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[25364] バガラバ-bagalaba-
Name: 鬼虫兵庫◆7ce726e6 ID:f0ecf01f
Date: 2011/01/11 16:44
まえがき

どうも初めまして私、鬼虫兵庫と申します。
この作品は第二回講談社BOX新人賞PowersでStones賞を受賞した作品です。
死蔵するのもなにかと思いましてこちらの方で連載させていただくことに致しました。
受賞時は未完のままではありましたが、今回は完結まで続けていきたいと思います。
長いお付き合いとなるかもしれませんが、何卒よろしくお願い申し上げます。

それではどうぞ



[25364] ―凶兆1―
Name: 鬼虫兵庫◆7ce726e6 ID:f0ecf01f
Date: 2011/01/12 14:37
―凶兆1―

雨が降っている。
雲は重く垂れ籠め、雨粒は際限なく地面を叩く。
地響きのような低音がノイズのように響き、全ての音を掻き乱す。
一瞬、雷鳴が轟き雨音を裂いた。
それは有り触れた小さな教会だった、礼拝堂と比べると広範な墓地が広がり、芝生の上には白い墓石が等間隔に連なっている。
教会に隣接する林の中、迷彩柄のレインコートを着た赤髭の男が白い息を吐き出しながら震える手で携帯食を口にしている。
男の目の前には三脚とそれに備え付けられたカメラがあり、レンズは一軒の家を捉えている。
雨は男にとって全くの不運だった。雨は写真の出来も悪くするし体温も奪う。
だが男は尚も辛抱強くその場でレンズを構え続けていた。
不意に目の前を巨大なトラックが横切る。後部には折りたたまれたショベルカーが乗っているのが一瞬見えた。
近くで工事でもするのだろうかとも思ったが、さして気にもとめない。そのトラックが目の前で停車し、視線を遮らなかったことに感謝した。
ファインダーを覗きもう一度家の入り口にピントを合わせ直す。
その時、男の集中とは別の方向から音が聞こえた。
木をなぎ倒す音、轟音というわけではないが不気味な音が響く。

「…………?」
男はその中でも尚も一軒の家に集中していたが、その尋常ならざる音が連続して聞こえると男はカメラを三脚から外し音の方へと足を進めた。
音はどうやら教会の方から聞こえているらしい。丁度今、男がいる場所とは反対側になる。
男は湿った枯れ葉と枝を踏みしめながら林の中を歩く。あの音はもう既に消えてしまっている。
林を抜け墓地に入るかというところで男の足が止まった。
豪雨の中、墓石を掻き分け進む男達の姿が見えたからだ。
皆、黒服の上にロングコートを着込み、この雨だというのに傘も差していない。
男は無意識のうちにカメラを構えた。



「何処だ!」
口を開けたのは黒い帽子を被った男だ。帽子の暗影の下、僅かに見えるのは黒ぶちの眼鏡と白い髭を生やした老顔、そして鷲型の高く尖った鼻。

「あの角辺りの墓です! ありました! これです!」
黒人の若い男が答えた。コートは既に濡れ尽くしていた。

「名前! 罪状!」
「ロバート・フィッシュ、少女誘拐殺人十五件、1956年死刑執行!」
ラッピングされた薄紙を見ながら叫んだ。異常な雨音と雷音が、男の声を掻き消してしまっている。声は間近にいた帽子の男の耳にすら届かない。

「聞こえないぞ! どれだ! はっきり言え!」
「ロバート! フィッシュ!」
持っているリストを上から順になぞる、ロバート・フィッシュの所で指が止まり、叫んだ。

「よし始めろ!」
墓石の背後に広がる林に向かって合図を出すと、林を突き抜け巨大なショベルカーが姿を現した。
辺りの墓石をなぎ倒しながら進む。
先端には迅速に掘り起こすためか通常の物より巨大なバケットが装備されていた。

「ここだ! 掘れ!」
ショベルは石碑をなぎ倒し、敷石と共に泥をかき上げ横の墓石の上に無造作に掬い捨てる。
一瞬も休むことなくショベルは地面をかく。
豪雨が音を紛らせているが振動が大きい。ショベルが墓を掘り起こす度、地震のような地響きが起こった。

「手早く済ませ!」



教会の一室、礼拝堂の右奥にある小部屋は神父の寝室になっていた。
就寝していた彼は何のものともわからぬ不気味な地響きに気づき目を覚ます。
ぼんやりとした意識の中、初め、近くで工事でもしているのだろうと思ったが、目に入った時計はまだ朝の六時を指している。工事にしては早すぎる。
神父はベッドから身体を起こし、寝室に備え付けの小窓から外の様子を覗く、豪雨の中でもその外の様子ははっきりと見えた。

「何てことだ!」
これは夢かと自分に問うことも忘れ、気づいたときには神父は寝間着のまま外へと走り出していた。



「何をしている! ここは聖域だぞ! お前たちは自分が何をしているのかわかっているのか!」
雨に濡れることも泥水を跳ね上げることも気にせず神父は大きな手振りと共に男達に駆けよった。
黒服の男達は数秒の間黙りその奇態を眺めていたが、神父の気づかぬ程度の目配せを交わしている。

「止めないか!」
更に声を荒げ神父はショベルカーの前に身を乗り出しながら両手を大きく振り上げる。
神の名を叫び、身体を張ってショベルカーを止めようとするがショベルカーはそれを気にとめる様子もなく平然と地面をかき続けている。止まる様子は微塵もない。

「神父はいないと聞いていた……担当は誰だ! なんてへまをしてくれる!」
帽子の男が大声を上げ顔に不快感をあらわにする、それと同時に神父の後ろに音も無く男が回り込んだ。神父はそれに気づいていない。

「お前達は自分たちが何をやっているのかわかっているのか! 墓荒しなど……神の……名を…………」
吐き出すような低い唸り声を上げ、神父は膝をついた。
短髪の男が牧師の襟首にペン型の注射器を突き刺したのだ。
強烈な鎮静剤によって昏睡させられた神父はそのまま泥水の中へ頭から崩れ落ちた。

「どうします?」
「教会の中にでも放っておけ」
「生きたままですか?」
「…………ここは神の領域だからな」
明らかな皮肉めいた口調でそう呟き、男は耳にしていたイヤホンマイクに手を当てる。

「通報はされていないだろうな」
『大丈夫です、有線も携帯も使われていません』
イヤホンの声が答えた。

「出ました!」
黒人の男が叫んだ、雨に濡れた泥の間から腐りきった木棺が顔を覗かせている。

「かまわん! そのまま突き壊せ!」
ショベルカーが強く木棺を叩く、腐りきっていたそれは即座に崩れ内部を剥き出しにした。
男は木棺の隙間からペンライトを差込み中の様子を見るが、そこには何もなかった。ただ空の棺の中に雨水が流れ込んでいるだけである。
あるはずのものはそこには無かった。

「やはり! ありません!」
帽子の男は憤り両手で腰を叩いた。

「糞! 次の墓は!」
「レイモンド・ヒュース! ここから近い集団墓地内にあります!」
「よし! 今からそこに向かうぞ!」
「わかりました!」
掘り出した墓をそのままに男達は動き始めた。
泥水は空の木棺の中に流れ続ける。
程無く木棺は溢れ、一瞬の喧騒は雨の中へと消えた。
だが暗い林の中、僅かな人の気配が残っている。それは酷い怯えと共にそこから動けない小動物のような本当に僅かな気配だった。



[25364] ―凶兆2―
Name: 鬼虫兵庫◆7ce726e6 ID:2553af8b
Date: 2011/01/12 14:39
―凶兆2―

ニューヨーク。
セントラルパークの紅葉は燃えるような色へと色づき始めていた。日中は小春日和といった陽気だがまだ朝はだいぶ冷え込む。
日も明けきらない薄暗がりの中、二人の男がベンチに腰掛けコーヒーを飲んでいる。

「池田、二日前にオハイオで起きた墓荒らしの件は知っているよな?」
ニット帽を深くかぶった黒人の男が喋ると息が白く広がった。今朝は大分冷え込んでいる、目の前をジョギングしている男の吐き出す息も白く曇っていた。

「一応ニュースでは見た、確か三日前にもドイツでも同じような事件があったな、だが俺はそれよりも死刑囚が脱走した話の方に興味がある」
池田と呼ばれた男は東洋系ではあるが彫りの深い顔立ち、短髪、口髭を生やした三十半ば程度の男だった。片手をダークスーツのポケットに突っ込み、もう一方の手でコーヒーを飲んでいる。

「そいつに関して少しばかり面白い話があるんだが」
「オクターブ」
少し間を置き

「こんな朝早くに呼び出して何の話かと思えば、そんな話か? 俺はカルト宗教には興味は無い。なんでも現場にはカルト系の教本が置かれてたそうじゃないか。あれはカルト教団の仕業だよ」
「池田戦(いけだせん)ともあろう男がそんな話を鵜呑みにしているのかい?」
「さあ、あまり興味が無いもんでな」
「ま、そう言わずこいつを見てくれ」
オクターブがポケットの中から封筒を取り出し、中から一枚の写真を取り出す。写真には巨大なショベルカーとその影に隠れるよう立っている黒いロングコートの男達の姿があった。
雨が降っていたせいか写真の精度は良くない、だが男達が立っているのが墓場であるのと、ショベルがそれを掘り起こそうとしているのはわかる。

「こいつは?」
「俺の知り合いが他のネタを追っている時、偶然取ったものだ。池田どう思う?」
「スーツに黒いロングコート、カルト教団員といった人体ではないな」
池田はその写真を暫く注視した後、オクターブに向かって

「他の写真は無いのか?」
その言葉を聞くなりオクターブは持っていた封筒を逆さまにして叩いた。数枚の写真が封筒の中から滑り落ち、再びそれを池田に手渡す。
他の写真に目を移す度、連続写真のように状況が変化する。
墓を掘り起こすショベル。男達の不鮮明な顔のアップ。その場に現れた牧師。そしてそれを昏倒させる男。墓が掘り起こされ何か確認している黒人の男。それが最後の一枚。

「その知り合いによると連中何かを確認するとすぐにその場からいなくなったんだと、様子が尋常じゃ無かったしとても後は追えなかったらしいが……」
「…………」
もう一度写真を見直す。その中、割と鮮明に写っている男の写真に目がとまる。
黒ぶちの眼鏡で白い髭、鷲型の鼻の横顔。
池田はその写真を指で軽く数回叩きながら何かを考える仕草を見せた。

「こいつは、見たことがある顔だ、たしか昔……どこかで見たことがある」
池田はしばらくの間その記憶を思い出そうとしたが、やめて話を続ける。

「ともかく、この装備とやり口……こいつらは政府の人間だ」
「馬鹿な、政府の人間が墓荒らしをしたっていうのか? 何のために?」
「さあな、だがこのカメラマンに言っておいたほうがいい『間違ってもこの写真を持ち込んだりするな』とな」
「なるほど……かなりハードな写真と言うわけか……」
「政府がカルト教団に見せかけて墓荒らし……何か相当やばいことをやっている証拠だ」
「政府の力を使えば公式に墓を暴くこともできただろうに、そこまで急ぐ必要がある何かが起こったということか? だが墓を暴く必要がある事態なんて俺には想像もできんが……」
「さすがに俺もそこまではわからん、だがこれは本来ここでこうやって話しているのも危険なほどの話題だよ」
「おいおい、脅かすなよ」
オクターブが辺りを見回す、周囲には誰もいなかった。

「探ってみてもいいが……」
深いため息の後

「こいつは厄介だぞ」
池田の言葉にオクターブはにやりと笑みを浮かべる。

「いつものことだろ?」
「そうだったな……今後こいつに関してはオフラインのみだ」
「わかった」
頷きながらオクターブはもう一度辺りを見渡した。遠くに犬の散歩をする老人の姿が見えた。視線に入る人の姿はそれだけだ。

「さて……行くかな」
池田が飲み終わったコーヒーのコップをゴミ箱に放り投げ、ベンチから立ち上がる。

「池田。ロバート・フィッシュ、レイモンド・ヒュース、ネイサン・ウェンスター、……リグレット・ミックシェイサーこいつらから何を思い浮かべる?」
オクターブの問いかけに池田はやや時間をおいて

「殺人犯、まあリグレットは軍人だったが……」
と答えた。

「そうだよな、そうなんだよな……」
呟き続けるオクターブを背にし、池田はベンチを後にする。

(確かに奇妙な事件ではある……)
道の上には散り始めた紅葉がまばらに広がっている。
後何日か経てば落ち葉によって色づき、一面が色絨毯のように様変わりすることだろう。

(死人を掘り起こして何をするつもりだ)
公園から通りに出るその間際、端にあった街灯に寄りかかるようにして一人の少女が手持ち無沙汰な様子で立っていた。
池田は少女に向かって

「待たせたな、鯉(こい)」
と声をかけた。
紺のスカートに白シャツ、赤色のネクタイをしている少女で頭のてっぺんは寝癖で跳ねている。
地顔なのか或いは本当に眠いのか、眠そうな目をしていたが、あどけなさの残る愛嬌のある顔付きの少女だった。

「まあ大して待っていませんでしたが、少し寒いですね」
「飯でも食いに行くか?」
「先生、ではラーメンを食べに行きましょう」
「朝からか? まあいい、じゃあ行くか」
目覚めを迎え始めた町の中へと歩みだす、町はその喧騒を取り戻し始め、また新たな一日が始まろうとしていた。



…………
普段と変わらぬ日常、大抵皆そこから始まる。戦争も革命も人の死も、既にその日常の時点で劇鉄は上げられている。
それらは僅かな人間、或いは誰一人として気づかれることなく進行し、銃口がこめかみに突きつけられた時、初めて彼らは認識するのだ。
もはや予兆は終わりを告げた。
そして



[25364] 第一話 皆殺しの霧街 『浸食1』
Name: 鬼虫兵庫◆7ce726e6 ID:f0ecf01f
Date: 2011/01/12 14:45
Bagalaba



『二十人いた部隊も今や五人だけになってしまった。明日は最後の攻勢をかける。恐らくこれが最後の日記になるだろう。
…………
もしこの世界に迷い込み、この日記を見たものがいるのなら、私は君に何ができるだろうか……?
そうだ……もし私が生き残り、元の世界にたどり着いたのなら、私は君に生き残るために必要なヒントを残そう。私は生きて元の世界に戻る。そして君もこの世界から戻ってきてくれ。
幸運を祈る』



第一話 皆殺しの霧街 



―浸食―

「私を殺したことを後悔するがいい」
男の声。
この声の主が誰であるのかを知っている。
闇。声のみ低く響く。

「さあ、私の所に来い」
「まだそこへ行くには早い」
答えはすぐに闇に飲みこまれた。
意識も何もかもゆっくりと沈み込んでいく。
やがて全てが消えた。



…………

「……せい……先生、コーヒーがいいですか? オレンジジュースがいいですか?」
まどろんでいた池田は鯉の問いかけで目を覚ました。

(夢を見ていたのか?)
現実の世界へと引き戻される。ここは高度三万フィート。オハイオ行きの飛行機の中にある。
少なくともここは夢の世界ではない。
通路側に目を移すとキャビンアテンダントが飲み物を配っている最中だった。

「ああ……コーヒーにしてくれ」
いつの間にか寝てしまったらしい。
指で軽く両目の眼球を押し眠気を払う。

「あ、すいません、もしかして寝てました?」
すいませんと言いながらも大して悪びれた様子の無い鯉が、コーヒーのカップを手渡す。
いや大してではなくこの顔はまったく悪びれてない顔だ。
鯉の顔を見ながら池田は色々な悪口を思いついたが、くだらないと思考を切り上げ、鯉のコーヒーを受け取った。

「まあ、少しだけ寝ていた。鯉、お前こそさっきまでいびきかいて寝てたんじゃなかったか?」
「ちょっと嫌な夢見ちゃって……それで目が冴えちゃいました」
「ふうん」
池田は珍しいこともあるものだと思ったが、誰にでもナーバスな一面はあるものだ。実際自分があのような夢を見るとは思いもよらないことだった。心の底では罪悪感やらなにやらが渦巻いているのだろうか? とにかく今はそんなことは考えないことにした。

「そういえば先生」
「なんだ?」
「あの女の人の話は何だったんですか?」
オフィスを出る前、その直前に訪れた老婦人の話を鯉はしているらしい。

「聞く必要もないだろう、あの仕事は断るつもりだ。別の依頼があることだしな」
「何で断るんですか?」
「なんで断るかだと?」
鯉に言われ、池田は数時間前の出来事、そしてこの数日の無駄に過ごした日々のことを思い出した。
調査は完全に手詰まりに陥っていた。
事件に関する情報は非常に少なく、手に入る情報は全てなんらかの色づけが施された偽の情報だった。ただ、少ない情報の中わかったことは似た事件が世界の各地で散発的に起こり、その頻度が時間と共に増えているということだ。だがこれは事件の手がかりというには遠い。
池田は全く進行しない状況を打開するため、結局今日になって事件が起きたオハイオに飛ぶことに決めた。
オフィスに彼女が現れたのはそれを決めた矢先のことだ。



「十年前の在日米軍機失踪事件ですか?」
「ええ、そうです。私の夫はその失踪した輸送機に乗っていました」
池田の問いかけにテーブルを挟み座っている初老の白人女性は言いながら頷いた。
顔には疲労の色が濃い。憔悴しきった様子ではあったがその眼光は驚くほどに強い。何かの強い意志がこの婦人を動かしていることがはっきりと見て取れた。

「いいですかエレナさん……ええと、ご主人の名前は……」
池田の目の前の机の上には数々の資料が散らばっている。それはエレナ婦人が全て用意した資料……といっても当時の事件のスクラップや失踪した人物の経歴程度の物ではあるがそれでも相当の資料が積み上げられていた。

「ビック……ビック・ウェンスターです」
エレナはその資料の山の中から資料を取り出しそれを池田に手渡した。
その男は米国旗を後ろに、軍服を着込んだ黒人の男だ。直立し視線はしっかりと彼方を見つめ。その視線は実直な性格を表しているようにも見える。
池田はその資料を見ながらも、この依頼が到底達成不可能な難題であることに気がつき始めていた。

「失礼ですが……この事件は既に日米の合同で徹底的に捜査が行われました。それによってこの事件は事故と判断されたんです。今更私が調査をしたところで新しい情報を見つけれるとはとても思えませんが……」
言い終わった後、口をつけたコーヒーは既に冷め切っていた。
思えば鯉がそのコーヒーを入れたのはだいぶ前のことになる。今鯉は奥の部屋でオハイオ行きの準備で天手古舞いになっているはずだ。時折ここまで物が崩れる音が聞こえてくる。何か壊して無ければいいのだが……と思いながら冷えたコーヒーを一気に飲み干した。

「それでもお願いしたいんです。たとえ何も見つからないとしても、それが一つの区切りになるのなら……」
「…………」
池田はエレナの前にあるコーヒーに目を移す。エレナはそれに全く手もつけず、視線はソファーに座った時からじっと池田に集中している。その様子は病的な程だ。
オフィスに来る依頼者にこういった手合いは少なくはない。
完全に自殺と断定され、全くそれを疑う余地がない事件、何年も前の海難事故での失踪の調査。病的なまでに疑い、自分の満足がいく結果が出るまで調査を繰り返させる。結局彼らは現実に起こった出来事を受け入れたく無いために、違う現実を無理矢理絞り出したいのだ。たとえそれが存在しないとしても。
池田はエレナがそういった一人であると見ていたが、少し気にかかる点もある。

「しかし、何故十年後の今になって調査の依頼をなさったんですか? 調査をするには時間が経ちすぎている……」
「…………」
エレナは視線を自分の横に置いていた手提げ鞄に移し、その中から一冊の黒い手帳を取りだし、そのページの初めの方のページを開き、それを池田に見える形で手渡した。
いや手帳というにはそれは少し大きい、むしろ日記帳といった方が適当かもしれない。

「これは? 日記帳ですか?」
「ええ」
日記に目を通す。日付は一二月四日と記されている。

『十二月四日、日本の米軍基地に到着、任務に就く。今日は冷え込み雪も降っているこの調子なら明日は積もるだろう、明日の移動スケジュールに影響しなければいいのだが……就任早々にこう天候が悪いとはついてない』
その短い日記の文章を何回か読み返していた時、池田の視線が十二月四日という日付に集中し止まった。

「ん、まてよ……この日記はあり得ない……」
顎に手を当て再びその文章を読み直し、視線をエレナに移す。

「ご主人はこの事件以前に日本に駐留したことは?」
「いえ、一度も。主人が日本にいたのは事件の前日だけです」
「…………」
池田は一度大きく息を吐き出し、その日記の内容をもう一度読み直した。
確かにこの日記帳は奇妙だ。



「なんで奇妙なんですか?」
不意に鯉の言葉が池田の意識を現実に引き戻す。
鯉はちびちびとオレンジジュースを飲みながら興味深そうな様子で池田の方を向いていた。

「話すより、実物を見てもらった方が早いだろうな」
胸ポケットから日記帳を取り出しそれを手渡す。

「これがその日記ですか?」
「ああ、だがそれは預かりもんだ。それにすぐ返すつもりだから汚したりするなよ」
「了解です」
ちびちびと飲んでいたオレンジジュースを一気に飲み干し、鯉はそれを受け取った。

「十二月四日ですよね。え~と……なんでしょう? なんかの記念日とかでしたっけ?」
「まあ……この事件を詳しく知ってないのならそれも無理はないかもしれん、十二月四日は米軍機の墜落する前日だ」
「え? 前日? え~と……」
手帳をテーブルの上に置き腕組みをし、しばらく考えた後

「ああ! なるほど!」
鯉が少し周りに迷惑になる程の声を上げて手を打った。

「声を落とせ……」
「次の日に墜落したのなら日記帳が自宅にあるはずないですもんね。……あ、でも日記帳が遺品整理で自宅に送られたとか?」
テーブルの手帳を再び手に取りそれをまじまじと見つめる。
手帳は所々牛革が激しく傷つき、かなり傷みが進んでいる。かなり使い込まれたように見えるその日記帳には妙な違和感がある。

「……この手帳、確かに傷んではいるけど、海底から引き上げたって感じではないですしね……基地に置き忘れた日記帳を送り返したとか?」
「俺も始めそう思った、だが婦人の記憶だとそれは絶対に無いということだ。それにビックは次の日のフライトで自分の転属用の荷物と一緒に移動している。それが本当なのならこの日記帳はビックと共に消えたことになる」
飛行機がぐらりと揺れた。
雲に入ったらしい。窓の外が白く、暗くなった。

「エレナさんの記憶違いとか……それとも単なる記述の間違い……でたらめ日記だったとか? 依頼を受けて欲しいためにエレナさんが嘘をついているとか?」
「疑えばきりがない、だがその答えを知る術はないな。とにかく婦人はこの日記帳に何かを感じ、俺に依頼を持ちかけた……というわけだ」
「じゃあ依頼を受ければいいじゃないですか。この日記帳、絶対怪しいですよ」
「そう簡単にいくかよ……確かにこの日記は奇妙だが、事件に関してはなんの役にもたたない、ただ一点、これが自宅の書斎にあったという点を除けば、これは何の変哲もないただの日記帳だ」
「むう~……」
鯉は唸りながら日記帳をめくる。
ほとんどのページには何も書かれていない。恐らく日本赴任に合わせて買ったものなのだろう。書かれているのは失踪する前日の出来事だけだ。だが、その割には妙に痛みが激しい。使い込まれている感じがするが書かれているのは数行だけ。
奇妙な日記。何かを訴えかけている。

(何を?)
珍しく真剣な顔つきで鯉は考え込んでいるが、いくら時が経とうとも答えがでることはない。日記はあまりにも離れたところにある。
少なくとも今は。

「…………」
無言のまま白紙のページをしばらくの間パラパラとめくる。釈然としないまま手帳をたたみ外張りの革に視線を移す。

「そんなことをしても……何か見つかるのか?」
「なんだか気になるんですよ。すごく」
手帳を裏返した時、その動きが止まる。

「…………?」
目を細め、裏の革の細部を顔に近づけてそれをまじまじと見つめ声を上げた。

「先生、この裏の方に何か文字が書いてありますよ?」
「なんだと?」
手帳を受け取り、裏の革張りを眺めてみるが何かが書いてあるようには見えない、ただ革張りが痛みきっているだけのように思える。

「何も書いてないぞ」
「ああ、見にくいなら光に当ててみるといいかもしれません」
手帳に外の光を当てようと思ったが窓の外には雲が覆い日の光が弱い。仕方なく座席の上の明かりをつけそれに手帳を照らし、角度を変え、下からのぞき込む形を取ってやっとその文字を見ることができた。

「こいつはひどく読みづらいな……文字と言うよりはほとんど傷だ」
文字は傷んだ皮の皺と激しい痛みに隠れほとんど読むことが出来ない。それでもその文字を無理矢理読むとすればそれは

「……Ba……ga……la……ba?」
と読めた。
だが池田の知る限りそんな言葉は聞いたことが無い。どこかの地名でも誰かの人の名前でもない。何かの暗号かとも思ったがそれにしては単純過ぎる。

「バガラバ……」
「一体どういう意味なんでしょうか?」
「ビックの愛称とも思えん……こいつに本当に意味があるかどうか……」
「でもなんか嫌な感じがするんですよねこの言葉……不気味というかなんというか」
「考えすぎだ……意味なんてない。或いは本当にただの傷かもしれん」
池田は手帳のその文字をもう一度見直した後それを再び胸ポケットの中に戻した。

「そうでしょうか? う~ん……」
鯉は腕を組みながら唸る。
池田は鯉の様子を横目で見ながらコーヒーに口をつけた。
再びぐらりと飛行機が揺れた。
窓の外はもう白くはない、黒い雲が機体を覆い始めている。



「う~ん……」
コックピットの中、機長がレーダーを眺めながら鯉と同じような唸りをあげた。

「妙だな……こんな積乱雲(CB)、レーダーに映っていなかったぞ」
「確かに妙ですね、レーダーにも反応はありません」
「こういったレーダーに映らない積乱雲(CB)はたいしたことはないはずなんだが……」
「多分すぐ抜け切れますよ」
「とにかくこのまま直進し、雲の中を突っ切るしかない」
レーダーに映らないその雲はしかし、黒い雷雲となり強烈な閃光をあげた。



[25364] 第一話 皆殺しの霧街 『浸食2』
Name: 鬼虫兵庫◆7ce726e6 ID:2553af8b
Date: 2011/01/12 14:53
機体がガタガタと大きく揺れ始め、頭上にあるベルト着用のサインが点灯した。
池田はコーヒーを飲みきり座席のベルトを締め直す。

「揺れだしたな」
「そうですね」
すぐ横、窓の外は黒い雲が立ちこめ、時折雷鳴の光が窓から機内へと差し込む。
どうやら乱気流の中に入ったらしい。暗い雲は飛行機の窓に張り付いたように暗く、窓からの光をほとんど消していた。

「人は死んだらどこへ行くんだろうな?」
夢の記憶が脳裏をよぎり、池田は思わずそんなことを口にした。確かに窓の世界に広がる光景はこの世とは確かに違う別の世界のように思えた。

「いきなり不吉なこと言わないでくださいよ」
唐突な言葉に鯉は目を細めて池田を睨む。

「いや、俺もさっき夢を見てな、俺より先に死んだ奴が手招きするんだ。お前、早くこっちに来いってな」
「…………」
鯉の口が何かを言おうとするまま半開きで止まった。今まで飛行機の揺れにはまったくおびえていなかった鯉の表情が初めて動揺を含んだことに池田は気づいた。

「どうした?」
「実は私も同じ夢を見たんです」
「ほう……こう偶然が重なるとは珍しいな」
「偶然なんでしょうか? 私には何か本当にその世界に引きずり込まれるような怖さがありました。酷く現実的な……夢です」
「フロイトによるところ夢の中で表される旅とは彼方へと向かう死を連想させるそうだ。或いは旅とは人生そのものなのかもしれん。だから逆に考えれば旅の最中にそういった夢を見るのも不思議ではないとも言える」
「…………」
「大丈夫だ。俺は地獄に行くとしてもお前は天国行きだ。保障してやるよ」
池田の言葉にも鯉の表情は晴れない、それどころか表情は一層暗さを増したように見える。
飛行機は相変わらず乱雲の中を揺れながら飛び、時折大きく揺れた。

「でも……」
「なんだ?」
鯉はそのまま押し黙り、無言の時間が過ぎ、雷鳴の光が再び機内へと漏れる。

「私は妹を殺しました」
「…………」
短く唸り、片手で両方のこめかみを押さえるようにして池田は顔をしかめた。

「あれは……殺らなければお前が死んでいたんだ。それにあいつを殺したのは俺だ、お前じゃない」
言った後、深く息を吐き出し、気を静める。

「止めようこの話は……すまないな、嫌なこと思い出させた」
「いえ…………」
大きな揺れ、荷物が一瞬宙に浮き床に落ちた、機内には機長の乱気流に入ってはいるが運行に支障はないとのアナウンスが流れた。

「おっと、こりゃあ飛行機が落ちるか落ちないかの方が心配のようだな」
「そうですね」
堅い笑みを浮かべ鯉は答える。その表情にはまだ深い悲しみのようなものが渦巻いているのが傍目からも良くわかった。
機内に雷鳴が響く。
黒い雲は低い唸りをあげ、飛行機は軋む。乗客の悲鳴も重なり、それらの様々な音がぶつかり合い機内の中は騒がしさを増し始める。

「参ったな……」
呟きとほぼ同時、女性の悲鳴が響いた。
それは雷鳴や飛行機の揺れにおびえて発せられた悲鳴ではない、明らかに性質が違う。何かの逼迫した緊張の高い悲鳴。
反射的に座席のベルトを外す。鯉も池田とほぼ同時に既にベルトを外していた。

「…………」
「出ますか?」
「ああ」
鯉が座席から腰を浮かせ作った僅かな隙間を通り、池田は通路に身をくり出した。
乗客の視線は悲鳴の方に集中している。その隙を利用しギャレーの中に身を隠す。
池田の行動に気づいている人間はいない。
半身を出し前の区画を覗くと体躯のいい男の後ろ姿があった、そして背中越しに手に持っているナイフが見える。

(……ハイジャックか? このご時世に)
猫のように身をかがめた鯉がギャレーの中に身を滑らせる。

「……どうですか?」
池田同様、乗客の目に鯉は映っていない。

「良くないな、恐らくハイジャック。それも恐ろしく手際が悪いハイジャック。そのくせずぶの素人というわけでもないようだ。柄物は恐らくカーボンナイフ、スローイングナイフかもな、あまり切れ味はなさそうだが」
「ちょっとおかしい人でしょうか?」
「ハイジャックをやる奴にまともな奴なんているのか?」
「……ごもっともです」
悲鳴が更に増す。
前の区画は完全にパニックに、それ以外の区画の人間にはまだ状況がつかみ切れていない。だが悲鳴は悲鳴を呼びこみ、恐怖とパニックが機内全体に伝染し始めている。

「俺が仕留める。お前はここから他の乗客に気を配っていろ」
身を出そうとした瞬間だった。
客席の中から一人の女が立ち上がり、銃を男の背中に構え声を張り上げた。池田の動きが完全に邪魔される形になった。

「動かないで! 航空保安官(エアーマーシャル)よ!」
言葉とその男の敏捷な動きはほぼ同時だった。
空中でナイフの刃を指で掴み、振り向きざま女に向かって投げつける。ナイフは女の銃を掠めつつ肩口を切り裂いた。
女の銃口が逸れた。
男の頭部と心臓をめがけて放たれたはずの二つの弾丸はあらぬ方向に跳び座席と天井に着弾する。
男はその巨大な体格に似合わず素早すぎるほどの速さで女に迫った。第三射を放とうとしていた女はその男の動きに躊躇してしまっていた。避けるべきかそれとも攻撃をするべきか、コンマ数秒、その僅かな時間が男との間にあった距離を消失させた。
銃口を向けられていることにも躊躇せず男は女に覆い被さるように押し倒し、馬乗りの形をとる。一方の手で銃を地面に押さえつけ一方の手で新たなナイフの柄を握った。
早い。
ナイフは一瞬の内にのど元に振り下ろされる。
のどを切り裂く寸前、飛び出していた池田の足がそれよりも僅かに早く男の顎を蹴った。
振り下ろしたナイフよりも速く、男は上半身をのけぞらせ、身体を折り曲げるように仰向けに倒れそのまま地面に崩れ落ちる。一瞬、ぴくりと起き上がろうとする動きを見せたが、男はそのままの窮屈な姿勢のまま動きを止めた。
池田は男を倒した後も通路の中に身体を沈め、辺りの様子をうかがう。
僅かな間の内、共犯の存在が無いことを確認するとその警戒を解き、始めて女に声をかけた。

「躊躇するな」
「あ……」
唖然とする女をよそに池田は視線を前方に動かす。
再び悲鳴が起きた。

「あんたはこの男を縛り上げていろ」
短く言い捨て、池田は女を乗り越え前方に向かって通路を進む。
幾つか前の座席にまでたどり着くと血を吐き出し荒い呼吸をしている白人の男を見つけた。あの女のそれた銃弾が男に被弾していたのだ。航空保安官(エアーマーシャル)が使う貫通性の少ない特殊弾丸ではあったが座席を貫通し肺へとめり込み致命傷となるのに十分な破壊力を持っていた。
呼吸の度にゴボゴボと泡を立てるような音が聞こえる。それは既に呼吸ではなくなりつつある。息を吐き出すことも吸い込むことも出来ず、男は血の気の失われた顔で笛のようなヒューヒューとか細い音を立てもがき苦しんでいる。

「助けて……助けてください! お願いです」
隣に座っていた身内らしい女が悲鳴混じりに池田にすがりつく。だが男の生命はもはや助けようの無いところまで弱まっていた。池田が座席のベルトを外すよりも早く、男の呼吸は止まった。既に男の意識は無くなっている。心臓の鼓動はまだ止まってはいなかったがそれももうすぐ止まる。
女が悲痛な叫び声をあげた。心臓の鼓動が弱まり次第に不規則になっていく、女の叫び声が慟哭へと変わる頃、男は完全に死んだ。
池田はその場に居たたまれなくなり通路を引き返す。
通路に立っていた鯉が池田の様子と男の後ろ姿を見ながら声をかけた。

「どうでしたか?」
「駄目だった……もう少し早く動いていれば死ぬことも無かっただろうに」
「……でも、あの時先生が動いていたら二人の間に入ることになりましたから……あの……その、仕方ないですよ」
「それでもと思ってしまうのが人間だ」
鯉の言うとおり池田が動いていれば自らの身を危険に晒すことになっていた。本能がその動きを止めたが、心の奥底には後悔の念がこびりついている。
閃光が機内の中に漏れた、共に爆発音に近い雷鳴が機体を大きく揺さぶる。激しい乱気流にぶつかったのか、機体が激しく揺れ、傾いた。
男の死体も大きく揺さぶられる、頭をもたげるようにして無機質な動きで上半身を折り血のにじんだ背中をあらわにする。通路に落ちそうになる死体をベルトが何とか支えていた。飛行機の揺れはそこまで大きくなっている。
池田も座席の手置きを掴み、身体を支える。窓から時折漏れるその強過ぎる光は機内がまるで暗闇の中にあるかのように錯覚させた。何度かの閃光と共に機内の照明も点滅し、時折明かりが消え深い闇に落ちる。
乗客は先ほどのハイジャックのことなど忘れてしまったかのように乱気流におびえていた。悲鳴と飛行機が空気を切り裂く音、雷鳴、それらが滅茶苦茶に混じり合い耳をつんざく異常な音となった。
その中

『――ウウウアアアアアアアア』
獣の鳴き声、或いは人のうめき声のような不気味な音、轟音の中でも音は不気味に分離し響いた。まるで頭の中に直接鳴り響いているかのような音。耳をふさごうともその音を遮ることは出来ない。その音は全ての音を飲み込みそして更に大きく増殖していく。今までに聞いたこともない音、或いは機体に何らかの異常が起きたのではないかと思った乗客が叫び声を上げた。
機内はパニックに陥っている。ハイジャックが引き金となり、乱気流とその音が恐怖に拍車をかけた。

「なんだこの音は!」
「ひ、飛行機に異常があるんじゃないのか!」
叫び声が上がる機内の混乱を注視しながら、池田は音の原因を探る、音は機の外から聞こえているようではない、機内のどこからか聞こえてきている。

「なんだこれは……」
機体の揺れの僅かな収まりを突き、鯉が池田の横に身体を寄せる。

「先生! これ音じゃなくて鳴き声ですよ!」
「鳴き声だと! 馬鹿な! どこから!」
この異常な音のせいで叫ぶような大声を上げなければ会話もままならない。

「…………」
鯉が耳に手を当て、音を探るような仕草を見せる。

『――オオオオオオンンンンン……』
声がまた響いた。

「――からです!」
鯉の声は鳴き声と雷鳴にかき消され聞くことが出来ない。

「どこからだ!」
池田が叫んだ後、鯉が男の死体を指さして再び叫んだ。

「この人からですよ!」
「何を馬鹿な!」
鳴き声と共に雷鳴が響く、閃光が機内を照らし機内灯が消えた瞬間。男の上半身が硬直したかのようにビクンと跳ね上がった。

「…………っ!」
突然のことに驚き、二人は死体から飛び退いた。飛行機の揺れの反動で起き上がったのでは決してない、この死体は何かの力によって自らの半身を起こしたのだ。筋肉の痙攣かとも思ったがどうにも様子が違う。首はうなだれ下を向いたままだったが上半身は深く背を曲げながらも完全に起き上がっている。
異常、その死体が起き上がった異常。それと共に今まで鳴り響いていた轟音が静まっていく。雷光は煌めけどもその音は聞こえない。エンジンの音も飛行機が空気を切り裂く音も全てが消え失せ、後には不気味な高いキーンという音のみが残った。平穏な静寂ではない、むしろ緊張は異常なまでに張り詰めている。弦を引き伸ばしていくかのようにその緊張は高まる。
緊張が極限まで至った瞬間、張り詰めた弦が切れるその瞬間、死体の頭が痙攣し天井を見上げた。

『ウアアアアアアアアアアア―――――――――――』
男の叫び声。顎が外れるほどに口を開き、苦悶に満ちた声を上げる。
目は見開かれているが完全に白目を向いている。両手の爪を首に突き立て掻きむしり、皮膚を破り血を流す。
明らかに人ではない。人以外の何かが男の死体に乗り移り操っているとしか思えない。それは悪霊が取り憑いたかのような異常な光景だった。

「馬鹿な! 完全に死んでいたはずだ!」
池田にもこの状況が掴みきれない。或いは幻覚を見ているかとも思った。だが目の前の死体は確実に実体となり叫びうごめいている。

『アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア―――――』
耳をつんざく絶叫が再び男の口から漏れた。
池田と鯉はあまりの不快音に思わず耳を手で塞ぐ。だが、声は弱まることをしらず耳へと到達する。手では絶叫を止めることが出来ないのだ。声は耳にではなく頭の中に直接響いている。
乗客の悲鳴も雷鳴も再びその音量を上げる。全ての音が異常に混じり合いかき乱すように機体は揺れ、全ては混乱する。混乱は混乱を呼び、全てが戻ることの出来ない狂乱に陥った。


                        
……音が消える。
死体の口が閉じ、声が消え失せ。機体は地上に降り立っているかのように安定を取り戻す。何一つ音も揺れ動くものも無い。地上、雪の世界に降り立ったかのように静寂が訪れる。それは異常な静寂である。現実の機体は尚も揺れ動き、乗客は叫び声を上げ狂乱のなかにある。機内の状況は異常なままだったのだ。ただその場から池田と鯉だけが切り離され取り残されていたのだ。まるで間近のスクリーンで無声映画を見ているように。
世界と見えない隔たり、池田と鯉、そして正確にはエアーマーシャルの女、ハイジャックの男、そして男の死体。それだけがこの場から取り残され正常の中にあった。いやその者達こそが真の異常の中に落ちていたのだ。
死体がゆっくりと頭を池田と鯉の方へと向け、白目のままその血にまみれた口を開いた。

「ようこそ」
死体は笑みを浮かべ一言呟いた。そしてその口から大量に吐き出した。霧を。
体内から体液を滴らせるように、次第にそれは死体の鼻や目、耳、全身の毛穴から汗を滴らせるように機内へと充満させていく。霧はその速度とは似合わぬほどの速さで広がり機体の中に充満する。霧はそれ自体がぼんやりとした光を放ち不気味に白く輝いていた。
だがそれを乗客が気づいてる様子はない、彼らはあくまで今にも墜落しそうな飛行機の揺れにおびえているに過ぎない。この霧が見えているのは僅か数名でしかないのだ。

「…………!」
声を出そうとしたがそれが音にならない、池田の声は喉で完全に消え去っていた。

(なんだこれは!)
鯉も自分の喉に手を当て声の異常を確認しながら池田を一瞥し、僅かに視線を合わせる。
遠く遠く遙か彼方から再びあの鳴き声が聞こえる。狼の遠吠えのように遠く暗く響く。

(また、あの声か)
死ぬ人間だけが耳にする死の音、叫び、この世にそんなものがあるとすればこれがそうだ。これがそういうものだ。今まさにそういう状況にあるのだ。
霧は全ての視界を白へと変え、不気味な一色の世界へと変貌させていく。逃れようとしても霧はもはや全身を包み込もうとしていた。全身が包み込まれる寸前、池田は遠く離れた霧の裂け目に少女の姿を見た。おびえた表情で。だがその少女は池田の姿をじっと見つめていた。
霧が全身を包む。



何も聞こえない。辺りは不気味な白い世界に包まれていた。うなるような低い風切りの音が聞こえたように思えたが恐らくそれは気のせいだ。ここには何の音も無い。
池田は辺の白い世界を見渡しながら『鯉』と声を出した。だが相変わらず喉はなんの音も鳴らさず、少しもその静寂を揺らがせることは出来なかった。辺りを見渡しても目に入るのは何も無い白い世界。奇妙なことにこの光は目を瞑っても開けているのと同じように感じることが出来る。
居場所を失うような錯覚、目の前にあるはずの座席、隣にいるはずの鯉、手を伸ばしても何にも触れることも出来ず、心を静めても何の気配も感じることが出来ない。
自分の鼓動さえも脈打っているのかどうかもわからない、ただ漠然とした単純な本当に存在しているのか酷く曖昧な感覚、渾然となり充満する。

「…………」
(気圧の急低下による意識混濁……いや、意識はこんなにもはっきりとしている。ただはっきりとしていると勘違いしているだけなのか? あの男の死体もただの幻だったのか?)
白い世界の中、ゆっくりと自分の身体がぼんやりと浮かび上がり始めた、濃い霧の世界。
姿が見えるといっても身体の上半身程度までしか視界は利かない。後はただ白いだけ。

(妙だ……飛行機の床というよりは石畳の上に立っているようだ……)
何度目かの鳴き声。
今度はすぐ近くから、人の呻きにも悲しみ、苦しむ唸りにも似たその声。
すぐ後ろから聞こえる。
その声の本当の正体をただ振り返りだけすれば知ることが出来る。ただそれだけでいい。それだけでそれを見ることが出来る、知ることが出来る。

「…………」
身体は恐怖を感じている。それを決して見てはいけない。全ての皮膚が泡立つような感覚、その行動を拒否している。これは見てはいけない何か。確実に死を招く何かだ。

(だが俺は振り向かなければならない。それが今まで生残れた唯一の答えだからだ)
振り返ろうとした時。池田は誰かに突き落とされるような強い衝撃を感じた。



[25364] 第一話 皆殺しの霧街 『浸食3』
Name: 鬼虫兵庫◆7ce726e6 ID:2553af8b
Date: 2011/01/12 15:01
「先生!」
地面へと叩きつけられる錯覚と共に池田は飛行機の座席で目を覚ました、ゆっくりと目を開けると間近に不安げな鯉の顔がある。

「ああ、大丈夫だ」
答えると鯉はやっとその顔に笑顔を浮かべた。

「あれは…………夢を見ていたのか……」
考えたが、目の前に広がる光景は尚も異常な状態にある。客室には尚もドライアイスの煙のような濃い霧が沈殿し、視界の半分を白く変えている。そもそも池田はこの席に座ってなどいなかったはずである。だが辺りの座席の配置から考えるとここは離陸時に座っていた自分の席のようだった。

「どうなってやがる……この席に俺を戻したのはお前か?」
意識を平常に取り戻そうと両方のこめかみを強く片手で押さえる。

「いえ、私も今それに気づきました。変ですね……確か私達は通路に立っていたのに……」
視線を宙に浮かせたまま異常な状況を頭の中で整理する。しばらくして池田が重い口を開いた。

「……鯉、あの男の死体を見たか?」
「それは死体自体を、ということですか? それとも死体が口を開いて霧を吐き出したことを、ですか?」
鯉の答えに池田は少し言葉を詰まらせた後、手で払う仕草を見せながらけだるそうな声で

「ああ、もういい……わかった」
言いながら視線を辺りの客席に移すが、乗客の姿は見あたらない。満席と言うわけでは無かったが少なく見積もっても二百人前後の人間はいたはずだ。

「他の人たちは何処に行ったんでしょうか?」
「二百人近くの乗客がいたんだ、そう簡単にいなくなるわけがないだろ」
立ち上がり辺りを見渡そうとしたが、腰のベルトがかけてあることに気がつく。

(ご丁寧に座席に戻しただけではなくベルトまでかけ直したのか?)
ベルトをはずし立ち上がる。鯉も既にベルトをはずし通路に出ている。
濃い霧に包まれた機内は見通しがあまり利かないが、座席に人の姿が無いことはわかる。皆が座席の下に潜り込んでいるので無ければ、視界に入る全ての座席には一人の乗客もいないことになる。ただ延々と無人となった客席が続いているだけだ。

「一瞬の内にか? 俺たちは思ったより長い間気を失っていたのか?」
アナログの腕時計に目を移す。時刻は夕方の五時三七分を指している。この機の出発時刻は五時丁度、水平飛行に入りしばらく経った後、あの異常が起こったことを考えるとほとんど時間は経過していないことになる。もっともこの時計が誰かに操作されていないという確証はない。

「どうなってやがる」
飛行機は今、静かに平行飛行を行っている。乱気流もなく、機内にはジェット音しか響いていない。
窓の外は雲に覆われているのか白く塗りつぶされたように真っ白で視界は利かない。
鯉が一つ一つの座席を見て回りながら口を開く。

「おかしいですね……さっきまでは確かに皆いたはずなのに……ほら席の上に子供の持っていたぬいぐるみや、ひざ掛けが残ったままです」
確かに誰もいなくなった客席の上に乗客の痕跡が残っている。膝掛けや人形だけではなく座席の下には乗客の荷物がそのまま残っている。座席の上に手を触れるとわずかな人のぬくもりを感じた。

「乗客が消えた?」
「神隠しですか? やっぱり」
「馬鹿な……常識的に考えろ。オカルトや超常現象からは思考を切り離して考えるべきだ」
「でもこれってまるであれみたいじゃないですか、えーと……ほら、あの誰もいない無人船に乗り込んでみるとコーヒーからはまだ湯気が出ていたっていう……ああそうだマリーセレスト号の話」
「そりゃコナンドイルの創作だ、だいたい無人船に乗り込む頃にはコーヒーだって冷めてる。あれはスコールか何かが原因……ああ、まあいい……とにかくそんなとこだ」
「じゃあ……え~と、機内の急減圧? 霧もそのせいで二人とも意識混濁のせいで幻を見ていたとか?」
「近いが、それだと乗客が消えたことの説明がつかない」
「じゃあそれに加えてどこかの特殊部隊が乗客をどうにかして消してしまったとか? 或いはこれはまだ夢の中とか?」
「そうだな……その中だと最後のが可能性が高いな」
「頬つねってみますか?」
少しの間、池田は顎に手を当て考える素振りを見せていたが、鯉の頬に手を伸ばす。

「痛っ痛たたたたた……ちょっと先生、痛っ痛い、止めてください~」
鯉が池田の手を振り払う。頬が少し赤くなった。

「なんだ? 『つねってみますか?』って言ったじゃないか」
「それは自分で自分の頬をということですよ。といいますか普通わかるでしょ。人の頬抓る人なんてまずいませんよ」
「痛かったか?」
「……そりゃ……まあ」
「じゃあこれは現実だな」
言いながら池田は通路をコクピットの方に向かって歩き始める。

「…………ほっぺたを抓るのってそういうやり方でしたっけ……」
「今は自分の感覚に自信が持てないんだよ、俺もこれが本当の自分なのか自信が持てないくらいだ。すまんね」
背中を向けたまま池田がまじめな口調でそんなことを言ったので、鯉は言葉を止め「なるほど……」と頷いたがすぐに首を振って妙な考えを振り払った。

「いや、なるほどじゃない、わけわからない。私も自分の感覚に自信が持てないんで先生のほっぺたを抓らせてくださいよ」
「嫌だよ、自分のを抓ろ」
問答を……というより鯉の愚痴を二三聞く内、前の区画にたどり着いた。
すぐに席に座っているハイジャックの男の姿が目に入る。正確には座っているというよりは座らされている。手錠をかけられた上、座席に乱暴に縛り付けられた男は気を失ったまま苦しそうにうなり声を上げている。何か悪夢でも見ているのだろう、額に粒になった汗を浮かべ、時折『助けてくれ』『死にたくない』といった言葉を途切れ途切れに吐き出していた。

「いい様だな」
男の他にあのエアーマーシャルの女の姿も見えた。似たような様子でうなり声を上げ、時折苦しげに手置きをつかみ、もがくような様子を見せている。この区画にはそれ以外の人の姿は見あたらない。

「こいつら以外の乗客はいないのか……それにこの様子を見る限り俺たちを座席に運んだのはこいつらじゃなさそうだな」
「変な話ですねぇ……」
「他の乗客が消えたとして、なぜ俺たちだけがこの機に残された。その理由がわからない」
「う~ん、強いて理由を挙げるとすればあの男性の生き死に関わった人間……ですかね?」
「それだと少なくともお前は直接の関係は無いはずだ」
池田はゆっくりと移動しながら座席を確認する。死体のあった座席も何も無くなっていた。ただまだ乾ききっていない血痕が座席の上に残っている以外はそれは全くの正常であった。

「死体も消えたか……」
「じゃあ座席に座っていなかった人っていうのはどうです?」
「ハイジャックの男は異変時にはこの座席に座らされていた。それにそんな原因だったら客室乗務員の一人や二人ここにいてもいいはずだ」
「じゃあ何でなんでしょうか? 誰かが意図的に私達を取り残して残りの乗客をどこかに移動させた……一体何のために?」
「理由やら意味などは考えるべきじゃないだろう、この状況自体が異常で異質で実に馬鹿げている」
「なるほど……じゃあこんなのはどうです。特殊部隊が昏倒ガスを使って皆を眠らせた後乗客を貨物室に押し込んだ。私達が残された理由はわからないですけど……」
「ガスを俺やお前が見逃したというのか? そこまで落ちぶれちゃいないよ。お前も同じだろ? 何も感じなかったはずだ……それにそれを行うには時間がかかりすぎる。この時計が正確なら俺たちが意識を失っていた時間はせいぜい数分といったところだ」
「こんな手間のかかることをする人なら、先生の時計くらいいじってると思うんですけど……」
「だからこいつはあまり当てには出来ない。だが座席に残ったぬくもりからみても何十分も経ったというわけでは無いはずだ。それだけの時間に二百人近い昏倒した人間を運び出せると思うか?」
「難しいでしょうね……」
「まあ、もっとも方法が無いわけではない……」
「といいますと?」
鯉の問いかけに池田の顔が突如として神妙な顔つきに変わる。そのまま視線は機体の扉へと移る。

「機体のドアを開けれる高度まで降下し乗客を機外へと放り投げる。これなら可能だ」
「うぇ……」
鯉は妙な声を上げながら何も見えないはずの窓に目を移した。見えるのはただの白い雲だけだ。

「それこそ本当に狂気の沙汰ですね。出来ればそれは間違ってて欲しいですけど……」
「…………」
池田は顎に手をやり更に深考を重ねる。心の奥底では乗客達は既に死んでいるという思いが巡っている。皆死んだ。あの異変、全ての乗客。池田の脳裏には最期の瞬間にみたおびえきった少女の顔が焼き付いている。誰が何のために……これは常識の範疇で解決出来る問題ではない。真実にたどり着くため異常人になる必要がある。

「うああああああっ! 何処だ! 何処だ! 何処だ! ここは!」
池田の思考は叫び声によって中断された。
既に身体を叫び声の方向へと向けている。ただ声に驚いて飛び跳ねた鯉と違い、本格的に警戒をする様子はなく片方のポケットをズボンに突っ込んだままであった。池田の様子からして、その男の悲鳴はある程度予測できた異常だった。

「起きたか……テロリスト」
「どうなってやがる! ここは何処だ! 俺はどうしちまったんだ!」
「忘れたのか? ここは飛行機の中だよ」
池田が機内の壁に突き刺さったままになっている投げナイフを抜き取り、男の首元に構えるような格好を見せる……が、あまり威嚇する意識は無いのかそのままの格好でナイフを内ポケットの中へとしまった。

「飛行機……」
男は一度辺りを見渡し落ち着きを取り戻そうとしていた様子だったが、辺りの異常な状況を見、語気を再び荒げる。

「他の乗客はどうした! 何故誰もいない! この霧はなんだ! あの男の死体は……あれが……口から霧を……あれはなんだったってんだ!」
鯉と池田の表情がさっと変化した。この男もあの光景を見ていたのだ。

「……まいったな、あれが現実だったていうのか?」
あれは幻覚ではなかったのか? 池田はポケットに押し込んでいた左手を出し無精髭をかまうように手を当てた。
二人だけが見たというのならば幻覚の偶然の一致とも考えられなくもないが三人が同じものを見たとなるとそうはいかなくなる。

(現実とすれば何らかの暗示或いはあの男の死体に何らかの特殊な細工が……いや、あの男は間違いなくただの人間だった……)
「きゃあああああ! 止めて! 止めて! もうあの声を聞かせないで! お願い! 助けて!」
再びの絶叫がまた池田の思考を遮る。
女の絶叫が機内中に響いた。
喉を潰してしまうほどの声、絶叫と定義することの出来ぬ程の叫び。人が本当の恐怖に陥った時にしか吐き出すことの出来ぬ、最も原始的で荒々しい叫び。狂った、聞いたこともないような絶望に包まれた声。

「おい落ち着け。大丈夫だ」
池田は急ぎ女の元に駆け寄った。放って置くと女はそのまま自殺をしかねないほどの取り乱しようだった。ブロンドの髪を振り回し。恐怖に怯え。狂人の如くに叫び声をあげ続けている。

「心配ない」
池田が女の目の前に駆けより声をかける。
同じように鯉も女の元に駆けよった。二人の姿を見ると僅かな平静を取り戻し、玉のような汗を浮かべ、息を荒げながらも外面の平静を装い震える声で答えた。

「だ、大丈夫よ……ちょっと嫌な夢を見ただけだから……」
女はハイジャックの男と同じように辺りの様子に目をやった。床に漂っている霧は幾分薄くなっているが未だ床の視界を遮るほどに濃く沈殿している。そして乗客は何処にもいない。座席に縛り付けられている男が首だけでこちらだけを振り向き睨んでいるのが唯一見ることが出来る乗客の姿だった。

「他の乗客は……? もう地上に着いたの? この霧は?」
「乗客は消えた。ここはまだ空の上。この霧が何なのかは俺にもわからない」
「冗談でしょ?」
「そうならいいんだがな……」
女は鯉に視線を移したが鯉もどういう反応をしていいのかわからず、ただ慌てた苦笑を顔に浮かべる。

「乗客が消えた? ……どうやって?」
「今俺たちもそれを探っている……傷は大したことがないようだな」
「傷?」
池田の視線に女はその傷のことをに始めて気がついた。僅かに血がにじんでいるようだが確かに大した傷ではない。

「ええ……どうやら大したことはないようね」
池田は女に手を差し出し握手を求める。

「俺は池田戦、こいつは戌亥鯉。あんたは?」
「アイラ・ブラッドフォード……航空保安官(エアーマーシャル)よ」
アイラはまだこの状況が把握し切れていない様子だったが池田の差し出した手を握った。

「俺はテッド・ロビンソンだ」
首だけ振り向き、池田達を見ていたハイジャックの男が乱暴そうに声をあげる。

「お前には聞いてないが……まあ覚えておくよテッド」
「…………」
鯉の注意が不意に会話ではなく飛行機後方に集中する。池田がそれに気づき反射的に半身を隠した。

「なんだ?」
「男性のようですが……こちらを警戒しているのか、気配を隠すような足取りです」
「化け物じゃあるまいな?」
池田は内ポケットのナイフの柄を掴んだ。

「まさか……普通の男性のようですけど……」
後方、池田達の座っていた座席より後ろは霧が濃く視界が利かない。たかだか数十メートルの距離ではあるが最後方どころか二つ目の区画すらぼやけて見える。
一歩一歩気配を殺し、息を殺した足取り、霧の中一歩踏み込み、一歩また足を前に出すゆっくりとした動き。自らの気配を消そうと最大限努めている。
前の区画にそれがたどり着き、その姿があらわになるかという瞬間、音も無く霧の中から飛び出したナイフが男の首元に当てられた。突然のことに男は声を上げることも忘れ、ただ両手を上にあげ。完全に固まった形になる。
気弱そうな男。栗色の髪を七三にわけ縁の太い眼鏡をかけている。古典的なイメージで言えばそれは学者か博士のように見えた。
薄いグレーのスーツを着込んだその男の背は低く、池田の伸ばしたナイフの先も併せて随分下を向いている。

「誰だ」
「わ、わ、私は怪しい者じゃありません。その……突然誰もいなくなったものですから……あ、あの、よ……様子を見に来たん……ですけど……あ、あなたは、テテ……テロリストの方ですか」
「馬鹿言え」
ナイフを引くと腰が抜けたのか、男は尻餅をつくような形で床に倒れた。倒れた風の拍子で霧が僅かに舞った。

「い……い一体どうなってるんです……乱気流に入ったと思ったら急に周りの乗客が消えて……霧も……どど、どうなってるんですこれは……」
「それは俺たちも知りたいくらいだ、すまなかったな、俺は池田戦だ」
手をさしのべ男を引き上げる。引き上げながら池田の脳裏に新たな疑問が浮かび上がった。
この男は何故この飛行機に残ったかということである。
飛行機に残ったのが元軍人やエアーマーシャルだけならばまだ関連性があった。だがこの男の出現によってその関連性も失われてしまったようである。

「わ、私はトーマス・クラーク。ニューヨークであの……げ、外科医をしています」
「外科医?」
「な、何か問題でも?」
「いや……」
(外科医に元軍人、エアーマーシャル……なんとも奇妙な組み合わせじゃないか。これになにか意味があるとでもいうのかこの五人に共通性が?)
単純に考えればこの五人に関連性などない。だがあれだけの乗客の中からこれらの人間が選ばれた? のには何らかの意味があるはずだ。適当に選んだにしてはトーマスを除く池田達に妙な一致があるのも気になる。

「鯉」
「はい、他の乗客が残っていないか探せ、ですよね?」
「そうだ。だが後部はこちら側より霧が濃い。十分注意しろ」
池田は内ポケットのナイフを取り出しそれを鯉に投げた。狙って投げたかのような早いスピードだったが難なく受け取り、それを右手に構え感触を確かめる。投げナイフなので柄の形がそもそも持って戦うことを前提に作られていない。二三回握り直し握りにくいナイフの感触を確かめた後、もう一度池田に視線を合わせた。

「それでは先生行ってきます」
「ああ、気を付けて行ってこい」
「勿論ですよ」
鯉はそう言い放ち、その場を後にした。後に残った池田はそれを見届けてから視線をコックピットへ視線を移す。池田の今までの挙動を見ていたテッドが本当に感心している様子で池田に声をかけた。

「よう、どうやらあんたも普通の人間じゃないようだな、あんたも元軍人かい?」
池田は明らかに不快そうな表情を見せる。

「そんなに大したもんじゃない、ただの悪ふざけのようなものだ」
池田の視線はテッドの問いかけに答えていても尚もコックピットに集中したままである。

「問題は山積しているがまずは一番の問題を解決することにしよう」
「あ、ああ……そ、そうですよ、ぼ、僕もそのことが気になってここに向かっていたんです。乗客が皆いなくなったとしたらこの飛行機は誰が操縦しているんです!」
トーマスの言葉に周囲の表情がさあっと青ざめた。
そうだそれが一番の問題なのだ。
今この飛行機は無人で飛んでいる。



[25364] 第一話 皆殺しの霧街 『浸食4』
Name: 鬼虫兵庫◆7ce726e6 ID:f0ecf01f
Date: 2011/01/12 15:08
「あまりいい雰囲気じゃないなぁ……まあ当たり前だけど」
深すぎる霧の中、鯉は走っていた。
後部の霧は思いの外濃い。照明も切れているのか酷く暗く視界もほとんど利かない。

(……気のせいかな……この飛行機こんなに広かったっけ? なんだかすごく走っている気がするんだけど……)
この飛行機の全長はせいぜい七十メートル程度だったはずだ。
だが、鯉は明らかにそれ以上の距離を走っている。錯覚という次元ではない。疑念は既に確信へと変わりつつある。

『……ちゃん……』
「……!」
とっさにナイフを正面に身構える。
少女の幼い声。すぐ間近から聞こえた。
やはりおかしい。大きく構えを取ってみても座席にかすりもしない、とてもこれは機内通路の広さではない。
まるで霧の深くかかった暗い草原に立っているかのようだ。
声は間近から聞こえたが、気配はない。

(聞き間違い? 何かの音を声と間違えた?)
『お姉ちゃん……』
飛び退き真後ろに構える。すぐ後ろから、今度は間違いなく聞こえた。

「誰かいるの?」
ナイフの構えを崩さず鯉は答える。

『忘れちゃったの? お姉ちゃん?』
悪戯っぽい笑い声が起こった。

「……くーちゃん?」
突然、霧の中から影が躍り出た。跳躍し鯉に向かって飛びかかる。ほとんど反射的に避けた。影は鯉をかすり再び霧の中に紛れる。ナイフを突き立てるような余裕は無かった。鯉自身、突然のことに呆気にとられてしまっている。

「痛っ!」
腕に血がにじむ。
影は明らかに鯉を攻撃する意志を持って向かってきている。身体が勝手に反応しなければもっと深い傷を負っていた。

(人? ……いやあれは獣みたいな動きだった)
気配も音も再び霧の中に紛れる。ただ深い闇の中、少女の笑い声が遠く響く。

(幻覚? 夢? いや……これは違う、これは現実だ。どのみち痛みのある夢なら夢も現実もどっちも同じことじゃないか)
再び真後ろから気配が迫る。今度は瞬間的にその気配を掴むことが出来た。頭めがけ襲いかかった所を反るようにかわし、襲いかかって来た影に向かってナイフを振り上げた。
ぐしゃりと肉にナイフを突き立てた感覚が手に走る。手応えはあった。ナイフの刃は確実にその影の横腹を捕らえていた。
黒い影は叫び声一つあげず地面へと落ちる。影が落ちたところだけ穴が空いたように霧が晴れる。黒い影は獣のように見えた。血を流しているがうずくまりうめき声すらもあげていない。ぴくりとも動かずそれは死んでいるか、或いは初めから無機的な生物とは違う物だったのではないかと思われた。

「…………」
ナイフを影に構え、警戒しながら距離を詰める。暗い。影はほとんど闇と同化してそれが何なのか判別することも出来ない。

「…………!」
ぴくり影が動いた。震えながら手負いの獣のようにゆっくりと前足で立ち上がる。その獣が振り返ったその顔。ぎらぎらと暗い闇の中でも輝き過ぎるほどの光を放ち目だけが闇の中に浮かび上がっているかのように見える。それがじいっと鯉の目を睨み付けたまま全く動かない。それがまるで生き物では無いかのように固定され不気味に無機的に鯉の目を睨み続けた。
……全身が粟立ち、血が冷水に変わったかのような急激な寒気が走った。息苦しくなり呼吸が途切れ途切れ荒々しく変化していく。

「…………」
固まったような獣が洞穴のような暗い口を開く。

『じゃあね』
……と、電光が走るように機内のランプが一斉に灯った。急に辺りは明るさを取り戻し霧は嘘のように晴れ、床にもその痕跡を認めることが出来ない。
全ては正常に戻った。ただ相変わらず乗客はいなかったし、窓の外は変わらず真っ白なままである。

「…………あ」
と不抜けた声を吐き出し、鯉は足を内に折り、へなへなと床に座り込んだ。
機内が明るくなった時、一瞬だがその獣の顔がはっきりと見えた。それはすぐに明かりと共に消えてしまったが、今でも目の奥に残像のようにはっきりと焼き付いている。
獣の顔は確かに

(私……いや……違う……あれは…………違う、私じゃない……あれは……あの顔は……)
ゴォォォォという低いジェット音が響いている。その以外はもう何も耳にすることが出来ない。



「…………」
鯉が前の区画に戻ってきた時はほとんどの放心状態にあった。
目は宙を泳ぎ、右手から流れる血は流れるままにして、床に転々と血の跡を付けて残している。
始めその状態を見たアイラが面食らった。まるで気が抜け別人のように覇気を失った鯉を目の前にして声をかけるのを躊躇した程であった、がすぐに気を取り戻した。

「なかなか帰って来ないからみんな心配していたのよ、大丈夫だったの? その怪我は?」
「先生達はどこです?」
鯉は一応ちらりと血の滲んだシャツを見たが、大して気にもとめず座席に目を移した。
あのハイジャックの男は以前と同じまま座席に縛り付けられていたが、池田と医者の男の姿はない。

「先生? ああ池田さん? 彼ならコックピットの前にトーマスさんと一緒にいるわ」
「そうですか」
そのままコックピットに向かう鯉をアイラが引き留めようとする。

「ちょっと! 手当した方がいいわよ!」
「大丈夫です。このくらい……」
そのままコックピットに向かおうとする鯉をテッドが見、笑みを顔の半分に深く浮かべた。

「よう嬢ちゃん。随分と酷い面をしてるじゃねぇか、その顔はすごく嫌なものを見た顔だ。よく知ってる。俺もそんな顔の奴をよく見てきたからわかる」

「…………」
何も答えることなく。アイラの静止をも振り切り、鯉はコックピット前へと向かった。

「鯉か……」
振り返りもせず呟く。
コックピット前、池田はコックピットの扉に向かって何かの作業をしている。その横には顔を青ざめさせたままのトーマスの姿があった。

「誰か他に残っている乗客はいたか?」
「…………」
「どうした?」
池田は鯉の方に振り向くが、鯉の様子を一目見ただけで再び視線を元に戻す。

「何かあったようだな」
「いえ……大したことは無かったんですが、その……他に人はいませんでした」
「そうか……ご苦労だったな」
「いえ……」
「そう暗くなるなよ。そんなに陰気でいられるとこっちまで暗くなっちまうぜ」
「すいません……」
暗く沈み、陰気な声で鯉が謝ると池田は鼻から大きく息を吐き出しながら苦い笑みを顔に浮かべた。

「あ、あの……怪我、怪我してますよ」
その会話の中ずっとそわそわしていたトーマスが意を決したかのような表情でそう言った。言葉の最中も後もずっと身体をそわそわさせたままである。

「ああこれは大丈夫です」
「い、一応私はこういったことの専門ですから……ちょっと待っててください。ギャレーかどこかに救急箱のような物があるかもしれません」
と鯉が止める間も無くトーマスはその場から走って後部の方へと走り出していった。
その後ろ姿を半ば呆然と見つめる。

「鯉、後部に危険は無いのか? トーマスのおっさんを危険に晒すわけにいかんぜ」
「あ……ええと大丈夫です。危険はもうないと思います」
「もう無いか……まあ何があったかは知らんがそう落ち込むな」
「……すいません」
「……またそれか」
しばらく二人の間に無言の時が流れ、ジェット音と僅かな金属同士がぶつかるカチカチという小さな音だけが響いた。
沈黙はトーマスが救急セットを抱えて帰ってくるまで続いた。



「た、大したことはないですね。これくらいだと縫う必要もないですし……傷も残らないと思いますよ。よ、よかったですね」
「ありがとうございます」
まくり上げた右手をトーマスの前につきだしていた鯉は暗い声で無愛想に答えた。
トーマスはピンセットで脱脂綿に消毒液を浸しそれを鯉の傷口に当てている。あれほどの血を流していたはずなのだが、傷口は驚くほどに小さかった。トーマスにもどうしてこれほど小さい傷があれほどの血を出していたのかわからない。傷が深いというわけでもない。これはカッターか何かで浅く本当に僅かな傷を付けた程度の傷でしかない。トーマスはそれを疑問に思いながらもあまり表情に出すまいと注意しながら傷口にガーゼを当てそれをテープで固定した。

「トーマスさんはニューヨークで外科医をしているんですよね?」
「え、ええ、ああそうです。向こうはいつも本当に目が回るような忙しさなんですよ。休みもまともに取れない。休んでいてもいつも呼び出される。本当にちゃんと休みが取れるのは月に数えるくらいしかありません」
「オハイオへは何をしに?」
「あ、ええ……」
トーマスは口ごもりその丸顔に少し言いにくそうな表情を浮かべる。

「ああ、言いにくいことだったら別にいいです」
「ああ……いえ、まあ大したことじゃないんですけどね……あの……」
内ポケットに手を伸ばし、二つ折りのキーケースを広げ鯉に広げて見せた。内側には透明なポケットの中に押し込まれていた家族の写真があった。トーマスと背の高いブロンドの長い髪の女性。そして赤ら顔で椅子にちょこんと座っている少女の姿が映っている。

「かわいいですね。お子さんですか?」
「ええ……あのオハイオには別れた妻と娘がいまして……その、久しぶりに休みが取れたものですから会いに行こうかと思ったんですが……まあこんな有様で……」
「へえ……このくらい歳だとかわいいんでしょうね」
鯉の言葉にトーマスは少し照れた表情を浮かべる。

「ああ、でも随分と昔の写真ですから。娘も今ではすっかり大きくなってしまって……そのなんですか、反抗期ってやつですかね。最近では口をきいてくれなくなってしまって」
「ああ、そうなんですか」
確かに写真を見直すと写っているトーマスの姿が若干若いようにも思えるが、鯉には今と大した違いが無いように見えた。

「長い喧嘩をしているようなものですかね……。妻とはよく話しますが会う度に向こうの生活が変わっていってしまって。もしかするともう少ししたら、もう会わなくなるのかもしれません。こう自然に関係が消滅するみたいに」
「はあ……大変そうですね」
「まあ、私に全部非がありますから。文句は言えないですよ。家族のために時間を作ることもしなかったし。ほとんどほったらかしみたいなもんでしたから。愛想をつかれてもしょうがないです」
「う~ん、私は結婚もしたことも無ければまともな家族生活もしたことが無いんで何ともいえないんですが……なんというかその……娘さんと早く仲直り出来るといいですね」
「はい……そう上手くいけばいいんですけどね……」
「そんな弱腰でいたら駄目ですよ。男はどーんと胸を張っていかないと」
「はは胸ですか。確かにそうですね。次に合ったときは頑張ってみますよ」
トーマスとの会話で鯉にも元の明るさが戻ってきたようである。
池田もその様子を背中で感じながら口元に笑みを浮かべた。ただ、笑みを浮かべたのはそれだけが理由ではない。
コックピットの扉がカチッという金属音と共に開いた。池田がさっきからずっと開けようとしていた扉が開いたのだ。

「わっ、ほ、本当に開いた」
「下がっていろ。何が起こるかわからんぞ……」
扉を開こうとしている鯉に池田がナイフを投げ返した。受け取りながらそれを構え僅かに飛行機の扉を開けそこにトラップが仕掛けてないか確認する。
僅かに扉を開けただけだがワイヤートラップのような類の仕掛けはならされてない。また人の気配も無い。
ゆっくりと扉を慎重に開ける。
音も無く扉は開いた。慎重に身を機内に滑らせるが人が襲いかかってくるような気配も何か罠が仕掛けられている様子もない。
池田はコックピットの中に入り一通り中を見渡した後、ナイフを内ポケットの中にしまった。

「コクピット内は正常か……まあ誰もいないということを除けば」
「ああ、本当に誰もいないんですね……先生これからどうするんですか?」
鯉がコックピットの色んなところを覗き込みながら言った。

「最悪、無線が通じればどうにかなるかもしれない、管制塔の指示があれば少しはマシになるだろう」
先生はコックピットの中、両座席の丁度間にある無線機の計器をいじりながら無線のマイクを握る。

「メーデーメーデー、非常事態発生。応答を願う……こちら…………」
無線を受信に切り替え返事を待つ。
周波数帯を変えて何回か試みてみるが一向に返事が返っている様子はない。
同じことを何回も繰り返すのに飽きたのか、途中から池田はマイクを使ってオリジナルのジョークを喋り始めたが、無線機からはいくらたってもなんの反応も返っては来なかった。

「別に先生のジョークがつまらなかったからじゃあないですよね?」
「たとえ管制塔が凍り付いていたとしても、何かしらの反応は返して来るだろう。そうじゃないと困る」
「ですよね」
池田はコックピットの座席に座り足を乱暴に投げ出して窓の外を眺めた。相変わらず何も見えない。

「と、ということは……どういうことですか……このままみんな死んでしまうんですか」
トーマスが取り乱しながらコックピット内に入り、また身体を震わせる。池田は横目でそれを眺めながら、片手で適当に無線機の装置をいじり興味なさげに

「まあそうともかぎらんだろ」
と答えた。

「む、無線はどうなんですか本当に何も反応が無いんですか?」
トーマスが飛びつくようにして無線機に迫り、装置を動かす。操作法を知らないのか適当にスイッチを入れたり切ったりするだけで無線機は何の反応も示さない。

「無駄だよ、応答は無い。全くのノーサインだ。それに航空機が応答不能になった場合、戦闘機のスクランブルが行われてもおかしくは無いが、その様子もない。もしかするとここは通常の空間ではないのかも知れん」
「そ、そんな……馬鹿な!」
尚もトーマスは無線に応答を求めるが返事は帰ってくる様子は微塵もなかった。

「本当に別の空間に来てしまったんでしょうか?」
鯉の問いかけに池田は無言のまま真白い空間に目を移す。窓の外はべっとりと白いペンキで塗りつぶしたように真っ白なままだ。

「別の空間、別の世界、まあ宇宙のことを考え出したらこの世が存在すること自体不思議だらけだ。何もないところから宇宙が生まれたのならば、他の世界が存在することだってなんら不思議ではない。だがな、それが我が身に降りかかるとはとても考えられないのが人間ってもんだ。乱気流ごときで異世界へと引き込まれるのなら世界の人間は半分に減っている」

「そ、その通りです……ば、馬鹿げてますよ、こんなこと……」
池田はそれから少しの間窓の外を眺め、なにかを考える様子で暫く黙った後再び口を開いた。

「とにかく……少しでもいい。飛行機に関する操縦法を知っている人間が操縦桿を握る。そして残りの人間はそこにある操縦法に関するマニュアルを読み解く。その後のことは無事地上についてから考えればいい」

「でも、ホントにここ地面があるんですかねぇ?」
鯉が笑いながら呟いたが、冗談のつもりで言った言葉が二人の表情を異常に緊張させてしまったことに気がつき所作なさげに身体を縮めた。
確かに普通ならそんな心配をする方が馬鹿げている。だが今は乗客のほとんどが消えるという異常な事態の中にある、この異常な状況、地上がそのまま存在している保証はない。
地上があるのか、それとも得体の知れない暗黒が広がっているのか、それは誰にも予測のつかないことだった。

「だが降りるしかない、どの道、下には降りるしかないんだ。降りるかそれとも落ちるかだ、どっちも似たようなもんだろ?」
窓の外、白い雲は何の変化も無くただ流れ続けている。


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