一人の男が、夜の山道を歩いていた。
雲が気まぐれに開けた隙間からささやかに零れ落ちる月光が、かろうじて足元を照らしている。
遠くで獣の遠吠えがして、男は身をぶるりと震わせた。
これが人間の作った街の中あたりなら、髭面で大柄な男こそが、他者に何もしなくても恐れられる存在だろう。
腰に大振りの山刀をぶち込み、全身から暴力の気配を立ち上らせていれば、なおさらだ。
男は盗賊だった。
足を速める男の両腕の中には、白い塊があった。
絹でできた上質な産着で、それに包まれているのは、すやすやと寝息を立てる赤子だ。
「お前も、可哀想な奴だなあ」
夜道を行く不安をごまかすため、男が赤ん坊の福々とした頬に目を落としながらつぶやいた。
この赤ん坊を、殺せ。遺体が見つからないように。
男は、ある貴族からそう頼まれていた。
貴族と盗賊、というとまったく接点がないようだが、この国においてはそうではない。
享楽にふけり、特権を振りかざす貴族は、それだけでは飽き足らず非合法な世界にも影響力を伸ばす――そんなことが、当たり前の時代だった。
男は特定の貴族の下につき、敵対する貴族の領地の村々を襲うような仕事を、十数年続けている。
貴族からの信頼も上々だ(所詮、使い勝手の良い猟犬程度の扱いだが)。
そんな非道にどっぷりと頭までつかった男でさえ、今回の仕事は気が滅入るものだった。
「おまんまが食えないからって、泣く泣く我が子を手放す連中だって珍しくないのに、欲しいままに贅沢できる貴族様が子を殺せ、とはねえ」
悪政、旱魃、不景気。どれかひとつでも庶民の暮らしを簡単に破壊する魔物だ。その魔物が同時やってきたのだから、国中の農村や都市では飢えと犯罪が横行していた。
三年ほど前の国王交替も何の変化ももたらさなかった。むしろ待望の国王第一子が死産となったために、国の雰囲気をさらに停滞させたぐらい。
やがて男の足が止まった。山道の先――崖にたどりついたのだ。
見下ろす崖下には、ひときわ濃い闇がわだかまっている。落ちれば、地獄の底までいってしまうのではないか、と想像した男が思わず一歩下がる。
「……」
男は、ちらっと赤ん坊の顔を見た。後はこのまま両腕を振り上げて、産着ごと投げ落とすだけ。
そのまま大地に叩きつけられれば小さな命は砕けちる。後は通りかかった獣あるいは妖魔の類が、骨も残さず食ってしまうだろう。
だが何の偶然か。赤ん坊が目を覚まし、ぐずるように小さな手を動かした。
赤ん坊の手が、僅かに髭に包まれた顎に触れる。その意外なほど確かな柔らかさと体温が、男の目を大きく見開かせた。
この子は、生きている。
そんな当たり前の事を皮膚で感じ取った男は、迷うような唸り声を上げた。
それが耳障りなのか、赤ん坊はぐずるように手をばたつかせる。
「何をいまさら……」
男は横暴な領主の重税に抗議した村に、見せしめのために火を放ったことがある。そんな時には、この子のような赤ん坊を当然に巻き込んだことだろう。
ふとした拍子に自分の胸に湧き上ったものに、男自身が戸惑っていた。
この大陸でもっとも広く信仰されているロヒート神の経典には、
『いかなる善人の心にも、悪の芽あり。いかなる悪人の心にも、善の熾火あり』
という一節がある。
男の中に生まれたものは、悪人の中にも眠っていた善心のかすかな残り火だったのだろうか。
だが男が仕事を成さなければ、貴族から追っ手が放たれて男と赤ん坊が殺されるだけ。
第一、赤ん坊の育て方などまったく知らない。
「……そうだ、あいつらなら」
寒風にさらされながら、しばらく頭を悩ませていた男が、ふとある案を思いついた。
いっそ、育てられそうな連中にやってしまえばいい。
『あいつら』も世間様からみればまっとうとは言い難かったが、少なくとも赤ん坊を無慈悲に殺したりすることはあるまい。
「俺なんかといるよりは、よっぽどマシだろうな」
男はつぶやくと、赤ん坊を宝物のように抱えなおし、来た道を戻っていった。