初めて父に連れられてやってきた隣の領地で。
どんなに泣いてもわめいていも、死んだものは絶対にかえってはこないということを、彼に最初に教えたのは彼女だった。
ひっそりと作られた動物達の墓地……そこで、少女は涙をこぼしてその存在の死を悼んだ。瞬間、彼の中で「たかがウサギ」だったそれは、この上もなく美しく悲しい何かに変わってしまった。
「私がここに来るのを、みな嫌うのよ」
二人の背後には、侍女がいく人か控えている。侍従もいるようだ。まさか、彼女がここで、悲しみのあまり倒れてしまうとでも思っているのだろうか、だとしたらとんでもない侮辱だと、彼は幼いながらに思った。
彼が出会った中で、彼女は2番目に強い女の人だ。1番目は母だ。ちなみに、この家の奥方には強いというよりも、恐ろしいものを感じたのだが。
「死から遠ざけたところで、死から逃れられるわけがないのにね?」
屈託のない微笑だった。
彼は知っている、彼女がこの家でもっとも死に近しい人間であることを。大公爵家の次女は生まれ落ちたその時から、砂時計の砂が落ちるように死に向かって歩んでいた。ささいなことで高熱を出し、少しの傷が膿みあっという間に、それでなくても少ない体力を奪っていく……隣接した領の跡取り息子である彼は、何度も何度もその話を口さがない者から聞いていた。
政略結婚の道具にすら使えぬお荷物の令嬢だと。確かに魔法の才はあるようだが、使うたびに死にそうになるなど問題外だと。
「今日はここまでつきあってくれてありがとう、ジャン」
「い、いえっ、そんな……ことはありません、カトレア様」
「もう、私のことはカトレアでいいと言ったでしょう? お隣さまなんですもの」
これでも、これでも、彼的にはかなり譲歩した方なのである、最初はぎっちりとミス・ヴァリエールと呼んだのだ、呼んでいたのだ。だが、それだと姉さまと区別がつかないともっともなことをもっともらしく言い切られ、名前呼びにされてしまった。
だが、だがしかし、身分が違うッ! と、頭を抱えて叫びだしたい気分である。ヴァリエール公のひと睨みで、彼の生地のような小領はふっとんでしまうだろう。
厳格ながらも優しい父、凛として美しい母のためにも、こんなところで粗相をしてしまうわけにはいかないのである。
「それは困ります、カトレア様」
「カトレア」
「ですから、カトレア様……」
「カトレア」
「あの……」
「カトレア」
「だから……」
「カトレア」
「……承知いたしました、カトレアさん」
「もう! ジャンは頭が固いのね。まあいいわ、それで」
そうやって少し怒ったふりをした彼女は、使えぬお荷物の令嬢などではなく、母に匹敵するほどに心優しく美しく誇り高い「カトレアさん」だった。彼が思い描いていた病弱な深窓の令嬢というイメージは、素晴らしく派手にぶち壊されたのだが。
大人には大人の話があるということで、なんとはなしにご招待されてしまったこの彼女の小さな離宮、猫やら犬やら鳥やらその他色々幻獣やらに囲まれてお茶をしながら、彼は姉と妹がまったく似てない件を、熟考するはめになった。身分に厳しく、礼儀に厳しい彼女の姉は、実に、あの奥様にそっくりだった。
かと言って、公爵とカトレアさんが似ているかどうかというと、それはそれで、違うだろ、である。
「ジャン・ジャックも何か言いなさい!」
「ジャンは関係ないわ、私がお誘いしたんですもの」
「えーと、このたびは何故だか急に、変わった所にお連れいただいて……」
この返答はマズかったらしく、彼女の姉のまなじりが、キリキリキリと釣りあがった。
「そう、そうね、確かに動物達の墓地なんて変わった所以外のなにものでもないわねっ! それから、大人の話についていけない子供がふらふら歩き出して、そこでヒマをもてあましていたもう一人の子供に捕まるのは時間の問題だったわねっ!」
「姉さま、動物達ではありませんわ、あの子はアドリアン、あの子はセレスタン、あちらの子はエーヴです。それと……」
「カトレア、ごまかさないで。わかっているのでしょう? 私が心配しているのはあなたが昨日また熱を出したということよ。本当なら、今日も自室でずっと横なっているという約束だったわ」
白い顔の長いまつげがばさりと閉じられた。
彼のレディ(勝手に)のために何か言うべきだという思いだけが、心と頭を走り回って、現実には何一つ口から言葉は転がり出てくれない。
「ごめんなさい、姉さま」
小さな声。
それを耳にしたとたん、彼は立ち上がっていた。
「あの、シュゼットがもう危ないと使いが、その、あの」
「灰色ウサギの命とヴァリエールの娘の命は同等ではないのよ、ジャン・ジャック」
ムチ打つような低い声だった。
「その使いをやった者を罰することはしません、母さまにも父さまにも告げ口はしないわ。だから今回だけにして、カトレア」
「それはできませんわ、姉さま」
きっぱりと、にっこりと、そして愉快になるほどあっけらかんと彼女は言い切った。もう、立ち上がったはいいのだが、どうすればいいのかどうするべきなのか、わけもわからず彼はパクパクと周りの急に冷たく薄くなった空気を胸に取り入れる。
しばしの沈黙の後、いからせたままぶるぶると震えていた彼女の姉の肩がすとんと落ちた。
「でも、姉さまを心配させてしまったことは謝ります。ごめんなさい、姉さま」
でも、朝よりずっと気分がよくなったと続く妹の言葉を軽く耳のあたりで手を払って姉はやめさせた。無言で席を立つ。
彼をして、彼女の姉を追いかけさせたのは、その姉妹の間にある、お互いを思いやる……思いやりすぎる、痛いほど張りつめた絆の形を察したせいなのかもしれない。
少なくとも、彼は、「シュゼット」が「灰色ウサギの名前」だと知ったのは、つい先ほどなのだ。
「ミス・ヴァリエール!」
呼び止めて、後悔する。
今日会ったばかりの彼が、かける言葉、なんて。
「いないのよ……」
「はい?」
「カトレアは同年代の友人がいないの。学校にも行けない、外も出歩けないんだから、当然だけど」
「……」
「だから、お前がなりなさい!」
命令形。
後から考えるといかにも彼女の姉らしかった。
「……僕が?」
「……あんな楽しそうなカトレア……久しぶりに見たわ……」
……僕で?
答えはない。答えがない。そもそもこういうものは命令されてなるものなのだろうか。そんないくつもの疑問符が浮いて沈んで。とっくに結論は出ていたというのに、ただぼんやりと浮いて沈んで。
隣の領地といったって、平民達の隣家と違ってそうそう簡単に会えるわけがない、それにもうしばらくしたら、自分の将来の身の振り方だって決めなければいけない、のに。
できないことを、100あげつらって、会えなくても手紙はかける、そうだ使い魔を鳥にしようそして、彼女の所まで飛ばして視界を共有すればいい、とか、100以上のできることを考える。
「御意! ミス・ヴァリエール!」
「?」
真剣な気持ちを伝えたくて、父の蔵書で見た真面目あふれる返答をしたはずなのだが、かえってきたのは、微妙な沈黙だった。
なぜだろう。
終