ハア…ハア……ハア………ハア
乾いた空気が辺りを包んでいた。
コンクリートで出来た建物の中は半壊しており、あちこちにコンクリートの片が散らばっている。
殺風景な内観を色付けするかのように、壁や床の数か所には紅い血が彩られていた。
建物の中には所々に死体が沈黙を保ったまま横たわり、それは迷彩模様の軍服を着こんだものもあれば、服とは言い難いほどのボロボロの布を身にまとっているのもあった。
中には体の一部が欠損しているものもいたが、皆行儀よく静かに倒れている。
外は朝なのか昼なのか定かではないが、割れたコンクリートの隙間から入ってくる日差しは建物内のホコリと死体、そして空気中に漂う硝煙を照らしていた。
遠くの方では誰かが叫ぶ声が聞こえた後、銃のこぎみ良いタタタッという音が続いてやってきたが、タアンとさっきとは異なる銃声がやってきて、それもすぐに消えてしまった。
建物の中はまるで十数分前まで戦闘が行われていたとは信じられないほどに静まり返り、銃声も爆音もなければ、誰かが歩く足音すらなくなっている。
かつて轟音をその銃や手榴弾で鳴らしていた者が今は呼吸音すらも消して倒れているその中で、傭兵ドゥは膝を床に付けた状態のまま、荒い呼吸の音をコンクリートの室内に響かせていた。
彼の周りには数体の死体が倒れており、どれもが迷彩服を着こんでいる。
床には彼らが使っていた自動小銃が、墓標のように彼らの横に倒れ、充満している血と火薬の臭いが、何が起こったのかを色濃く物語っていた。
少し伸びた黒い髪を、後ろで結わえたドゥの身体からは血が流れており、彼が下に着ている灰色のシャツを赤黒く染めていた。
丁度正座のように座っている彼の右手には拳銃が、そして左手にはアーミーナイフが握られていたが、やがて彼の手から力なく床に落ちた。
ドゥは俯いていた顔をゆっくりと上げて、天井をぼぉっと見つめた。
そしてそれと同時に、彼は自分の死がもうすぐやってくることを悟った。
・・・ああ…こりゃ無理だわ…死んだなオレ…
彼は左手を少しずつ上げると、灰色だったシャツの上に着ていた砂色のジャケットの懐に手を入れた。
シャツに染み込んだ血が彼の手でピチャ、ピチャと音を立てるのが、彼には不愉快に感じられた。
やがて懐から手が出された。
その手にはもはやどの銘柄かさえもわからない煙草の箱が握られていたが、箱は真ん中に穴が大きく空いており、中に入ってたはずの2,3本の煙草も消えていた。
ドゥはクソッと煙草の箱を握りつぶすと、自分の前方に向かって投げた。
向こうの壁に当てるつもりだったのだが、もはや投げる力も消えてしまったのか、紙で作られた箱は力なく、へろへろと彼のすぐ手前に落ちた。
ドゥが生まれたとき、彼には普通の人生を歩む道はなかった。
母は場末の娼婦であり、客の一人であろう父親はだれなのか分からない。
しかし母は彼の黒髪と顔を見るたび、「アンタの父親は日本人だろうよ」と言っていたのを今でも覚えている。
最も、母親も客からの病をもらってとっくに死んでしまったが。
17歳の誕生日を過ぎるまで、ドゥは考えられそうなことは全てやって生きてきた。
周りにいた仲間も、翌日には路上に倒れていたこともよくあった。
ドゥに転機が訪れたのは、国内での独立運動が活発化し、ついに独立戦争が勃発した時であった。
ドゥの地域は偶然にも独立軍の本拠地として使用されることとなり、ドゥは傭兵として独立軍へもぐりこんだ。
そこからは戦場とキャンプ、安宿を回る生活が繰り返されてきた。
今まで散々っぱら人を殺して来たんだ...自分だけノウノウと安楽死出来るとは思っちゃいねぇ...まあでも死ぬ時はなるべく楽に死にてぇんだけど…そうなるとやっぱ安楽死かな?
ふと、外から建物へと入ってくる音が聞こえてきた。カンカンカンと階段を上がる音が辺りに響く。
味方か?
まあだとしてもこの傷じゃ治療が済む前にアウトだけどね...だけどモルヒネぐらいはあれば苦しまずに逝けるかな
そんなことが、わずかにドゥの頭によぎったが、やってきた兵士の服を見た瞬間、ドゥは心の中でチッっと舌打ちをした。
そして既に捨てられた煙草の箱のように、ドゥの予想した期待はくしゃくしゃになった。
何だ...相手チームかよ...
ドゥの下に近づいてくるのは、ドゥが所属している軍とは異なる、迷彩柄の軍服を着こんだ兵士であった。
2人、いや後ろから来る者を入れれば3人か。
なにか大きな声で喋っているが、聞き取れない。
それもそうか。お互い知らないもん同士でドンパチやってるんだしな…
数人の敵の兵士は、辺りをキョロキョロと銃を向けながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる。どうやら罠であると疑っているようだなとドゥはまだはっきりとしている目で見ながらそう考えた。
死にかけの体に爆弾でも巻きつけてるとでも思ってるのかね。
だが残念。そんなコトやるほどオレは軍に命をかけてないし神にも命を捧げてないしね…
自爆なんて痛そうなコトお前らだけでやってくれよ。
ドクン!!
突然ドゥの腹の底から熱いモノが込み上げてくると思った瞬間、何やらどろっとした液体が口から溢れ出てきた。
ドゥが地面に落ちた液体を見ると、その液体は赤く色付けされてあり、自分の血液であるとすぐに分かった。
あ゛あ゛あ゛あぁ…痛え!!体が崩れてくようにイテぇッ!!
糞クソくそッ!!どうせ死ぬなら楽に殺せよクソッ!!
脳内麻薬によって麻痺していた痛みが、段々とドゥの身体を這いあがった。
ドゥは声にならない悲鳴を口の中に漂わせ、床に付くぐらい額を下げて悶えていたが、ふとドゥの頭の上で、何か向けられている気配がした。
ドゥが痛みに軋む体を無理やり起こし、頭を上げると、先ほどの敵兵が銃口をこちらに向けているのが見える。やはり何を言っているか分からない言葉で喋っているが。
「お…おい…」
ドゥは敵兵に向かって声を出し始めた。
それに気づいた兵士たちも、銃を構えなおしてこちらの方を睨んでいる。
一人の兵士と目が合った。黒に茶色を混ぜたような焦げた色の瞳を向けながら、無精ひげを纏わせた顔には泥や砂が乾いて白く化粧をしていた。
ドゥは伝わらないとは知りながらも、途切れ途切れに声を出した。
声を出すというよりも口から空気を出してるようなものであり、唇を動かすだけでも体中がゴワゴワと異様な感触が駆け抜ける。
「こ…ころ…してくん…ねえかな?………そ…ろそ..楽…に…てえ」
兵士たちは黙ってこちらを見ている。自分で聞いても、何を言ったのか分からないほどの小さく、かすれた声であった。
ふと、兵士の一人が前に歩み出て、ドゥの額に銃口を向けた。
無精ひげに、泥と砂で白くなったあの兵士であった。
お…伝わったのかな…オレが言いたかったコト…君にとどけ僕の想いってか?
段々と、ドゥの四肢からは感覚がなくなっていった。煙草の空箱を投げた手も、今では義手でも付けたのかというくらい無機質に感じられた。
兵士の指が、トリガーを引こうとしているのが分かる。ドゥはニッと笑いながら(本人は笑えたと思えた)
敵兵に「悪いね」と、口を動かした。
そしてドゥが最後に聞いたのは「パッ」という、破裂音の途中までだった。
「ホラ!!もうすぐだ!!もう後少しで出てくるよ!!」
「あ゛あ゛あ゛あぁぁ!!!!ああああ゛あ゛ー!!」
目の前が暗くなっってからしばらくして、ドゥの耳に入ってきたのはどことなくしゃがれた婆さんの声と、泣き喚くように甲高い女性の声であった。
ドゥは目を開けようとしたが、なぜだか思う様に開かない。ひどく眩しくて目が開けられないような状況に似ている。
オレはもう死んだのではないか?
今は天国か地獄に向かっているんじゃないのかこれ?
ドゥは決して信仰の厚い方ではないが、聖書は一通り目は通した。
本の中には、人は死んだら天国か地獄に魂が送られるって書かれてたとドゥはうっすらと記憶していた。
しかしドゥの耳に聞こえてくるのは、天使の優しい歌声でもなければ、悪魔の薄暗い笑い声でもなかった。
「ほら!!出てきて出てきた。生まれたよニベル!!」
「うう…無事なの…私の子供は…?」
「ちょっと待って!!…なにこの子…泣かないわ…」
何さっきから周りで言ってるんだ?オレはさっき、敵の野郎に頭撃ち抜かれてこの世にグッバイしたはずだ。オレは死んだはずだろ!?
それとも何か?
手続きに不備があったのか?
ここどこなんだ。さっきから眩しくて目が開けらねぇけど、天国か地獄かはっきりしてもらいてぇ…出来れば天国の方がいいが
「な、泣かないって?だ、大丈夫なの?私の子は…..」
「息はしてるわ…でも何で泣かないの?」
ドゥの耳に、ぼやけた声が入ってくるが、何を言っているのかさっぱり聞き取れない。
両手を動かしてみたが、先ほどよりは動かせそうだがやはり重く感じる。
未だに現状を把握できない状態で、体に熱い液体が掛った。何か温かいもので体を洗われている。
ここでドゥは、自分がいま裸であると頭の中で気付いた。
しばらくしてドゥの体に布が巻かれた感触があった。そこでドゥは、うっすらと、周りの景色が見れることに気づいた。
ここは、どこなんだよ一体…
ドゥの頭はそれでいっぱいであったが、頭がひどく重く感じられ、眠気が襲ってきたかのようになり考えられなくなった。
そしてドゥの意識は深く落ちていった。
「あれ?眠っているわこの子。奇妙な子…泣かずに生まれて、すぐに眠るなんて聞いたことない」
布を巻きつけて産湯のお湯を拭き、清潔な布を赤ん坊に巻きつけながら女性はいぶかしげに、眠っている赤ん坊を見つめた。
「それでもこれは私の子よ…ありがとう…私の所に生まれてきてくれてありがとう…」
ベッドで横たわる女性ニベルは、眼の端に涙を浮かべながら赤ん坊を抱く女性へ両手を伸ばした。
女性はそっと、ニベルの腕に赤ん坊を入れた。
ニベルは腕で眠る赤ん坊を愛おしく見つめている。
女性は桶にくんだ水に手を入れ、血が付いた手を洗い始めた。
壁際に立っていた、黒いドレスのような服を着た老婆が口を開いた。
「名前はどうするんだいニベル?もう決めてあるのかい?」
老婆の言葉に、赤ん坊の母親となった女性ニベルはそっとベッドに赤ん坊を乗せ、その額を撫でながら老婆に、そして赤ん坊に答えた。
「ドゥアール…ドゥアールよあなたの名前は…」
窓の外は丁度、太陽が沈む時間。
空を進む飛空船が夕日の赤と訪れる闇の黒とに染まりながら小さくなって飛んでいくのが見えた。
トリステイン王国
ラ・ロシェールに近い町オリヴィエの娼婦街で、
ドゥは再び人生を歩む。