第二の 君が代について
4・第二の君が代
明治9年、海軍軍楽隊隊長・中村祐庸が「独立国の隆栄と君主の威厳を表すには国歌は欠くべからざるもので、人情を感動せしむる音楽の効用は遥かに優るが、正しい声響に競合しない音楽にはその効能はない」と断じて、さらにフェントンの「君が代」は日本人の声にあわず、聞いていても何の音楽かよくわからない。あれで天皇を崇敬する儀礼の主意を失することになると 真っ向から批判し、フェントン氏は帰国の期が近く校正の暇がないから、改訂委員会の手で「君が代」の音楽を修正することを提案したのである。
中村はこのとき24才、21才の時初代海軍軍楽隊隊長に選ばれたほどだから、その音楽性もさることながら人格的にも優れた人物だったと考えられる。
その中村が「第一の君が代」に対してこんな強硬な意見を持ったのも、彼がその曲を演奏する当事者だったからであろう。
この上申書は各方面に好意をもって迎えられたが、時期が悪く懸案事項となった。世情安定せず、 翌年、西南戦争が起こったため、改訂作業は進展しなかったのである。
約半年続いた戦闘は官軍有利のうちに進み、西郷隆盛が壮絶な自刃を遂げて西南戦争は終わったのである。
この年、フェントンは任期満了のためイギリスに帰国する。翌明治11年、海軍軍楽隊は様式をイギリス式からドイツ式に改めることになった。
明治12 年春、ドイツから音楽教師フランツ・エッケルトが来日する。
彼の評判は非常によかった。彼に対する関係者の信頼が非常に厚いものとなったことは、当初二年契約であった彼の任期が結局21年という長期にわたるものとなったことでもわかる。
昭和天皇ご大葬のときに演奏された「哀しみの極み」は彼の明治30年 英照皇太后崩御の時の作品である。
そのエッケルトが来日した頃、ちょうど懸案であった国歌作成に関わることになったのは当然の成りゆきといってよいだろう。
明治13年1月、海軍省から宮内省に対して、正式に 新「君が代」の作曲が依頼された。
半年後の6 月、宮内省から海軍省に数種の楽譜が届けられたが、応募作品の数、応募者氏名などは明らかにされていない。そして7月、楽曲改訂委員に任命された海軍軍楽隊長・中村祐庸、陸軍軍楽隊長・四元義豊、宮内省一等伶人・林広守、海軍省雇教師・エッケルトの四人によって審査が行われた。
新国歌「君が代」に選ばれたのは林広守の曲であった。
第二の君が代の原作を聴く
楽譜を見ながら歌ってみよう。他の多くの国歌に見られるようなマーチ風リズムもなければ高まる興奮もない。決して愛国心をいたずらにあおるような音楽ではなく、その点に不満を持つ人もいるのも確かに頷ける。
しかし、「キミガ/ヨハ/チヨニ/ヤチヨニ/サザレ/イシノ/イワオト/ナリテ/コケノ/ムス/マデ」
という2小節単位の旋律が言葉に完全に一致して、静かだが実に豊かな旋律になっている。
第一の君が代のように「キミ/ガヨ/ハチ/ヨニ/ヤチ/ヨニ/サザ/レ/イシ/ノイワ/オト/ナリ/テコケ/ノム/スマ/デ」といった不自然な言葉のズレは見られないのである。
この歌は「律音階」という五音音階で作られている。
西洋式に言うと「レミソラシ」の五音である。
さて、エッケルトは早速、この歌に和声を付け、さらに、ピアノ用の伴奏譜と吹奏楽譜を作った。
第二の君が代を聞く
この曲の最初と最後は伴奏もユニゾンで演奏され、和声は一切つけられていない。
それについてエッケルトは、
日本の国体を考えるならば「君が代」の発声たる「きみがよ」の部分は男子たると女子たると日本人たると外国人たるを問わず、二人でも三人でも十人でも百人でも、たとえ千万人集まって歌おうとも、いかほど多数の異なった楽器で合奏するにしても、単一の音をもってしたい。ここに複雑な音を入れることは、声は和しても何となく面白くない。日本の国体にあわぬような気がする。それゆえ「きみがよは」の発声にはわざと和声をつけぬことにした。発声につけぬから結びにもつけぬほうがよろしい。
と語っている。
このセンス! すばらしいと思いませんか?
元来、日本伝統音楽に和声などあったためしがないのだから、エッケルトがうまくカモフラージュしていることは確かである。この音階の中で使用可能な和音を総てバランスよく使って、しかも西洋和声法からみても不自然なところが全くない。この「第二の君が代」はエッケルトの和声を得て初めて、和・洋の音楽が合体した素晴らしい作品になったのである。
明治13年11月3日、天長節御宴会において、宮内省雅楽部吹奏楽員による新国家「君が代」の初演奏が行われた。評判は上々であった。
ここで、作曲者 林広守であるが 実は広守の長男、林広季と友人の奥好義が共同で作曲したのではないか という話がある。
二人は当時若手の雅楽員で、奥は後に音楽取調掛を経て高等師範学校教授になった人である。
その奥の晩年の談話によると
「林広守に命じられて「君が代」の歌に譜を付けただけで、それが国歌であるとは知らなかった。作譜をしたのは当直の晩で、牛込御門内稽古場で林広季と相談しながら作曲をした。複数の者が作曲に当たった場合、その作品に上級者が代表者として記名し、個人の作品とはしない。それが楽部の慣例である。」
と言っている。
林広守は非常に優秀で忙しい人で、作曲の依頼は一曲だけではなかったかもしれない。
その中の一曲を弟子たちにまかせたことは十分考えられることではないだろうか。
そして、最終的に確認をし、あるいは手を加えて自分の名を付して提出したことは自然な成りゆきだろう。
君が代は当初、雅楽のスタイルで作曲されたらしい。
依頼も選考もそもそも外部に公表せずに行われたものである。
歌詞も「読み人しらす」であり、同じように作曲もまた「作り人しらす」であることは歓迎すべきことで、全ての国民が歌う国歌として、その「無名性」は、むしろ高く評価すべきことであると関係者たちは考えたのかもしれない。
選考委員に応募者である本人が入っているのも疑問が残るところである。
いくつかの疑問は残るものの,現在、宮内庁に保管されているエッケルト自筆の楽譜に1880.10.25という日付が明記されていることから、第二の君が代がこの日に完成したことは間違いない事実である。
明治21年、海軍省は吹奏楽用の楽譜を印刷して、諸官庁および条約諸外国に対して公式に配布した。
表紙には「大日本礼式」と横書きされ、その下には菊花御紋章、標題の「JAPANISCHE HYMNE」、日本古来の民謡によるという意味の「nach einer altjapanischer Melodie」作曲者氏名と所属である「von F.ECKERT,Kongl.Pr.Musikdirektor」などが印刷され、一番下には作曲年「1888」が印刷されている。
「第二の君が代」はこのような経過をたどり、その結果は上々であった。
しかし、国歌に制定されたという公的機関の記録は全くない。
この楽譜改訂は常に海軍の主導のもとで行われたが、当時の海軍と陸軍の確執などがあり、文部省や他の省庁思惑も加わって、国歌正式決定を難ししたのかもしれない。
しかし、海軍省蔵の楽譜には「国歌 君が代」と明確に記載され、海軍省公式配布の楽譜にも「JAPANISCHE HYMNE」と大書してあることから、明治中期以降、関係各方面が「第二の君が代」を国歌として認知していたと考えてよいだろう。
では なぜ「第二の君が代」が国歌にならなかったのか?
それは とんでもない横槍が入ったのである。「第三の君が代」である。
日本人の日本人たる性格、派閥、立場。 これは現在も変わることなく受け継がれている。
ああ なんと嘆かわしい!!!
「第三の君が代」は文部省によって作られた。
文部省の言い分はこうである。
明治13年に初演奏された「第二の君が代」は海軍省と宮内省が共同して作ったものであり、法的裏付けもなく、単なる天皇奉祝の歌にすぎない。
国歌制定はそもそも音楽専門家を擁している我々の行うべき業務であり、海軍省などの関与するべきことではない。
という文部省の対抗心と国歌制定の名誉を宮内省雅楽課に渡したくないという音楽取調掛の功名心が重なっていた。
その結果、もう一つ「君が代」が生まれた。第三の君が代である。
続く
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