太陽の表面に現れる「黒点」は、ガリレオらが望遠鏡で記録して以来、約四百年にわたって太陽活動のバロメーターとして観測が続けられている。この黒点を八十年間も記録し続けてきた生徒たちがいる。私立武蔵高校・中学校(東京都練馬区)の「太陽観測部」。国内では国立天文台に次いで古い歴史を誇る。地道な活動の中からは「はやぶさ」や「あかつき」などの探査機を支える人材も生まれた。 (榊原智康)
黒点が初めて望遠鏡で観測されたのは一六一〇年ごろ。天文観測の中で最も長い歴史を持つ。日本では、国立天文台(旧東京天文台)が一九二六年から観測を続けている。
武蔵高校・中学校は二二年に旧制高校(七年制)として創立。太陽観測部は生徒有志の活動をもとに三〇年に発足し、翌年に始めた黒点観測は今年で八十年を迎える。
粘り強い観測は戦時中も途絶えなかった。生徒らは学校の施設があった長野県軽井沢町に疎開したが、観測用の口径八センチの望遠鏡を持ち込み、混乱の中で活動を続けた。顧問の川端拡信(ひろのぶ)教諭は「最初は顧問もおらず、上級生が下級生を指導していた。伝統は受け継がれ生徒が主体的に活動している」と話す。
現在の部員は十二人で昼休みや放課後に観測する。校舎屋上の観測ドームに収められた望遠鏡は三代目だ。ドームを開けて望遠鏡を太陽に合わせ、投影された像をA4判の記録紙にスケッチする作業を毎日繰り返す。
観測後は、計算で国際基準の「黒点相対数」を算出する。部長の鈴木融君(14)=中学三年=は「数値の集計も毎日することになっているが、時には作業をためてしまい大変な時も」と打ち明ける。
黒点は太陽活動が活発だと増え、停滞すると減る。約十一年周期で増減を繰り返すが、周期の初期には中緯度に現れ、だんだん赤道近くに移る。この様子を示すグラフは、赤道を中心にチョウの羽のように見えるため「蝶形(ちょうけい)図」と呼ばれる。
黒点数を示す折れ線グラフとともに校舎の廊下に展示される部の歴史の象徴だ。「チョウ」は今も部員たちの手で成長を続ける。
国立天文台の黒点観測はカメラの自動記録に変わった。同天文台の縣(あがた)秀彦准教授は「手書き記録を続けることで過去と比較が容易にできる。教育効果に加え学術的な意義も大きい」と指摘する。二〇〇五年には、中・高校生の団体として初めて日本天文学会の「天文功労賞」を受けた。
太陽活動はここ数年の停滞期を脱し、黒点の数も増えてきた。部員たちは「黒点が増えるとやりがいも増す。部が果たしてきた役割を絶やさないように観測をしっかりと続けたい」と意気込む。
◆卒業生、最前線で活躍
太陽観測部での思い出を語る宇宙機構の国中教授(左)と佐藤教授=宇宙機構相模原キャンパスで
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太陽観測部で夢を膨らませ、宇宙を舞台にした仕事に就いた人もいる。小惑星探査機「はやぶさ」のイオンエンジンを開発した国中均さん(50)、金星探査機「あかつき」の観測カメラをつくった佐藤毅彦さん(48)はともに宇宙航空研究開発機構教授で、宇宙探査の最前線で活躍する。
二人は二学年違いの先輩後輩。当時、太陽からの電波をとらえようと、直径二メートルのパラボラアンテナをアルミ板や塩ビ製のパイプで自作したという。
同部は、太陽のほか惑星や流星など夜間の観測にも取り組む。佐藤さんは「惑星好きが高じて大学で研究に取り組んだ。礎をつくったのが太陽観測部での活動だった」と言う。
部長を務めた国中さんは「観測のアイデアを出し、実現する方法を考え、他部との予算獲得競争でアンテナの製作費を得た。規模こそ違え、今の研究のサイクルと一緒。活動を通じて企画力などが高まった」と振り返る。
<黒点> 太陽表面にシミのように見える黒い斑点。形や大きさはさまざまで、1日〜数カ月続く。太陽内部で生じた磁場の束が表面を貫いてできると考えられている。温度は周囲(約6千度)より500〜2千度低い。
●記者のつぶやき
東京・渋谷の「五島プラネタリウム」の最後の館長、村山定男さんもOB。ドーム隣の部室には、スケッチ記録と先輩が残した天文の本が並ぶ。現在も宇宙飛行士や宇宙科学者を目指す生徒がいる。「伝統」は綿々と引き継がれる。
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