
風力発電機もやっぱりクジラ型!
国道42号からくじらの博物館などのある太地町中心部に入って行く森浦交差点にクジラの形の小型風力発電機が設置されています。
高さ約11m、羽根の直径約7.5m、最大出力10kwで近くの災害用監視カメラや道路の照明灯の電力に利用されています。
風向きに合わせてくるくる回るクジラを見つけてくださいね。(2009.7.6)
情報提供:市民の力わかやま
海洋水族館(マリナリュウム)とラッコ館
くじらの博物館に入ると、館外ではイルカショー、シャチショーが楽しめる他、海洋水族館やラッコ館にも入ることができます。
海洋水族館には、水量630tの水中トンネル大水槽があり、上下左右を魚たちが泳ぎまわり、まるで海の中にいるようです。熊野灘に生息する魚を間近に観察することができます。
また、ラッコ館では、日本で生まれた2頭のラッコが飼育されています。1日4回の餌の時間には、お腹の上で貝を割るかわいいしぐさを見ることができます。(2009.5.4)

海洋水族館の水中トンネル大水槽 |

ラッコ館 |
情報提供:市民の力わかやま
燈明崎〜梶取崎間の遊歩道
燈明崎から梶取崎まで続いている約1.6kmの遊歩道で、所要時間は約40分です。高台にある遊歩道から、黒潮に洗われる岩場の多い見事な海岸線が望めます。雄大な熊野灘を望むリアス式海岸は吉野熊野国立公園に指定されています。
遊歩道の途中には、見晴らしのいい休憩所があります。「和歌山の朝日・夕陽100選」に選ばれていて、そこから見る大海原から昇る朝日は見事です。遊歩道沿いには、クジラやイルカの種類ごとの解説板があり、体の形や色の特徴、回遊している地域などを説明しています。海岸線を見ながらくじらの知識を拡げることができ、全部読めばクジラ・イルカ博士になれるかも? 休日には観光客や家族連れなどで賑わっています。(2009.5.3)

木々が涼しい木陰を作ってくれる遊歩道 |

遊歩道にあるクジラやイルカの解説板 |
情報提供:市民の力わかやま
吉備真備漂着之地の碑
天平勝宝5年末(753年)遣唐副使、吉備真備(きびのまきび)らが唐からの帰途、海上で暴風に遭い漂流して紀伊国牟漏崎、現在の燈明崎に着いたと『続日本紀』に記されています。吉備真備は、しばらく滞在して帰京しましたが、一族がこの地に残り、太地を拓いたと伝えられています。太地湾は、クジラ漁の本場として知られていますが、海岸線の入り組んだ「たぎたぎ」しい、つまり、凹凸(おうとつ)がある地形をしていることから、「たぎ地」が転じて「太地」と呼ばれるようになったといわれています。(2009.4.27)
情報提供:市民の力わかやま
燈明崎の古式捕鯨遺跡
燈明崎の周辺には太地古式捕鯨の跡がいろいろあります。山見番所は、太地古式捕鯨でいう総指揮所のことです。クジラを発見してその動きに注意し、山見相互間で連絡をとり海上の船に指令を出すなど、捕鯨の最も重要な役割を担っていました。古式捕鯨絵図を参考に平成4年(1992年)に復元されたもので、当時の太地浦、現在の太地町の5ヶ所に建てられていました。
古式捕鯨支度部屋は、山見関係の人達が炊事や休息をした所です。また狼煙場は、クジラを発見した時、待機している船にクジラの見えた方向を知らせるための狼煙をあげた所です。燈明崎には、3ヶ所の狼煙場がありました。(2009.4.19)
情報提供:市民の力わかやま
畠尻湾の鯨追い込み漁
近年、外洋での商業捕鯨が禁止され、クジラの捕獲は制限されていますが、伝統的な近海での小型クジラの追い込み漁は認められています。太地町では、畠尻湾(はたけじりわん)で海水浴シーズンが終わった9月から4月までクジラの追い込み漁を行っています。追い込み漁は、回遊するクジラの周囲を約10隻の船で取り囲み、畠尻湾の入り江へと追い込む漁法です。クジラを追い込む船、追い込んだ湾の入り口に網を張る船、みごとな連携プレーが繰り広げられます。クジラは水揚げ後セリにかけられ、市場に出荷されます。(2009.4.14)
情報提供:市民の力わかやま
鳴子岩
梶取崎の駐車場になっている横に巨大な岩石かあって、「鳴子岩」と呼ばれています。この大岩を石でたたいたり石を投げつけるとグワンーという余韻のある独特の音がでるので、この名前で呼ばれています。この鳴る音(実際に叩いてみるとそう大きな音ではなかった)が、天気によって異なり、特に雨になる曰は鳴らなかったとのことですから、むかしの漁師が、この岩の鳴り工合によって天気を占ったものだと言われています。(2009.4.9)
情報提供:市民の力わかやま
風見・・・?
くじらの町、太地町にある梶取埼灯台。この灯台のてっぺんをよ〜く見てください。
見えましたか? そこにあるのは、風見鶏ならぬ「風見鯨」! やっぱりくじらの町ですね。(2007.11.12)

梶取埼灯台のてっぺんには・・・ |

風見鯨がいます! |
紀南の灯台 梶取埼灯台
情報提供:市民の力わかやま
シャチやイルカ、ラッコとの触れ合い

シャチのジャンプ |

イルカのジャンプ |
ホエールウォッチングまでは時間の関係などでちょっという方には、シャチ・イルカ・ラッコなどと触れ合える施設が揃っています。
くじらの博物館内の自然プールで行われるシャチのショーでは、海の王者シャチのナミちゃんの約6m、3tもの巨体が見事にジャンプ! ショープールではイルカが華麗なジャンプが見られます。自然プールに張り出した桟橋の上から触れ合える「イルカと遊ぼう」「イルカと握手」などで楽しい演技を見せてくれます。ラッコ館では、1日4回の餌の時間には、お腹の上で貝を割る愛嬌のある姿を見ようと、大勢の人で賑わいます。
くじらの博物館以外でも、ドルフィン・ベェイスでは、湾内に設置されたプールでイルカとの触れ合いができます。また、ワールド・ドルフィンリゾートは、ホテルに併設されていて、大型水槽の中でイルカと触れ合うことができます。ダイビングのライセンスを持っている方は、本格的にイルカと一緒にスキューバダイビングもできます。(2007.9.17)
情報提供:市民の力わかやま
太地のお土産
お盆の8月14日、太地町では鯨踊りや盆供養花火大会などが開かれます。さて、太地と言えば鯨、お土産と言えば、鯨とてつめん餅です。鯨は観光物産店でも売っていますが、地元の人々に利用されている漁協スーパーがお買い得です。クジラと鮮魚は、目の前にある魚市場に水揚げされる「とれたて」の物が安く販売されています。ここで販売しているクジラの肉は、南氷洋の調査捕鯨や追い込み漁で獲ったもので、真空パックや冷凍で販売されています。「さえずり」と呼ばれるクジラの舌の肉、クジラの骨に付いているスジ肉、内臓をボイルしたものなど地元ならではの珍しいものもあります。インターネットからでも注文できます。
また、てつめん餅は、知る人ぞ知る太地名物で、白とヨモギの2種類があり、中のこしあんはあっさりとした甘さで、できたてのお餅の柔らかさは格別です。その日のうちに食べるのがおすすめで、売り切れると店じまいになります。(2007.8.14)

ずらりと並んだ鯨製品 |

ビックリするほど柔らかいてつめん餅 |
情報提供:市民の力わかやま
平見台園地と継子投
梶取崎から遊歩道もつながっている平見台園地には、500本の桜が植えられ、太地町一の桜の名所です。平見台園地にある継子投(ままこなげ)は、串本大島から浦神湾、太地の海岸線が一望できる岬です。継子投の名前の由来は、その昔、継母が幼いあかんぼうを断崖絶壁のこの場所から投げ落としたという伝説が残っているからです。しかし、目の前には、そんな悲しい伝説も忘れるほどの絶景がひろがります。水平線の両端は丸みを帯び、地球は丸いと感じられます。そして夜には満天の星を見ることができます。(2007.8.10)

平見台園地からの眺望 |

継子投 |
情報提供:市民の力わかやま
太地町立石垣記念館
石垣氏は、太地の船大工の子として明治26年(1893年)に太地で生まれ、明治42年(1909年)渡米しました。美術学校で絵画を学び、多くの優れた作品を残した後、昭和26年(1951年)に帰国し、昭和33年(1958年)死去されました。移民としてアメリカに渡った彼の作品は、当時の社会情勢を色濃く反映したものが多く、見る者を強く魅了します。 この記念館は、彼の没後、綾子夫人によって建てられた記念館です。太地が生んだヒューマンな画家・石垣栄太郎の作品を常設。石垣氏の油彩をはじめデッサンや愛用の品々が展示されています。評論家として知られた夫人の著書も展示、販売しています。(2007.7.25)
情報提供:市民の力わかやま
飛鳥神社
漁港の隣にある「太地の氏神」で、豫母津事解男命(よもつことさがおのみこと)をお祀りしています。昔から「宮様」と呼ばれ、地域の人に親しまれてきました。
平清盛の孫、平維盛(たいらのこれもり)が那智勝浦町の沖にある山成島(やまなりじま)から太地の水ノ浦に渡る途中、太刀(たち)を落としたと伝えられていました。後に維盛のものではないかと見られる太刀がエビ網にかかり、この神社に奉納され宝物(ほうもつ)として保管されています。毎年1月13日に航海の安全や大漁を願う「お弓神事(おゆみしんじ)」が行われます。毎年10月の例大祭には、神事の他、勇壮な樽御輿(たるみこし)の渡御(とぎょ)、獅子舞の奉納があります。(2007.7.12)
情報提供:市民の力わかやま
捕鯨の祖 和田頼元
戦国の世が終わって平和な時代になり、熊野水軍は戦争に行くこともなくなりました。そこで新規開拓事業のひとつとして乗り出したのが捕鯨でした。
鎌倉時代からこの地方の名族として知られた和田頼元(わだよりもと)は、慶長11年(1606年)、熊野水軍の戦闘技術に基づいて組織的な捕鯨法を開発しました。手こぎの小舟、数隻でチームを組み、クジラを取り囲み湾に追い込んでモリを打つ漁法(ぎょほう)です。そして「刺手組(さしでぐみ)」と呼ぶこの捕鯨集団と、クジラを見張り狼煙を上げて合図をする山番などを含め、組織的な捕鯨業をはじめました。
頼元の次男角右衛門(かくえもん)は、幕府より「太地」の姓をいただき、それが地名の由来となったともいわれています。この捕鯨の祖となった和田頼元とその一族の墓群が順心寺にあります。(2007.5.7)
情報提供:市民の力わかやま
燈明崎の燈明台
燈明崎の燈明台は、寛永13年(1637年)に日本で初めて建造された、毎晩、常に明かりを灯した灯台です。
太地のクジラ漁が盛んになるにつれ、クジラの肉を求めて来る船舶や、荷物を運ぶ廻船などの海上交通も頻繁になってきました。そこで夜間も安全に航行できるように、一晩中灯りの灯っている燈明台が必要となってきました。それには大量の油が必要です。クジラの捕獲量が多く、クジラの油が豊富にとれた太地だからできたことです。灯台守(とうだいもり)は格式があり、新宮藩士が任命されていました。この岬は、牟漏崎(むろざき)と呼ばれていましたが、燈明台ができてからは、燈明崎と呼ばれるようになりました。(2007.5.3)
情報提供:市民の力わかやま
鯨骨の鳥居
太地港の漁協近くにある恵比寿神社は、漁の守り神である事代主命(ことしろぬしのみこと)をお祀りしている小さな神社です。この神社の鳥居は、マッコウクジラの顎骨でできた「鯨骨鳥居」です。以前は、セミクジラの顎の骨だったそうです。くじらの町太地らしさがうかがえます。(2006.10.9)
情報提供:市民の力わかやま
白く明るい太地町の旧い町並み
太地町は国道42号線を太地町案内標識に従って海側に曲がるとすぐです。太地町全体がバイウェイ(寄り道)スポットになっています。
太地町は1600年代初めから捕鯨を始めた鯨の町です。鯨とともに、町民みんなして生きてきました。豊漁の時は共に喜び、不漁の時は共に耐えてきた町です。孤児が出ても昔から全町民で支えてきました。このように互助の精神と仕組みが今も生き続けている素晴らしい町です。太地町の旧い町並みが白く明るいのは、安心できるコミュニティが確立され、それが生き続けているからではないでしょうか。(2006.6.13)

太地捕鯨史ツアーマップ 大きい地図(pdfファイル)はここをクリック