」
ショベルは石碑をなぎ倒し、敷石と共に泥をかき上げ横の墓石の上に無造作に掬い捨てる。
一瞬も休むことなくショベルは地面をかく。
豪雨が音を紛らせているが振動が大きい。ショベルが墓を掘り起こす度、地震のような地響きが起こった。
「手早く済ませ!」
教会の一室、礼拝堂の右奥にある小部屋は神父の寝室になっていた。
就寝していた彼は何のものともわからぬ不気味な地響きに気づき目を覚ます。
ぼんやりとした意識の中、初め、近くで工事でもしているのだろうと思ったが、目に入った時計はまだ朝の六時を指している。工事にしては早すぎる。
神父はベッドから身体を起こし、寝室に備え付けの小窓から外の様子を覗く、豪雨の中でもその外の様子ははっきりと見えた。
「何てことだ!」
これは夢かと自分に問うことも忘れ、気づいたときには神父は寝間着のまま外へと走り出していた。
「何をしている! ここは聖域だぞ! お前たちは自分が何をしているのかわかっているのか!」
雨に濡れることも泥水を跳ね上げることも気にせず神父は大きな手振りと共に男達に駆けよった。
黒服の男達は数秒の間黙りその奇態を眺めていたが、神父の気づかぬ程度の目配せを交わしている。
「止めないか!」
更に声を荒げ神父はショベルカーの前に身を乗り出しながら両手を大きく振り上げる。
神の名を叫び、身体を張ってショベルカーを止めようとするがショベルカーはそれを気にとめる様子もなく平然と地面をかき続けている。止まる様子は微塵もない。
「神父はいないと聞いていた……担当は誰だ! なんてへまをしてくれる!」
帽子の男が大声を上げ顔に不快感をあらわにする、それと同時に神父の後ろに音も無く男が回り込んだ。神父はそれに気づいていない。
「お前達は自分たちが何をやっているのかわかっているのか! 墓荒しなど……神の……名を…………」
吐き出すような低い唸り声を上げ、神父は膝をついた。
短髪の男が牧師の襟首にペン型の注射器を突き刺したのだ。
強烈な鎮静剤によって昏睡させられた神父はそのまま泥水の中へ頭から崩れ落ちた。
「どうします?」
「教会の中にでも放っておけ」
「生きたままですか?」
「…………ここは神の領域だからな」
明らかな皮肉めいた口調でそう呟き、男は耳にしていたイヤホンマイクに手を当てる。
「通報はされていないだろうな」
『大丈夫です、有線も携帯も使われていません』
イヤホンの声が答えた。
「出ました!」
黒人の男が叫んだ、雨に濡れた泥の間から腐りきった木棺が顔を覗かせている。
「かまわん! そのまま突き壊せ!」
ショベルカーが強く木棺を叩く、腐りきっていたそれは即座に崩れ内部を剥き出しにした。
男は木棺の隙間からペンライトを差込み中の様子を見るが、そこには何もなかった。ただ空の棺の中に雨水が流れ込んでいるだけである。
あるはずのものはそこには無かった。
「やはり! ありません!」
帽子の男は憤り両手で腰を叩いた。
「糞! 次の墓は!」
「レイモンド・ヒュース! ここから近い集団墓地内にあります!」
「よし! 今からそこに向かうぞ!」
「わかりました!」
掘り出した墓をそのままに男達は動き始めた。
泥水は空の木棺の中に流れ続ける。
程無く木棺は溢れ、一瞬の喧騒は雨の中へと消えた。
だが暗い林の中、僅かな人の気配が残っている。それは酷い怯えと共にそこから動けない小動物のような本当に僅かな気配だった。