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平和賞記念コンサート

 投稿者:佐藤博之71歳  投稿日:2011年 1月 7日(金)08時02分5秒 p2064-ipbf3509marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
  ノーベル平和賞受賞記念コンサートは素晴らしい、劉さんは今の厳しい寒さの中で
受刑中である。コンサートで劉さんの言葉が度々紹介された。「国家に恨みはない、
言論の自由を守り投獄されるのは私を最後にしてほしい」歌われる歌も平和賞にふさわしい
曲でした。ハービーハンコックさんの曲も最高だ。イマジンを編曲された曲と思うが
6000人の中で大きな拍手を浴びた。中国人も見てほしい。BSだから見た中国人もいる
はずである。中国の首脳も苦悩しているに違いない。投獄は誤りだ。投獄すれば返って
世界の非難を受ける。言論の自由に耐えられる共産党であるべきだ。私は少年時代
中国共産党(八路軍)に救って貰った。大恩はあるが、共産党が言論の自由を迫害する
事は共産党の誇りを傷つける。人民の物は糸一本も搾取しないと云われた理想にも反する
一日も早い釈放を訴える。
 

こんばんは

 投稿者:桜@青い太陽  投稿日:2011年 1月 5日(水)21時31分22秒 p4118-ipbf901akatuka.ibaraki.ocn.ne.jp
編集済
  みなさん、こんばんは。

ドプチェクさん、御久し振りです。投稿、有難うございます。そうですね。ジローズの替え歌、その通りなんでしょうね。

戸田先生の時代に、日蓮正宗を外護する団体である創価学会を先手を打って独立した宗教法人として登録していた事実は重要でしょう。

学会から宗門へ行っている人間を見ると、組織で上の幹部に成りたかった人間で上の幹部になれなかった奴らが行っている現実がある。

別に、幹部なんて責任だけかかるわけで、やりたくないのが普通なんですが、上に行きたい連中がいるんですよ。そういう連中が宗門に行く(笑)。直ぐに、重要職として徴用されますからね。宗門で幹部やる人間なんかいやしない・・・層が薄いからなんです。

まあ、宗門なんか滅茶苦茶ですよ(笑)。

正本堂を叩き壊しているわけですから、客観的に見て、滅茶苦茶でしょう・・・

ですが、学会側についている日蓮正宗の僧侶の集団もいる。これが重要です。別に学会側につくメリットなどないのに、学会側についている僧侶たちこそ、義憤によって立ちあがった正義の集団です。日蓮正宗護法同盟や日蓮正宗青年改革同盟などです。

正宗と完全に分裂したわけではない。

改革集団の僧侶とは僧俗和合です。

かえって、教宣部よりもずっと力がある(笑)。

教宣部は、公明党の党員や民音の担当と同じように持ち回りであって、破折力があるから任命されているわけじゃないですから・・・

minokoさん、投稿、有難うございます。本年もよろしくお願いいたします。

佐藤さん、投稿、有難うございます。

日蓮正宗の蘇生ですが、学会側についている集団がカギを握っていると個人的に思います。

がンさん、投稿、有難うございます。

おてもやんさん、始めましてですよね・・・

投稿、有難うございます。

詳しくチェックしていただいて恐縮です。

ROMされている方でも、投稿内容に疑問を持たれたら、遠慮せず、投稿して下さいね。

本年もよろしくお願いいたします。
 

正宗を知らない創価学会員

 投稿者:ドプチェク  投稿日:2011年 1月 5日(水)07時19分49秒 3d048d-254.dynamic.tiki.ne.jp
  桜さん、皆さん、明けましておめでとうございます

最近、こちらでかつてその昔、学会が外護団体であった日蓮正宗と学会員が信仰の拠り所にしていた大石寺の大御本尊のお話が出ていますので、少しばかり。
早いもので、学会が正宗と決別してから今年の11月で20年になりますね。
対立→決別(正宗の破門&学会の独立)当初は、早く元どおりになってほしいと願っていた私ですが、しかし、今では寄りを戻さなくてもいい、否、その必要はほとんどなく、むしろ、学会にとって今の正宗の存在は不必要な代物でしかないぐらいに思っています。
独立当初は、はたしてやって行けるのだろうか?という不安な気持ちがありましたけど、しかし、正宗と決別後の学会は、ある意味で正宗時代に比べ自由な雰囲気になったという気がしますね。
無論、今の学会のお偉いさん?方や公明党の大先生?方のやってる事、学会&公明党の行き方・体質に対しては批判的な私で、まだまだ様々な問題が数多く存在する為、改善・改革の必要があると思っていますが。
その事は別としても、この20年間で日蓮正宗の時代を知らない学会員がかなり多くなっているという事実。
20年前にはまだ生まれていなかったり幼少年だったりした2世や3世もいれば、正宗との決別後に入会した人もいて、そういう人たちは当然、日蓮正宗の時代を知らないわけなのですから、その事を考えると、学会は昔に比べずいぶん変わって行ったと言うべきではないかと思います。
正宗時代を知っている古参の学会員の中には、未だに大石寺と大御本尊へのこだわりを断ち切れない人がいるのでしょうけど、私個人はもうずいぶん前に自分の中で正宗に対する幻想は消え去っています。
正宗時代を知らない学会員の多くにとっては、多分、大石寺と大御本尊は伝説的な存在でしかなく、こだわりは皆無に近いのではないか?と思うのですがね。
以前、桜さんのブログのコメント欄でお話したのではないか?と思いますけど、私は日蓮正宗の教義が間違っている、正宗は大聖人の教えを誤って解釈しているという考えでいます。
今後、学会が本当の意味で世界の宗教へと飛躍して行く為には、今までの正宗の教義がベースになっている教えの解釈の仕方を見直して、新たな解釈の仕方を模索して行くべきだと思っています。
日蓮正宗の時代を知らない、大石寺を知らない、大御本尊を知らない、ニューウェイヴの学会員たち、SGIのメンバーたち。
これから学会が良い意味で変わって行く為には、そういう日蓮正宗の洗礼を受けていない新たな力が必要になって来るのではないか?と思ってみるのですがね。


※ジローズ「戦争を知らない子供たち」の替え歌
「正宗を知らない創価学会員」

正宗と別れて ぼくらは入った
正宗を知らずに ぼくらは育った
信心が 深まり 歩き始める
創価の 歌を 口ずさみながら
ぼくらの名前を 覚えてほしい
正宗を知らない創価学会員

大石寺を知らないと 馬鹿にされるなら
大御本尊を知らないと 蔑まれるなら
今の 私に 出来る事は
悔しさを こらえて 祈る事だけさ
ぼくらの名前を 覚えてほしい
正宗を知らない創価学会員

自由が好きで 平和が好きで
みんなの幸せ 願う人なら
誰でも 一緒に 歩いて行こうよ
幸せと 平和の 広布への道を
ぼくらの名前を 覚えてほしい
正宗を知らない創価学会員
正宗を知らない創価学会員
 

明けましておめでとうございます

 投稿者:minoko  投稿日:2011年 1月 4日(火)21時20分32秒 ac231215.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
  本年もどうぞよろしくお願いいたします。
この一年、平和と正義の旗高く、
信頼と信義の輪を広げていきたい。
獅子の勇気と不死鳥の大生命力で
頑張る所存です。
今年一年どうぞよろしくお願いいたします。
 

日蓮正宗の蘇生はあるか

 投稿者:佐藤博之71歳  投稿日:2011年 1月 4日(火)08時15分54秒 p2064-ipbf3509marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
  平成23年、明けましておめでとうございます。
日蓮正宗は、時には反省し蘇生してまた乱れるでしょう。800年になる歴史を少し見ると
その繰り返しの様ですが、一宗が滅びるのではない国が滅びるのだと牧口先生は指弾
されたと聞いています。国が滅びない限り、大御本尊を唯一の頼りにして生々流転を繰り返すと思う。今思えば正本堂建設は夢でした。建設に四年従事したが建物の事ばかりに
熱中した。信心が浅かったのです。郷愁はないとは言えないが二度とあの熱気は戻らないでしょう。「やがて世間の法が仏法の全体と釈されて候」の御金言ですから、世間の法の優劣の中で生きる私達庶民の覚醒こそ大事ですね。今年は更に混濁すると思う。政治屋は
国民の不満を外に向けさせる手段を取る可能性がある。中国に対する嫌悪感を造成する事に
為政者は成功している。メデイアもまたメデイアとして生き抜く為、政権に媚びるでしょう
新聞の広告の多さは資源枯渇の危機など全く上の空で呆れるばかり。そして広告主に魂を
売るでしょう。広告費の無い掲示板の使命は高くなり、掲示板を利用して民衆を利用しよう
とする輩も増えるでしょう。週刊金曜日は広告主がいない週刊誌ですが経営は厳しく
存続させるには編集者の皆さんが苦闘するしかない。この週刊誌は聖教新聞を一部減らしても読むつもりです。正月は、DVDで「赤ひげ」を見ました。二木てるみさんが少女の役
でしたが迫真の演技を黒沢監督は引き出していましたね。いま生きている人は少なくなり
ましたが、この名画が今も観賞出来るのは幸福です。貧困が病を引き起こすのだという
セリフがありました。そしてその被害は子供が真っ先に受ける。今の時代を予兆しています
7人に1人が貧困子供になっているのは、政治・経済が堕落しているからです。経済界には
200兆円余の留保がある、金融資産は1300兆円もある。借金が900兆円もあるが、子どもが
貧困で身も心も病む社会とは呆れるばかりです。何が起ころうと子供の生命と教育を守る
政党を支持します。高校生の就職に身を削る政党を選択します。孤立の中で静かに死んで
いく高齢者の冥福を祈ります。孤立した高齢者を全員守る社会になっていません。
夢のような成長戦略は本当に夢で終わるでしょう。私達はそれでも強く生きるのです。
 

Re: 納得

 投稿者:おてもやん  投稿日:2011年 1月 3日(月)12時58分58秒 eAc1Adt152.tky.mesh.ad.jp
  師走の多事で時間が取れず年を跨いでしまいましたが、昨年12月22日の末端会員さんの書込みに関して少し長くなりますがコメントを。

 末端会員さんは「シアトル事件も、どうも公平に見るところ学会によるデッチアゲ事件だという可能性が非常に高い」と、阿部日顕氏が聞いたら泣いて喜びそうな事を言われていますが、リアルタイムで様々な写真資料や双方の証言を目にしながら事の進行を見てきた限りでは、日顕氏の買春はまず否定の仕様が無い事実だと思いますよ。

それはともかく、末端会員さんは、「大御本尊からの別離」も「正本堂破壊」も、創価学会が受けている「厳然とした罰」だと言われています。

<1> 先ず、末端会員さんが問題にされている「大御本尊からの別離」という点について。
末端会員さん云う所の「大御本尊からの別離」とは何を意味しているのか?
 そもそも大御本尊は「妙法蓮華経」の当体であり、一切衆生も「妙法蓮華経」の当体であるという仏法の法理から言えば、「大御本尊からの別離」という事自体が意味をなしません。
 また、今日、多くの創価学会員は、日寛上人が本門戒壇の大御本尊を書写された御本尊の御形木御本尊を拝しています。 その意味で「大御本尊からの別離」は当たらない。
 となれば、末端会員さんの云う「大御本尊からの別離」とは、現在創価学会員が大石寺にある戒壇の大御本尊にお目通りできなくなっている事、と解する他は無い。
「戒壇の大御本尊にお目通りできる」と言えば、戒壇の大御本尊を相承された貫主(=法主)をはじめとする宗門僧侶は何時でも「戒壇の大御本尊にお目通りできる」立場です。
従って末端会員さんの云う所によれば、創価学会員とは逆に、毎日戒壇の大御本尊にお目通りできる立場にある宗門の僧侶達は「大御本尊から別離していない」、その意味で罰は受けていない、ということになります。
末端会員さんは「宗門が正しいと言ってるわけではない」と言われていますが、結局は、
「現在の創価学会員は、総本山大石寺に参詣することも、本門戒壇の大御本尊を拝むこともできない状態です。… 大御本尊から離れた者が、いかに理屈を並べても、正しい教えから外れているという事実に変わりはないのです。」(『創価学会員への折伏教本』・第3章)という宗門側の言い分に沿った主張をされているわけです。

 そもそも成仏、即ち仏性を成(ひら)く事の大前提として、大聖人は「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」(生死一大事血脈抄・御書p.1338)と仰せであり、堀日亨上人も次のように言われています。

--- 仏法の大師匠たる高祖日蓮大聖開山日興上人已来の信心を少しも踏み違えぬ時、末徒たる我等の俗悪不浄の心も・真善清浄の妙法蓮華経の色心となるなり 此色心の転換も只偏に淳信篤行の要訣にあり、若し此の要訣を遵奉せずして・不善不浄の邪信迷信となりて仏意に違ふ時は・法水の通路徒らに壅塞せられて・我等元の侭の粗凡夫の色心なれば・即身成仏の血脈を丞くべき資格消滅せり(堀日亨上人・富士宗学要集1巻 176頁)

即ち、「高祖日蓮大聖開山日興上人已来の信心を少しも踏み違えぬ」ことが、「我等の俗悪不浄の心」が「真善清浄の妙法蓮華経の色心となる」、即ち「成仏」ための大前提です。 もしこれを踏み違え、「不善不浄の邪信迷信となりて仏意に違ふ時は」「即身成仏の血脈を丞くべき資格消滅せり」、従っていくら大御本尊を国法上所有し、毎日大御本尊にお目通りしようとも無益であることになります。
三宝義を改竄し、依法不依人の戒めに違背し、邪義を捏造し続けている今の宗門が「日蓮大聖開山日興上人已来の信心」を「踏み違え」ている事は明白ですから、当然、いくら大御本尊を国法上所有し大御本尊にお目通り出来ようとも無益であり、「即身成仏の血脈を丞くべき資格」は「消滅」している事になります。

 では、もし我々がその前提をクリアーし「即身成仏の血脈を丞くべき資格」があると仮定しても、我々が仏性を成いて宿命を転換できるかどうかは戒壇の大御本尊にお目通りできるかどうかによるのではありません。 仮に将来、大石寺より現宗門一派が一掃され、創価学会員が戒壇の大御本尊にお目通りできる様になる事があったとしても同じです。
戒壇の大御本尊に何千・何万回お目通りしても、それだけでは自行であって化他行にはならないからです。
大聖人が、
--- 南無妙法蓮華経は自行化他に亘るなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経を勧めて持たしむるなり(御義口伝巻上・747頁)
--- 我もいたし人をも教化候へ(諸法実相抄・1,361頁)
--- 謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし(曾谷殿御返事・1056頁)

と言われている様に、化他行=折伏・弘教の実践がなければ自行・化他の題目を唱える事にはならず、成仏も宿命転換も叶わないのです。

逆に、「即身成仏の血脈を丞くべき資格」があり、自行・化他の実践に励むところ、山谷曠野いずこにあっても「真善清浄の妙法蓮華経の色心となる」事になります。
日蓮仏法は聖地主義ではありません。 総本山などの聖地に出向かなければ救済されない、成仏できない、というのでは即身成仏とはなりません。
大聖人が、
--- されば我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ常寂光の都為るべし、我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして天竺の霊山を見・本有の寂光土へ昼夜に往復し給ふ事うれしとも申す計り無し申す計り無し。(最蓮房御返事・1343頁)
--- 今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は化城即宝処なり我等が居住の山谷曠野皆皆常寂光の宝処なり云云。(御義口伝巻上・734頁)
--- 法華経を持ち奉る処を当詣道場と云うなり此を去つて彼に行くには非ざるなり、道場とは十界の衆生の住処を云うなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処は山谷曠野皆寂光土なり 此れを道場と云うなり (御義口伝巻下・781頁)

と言われているように、「即身成仏の血脈を丞くべき資格」のあるところ、我々が自行・化他の題目を唱えて修行する場所は「何れの処にても」「山谷曠野皆寂光土」となり、成仏、即ち仏性を成いていける、という事です。 これは御本尊をお受けしていない内得信仰者であっても御形木御本尊をお受けしている者であっても同じです。
具体的には、悩み苦しむ友人、隣人のために、いかに反発され、罵られ、馬鹿にされても、御本尊にひたすら祈り仏法を説いていく、その行躰・実践の中でのみ、「山谷曠野皆寂光土」となって大御本尊に連なることができる、仏性を成いて宿命を転換していくことが可能となるのです。
要するに、我々の成仏、宿命転換の可否を決定づけるのは、「即身成仏の血脈を丞くべき資格」があるという前提と自行(勤行・唱題)・化他(折伏・弘教)の実践如何であって、戒壇の大御本尊にお目通りできるかどうかでないという事です。

<2> 次に、「正本堂破壊」について。

 正本堂の破壊は確かに御供養の誠を尽くした我々からすれば残念な事ではありますが、そもそも正本堂の破壊は、平成2年12月から始まった宗門による一連の創価学会切り崩しの延長上の出来事です。 三宝義の改竄、依法不依人の戒めへの違背、邪義の捏造等、宗門が仏法に背いている事が明らかになった以上、「正本堂の破壊」を含む一連の宗門の所業は、僭聖増上慢、道門増上慢等、三類の強敵の所業であると断じるべきです。
御書に、
――― 誰人にても坐せ諸経は無得道・堕地獄の根源・法華経独り成仏の法なりと音も惜まずよばはり給いて諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ三類の強敵来らん事疑い無し(如説修行抄・504ページ)
――― 此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず、第五の巻に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云、(兄弟抄・1087ページ)

との仰せのように、三類の強敵、三障四魔の発現は、創価学会が「諸宗の人法共に折伏して」「行解既に勤め」た結果「競い起」ったものであり、創価学会が御書の通りに広宣流布を推進してきた事の証しであって、創価学会が受けている「罰」などではありません。
もし学会総体が「罰」を受けるとすれば、創価学会員全員に「罰」の現証が出なければおかしいはずです。 しかし実際は私の周囲にも正本堂の御供養に伴って「功徳をいただいた」体験を語られた方は沢山おられますし、その方々は現在でも順調な生活を送っておられます。

以上のように、末端会員さん云う所の「大御本尊からの別離」も「正本堂破壊」も「創価学会が受けている罰」などとは考えられません。

<3>
 財務にまつわる不祥事や、自民党との連立下で迷走し続けた公明党の問題は、現在の創価学会を内部から侵食している「師子身中の虫」の問題だろうと思います。
大聖人が、
――― 外道・悪人は如来の正法を破りがたし 仏弟子等・必ず仏法を破るべし 師子身中の虫の師子を食等云云 (佐渡御書・957ページ)

と言われているように、仏法を破壊する者は「必ず」和合僧団の内部に出現します。 師匠を裏切る増上慢の弟子達によって仏法は破壊されていくわけです。
大聖人御自身も、御存命中は三位房、少輔房等に裏切られ、御入滅後は五老僧に裏切られました。
創価の三代の会長も然りです。
小説・『人間革命』に次の様にあります。
――― 戸田は、未来を見通すかのように話していった。
「これから滝本たちが政界に出て行くが、私は心配でしかたないのだ。 政界というのは権力と野望と駆け引きの魑魅魍魎の世界だ。 皆、いまは新しい気持ちではりきっているが、下手をすれば、すぐに精神が毒され、私利私欲に狂ってしまう者が出ないともかぎらないだろう。 私の心を忘れぬ者は、政治革新を成し遂げ、民衆のための偉大な政治家に育つだろうが、私利私欲に狂えば、広布を破壊する魔の働きになってしまうだろう。 政界への進出は、私にとっても、学会にとっても、大きな賭けなのだ。」 (『人間革命』第12巻・280頁)

残念ながら、この「滝本」=竜年光は退転・反逆してしまいます。それによって戸田会長と創価学会は「大きな賭け」の一つに負けてしまった事になります。
竜年光に限らず、竹入、矢野から冬柴に至るまで、増上慢の公明党議員達が師匠を裏切り続けてきた、師匠と創価学会が「大きな賭け」に負け続けてきたと言えるでしょう。
 野党であった公明党が自民党を組み始めた当初は、我々創価学会員としては、同志である公明党議員が自民党と霞ヶ関を内部から改革してくれる事への期待があったと思います。 しかし実際は連立維持を最優先することで、党是に違背したイラク戦争支持をはじめ、師匠が反対を表明していた教育基本法の「改悪」等に手を染めてしまった。 国民の信頼を著しく失ってしまいました。
その結果は周知の通り、「常勝関西」の敗北をもたらし、政党別得票数の立て続けの減少として厳然と示されています。
862万票(2004年)→ 776万票(2007年・86万票減) → 763万票(2010年・13万票減)
それでも、これだけの得票減で済んだのは奇跡であり、健気な学会員の奮闘にはただただ頭を垂れるしかありません。
いすれにせよ、「政治の事は自分たちの方がよく分かっている」などと師匠を侮り、師匠の指導などろくに読みもせず、己れの我見を増長させていった公明党議員達の一念の狂いが「広布を破壊する魔の働きになってしま」ったものと考えられます。

 学会員の供養でメシを喰っている信濃町の‘職業幹部’の一部(全部とは言いません)も同じです。
御書や創価三代の会長の指導などは二の次で、宗門や顕正会と直接対峙して闘おうとせず、師匠を攻撃している国家主義勢力(「反日的日本人」や「自虐史観」などと連呼している勢力)と闘おうともせず、ひたすらリスクを避け保身に走る ―― そうした‘信濃町の官僚’及び学会組織の幹部にとっては、自民党と公明党の連立は、権力という‘大樹の陰’に入り自分達の地位の安定をはかる絶好の機会と見えたでしょう。
そうした輩ほど、世間的な権威に追従し、第一線の会員に奉仕する精神も無く、「会員は新聞販売拡張と財務と票集めだけやっていればいい」とばかりに第一線で奮闘する学会員を手段化しようとする。
保身や惰性には自覚症状がありません。 知らず知らずのうちに保身や惰性に陥ってしまう所にその怖ろしさがあります。
小説・『人間革命』には「保身」についてこう書かれています。
――― 地位の安定を考える生き方の根本にあるものは保身であり、そこには、広宣流布に挺身しようとする死身弘法の精神はない。 保身に走る者は、結局は恐るべき悪知識となり、それに惑わされれば、やがては、その人も退転せざるをえない。 (『人間革命』第12巻・68頁)

これは腐敗した宗門僧侶を念頭に書かれたものですが、「第二の日顕宗」とも云うべき一部の‘信濃町の官僚’や学会組織の幹部にも当てはまるでしょう。
 今後、そうした学会の内部に巣食った「師子身中の虫」が一層勢いを増していけば、創価学会は御本尊との命脈を絶たれ、功徳を失い、崩壊の一途を辿っていくでしょう。
 

どうする?民主党

 投稿者:がン  投稿日:2011年 1月 3日(月)07時21分56秒 ntsitm215168.sitm.nt.ftth.ppp.infoweb.ne.jp
  http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110103k0000m040080000c.html
いつもはインターネットのニュースを引用しないのですが、
今朝は朝刊を見て、とっさに考え込んでしまったもので……。

やっぱりまだまだ試練があるんだなと思っています、選挙制度のことを能くは調べていないのですが、
もしかして、
(辞職すれば補選となり、まぁ現状どおりの結果で済みましょうけれども)
東京12区の現職が失職したら元代表が、神奈川の 松あきら みたいに…?と。

そんなことになったら、野盗の気勢が上がるばかりでしょう……。
私の周りからの平均的な感覚で統治能力の期待度は、麻生>鳩山>>菅
のような感触です。
麻生はタカ派のバカ、鳩山は見下ろしてサッサと逃れる宇宙人、
菅は……、宇宙人よりもっと遠い存在(色々ありすぎてヒトコトに比喩しきれません)

民主党政権には、はなっから期待はしておりません。
麻生政権の頃は、これ以上の異常はないだろうと思ってましたから。
でも、もうちょっと政権維持してほしいです。
 

謹賀新年

 投稿者:桜@青い太陽  投稿日:2011年 1月 1日(土)00時15分5秒 p4118-ipbf901akatuka.ibaraki.ocn.ne.jp
  みなさん、明けましておめでとうございます。

本年も、生産的かつ建設的な主張、意見、批判・・・等々・・闊達な議論の場としてインターネットの言論の場としての匿名性の弊害を緩和した新聞・テレビ・ラジオなどの公共性のある発信の場と同様な発信機関として、みなさまに愛される掲示板を創造していきたいと思っています。

ここでの議論がさらに高度で上質かつタブーを極力、排した注目の論壇として、各論客の皆さまには、自由かつ積極的な投稿をお願いいたします。

本年もよろしくお願い申し上げます。
 

よいお年を

 投稿者:桜@青い太陽  投稿日:2010年12月31日(金)21時13分0秒 p4118-ipbf901akatuka.ibaraki.ocn.ne.jp
編集済
  みなさん、こんばんは。

2010年も、あっと言う間でしたね。

佐藤さん、投稿、有難うございます。

卵のお話、いい話ですね。

90個のゆで卵には、佐藤さんの愛情が感じられるのでしょう・・・

子供は正直ですし、御年輩の方々にはよくよくその心が伝わるのだと感じます。

笠地蔵のお伽噺http://www4.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=467408&log=200912ではありませんが、いい行いがいい新年の幕開けになるのだと信じています。

皆さま、よいお年をお迎え下さい。合掌。
 

第九を聞く

 投稿者:佐藤博之71歳  投稿日:2010年12月31日(金)18時06分11秒 54.102.113.221.ap.yournet.ne.jp
  今朝、BSで第九を聞きました。BSは歌詞が文字ででるので分かりやすい。
理屈抜きで聞くたびに感動する。この曲は22歳の時、2400円でトスカニーニを買いました
レコードはもう聴けませんが押入れにあるはずです。2400円は給与が9000円の時です。
今年も終わりですが来年も頑張りましょう。昨日、ゆで卵を90個作りました。支部長を
9.5年やらせて頂きましたが、当時は住宅ローンと学費捻出で貧しい日々でした。今も
貧しさには余り変わりませんが随分と楽です。私のあだ名はタマゴッチだそうです。安い
卵を茹でてお土産にしました。年配の方が特に喜ぶのです。子供は理屈抜きで喜びますが
年配の方の喜びは一味違うのです。一人一人に一つの茹で卵に何かを感じるようです。
今でも子供達は喜びますが子育てに奮闘する婦人は特に喜びます。卵は物価の優等生と
長く云われましたが、少し高くなりましたね。今では、たまご掛けご飯が人気があるそうですね。庶民の贅沢だったのが今でも変わらないようです。日本人にとって卵は安心と平和の
食べ物と思えてなりません。若い人は年配の方に聞いてください。たまごの思い出を。
来年も再来年も平和への言論戦を頑張りましょう。よいお年をお迎えください。
 

こんばんは

 投稿者:桜@青い太陽  投稿日:2010年12月30日(木)22時35分43秒 p4118-ipbf901akatuka.ibaraki.ocn.ne.jp
編集済
  みなさん、こんばんは。

末端会員さん、投稿、有難うございます。


>・その旋律、その詞ではない・・・・とは、「教会権威ではなく民衆の宗教である」と言うベートーベンの痛烈な教会批判であり、

第九交響曲制作上による都合で生まれたにすぎないベートーベンによる追加の歌詞をこんなふうに解釈するのは完全な歪曲ではありませんか。<



歪曲と言うご意見もあると思います。「勇み足」と言う表題ですね。



>>>シラーの「歓喜に寄せて」の引用そのものが、ベートーベンの基本的スタンスと合致すると言うのが、私の解釈です。

単に「私の解釈」ならいいのです。それは単に主観ですから。ところが下では

>>外道礼賛の「歓喜の歌」ttp://www4.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=467408&log=20101223が、実は、ベートーベンによる教会権威への警鐘だった事実

「事実」と書かれています。「可能性」とか「こういうふうにも解釈できる」と書くのはまだしも、「事実」とするのは行き過ぎです。第九にはあからさまな教会批判の歌詞は存在しません。キリスト教の信仰のもと、全人類は兄弟なのだと歌っているだけです。また「一人の友をも見つけることのできない人は去れ」とは歌っていますが「驕り高ぶった聖職者よ、去れ」とは一言も歌っていません。<



仰る通りですから、御指摘の点に関しては、平和日記の表現を訂正、変更させていたきます。


>宗門との争いについては末端会員の身ではわからないことだらけです。シアトル事件が学会によるデッチアゲだと知ったときにはますます混乱しました。戸田先生の奥様が宗門に所属していて葬式まで宗門で行ったということも「びっくり仰天」です。明年はもっとわかりやすい年になってほしいと思います。 <


シアトル事件は、創価学会と宗門とで和解と言う形で決着したと記憶しています。デッチアゲと言うなら、一から蒸し返す事になりますよ。

最も問題なのは、係争中に、当のクロウ夫人が病死されたことで、公判が立ち行かなくなったと言う事実です。

クロウ夫人の証言に関して、証人である警察官との証言に齟齬があったのは事実ですが、クロウ夫人の証言はかなり具体的かつ詳細で、デッチアゲと逃げるのは難しいと思います。事件がかなり古い過去の事案なので立証するのが難しいだけですね。

戸田先生の奥様の御葬儀が、宗門で行われたのは事実ですが、池田先生を導師に、創価学会の上層部も戸田家で追善回向をしており、末端会員さんの主張は、宗門側の戸田先生利用に乗る発言だと思います。

今の学会に関しては、私自身もおかしいと感じている部分は多いですが、宗門側の方についてどうするのです。

どっちの味方なんですか(笑)。

日顕の芸者遊びの裁判も、事実に齟齬はない。名誉棄損か否かと言う次元だ。

創価新報が、日顕の芸者同席の写真をトリミングしたから、捏造と言わたんですよ。

まあ、学会もやり過ぎではあるんですが・・・

反創価学会キャンペーンと同じ次元、同じレベルの批難罵倒で宗門を批判したのが間違いでしょう・・・聖教座談会ですね(笑)。


 

勇み足

 投稿者:末端会員  投稿日:2010年12月30日(木)16時43分23秒 eatkyo209228.adsl.ppp.infoweb.ne.jp
  >>ただ、全体的文脈からは、やはり民衆中心主義の歌、民衆凱歌であることは不変であり、これが権威・権力からの解放と言う解釈は必然です。

その権力ですがそれは国王や貴族からの解放・身分制度からの解放であって、宗教的権力からの解放ではありません。削除された「暴君」や改訂された「乞食が貴族の兄弟となるのだ」という箇所などはどうみてもそうではありませんか。

>>ベートーベンの教会権威への基本的スタンスから、この権威、権力を教会権威も含めた既成の権力と言う読解は可能ですし、

シラーやベートーベンの基本的立場はともかく、原詩には宗教的権威に対する直接的批判の字句はないように思います。さらにベートーベンが第九に用いた部分は基本的に「全人類の友愛」や「創造主への信仰」の部分だけで、そもそもこの曲でベートーベンが権力批判にこそ力点をおいていたのかどうか、それすら非常に疑問です。

第九の合唱はごくごく簡単に言えば

「はるかなる父のもとで全人類は兄弟なのだ! さぁみな抱き合おう! 喜び合おう!」

ということを歌っているわけです。

確かに身分制度があったら「全人類が兄弟」とは言えないし、また教会がここには出てこないので教会を通さない信仰(創造主と民衆との直接的信仰)を歌った歌であるということは可能です。だがだからといって「平和日記」にあるように

・その旋律、その詞ではない・・・・とは、「教会権威ではなく民衆の宗教である」と言うベートーベンの痛烈な教会批判であり、

第九交響曲制作上による都合で生まれたにすぎないベートーベンによる追加の歌詞をこんなふうに解釈するのは完全な歪曲ではありませんか。

>>シラーの「歓喜に寄せて」の引用そのものが、ベートーベンの基本的スタンスと合致すると言うのが、私の解釈です。

単に「私の解釈」ならいいのです。それは単に主観ですから。ところが下では

>>外道礼賛の「歓喜の歌」ttp://www4.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=467408&log=20101223が、実は、ベートーベンによる教会権威への警鐘だった事実

「事実」と書かれています。「可能性」とか「こういうふうにも解釈できる」と書くのはまだしも、「事実」とするのは行き過ぎです。第九にはあからさまな教会批判の歌詞は存在しません。キリスト教の信仰のもと、全人類は兄弟なのだと歌っているだけです。また「一人の友をも見つけることのできない人は去れ」とは歌っていますが「驕り高ぶった聖職者よ、去れ」とは一言も歌っていません。

宗門との争いについては末端会員の身ではわからないことだらけです。シアトル事件が学会によるデッチアゲだと知ったときにはますます混乱しました。戸田先生の奥様が宗門に所属していて葬式まで宗門で行ったということも「びっくり仰天」です。明年はもっとわかりやすい年になってほしいと思います。
 

歓喜に寄せて

 投稿者:桜@青い太陽  投稿日:2010年12月27日(月)21時49分35秒 p4118-ipbf901akatuka.ibaraki.ocn.ne.jp
編集済
  みなさん、こんばんは。

末端会員さん、平和ボケさん、投稿、有難うございます。


>「教会権威への警鐘」ではないし、教会批判の音楽ではありません。<


シラーの原詩には、「暴君の鎖を解き放ち」と言う後に削除されている箇所もあり、これが、ベートーベンの教会権威に対する批判的立場と重なって、教会権威批判の歌と言う解釈です。

ただ、この箇所は、フランス革命の民衆中心主義と読めますから、王侯貴族の権威、権力への批判と読解するのが自然です。

また、「この旋律ではなく」と言う箇所は、第九交響曲全体の出自からの挿入と見るのが自然でしょうね・・・

ただ、全体的文脈からは、やはり民衆中心主義の歌、民衆凱歌であることは不変であり、これが権威・権力からの解放と言う解釈は必然です。

ベートーベンの教会権威への基本的スタンスから、この権威、権力を教会権威も含めた既成の権力と言う読解は可能ですし、少なくとも、「外道礼賛」と言うより、宗門の権威・権力への痛罵の意味と言う読解は成立しますよ。

ベートーベンは、シラーの詩に傾倒したのは、もっと若い時期ですし、彼の思想的骨格が完成される以前の黎明期からの反芻でしょうから、シラーの「歓喜に寄せて」の引用そのものが、ベートーベンの基本的スタンスと合致すると言うのが、私の解釈です。

参考サイト:http://cafemdr.web.infoseek.co.jp/MDR-Seminar/MDR-Seminar-2006.09.03.html
 

歓喜の歌

 投稿者:末端会員  投稿日:2010年12月26日(日)12時13分44秒 eatkyo207133.adsl.ppp.infoweb.ne.jp
  よく知られているようにベートーベンはシラーの「歓喜に寄せて」に音楽をつけようと思っていましたが、それは第九交響曲とは別の交響曲になる予定でした。要するに純粋な器楽からなる交響曲と合唱つきの交響曲と二つ作曲する予定だったわけですが、いかなるわけかそれが一つに統一されてしまいました。だからベートーベンは辻褄を合わせるために苦心しています。第四楽章の冒頭でそれまでの第一楽章から第三楽章までの主題が出てきては打ち消されるのがそれで、またシラーの詩にはない「友よ、このような調べではなく、もっと歓喜に満ちあふれる歌を歌おうではないか」という独自の文句を追加しているのもそのためです。ぶっちゃけ第一楽章から第三楽章までを「なかったこと」にして第四楽章(シラーの詩による合唱)を無理矢理続けようとしたのです。ですから別にこれは「教会権威への警鐘」ではないし、教会批判の音楽ではありません。

ただそうしたためにそれまでの三楽章がすべて否定されてしまうという不合理が生じることになり、ベートーベン自身もこの点について納得しておらず、初演の後ですら「第四楽章を切り離して別の曲にする(もともとの計画に戻す)」ことを完全には放棄していなかったという話もあります。もしベートーベンがあと10年ぐらい長生きしていたら、それが実行されていた可能性は個人的にかなり高かったと思います。歌劇「フィデリオ」もベートーベンは何度も手直ししましたが、それと同じことが行われたことでしょう。

だからこの曲は「不滅の傑作であるが、確かに失敗した曲の一つ」と評されることもあります。なお本来第四楽章となるはずだった主題は別の曲に転用されていますが、その曲調は「歓喜」と呼べるようなものでは全くありません。よく「苦悩を通じて歓喜へ」と言われますが、ベートーベンは30代から40代にかけて確かに「苦悩に打ち勝って歓喜を得た」音楽を書いているけれども、晩年になるとむしろ「苦悩をそのまま受け入れる」音楽を書くようになります。例えば耳が聞こえなくなった運命を呪いそれに立ち向かって精神的に打ち勝っていったのが若い時代だとすると、晩年は重くなる一方の運命(聴力のさらなる悪化・病気・孤独・経済的不安・社会情勢の不安・周囲の人間関係・甥をめぐる諸問題などなど)を「こういうことで苦しんできたためにより深い音楽が書けるようになった」と受け入れるようになります。ぶっちゃけ若いころは「カッコつけていた」のが、晩年になって飾らない赤裸々な自分を音楽に表現するようになるのです。そのもっとも見事な結実は亡くなる前の2年ほどに集中的に書かれた5曲の弦楽四重奏曲の中に見られます。ベートーベンの「出世の本懐」とも言える曲ですが、しかしこれらの曲は一般的にはベートーベンの代表曲とはされていません。およそ大作曲家において大芸術家においてその代表作はその最高傑作であることがほとんどであるはずですが、ベートーベンは例外的存在です。

ベートーベンは多くの作品を残したけれども自分の作品には飽き足らず、晩年「自分はまだかろうじて数個の音符を記したような気持にすぎない」と語ったそうです。対人関係では問題も多く傲慢な一面もあり不必要なトラブルも多く抱えていた人のようですが、キリスト教に飽き足らなかった態度といい、芸術や人生にはほぼ生涯を通じて真摯かつ真剣に向き合う姿勢を崩しませんでした。音楽なんて人好き好きだという人はいますし私も西洋クラシック至上主義ではありませんが、商業主義の売らんかなの音楽と同日に語ることはとてもできません。
 

ベートーベン

 投稿者:末端会員  投稿日:2010年12月26日(日)10時49分58秒 eatkyo207133.adsl.ppp.infoweb.ne.jp
  ベートーベンは確かに教会を軽蔑していたようですが、それ以前にキリスト教自体を軽蔑していた節があります。荘厳ミサ曲作曲中に「キリストなんて磔にされたユダヤ人にすぎない(神の子なんかじゃない、ということだと思います)」と発言して騒動になりかけたという話は有名です。荘厳ミサ曲自体通常のミサ曲とはまるで違ったミサであり(教会で演奏されることを目的としていない)ウィキにはこういう解説もあります。

・ベートーヴェン研究家のパウル・ベッカーなども、「(バッハのような)素直な信仰から生じる歌詞に(音楽を)合わせる様な処理はベートーヴェンの考えには現れえず」、音楽家として自身の深く自由な思想を、単なる歌詞の意味を超越した音楽によって表現した、と語っている。

そして余り知られていないことですが、この「自身の深く自由な思想」には、東洋哲学の要素も含まれていました。あるサイトからの引用です。

……
・1812年から6年間ベートーヴェンは上記の言葉を第1ページ目に、気まぐれなスタイルですが日記をつけだします。(略)その中でも興味深いのは宗教や哲学、思想に関する様々な書物からの覚え書きです。

 すべての快楽と欲望より解放されし者、そは万能の一者なり。そは唯一者なり。その者より偉大なる者はなし[ブラーフマ(梵天)]

ベートーヴェンが下線を引いて記した言葉です。「リグ・ヴェーダ」や「ブラーフマニズムの宗教体系」などインド哲学の書物からの引用が日記の中で異彩を放っています。

・自己の中に宇宙があるということに気づく。その気づきが、真我(アートマン)であり、この自己の真我と宇宙の知性(ブラフマン)がひとつになることが人間の本来の姿であるということ。純粋な静寂の体験により宇宙と合一する自己を目指すことを説くアーユルヴェーダの教えはインドで五千年もの昔から伝えられてきたものです。また宇宙の根元的啓示が示されている行動哲学書「バガヴァッド・ギーター」は、物質世界に対する執着心を手放し、ブラフマンに帰融する大切さを説いた「神の歌」と訳される叙事詩で、ヒンドゥー教の大切な聖典です。二千年にわたりインド読まれてきたその聖典は、1785年に英訳が出版され、以来ヨーロッパ中に急速に広まりました。その読者の中にベートーヴェンがいたのです。「バガヴァッド・ギーター」から彼が筆写した言葉です。

(略)……そして叡知の中にのみ避難所を求めよ。なぜなら悲惨と不幸は、物事の結果によるにすぎないからだ。まことの賢者は、この世の善悪に思い煩うことはない。それゆえ汝の理性をこのように使う術を習得すべく努めよ。なぜならこのような使い方は、人生における貴重な芸術だからだ。――
……

またベートーベンは「われはいまここにある。われは過去にありしすべて、また未来にあるすべてのものなり」という文句を書き取って日夜机に飾っておいたそうです。「インドの音階と音名を書き写すなどインドそのものにも興味を示していた」そうで、キリスト教に飽き足らずより深い宗教・哲学を求めていた姿が明らかになります。

荘厳ミサ曲の「クレド(我信ず)」の中の「来世の命を信ず、アーメン」という言葉にベートーベンは長大な神秘的なフーガをつけていますが、それまでのミサがその言葉に単に音楽をつけたものだったのに対して、ベートーベンの「来世の命」は「如々として来たる」不可思議な生命現象を音楽で表現しようとしたように聞こえないこともありません。いや、きっとそうでしょう。
 

新・人間革命の紙芝居

 投稿者:平和ボケ日本  投稿日:2010年12月26日(日)00時10分22秒 EM114-48-165-211.pool.e-mobile.ne.jp
  新聞連載の挿絵をコピーしてスキャンして、画像フィルターをかけて描画線を強調して、パワーポイントに貼りつけて、ノートPCからプロジェクター出力で電脳紙芝居です。タイトルは「レジェンド・オブ・ジーザス」(イエス伝説)。社会部の大きな会合の青年部アピールとして企画して、新・人間革命の紙芝居風朗読劇をプロデュースしたら、会合直前に某職員担当幹部の鶴の一声で見事「没」になりました。曰く「外道礼賛」。お前、日顕宗のようなこと言うなよ。それとも職員は第二の日顕宗なのでしょうか???以下、愚痴は自粛。  

民主運動家としてのイエス

 投稿者:桜@青い太陽  投稿日:2010年12月25日(土)23時09分17秒 p4118-ipbf901akatuka.ibaraki.ocn.ne.jp
編集済
  みなさん、こんばんは。

平和ボケさん、佐藤さん、一臣民さん、minokoさん、パンサーさん、投稿、有難うございます。

外道礼賛の「歓喜の歌」http://www4.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=467408&log=20101223が、実は、ベートーベンによる教会権威への警鐘だった事実と、創価学会による宗門批判は同一線上で語られる部分ですが、これは、当時のユダヤ教エッセネ派のイエスが、教条化するユダヤのパリサイ派の司祭に対して、人間のための宗教を標榜して、敢然と権威主義に一人、立ち向かった史実ともリンクします。


>人間イエスの生涯の概略は小説『新・人間革命』でも扱われています<


人間革命でイエスの生涯に言及した事実は重要ですし、極めて資料としても重い・・・

先生が亡くなられた後の、学会の理念の再定義においても、極めて重大な事実です。

民衆中心主義と言う池田思想の中核は、人間宗としての、当時のユダヤ教の中にあって新興宗教として果たしたイエスの教えにその基本テーゼを見るのです。

大聖人の仏法の演繹的普遍性も、実にこの次元でしょう・・・
 

オバマ政権と戦争

 投稿者:パンサー  投稿日:2010年12月25日(土)22時58分56秒 i121-113-24-23.s05.a020.ap.plala.or.jp
  アメリカ経済と日本経済は連動しているといわれています。日本の不況は、アメリカの不況の影響が強いと思います。

オバマ氏は選挙演説で、イラク撤退を表明したものの、アフガニスタンを主戦場にすると言っていました。彼の天才的な選挙演説には感銘しましたが、アフガニスタン戦争にこだわる姿勢に、ずっと疑問を抱いていました。

戦争に関してのみ、オバマ政権は、ブッシュ政権を引き継いでしまったようですね。

案の定、アフガニスタン戦争は泥沼に陥り、毎月、日本円で1兆円つぎこんでいます。アメリカ市民の税金を、ジャブジャブとアフガンにつぎこんでいたんでは、不況になるのは当然です。

ソ連も、アフガニスタン侵攻で大失敗し、それがソ連崩壊へとつながりました。早く米軍がアフガンから撤退しないと、アメリカ崩壊へとつながるかも知れません。
 

Jesus Christ Superstar

 投稿者:平和ボケ日本  投稿日:2010年12月24日(金)22時48分53秒 EM111-188-79-35.pool.e-mobile.ne.jp
  今宵、クリスマスのイブ、皆様如何お過ごしでしょう?
民衆運動家としてのイエス(神の子として神格化された存在としてではなく)、人間イエスを描いた不朽のロック・オペラJesus Christ SuperstarのビデオクリップがYouTubeの至るところにアップされています。人間イエスの生涯の概略は小説『新・人間革命』でも扱われています。今宵、彼の波乱の生涯に思いを馳せ、民衆救済の宗教的原点を深く思索しませう。
さて、「冬の兵士」朗読会の模様は、当日参加できなかった方々のために、YouTube公開が検討されています。TUPの技術スタッフが今頃、ソースになるDVDを焼いていると思われます。ご期待ください。
 

沖縄県民が日本を変える

 投稿者:佐藤博之71歳  投稿日:2010年12月24日(金)07時39分28秒 p2064-ipbf3509marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
  外交機密文書の公開は自民党政府が外交で密約を結び外交を私し、国民を欺いた事実が
明白になりつつあります。沖縄返還での密約は何が目的だったのか。今日の思いやり予算の
為だったのか(西山さんはそう言っています)それとも自民党や防衛省や国防族に還元
されてきたのか、その奥深い闇を知る権利がありますね。沖縄返還前に、屋ラ朝苗氏が
沖縄県知事選挙(沖縄主席)で当選した意味の大きさを改めて知りました。自民党は
米国と組んで西銘氏の当選をさせるため様々の工作をした事実も明らかです。民主主義の
根幹である、選挙を裏工作で有利にする手段は、彼らに民主主義を語る資格が無い事を
痛感しますね。今回の沖縄県知事選挙も怪しいと思う。しかし、投票数の差はわずかで
沖縄県民の心根の正しさを証明しました。沖縄県民は日本人の心を変えるためにその使命を
果たしているように思えてなりません。沖縄に古くなった普天間に変えてハイテクな高機能
の新基地を作る。この軍国主義・軍事優先主義を身を挺して抵抗している沖縄県民に敬意を
表して本土の人間革命をしなければなりません。菅総理が沖縄に行って札びらで顔を叩く
様な振舞はこの人間の変節を示して余りある。米国の慳貪な軍国主義は卑怯な振舞を何とも
思っていない。イラク戦争が如何に卑劣だったかは次々と明らかになる事でしょう。
それに同調した公明党の歴史は汚点以外何物でもない。謝罪も総括も出来ない体質は
近代的政党の資質が無いのです。これを変えねばなりませんね。作ったのも私達、悪くした
のも私達、政治学が幼稚であった反省をして沖縄県民に学んで成長する必要がある。
沖縄県民が、本当の民主主義を教えてくれると思います。如何ですか。
 

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