【コラム】光化門扁額は文字も変更すべきか(上)
文化財庁が復元してわずか3カ月で亀裂が生じ、大きな問題となった光化門の扁額(へんがく)が、ついに取り換えられることが決まった。「痕跡が分からないようにつなぎ合わせれば良い」という意見もあるようだが、一度亀裂が生じたものを何もなかったかのように取り繕うようでは、これはやはり子孫に対して恥ずかしいことだろう。しかしこの木の土台の部分さえ交換すれば、光化門扁額問題はすべて解決したと言えるのだろうか。
光化門扁額に亀裂が生じたニュースが報じられると、書道家たちの間から「文字さえ大丈夫なら(大した問題ではない)」という意見もあった。「扁額は文字が最も重要なものだが、その文字もそれほど優れたものではないのだから、土台に少しばかり亀裂が入っても大きな問題ではない」というのがその趣旨だが、この意見には言うまでもなく皮肉が込められている。光化門扁額の文字は、1865年に大院君によって景福宮が建て直された際に書かれたと伝えられており、書いた人物は当時の工事責任者だった訓練隊長の任泰瑛(イム・テヨン)といわれている。ただこの扁額の文字を見ても、歴史に裏打ちされた感動を覚えるようなことはない。宮殿の正門に掛けられた扁額は、いわばその宮殿の顔となるはずだ。ところがこの復元された光化門扁額の文字からは「朝鮮王室の威厳も、品格も、気勢も、美も、何も感じられない」と誰もが口にする。
扁額の文字に関してはさらに大きな問題がある。この文字は任泰瑛が実際に書いたものでもなく、1900年代の初めに撮影された光化門の写真を基に、コンピューターで復元されたものという事実がそれだ。この写真は今も日本の東京大学に保管されているが、かなり遠くから撮影されたものであるため、たとえ復元したとしても、文字の原型は70%ほどしか反映できないそうだ。光化門扁額の文字から歴史のオーラが感じられないのは、それが任泰瑛とコンピューターの合作、つまり加工品にすぎないという事実がおそらく影響しているのだろう。