私たちの暮らしは、社会は、どうなってしまうのか−。いい知れぬ不安とともに2010年が暮れてゆく。
各地で相次いだ「消えた高齢者」は、家族や社会のつながりが切れかかっている実情を見せつけた。巨悪を暴く捜査機関だったはずの検察には、ごまかしと保身の体質がはびこっていた。
景気は回復している、と専門家にいくら言われても、暮らしが良くなる実感が持てない。成長の成果を国民に分配するパイプが詰まっているのだ。春には大学生の10人に1人が、就職先を見つけられないまま卒業していった。
<目を覆う政治の劣化>
とりわけ政治である。1年4カ月前、「歴史的」と形容される政権交代が実現したのに、鳩山由紀夫前首相は「政治とカネ」や米軍普天間飛行場の問題でつまずき、8カ月余で退陣した。
後継の菅直人首相も失点を重ね「国民の生活が第一」の政策を実行できないまま、じり貧状態に陥っている。政権のたらい回しがまた起きかねない状況だ。
かといって、野党に転じた自民党に有権者の信頼が戻るわけでもない。自民の支持率回復は民主党の敵失によるところが大きい。
国のかじ取りをいまの政党、政治家に任せて大丈夫か−。そんな思いにとらわれる。
だからなのだろう。大阪府の橋下徹知事や名古屋市の河村たかし市長が、地元の有権者から高い支持を集めているのは。
橋下知事は国直轄事業の地方負担制度を「ぼったくりバー」に例え、国への対抗意識をむき出しにする。河村市長は市政運営をめぐり民主党と対立。次の市議選では民主党市議に対し対抗馬を立て、追い落とすと公言している。
<地方から新たな動き>
橋下知事、河村市長は府県と市の枠組みを見直し、「大阪都」「中京都」を目指す考えも打ち出している。来年4月の統一地方選挙では、相乗効果でうねりを巻き起こすことをもくろむ。
名古屋市議会の解散を求める住民の直接請求(リコール)では、手弁当の人々が46万人分もの署名を集め、提出した。鹿児島県阿久根市では、専決処分を連発する竹原信一市長の解職を求めるリコールが成立している。今年は強い政治的メッセージが地方から発信された年でもあった。
来年4月の統一地方選が大事になる。迷走する民主党政権に有権者が地方の視点から評価を下すときになるからだ。
選挙の結果は菅内閣の求心力を左右する。足元がぐらつけば、首相に対する衆院解散圧力はさらに強まる。波乱の予感に彩られた選挙になる。
投票する際の判断の基準は、やはり暮らしだろう。生活の基盤である雇用が景気に左右されるのはある程度仕方ないとして、好不況の波から暮らしを守るには、教育、子育て、医療、介護、職業訓練、公共交通といった身近な安全網が大事になる。
地域が切実に必要とするものに、人、モノ、カネを集中的に振り向ける。そのために予算の無駄を徹底してそぎ落し、公共サービスの劣化を食い止める−。
その地域に住む人でなければできないことである。
民主党の看板政策である事業仕分けは結局、中途半端に終わった。国任せでは無駄はなくせない。「政府の手をもって自ら事を行えば、結局浪費乱用の弊を免れ難し」。福沢諭吉が130年前に指摘したとおりである。
政府は6月、地方分権の指針となる「地域主権戦略大綱」をまとめた。政府の言う分権には簡単には乗れない。小泉純一郎政権の「三位一体改革」が、地方財政を苦しくするだけに終わったことを忘れるわけにいかない。
<つくるのは自分たち>
地方分権ではなく地方主権。そんな発想で取り組もう。
決してとっぴな考えではない。住民により近いところに権限と財源を配分する。市町村ではできないときに初めて都道府県、そして中央政府へと任せていく。
「補完性の原則」と呼ばれる考え方だ。政治学の世界ではいわば常識になっている。政治と行政の仕組みを本来あるべき姿に変えることを目指そう。
確かな取り組みが今年、県内でも広がったことが心強い。総合文化会館を建てるかどうか、佐久市は住民投票で市民にじかに問い掛け、既定の路線を修正した。小諸市は定住外国人を含む16歳以上を対象にした常設型の住民投票制度をつくった。
今年夏の知事選は、過去3回の知事選に比べ落ち着いた政策論争が展開された。阿部守一知事は年が明ければ、選挙公約である信州型事業仕分けに取り掛かる。県民にとっては、知事選での選択の結果を検証するときになる。
自分たちの暮らしは自分たちでつくり、守るほかない。政治を見る目を養いつつ、自信を持って新しい年を迎えたい。