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師走の多事で時間が取れず年を跨いでしまいましたが、昨年12月22日の末端会員さんの書込みに関して少し長くなりますがコメントを。
末端会員さんは「シアトル事件も、どうも公平に見るところ学会によるデッチアゲ事件だという可能性が非常に高い」と、阿部日顕氏が聞いたら泣いて喜びそうな事を言われていますが、リアルタイムで様々な写真資料や双方の証言を目にしながら事の進行を見てきた限りでは、日顕氏の買春はまず否定の仕様が無い事実だと思いますよ。
それはともかく、末端会員さんは、「大御本尊からの別離」も「正本堂破壊」も、創価学会が受けている「厳然とした罰」だと言われています。
<1> 先ず、末端会員さんが問題にされている「大御本尊からの別離」という点について。
末端会員さん云う所の「大御本尊からの別離」とは何を意味しているのか?
そもそも大御本尊は「妙法蓮華経」の当体であり、一切衆生も「妙法蓮華経」の当体であるという仏法の法理から言えば、「大御本尊からの別離」という事自体が意味をなしません。
また、今日、多くの創価学会員は、日寛上人が本門戒壇の大御本尊を書写された御本尊の御形木御本尊を拝しています。 その意味で「大御本尊からの別離」は当たらない。
となれば、末端会員さんの云う「大御本尊からの別離」とは、現在創価学会員が大石寺にある戒壇の大御本尊にお目通りできなくなっている事、と解する他は無い。
「戒壇の大御本尊にお目通りできる」と言えば、戒壇の大御本尊を相承された貫主(=法主)をはじめとする宗門僧侶は何時でも「戒壇の大御本尊にお目通りできる」立場です。
従って末端会員さんの云う所によれば、創価学会員とは逆に、毎日戒壇の大御本尊にお目通りできる立場にある宗門の僧侶達は「大御本尊から別離していない」、その意味で罰は受けていない、ということになります。
末端会員さんは「宗門が正しいと言ってるわけではない」と言われていますが、結局は、
「現在の創価学会員は、総本山大石寺に参詣することも、本門戒壇の大御本尊を拝むこともできない状態です。… 大御本尊から離れた者が、いかに理屈を並べても、正しい教えから外れているという事実に変わりはないのです。」(『創価学会員への折伏教本』・第3章)という宗門側の言い分に沿った主張をされているわけです。
そもそも成仏、即ち仏性を成(ひら)く事の大前提として、大聖人は「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」(生死一大事血脈抄・御書p.1338)と仰せであり、堀日亨上人も次のように言われています。
--- 仏法の大師匠たる高祖日蓮大聖開山日興上人已来の信心を少しも踏み違えぬ時、末徒たる我等の俗悪不浄の心も・真善清浄の妙法蓮華経の色心となるなり 此色心の転換も只偏に淳信篤行の要訣にあり、若し此の要訣を遵奉せずして・不善不浄の邪信迷信となりて仏意に違ふ時は・法水の通路徒らに壅塞せられて・我等元の侭の粗凡夫の色心なれば・即身成仏の血脈を丞くべき資格消滅せり(堀日亨上人・富士宗学要集1巻 176頁)
即ち、「高祖日蓮大聖開山日興上人已来の信心を少しも踏み違えぬ」ことが、「我等の俗悪不浄の心」が「真善清浄の妙法蓮華経の色心となる」、即ち「成仏」ための大前提です。 もしこれを踏み違え、「不善不浄の邪信迷信となりて仏意に違ふ時は」「即身成仏の血脈を丞くべき資格消滅せり」、従っていくら大御本尊を国法上所有し、毎日大御本尊にお目通りしようとも無益であることになります。
三宝義を改竄し、依法不依人の戒めに違背し、邪義を捏造し続けている今の宗門が「日蓮大聖開山日興上人已来の信心」を「踏み違え」ている事は明白ですから、当然、いくら大御本尊を国法上所有し大御本尊にお目通り出来ようとも無益であり、「即身成仏の血脈を丞くべき資格」は「消滅」している事になります。
では、もし我々がその前提をクリアーし「即身成仏の血脈を丞くべき資格」があると仮定しても、我々が仏性を成いて宿命を転換できるかどうかは戒壇の大御本尊にお目通りできるかどうかによるのではありません。 仮に将来、大石寺より現宗門一派が一掃され、創価学会員が戒壇の大御本尊にお目通りできる様になる事があったとしても同じです。
戒壇の大御本尊に何千・何万回お目通りしても、それだけでは自行であって化他行にはならないからです。
大聖人が、
--- 南無妙法蓮華経は自行化他に亘るなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経を勧めて持たしむるなり(御義口伝巻上・747頁)
--- 我もいたし人をも教化候へ(諸法実相抄・1,361頁)
--- 謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし(曾谷殿御返事・1056頁)
と言われている様に、化他行=折伏・弘教の実践がなければ自行・化他の題目を唱える事にはならず、成仏も宿命転換も叶わないのです。
逆に、「即身成仏の血脈を丞くべき資格」があり、自行・化他の実践に励むところ、山谷曠野いずこにあっても「真善清浄の妙法蓮華経の色心となる」事になります。
日蓮仏法は聖地主義ではありません。 総本山などの聖地に出向かなければ救済されない、成仏できない、というのでは即身成仏とはなりません。
大聖人が、
--- されば我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ常寂光の都為るべし、我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして天竺の霊山を見・本有の寂光土へ昼夜に往復し給ふ事うれしとも申す計り無し申す計り無し。(最蓮房御返事・1343頁)
--- 今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は化城即宝処なり我等が居住の山谷曠野皆皆常寂光の宝処なり云云。(御義口伝巻上・734頁)
--- 法華経を持ち奉る処を当詣道場と云うなり此を去つて彼に行くには非ざるなり、道場とは十界の衆生の住処を云うなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処は山谷曠野皆寂光土なり 此れを道場と云うなり (御義口伝巻下・781頁)
と言われているように、「即身成仏の血脈を丞くべき資格」のあるところ、我々が自行・化他の題目を唱えて修行する場所は「何れの処にても」「山谷曠野皆寂光土」となり、成仏、即ち仏性を成いていける、という事です。 これは御本尊をお受けしていない内得信仰者であっても御形木御本尊をお受けしている者であっても同じです。
具体的には、悩み苦しむ友人、隣人のために、いかに反発され、罵られ、馬鹿にされても、御本尊にひたすら祈り仏法を説いていく、その行躰・実践の中でのみ、「山谷曠野皆寂光土」となって大御本尊に連なることができる、仏性を成いて宿命を転換していくことが可能となるのです。
要するに、我々の成仏、宿命転換の可否を決定づけるのは、「即身成仏の血脈を丞くべき資格」があるという前提と自行(勤行・唱題)・化他(折伏・弘教)の実践如何であって、戒壇の大御本尊にお目通りできるかどうかでないという事です。
<2> 次に、「正本堂破壊」について。
正本堂の破壊は確かに御供養の誠を尽くした我々からすれば残念な事ではありますが、そもそも正本堂の破壊は、平成2年12月から始まった宗門による一連の創価学会切り崩しの延長上の出来事です。 三宝義の改竄、依法不依人の戒めへの違背、邪義の捏造等、宗門が仏法に背いている事が明らかになった以上、「正本堂の破壊」を含む一連の宗門の所業は、僭聖増上慢、道門増上慢等、三類の強敵の所業であると断じるべきです。
御書に、
――― 誰人にても坐せ諸経は無得道・堕地獄の根源・法華経独り成仏の法なりと音も惜まずよばはり給いて諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ三類の強敵来らん事疑い無し(如説修行抄・504ページ)
――― 此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず、第五の巻に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云、(兄弟抄・1087ページ)
との仰せのように、三類の強敵、三障四魔の発現は、創価学会が「諸宗の人法共に折伏して」「行解既に勤め」た結果「競い起」ったものであり、創価学会が御書の通りに広宣流布を推進してきた事の証しであって、創価学会が受けている「罰」などではありません。
もし学会総体が「罰」を受けるとすれば、創価学会員全員に「罰」の現証が出なければおかしいはずです。 しかし実際は私の周囲にも正本堂の御供養に伴って「功徳をいただいた」体験を語られた方は沢山おられますし、その方々は現在でも順調な生活を送っておられます。
以上のように、末端会員さん云う所の「大御本尊からの別離」も「正本堂破壊」も「創価学会が受けている罰」などとは考えられません。
<3>
財務にまつわる不祥事や、自民党との連立下で迷走し続けた公明党の問題は、現在の創価学会を内部から侵食している「師子身中の虫」の問題だろうと思います。
大聖人が、
――― 外道・悪人は如来の正法を破りがたし 仏弟子等・必ず仏法を破るべし 師子身中の虫の師子を食等云云 (佐渡御書・957ページ)
と言われているように、仏法を破壊する者は「必ず」和合僧団の内部に出現します。 師匠を裏切る増上慢の弟子達によって仏法は破壊されていくわけです。
大聖人御自身も、御存命中は三位房、少輔房等に裏切られ、御入滅後は五老僧に裏切られました。
創価の三代の会長も然りです。
小説・『人間革命』に次の様にあります。
――― 戸田は、未来を見通すかのように話していった。
「これから滝本たちが政界に出て行くが、私は心配でしかたないのだ。 政界というのは権力と野望と駆け引きの魑魅魍魎の世界だ。 皆、いまは新しい気持ちではりきっているが、下手をすれば、すぐに精神が毒され、私利私欲に狂ってしまう者が出ないともかぎらないだろう。 私の心を忘れぬ者は、政治革新を成し遂げ、民衆のための偉大な政治家に育つだろうが、私利私欲に狂えば、広布を破壊する魔の働きになってしまうだろう。 政界への進出は、私にとっても、学会にとっても、大きな賭けなのだ。」 (『人間革命』第12巻・280頁)
残念ながら、この「滝本」=竜年光は退転・反逆してしまいます。それによって戸田会長と創価学会は「大きな賭け」の一つに負けてしまった事になります。
竜年光に限らず、竹入、矢野から冬柴に至るまで、増上慢の公明党議員達が師匠を裏切り続けてきた、師匠と創価学会が「大きな賭け」に負け続けてきたと言えるでしょう。
野党であった公明党が自民党を組み始めた当初は、我々創価学会員としては、同志である公明党議員が自民党と霞ヶ関を内部から改革してくれる事への期待があったと思います。 しかし実際は連立維持を最優先することで、党是に違背したイラク戦争支持をはじめ、師匠が反対を表明していた教育基本法の「改悪」等に手を染めてしまった。 国民の信頼を著しく失ってしまいました。
その結果は周知の通り、「常勝関西」の敗北をもたらし、政党別得票数の立て続けの減少として厳然と示されています。
862万票(2004年)→ 776万票(2007年・86万票減) → 763万票(2010年・13万票減)
それでも、これだけの得票減で済んだのは奇跡であり、健気な学会員の奮闘にはただただ頭を垂れるしかありません。
いすれにせよ、「政治の事は自分たちの方がよく分かっている」などと師匠を侮り、師匠の指導などろくに読みもせず、己れの我見を増長させていった公明党議員達の一念の狂いが「広布を破壊する魔の働きになってしま」ったものと考えられます。
学会員の供養でメシを喰っている信濃町の‘職業幹部’の一部(全部とは言いません)も同じです。
御書や創価三代の会長の指導などは二の次で、宗門や顕正会と直接対峙して闘おうとせず、師匠を攻撃している国家主義勢力(「反日的日本人」や「自虐史観」などと連呼している勢力)と闘おうともせず、ひたすらリスクを避け保身に走る ―― そうした‘信濃町の官僚’及び学会組織の幹部にとっては、自民党と公明党の連立は、権力という‘大樹の陰’に入り自分達の地位の安定をはかる絶好の機会と見えたでしょう。
そうした輩ほど、世間的な権威に追従し、第一線の会員に奉仕する精神も無く、「会員は新聞販売拡張と財務と票集めだけやっていればいい」とばかりに第一線で奮闘する学会員を手段化しようとする。
保身や惰性には自覚症状がありません。 知らず知らずのうちに保身や惰性に陥ってしまう所にその怖ろしさがあります。
小説・『人間革命』には「保身」についてこう書かれています。
――― 地位の安定を考える生き方の根本にあるものは保身であり、そこには、広宣流布に挺身しようとする死身弘法の精神はない。 保身に走る者は、結局は恐るべき悪知識となり、それに惑わされれば、やがては、その人も退転せざるをえない。 (『人間革命』第12巻・68頁)
これは腐敗した宗門僧侶を念頭に書かれたものですが、「第二の日顕宗」とも云うべき一部の‘信濃町の官僚’や学会組織の幹部にも当てはまるでしょう。
今後、そうした学会の内部に巣食った「師子身中の虫」が一層勢いを増していけば、創価学会は御本尊との命脈を絶たれ、功徳を失い、崩壊の一途を辿っていくでしょう。
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