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君が代は古今和歌集に初出以来、千年もの間、あらゆるジャンルの日本伝統音楽に載って、その固有の節回しと共に平和と長寿を祝ってきた。明治になっても、その流れは続き、西洋音楽を学んだ人たちが発表した数々の君が代がある。
俗曲風(*3/4)雅楽風(*5)の旋律のほかに薩摩藩軍楽隊(*1)、海軍省、文部省(*2)が各々独自に国歌として或いは国歌を目指して製作した三つの歌がある。その中の海軍省製作のものが現行の君が代(*6/7/8/9/10/11)である。
以下、章を追って「三つの君が代」「国歌改変」などについて解説したい。
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西暦1868年、明治文明開花の日本に西洋音楽が音立てて流入してきた。暗い燈火の下で聞く旧体制の象徴のような日本伝統音楽にくらべて、明るく響く心地よい西洋音楽に物見高い日本人が早速、強い関心を示したのは当然だろう。しかし、一般人が「ハイカラ」な西洋音楽を聞く機会など滅多になく、無論、本格的に学ぶ環境もなかった。洋楽摂取に対して迅速な行動をとったのは、使命感に燃え、経済力と組織力を兼ね備えた集団であった。明治2年9月創立の「薩摩藩軍楽隊」(明治5年、海軍軍楽隊と陸軍軍楽隊に分派)、明治3年7月に設置された「太政官雅楽局」(明治4年、宮内省雅楽課)、明治6年2月に三百年来の禁教令を解かれた「キリスト教会」、そして、明治12年文部省に設置された「音楽取調掛」(明治18年音楽取調所、明治20年東京音楽学校、昭和24年東京芸術大学音楽学部)である。
そのような風潮のなかで「国の威信を表し、列強各国に肩を並べるためには《国歌》が必要である」といち早く関係者に訴えたのが、我国初の軍楽隊、というより我国初めての西洋音楽の演奏集団である薩摩藩軍楽隊であった。
薩摩藩軍楽隊は、明治2年9月、薩摩藩藩士の中から選ばれた三十名の若者によって結成された。楽長・鎌田真平(26才)以下、後の海軍軍楽隊初代隊長中村祐庸(18才)、後の陸軍軍楽隊長四元義豊(18才)を含む、12才から27才の若者たちの平均年齢は18.5才。人数こそ少ないものの、現在と殆ど変わりない堂々たる編成の大軍楽隊である。
軍楽隊といっても肝心の楽器がなく、ザンギリ頭、羽織に股引き、素足に草履、腰に刀を差した隊員たちは、来る日も来る日も号令ラッパと音楽理論の学習に明け暮れていたようだ。翌年6月、待ちに待った楽器一式がロンドンから到着。生まれて初めて楽器を手にした隊員たちは、早速、イギリス人音楽教師ジョン・ウイリアム・フェントンから特訓を受ける。実に熱心な学習態度で、上達も早かったという。
フェントンはイギリス公使館護衛隊歩兵大隊軍楽隊長だったが、毎日レッスンに出張してきてくれたらしい。全ての楽器に精通した豊富な知識と、その温厚な性格から生徒たち皆に敬愛されていたという。
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ある日、日本に未だ国歌というものがないことを知ったフェントンが、隊員たちにイギリス国歌「ゴッド・セーブ・ザ・キング」の話をした。そして、国歌の必要性を説き、もし歌詞があれば自分が作曲すると語ったという。その話は、日本初の軍楽隊を自負する若い隊員たちの間に大きな波紋を投げかけた。直ちに楽長を中心にした話合いが持たれ、その結果、歌詞の作成或いは選定を薩摩藩大砲隊大隊長大山弥助に依頼することが決まる。大山弥助(後の大山巌。西郷隆盛の従兄弟)は薩摩藩の重鎮であり、和漢の故事にも精通していた人物であったといわれている。のち、不平等条約是正の目論見から開設された鹿鳴館舞踏会に日本政府を代表する高官の一人として登場し、アメリカ帰りの美貌の夫人・捨吉を伴って国際外交の表舞台で活躍したことで有名である。
大山は依頼を聞いて、次のようにいったという。
《大山巌の談話(大正元年)》
「偶々野津・大迫ノ両人ガ来合シテ居テ、・・・ナルホド、我国ニハマダ国歌ガナイ、遺憾ナコトダガ、コレハ新タニ作ルヨリモ、古歌カラ択ビ出スベキデアルトイッタ。ソノトキ自分ガ云ウニハ英国ノ国歌ノ如ク天壌無窮ナルヲ祈リ奉レル歌ヲ択ブベキデアルト、平素愛好スル「君が代」ノ歌ヲ提出シタ・・ソノ後如何ナル手続ヲ経テ国歌ヲ御制定ナリシカ、ソノ辺ノコトハ承知シテ居ラヌ」
大山は武人らしい簡潔な言葉で、自分が平素愛好していた「君が代」を歌詞として提案した次第を述べている。彼は和漢の故事だけでなく西洋新事情にも詳しかったようで、発案者であるフェントンと同じように、先ず英国の国歌を念頭に浮かべて、この歌を選んだようだ。
「君が代」の歌詞を選定した人物については、ほかにも様々な説がある。大山自身、国歌選定を自らの手柄として吹聴するようなことはしなかったので、確証することは出来ず、「大山説」も、あくまでも一つの「説」に留まっている。しかし大山は、偶々御親兵大隊長野津鎮雄と上京中の大迫貞清参事がその場に居合わせたことのほかにも、依頼にきた軍楽隊使者との会話の細部などを明確に語っている。取るに足らない自慢話を含む自薦他薦の諸説に比べて、遥かに真実味があり、定説とされる所以である。
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「君が代」の初見は『古今和歌集』といわれている。
古今和歌集は『万葉集』から約百五十年経た延喜5年(西暦905年)、醍醐天皇の勅令を受けた紀貫之や紀友則などによって編まれた和歌集である。1,100首余りの歌が20巻に集められているが、その「巻七/賀歌の部」の初めに「題知らす/読人知らす」という次の歌がある。
我が君は千世にやちよにさゝれ石のいはほと成て苔のむすまて
首句が「我が君」となっているが、神事や佛会などで歌われるようになった鎌倉時代に「君が代」という語句に移行しはじめ、室町時代に入って「君が代」に定着したといわれている。
この時代の歌は、黙読するものではなく、人々が集まる場所で声を出して歌うものであった。その点を考慮しながら音韻を比べてみよう。
「我が君」の「ワー・ガー」という発音は母音が「アー・アー」と二つ続いている。音声的には暖かいが決して明るい音ではない。一方、「君が代」の「キー・ミー」は高く響く母音「イ」が二つ続くので、発音が明瞭であり歯切れがよい。声を出して歌の披露をするには、「ワー・ガー・キー・ミー」より「キー・ミー・ガー・ヨー」の方が、明快であり、賀歌に相応しいのではないだろうか。永い間歌い続けられているうちに、「我が君」が「君が代」へ移行変化したのは、そのためかもしれない。
「君が代」の「君」が、天皇を指すものかどうかについては、さまざまな説がある。『古今和歌集』の解説を見ても「《君》はその歌を贈る相手。賀の歌ではしばしば用いられるが、天皇をさすとは限らない」(「新編日本古典文学全集」小学館1994年)、「《きみ》は広く用いられることばであって、天皇をさすとは限らない」(「日本古典文学大系」岩波書店1958年)とするものと、「《君》は一般に敬愛する人をいうが、この賀部では天皇を中心とする皇統について言う」(「新日本古典文学大系」岩波書店1989年)とするものがあって、それぞれ異なる解釈を示している。
名著『君が代の歴史』を書いた山田孝雄(やまだよしお)は、「君」は、その祝賀を受ける人を指したものであって天皇を示したものではないとはっきりと記し、実証として「君が代」と同じ『古今和歌集』の賀部にある光孝天皇が僧正遍昭に贈った御製を挙げている。
かくしつゝとにも角にもなからえて君かやちよに逢うよしもがな
この歌の中の「君」が長寿を祈願された「遍昭」を指し、決して天皇自身や皇族を指したものでないことは明らかである。
彼は、更に多くの年壽の歌の実例を挙げて、「これらの歌は一般の人々を賀する歌であり、而してそれは天皇皇族に限らぬものであったことは明らかで、ここに至ってはどう考えても異論あるべく思われぬ」と述べている。
「大君」という言葉が天皇を指すことは確かだが、唯の「君」という場合には、天皇を含めて、その場の主だった人物、或いは主人公を表していることは間違いないようだ。
ここで、『万葉集』と『古今和歌集』に登場する「大君」と「君」を見てみよう。 『万葉集』には「総数4516首」の歌があるが、そのうち、大君の歌が116首、君の歌は600首ある。「大君116首」の中に、天皇ではなく直属の主君を大君と詠ったものが10首、反対に、「君600首」のうち、特に天皇を詠ったものが10首ある。『万葉集』における大君と君の混用は注目すべきことではないだろうか。
『古今和歌集』には「大君」という語は一つも見当たらない。「総数1,111首」のうち「君」の歌が81首ある。81首の中で君と歌われている相手を見てみると、「恋人32首」「特定することが出来る個人22首」「牽牛星など16首」「天皇11首」である。「天皇11首」には、光孝天皇、陽成天皇、醍醐天皇の大嘗祭のために詠まれた「賀歌」が3首、残る8首は次のようなものである。
(1)宇多天皇のお伴をして法皇寺に行った素性法師の歌
(2)宇多天皇とともに舟遊びをした伊勢の歌
(3)宇多天皇に官位昇進を願った藤原勝臣の歌
(4)醍醐天皇からお酒を頂戴した紀貫之の歌
(5)醍醐天皇から勅選和歌集編集の命を受けた紀貫之の感謝の長歌
(6)醍醐天皇から勅選和歌集編集の命を受けた壬生忠岑の感謝の長歌
(7)その長歌に添えた壬生忠岑の歌
(8)小野篁が天皇の喪に服して詠んだ歌(天皇名特定不能)
どれを見ても、生き生きとした人間感情が込められている素朴な歌で、天皇の権威を賛美するための歌ではないことが分かる。
「君が代」は、その後も、神事・佛事・宴席などで盛んに用いられ愛されてきた。その流布範囲は極めて広く、田楽・謡曲・朗詠集・物語・お伽草子・仮名草子・浄瑠璃・長唄・小唄・狂歌・箏曲・盆踊歌・祭礼歌・琵琶歌・詩吟、それに門附けのゴゼ歌などあらゆる階層の歌謡に及んでいる。
例えば田楽『菊水』は、仙人が菊水という仙薬を君子に捧げる曲だが、その中に「君が代」がある。世阿弥が作った謡曲『老松』でも、「これは老木の神松の、千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」と、御代の平安を祝っている。
また、曽我十郎・五郎の仇討で有名な『曽我物語』にも、兄弟愛に感激した朝比奈が鼓を打たせて「君が代」を歌う挿話がある。『義経記』には、頼朝公の前で、静御前が「君が代」を歌いながら舞をまったと記されている。畠山重忠が笛、梶原景時が銅拍子、工藤祐経が鼓で伴奏をした。有名な「しずやしずしずのをだまきくり返し昔を今になすよしもがな」は、そのあと、聴衆のアンコールに応えて歌われたものである。
室町時代の『お伽草子』にも「さざれ石」という話がある。薬師如来の使者から「君が代」の歌を刻んだ壷を贈られて、その中の不老不死の薬を飲んだ皇女が八百年の長寿を保つという、まことに目出度い物語である。その他、古浄瑠璃『子四天王北国合戦』はじめ様々な長唄や狂歌でも歌われている。江戸城では新年を迎えるに当たって、新湯を手で受けながら「君が代」を唱え、その手を額に当てて拝む女たちの元旦行事「御清めの式」があったという。
このように「君が代」は様々な形で歌われていたが、大山のいた薩摩藩では特に「君が代」が祝歌として流布していたようだ。初代藩主島津忠良が藩士のために作った琵琶歌『蓬来山』や『十二人剣舞』にも「君が代」があり、藩主の書き初めも「君が代」であったという。大山が国歌の歌詞として、直ぐに「君が代」を思いついたのも、不断からこの歌に親しんでいたせいなのかも知れない。
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軍楽隊の使者が持ち帰った「君が代」は、早速、通訳によってローマ字に直されて、フェントンに渡された。明治3年8月上旬のことである。
フェントンは真面目な人だったようで、「日本語と日本国民性を研究してから作曲する」といって、そのまま机の中に歌詞をしまい込んでしまったという。彼がどんな方法で日本の研究を行い、その研究成果を作品に取り入れようとしていたのかよく分からないが、そのまま何の動きもなく二三週間が過ぎる。国歌作成を夢見た楽員たちにとっては長過ぎる時間だったようだ。その関係者の逸る気持ちを反映したのか、この後、国歌作成プロジェクトは急発進することになる。
大山の傍らにいて歌詞の選定にも関わっていた野津大隊長が9月8日の東京越中島で行われる軍事大訓練当日、明治天皇御前で「君が代」初演奏を捧げたいと云い出したのである。野津大隊長が云った日が8月25、6日というから、初演奏は二週間後のことで、あまりにも無理な話ではないか。隊員が初めて楽器を手にしてから未だ三ヵ月。連日猛訓練を行っているといってもまだまだ未熟で、音を出すのが精一杯。天皇陛下御前の国歌演奏はおろか、ワラベ歌の演奏もおぼつかないのである。外国使節たちのもの笑いの種になるのが目に見えている。第一、作曲者は日本語と日本の国民性の研究に着手したばかりである。二週間余りの間に曲を完成し、そのあと、素人同然の伝習生たちに演奏を教え込むというような乱暴な話はとても引き受ける訳にはいかない。フェントンが申し出を断わったのは当然である。
だが、結局、発案者・野津が強引な命令口調で押し切ったのか、楽長や隊員たちの熱心な要請が功を奏したのかわからないが、とにかく、フェントンは軍事大訓練当日の御前演奏を引き受けることになってしまったのである。
引き受けたものの作曲は遅々として進まなかったようだ。結局、行き詰まったフェントンは、通訳の藩士原田宗助に、その得意とする琵琶歌「武士の歌」をうたわせて、旋律を五線紙に写し採ったと伝えられている。
「武士の歌」(福岡藩士・加藤司の作)
スメラ御国ノモノノフハ、如何ナルコトヲカ努ムベキ、タダ身ニモテル真心ヲ君ト親トニ尽スマデ
薩摩琵琶歌と剣舞に「君が代」の歌があることを聞いて、フェントンは、その節回しを参考にしようとしたのだろう。だが、どんなに一生懸命原田が歌ったところで、素人の歌う単調な琵琶歌が西洋音楽作曲の参考になどなるわけがない。
結局、このような拙速作業によって作られた歌が、予定通り明治3年9月8日、東京越中島の明治天皇御前で国歌として発表(註1)され、その後、六年もの間演奏されることになったのである。(註1:それ以前に英国公使館内で公使館護衛隊軍楽隊によって演奏されたという記録が最近発見された。しかし、その曲が「第一の君が代」であるという確証はなく、また、英国公使館内は日本国領土外でもあり、従来の記録通り明治3年9月8日を初演日とする)
「第一の君が代(*1)」は、メトロノームのように機械的なニ分音符の上下行が交互に繰り返される単調な歌である。そのため、旋律に生気が感じられず、その上、「千代に」と「八千代に」の間、「さざれ」と「石の」の間で歌詞が分断されていて、歌詞と旋律には一体感がない。
日本のウタは、言葉と旋律が一体になって強く結び付いているから、音だけ取り出して強引に西洋音楽の五線紙に移そうとしても表記しきれる筈はない。
フェントンが作曲する傍らで通訳が得意の歌をうたったという事実はあったとしても、「その旋律を楽譜に写しとった」というのは正確な話ではないようだ。
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「第一の君が代」は大変に不評であった。なかでも軍楽隊隊員たちの評判は最悪だったようだ。『海軍軍楽隊・沿革史』という資料の中に、海軍軍楽隊長中村祐庸の談話がある。
「フェントンノ作曲ハ当時英語ノ通訳タリシ原田ノ歌へル国訛リノ曲節ヲ聞キ日本ノ国風ヲ取ラントシタルモノノ如ク三十一文字悉ク二分音符ヲ配シタル誠ニ威厳ナキモノナリシヲ以ッテ楽長鎌田新平ハ他ニ改作ヲ期スルコトトシ採用シタルモノナルニ依リ」
この記述から分かるように、関係者は作成当初から既に改作を考えていたらしい。
また、中村は明治9年に提出した「天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂之儀」の中でも、
「(其ノ音律ハ)天皇陛下ノ尊栄威厳ヲ表シ及ビ之ヲ崇敬スル儀礼ノ主意ヲ失シ」
と、この歌を酷評している。
覚えたばかりの歌を一生懸命演奏し、そして歌った隊員たち。国歌として後世に残るようなものであれば、演奏しがいがあったに違いない。しかし、
「キミ/ガヨ/ハチ/ヨニ/ヤチ/ヨニ/サザ/レ/イシ/ノイワ/オト/ナリ/テコケ/ノム/スマ/デ」
という歌詞を機械的にニ分音符に貼り付けただけの幼稚なこの歌を、彼等がどんなに上手に歌ってみても、大方の評判など得られるわけがなかったのである。
この歌は、不評にもかかわらず、その後も度々公式行事でう歌われていたらしい。あまり歌われていなかったという説もある。しかし、一回や二回の演奏であれば、あのような軍楽隊隊員からの悪評、反発が起こるわけがないだろう。前出の『海軍軍楽隊・沿革史』にも、
「明治5年1月、海軍兵学寮の式典に明治天皇行幸。「君が代」を演奏。以後礼式曲として必ず奏楽」
とあり、この歌が、明治3年以降、正式な日本国歌として度々演奏されていたことは間違いないだろう。
フェントン手書きの楽譜にも、はっきりと「Japanese National
Hymn」と記してある事実、更に、明治10年8月の外務省から海軍省に当てた「御省楽隊ニ用ル日本国歌(ナショナルエ−ヤ)ノ譜」の送付請求に対して、海軍省がこの楽譜を送っているという事実などから、他省庁でもこの歌を正式な国歌として認めていたと判断してよいだろう。
この歌は、まるで無味乾燥の聴音試験問題のようなもので、音楽的には殆ど価値がない。フェントンは吹奏楽指導者としては立派な人物だったらしいが、この曲を見るかぎり作曲家としての力量は論評を加えるほどのものではない。
しかし、十六世紀に日本に初めて音楽を持ち込んだ外人宣教師たちも、聖歌を日本語に訳すことはしても、日本人のための聖歌作曲などはしなかったようだから、このフェントンの歌が日本のための日本語による我国初の「大編成による西洋音楽的楽曲」であったことは間違いない。日本音楽史上、極めて貴重な作品なのである。
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「第二の君が代」の作成は「第一の君が代」批判から始まったといってよいだろう。そして、この「第二の君が代」こそ現在我々が国歌として歌っている曲なのである。
明治9年、海軍軍楽長・中村祐庸(スケツネ)が『天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂之儀』という上申書を宮内省に提出した。その中で中村は、中国の故事、欧州の歴史、英国国歌の実例などを説きながら「独立国の隆栄と君主の威厳を表すには国歌は欠くべからざるもので、人情を感動せしむる音楽の効用は学問より遥かに優るが、正しい声響に協合しない音楽にはその功能はない」と断じて、更にフェントンの「君が代」は、
「其ノ音律我ガ国民ノ詠謡スル声節ト全ク不妥送違ニシテ之ヲ吹奏スルモ、聴者ヲシテ何ノ音楽タルヲ弁知スル能ハザラシメ、為ニ程々儼然タル我 天皇陛下ノ尊栄威ヲ表シ、及ビ之ヲ崇敬スル儀礼ノ主意ヲ失シ・・・云々」
つまり、現在演奏している歌は、日本人の声に合わず、聞いていても何の音楽かよくわからない。あれでは天皇を崇敬する儀礼の主意を失することになると真っ向から批判し、フェントン氏は帰国の期が近く校正の暇がないから、改訂委員会の手で「君が代」の音楽を修正することを提案したのである。文の最後は、
「伏テ惟レバ其足ラザル所ヲ哀レミ其愚ヲ矜ンデ、而シテ採納焉追惶嚶再拝」
と、宮内省に対する文書であるから表現は礼を尽くしているが、その内容は手厳しく過激であった。
中村は薩摩藩軍楽隊員出身で、明治5年二十一才のとき初代海軍軍楽隊長に選ばれたほどだから、その音楽性もさることながら人格的にも秀れた人物だったと考えられる。その中村が「第一の君が代」に対してこんな強硬な意見を持ったのも、彼がその曲を演奏する当事者だったからだろう。明治天皇や諸外国の要人たちが列席する祝宴などで、各国国歌やグランドマルチやポルカの後に「君が代」を演奏する度に、稚拙な日本の国歌が恥ずかしく、何時の日か改正することを胸に秘めていたに違いない。彼の楽譜改訂上申書には、日本で初めて西洋音楽の演奏を担当している軍楽隊長としての強い自負心が窺える。
彼の上申書の別紙には、更に四条からなる「改訂見込書」が添えられている。その趣意は凡そ次のようなものである。
- 第一条
- 「日本人の歌は地方によって異なり、どれを正とするか断定が難しいから、宮中で謡われている音節を改訂の正鵠とする」
- 第二条
- 「改訂係二名を選挙し、宮内省の正音を伝習熟逹させる」
- 第三条
- 「改訂係が正音を伝習熟逹した後、教師フェントンに楽譜を送って楽手に練習させる」
- 第四条
- 「楽譜改正の上、譜を印刷し、各部所及び海外各国に送って天皇の儀典にはこの楽譜の演奏が望ましいことを伝える」
彼は、このような具体的な作業手順を書き記して新曲作成の推進を図っている。フェントンの名が第三条に出てくるが、この上申書の時点では、まだフェントンが教師の職に留まっていたので記載したのだろうが、楽員の練習相手として指名しているだけで、作成スタッフとして考えてはいない。
中村が、この「改訂見込書」で、宮中の音節、つまり雅楽の旋律の使用を提案したのは「第二の君が代」にとって非常に意義深いことであった。明治時代としては極めて当たり前の選択であるように思えるが、「第一の君が代」或いは、この後に述べる「第三の君が代」の音楽が純西洋指向であったことを考えると、日本の伝統音楽と西洋音楽を合体させるという彼の先見性は高く評価すべきものではないだろうか。
この中村の上申書は各方面に好意を持って迎えられたが、時期が悪く懸案事項となった。世情安定せず、翌年、西南戦争が起こったため、改訂作業は進展しなかったのである。
明治10年、明治天皇の京都・大和地方行幸のお供をしていた海軍軍楽隊は、西南戦争の報に接して、急遽、九州・鹿児島に転進することとなった。
約半年間続いた戦闘は官軍有利のうちに進み、海軍軍楽隊もそのまま現地に留まっていたが、9月の満月の夜、官軍の陣地・大明神山山頂で特別演奏を行ったという。明日の総攻撃を控えた敵の総大将西郷隆盛に対する惜別の儀礼演奏であった。
皓々たる月明かりの下で、その音楽は山裾を越え、戦火も止んだ遠い敵陣にまで響き渡り、敵味方涙と共に聴き入ったと伝えられている。戦場の若者たちにとって生まれて初めて聴く西洋音楽であったに違いない。蒼い月光を浴びながら明日の命を思いつつ聴くその妙なる音楽は、彼等の胸にどのように響いたのであろうか。
翌日、官軍最後の総攻撃で多くの若者が死に、西郷隆盛も城山で壮絶な自刃を遂げて西南戦争は終ったのである。
この年、海軍軍楽隊創設以来の教師であったフェントンは海軍省御雇任期満了のため英国に帰国する。明治11年、海軍軍楽隊は様式をイギリス式からドイツ式に改めることとなり、翌明治12年春、ドイツから音楽教師フランツ・エッケルト(27才)が来日する。
彼の評判は非常に良かった。『海軍軍楽隊・沿革史』にも、
「エッケルトヲ招聘シ軍楽ノ実地及ビ音楽理論ヲ教授セシム。エッケルト就任後、海軍ノ楽隊ハ非常ナル活気ヲ呈シテ各所ニ迎ヘラル」
と記されている。英国人フェントンが来日したときは、未だ楽器を手にしたこともない全くの素人だったが、以来十年、技術も向上し、隊員たちの間には、新しい理論を学びたいという意欲が漲っていたのだろう。そこに当時の欧州西洋音楽の中で最も輝いた時代を迎えていたドイツからエッケルトが赴任した。彼は、音楽全般に精通し、来日音楽教師の中でも、その能力は抜群であったと云われている人物である。彼に対する関係者の信頼が非常に厚いものとなったことは、当初二年契約であった彼の任期が、結局二十一年という長期にわたるものとなったことでも分かる。
そのエッケルトが来日した時、ちょうど、懸案であった『天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂之儀』検討再開の機運が各方面で高まっていた。国歌作成にエッケルトが関わることになったのは当然の成り行きといってよいだろう。
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明治13年、懸案であった海軍軍楽隊長・中村祐庸提出の国歌改定案が実施されることになり、1月、海軍省から宮内省に対して、正式に、新「君が代」の作曲が依頼された。当初、中村案に盛り込まれていたように、選出者が雅楽を学んだ後、作曲に取り掛かるのではなく、雅楽課に直接作成が発注されたのである。明治9年の立案以来四年。製作が急がれたのだろう。
半年後の6月、宮内省から海軍省に数種の楽譜が届けられたが、応募作品数、応募者氏名は明らかにされていない。7月、楽曲改訂委員に任命された海軍軍楽隊長・中村祐庸、陸軍軍楽隊長・四元義豊、宮内省雅楽課林広守、海軍省雇教師エッケルトの四人によって審査が行われた。
新国歌「君が代」に選ばれたのは林広守(異説あり)の歌であった。
メロディーを口ずさんでみよう。出だしの二つの音は低いが、「キーミー」という鋭い「イ」音であるために明瞭に歌われる。そのあと、旋律は一段ずつ徐々に盛り上がって最高音に達したあと一挙に歌い収められている。
他の多くの国歌に見られるように正確なリズムを刻んで気分を高揚させるような歌ではなく、オリンピックや国際スポーツ大会向きとは云えないようだ。
しかし、
「キミガ・ヨハ/チヨニ・ヤチヨニ/サザレ・イシノ/イワオト・ナリテ/コケノ・ムス・マデ」
という二小節単位の旋律が言葉の力点に完全に一致して、静かだが実に豊かな旋律である。「第一の君が代」のように、
「キミ/ガヨ/ハチ/ヨニ/ヤチ/ヨニ/サザ/レ/イシ/ノイワ/オト/ナリ/テコケ/ノム/スマ/デ」
といった小節線を挟む不自然な言葉のズレは見られないのである。
「この歌は中国・唐の音楽から発した雅楽の旋律であって、日本固有のものではない。新しい日本固有の音楽で国歌を作ろう」という発言を聞いたことがある。確かに、日本の雅楽は中国・唐の音楽を学んで成立したものである。しかし、日本雅楽は中国雅楽の正楽を捨てて、辺境地の音楽である十部伎の「燕饗楽」を「御遊び」として取り入れて、しかも、国風化などを経た末に日本固有の音楽となって今日に至っているものである。同じ中国雅楽を学んだ韓国の「アアク」、ベトナムの「ニャーニャック」を聞けば、源流は同じでも全く違ったものになっていることが分かるだろう。日本雅楽は現在では完全に日本固有の音楽であり、むしろ、西洋音楽を学んだ現代の音楽の中に日本固有の音楽を発見することのほうが困難であるといってよいだろう。
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審査を終えたエッケルトは、早速、林広守の歌に和声を付け、さらに、ピアノ用とオルガン用の伴奏譜(*6)と吹奏楽譜を作った。
この曲の最初と最後は、ユニゾン(同音)で伴奏され、歌と同じ旋律になっている。和声は一切付けられていない。
それについて、阿部季功(元宮内省雅楽部長)は、エッケルトの談話として、
「日本の国体を考えるならば、最初のキミガヨの部分は男子たると女子たると日本人たると外国人たるを問わず、二人でも三人でも十人でも百人でも、たとえ千万人集まって歌おうとも、いかほど多数の異なった楽器で合奏するにしても、単一の音をもってしたい。ここに複雑な音を入れることは、声は和しても何となく面白くない。日本の国体にあわぬような気がする。それゆえキミガヨにはわざと和声をつけぬことにした。最初につけぬから結びにもつけぬ方がよろしい」
と語っている。
このエッケルト編曲の和声については様々な意見がある。
エッケルトの編曲技術そのものに疑問を抱くもの、最初と最後に和声を付けなかったことに反対して非音楽的であると云うもの、更には、日本式和声を付けるべきであるとして自作の和声を発表した者もいた。また、「ハ長調からト長調に転調しているが、全体をハ長調とみなしている。始めの二小節のユニゾンのように何調とも分からないように、うまくカムフラージュされて、こうした和声は最も幼稚な考え方のもので日本和声発展の上からはむしろ障害となるものである」と評した人もいた。しかし、転調というのは新しい調に入った後、完全にその調を確立して初めて成立するもので、このエッケルトの和声処理は、転調ではなく一時的な調性の経過処理でしかないのである。
元来、日本伝統音楽に和声などあったためしがないわけだから、エッケルトがその点を「うまくカムフラージュ」していることは確かである。しかし、この音階の中で使用可能な和音を総てバランスよく使って、しかも西洋和声法の書式から見ても不自然なところが全くない。
エッケルトの「君が代の曲の初めに複雑な音を入れることは、声は和しても面白くない」という言葉は、彼が優れたバランス感覚の持ち主であった証拠といえるだろう。
古代和洋の音階に合致している旋律を、ユニゾンで始めることは無理のない自然な導入法ではないだろうか。和声を持たない雅楽の歌をいきなり西洋式和声で始めるより、二つの音楽の融和を図ってから和音を加えればよい。エッケルトは、全体の調和感から見て、それが最善の方法であると判断したに違いない。
日本の旋律と西洋の和声。旋律を横軸とするならば和声は縦軸である。全楽器を和洋のユニゾンで始め、和の旋律に洋の和声を加え、再び和洋のユニゾンで終える彼の編曲術は、和と洋、横軸と縦軸を見事に調和させたものであるといってよいだろう。
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明治13年10月25日、「君が代」の試演が雅楽課の芝葛鎮、林広守、東儀秀煕、小篠秀一四人の立会いのもとで行われた。
芝の日記によれば、同日午前9時に海軍省軍楽稽古場ヘ出頭し、
「当夏同省ヨリ依頼ニ相成候日本御国歌君カ代墨譜選譜相回」
したが、音律が高かったので調を下げるように申し入れ、
「相改整頓シテ」
12時に稽古場に帰ったと記されている。
10月末、海軍軍務局長から海軍大臣・榎本武揚宛てに一通の上申書が提出された。
「従来吹奏致候君カ代之楽譜ハ以前鹿児島藩ニ於テ英人某ニ編製セシメタルモノノ由」
という書き出しで始まるこの上申書は、フェントンの「君が代」について相変わらずの悪態をつき、「彼ノ英人我言語不了解ノ故ニヤ音調ノ緩急上ケ下ケ等未タ完全ナラサルヨリ聴クモノ掻痒ノ感ナキヲ得ス」と酷評し、それに比べて、「先般伶人ヲシテ綿密ニ修正セシメ過日教師エッケルトヲ初メ伶人立会之上唱歌調査」をした「君が代」は、「緩急其度ヲ得テ上下其節ニ適イ全ク善良無瑕ノモノ」であり、改正は大成功であったと意気揚々、得意気に報告をしている。
新曲作成九日後の明治13年11月3日、天長節御宴会において、宮内省雅楽部吹奏楽員による新国歌「君が代」の初演奏が行われた。新曲の評判は上々であった。
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明治21年、海軍省は吹奏楽用の楽譜を印刷して、内地諸官庁及び条約諸外国に対して公式に配布した。表紙には「大日本禮式」と横書きされ、その下には「菊花御紋章」、標題の「JAPANISCHE HYMNE」、日本古代の民謡によるという意味の「nach einer altjapanischer Melodie」、作曲者氏名と所属である「von F.ECKERT,Konigl.Pr.Musikdirektor」などが印刷され、一番下には作曲年「1880」が印刷されている。B5判より少し大きな上質白紙を紅白の絹糸で綴じた美しい吹奏楽総譜である。
「第二の君が代」成立は以上のような経過を辿り、その結果は上々であった。しかし、「第一の君が代」と同じように国歌に制定されたという公的機関の記録は全くない。
「明治15年8月の太政官布告で国歌に制定された」と発表した研究者がいたようだが、その後の調査で、上野図書館所蔵の法令全書にも他の法令集にも見当らず、謬説であったことが確認されている。この楽譜改訂は常に海軍の主導のもとに行われた。当時の海軍と陸軍の確執などがあり、文部省や他の省庁などの思惑も加わって、国歌正式制定を難しくしたのかもしれない。
しかし、海軍省蔵の楽譜には「国歌 君が代」と明確に記載され、海軍省公式配布の楽譜にも「JAPANISCHE
HYMNE」と大書してあることから、明治中期以降、関係各方面が「第二の君が代」を国歌として認知していたと考えてよいだろう。
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現行「君が代」の演奏譜について記したい。
明治以降制作された演奏譜には、我々が普段目にする四部合唱譜やピアノ譜のほかに、簡単な二部合奏譜、音楽学生の習作のような伴奏譜(*7/8)、バロック風に少し凝った編曲譜(*9)、その他(*10)、編曲者名のあるもの不明のものを含めて実に多種多様な楽譜がある。公式の場で「君が代」を演奏する各地の音楽隊や公立演奏団体の使用譜を数えると十数種類以上に及び、更に音楽隊の楽譜は、変ハ長調(明治13年・エッケルト原譜)、変ロ長調(明治35年・陸軍軍楽譜)、ハ長調(大正14年・海軍儀制曲総譜)と様々に調性が変遷している。
薩摩藩軍楽隊は明治2年の発足当時、英国を範とした。明治5年、兵部省が陸軍と海軍に分かれ、軍楽隊も分割されて各々仏蘭西・英国をモデルとしたが、その後、海軍が英国から独逸に様式を変更したために、仏・独二つの軍楽様式が昭和20年の終戦時まで続くことになる。戦後、海軍軍楽隊が東京消防庁音楽隊に陸軍軍楽隊が警視庁音楽隊に転身し、更に自衛隊の軍楽隊が各地に誕生したため、様式混在の状態はいよいよ進むことになった。しかし、音楽教育の普及などもあり、現在では際立った様式の差はなく、調性もハ長調に統一されている。ただ、演奏譜については、その出身母体の使用譜を引き継いだ各隊に異なる楽譜が残されているのである。
現在の音楽隊譜の違いは主として楽器編成によるもので音楽的には小さな問題だが、その音楽隊譜とは別に、文部省グループとでもいうべき楽譜が存在し、両者の間の低音と和音には明らかに四箇所の相違がある。「君が代」は十一小節という短い曲だから、平均して三小節に一つ違いがあることになる。これは音楽上の大問題といってよいだろう。
文部省は音楽の研究・教育を管轄する官庁である。海軍省の企画で「第二の君が代」が作られたとき、国歌制定は当省の所轄也という反感があったようだ。その文部省が「第二の君が代」を祝日大祭日唱歌として告示(明治26年)したとき新伴奏譜を発表した。これが文部省譜(*11)である。学校行事などで一般の目にふれやすいことから、各地のオーケストラ譜や市販譜には、この楽譜を元にしたものが多く、その後、エッケルト原譜と文部省譜の折衷案なども種々作成されるようになって、更に混在が進んでいるのである。
「君が代」が国歌であると直接規定した法文は戦前戦後を通して未だ一度もなく、唯一の典拠は大正3年発令の海軍礼式令(勅令第十五号)と考えられる。その勅令に基づいて国歌とされているのがエッケルト原譜に最も近い『儀制ニ関スル海軍軍楽楽譜(大正元年・海軍省達第十号)』だが、そこには、旋律だけを国歌とするのか或いは演奏譜全体を国歌とするのか明確な定めがない。明治以来大正昭和にわたる多種多様、勝手次第の楽譜作製に対して規制が一度も行われたことがないのは、その薄弱な法基盤に起因するといってよいだろう。
平成9年4月現在、日本音楽著作権協会に三曲の君が代編曲作品が個人名で著作権登録されているが、協会の編曲審査基準から考えれば、エッケルト原譜以外の公式譜は「独創性」が認められないため、編曲著作物として取扱われることはありえない。つまり、現在公式に使用されている「君が代」演奏譜は、編曲著作権も発生しない、まるで複製品の絵のような価値のない存在ということになる。
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日本伝統音楽に「スレ・ズレ」という現象がある。音と言葉が合体したまま成立した日本伝統音楽独自の演奏法で、言葉から完全に遊離した音によって音楽理論を確立した西洋音楽では絶対にありえないものである。「スレ」は日本人の審美感に大きな影響を与えているといってよいだろう。垂直方向の音の高さの「スレ」のほかに、水平方向のリズムの「ズレ」もある。楽譜に忠実に、正確な演奏をするのではなく、意識的して微妙にリズムをズラのである。心地よいリズムのズレ。それは日本伝統音楽では、味のある演奏であり、上手な「ズレ」は第一級の演奏家の証しとも考えられているのである。
日本人は、風や波の音を雑音としてでなく風情ある情感あるものとして聞き、心理的に捉えている。それが、日本人特有の聴覚によるものかどうか確かなところは分からない。しかし、次のような事実、例えば、日本伝統音楽の楽器であり、日本特有の演奏法を行う尺八や笛の鋭い強い音に、西洋音楽の木管楽器などにはない積極的なノイズが含まれていることを考えみよう。日本の音の美と西洋の音の美は、本質的に異なるものであると考えざるを得ないのではないだろうか。
雅楽家たちに「他管に触れず」という不文律があるという。
雅楽では家々で伝習する楽器が違っている。そのため、異なる楽器を受け持つ他家の演奏に口を出して争いが起こり多くの刃傷沙汰があったという。「他管に触れず」はその挙句の知恵なのだろう。この知恵によって雅楽の人々は千年以上の永い間、伝統を守り通したのかもしれない。他家の楽器の伝統を寛大に見るかわり、自家の伝統もはっきりと主張する。他家と自家の音が少々違っていたとしても、相違をそのままにして合奏してしまうのである。平和のためではないか。少々の違いのために他管に触れて争うことはないのである。永い間その習慣を繰り返すうちに、いつしか小さな相違はむしろ玄妙なる美意識となって降り積もり、層となり、やがてそれが「スレ」「ズレ」という日本独自の審美感になったのかもしれない。
切磋琢磨して合理的な大きな原理を作りあげるよりも、感情的な小さな心理の方を大切にして他管に触れようとしない日本人的心情は、政治や経済や文化やその他日本のあらゆる所に深く根を下ろしているといってよいだろう。例えば、君が代演奏譜の混在も、明治以来の頑迷な縦割り行政がもたらしたものであることは確かだが、誇張していえば、対決を要する処理は出来る限り避けて通る日本式スレ・ズレ現象の一つということが出来るかもしれない。
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「第三の君が代」は、明治15年4月に音楽取調掛が編纂した『小学唱歌集』初編の中で発表されたものである。この歌は、国歌として掲載されたものではない。
当時、文部省も、海軍省の国歌作成とは別に国歌制定を立案していた。明治13年の天長節で初演奏された「第二の君が代」は海軍省と宮内省が共同して作ったものであり、法的裏付けもなく、単なる天皇奉祝の歌にすぎないという考えから文部省独自の立場から国歌を作成しようとしたと考えられる。国歌制定はそもそも音楽専門家を擁している我々の行うべき業務であり、海軍省などの関与すべきことではないという他省に対する文部省の対抗心と、国歌制定の名誉を宮内庁雅楽課に渡したくないという音楽取調掛の功名心が重なっていたのかもしれない。明治改元以来十年余を経たとはいえ、その当時の藩の因縁や役所の確執は、現在では窺い知ることの出来ない根の深いものがあったのではないだろうか。
明治15年1月、文部省は音楽取調掛に対して国歌の制定を発令し、下命を受けた音楽取調掛は直ちに伊沢修二掛長以下掛員が、先ず、英・仏・独・米、その他の国歌を調査研究して国歌作成の作業を開始した。そして、一早く3月には六篇の案を作り、更に4月に入って、四編十一首に改めた『音楽取調掛議案』を文部省に上申した。命令を受けてから、わずか三ヶ月後のことである。
その議案の中で、伊沢は次のように述べている。
「国歌之儀ハ之ヲ欧米ノ史乗ニ徴スルニ僅カニ一首一曲ニシテ人心ノ向背ヲ決シ邦國ノ禍福ヲ興リ億兆ノ幸否治道ノ進退ヲ策スルニ至リシモノ其例少ナカラス」
国歌が民意の向背を左右し、国の禍福や国民の幸不幸につながる例も少なくないと説き、次いで、
「音楽取調ノ事業ハ事頗ル創始二属シ我邦古今ノ雅楽俗楽ヲ初メ清楽洋楽等目下取調中ニ有之候ハ将来此事業成了後ニ至リ即チ我邦ノ高等音楽ノ進歩ヲ占メ歌曲ノ編成意ノ如クニ相成候日ニ至リ之ヲ選定候如ク・・・」
音楽取調べの事業は始まったばかりで、目下、古今東西さまざまな音楽を研究している。将来、その事業が終わって、我国の音楽が進歩して歌や曲を作ることが意のままになるような時代が来れば、現在よりも完全な歌曲を作ることが出来るだろう。しかし、とにかく、今日の状況の中で及ぶ所の力を尽くして、和歌の作法、雅楽俗楽の規則、西洋音楽の理論などを調査しつつ作成したから、
「情実御参按ノ上歌編ノ当否御審決相成度候。尚楽譜ノ儀ハ・・実際演曲ヲ以テ御審決ヲ仰ギ申度此段至急相伺候也」
その当たりの事情を考慮して、歌曲の当否は実際の演奏を聴いた上で御審決を仰ぎたいと述べ、文の最後を「至急相伺い」と結んでいる。
伊沢修二は明治8年、アメリカに留学。ルーサー・ホワイティング・メーソンの指導のもとに音楽を学び、帰国後、我国音楽教育のために尽力した人物である。
明治12年10月、音楽取調掛の御用掛に任命された伊沢は、早くも同月30日、文部省に『音楽取調ニ付見込書』を提出している。その中で伊沢は、明治5年の学制発布以来、唱歌が教科に入っているが実際には少しも行われていないと述べ、その実施のために次の三つの方針を挙げている。
第一項「東西二洋ノ音楽ヲ折衷シテ新曲ヲ作ル事」
第二項「将来国楽ヲ興スベキ人物ヲ養成スル事」
第三項「諸学校ニ音楽ヲ実施スル事」
つまり、音楽取調掛の目的は、東西の音楽を折衷した新しい国楽の創生にあり、そのためには人材の育成と諸学校での音楽教育の実施が急務であると説いたのである。そして、さらに彼は、学校唱歌作製という最も基礎的なところからそれを実現しようとした。
明治15年1月に文部省から国歌制定を命じられ、急遽、作業に取り掛かった音楽取調掛が同年4月に提出した四篇十一首の国歌歌詞最終案は次のようなものであった。
其一(二首)神器、国旗
其二(三首)日出処、日本武尊、蒙古来
其三(四首)尊王愛国を四首
其四(二首)神功皇后、豊臣秀吉
この国歌のための歌詞最終案は、殆どが七五調で、国歌としては冗長にすぎる歌が多い。例えば、その中の「国旗」と「日本武尊」を見てみよう。
「国旗」「草木モナビク大昭代(オオミヨ)ノ、風ハ四海ニミテルナリ、仰グモ高キ天津日ノ、御旗ハ雲ヲ払フナリ、六大州ノ民草モ、ナトカハ靡キ仰ガザル。我日ノ本ハ日ト共ニ、千世萬世モ輝ケル国」(合唱)「イザ諸人ヨ、国長久ト歌ヘカシ、国長久ト祝ヘカシ、イザ諸人ヨ、国長久ト祈レカシ」「日本武尊」
「東ノ国ノエミシラヲ、ウチ平ゲテ天皇(スメロギ)ノ、大御心ヲナゴメシ、ヤマトタケルノ名モシルシ、ソノ神御霊(カムミタマ)大鳥ト、ナリテハバタク大空ノ、ハテナキ如ク萬代モ、ツタヘザラメヤ今モカモ」
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下命を受けた音楽取調掛が急いで提出したにもかかわらず、文部省が検討を始めたのは、翌年16年になってからであった。文部卿以下各局長が、それぞれ疑問の個所や改訂を要するところに付箋を付け、意見を述べた。
普通学務局長辻新次は「国旗」について、次のような意見を付している。
「万国人ノ靡キ仰ガザルト云ウコトヲ国歌中ニ明言スルハ、今日ノ場合ニテハ如何ナルモノニヤ」
我国の国旗を外国の人たちが「靡キ仰ガザル」と国歌の中で明言するのは、外交日進の今日、如何なものであろうかと注意を促し、更に、事実に反したことが歌われているものは不適当であると指摘した。更に、「日本武尊」について、
「日本武尊ノ御霊大鳥に化セシトイウ事ハ、史伝等ニ記載有之普ク人ノ知ル談ニ候得共、奇怪ノ事ト存候」
として、国歌には相応しくないと朱書している。
音楽取調掛の国歌案は、文部省学諮詢会でも検討された。ここでの各局長の発言は、草稿に付された意見より更に本質的な問題に関するもので、当時の文部省中枢の国歌選定に対する姿勢をはっきりと知ることが出来る。
編集局長西村茂樹は、「国歌は中国詩経の国風のようなものであり、西洋の国歌を見ると何れも国風化され自国のものとなっている。しかし本案は、詩経の頌のようなものとなっていて国風化されていない。神殿宗廟の祭祀に使うのならばよいが、民間のための唱歌には不向きである」と発言している。
辻新次は、「詩経の国風は多く里巷から出たものであり、中国の国風と西洋の国歌とはもとより同一ではなく、今日、国歌を製作するにあたってなにも国風を見習う必要はない。西欧各国の国歌を見ると頌歌、賛歌、牧歌、或いはフランス国歌のような過激なものもあって決して一様ではない。凡そ本案のような穏当なものに異存はないが、世上で流行している唱歌の中に国歌として相応しいものがあれば、それを加えたらどうか」と述べ、更に、
「国歌御選定ノ後ト雖モ、単ニ国歌トシテ御公布相成リ、万一其効無キトキハ甚不都合ト存候」
と発言している。国歌として選定された歌が広く国民の間でうたわれなかった場合、政府の面目が失われることを心配したのである。
専門学務局長浜尾新の国歌案に対する意見は次のようなものであった。
先ず、選定の困難であるを説き、我国の国歌が欧米各国のものと異なる所は、国歌の中にあくまでも皇室を尊崇する主旨を表すことであり、国体に適し民情に合い、党歌や政歌になる憂いのないことである。しかし、これらの歌は国歌としての気力に乏しい。国歌は雅俗の中間でなければならない。現在のように文学と音楽の著しい進歩を考えたとき、
「先ズ、通常ノ唱歌トナシテ、学校其他ニ於テ充分ニ試験シ、後チ果シテ能ク国体ニ適シ民情ニ合ウモノヲ選シテ、国歌ト定メラレ可然存候」
つまり、普通の唱歌として学校などで充分に試してから国歌とするのがよかろうと発言したのである。
各議論を経た後、福岡文部卿は次のように朱書された付箋をつけて音楽取調掛に議案を差戻した。
「国歌制定ハ至大至重ノコトニツキ、日本国歌案ノ名称ヲ止メ、明治頌(メイジショウ)ノ名頌ヲ附シ、之ヲ第一編トシ、尚ホ諸体数編ヲ撰ミ次第第二号ヲ逐フベシ」
国歌の制定は至大至重であるから「日本国歌案」とはせず「明治頌」という名称に変えて、更に次の案を作るように命じたのである。その後の国歌選定難行を予見させる回答であった。結局、文部省の国歌計画は「明治頌」にトーンダウンして、しばらくは音楽取調掛で作業が続けられていたようだが、いつの間にか中止された。その時期について何も記録は残されていない。
伊沢は提出議案の中で「尚楽譜ノ儀ハ実際演曲ヲ以テ御審決ヲ仰ギ申度」と述べているが、公の席で審査のための演奏が行われた記録も見当らず、文部省の国歌選定は完全に挫折して幻の企画となってしまったのである。
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文部省が立案した国歌制定とは別に、明治15年に音楽取調掛が出版した『小学唱歌集』初編の中に「君が代」が掲載されたが、前述したように、この歌は国歌ではなく唱歌として発表されたものである。
浜尾学務局長の「現在のように文学や音楽の著しい進歩を考えたとき、先ず学校などで唱歌として充分に試してから国歌とするのがよかろう」という意見は早くから文部省内にあり、唱歌の中の歌が生徒や国民たちに愛されて、その広い支持を受けた形で、もし国歌となれば・・という期待がこの唱歌に託されていたのかもしれない。不評であったとはいえ、約六年の間、国歌として明治天皇の御前で演奏されていた「第一の君が代」、前年の11月3日の天長節に海軍省が国歌として発表した「第二の君が代」と同じ歌詞を使っているのである。充分考えられることではないだろうか。
「第三の君が代」(*2)(作曲)英国古代の大家ウェブの古歌
(作詞)古歌(第二節/源三位頼政)並びに稲垣千頴の改作(一)君ガ代ハ、チヨニヤチヨニ、サザレイシノ、巌トナリテ、コケノムスマデ、ウゴキナク、常磐カキワニ、カギリモアラジ
(二)君ガ代ハ、千尋ノ底ノ、サザレイシノ、鵜ノイル磯ト、アラワルルマデ、カギリナキ、ミヨノ栄エヲ、ホギタテマツル
歌詞は二番からなり、一番は『古今和歌集』の「君が代」、二番は『今選和歌集』の「源頼政の歌」である。旋律の構成上の必要から、一番二番とも、終わりに稲垣千頴の新しい歌詞が付け加えられている。曲は英国「Webb」の古曲となっている。
『ニューグローブ音楽辞典』によれば、英国古代の大家ウェブ(ウエッブ)と思われる作曲家は三人いる。一人目は「ウイリアム・ウエッブ」(1600〜1656年)、二人目は「サミュエル・ウエッブ一世」(1740〜1816年)、三人目はその息子の「サミュエル・ウエッブニ世」(1770〜1843年)である。
三人とも年代は違うが歌曲の作曲家で、共通点は彼等が1760年代にロンドンで流行した「キャッチ・クラブ」の歌を作曲していたという点である。「君が代」のメロディーを借りたのが三人のうちの誰なのかは特定出来ないが、「英国古代の大家」というものものしい肩書、辞典に収録されている資料の多さからいって、この「ウエッブ」はクラブの中心人物であり会の開会式で必ずその歌が歌われていたという「サミュエル・ウエッブ一世」であろうと思われる。
貴族とジェントルマンのための「キャッチ・クラブ」は世俗的な歌と卑猥な会話を楽しむ男性のためのクラブであったが、その頽廃的な言動が非難の的となり、やがて健全な「グリー・クラブ」という組織に移行した。現在の日本で男性合唱団の代名詞として使われている「グリー・クラブ」という名称の発祥である。サミュエル・ウエッブ一世はそこでも主導的役目を果たしていたらしい。「グリー・クラブ」のレパートリーは殆どが単純な短い合唱曲であるが、それは、この「第三の君が代」の旋律にも符合していると思われる。
「第一の君が代」は、一目瞭然、曲として全く成立していないようなものだから初めから論外だが、この「第三の君が代」は、少し曲らしく聞こえるので始末が悪い。一寸愛らしく聞こえるが、注意深く聞けば、歌詞の流れと曲の進行が全く不一致でタドタドシク、それになによりも、この歌には国歌としての気品が全くないことに気が付くだろう。
文部省は、この「君が代」に大きな期待をかけていたのかもしれない。だが、残念ながら、凡俗なクラブ・ソングに日本の和歌を切り貼りして音符に当てはめただけの平凡な歌が、多くの日本人の人気を得ることなどあるわけがなかったのである。
文部省は、この明治15年の『小学唱歌』初篇に続けて、明治16年に『小学唱歌』第二篇、翌17年には第三篇を発行した。そして、その中で、「皇御国」(スメラミクニ)「栄行く御代」「天津日嗣」「太平の曲」「瑞穂」などの祝祭的唱歌を発表している。この曲名だけ見ても、曲の国歌転化を狙った文部省の熱い期待が伺えるのではないだろうか。
しかし、この一連の唱歌も一、二例を除いて、全てポーランドやスコットランドやアメリカの旋律で、中には、ただ「外国歌曲」と記されている作曲者不祥・正体不明のものもあって、歌のタイトルに全く相応しくない。
浜尾専門学務局長が唱えた「国歌の自然発生的成立」を待つ作戦も、次第に、辻学務局長の心配したように「其ノ効ナク甚ダ不都合」な結果になってしまったのである。
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明治23年、全国の小学校児童が歌う儀式唱歌の必要性を感じた文部省は、小学校令を改正し、祝祭日に歌うべき唱歌の作成を東京音楽学校に指示した。
審議委員が曲の選定審査に当り、三年の歳月を経た明治26年8月、文部省制定「祝日大祭日歌詞並楽譜」が公布された。そして、その八曲の儀式唱歌の中に、役所の対立を越え超党派的支持を受けて、あの海軍省作成「第二の君が代」が登場したのである。
《祝日大祭日歌詞並楽譜》「君が代」「勅語奉答」「一月一日」「元始祭」
「紀元節」「神嘗祭」「天長節」「新嘗祭」
この儀式唱歌は全て日本人が作詞作曲したものである。「君が代」の編曲者エッケルト以外、外国人の名は見当らない。明治頌選定と祝祭唱歌作製の失敗の経験を生かした関係者の努力が実って、どの歌も、歌詞と旋律がほどよく調和した歌になっている。
この公布で特に注目したいのは、「第二の君が代」が曲目の最上位に置かれ、その上、全ての祝祭日で、儀式の初めに歌うよう指導されていることである。
「祝日大祭日歌詞並楽譜」制定は、あくまでも「文部省」一省の発令であり、「君が代」が正式な国歌として認定されたことにはならないが、この制定によって、公に「国歌同様の扱い」を受けることになったことは間違いないだろう。
浜尾専門学務局長の発言以来、「先ず唱歌として学校などで充分に試してから」という文部省の姿勢を堅持しつつ、国家を象徴する国歌制定という重要事項を、取敢えず「国歌のようなもの」でスタートしてしまうところに、あの「他管に触れない」日本の特質が見られるではないか。
ただ、当時の国際情勢を見ると、たとえ取敢えずのものであっても、国歌制定は急務であったことが分かる。
「祝日大祭日歌詞並楽譜」制定の翌明治27年、清国が韓国に出兵したのに対して、日本も居留民保護を名目にして出兵し、日清戦争が起こった。日本軍は平壌・大連などで清軍を破り、翌28年、講和条約を締結したが、この勝利によって世界列強に並んだという日本人の意識はいよいよ高まって行く。
例えば、二十世紀第一日目を迎えた明治33年1月1日、「時事新報」は次のような記事をのせている。
「わが国民が外国人に接して、真実対等の地位を保たんとするには、商売実業の自由競争に一歩もおくれをとらざる覚悟はむろん、社交上には高尚清潔の気風を養い、もって文明社会の士人たるに恥じざるの体面をそなえざるべからず。日清戦争の結果についで、新条約の実施をまっとうし、わが国も、いよいよ進んで世界 列強の班位に列したるについては、列国のこれを見ること、従来に異なると同時に、わが国民もまた自ら重んぜざるべからず」
国際社会は新しい世紀を迎え、植民地支配の構図を確立した西欧諸国、米西戦争に勝ったアメリカ、初めての対外戦争に勝利した日本などが力を誇示しつつ、血生臭い「商売実業の自由競争」に突入した。それが第一次世界大戦そして第二次世界大戦の泥沼につながると考える人は誰もいなかった。少なくとも、二十世紀に入ったばかりのこの時期、どの国も、将軍の軍服を金ピカに飾ることや自国の威信を表す国歌を華やかに演奏することなどに意義を見出して新世紀に夢を託していたのである。
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1992年、フランスのアルベールビルで冬期オリンピックが開かれた。その華やかな開会式で、美しい冬山を背景にして空高く台上に昇った一人の少女が、無伴奏で国歌を歌った。会場の三万人を越す大観衆と世界二十億のテレビ視聴者が見守る中で歌われたそのフランス国歌が、その後、様々な論議を呼んだことは未だ記憶に新しい。
論点は国歌の歌詞であった。天使のように澄んだ声で歌われたのが、「かの暴虐なる兵士・・我等の妻子を殺さんとす・・武器をとれ人々よ・・けがれし血を我等が畑に注がしめよ・・」というあまりにも戦闘的な歌詞で、それが、テレビ画面の清楚な少女の姿に重なったため、違和感を覚えた人が多かったのである。
ヨーロッパ市場統合が現実となったこの時期に、隣国を敵とするような歌詞が世界中に流されたことにフランス人は改めてショックを受け、早速、ミッテラン大統領夫人を中心にして歌詞の改変運動が起きる。ちょうどこの年、フランス国歌作曲二百周年に当たったため、新聞・雑誌・テレビなどのマスコミもこぞってこれを取り上げて、賛否両論、国論は二分されることになった。
しかし、改変論が正論であることを認めながらも、「この歌詞は祖国が危機に瀕したときのものであり、共和主義の象徴でもあり、レジスタンスの歌でもあった。時代状況が変わる度に、どうして歌詞を改変するのか」という反対論も多く、或る雑誌が行ったアンケート調査では、フランス人の40%が歌詞が好戦的すぎるとしながらも、75%の人が改変反対だというのである。
ドイツでも「侵略を支えた国歌はやめよう」「ユダヤ人虐殺の記憶に結びつく歌を子供たちには歌わせたくない」という国歌批判の市民運動が盛んになっているという。ドイツ国歌「ドイツの歌」が作られたのは1841年である。当時、プロイセンとオーストリアを頂点にして四十近い国が連邦を形作っていたが、統一された国民国家に作りあげるべきだとする人々が多かった。作詞のホフマン・フォン・ファラースレーベンもその一人である。そして、彼はオーストリア皇帝に捧げられたハイドンの曲に詞をつけたのである。その歌はやがて、国粋的な歌として軍隊や保守派陣営で歌われるようになり、1922年のワイマール共和国時代に国歌とされたのである。しかし、その当時、一番の歌詞にある四つの地名のうちマース川とエッチ川は既にドイツの国境ではなかったし、第一、オーストリア皇帝に捧げられた曲を借りている点でも実に奇妙な国歌であったといえよう。
1949年に誕生した西独は、1952年5月、「ドイツの歌」を国歌として承認したが、公式には三番だけを歌うことにした。「一番は外国を刺激する。二番は内容が無い。それに対して三番は東西統一を目指す西独に相応しい」というのが、その理由である。1986年に行われた世論調査では、三番の歌詞を「覚えている人」は26%、「うろ覚えの人」が27%、そして、国民の47%が「知らない」と答えたという。
「ドイツの歌」J.Haydn作曲(1797年)弦楽四重奏曲「皇帝」より
H.Von Fallesleben作詞(1841年)(1)ドイツ、ドイツ、すべてを超えたドイツ、世界のすべてを超えたドイツ。
マース川からメーメル川までエッチ川からベルト海峡まで、
守りを固めて、つねに兄弟のようにひとつになれば、
ドイツ、ドイツ、すべてを超えたドイツ、世界のすべてを超えたドイツ!(2)ドイツの女、ドイツの誠、ドイツのワイン、ドイツの歌は、
昔のままの美しい響きを世界に伝え、われら、生きるかぎり、
われらを気高い行為へと励ますだろう
ドイツの女、ドイツの誠、ドイツのワイン、ドイツの歌!(3)祖国ドイツのための統一と権利と自由!
われらみな、それを求めて励もう、兄弟のように、身も心もささげて!
統一と権利と自由は幸せのいしずえ。
花ひらけ、この幸せの輝くなかで、花ひらけ、祖国ドイツ!
東西ドイツ統一後の1991年夏、ワイツゼッカー大統領は改めて「ドイツの歌」を国歌として承認した。しかし、やはり今回も歌詞は三番に限るとされたのである。大統領府見解を見ると、「ナチス時代の誤用はあったが、長くドイツ人の結束の象徴だった歌である。三番の歌詞は国民意識のなかに国歌として定着している」と説明されている。
国歌というものが如何に難しい問題を孕んでいるか、このフランスとドイツの例を見てもよく分かるのではないだろうか。
しかし、仏・独両国の国歌は国民意識が高揚した時代に作られたものであり、国民合意は基本的には形作られていて、その争点も歌詞の改変でしかない。国民意識が高揚していない平時に、曲まで変えた新国歌を制定して国民の合意を得ようとするとき、国歌選定は至難の技となる。
七十年近い日数を必要としたオーストラリア国歌選定を見てみよう。国歌選定に至る経緯を箇条書きにすると次ぎのようになる。
《オーストラリア国歌の選定経緯》
- (1)〈1901年〉
- イギリス連邦自治領となった後もイギリス国歌である「ゴッド・セーブ・ザ・クイーン」を国歌としていた。
- (2)〈1913年〉
- この年以来、1943年・45年など、度々放送局などによる公募計画が実施されたが全て失敗に終わった。
- (3)〈1956年〉
- メルボルン・オリンピック開催。国歌問題が再燃したが解決をみなかった。
- (4)〈1973年〉
- 今度は政府が公募を企画。歌詞2500編の応募があり、そのうちの6編が選ばれた。更に、1300の作曲応募作があったが入選曲となったものはなく、企画は完全に挫折した。
- (5)〈1974年〉
- 政府は、当時国民の間で広く歌われていた「アドバンス・オーストラリア・フェア」「ワルツィング・マチルダ」「ソング・オブ・オーストラリア」の3曲を候補作としてサンプリング方式で選出された6万人による世論調査を行った。
- その結果「アドバンス・オーストラリア・フェア」が51.4%を獲得して一位となり、労働党内閣は国歌に決定した。
- (6)〈1975年〉
- しかし、翌年、保守党政権が成立したため、再び「ゴッド・セーブ・ザ・クイーン」が国歌として復活することになった。
- (7)〈1977年〉
- 政府は直接国民投票を実施した。結果は次の通り。
- 「アドバンス・オーストラリア・フェア」・・・43.2%
- 「ワルツィング・マチルダ」 ・・・28.3%
- 「ゴッド・セーブ・ザ・クイーン」 ・・・18.7%
- 「ソング・オブ・オーストラリア」 ・・・ 9.6%
- 再度、「アドバンス・オーストラリア・フェア」が一位になったが、保守政権は国歌と認定しようとはしなかった。
- (8)〈1984年〉
- 労働党内閣誕生によって、遂に「アドバンス・オーストラリア・フェア」が正式な国歌として閣議で決定され、1913年以来七十年間にわたった国歌選定作業は決着した。
植民地としてのイギリスとの長い歴史、保守党と労働党の間の政権交代、オリンピック開催など様々な要因によって長引いたといえるのだが、国民的合意というものが如何に難しいものか、オーストラリア国歌選定の推移を見てよくわかると思う。
土着の古代の音楽以外、一貫して西洋音楽を行ってきたオーストラリアでさえ、その国歌選定にこれだけの永い時間と労力を必要としたのである。これが、もし日本であったらどうだろう。
現代日本では、百三十年前に流入した西洋音楽が隆盛を極めているが、その一方で、上代・中世・近世の伝統音楽が今でも息づいている。無論、自国の古い伝統音楽を大切にしている国は多い。しかし、日本のように、地層のように積み重なった多種多様な音楽を、博物館ではなく専用ホールや大劇場で日夜鑑賞している国は他にはない。
日本での音楽多層化の現状を考えると、新国歌制作の企画が、オーストラリア七十年の選定作業より難行することは必定であろう。
明治17年に伊沢修二が発表した「音楽取調成績申報書」の中にある「明治頌選定の事」を見てみよう。
「夫レ国歌ハ、其関係至大至重ノモノナルヲ以テ、我邦音楽ノ現情ニアリテハ、其資料ヲ選定スルノ難キコト殆ド云ウベカラズ。歌作高キニ勤ムレバ、社会一般ニ適シ難キ恐レアリ。低キニ着意スレバ、野鄙ニ失スルノ患イアリ。純然タル和風ニ拘泥スレバ、外交日新ノ今日ニ適セザルノ恐アリ。妄リニ外風ニ模スレバ、国歌タルノ本体ヲ謬ルノ患イアリ。歌詞ニ得ルトコロアルモ、曲調ニ欠クトコロアリ。曲調ニ得ルモ、歌詞ニ欠クトコロアリ。豈之ヲ難シト云ワザルベケンヤ」
当時と現代における「音楽の現情」は全く違うが、彼の文章は百三十年近く経た今日にもそのまま通用する内容を含んでいるといってよいだろう。
現在もし、「日本国歌制定委員会」などによって新国歌が募集され、当選作が審議される場合、
「曲の感じが難しく国民に受けないのではないか」
「曲調があまりにも低俗で、国歌としての格調が足りないのではないか」
「このような純和風の曲では世界に通用しないのではないか」
「こんな国籍不明の曲では日本の国体に相応しくないのではないか」
等々、この伊沢の文章と同じ意見が委員たちの間で交わされるのは勿論のこと、当選作発表後も、国民の間で多種多様な議論が沸き起こるに違いない。
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「君が代」は国連参加185ヶ国の国歌のなかで最も短い歌詞である。
ミソヒトモジ(三十一文字。現在では「さざれし」を「さざれ石」と字余りで歌うので三十二字となる)という少ない字数で末永く続く平和を願っている。
祝祭感はその語感にもよく表れていて、三十二字のうち、一番明るく歯切れのよい「イ音」が三分の一近い十字もあり、反対に重く低く響く「ウ音」は僅か二字しか使われていない。しかもその「ウ音」の「む」「す」は、歌の最後の句に初めて現われ、静かにうたい収めながら終始感を充実させているのである。「賀歌」としての繊細な言葉使いが見事に結実していて簡潔で無駄がない。
「巌」のように安定した国土を願う心は、そのまま現代の我々にも通じているといってよいだろう。「太平洋プレート」「フィリピンプレート」「北米プレート」「ユーラシアプレート」という四枚のプレートに乗る日本列島の下には、さらに無数の活断層がヒビ割れのように走っていて、有史以前から地震災害を繰り返し、我々の祖先も揺れ動く大地の中で肉親を、仲間を、家を、暮らしを一瞬にして失ってきたに違いない。「巌」という言葉には、国の基盤の大磐石を祈る日本人の深い願いが込められているのではないだろうか。
「君が代」の簡潔な歌詞には、他の国歌にあるような「武器」や「血潮」や「勝利」といった闘争的内容は一切なく、我々日本人の穏やかな特質を見事に象徴しているといってよいだろう。しかし、千年以上にわたって日本列島にその祝祭感を贈り届けてきた「君が代」にとって不幸だったのは、第二次大戦中、国民の戦意高揚という軍事目的に専ら使われたことであろう。その明るい祝祭感は暗い戦争体験に覆われて、我々は戦後五十年余を経た現在でもあの忌まわしい記憶を拭い切れずにいる。
願わくば、この歌が、戦争責任など負わされて忘れ去られることなく、人類の起こす争いごとの忌まわしさを子々孫々に伝えるためにこそ、幾百幾千年、この国が続くかぎり歌い継がれんことを。
内藤孝敏
1999年4月28日 東京・世田谷・経堂にて