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[25316] 【習作】山少年の街の日々【オリジナルFT】
Name: 参月◆ab5af9c4 ID:91c90832
Date: 2011/01/08 14:09
一応ファンタジーっぽいつもりのオリジナルです。

注意事項
・ブラウザで読みやすいような改行はしていません。専用ツール等の活用を推奨いたします

希望として、

・きちん読み手に情景や動きが伝わっているか
・小説としての体をなしているか

あたりの感想をいただけると幸いです。



[25316] プロローグ
Name: 参月◆ab5af9c4 ID:91c90832
Date: 2011/01/09 11:46
 一人の男が、夜の山道を歩いていた。
 雲が気まぐれに開けた隙間からささやかに零れ落ちる月光が、かろうじて足元を照らしている。
 遠くで獣の遠吠えがして、男は身をぶるりと震わせた。
 これが人間の作った街の中あたりなら、髭面で大柄な男こそが、他者に何もしなくても恐れられる存在だろう。
 腰に大振りの山刀をぶち込み、全身から暴力の気配を立ち上らせていれば、なおさらだ。
 男は盗賊だった。
 足を速める男の両腕の中には、白い塊があった。
 絹でできた上質な産着で、それに包まれているのは、すやすやと寝息を立てる赤子だ。
「お前も、可哀想な奴だなあ」
 夜道を行く不安をごまかすため、男が赤ん坊の福々とした頬に目を落としながらつぶやいた。
 この赤ん坊を、殺せ。遺体が見つからないように。
 男は、ある貴族からそう頼まれていた。
 貴族と盗賊、というとまったく接点がないようだが、この国においてはそうではない。
 享楽にふけり、特権を振りかざす貴族は、それだけでは飽き足らず非合法な世界にも影響力を伸ばす――そんなことが、当たり前の時代だった。
 男は特定の貴族の下につき、敵対する貴族の領地の村々を襲うような仕事を、十数年続けている。
 貴族からの信頼も上々だ(所詮、使い勝手の良い猟犬程度の扱いだが)。
 そんな非道にどっぷりと頭までつかった男でさえ、今回の仕事は気が滅入るものだった。
「おまんまが食えないからって、泣く泣く我が子を手放す連中だって珍しくないのに、欲しいままに贅沢できる貴族様が子を殺せ、とはねえ」
 悪政、旱魃、不景気。どれかひとつでも庶民の暮らしを簡単に破壊する魔物だ。その魔物が同時やってきたのだから、国中の農村や都市では飢えと犯罪が横行していた。
 三年ほど前の国王交替も何の変化ももたらさなかった。むしろ待望の国王第一子が死産となったために、国の雰囲気をさらに停滞させたぐらい。
 やがて男の足が止まった。山道の先――崖にたどりついたのだ。
 見下ろす崖下には、ひときわ濃い闇がわだかまっている。落ちれば、地獄の底までいってしまうのではないか、と想像した男が思わず一歩下がる。
「……」
 男は、ちらっと赤ん坊の顔を見た。後はこのまま両腕を振り上げて、産着ごと投げ落とすだけ。
 そのまま大地に叩きつけられれば小さな命は砕けちる。後は通りかかった獣あるいは妖魔の類が、骨も残さず食ってしまうだろう。
 だが何の偶然か。赤ん坊が目を覚まし、ぐずるように小さな手を動かした。
 赤ん坊の手が、僅かに髭に包まれた顎に触れる。その意外なほど確かな柔らかさと体温が、男の目を大きく見開かせた。
 この子は、生きている。
 そんな当たり前の事を皮膚で感じ取った男は、迷うような唸り声を上げた。
 それが耳障りなのか、赤ん坊はぐずるように手をばたつかせる。
「何をいまさら……」
 男は横暴な領主の重税に抗議した村に、見せしめのために火を放ったことがある。そんな時には、この子のような赤ん坊を当然に巻き込んだことだろう。
 ふとした拍子に自分の胸に湧き上ったものに、男自身が戸惑っていた。
 この大陸でもっとも広く信仰されているロヒート神の経典には、
『いかなる善人の心にも、悪の芽あり。いかなる悪人の心にも、善の熾火あり』
 という一節がある。
 男の中に生まれたものは、悪人の中にも眠っていた善心のかすかな残り火だったのだろうか。
 だが男が仕事を成さなければ、貴族から追っ手が放たれて男と赤ん坊が殺されるだけ。
 第一、赤ん坊の育て方などまったく知らない。
「……そうだ、あいつらなら」
 寒風にさらされながら、しばらく頭を悩ませていた男が、ふとある案を思いついた。
 いっそ、育てられそうな連中にやってしまえばいい。
 『あいつら』も世間様からみればまっとうとは言い難かったが、少なくとも赤ん坊を無慈悲に殺したりすることはあるまい。
「俺なんかといるよりは、よっぽどマシだろうな」
 男はつぶやくと、赤ん坊を宝物のように抱えなおし、来た道を戻っていった。



[25316] 1
Name: 参月◆ab5af9c4 ID:91c90832
Date: 2011/01/08 14:11
 リメディス山を駆ける風は、冬の残滓を吹き飛ばしながら、春の芽吹きの香りを運ぶ。雪解けを待ちかねた草花が、なごり雪を割って山肌を緑で飾り始める季節。
 が、その盆地だけは季節が夏に飛んだような熱気に支配されていた。
 陽光に照らされながら、一人の人間と一匹の獣が睨み合っている。
 人間は十五歳ぐらいの少年。均整の取れた体を、灰色の衣服で包んでいた。
 獣は、真っ白な毛並みの虎。子牛ほどの大きさがあった。
 大自然の摂理からすれば、人間という卑小な存在はより強い肉食獣の餌でしかない。
 そして、少年の手にはその決まりを覆す知恵の結晶・武器らしきものはない。素手だ。
 しかし少年は、短めの髪の下から覗く新緑のような色の目を大きく開き、両足の爪先を虎に向けて、両拳を胸の高さで構えている。顔に痛みや死への恐怖は一片もなく、戦う姿勢。
 虎は、頭を低くしている。そのたわめられた太い四肢はがっしりと土を掴み、今にも弾けそうなほど筋肉を膨らませていた。
 普通なら、虎が生意気な獲物の頭でも噛み千切り、数秒でつくはずの勝負。
 だが少年も虎も動かない。
 一人と一匹が作り物ではない証拠に、少年の日焼けした肌には汗がうっすらと浮かび、虎の口元から白い呼気が漏れる。
 双方が放つ気迫が、周囲の気温を上げるほどにぶつかりあっていた。
 動きは、唐突に生まれた。
「はあっ!」
 少年が、虎との間にあった距離を低い跳躍で埋めると、拳を鋭く突き出した。
 人間の華奢な拳では、虎の固い骨格に直撃しても打撃になるどころか、逆に手の骨が折れてしまいかねない。
 そのはずだったが、虎は大袈裟にも見える動きで後方に飛び跳ねて避ける。
 少年の拳を虎の代わりに受けた土が、爆発したように抉れた。鉄甲をつけて地面を突いても、これほどは出まいというほどの威力が、その手には篭められていた。
「よけるなっ!」
 この年頃の男子としてはやや甲高い声を上げながら、少年は拳を引き抜くと虎を追う。低い姿勢で再び地を蹴る動きは、野生の肉食獣にも劣らない機敏さだった。
 虎が『馬鹿をいうな』とばかりに唸りながら、前足を振り上げ、風さえ引き裂くような速度で降ろす。
 大木さえ一撃でへし折りそうな虎の一撃を、少年は両腕をかざして受け止める。その足が重圧を受けて土にめり込む。
 力比べの形になるが、体重や筋力ではるかに劣るはずの少年は、虎のかけてくる力に抗し続けている。
 少年の体に、普通の体力以外の何かが宿り支えているのだ。
 しばらく押し合いが続き、少年の頬が紅潮して呼吸が乱れていく。やはり体重差はいかんともしがたく、虎に押し込まれると見えた刹那。
 ふっと少年が後ろへ引いた。
 突然に支えを失った虎は、体勢を崩す。その前足が、数瞬前まで少年がいた地面を叩き、土埃をあげた。
「もらった!」
 少年が拳を振り上げ、無防備になった虎の頭目がけて叩き込もうとする。
 だが、虎は予想外の動きを見せた。
 本能的に勢いを殺そうと動きを止める――それが野生動物らしい動きのはずなのに、この虎はしなやかな筋肉を弾ませて前転する。背中から少年にのしかかりにいった。
「のっ!?」
 少年の視界が、新雪より白い体毛に塞がれる。咄嗟に後ろに飛ぼうとする少年の頭上に、巨大な影が落ちた。
 巨体の下敷きになった少年は、むぎゅっという間の抜けた声を出し、手足をばたつかせる。
 天に腹を向けた虎が体をよじると、仰向けに倒れた少年の全身が土にめり込でいく。
 たまらない、というように少年の手が虎の体を二度叩いた。
 虎は、くるりと一転して体を起こすと、苦しそうに呼吸する少年に顔を近づける。鶏でも丸呑みできそうな口が、大きく開き牙が陽光を受けて不気味に輝き――
 べろん、と虎の大きな舌が汗まみれの少年の顔を舐めた。そのまま猫が主人にじゃれつくように、前足で少年の肩を叩く。爪は引っ込んだままだった。
「また負けたな。このところ連敗続きだ」
 顔中を、獣臭い唾液まみれにされながら少年は悔しそうに顔をしかめた。それでも手を伸ばし、虎の首筋を撫でていく。
 闘争の気配など、もう陽炎のように消え去っていた。虎の獰猛な体躯さえなければ、一人と一匹の親密さを疑うものはいないだろう。
「おう、やってるな」
 しばらく少年達がじゃれあっていると、若い男の笑みを含んだ声がした。
 いつの間に現れたのか、少年と同じような服を着た男が立っている。
「あ、シーク師兄」
 少年は虎から身を話すと立ち上がり、頭を下げた。
 虎もお座りの姿勢になると挨拶するように低く鳴く。
 師兄、と呼ばれたのは人のよさそうな小太りの若者で、その肩には鍬を担いでいた。
「そろそろお昼だぞ。ティオもホーワも汚れを落として、寺院に戻ったらどうだ?」
 はい、と返事をした少年がティオで、「わふ」と犬と勘違いされるような声を上げた虎がホーワ。
「師兄は?」
「俺は、この辺りをもう一回りしてくるよ。少し、畑を広げたいからな」
 ティオの問いに答えると、シークは腹をゆすって歩き出した。
 それを見送ってから、ティオは自分の服を改めた。格闘したりじゃれあったりしたせいで、泥だらけだ。
「じゃ、帰るか」
 ティオが足を進めると、ホーワが当たり前のようにその後ろに続いていく。
「それにしても、ホーワにすっかり勝てなくなったな。お前は、本当に霊獣になるのかもしれないなあ」
 悔しさをかすかににじませて、ティオが言った。
 渡り鳥らしい灰色の翼をもった影が、少年達のはるか頭上を飛び越していく。山のところどころにある木々の隙間から、リス達が顔を出してはすぐに消える。
 自然の息吹が満ちる山だが、確実に人の手が入っていると思わせる場所があった。
 ティオ達が行く山道がそうだし、その先にある建物も。
 巨大な、城砦だ。
 一体何百年の時の重みに耐えたのか。外壁となる石積も、天に向かって聳え立つ無骨な構造物も、今にも崩れそうなほどざらついた表面を晒している。
 だが、その門前に立ったティオとホーワは、慣れた調子で開け放たれた城門をくぐった。
 中に入ると、まず前庭に出る。土はむき出しだが、丁寧に平らにされており雑草などは一本も見当たらない。ここで生活する者達が、手入れを欠かさないからだ。
 馬が二十頭ぐらいまとめて走れるような庭には、十人ほどの人間がいた。
 共通するのは、ティオと同じような粗末な格好だということぐらい。人種も年代もばらばらの男女が、思い思いに過ごしていた動かしていた。
 石壁に向かって立ち、瞑想するように目を閉じる老人。二人一組になり、汗みずくになって格闘技の技をかけあう若い男達。座り込み、農具の手入れをする中年女性。
 それら一人一人に目礼しながら、ティオは庭の隅にある井戸に向かう。
 虎の姿を見ても、驚く者はいない。
 ここが、寺院だった。
 と、いっても特定の神を信仰する場ではない。
 元々、ここは歴史書にも残らない古い時代に立てられた砦だった、と言い伝えられている。
 人知を超えた妖魔・悪鬼の類が地にあふれ、人を襲っていた時に、文字通り最後の砦として使われたという。
 逃げ込んだ人々は、攻めてくる妖魔相手に必死の戦いを繰り広げたが消耗し、やがて武器という武器が失われ、投げる石さえ尽きるほどおいつめられる。
 その時、勝利を諦めきれないある男が素手で魔物に立ち向かった。当然、簡単に殺された。
 それを見ていた別の男が、絶望と恐怖をこらえて後に続いた。一撃、拳を鬼に叩き込んで殺された。
 別の者がそれに続き――やがて、一人の男が生死の狭間で繰り出した打突が、妖魔の一匹を撃破する。
 この世界における拳法の発祥が、まさにその時だと言われていた。
 人々は、より効果的な己の体の使い方を学習・体系化し、失われた武器に代わる新たな力としたのだ。
 拳法を扱う者の中からは、天地自然や命に満ちる力……気を操る能力を得たり、妖魔から不可思議な技を盗んだりして、小山のような怪物とも生身で遣り合える超人的な達人さえ生まれた、といわれる。
 やがて、妖魔達による災禍は地上から去っていった。なぜそうなったかは、各国の伝承に整合性がなく(大抵は、自国の建国主の祖先が蓋世の英雄で、魔物の親玉を退治したことになっている)正確なことはわからない。
 やがて使命を終えた城砦から、多くの人々は去っていった。
 それでもこの地で戦った者達への畏敬の念は残り、城砦一帯は世俗の法律や習慣を適用されない『禁域』として長らく特別視されている。
 拳法についても、得られる力よりもその過程で必要とされる心身の鍛錬が重視され、自己修行の面を強くして細々とだが伝えられていた。
 現在では山の麓に広がる下界において人生に悩み、あるいは世俗に嫌気が差した人々が己の心を見つめ直したり、厳しい鍛錬に励むための場所として存在していた。
 寺院と呼ばれるのはそのためだ。
 無論、ひたすら強さを求めて拳法を学ぶ者もいる。
「よいしょっと」
 ティオは、井戸から水をなみなみとたたえた釣瓶を引き上げ、まずホーワに浴びせかけた。
 冷たい水を浴びた白い虎は、別に暴れだしたりもせず絹のような光沢の毛皮を震わせ、汚れとともに水しぶきを飛ばす。
 ついでティオは汚れた自分の上衣を脱いで頭から水をかぶろうとする。
 と、後ろから声がかかった。
「ティオ、すぐにきれいにして着替えて、師匠のところへお行き」
 きつい女性の声だったが、相手は生まれた直後からの顔見知りの相手だ。
 ティオはおびえた様子もなく振り返ると、立っていた女に小首を傾げて見せた。
「師匠が?」
「そう。奥の応接間。今日は勉強の時間は夜にするから」
 本当なら、体をきれいにした後はマーダの授業が待っているはずだった。
「ああ……それと、ホーワ、あんたはついていったら駄目だからね。お客様がいるんだから」
 でっぷりと肥えた女性は、虎に恐れる色も無く言いつけると、さっさと離れていく。一見すれば太った不摂生な中年女だが、その足取りは地面を滑るように軽やかだ。
「なんだろう?」
 ティオは首をかしげた。今の女性は、シークの母親でありこの寺院を維持している一族の当主・マーダ。
 来る者は拒まず、去る者は追わずの寺院だが、人間の集まるである以上は最低限の組織と規律というものがある。
 マーダ親子は寺院の維持が仕事で、畑を耕したり麓の人々からの寄進を管理したりしている。もちろん、修行に来た者もそれを手伝う。
 管理者が世襲なのに対して、古くから伝わる拳法を伝承していくのは先代から実力と人格を認められた修行者だ。それは師匠、とそっけなく呼ばれた。
 人間の言葉がわかるホーワは、不機嫌そうに尻尾を揺らしている。ただの虎ではなく、高い知性があり歳を経ればこの世の妙理を悟って神に変じるといわれる、霊獣・白虎なのだ。
 ティオは、急いで水をかぶりはじめた。思ったより冷たい水に、体が震えた。


「失礼いたします」
 寺院の中でも応接間として使われている部屋に、挨拶をしながらティオは足を踏み入れた。
 応接間といっても、古いテーブルと硬い椅子があるだけの殺風景な石部屋だ。窓からは、太陽の光がゆっくりとふりそそいでいる。
「お、きたか」
 椅子に座った男が、軽く手を上げた。短く刈り込んだ赤髪に、骨付き肉でも簡単に咀嚼できそうな頑丈な顎。師匠、と呼ばれるにはまだ若いと思える三十代のその者が、ティオやシークの先生でもあるハクオだった。
 そのハクオと相対しているのは、髪が真っ白な老人。若い頃に寺院に修行に来ていたという人で、ティオも何度か話をしたことがある。
「お久しぶりです、リセさん」
 記憶を探ってティオが頭を下げると、好々爺という表現がぴったりの笑顔をリセは作る。
「前からそうでしたが、礼儀正しい子だ。これなら街に下りても大丈夫でしょう」
 リセの言葉に、ティオは顔を上げながら目をぱちくりさせた。
 この世界には寺院だけではなく、人がたくさん集まって暮らす街や村といったものが存在することは、マーダやシークから教えられていた。
 山を駆け回って遊んだり修行したりする間に、家畜を育てる農民や、列を組んで交易にいく商人を遠くから見かけたこともある。
 だが寺院全体は下界とは一線を引いており、たとえばどうしても必要な薬を得るためとかでもない限り、人を遣るということはなかった。
 そしてティオは、山と寺院の暮らし以外ほとんど体験したことがない。物心つく前から、ここにいたのだ。
「師匠、街というのは?」
 何か嫌な予感がして、ティオはハクオに視線を向ける。
 ハクオは、厳しい拳法の先生だった。シークや他の修行者達に混じって小さな体を必死に動かすティオに、大人並の鍛錬を課した。
 だが、修練の時間が終われば気のよい兄貴、といった物腰で若くして師匠の称号を得ても、えらぶったところがない。
 だから、この時もティオの問いにあっさりと答えた。
「お前、街に降りろ。必要なことはやってやるから、これからは下界で暮らすんだ」
「え!?」
 いきなりの言葉に、ティオは絶句した。
 今まで、街など別世界の遠い存在ぐらいにしか思っていなかったのだ。
 呆然とするティオに、さらにハクオは言葉を投げ続ける。
「前々から、皆と相談して考えてたことだ。ティオは、自分からここに来たわけじゃない。一生をこのまま過ごすのは、良くない」
 寺院は、管理者の一族を除けば自ら進んで俗界を捨て、何らかの悩みと向き合ったり、拳に一生を捧げたりする者達が、自分の意思でやってくる所だ。
 もちろん、リセ老人のように一区切りつけば寺院を出て行く者達もいるから、完全に隔絶するわけではないが。
「……僕が、捨て子だからですか?」
 ティオは、額に汗が浮かぶのを自覚しながら唇を動かした。
 自らの意思で、というのに該当しない理由。
 ティオは自分が寺院に捨てられていた子供だ、ということを知っていた。そのことを特に負い目にも引け目にも感じたことはない。マーダやシーク、それに他ならぬハクオが暖かく接してくれたからだ。
 修行者達も、人生に正面から向き合おうとするような真面目な者ばかりであり、子供と侮ったり馬鹿にしたりする者はいない。
 ふと寂しさを覚えたこともあるが、そんな時はホーワとじゃれあった。
 ホーワもまた、親とはぐれたか捨てられたかして、寺院の門前で弱弱しく鳴いていた赤ん坊虎だった。今では立派な成獣になっているが、当時は大人の手のひらに余る程度の毛玉のような体躯で、ティオの遊び相手にはもってこいだった。
「そうだ」
 震える少年の言葉に、ハクオはあっさりと返す。
 ティオは、ふらりとよろめいた。
 胸に湧き上がるのは、今まで感じたこともない感情――寂しさや、不安や悲しみだった。
 自分が、捨てられるのではないか、と思い込みはじめたのだ。
「師匠。私から話しましょう」
 あまりに少年への配慮が見えないので、リセが若い頃の鍛錬をうかがわせる太い掌を上げて、拳法以外は能が無い中年男を黙らせる。
 その光景だけを見れば、どうみても老人が師匠で、ハクオはいつまでたっても気の利かない弟子と誰もが思うだろう。
 老人は、下界の商人が好んで着るたっぷりとした服に包まれた体ごと、ティオに向き直る。
「まぁ、立ち話もなんだから座りなさい。おお、そうだ。これを忘れるところだった。お食べ」
 顔を青ざめさせる少年に空いている椅子を勧め、さらに懐から小さな皮袋を取り出した。
 座ったティオの掌に渡された袋の中身は、砂糖を指先大に固めたお菓子だった。山にいてはまず口にできない甘味だ。
「――ティオ。この山の麓には平原が広がり、国があって街や村があり、大勢の人々が暮らしているのは知っているね?」
 リセの言葉にうなずきながら、ティオは震える指で菓子を取り出し、ひとつ口に含んだ。
 普段なら踊りだしたくなるような甘さも、今の少年の舌には浸み込んでいかない。
「ティオは、まだまだ少年だ。たくさんの人々と接して、自分の生きていく道を決めなければならない。君がいらない子になったからではなく、そうするほうが良いからだ」
 商人らしく、リセはにこやかな口調で説明をはじめた。
 本当は、ティオをもっと早くに下界へやりたかった。だが、この国――アマーナ王国は政治が乱れていて、安心して子供を送り出せる状況ではなかった。
 王侯貴族は横暴を極め、大商人は彼らに媚びて暴利をむさぼり、人々は圧政の犠牲になるか、いっそ故郷を捨てて賊徒となるか。
 身寄りの無い子供を預かるどころか、我が子さえ人買に売りに出すような境遇の者達が大勢いた。
 そんな状況がようやく十年ほど前に変わり、安定してきたのがここ数年。
 貴族達が、自分たちの邪魔になるからと妖魔討伐を名目に追い払った人物が、配下の軍隊を連れて北の辺境から帰還したのだ。
 ティオは、その話を下界では官吏だった、という修行者から聞いたことを思い出した。
「ロディス公の改革、ですか?」
 少年の言葉を、リセは大袈裟に手を打って褒める。
「そうそう! 物知りだのう、ティオは。建国王ジルバ一世の従弟にあたり、名実ともに国家の柱石たる公の復帰で、国政が変わったのだよ」
 当時すでに七十歳を越えていたロディス公だが、その心身は若者に負けないほど壮健であり、また建国の苦労をつぶさに知る人物だった。
 国の乱れに当然のように激怒し、政治刷新を断行した。我が世の春を謳歌していた貴族達は、建国時代に生まれた老人が過酷な戦地から無事に戻るとは思っておらず、完全に虚を突かれる。
 公は、妖魔との戦いで鍛えられた兵士の力を背景に、腐敗一掃を掲げて貴族や官吏の綱紀を粛正した。同時に『権力者の不正や、飢えのためにやむなく犯罪に走った者は、自首すれば罪を減免する』と広く公布し、民力の回復を図る。
 厳しさと寛容を兼ね備えた統治によって、荒れた国内は急速な復興を見せていた。
「おかげで、我々庶民は生業を安心して営めるようになった。ティオを受け入れてくれる所も見つかったのだよ。覚えてはいないかもしれないが、ティオが幼い時に何度もお世話になった人の家だ」
 街に新たに入って暮らす、というのはこの国においては簡単なことではない。
 都市や村に住むためには、きちんとした登録が必要だ。それがなければ、領主や官吏からの庇護を受けられない仕組みなのだ。
 リセは定住地を持たない隊商の主になっており、金は相応にあるが、身元保証人になる権利を持っていない。
 最初から公的保護を求めない犯罪者や流民もいるが、ハクオ達はティオをそんな立場にしたくはなかった。
「バートンの野郎に連絡がつけば、簡単だったんだがなあ」
 ハクオが苦々しげにつぶやいた。
 ようやく、ただ放り出されるのではないと思って安心したティオは、バートンの事を思い出していた。
 ティオより十歳ほど年上で、黄金のような金髪と鋭い碧眼が印象的な精悍な若者だった。やはり修行者で、ハクオの好敵手といわれるほどの達人だったのだ。
 そしてティオにとっては、忘れられない恩人でもある。
「できるわけがないでしょう。相手は王弟殿下ですぞ。寺院内ならともかく、下界においては我々が近づくこともできない尊き御方」
 話を邪魔した挙句に、無理なことを言う師匠を、老人はじろりと睨む。
 いかに寺院が俗界の身分は一切通用せぬ、とうたっていても、本当の王族が修行に訪れたのは記録にある限りバートン唯一人。
 権力争いに嫌気が差した、とかで寺院の門を叩いたのだが、五年ほど前に理由も告げず下界に戻っていった。
 噂では、有力貴族の傀儡から脱した現国王にして兄・ジルバ三世を支えているらしい。
「……とにかく、ティオの身元を引き受けても良い、という方が見つかったのだよ……どうかね? 無理強いはしないが、下界で暮らしてはみないかね?」
 リセが締めくくると、ティオはうつむいた。
 いきなりの話の上に、街での暮らしというものにまったく想像がわかないのだ。
 ティオにとっての人生とは、拳法を身につけ、シークの畑仕事を手伝い、ホーワのように人間に友好的な動物と遊ぶことだった。
 マーダや学問のある修行者が教えてくれる勉強はちょっと退屈だが、新しい知識を得ること自体は楽しかった。
 もちろん山の暮らしは厳しく、凶暴な動物に襲われたり落石にあいかけたりしたことも、数え切れないほどある。だからといって、逃げたいとは思ったこともなかったのだ。
「心配することはねえさ。マーダさんからいろいろ勉強教わっただろ? 読み書き計算ができりゃ、下界なんぞどうとでも渡っていける」
 気楽な調子でハクオが言ったが、今度は老人も文句は言わない。
 ロディス公の改革の一環として、教育が地方の村落でも奨励されるようになっているが、国全体で見れば文字も読めない者達が大多数だ。
 寺院にある難しい書物でも、ティオは読むことができる。意味まで掴むのは、難しいが。写本や帳簿付けを手伝ったりできるだけで貴重な技能なのだ。
 ティオは、かなり前から自分のために皆が動いてくれていたことをはっきり自覚し、顔を上げた。
「わかりました、行きます。でも……」
「わかってる。どうしても水にあわなきゃ、戻って来い」
 ハクオはにっと笑ってティオが望む言葉をくれた。
 だが、ティオが安堵する暇もなく、ハクオの顔つきが厳しい師匠のものに変わった。
「ただ、どうしても注意しておかなきゃならないことがある」
 拳法修行の時と同じ、厳しい調子にティオは反射的に背筋を伸ばした。
「街へいったら拳法を使っちゃいかん。街じゃあな、虎と当たり前に格闘するような人間は、怖がられるんだ」
「えっ!?」
 ティオは緑色の目をいっぱいに開いた。
 ホーワと修行や遊び感覚でやりあうのは、ティオにとっては当然のことだったのだ。
「山じゃ、食い物を取るためや、危険な動物から身を守るために戦うのが当たり前だが、街はそうじゃない。無闇に闘うこと自体が、悪いこと――犯罪なんだ」



 街へいくよう告げられてから、三日後。
 ティオは、ゆっくりと山道を下りていく。拭いても拭いても零れる涙を拭いながら。
 寺院を出る時、ホーワは親に見捨てられる子猫でもこれほど悲しくは鳴くまい、という声を上げ続けた。
 普段は厳しく、またそっけないぐらいのマーダは、そのふくよかな体でティオを抱きしめ、元気でやるんだよと震える声でささやいてくれた。
 シークはいつもどおりの笑顔だったが、春先ではまだ貴重な果実を沢山集めてきて、途中で食べなさいと渡してくれた。
 ティオの服はいつもと同じだが、背には荷袋があり着替えや寺院にとってはなけなしの金銭が入っている。
 腰袋には、この山で取れた薬草が詰め込んであった。下界では効能があることで有名で、かなり高く売れるから、何かあったら金に換えろと言い含められていた。
「大丈夫かね?」
 先導するリセ老人の言葉に、ティオは大丈夫です、と涙声だがはっきりと答えた。
 身を引き裂かれるような、あるいは後ろ髪引かれるような思い。
 書物でしか知らない感情を、ティオは今体験していた。
 暁光に輝く山の風景を目に焼き付けようとするのだが、ぼやけてうまくいかない。
 涙を拭うティオの両手首には、先日まではなかった赤い線のような痣がうっすらと浮いていた。
 ハクオがかけた、寺院の秘術だ。本来は、悪事に拳法を使った破門者の体内の『力』の流れ――気脈を封印し拳を奪うためのもの。ティオは破門されたわけではないので、効果は低くまた本人の意思で破れる程度の効果だが。
 それは『街では闘いません』という師匠との約束の証だった。
 ティオ本人に自覚は薄いがその腕前は、ごく一般的な育ちの人間からみれば常軌を逸している域にある。体内の気を操ることで、自分の何倍もの体重がある虎と『遊べる』ぐらいだ。
 他にも、秘技のいくつかを既に身につけている。
 師匠達が危惧したのは、その力ゆえにティオが街の人々に受け入れてもらえないことだった。
「街でちゃんと、暮らしていきます」
 そう決意するティオも、送り出した人々もこの時は予想だにしていなかった。
 ティオが、街の人々――特に同年代の少年少女から、危惧とは逆方向の扱いをされることなど。



[25316] 2
Name: 参月◆ab5af9c4 ID:91c90832
Date: 2011/01/08 14:12
 リメディス山の麓で待っていたリセ老人の隊商(三十人ほど)と合流し、荷馬車の端に乗って揺られること半日。
 ティオは、目的地である都市・フェドナスへ到着していた。
「ふわ……」
 街に入る許可をもらう手続きをする間、ティオは門前で馬鹿みたいに口をあけて、視線を左右に動かして回っていた。
 フェドナスを囲む市壁は街全体をすっぽりと覆っている。壁の上には規則正しい間隔で警備の兵士達が並んでおり、外敵を威圧するように手にした槍を空へと向けていた。穂先に昼の強い太陽光が跳ね返っている。
 壁の厚みや高さでいえば、寺院のほうが上だったが。こちらは過去の遺跡ではなく、今、多くの人々の暮らしを守っている、『生きた』守りなのだ。
 ティオ達以外にも、門前では無数の人々が出入りの順番を待っている。
 髪や瞳の色合い、衣装やしゃべる言葉さえばらばらな者達だ。銀髪、紅眼、真っ黒い肌。その色の多彩さに、ティオは思わずめまいを覚えた。
 アマーナ王国がある一帯は、古来から交易の要衝であり、いろいろな民族の人達がいるというのはマーダから教えられていたが、実際に目にすると圧倒されるしかない。
「ティオ!」
 半ば自失状態にあったティオは、自分を呼ぶリセの声ではっとなる。
 都市への出入りを監視する詰め所前で手を振る老人の元へ、人とぶつからないように駆け寄った。
「この子供が、そうか?」
 皮鎧と剣で武装した兵士が、胡散臭げな瞳をティオに向ける。
 詰め所の番兵だったが、ティオは思わず息を呑んだ。
 値踏みをするような、罪人を疑うような視線を向けられたのは、生まれてはじめてだったのだ。
 マーダ達も修行者にも、そんな目をされたことはなかった。森の動物達のうち、人間を食べる獣が向けてきた殺意と生存本能にあふれたそれとも違う。
 未知の恐怖を感じ、ティオはとっさに口を動かせなかったが。
「はいはい。この者が、ティオでございます」
 リセが、如才なく横から割って入る。
 番兵はあっさりティオから視線をはずすと、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「よし、書類通りの風体だな。あとは……」
 手にした紙――百年ほど前にはるか東からもたらされ、すっかり定着した便利な道具とにらめっこする番兵にリセが身を寄せた。ティオは、老人が金貨を番兵の懐に押し込もうとしているのに気づく。
 とたん、番兵の顔が真っ赤になる。
「こら! そんなものはいらん! 他所では知らんが、ここじゃ賄賂を取った兵士は厳罰に処されるんだ!」
「え? そ、それは失礼を」
 ぺこぺこ頭を下げるリセと怒り出した番兵を交互に見やり、ティオは再び驚きに包まれた。
 賄賂というのは寺院の書物に出てきた、悪い人がもっと悪い人に言うことを聞いてもらう時に出す、不正な贈り物のこと。
 なぜリセさんがそんなものを?
 どうして嫌な感じのする番兵がそれを拒絶した?
 ティオは軽い恐慌に陥りかけ、額から玉のような汗を吹き出させる。
 そんな少年の様子に気づいた番兵は、慌てたように手を振った。
「別にお前達に意地悪をしようっていうんじゃない! この都市には、しっかりした規則があるんだ。一時滞在ならともかく、定住登録となると相応に手間がかかるもんなんだよ!」
 ティオの顔色の悪さの理由を誤解したらしい番兵は、早口で弁明じみた言葉を放つ。
 理解がおいつかないティオの肩を、ばつの悪そうな顔をしたリセが叩いた。
「すまないな、もう少し待たされるみたいだ」
「リセさん、今賄賂って……」
 ティオが泣きそうな表情を向けると、老人の表情も暗くなる。
「わかっているさ。賄賂は悪いこと、だろう? だけど、その悪いことが当たり前の場所がほとんどなんだよ、下界っていうのは」
「え……!?」
「でも、ここは違ったようだな。これなら、安心して暮らしていける。番兵が賄賂を堂々と取るようなところは、たいていろくでもない街だからね」
 悪いことが当たり前、でもここは違う。
 ティオの山育ちの頭は、ますます混乱しかけたが。それが表に出るより早く、再び番兵に呼ばれた。
「通ってよし! ほら、これが身分証だ。肌身離さず、とはいわないが街で暮らしている間は絶対なくしちゃいかんぞ」
 番兵が、ティオの掌に細かい文字や数字が刻まれた木札を押し付けた。
「この人の言うとおり、大事にするんだよ。きちんとこの街に入った、という証明だからね」
 リセの言葉に、ティオはようやくうなずく。
 だが、ティオにはその大事な木札が、不吉を運ぶ呪符のように思えてしかたがなかった。

 都市の内側に足を踏み入れたティオは、まずその広大さに驚いた。背にしたものと反対側の壁が、山育ちの優れた視力をもってしてもかすんで見える。
 ついで、鼻につく匂い。行きかう人や馬の体臭が渾然となり、強烈な刺激を与えてくる。山と違い風の流れが壁で遮られているので、篭りやすいのだ。
 敷石で舗装された大通りの両側には煉瓦造りの大小の建物が並んでいる。
「はあ……」
 リセとその一行の後ろについて大通りを進みながら、ティオは落ち着きなくあたりを見回した。
 地べたに筵を広げて声を張り上げる露天商。ほとんど喧嘩をするような声を張り上げ、品物に値をつけあう旅商人達。そして、街角に立つ番兵。どれも、山では見られない人の営み。
 フェドナスは、国有数の大都市だ。人々の熱気とともにそれを示すのが、大通りの両端に刻まれたささやかな溝――下水溝だ。初歩的とはいえ、こういう設備を持つ都市は、大陸全体で見ても決して多くはない。統治者がただ税金を住民や商人から巻き上げるだけでなく、きちんと街を整備をしている証拠だ。十数年前の暴政がはびこった時代も、賢明な領主がいてその被害を最小限に抑えたため、今や王都並に発展している。
 貴族達の遊びのため、もともとこの地にあった森を丸ごと取り込んだ区画さえ存在した。
 そんな寺院で聞いた知識を思い出しながら、ティオは目を丸くし続けていた。
「おや、おかしいな」
 先頭を進んでいたリセが、困ったような声を上げて足を止めた。
 道のど真ん中に、大人の身長より高い石碑があった。黒い表面には、都市の住人が従わなければならないもっとも基本的な決まりが刻まれている。
 ここが身元引き受け人との待ち合わせの場所らしかったのだが。
「どうしました?」
 ティオが寄って聞くと、リセはばつの悪そうな顔をする。
「いや、迎えの人が来ているはずなんだがね。見当たらないんだ」
 隊商は、街に入ったらすぐにあちこちに散り、すばやく商売に入ることになっている。時は金なり、少しの遅れで大損をするのが商売だ、と道中リセはティオに教えてくれた。
 ティオは、少し考え込んでから、
「リセさん、それに皆さん。ここまで連れてきてくださって、ありがとうございます。後は自分でなんとかします」
 と言って、隊商の一人一人に頭を下げて回った。
 リセは、迷ったように眉間に深い皺を寄せるが。彼は、部下達の生活を見なければならない隊商の主だ。
「わかった。ティオ、元気でやるんだぞ。また近くに寄ったら、会いに来るから」
 そう言うとリセは二枚の紙をティオの手に渡した。迎えに来る人の似顔絵と、世話になる家を記した都市の地図だった。
「はい、本当にありがとうございました」
 礼をいってから、ティオはリセ達を見送った。リセは、何度もこちらを振り返る。
「さて、と」
 老人達の姿が人混みに紛れて見えなくなってから、ティオは気合を入れるように、低く息を吐いた。
 寺院とは比べ物にならないほど街に住む人は多いが、その中にティオが知っている人は一人もいない。
 これからは、ここに溶け込んで生きていかなければならないのだ。
 そのためには、まず身元引き受け人になる人のところへ辿りつかなければ。
 昔、仕事のためにリメディス山の麓近くに住んでいたという人。ティオの記憶には無いが、幼児の時にも世話になったという。
 ティオは、まだリセの体温が残る紙を開こうとしたが。そのたびに、通りかかる人とぶつかりそうになって動作が中断させられる。
 ただ突っ立っているだけで邪魔になるのが、大都市の往来というものなのだ。
「……」
 山とはまったく勝手が違うことに閉口して、道の端に移動しようとしたその時。ティオの肌が嫌な視線を感じた。
 待ち伏せを習性とする獣に狙いをつけられたような感覚に似ている。
「あっ!?」
 ティオの腰に、突然強い力がかかった。次の瞬間には、ぶちっという音がして引っ張る力が消えうせる。
 誰かが腰にくくりつけた薬草袋を強引に奪っていったのだ、と理解した時には、盗人はすでに建物の間の脇道に飛び込んでいた。
 声を上げたティオに、周囲の人々は特に関心も見せない。番兵は近くにもいたが、盗られる所は見ていなかったらしく怪訝そうな顔をするだけだ。
「やられた……!」
 ティオだって、泥棒の存在ぐらいは知っている。森でいえば、他者の獲物を横取りする小ずるい獣のようなものだ。
 とっさに紙を懐にねじこみながら追いかけるが、背負った荷物やぶつかりそうになる人々、慣れない足場がティオの動きを鈍くする。
 苦労して暗い脇道に足を踏み入れた時には、盗人の姿はさらに入り組んだ路地に消えようとしていた。
 ティオは、迷わず追いかける。薬草は、餞別に貰った大事なものなのだ。気脈から発する力は制限されているが、生まれた直後から鍛えられた脚の筋力はそれでも並以上だ。
 大通りに比べれば粗末な敷石を蹴り砕く勢いで、ティオは必死になって盗人の後を追う。
 盗人――よく見れば、ティオよりさらに年若い少年は、間抜けな獲物をあざ笑おうというかのように振り返り、その顔を凍りつかせた。ティオが追いついてくるとは思っていなかったらしく、あわてて足を動かしはじめる。
 単純な速度ならティオのほうが速かったが、盗人の少年もなかなかすばしっこく、何より細い道のつながりをよく理解しているようで距離は一向につまらない。
 このまま別の道に飛び込まれたらまずい、と思ったティオは走る勢いのままに地を蹴った。そのまま、右手にあった建物の壁を蹴り、反対側の壁に飛びつく。そしてまた体が落ちる前に、課壁を蹴飛ばして反対側に移る。そうして、体を少しずつ上へともっていく。山の険しい岩場を飛び回っていたティオからすれば、簡単なことだった。
 それを繰り返して屋根に登ると、ティオは視線を下に向けた。いくら地上を動いても、頭上からなら一目瞭然だ。
 やがてティオがあきらめたと思い込んだらしい少年が足を緩めたのを確認してから、屋根を伝ってその追跡を再開した。
 ティオが上から尾行している、と気づく様子もなく少年はある空き地に入っていった。
 その先には道がない袋小路であることを確認すると、ティオはさてどうしてやろうか、と腕組みした。話し合いで返してもらうべきか、強引に奪い返すべきか。何しろ、人間から物を盗られたのは、これがはじめてなのだ。山では鳥に食べ物を奪われたら、まず諦めるしかなかった。
 落ち着いて少年を観察すると、その着ているものはつぎはぎだらけのぼろ布同然だった。まだ、ティオの山から持ってきた服のほうが見栄えがいいぐらいだ。
「うん?」
 さらに、空き地には少年を待っている者がいた。同じように、貧しい身なりの少女だった。
「アン! 盗ってきたぞ!」
 少年が、獲物を見せびらかすようにティオから奪った袋を振り、弾むような声を上げた。
 だが、少女のほうは遠目にもはっきりとわかるほど、暗い顔をしている。
「ねえ、お兄ちゃんやっぱり駄目だよ。盗られた人、きっと困ってるよ?」
 泣きそうな声に、少年の動きが一瞬だけ止まるが。すぐに、袋の中身を改めはじめた。
「……なんだこりゃ!? 雑草じゃんか!」
 少年の言葉を聞き、ティオは顔をしかめた。雑草じゃなくて薬草で、特に熱病に優れた効能があるんだぞと言ってやりたかった。
「違うよ。それはレグナっていう薬草だよ」
 地団太を踏む少年に、アンという少女が今度はあきれた声をかける。彼女のほうが、知識はあるらしい。
 兄妹。自分が捨て子であることを最近改めて認識したティオにとっては、なんとも奇妙な存在。
 だが、いつまでもやりとりを見物しているわけにもいかない。ティオが壁を伝って空き地へ降りようと決めたとき、路地裏に荒々しい足音が響いた。
 空き地へ繋がる唯一の道から、三人ほどの人影が現れる。全員、ティオより三つか四つ年上と見える男達だった。
 彼らに気づいたとたん、兄妹がそろって後ずさる。だが、空き地の唯一の出入り口は塞がれている。
「ルディ、見てたぜ? 俺達に断りもなくお仕事したら駄目だろう?」
 それが少年の名前らしい。男の一人に呼びかけられた小さな体が、びくっと震える。それでも妹をかばうように顔を上げた。
「わ、悪かったよ。でも、かあちゃんが病気なんだ。どうしても食べ物を買うお金が欲しくて……」
「そんなこと知るか。勝手に仕事したらどうなるか、わかってるだろうな?」
 男は光沢を放つ上等の衣服を着ているが、その体や声からは暴力的な雰囲気を発散させている。後ろの二人も同じだ。
 ルディの顔はもう青を通り越して白くなっている。
「もちろん、そっちの妹もただじゃすまないぜ」
 男達が、神経に触る笑い声をそろって上げた。
 湧き上がる嫌な予感に背中を突き飛ばされるようにして、ティオは考えるより先に屋根を蹴った。



「おかしいわね」
 石碑の前で、少女はつぶやいた。
 それ自体が光を放っているかのような艶やかな銀髪と、春の青空を思わせる碧眼。すっきりとした鼻立ちを備えた容貌は、きつめ一歩手前の凛々しさを漂わせている。
 十分に人目を惹きつける少女で、行きかう男達がちらちらと視線を向けるが。当人は、手にした紙に目を落として首をかしげていた。その動作にあわせて、頭の後ろでくくった銀の髪が緩やかに流れる。
 男どもが軽薄な声をかけようともしないのは、彼女が貴族の身分であることをあらわす蒼と白を基調とした長衣をまとっているからだ。その割には供らしき者の姿はないが。
 彼女は、ここで待ち人をしていた。
 両親から『昔お世話になった人の依頼で、少年を一人養育することにしたから、迎えにいってくれ』と頼まれたのだ。
 年のころは自分と同じぐらい、髪は黒で瞳は緑色。『寺院』と呼ばれる修行場で使われる灰色の服を着ている。親のいないその子が赤ん坊の時に、母親が乳を分けてやったこともあるという。
 あなたとは乳兄弟になる、幼い頃遊んだこともあるといわれても、ぴんとこない。
 それにいくら昔の縁があるからといって、どんな風に育っているかわからない人物を家に引き入れるなど無用心だと心配していた。
 娘の目からみて、両親はお人よしが過ぎるところがあり、はらはらしっぱなしだ。
 領土も財産もずるがしこい親戚に奪われた、世間様でいうところの没落貴族。
 貴族らしくないから、十数年前の暴政時代に人々を泣かせることもなければ、その後の国政改革の中で罰されることもなかったのだろうが。
 彼女は、もし来る者が悪人なら自分がなんとかする、とひそかに期していたのだ。それがただの意気込みだけでない証拠に、腰に長剣を吊っている。飾り用ではなく、殺傷能力がある実用武器だった。
 が、肝心の相手が、約束の刻限を過ぎても現れない。
 人が盛んに行きかうこの場所を待ち合わせ地点に選んだ事が、よくなかったのではないか――などと思い始めているが、親が約束してしまったものは仕方がない。
 真相は簡単だった。彼女は石碑の裏側に立っており、ティオは表側にいたのだ。目印がかえって邪魔になって、確認できなかったわけだ。
 少女が困った表情で固まりそうな顔を上げると、声をかけられた。
「おっす、オリカ。何してるの?」
 オリカと呼ばれた少女は、相手に空色の瞳を向けて、不機嫌そうに細い眉を上げた。
「レン」
 少女に歩み寄るのは、白昼堂々と貴族に話しかける資格があるとは思えない汚れた小柄な影だった。包帯のような布を頭にすっぽりまきつけ、今にも旅にでられそうな外套で全身を覆っている。最近、街の少年達の間でちょっと流行っている格好だ。
 頭布(ターバン)の下から見える顔は、黙っていれば少女と見えるぐらい整っているが、そのはしばみ色の瞳に浮かぶのは悪戯小僧特有の踊るような光だ。
「人を待っているのよ」
 オリカはため息をつきながら答えた。
「駆け落ち?」
 くすくすと笑いながら、レンが聞いてくる。
 身分に厳しい時代なら、その態度だけで打ち首になりかねないが、かつての暴政のため貴族の評価は暴落している。ましてオリカとキリは顔見知り。いまさら目くじらを立てる気にもなれない。
「そんなわけがないでしょう」
「そうだよね、相手にも選ぶ権利ってものがあるよね」
 何気なくうなずいてからオリカのこめかみに青筋が軽く浮かぶ。
 お前なんかと駆け落ちする物好きがいるか、という言葉の裏に気づいたのだ。
「それ、どういう意味?」
「べっつに~」
 あさっての方向を向くのレンの顔を、オリカは火の出そうな視線でにらみつけていたが。やがて、脱力してため息をつく。
「私はもうあきらめているけれど。人をからかってばかりいると、そのうちひどい目にあうわよ?」
 指を一本立てて、片目をつぶって説教し始めるオリカ。だが、レンのほうは汚れた外套を揺らしながら肩をすくめるだけだ。
「それで、あんたは何をしているのよ? ……悪さをしているのなら、おじ様に言いつけてやるから」
「ちょ……!? 何もしてない! 他人の悪さを止めに来てるんだよ!」
 告げ口をほのめかせると、レンは態度を一変させおびえるリスのような仕草で首を横に振りたくる。この街の子供たちのガキ大将格であるレンが、唯一苦手とするのがその父親だ。
 だが、オリカは反撃の成功を喜ぶこともなく、眉をひそめた。
「他人の悪さ?」
「そ、そうだ! オリカで遊んでいる暇はなかった!」
 自分から話しかけておいて失礼なことをいうレンに、オリカは厳しい顔つきで詰め寄った。
「何かあったの?」
「ルディっていただろ? ほら、オリカの父ちゃんに助けてもらった」
 レンはあたりを見回して、誰も聞き耳を立てていないことをわざわざ確認してから、低い声で答える。
 オリカの父親は、伝手を頼ってこの街の領主(侯爵だ)に雇われていた。娘には、役場にいて困った人達の相談に乗る仕事だ、と言っている。
 はっきりいえば、仮にも貴族のやる仕事ではない。下級……せいぜい中級官吏の役職だが、オリカの父親は毎日楽しげに勤めに出ていた。
 幼いころのオリカは、自分が御家を再興するんだと決めて、女だてらに剣を学んだりしていたが。貴族暮らしへの未練のかけらもない両親の影響を受けて、今は『外見だけは令嬢』になりつつある。
「確か、お母様が長い病で臥せっていて、食べるのに困っていた子だったわね。お父様は行方知れずで」
 ルディは、それなりに裕福なのに退屈を紛らわすために悪さをするような連中の手下になった。些少の金と引き換えに言われるままに盗みを働き、ついに番兵に捕まってしまった。
 事情が事情なので、オリカの父親が被害者と番兵に頼んで穏便に事を収めてもらったのだ。
「それが、あいつまたやる気らしいんだよ、盗み」
「え!? なんで? お父様は、困ったらうちを頼れって伝えたはずでしょう!?」
 顔をこわばらせるオリカを、レンは困ったような視線で見つめた。
「あんた、やっぱり貴族のお嬢様だね。貧乏人だって誰かのお恵みを乞うっていうのは、誇りを深く傷つけることなんだよ。オリカの親父さんが、根っからの善人だとわかっててもね」
「それは……」
「父ちゃんや母ちゃんから昔の話を聞いて、死んでも貴族に頼るかっていう平民は多いんだ」
 声変わりの遅いレンの声が、重々しくオリカの肩にのしかかる。
 だが、彼女は一呼吸するとすぐに気持ちを切り替えた。
「今は、ルディ君をみつけないと。いくらお父様がかばっても、二度目の盗みが見つかったら子供でも厳しく罰せられるわ」
 現在の王国の刑法は、犯罪者に比較的甘い。だが、甘いだけではつけあがる悪党もいるし、被害者だって納得しづらい。そのため、再犯はかなり厳しく罰せられることになっている。
「そうだよ! 今、他の奴等と手分けして探してるんだけど、なかなか……」
 レンの言葉を、石碑の反対側から上がった「あっ」という声が遮った。
 ただならぬ気配を感じて顔を見合わせた二人が石碑の反対側に顔を出すと、見慣れない少年が慌てた様子で人々をかきわけ、走っていく。彼の視線の先に、ちらっと別の少年の後姿が見えた。「あ、ルディ! ……やっちまったのか!」
 レンが眉根を寄せる。先に人混みから抜け出した少年がルディだった。
「追いかけましょう!」
 オリカが長衣の裾をたくしあげながら、走り出した。貴族の令嬢が突然に白磁のような肌の足を見せて駆けるのだから、何事かという周囲の視線が集まってしまう。
「ちょ……! ええい!」
 かえって人目を引いて事態をややこしくする危険を考えないオリカを、舌打ちするレンが追った。



[25316] 3
Name: 参月◆ab5af9c4 ID:91c90832
Date: 2011/01/09 12:01
 おびえる兄妹と、踏み出しかける男達の丁度中間にティオは降り立った。
「なっ!?」
 男の一人が、目を大きく開いた。いきなり空から少年が降ってきて、音も土埃もほとんど立てずに着地したのだから驚くのも無理はない。
「えっ……?」
 ティオの背に、ルディの戸惑った声が当たる。息を呑む気配は、妹のものか。
「な、なんだてめぇは!?」
 別の男が、ひるんだように一歩下がる。山崩れにいきなり遭遇したように、顔まで青ざめていた。
 そしてこの場にいる者達の視線を一身に引き受けたティオは――戸惑っていた。
 思わず飛び降りたものだから、何をするか決めていたわけではない。男達はいかにも危険そうな雰囲気を漂わせているし、危ない言葉を吐いていたがまだ何かティオにしたわけでもない。背後のルディはティオの大事な薬草を盗み、今も手に持っている相手だ。
 どうすればいいのかわからず、額に汗を浮かべて無言になって立ち尽くすティオを、男の一人がじっと睨んでいた。
「ははん? お前が、ルディの新しい飼い主か? だが、そいつは俺達の手下にずっと前になってるんだよ!」
「飼い主!?」
 ティオはいきなり吐きつけられた言葉と、そこにこめられた悪意に頭の中をかきまわされた。
 知識は相応に仕入れているものの、今までは年上の大人たちに面倒を見てもらうような、楽な人間関係の中にいた少年だ。言いがかりじみた台詞を受けるのも、どろどろとした悪意に炙られるのも、生まれてはじめてなのだ。
「へっ、こいつびびってやがる!」
 最初にティオと目があった男が、口の端を釣り上げた。
 ティオは、確かにおびえていた。未体験の恐怖が体中の骨を揺らして、視界がぐるぐると回り始め、頬は青ざめていく。
 人間の悪意を「蛇のよう」と表現することがあるが、ティオからすれば本物の蛇の殺気のほうが、街の人間が放つ雰囲気よりまだ澄んでいた。
 男達の粘りつくような視線にこめられた、あざけりと見下しと嘲弄の気配。ティオの喉は急速に水気を失っていく。
 不意に、男の一人が右手を挙げてティオの右肩を小突いた。
 本来のティオの実力なら、男の動きをかるくかわすことができただろう。だが、未知への恐れにすでに全身を掴まれていたため、簡単によろめいてしまう。
 それが、男達に完全な優位を確信させてしまった。
「やっちまえ!」
 男達の拳と爪先が、ティオに殺到する。
 ティオの背後から、自分達が殴られたかのような兄妹の悲鳴が上がる。
 あとは、一方的な暴力が展開された。ティオは男達の攻撃より、その顔に浮かぶ下卑な笑みに圧倒される。
 これが街? 怖い、怖い、怖い。
 ティオの精神は、激しく打ちのめされた。
 そしてティオの肉体は――無意識に動いて急所への攻撃をずらし、筋肉はしなやかな弾力を示して打撃を跳ね返す。
「……な、なんだこいつ?」
 いいように暴行に酔いしれているはずの男達の息が上がっていく。
 体に受ける衝撃が一段落したところで、ようやくティオの脳が冷静に働きはじめる。
 十年以上も過酷な山暮らしと修行で鍛えられたティオの体は、心がすくんでいても頑強さを発揮していた。男達の拳や蹴りを、簡単にはじき返す。さすがに筋肉の薄い顔あたりには痣ができているものの、ダメージらしいものは受けていない。
 ティオが男達に恐怖を感じたように、相手もまたティオに得体の知れないものを感じ始めている。
 男達の顔から喜悦が引っ込み、ひるみのさざなみが生まれ始めたのを見て、ティオはそう思った。だが、そこまでわかっても体はまだ持ち主の意思にしたがってくれない。。
 ハクオ師匠からは、闘争を禁じられているが、命の危険まで黙って甘受しろとまでは言いつけられていない。逃走でもすればいいのだが、ティオの足は地面に根を生やしたように動いてくれなかった。
 男達が、どうしようと相談するように目を合わせていると、ティオの前に小柄な影が飛び出してきた。
「や、やめて! もうやめてくれよ! この人は違うんだ!」
 ルディだった。
「盗った物は全部やるよ! な、殴るなら俺を殴ってくれ……!」
 ルディには、盗みの被害者がほかならぬ犯人である自分をかばい、無抵抗で暴力を受けているように見えていたのだろう。
 だが、ルディの体はそれこそ今にも崩れ落ちそうなほど震えている。
 未知ではない弱い獲物の登場に、男達の顔が邪な元気をみるみる取り戻していく。
 お兄ちゃん、というアンのか細い震える声がティオの背中に触れた。
「……こいつら」
 恐怖が一段落したティオの胸に湧き上がってきたのは、吐き気がするほどの不快感と怒りだった。目の前の男達が、とんでもなくいらだつ存在であることは、さすがに把握した。
 ティオの手首の赤い痣――封印の証が警告するようにわずかに発光する。ティオの体内から、強烈な力が吹き上がりつつあるのだ。
 だが、山育ちの少年が感情を爆発させるより早く、男達の背後から「ここね!」という声が上がる。
 ティオがはっとなったのと同時に、男達が吹っ飛んだ。
「な、何!?」
 あやうく男達の巻き添えを食いそうになったルディが調子の外れた声を上げる。
 この空き地の唯一の出入り口から二人の人影が走り出て、三人の男を背後から打ち据えた。ティオは、そこだけはなんとか見ることができた。
 一人は、貴族しか着用を許されていない長衣を着た少女。もう一人は、ターバンを巻き少年だか少女だか判別しづらい格好をしている。
 貴族少女の手には、鞘に収まったままの剣があった。これで、二人をほぼ一息に倒したのだ。
「やっぱりこいつらだ!」
 ターバンの人物が、一人を蹴飛ばした足を地面につけながらはしばみ色の目をすがめる。
「レン!? それに……オリカお嬢様?」
 ルディが驚いた様子でつぶやく。
 ティオは何がなんだかわからなくなり、その場にへたりこんだ。
「大丈夫ですか?」
 そんなティオの顔を、貴族服の少女が覗き込む。
 ティオは思わず息を呑んだ。同年代の、それもかなり整った少女の顔を間近で見たのは生まれてはじめて。心なしか、花の香のような心地よい匂いさえする。そして、真剣に心配される視線は、街の人間からはじめて向けられたもの。
 急に心臓が踊りだし、自身の度重なる変調に驚いたティオは思わず彼女から顔を背けてしまう。
「……あ。大丈夫。私は貴族だけど、名ばかりなの。だから、そんなに警戒しなくてもいいわ」
 寂しそうな少女の声に、ティオは慌てて弁明しようとするが――こういう時、何を言っていいのかまったくわからない。
 助け舟を出したのは、ターバンの人だった。
「オリカ、剣なんぞ持って近づいたら普通はおびえるって」
 あきれたように言われて、オリカと呼ばれた少女は頬を赤らめて後ろへ下がる。そして恥らうように剣を背中に隠す。
(あれは本物の武器じゃないのか? 街の人間って一体何なんだ?)
 少女がオリカなら、もう一人のターバンがレンという名前なのか。ティオは、落ち着こうと深呼吸しながら少しずつ情報を整理しはじめる。
 その間に、レンがうめく男の顎を爪先でしゃくった。
「おい、ずいぶん好き勝手やってくれてるみたいじゃないか? 自分が馬鹿やるだけじゃ飽き足らず、他人に盗みやらせるとはご立派なことだな、こそ泥野郎?」
 直接言葉を向けられたわけでもないティオが、思わず体をぴくんと震わせるほど迫力のこもった声だった。
 レンに睨みつけられている男は、その顔色を紙のように白くするが。それでも、もつれる舌を動かして言い返す。
「俺達が何をしようが勝手だろうが! だいたい、こそ泥はてめぇの親父だろうが、レン!」
 その言葉に激発したのは、言われた本人ではなくオリカだった。
「なんて事をいうの! レンのお父様は、自首して罪を償なったのだから、そんなことを言われる筋合いは……」
 レンは軽く手を上げてオリカを制すると、男に口元を緩めて見せた。
「間違えるな、三下。親父は、生きるために仕方なく盗みはしても、『殺さず・貧しい者からは奪わず』の戒律を守った義賊だ! そこらの木っ端と一緒にするな!」
 胸を張って言い放つレンの言葉に一番衝撃を受けたのは、ティオだった。
 泥棒の中にも、違いがあるのか!? と。
 精神的な疲労が頂点に達したティオは、目の前が真っ暗になるのを感じる。そして、その場に崩れ落ちた。



 山に積もる雪は、死を呼ぶ悪魔の使いだった。
 多くの命は寒さによって死に絶え、あるいは土の中においやられる。かろうじて極寒でも活動できる動物達は、命をつなぐため少ない獲物を奪い合う。
 五歳ぐらいのティオは、爪も牙ももたない格好の獲物だった。
 肌に針を打ち込まれたような寒さに震え泣きながらさまよううち、運悪く枯れ木ばかりの森で狼の群れの縄張りに入ってしまったため、追われていた。
 足がつりかけるほど駆けても、周囲の暗がりから聞こえてくる狼の息遣いは一向に遠のかない。頭のいい山狼は獲物を囲みわざと動き回らせ、疲れさせてから確実に仕留めるのだ。
 ティオは、それに気づかず恐怖のままに走りまわり、やがて雪に隠れていた木の根に足をとられ、転んだ。
 起き上がった時には、駆け寄ってきた狼の牙が小さな肩を切り裂いていた。赤い血が、雪を染める。
 痛みと寒さと恐怖で、ティオの小さな心と体はがんじがらめにされた。
 もうだめだ、と目をつぶることもできない。よだれをたらす狼の顔が、やけにゆっくりと近づいてくる。
 これは昔の夢だ、とティオは気付いた。薪にする枯れ枝を拾いに出て、ふとした拍子に一緒に出た者達とはぐれてしまった時の思い出だ。
 後の展開はわかっている。間一髪、金髪をなびかせた精悍な少年――バートンが助けに入ってくれるのだ。
 下界では王弟と呼ばれる身分のバートンは、この世の苦悩全てを背負っているかのような険しい表情をいつも崩さず、誰よりも熱心に修行に打ち込んでいた。話す相手といえば、当時から良くも悪くも拳法馬鹿で遠慮のないハクオぐらい。
 そんなバートンが、必死の形相で狼と自分の間に割って入った時には、助かった安堵より驚きのほうが強かった。
「大丈夫か!?」
 ティオをかばったために右肩をざっくりと割られながら、それでも呼びかけてくるバートンの端整な顔は、泥と雪に汚れていた。
 辛うじてティオがうなずくと、バートンは集まってきた二十頭ばかりの狼達に向き直る。構えるバートンの全身が、朧霞のような淡い白光に包まれた。それが、ティオの目の錯覚ではない証拠に、雪や狼の瞳にもささやかに反射する。
 とたんに狼達が、自分達より強い猛獣に出会ったように揃って飛び退った。
 人の体内を流れる命の力――気を練り込み、強力な破壊力に変える拳法の秘技だ。達人になればなるほど、気を集めた部位は強く輝く。
 しかし、得体の知れない人間の技を見ても狼達はひるまない。彼らもまた、死が支配する冬を生き抜くために懸命なのだ。すぐさま肝を凍りつかせるような咆哮を上げて、バートンに襲いかかった。
 ティオは、狼とバートンのめまぐるしい動きを、ただじっと見つめるしかなった。飛び散る血と汗は、いずれのものか。時折、獣の鳴き声があがり毛が雪の上に舞い散る。
 狂ったような獣の雄叫びが暗い空にまで響きわたるのに対して、バートンはほとんど気合も発さなかった。ただ、自分を奮い立たせるように「兄上、義姉上」とつぶやいた小さな声だけは、ティオの耳にはっきり届いた。
 やがて騒ぎを聞きつけたハクオがかけつけ、二人が戦ってティオを救ってくれた。バートンは体中に無数の傷を負ったが、最初の右肩の傷以外はいずれも軽傷で済んだ。。
 三人で寺院に戻った時、ティオは飛びついてきた子犬ぐらいの大きさだったホーワを抱いて、やっと安心してわんわん泣いた覚えがある。
 これをきっかけに、ティオは二人にあこがれて拳法修行に加わるようになり――
「むう……」
 途中から夢現は、自覚ある追憶へと変わっていた。それは、意識が現実に覚醒しつつある合図でもあった。
 ティオがまぶたを上げると、視界は鮮やかな橙色に染まっていた。夕陽が強いためだ、と気付いて目を細める。
 やがて光に目が慣れると、周囲の状態が把握できた。
 ティオは、記憶にない部屋の中にいた。天井は高く、木目が鮮やかに走っている。窓と入り口を厳重に締めれば、即座に瞑想室になる寺院の石造りの自室では無い。
 壁際には大きな窓があり、そこから落ちつつある陽の光が豊富に入り込んできていた。
 体は寝台で横になっている。ティオの体重を受け止める布団の感触はやわらかく、寺院の少ない藁をつめたものとは違うとわかった。
「そうか、ここはやっぱり街か」
 つぶやいたとたん、ティオは都市にたどり着いてからの出来事を思い出して顔をしかめた。
 街って怖い。人間って怖い。
 気を失った時のままの服に包まれた上体を起こしながら、ティオは口元を押さえる。
 その時、扉が静かに開く。ティオがそちらに視線を向けると、一人の女性が入ってきた。
 彼女はティオが起きていることに気づくと、落ち着いた足取りで寝台に歩み寄ってくる。
「気分はどう?」
 しっとりと耳にしみこんで来る女性の声に、ティオは戸惑いながらも「大丈夫です」と返答した。
 二十代後半ぐらいと見えるその人の顔は、ティオの記憶にはない。やわらかい曲線を描く頬に、花びらのように上品な唇。着ている物は丈夫なだけが取り柄の、街では野暮ったいとされる裾の長い服だが、それが清楚な雰囲気に似合っていた。
「よかった。ティオ君、ね? おばさんは、エレーナっていうのよ。覚えていないかしら?」
 おばさん、といわれてティオは思わず部屋中を見回してしまった。エレーナの自称が、その若さと不釣りあいに思えたからだ。気を落ち着けて記憶を探るが、彼女のことはいくら考えても思い出せない。
 それを素直に言うと、エレーナは気を悪くした様子もなく微笑む。
「そう、ね。まだティオ君はちっちゃかったから仕方ないわね。あなたは、私のお乳を飲んだこともあるのよ?」
「は……?」
 ティオは、ぽかんと口を開けた。
 寺院に拾われた当時の赤ん坊だったティオには、何よりも栄養が必要だった。修行者達が、わざわざ山に降りてティオに乳を分けてくれる女性を探してくれたという話は聞いていた。街で頼る先が、その時に快くティオの世話を引き受けてくれた家族だということも。
 つまり、この女性は十数年前にはもう子供を生んでいたことになる。
「それに、私の娘ともよく遊んでくれたわね。あの娘……オリカのことぐらいは、覚えていない?」
「ええと……」
 ティオは自分に乳をくれた女性については、マーダのような年齢風貌の相手をなんとなく想像していたのだが、まったく違って戸惑いをさらに深めた。
 その時、ティオの胃袋が空腹を訴える声を上げる。夕陽の中でもわかるほど赤面する少年に、エレーナはすまなそうに微笑を向けた。
「あら、ごめんなさい。そうね、まずはご飯にしましょう。立てる?」
「あ、はい。大丈夫です。あの、ここは……」
 ティオは、自分の体に空腹以外の異常がないことを確認しながら、聞いた。意識を失う前にかなり殴る蹴るをされたはずだが、まったく痛みは残っていない。
 エレーナは、うなずいて答える。
「ええ、今日からあなたのお家はここよ。オレリオン家へようこそ」
 ティオは、気を失っている間に目的地に到達したことを理解した。部屋の片隅には、山から身に着けてきた荷物が丁寧にまとめてある。あの薬草袋もあった。

 オレリオン男爵家の家――そう、屋敷ではなく家だ――は、さして広くもなく、廊下を二十歩ほど進むとすぐ食堂についた。暖かい色目の木板でできた扉をエレーナが開けると、かいだこともない豊潤な香りがティオの鼻腔をくすぐる。
 食堂にたどり着く間に聞いたところでは、行き倒れていたティオのことを親切にも通報してくれた人がいたので、近所の人の手を借りて家に運んだのだという。
「さ、遠慮なくどうぞ」
 エレーナが振り返ると、三つ編みにされた髪が軽やかに動く。夕焼けの中ではよくわからなかったが、彼女の髪は月の光を編み上げたような銀髪で、瞳は宝石さえかすむほど鮮やかな薄紫色。今日一日で多彩な髪や目の色をした人々をたくさん見たティオだが、その中でも特に天与の彩りをもった人だった。
「失礼します」
 何か落ち着かない気分……だが決して不快ではないものを感じながら、ティオは入り口で一礼してから食堂に足を踏み入れる。
「あ、お母様。それに、ティオ君ね? 『はじめまして』。私、オリカと申します。迎えに出たのだけれど、行き違いになってごめんなさいね?」
 迎えたのは、同じぐらいの年頃の少女だった。彼女に挨拶しようと頭を下げかけて、ティオは絶句してしまう。
 エレーナのものに比べてやや明るめの銀髪に、はっきり見覚えがあったからだ。
「き……」
「さあ、堅苦しい挨拶は抜きで。こちらへどうぞ」
 君はあの空き地で男をど突き倒した人じゃ!? と問おうとしたティオの言葉を封じるように、少女が不自然なまでに明るい声を上げる。
 ティオに席を勧めるように手を差し上げながら近づいてきたオリカが、小声で「空き地でのことは黙っていて。事情は後で話すから」とささやくのを、ティオははっきり聞き取る。
 街に入ってからすっかり二人連れとなった戸惑いの感情にのしかかられながら、ティオは沈黙しつつ椅子に座った。
 オリカほど大きな娘を持つとは思えないエレーナだが、やはりお母さんと呼ばれていたのだから、実年齢は見た目より上なのだろう。
「……」
 自然と目に入ったテーブルの上に並ぶ料理に、ティオの目が吸い寄せられた。寺院での食事は、修行者が食べる雑穀や山菜主体のものだ。それも、ほとんど味付けはしない。肉食は禁じられていたわけではないが、殺生は修行の妨げになると考える者が多くあまり出されなかった。
 だが、用意されていた食事は、スープがあり白パンがあり、肉がある。それらが、木製の皿に丁寧に盛り付けられていた。仮にも貴族の家の食事としては、実はかなり質素なのだが。寺院育ちから見れば、とんでもない贅沢に見える。
 特に目を引くのが、銀製のスプーンだ。毒素と反応して色を変える銀器は、街では美しさと実用性双方で重宝される、とティオは書物で得た知識を思い浮かべる。
「お父様には悪いけれど、先にいただきましょう。さ、遠慮なくどうぞ」
 ティオと対面する位置に座ったエレーナが、にっこりと笑う。
「あ、はい。いただきます」
 ティオは座ったまま一礼してから、食事に向けて両掌を合わせた。寺院では、特別な宗教や戒律を持つ修行者以外は皆やっていた、日々の糧に感謝する動作だ。
 たいして、ティオの隣に座ったオリカとエレーナは、手を組んで目を閉じている。
 アマーナ王国は多くの宗教を容認する国であり、かつ多くの民族が行き来してきた歴史があった。他者の信教風習を犯してはならないし、犯罪行為になるような危険なものを除けばそれぞれの習慣が尊重される。
 ティオはつい二人を観察してしまう。よく知ってる女性がマーダぐらいの年頃の人ばかりだったため、特に自分と同じ年代のオリカが珍しいかった。
 祈りの中にあるオリカの横顔は、白磁の肌に健康的な赤が浮いており、知らず知らず目をひきつけられる美しさがあった。それが、ティオの意識を強く刺激する。
 埋もれていた幼い頃の記憶が、ゆっくりと目を覚ましはじめた。
 記憶の鉱山から発掘した思い出という石に刻まれた台詞を、ティオはそのまま口にした。
「思い出した! 『わたしはてんかをとるのよ、あなたはそのてさきになるの』って言ってた女の子!」
 とたん、オリカが目を開いてぎょっとした風にティオのほうを向く。
「そう、いつも僕を剣術の実験台にしていた――」
 ティオの脳裏に、すっかり忘れていたはずの風景が展開された。山の麓の、吹けば飛ぶような粗末な小屋。だが、そこには明るい笑い声があり、温もりがあった。自分でも忘れていたことが不思議でしょうがないぐらい、はっきりと浮かんでくる思い出達。
「それから――」
 軽い興奮状態に陥ったティオを、女性達が見る。一人は、不思議そうに。もう一人は、白い肌を耳たぶまで真っ赤にしながら。
 ひゅっと風切り音がして、ティオの喉になにか冷たいものがあてがわれた。
「ティオ君? ご飯の時は静かにするって、育った場所で習ったことは?」
 オリカの空色の瞳の中に、雷鳴のような光がちらつく。
「え……? あ、ごめんなさい」
 対人経験の少ないティオは、『幼い頃の自分の行動や言動を目の前で言われる』ということが、床を転げまわりたいぐらい恥ずかしいことだと察せなかった。言われた通りの失敗を犯したこと思って、亀のように首をすくめようとするが、喉に当てられたスプーンのせいでそれもできない。
 ティオは不意に戦慄した。
 自分がはしゃいでいたせいもあるが、隣の少女が起こす行動にまったく気づけなかったのだ。これがナイフなら、ティオの命はあっさり彼女に握られたことになる。
「ほらほら、その辺にしなさいオリカ」
 エレーナが微苦笑を浮かべる。息子と娘の喧嘩を諌めるような、暖かさの中に少しの厳しさをくるんだ声に、オリカはしぶしぶスプーンを引いた。


 食事を終えた後、ティオはエレーナから昔のことを教えられていた。
 オレリオン男爵家は、本来は王都近辺に所領を持っていたという。この国の貴族というのは、元々は国王に自分の特権を保証してもらう代わりに、軍人あるいは官僚として仕える豪族が世襲化したものだ。それが、いつの間にか貴族が王家を圧倒し――圧倒しただけならともかく、暴走に等しい政治を繰り返したのが十数年前。王家寄りだった男爵家は、その時所領をほとんど失ったのだという。
 寺院のある山の麓にやってきたのは、僻地に引っ込めば命まではとられまい、という判断によるもの。そこで、ティオの貰い乳をしていた修行者と知り合ったそうだ。
 (拾われた日を一歳の誕生日として)四歳ぐらいになる時まで、ティオはよく男爵家を訪れていた。寺院の修行者達が、そうしたほうが健やかに育つ、と判断したらしい。
 それは、男爵家が好意的な親戚筋の貴族に落ち着き先を用意してもらい、引っ越すまで続いた。
「本当はね、そのままティオ君を引き取ろうと思っていたの。でも、貴族というのは血筋をとても大事にするから……」
 世話になる身で、出自の知れない子を連れて行けば親戚が嫌な顔をする。かといって下僕や家来扱いはしたくなかったので、寺院に残したのだという。
「はぁ……」
 ティオは、テーブルの前でエレーナの話を聞きながら、自分の人生の転機が知らないうちにあったのだと驚いていた。
 街の食事の味の良さや多彩さにもびっくりしていたので、そろそろ驚くための感情が飽和しそうだ。
「……」
 話を聞いているうちにエレーナに散々甘えた過去を思い出し、ティオは落ち着かない気分になる。抱きついたり、注意を引きたくてわざと駄々をこねたり……。
 この恥ずかしさを味合わないために、記憶は封印されていたのかと考えてしまうほどだ。
「少しはさっきの私の気持ちがわかった?」
 ティオの顔が百面相するのを見て内心を読んだらしいオリカが茶化す。
 ぐうの音もでないティオを見てくすりと笑ってから、オリカが真面目な顔つきになった。
「まあ、あなたも疲れているから仕方ないわね。早めに休んだら? お父様は、今日も遅くなるようだし」
 気がつけば、窓の外は夜の帳が下りかけている。蝋燭や油灯を使う場合は、当然ながらお金がかかるから、なるべく早く寝るのは寺院でも都市でも変わらない人々の営みだ。
「そうね、詳しい話はまた明日にでも。ティオ君のお話もたっぷり聞きたいし」
 エレーナが娘の言葉にうなずいた。
 食事の後片付けを手伝ってから、ティオはオリカに先導されて食堂を出た。
「……さて、と」
 ティオがさっき目覚めた部屋が、与えられた自室だった。寝起きするには、十分な広さがある。いくら縁があるとはいえ、他人に一部屋を簡単に与えてくれる人達への感謝に、山育ちの少年の胸は温かいものに満たされる。
 そこへ入ったオリカが、振り返ってティオに「扉を閉めて」と命じる。
 いわれた通りにすると、彼女は壁に嵌る窓に歩み寄り、開いた。
「レン、いるんでしょ?」
 オリカが外へ小声で呼びかけると、答えるように冷たい風が室内に吹き込み――ティオはとっさに頭上に視線を上げた。不意に、人の気配を感じたのだ。
 天井に張り付くように、人影がわだかまっていた。
「うっす。遅かったね二人とも」
 人影は、ひょいと身軽に床に降り立った。ティオは思わず一歩下がり、閉めたばかりの扉に背中をぶつけてしまう。
「き、君は!?」
 ターバンに外套という姿は、空き地にオリカとともに乗り込んできた人のものだった。
「……レン、勝手に家に入らないで。あと、その人を驚かせないで。一応、家のお客様だし」
 オリカが憮然とした表情で窓を閉める。
 おそらくティオ達が来る前に部屋に入り込み、気配を消して天井に隠れていた人物を見ても、オリカにおびえた様子はない。ティオは、何がなんだかわからないという思いを隠せず、口をぽかんと開いた。
 そんなティオを、レンははしばみ色の瞳に踊るような光を浮かべて観察してくる。
「顔は普通だね。でも体はかなり鍛えているみたいだなあ。それに、ボクに気づくとはなかなか鋭いね」
 遠慮のない態度に、どう答えてよいのかわからないティオは、救いを求めるようにオリカを見た。
「……レン、その辺で。この人に、空き地での事を説明しないといけないから」
「りょーかい」
 銀髪を揺らして疲れたように首を振るオリカの言葉を受けて、レンは肩をすくめた。
 ――街の人間って……わけがわからない
 心底そう思ったティオは、頭を抱えた。



[25316] 4
Name: 参月◆ab5af9c4 ID:91c90832
Date: 2011/01/09 11:24
 妖魔。あるいは魔獣。
 それは、超自然的な力を何らかの理由で得た特異な姿や能力を持つ生命体の中でも、特に人に有害なものを指す言葉。大雑把にわけて、最初から自然の理の外にあるのが妖魔、ごくありふれた動物が変じたのが魔獣と称される。
 逆に人間にとって有益あるいは無害だと、霊獣や神獣などといわれ、崇拝の対象にすらなる。
 あくまでも人の目から見た分類であり、えらい学者の中にはこの区分に異を唱える者もいるらしい。
 ともかく、この世界の住人にとっては妖魔は現実の脅威として存在する。
 たとえばロディス公が赴任していた大陸北方は妖魔達の有名な住処で、その南下を防ぐために各国が順番に兵を出すことになっている。公の派遣は露骨な国内の貴族の策謀だったが、外交上は国家が果たさなければならない義務だったのだ。この義務を遂行している国に対して戦争を仕掛けるのは、大陸の国際社会では最悪の行いとされる。アマーナが内部の乱れにもかかわらず、周辺諸国に侵略されなかったのはそのためだ。
 そして、ティオが育った山でも魔獣は時折出没した。古来から霊山といわれ、無数の修行者が心身を鍛えてきた地に流れる息吹は、人間が嫌う存在にも平等に恩恵を与えていた。
 生命の力・気それ自体は中立的な存在だ。天地自然を循環し、自らを体内に取り込んだ相手次第で、いかようにも性質を変える。
 ティオの記憶の中にある最悪の戦いは、シーク師兄の手伝いで畑の見回りをしていた時に、狼が気を得て変じた巨大な魔狼と偶然遭遇した時。
 五歳の時の経験もあって、狼に人並み以上の恐怖心を持っていたティオは、ただその赤い目で睨まれるだけで心臓が止まりそうなほどの威圧感を受けた。
 さんさんと明るい太陽の光が踊る、真昼ののどかな山の盆地に作られた田畑。それを踏みしめて、異様に四肢の太い魔狼がティオににじりよってくる光景は、今でも時折夢に見る。
 だが、そんな妖魔よりはるかに恐ろしいのが、街の人間達だった。
 ティオにとっては、妖魔の類よりも複雑奇怪な悪意を示す人間達のほうが、はるかに身をすくませる存在。
 魔狼には勇気を振り絞って立ち向かい、撃退して師匠達を驚かせることができたのに。
 街の悪者達の暴行には、逃げる意思さえ失ってしまっていた。
 単純な戦闘力、殺傷能力といったものから受けるものとは、別種の感情。それは、ティオの心に深く根を張り巡らせる。
 そんなティオが街で暮らすようになってすでに二ヶ月の時が流れていた。
「……よいしょっと」
 ティオは、学校の廊下を歩いていた。
 そう、学校。フェドナスの街には、そう呼ばれる施設が存在した。
 石造り二階建ての建物は、本来は軍隊教練用の兵営として作られたものだという。近年の政治改革の一環として教育振興が打ち出された際、領主がここを開放したのだ。先進文化を持つ外国の学校を手本として、無償で読み書き計算を十八歳ぐらいまでの子供達(都市住民として公的身分を持っている者に限る)に教える。
 クラス分けもされているが、年齢だけではなく出身身分によって所属組が割り振られる。大くわけて貴族組と平民組。
 ティオは、平民組が授業で使った四十人分の本を一人で担いでいる。右肩に二十冊、反対側に同数。本来なら、生徒一人一人が自分で学校に返却しなければならないものなのだが。
「おら、ぼさっとせずにとっとと行けよ~」
 ティオを追い越す同年代の少年が、意地悪い声を投げかける。ティオは、うつむき加減で小さくうなずくことしかできない。
 平民組の最底辺。世間でいういじめられっ子。それが、ティオがこの学校で得た位置だった。
 ――なぜこうなったのか、といえばティオが街にやってきた初日の事件が原因だ。
 ティオが気を失った後、レンはあの男達を脅し二度とルディ兄妹に手を出さないと誓わせ、さらに財布を分捕って中身を『侘び料』としてルディ達に与えた。傍から見れば、レンの行為こそが強盗じみていたが、オリカはため息をつきながらもそれを容認した。
 ティオはそれらの事情を説明され、レンの求めに応じてルディの盗みを黙ることにした。盗まれた薬草自体は戻ってきたのだし、街のことはよくわからないので、従うほうがよいと考えたからだ。
 ティオが気を失った原因も道に迷って疲れたから。散歩中のレンがたまたまそれを見つけ、オレリオン家に通報してくれた――そう辻褄をあわせた。
 それで収まらなかったのが、あの三人の男達だ。運が悪いことに、彼らはティオが通うことになった学校の最上級生だったのだ。レンやルディに仕返しできない腹いせに、ティオをどれだけ一方的に叩きのめしたか、またティオがどんなにおびえを見せていたかを吹聴して回った。
 山育ちのティオは、ただでさえ野暮ったくて話下手、と浮く要素を持っているのだからたちまち皆から下に見られるようになった。
 これに輪をかけたのが、ティオが学問においてはほとんどの生徒を追い抜いていたこと。寺院で教えられた教育は、実はかなり上等であり、古典も読めたし外国の言葉もかなり話すことができた。制度が始動したばかりであり、教師不足に悩む学校から、いっそ助教にならないかと誘われたぐらいだが。これが、同年代の少年少女から面白く思われない一因となる。
 それらに加えて。
「……ティオ君。また一人で運んでいるの?」
 廊下の反対側から、少女がティオに駆け寄ってきた。すらりとした体を貴族用の長衣に包んだオリカだ。
「あ、これは……」
 ティオが足を止めると、オリカは手伝うわといって右肩の分の本に手を伸ばした。
 近寄ってくる人物は、彼女だけではない。
「うっす。そろそろ昼飯にでも……ってまた押し付けられてるのか、ティオ?」
 ターバンを揺らしながら、軽やかな足取りでやってきたレンがあきれたように声をかけてくる。口ではそういいつつも、ティオの左肩に乗った本を半分持とうとする。
「ふ、二人ともいいよ。大丈夫だから」
 ティオは、額にじんわり汗を浮かべるが。
「気にしないで」
「遠慮するな」
 と、オリカもレンも本を取っていってしまう。
 それを見ていた周囲の少年少女が、ティオに鋭い視線を送る。そこに含まれているのは、嫉妬だ。ティオはそれを感じて、ますます汗を吹き出させる。
 オリカは貴族組だが、平民組とも気軽に話す。しかも文武両道の美少女だ。何かと皆からは注目されている。そんな彼女と、ティオは一つ屋根の下で暮らしていた。
 一方のレンは、陽性のガキ大将であり自然と皆の中心にいるような元気者。悪い上級生から守ってもらった者達も多い――学問は授業をよく欠席することもあっていまいちだが。空き地での一件での口裏あわせを承諾したティオに、「義理」を感じているらしく、何かと声をかけてくれる。
 人気者二人に揃ってかまわれ世話を焼いてもらうティオに、皆が面白い気持ちを抱くのは難しい。
 このため、ティオは余計な仕事を押し付けられたり悪口を浴びせられたり、無視されたりといったちくちくとしたいじめを受けていた。
 街の人間に対する怖さはすっかりティオの骨身に染みているし、こういった他人の態度にどう対応していいのか、まったくわからない。
 二人に手伝ってもらい、本を書庫室に返したティオは庭に出た。かつては戦争に赴くための訓練に兵士が汗を流した場所だが、今では子供達が思い思いに遊ぶ地となっている。
 庭の隅にある、青い葉をのびのびと茂らせつつある木陰に移動した三人は、そこで昼食をとった。
 昼食といっても、パンに肉を挟んだ程度の軽食だが。食事といえば朝夕二回だけだったティオにはこれも軽い驚きだった。上流貴族となれば昼も豪華な食事をとり、さらに燭台で明かりを灯し夜食をも毎日口にする、という。
「最近、また親父さんの帰りが遅いんだって?」
 リスのように頬を膨らませながら、木に背中を預けるレンがオリカに目を向けた。そろそろ気温も上がっているというのに、相変わらず外套をまとっている。
「口にものを入れてしゃべらないで……ええ、もうすぐ陛下の地方巡察があるからって、何かと忙しいらしいわ」
 パンを小さくちぎって口に運ぶ動きを止めて、オリカが答えた。彼女の格好はティオと初めて会った日と同じだが、剣は持っていない。
 アマーナ国王・ジルバ三世は、即位直後は貴族の傀儡だったが、現在では優れた王族や家臣の補佐を得て評判のよい政治を行っている。そんな国王の来訪を受けるのは、都市としては大変な名誉だ。
 国家の支えだったロディス公が高齢を理由に引退、新たな補佐役となった王弟バートンは『能力があれば下級身分からの要職登用もありえる』と表明しているので、王族の目に留まろうと張り切る役人も多いという。
 王弟と数年一緒に暮らしていた、といったら皆びっくりするかな、などと考えながらティオは黙々と自分の食事を胃に納めた。
「――その王様なんだけどさ、ちょっと妙なうわさがあるんだよ」
 レンが、不意に声をひそめた。
「ほら、ボク達が生まれた頃に王様の子が亡くなったって話があるだろ? あれ、実はうそらしいよ」
「え?」
 オリカがパンを口に運ぶ手を止めた。ティオも、目を見開く。
「悪い貴族がさ、王様の子供を誘拐して、死んだってことにしたらしいんだ」
「それ、謀反じゃない!」
 オリカが驚くのも当然だった。国王の子を害する行為は問答無用で反逆だ。本人はもちろん一族郎党まで皆殺しにされても文句はいえないほどの重罪。こればかりは、例の「自首すれば刑を減免する」法の寛容も適用外だ。
「だから、うわさだって」
 話の爆弾を持ち込んだレン本人は、気楽な調子で言う。
「……で、最近王様が王妃様を連れてしきりに地方巡察する理由は、誘拐された王子様の行方を捜すためなんだって。父ちゃんの店はその話で持ちきりだよ。まぁ公式にはなんにもいわれていないけどね」
 レンの父親は、かつて義賊といわれた裏社会の有名人で、自首して罪を償った後は繁華街で大きな酒場を営んでいる。そんな境遇から、レンの耳には色々なうわさが入ってくるのだ。
「でも、王位継承者を誘拐したということは、邪魔だったってことじゃないかな。それならもう……」
 気分のよい話ではないため、ティオの声も自然と低くなる。王子様はもうこの世にはいない、と言いたかったのだ。
「それがさあ、王子様の命を奪うよう頼まれた奴が、つい情にほだされて助けたっていうんだよ。で、どっかに預けたんだって。もし生きていれば、ボク達と同じぐらいだね」
「生きていらっしゃるといいわね」
 何気なく会話を続けていたオリカとレンの視線が、突然そろってティオを見た。
 空色とはしばみ色の瞳に注視され、ティオは無意識にのけぞる。
「ど、どうしたの二人とも?」
「……な、なんでもないわ」
「そ、そうだよねぇ。いくらなんでもそんな都合のいい話が……」
 乾いた笑い声を響かせる二人に、ティオはしばらく首をかしげていたが。
「ああ、そういうことか」
 ティオの口元が苦笑を刻む。王子様が死んだことにされ、消息を絶った頃にティオは寺院に捨てられていたのだ。オリカはもちろん、レンにもそのことは話してあった。
 もしかしたら、ティオがその王の子かもしれない。ありえない、と思ってもつい想像してしまったのだ。
 だが、あの時期は捨てられ――あるいは売られ親がわからない子供など沢山いた。ティオだけが当てはまる条件とは程遠い。
「そんなはずないよ」
 二人に手を振りながらティオは小さく笑った。
 ティオだって何かのきっかけで実の両親がみつかり、それが素敵な人達で――と、夢想したことがないわけではない。だが、いくらなんでも王子というのは話が突飛すぎる。可能性を考えることさえおこがましい。
「そうだねぇ、子供が三人いればうち二人は拾われっ子だよ」
「そんなわけがないでしょう」
 レンが冗談というにはきわどい台詞を笑って言うと、オリカは心底嫌そうな顔をした。

 壁に彫刻模様が刻まれた一室に、不機嫌そうな声が響き渡る。
「もう我が子の探索は無用です」
 仮の玉座に腰掛けた王妃・エサリアは、口元を扇で隠しながらそう言い放った。
 結い上げられた髪は、優しい春の光を受けた湖面のような金髪。一流の職人が精魂込めて造り上げた白磁のような頬には薔薇色の赤みが差している。上等の白絹を金糸で彩ったドレスをまとったエサリアの姿は、絵物語から抜け出てきたような『王妃』そのもの。もう三十をいくつも超えているはずだが、その肌に年齢からの衰えはほとんど見られない。
 天井の明り取りの窓から降り注ぐ光が、その美を余すところ無く照らす。
 しかしながら、今の彼女に心ひかれる者は少ないだろう。
 眉を釣り上げ、春の大地に生まれた新緑のような色の瞳にうかぶ光は苛立ちに波立っている。その様は、容姿の美点を打ち消して見る者の不快を買うに足りた。
「王妃様、そうはおっしゃいましても真相が知れた以上は、雲をつかむような話とて探索を続けぬわけには」
「その探索とやらで見つかるのは偽者ばかりではないか!」
 ひざまづく家臣の言上を、王妃の鞭のような声が遮る。
「死んだと知らされたはずの我が子が生きている、というから汚らわしい下賎の子供達にも幾度も謁見を許したのです。にもかかわらず、一向に埒が明かぬ。もう疲れました!」
 王妃の金切り声寸前の叱責に、居並ぶ家臣達はひたすら顔に汗を浮かべるしかなかった。
 アマーナの宮廷が、ひそかな王子探しを始めたのは、一年ほど前からだ。
 ある貴族の手下として悪事を行った罪人を処刑(斬首)する寸前、慣例に従ってその男が信じる神に仕える神官が、懺悔を聞くために牢屋に遣わされた。
 罪人は、すっかり死を覚悟した様子で神官と話すうち、ぽろりとこんな言葉をこぼしたのだ。
「俺は、悪いことばかりをやってきました。いいことなんてひとつぐらいしかしたことがありません。苦しまずに死ねるだけで上等ってもので」
 神官は、そのいいことを聞き取ろうとした。たった一つの善事でも神は見ておられます、きっと地獄で罪業を清められた後にそれによって天国へ導かれるでしょう――そんなお決まりの説法をするために。
「へえ、俺を使っていた貴族の旦那から赤ん坊を殺すように言われたことがあったんで。ですが、どうにも殺せなくて……仕方ねえんで、こっそり逃がしてやったんですよ」
 この時、神官と罪人の最後の会話に立ち会っていた役人が、先日処刑された貴族の事を覚えていなければ、そのまま罪人は処刑されていただろう。
 処刑された貴族は、国王を傀儡としていた実力者の一人。あろうことか生まれたばかりの国王の子を誘拐し、これを害したとして処断されていたのだ。共犯であり、国王夫妻に赤子はほどなく死んだと虚偽の報告を上げた官吏らも、まとめて処罰された。
 その貴族の手下だったのが、赤ん坊を助けたと口にした罪人。
 この話は即座に上役に通達され、罪人の処刑は中止。一から事情を調べなおすと、王の子が生きている可能性が高いことが判明した。
 てっきり貴族が自分の子の処分を命じた、と思っていた罪人は天地がひっくり返るほど驚いたという。
 宮廷は、震撼した。
 国王夫妻の間に生まれたのは、かどわかされた子供のみ。
 十年以上経っても新たな子が誕生しないため、廷臣たちは国王に側室を持つように勧めもしたが。針の筵の傀儡時代をお互い励ましあって乗り切った王妃をこよなく愛する国王は、それを拒否し続けた。このまま後継者が生まれなければ、傍系王族が玉座を狙って争いはじめる恐れがあったのだ。
 もし誘拐された赤ん坊が生きているのなら、後継者問題は解決する。
 ところが、捜索は難航を極めた。十年以上前の話であり、罪人や関係者の記憶はあやふや。古来から幾多の民族が交じり合ってきたアマーナ王国では、王族といえどもさまざまな人種の血が混じっており、親と子があまり似ていないことも珍しくない。
 それでも幾人かの候補を探し出し、国王夫妻とひそかに面会させたのだが結果は皆偽者。
 事を荒立てないよう王夫妻の地方巡察に偽装した捜索を続けたため、旅先で国王が倒れるという事態にまでなった。現在、国王一行は国西部のとある公爵邸を仮の王宮としている。
 元々、我が子が生きているなどいまさら信じられない、と捜索に乗り気でなかった王妃の怒りは頂点に達していた。
「もう巡察も中止いたします。陛下にもはやく王都へ帰って静養していただかなければ」
 ぴしゃりと言い放つ王妃。廷臣たちは、困ったように顔を見合わせる。事は一国の浮沈にかかわるため、王妃の意見は受け入れがたいが、かといって正面から反対するのも困難なのだ。王妃の言うとおり、成果をあげられていないのだから。
「――義姉上」
 王妃の怒りが充満する室内を鎮めるように、やわらかい男性の声があがった。
 この国で、王妃を義姉と呼べるのは王弟であるバートンただ一人だ。廷臣達の中でももっとも王妃に近い位置にある彼は、穏やかな笑みを浮かべる。
「お怒りはごもっともと存じます。また、兄上のお体も大事です。しかし、私にとっても死んだはずの甥が生きているかもしれぬ、というのは捨てがたい希望。どうか、曲げてあと少しだけご協力いただけませんか?」
 金糸銀糸の刺繍が施された黒い軍服を身にまとうバートンは、相対する者達が自然と腰を折りたくなるような高貴さをまとっている。だが、その涼やかな外見に反して若い頃は拳法修行に明け暮れ、国政改革期にはロディス公の指揮下で無数の貴族反乱を打ち砕いた武勇の人だった。
 義弟にやや角度を変えて懇願されては、王妃も口ごもらざるを得ない。
「……わかりました。陛下はここでお休みいただき、私が次の巡察地――フェドナスへ向かいます」
 しばらく考え込んだ後に、王妃が出した妥協案がそれだった。
 ほとんど手がかりのない王子探しだが、一つだけ確実な識別方法があった。
 魔法だ。
 この世界において魔法とは、太古に妖魔から奪い取った異界の知識を用いた技全般を指す。
 アマーナ宮廷が抱える魔法士は、親子間の血縁を確かめる魔法が使えるのだ。
 ただし、魔法全般にいえることだがそれは万能ではない。魔法をかける現場に父もしくは母と子が居合わせなければならないのだ。また、王家にとって重要な血縁を保証する方法だから、その存在は厳重に秘匿されている。
 こうして王妃一向は、フェドナスに足を踏み入れることが決定した。

 公爵の屋敷から、バートンはひそかに抜け出した。富裕層平民が好む渋い藍色の絹服に着替えて、馬車に揺られてある場所へ向かう。
 やがて馬車が止まったのは、夕暮れの日に照らされて燃えているかのように赤く染まる森だった。
 バートンは馬車を降りると、待っていた人々に目を向けた。その碧眼は、氷でできたような冷たさをたたえている。
 王弟直属の兵が十人ほど、広場のように開けた空間で待っていた。彼らは、一人の男を捕らえていた。
「殿下、この者でございます」
 兵が男をバートンのほうへと突き飛ばした。
「で、殿下! ど、どうかお許しを! ほんの、出来心で……」
 押された勢いのままバートンの足元に寄り、土下座して嘆願する男は、たくましい体格をしていた。着ている物も、バートンが少し前までまとっていた飾りのある軍服と似たものだ。
 男はこのあたり一帯の王国軍を束ねる高位騎士であり――偽者の王子候補を、それとわかって王の前に送り込んだ不埒者だった。
 親子識別の魔法がある以上は、いくら偽者を立てても無駄なのだが、それを知らず自分が大事に大事に育てていた、などと恩着せがましく国王夫妻の前で胸を張った。
 そんな芝居はあっさりばれ、王弟の指示で捕縛されていたのだ。
「許す? 何を許すというのだ?」
 表情を消したバートンの唇から、硬質の声が漏れた。自然体で大地に立つ姿は、彫像めいてみえるが。その全身からは、刃を含んだような鋭い殺気が放たれはじめている。
「に、偽の王子を仕立てたことでございます」
 自分の罪を改めて言わされた男の顔は、夕焼けの中でもわかるほど青くなっている。と、男の目に媚びるような色が浮かんだ。
「もう、二度と王弟殿下の道をふさぐような真似はいたしません。い、いえ。心を入れ替えて軍を殿下の次期国王就任支持でまとめてみせま――」
 王弟が配下の兵に命じて、こんな場所に自分を連れこませた理由を男は『王位継承の邪魔をしたから私刑にかける』ためだと考えていた。
 王子が見つからなければ、現国王の弟で実績もあるバートンが、もっとも後継者としての資格があると目されている。
 ならば、王弟支持に回れば助けて貰えるかもと考えたのだ。
 だが、バートンの極寒の氷のような声が、続きの言葉を断ち切った。
「貴様は、兄上と義姉上の御心を傷つけた。許せるわけがないだろう」
 死刑宣告と呼ぶに相応しい言葉。
 バートンの碧い眼は、大事な物を傷つけられ猛り狂う寸前の猛獣のそれだった。
 男は、舌の動きを止めてあえいだ。もう、自分の死は確定されたことなのだ、とどんな雄弁よりもはっきりと思い知らされたのだ。
 そんな男を軽蔑しきった目で見つめていた兵が、腰の剣を抜き――その柄を、無理やり男の手に握らせた。
「王弟殿下は、慈悲深い御方だ。貴様のような屑にも戦士として死ぬ道を与えられた」
 兵達は、いっせいに後ろに下がった。
 男は意外ななりぬきに戸惑いを隠せず剣と、黙って立つ王弟を見やり。やがて、のろのろと立ち上がった。
 兵らの行動は王弟自らが戦って男を殺すという意思表示。
 その王弟は素手だ。短剣ひとつもっていない。
「うらあああ!」
 男は、気勢を上げると剣を大上段に振りかぶった。せめて王弟を道連れにしてやろう、という捨て身の意思を乗せた剣が、陽光を跳ね返す。
 バートンが少年時代、世俗を捨ててまで拳法の腕を磨いたことは、広く知られていた。だが、所詮は素手格闘などというものは武器を買えない下賎の者の技、と見下す男は防御を捨てて突進した。
 拳や蹴りは剣より間合いが狭いし、仮にあたったところで耐えられる。男は、常識的にそう考えていた。
 周辺の空気ごと王弟の体を縦に断つ勢いで、剣が振り下ろされた。その動きは力強く、速い。男が騎士としてはかなりの域にあることをうかがわせた。
 だが、それを見てもバートンも見物人と化した兵達も顔色ひとつ変えない。
 バートンが、蝿でも追い払うように軽く左手を振った。
「え?」
 剣を斬りおろした姿勢となった男の口から、間の抜けた声が漏れた。剣を振り切っても、王弟の体にはかすり傷もついていない。その場から一歩も移動していないのだから、身をかわしたわけでもない。
 男は、自分の手にした剣の重みがほとんど消失しているのに気づいた。
 刀身が半ばから無くなっていた。どこへ――と焦る男の右肩に、激痛が走った。刀身が、上から落ちて突き刺さったのだ。
「なっ……なっ!?」
 驚愕と苦痛に挟み撃ちされた男にはわからなかったが、バートンが素手で打ち込まれる剣を叩き折ったのだ。そして折れた刀身は一度宙に浮き上がり、落ちた先に男の体があった。
 男にわかったのは、バートンの手が不思議な光に包まれていることだった。光は、極寒の夜に君臨する月の光を思わせる、どこまでも冷たい白色。
「兄上と義姉上を悲しませる者は、死ね」
 その言葉が男の耳に届くと同時に、再びバートンの掌が一閃した。まるで刃が仕込まれているかのように、王弟の指先は男の心臓を簡単に貫く。
 男の意識は、胸を犯す痛みを感じるより早く闇に塗りつぶされた。

 さわやかな森の香りを塗りつぶすように、生臭い匂いが立ちこめる。男から噴き出した血の匂いだ。
「……殿下」
 王弟直属の兵長は、噴水のような返り血を浴びるバートンの傍らにひざまずいた。部下達は、何も言わずとも男の遺体に取りついて引き剥がし、後始末にかかっている。
 赤く染まったバートンの手からは、すでに光は消えていた。
 兵長はすでに何度もバートンの技を見ているので、驚きはしない。王弟の手は、名のある剣や槍に劣らぬ鋭さを隠しているのだ。ほとんど音もなく鉄剣を『斬る』ほどのものが。
 世俗を捨ててまで鍛え上げた魔術じみた力は、一般常識などあてはまらない。
 表情を消したままのバートンに、兵長は問うた。
「偽王子に仕立てられた少年はいかがいたしましょう?」
「殺せ」
 夕陽と、人間の血。二種類の紅で彩られたバートンが口にした言葉は、簡潔だった。
 まだ十五歳ぐらいの、利用されただけかもしれない子に酷な仕打ちではないか。兵長は、そんな思いをちらりと脳裏に浮かべたが、口には出さない。
「承知いたしました」
 うなずいたバートンの顔に、少しだけ表情が戻る。血塗れの自分の顔を指先でぬぐい、つぶやいた。
「身奇麗にして、兄上の見舞いに行かなければ」
 早々にきびすを返し、馬車に乗り込むバートンの背を、兵長は黙って見送った。
 王弟バートン。前国王の第二王子。
 王族が有力貴族の傀儡だった時代に、身分の低い側室を母として生まれた。後はよくある話で、嫉妬に狂った当時の王妃に母子ともども虐待されたのだが。そんなバートンを守ったのが、ほかならぬ現国王であるジルバ三世(当時は王太子)とその婚約者だったエサリアた。
 将来の自分の身を脅かすかもしれない腹違いの弟を大事にするジルバ三世に、バートンはよくなついた。だが、当時はその王太子にさえ力はない。
 有力貴族から公然と嘲弄される兄を、バートンは何度も目撃していたはずだ。
 やがてバートンは姿を消した。兄と義姉になる人を守る力を得る、と言い残して。
 そこで選んだ先が個人武芸の鍛錬なのだから、子供の浅知恵だったといえるかもしれない。たとえ超人的な拳法を身につけようと、一人の人間の力などたかが知れている。
 現実に、国王夫妻を救ったのは軍事力を持つロディス公だ。
 子供なりに、少なくとも衣食住は保証される暮らしを捨ててまで得た力は、役立たず。そう悟って戻ってきたバートンは、どこか暗い影を持つようになった。
 普段は理想的な、王の補佐役たろうと務める好青年なのだが、国王夫妻に仇なすと見た相手には、まったく容赦がなくなった。今回のように自らの手にかける、という行為さえ何度も行った。
 兵長は、何度か国王に王弟の密かな行状を直訴しようかと悩んだことがある。
 だが、今のところ公式の裁判であっても処刑されて当たり前、という相手しか手にかけていないのだからと思いとどまっていた。
「しかし、子供までとは」
 実のところ、行方不明の王子に自分の息のかかった偽者を仕立てる、というたくらみは今回が初めてではない。何回か、似た陰謀があった。それでも、道具に過ぎない偽者の王子候補まで殺せと命令されたのは初めてだった。
 兵長の心に、不安が忍び寄るが。馬車が走り出すと、迷いを振り払うように立ち上がり、部下に撤収の指示を出した。

「むうん!」
 その音量だけで山崩れを引き起こすのではないか、と思われるような気合の声が響き渡る。
 リメディス山の麓、灰色の胴着を着込んだハクオは、突進してくる影の首根っこを捕まえて、地面に引きずり倒した。あがる土煙が、一瞬だけ太陽の光を遮る。
 ハクオの太い腕に巻きつかれ、苦しげにもがくのは山鹿だった。だが、普通の鹿ではない。
 その大振りの角は、まるで刀剣のような金属質の輝きを帯びていた。体躯もまた、並の成獣の鹿の二倍近くもある。
 ハクオは全身に赤みがかった光をまとい、歯を食いしばって異様な鹿を押さえ込もうとする。角に触れた服が、高い音を立てて引き裂かれた。
 魔鹿。天地自然の気を浴びるうち、鹿が生き残るための戦闘能力と闘争本能を肥大化させた魔獣だった。特にその角は、人間が鍛え上げた刀剣に等しい武器と化している。
「このっ……おとなしくしろ!」
 獅子吼しながら、ハクオが一層強く腕に力をこめる。鉄をも捻じ曲げるほどの力をかけているのだが、魔鹿はなおも四肢をばたつかせた。
 霊山の気は、生き物に力を与えるがそれは人間の善悪とは関係ない。外敵を排除して生きることが本能たる獣に宿れば、草食動物を猛獣以上の脅威に変えるのだ。
 同じように、人間の心身も強化してくれる。悪の心、邪なことに使う力さえ、おかまいなしだ。
 人間にとっては、感謝すると同時に恐ろしい力の働きでもあった。それゆえ、拳法修行ではまず精神鍛錬が重視される。力に飲まれないようにするためだ。
「ふんぬ!」
 ハクオが、さらに気合を入れると灰色の服を内側から破らんばかりに筋肉が肥大する。
 魔鹿を絞め殺すためではない。人間の怖さを教えて、田畑を荒らさせないようにするためだ。
 強い力を得た動物が、よりよい餌場や安全な場所を求めて活動範囲を広げるのは、本能に従ったもの。人間にとっては迷惑であっても、種の保存のための当然の行為なのだ。
 寺院の修行者は、それがわかっているから、発見してもいたずらに殺すのはなるべくさける。
 やがて魔鹿のあがきは弱くなり、哀れを請うような細く短い鳴き声を上げた。ハクオはそれを合図に腕を解き、立ち上がる。
「よし、もう人間に近づくんじゃないぞ」
 ハクオは泥だらけになった手で起き上がった魔鹿の首筋を、軽く叩く。
 返事するように鳴いた魔鹿は、少しよろめくような足取りで、山へ帰っていった。
「ご苦労様でした、師匠」
 ハクオの手伝いとしてついてきたシークが手に布をもって歩み寄ってくる。魔鹿の相手では出る幕がなかったが、ほかの鹿を山へ追い返していたのだ。
「ありがとよ」
 ハクオは、渡された布で泥と汗にまみれた顔をぬぐって、大きく息を吐いた。
「これで、人里に下りることはしばらくないでしょうね」
 シークは、魔鹿が岩場を登っていくのを目をすがめながらつぶやく。
「……ティオのやつ、うまくやってるかね」
 山から吹き降ろすまだ少し冷たい風が、ハクオの赤毛をなぶる。
 魔鹿を追って下界までやってきた二人は、何気なく南方に目をやった。その先に、フェドナスがある。
「手紙では、きちんとやっていると書いていますが。本当はどうでしょうかね」
「紙の上じゃ、いくらでも嘘は書けるからな。怖がられたり、化け物扱いされてねえかなあ?」
 近くを通る商人が届けてくれた手紙によると、ティオはオレリオン家に暖かく迎えられ、写本の仕事をしながら学校に楽しく通っている、というが。
 ハクオもシークもどこが疑問を感じていた。理由はなんとなく、としか言いようがない。長年一緒に暮らした相手だから働く直感のようなものだ。
「ホーワがさびしがっていますよ。ティオにはよくなついてましたから」
「そのうち、追いかけて街に出ちまうかもな。注意しとかねえと」
 ハクオとシークは寺院に帰る道に足を向けながら、そんな言葉を交わす。
 と、大柄な女性が山道を駆け下りてきた。
「……母さん?」
 シークが目をしばたたかせた。
「し、師匠! シーク! ホーワを見なかったかい!?」
 肩を揺らし、顔中を真っ赤にしながら問いかけてくるマーダの剣幕に、男二人はのけぞりながらも首を横に振る。
「どうした? 何かあったのか?」
 ハクオが太い眉を跳ね上げながら聞くと、マーダは大きくうなずいた。
「ホーワが目を離した隙にいなくなったんだよ! 散歩かと思ったけど、ちっとも戻ってこないんだ!」
「――なんだと?」
 ハクオとシークは顔を見合わせる。
 まさか、とハクオは南方に再び視線を向けた。



[25316] 5
Name: 参月◆ab5af9c4 ID:91c90832
Date: 2011/01/09 11:25
 夜の訪れとともに、目を覚まし命の力をみなぎらせるのは、夜行性動物達。
 数ヶ月ほど前から、フェドナスの闇を駆ける猫達に、ひとつの大きな影が混じるようになったことを知る者は少ない。
「いい月夜だなあ」
 とある石造りの家の平らな屋根の上で、天を見上げる人間がいた。ティオだ。
 その顔は、昼間の学校ではほとんど見せない解放感に満ちたもの。その周囲には、家来よろしく十数匹の街猫が集まっている。山のもっと気の荒い動物達の中で育ったティオにとって、餌をもらうなどして相応に人になれた猫達は簡単に仲良くなれる相手だ。
 ティオは、同年代の少年少女から孤立していることもあって、昼間はうつむきがちだ。だが、人の目がほとんど見通せなくなる夜なら――と、気づいたのが街に来て十日ぐらいたった後。
 昼の鬱屈をはらすように、むささびのように屋根と屋根の間を飛びまわり、路地裏を豹のように駆ける。あまりうるさくすると眠っている人々を起こすので、ほとんど無音で。
 もしこの気晴らしを見つけなければ、ティオは早々に街での暮らしをあきらめていたかもしれない。オレリオン家の人々やレンは優しいが、ほかの人々とうまくいっていないのだから、自分がこの場所の生活に適応しにくいことを認めざるを得なかった。
 ふと、ティオの目が真っ白い毛並みの猫を捉える。その姿が、懐かしい記憶を刺激した。
「ホーワ、元気かな……」
 兄弟同然に育った虎の、ごわごわとした毛並みの感触が手のひらによみがえる。寺院の人達の笑顔も瞼を閉じればありありと浮かんできた。
 帰りたい。
 何度もそう思ってしまう自分の心をティオはよく知っている。
 特に、たまに寺院に手紙を送り、その返事がきたりすると里心はいっそう刺激される。
 しかし、街の暮らしも決して悪いことだけではない。ご飯はおいしいし、外敵に襲われる心配はない――少なくともティオは街に来てから命の危険を感じたことはなかった。
「どうしたものかな」
「うん、少なくとも夜中一人でぶつぶついうのはやめたほうがいいんじゃないかな」
「……やっぱり街じゃそういうのは変なの?」
「どこでも変でしょ、そういうのは」
 何気なく受け答えしてから、ティオは目をぱちくりさせた。
 周りにいる猫がしゃべった……わけではない。いつの間にか、ティオ以外の人間が屋根に上がって来ていた。レンだ。
「え? どうしてここに?」
「どうしてって。うわさだよ、うわさ。最近、夜の街に得体の知れない人影が出没するってんで確かめにきたんだよ」
 ティオの夜でもよく見通せる目に、レンの苦笑顔が映る。一拍遅れて、それまでくつろいでいた猫達が鳴き声をあげて四散した。
「ああ、天国だったのに」
 レンが唇を尖らせ、名残惜しげに去っていく猫達に手を伸ばす。
 さらに、レンの後ろから、星明かりを鮮やかに跳ねる銀髪を持った少女が上がってきた。オリカだ。
「な、なんで」
 とまどうティオを、オリカは腰に手を当てて軽く睨む。護身用なのか、腰には剣を下げていた。
「あのね。毎日のように同居人が家を抜け出してたら、心配にもなるわよ」
 ぐっと詰まるティオ。
「まぁ、いいんじゃないの? 人様に迷惑はかけていないみたいだし。それにしても、オリカと同じだね」
「同じ?」
 レンが楽しげに笑いながら言う言葉に、ティオは首をかしげオリカは困ったように視線をさまよわせる。
「……私も、街に慣れるまではこっそり夜出歩いていたりしたの」
 オリカは、貴族の娘だ。彼女の両親はすっかり貴族らしさが抜けているものの、それは大人が自分の意思で生き方を決めたから心楽しいのだ。子供のオリカにとっては、めまぐるしい環境の変遷は、苦しいものだった。
 同じ貴族からは、没落だの誇りを失っただのと白眼視され、庶民からは多少慣れてもやはり貴族、という目で見られる。やりきれなさを感じると、オリカは一人夜の街に繰り出していたという。
「で、ボクの親父と出会ったんだよ。子供が夜中に一人歩きなんて、危ないでしょ? 悪い大人もいるしね……ところがうちって普通じゃないから」
 レンの父親は、オリカの事情を聞いても説教くさいことは言わなかった。ただ、夜でも安全なうろつき方を教えて、自分の子供とオリカを引き合わせた。
「そしてボクが氷のようにかたくなだったオリカの心を、太陽のような暖かさで解きほぐす感動の友情秘話がはじまったのさ」
「……レンと遊ぶうちに、悩んでいるのが馬鹿らしくなったのは事実よ」
 大仰に胸を張るレンと、自分のこめかみに指先を当てるオリカの両極端な態度に、ティオはつい吹き出してしまう。
「――ただ、夜歩きは少し控えたほうがいいかもね」
 レンの声が、まじめさを帯びる。
「ほら、昼間話した王様の巡察があるから。どうも王妃様だけが来るみたいなんだけど、それでも都市の警備はかなり強化されるみたい。不審者としてとっつかまるかも」
「王様はご病気らしいの。心配だわ」
 二人の話を聞いていたティオは、ふと視界の隅に白いものが入ったことに気づいた。立ち並ぶ建物の屋根の上を、何かが駆けてこちらに向かってくる。
 四足の影だったから、先ほどの白猫が戻ってきたのかと思ったが。
「……何?」
 オリカが顔を上げた。白い影が跳ねる度、屋根がきしむ音が伝わってくる。猫が動いた程度では、頑丈な構造物が発するはずのない響きだ。
 ティオは腰を浮かせて目を凝らした。が、その時には白い影は三人がいる屋根に飛び込んできた。
 大きい。子牛ぐらいはありそうで、どう見ても猫ではない。
 オリカとレンがそろって息を呑む音が、やけに大きく聞こえる。
 白い影は、息を呑むティオに飛びかかってきて――べろん、とその顔をなめた。
「うぷっ!?」
 生臭い匂いと、べったりとした感触に顔をしかめながらも、ティオはなぜか不快感を感じなかった。それどころか、懐かしい。
「ホーワ!?」
 自分にのしかかってくる白い虎の首を、両腕を差し出して支えながらティオは驚きに体を震わせた。
 答えるように、山にいるはずの虎・ホーワが甘えるように喉を鳴らす。
「お前……どうしてここに!?」
 甘えて頭を胸にこすりつけてくるホーワは、小さく鳴く。ティオは虎の言葉などわからないが、長年の付き合いからなんとなく意味を感じ取る。
「さびしいから追ってきたのか?」
 ホーワはそのとおり、というように前足でティオの頬を軽く叩いた。爪は引っ込ませているが、硬い肉球はそれなりに痛い。
 懐かしさと驚きで脳がしびれるティオだが、その手が無意識に動いて白虎の硬い毛をかきむしるように撫でる。
「あ、あの……ティオ?」
 恐る恐る、といった調子のオリカの声で、ティオはようやくはっとなる。
 街にいきなり山岳地帯でもめったにお目にかかれない白虎が出現したのだ。驚きと、それ以上の身の危険を感じるのが普通の反応だろう。
「こ、こいつはホーワっていうんだ。寺院で一緒に暮らしていて……どうやら追いかけてきたみたいなんだけれど……無害だから!」
 途中で舌をもつれさせかけながら、ティオは必死で二人に言い募る。猛獣が下界に出たらどう扱われるかぐらいはわかっていた。すなわち、駆除。
 だが、オリカは腰の剣に手をかける素振りも見せず、なんとホーワに無防備に近寄った。
 ホーワは、警戒するように鼻を鳴らし、耳を立てたが。
「かわいいわね」
 え? とティオはオリカの唇からこぼれた言葉に絶句した。
 ホーワはたくましい筋肉をみっちりと詰め込んだ体を持つ肉食獣だ。白い毛並みを月光で跳ね返す姿に、野生的な美しさを感じるのならともかく、かわいいとは。
 しかし何度目を瞬いても、オリカのまるで子猫を眺めるような、今にも蕩けそうな表情は変わらなかった。
「こんばんわ。あなたホーワちゃんっていうのね? 私はオリカ。よろしくね?」
 オリカは、幼いころはティオがいた山の近くに住んでいた。街の人間としては、野の獣慣れしているかもしれない。だが、それを考慮しても予想外すぎる反応だった。
 自分が警戒されるどころか好意を向けられた、と悟ったらしいホーワは、それこそ猫と勘違いされるような小さな泣き声を出すとその場で伏せた。
「触っても大丈夫よね」
 オリカがゆっくりと手を伸ばして、ホーワの頭を撫で始めた。
「あー……」
 おそらく山から手紙を運ぶ商人の後をつけて街までたどり着き、外壁を登り番兵をやり過ごしてやってきたホーワ。それと早速仲良くなるオリカ。一人と一匹を眺めながら、さてどうしたものかとティオは腕組みした。
 と、そこでいつもはにぎやかなレンが一言も発しないのに気づいて、ティオは振り返った。
 レンは、時間が止まったかのように立ち尽くしていた。時が正常に流れている証拠に、その額からは玉のような汗が吹き出している。
「普通は、こうなるはずだよな」
 ティオの呟きが合図だったように、レンが細い悲鳴を上げてティオに飛びついてきた。
 外套に包まれた腕をティオの背中に回し、絞め殺そうというように抱きしめてくる。
「な、なんだよあれ虎だよ何で街にいるんだなんで」
 歯の根さえ合わずにおびえる視線をホーワに送るレン。ティオは、息が詰まりそうになりながらもなんとかなだめようとして――
 違和感に気づいた。
「あれ?」
 抱きついてきたレンの胸の辺りが、ティオの皮膚に不思議な弾力を与えていた。
 これは、男性にはない部位だ。それは街であっても森であっても、人間である限り変わりはないはず。
 思考がまとまるより早く、ティオの胸内で心臓が跳ね踊りはじめる。
 つまり、レンは。
「な……れ、レンってもしかして」
 女?
 そう続けようとするティオの舌はもつれて、意味のない音として夜気の中に溶け込んでいく。
 オリカに喉を撫でられたホーワが、うれしそうに喉を鳴らした。
 少しばかりの時間をかけて、レンとティオが落ち着いた後。三人と一匹は、場所をオレリオン家の庭に移した。
「別に、女だってことを隠してたわけじゃない。この格好のほうが、何かと動きやすいからさ」
 レンはふてくされたように口元をすぼめた。ただし、その立ち位置はホーワから少しでも遠ざかろうとばかりに家の壁ぎりぎりだ。
「そういえば、伝えてなかったわね」
 ホーワの頭を飽きることなく撫でながら、オリカが苦笑した。
「ってボクのことよりその虎! どうするんだよ!?」
「どうする、といわれても」
 レンに食ってかかられたティオは、眉根を寄せた。
「山に帰すしかないだろう!? こんなのがうろついてたら、大騒ぎだし! こいつ、人を食ったりしないよな!?」
 ともすれば叫び声にまでなりそうな、切迫したレンの言葉にティオは少しむっとなった。
 確かに街にいてはいけない虎だが、長距離をものともせず自分に会いに来てくれたホーワだ。
「人は食わないよ。こいつは霊獣。天地自然の精気を吸って食事代わりにするんだ。子虎のころからほとんど食べなくても元気だったし。だから食料があまりない寺院でも置いておけたんだよ」
「……へ?」
 ティオの言葉に、レンは小首を傾げた。食べ物を摂取しなくてもすむ虎、というのは初耳のようだった。
 だが、レンのいうとおり他人の目に触れればとんでもないことになるのは確実だ。
「ホーワ」
 本能的な恐怖を隠さないレンの顔から視線をはずし、ティオは虎に呼びかけた。
「わざわざ会いに来てくれてありがとう。だけど、街にお前がいたら騒動になるんだ。寺院に帰ってくれないか?」
 人間である自分さえ、街に適応するのはかなり苦労しているのだ。ホーワが素直に居着けるとは思えない。雪山なら保護色として働く毛皮も、街の雑多な色の中ではあまりに浮きすぎている。
「え? いいじゃないちょっとぐらい」
 オリカが、ホーワをかばうようにその首に抱きついた。いくらなんでも慣れるのが速すぎる、とティオは改めて乳を分けた相手の感性に驚く。
 レンが威嚇するようにオリカを睨みつけ……ホーワとも視線が合いそうになり、慌ててティオの後ろに隠れる。
 そして肝心のホーワはというと、耳を伏せて上目遣いでティオを見つめていた。逆らうわけではないが、全身からさびしいという気配を発散させはじめる。
「ホーワ……」
 ティオは、街に着てから少し長くなった黒髪をかいた。
 ちょっとぐらいなら街にいさせても、という思いが沸きかけるが、それを牽制するように背中にレンの鋭い視線が当たるのを感じる。
 途方にくれたティオは、大きくため息をついた。

 翌朝、寝不足気味のティオは目をこすりながらオレリオン家の廊下を歩いていた。その足は、食堂に向かっている。
 ホーワの扱いに悩み、とりあえず使われていないオレリオン家の倉庫にこっそり入れておいて、今夜こそ寺院へ帰すということになったのだが。そう決まるまでに、レンとオリカの意見が対立して結構な時間を食ってしまったのだ。
「王妃様のお子!? いや、確かにティオ君が拾われた時期だけは一致しますが……しかし」
 ティオの動きを止め、意識を覚醒させたのは食堂の入り口から響いてきた声だ。
 オレリオン男爵であり、今のティオの身元保証人であるダインのものだ。
「声を抑えていただきたい。ティオ君はまだ候補の一人、という段階です」
 答える声もまた、ティオの記憶にあるものだった。
 ティオは足早に食堂の入り口をくぐった。
「ティオ君」
 呼びかけてきたのは、ダインだった。黒髪黒目の中年男性で、落ち着いた容貌の持ち主。普段は温厚を絵に描いたような人物だが。今は、いつ倒れてもおかしくないと思わせるほど顔色を青くしている。
 そんな家主は、テーブルの椅子に腰掛けず、直立不動の姿勢だった。その後ろには、エレーナとオリカが不安そうな顔で立っている。
 ティオの視線は、本来ならダインがいつも座っているテーブルの一番奥――上座に向けられた。
「バートン師兄?」
 ティオは、呼びかける自分の声がかなり震えているのに気づいた。
「おはよう、というべきか。久しぶり、というべきかな?」
 金髪碧眼の若い男性は親しみを満面に浮かべていた。変装なのか、商人のような服装だ。
「どうして師兄が……あっ」
 命の恩人であり、拳の先達でもある人は記憶にあるよりずっと大人びた雰囲気を持つようになっていた。
 ふらりとバートンに近づこうとしたティオは、彼の背後に立つ二人の人影に気づく。商人の従者の格好をしているが、その体つきは兵士のもので。ティオに、警戒する視線をそろって向けてきている。
「し、失礼しました王弟殿下」
 バートンの下界での地位が天に舞う大鳥とすれば、ティオはせいぜい地べたを這いつくばる蟻。そのことを思い出し、ひざまずこうとする。
「やめてくれ、ティオ。今は忍びだ。ちょうどいい、君に話があってきたんだ」
 バートンが軽く手を振ると、従者然とした男達はすぐさま視線から圧力を消した。
「急なことで悪いのだが、身支度を整えて都市政庁まで来てもらいたい。王妃様が、君と謁見なされる」
 のろのろと立ち上がりかけたティオは、その言葉に全身を鎖で絡めとられたように動きを止めた。
 レンの話す声が、脳裏でよみがえる。
『最近王様が王妃様を連れてしきりに地方巡察する理由は、誘拐された王子様の行方を捜すためなんだって』
 膝を震わせ、全身の肌から汗を浮かべるティオの耳は、落ち着いたバートンの説明を聞き取る。
 宮廷が、死んだと思われていた国王夫妻の子をひそかに探していること。
 国王が体調不良のため、王妃だけが捜索にこの街へと訪れたこと。
 王子探しにつけこんで策謀を行う者が出たため、予定を前倒しにして王妃一行は街に入り、候補者との謁見も抜き打ちで行うこと。
「そ、それで……僕も?」
 息を整え、その場に倒れることだけはこらえるティオの内的世界は、嵐に襲われていた。オレリオン一家が向けてくる、気遣わしげな視線にも気づけない。
 本当の親がいるかもしれない。それも国王夫妻がそうかもしれない。
 ティオにとっては、信じがたい話であった。
「落ち着いてくれ。まだ、その可能性がある、というだけだ。これまでも、何とか割り出せた事――赤ん坊を殺すはずだった罪人が、裏社会でも比較的まともな連中に子供を預け、そこからまた彼らが活動する範囲内で拾われていた・あるいは貰われた子供を何人も探し出した。だが、いずれも違った」
 バートンは、山でともに暮らした時期に比べて饒舌で、しかも落ち着いていた。
 これが、王弟としてのこの人の姿か。ティオの胸の内に、違和感が生まれた。
 あの苦悩を常にまとい、無口で、しかしいざとなったら必死に自分を助けてくれた人は、どこへいったのか。
 バートンもまた、ティオにとっては妖獣より不可解な側に位置する人間なのか。
「わ、わかりました」
 ティオは、もてあます感情の渦を少しでも吐き出そうと、深呼吸した。
 物腰や言葉は柔らかいが、これは王の命令に等しい召喚なのだということぐらいは理解できている。
「ああ、すまないが……ん?」
 バートンの目がすっと細められた。それが見つめる先は、ティオの手首だ。そこには、うっすらと封印術の証が浮かんでいる。
 薄い痣としか見えないようなものだったが、バートンはその意味を知っていた。
「ハクオの仕業か? ……あいつめ。やりすぎだ」
 眉間を寄せてバートンがつぶやいた。
「下界の街でも、戦いはある。要は加減とやり方さえ間違えなければ、恐れられるどころか英雄視だって……いや、あいつのことだからそこまでは考えが回っていないか」
 一人苦笑してから、バートンは立ち上がった。
「では、男爵。ティオ君を連れて政庁まで来てくれ」
 かしこまるダインに、柔らかく語りかけてからバートンはティオの傍を通り過ぎようとする。
「……多少の無作法はかまわんが、間違っても義姉上を悲しませるようなことはするなよ」
 ようやく肩の力を抜きかけたティオは、氷に耳を突っ込まれたように背筋を震わせた。バートンの去り際のささやきに、得体の知れないものを覚えたのだ。
 ティオは自分でも正体がわからない不安に襲われ、視線を向けることすらできなかった。

 窓から差し込む光は、ぬくもりを放って部屋の空気を暖めている。にもかかわらず、居並ぶ少年達の雰囲気は凍りついたようだった。
 政庁の大会議室に集められた王子候補の少年達であり、その一番右端にいるのはティオだ。
 急展開に目を丸くするオリカがダインとともに付き添ってくれていたのだが、識別のための謁見の場には入れない。前の謁見の際に、かなり不遜な態度で嘘をついた者がいたため、候補以外の入室が禁じられたのだという。
 少年達は横一列に並ばされていた。壁際には、腰に剣を吊った衛兵が規則正しい間隔で配置されている。
 ティオはなるべく首を動かさないようにあたりを見渡した。
 正面には、王妃を向かえるための仮の玉座が一段高い位置に据え付けてある。
 十人ほどの王子候補は、貴族もいれば平民もいた。どうやら、年齢と拾われた範囲だけで選別されたらしい。学校でティオがちらっと見かけた顔も二つあった。
 ティオは、息苦しさにみじろぎする。オレリオン家にあった、平民が公式に着ていい服のなかでも一番上等な灰色の長衣が、やけに重く感じた。
「王妃様の、御成りである」
 ティオから見て右奥にあった扉が開き、王宮ぐらいでしかお目にかかれない女官が現れ、告げた。
 少年達がばらばらにひざまずく中、白いドレスをまとった王妃が二十人にものぼる従者・侍女を従えて姿を見せる。その中には、軍服姿のバートンもいた。
 ティオは、つい視線をチラッとあげて息を呑んだ。
 王妃の美しさは、尋常ではなかった。ティオが直接知る中で、一番の美女と呼べるのはエレーナだったが、彼女さえ数歩及ばないかもしれない。
 だが、この人が母親であるかもしれない、という期待は一向に沸かなかった。入室時から、不機嫌そうに柳眉を逆立て、少年達に向ける目はまるで汚物でも眺めるようだったからだ。
「……」
 ティオの口の中に、すっぱいものが込み上げてきた。緊張に王妃への不快感が加わり、この場から早く出たい衝動にすら駆られる。
 王妃が座ると、侍従が少年達に注意を与える。この場所で聞かれたこと、起こったことは一切口外してはならない、もし口に出せば厳罰に処せられると。
 侍従は、さらに左端の少年に質問を投げかけた。
 今の境遇から、拾われた時の状況、養い親がいる場合はそれがどんな人物なのか。いちいち問いかけ、そのたびに別の侍従が紙に筆記していくといった、時間のかかるものだ。
 ティオは、位置からいって自分が一番最後になるとわかっていたが、胃のあたりが重くなってつい落ち着かなく腹を手で撫でてしまう。
 いつまで続くのか、と思われる質問を断ち切ったのは、王妃の金切り声だった。
「もうよい! 見ればわかります。この中にわが子などおらぬ!」
 手にした扇で肘掛を打ちながら、王妃は紅で彩られた唇をゆがめた。その表情は地獄の魔女めいていて、ティオ達少年はもちろん、衛兵さえ息を呑む。
「王妃様、お、落ち着いてくださいませ。選別の魔法は術者に多大な負担がかかりますゆえ、できる限り調査を行ってから」
 侍従のうちで、もっとも王妃に近い位置に立っていた男が、汗をかきながらなだめにかかるが。王妃はそれを、エメラルドの瞳の一瞥で黙らせる。
 そして、少年達をひとりひとり睨みつけるように眺めた。ティオの全身に、毛虫が這い回るような不快感が生まれる。
「……どの子も、見るからに卑しい者ばかり。仮にわが子がいたとしても、これでは国の害となります」
 あまりの発言に、会議室の空気が一段温度を下げたような錯覚さえ生まれた。
 いかに王妃とて、わざわざ呼び出した相手に言ってよい台詞とそうでないものがあるのではないか。
 あれが権力者の姿勢というものなのか。
 ティオは、街で悪漢達から感じたものとはまた別の、人間に対する恐怖感を刺激されてうつむいた。
 王妃に文句を言うことはおろか、不快感さえ表面に出すことを抑えなければならない。もし、不興を買えば自分だけではなく、世話になっているオレリオン家にも累が及ぶかもしれないのだ。
 ひたすら、嵐が去るのを待つしかなかった。
 侍従達でさえ言葉をなくす中、人の形をした災厄である王妃はさっさと立ち上がり、早足で出て行ってしまう。慌てて侍従達が追いすがった時には、乱暴に扉が閉められていた。
 残されたのは、暗い空気だった。
 ティオは、侍従の一人につれられて自分に宛がわれた一室に導かれていた。
 部屋に入ると、待っていたダインとオリカがはじかれたように立ち上がる。
 侍従は、二人に事情を説明した――もちろん王妃の反感を持たれる態度は隠したが、いくら口を濁しても伝わるものは伝わってしまう。
 しばらく休んで、後の指示を待つようにと侍従は言い置き、部屋を出た。
「ティオ君」
 侍従が扉を閉める音と同時に、オリカが駆け寄ってきた。
「な、何かおかしなことになっちゃったよ」
 心配そうに瞳を潤ませるオリカを安心させようと、ティオは軽く言おうとしたが。出た言葉は、ひび割れたものだった。
 そこで、ティオは唐突に気づいた。
 ありえない、と思っていても実は期待していたのだ。本当の両親がわかるかもしれないことを。貴族の陰謀で引き離されたのであって、いらなくて捨てられた子ではないのだ、と証明されることを。
 しかし、実際にあったのは王妃の心無い言葉。
 それがティオの心を、深く鋭く抉っていた。
 寺院の人々を除けば、ティオともっともかかわりが深いのがオリカだ。そんな内心を悟ったのだろう、ティオの頬に慰めるように手を当てた。
 女ながらに剣を使うオリカの掌は、少しだけ硬い部分があったが、何より暖かかった。
「う……」
 思わず涙が出そうになるティオだが、それだけはこらえようと歯を食いしばる。
「王妃様が、そんな態度を。あのお優しかった方がまさか」
 信じられない、という言葉をこぼしたのはダインだった。
 オリカがティオの頬から手をはずし、父親を振り返る。
「王妃様を、ご存知なの?」
「うむ。私がまだ都落ちする前に、幾度かお目にかかったことがある。当時は非常に御辛い境遇だったはずなのに、むしろこちらを気遣ってくださった」
 だが、実際にティオが会った王妃はひどい人物としか思えなかった。
 信じられんとまたつぶやいて首を振るダインから視線をはずすと、ティオは気分を落ち着けるために深呼吸しようとした。
 と、扉が軽い音を立てて開く。
 侍従がもう指示を持ってきたのか、と思ったが。入ってきたのはレンだった。
「レン!? どうしてここに」
 オリカが髪を揺らして首をかしげた。レンの格好はいつもどおりのターバンと外套で、到底かしこまった場所に来る姿とは見えない。
 レンは、不機嫌そうな顔つきを隠さずに早口で事情を説明した。
 かつて義賊だったレンの父親は、今でも街の裏社会に顔が利くため、政庁の依頼で王子候補捜索を手伝っていた。そのため、レンの耳にも何かと情報が入っていたのだ。
「で、王妃様を拝めるなんてめったにない機会だから、下働きのふりをして入り込んだんだけど」
「ちょっと……」
 オリカがあきれた声を上げる。よく警備の人間につまみ出されなかったものだ。
「でもさ、王妃様ってすごく酷い事をティオ達に言ったんだって?」
 レンの頬は、怒りで朱が差している。
「しかも、一人になりたいっていって、勝手に森に遠乗りにいっちゃったらしいんだ。みんな大慌てだよ」
 森、というのは都市の一角にある、自然が手付かずの区画のことだ。貴族がちょっとした馬による遠乗りや狩猟を楽しむための場所。開発どころか平民の立ち入りは厳禁されているため、ティオには縁がない場所だ。
 わがままな王妃に振り回される侍従や警護役の人々の苦労を思いやり、ティオは額に手を当てた。
「……ね、二人とも」
 レンが、ティオとオリカに身を寄せてきた。その腕が、二人の首を引き寄せて内緒話をする形になる。
「王妃様に、一言文句いってやろ