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【格闘技】日沖発が総合格闘技で三冠 15歳で赤い糸に導かれた男2011年1月8日 紙面から 総合格闘家の日沖発(27)が昨年12月30日に行われた「戦極Soul of Fight」(東京・有明コロシアム)で、第3代SRCフェザー級王者に就いた。相手はそれまで日本人相手に3連続秒殺KO勝ちし、怪物と恐れられたマルロン・サンドロ(33)=ブラジル=。KOできなかったとはいえ、文句なしの判定勝ち。これでTKO世界フェザー級、修斗世界ライト級世界王座に次いで「総合格闘技の三冠王者」に。そんな男のルーツを探ってみた。 (竹下陽二) ささやかな祝勝会だった。サンドロを破った夜、日沖は所属道場の代表でもある鈴木陽一と一緒に宿舎近くの居酒屋に繰り出した。 「中学3年でボクが道場の門をたたいた時、まさか三冠王者になるなんて思わなかったでしょう」。ウーロン茶を飲みながら、日沖がいたずらっぽく笑った。激闘を物語るように、サンドロのパンチで1本欠けてしまった前歯がのぞいた。 「そうだよなあ」。鈴木はしみじみ思った。乾杯はウーロン茶だったが、日沖の「どうぞ、ビール飲んでください」という申し出に甘えた。グビリとノドに流し込んだ味は格別だった。 運命的な出会いだった。1998年8月のこと。鈴木は総合格闘技道場「ALIVE」オープン準備のため忙しい日々を過ごしていた。名古屋市内に総合格闘技の道場を開設しようと物件を探し回ったが、いい物件はなかった。当時はまだ、総合格闘技が一般的に知られておらず、競技に対する理解も少なかった。1年間探し回ってようやく理想的な物件が見つかり、オープンを1カ月後に控えてマットを敷くなどの作業をしている時、「入会したいんですが」とひょっこり訪れた少年がいた。 それが、まだあどけなさの残る15歳の日沖少年だった。実は、鈴木が足を棒にして探し当てた物件は、日沖の実家から100メートルもない所にあった。まるで運命の赤い糸に導かれるように出会った2人であった。 日沖には自分の人生を決定付ける人物とのもう一つの“出会い”があった。それは、当時400戦無敗と言われた、90年代総合格闘技のカリスマ、ヒクソン・グレイシー(ブラジル)だ。あらゆるジャンルの格闘家を撃破し、プロレスラー高田延彦に連勝したヒクソンの姿をマスメディアを通じて見て、日沖は漠然と「強い男」にあこがれを持つようになっていた。 「ボクも格闘家になりたい。そして、世界一強い男になりたい」 オープン前に入会することになった日沖は、学校が終わると道場に直行した。学校が休みの日は一日中入り浸った。道場にいるのが楽しくて仕方なかった。総合格闘家としての基礎作りが本格的に始まった。 鈴木が遠くをみつめるようなまなざしで言った。 「最初に会った時は、普通の少年でした。人と違うとしたら、入門した15歳の時から『オレは世界最強になるんだ。ヒーローになるんだ』と12年間言い続けていることだと思います。子供が夢を持つのはよくあることだけど、いつかあきらめてしまう。でも、あいつはいまだに言い続けてますから」 あの焼け付くような、15の夏。道場の門をくぐってから、12年余りの歳月が流れた。手元には、血と汗と涙の結晶の3つのベルトがある。しかし、日沖の格闘技に対する“ピュアな思い”は、今も、そしてこれからも、きっと変わらない−。 (敬称略) ▼日沖発(ひおき・はつ) 1983(昭和58)年7月18日、名古屋市生まれの27歳。177センチ、69キロ。総合格闘技道場「ALIVE」所属。01年アマチュア修斗選手権ライト級3位。02年10月プロデビュー。06年5月、カナダのビッグイベント「TKO」で世界フェザー級王座を奪取。09年、3月と5月の戦極フェザー級GPで2連続一本勝ちし決勝トーナメント進出。8月の準決勝も勝ち進んだが、直後の決勝戦は激戦のダメージのためドクターストップ。10年5月、修斗ライト級世界王座獲得。同年12月、SRCフェザー級王座獲得。プロ総合成績23勝4敗2分。 PR情報
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