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[19752] 【実験・習作】読み専が書くローゼンメイデン二次創作 (再開)
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/07/21 22:51
※ご注意
 本作の趣旨は実験ですが、書いてる本人は実力が無いので本文書くのも全力投球状態です。

 ただし、実験対象は本文内容ではなく、あくまで「1日でどれだけの分量書けるか」です。

 9回の実験の結果、【転生オリ主物】では10kB/日程度は書けたわけですが、同じ話の続きで主役を交代したらどう書けなくなるか(執筆速度が鈍るか)を検証したいと思います。
 ジャンルとしては【転生オリ主物】→【特定登場人物強化物】になるかと思います。

 取り敢えず内容整理のため転章として少し長目のも挟まりましたが、実験を再開いたします。



 以下本文は、9記事目までが【転生オリ主物】の実験、10記事目以降が【特定人物強化物】という形になります。

 9記事目までは趣旨に沿ってオリ主の一人称視点のみで進行しました。
 10記事目以降は投稿分ごとに視点を変更する予定です。



[19752] 最初の投稿 (実験開始時の趣旨が書いてあります)
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:72695fa3
Date: 2010/07/19 16:38
これは雑談掲示板【転生オリ主物は何故増えたのか考えてみよう】スレッドを見ていて
「本当にオリ主転生物って書きやすいんだろうか?」という疑問を持った、普段読み専の黄泉真信太が、数年ぶりに書いてみたSSです。
本来わざわざ発表する意味はないものですが、一応「このくらいの分量書けました」の証明的な意味合いで投稿させていただきます。

実験結果としては、確かに書き易いですね。
私は以前SSを書いていた頃も相当の遅筆で、一日に20行程度進めば御の字でしたが、約1日で100行程度書き上げられました。
うーん、これなら確かに流行るのも分かるような気がする。

おっと、忘れるところでした。本文入ります。

***********************

 確かその日は寒かったと思う。
 コートの襟を立てていたのは覚えている。髪が湿っていたような気もするから、雪だったのかもしれない。まあ今となってはどうでもいいことだ。
 帰宅途中だった俺は、交差点で信号が青に変わったのを確認して横断歩道を渡り始めた。そこに、信号無視の車が突っ込んできた。いや降雪時だったとすれば、ブレーキが間に合わずにオーバーランしてしまったのかもしれない。どちらにしろ今となっては確かめようもないし、結果も変わらない。
 横滑りするような車と、驚愕に目を見開いている運転手が俺の「前世」での最後の記憶だ。
 こちらの世界におぎゃあと生まれて思ったことは「ああ、生まれ変わりってあるんだなあ」という感慨だった。
 そこから十数年はある意味で忍耐の日々だった。詳しく書こうとすると愚痴の羅列になるので割愛するが、赤ん坊時代のままならない状態とか、小学校までの学校の授業の退屈さといったらなかった。
 三歳頃円形脱毛症になって親を大いにビビらせてしまったが、振り返ればあの頃が一番苦労していたような気もする。

 しかし、後知恵だからもうどうしようもないが、当時の俺に言ってやりたい、と二度目の中学生をやっている俺は思う。
 いっそ生まれ変わりを公言するか、秀才とかって触れ込みにして脳の柔らかいうちに余分に勉強やっとくべきだった。まあ俺の頭なんで早晩馬脚は現しただろうが、十年間ほどまともに勉強していたら末は学者先生とは行かないまでも今後の受験なんかで随分と楽ができたはずだ。
 実際のところは、元来騒がれるのが嫌いでなおかつ勉強嫌いの俺はひたすら「生まれ変わり」であることを隠し、退屈な時間をただただ惰眠やらなにやらに浪費してしまった。
 結果として、二度目だというのに俺はまたもや優秀な何かを発揮することもなくこの人生を過している。当然、進学関係については親やら担任の笑顔を見ることもほとんどない。
 宿題が必須なのは転生云々に関係ないが、予習復習も必要なのだ。一度通った道とはいえ、主観時間でもう三十年近く前になる中学校時代の勉強内容はかなりの部分が俺の鳥頭から抜け落ちていて、特に英語やら古典の文法関係はほとんどお天道様に返却済みだった。
「現実は散文的ってやつか……」
 最初の頃はバレて騒ぎになるのが厭で隠すのに苦労した生まれ変わり云々も、今となってはばらしてみたところでオカルト好きな連中の話題の種程度にしかなりそうもない。若しくは比類なき痛い子として匿名掲示板あたりで祭り上げられるだけだろう。
「歴史は何のために俺をこの世界に呼び込んだのか……」
 うろ覚えの半村良の某小説の台詞を呟いて、俺は机に突っ伏した。まあ気楽な学生生活を他人の二倍送れているからありがたいといえばありがたいわけだが、しかし。
「また病気が出た」
 いや、独り言だって。
「テストの点が悪かったからって、自分が異世界人って設定で言い訳するのはどうかと思う」
 はいはいそうですね。顔を机に付けたまま、俺は右手をひらひらと振ってみせた。
 最初にこの呟きを追及されたとき、咄嗟に邪気眼っぽい言い訳をしたのは拙かった。冷静に受け流しとけば変な口癖で済んだところだが、いまや変なやつという認識が広まりつつあるらしい。
「まあ次は本気出す」
「そうしてね」
 前の席から返って来た声は明らかに何の期待もしてなかった。
 この遣り取りもなにやら既に恒例になりつつあるな、と考えてから、ふとあることを思い出して俺は顔を上げた。
「そろそろ始めたほうがいいんじゃね?」
「……うん」
 前の席に座っていた柏葉巴は小さく頷くと、椅子を引いて立ち上がった。
 柏葉は学級委員で、これから始まるホームルームでいくつかの連絡と評決の司会をすることになっている。整った顔立ちの美人なんだが若干物静か過ぎるのと、頼まれごとを断れない性格なのが災いして、どうも常に損をしているような気がしてならない。

 ……っと、今更そういう説明は要らないかもしれない。
 そう、ここは──某元首相も空港で読んでいたという噂のある、例の──ローゼンメイデンという漫画の世界、またはそれにごく近い世界なのだ。


 ~~~読み専の俺がローゼンメイデンの転生オリ主物を書いてみた~~~


 そして、今は本編開始前の状況。ここは主人公桜田ジュンの所属する一年三組の教室。原作で数回にわたって「厭な記憶」としてリフレインされる、彼が中学一年生の折の「桑田由奈嬢文化祭のプリンセスに選ばれること」の段というわけだ。
 もっとも、この段階では柏葉がクラスの面々に淡々と連絡を行うだけだ。この場で即何かが起きるわけではない。
 主人公桜田ジュンが不登校の原因となる「中学生の男子が描いたにしては本格的過ぎるプリンセス用のドレスのラフデザイン」を課題提出用のノートに思わず走り書きしてしまうのは今夜のこと。翌日うっかりそれを消し忘れたまま提出したことが全校集会でのカタストロフィに繋がるのだが、そこまではまだ数日はある勘定だ。
 とはいえ、既に俺という異分子がこの場に混じっているわけで、今後の出来事が漫画のまま進むとは限らない。絵を描き上げた桜田がハッと気付いて消しゴムでゴシゴシやってしまったり、そもそもノートでなくその辺のチラシの裏にでも描いてしまえばそこで終わりではある。
 腕を上に伸ばして大欠伸をしがてら桜田の席を見遣ると、眼鏡を掛けた中性的な顔立ちの少年はごく真面目に正面を向いていた。ふむ、まあ取り敢えずホームルームの内容を聞き漏らして例の絵を描かないとかいう事態にはならないらしい。

──さて、どうしたもんか。

 ローゼンメイデンでの大イベントの一つと言っても過言でない場面に刻一刻と近づいているのに、どうして俺が落ち着き払っているかって?
 それはぶっちゃけ、事態がどう転ぼうと中学生としての俺の生活にはさして影響がないからだ。
 ローゼンメイデンという作品(面倒なので以下「原作」と呼ぶことにする)は、恐らくどう展開してもドールたちとその媒介となった人々以外にほとんど影響が出ない話なのである。
 酷な言い方をしてしまえば、この後桜田が不登校になろうとなるまいと、ドールたちが血みどろの死闘を繰り広げようとまったり安穏と時を過そうと、同級生としての俺には殆ど関係ない。せいぜい「桜田君登校してね寄せ書き」を書いたり「同級生のみんなで桜田君のうちに説得に行ってみるイベント」が起きる可能性が出たりするかどうかの違いである。
(ちなみに、後者は原作ですら起きていない。桜田の家に連絡に行ったのは柏葉で、説得に行ったのは担任だった)
 そのうえ、これからの出来事が原作どおりに進むかどうかも分からない。俺が何もしなくてもイベントが起きない可能性さえあるのはさっき言ったとおりだ。
 そんなこんなで、俺としてはいまいち盛り上がりに欠けてしまうのである。

──ただ、まあ。

 それとは別の立場というのも当然ある。それは、曲がりなりにもこちらの世界で十数年という時間をかけて成長してきたゆえのしがらみというやつだ。

 欠伸をしながらそんなことを考えていると。
「──各学年から一人投票でプリンセスを選出するんですが……」
 お、きたな。
「一年はうちのクラスの桑田由奈さんに決まりました」
 原作どおりの柏葉の言葉に、まばらな拍手といくつかの賞賛の声があがった。斜め前の席に座った桑田は恥ずかしそうにありがとうを返している。
 桑田は可愛さと美人さがほどよく調和した女の子といっていいだろう。性格も穏やかで友人も多い。過度に嫉妬を買うこともなければ、このことで天狗になるようなこともあるまい。まあ、無難な人選と言えるのではないか。
「──文化委員会でデザインを募集していますので……」
 ちらりと振り返ってみると、桜田はぼんやりと桑田のほうに視線を向けていた。おそらく、頭の中ではそろそろドレスの形が出来始めているのだろう。いかにもそんな雰囲気だった。

 やれやれ、と俺は溜息をつく。結局、何もなければ筋書きはおおむね原作どおりに進むわけか。
 言い換えれば、桜田ジュンに厭な思い出を作らせるかどうかは俺の胸先三寸ということだ。
 俺がちょっかいを出さなければ、桜田は原作どおり桑田の衣装のラフスケッチを国語のノートに描き上げ、それを担任で国語教師の梅岡が発見して掲示板に貼り付け、さらに全校集会で名指しまでされて桜田は引きこもり一直線ということになるだろう。あまり後味のいい選択肢とは言えない。
 反面、引きこもり状態にならなければ、今後のストーリーは原作どおりに進まないはずだ。下手をすると(原作の設定にのっとるならば)もうローゼンメイデンはこの世界に現れないかもしれない。そうなってしまって、果たしていいものなのだろうか?
 正直なところどちらも御免蒙りたいのだが、上手いこと両立できる方法は思いつきそうもない。そして、どちらにしても俺の状況にはさして変化がおきるとは思えない。どうにも気の進まない二択問題ではある。



 翌朝の目覚めは最悪だった。何年かぶりに上司に仕事の失敗を責められる夢なんてものを見てしまった。それだけ自分の決定に自信がもてなかったのだろう。

 前夜寝る直前まで考えてみて、結局俺はちょっかいを出してみることに決めた。
 理由はいくつかある。
 まず、このまま進んだら間違いなく全校集会でゲロの臭いを嗅がされることになるということ。これは文句なしに厭だと言い切れる。それに、原作では詳らかに語られていないが、そういう事件が起きたらクラス全員、いや文化祭自体が微妙な雰囲気になってしまうのは間違いない。なにしろ全校生徒が一堂に会する場所でやらかしてしまうわけだから。
 二度目とはいえ、既にどっぷりとこちらの人生に漬かってしまっている俺としては、折角の文化祭が白けてしまうのは楽しいものではない。ならばその要因は取り去っておくべきだろう。
 次に、個人的な興味もある。外部から来た俺のような異分子が、いわばこの世界の歴史に働きかけるわけだ。その結果がどうなって行くのかというのは興味深い。バタフライ効果というやつが現出するのか、それとも歴史の修正力というやつが働くのか。
 まあ、原作でしばしば語られていた世界の分岐というやつが起きて、原作で出てきた「巻いた世界」「巻かなかった世界」以外の世界、というオチになっていくだけかもしれない。それはそれで楽しめそうな気もする。
 そして最後に、これが一番でかい理由になるだろう。
 桜田ジュンは一応単行本を全部買う程度にはファンだった漫画の主人公であり、なおかつ現在は俺のクラスメートでもある。
 俺という小人物は、そいつが公衆の面前でゲロを吐いた挙句不登校になってしまうのを知っていながらみすみす見逃して、後からああだこうだと悩まずにいられるほど神経が太くないのだ。

 さて、その実行の方法だが。

「よう、おはよ」
「おはよう……今日は早いんだね」
 君が始業三十分前に来るなんてなんかの前触れかな、と苦笑するクラスメートに、俺はにやりと笑って課題のノートを振って見せた。
「なあんだ。宿題やってなかったの」
「うむ」
 うむじゃないでしょ、と言いながらそいつは俺のノートを覗き込み、眉をしかめた。
「なにこれ……?」
「すげーだろ」
 俺は胸を張ってみせた。課題ノートの1ページ丸まる使って、原付バイクのチューニングポイント……排気ポートを何ミリ削るとか、キャブレターのセッティングはどうとかびっしり書き込んである。
 当然、普通の中学生が覗き込んだところで、何がなにやら理解できないだろう。
「昨日の晩、就寝時間を削って考えた」
 それは大袈裟だが、それなりに時間は掛っている。キャブの断面図を描いていたらつい懐かしくなってしまって、課題を最後までやる時間がなくなってしまったのは事実だ。
「いや、そうじゃなくてさ。これ課題ノートでしょ。こんな落書きして」
「アイデアが浮かんだら即書きなぐる。これがいい物を作る鉄則らしい」
「いやでもさ、提出物に宿題の代わりに落書きしてたなんて、さすがの梅岡先生でも怒ると思うよ」
「だから、今宿題もやってるって」
「むちゃくちゃだよー」
 そんなやりとりをしているうちに、次第に人が増えてきた。そのうちの何人かは俺たちの遣り取りに気付いて、俺の机を覗き込んで行ったりする。
 最初の奴と問答をしながら課題の残りをやっつけ、よっしゃと言いながら顔を上げると、ちょうど数人のクラスメートがこちらを覗き込んだところだった。
 その中に桜田の顔があることを確認して、俺はガッツポーズを取った。
「どうだ、始業前に終わったぜ」
「だからー、落書きが問題なんだってば」
 すかさず最初の奴が言う。ナイスだぜ相棒。
「んー」
 俺はきょろきょろと周りを見回す振りをして、桜田の顔を窺った。まだこちらを見ている。よし。
「やっぱ落書きはだめですか?」
「だめです」
 俺は妙にレスポンスのいいクラスメイトに内心感謝しつつ、筆記用具入れから消しゴムを取り出した。
「勿体無いが仕方ないか……」
「当然だね」
「ちぇっ」
 実際のところ消してしまうのは惜しいような気もするが、俺は丁寧に消しゴムを動かした。さらば幻のポッケ強化計画。もう二度と日の目を見ることはないだろう。だが、これも全て桜田のためだ。
 すっかり消えたところでノートを持って立ち上がると、もう桜田は自分の席についていた。何かノートのページを切り離すような作業をしている。そこに桑田用ドレスのラフデザインが描かれているであろうことは容易に想像できた。

──畜生、その手があったか。

 恐らくちょっかい出しは所定の成果を収めたのだろうが、ある種の敗北感が湧き上がってくるのは何故だろう。

 ともあれ、そんなこんなで、俺の行動によってこの世界は原作から違う道を辿り始めた。それがどういう結果を齎すかは、まだなんとも言えないのだが。



[19752] 今日はこれだけ書けました
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:72695fa3
Date: 2010/06/24 22:59
実験のつづきです。

本当にオリ主物は簡単なのか? ということで、実験継続です。
自分的には最初の数キロバイトをでっち上げるよりも続けて書いて方が大変なので、執筆1日分ごとに掲載していきます。
とりあえず、本日はここまで書けました。
まだペースが落ちていませんが、ネタは練っていません。行き当たりバッタリです。

※22:58 タイトルがおかしな位置についていたので流石に直しました。分量は増減していません。

***********************

 最初は何かの見間違いかと思った。
 次に、これは夢なんじゃないかと極ありきたりの疑いを持った。
 試しに自分の頬をつねってみた。痛かった。
 最後に、それがここにある訳と自分がここにいる訳を結びつけようとしてみた。なにやら繋がるような気も繋がらないような気もする。
 長いため息を一つついてみる。それから意を決して一つしかない質問の片方の選択肢にチェックをつけ、運勢判定サイトの「結果を見ます」ボタンをクリックする。
 わずかなローディングの時間が過ぎ、ごくありきたりの結果が表示された。ブラウザの戻るボタンをクリックしたが、再表示されたページにはよくある毒にも薬にもなりそうもない質問が並んでいるだけだった。


~~~読み専の俺が転生オリ主物を書いてみた 2日目~~~


 そして今、俺は幼稚園児くらいの背丈の、やけに不機嫌そうな黒衣の天使とテーブルをはさんで向き合っている。
「茶でも飲むか?」
「いらないわよ」
 苛々した調子で即答した彼女は……ああ、説明は要らないか。
 どういう巡り合わせか分からんが、俺はローゼンメイデン第一ドール水銀燈のネジを巻く役に抜擢されたのだった。
「まあ、説明は理解したんだが」
 目の前の銀髪のお嬢様がいつまで経っても茶菓子に手をつけないので、俺は月餅を引っ込めてチョコレートを置いてみた。お、これは食べるのか。
「だったらさっさとこれを嵌めて契約しなさいよぉ」
 不貞腐れた調子で無造作に指輪を投げて寄越す。その手つきは華麗といってもいいんだろうが、片手では食いかけのチョコを持ってるから、なにやら拗ねたおこちゃまという感じで微笑ましい。
「何ニヤニヤしてんのよぉ。緊張感のない奴」
「いや、全然。光の加減でそう見えるだけだろ」
 そう言ってやると、ちっ、と言いそうな表情をしてそっぽを向いた。
「ああもう……なんでこんなのを選んだんだか」
 鋭い視線を傍らでチカチカ光ってる蛍の親分みたいなものに向ける。そいつは困ったようにくるくると回って、部屋の隅に逃げ込んでしまった。
「あのちっこいのが工作とかスカウトを担当してるわけ?」
 確か人工精霊だったか。物を運んだり攻撃の増幅だかなんだかもしてたり、かなり優秀なサポート役だ。
「まぁね……そんなことはどうでもいいんだけど」
 じろり、と赤い瞳がこちらを見る。俺は思わず笑いを引っ込めた。さすがにこういう表情には迫力がある。
「契約か」
 俺は腕を組んで天井を見上げた。安物の丸型蛍光灯が僅かに揺れ動いている。


 正直に言うと、運勢判定サイトで「まきますか まきませんか」を見るまで、こういう事態は全く予想していなかった。
 なにしろ俺のちょっかい出しが成功したにもかかわらず、同級生たる桜田ジュン君は現在ご自宅に天の岩戸状態なのだ。
 結果として工作が不発に終わってしまった俺としては、歴史の修正力というのはあるんだなあと実感し、このまま進めばほぼ原作どおりの展開になるだろうと漠然と考えていたのだ。

 桜田が引き篭ってしまった理由は実に簡単だった。
 あの日、俺のちょっかい出しを見た桜田は国語の課題ノートに描いたプロはだしのラフスケッチを思い出し、そのページを切り離して提出した。
 結果、ラフが梅岡教員の目にとまって無断で掲示されることはなく、数日後の全校集会で名指しされた桜田が吐いてしまうこともなかった。
 そこまでは良かった。俺も心中胸をなでおろしたものだ。
 だが、破局はあっけなく訪れた。
 数日後の朝、いつものように始業ぎりぎりに登校した俺が見たものは、教室の黒板に書かれた大量の中傷の言葉と、その中心にある桜田の例のスケッチ、そして教壇の前で蹲って吐いている桜田とそれを取り囲んでいる野次馬だった。
 俺が教室の入り口あたりで呆然としている間に桜田は教員を含む何人かに連れられて退場し、以来学校に姿を見せていない。
 タネを明かせば簡単なことだ。
 あの日桜田がノートのページを切り離しているのを、以前から桜田に付き纏っていた馬鹿どものひとりが見ていたのだ。ほどなく連中のうちの誰かがそれを桜田の鞄から持ち出し、黒板に貼ったというわけだ。
 中傷の言葉を書いたのはそいつらだけではないらしい。消す前に見た限りでは、女子のものと思しき字を含め、軽く十人は下らない種類の筆跡が黒板に躍っていた。
 「桜田が桑田の『エロい』衣装を密かにデザインし、それをばらされるとゲロ吐いた」という噂は文化祭前には全校に尾鰭をつけて伝播してしまった。その後行われたプリンセス云々が微妙なムードになったのは言うまでもなく、クラスについて言えば文化祭自体も白けたものになってしまった。
 最悪の顛末だった。小賢しい工作などやってもやらなくても何の変化もなかったわけだ。

 異分子たる俺が積極的な介入を試みてもこの世界の歴史の流れには逆らえないのだろう、とこの件で俺は悟らされた。
 同時に、不謹慎ではあるが安心もした。これでローゼンメイデンの物語は成立する。桜田ジュンはいずれドールの螺子を巻き、彼女等とともに自力で成長していくのだろう、と。


 しかし現実にはご覧のとおりだ。
 原作ではこの街の大学病院に入院しているジャンクな(失礼)美少女のもとに現れ、どうやら半ばその子のために戦っているらしい黒翼の天使が、なぜか今現在目の前で俺に契約を迫っている。
 まずいだろう、これは。
 まきます、の選択肢にチェックを入れて送信ボタンを押した段階では、まさか相手が水銀燈だとは想像しなかった。
 ストーリーと媒介(契約者)との関わりにおいて、原作のドールたちは概ね二つのグループに分かれる。一つはストーリー上欠かすことのできない媒介と、深く契約しているドール達。もう一つは原作開始時点での媒介が誰であれストーリーの上ではあまり重要でないドール達だ。
 水銀燈は間違いなく前者だ。しかも水銀燈と媒介は愛憎だの立場だのという点で非常に似通っていた。少なくとも、人間である俺より水銀燈の方がよほど原作での媒介の少女に似ているだろうと思えるくらい、お似合いのはずなのだ。
 だから螺子を巻く相手は雛苺か金糸雀になるものと決めて掛かっていたのだが……。
 視線を正面に戻してドールにしては大きな、人間としては小さすぎる存在を見やる。俺の態度に退屈したらしく窓のほうを見ている横顔もまた、人間というには整いすぎ、人形というには硬質な生気に溢れすぎているような気がする。
「契約しなくてもパワードレインはできるんだよな」
 水銀燈は若干眉根を寄せてこちらを見たが、目顔で肯定した。俺は腕を組んだまま一つ息をついた。
「まあこっちが死なない程度なら力は吸い取ってもらって構わんが、契約するのは待って貰えないか」
「あらぁ、怖いのぉ?」
 くすくすと笑う。非常に残念ながら、見惚れてしまいたくなるほど美しい。凄艶というのはこういう姿を言うのだろうか。
「うん、ぶっちゃけ怖い」
 どう考えてもこのドールの相方に相応しい少女がいる。その子は自分だけの天使を待っているのだ。偽善かもしれないが、その子からこの黒衣の天使を奪ってしまうのが怖い。
 そんなこっちの気分を知ってか知らずか、水銀燈は今度は満足そうに笑った。
「いいわぁ。そのくらい聞いてあげる。どの道貴方は私の糧になるんだもの」
「それはありがたい」
 俺は素直に頭を下げた。変な人間、と水銀燈は笑いを大きくした。表情がころころ変わるのは思春期の少女のようで、少しばかり可愛らしく、そして意外だった。


 翌朝、俺は大学病院に向かった。
 起床したときまず鞄の有無を確認したが、部屋に似つかわしくない鞄は相変わらず昨夜の場所に鎮座していたし、そっと開けてみると黒い逆十字のドレスを着たドールも消えずにその中で眠っていた。やはり原作どおり、夜型なのだろう。
 土曜日だというのに正面玄関は混雑していた。どうやら幾つかの診療科は土曜日も外来を開いているらしい。
 人ごみを縫って案内窓口に行き、柿崎めぐという名前の少女がどの部屋に入院しているのか尋ねると、あっさり西棟の716号だと教えてくれた。プライバシーの保護上あまり芳しくないんじゃないか、とも思ったが、俺はありがとうと素直に礼を言ってその部屋に向かった。
 なんとなく違和感を感じたのは、病棟のエレベータに乗っているときだった。

──脳神経外科……放射線科……腎臓内科……

 何気なく眺めた診療科ごとの病棟分けを全部読み終わる前に、エレベータは目的地に到着した。
 ナースセンターの前を過ぎ、個室の並ぶ一角に入ってからも違和感は消えなかった。むしろ、次第にはっきりしていった。
 716号の前には「柿崎めぐ」と名札が掲示されていた。ドアは閉まっていたが、俺はノックせずにそこを開けた。
 広く、設備の整った個室だった。窓は大きいが、壁の面積に比べれば広いとはいえない。ベッドは窓に近づけられており、座ったままでも手を伸ばせば窓を開けられそうな配置だった。
 部屋の主は眠っていた。酸素マスクをつけ、点滴と心電図計が繋がっている。他にも何やら大掛かりな機材があったが、俺にはどういったものかよく分からない。
 ただ、近づいて覗き込んだとき確実に分かったことがある。
 この少女にはもう、契約だかなんだか知らないが、そういったものに耐えうる余力なんぞ残っていない。手足は明らかにむくみが出ていたし、頬は紅潮しているくせに肌には全く艶がない。到底、原作のようにベッドの上で両手を広げて元気な電波発言をできるような状態ではなかった。
 西向きの窓から空を眺め、俺は循環器内科の領分のはずのこの患者が、腎臓内科の病棟の外れ、ナースセンターから最も遠い場所に、一等広い個室を与えられている理由が漸く分かった気がした。

 ここからの眺めはすばらしいのだ。いつでも本物の天使が孤独な命を空へと攫って行ってくれそうなほどに。

 柿崎めぐの病室の中にいたのは二十分ほどだったろうか。その間、誰も病室を訪れることはなく、柿崎めぐが目を覚まして電波なことを言ったり癇癪を起こすこともなかった。
 帰り際にナースセンターの前で俺を呼び止めた看護士は、ひとしきり俺に柿崎めぐの近況、というよりはほとんど病状を話してくれた。
 時折非難がましい口調が挟まれていたのは、俺のことを柿崎めぐの親族か友人だと勘違いしたからだろう。実際のところ全く見ず知らずの他人なのだが、特に訂正する必要もなかった。俺は黙って彼女の話を聞き、丁寧な説明に感謝してその場を立ち去った。


 自宅に帰り着いてみると既に正午を過ぎていた。
 ごく簡単に昼食を済ませてから畳の上にごろりと転がり、現在の状況と考えを整理しようとしているうちに、しまりのない話だがいつの間にか寝ていたらしい。
 目を覚ますとベランダの窓は開け放たれており、部屋の中に夜風が吹き込んでいた。昼寝にしては長いこと寝ていたものだ。
 鞄は元の位置にあったが、中身はもぬけの殻だった。馴れ合う気はないと原作で言っていたが、どうやらそれは俺に対しても同じらしい。水銀燈は水銀燈、といったところか。
 昨日の今日で別段気を使われたわけではないと思う。しかし今はそのドライさが有難かった。お蔭様で今後について考えをまとめる時間ができそうだ。

──さて。

 俺は特に何をするでもなくこの十数年を生きてきた。生まれ変わりということを意識してはいたものの、何か特殊な能力を発揮することも、異次元転生者狩りエージェントみたいな存在が出現して命を狙われるなんてこともなかった。
 なけなしの原作知識とやらを使って桜田ジュンのトラウマを作らないために下手な工作もしたが、それもあっという間に覆されてしまった。それ以来俺は転生したという利点を生かして能動的な何かを試みることは諦めていた。
 だが、今になってローゼンメイデンの媒介として選ばれたということは、俺にはやはり何等かの役割が与えられているのかもしれない。
 元の世界に極近いが異なる世界の戦国時代に移動した自衛隊の面々が生き延びるために戦っていったことが結果としてその世界の信長や秀吉たちの不在を埋めることになったように、俺にもなにがしかの代替的役割が求められているのか。

──だとすれば、それは柿崎めぐの不在を埋めるものなのだろう。

 その認識は実に面白くなかった。人選としても疑問が残る。
 手前味噌な話だが、俺は原作の柿崎めぐほど派手に壊れてはいないと思う。転生した体は五体満足だし、あれほどピーキーである意味素直な性格でもない。
 実を言えば、俺は水銀燈に力を与える代わりに、柿崎めぐとの契約を提案するつもりだった。原作のままならば、二人の関係は他者が入り込む余地のないほどぴったりと平仄が合っている。
 しかし今朝見た光景は、柿崎めぐに本来の役割を押し付けるのが無理だということを嫌でも分からせてくれた。

 頭を振りながら台所に立ち、ケトルを火にかけていると、蛍の親玉のような光が横切ったかと思うとくるりと顔の周りで一回りした。
 部屋のほうに視線を遣ると、暗い空を背景に、銀色の髪を靡かせた黒衣の天使が開け放った窓から入ってくるところだった。
「あら、起きてたわけぇ? もう目覚めないかと思ったのに」
 くすりと笑う彼女は掛け値なしに美しい。
「生憎と、そう簡単には死ねないもんでね。誰かさんと契約しなきゃならないから」
 へえ、と彼女は肩をすくめ、昨夜と同じように無造作に指輪を放って寄越した。
「決心がついたんならさっさとしなさぁい。また、怖くならないうちにね」
「そうだな、お言葉に甘えさせてもらうとするぜ」
 ケトルの笛が間抜けな音を立てる狭い台所で、俺は水銀燈と契約を交わした。



[19752] 今日はこのくらいしか書けませんでした。トホホ
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:72695fa3
Date: 2010/06/26 23:30
はい。いい感じに失速してきました。
元々が遅筆&纏めておかないと伏線も張れない人なので、行き当たりバッタリはいろいろ辛いですな。

では本文。

*************************************


「ハハッ、この『シルヴィア』は最強だぜェ!」
「1/7のピースを足してやっただけでこの能力アップ…全部集めたら、そして完成したらどんな化け物になるのだこれは」
「ンな事ァ知るかよ! 今はこいつのパワーを存分に使いきってやる。その次は2個目、それから3個目だ! どんどん強くなるぜこいつはよォ」
「ああ、そうだな…」
「ボヤボヤしてる暇はねーぜ。見ろ。早速お出ましだ」
「……! 『アゲート』と『ピンクコーラル』か。思ったより早かったな」
「さあ、おっ始めてやるぜ、ALICE GAMEをよォ!」

 Advanced Logistic & Inconsequence Cognizing Equipment。それは、自律型学習コンピュータの究極の形である。
 1年戦争終結後、モビルスーツを含む宇宙機パイロットの深刻な不足に悩んだ地球連邦軍は、完全な無人兵器による戦闘を構想していた。その制御A.I.として開発されたのがALICEであった。
 しかし、ALICEと、その搭載機であるスペリオルガンダムは確かに高性能であったものの、そのコストはあまりにも高すぎた。
 ALICEを中心とする無人戦闘システムの開発が難航するうちに人工的ニュータイプ──強化人間の実用化の目処が立ち、研究は中止され、ALICEとスペリオルガンダムも4機を試作したのみで量産は放棄された。
 後にペズンの叛乱と呼ばれる一連の紛争において、α任務部隊に配備された1機のスペリオルガンダムが実戦に参加したものの、母機の大気圏突入の際にそのALICEは失われてしまった。
 残る3機も数年のうちに分解・破棄され、その機材はあるものはスクラップとなり、あるものは分解されて安価な二線用装備に流用されて、ALICE達はモビルスーツの無人化計画とともに時代の徒花として消えていった。
 公式には、そのように記録されている。

 宇宙世紀0097。世に言う【ラプラス戦争】の直後から、この物語は始まる。



「なるほどね……」
 俺は夜食を食いながら見ていたDVDの音量を少し下げた。夜中に見るにしてはこのアニメはだいぶ音がでかい。
「退屈な感じぃ……」
「同感だ」
「なら、なんで見てるわけぇ?」
 窓枠に腰掛けた水銀燈が至極当然な質問をしてくる。俺は首を傾げ、少し間を取ってから答えた。
「んー、なんだろな。話題づくり? 友達との」
「くっだらなぁい」
 そう鼻で笑いながらも、昨日借りてきたDVDをきっちり全部見ているのはどういうわけなんだか。
 にやにやしながら、俺はお茶漬けの残りを掻き込んだ。

 今後のことをいろいろと考えているときにふと「こっちの世界ではローゼンメイデンの代わりにどんなアニメが放映されたんだろう?」などという下らないことを思いついたのは随分前のことだった。
 そのときは、番組名と宇宙世紀物のガンダムの続編らしいということを知っただけで満足してしまった。さほど興味も湧かなかったし、よくよく考えれば長寿人形劇くんくん探偵シリーズなど、深夜枠どころかゴールデンタイムの番組さえ違った編成になっている。ローゼンメイデンの代わりどころの話ではなかった。
 それを今になって見ている理由は、番組のあらすじをたまたま伝え聞いてしまったからだ。


 ~~~読み専の俺がローゼンメイデンの転生オリ主物を書いてみた 3~~~


「アリスゲーム?」
 単語としてはこの世に生まれる前から知ってるが、その名前を人間の口から聞くのは初めての言葉だった。
「なんだ知らないのかよ。これだから種と00しかガンダムしらねー奴は」
「悪かったな」
 残念ながら彼のご期待には添えない。何故ならタネとかゼロと言われてもさっぱり理解できないからだ。
 俺が知ってると言えるのは前世で見ていたVガンダムとかGガンダム程度のものだ。物心ついた頃にゼータガンダムとかをやってたのは覚えているが、内容は完全に忘れている。難しい話だったというから、若しかしたら当時は理解できなかったのかもしれない。
 向こうで死ぬ数年前に「MAJOR」の裏番組で新作のガンダムを放映していたのも知っていたが、それは全く見ていない。ビール片手にぼんやり見るにはライスあったけマジうめー♪ の方が気楽だったのだ。
 こちらの世界でも同じ番組を見てしまっているのは許されることと思いたい。さすがに昨今の規制下では未成年がビールを買ってくるわけにはいかないが、十数年ぶりに見る再放送のようなもので懐かしさがどうしても前に立つのだ。
「アリスってのは超すげえAIなんだ」
 メガネを掛けた、いかにもという感じのクラスメートは、得意げに語り始めた。
「けど、開発途中で解体されて七つに分割されちまった。んで、それぞれが別々のモビルスーツに補助コンピューターとして搭載されたわけよ」
「へえ」
 何やら怪しい話になってきた。
「AIは七分の一になっても自分で学習して機体制御できるわけ。けど、全部集めれば超すげえパワーになるんだ。ニュータイプよりつええの」
 ニュータイプはエスパーみたいなもんじゃなかったっけ。
「だからそれを奪い合うのがアリスゲーム。んで、モビルスーツに乗ってるAIがさあ」
 その後何十分かに亙る彼の懇切丁寧というか執拗というか微妙な説明を要約すると、要するに演出上の都合で「AIの操っているモビルスーツ」を表現するのに、オーバーラップで少女たちを重ねるような手法を取ったらしい。
 AI自体も女性の人格が与えられているという設定で、実際に喋りながら戦う。まさに萌え狙いというか、あざとい商法だ。
 ALICEを現出させるために少女たちは文字通り死闘を繰り返す。擬人化しているといってもロボット同士だから、腕がもげたり体が消滅したり、人間同士ならスプラッタになるところを美しく演出できたという。
 モビルスーツの擬人化としては斬新な方法だったようで、当時はその筋の人々には大人気、2ちゃんねるには各AIごとのファンスレが立ち、ガレージキット屋からはフィギュアのみならず限定品のドールまで発売されたとか。
「で、お前さんは誰が好みだったわけ?」
「そりゃーもちろんサファイアだろ! さふぁ子は俺の嫁! ボクっ子は正義!」
 そうですか。
 肩を竦めて辺りを見回すと、放課後の教室に残っていた面子は呆れたようにこちらを眺めていた。普段寛容な柏葉の視線さえもだいぶ低温になってきている。
 できれば声を慎んでほしいものだ、と思わず溜息が出てしまう。桜田にこの厚顔無恥さの半分でいいから分けてやりたい。そうすれば、学年が変わったのを切っ掛けにしてでも登校を再開するように誘えたのに。


「ちょっと」
 細い指が俺をつつく。はっとして顔を上げると、画面は青くなっていた。眠気に負けてついうとうとしてしまったようだ。
「終わってるわよ」
「あー、すまん」
 結局今晩も水銀燈は四話分のDVDを最後まで見ていたらしい。こっちは最後の一話分ほどはストーリーがあやふやなのだが。
「半分にした方がいいんじゃないのぉ? お馬鹿さぁん」
「返却期日の関係があるからなー」
 前期後期と特別篇で合計二十六話、まさに元居た世界でのローゼンメイデンの放映話数そのままのアニメだが、それを全部一気に借りてきたのだ。一週間で見終えるためには毎日四話ずつ消化しなくてはならない。
「ぷっ」
 本当に馬鹿ねえ、と笑う彼女は、原作よりも幾分肩の力が抜けているような気がする。
 原作では柿崎めぐに対して心を許していることを認めたくなくて(または心を許してしまっている自分を見せたくなくて、かもしれない)自分のスタイルを貫くべく突っ張っていたが、俺に対してはそうする必要もないほど見下しているというわけだ。
 それが残念とは思わない。原作の媒介とは違い既に契約を交わしているのだし、同じようになぞることには意味がないだろう。こちらのやり方で付き合っていけばいいだけの話だ。
 ただ、関係がべったりしていないことにはいささか問題がある。
「そういや、昨日話してた『本物の』アリスゲームはどうなってるんだ」
 こうして聞かなくてはならないこともその一つだ。
 桜田が実際に媒介になっているかどうかは確認が取れていないが、少なくとも原作の桜田は頻繁に戦いの場に連れて行かれていた。戦いの経緯についても、お互いに話して愛情を深めていたようなフシもある。
 しかし、今のところ俺にお呼びが掛かったことはない。向こうからゲームの進行状況を報告してきたこともない。尋ねてみたのもこれが初めてだった。
「貴方には関係ないでしょ。必要になったらいつでも力を吸い上げてやるから安心しなさぁい。そのための契約なんだから」
 余裕のある含み笑いとともに、ある程度予期していた言葉が返ってくる。俺はDVDプレイヤーの電源を落とし、台所に向かいながら窓枠の天使を振り向いた。
「そりゃ、そっちはそれでいいかも知れんが、こっちだってパワードレインを受けるんだからな。それなりに進行状況くらい知りたいと思っても当然だろう」
 水銀燈は頬杖をつき、若干面白くなさそうな顔でふぅんと鼻を鳴らした。
「今のところ、進展はなし」
「まだ全機揃ってないってとこか?」
 先ほどのDVDに引っ掛けてそう言ってみると、はっきりと機嫌が悪くなったのが見て取れた。
「まあそうね。その割に、もう一人中途半端に脱落してるけど」
「……そりゃ、早いな」
 雛苺か、と喉まで出掛ったが、どうにか抑えた。雛苺が真紅に負けてから蒼星石が自刃するまでなのかと思ったが、展開は原作どおりとは限らない。
「勝った者がローザミスティカを奪わないなんて……恥知らずもいいところだわ」
「ゲームの勝者はローザミスティカを奪う決まりだったっけ?」
 小さなティーカップに紅茶を淹れてやると、意外にも素直に受け取って口をつける。淹れ方が適当なので不味い紅茶だと思うが、彼女は文句も言わずに返事をした。
「取り決めなんてないわ。でもゲームの目的はローザミスティカ。それを奪わないなんてイカレてるのよ……真紅のやつ」
 ふむ、まあここまでは原作どおりか。多分負けたのは雛苺で間違いないだろう。
 俺は自分の分の紅茶をマグカップに注いで窓から外を眺めた。水銀燈に肩が触れたが、彼女は少し避けただけで文句は言わなかった。
「まあ、物は考えようじゃないか?」
 日付が変わって、街の明かりはそろそろ消え始めていく。ある意味で一日中で最もさびしい時間帯だ。なんとはなしに、水銀燈に似合うような気がするのはなぜだろう。
「真紅ってやつのローザミスティカが二つになっちまえば、その分だけパワーアップするんだろ? お前さんにしてみれば、相手がチョンボしてくれて大ラッキーじゃないか」
「……」
 水銀燈がこちらを向く気配が分かったが、俺は気づかない振りをして続けた。彼女の言いたいことがなんとなく分かるような気がしたからだ。
「どうせ奪い合うことになるんなら、相手のミスはこっちの加点だ。後ろ向いてニヤリと笑って、その状況を有利に使ってやればいいのさ」
 片目を瞑って見上げると、黒衣の天使は毒気を抜かれた表情で何かを言いかけたがそれを引っ込めて、紅茶の残りを飲み干した。
「不味いわね、これ」
 そう言ったときには、彼女はもうごく当たり前の表情に戻っていた。
 そいつは失礼、と俺が頭を下げると、水銀燈は優雅といえる手つきでこちらにカップを返して寄越した。
「温度はめちゃくちゃだし、苦すぎるわよ。せめて次からはミルクを入れて」
「了解」
「全く……退屈しちゃう。少し飛んでくるわぁ」
「俺は寝るとするか。紅茶の効き目もないし。もう目が落ちそうだ」
 水銀燈はふわりと宙に浮き、くすりとこちらをみて笑った。
「それは死ぬときの表現でしょ、おばかさぁん」
「そうだったっけ」
 水銀燈はくすりと笑い、机の上のPCを指差した。
「起きたらそこの大きな箱で調べなさぁい。……おやすみ」

 おやすみ、と返す間もなく、黒衣の天使は銀色の蛍を従えて闇の中に消えていった。

 俺は暫くその後姿を見送っていた。どうせまた明日もDVDの鑑賞会と決まっているのに、名残惜しいような気がするのはなぜだろう。
 PCを振り返り、ひとつ欠伸をする。明日登校する前に紅茶の淹れ方くらい調べておこう。いや、原作でも真紅が何巻だかで淹れ方をのりに教えてたよな。確か本棚のあの辺りに……
「ああ、そうか……」
 当然のことに気づいて苦笑いする。この世界には「ローゼンメイデン」はないのだった。眠気のせいなのか、どうもおかしな調子だ。



[19752] 取り敢えず今日はここまで。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:72695fa3
Date: 2010/06/28 00:08
はしょりすぎ感バリバリですが、こんなところで。

**************************

「ああ、別に風邪も引いてないし、元気にやってるよ。そっちこそデモとか巻き込まれないようにね。……あはは、それじゃ」
 毎度ながら、通話を切ると唐突に寂しさが襲ってくる。部屋の中に一人ということを意識する瞬間だ。
 この春の人事異動で両親は東南アジアの現地法人に出向させられた。長くても数年で戻るということもあり、俺は社宅から小さな安アパートに移って元の中学にそのまま通学している。
 今の状態を考えると便利といえば便利な状況というべきか、生活が落ち着き、まるで彼女を迎えるための環境を整えたようなタイミングで水銀燈は現れた。何やら胡散臭いものも感じるが、その点は深く考えないことにしている。
 ともあれ、生まれ変わったとはいえ、赤ん坊の頃から十数年間同じ屋根の下で暮らしていた両親が居なくなるのは寂しいものだ。一人暮らしそのものは大学時代から数えて十余年続けていたから慣れているが、かえってそのせいで一人暮らしに新鮮味もなく、不便なところばかり目に付いてしまう。
「電話?」
 振り返るともう一人の住人が目を覚ましたところだった。既に鞄は閉じており、テーブルの上に腰掛けている。この辺りの隙を見せないのが水銀燈の矜持なのだろう。それとも、鞄が開いただけでは気配に気づかないこちらが鈍いだけなのか。
 俺は生返事をして固定電話の子機を戻した。
「今日は早いんだな」
 まだ土曜日の午後三時を僅かに過ぎた時間だ。大抵二十時過ぎに起きてくる彼女としては例外的な早起き、というよりは夜中に起き出したようなものと言っていい。
「どうでもいいじゃない。早めに目が覚めることだってあるのよ」
 僅かながらいらつきの混じった声に苦笑しながら台所に立っていき、冷たい麦茶を持って戻ると、水銀燈はどこか思いつめたような表情で視線をこちらに向けていた。
 今日に限ってどういう風の吹き回しなのか。異例ずくめだなと思いつつ、早くも汗をかき始めているコップを渡すと、水銀燈は受け取った姿勢のままそこに視線を落とした。
 一体何を思い悩んでいるのか、とちらりと考えたが、原作の動向まで含めると心当たりがありすぎてとても推測しきれるものではない。お互い無言のまま時間が流れた。

「──扉が開いた」

 唐突に沈黙を破ったのは水銀燈のほうだった。何の扉だと聞き返す間もなく、彼女はコップを置いて立ち上がり、漆黒の翼を広げた。
「行くわよ、メイメイ」
 主の声を聞いた人工精霊が慌てたように鞄から飛び出すのも待たずに、彼女は慌しく青い空にむけて飛び立った。途中ちらりとこちらを振り向いたような気がしたのは、俺の勘違いか、それとも相棒がついてきているか確認したのだろうか。
 彼女の残していった何枚かの黒い羽が部屋の中に舞っている。それがゆらゆらと床に落ちる頃には、黒衣の天使も銀色の相棒も既に昼の光に呑まれて見えなくなっていた。
「扉、か……」
 俺はその言葉の意味するところを思い出そうと、曖昧な記憶を手繰り始めた。


 ~~~読み専の俺がローゼンメイデンの転生オリ主物を書いてみた 4~~~


 忌々しいくらい良い午後だった。PCの画面を睨む俺の機嫌が悪くなっていくのと逆比例するかのように、時折振り返って見てみる空は雲の量を減らしていき、その色も秋の空のように高く澄んで行く。

──畜生。

 俺は机の天板をぶっ叩いた。安物キーボードが音を立てて跳ね上がる。クラッシャーよろしく叫びながらキーボード自体を叩きまわさなかったのは、ひとえに俺に染み付いた貧乏性のせいだ。
 生まれ変わった場所がローゼンメイデンの世界だと気付いたときから、俺は原作について備忘録を付けていた。
 準備が良かったと誉められるような代物ではない。これからの役に立つかもしれないという功利的な動機すら建前のようなもので、本音は「記憶の中にしかない好きな作品を忘れないうちに記録しておきたいから」程度のものだった。
 そんなものだから、書いていて思い出すこともあれば、書いてしまったことに安心して忘れてしまうこともある。扉云々はまさにそれだった。

『バーズ版三巻
 翠星石が気づく(ロールがほどけて可愛い)
 翠:扉が開いているです……
 蒼:行くよレンピカ(出撃)
 翠星石、ジュンに懇願。告白っぽい。ジュンドキドキ。でも罠(ピアノ線引っかかって転ぶ)
 ……』

 ここまで読めば、いくら頭の良くない俺といえど流石に思い出す。
 蒼星石が扉を開いたのだ。それを翠星石と水銀燈が知ったことで、この時点で登場していたドールと桜田ジュンが全員nのフィールドに揃う。そして当然のようにゲームが始まり、真紅が腕をもがれるのだ。水銀燈に。
 原作最初の大きな戦いだが、実のところここでゲームは半ば終わっていたかもしれない。真紅の腕をもいだことで欲を出した水銀燈が蒼星石との約束を反故にし、蒼星石まで攻撃するようなことがなければ。
 架空戦記ネタで喩えるならばミッドウェイの兵装転換とか真珠湾の第三次攻撃のような「痛恨の一事」に値するだろう。後知恵でいろいろ考えられるところも含めて。
 もっとも、原作において全ての事柄は兎頭の慇懃無礼紳士に操られている可能性もないではないから、決着がつかなかったことは既定事項だったのかもしれない。

──いずれにせよ、俺はここで待つほかない。

 nのフィールドに俺は単独で侵入できない。全てを桜田に話した上で同道する手は(成功の可否は無視するとして)あったのだろうが、今となっては時間的に間に合わない。
 原作どおりに進まない可能性が僅かながらある、という点だけが慰めだ。
 水銀燈が蒼星石との共同戦線を張る際の口実として使った「殺したい相手がいる」というのが柿崎めぐの父親を指していたなら、おそらく柿崎めぐと面識すらないであろう今の水銀燈には蒼星石と共同戦線を張る理由がない。
 いや、分かっている。それは俺の希望というか手前勝手な妄想に過ぎないことは。
 損得ずくで考えれば、何か適当な理由をこじつけても蒼星石を抱き込んだほうが水銀燈としては得策だ。そもそも原作の取引きにしてからが、手を組むための虚偽の口実に過ぎない可能性もあるのだ。
 俺はもう一度机を叩いた。マウスが床に転がり落ち、画面のカーソルがあらぬところに飛んだ。
 舌打ちをしてかがみ、マウスを拾い上げる。こんなことは意味がない、と俺の中の冷静な部分が告げる。物に当たったところで何も変化はおきない。

──だいたい、何故こんなに悔しがる必要がある?

 原作どおりに進ませればいいではないか。真紅が片腕を無くすことで真紅と桜田ジュンは確実に成長できたのだし、二人の絆も深まった。むしろ、妨害や偶発的な要因で不首尾に終わらせてしまう方が、二人にとっては不幸だし俺にとっても損ではないのか。
 第一、nのフィールドに入り込んだからといって俺に何ができるわけでもない。せいぜい水銀燈の媒介として狙われる程度のものだ。

──理屈はわかってる。

 だが、何かが気に喰わないのだ。それはただ能動的な関与を諦めねばならないから疎外感を受けたというような理由ではない。むしろ──
「なっ……」
 マウスを置こうとして画面に視線をやって、俺は息を呑んだ。光沢加工をしたモニターが半球状に盛り上がり、波打っている。
「これは……ッ」
 何が起きたのか把握する前に、俺は何かの手に掴まれてモニターの中に引きずり込まれていた。


 モニターが広めで良かった。17型なら途中でつっかかっていただろう。
 引っ張り込まれた瞬間、俺はモニターから飛び出していた。とっさに受身を取り、目の前に迫っていた床に激突するのをどうにか避けたはいいが、柔道の授業そのままに手を斜め横にバタンとやったら椅子の脚らしい部分にしたたかに打ち付けてしまった。
「ってえな」
 手をぶらぶらやりながら立ち上がると、そこは見覚えがあるようで全く異質な場所だった。
 知らない店の暖簾をくぐったら自分の部屋に出たような奇妙な感覚。それと、自分の体が自分のものでないような感触。これは……
「いらっしゃぁい……」
 上の方から声が響いてくる。振り仰ぐと、黒い翼を持った少女と、青い服を着てでかい鋏を持った少年がゆっくりと降りてきた。いや、少年と呼ぶのはいくらなんでも失礼だろう。
「水銀燈と……蒼星石」
「初めまして、水銀燈のマスター」
 蒼星石は俺と視線の合う所まで降りてくると、帽子を脱いでお辞儀をした。所作は完全に少年のそれだ。宝塚で男役をやったら国民的な人気女優になれるだろう。
「ここはnのフィールド。その中の、貴方の記憶とイメージの世界さ」
「ほお。それはそれは」
 特に意味もなく裾を払ってみるが、当然のように埃は付いていなかった。肩を竦めて顔を上げると、水銀燈と目が合った。
「やあ。俺の世界にようこそ、お二人さん」
 蒼星石はもう一度礼をし、水銀燈は鼻を鳴らした。
「汚くて狭いところね。ある程度想像はしてたけど」
 そう言ってわざとらしく周囲を見回す。蒼星石が小首を傾げた。
「想像? 君が毎日帰っている場所じゃないのかい」
 水銀燈は胡散臭そうに俺を見、それから蒼星石に向き直った。
「見るのは初めてよ。ここも、そしてそこの男の姿もね」

 俺は改めて自分の身体を見た。血管の浮き出たがさがさした手。洗いざらしのツナギ。多分一回り背が伸びて、体型自体も変わっている。懐かしい「俺」の姿だった。
 そう。ここは俺が十数年間忘れずにイメージしてきた、生まれ変わる前の俺の部屋だ。壁も天井も机も、あちこちに無造作に置かれたパーツやら工具の山も。
 既にそこで暮らしていた時間よりも回顧している時間の方が何倍にもなってしまっているが、俺の記憶の中では強固に結晶化して崩れることはなかったらしい。まるで本物のように、本棚の本の並びまで手に取れそうなほどはっきりと質感を持っている。

──ローゼンメイデン。

 近づいて、恐る恐る本棚から出してみる。ある種の恐怖と期待がない交ぜになった興奮は、しかし読もうと開いてみたときに急速に凋んだ。漫画はカバーと形だけで、中身は白紙だった。一巻から順に全部開いてみたが、全て同じだった。
 一つ大きく溜息をつき、ま、世の中こんなもんなんだろう、そう上手くは行かないものさ、と漫画を元通り棚に戻したところで、俺は二人がこちらを見つめていることに漸く気が付いた。

「やっと戻ってきたみたいね」
 水銀燈が呆れたように言った。
「説明してもらうわよ、人間。貴方は一体何者?」
 言い終わると同時に、黒い羽が俺を取り囲む。蒼星石も一歩引いたところで鋏を持ち直した。
 後から考えればあまりにも急転直下の展開だったわけだが、そのときの俺には恐怖や驚きはなかった。原作どおりに進んでいないことへの疑問やら考察やらも浮かんでこなかった。

 ただ、二人が──水銀燈がこちらをねめつけている視線に全く温度がないことだけが、些か悲しく思えた。



[19752] 2日掛りました。説教&言い訳モード難しすぎ。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:72695fa3
Date: 2010/06/30 22:22
いきあたりばったりで書いてるとキャラが崩れてきます。
もう崩壊の一途。

とりあえず、オリ主転生物といえばSEKKYO!! というわけで(偏見)
思いっきり説教?軽い罵倒?してもらいました。

説教と言い訳難しいよママ。2日かかった。
それともペースダウンの序曲なのか?
実験続きます。
以下本文。

※22:21 冒頭のこの文書かずに投下してしまったのでここだけ追加。

***************************


「何者って言われてもな」
 いきなり実力で脅迫とは理不尽だとは思ったが、編成自在の羽毛の軍団と斬り突き両用の武器を持った相手に丸腰で勝てるわけがない。俺はまあまあと手を上げながら、その場に座り込んだ。
「見てのとおり、機械弄りが好きでヲタクなオッサン『だった』だけの、無力な一般市民だぜ」
「信じられるものですか」
 水銀燈が警戒を緩める素振りはない。
「それが何故姿形を変えて子供になっているわけ? しかもその漫画、題名がローゼンメイデンなんて、ありえないじゃない」
「確かにな」
 そりゃ、ありえない話だ。死んだと思ったらおぎゃあと生まれて、あまつさえその先が愛読してた漫画の世界だったなんてな。実際に死ぬまでそんな可能性を考えたこともなかった。
 生まれ変わってからでさえ、同じクラスに桜田やら柏葉の名前を発見するまで、そんなトンデモな異世界に迷い込んでいるなんてことは想像もしなかった。生まれ変わったこととどうやら十数年ほど時間を遡行していることだけで奇天烈体験は腹一杯だった。
 結局のところ、俺は異常な環境に放り込まれたにもかかわらず、これまでただ漫然と生きているだけだったとも言えるし、逆の見方をすれば目の前のことで一所懸命だったとも言えるだろう。
 いずれにせよ確かなのは、こちらの世界に生まれ変わったからといって、日常のこまごました俗事をCtrlキーでスキップできるようなことはないということだ。
 生まれ変わったと言っても飯を食わなければ死ぬし、金がなければ飯は食えない。痛いものは痛いし、無くし物は探さなければ出てこないのだ。
「物分りが悪いわけでもなさそうねぇ」
 俺は頷いてみせた。頭が良くないのは自分でも承知してるが、現状を受け入れる能力だけは人並み以上にあるつもりだ。
 俺の態度を従順になったものと解釈したのか、水銀燈の顔から険が消えた。
「なら、さっさと洗いざらい話しなさぁい。それとも──」
 羽がこちらを指向する。まあ、痛い目に遭わせるだけのつもりなのは明白なんだが、それでもこういうシチュエーションは嬉しいものじゃない。
「痛いほうがいいのかしら?」
 そう言ってうっそりと笑う顔には、契約を迫ったときに見せたものと同じ凄みと色気が同居していた。
 やはり彼女はSっ気があるらしい。それも原作そのままというわけだ。
 俺はやれやれと肩を竦め、これまでの経緯を話し始めた。


 ~~~読み専の俺がローゼンメイデンの転生オリ主物を書いてみた 5~~~


 水銀燈は片膝を立てて窓枠に座り、気だるい風情で夜空を眺めている。
 nのフィールドに俺を引きずり込んだ日から、こっちが起きている間だけでも毎日一度はそんな姿を見せるようになっていた。
 媒介の危険性について考えているのかもしれないが、今のところ契約を解除したりエネルギーを吸い取りきって殺してしまうつもりはないらしい。
 ただ、それまでも大して多くなかった会話は、あの日を境にほとんどなくなった。俺との間に新たに一線を引いているのは間違いなかった。
 俺はと言えば、相変わらずだ。面倒臭い宿題を片付け、翌日当てられそうな所だけ渋々予習して、後は雑事に追われている。毒にも薬にもなりゃしない。

「ねえ」
 水銀燈が声を掛けてきたのは、課題を終わらせて立ち上がろうとしたときだった。
 随分久しぶりのような気がしてそちらを見ると、思ったよりは近くに、そっぽを向いたままの彼女の姿があった。手の届くほどの場所ではない。それでも近いと思うほど、最近は距離を置いていたということかもしれない。
「前の暮らしに戻りたいと思ってるでしょ、貴方」
「なんだい藪から棒に」
 俺は何回か目をしばたたいた。てっきりアリスゲームの話か、契約を破棄したいとかいう話をするのだとばかり思っていた。
「言い方を変えるわ。今の生活は楽しい?」
 俺は絶句するしかなかった。全く予想外の質問だった。何も言えないでいるうちに、水銀燈は自分で回答を口にした。
「楽しくも、おかしくもない。生まれ変わってからずっと。違って?」
 目の前の水銀燈はいらついた調子で、しかし何かを辛抱強く耐えているようにも見える。
「最初は変な人間だと思っただけ」
 斜め下を向いたまま、半歩だけ彼女がこちらに歩み寄る。
「次は、退屈なやつって思った」
 じり、とまた距離を詰める。
「そして、真紅の話をしたとき──ぞっとしたわ」
 あのときか、と俺はぼんやり思い出す。真紅が雛苺のローザミスティカを奪わなかったことをラッキーだと俺が言い放ったときだ。
「貴方の中には何かある。とても空虚で深い闇が。それがどうしても知りたかったからあの世界に行って、……貴方の話を聞いて、やっとものすごい勘違いに気が付いたってわけ」
 どんな勘違いなんだ、と言おうとしたが、何かに縛られたように口が動かなかった。しかし、言われなくても何故か分かっているような気がした。

「貴方の中には何もなかった。
 いいえ、むしろ貴方はここにいない。歩みを止めて、終わってしまった夢の底にこびりついているの。
 ここに居る貴方は抜け殻。
 義務感は持ってる。社会にも順応してる。
 でもそれはただ、目の前のことだけに対処しながら、日々を繰り返しているだけ。
 人間としての生活も、媒介としての私に対してのありようも全部そうなんでしょう?
 当たり前よね。貴方の時間は、こちらの世界にくる前の瞬間で止まっているのだもの」

 水銀燈はそこで漸く顔を上げた。
 それは今まで俺に見せたことのない、真摯な怒りの表情だった。

「貴方は生きてない」

 何かの圧力に襲われたような気がして、俺は体を震わせた。彼女の怒りに満ちた双眸は俺を真っ直ぐに射抜いていた。
「器となるべき体は生まれかわっている。生命は確かに生き返っている。でも、心は死んだままなのよ。魂の時間は止まっているのよ。生まれたときからずっとね」
 それは、俺のありように対する全否定だった。
 言われるとおりだった。自分でも薄々は考えてきたことだけに、纏めてぶつけられると反撃する言葉もでてこない。図星をつかれたようなものだった。
 怒りがないといえば嘘になる。だが、それは目の前の小さな天使に対してのものではなかった。こんなときでもどこか他人事のように覚めた目でこの世界を見ている自分自身への怒りだった。

 温度の低い怒りに目を閉じ、また開く。水銀燈は視線を脇にやりながら、まだそこにいた。赤い瞳がちらりとこちらを見た。
「本当……むかつくったらないわ。こんな死人と契約したなんてね」
 自分の言葉が終わらないうちに彼女はくるりと俺に背を向け、何も言わせないタイミングで窓の向こうに飛び去った。銀色の相棒がどこからか漂い出、俺の周りをくるくると二度ばかり回ってから彼女の後を追った。

──追わなきゃ。俺も。

 何故かは自分でもわからない。反射的にそう思った、としか言えない。
 いつものように理屈を捏ね回すことはなかった。
 俺は玄関先に停めてある自転車の施錠を乱暴に解除し、飛び乗って彼女の飛び去った方向を目指して走り始めた。
 当てはない。ただ、追いかけなくてはならないという気持ちだけが先に立って、俺は子供のようにがむしゃらにペダルを踏み込み、夜道を駈けた。


 街路灯だけがぽつぽつと灯る中を、闇雲に自転車を走らせていると、不意に一つの光景が浮かんできた。
 天井の高い、戦争映画に出てくるようなコンクリ剥き出しのぼろぼろの教会のような建物の中。運び去られた聖母像と埃まみれの説教壇の間に立つ黒くて小さい姿。
 解体寸前の古い礼拝堂は、大学病院の裏手に、確かまだあったはずだ。
 大通りを逆走し、ニアミスした酔っ払いの怒鳴り声を後ろに聞き流し、最後に「工事中」のバリケードにぶつかって派手に鳴らしながら俺はその場所に辿り着いた。
 庭は重機の置き場になっているものの、礼拝堂はほとんど完全な形でまだそこにあった。
 入り口の扉には×字に板が打ち付けられていたが、世話好きの案内人が待っていた。
「メイメイ」
 俺の言葉が聞こえるのかどうかは分からないが、人工精霊はついてこいと言うように礼拝堂の脇に回り、割れた窓を教えてくれた。
「済まないな」
 人工精霊はくるくると回り、ろくに月の光も差し込まない室内を、闇に溶け込むような服を着た天使のところまで案内してくれた。

 水銀燈は不貞腐れたような顔で、割れていない窓の近くに座り込み、窓越しに外を見ていた。
「……何よ。無様に生きてる人形に情けでもかけに来たわけ?」
 俺は黙って水銀燈と同じ窓際に並んだ。彼女はこちらを見なかったが、どけと言うことも自分からよそに移ることもなかった。
「きちがい人形師に作られ、そいつの顔をもう一度見るために自分たちの命を奪い合う七体の可哀想なお人形。一段高いところから見ていればさぞかし楽しい見世物でしょうね」
 激烈な内容の言葉だったが、彼女の口調は静かだった。
「知ってるんでしょう? これから起きることも」
「ある程度のところまでは」
 原作の連載が終了する前に俺は死んだ。だから、結末は知らない。いつ結末がつくのかも知らない。
「だがそいつは漫画の上のことだ。この世界のことじゃない」
「詭弁ね。貴方が媒介であること以外、ほとんど漫画をなぞってるって言ったのは貴方よ、異邦人」
 水銀燈はぴしゃりと俺の言葉を抑えた。
「もしもこの先が貴方の知っている漫画とは違っても、ここまでの出来事を貴方は全部知っている。私たち薔薇乙女のことも」
「謎が明かされている部分はね」
「私の心の中も覗いていたのでしょう。悪趣味すぎるわ。ただの媒介のくせに」
 薄く笑ったが、からかうような響きはなかった。乾いた笑いだった。
「君の心じゃない」
「同じことよ。きっと。貴方が漫画を読んでイメージしている『水銀燈』を言葉にすれば、私と同じになるはず。それは、私が心を覗かれたのとどう違うというわけ?」
 正論だった。何も言えない。
「貴方にしてみれば、ここは舞台の袖みたいなもの。貴方は時の止まった夢の中で、漫画で描かれたのと同じ場面の再演を舞台のごく間近で見ているだけ」
 ただしそこには少しばかり危険もある。その部分は水銀燈は指摘しなかった。
「いっそのこと、螺子を巻かなければ良かったのに。そうでなければ持ってる知識を全部使って可哀想なマリオネットたちを好きに操れば良かったのに。貴方はどちらも選ばなかった」
 肩を竦め、いっそさばさばした調子で、半ば自嘲するように彼女は喋りつづける。
「観ている分には面白いけど、そこまでのめりこむ『作品』でもなかった、ってわけね。私達の人形劇は」
 ちがう。それほどの知識量を俺は持っていない。全員を手玉に取るなんて不可能だ。

──いや、果たしてそうか?

 水銀燈の言うのは極論だ。だが、真実を突いている。
 あの日、あのサイトで「まきません」を選べば、少なくとも俺の前に水銀燈は出現しなかった。そのまま、流れるままに任せて行けば、全く関わりを持たないことだって有り得た。
 逆に、その気になればできたことはいくらでもある。水銀燈の思うところに沿って手助けしてやることもできたし、桜田の同級生という立場も利用すれば、桜田の家に入り浸るなどして逆に真紅に肩入れすることさえもできた。
 そのほかにも、例えば薔薇屋敷の主人を無益な犯罪をするなと諭してみたり、誰か特定の一人だけにそれとなくその後の情報を垂れ流すだけでも、場合によってはその後の展開は大きく変わりうる。
 nのフィールドに引き込まれた日にしてからが、ダメ元で桜田の家に電話を掛けて状況を確かめるという選択肢もあったはずなのだ。
 それらは成功したかもしれないし、失敗する目の方が大きかったかもしれない。ただ、真剣にこの世界と向き合っていくなら、手を出してしかるべき枝だった。
 情けない話だ。「まきます」を選んだとき、柿崎めぐの状態を見て指輪に口付けたとき、そのいずれのときにも俺は、誰かの力になろうと思ったのではないのか。

「確かにゾンビだな、俺は」
 病院のベッドの上でしか暮らしていない柿崎めぐの方が、俺よりもよほど生きている。
 彼女の代わりを務めるには、今までの俺では役者が足りない。
 柿崎めぐを水銀燈が愛せたのは、彼女が不遇だからというより、もがきながら懸命に生き方(と、恐らく死に方)を探っているのに共感したからなのだろう。
 不遇さはともかく、その懸命さが、俺にはない。
「だけど、椅子の上にふんぞり返った観客で居ようとした訳じゃない。結果的には、そう見えるかもしれないが」
 水銀燈は言い訳を聞く気はないと言いたげにそっぽを向いた。だが、その場から去ろうとはしなかった。
「俺はただ、臆病だったんだ。その辺の砂粒くらいの度胸しかないチキン野郎だから、手を出すのをひたすら怖がってた」
 桜田が傷つきながら成長していくのを止めてしまうことが怖かった。水銀燈が、翠星石が、蒼星石が、真紅が、雛苺が原作どおりに痛みを抱きつつも変わっていくのを邪魔したくなかった。
 本気で何かを変えようとするなら、それによって引き起こされる痛みを受け止めなければならない。俺にとってはそれが、漫画のキャラクターたちが自分の知らないものに変化していくことだったのかもしれない。
「失礼な話だよな。君たちは全力で生きて、前に進もうとしているのに、俺は重心を後ろに残したままちょっかいを掛けようとしてたんだから」
 そのくせ、契約した相手が姉妹の腕を引き千切ることを原作の展開から勝手に予想して、それを止めさせたいと考え、止めるのが無理だと思えば癇癪を爆発させたりもした。その意味ではまさに彼女の言うとおり、ダブルスタンダードな観客だ。
「本当にごめん。それから……ありがとう。そんなに真摯な言葉をくれて」
「……お礼なんか要らないわよ」
 僅かな間があって、そっぽを向いたまま、水銀燈はぶっきらぼうに呟いた。
「私はただ──」
 がさりと物音がして、俺は反射的にそちらを振り向き、水銀燈も言葉を呑み込んで立ち上がった。
「やあ、水銀燈。水銀燈のマスターも」
 青い光が近づいてくる。メイメイがすっと飛び上がり、それを迎えるようにくるくると回った。
「貴女がここに来るなんて珍しいわね、蒼星石」
 二つの人工精霊の放つ僅かな光と、外からの薄明かりに照らし出されたのは、見覚えのある青い服を着た少年のような少女だった。



[19752] ペース復活?
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:72695fa3
Date: 2010/07/01 23:09
え、SEKKYOUってオリ主がするのが本当なの?
あたしまたやっちゃった……?

ってことで今回は有名な神殺しのチート武器登場です。
でも、お約束で1回使い切りみたいだね!
しかもついでに覚醒したっぽいです。
何この詰め込みすぎ。

****************************


「約束を果たしに来たんだ。君が探し物の在り処を教えてくれたお陰で、時間に余裕ができたからね」
 蒼星石は色の違う瞳で俺を一瞥した。瞳には紛れもない生きた意思の光があるが、表情はビスクドールのように硬質だった。
「お邪魔だったかな」
「構わなくてよ。話は済んでるわ」
 水銀燈はこちらを見ずに答えた。蒼星石は軽く頷き、ちらりと窓の外の重機を見た。
「外はだいぶ準備が進んでるようだけど、鏡はまだあるのかい」
「まだ壁に嵌ったままね。丸ごと壊すんじゃなぁい?」
 水銀燈は奥の部屋に続いているらしい入り口に視線を向けた。扉は壊れたのか運び出されたのか既になく、黒い穴がぽっかりと口を開けている。
「そう。来た甲斐があったよ」
 蒼星石はまたこちらを見上げた。
「彼も一緒でいいのかい」
「ええ」
 水銀燈は頷くと、ふわりと宙に舞った。
「自分の目で確かめればいいのよ。どんなに歪な形をしているか」


 ~~~読み専の俺がローゼンメイデンの転生オリ主物を書いてみた 6~~~


 床のない世界というのは初めてだった。
 水銀燈が無言で先頭を飛び、蒼星石も泳ぐように頭から「下」に向かって舞い降りていく。俺は足を下にしてそれに続いた。
 床に相当する部分はないのに天地は存在していて、天には太陽のようなものがかかり、一本の太い幹が曲がりくねりながらそこへと伸びている。
 底の見えない巨大な井戸のような世界だった。幹はさながら井戸に投げ込んだ水汲み桶の縄のような按配で、幹の末も、根元もどうなっているのかは遠すぎて見えない。
 俺たちはそれに沿って緩やかに降りていった。
 幹の周囲には幾つかの光がまとわりつくように見えている。近づくと、それは一つ一つが小さな苗だったり雄大な樹木だったりした。心の木というやつなのだろう。
 幹そのものも一様ではない。曲がり、枝分かれし、ときには繁茂しているかと思えば全く心の木が見当たらない場所もあった。
「心の木の姿が人の数だけあるのと同じように、世界樹にも無限の様相がある」
 いつのまにか蒼星石が隣にいた。
「違うのは、世界樹は決して死なないこと。心の木は容易に枯れたり朽ちたりするけど」
 そう言って伏目がちになる。思いつめたような表情だった。
「……伐り倒すのかい」
 彼女は驚いたような顔で俺の顔をまじまじと見たが、すぐに元の硬い表情に戻った。
「そうか、すべてお見通しだったね」
「たまたま知ってるだけさ」
 会話はそこで途切れた。暫く無言のまま、俺たちは先を行く水銀燈を追って降下を続けた。
「どんな結果が出ることになろうと、マスターがそれを望むのであれば、僕は鋏を使う」
 ぽつりと呟くように彼女は言った。
「たとえそのために誰かが犠牲になるとしても」
 俺はごくりと唾を飲んだ。硝子のように割れる世界と力尽きた蒼星石が、昨日読んだかのように浮かんでくる。
「……それが、媒介や自分自身であっても?」
「それは──」
「見えたわよ」
 だしぬけに前から声がかかった。俺たちはそれ以上会話を交わすこともなく、水銀燈の示す場所に向かった。

 俺のものだというその心の木は、水銀燈の言葉で思い描いていたものとは全く違っていた。
 捩れたり曲がったりはしているが、それなりに大きく根を露出させながら、枝を伸ばして立っている。ただ一つの点を除けば、立派だろうと鼻を高くしても良さそうな按配だった。
 そう、完全に枯れていることを除けば。
「この木は不思議だね」
 蒼星石は木の周りを一周して首を傾げ、近づいてきて俺の顔を見上げた。
「枯れてから十数年経っている筈なのに元の姿を留めている。こんな木は初めて見るよ」
 木に近づいて一回りしてみる。遠目からは立派に見えたが、近づくと樹皮は腐ってきており、根元近くにはウロがあいて草か何かが生えてきていた。張っていると見えた根も、単に浮いてきているだけなのかもしれない。
 それでも、見上げれば葉の一つもないまま、うねる幹は頑強に天を目指し、枝は恐らくほとんど折れもせず頭上で存在を主張している。
「あの世界、そのままね」
 水銀燈は不快感を隠そうともせずに言い捨てた。
「とうに終わってるくせにしぶといったら……」
 蒼星石はウロの辺りに屈みこみながら、考えを整理しているような口調で、水銀燈に答えるともなく言った。
「人は何かに依存しているものだ。現在、未来への希望、他者……過去に囚われることだってある。それが強くなれば、こんな形もあり得るのだろう」
 ご覧、と立ち上がった彼女に促されるまま、俺はウロの中を覗き込んだ。幾本かの雑草に混じって、小さいが明らかに若い樹木とわかるものが生えていた。
「それが今の貴方の木よ」
 肩越しに水銀燈が言う。俺は一歩下がり、枯れた木全体を見上げ、うろの中の小さな木に視線を戻した。
 生まれ変わってから十数年。それは年数だけ取ってみれば一度死ぬまでの年月の半分近くにもなる。それなのに、この違いはどうだ。
 頭の中がもやもやとしたもので満たされていく。漠然とした不快感のような。
「うろは木の成長を妨げているけど、守ってもいる」
 蒼星石の声が、なぜか少し遠く聞こえた。もっとも彼女は俺にではなく、背後の水銀燈に語りかけているようだった。
「それでもいいのかい?」
 一拍置いてから水銀燈の声がする。
「構わないわ。やっちゃって」
「契約者と僕たちの心は繋がっている。マスターの木はドールの木と同じだ。それも分かっているんだね」
「構わないわ」
 今度は間髪をいれずに返事があった。
「いざとなれば契約を解除すればいいんだもの。簡単なことよぉ。そうでしょう?」
「君は……」
 蒼星石の声に僅かに苦笑の響きが混じったような気がした。
「なによ」
「いや、わかったよ。……レンピカ」
 靄が立ち込めてきたようだった。うすぼんやりとした視界の中、蒼星石の手の中にあの大きな鋏が出現した。
 彼女は鋏を構えると、物も言わず枯れた木の幹に切りつけた。二度、三度。
 次に、逆手からうろの近くを突いた。持ち替えてまた突く。切りつける。
 だが、俺のぼんやりとした目では、木には全く変わった様子は見えなかった。彼女はさらに二度ばかり切りつけて、ぐらりとその場に蹲った。
「蒼星石?」
 水銀燈が座り込んだ蒼星石に歩み寄った。

 俺もそこに行こうと霞の掛かったような視界の中を歩き出したが、何かに蹴躓いた。
 緩慢な動作でそれを見遣る。
 何であったか理解すると、唐突に霞は晴れてしまった。

「手ごわいね……これは」
 蒼星石は疲労感を滲ませていた。
「……十余年変わらずにここにあったのは偶然じゃないってことね」
 水銀燈は憎しみさえ感じさせる声で言い、思い切り幹を蹴りつけた。ばらばらと腐った樹皮が落ちてきたが、それだけだった。

「何かのSFかファンタジィで読んだことがある。『異界の由来を持つ物質は、その世界の構成物でなければ壊すことができない』。まあ、よくありがちな便利設定だと思うが」
 二人がこちらを向き、信じられないものを見るような目になった。
 俺はさっき拾い上げたチェーンソーを目の前に置き、オイルタンクと燃料タンクを確認した。どちらも満タン。キャブレターの燃料ポンプをくちゃくちゃやると、懐かしいガソリンの匂いが鼻を突いた。畜生、そろそろタンクのパッキンの交換時期だったか。
 だが、構わない。どうせもう二度と使うことはないのだ。今回使うには十二分だ。
「仲間内でバカやってな。チェーンソーのエンジンでバイク動かそうとか。そのために阿呆みたいにチューンしたエンジンのなれの果てがこいつだ」
 小さい素朴なエンジンだが、少しでも馬力を上げたくてだいぶ長いこと弄っていた覚えがある。結局その計画がポシャったときにも、捨てるのが忍びなくて元通りチェーンソーに組み込んだほどだ。だから、この場に現れたんだろう。
「きっとこれは、死んだ俺に対して誰かがくれた最後のプレゼントなんだろう」
 リコイルスターターを引く。一度では掛からない。
「だから、自分のなれの果ては自分で始末させてくれ」
 四度目でかかった。こいつにしては優秀だ。
 耳栓が一緒に現れなかったのは誰の不備なんだろうか。耳を聾する轟音が辺りに響き渡った。
 俺はオイルの飛び散るチェーンソーを大事に構え、身振りで安全圏に出ていろと二人を下がらせて、幹に刃を食い込ませた。
 腐りかけの枯れ木などこいつの手に掛ればあっという間だ。二人の位置を確認し、逆側に木を倒すまで、ものの二分と掛らなかった。
 伐りながら、手応えが妙に軽いような気がして、俺は手元を見た。
 情報連結を解除された朝倉涼子のように、役目を終えつつあるチェーンソーは光の粒子になって消え始めていた。
「もうちょっとだけ保てよお前。いい子だから」
 うろの周りを注意深く切り広げる。チェーンソーの起こす風で、なよなよした若い木が揺れ動く。まだ持ち手と刃は残っている。まだいける。
 若い木の障害物になりそうなものをあらかた削り終えたところで、轟音は止んだ。手の中にはガソリンとオイルの匂いだけが残っていた。
 俺は二人を振り向いた。水銀燈が微笑んだように見えたが、そのまま彼女はかくりと倒れこんだ。慌てて駆け寄ろうとした瞬間、俺の目の前も急速に暗くなってきた。
 恐らく、『俺』はここで消える。なんとなくだが、わかってしまった。
「蒼星石っ……水銀燈を連れ帰ってくれ」
 その声が出たのか、それとも頭の中で形成されただけなのかはわからない。俺の視界は黒一色になり、そして、すぐになにもわからなくなった。



[19752] 2日で200行。多いのか少ないのか?
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:72695fa3
Date: 2010/07/04 00:07
今回は「インターミッション」って言うんでしょうか。
ボトルショーって言うのかもしれませんが、あまり前後に関わらない(予定の)話ですな。
こういうの一度やってみたかったんですが、文章量がだらだら増える増える。やっぱり、あんまり良いものじゃないのかも。

**********************

 意識の底。奔騰するイメージ。縦横に流れて自分を攫う濁流。
 自分が何者であるかなどわからず、達観して流れに身を任せる余裕もなく、ただ、自分を保たなければ呑まれて消えるという恐怖だけがあった。
 どうにか姿勢を保ち、方向を定めて移動を始める。何処へ辿り着こうとしているわけではない。ただ、せめて流れの緩やかなところに出たかった。ここは危険すぎる。

 どれだけそうしていたかはわからない。
 いつのまにか、目の前に一つの人形が流れていた。
 優雅に拡がる灰白色の髪、切れ長の紅い眼、逆十字を標された黒いドレス。なんだろう、確かに見覚えがある。ひどく古いようでとても懐かしいイメージ。
「あなた……だれ」
 名前は……なんだったか? 思い出せない。自分のも、人形のも。
 まあ、何だっていい。その場でそれぞれを識別できれば問題ない。ジョン・ドゥとメリー・ドゥでも一号と二号でも。
「たすけて……ここから出たいの」
 まだあどけなさの残る白い顔を大きくゆがめ、必死にこちらに手を伸ばしてくる。待ってくれ。こっちだってここから出る方法なんか知らないんだ。
 しかし逡巡する暇はない。いま手を繋がなければ、どんどん離れていってしまう。
 辛うじて手を取り、胸元に引き寄せる。
 瞬間、横合いから突風のような激しい流れが押し寄せた。咄嗟に両腕で人形を抱き締める。
「こわいよ……おとうさま」
 胸元にしがみついてくる人形は、おこりのように体をがくがくと震わせている。

──守ってあげなくてはいけない。

 頭のどこかでそんな声がする。
 そうだ。ここにはこの子と自分だけだ。この小さな存在を護ってやれるのは他にいない。
「お父さんのところに行きたいんだな」
 腕の中で頷く気配があった。
「わかった。一緒に行こう」
 どうせ何処に行く当てもないのだ。それなら、目標がある方がいい。
 それにしても、名前は何だっただろう。確かに知っていたはずなのにどうしても思い出せない。
「君の名前を──」
 教えてくれ、と言い終えることはできなかった。今までで最も激しい流れが横合いから襲ってきたからだ。
 大きな波の圧力とともに、頭の中に記憶の奔流が押し寄せる。
 麻枝准なら「耳の中に無理やり鉄棒を押し込まれるようなもの」と書くのだろうか。理解不能の事柄が、そのほとんどは痛みを残すだけですり抜けていく。覚えていられるのは頭の中に引っかかったごく僅かな残滓でしかない。
 それでも、腕の中の人形の名前を思い出すには十分だった。あまりにも繰り返し繰り返し、記憶が絶えてからも反復して思い出していた名前のひとつ。
「──『水銀燈』」
 なぜ忘れていたのだろう。人形師ローゼンによって作られた七体の人形。その最初の一体。こんな大切なことを。
「わたしのなまえ……?」
「そうだ。君は誇り高いローゼンメイデンの第一ドール」
 人形は口の中で何度かその言葉を反芻し、かぶりを振った。
「お父さんに会いたいんだろう? だったら思い出さなくちゃいけない。何故会いたいのか、どうやったら会えるのか」
「おとうさま……おとうさま……」
 人形は必死に何かを思い出そうとし……そしていきなり、激流が途絶えた。


 ~~~読み専の俺がローゼンメイデンの転生オリ主物を書いてみた 7~~~


 どのくらい歩いたろうか。『水銀燈』のかすかな記憶だけを頼りに、無限とも思える世界を俺たちは彷徨していた。
 どれだけ歩いても飢えもしなければ渇きもしなかった。不思議に思ったが、『水銀燈』が言うにはここは夢の世界らしい。
 その説明だけでなんとなく納得したような気になるのは、まだ俺の方の記憶が整理しきれていないせいだ。もやもやして絡み合った記憶は、奔流が去ってからもほとんど解けていない。
 なぜか、疲労感だけはあった。疲れて座り込めばそこが野宿の場所になり、目覚めれば出発だった。そうしたサイクルをどれだけ繰り返したかも覚えていない。
 ただ、変化は確実に起きていた。『水銀燈』が次第にこちらを見上げることが多くなり、出発を渋るようになってきたのだ。いまや、お父さん探しは俺が『水銀燈』を引きずりまわしているようなものだった。

「ねえ」
 そしてついに、決定的な瞬間が訪れた。
「もう、疲れちゃったわぁ……」
 俺の前を飛翔していた『水銀燈』がいきなり地面に降り、膝を抱えてしまったのだ。
「もう少しだけ探してみないか、折角ここまで頑張ってきたんだから」
 『水銀燈』は首を振った。
「きっとどれだけ探しても、どんなに求めてもお父様には会えないのよ」
 俺は黙ってその隣に座った。なぜか最初から分かっていたような気がした。会えないと認めたくないのは俺のほうだったのかもしれない。それでも、何がしかの可能性があることを信じたくてここまで来たのだ。
「ここから出ようか」
 その言葉を口にするのは勇気が要ったが、言うのは俺でなければならなかった。
「外に出たら、どうなるの」
「わからない」
 俺は正直に答えた。
「でも、どうなったとしても、ここで絶望しているよりはいい」
「外には、なにがあるの」
「……そうだな」
 俺はまだ解ける気配のない記憶の断片をいくつか取り上げ、思いつくままに喋ってみた。
 外には他のドールたちがいる。ここから出て記憶が戻れば、『水銀燈』はローザミスティカを巡って他のドールたちと敵対することになるかもしれない。
 相手には神業級の職人もいる。それは何人ものドールのミーディアムになっている少年で、彼らの絆は深い。遣りあうとなれば分は悪い。
「それでも、君は独りじゃない。ミーディアムもいる。それから……」
「あなたは?」
 不安そうな瞳が俺を見上げる。
「あなたはそこにいてくれるの?」
 その肩を抱きかかえると、緊張の糸が切れてしまったように胸の中に倒れこんでくる。俺は大きな息をついて、震えている灰白色の髪を宥めるように撫でた。
「出るときは一緒だ。俺も君も同じ世界に行く」
 突然、目の前に扉が現れた。
 驚きはなかった。夢の世界なのだから当然だろう、と漠然と思った。俺は人形を抱き上げ、扉を開けて世界を越えた。


 扉を抜けて出た先は、最悪といっても最高といっても良かった。
 「向こう」の出口は姿見のような鏡だったが、それを通り抜けるとドールたちがこちらをあっけにとられたような表情で見つめていた。その数三体。
 どういうことだと俺は緊張し、俺の腕の中の人形は記憶が一気に戻ったらしく音を立てるような勢いで俺から離れた。
 その後のてんやわんやの騒ぎはひどいもので、ノリさんが顔を出して(彼女にしては珍しい)雷を落とすまで続いた。
 後から知ったところでは、ドールたちはジュンに裁縫するからと部屋を追い出され、鏡のある部屋で遊んでいたところだったらしい。全く、どんな間の悪さだ。

 既にアリスゲームは終わっていたが、『水銀燈』は他のドールたちとは若干距離を置いていた。これまでの経緯からして止むを得ないのだろう。
 『水銀燈』と『蒼星石』のミーディアムの病状が気懸かりではあるが、その他は平穏な日々が続いている。
 俺はあまり話し相手の居ない『水銀燈』の相談に乗ってやったり、ミーディアムたちと話して他のドールとも遊んだりもした。
 『蒼星石』は、時折双子の姉の手も借りながら、再び老夫婦と静かな時を過ごしている。
 ジュンを巡る『翠星石』と『真紅』の関係は次第に恋の鞘当て状態となり、両者のミーディアムでもあるジュンとしてはストレスの溜まる日々らしい。
 図書館で一緒に課題を片付けているとき、ジュンは二人の見え見えのアタックについてあれこれと零すのだが、全て惚気にしか聞こえないのは何故だろう。
 『雛苺』は再びトモエをミーディアムに選んだものの、少々居づらいのか桜田家に入り浸っている。恋の板ばさみに悩むジュンとしては、ある意味で気兼ねなく話のできる『雛苺』はいいお相手らしく、最近は部屋でわざと遊ばせておくこともあるようだ。
 『金糸雀』とそのミーディアムはいいコンビで、二人して他のドールを撮りまくっている。特に『翠星石』か『真紅』がジュンとツーショットになったところを狙い撃ちするのがいいのだとか。
 お見舞いがてらそんな他愛のない近況話でメグと盛り上がった後、俺は病院の屋上に出た。
 手すりに凭れて見るともなく町並みを眺めていると、『水銀燈』が隣に飛んできて手すりに座った。
「いい風だわぁ」
「そうだな」
 目を閉じてみる。隣に『水銀燈』を感じているせいか、古い記憶が呼び覚まされては消えて行った。
 甘いような、それでいて苦いような不思議な感覚だった。暫く存分にそれを味わってから、俺は自分の手を見つめ、予想していたとおりのモノを見つけた。

「──そろそろ終わりでいいよ」

「……な、何? どうしたのよ」
 唐突な言葉に驚いてこちらを見る『水銀燈』を片手で制し、俺はもう一方の手でそのモノをぐいと引いた。
 若干の痛みと手ごわい感触があったが、力任せに引き絞るとモノは巻きついていた手から離れた。そのまま振り向きざまに両手で引くと、それはずるりと動いてぴんと張りつめる。病的に白い、太陽の光を受けたことのないいばらの蔓だった。
 その先に何が居るかを俺は知っていた。
「いい夢をありがとう、第七ドール」
 その瞬間、世界は池の表面に張った薄い氷の膜を踏み抜くように割れ落ちていった。


「……どういうこと……?」
「全ては偽りだったってやつさ」
 俺は茨を引き千切りながら、素早く周囲を見回した。以前水銀燈と蒼星石に連れて来られた事のある場所だ。死んだときの俺の部屋を模したという世界だった。
 ただ、部屋の中はがらんとしていた。あのときはもっと大量にあったはずの家具や私物はほとんどなくなっており、玄関の戸は開け放たれて闇がぽっかり口を開け、力を失った白い茨がそちらへと伸びている。
 心の木を伐り倒したためなのだろうか、うそ寒い光景だった。
「出て来てくれてもいいんじゃないか? 夢のお礼くらいしたいんだがね」
 玄関に向かって怒鳴ってやると、ゆったりとした足取りで相手が現れる。柔らかな、柔らかすぎる声が場違いすぎる舞台に響いた。
「残念ですわ……もうお気づきになってしまわれたのですね」
 薄暗い部屋の入り口に立っているのは、純白の茨を従えた、純白そのものの小さな姫君だった。
 無垢そのものの顔立ちをした、何色にも染まっていないがゆえに何色にも染まろうとする貪欲さを持つ夢喰鬼とでも言うのだろうか。瞳に狂気を宿しているわけでも、所作に異常な点があるわけでもないのに、一目見ただけで悪寒が背筋を這い上がるのが分かる。
「夢を操ったというの、このドールが」
「そういうことになるかな」
 なんでもいいから武器になるものが欲しかったが、がらんどうに近い部屋の中には得物になりそうなものは見当たらない。いや、あるにはある。だが遠い。むしろ相手のほうがそれに近い位置に居る。
「第七ドールって言ったわね。名前は?」
「さて、名前か。何だったかな」
 俺は肩を竦めて一歩下がった。白い少女は満足そうな表情で優雅に会釈した。
「申し遅れました……初めまして。私は薔薇乙女の末の妹、雪華綺晶」
「手の込んだ夢をありがとうよ、雪華綺晶。こっちの自己紹介は必要なさそうだな」
 背中が壁際の本棚に行き当たった。埃っぽいその上を後ろ手でなぞると、なにか四角い小さなものがあった。それを急いで握りこむ。藁にも縋るとはこのことだ。
「ええ……存じていますもの、黒薔薇のお姉さまのマスター」
 雪華綺晶は微笑み、右手をこちらに向かって伸ばした。それとともに白茨がぞろりと動き出す。
「さ、参りましょう? 黒薔薇のお姉さまもお待ちです」

「!?」

 俺の脇で灰白色の髪のドールが驚愕に目を見開く。俺は心にずきりと痛みを感じながら、純白の妖怪を睨みつけた。
「……水銀燈を確保してるとはね」
 苦い思いが広がる。この夢の世界に残っているのは自分だけだと思っていたのだが。
 蒼星石に叫んだつもりだったが、やはり間に合わなかったのか。勢いで心の木を伐採する前にこうなる可能性について考えておくべきだった。
 俺か蒼星石が心の木を伐り、俺たち二人がダメージを受けて無防備になる。この夢喰鬼には俺を捕食し、水銀燈を葬り去る絶好の機会だったというわけだ。
 それにしても。
「タイミング良過ぎるじゃないか、大したもんだよ」
「お褒め戴き恐縮ですわ」
 雪華綺晶は言い終わらないうちに手を一振りした。ザッと床と擦れ合う音が立つほどの勢いで、一群の茨が俺に殺到し……
「させないわよ!」
 『水銀燈』の召喚した両手剣がそれを両断した。
「まあ……」
 雪華綺晶は隻眼を丸く見開き、片手を口に当てて無邪気な驚きの表情を作った。
「まだこんな力が残っているなんて……貴女は──」
「言うなッ」
 両手剣が唸りを上げ、力任せに振り払われた一撃は雪華綺晶の寸前まで迫り、彼女の纏う茨と服の端を切り裂いた。
 雪華綺晶の表情はしかし、驚きから含み笑いに変わっていた。軽く体を開いて次の一撃をやり過ごすと、『水銀燈』の後ろに回りこんで耳元で言い放った。

「──ただの、舞台装置の消え損ないですのに」

 その言葉に鋭く胸を抉られたのは、『水銀燈』ではなく俺のほうだったかもしれない。
 だが、躊躇する暇はなかった。俺は転がりこむような勢いで部屋の隅に打ち捨てられた物を拾い上げた。
「あら、そこではお逃げになった意味がありませんわ」
 囁くような声は、もう間近に迫っていた。
 振り向くと、純白の隻眼鬼は俺に手を伸ばすところだった。茨の間から、倒れている『水銀燈』の姿がちらりと見えた。音も無く倒したのか、活動限界だったのか。
「おいたをしないで、参りましょう? お姉さまのところに」
 満面の笑みで、雪華綺晶は俺の顔を両手で挟んだ。
「ああ……そうするしかないみたいだな」
 俺は拾ったものを持った両手を体の前でちぢこめた。茨とドールの体がのしかかり、殴りつけることすらできなくしようとしている。
「うふ……聞き分けの良い方は、大好き──」
「──だけどな、行くのは俺だけだ」
 左手でジッポーのフタを開けて点火し、同時に右手で殺虫スプレーのスイッチを押す。
 何かを感じたらしい雪華綺晶は反射的にとびすさったが、彼女の茨に簡易火炎放射器の炎が浴びせ掛けられるのを防ぐことはできなかった。
 火力は大したことはないはずだ。だが、茨は生木が燃えるときの独特の匂いを放ちながら呆気なく燃え始め、あっという間に俺と雪華綺晶の間には灰の緩衝地帯ができてしまった。
「ここは俺の夢の世界だ。あんたとしてはその方が手の込んだ罠を構築しやすかったんだろうが、ここでは俺の精神もアストラル体であるあんたも同時にダメージを受ける可能性がある。裏目に出たな」
 雪華綺晶は呆然と茨を見つめていたが、やがて無言でそれを引っ込めた。
「悪いが、俺のご都合主義がある程度通るこの世界じゃ、こんなチンケな火炎放射器でもあんたを焼き殺すことができるかもしれん。ここは痛み分けってことで、大人しく引いてくれないか。あんたを傷つけるのは本意じゃない」
 ハッタリもいいところだった。ご都合主義云々は今この場ででっち上げた嘘だ。だが、軽く恐慌状態に陥っている雪華綺晶には効果があったらしい。
「……はい……」
 呆然とした顔色のまま、彼女は空間に穴を開けて出て行った。

 がらんとした部屋の中には、俺とアニメ版ローゼンメイデンの水銀燈の形をしたドールだけが残された。
 俺は屈んでドールを抱き上げた。かくん、と手足が重力に逆らわずに折れ曲がる。夢の世界で重力もくそもないものだが、俺がそういうイメージで捉えているからなのだろう。
 どうして未だにこのドールが形を留めているのかはわからない。本来はこの世界の上に構築された幻影が割れてなくなったときに消えていてしかるべきだった。

──まあ、そんなことはどうでもいい。

 実時間ではほんの短い時間だったのかもしれないが、俺は伐り倒したときに心の木から湧き出た記憶の奔流の中でこのドールと出会い、旅をし、暮らした。
 その中で、本来雪華綺晶が配置しただけのドールの中に自我に近いものが芽生え、この夢の世界とはいえ、実際に動き回るまでに急激に成長した。そう思いたいような気がした。
「君は」
 物がなくなってしまった机の上にドールを横たえながら、そっと囁いてみる。
「幸せだったかい?」
 偽りの幻影とはいえ、ほんのいっときだが、まるでアニメ版ローゼンの終了後のような世界に生きて、楽しかっただろうか。苦しかったのだろうか。

 人間が使うなら片手で振り回せるような小さな両手剣を拾い上げたとき、部屋の窓が波立ち、銀色の使者が飛び出してきた。
「メイメイ」
 水銀燈の相棒は嬉しそうに俺の周りをくるりと回った。
「連れて行ってくれるんだろ、水銀燈のところに」
 もちろんだとばかりに、メイメイは窓に飛び込んだ。
 窓をくぐる前に、俺は机を振り向いた。
 蒼星石や翠星石に連れられてこの世界にまた来ることはあるかもしれない。だが、次に来たときはもう、机の上は空っぽになっているような気がした。
「さようなら、『水銀燈』」
 懐かしいその名前を呼んで、俺は窓に体を沈めた。



[19752] 遂にきたスランプor行き詰まり状態
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:72695fa3
Date: 2010/07/06 10:15
今回は一番難産でした。
文章前後の繋がりがよくなくなったり、冗長になったりしているのではっきり分かるかと思います。

ちなみに、この実験では本来やるべき工程を最初から手抜きしています。
行き当たりばったりで書いていることもそうですが、実はろくに推敲もしていません。書けた分そのままを上げています。

あくまでどれだけ書けるか、が実験の第一目的ですので、本文を読まれる方はご注意ください。

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 メイメイに連れられてやってきた先に広がっていたのは、湿気と温度を無くした濃霧の中のような光景だった。
 数メートル先、というのも視覚的なイメージに過ぎないわけだが、とにかく何も見えない。それでいて暗いという印象はなかった。
 ためしに、何故か手にしたまま消えていない剣を前に突き出してみたが、剣の先端は霧に巻かれるようなこともなくクリアに見える。物が何もないから霧が濃く見えるだけなのか。
「なんていう世界なんだ、ここは」
 メイメイに尋ねてみるが、人工精霊は困惑したようにジグザグに飛んでみせるだけだった。こちらの言うことは通じるようだが人工精霊のほうでは俺に伝えようが無いのだ。
 いやまて、この濃霧には覚えがあるはずだ。
 嫌な予感を抱きながらおぼろげになってしまった記憶を必死で探る。ほどなくして、それは記憶の闇の中から見つかった。
 原作の連載中断前くらいに何度も出てきた場所。金糸雀以外の五姉妹がみんな捕まったり、あるいはそれぞれの想い人を追いかけて行き着いたところ。
「例の雪華綺晶が罠を張ってたエリアか」
 頷くように二度ほど跳ねてから、ついてこいと言うようにメイメイは先に立って飛んでいく。
 舌打ちしながらその後を泳ぐように漂っていくと、ほどなくそれは現れた。

──繭か?

 紡錘形の真っ白なものが、蜘蛛の巣のような網の真ん中に鎮座している。更に近づくと、網も繭も同じものでできているのが分かった。白茨の蔓だ。
 これがそうだと言うように、メイメイは繭の周りを回ってみせた。
「入念に巻いてくれたもんだな」
 予想はしていたが、中身がまるで見えないようになるまで巻きつけてあるとは思わなかった。体を拘束するにしては物々しすぎるんじゃないのか。
 なんにしても、雪華綺晶が現れないうちにこれを切り開かなければならない。先ほどの火炎放射に対するショックのせいで自分の世界かどこかに戻っているのだろうが、気を取り直して出てこられたら今度は手の打ちようがない。
 どれだけ使えるか分からなかったが、俺は剣を振るって蜘蛛の巣状の白茨を切り始めた。最悪の場合繭のままでも、蜘蛛の巣からは切り離そう。無様なだけかもしれないが、切り離せれば抱いて逃げ回ることもできる。
 白茨は意外に脆かった。原作でも茨の刺自体で誰かを傷つける描写は確かほとんどなかったが、これも同じだった。思い切り握って引っ張り、テンションを掛けて一本一本斬っても、茨を持った手は痛い程度で済んでいる。
 だが、斬り落とすたびに他の痛みが走り抜けていった。

 ──586920時間38分ぶりね、真紅。
 ──なぁにそれ。意味あるのぉ?
 ──そういうおままごとにはつきあってられなぁい……

 俺が直接知らない水銀燈の記憶の断片が、茨を一本断ち切るたびに浮かび上がるのだ。それ自体が痛々しいわけではない。痛むのは俺の内心の何処かだった。
 俺と契約してから今日までの水銀燈の闘いを、俺は原作でしか知らない。
 大筋は同じなのだろう。だが、概略を知っていればそれで良かったのか? 良いはずがない。
 水銀燈が笑い、怒り、驚き、虚勢を張り、内心悔しい思いをしていたとき、契約者の俺はほぼ知らぬぞんぜぬを通していた。
 彼女は何も言わなかった。聞かれて答えたのは雛苺が真紅に敗北したこと、それなのに真紅がローザミスティカを取り上げなかったこと程度だ。
 それは俺を必要以上に巻き込むのを嫌っていたせいだ。契約のときは大仰な言い方をしていたが、要は、媒介は必要なときに力を貸してくれればいい、それ以上のことは求めないのが彼女なのだ。
 ローザミスティカに関しては容赦も仮借もないが、自分の媒介には必要以上の関与をさせない。
 本人が意識しているかどうかは分からないが、それが水銀燈の戦い方だった。

「くそったれっ」
 普通の媒介に対してならそれでいい。しかし、俺は水銀燈の行動はおろか、その後何が起きるかまでも知っていた。その気になれば安全に、かついくらでも力になってやれたのだ。
「くそっ、このっ」
 俺は半ば自分への罵りを口に出しながら、柄が細すぎて握りにくい剣を不器用に振るった。

 ほどなくして、繭は蜘蛛の巣から離れた。
 雪華綺晶はまだ現れない。
 メイメイに安全な場所まで案内してもらうことも考えたが、繭が世界を飛び越えるときにどうなるか、自信が持てなかった。中にいる水銀燈もどうなるか分からない。できればここで開けて連れ帰りたい。
 剣を茨の間に強引に滑り込ませ、削ぐようにして断ち切る。いかにも分厚そうな繭を相手にするのには心許ないやり方だが、中にいる水銀燈を傷つけたくなかった。
 不思議なことに記憶の断片は現れなかった。いや、不思議ではないのかもしれない。茨が何らかの方法で雪華綺晶に接続されているのだとすれば、雪華綺晶が俺にわざと水銀燈の記憶を見せていた可能性はある。
 俺は独り言も漏らさず、機械的に白茨を切りつづけた。手にマメができて潰れ、皮が剥けて握ったところの茨にリンパ液と血が滲む。純白だった繭は切り口のあたりが薄汚く汚れていった。

 やがて茨の中に銀色の髪と黒い翼が見えてきた。
「はは、メイメイ。ご主人様だぜ」
 俺は思わず安堵の息をつき、人工精霊を振り仰いだ。メイメイはチカチカと光って返事をした。
 俺は暫く雪華綺晶のことも忘れ、ひたすら丁寧に剣を動かした。だが、剣を動かして更に白茨を切り続けていくと、突然妙な違和感を覚えた。
 その原因は考えるよりも早く自分の目に飛び込んできた。

──ドレスもなにも着てない?

 水銀燈は胎児のような姿勢で、こちらに背を向けて繭の中に横になっている。手足の球体関節は丸出しで、衣装は何も着ていなかった。
 裸を見た、というような興奮はない。むしろ、別のことが頭に浮かんでしまった。

──雪華綺晶にボディを奪われたドールは、素体になっていた。蒼星石も雛苺も。

 まさか、という焦りの思いが、鈍っていた作業のペースを早くした。どうにか体を持ち上げられそうな状態まで繭を切り開いたところで、俺は待ちきれずに水銀燈を繭から抱き上げた。
「水銀燈っ」
「……う……あ」
 背中から漆黒の翼を生やした少女は、のろのろと苦しそうに動き始めた。
「わかるか? 水銀燈──」
 俺が安堵を噛み締める前に、水銀燈は俺の胸にくずおれる。
 その瞬間、今までにない鮮明で連続的な記憶が、洪水のように頭に流れ込んできた。


 俺が水銀燈と距離を置いている間に、事態は原作の筋どおりに、しかもかなりの部分まで進んでしまっていた。

 水銀燈は蒼星石に探し物を教えることとバーターで、俺を夢の世界に連れて行くこと、そして危険だと思ったら俺の心の木をズタズタにしてしまうことを要求した。
 そしてあの日、俺の夢の世界を見た水銀燈は、俺があまりにも予想の斜め上を行く存在だと知って判断を保留した。
 原作では後から乱入してきた桜田と三人のドール達は、水銀燈が俺を即座に夢の世界に引きずり込んだことで間に合わずにニアミスで終わってしまったらしい。
 だが、今度は蒼星石に水銀燈が探し物の在り処を教える段になって、再び夢の世界で会同した二人を桜田たちが追いかけてきた。
 激しい戦いの末、水銀燈は真紅の右腕を引っこ抜き、勢いに乗って全員を倒しにかかったが、これは裏目に出た。
 結局その場では蒼星石とは敵対したが、水銀燈も約束は違えなかった。
 今日、彼女は蒼星石に探し物の在り処を教えた。いつものようにあてどない探索に出ようとしていた蒼星石は、水銀燈と同道して心の木の位置を確かめ、探し物が見つかったと契約者に告げ、彼から翠星石を説得するよう求められると桜田家に赴いた。
 そこからあとは、俺の見てきたとおりだった。

 声が聞こえる。
「真紅の言うとおり……ジャンクなのは私」
 それが水銀燈が呟いている声なのか、頭の中に響いてくるメッセージなのかは分からない。
「ローザミスティカを集めてお父様に会う、そのためだけに動いてる機械みたいなもの」
 なにか言ってやろうとした瞬間、頭の中を今度は整理されていない映像が駆け抜ける。戦っているときの情景ばかりが順番もごちゃごちゃに圧縮されていた。
 最後に、赤い腕を根元から引き千切るさまが浮かぶ。
「姉妹を壊して、六つのジャンクに変えて、それでどうなるの。たった一つの願いがかなうだけ」
 大きな手のようなイメージが浮かんで消える。その後に、桜田を守るように前に立つ真紅と雛苺の姿が浮かび上がる。
「アリスゲームがあるかぎり、姉妹の絆も、マスターとの絆も引き千切られて消えていく。
 だったら、最初からなくていい。千切られてから絶望するくらいなら、最初から絶望していればいい。
 世界には私と、お父様だけいればいい……」
 すべての映像は消え去った。

「……真面目過ぎるよ、君は」
 俺は息をついて、小さな背中を抱き締めた。
 多分、これは体と離れた水銀燈の意識下の心なのだろう、とやっと見当を付ける。原作で桜田が出会った水銀燈も、夢の中で膝を抱えていた。物理的な体の方は蒼星石が連れ出してくれたのだろうか。
「あまり生真面目だから、長い間にそんな風に固まってしまったんだな」
 この声が届くかどうかはわからない。だが、届かなくても構うものか。
「俺がそれを解いてやれるかどうかはわからないけど、死人にどこまでできるか、挑戦してやるよ」
 そろりと立ち上がり、彼女の体に引っかかっていた茨を取り去ってやる。
 メイメイがくるりと回り、彼方を指し示すように飛んでみせた。お帰りはあちらというわけだ。
 俺は頷き、人工精霊の後に続いた。
「逃げ回ってばかりの死人の俺と、馬車馬みたいに真っ直ぐ生き急いでる君。お互いぶっ壊れでいいコンビかもしれないな」
 腕の中から、お馬鹿さぁん、という声が聞こえたような気がした。


 くたびれた古いブラウン管テレビを点けたことがあるだろうか。
 リモコンも前面ボタンもないそれは、選局か音量のツマミを引くとトゥン、と独特の通電音がして、音だけが聞こえ始める。
 最初は画像は映らない。画面の真ん中だけがなにやら光っている。
 半秒くらいの間を置いて、光っている部分が全体に広がり、やがてぼんやりと薄暗い画像が映りだす。

 まさにそんな風にして、俺の意識はゆっくりと戻ってきた。
 目を開くと、そこが以前見たことのある場所だとわかる。薄暗い解体寸前の礼拝堂の、撤去され損ねた鏡の前だった。蒼星石が俺を眠らせ、三人で夢の扉をくぐった場所に戻ってきたわけだ。
「お目覚めだね」
 小さな声がする方を見る。蒼星石が手近な瓦礫に座ってこちらを見ていた。傍らに黒い羽毛と銀色の髪が広がっている。水銀燈だった。鞄の中にいるときのように、胎児のような姿勢で横になっている。
 俺はがばっと跳ね起き、そのままの勢いで思わず乱暴に抱き上げた。

──軽い。

 ぞくりとする。こんなに軽いとは思っていなかった。なんとなく、同じ背丈の人間の子供と同じような重さを想像していたのかもしれない。
 黒衣の天使は力なく俺の胸に頭を凭せ掛けた。黒い羽が何枚かふわふわと目の前に舞う。
 背中を冷たいものが伝い落ちる気がした。細い顎の下に手を遣って上向かせる。端正な顔にはまったく表情がなかった。

「意識はないけど、迷子にはなっていない」
 蒼星石の声に俺は安堵の息をつき、水銀燈を助け出してくれた礼を言うのを忘れていたことに気づいた。
 振り向いてありがとうと頭を下げると、蒼星石は微笑んで首を振った。
 この少女はこんなに柔和な顔もできるのか。初めて見る彼女の表情に、今まで見せていたのとは違う一面を垣間見たような気がした。
「貴方は心の木を一気に伐り倒した。そこから記憶が噴出したのが原因なのだろうね」
 蒼星石は手を伸ばし、目の前に浮かんでいる黒い羽をつまんだ。微笑は翳り、また硬質な表情に戻っている。
「僕らにも心の整理をする時間は必要なんだ。いちどきに多すぎる情報をぶつけられたときにはね」
 そう言う彼女は、自分の心の整理はついているのだろうか。いやに多弁な気がする。まるで、言葉を発することで自分自身を落ち着かせようとしているように。
 しかし、それは無理もないことかもしれない。
「……怖いものだね、いざとなると」
 寂しそうな、それでいてニヒルな笑いが、かすかに浮かぶ。
「水銀燈をここに運んできたとき、見えてしまった。彼女の近くにいたせいかもしれないね」
 何を見たかは言われなくても分かった。
 たぶん遅くとも数日のうちに、薔薇屋敷と呼ばれている結菱家で、蒼星石は桜田とドール三体を迎え撃つことになる。
 物事が原作どおりに進んでしまっていることを疑う要素はもうない。水銀燈が真紅の腕をもぎ取り、その呵責に耐えていたのだから。
 そして、予定外のことが何も起きなければ多分全ては蒼星石の見てしまったとおりに進む。何も起きなければ、だが。
「それでも、やるのかい」
 色の違う瞳がこちらを見た。
「やるよ」
「望まない結末が見えているのに?」
 蒼星石はもてあそんでいた羽を指で弾き飛ばした。色の違う瞳は決意の色を湛えていた。

「それが、『僕』だから」

 月が翳りかけていた。暗がりに慣れた目でも色が分からなくなりかけている中で、彼女は背を向けて立ち上がった。
「だいぶ夜更かしをしてしまった。僕はもう行くよ。明日は万全の状態で臨みたいからね」
 何気ない一言だったが、蒼星石がもう戻れないところまで来ていることを俺は確信した。
 蒼星石が翠星石を連れ帰るのを諦めた翌日、桜田と三人のドールは薔薇屋敷に乗り込むのだから、もう彼等への宣戦布告は済んでしまっているはずだ。恐らくここにくる直前に桜田の家に赴いたのだろう。
「俺は暫く様子を見て、ぼちぼち帰るとするよ」
「それがいいだろうね。水銀燈も貴方の近くに居た方が目覚めが早いだろう」
 何事もないような言葉を俺たちは交わした。
 蒼星石は迷いの一切ない足取りで鏡に向かい、人工精霊を呼んだ。彼女の忠実な相方は無駄のない動きで鏡に近づき、表面を波立たせた。
「明日は敵対するかもしれない。もしそうなったときは全力でお相手するよ、水銀燈のマスター」
「望むところだ」
 俺は腕の中の小さな少女を見つめた。
 水銀燈に、考え方やらやり方について言ってやりたいことはある。
 だが、彼女が望むなら望むだけ、俺は力を与えるだろう。媒介だから、契約者だからというのはさして重要じゃない。いずれ強制的に力を奪われるからでもない。
 顔を上げると、蒼星石は鏡に腕を突きたてていた。波紋が広がり、腕は異空間に入り込んでいく。
「それじゃ……」
「蒼星石」
 振り向いた彼女に、水銀燈を抱いた窮屈な姿勢のまま俺はもう一度頭を下げた。
「ありがとう。君のお陰で俺たちは助かった、二人とも」

 蒼星石がここに連れてきてくれなければ、水銀燈の体は心と離れ、ずっとnのフィールドを漂うことになったはずだ。そして、そうなってしまえばいずれ俺もあの白い夢喰鬼に捕食されてしまっていたに違いない。
 俺が心の木を伐り倒した瞬間に記憶が噴出し、その一部を「見てしまった」だとすれば、水銀燈の体を抱えてこちらの世界に戻ってくる時点で蒼星石は既に知っていたはずだ。
 自分が明日自刃に近い形で契約者の望みに決着を着けることも、そのとき自分が翠星石に託そうとしたローザミスティカを、水銀燈が横合いから奪うかもしれないことも。
 それでも蒼星石は水銀燈の体を夢の世界から連れ出し、無防備な状態の彼女を置いてひとり姿を消すこともなかった。
 そんな蒼星石の姿勢は甘いといえば甘いのかもしれない。しかし、今は素直に感謝したかった。

「僕は特別なことは何もしていない」
 蒼星石は照れたようにかすかに微笑み、静かに首を振った。
「水銀燈との約束を果たしただけさ」
 それ以上は何も言わず、蒼星石は鏡の中に消えていった。



[19752] 元スレ落ち……だと……
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:72695fa3
Date: 2010/07/09 22:25
原作を読んでみて心の樹≠記憶でないか、ということで少々変えたわけですが、……。
どうにも上手く行かないため無理矢理元の想定のように捻じ曲げて書く破目に。

それはいいのですが、元スレが既に落ちていたというショッキングな話を耳に……(つД`)
元スレが落ちてしまっては実験を続ける意味もありませんので、ここらで男坂エンドと行きたいと思います。
ここまで合計100kb弱。自分にしては平均10kb/執筆日程度というのは、分量としてはそれなりに書けたと思います。
内容はアレですが久しぶりに書いてみて楽しかったです。

それでは、またどこかのSSの感想掲示板辺りでお会いしましょう。
お目汚し誠に失礼しました。

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 水銀燈は家に帰り着いてからすぐに意識を取り戻した。
 運んでいる間でなくて良かった。自転車の前籠に入れられて運ばれるというのは彼女にとって愉快な体験ではなかったろうから。
 もっとも、そのことを知らなくても水銀燈の機嫌が良くないのは同じだった。
「人間に抱きかかえられていたなんて……おぞましいったら」
「じゃあどうすれば良かったんだ、あのまま目を覚ますのを廃屋で待ってろとか?」
「その方がまだマシだったわ」
 水銀燈は窓枠に横向きに座った。怒気のせいか顔が紅潮しているのが、薄暗い照明の下でも分かる。
「それで、用向きはなぁに? 聞くだけは聞いてあげる」
 俺は細めのショットグラスにライム汁と氷を入れ、アルコールの代わりに水で割った。レモンを添えてストローを挿して手渡しながら、明日のことはどうするつもりなのかと尋ねた。
 水銀燈は緑色の液体を飲みにくそうに口に含み、酸っぱさをまともに食らってなんとも言えない顔つきになったが、それについてはコメントせずに答えた。
「貴方から力を吸い上げることになるかもね」
「横取り決行か」
「そうよ。好機は好機。見逃すわけにはいかないもの」
 赤い瞳がこちらを見る。
「ただし、蒼星石があのとおり動くかは分からない。そこは五分五分」
 片膝を立てて窓枠に背をもたせ、月を見上げながら片手でグラスを揺らす。もう少し細いグラスならさぞかし絵になるだろう。
「かなり苦しむことになるんじゃないのか、取り込んだら」
「大したことはないわ、そんなこと」
 言い切って、またストローを咥える。勢い良く吸い上げて、また眉を顰めた。
「翠星石に揃えさせる訳にはいかないのよ」
 空になったグラスをこちらに差し出す。お代わりかと尋ねてみると、別のものにしなさいと少し強い口調になった。


 ~~~読み専の俺がローゼンメイデンの転生オリ主物を書いてみた 9~~~


 チョコレートと冷たい紅茶で口直しをしてから、水銀燈はやや機嫌を直したようにテーブルの向こう側に座った。
「如雨露と鋏が揃ったら、さっきの貴方と同じことがいつでもできるのよ。他人の生きた樹相手にね」
 チェーンソーのようには行かないが、時間を掛ければ人間の心を確実に殺してしまえる。
 それで他のドールの媒介を端から潰していけば、アリスゲームは翠星石の思いのままというわけだ。
「性格的に無理なんじゃないか、そういうことは」
 桜田の許にいる姉妹は、真紅を除けばある意味ゲームを半ば投げていると言っていい。翠星石は特に、桜田と蒼星石がいればゲームなどどうでもいいと考えて……いたと思う。
「今みたいに他のドールがそれぞれ孤立している状態で──お馬鹿さんの真紅は雛苺を半端な形で従わせているけど──独りで倍の力を持っていたら、どう考えを変えるか分かったものじゃないわ」
「疑い深いなぁ」
「──今ここで力を全部吸い上げてあげましょうか?」
 俺は少し考えてから肩を竦めてみせた。
「それはあまりいい方法じゃないように思えるな。まあ、取り敢えず今は勘弁」
「いつまで他人事みたいに言えるかしらね」
 水銀燈はふんと鼻で笑ってまた窓の外に視線を転じた。
「とにかく、他の姉妹に渡してしまうくらいなら私が持っている方が安全というものよ。真紅が2つめを持つことがあり得るのだから、特にね」
「……雛苺の分、か」
 しかしそれは同時に、あの雪華綺晶に雛苺のボディが奪われることを前提にした話でもある。

──あれだけは駄目だな。

 先ほど夢の中で会った白いドールを思い出すだけで、耳の後ろが粟立つような気分がする。
 他愛ないハッタリであっさり引いてくれるあたり、案外目の前の黒衣の少女などより余程与し易い相手かもしれない。チャンスを掴むのは上手いが、手が込みすぎていて墓穴を掘ったようなところもある。稚拙と言ってもいいだろう。
 蜘蛛のような捕食方法にしても、単独になったところを狙って行くやり口も、独りローザミスティカの争奪を放棄して姉妹の体を欲しがることも、存在の特異性とこれまでの経緯を考えればいっそ哀しく致し方ないことなのかもしれない。
 だが、なんというか、駄目なのだ。頭では分かってもいざ対面して相対してみると生理的に受け付けない。
「七番目は誘き出して叩くしかないわ。今のところね」
 水銀燈はどこか作文を読むような調子で言った。
「そのためには雛苺と蒼星石のボディは餌として必要ってことか」
「そう。物質化しているところを潰すほかに七番目を倒す方法はないのよ」
「いや、もう一つある」
 水銀燈は訝しげにこちらを見る。俺はその前に菓子を並べた。
「相手が例の取引を持ちかけてきたらそれを呑む。君はゲームに勝利し、相手は君以外の全姉妹の体を手に入れる。履行されればどちらにもハッピーエンドだし、場合によれば隙を突いて倒すことだってできるだろ」
 水銀燈は菓子に伸ばしかけていた手を中途で止め、何か言いかけてやめた。
 ふっと息をついて彼女が口にしたのは、恐らく最初に言おうとしたこととは別の言葉だった。
「自分を買い被るのもいい加減になさい、お馬鹿さぁん」
 どこかわざとらしいゆっくりした手つきで菓子を手に取り、包み紙を綺麗に剥いて中身を口に入れる。
「あれは漫画のジャンクな媒介と私が特別親密な関係にあったから持ち掛けられた話でしょう。媒介が貴方じゃ有り得ないわぁ」
「それもそうか」
 口ではそういいながら、俺は眉間に縦皺を寄せるような勢いで眉を顰めた。……そうだったのか?
「ええ。間違いないわ」
 彼女もなぜか少し早口に言い、ティーカップに口をつける。
「で? それだけなのかしら、用件は」
 明日のために少し寝ておきたいんだけど、と彼女は時計を見上げた。俺も釣られるように壁の時計を振り返る。
 あの世界の中での体感時間は莫大な長さだったが、実際の時間ではまだ日付が変わったところだった。まさに夢の中ということなのか。
「もう一つあるんだ」
 正面を見ると、彼女もこちらを見ていた。目が合って、自然に俺は居ずまいを正した。
「俺の前世の記憶は多分、次に目覚めたときには消えてる」
 水銀燈は固まったような、口の端を吊り上げるような表情になった。

 短期記憶は睡眠時に整理されるという話だ。おそらくその時に、前世の記憶は抜け落ちていく。根拠はないが確実な予感がある。
 今も次第に昔の記憶の鮮明さが失われていくのが分かるのだ。
 さっきの取引うんぬんの話も、水銀燈に指摘されても、漫画の中で柿崎めぐのことを絡めていたかどうかあやふやのままだ。PCの中のカンペを見れば分かるかもしれないが、それは読んで思い出すというよりは読んで知るということに近い作業になるだろう。
 案外今の今まで前世の記憶を引っ張っていられたのは、さっき噴き出した記憶にあてられているからで、本来の古い記憶は既に消えているのかもしれない。どちらにしても長いことは保たないだろう。
 前世の記憶が消えたときの俺は、果たしてどんな木偶の坊になるのか。
 幸か不幸か元々頭のいいほうではないから、傍目から見れば何の変化もないように見えるかもしれない。

「当然の報いね。自分で自分の心を刈り取ったんだもの」
 水銀燈は冷ややかに言い放ったが、表情は少しずつ歪んで行き、すぐに嘲笑に変わった。
「あは、あっはははは! そう! 今まで散々何でも知ってるって顔で余裕ぶってたくせに! あはははは」
「余裕ぶってた訳じゃないさ」
 俺はぶつぶつと応えた。実際のところ、特に水銀燈の螺子を巻いてからは状況を変えたくない心理が先に立って、余裕どころか逆に思い悩むことが多かった気がするが、さっきの謝罪を繰り返すのは気恥ずかしい。
 目の前の黒い翼の少女は、そんなこちらの態度を見てか、まだ笑いつづけている。
「あは、あは、あはは……おっかしー」
 目の端に涙さえ浮かべているのが少々癪だ。
 さすがに笑いすぎだろう、と目の前の菓子と飲み物をさっと片付ける。水銀燈はむっとした顔になって笑いやんだ。
「それで何が言いたいわけ? もう役立たずだから契約を解いて下さい、ってことぉ?」
 人をあしらうときの、少しばかり語尾を伸ばすような言い方になってこちらの様子を眺める。
「そうねえ、媒介としては使うけど、お望みなら契約は解いてあげてもいいわよぉ? どっちにしても──」
「それは好きにしてもらっていい」
 俺は被せるようにして水銀燈の言葉をさえぎった。
「俺の覚えていた限りのことは、さっきの一件でまるまる君に伝わってる。つまりこっちに記憶があってもなくても、情報源としての俺の役目は終わってるってことに変わりはない」
 あとは、純粋に水銀燈の力の媒介としての役目だけだ。それも、別に契約を必要とするわけでもない。彼女がその気になればいつでも誰でもドレインはできるのだから。
「ただ、一つだけ──今の気持ちを整理しておきたいんだ」
 水銀燈はまた口の端を吊り上げるような表情になった。
「遺言のつもり?」
「まあ……そんなとこかな」
「殊勝なこと」
 そう言う顔はまた嘲笑の一歩手前という風情だった。俺は目を閉じてひとつ息を吐き、よしと水銀燈を見据えた。
 水銀燈が笑いを引っ込めてこちらを見直す。目が合ったところで漸く俺は口に出した。
「君が好きなんだ」

 元々、俺は誰かの熱烈なファンというわけではなかったと思う。思う、というのは今もその頃の記憶が次第に抜けていくのが分かるからだ。
 ただ、強いて言えば漫画では水銀燈と雪華綺晶がお気に入りのキャラクターだった。
 メインヒロインの真紅や、そこに親しく出入りしている姉妹には(ヒキコモリだからどうとかいうことは置いておいて)マスターとの楽しい暮らしがある。自然と、かけがえのないみんなの今を守るというような雰囲気になる。特撮ヒーロー物の王道のような話だ。
 だが水銀燈には暮らしはない。たった一人の壊れかけの媒介がいるだけ。
 雪華綺晶に至っては誰もいない。理解者すら与えられず、アリスゲームの盤上に立っていると言いながらも目的はゲームの進行ですらない。
 何故かそういうところが、当時の俺にはツボだったのだろう。

 その前提があって今の気持ちがあるということを、俺はネガティブな意味では捉えていない。昔憧れていた子に似た人を好きになったっていいじゃないか、と思う。
 また逆に、昔の記憶がなくなってしまえば、何かのストッパーが外れて彼女に対して年齢相応の熱烈な恋をするかもしれない。それも否定しない。
 ただ、今の気持ちが、昔の記憶が無くなってからも同じように続くことはないだろう。
 仮に同じところから続くとしても、それは今の俺の預かり知らない新たな始まりなのだ。
 その意味では、これはまさしく遺言のようなものだった。

「人形に恋をするなんて、とんだフェティストね」
 やれやれと水銀燈は大仰に肩を竦め、掌を天井に向けて首を振ってみせた。
「死人は人間を愛することもできないってことかしら?」
「そりゃ斬新な視点だな」
 思わず苦笑すると、水銀燈は楽しそうな笑い声を立てた。
「まあ、それで……君には怒られてばかりだったし、苛々もさせたし、迷惑ばかりかけどおしだったけど」
「そうね。こんなに手のかかる媒介は初めてだったわ。契約がこんなに重荷になるなんてね」
「そこは悪かったと思ってる」
 何度目になるかわからないが、俺は頭を下げた。
「だけど、君に会えて良かった。本当に感謝してる」
「当然ね。どれだけ感謝されても足りないわぁ」
 それ寄越しなさいよ、とさっきこちら側に寄せてしまった菓子を指す。
「手厳しいな」
 目の前に置いてやると、当然でしょ、と水銀燈は菓子の子袋を破った。
「言いたいことはそれで終わり?」
「ああ」
 俺は椅子を引いて立ち上がった。
「御清聴ありがとう。シャワー浴びて寝るよ」
 彼女は菓子をぽりぽりと齧りながら、視線をこちらに向けもせずひらひらと手を振った。
「そうなさぁい。これ食べたら私も鞄に入るわぁ」
「おやすみ、水銀燈。寝坊するなよ」
「失礼ね、貴方じゃないわよ。おやすみ」


 シャワーを浴びて寝間着に着替え、部屋に戻ると、水銀燈の姿はなかった。
 言っていたとおり、明日のために早めに鞄の中に戻ったのだろう。動機は違うが、彼女も蒼星石と同じく、俺の知っていたそのままの行動を取ることになったわけだ。
 布団を敷いて蛍光灯を消し、布団に潜り込む。複雑な気分だった。
 結局俺の存在はなんだったのだろう。俺の記憶を持とうが持つまいが、今後の彼女達は同じ道を行くということなのか。
 妙な話だが、自分が完全に消えてしまうとかいう、ありがちな悲劇的な状況でないのがもどかしいような気もする。現に、こんな状況だというのにもう睡魔がそこまでやってきている。我ながら緊張感のない話だ。
 朝起きたら記憶がだいぶ欠落していて、ひょっとしたら忘れたことさえ分からないかもしれない。まあ、それだけの話だ。どちらかと言えば喜劇的かもしれない。
 うつらうつらとそんなことを考えていると、かすかな風を切る音が聞こえた。
「まだ起きてる?」
 水銀燈は少し離れたところから声を掛けてきた。開け放たれた窓枠に座っているのかもしれない。
「いま布団に入ったところさ」
 なんとなくそちらに寝返りを打とうとすると、いいから寝なさいよ、と水銀燈は言った。
「柿崎めぐって子の病室を覗いて来たのよ」
 意外だが、なんとなく頷けるような気もする。
「少しは元気になったのかい、彼女」
「さあね……」
 そこで暫く声が途絶え、かさりと小さな音がしたかと思うと、今度は背中のあたりで声がした。
「貴方の記憶を見せられて、あの子のことを可哀想だと思ったし、興味も湧いたわ。少しはね」
 でもあの子じゃ駄目ね、とふっと息をつく。
「私は天使じゃないから」
「漆黒の堕天使でいいじゃないか」
 ぼすっ、と腰の辺りに衝撃がくる。蹴ったのか殴ったのか。
「ああもう全く、最後まで口の減らないったら」
 ぼすぼす、と更に何度か、あまり力の乗っていない攻撃を加えたあと、水銀燈は続けた。
「あの子が螺子を巻いていれば、今より確実に癒されてたでしょうね。あの子のために自分を犠牲にしても何かしてあげたいと思っていたかもしれない。七番目に捕えられたら何処までも追いかけて探しに行ったかもね」
「間違いなく、そうなってたさ」
 柿崎めぐと水銀燈の境遇はとてもよく似ていた。二人はお似合いのカップルみたいなものだったはずだ。
「でも、メイメイも私も貴方を選んだ。今はそのことを後悔してないわよ」
 どんな返事を口にすればいいか戸惑ったが、ありがとうという月並みな言葉しか返せなかった。
 暫く水銀燈は黙っていた。俺の方はさっきの彼女の一言で安心したせいか、現金にも眠気がまた忍び寄ってきていた。
 はっきりしない意識の中、多分こんな言葉を聞いたような気がする。

「今までこんなに世話を焼かせた媒介はいなかったけど……どういうわけかしらね。嫌いじゃなかったわよ、貴方のこと。
 ……おやすみなさい、良い夢を」



[19752] こんな続き方はどうなのか。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/07/19 16:48
主役・口調・文体を変えたらどう書きにくくなるのか? の実験のため再始動。

貯まって来るまでsage進行です。

(元)オリ主激変。
書いてるこっちは大真面目、見ているあなたはドッチラケ?
なお、視点は(元)オリ主ですが、彼はこれ以降視点の一つを務めますが筋の上では脇役です。

10/7/17 19:33 初投稿です。
10/7/17 19:42 一部修正。
10/7/19 16:45 この部分修正。

**************************************

 夢。
 夢を見ていた。

 見たことのない、柔らかな表情で赤い眼の女の子に手を引かれて、ひどく懐かしいところに二人で戻ってゆく夢だった。

 その女の子が水銀燈と同じ服装をしていた理由はなんだろう。
 理由はすぐに思い当たった。俺は真っ赤になった。
 布団から顔だけ出して、恐る恐るテーブルの脇の大きな鞄を見てみる。
 幸いというかなんというか、黒いドレスの小さなお姉さんはまだ起きていないみたいだ。

 うはぁぁぁぁぁぁ。恥ずかしすぎる。死にたい。ていうか死ぬ。俺乙。

 俺は布団に包まったままゴロゴロと転げまわった。あれはこの後一生忘れられそうもない。

 俺は、ローゼンメイデンの第一ドール水銀燈の契約者だ。もっとも、水銀燈からはもっと簡単に「媒介」とか「人間」で済まされている。たまにマジになると「貴方」に昇格するからちょっと嬉しい。
 彼女と出会ったのは四月の頭で、それから俺たちは少しずつ愛を育んできた……訳じゃない。
 そもそも媒介とか契約は好き嫌いとあんまし関係ないみたいだし、水銀燈は俺のことを全然そういう目で見てないらしい。
 でも、俺のほうでは水銀燈を好きになってしまった。それについては色々とあるんだけど、あれだ、上手く言語化できないってやつ。別の言い方すると説明が面倒臭い、ってかぶっちゃけ恥ずかしい。

 取り敢えず、俺は水銀燈に昨日の晩、君が好きだと告白してしまったのである。

 彼女の反応は超クールだったけど。
 そりゃそうだよな。水銀燈は人間じゃない。生きてるけど人形だ。レンアイ対象としてどーかとは思う。

「でもしょうがないだろっ、好きになっちゃったんだから」

 う、口に出したらまた恥ずかしくなってきた。もう一度ゴロゴロと転がってから、俺は立ち上がって頭をぼりぼり掻いた。
 取り敢えず、水銀燈が起きてくる前に布団畳んで着替えて朝飯食ってしまおう。うん、それがいい。


 ところで、今日はとても大切な日なのだ。
 あ、俺がじゅうろくさいになったひ、ではない。まだ中学生なんで念のため。
 今日、桜田ジュンとローゼンメイデン三人が、坂の上のでかい屋敷に殴りこみにいく。水銀燈はそれに便乗して、戦闘で弱った奴からローザミスティカを奪おうとしているらしい。

 凄い! なんて頭脳派な行動! さすが冴えてますね姉御!

 ……じゃなくて、それはどうかと思うんだ。
 どういうわけか知らないが、悪いことが起きそうな気がするんだよね。ローザミスティカはローゼンメイデンのエンジンみたいなもんだけど、それ2つ持ってるからってパワーが単純に倍増ってこともないみたいだし。
 なんつってもエンジンの燃料は俺の生命力? らしいから、俺が一緒にいないと何個持ってても大して変わんないだろうし、俺がいるときでも燃料が倍に増えるわけじゃないんだよな。
 で、敵はエンジン3つに燃料タンク1つ、とエンジン1つにタンク1つの組み合わせ。
 水銀燈としては多分エンジン1つの方が弱ったとこで、そいつのミスティカゲットだぜ! なんだろうけど、相手のほうがだいぶ弱っててくれない限り、まともに相手したら逆にやられてしまうんじゃないのか。
 あと、ミスティカを奪ってツインエンジンになってちゃんと動くのか? ってのも気になる。
 なんで気になるのかよくわからんけど、絶対まずいことになりそうな予感がする。
 心臓移植とかでもそのときは大丈夫でも、後から拒否反応とか出て結局上手くいかないことがあるだろ? ミスティカもそんなことになりそうな気がするんだ。
 そんな訳で、俺としては水銀燈を止めたい。彼女を止めるなんて媒介として失格かもしれないけど……それに、そんなことをして嫌われるのも怖いけど、悪い予感がおさまらないんだ。

 問題はその方法だったりする。
 水銀燈に直接言うのは、多分無理。俺の言うことで行動を変えるようなお姉さんじゃありません。
 それに、細かいとこまでは覚えてないんだけど、昨日寝る前に話した時は水銀燈も悪いことが起きるかもしれないって覚悟はしてるみたいだった。覚悟完了した人を説得するのは俺には無理だ。
 次は、水銀燈に頼んで俺も一緒に連れてってもらうこと。んで、羽交い絞めとかで腕力に任せて止める。
 これも×。今まで水銀燈が俺を戦いに連れてったことは一度もないんだ。今度に限ってOKしてくれるなんてことはあり得ない。
 こっそり後をつけていくのもダメ。
 今度の戦いはnのフィールドって亜空間みたいなところが舞台になる。もし自力でそこに入り込めても、多分中で迷子になってしまう。
「やっぱし、あの方法しかないかなぁ」
 歯を磨きながら、もごもご呟いてみる。気乗りしないんだけどしょうがない。
 あ、今度から歯磨き粉は塩の味のしない奴にしよう。なんか気持ちが悪い。


 鞄が開いた気配がないのを確認して、俺はそぉーっと家を出た。コーンフレークと牛乳で朝飯にしたのは初めてだけど、ガス台使ったりして気配で水銀燈を起こしたくなかったんだ。
 まず、手土産が必要だ。何がいいんだろう?
 最初に開店したばかりの本屋に寄ってみる。なんとなく直感が閃いてハヤカワのSFを手に取った。
「三冊で2400円かよ……」
 あうち。いきなり痛い出費になってしまった。
 次になんとなく選んだのは「レンジでできるお料理入門」。こっちは1000円台で済んだ。
 それからおもちゃ屋でちっちゃな人形何体か。店員さんに妹さんに上げるの? と聞かれてしまった。ハイと答えたらにこにこしながら簡単にラッピングしてくれた。何故か胸が痛い。あと財布にも痛かった。
 最後に、不死屋で売れ線の菓子を買い込む。これで準備は完了だ。
 同時に俺の小遣い分もほとんど終了してしまったけど、これも水銀燈のため……。な、泣いてなんかいないもぅん。
 時計を見るともう十一時前だ。やばい。急がないと昼飯の時間になってしまう。


「えーと……こんにちわー……」

 俺が主に眼のあたりから出た汗を拭いながら向かった先は、桜田の家だった。
 桜田は、今は三人のローゼンメイデンの契約者なんだけど……一年のときにちょっとした事情から不登校になってしまった。
 そこから、俺たちは一度も顔を合わせていない。

 文化祭のときに学年対抗で女王を決めるんだけど、そのための衣装のデッサンを桜田が宿題のノートに描いてたのをクラスの奴が見つけて、面白半分に黒板に貼り出した。
 下手ならまだ良かったんだろうけど、桜田の描いた衣装は誰が見てもプロ級だったんだよな。それがエロいとか上手すぎるとか、衣装のモデルの桑田が可哀想だとかで大勢がよってたかって黒板に文句を書き殴ってしまった。
 俺が登校したときはもう、桜田が黒板の絵と落書きを見てゲロ吐いて保健室に連れて行かれるところだった。なんのことかよく分からずに黒板拭いたけど、黒板消しで足りずに雑巾で拭き取ったくらいひどい落書きだった。
 実は、俺は偶然……だったと思うんだけど、その何日か前、桜田が宿題のノートにやばそうな絵を描いていたのを知ってる。でもそのときは、桜田も自分で気がついてデッサンを描いたページを切り取ってカバンに仕舞っていた。
 それをわざわざ見つけ出して、多分放課後か登校時間前に貼り出した奴がいたわけだ。不登校の直接の原因はそいつらってことになるんだろうけど、担任の梅岡先生がそいつらを連れて桜田の家に謝りに行っても桜田は会いもしなかったみたいだ。
 当たり前って言えば当たり前か。クラスみんなにいじめられたようなもんだし。
 学年が変わってクラス替えもあった。一応桜田といじめた連中は別クラスになるように組まれたみたいだけど、桜田はまだ一度も学校に顔を出していない。
 ちなみに俺は相変わらず桜田と同じクラスで、担任も梅岡先生のままだ。
 桜田だって、登校してくればそれなりに楽しいと思うんだけどなあ……。でも、家に三人も可愛い女の子がいれば、そっちのほうが楽しいのかもしれない。

 そんなこんなで、あまりどころかとても気乗りしないけど、俺は桜田家のインターホンを鳴らした。
「はーい、どなたですか?」
 なんか可愛い系の声がインターホンから聞こえる。う、これはまさかドールの誰か? いやいやいや、まさかなー。
 いや、そうじゃなくて。挨拶しないと。
「桜田ジュンくんの同級生です、はじめまして」
 一瞬間が空く。なんか厭な間だな、と思っていたら、半オクターブくらい高くなった声で、まあ、どうぞどうぞって言われて扉が開いた。
 顔を出したのは、ちょっと桜田に似た、ウェーブのかかった髪の女の子だった。桜田のお姉さん……かな?
「こんにちは、ジュンくんのお友達なのぅ? はじめまして」
「はい、桜田くんに会いたいなって……」
「あらぁ、それじゃ上がって待っててもらっていいかしら? いまジュンくんお部屋なの」
 俺を客間っぽいフローリングに通すと、お姉さんはぱたぱたと廊下を走っていった。
 やべえ、むちゃくちゃ可愛いじゃんお姉さん! これは引き篭もりたくなるね! ってか都合四人のハーレムかよ! 普通に学校行く気なくなるんじゃね?
 ってお姉さんは学校行ってるなら関係ないか。
 あーでも畜生、引き篭もりなのに女の子たちとキャッキャウフフのリア充とかどうなってんだよ。世の中不公平すぎるだろ。

 そんなことを考えていると、スリッパの音がぱたぱたと聞こえてきた。
「ごめんなさいね、そのぅ……ジュンくん、今ちょっと具合が良くないみたいなのぅ……」
 お姉さんの顔は困ったような、ちょっと泣きそうな感じだった。うん、明らかに嘘だよねそれ。なによりもその表情が物語ってます。
 この人をもっと困らせるのは心が痛むんだけど……ここは言うしかない。

「大事な話なんです。蒼星石のことで──」

 言いかけた途端、がたん、とドアの外で音がした。反射的にそっちを向くと、ガラス戸にひっついてる髪の長い金目銀目と、金髪縦ロールの小さな姿がある。
 しかしなんだ、盛んに指差してなんか言ってるけど、俺の左手の薬指がそんなに気になるのか?
 左手の甲を見せてコンニチワと手を振ってみると、金目銀目がせいいっぱい手を伸ばしてドアレバーをぐいっと押し下げ、ドドッと走ってきて……お姉さんの足の後ろに隠れた。もう一人も同じように走ってきて、逆側に隠れる。なんだそりゃ。
「あ、あのぅ……二人とも」
「や、やい人間、蒼星石の何を知ってるですか! 洗いざらい全部吐きやがれですコンチクショウ!」
 お姉さんの後ろからべそかきそうな顔で言われても怖くないんですけど。っていうかお姉さん無茶苦茶困ってるじゃん。
「それとその指輪、契約の指輪なのよー。誰のなのー?」
 あんまりびびってない感じの縦ロールの子が、俺の左手を指差して首を傾げる。
「あ、これは──」
「チビ苺は黙って真紅とチビ人間を呼んでくるです! こいつの尋問は翠星石の仕事なのです!」
「うゅ……」
 チビ苺……雛苺って子だよな、確か。しぶしぶという感じでお姉さんの足から手を放して、俺とお姉さんと金目銀目……こっちが翠星石か。その三人を交互に見つめている。
 お姉さんは俺の方を見てごめんなさいと言うように頭を下げた。
「それじゃヒナちゃん、一緒にジュン君たち呼びに行こう?」
「うー、うん」

 お姉さんに手を引かれて、なんか名残惜しそうにこっちを振り返りながら雛苺がドアの向こうに消えると、部屋には俺と翠星石だけになった。
 視線を合わせてみる。びくっとしてソワソワし始める。
「あ、えーとその……」
 ぎくぎくって感じになった後、泣きそうな目でじーっと睨みつけてくる。

──ファンが多かったのも道理だな。この上目遣いは反則だろう。

 ん? 今なんでそんなこと思ったんだ俺。そもそもファンってなんだよ。
 まあいいか。
「薔薇屋敷に行くんだよな?」
「なっ、なんでお前がそれを知ってるですか」
 いちいち反応するのが可愛い。くそう、桜田……この調子であと二人もいるなんてマジでハーレムじゃねーか。
 でも……あれ?
「白ァ切るつもりですかっ、とっとと喋りやがれですこのアホ人間」
「あ、蒼星石から聞いたんだ、昨日の晩」
「え……」
 じりじり接近していた翠星石の勢いが止まった。
 と同時に、俺のほうも思考が止まってしまった。
 蒼星石から聞いたのは間違いないんだけど、おかしい。なんだかその前から知ってたような気がする。蒼星石から聞いたんじゃなくて確認を取っただけみたいな覚えも……
「蒼星石と、会ったですか」
「うん」
 それは確実。夢の中じゃない。っていうか、俺と蒼星石と水銀燈で俺の夢の世界に入ったんだけど、さっきの話を蒼星石から聞いたのは出てきた後だ。……ん? いや合ってるはず。
 あるぇー、確認取ったってのが覚え違いなのかな。どうも昨日の晩のことはよく思い出せない。
 まあ、大事なことに気を取られてて、細かいことは忘れちまったんだろう。忘れるくらいだから大したことはないんだ。うん。
 なんて考えてたら、翠星石が俯いてしまっている。
「やっぱり、戦うって言ってたです……?」
「……うん」
 あ、やばい。泣く。
「う……」
 ぽろぽろと落ちる涙はまるで真珠のようで。じゃなくて。
「泣くなー!」
「な、泣いてないですコンチクショー!」
 顔を真っ赤にしてなんか手当たり次第に投げつけようとしたみたいだけど、生憎とフローリングの床の上には投げるもんがない。
 どうするかと思ったら接近戦に持ち込んできた。フッ、だが貴様は所詮ちびっ子! 立ってしまえば圧倒的な背丈の差が……あれ?
「ちょ、あ、足痺れて立てねえしっ」
「フッ……お前の動きは見切っていたです、くらえっ」
 翠星石は数少ない飛び道具、クッションを投げつけ、俺の視界を奪ってからフライングボディプレスをかましてくる。たまらずひっくり返ったところをそのままマウントポジションに移行しやがった。
 くそぉ、体勢が崩れすぎていなければ……ていうかつい正座してた俺が悪いんだけど。
「うわわ、いて、いててててっ、髪むしるなっ」
「さあさあさあ、観念して全部ゲロするです……って」
 翠星石の動きが止まった。チャンスとばかり相手の両腋の下に手を突っ込みリーチの差を最大限に利用してひきはがし……
「……ん?」
 なんだか翠星石は脇の方に視線を向けている。
 その先を追ってみると。

「会ったばかりだというのに随分仲がいいのだわ」
「ヒナ知ってるの。二人はすでに強敵と書いてトモと読む仲なのよー」

 雛苺とお姉さんに挟まれるようにして、赤いドレスを纏った片腕のドールと、それを抱いている桜田がいた。
 視線を戻す。自分の姿を確認してみる。OK。
 俺は半分膝を立てて仰向けに寝っ転がり、両手を真上に最大限に伸ばして、翠星石さんを精一杯高い高いしています。
 あ、やっと向こうもこっちを見ました。目が合ったでござる。

 眼を反らさず見詰め合う俺たち二人の瞳の間に何か見えない光が交錯してッ……
 漢と漢の友情が今ッ……!!

「……いいかげん下ろしやがれです」
「はい、そうですね」


「えーと、順番ぐちゃぐちゃになっちゃってすいません、これ……」
 幸い潰れもせず原形を留めている菓子箱をテーブルの上に置く。向かいに座っている雛苺の瞳がぱあっと見開かれた。
「うにゅーなのー」
「うにゅう? い、いや苺大福だけど」
「ふふ、ありがとうございます。ヒナちゃんは苺大福のことをうにゅーっていうのよ」
 お姉さんは優しく笑って雛苺に苺大福をあげている。なんか、和むなぁ。姉妹っていうか親子みたいだ。

 そういえばこの子達、似てないけどみんな水銀燈の妹なんだよな。
 正面で左手一本で不器用に紅茶を飲んでる赤いドレスの子……真紅を見て、なんだか複雑な気分になった。
 真紅の右腕は、水銀燈が壊した。事故とかじゃない。最初からやる気で、もぎ取った。俺はその場にいなかったけど知ってる……ん? なんで知ってるんだろう。
 多分本人から聞いたんだと思うけど、いつ聞いたんだか忘れてる。今日はやけに多いな。
 俺の頭がぶっ壊れなのは置いとくとして、やっぱ、姉妹で壊し合いするのって良くないよなぁ。こんな風に楽しくやってるのに、最後はみんな壊れて独りだけになっちゃうなんて切な過ぎる。

 水銀燈は切なくないのかな──

「──で、お前は蒼星石の何を知ってるですか」
 はっとして隣を見ると、翠星石がこっちを見上げている。
 テーブルが小さいんで渋々隣に座ることにしたみたいだけど、こっちとしてはさっきのどたばたのせいか、他の子や桜田に隣に居られるよりは気が楽だ。
 これが拳と拳で語り合った仲というやつなのか? いやいや。
 しかし、何から話していいのか……
 ほんの少しの間微妙な沈黙が流れた。
 一番最初に動いたのは、お姉さんだった。
「……ジュンくん、お姉ちゃんちょっとお台所に行くからよろしくねっ」
 ごゆっくり、と俺に頭を下げてお姉さんは出て行った。明らかに空気読んで席を外したな、お姉さん……。

 なんとなくドアが閉まるまでお姉さんを見送ってから、俺はその場の人をそろりと見回した。
 桜田以外全員こっち見つめてる、というより睨んでる。当たり前か。
「蒼星石が薔薇屋敷で私たちを待っている。それは知っているわ」
 ティーカップを置いた真紅が静かに言った。
「昨日の晩、蒼星石本人が言い残して行ったの。だから、私達は薔薇屋敷に行かなければならない」
「そっか……」
「貴方がそれを告げに来ただけならば、用はもう済んでいるのだわ」
「あ、いや俺はそのことを言いに来たんじゃない」
「そう」
 真紅はちょっと微笑んだ。あ。今の……ひょっとして助け舟なのかな。
 ありがとうと言うのもなんだけど、ちょっとだけ真紅に頭を下げて俺は話し始めた。
「蒼星石は、自分のマスターがほんとは何を望んでるか知ってるんだ。マスター本人は気づいてないみたいなんだけど」
 不思議なほどすらすらと言葉が出てくる。まるで俺じゃない誰かが喋ってるみたいだ。
 ちらっと翠星石のほうを見ると、俯かないでちゃんとこっちを見ていた。
「だけどマスターが気づかなければ、蒼星石は言いつけどおり翠星石と戦う」
 スカートを握っている翠星石の手がぎゅっと握り締められる。
「気づいたら……どうなるです?」
「蒼星石はマスターの心を覆ってる殻を壊す。それがマスターの本当の願いだから」
「それは……ダメです!」
 翠星石はがばっと立ち上がって俺の襟元を掴んだ。
 ぐっ、二度までもインファイトに持ち込むとはッ、このちっこい少女のどこにこんなスピードとパワーがっ……
「や、やめれ」
 なんとか翠星石の両肩を押さえる。取り敢えず止めさせないと俺が死ぬ。ていうかマジやばい、主に絞め落とし的な意味で。
「マスターの心は蒼星石の心なんです。それを無理矢理壊すなんて……そんな無茶したら蒼星石まで……」
 攻撃再開かと思ったら、翠星石はそのまま下を向いてしまった。
 やばい。これは、また泣く。
「冷静におなりなさい、翠星石」
 真紅がぴしゃりと言うと、翠星石ははっと気づいたように俺の襟元から手を放した。
 凄いな真紅。なんかリーダー的存在みたいだぜ。っていうか、俺にお説教するときの水銀燈にちょっと似てる。
「それで、貴方は蒼星石を助けたいのかしら」
「うん」
 くちゃくちゃになってしまった襟を直しながら俺は頷いた。
「俺は心の専門家じゃないけど、蒼星石は少し焦ってる気がする。心の殻って、他人にいきなり破って貰わなくてもいいんじゃないかな。切っ掛けは要るにしても、マスター自身が少しずつ突っついて壊していけばいいと思うんだ。蒼星石と一緒に」
 お、今の言葉ちょっとかっこ良くね? 俺えらい!
 しかし、相変わらず自分の口からでてると思えないほど滑らかに回ってるよな台詞。
「それに、蒼星石がもし大怪我したり……もう会えない、とかになったら、マスターは当然心に別の重荷を背負うだろうし、みんなも悲しいだろ?」
 俺に肩を掴まれたままの翠星石が顔を上げてこくりと頷いた。
「だから、止めさせたいんだ。みんなと蒼星石が戦うことも、蒼星石が無茶をすることも」

「……ねぇ」
 む? 結構いいところだってのになんだ。
 声のほうを振り向くと、いつのまにか雛苺がテーブルのこっちにきて、翠星石の右肩の辺りを指差している。
 そこにあるのは翠星石の肩をわっしと掴んだままの俺の左手くらいなもんなんだけど。何が問題なのかな?
「誰の指輪なのか教えてほしいのよ」
 雛苺の人差し指は俺の薬指の付け根の辺りにある指輪を指している。
 俺は翠星石の肩を放して、指輪を見つめた。
「これか」
 今言っちゃっていいのかな、とも思うけど、どうせいつかはばれることなんだよな……。

「……水銀燈の契約の指輪だよ」

 その瞬間、部屋の中の温度が三度ほど下がったような気がした。



[19752] そして視点も変わっちゃう。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/07/17 19:37
今回は視点も変えてみます。

10/7/17 19:36初投稿です。

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 雪華綺晶は水晶の森の中で膝を抱いていた。

 戸惑っていた。
 戸惑う、ということ自体が初めてなのかもしれない。彼女は作られて放たれてこのかた、あらまし同じことだけを繰り返してきたし、それは最初から成功が保証されていて、失敗などすることは今まで一度もなかったからだ。
 薔薇乙女達は常に似たような形で媒介と契約を交わし、そしてさまざまな形で契約を解く。その「お下がり」の媒介のうち、使えそうなものを夢の中に引き込み、あるいはこちらから夢に入り込んで自分の領域に確保する。
 媒介を引き込むことは簡単だった。引き込めるような媒介を見分けるのが簡単だったと言い換えてもいい。
 薔薇乙女を失った媒介たちは大なり小なり消えない寂しさを背負い込む。媒介となる資質を持つような人間にとって、永く自分の傍にあった薔薇乙女は自身の一部のようなものだ。もう逢えないと分かっていても心がそれを否定したがっている。
 雪華綺晶に必要な工作は、彼らの見ている夢にほんの少し手を加え、彼らが決して目覚めたいと考えないくらいに幸せなものに変化させることと、そうして閉じこもった彼らの意識を自分の領域に運び込んで幸せな夢の中で遊ばせつづけることだけだった。

 周囲を見回す。水晶の結晶の中には何人もの媒介たちが、眠りについたときの姿のままで収められている。

 雪華綺晶の欠けた心、欠けた実存を埋め、放って置けばすぐに弱ってどこかに消え去ってしまうはずの不完全な魂をローザミスティカの近くに保つためには、媒介たちを確保し、夢を見続けて貰わなければならない。
 大抵の場合はひとつの時代にそうして確保できる媒介は一人か、多くても二人に過ぎなかった。それを彼女は大切に「遊ばせた」。数は多くないから失敗は許されなかった。糧が途切れれば、ローザミスティカだけでは彼女を保つことはできないから。

 これまで彼女が捕えてきた媒介たちは、自分から幸せな夢を拒むことはなかった。
 媒介として選ばれる人間達に心の強い人々は多くない。薔薇乙女を求めたからこそ選ばれ、薔薇乙女を愛したからこそ別離がくれば悲しみに沈む。
 今回も、そのはずだった。違っているのは、媒介が契約を解除される前に媒介の心が壊される予定という点くらいだった。
 契約の相手が水銀燈で、どういうわけかその本人が媒介の心を壊す瞬間に立ち会うというのは好都合だった。普段は他の姉妹に比べて媒介に依存しないし依存させない水銀燈だが、媒介の心を壊す現場に立ち会って無事で済むはずはない。
 水銀燈が心に大きな負荷を掛けられ、何もできない隙を狙ってそのボディを盗む。心を壊されて脆弱になった媒介は夢の世界に引き入れて遊ばせる。場合によっては水銀燈の心すら自分の領域の水晶に閉じ込めて無為に遊ばせることができるかもしれない。
 しかも、どちらかは失敗に終わってもいいのだ。
 ボディを失った水銀燈は精神だけの何もできない漂流者に成り下がるだろうし、媒介は無力な人間に成り下がる。そしてボディさえ手に入れてしまえば自分ははれて物質界の一員となれる。
 仮にそちらが不発に終わっても、媒介の心を確保してしまえば、当面の糧を確保できるだけでなく水銀燈に対しても何等かの交渉ができるだろう。
 やり方は複雑になるが、流れで見ればいつもの手順だ。できなくはない。なにしろ、相手は完全に無防備なのだから。
 そんな風に考えていた。

 それでも、二つの作業を平行して行うのは失敗の危険がある。
 雪華綺晶は慎重に段取りを整えた。
 万にひとつの失敗もないように、幸せな夢を見せるのは媒介の精神世界で、と決めた。媒介の記憶と想念の世界でなら、そこのパーツを使って夢の構成を補強することができる。より「本物らしい」夢を展開するほうが媒介の誘導には効果的だ。
 そのために彼女は媒介が好み、彼の世界の延長線上で違和感がないものを彼の世界から「借りて」幻覚の罠の中に配置さえした。夢の中で媒介がそれに依存してしまえば、もし夢だと分かってしまったとしても、彼はもうそこから抜け出たいなどと思うことはないだろう。
 水銀燈についても、最初からボディを欲張らずに心を縛りつけることを選択した。ボディにはローザミスティカが残っているはずだから、心が朽ちないまま確保したとしても雪華綺晶の思うまま扱うわけには行かない、という事情もあった。
 心を失ったボディはいつでも回収できる。魂が離れていけばいずれローザミスティカもボディから抜け出てしまうだろう。自分の手元に手繰り寄せるのはそれからでも問題はない。
 ローザミスティカには拘りはなかった。むしろそれよりも物理的な身体が欲しい、というのが雪華綺晶の本音だった。
 体を得て、煩わしく不確定な糧の確保という制約から解放されれば、自分もやっと他の姉妹と同じスタートラインに立てる。いや、自分の能力を考えれば、物理的な体躯に依存している他の姉妹よりも一気に優位に立てるだろう。
 ここから動かず、生きるためだけに生きることには飽きている。かといって、死ぬ気もない。

 彼女は既に長いこと機会を待ちすぎたのかもしれない。
 いつ自分がローザミスティカに興味をなくしたのかさえ、覚えていない。
 孤高の人形師ローゼンが彼女を今のありように作ったのも、このnのフィールドに放ったのも、ローゼンの考える至高の少女──アリスとするためだった。
 そのためには姉妹全てのローザミスティカを揃えることが必要の筈だった。少なくとも、そう思われていた。
 しかし、彼女はあまりにも永く、同じ目的の姉妹の誰一人とも接触を持つことなく、それでいて姉妹たちの姿を見つめながら生きてしまった。
 姉妹の誰もが次の媒介と契約するまで眠りに就いているときも、媒介もゼンマイも鞄も、話し相手の人工精霊さえも持たない彼女はひたすらここで待ちつづけていた。しかも、それはほとんどが自分が生き延びるための糧を見定め、確保し、そこから細々と心を吸い上げて生き続けるために根を張るだけの待機だった。
 途方もない、孤独。
 永い永い時間の間に、アリスというもの自体に対する考えさえも変わってしまった。
 姉妹達はお互いに争って生命の欠片を奪い合い、勝者を定めることを当然と考えている。だが、それに勝ち残ったところで、他の個性は全て失われるしかない。ローザミスティカは生命の源であって、心ではないからだ。
 自分はからっぽの白、器すら持っていない。だが、姉妹達のボディを集め、その心を確保すれば。
 自分はからっぽ。からっぽだからこそ、何色にも染まることができる。ときとして烈しく、愛しく、切なく、無垢で、気高く……
 ただひとつでなく、製作者の呻吟して生み出した全ての個性、つまり心と形を兼ね備え、時宜に応じてそれを着替えることができる。
 それこそが至高の少女ではないのか?
 ならば、それに成り得るのは、無機の器というしがらみを持たないがゆえに自由に器を乗り変われる自分しかいないではないか。
 それは──詰まるところ彼女自身の物理的な実体を持ちたいという欲求が先にあってこじつけた、論とも呼べない考えなのかもしれない。
 だが、雪華綺晶はそれを信じた。なにがしかの目的がなければ、彼女は自らの在りようを保つことさえ危うかった。

 視線をゆっくりと動かし、茨のひと揃いに目をとめる。
 そこは昨日の晩に焼かれたまま、灰色に薄汚れていた。

 不思議だった。
 タイミングこそシビアだったが、その分いつもより周到に夢を誘導した。そのために、水銀燈の媒介が最も好むだろう人形を、彼の記憶の中から選んで幻覚の中に配置したほどだ。
 案の定、最初の幻覚にするりと媒介を入り込ませることはできた。あとは、放っておいてもそこから媒介は自分で夢を紡いでゆく。今までそこに例外はなかった。
 水銀燈の心を確保するのも簡単だった。媒介の近くで倒れた水銀燈の心は全く無防備にnのフィールドを漂っていて、彼女はそれを茨の中に完全に封じてしまうことさえできた。
 いくらか誤算があったとすれば、媒介が蒼星石に水銀燈の身体を物質世界に持ち帰るように警告したことと、蒼星石が予期していたかのように機敏に脱出してしまったことくらいだった。
 だが、それは些細なことでもあった。心を確保していればボディは抜け殻に等しい。いずれ奪い取ることができる。
 そこまでは、何等の問題も起きなかった。全ては手はずどおり進んでいたはずだ。
 蹉跌が生じたのは何処だったのか。考えてみるが、分からない。
 確かなのは、媒介を雪華綺晶の領域に引っ張ろうとする前に、向こうから夢を破ってしまったことだ。それも、何かが切っ掛けで偶然見破られたというよりは、途中からずっと気付かれていたように思える。

 そこからは、彼女にしてみれば一方的な展開だった。
 力と言葉で媒介を誘導しようと試みたが媒介はそれに乗らず、あまつさえ戦い慣れた薔薇乙女なみに狡猾に自分の世界の構築物を使って彼女に反撃し、最後は恫喝で彼女を退けた。
 媒介の夢の中に配置しただけの人形が、夢が破れた後も確固たる存在のまま残り、自分に刃を向けたのも予想外の出来事だったし、自分が呆然としてここに戻る間に彼が水銀燈の心を封印から解き放ち、易々と物質世界に帰還してしまったのも慮外の痛恨事だった。
 もっとも、あのとき自分が水銀燈の心の傍で媒介を迎え撃ったとして、結果が変わったとは思えない。いや、圧倒的優位にあったのは彼だった。恐らく、自分は手もなく捻られて魂と生命──ローザミスティカ──を切り離され、こうして自分の領域に戻ることもなく永久に無意識の海を彷徨する魂のひとつになっていただろう。

 千歳一遇と言うべき好機を逃した。それは口惜しい。しかし、それだけではない。
 もっとぞくりとした、何か。肌が粟立つような感覚。それに、彼女は戸惑っていた。

 他の姉妹がその感覚を説明されたら、それを恐怖だと表現するかもしれない。
 同じ感覚を抱いた水銀燈なら、多分それが異質なものに対する本能的な嫌悪感だと理解するだろう。
 いずれにせよ、雪華綺晶は戸惑い、そして、既に存在しないものの影に萎縮していた。結果的には、そのことが彼女に大きな見落としをさせてしまうことになる。

 (この項終わり)



[19752] 書きにくいのかもしれない。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/07/19 23:13
早くも分量が減っております。
オリキャラ視点なんですが、やはり辛いか。

これ以降の時間帯、急用で書けそうもないので時間が早いですが投下して今日の分の〆と致します。

23:09 脱字のため意味不明の部分を添削。

***************************************************


 言った途端に、みんな凍りついたような表情になった。
 それだけじゃない。元々熱い視線じゃないのは分かってたけど、この視線の冷たさは何よ。北海道から一気に南極って感じだ。
 やっぱまずかったかなぁ……。

「……尋ねてもいいかしら」

 固まった中で一番先に動いたのは真紅だった。
「貴方の今までの話、水銀燈も同じことを知っているのでしょう」
 俺は頷いた。水銀燈は全部知っている。蒼星石が翠星石と戦うことになっても自分から心の壁を壊すことになっても、隙を見て一番弱っている誰かを倒してローザミスティカを奪うつもりなんだ。
 真紅は、そう、と頷いて俺を真っ直ぐ見詰めてきた。
「それでは、貴方が此処に居て私達に話をしていることはどうなのかしら」
「水銀燈には言ってないよ」
 案外、こっそり起き出して来たからまだ寝てるかも……
「でも、遅かれ早かれ気付くことになるでしょうね」
 う、確かに……。起きてたらとっくにばれてるかもしれない。水銀燈は俺の考えそうなことなんて全部読んでしまいそうな気がする。
「それは仕方のないことだけれど、貴方はそれでいいの?」
 ちょっと意外な一言だった。俺はまじまじと、片腕の無い金髪の女の子を見つめた。

「蒼星石の戦いを止めれば、水銀燈の目論見は実現しないのではなくて?」

「え……それは……」
 背筋を冷たい汗が流れるってこということを言うんだなきっと。
 なんでこんなに眼光鋭いんだこの子。眼の色や物の言い方は違うけど、ほんと水銀燈に良く似てる。
「どういうことですか真紅」
「少しは察しろよ」
 あ、今桜田に言われてむくれた翠星石に凄く親近感が湧いたような気がする。
 でもあれか。翠星石が気付かなかったのは蒼星石のことで頭がいっぱいだからかも。ちぇっ。
「水銀燈はお前たちの誰かが負けたら、ローザミスティカだっけ? ……それを奪うつもりだってこと」
 桜田もすごいなぁ。偏差値高いだけはある。でも、それをそっぽ向いてぶっきらぼーに言う辺りは……やっぱり桜田だな。
「た、確かに奴の考えそうなことですぅ……」
 翠星石はちらっと俺を見上げた。釣られるように雛苺もこっちを見上げる。小首を傾げてるのはなんでだ。
「そうなの?」
「うん、合ってる」
「わー!」
 雛苺はまんまるく目を見開いた。銀英伝の最終巻みたいに言うと両目と口で三つのOを作ったって感じ。
「真紅すごいのー! くんくん仕込みのパーフェクトな推理なのよー」
「いいからお前は黙ってこっち来い」
 桜田がひょいと手を伸ばして雛苺を抱き上げ、なんとも言えない雰囲気が周囲に漂った。

 いいタイミングで、かちゃ、と音がしたのは、真紅がティーカップを置いたからだ。音を立ててしまってちょっと口惜しそうな表情になったのは見なかったことにしてあげよう。
「貴方がやろうとしていることは水銀燈を不利にするかもしれない。それで良かったのかしら」
 真紅の視線を俺は受け止めた。
「良くなかったかもしれないけど」
 改めて言われるとちょっと迷うのは確かだ。でも。
「もう教えちゃったし、蒼星石には無事でいてほしいし……それに、なんか嫌な予感がするんだ。ローザミスティカをそんなふうにして手に入れたら、水銀燈になんか悪いことが起きる気がして」
 たっぷり一拍の間、真紅は俺の目を黙って見返していた。それから、ぱちぱちと二度ばかり瞬いて、視線を斜め下に逸らした。
「……そう」
 それはちょっぴり寂しそうで、でもなんか優しい感じのする顔だった。
 アンニュイっていうんでもなくて、なんかこう、見てるだけで切なくなってくるっていうか。
 あああああ、桜田お前関係ないほう向いてる場合じゃないだろ! なんかフォローしてやれよ! だっこするとか!
「──るのね……」
 真紅はそのまま、小さな声で呟いた。
「え?」
 よく聞こえない。なんなんだろう。
「貴方の行動が正しいか、正しくないかは分からないけれど」
 俺が目をぱちくりしている間に、こっちに向き直った真紅は、もう元の生真面目な表情に戻っていた。
「教えてくれてありがとう。想いは私達にも伝わったのだわ」
「ど、どういたしまして」
 なんとなく気圧されるような感じでぺこっと頭をさげたとき、がちゃりとドアの開く音がして、何か非常に美味そうな匂いとお姉さんの元気のいい声が流れ込んできた。

「さあ、みんなお昼ご飯よぅ。ジュン君のお友達もご一緒にどう?」
「あ、俺はその……」
「ごはんっ」
「ヒルメシですぅー」
「いただくのだわ」
 三人の子はそれぞれ嬉しそうな声を上げて、どたばたとてとてと部屋を出て行った。背丈がちょっと小さめだけど、普通にお腹を空かせたがきんちょって感じだ。さっきまで超シリアスな雰囲気だった真紅も、後姿だけ見ていると子供にしか思えない。
 どうしたもんか、と立ち上がると、桜田と目が合った。
「いいのかなぁ」
 桜田は困ったような顔つきになってポリポリと頭を掻いて、そっぽを向いて口を尖らせた。
「……食べてけば?」
 俺が素直にありがとうと言うのと、腹が鳴ったのは同時だった。
 桜田は口に手を当てた。実に厭な場面が俺の脳内にフラッシュバックする仕種だ。
 おいおいおい! これで吐くとかありえねーだろ……と思っていたら。
「ぷ、くくく」
 どうやら、俺の腹の虫は桜田の笑いのツボを刺激してしまったらしい。
 俺はふうっと溜息をついた。ハハハ、こやつめ。脅かしやがって。
「笑うなよ」
 そう言うか言わないうちにまたもうひとつ腹が鳴った。
 ああああ畜生。なんだこの間の悪さは。
 なんかますますツボにはまってしまったらしく背中を向けて笑いつづける桜田に続いて、やれやれと肩を竦めながら俺は部屋を出た。

 まあ、いいか。
 ほんとのことを言うと、なんかちょっぴり解放されたような気分もあるんだ。ここに来たのは同級生って立場じゃないけど、やっぱりこいつは俺の同級生だから。
 みんなによってたかって黒板に酷いこと書かれてゲロ吐いて顔見せなくなった桜田が、ここで腹抱えて笑ってる。
 月並みだけどそれがなんとなく嬉しい。
 水銀燈や蒼星石たちのことはもちろん大事だけど、それとは別の大事なものもあるんだよな。

 (つづく)



[19752] 漸く主役登場
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/07/21 22:57
今回は視点を擬似神視点としてみました。
段落ごとの各個視点みたいな感じになってしまったのはまだまだ修行が足りません。

一見ペースは下がってないようですが、内容見ていただいている方にはお分かりの通り、原作の展開をなぞっている部分が多いのでまだなんとも言えません。

しかし、原作最大の急展開というか、この結菱さん&蒼星石編、独自解釈入れつつ書いてもまだしっくり来ない部分です。
どっかに良い解釈サイトとかないですかね?

*******************************************


「じゃあ、みんなお夕飯までにちゃんと帰って来るのよぅ」
「わかったから早く行けっての」
 ジュンが口を尖らせるのを見て、のりはやっと踵を返した。
 ここは薔薇屋敷と呼ばれる高台の家。華族の出の一族が優雅に暮らしていたというが、昭和の中頃から急速に没落していき、今は見る影もない。とはいえ、広大な家と庭を手放さずに維持するだけの資産は残しているらしい。
 のりはもう一度振り返った。よく見る屋敷の姿にどこか違和感を感じたからだ。
 暫く考えて、あ、と彼女は思い出す。

──お庭の薔薇がお手入れされていたのね。荒れ放題だったのに……

 ジュンが急に薔薇屋敷に行くと言い始めたことについて、のりは詳しいことを知らない。三人のドールと、今日の昼前に尋ねてきたジュンの同級生という少年が関わっているらしいことは分かったが、それ以上踏み込むことはできなかった。
 自分は一歩退いたところから見ていた方がいい。
 自力で動く人形の真紅が家にやって来てからというもの、ジュンが不思議なことに巻き込まれているのは明らかなのだが、自分は彼が教えたがらないことまでは知りたがらない方がいいのだ、と彼女は割り切ることにした。
 真紅が来てから、ジュンは少しずつ明るくなっている。自分も可愛い小さな妹達を持ったようで、大変だけど楽しい毎日が過ごせている。
 今はそれでいい。いつか、教えてくれることもあるだろう。
「さあ、今日のお夕飯はみんなの分、腕によりをかけて作らなくちゃね。ジュンくん、久しぶりの遠出だもの」
 どんなときも、みんなが安心して帰る場所を作っておくのが自分の役目だ。
 暗い気分を振り払うように青い空にうんうんと頷いて、のりは坂を下っていった。


 現実世界ではのりが今夜の食材を買い足すためにスーパーマーケットに入った頃になるだろうか。
 蒼星石が用意した舞台で、一同は対峙していた。
 ある女性──蒼星石の契約者である結菱老人の過去に深く関わる人──の、心の木がそこにある。
 老人が蒼星石に命じたのは、その木を蒼星石の持つ庭師の鋏で切り刻むことだった。

 半世紀以上昔の話である。
 結菱老人には双子の弟が居た。二人は何をするにもお互いを必要とするような関係だったが、弟はある外人女性と恋に落ち、引き留める兄から逃げるようにして彼女の待つ海外に渡ろうとした。
 渡ろうとした、というのは、その途上で海難事故に遭い、船もろとも海の藻屑と消えてしまったからである。
 結菱老人(当時は未だ青年だったが)は突然のことに呆然とした。
 損傷が激しいものの、その船に乗り合わせた客の中に東洋人は一人だけ、ということで形ばかりの遺体確認に立ち会った彼の中で、何かが音を立てて崩れていった。
 こんなのはちがう。死んでいいはずがない。ならば目の前のこれは誰だ。誰の遺体だというのか。
 ……簡単なことだった。
 その場の人々に向かい、彼はとんでもない話を始めた。スキャンダルと言っていい内容だった。
「死んだのは、兄です。彼は僕の名前を騙って、船に乗りました──」
 その瞬間、彼は法的に死んだ。
 同時に、自分が手がけようとしていた一切の事業も失うことになった。家は傾き、彼の手元にはほとんど財産は残らなかった。
 だが、そんなことさえも彼には些細なことだったかもしれない。自らの半身と認めていた弟が、もう二度と戻ってこないのだから。

 弟の名前を使い、薔薇屋敷に逼塞しながら、老人は半世紀をずるずると生きてきた。消し残しの蝋燭が一本だけ点いているような人生だった。
 それが俄かに熱を持ったのは、ごく最近のことだった。
 弟が恋に落ち、死ぬことになった原因の女性が、生きていることをひょんなことから知ったのだ。
 老人は彼女を激しく憎んだ。弟と同じ船に乗り、同じように事故に遭い、同じく海の藻屑と消えたはずの女がいまだに生きて結婚をしていまや孫に囲まれた幸せな生活を送っている。
 許せるものではなかった。
 老人は双子のドールの螺子を巻き、そして、女性の心の木を腐らせ、刈らせることを命じた──。


 結菱老人の夢の世界。それが彼の執着対象である女性の心の木の場所まで広がっているのは、彼の執念の強さの故だろう。あるいは更に強く、女性の心の木をこの場に現出させるほどの頑強な妄執なのかもしれない。
 どちらにしても、今の翠星石には無関係だった。
 蒼星石に心の木を傷つけさせるわけにはいかない。それは人を直接手にかけるのと同じだから。
 誰にもそんなことは許されない。まして、こんなことで蒼星石の手を汚させるわけにはいかないのだ。
「今日は君と存分に戦えると思ったのに……」
 蒼星石はシニカルな笑顔で言った。
「木を背にしてもまだ如雨露を持ち出さないんだね、翠星石」
 翠星石は顔を上げた。既に二度ばかり蒼星石に跳ね飛ばされていて、木にぶつかった背中と腕がずきずき痛む。
 でも大丈夫。まだ、泣いていない。まだ自分はがんばれる。
 だが、彼女の目の前の双子の妹はあくまで冷徹だった。
「君が無抵抗を貫くなら僕にとっては好都合だ。心の木を切り倒す前に君も倒してしまおうか」
「蒼星石、貴女は──」
「真紅」
 翠星石は真紅の言葉を遮った。
「これは……私達の戦い……ですなの。真紅たちは見守っていてくださいです」
「うぃー……で、でも」
 雛苺が翠星石と真紅を見比べ、真紅は一拍置いてから返事をした。
「わかったわ。でもローザミスティカを奪われそうになったら、その時は否応無く手を出させてもらうわよ」
 それは目の前に見えている蒼星石でなく、姿を現していない水銀燈かもしれない。真紅は言外にそう含めていた。
「……はいです」
 翠星石の人工精霊が、彼女の得物──庭師の如雨露を召喚した。
「一人は怖いです……けど、頑張るですよ」

「翠星石……」
 少し離れたところで、水銀燈の契約者である少年は無念そうな声を上げた。
「それでいいのかよ……ってぐるぐる巻きじゃ俺にはどうしょーもないけどね!」
 ジュンよりちょうど頭ひとつ大きい少年は雛苺の苺わだちで縛り上げられていた。
「ジュンの言いつけなの」
 雛苺は申し訳なさそうに言った。
 のりに言われるまま桜田家で昼食をご馳走になった少年は、そのままこの場所に連れてこられていた。要は水銀燈が来襲したときの人質のようなものらしい。
 水銀燈は契約者に限らず、その場の人間を媒介として力を得ることはできる。しかし契約した者の方が力を使いやすい。放っておけば水銀燈が彼を伴って来襲することも十分考えられる。
 同じなら手元で拘束しておいたほうがいい、というわけだ。
「ヒナは真紅のけらいで、ジュンは真紅のマスターだから、言うこと聞かなきゃなの。ごめんね」
「この状態で頭なでなでしてもらってもあんま嬉しくない……」
「うゆ……」
 雛苺にしてみれば、可哀想だな、と思う。何か出がけにジュンと真紅がひそひそ話をして、どうしたんだろうと思ってそっちに行ったらジュンが怖い顔をして雛苺に命令したのだ。戦いが始まったら縛り上げろ、と。
 悪いことしたわけじゃないのに縛るの? と聞いたら、悪いことをするかもしれないから縛るのだとか。よく分からない理由だったが、真面目なときの真紅とジュンの命令は絶対だった。
 すっかりアヒル口になってしまった少年に、雛苺はごめんねと謝った。あとでマポロチョコくらいは分けてあげてもいいと思う。
 ジュンがその様子をじろっと見遣った。
「頭まで巻いてもらったほうがいいか?」
「いえ、結構です」
 少年は即答した。

 鋏を構えて翠星石に突き進んだ蒼星石は、視界をいきなり如雨露の起こした霧で塞がれ、一瞬たじろいだところを心の木の枝で突き飛ばされた。翠星石の力は場所が限定されるものの、弱弱しいものとは到底言えなかった。
「やる気になってくれたみたいだね、嬉しいよ」
 体勢を立て直し、蒼星石は不敵に笑った。今の攻撃で頬が傷付いてしまったが、痛みは気にならない。
 自分には契約者がついているが、それは相手も同じだ。更に、翠星石には手負いと能力を制限されたコンビとはいえ真紅と雛苺がついている。相変わらず状況は有利とは言えなかった。
 しかし、だからこそ克ちたかった。
 昨晩、今後のことを僅かに見せられたうえで水銀燈の契約者と話したことを思い出す。
 なにが起きるか見えてしまったのになお自分の気持ちを貫くのか、と彼は尋ねてきた。
 彼に曖昧な一言で返したのは、自分の気持ちがはっきりと言葉にできるところまで行っていなかったからだ。
 今なら言える。これは自分が「双子の庭師の片割れ」でない、自分自身になるための戦いなのだと。
 確かにここで死ぬかもしれない。自分のローザミスティカは誰かに奪われるかもしれない。だが、そんなことは些細なことだった。ここから何度契約者を代えて生き続けても、双子の片割れのままでは何も変わらない。
 その思いの強さが、どこか迷いのあるような翠星石の防禦を掻い潜った。何度か弾かれ、防がれながらも、蒼星石は霧を抜け、翠星石の間近に飛び込んだ。
「僕は君を断ち切る、翠星石。僕が、僕自身になるために」
 金属質な音を立てて鋏が半開きにされる。蒼星石がそれを僅かに引き、突きの姿勢に入ろうとした瞬間、翠星石は心の木を後ろに庇ったまま、結菱老人を睨み付けるようにして叫んだ。
「思い出すです陰険おじじ! おじじの望みはこんなことなんですか? 蒼星石も分かってるはずです、おじじが本当は何をしたいのか!」
 一瞬の間があって、空間は酷い振動に見舞われた。

「地震!?」
「違うわ、これは」
 この空間が、記憶自体が揺さぶられているのだ、と真紅は気付いた。
 老人が何かを思い出そうとしている。恐らく──
「本当の願いに関わる何か、なのね」
 振動の中で真紅は水銀燈の媒介の少年の方をちらりと見遣った。苺わだちに絡めとられたまま、雛苺と一緒になって無様に目を回しながら揺さぶられている。まだ水銀燈の気配はなかった。
「いつ仕掛けてくるの……」
 必ず来る、という確信はある。媒介ですらあれだけのことを知っていたのだ。水銀燈自身が把握している情報はもっと正確なのだろう。それを利用して、最も効果的な瞬間を狙ってやってくるに違いない。
 しかし、何時なのか、何処からになるかは分からない。そのときに自分は皆を守れるだろうか?
 右腕が無いからといって薔薇の花弁を操る技には関係ない。しかし、幾分軽くなったバランスの悪い身体でどこまで俊敏な行動が起こせるか自信がなかった。

──ジュン。もしかしたら、ここでアリスゲームは終わってしまうかもしれない。

 もちろん、その結末が自分の思い描いていたものでないことは間違いない。勝者はこの場に姿を見せている誰でもない。
 それは絶望に近い感覚だった。傍らの眼鏡の少年に縋り付きたい気分を断ち切るように、真紅は翠星石たちの方を見つめた。彼女が弱気を見せていいのは、ジュンと二人になったときだけだ。


「思い……出した」
 振動の中心で車椅子に乗ったまま頭を抱えていた老人は、ぼそりと呟いた。
「私は彼女を」

──好きだったのだ。

 記憶がつながった瞬間、振動は嘘のように止まった。

 弟と老人は似すぎるほど似ていた。何をするにも常に一緒だった。二人は当然のように同じ一人の女性に恋をした。
 皮肉にも、そのことが弟が兄から離れてゆくきっかけになった。
 弟のほうが人間として正直だったのかもしれない。彼は女性の心をつかみ、兄弟でやってきた事業も財も捨て、駆け落ち同然で女性の故郷へと旅立ち、その途上で死んだ。
 老人が弟の名前を名乗った理由は、弟を失った喪失感だけではなかった。

 ──何故自分は愛されなかったのか。どうして弟なのか。自分と弟は二人で一人、同じ半身のはずなのに。何故なのだ。理不尽だ。
 ──そうだ、死んでいいのは恋に破れた双子の兄なのだ。弟になることで、自分は女性を勝ち取ったことになる。愛されたのは、自分ということになる。

 病的、倒錯も甚だしい心境と言えるかもしれない。それは老人もどこかで理解していた。そして、そのような思考をした自分を認めたくなかった。
 だから、いつのまにか記憶の中で綺麗な話に摩り替えてしまっていたのだ。
 女性を殺したいほど憎むのも道理だったかもしれない。彼女の存在自体が、自分の一番触れたくない汚い部分にざらりと障るサンドペーパーのようなものなのだから。

「ようやく、分かった」
 顔を手で覆ったまま、老人は搾り出すように言った。
「私が殺してしまいたかったのは、彼女でも弟でもない──」
 弟の名前を借り、自分の心を繋ぎとめている、自分自身の影だったのだ。

 蒼星石は心の木の前から老人のもとに歩み寄った。
 自分でも驚くほど、気持ちの角が丸くなっている。何かずっしりと心にのしかかっていた重石のようなものが嘘のように消えていた。
「マスター……やはり、それが貴方の本当の望みなんだね」
 車椅子の上で、老人の姿は哀れなほど小さく見える。恐らく、自分もそうなのだろう。
 蒼星石は独り言のように呟いた。
「僕も同じだ。半身なんかじゃない、本当の自分自身になりたくて」
 ずっと永いこと、もがいて、あがいて。
「そして気が付けば、自分自身の影にがんじがらめに縛られている」
 いや、それを気付いてもなお、自分はその欲求を満たすことも解消することもできずにいた。
「だからきっと、僕は貴方の願いを叶えてあげたかったんだ。そうすれば自分もこの迷路から抜け出せるような気がして」
 力なく提げていた鋏を持ち直す。
 認めたくなくて言わずにいたことを口に出してしまったせいか、不思議なほど心が軽かった。
 とん、と宙に舞う。

「だめえっ、蒼星石!」
 如雨露を抱えたままの翠星石は慌てて立ち上がった。
「蒼星石!」
 真紅は目を見開き、蒼星石の方に飛び出した。間に合わないことは分かっているが、見過ごすことはできない。
 周囲の声が聞こえないかのように、蒼星石は鋏をふりかぶった。

「それで貴方が解き放たれるなら、僕は──」

 瞬間、彼等の目の前に黒い羽毛が舞った。
 横合いから突進してきた黒と銀の何かが、蒼星石を突き飛ばすようにして彼女の動きを止めた。

「かっこつけタイムは終了よ、自殺志願のお馬鹿さぁん」
 突然の奇襲に倒れこんだ蒼星石を抱き起こしながら、彼女を突き飛ばした張本人──水銀燈は囁いた。
「生憎だけど、貴女にはもう少しやってもらいたいことがあるのよ」
 そこで周囲を見回す。僅かな差で間に合わず、目の前のことに呆然と立ち尽くしている真紅を見つけ、にやりと笑いかけた。
「わざわざうちの媒介を運び込んでもらって悪かったわね、真紅。お陰で間に合ったわぁ」

 (つづく)



[19752] 一週間ぶり。120行
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/07/27 17:00
暫く纏まった時間が取れませんで、書かないでおりました。
さて、今回は120行ほどです。

相変わらず原作無いとわけわかめですね。
内容読んでいただいてる方には申し訳ない。


*******************************************

「どうしたわけ? 揃いも揃ってお間抜けな顔しちゃってぇ。私がここに来ることは知っていたでしょうに」
 蒼星石を抱き寄せながら水銀燈は微笑んだ。
 真紅ははっと我に返り、急いで周囲を確認した。庭師の鋏はさきほどの衝突で蒼星石の手から離れ、少し向こうに転がっている。翠星石は二人を挟んで鋏の逆側にいた。
 雛苺は言いつけどおり水銀燈の契約者を拘束していて、すぐにはこちらに来れそうもない位置に居る。
 ジュンは慌てたようにこちらに急いでいるが、まだ遠い。
 蒼星石を人質に取られたような状態だった。

「水銀燈……」
 蒼星石は困惑していた。水銀燈の両腕は蒼星石の背中に回され、黒い羽と両方で彼女を抱きすくめている。
「邪魔しないでくれ。僕は……」
「聞こえなかった? 貴女にやってもらいたいことがあるの」
「僕を止めない方が君のゲームは有利になるはずだろう」
 結菱老人の心の影を壊すことは、蒼星石にとってそのまま自分の心を壊すことと同義だった。そうなれば結菱老人の心は救われるが、彼女はローザミスティカを失って物言わぬ人形になる。
 水銀燈はそのローザミスティカを奪えばいい。少なくとも、蒼星石が『見た』未来ではそういう筋書きになっていたはずだ。
 それでも蒼星石は、他の選択肢を取らなかった。彼女なりの意地のようなものもあったし、何より結菱老人のために心の影を壊したかった。
 水銀燈は意外そうな顔をした。
「あら、まさか本当に契約者の心の影とやらに体当たりして自殺するつもりだったの? ゲームを放棄してまで、たかが媒介ひとりのためにそこまでするぅ?」
 からかうような声に、蒼星石は俯いて唇を噛んだ。
「僕には僕の価値観がある」
「そうね。私には理解できないけど。美しくないもの、お父様の意思に逆らって、僅かな時間を共にするだけの媒介のために死ぬなんて」
 それは耳に痛い言葉だった。父の望みどおり究極の少女になることが彼女達の目的だったはずなのだから。
 しかし、そう言いながらきゅっと力を込める水銀燈の腕や、身体をきつく取り巻いている黒い羽にふと懐かしいような温かみを感じてしまうのは、蒼星石の錯覚だろうか。
「君だって人のことは言えないじゃないか、マスターの──」
「とにかく、貴女にやってもらいたいことがあるの。勝手に自殺されちゃ困るのよ」
 水銀燈は急に早口になって蒼星石の言葉を遮った。
 普段なら、蒼星石は水銀燈の顔に僅かばかりの焦りか照れのようなものを見出したかもしれない。しかし、今の蒼星石にそこまでの余裕はなかった。
「僕が易々と君に従うとでも……?」
「あら怖い目。でも、この体勢でそんな反抗的な口を利いても説得力ないわよ?」
「く……」
 蒼星石は絶句した。
 水銀燈は自分を固く抱きすくめていて、容易に動けない。華奢な水銀燈がしているからそうは見えないだけで、鯖折りやベアハッグに近いような按配だった。
 そのうえ黒い翼までが身体を包んでいる。その羽は何かあれば即座に自分を切り刻める。得物のない自分の不利ははっきりしていた。
 だが、言葉に詰まったのは有利不利のためではない。
 傍から見れば、熱烈に抱きつかれて親しげに囁き交わしているような姿勢だったからだ。しかも、自分自身どこかでこの状態に安心感さえ抱いている。
 そんな蒼星石の混乱を見透かしているように水銀燈は目を閉じ、くすくすと笑う。珍しく、全く険のない笑顔だった。
「分かったら落ち着いてこれからの身の振り方でもお考えなさいな」
 口を蒼星石の耳元に寄せ、相変わらずからかうような口調で囁く。
「これから……?」
「そうよ。
 契約者の望みを叶えるために命を懸けました、なんて格好付けじゃなくてね。
 じっくりお考えなさい。生きている貴女がその死にかけの老人にしてあげられることは何なのか。
 死んでしまったらそこの薔薇園も、老人の心の木も手入れをする人が居なくなるのよ。庭師の仕事は契約が終わるまで続くのではなくて?」
 蒼星石は色の違う両目を大きく見開いた。
「水銀燈……」
 暫くそのまま水銀燈の閉じた目を見つめていたが、やがて視線を逸らすと首を振った。
「……頭を冷やして、よく考えてみるよ」
 まだ、ありがとう、と素直には言えなかった。
「そうなさいな、不器用な庭師さん」
 水銀燈は目を開き、蒼星石の拘束を解いてぽんと軽く肩を押し、数歩分後ろに飛びのいた。
 ぐらりとよろめく蒼星石を駆け寄ってきた翠星石が抱きとめ、安堵したのか堰を切ったように泣き始める。黒い羽が数枚、二人の周りを舞っていた。

「真紅」
 名前を呼ばれて振り返ると、ジュンが傍らにいた。
「あいつ……なんで蒼星石を助けたんだ?」
「分からないわ」
 ただ、真紅も呆然と成り行きを見ていたわけではない。蒼星石と水銀燈の会話は小声過ぎて全ては聴き取れなかったが、蒼星石を水銀燈が説き伏せたのは見て取れた。
 水銀燈の媒介が言っていた言葉を思い出す。

 ──心の殻って、他人にいきなり破って貰わなくてもいいんじゃないかな。

 水銀燈は同じことを別の言葉で伝えたのだろう。
「どういう風の吹き回しなんだよ。それともアイツが嘘ついてたのか?」
 ジュンは雛苺が頑張って引き摺って連れてこようとしている少年を指差した。
 水銀燈がこの場で敗れた者──または蒼星石──のローザミスティカの横取りを狙っていると言ったのは他ならぬ彼なのだ。
 蒼星石を助けてしまったら、ローザミスティカは手に入らない。水銀燈の行動は腑に落ちないものだった。
「彼が嘘をつく意味はないわ。何の得にもならないもの」
 水銀燈のほうに、何か行動を変えるような判断の変化があったのだろう、と真紅は思った。その原因まではわからないが。
「今は水銀燈の行動に感謝しましょう。少し不本意だけれど」
「……」
 ジュンは不決断に黙っていたが、水銀燈をちらりと見遣ると真紅を抱き上げた。
「ジュン?」
「やっぱり僕はあいつを信用できない」
 ジュンは自分の体で真紅を庇うような姿勢になった。
「お前の腕をもぎ取って、一度は一緒に組んだ蒼星石を裏切ったりした奴じゃないか。か……感謝なんてできるもんか」
 真紅の右腕の付け根を自分の胸に押し付けるように抱き締めて、ジュンは水銀燈を睨みつけた。
「……ジュン」
 ジュンの鼓動と自分への想いを感じながら、真紅はふと、その中にかすかな危うさのようなものも感じ取っていた。

「丸々全部聞こえてるわよ。おばかさん」
 水銀燈はジュンのほうを向き、やれやれと肩を竦めた。
「ま、感謝なんて興味ないし、筋違いもいいところだけど……メイメイ」
 呼ばれて、銀色の人工精霊はするりと彼女の脇に控えると、心得たとばかり何かを召喚した。
 水銀燈の背丈の半分ほどもある両手剣だった。それを、水銀燈は無造作に放り投げた。
 唐突な行動に身構える真紅とジュンの脇を抜けて、両手剣は雛苺の引き摺っている苺わだちを両断した。
「わぷっ」
「のわぁ」
 突然のことに何がなんだかわからずに雛苺は前のめりに倒れ、苺わだちで曳かれていた水銀燈の媒介の少年はわだちでぐるぐるに縛り上げられたまま放り出され、両手剣の近くまで転がっていった。
「おはよう、人間。一晩で随分働き者になったようね」
 水銀燈は少年に若干笑いを含んだ声を掛けた。
「お、おはよってもう昼過ぎだぜ」
「定番の口答えね。それにしても、想像してはいたけど無様ねぇ」
「う……ごめん。でもなんだこの剣。こんなの持ってたの?」
 少年は不審そうに両手剣を眺めた。人間が使うには柄が細い片手剣というところか。いずれにしろ、蒼星石の鋏並に物騒な意匠の得物だった。
 水銀燈は何故か僅かに落胆したような表情になった。
「それは貴方の得物よ。どうやら忘れてしまったようだけど」
「俺の?」
 少年は芋虫のように身体を捻りながら首を傾げて見せた。全く思い至るフシが無いと言いたそうな声に、水銀燈はやや不満そうに腕を組んだ。
「ええそう。好きなように使ってとっととこっちに来なさい」
「でもどうやって使うんだか……手は縛られてるし」
 少年がぶつぶつ言いながら首を捻っていると、両手剣はひとりでに動いて苺わだちと彼の身体の間に入り込み、わだちをすぱりと切断してその場に落ちた。
「勝手に動いたの……」
 雛苺はびっくりして目をぱちくりした。少年本人も呆気に取られた表情をしている。
「なんだこれ、考えただけで切れた」
「全自動なんて便利ね。予想外だわ」
 情けない声を上げる少年が滑稽に見えたのか、水銀燈はくすくす笑ったが、すぐにそれを引っ込め、早く来なさいと少し強い調子で言った。
「勝手に抜け駆けするような媒介にはお仕置きしなくちゃね」
 少年は一瞬びくりと強張ったが、こわごわと剣を拾い上げる。

「うゅ……」
 雛苺は少年とジュンを交互に見遣った。もう縛らなくてもいいよね? という視線なのだが、ジュンは水銀燈と少年に向かって身構えていて、雛苺のほうを向いている余裕は無さそうだった。
「そんなに怖い顔しなくたっていいのよ」
 こっちを向きもしないで水銀燈の出方を窺っているジュンに、雛苺は聞こえないくらいの声で呟いて口を尖らせる。ちょっとだけ不満だった。

 この少年は怖くない。それに嘘もついていない。
 なんとなくそれが分かったから、雛苺は最初から怖がらずにお話することができたし、人見知りの翠星石もすぐに馴染めた(と、雛苺は思っている)。
 怖くなく正直者というのは、裏を返せば他人に言われるまま主体性なく、あるいは刹那的に行動していて何も考えていないだけなのかもしれない。
 もっとも雛苺はそこまで細かく考察しているわけではなかった。あくまでも怖くないと思っているだけだ。

 少年が雛苺の方を向き、ごめんな、と片手で拝むようなしぐさをして、水銀燈に向かって小走りに駈けて行く。さっき雛苺を転ばしてしまったことを謝ったつもりらしい。
「ジュンも真紅も命令しないから、ヒナ縛らなかったのよ?」
 にこにこして手を振ってから、「いいの?」と言うようにもじもじふらふらと漂っているベリーベルに雛苺は言い訳をした。



[19752] ほのぼのと。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/07/31 00:13
今回は行数は多いですが分量はいつも並です。

うーん、なかなかまとまって時間取れないので間隔が開いてますが、一日毎のペースでは1~9投稿目とあまり変わってないですね。
オリ主物は実は大して書きやすくないのか?

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「これがヤツの遺留品の山ですか……」
 翠星石は顎に手を当てて首を傾げ、買い物袋をじろじろと見比べた。
「小さいのが一つ、薄ぃーのが一つ、そして大きいけど軽そうなのが一つ……むむむ」
「中身は何かしらね」
 真紅はそう言うもののあまり興味なさげに、ジュンの膝の上に陣取って本を開いている。右腕の代わりにジュンがページをめくっていた。
「スリルでサスペンスなのー」
 雛苺は開けたくてしょうがないと言いたげに、紙でできた買い物袋をつついてみている。
「迂闊に突付くなですチビ苺!」
「うょ?」
 思わず一歩下がった雛苺の耳元に手を当て、翠星石はヒソヒソ囁く。
「ヤツにとってここは紛れもない敵地……午前中、ヤツは相当の覚悟をキメて乗り込んで来たに違いねえです。
 自分が殺されたときはこの家の全員道連れにする!
 まさに決死の潜入! です」
「ふぇ!?」
「いや、あいつ玄関から入ってきたし、思いっきりリラックスしてただろ。いきなりお前と取っ組み合ってたし」
「つまりこの中身は」
 翠星石はキッと買い物袋を指差し、睨みつけた。
「な、中身は……?」

「ずばり爆弾です……!」

「キャー!!」
「ない、ないから!」
 ジュンは空いている左手をぶんぶん振って、妄想街道を突っ走りはじめそうな翠星石を止めた。



 薔薇屋敷全体と契約者三人、薔薇乙女五人を異空間に巻き込んでの大立ち回りは、現実の時間では十分にも満たないものだった。
 水銀燈は自分の媒介の少年を羽根で突付きながらnのフィールドから去り、ジュンは現実世界の屋敷で紅茶をご馳走になった後、ドール三人を連れて帰途についた。
 帰る道すがら、結局何も起きなかったようなものですぅ、と翠星石は軽口を叩いたが、桜田家に帰ってみるとちょっとした騒動のタネが出現していた。
「ジュン君たちが帰ってくる前にお電話があったのぅ、女の子から」
 のりは困ったような顔をしていた。
「うちのバイカイからドールたちへのプレゼントらしいわよ、適当に開けちゃってねって。バイカイって何かわからないから聞き返したんだけど、すぐに切られちゃって……」
 そう言ってのりが示したのは、客間のテーブルに置かれたままになっている、少年が薔薇屋敷に行く前に渡し損ねていた手土産だった。

「このままでは埒が明かないわね。ジュン、包みを開けて頂戴」
「お前達宛ての荷物だろ? 自分で開けろよな」
 口ではぶつぶつ言いながらも、ジュンは真紅を膝に乗せたまま、小さな包みを買い物袋から取り出してナイフで丁寧にセロハンテープを切り、包装紙を開いた。
「ご本なの」
「随分小さなペーパーバックね」
「文庫本って言うんですよ。この国ではありふれたサイズです」
 ジュンが広げた包装紙の上に、翠星石が一冊ずつ本を並べた。真紅は題名を眺めて首をひねった。
「どれも随分個性的な題名なのだわ。どんな本なのかしら」
「SFだろ」
 ジュンはあまり関心なさそうに題名を眺めた。
 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』『人間の手がまだ触れない』『時間外世界』……
 知っている題名はあったが、読んだことのあるものはなかった。
「きっとこれは私かジュンに読んで欲しいということね。SFというのは読んだことがないけれど」
「『ドールにプレゼント』って言ったんだから、対象はお前だろ」
 少しだけ面白くないようにジュンは言い、今度は薄めの包みを開いた。
「これは翠星石向きのようね」
 真紅は思わず微笑んだ。
 翠星石は料理をのりから教わっているのだが、のりがいないときに火を使ってはいけないと釘を刺されている。「レンジでできるお料理入門」という題名のその本は、今の翠星石にはぴったりだった。
「翠星石おめでとうなのー」
 雛苺がふらつきながら一生懸命差し出す大判の料理本を、翠星石はぶすっとした顔で受け取った。
「ま、まあ貰ってやらんこともないです。翠星石は寛大ですからね」
 こんなもので懐柔されるほど安くもないですけどね、と言う口調は、しかし満更でもなさそうだった。
「最後のこれは……?」
 どういうわけか一番大きな包みだけは綺麗にリボンが掛っている。ジュンは気をつけてそれを外し、包装を解いた。
 覗き込んでいた雛苺の顔がぱっと明るくなる。
「お人形なのー!」
 ごく薄い透明プラのケースの中に、十センチを少し上回るほどの人形が七体入っている。だいぶ時期を過ぎてしまったアニメのキャラクター人形だった。
 実はワゴンセールで千九百円の値札が付いた在庫処分品だったのだが、そのことは買った当人しか知らない。
「ヒナだよねっ、ねっ」
 雛苺は飛び跳ねながらみんなの顔を見回した。
「なーんか一人だけ沢山ですけど……しゃーねーです。確かにチビチビが喜びそうな大きさですし」
 翠星石も雛苺が寝転がって遊んでいる人形のサイズを思い出していた。
 落書き用の画用紙やぬいぐるみなどは思い切り大きなものが好みの癖に、おままごとに使う人形は小さなものが好きなのだ。
「そうね、雛苺の好きなサイズだわ」
 言いながら、ふと真紅は首を傾げた。何か引っかかることがあるような気がする。

 五インチ=約十二分の一というサイズは、丁度標準的なドールハウス用人形の大きさだった。その大きさの人形で遊ぶことに雛苺は慣れていた。以前、雛苺が幼い少女と契約していたとき、その少女が雛苺と遊ぶときによくドールハウスを持ち出していたからだ。
 コリンヌ・フォッセーという名のその少女との暮らしは、雛苺に多大な影響を与えていた。それは雛苺本人も気付かないほど深く心に入り込んでいる。

 だが、そこまでは翠星石も真紅も知らない。知っていたら何かに気付いたかもしれないが、二人ともこのときはそこまでの推理やら憶測を巡らせることはなかった。
 ジュンが唐突に口を開いたからだ。
「雛苺」
「うぃ?」
 歓声を上げていた雛苺は、ジュンの声に訝しげに振り向いた。少しばかり思いつめたような言い方だった。
「これ、一旦僕が預かっていいか」
 その言葉に真紅と翠星石もジュンの顔を覗き込む。ジュンは先ほどまでの仏頂面を止めて、無闇に真剣な顔つきになっていた。
「ど、どうしたですかジュン、そんなに人形が気に入ったですか?」
 翠星石の言葉にジュンははっと顔を上げた。そして何故か頬を赤くしてしどろもどろに、いや全部じゃなくて半分でいいとか、雛苺の人形を取り上げてしまうつもりはないというようなことを言い訳した。
「ジュンが欲しいなら、全部ジュンに上げてもいーよ」
 雛苺はにこにこして答えた。
「ジュンの机の上に飾ってあっても、ヒナも見れるもん」
 手にとって遊べないのはちょっぴり悲しいけど、本棚や机の上に飾ってある人形たちの仲間が増えるのは雛苺にとっても嬉しいことだった。最近はそういった人形の埃を払ってあげたり、あちこちいろんな角度から見つめて意外な表情を見つけたりするのも楽しくなっている。
「……そうじゃない」
 ジュンはどういうわけかますます顔を赤くしていた。
「と、とにかく……これとこれとこれ! あとこれ……だけ、暫く、僕が、預かっとく、からな!」
 言いながら、物凄い勢いで人形をプラケースから出して抱え込んでしまう。勢いに押されて雛苺はただあいあいと頷くしかなかった。

 客間からジュンの部屋に移動してもジュンは人形をどこかに並べたりはせず、机の上に置いてパソコンを弄りだした。
 恒例の「ジュンのぼり」もすげなく断られた雛苺は、運んできたプラケースを覗き込んだ。
「うーと、残ったのは紺色と、黄色と、紫……?」
 プラケースの中には三体だけが残されていた。それを取り出して雛苺はためつすがめつしていたが、やがて何かを思いついたように叫んだ。
「あ、この紺色の子、銀髪でちょっと水銀燈に似てるのー!」
「ほえっ? な、なんてこと言いやがるですか縁起でもない」
 料理の本を広げようとしていた翠星石はびくっとして振り向き、胡散臭そうに雛苺の持っている人形に視線を向けた。
 何故か机に向かったジュンもびくりとしていたが、翠星石の視界には入らなかった。
「そう言われてみれば多少は似てなくもないですけど……銀髪って言ってもかなり白っぽいですし」
 プラケースを眺めて首を傾げ、にやりと笑って残った人形の片方を取り出した。
「それを言うならこの人形のほうが。……黄色い服に緑の髪で、どっかの誰かさんに似てるですよ」
「ほんとだー! かなりあに似てるの!」
「『水銀燈どこかしらー』」
 翠星石が黄色い人形にコミカルなポーズを取らせ、彼女達の姉妹の一人、金糸雀の口真似をさせる。雛苺はぷっと吹き出して、手に持った銀髪の人形で黄色い人形を小突いた。
「『痛いかしらー』『ふん、おばかさぁん』」
「翠星石、物真似上手なの」
「ふっ、口真似なんぞちょろいもんです。『くらうかしら! カナのおとっとき』『何よそれぇ。全然当たらないわよぉ』」
「あは、あはははは! 似てるー」

「……騒々しいわね」
 部屋の隅で人工精霊に苦労して文庫本のページをめくらせていた真紅は、呆れたように溜息をついた。栞を挟んで雛苺の隣に歩いていくと、二人がはしゃいで振り回している人形を見遣る。
「……似ているというほどではないのだわ。色遣いだけね」
 二人に聞こえない程度の声で呟くと、ケースの中に残った最後の一体を見て何かを思い出そうとするように唇に指を当てていたが、何かに得心したように頷くと、懐から時計を出して蓋を開いた。
「あら、もう二十一時を回っているわ」
 少し大きな声で言う。二人がこちらを向いて部屋の壁掛け時計を見上げているのを見遣り、ややオーバーなアクションで、そろそろ寝なくてはね、と言って蓋を閉じた。
「そうですねぇ……とっとと片付けて寝ちまいますか」
「うぃー」
 時刻が二十一時を回っているのは嘘ではなかった。三人は散らかした小物を仕舞うと、ジュンにおやすみを言ってそれぞれ鞄の中に入った。

「……やっと寝たか……」
 ジュンは念のため振り返り、鞄が三つとも閉じられているのを確認して机の上の人形を一列に横たえた。
 赤、ピンク、緑、青。服装自体はほとんど似ていないが、どことなく自分の周囲のドールたちの雰囲気がある。
 水銀燈が見たら、馬鹿じゃないの、と苦笑するか微笑するに違いない。それは、彼女と彼女の媒介が一週間でどうやら二十六話分を見終えた例のアニメのキャラクターグッズだった。
 薔薇乙女とは比較にならない、大量生産品のちいさなドール。それを見ていてジュンは何気なく思いついたのだ。

──こいつらそっくりの服を着せて、改めてそれぞれにプレゼントしてやろう。

 水銀燈の媒介である少年には、彼のプレゼントを勝手にいじってしまって悪いような気もする。だがそこは、自分への当て付けのようにプレゼントを持ってきたのはそっちなんだ、という言い分で開き直ることにした。
 初対面のくせに──自分はそうではないけれども、ドールたちとは初対面だ──なにか手土産を持って来るということ自体、どことなく胡散臭い。なら、こっちはこっちで使ってやったって別にいいだろう。そんな気分もあるにはあった。
「まず真紅からかな……一晩でどこまでやれるかな」
 ひとりごちて、裁縫道具を引出しからそっと取り出す。
「布地、あったかな……」
 色味の似た赤い布を探していると、ことん、と目の前に紺色の人形が置かれた。
「うわっ」
「あら、失礼ね。大声を立てるものではないわ」
 真紅がいつのまにか机の脇まで来ていた。
「お前、寝たんじゃなかったのかよ」
「眠れなくて起きてしまったわ、何をしているの?」
 だいたい分かっていると言いたげな口調で、真紅は机の上を見つめている。ジュンは赤くなった。
「この子達に良い衣装を作ってあげようとしていたのでしょう、恥ずかしがることはないわ」
 でも内緒にしておきたかったのね、と真紅は微笑んだ。
「もう、お前にばれちゃったけどな」
 ジュンは真っ赤になってそっぽを向いた。
「……す、翠星石たちには言うなよ」
「誰にも言わないわ、でも一つお願いがあるの」
 真紅はもうひとつ、黄色い人形もジュンの目の前に置いた。
「この子達二人にも、服を作ってあげてくれないかしら」
 それが口止め料よ、約束したら私も誰にも言わないという約束を守るわ、と真紅は微笑み、抱っこしてちょうだいと片手をジュンに伸ばした。
「……うん」
 ジュンは真紅を膝の上に座らせると、表情を引き締めて作業を始めた。



[19752] 酷暑のためペースダウン。。。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/08/03 12:25
今回は暑さに悩まされ申した。
クーラー無い地獄の中で書いてるため、はっきり言って頭が回りません。
季節だけを2ヶ月進めたい。まじで。

8/3 12:25くらい
最後のあたり、説明不足であまりにもわけわからん部分を校正。

****************************


「あれ……ここはどこです……?」
 無数の扉が浮いている空間に翠星石はぽつんと立っていた。
「あれは夢の扉」
 そうですか、と合点して小さく頷く。ここは人々の夢と夢の狭間、人々の夢が混在して在るところ。
 それが分かると、ちょっとした悪戯心が湧いてくる。
「折角だからチビチビの夢でも覗いてやりますかねぇ」
 彼女がこうしたところに迷い込むのは初めてではない。夢の庭師としての力がそうさせるのか、まどろんだときにごく近しい人の夢の扉がある場所に出てしまうことは何度かあった。
 開けてみなければ誰の夢の扉かは分からないが、今まで開けた扉は全て、精神的にも物理的にも近い位置にいる人の夢に続くものだった。恐らく自分にとって近しい人の扉ほど近く、遠くに行けば行くほど縁遠い人の夢なのだろうと翠星石は理解していた。
 自分に一番近い存在は、いま一緒に暮らしている桜田家の面々。それでなければ、蒼星石しか思いつかない。
 人見知りを自認する翠星石が全く躊躇せずに適当に手近な扉を開けたのは、そういう理由があってのことだった。

「……なんですか、ここは」

 しかしそこに広がっていたのは、彼女が想像していたような光景ではなかった。
 がらんとしてほとんど何もない暗い空間に、白い髪の人形が仰向けに横たわっている。
 恐る恐る近づいてみると、球体関節人形らしいことが見て取れた。大きさは自分と同じくらい。塗装されているのか、腹部だけが暗い背景に溶け込んで──
「ひっ」
 もう一歩進んだところで翠星石はびくりと立ち止まった。
 人形が目を見開き、こちらを見ている。
 ピンク色の虹彩、シャギーの入った前髪、そしてまるで生きているような顔立ち。
「──」
 それは何かを言いたげに口を開け、右手をこちらにゆっくりと動かす。
 翠星石は異様過ぎる光景に、思わず数歩あとずさった。視線は魅入られたようにそれに固定されていて、外すことができない。
 やがて、もがくようにこちらに寝返りを打つと、それはゆっくり立ち上がって……いや、立ち上がろうとしてがしゃんと崩折れ、胸から上と腰から下が泣き別れになった。
 腹部は、塗装されていたわけではなかった。その球体関節人形には、腹部そのものがなかったのだ。
 上半身はこちらに頭を向けてうつ伏せに転がり、下半身はそれと百八十度捩れた体勢で、腰の空洞を薄暗くこちらに見せながら倒れた。
 だが、やがてそれらはまたもぎりぎりと音を立てるように動き始め、上半身は不器用に手で這いながら、下半身は蠢くように不恰好に這いずりながら、それぞれがこちらにじりじりと……

「──っ」

 そこまでが限界だった。
 目を瞑り、竦んだ足をどうにか動かして回れ右を──しようとしたとき、後ろから伸びてきた手が彼女の肩を叩いた。
「ひぃぃぃぃっ!」
 びくんとして、思わず数センチ飛び上がる。だが、案に相違して、聞こえてきたのは聞き慣れた声だった。
「あら、ご挨拶ね翠星石。そんなに怖がられるなんて、むしろ光栄というべきかしら」
 笑いと毒気を含んだ声。こわごわと目を開くと、にやりと笑う黒衣のドールがいた。
「す、水銀燈……?」
「貴女も酔狂な趣味を持ってるものね」
 水銀燈は失笑する寸前の表情で翠星石の顔を覗き込んだ。
「よりによって、私の媒介の夢を覗くなんて」


 上下が分離してしまった人形を、水銀燈は丁寧に元のように寝かせた。人形はぶつぶつと呟きながら力なく抵抗していたが、下半身と上半身が(腹部の長さほどの距離をおいて)揃うと、やがて安堵したように紅い目を閉じて静かになった。
 水銀燈は翠星石に背を向けたまま人形の手足を真っ直ぐに伸ばして揃え、あやすようにその髪を撫でた。
「……意外です……」
 翠星石はふと思ったままを呟いてしまった。
「何が?」
 水銀燈は振り返りもせずに尋ねた。翠星石はびくりとして両手で口をふさぎ、しまったという表情になったが、もう一度尋ねられて口を開いた。
「……出来損ないとか言ってぶっ壊しちまうと思ってたですよ」
 嘘を言っても仕方がない。正直に彼女は答えた。
 翠星石が認識している水銀燈は、ある意味完璧主義者だった。役に立たないもの、穢れたものは「みっともない」と捨て去ってしまう。自分の媒介の夢の世界の中とはいえ、こんな怪談じみた人形を大切に扱うのは彼女らしくない。
 なにか謂れのある人形なのか、なにがしかの利用価値があるのか、それとも。
「なんか悪いモンでも食ったんですか」
 言ってしまってから翠星石は青くなった。つい、いつもの癖で一言多くなってしまったのだ。怒り狂った水銀燈に羽で縛り上げられるかもしれない。
「貴女、どこまで人を凶暴なイメージで捉えてるのよ」
 水銀燈はこちらを振り向いてわざとらしい溜息をついたが、案に相違して怒りの表情はそこにはなく、ただ呆れたような顔をしているだけだった。ただ──
「壊すには惜しい価値があるから壊してないだけ、かもしれないけれどね」
 そう笑う横顔にはいつもの獰猛さが戻っている。余計な一言はなるべく慎もう、と翠星石は思った。

「始まるわ」
 水銀燈は立ち上がり、上を向いた。
「何がです?」
 釣られるように翠星石もその視線を追う。しかし、見上げてみてもこの夢には夜空もなければ太陽もなかった。漠然としたものが広がっているだけだ。
「夢の切り替わりよ」
 水銀燈がそう言った瞬間、夢の世界は大きな一室に変貌した。
 全く同じパイプ机が何十個も並んでいる。一方の壁には大きな窓があり、開放的な雰囲気の部屋の中はざわめきで包まれていた。
 ジュンが夢の中で着ている服と同じものを着た少年達と、つい数日前に初めて逢った雛苺の元契約者──柏葉巴──と同じ水兵服を着た少女達が大勢、それぞれ何人かずつの小さなグループに分かれてお喋りをしている。
「学校、ですか」
「今日はそんな夢みたいねぇ」
 水銀燈はあまり関心もなさそうに言い、手近にあった大きな机の上に腰掛けた。それは教卓なのだが、翠星石は名前を知らなかった。
 翠星石はなんとなくその机に隠れるような位置に移動する。
「凄い人数ですねー……」
 夢の中とはいえ、あまり大勢の人間が出てくるところは得意ではない。翠星石は身体を縮めるようにして教卓の陰から周囲を見回した。
 そして、あるものを目に止めて大きく目を見開いた。
 ローザミスティカのかすかな脈動が、急にはっきりと聞こえてくる。人間なら「心臓が高鳴る」というところだろうか。
「三、四十人ね。ひとクラス分よ」
 今は授業の合間か昼休みってところかしらね、と水銀燈は言い、つまんないわぁ、と一つ伸びをして、組んだ足の上に肘を置き、上に向けた掌に顎を乗せた。
 しかし、翠星石にとってはつまらないどころの話ではなかった。
「……ジュンがいるです」
 ジュンは、水銀燈の媒介の少年の近くにいた。家で見せるのと同じ、あからさまに機嫌が良くない顔つきで机に座っている。
 思わずそこに近づこうと歩き出し、こちらに来る少女にぶつかりそうになって仔リスのように慌てて机の下に逃げ込む。水銀燈がそれを見て笑ったが、それも耳に入らなかった。

 何度かそんなことを繰り返して、翠星石はジュンと少年の声が聞こえるところまでどうにか辿り着いた。
「──久しぶりの学校だって悪くないだろ?」
 少年が屈託なく笑いながらジュンに言っている。ジュンはぶっきらぼうに生返事を返すと、照れたようにそっぽを向いた。
「気分いい時だけでいいからさ、たまにゃ出てこいよ」
「……ああ」
「クラス換えして、お前んとこイジった連中は別のクラスになったし」
「……うん」
 そこで少年は人の悪そうな笑みを浮かべ、ジュンの耳に手を当て、もう片方の手で誰かを指し示しながら囁いた。
「あいつも待ってるぜ」
 ジュンは顔を上げ、少年の指差すほうを視線で追いかける。翠星石はそのジュンの視線の先を更に追いかけた。
「なっ!?」
 ジュンの顔がぼっと音を立てそうなほど赤くなる。そこには、翠星石も知っている顔──雛苺の前契約者、柏葉巴がきょとんとした表情でジュンたちを眺めていた。
 胸の中に何とも言えない感情が湧き出るのを翠星石は訝しく思った。今まであまり経験したことがないような、腹立たしいようで切ないようなもどかしい気分だった。

 少年はそんな観客がいることを知りもせず、さっと身を引いて、にやにやしながらとんでもない事を言った。
「ま、でも出て来たくない気持ちも分かるぜ」
「……どういう意味だよ」
「なにしろ、お前ん家には恋人が三人もいるもんなぁ。完璧少女の真紅、可愛い妹の雛苺、それと──」
 恋人。ジュンの恋人。
 翠星石はごくりと生唾を飲んだ。顔は真っ赤になっているのが自分でもわかる。
 自分は一体なんだろう? 小さな淑女? ちょっぴり恥ずかしがり屋のお茶目さん? それとも──

「──熱き漢の魂を持つ女、翠星石!」

「何頓珍漢なこと言ってやがるですかっこの馬鹿人間!」
「いてっ、いてててて、向う脛蹴るかよ容赦ねーな翠星石さん!……て、翠星石?」
 少年は脛を押さえながら、信じられないものを見たと言いたげに翠星石を見つめた。
「すっ、好き勝手言ってんじゃねーよです! 翠星石はローゼンメイデン第三ドール、花も恥らうれっきとした乙女です。熱きオトコとかそういう蒸せそうな存在とは無縁です!」
 茹で蛸のように真っ赤な顔で、翠星石は力説した。
 少年がなんと反応していいのか分からずに目をぱちくりさせていると、水銀燈が教卓の上から滑るように飛んできて彼等の脇の机に座った。
 少年はああそうかと長い息をつき、気の抜けたような声で呟いた。
「水銀燈、やっぱり毎晩夢に入り込むのは止めてほしいなぁ」
 水銀燈はそれには答えず、いいものを見せてもらったわ、とにやりと笑った。


「お馬鹿さんね、あれは私の媒介の夢の中の虚像のひとつ。貴女の契約者じゃないのは分かっていたはずでしょう?」
 窓枠に腰掛けながら、水銀燈はくすくすと笑った。
 安物のテーブルの、これまた安物の椅子に腰掛けた翠星石は口を尖らせたが、黙っていた。水銀燈の媒介の少年が見ていた夢の中に出てきたジュンは──もちろん、本物ではない。夢の主が好き勝手に構築した偽者だ。
 分かっていたのに、その姿を見つけただけでどきどきしてしまったし、少年が自分をジュンになんと紹介するか、などという些細なことで羽目を外してしまった。「心の専門家」としても恥ずかしい。
 これ以上、この性格の悪い長女に言質を与えるわけにはいかない。必要最低限以外のことは口に出さず黙っているべきだ、というのが翠星石の考えだった。
 幸いにも水銀燈は翠星石にそれ以上ちょっかいをかけようとはせず、すぐに用件に話を移した。
「ところで、聞きたいことは何なのかしら」
 翠星石は布団に丸まっている水銀灯の媒介に視線を向けた。水銀燈もちらりとそこに目を遣り、割と寝つきは良いほうだから気にしなくていいわよと言った。

「……さっきの夢のことです。切り替わりとか、あの……人形とか」

 それが聞きたいから、翠星石はわざわざここ──現実空間の少年の家に乗り込むような真似をしたのだ。

 少年の夢は、翠星石と水銀燈が現れたことで破れた。最近、毎日のように夢の中に入り込んでは監視している水銀燈に辟易しているらしい少年は、一旦目覚めることを選んでしまったのだ。
 夢の世界が消えていく中、あっさりと「戻るわ」と言って去ろうとした水銀燈を、翠星石は、聞きたいことがあると引き留めた。
 翠星石としてはnのフィールドの中の何処か適当な世界を借りればいいと思っていたのだが、水銀燈はやはりあっさりと、ならば自分達の部屋に来いと言った。
 二人は光沢仕様のパソコンのモニターを通り、この狭くてあまり綺麗とは言えない部屋にやって来たのだった。

「人形ねぇ。何から話せばいいのか分からないくらい長い話になるわね」
 満更茶化しているだけとも思えない言い方で水銀燈は肩を竦めて見せた。
「長くて込み入っている割に、中身がなくて面白くもない話よ。それでも聞く?」
 翠星石はまじめな面持ちで頷いた。最近の若干不可解なことがらが、全てそこに繋がっている。何故かそんな気がしたからだ。
 水銀燈はやれやれと言いたげに天井を見上げ、彼女の言ったとおりの長い話を始めた。



[19752] 南山。じゃなくて難産。
Name: 黄泉間信太◆bae1ea3f ID:d11f58f6
Date: 2010/08/06 18:27
谷先生の新刊(覇者の戦塵シリーズ)が月内に出るらしい。
その頃までには内容的に一区切りにしたいところです。

しかしこれだけの駄文を書くのにこんなに時間掛ってていいのだろうか。

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 昔々あるところに、一人のきちがい人形師がいました。後に素晴らしいオートマータを何体も作りだすことになる、たぐい稀な業の持ち主でした。
 いつの頃からか、その工房の隅の作業台の上に、一体の作りかけの人形が居りました。
 人形は、ほとんど完成していました。白い髪も、薄紅色の眼も、他の人形達に優るとも劣らない出来栄えでした。でも、肝心の、胴の部分がありませんでした。人形師がすぐに次の人形を作り始めてしまったからです。
 人形師は、素晴らしい人形を次々に作り出しました。ぜんまいのネジを巻くと動き出す、最高のオートマータです。人形達はみんな綺麗に造作を整えられ、人形師の手で優しく抱かれて工房を出て行きました。
 作りかけの人形は、工房の隅の作業台の上で埃をかぶったまま、美しく完成した自分の妹達が人形師と共に出て行くのを、いつもただじっと見守るしかありませんでした。
 どうして、自分だけ完成させてもらえないのだろう。
 作りかけの人形はいつも、そう思っていました。悔しかったのです。だって、胴の部分さえあれば、自分も妹達に負けない美しさを持っているのだし、自分のドレスさえももう出来上がっていて、工房の中に飾ってあるのですから。
 あるとき、人形師は、今までで一番素晴らしい人形を作り上げました。
 人形師は、いつもよりもっと念を入れて人形の仕上げをしました。やがて、いつものように完成した人形を抱き上げると、大きな鞄を片手に持って、工房を出て行こうとしました。
 作りかけの人形は、それをじいっと見つめていました。そして、動かない口で必死に叫びました。
 『待って、行かないで。私も連れて行って』
 すると、どうでしょう。動力も入れられていないのに、作りかけの人形の身体はぎしぎしと動き始めたのです。
 作りかけの人形は、必死にかいなを上げました。届かない人形師の背中に手を伸ばしました。立ち上がろうと、身体を前に動かしました。
 でも、やっぱり人形は作りかけのできそこないでした。すぐに前のほうにのめり、そして、胸から上だけが作業台から床に転げ落ちました。胴の部分がないから、立つこともできないのです。
 それでも、できそこないの人形は人形師を追いかけて、両手だけで人形師のほうに這いずりました。
 『お父様、お父様、連れて行って。私を作って、妹達のようにここから連れ出して』
 その目の前で、扉がばたんと閉まりました。人形師は、作りかけの人形のことなど気にも留めていなかったのです。
 工房の木屑だらけの床の上に、できそこないの人形の涙がぽたぽたと跡を残していました。
 」

「──それがさっきの人形なんですね」
「そういうことになるわね」
「……可哀想なお話ですぅ」
 翠星石はもらい泣きしそうな顔になって視線をテーブルの上に落とした。天邪鬼な振りをしているものの、根が素直な性格の彼女にはじんと来る話だったらしい。
「夢の中にあんな風にぽつんと出てくるなんて、その人間はとってもそのお話を気に入ってたんですね」
「ええ」
 水銀燈は吐息のような声で肯定した。
「でも聞いた覚えがない話です……なんていう童話なんですか」
「『Rozen Maiden』ってアニメよ。その中の『Overture』って話ね」
 翠星石はオーバー気味な身振りでテーブルに突っ伏した。
「まじめに教えてくださいです。せっかくいいお話だと思ってましたのにぃ」
「間違えてないわよ」
 口を尖らせる翠星石に、水銀燈は皮肉な微笑を浮かべた。
「そして作りかけのドールは、ローゼンメイデン第一ドールとなる『水銀燈』……」
「だーかーらー!」
 翠星石はテーブルを叩こうとしたが、水銀燈の媒介の少年が布団を敷いて寝ていることを思い出して、行き場を無くした拳をぶんぶんと左右に振った。
「いくらなんでも水銀燈が作りかけじゃないことくらい知ってます。それに翠星石たち……私と蒼星石より先に世の中に出ていっちまったじゃねーですか」
 結構覚悟キメて来たんですからまともに話してください、と翠星石は顎をテーブルに載せて水銀燈を睨みつけた。
 水銀燈はそんな翠星石の視線には構わず、微笑を浮かべたまま淡々と話し続ける。
「契約者として人工精霊に選ばれた者が『巻かないこと』を選んだら、世界はそこで分岐する。幾つもの世界が平行していくけれど、私達ローゼンメイデンは常に一人ずつしか存在しえない……貴女も知っているでしょう」
「そりゃ知ってますけど、いきなり何を……」
「では、その外側に私たちが認識できない別の世界があったらどう? そこは、私たちがフィクションの産物として存在しているところ。現実的な形ではなく、活字の上や映像上の登場人物という形でね」
 水銀燈は肩を竦めた。
「私自身まだ疑問が残ってるけれど、とにかく、そういう世界は存在するのよ。そして、そこで寝てる媒介は、その世界のとある住人が死ぬと同時にこの世界に生まれ変わった異邦人ってわけ」
 翠星石はぽかんと水銀燈の顔を眺めていた。あまりにも現実離れしていて、うまく話が繋がらない。
「そういうことがよくあるのかは分からない。でも、そいつの場合明らかに普通と違ったところがあるわ。それは前の人生の記憶をそっくりそのまま受け継いでいたこと」
 翠星石は斜め下を見た。水銀燈の媒介の少年は、二人がひどくシリアスな話をしていることを知りもしないように眠っている。
 異邦人と言われても実感が湧かない。確かにおかしな、というよりも何かが欠如しているようなところはあるが、少年に前の人生の記憶があって行動しているようには思えなかった。
 彼の行動はどちらかといえば刹那的というか、衝動的な風にさえ見えたのだ。
「そいつの愛読していた漫画のひとつが『ローゼンメイデン』。呆れるほど詳細に記憶に残っていたわ。意識上ではそれほど鮮明に覚えていたわけではないでしょうけど」
「……アニメじゃなかったんですか?」
「元々は漫画だったようね。それがアニメにもなったってわけ。貴女達の好きなくんくん探偵だって人形劇がオリジナルで、絵本や漫画、小説まで作られているでしょう? 順番は逆だけど、同じことよ。
 アニメのほうは私達の現実とは近いけれど、細部は懸け離れているわ。例えば貴女達双子の契約者が没落貴族ではなくて、どこかの時計屋の老夫婦だったり、『水銀燈』がさっきの人形だったりね」
 だいたい分かるかしら、と水銀燈は念を押した。翠星石はこくりと頷いた。

「でも漫画は違う。私達の現実とごく近かった。少なくとも薔薇屋敷の一件までのところは殆ど一致していたわね。
 明確に違っているのは、漫画では私の媒介がそこの異邦人ではなくて病弱な少女だったことくらい。
 そしてもう一つ困ったことに、漫画はもう少し未来のところまで描かれていたってわけ。
 ──つまり、そいつはこれから何が起こるか知っていたのよ」

 それなのにそいつは何もしなかったのよ、と水銀燈はやや呆れたような声で言った。
「もちろん契約したときも、他の契約者とは違って螺子を巻いたら何が起きるか明確に知っていたことになるわね。……何もしないのなら螺子なんか巻かなければ良かったのに」
 翠星石は黙って下を向いた。
 水銀燈の言い分は正しいのだろう。
 契約者といっても一つの典型には収まらない。薔薇乙女と契約して狂ったように愛玩する者もいれば、彼女たちの戦いに身体を張って介入する者もいる。蒼星石の契約者のように自分の目的を果たすための道具として見てしまった者もいる。
 しかし今後のことを知っていても手を出さないというのは、それらとはどこか違っている。ドールに対する執着が薄いか、見世物でも見ているような気分だったのだろうか。

──でも変ですね。

 翠星石は内心首をかしげる。
 その人物像と、自分が見たこの少年のイメージとが全く繋がらないのだ。むしろ反対に、そういった知識があれば何処かに向かって暴走していきそうな性格にしか思えない。
 そのことを問い質すと、水銀燈はあまり面白くなさそうな顔つきになった。
「もう一度質問するわよ。ここからが長くてつまらない話になるけれど、それでも聞きたいかしら」
「覚悟キメて来たって言いましたよね? バッチコイです」
 椅子の上でふんぞり返る真似をすると、安物の椅子がぐらりと揺れた。翠星石は慌ててテーブルにしがみついた。
 水銀燈はその様子を見ても笑いもせずに、少年と契約してからの経緯を話し始めた。



 開いた窓から夜の風が吹き込んできた。
 翠星石は水銀燈が寄越したオレンジジュースを吸いながら、机の上のデジタル時計に視線を向けた。
 既に時計の表示は日付をまたいでいた。
 普段二十一時には寝てしまう翠星石が水銀燈の話をここまで聞き通せたのは、一応一旦寝て起きた形だからというよりも、水銀燈が語った内容が自分達の過去から未来にまで亙って関係することがらだったからだろう。
 いくら一度眠った後とはいえ、そんな重大な内容でなければ話の半ばで船を漕いでいたに違いない。
「どう? 少しは話が見えてきたかしら」
「……」
 翠星石はこくりと頷いてストローから口を離し、水銀燈の長話の間もほとんど寝返りも打たずに気楽な顔をして眠っていた少年を見遣った。

「可哀想な奴だったんですね、この人間も」

 水銀燈は眉根を寄せた。もう少し別な感想が出てくるかと思ったのかもしれないが、斜め下の媒介の頭の辺りに視線を向けただけで何も言わなかった。
「翠星石の頭は欠陥品かも知れんです。今の話を聞いても、真紅や蒼星石みたいに冷静にパッパと整理はできないです」
 翠星石は音を立てないように注意して椅子から降り、少年の布団のほうに歩み寄った。
「ただなんていうか……」
 煎餅布団に横たわり、毛布にくるまって太平楽な表情で寝ている少年の頭の近くに座り、水銀燈を見上げる。
「こないだ、おじじの屋敷に行った日、こいつがいきなりペラペラ喋りだした理由だけは分かった気がするですよ」
 翠星石は数日前のことを思い出していた。
 いきなり現れた、契約者の指輪を嵌めた少年。蒼星石のことをいやによく知っていたこと、やけに子供っぽい振る舞いをしていたくせに蒼星石の意図の説明のときだけは立て板に水といった調子で喋ったこと。
「あれはきっと、伐り倒しちまった心の木の最後の残りカスってやつだったんですねぇ」
「そんなところでしょうね、きっと」
 水銀燈は目を細め、くすりと人の悪い笑みを浮かべた。
「それも結果的には貴女達を振り回す誤情報に過ぎなかったわけだけど」
 そこは翠星石も苦笑するしかない。
 水銀燈が蒼星石の無茶を止めるという、他の皆にとって良い方に転んだ形で終わったからいいようなものの、少年の持ち込んだ「水銀燈が敗者のローザミスティカの横取りを企んでいる」という話は肝心なところが間違っていたわけだから。
「でも、翠星石の言葉がきっかけで、おじじが本当の気持ちに気付いたのなら──」
 少年がもぞもぞと動いて向こうに寝返りを打った。翠星石は驚いて一歩下がったが、動きが止まると近づいて少年の肩に毛布を掛けなおしてやった。
「こいつのやったことも、全部無駄になったってわけでもないですよ」
 あの日、蒼星石に鋏を構えられたとき、翠星石は少年が言った「本当の願い」を結菱老人本人に思い出させようと声を上げた。
 それが結菱老人に何等かの影響を与え、結果として老人が閉じられた記憶に辿り着けたのであれば、少年のしたことは必ずしも無意味というわけではないはずだ、と翠星石は水銀燈を見上げた。

  水銀燈は翠星石の顔を見つめ、一拍置いて黙って頷いた。
  漫画でも同じタイミングで老人は「本当の願い」を思い出している。そこに翠星石の台詞はなかった。
  だから、実のところ翠星石の言葉は言っても言わなくても同じだったのかもしれない。媒介の行動は全くの無意味だったと言ってしまってもいい。
  だがそのことを教えて翠星石を落胆させたところで、何がどうなるわけでもない。
  それに、この現実と漫画で、老人の心理が完全に同じとは限らない。この世界では、老人は本当に翠星石の言葉で思い出すきっかけを得たのかもしれない。正確なところは時間を巻き戻して検証してみなければ分からないことだ。
  どちらとも言えることなら、翠星石は翠星石の望む解釈を信じていればいい。余計な口を挟む必要はない。真実は人の心の数だけ存在していいのだから。

  問題は、事実がどうなのかが重要になってくることがらの方だ。
  例えば、アリスゲームの真の意味、狙い、といったような。
  それは少年の知識の中にもない、しかしその知識を得て否が応でも考えざるを得なくなったことがらでもある。

「もう一つ確認したいことがあるです」
 いいですか、と翠星石は上目遣いに水銀燈を見上げ、水銀燈は飲みかけていたジュースのコップを置いて、どうぞと返した。
「毎日夢の世界を覗いていたのは、こいつの記憶を……」
 そうよ、と水銀燈は頷いた。
「昔の記憶に強く依存して生活していたせいね。そこがごっそり心から抜け落ちたから、今のそいつの記憶は残りの部分まで穴だらけ。
 それだけならまだ良いのだけど、整合性を取るために残った記憶で強引に辻褄合わせをしてしまうの。スカスカになった部分なんかは無茶苦茶になりかけてるわ」
 だから、なるべく事実に沿うように調整してやるために媒介の夢の扉を開けているのだと水銀燈は言った。
 本来許されるべきではないことかも知れないが、事情が事情だけに看過できないのだと。
「都合のいい嘘で塗り固めた世界が完成したら、目も当てられないものね」
 あの爺さんみたいに、と言われると、翠星石としても頷かざるをえない。
 結菱老人は自分が恣意的に忘れてしまった記憶の辻褄を合わせるために、逆恨みに近い形で昔の想い人を恨み、生きていると分かって手に掛けようとし、それに蒼星石と自分は振り回されてしまったのだ。
 今現在の契約者があんな風になってしまうのを見過ごすことは、翠星石にもできないだろう。
「夢が切り替わるまで──あの人形がいる空間が見えている間のことよ──それが、意識下で辻褄合わせが一番活発にされているときのようね。切り替わってからの夢は、いつもかなり鮮明ではっきりしているわ」
 さっきのようにね、と水銀燈は笑い、翠星石は顔を赤くした。
 まるでテレビドラマの場面を見るように鮮明で精細な光景だったから、思わずその中にいたジュンに我を忘れてしまったのだ。
「いつもはもっと混沌とした状況よ。なまじ鮮明だから余計酷く見えるってのもあるわね」
 伐った晩の記憶なんかは毎回筋書きが変わって迂闊に手を付けられないわ、と水銀燈は肩を竦める。
「ただ、学校の教室が舞台のときは別。大抵貴女の契約者が出てくるのよ。あんな風に話し掛けたのも初めてではないわ。
 過去の記憶があまり関わらない部分で、ずっと気に掛けていたのかもしれない。俗な言い方をすれば「目下一番気がかりなこと」ってわけね」
 契約したドールよりも他のドールの契約者の方が大事なんて呆れたものよ、と言いながらも、水銀燈は満更でもない表情をしている。
 それは、何事にも根本的には無関心で積極的な興味を示さなかったように見えた少年が、昔の心の木を伐ったことで多少は周囲に目を向け始めたことを、水銀燈自身無自覚のうちに喜んでいることの現れだったかもしれない。
 もっとも、翠星石はそこに気を回す余裕はなかった。
「……そうですね」
 ジュンが不登校になった原因を、翠星石はおぼろげながら理解していた。真紅の腕を取り戻したとき、彼の記憶から来る痛みを共有していたし、日常の何気ない会話からも少しずつ経緯の断片を窺い知ることはあった。
 真紅は恐らくもっと的確に知っているのだろう。自分よりずっとジュンに近いから。
「ま、あれは過去の記憶でなくて今の願望だから、私が手を付ける必要はないところよ。
 ただ、お気をつけなさい。あの日よりはだいぶマシになってきたけど、まだ行動に抑制が効かないから。また乗り込んでいってひと騒動起こすかもね」
 内向きに落ちそうになった翠星石の思いを知ってか知らずか、水銀燈はそんな言葉で話を締めくくった。
 翠星石は顔を上げ、大丈夫ですと不敵な笑みを浮かべた。
「失礼なことをやらかしたら、翠星石がしばいてやるです。なにしろ相手が水銀燈の媒介ですからね、何かあれば容赦無しですよ」
 その途端、少年が大きく寝返りを打って翠星石の方を向いた。翠星石は小さな悲鳴をあげて机の下に逃げ込んだ。
 頼もしいこと、と水銀燈は唇の端を上げて笑った。



[19752] 約120行。まだ平均的?
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/08/10 10:34
リアル条件が良くない割にはあまり行数が減らない感じです。

ジュン君含めみんなが水銀燈に対して刺々しくないのは、資料としてYJ連載分の影響があります。
水銀燈の方で会うたびに喧嘩を吹っかけず、柔軟に相手している余裕があれば、BIRZ版時代でもさほど強く敵対しなかったのではないか?と。

まあ、原作水銀燈は最初からめぐのためにアリスゲームをやってる感があるので、マスターが変わっただけでだいぶ変わるのかもしれませんが。

※8/10 10:35頃 なんか終わりの部分がわけわかめなので整理追加。
 10行ほど増えました。

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 5体目の人形の服が仕上がった。
 ジュンは大きく伸びをして、凝り固まったような身体をほぐした。
 最近、立ち上がろうとしてちらりと後ろの鞄の様子を窺うのが癖になってしまっている。言うまでもなく作業しているところを真紅以外のふたりに見つからないようにするためだ。
 今夜は三人とももう寝入っている。鞄を開けて起き出していることもなかった。
 ジュンはほぅと小さな安堵の息をつき、机の上を手早く片付けた。
 小さな布地を手縫いするのは慣れていたが、真紅以外のドールに見つからないように作業時間を取るのが大変だった。
 夜、彼女等の寝入った後か昼寝の時間を利用していたのだが、どういうわけか最近翠星石が夜の散歩を覚えたらしく日付が変わる頃まで鞄に入らなかったり、昼間は昼間で今仕上げた黄色い人形のモデルが来訪し始めたりと、予定は狂いっぱなしだった。
 ジュンは少し恨めしげに今仕上げた服を人形に着せ始めた。金糸雀という名前の第二ドールは雛苺や翠星石といい仲間のようで、昼間やってきては夕方まで遊んで帰っていく。
 お陰で雛苺と翠星石の昼寝の時間はあったりなかったりで、ジュンとしては中々工作をする時間が取れなかった。
 毎日1体分ずつ作って行けるだろうという目論見はすぐに崩れて、もうあれから二週間以上経ってしまっている。
 それでもここまでは、見本が向こうからいくらでも纏わりついてくるから模倣するのが楽だった。

──あとは、あいつか……

 最後の一体が大問題だった。
 ジュンは引出しを開け、紫がかった濃紺の服を着ていた小さな人形を手に取った。今は元の布を取り去り、ドロワーズだけを履かせている。
 軽くカールが掛っていてやや多目の白い髪は、モデルどおりに輝くようなストレートの銀髪に代えてある。ペイントされていただけの瞳も刳り貫いて自作した小さなアイを入れ、顔の輪郭も地のポリ材に穴があかない範囲で多少整形している。
 実のところ作業が遅延している理由の一つには、他の人形も同じような改造をしていたから余分に時間を食っているという側面もあるにはあった。だが、作り始めるとそういった些細な部分がどうしても気になって仕方ないのだった。
 作るものに安易に妥協しないというか、凝り性というか、彼らしい一面ではあった。

──顔やヘッドドレスは作れたけど、あの服は実物を見ないとどうしようも……

 一度は手を付けたのだが、どうしても上手い具合に頭の中で裁断図が浮かばない。それで送り送りになってしまって、とうとう最後に残ってしまったのだ。
 ジュンにしてみれば、元々真紅に言われなければ作る予定もなかった分だし、そもそもモデルの水銀燈本人に対していい感情は持っていない。
 ならばいっそのこと適当に作ってしまえば良さそうなものだが、そういう選択肢は彼の心には浮かんでこないようだった。
「どうしたもんかな……」
 小首を傾げたものの、いい思案は浮かんでこない。眠気もかなり強くなってきている。
 取りあえず今日は寝よう、と点けっぱなしになっていたパソコンの電源を切ろうとしたとき、モニターの画面が波打つように歪んだ。
 はっとして飛び退き、回転椅子の背もたれの陰に身を縮める。
「まさか……また?」
 彼の懸念どおり、瞬く間に画面は半球状に膨れ上がった。

「ごきげんよう、人間。客観的な時間では371時間23分ぶりね」

 モニターの画面が破裂するように黒い羽が噴き出し、そこからうっそりと微笑みながら出てきたのは、彼がまだ右手に握ったままの小さな人形のモデル。水銀燈本人だった。

「な、何の用だよッ。真紅たちならもうみんな寝てるぞ」
 ジュンは椅子を盾にして、というよりは椅子の陰に隠れて水銀燈の様子を窺った。彼女は以前ここに現れたときと同じように笑いを顔に貼り付け、机に腰掛けてこちらを眺めている。
「そう、真紅も寝てるの。それは丁度良かったわぁ」
 とは言っているものの、眠りに就いている時間を狙って来たに違いない。もう時計の針は夜中の一時をとうに回っている。
 とすると、彼女の目的は……
「言わなくてもお分かりのようね。貴方に用事があって来たの」
 さすがにうちの媒介とは違うわね、と水銀燈は机を降り、ジュンの隣に歩み寄る。
 ジュンは素早く椅子を回して距離を取った。
 水銀燈が逆に回る。ジュンは椅子を回してその反対側に動く。
 そんなことを数回繰り返すと、水銀燈は肩を竦めて椅子の上に飛び乗った。背もたれを掴んでいるジュンの手を、水銀燈の小さな手が、しかしかなりの力で押さえる。
 二人は背もたれ越しに顔を合わせた。正面から至近距離で見詰め合う形になって、ジュンは思わず視線を逸らした。
「……前言は撤回するわ。案外似たようなものねぇ」
 ジュンは頬を赤らめた。くすくすと笑う声の邪気の無さに、なんとなく気恥ずかしさを感じてしまったのかもしれない。

「それで……何の用なんだよ」
 結局こうなるんだな、とジュンはティーカップを水銀燈の前に置きながら口を尖らせた。
 水銀燈はちらりとそれを眺めただけで、手を付けようとはせずにジュンを見詰めた。
「勿体ぶった話は得意じゃないから、用件から言わせてもらうわ。──取引しない?」
「取引? ぼ、僕が?」
 吃るほど大層な話じゃないわよ、と水銀燈は黒い羽根を一枚拾い上げ、指で弄んだ。先ほどパソコンの画面から出てきたときにばら撒いた羽根だ。また掃除しなきゃいけないのか、とジュンはちらりと考える。
「そう、貴方の可愛いお人形について、ね」
 気のない風の水銀燈の言葉に、ジュンの肩がびくりと震えた。
「お前、これ以上まだ真紅を……」
 あら怖い顔、と水銀燈は笑う。
「でも早とちりしない方がいいわよ? 用件は確かに真紅のことだけれど、あの子をどうこうしようって訳じゃないわ。むしろ逆」
「逆って」
「それのことよ」
 水銀燈は弄んでいた羽根を人差し指と中指の間に挟み、手首のスナップを利かせてダーツのように飛ばした。羽根は部屋の隅に向って飛び、歪んだ鳥籠に当たって床に落ちた。
「それを、元通り真紅に戻す方法を教えてあげる」
 鳥籠の中にはドールの腕が納まっている。
 nのフィールドから拾い上げてくることはできたものの、どうやっても鳥籠から出すことができないでいる真紅の右腕だ。
「その代わり私に協力しなさい、人間」
「──お前ッ」
 ジュンの顔が赤くなった。今度は恥ずかしさとか照れではない。
「元はと言えばお前がやったことじゃないか! それを今更っ」
 水銀燈は落ち着き払い、真紅に負けないほど優雅な動作で紅茶を口に運んだ。
「確かに腕をもいだのは私よ。今更否定はしないわ」
 かちりとも音を立てずに、機械仕掛けの人形のように精確にカップをソーサーに戻す。
「そして、普通なら欠けたパーツを戻すなんて有り得ない。だから、真紅は諦めて現状を受け入れようとしているわ。当然の反応ね。……でも」
 水銀燈はジュンの手を指差した。
「貴方にはできる。恐らく世界でただ一人、神業級の職人たる資質を持っている貴方だけはね」
「そんな……何言って」
「あら、真紅にも言われたことがあるんじゃなくて? 思い出して御覧なさいな」

 ジュンは瞬いた。確かに似たことは言われたことがある。

 ──その指はきっと魔法の指だわ。
 ──いまに、王女のローブだって作れるわ。

 そのときちらりと見せた真紅の瞳は、二人だけのときに見せる甘えるようなそれとも、偶に見せる優しいそれとも違っていた。まるで夢見るような、憧憬にも似た何かを感じさせるものだった。
 ジュンは水銀燈を見詰めた。水銀燈の紅い瞳は甘酸っぱさなど微塵も含まずにこちらを見据えていた。
「……僕が、そんなに凄い腕前を持ってるわけないじゃないか」
 ジュンは俯いてかぶりを振った。
「たまたまぬいぐるみを直したりしただけだ。裁縫なんて、ただの遊びで」
「別に遊びだろうが食べるために厭々商売してようが、この際関係ないのよ。貴方にはその資質がある。大事なのはそれだけ」
 水銀燈は部屋の隅を指差し、次に真紅の鞄を指した。
「そこの腕をその子に付け直すことはできる。貴方にはそれを可能にする資質がある。でも現状ではまず、あの鳥籠を開けなくてはならない」
 それは資質とは無関係なのよ、と水銀燈は言い、溜息をついた。
「真紅が諦めているのは案外そっちなのかもね」
「そっちって何だよ」
 水銀燈は直接それには答えなかった。
「あの子は姉妹の中でも一番諦めが早いの。智慧があるから抑制が利き過ぎているとも言えるわね」
「……そんなことないだろ」
 ジュンは普段の真紅の姿を思い返して、むしろ正反対だろうと思った。契約した自分を下僕と言い、何かといえばこき使う。生粋のお嬢様タイプだ。もちろん悪い意味で。
 腕をなくしてからは、どちらかと言えば甘えん坊にシフトしてきたような気はするが……。
「あの子は本当に不器用だから」
 苦笑するように水銀燈は口の周りを歪める。
「下僕、家来、そういう風に定義づけしないと契約者に甘えることもできないのよ。覚えておくと良いわね」
 水銀燈はまた紅茶を口に運んだ。冷めかけているのが気にならないのか、と思ってしまう。
 自分が目の前の水銀燈と真紅とをつい重ね合わせてしまっていることに、ジュンは気づいていなかった。
「だいぶ脱線したけど、ともかく貴方は鳥籠を開けなくてはならないわね。そして、それを為す鍵は物理的な物や方法ではなくて、貴方の心」
 ジュンは息を呑んだ。
「翠星石も言ってた。籠は僕の心だって」
「そうね。あの子もそこまでは踏み込んだのねぇ」
 もう一歩踏み出せばいいのに、と水銀燈は呟いた。翠星石が、ドールが契約者に抱く想いとは一線を画した感情をジュンに向け始めているのを知っているからだが、当のジュンには勿論知る由も無かった。
「……僕は、何をすれば」
 ジュンは顔を上げて尋ねた。それは二週間前に翠星石から籠のことを聞いて以来考えつづけ、どうすればいいのかわからずに保留していた課題だった。
 思い返せば水銀燈の媒介が置いていった人形を薔薇乙女たちに似せようとしたのも、そこから目を離したくて別のことに逃避した証なのかもしれない。
 それで二週間も無駄にしてしまった、とジュンはちくりと心が痛むのを感じる。

 もっとも、ジュンはつい内罰的にそう思考してしまうのだが、周囲──彼を取り巻くドールたち──は鳥籠についてそんな風に捉えてはいない。
 ジュンが翠星石とnのフィールドに入り込み、傷だらけになりながら鳥籠を持ち帰ったことも、腕力ではどうしても鳥籠を壊せないと諦めるまで、どれだけ必死に開けようとしていたかも知っているからだ。
 当面は手をつけられずにいるのだろう。でも籠を見えるところに置いているから、まだ諦めてはいない──と思っているだけだ。
 薔薇乙女の外れたパーツを元通りにできることなどないと考えているから、当然といえば当然のことだった。
 むしろ、臆病だと自他共に認めてはばからないジュンがそこまで頑張ったことを多かれ少なかれ肯定的に捉えてさえいる。
 翠星石がジュンに胸をときめかせるようになったのも、そのときnのフィールドで痛い記憶に苦しみながらも鳥籠を茨の中から取り出したのを見たことがきっかけだった。
 真紅とジュンの立場に立てば籠を開けることを安易に諦めるべきでないわけだが、それを知っていたのは水銀燈だけだった。

「その前に、私に協力してくれると約束してもらえるかしら?」
 水銀燈はまた顔に微笑を貼り付けていた。そこまでお人好しではないのよ、と言外に語っているようでもある。
「……わかった」
 僕にできることだけだぞ、元はと言えばお前のせいなんだからな、と念を押すように言うジュンを、水銀燈はろくに見てもいない。
 彼女の視線はジュンの肩越しに、彼の机の上のあるものに向けられていた。
「じゃ、まず協力の一つ目」
「うっ……うん」
 何を言われるのか、とジュンは唾を飲み込んだ。
「なんでもいいから服を着せてくれない? ドロワーズだけで放り出されてるのはいい気分じゃないから」
 ジュンは水銀燈の視線を追い、自分の机を振り向いて頬を染めた。
 机の上には、さっきつい仕舞い損ねた小さな人形がモニターにそっと立てかけられたままになっていた。



[19752] またも難産。100行
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/08/16 08:16
今回は話の途中で時間切れです。
問題なく時間取れれば続きは明日投稿します。

結果的に今回投稿分では、なんか蒼い子が暗いだけの話になってしまったなぁ。

8/16 難構文訂正。

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「……いや、水銀燈の役に立つっていうのは嬉しいんだけどさぁ」
 部屋の真ん中に敷かれた布団の上に上半身を起こして、パジャマ姿の少年は頭を掻いた。
「いくらなんでもこりゃ、寝にくいっていうか……」
 そう言ってばつが悪そうにぐるりを見回す。
 狭いアパートの一室に、彼の布団を中心にして、ドールと人間合わせて都合七人が座っている。この場に金糸雀のマスターがいれば失神しそうな眺めだった。
「時間も時間だし」
 窓の外は鮮やかな夕焼け空だった。少年のいつもの就寝時刻とはだいぶ違っていた。
「大丈夫、僕が貴方を眠らせる。確実に夢に入れるようにね」
「そうです。蒼星石の力を信じられないですか」
 双子の庭師がそう言っても、少年はまだ首を傾げている。
「そうは言っても、みんなの役に立つ夢なんて一発必中で見れるかどうか……」
「この期に及んで女々しいこと言うんじゃねえです」
 翠星石は腕を組んで少年を見下ろした。
「人数が多いのは全員一緒に夢の中に入る必要があるからです。そうじゃなけりゃこんな狭っ苦しい部屋にわざわざ来やしねえですよ」
「そうね、浴室の鏡が使えて良かったのだわ。パソコンから出ていたのではジュンが引っかかってしまったでしょうね」
「……僕一人なら、別に歩いてきても良かったんだぞ。鏡を通ってきたのは嵩張る物を抱えてたからで」
「そんなこと言ってるくせに、真紅を抱いて離さないところがジュンの可愛いところかしら」
「真紅だけ抱っこしてもらってずるいの。ヒナもジュンのぼりするのよ」
「よせ、ますます重たいだろっ」
「重いとは聞き捨てならないわ、私達ドールは人間の女の子ほど重くなくてよ」
「絶対的な重さってのはあるだろ」
「ジュンはひ弱かしらー」
「自分でも認めるヒッキーだから仕方ねーですよ」

「えーとぉ」
 少年は苦笑いして窓の方を見遣った。西の空を染めている夕焼けを背景にして、いつものように窓枠に座っている水銀燈は、黙って呆れたように部屋の中を眺めていた。
「そろそろ始めようか」
 枕許に座った蒼星石の生真面目な言葉に、それまで騒いでいた者も静かになった。
「これから貴方を眠らせる。横になって、目を閉じて」
「あ、うん。オーケー」
 少年は言われるまま枕に頭を載せ、目を閉じた。
「姉ちゃんのときはいきなり眠らせたくせに……」
 ジュンが口を尖らせると、蒼星石の動作は一瞬止まった。無表情だった横顔が複雑な表情に変わっていく。
 翠星石はジュンをぽかりと叩いた。
「余計な茶々入れんなです! 蒼星石を悲しませるのはジュンといえども許さんですよ」
「……ごめん」
「謝る必要はないよ。君が言ったことがらは事実だ。僕のほうこそ、あのときは手荒い真似をして悪かった」
 蒼星石は立ち上がり、帽子を取ってジュンに深く一礼した。
「次に逢ったら君のお姉さんにも謝っておくよ」
 顔を上げ、硬い表情のまま帽子を被り直して、少年の額に手をかざす。
「始めるよ」
 少年は薄目を開けて蒼星石を見た。視線が合って蒼星石が瞬く。少年が気にするなと言うように頷くと、蒼星石は薄く微笑んだ。
 少年は目を閉じ、布団に入ったままガッツポーズを取った。
「おう、もうジャンジャンやっちゃって。バッチコーイっス」
「お前も無駄口叩くなです」
 翠星石は容赦なく少年の腰の辺りを蹴っ飛ばした。ぐぇっというような呻きの後、了解、と少年は眉を顰めながら返事をした。
 痛そうな声に、ハッと気付いた金糸雀と雛苺が水銀燈を見遣る。しかし、彼女は自分の媒介が蹴られても軽く肩を竦めただけで、窓枠から離れて少年の枕許にふわりと降り立った。
 ほどなく、少年は寝息を立て始めた。
 同時に彼の頭上の空間が、さながら池に小石を投げてできた波紋のように揺らぎ、夢の世界への入り口が現れる。
「急ぐわよ」
 水銀燈は短く言い、飛び込むように夢の中に入っていった。
 翠星石がすぐに続き、他の姉妹たちもそれぞれ夢の中に入り込む。ジュンは戸惑うような素振りを見せたが、真紅が促すと意を決したように波紋の中心を越えて行った。
 その場に残ったのは蒼星石だけだった。

 真紅が心配そうな視線を自分のほうに向けているのを軽く頷いて返し、ジュンの背中を見送ってから、蒼星石は少年の顔を見下ろした。
 硬い表情は崩れない。そのまま、淡々と蒼星石は呟く。

「貴方はこうなることを恐れていたんだね。

 水銀燈が一番のお気に入りではあるけれど、僕達全員を好きだった貴方は、僕達が互いに傷つけあいながら成長していく漫画の展開を肯定的に捉えていた。
 貴方自身は死ぬまで読むことができなかった漫画。そのラストに希望を抱いていたのだろうね。
 だから、自分が柿崎めぐの立ち位置になることで、漫画の展開になるべく近い方向に進むようにと願っていた。
 『巻かない』を選ぶことはできなかった。それは次の時代に僕達の成長を持ち越し、もしかすると成長の機会を永遠に逸してしまうことになるから。
 積極的に水銀燈に手を貸すこともできなかった。自分がストーリーに手を加えることで、それでストーリーが変化することよりも、僕達の誰かの成長を阻害してしまうのを、臆病な貴方は恐れていたんだね。

 それなのに、どうして貴方は──」

──自分で自分を切ってしまったのか。水銀燈に完全な知識と膨大な量の記憶、そして僕には不完全な知識と貴方の思考の軌跡だけを与えて。

「臆病な僕には、水銀燈と契約してからの貴方の選択を間違っていると指弾することはできない。
 僕も、同じ立場になったら迷ってしまうかもしれないから。

 でも、心の木を伐ってしまった理由は判らない。理解できない。
 何通りでも推定はできるけれど、どれも決定的ではないんだ。それに、どれであっても我侭な僕には納得できそうにないよ。

 真紅の腕は戻らず、彼女の契約者はまだどこか絆が欠けている。僕との別離を知らない翠星石は子供のままで、逆にその後を見せられてしまった僕は水銀燈の言葉を受け入れて、おめおめとこうして生きてしまっている。
 知識を得た水銀燈は何か大きな事を考えているようだし、ここにいる貴方はもう、貴方ではない。

 僕達のちっぽけな世界は、貴方が恐れていた方向に動いているんだ。貴方が心の木を伐ることで、自分のスタンスを放棄してある意味で積極的に僕達に関わり始めたときから」

 蒼星石は膝を抱いて座り込んだ。
 その目の前に、青い人工精霊がすっと現れる。
「レンピカ……?」
 人工精霊は二度ばかり瞬くように光ると、主人の命令もなしに何かを召喚した。
「両手剣か」
 見覚えはある。薔薇屋敷の一件で水銀燈が召喚し、この少年に向かって「貴方の得物よ」と言ったものだ。
 蒼星石は座り込んだまま、手を伸ばして剣の柄を握った。いきなり、両手剣はまるで人工精霊のように強く明滅した。
「──っ」
 何かが、頭の中に流れ込んでくる。
 人工精霊との会話や念話のような整然としたものではない。剥き出しで未整理の汚くて醜い情報。
 それでも、言いたいことはおおむね理解できた。
「……貴方はやはり、飽くまでも水銀燈の契約者。そういうことなんだね」
 蒼星石は首を振り、長い息をついた。
「臆病で疑心暗鬼の塊、と自分自身を評価していた貴方に、そこまで信頼されている水銀燈が羨ましいよ」
 剣はちかちかと二度ばかり光り、また一塊の情報を蒼星石に叩きつけると、初めて硬い顔を崩して驚いたような表情になった彼女をその場に残し、そのまま幻影のように薄れて消えていった。

 蒼星石は立ち上がり、まだ揺らめいている夢の中への入り口を見上げた。
「まだ間に合うかな? どう思う、レンピカ」
 レンピカは一度だけ瞬くと、最短距離で入り口を潜り抜けて夢の中に飛び込んでいった。
 何事にも独りで果断に対処していた我武者羅な貴女はどこに行ったのですか、と言いたげなその行動に蒼星石は一瞬苦笑いを浮かべる。
「……どうも弱気になっていていけないな、あれから」
 一つ首を振ると帽子を目深に被り直し、生真面目な表情に戻って自分も波紋の中に身を沈めていった。



[19752] なかなか進まず。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/08/22 00:09
取り敢えず8/13投稿予定だった分。
盆中なかなか接続も執筆もできませんでしたよ。

8/18 難構文・間違い等訂正。
8/22 細部の酷いところ修正。

**************************************************************

「真っ暗なの……」
 雛苺はジュンの右足にしがみついた。
「夢の主の心の闇を表現しているかしら」
 金糸雀は左足に要領よく掴まる。ジュンはしがみつくなと口を尖らせたが、二人は無視して話を続けた。
「第0世界ほどではなくても、夢はその人の深層に迫っているから」
「うー」
 雛苺はきょろきょろと周囲を見回したが、どれだけ見直してもなにやら薄ぼんやりとした不定形のものが見えるばかりで、不気味としか言いようのない空間だった。
「こんなのがあの子の夢なんて、信じられないの」
 水銀燈の媒介とは薔薇屋敷の一件のときに会っただけだが、そんな闇を抱えているようには到底思えなかった。むしろ裏表ない素直な人物に見えたのだ。
 だから水銀燈の媒介だと言われてもなんとなく悪い感情が湧かなかった。
 しかし、これは酷い。絶望して何もない世界より不気味だった。
「人の心は一筋縄ではないわ。特に夢や無意識の領域は──」
 真紅は雛苺を諭そうとして言いかけた台詞を飲み込んだ。隣にいるジュンがぎゅっと拳をつくったのに気づいたからだ。
 真紅は黙ってその拳に手を重ねた。一筋縄でいかないのはジュンの心も同じだ。自分の趣味に対して劣等感とプライドを合わせ持っているから一層複雑なのかもしれない。
「これが貴女の見せたかった物なの?」
 真紅の声に、数歩前に立っていた水銀燈は振り向いて首を振った。
「あら、せっかちねぇ。こんな殺風景な眺めなんてわざわざ見に来るわけがないでしょう?」
 それとも化け物が出そうで怖くなったのかしらぁ? とからかうような声になったが、自分の言葉にそれぞれがどう反応したかを確かめることもなく、また前を向いた。
「これがあいつの夢の全てって訳じゃないわ。今は、パソコンで言えば電源スイッチを押してから使えるようになるまでの時間ね」
 水銀燈は左右を見渡して何かを見つけると、ついていらっしゃいと先に立って歩き始めた。
 一歩前を歩いていた翠星石はジュン達を振り返り、大丈夫ですよというように頷いてそれに続く。残りの面々は顔を見合わせたが、黙って水銀燈の後を追った。


 彼女は孤独で、絶望していた。
 自分が何者かはよく分かっていない。何故此処にいるのかも完全には理解できていない。
 ただ、自分が此処から動けないこと、そして此処には殆ど誰も来訪しないことは知っている。
 昔の記憶は断片的にしか存在していないし、前後の順序も判然としない。
 記憶の多くの部分は、忘れてしまい心に浮かばないという状態でさえなかった。記憶そのものが最初から存在しないのだ。
 持っている記憶さえも、その殆どは自分の体験ではない。植え付けられり与えられた擬似的なものだ。もっとも、彼女自身はその違いの意味を知らなかった。
 彼女の意識は毎日一回から数回、ほんの数分間だけ開いて閉じられる。
 その時間、自分の存在する場所の裏側で、混乱した作業が忙しく続けられていることなど彼女は知らない。
 作業が済んで、そのときの夢の舞台が整ってしまえば、彼女の存在する空間は閉じられ、彼女の意識も閉じこめられるのだ。

 最近、毎日一度かせいぜい二度、彼女を訪れる者がいる。
 それは彼女の心をかき乱し、擬似記憶を励起させる。だが、いつも彼女はそうやって提示された記憶を一つに繋ぎ、纏めることができない。
 彼女に与えられた時間はそれほど短いものでしかなかった。
 それでも、彼女はその者の来訪を期待するようになっていた。
 彼女にとって、それだけが他者との繋がりだったからだ。
 今日も彼女は胴のない体を苦労して動かしながら、それが来るのを待った。
 暫くしてそれがやってきたとき、彼女はいつもとは比べ物にならないほど心が突き動かされるのを感じた。


「見せたいと言ったモノの一つは、あれよ」
 水銀燈が指差した物を見て、金糸雀はまあと口元を手で押さえてジュンの服の裾を掴み、雛苺はびくりとしてジュンの後ろに隠れながらもこわごわそれを見詰めた。
 裸の球体関節人形だった。それがぽつんと横たわっている。
 服も着せられておらず、腹部のパーツもない。まるで作りかけの状態だった。
 ジュンは首を傾げ、右隣を歩く真紅に視線を向けた。
「なんでこんなとこに人形が置いてあるんだ?」
 真紅はジュンを見上げることもせず、人形に歩み寄る。
「分からないけれど、確かに不自然ね。何もない場所にドールだけ……」
「あいつ、そんなに人形に興味あるのかな」
 そんな風には見えなかったけどな、とジュンは両足を掴まれて歩きにくそうに人形に近づく。
「興味ではなくて……あの人形のことを気に掛けていたのです」
 翠星石がジュンを振り返った。
「哀しい過去を持った人形のことを、ずっと気にしていたから、ああして夢に……」
 真紅は立ち止まり、首を振った。
「いいえ、それでも不自然よ」
 どういう意味ですか、と尋ねる翠星石の手に真紅は左手で触れた。
「優しい翠星石、でも今は事実を見て。あの子は夢の世界の一部ではないわ。魂がある。生きているのよ」
「そんなの、ブーさん人形とかと同じだろ」
 ジュンは自分の部屋の呪い人形達を思い出していた。適当に通販で買った人形達だが、魂があると言ったのは真紅だし、現実に動いたところさえ見せられている。
 喋り出したりこそしなかったものの、真紅や水銀燈が力を付与しただけで暫くの間活発に動いてみせたりしたのだ。
「そう。だから不自然なの。夢の世界は、当人が夢を見終われば閉じてしまう。そこにヒトの手で作られた人形が存在するなんて」
 翠星石は「あ」という形に開いた口を手で覆い、人形の方を見遣った。
「人形は自力では動けないわ。でも、私達以外にここには誰もいないし、訪れる者もほぼ存在しえない」
 真紅は人形の傍らまで近づいた。
「一体誰が、何のためにここに人形を置いたというの、水銀燈」
 水銀燈は微妙な笑みを浮かべ、人形を挟んで真紅の向かいに回り、腰をかがめた。
「流石と言うべきかしらね。ご明察よ、真紅。その話をするために──」
 水銀燈はぎくりとして言葉を中途で止め、弾けるように跳び退った。真紅も後ろに大きく跳んで身構える。

 倒れていた人形がむくりと上半身を持ち上げ、真紅に視線を向けたからだ。

「しん……く……しん、く……」

 薄紅色の瞳は真紅に向けられ、のろのろと右腕が差し伸べられる。繋がっていない下半身ももがくように動く。
 胴部が無いのにもかかわらず、人形は立ち上がる動作をしようとしていた。
 あまりにも異様な光景に、真紅はさらに数歩後退した。元来、この手の化け物じみたシチュエーションはあまり得手ではないのだ。

「しんく……真紅ぅ……真紅……!」

 何かを懇願するようだった表情が、いきなり凍りつき、そして次の瞬間には憤怒と憎悪に染まった。

「真紅ッ……! うああああああああああっ!」

 どっ、と音を立てるようにして、人形の背中から黒いものが噴出する。後方でそれをまともに食う形になった水銀燈は咄嗟に腕を顔の前で交差させ、視線を背けた。
「翼……なの?」
 雛苺は瞬いた。人形の背中からは、一対の長い黒色の翼が禍々しく伸びていた。
 噴き出した物は細かく分かれ、ひらひらと周囲に舞っている。それはこの場の誰にとっても、よく見慣れたものだった。
「黒い羽毛……。水銀燈のと同じかしら」
 のんびりとした口調で言いながら、金糸雀はすっとジュンの前に進み出る。
「事情は分からないけど、念のため、ジュンは後ろにいて欲しいかしら」
 ウィンクをしながら事も無げに言う彼女にジュンが返事をしようとしたとき、次の変化がおきた。

「わたしは……壊れてなんか……」

 歯を食いしばるようにして立ち上がろうとしている人形の口から、途切れ途切れに言葉が発せられる。その間も、人形の視線は真紅に固定されていた。

「ジャンク、なんかじゃ……ない!」

 その言葉と共に、まるで胴部が存在しているかのように人形は立ち上がる。青白い炎のようなものが人形の体を包み、それが収まると裸だった人形は濃紺のドレスを纏っていた。

──そっちの方に記憶が繋がったか……

 水銀燈は舌打ちをし、自分も翼を広げる。この事態は想定していなかった。
 翠星石や真紅の寝ている間に話をつけ、桜田ジュンだけを連れてくるべきだったか、とちらりと考える。
 そもそも彼女としては、ジュンだけにこの人形の存在を知らせればそれで事は足りた。蒼星石に頼んで媒介を眠らせ、ジュンと二人で夢の世界に入ればいいだけの話だった。
 それがこんな大人数になってしまったのは、翠星石に説明したときのもどかしさから、様々なことを一纏めにして一度の説明で済ませようという思惑を持ってしまったことが原因だった。
 もう一つには、誰と遭遇しても人形は大して反応を返さないだろう、と高を括っていたという側面もある。
 まさか、真紅という名前にここまで激烈な反応を返すとは思っていなかったし、人形の記憶が真紅に対する憎悪と怒りの部分で繋がるというのも予想外だった。
 要は急ぎすぎてしまったのだが、それにしても。

──時系列を追って……最後に作り直されたか、その手前の破壊されたところ辺りまで順序良く思い出してくれれば好都合だったのに。

 あるいは、そういう「製造時」に与えられた記憶でなく、実際に「彼」と見た夢の末尾まで思い出すか、そうでなくても自分が体験したことを優先して思い出してくれれば。
 しかし、今となっては繰言だ。
「よりによって最悪のところに繋がるとはね」
 水銀燈は独語し、人形を大きく回りこんで真紅のもとに向かった。
 あの人形の力は未知数だが、元々あまり闘いが得意でない真紅が、片腕を失った状態でまともに相手ができるとは思えない。攻撃されるなら手助けが必要だ。
 今はまだ、真の意味での脱落者を出すわけにはいかないのだから。

「水銀燈と同じ格好なの……」
「逆十字のドレス……」
 雛苺が息を呑み、ジュンが目を見張る。金糸雀は人工精霊を呼び、いつも持ち歩いている傘をバイオリンに変えた。
「念のためかしら」
 愛想良く片目を瞑ってみせたが、その場の誰も、何も起きないなどとは思ってはいなかった。

 翠星石は混乱していた。何がどうなっているのか、分かるようでいて分からない。
 彼女は水銀燈から、媒介が生まれ変わる前の世界で視聴していたという「ローゼンメイデン」の話の筋を全て聞いたわけではない。ただ漠然と、水銀燈に相当するドールがひどく哀しい存在だということを知っているだけだ。
 それでも、人形が憎悪を抱いている対象が真紅でないことは分かっている。あの人形は、自分の物語の中の『真紅』と、目の前の真紅を取り違えているのだ。
 『水銀燈』が『真紅』をそこまで憎悪する理由については、水銀燈は端折って話さなかった。あの時点ではそれは特に必要のない話だったし、『水銀燈』が誰を憎もうと自分達にはあまり関わりのないことでもあった。
 哀しいハンデを背負い、お父様への想いで動いている第一ドール。そんな思いで人形を見ていたのに、目の前の人形はむしろ『真紅』への怒りで動き始めている。
「一体何があったですか、『水銀燈』と『真紅』の間に……」
 それに答えるだけの知識を持っているのは水銀燈だけだった。
 翠星石は真紅と人形の間に割って入ろうとする水銀燈の姿を目で追いながら、何かこの場で自分にできることを必死に見つけ出そうとしていた。



[19752] 今回は二日分です。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/08/22 00:08
260行ほどありますが、二日分です。
前日分をだいぶ書き直してしまったので二日分纏めました。

8/22 誤字等修正。

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「っあああ!」
 目の前の人形から、無数の黒い羽根が放たれる。攻撃方法もその姿も、まるで水銀燈そのものだ。少なくとも真紅にはそう思えた。
「ローズテイル!」
 薔薇の花弁をぶつけ、自分に向かってくる羽根だけは辛うじて反らす。
 何がどうなっているのか分からないのは真紅にしても同じだった。ただ、降り掛かる火の粉は払わなければならない。
 真紅にとって幸いなことに、人形の第一撃の狙いはめちゃくちゃだった。怒りに任せて方向だけを示して放った、荒っぽい攻撃だった。
 同じ攻撃を繰り出したのが水銀燈だったら、片腕では逸らしきれなかったに違いない。
 いや、水銀燈の攻撃には限らない。人形が冷静に真紅を狙えば同じことだ。悪いことに、人形の飛ばした羽の速さ、密度、量といったものはむしろ水銀燈のそれよりも苛烈だった。
「弾くだけ?」
 人形の顔に、初めて憎悪と憤怒以外の表情が生まれる。それはかすかな疑惑だったが、すぐにまた怒りで上書きされてしまった。
「本気でかかってきなさいよ! それともまだ、わたしを小馬鹿にしてるの?」
「待って。貴女は何か勘違いをしているわ。私が貴女に会うのはこれが初めてよ」
 言いながら、真紅は後ろを確認した。
 ジュンの前には金糸雀がバイオリンを持って立っている。雛苺もジュンの陰から出てこちらを見守っている。視界の隅では翠星石が人工精霊に命じて如雨露を召喚していた。
「私は確かに真紅。ローゼンメイデンの第五ドール。でも貴女は……一体何者なの?」
「白々しいことを! それとも、わたしを存在しなかったことにしたいわけ?」
 人形は嫌悪感の詰まった言葉を放った。薄紅色の虹彩が異様な光を放つ。
「いいわ、そっちがその気なら、嫌でも分からせてあげる。金輪際無視できなくさせてやろうじゃないの!」
 どっ、と音を立てそうな勢いで黒い羽根の束が形成される。
「行け!」
 人形が手を振ると、それは大きく口を開けた獣のような頭部を持った蛇に変化し、奇怪な叫び声を上げながら真紅に迫った。
「ローズテイル!」
 紅い花弁が蛇の頭部を叩いたが、蛇は全くダメージを受けた様子もなく、一瞬の遅れが生じただけで真紅を指向してくる。直撃されるのはステップを踏んで辛うじて避けたが、そこに行き過ぎた蛇の体が鞭のようにしなって襲ってきた。
「ッ…」
 真紅の身体は横ざまに払われ、高く舞い上がった。
「真紅!」
 ジュンは思わず駆け出していた。金糸雀と雛苺が制止の声を上げたが、無視する。手を伸ばし、ヘッドスライディングするような恰好でどうにか落下する前の真紅を拾い上げた。
「ジュン」
 真紅は一瞬だけ安堵したような表情になったが、すぐに気づいて警告した。
「左! 来るわ」
「えっ……うわっ」
 真紅を胸元に抱え込み、そちらを向いたジュンの左肩を、蛇の胴の一撃が容赦なく叩いた。ジュンは真紅を抱えたままごろごろと転がった。

「真紅のミーディアム? 無駄なこと──」
 人形が蛇を引き戻そうと腕を振ったとき、いきなりその半身に十数本の黒い羽根が突き立った。
「何ッ」
 痛みよりも驚愕を感じたように人形はそちらを向く。
「貴女も左ががら空きよ、お間抜けさん」
 水銀燈はにやりと、しかしあまり余裕のない声で言い、横合いから滑り込むように飛んで来てジュンと真紅の脇に立った。
「お前っ、何やってたんだ」
 一番人形と真紅の近くに居たくせに、とジュンがなじると、水銀燈は肩を竦めた。
「真紅ったらとっとと逃げればいいのに、正面きって防ごうとするんですもの」
 真紅はジュンに抱かれたままむっとした顔になっただけで、水銀燈にはその表情を見せなかったが、ジュンは腹立ちを隠そうとしなかった。
「他人事みたいに言いやがって……あいつなんなんだよ!」
「第七ドールに作られて、ここに独りぼっちで放置されてる哀れな幻影よ」
「第七?」
 真紅はジュンの懐から顔を覗かせた。
「貴女、末妹に会っていたの」
「ええ、一度だけね。……詳しいことは落ち着いてから話すわ、流石にこれは想定外だったけどね」
 言いながら、横薙ぎに来た蛇の頭部に燃える羽根をぶつけて炎上させる。蛇は退いたが、炎もすぐに消えてしまった。
「まずあいつをどうにかしろよ。ここにみんなを連れてきたのはお前なんだぞ!」
「善処はするわよ」
 水銀燈は前を向いたまま薄く笑った。このまま素直に正面から力をぶつけ合ったら勝ち目はない。人形の力は出鱈目に強力だった。
 それは雪華綺晶が水銀燈の媒介に対して、他ならぬこの夢の世界での短い闘いで抱いたのと同じ印象だったが、水銀燈もそこまでの知識は持っていない。
 ただ、雪華綺晶と違って彼女には目の前の人形に対する勝算が全くないわけでもなかった。
「とんだとばっちりを喰ってしまったものね、真紅」
「謝罪の言葉と受け取っておくわ。それはいいのだけれど」
 真紅は腑に落ちないといいたげな表情だった。下手をすれば壊されていたかもしれないのにここまで冷静で居られるのは、真紅らしいといえばらしい態度ではある。
「どうして私の名前を知っているの、あの子」
「それも落ち着いてから」
 水銀燈は答えながら人形の様子を窺った。
 人形は自分の姿とよく似たドールを見て少なからず動揺しているようだった。攻撃は散発的に続けているが切れがなく、どれも水銀燈の手で防がれている。
「今のところは、『そういう風に作られたから』というありきたりな回答で満足してもらうしかないわね」
「偽りの記憶を埋め込んで作ったというの……」
 真紅は絶句して人形を見遣った。
 おぞましいと言いたげな表情になっているのは、真紅の美的感覚というよりは倫理観の方が関わってくるかもしれない。記憶、時間、経験といったものに対して彼女は潔癖だった。
 水銀燈がその表情を見れば皮肉に顔を歪めたかもしれないが、生憎と彼女は前に注意を向けていなければならなかった。
「ええ、それもごく短時間に。ほぼ即座でしょうね。もっとも──」
 黒い羽根が雨のように降り注ぐ。水銀燈は舌打ちして翼を広げ、自分達に降り掛かる分を防いだ。

──こんな形で存在し続けることまで予測していたかどうかは別だけれど。

 媒介が水銀燈を雪華綺晶の「繭」から救い出したときに、水銀燈は媒介と雪華綺晶のやり取りの記憶を「見て」いる。そのせいで人形のことも知っているのだが、当の人形に対して雪華綺晶は冷淡に「ただの舞台装置」と言っていたはずだ。
 雪華綺晶は媒介を他の契約者達と同じように自分の糧とする腹積もりだったのだろう。人形は媒介に心地よい幻を見させ、抵抗力を失わせるための道具に間違いない。
 本来、そういった道具は幻が破られればそれとともに消え失せるものだ。それだけの力しか持っていない。
 人形がこうして残っている理由は、雪華綺晶の能力の高さによるものではあるまい。媒介の心という全くの異物──あるいは薔薇乙女ですら到達し得ない遠い異世界とこの世界との接触による歪み──に触れているうちに、人形自体が命を持ち、自律して動き始め、実体を持たぬままこの夢の世界に定着したのか。
 恐らく、推論は正しい。直接の証拠はないが。
 第一、雪華綺晶がそこまでの能力を持っているのなら、姉妹の誰かがnのフィールドに入ったところを一人ずつ葬っていけばアリスゲームは簡単に終わってしまう。
 今まで散発的に続けられたゲームで誰一人落伍者が出ず、かつ誰も雪華綺晶に出会ったことがなかったのだから、nのフィールドだけに根を張る異質な存在とはいえ、雪華綺晶が出鱈目な力を持っていないことは明らかだ。
 また、そうでなければ、水銀燈自身が自分らしくなく回りくどく手配りをしていることも全くの無駄ということになってしまう。

──全く、厄介なものを産み落としてくれたものねぇ。でも、こうなったからには有効に利用させてもらうわよ。

 既に自分と蒼星石の記憶の中にしか居ないツナギを着た男と、全身が禍々しいほどの白さに包まれていた雪華綺晶とを若干恨みがましく思い出しながら、水銀燈は人形に向かって一歩踏み出し、そこで思わぬところから放たれた声に舌打ちした。

「い、いい加減にするです、『水銀燈』!」

 翠星石には、目の前の状況は絶望的に見えていた。
 手負いの真紅、力を制限された雛苺、媒介のいない金糸雀、戦い慣れていない自分。ジュンが居るとはいえ、四人でせいぜい水銀燈一人分の力しかないだろう。
 その水銀燈でさえ、隙を見て初手を取った後は防戦一方に回っている。人形の方では水銀燈の姿を見て動揺したのか攻撃を躊躇っているようだが、それでもジュンと真紅を庇うように立っている水銀燈は防禦で手一杯に見える。
 人形が本気に戻ったら、多分今度は勝てない。全員がらくたとなってこの夢の世界に閉じ込められたままになってしまう。
 それだけは避けなければならなかった。

 人形が横目で翠星石をじろりと見る。翠星石はびくりとしながらも、必死に言葉を継いだ。
「『真紅』とお前の間に何があったか知らねぇですが、そこにいる真紅はお前の知ってる『真紅』ではない……です」
 人形の攻撃の手が一旦止まる。翠星石はなけなしの勇気を振り絞った。
「翠星石達は……ここにいるお前以外のドールは、お前とは別の世界の存在なのです。それとジュンも」
「……有り得ない嘘をつくんじゃないわ」
 人形は翠星石に向き直った。翠星石は思わず目を瞬き、如雨露の取っ手をぎゅっと握り締めて自分に言い聞かせる。大丈夫、まだ泣いてない。まだ頑張れる。

「時間稼ぎにはなりそうね」
 水銀燈はふっと息をついて、ジュンを振り返った。
「金糸雀と雛苺のところまでお戻りなさい。真紅を抱いたままね。早く」
「水銀燈──」
 真紅が何かを言いかけたが、ジュンは真紅を抱く腕に力を込めて立ち上がった。
「わかった」
 水銀燈は返事を聞く前に翼を広げ、翠星石の元に飛んだ。

──これで金糸雀が技の出し惜しみをしなければ、防戦で負けることはないわね。

 むしろ今まで傍観に徹していたことが訝しいくらいだが、金糸雀には金糸雀なりの思惑があるのだろう。この場に自分の媒介が居ない不利というのもあるだろうし、何か他の考えもあるかもしれない。
 人形が自分と概略同じ種類の攻撃しか繰り出さないのであれば、金糸雀の技とは相性が悪い。それは、水銀燈自身が単独で行動している金糸雀を真っ先に狙わなかった理由でもある。
 それよりも翠星石の蛮勇が問題だった。

「真紅は私を無視し、アナタは嘘をついて惑わすの? そう! そんなにわたしを除け者にしたいってわけ」
 人形は一群の黒い羽根を礫のように放った。翠星石は咄嗟に如雨露をかざし、彼方にある世界樹の枝を呼び寄せて伸ばす。羽根は全て枝に阻まれた。
「やるじゃないの」
 人形の顔が獰猛な笑みを湛える。
「これは防げないわよ」
 また蛇のような形に羽根を集め、世界樹を回りこむように放つ。翠星石は別の枝を伸ばしてそれを防ごうとしたが、蛇はその隙間を縫って翠星石を突き飛ばした。
「きゃっ……」
 倒れこんだ翠星石を、蛇が大きく口を開けて飲み込む態勢になる。翠星石は慌てて立ち上がろうとするが、蛇の口の方が早かった。
 翠星石は観念して目を閉じかけたが、その耳に金属質の音が聞こえ、続いて蛇の発する耳障りな叫びが響いた。
 こわごわと目を開くと、蛇は庭師の鋏に顎を切り離されて退却するところだった。
「……蒼星石!」
 蒼星石は翠星石を振り返って済まなそうに微笑んだ。
「遅れてごめん」
 全くです、と減らず口を叩こうとしたが、言葉にならなかった。翠星石は蒼星石に抱きつき、蒼星石は戸惑ったようにその頭を撫でた。
 大きく回りこんできた水銀燈は二人の様子に肩を竦め、人形の方を見遣った。

「双子が揃ったか」
 人形は舌打ちし、真紅の姿を追って辺りを見回す。赤い服のドールは、契約者に抱えられて金糸雀のもとに向かうところだった。
「させないっ」
 人形は翼を長く伸ばし、ジュンの足首を掴んで締め上げた。
「うわっ」
 たまらず、ジュンはバランスを崩して前のめりに倒れる。それでも、真紅を抱えた腕はそのままだった。
「放してジュン、あの子の狙いは私なのよ」
「もうばっちり全員ターゲットになってるよっ」
 ジュンは顔を赤くして怒鳴った。
「そ、それに──」
 立ち上がりながら何かを言いかけた彼の背中に、黒い羽根が降り注ぐ。相変わらず狙いは絞れていないが、それでも少なくない数の羽根がジュンの服に突き立った。
「っ、こ、こういう攻撃なら僕の方が身体が大きい分、打たれ強いだろ」
 そのまま、痛みをやせ我慢して真紅を守るように背中を丸めて立ち上がる。
「しぶといわね」
 人形は羽根を滞空させ、それに炎を灯した。
「燃やしてあげる──」
「それこそ、させるものですか」
 撃ち出す寸前の羽根の群れに、全く同じ羽根の一群が横合いからぶつけられる。羽根同士が接触して燃え上がり、下に落ちた。
「小癪なッ」
 人形は腕をぶんと振り、伸ばした翼を薙刀か大鎌のように振るった。
「くっ……」
 水銀燈は咄嗟に自分も羽根と翼で防ごうとしたが、力負けして横ざまに放り出され、倒れこんだ。
 起き上がりながら、受けるのでなく避けるべきだったと後悔したが、後知恵でしかない。その間に人形はジュンに向き直って一撃を放っていた。
 相変わらず芸のない乱射だった。しかしジュンと、たまらず金糸雀の制止の声を振り切って駆け寄っていた雛苺の足を止めるには十分だった。
「ひゃぅ!」
「ぐぅ……」
 痩せ我慢も限界だった。ジュンはよろめき、その場に尻餅をついて座り込んだ。半身になりながらも人形の方を向いたのはほとんど意地だけだった。
「しぶとさだけは大したものね」
 人形は嘲笑した。
「ミーディアムに用はないの。さっさと抱えてる真紅を放しなさい」
「ジュン」
 真紅は俯いてしまったジュンの頬に触れた。
「……もう、やめろよっ」
 ジュンは振り絞るような声を出し、真紅は驚いて手を引っ込める。痛みに耐えながら立ち上がると、ジュンは顔を上げて人形を見た。
「ミーなんとかってのは、僕は知らない。お前が何者かとか、何があったかなんて興味もない。だけどっ」
 右手で真紅を抱えなおし、人形を睨みつける。
「八つ当たりか、恨みか知らないけど、もうこいつらを苛めるなっ」
 薔薇の指輪の嵌った左の拳を突き出す。その手はみっともないほど震えていたが、それでもその顔には決意の色があった。

「どうしてもやりたいなら、ぼ、僕が相手になってやる!」

 人形の隙を窺って次の一撃を入れようと身構えていた水銀燈ははっとして目を見張った。

──そうか、これで。

 その直感は正しかった。
 真紅を抱えたジュンの足元から、いきなり一本の巨大な薔薇の蕾がぬっと生えた。足を掬われるような恰好になったジュンはまた尻餅をつき、真紅はジュンの腕の中から出て薔薇を見上げる。
「なんだこれ……」
 薔薇はゆっくりと開花してゆく。その中心にあるものを見て、ジュンは息を呑んだ。
「真紅の……腕?」
 その瞬間、ジュンの指輪から赤い光を放つ糸がするりと伸びた。
 それは真紅の右腕の関節部と真紅の肩の穴をテンションゴムのように繋ぎ、花弁の中の腕を勢いよく引き寄せた。

「私の……手」

 拍子抜けするほど呆気なく、真紅の右腕は元通り繋がっていた。
「い、今のなんなんだ? ど、どーしちゃったんだ一体」
 つい先ほどの必死の決意もどこへやら、全く状況を理解できないと言いたげに、ジュンは指輪と自分の手を眺め回す。

「凄い……です」
 蒼星石にしがみついていた翠星石の手にきゅっと力が篭る。
「ジュン……」
 蒼星石は翠星石の顔をちらりと見て、戸惑ったようにまた前を向いた。翠星石の瞳には素直な憧憬と、恋する者の熱が篭っていた。それは蒼星石の見たことのない、眩しい色だった。

「まさか。そんなこと」
 雛苺を助け起こしながら金糸雀は信じられないと言いたげに瞬いた。
「薔薇乙女の外れたパーツを全バラせずに組み直すなんて非常識なことができるのは、お父様本人か……」
 雛苺は金糸雀を見上げた。
「ジュンはマエストロなのよ、カナ」
 金糸雀は頷き、生唾を飲み込んだ。
「……凄いわ、ジュン……やっぱりあれは本当だったのかしら」
「あれって?」
 雛苺に答えることも忘れたように、金糸雀は真紅とジュンを見守っていた。

 水銀燈は構えを解き、人形に数歩歩み寄った。
「そろそろ続きを思い出しても良いのではなくて? 『水銀燈』」
 自分で自分の名前を呼ぶというのも奇妙なものだと思いつつ、呆然と立ち尽くしている人形に声を掛ける。
 人形は鋭い動作で振り向いたが、その瞳は不安定に揺れていた。
「貴女の記憶にもあったのでしょう、今と似たような光景が」
「うるさい!」
 人形は黒い羽根を数本飛ばしたが、水銀燈は上体を軽く開いただけでそれを避けた。狙いが甘すぎ、先ほどまでの鋭さもなかった。

「貴女の記憶の大部分は私も持っている。ええ、ほぼ同一でしょうね。なにせ、出所は同じですもの」

 それどころか、今や人形の構成要素そのものが全て水銀燈の知識の中にあると言っていいし、人形自身が体験したことも媒介の記憶として概ね知っている。
 水銀燈は苦虫を噛み潰したような表情になっていた。こういうシチュエーションを好む者もいるのだろうが、少なくとも彼女にとってはあまり愉快な感覚ではなかった。
「何を言って……」
 人形の動揺は激しくなった。水銀燈は視線を逸らした。警戒しなければ危険なのは分かっているが、どうにも自分自身を見ているようでやりきれないのだ。
「他人から与えられた記憶だけで自己完結していてはつまらないわよ。貴女には貴女自身の体験があるでしょう。思い出しなさい、そこまで」
「わたし自身の……?」
 人形は頭を抱え、小さく震え始めた。

「貴女は今とほぼ同じシチュエーションで『真紅』と戦って敗れた。
 媒介──ミーディアム、と言ったかしら?──の力を得た、貴女の姉妹の中でも最高傑作の『真紅』には、媒介なしの貴女では為す術もなかった」

 何故そんな極端な設定にしたのかと言いたい気分はあるが、こればかりはどうすることもできない。今更異世界のアニメ製作者に問い質すことはできないのだから。
 ちらりと見遣ると、真紅はじっとこちらを見詰めている。水銀燈は話を続けた。

「その後、貴女はローゼンの弟子である人形師の手で修復され、彼の思惑に乗って姉妹達と戦い、そして姉妹ともども、その人形師のドールに薨された」

 彼女に柿崎めぐという媒介がいたことは省いた。最後に腹部を作りつけられて再生されたことも。
 何故かそこは人形に思い出させるままに留めて置いた方が良いような気がした。

「──そこまでが、貴女に捻じ込まれていた記憶。
 残念だけど、そこにいる、貴女が躍起になって羽根を当てていた真紅は、翠星石の言うとおりの存在よ。
 貴女の記憶にある『真紅』とは、言わば同名の別人ね」

 人形は何も言わずに蹲った。身体の震えはおこりのように大きくなっている。

「そこから先──九秒前の白のような世界で誰かと出会ってからが、貴女の大事な記憶。
 本物の、貴女自身の記憶ということになるわね」

 水銀燈はできるだけ柔らかくそう言い、ゆっくりと人形に近づき、肩に手を触れた。
 人形は反射的にそれを払いのけた。水銀燈は一歩下がって身構えたが、人形はそれ以上何もせず、震えつづける。
「今は思い出せなくてもいい。でも、それは君だけの大切なモノだ。君自身が思い出さなければ、他に知る者はいない。いつか、思い出して」
 いつのまにか水銀燈の隣に来ていた蒼星石が、どこか自分自身に語りかけるような響きでそう言うと、人形は初めて、かすかに頷いてみせた。

 そのまま、暫く誰も言葉を発しなかった。
 やがて、水銀燈は人形が肩を震わせて涙を流していることに気付いた。先ほどまで薔薇乙女六人を相手に大立ち回りを演じていた姿が信じられないほど、邪気のない姿だった。
 水銀燈は大きく息をついて構えを解いた。
 首をひとつ振って脇を向くと、若干非難の色を含んだ蒼星石の視線があった。
「真紅の腕、真紅のマスターの決意……こうなることを知っていてわざと利用したのかい、『水銀燈』を」
「まさか」
 水銀燈は力なく笑った。
「あれがあの男並みの法外な力を持ってるなんて、予想外もいいところよ」
 あの男、というのが誰を指すのか、蒼星石には言わずもがなだった。彼女達二人、それに恐らく雪華綺晶と蹲ったままの人形の記憶以外にもう何処にも存在しない異邦人。
 結局、彼がその力を発揮したのは一度だけで、それもその殆どは彼女達の前ではなかった。しかも、本人はそれをまともに認識していたかどうかも怪しい。
「でも、君はあの剣を使わなかった」
 蒼星石は硬い表情のまま、淡々と指摘した。追及の手を緩めるつもりはないようだった。
「メイメイに召喚させることはできたはずだ。あの剣なら、彼女を貫くことも切り捨てることもできた。違うかい」
 水銀燈は肩を竦め、頷いた。
「ええそうね。何が何でもあの人形を屠るって気はなかったわ。使える物は何でも利用する方が有利でしょう?」
 アリスゲームのためにはね、と水銀燈は笑い、蒼星石は思わず苦笑してしまう。
「……敵わないな、君には」
「何のこと?」
「僕は君ほど──」
 蒼星石が続きを言いかけたとき、蹲っていた人形の姿が不意に消えた。
「時間のようね。だいぶ手間取ったけど」
 水銀燈はやれやれと首を左右に傾けた。
「どういうこと?」
「夢が、切り替わるです」
 翠星石が真紅に告げる。
「ここからは、あのアホ人間の普通の夢です……」



[19752] 切り悪いところですいません。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/08/24 09:45
約130行。

非常に切りが悪いところですが、タイムアップのため今日のところはここまでです。

8/24 おかしなところ改訂。最近誤字とかのチェックが甘くなりすぎてる。登場人物大杉なのか。

*************************************************

 目映い光が辺りを包んだかと思うと、そこは明るい昼過ぎの教室に変わっていた。
 当番が給食道具を片付けた後なのか、教室の中には一クラスの半分ほどの人数が残ってそれぞれに好きなことをやっているようだった。
「最近こればっかりね」
 水銀燈はひょいと手近な机の上に飛び乗った。
「突拍子もない場所が出てこなくなったのはいいけれど、あまり変化がないのもつまらないものね」
「突拍子もない場所?」
 蒼星石は水銀燈を見上げて首を傾げる。
「例えば架空の宇宙ステーション、例えば古生代のジャングル。他にも記憶のどこから出てきたのか分からないような混沌とした場所とか……一度は教会の中、ってのもあったわね」
 水銀燈は遠くを見るような目になってそう言い、自分の言葉に慌てたように首を振った。
「……そうなのかい」
 蒼星石はそんな水銀燈の仕草を見なかった振りをして、内心でくすりと笑った。どうも例の病院裏の廃教会が舞台という訳ではなさそうだった。
「僕には新鮮だよ、この光景も。初めて見るものも沢山ある」
 へえ、と水銀燈は意外そうな声を上げて蒼星石に視線を向けた。
「貴女は契約した相手の夢をいつも覗いているものだと思ってたわ」
 蒼星石は苦笑した。
「マスターが命じれば毎日でも夢に入るさ。でも、できればあまり覗いてしまいたくないんだ」
「……それもそうね」
 水銀燈はまた視線を戻した。
 記憶の補正という、水銀燈が時間を掛けて手作業でやっていることを、蒼星石や翠星石は(それぞれ手段が偏っているとはいえ)自らの能力であっと言う間に片付けてしまうことができる。
 それだけに、一旦覗いてしまったら自分の思うように契約者の心を変えたくなってしまう誘惑も大きいのだろう。
「でも、君のしていることを否定するつもりはないよ」
 蒼星石も前を向いた。ジュンや水銀燈の媒介の少年の姿を目で探しながら、若干の羨ましさが混じった言葉を口にする。
「鋏で枝を切り揃えたり、如雨露で水を遣ったりして──ばっさりと不要なところを整形するのは簡単だ。
 自制さえしなければどんな相手に対してでもすぐにできる。それが僕たち双子の力だから。
 でも、君のやっていることは違う。よく知っている相手に、その人のことを想って接していなければできないことだ」
「それは誇大評価ね。私はこいつの記憶を、自分のできる範囲で、破綻が起きないように自分に都合のいい方向に改変して再構築させようとしているだけかもしれなくてよ」
 水銀燈は礼を言う代わりに素っ気無くそう切り捨て、大きく辺りを見回した。
「他の子は何処に行ったのかしらね。こう人間が多いと見付けにくいわ」
 ややわざとらしくやれやれといった風情を作り、水銀燈は天井近くまで舞い上がった。
 蒼星石は微笑んでそれを見上げ、視線を転じて教室の中の喧騒を眺めた。
 夢にしてはとても鮮明で、細かいところまで作られている。明るく開放的な雰囲気こそ正反対だが、心の木を伐る前に見たこの夢の主の夢の世界とどこか似ているように彼女には思えた。

──夢の世界を緻密に構成するという点では、心の木を伐る前の貴方も、今の貴方も変わらないのかもしれない。

 その感覚に安堵してしまうのは何故だろう、と蒼星石が首を傾げたとき、彼女が注意を向けていなかった教室の入り口の方から声があがった。

「しっかりするですチビ人間! ここはアホ人間の夢の中です、現実じゃないですよ」

 翠星石は制服姿になったジュンの袖をつまんで必死に言い聞かせた。
 ジュン達──ジュンと、彼と契約している二人、それに真紅を介してジュンから力を得ている雛苺──が出たのは同じ夢の中でも教室ではなく、その外側の廊下だった。
 廊下自体は薄暗く、まるで教室とは別の領域のように静かだった。
 水銀燈と蒼星石のように教室の中に移動しなかったのは、水銀燈の媒介の少年と彼等との距離を示しているのかもしれないし、ジュンの側で無意識に拒否感のようなものが働いたのかもしれない。
 ともあれ、三人の薔薇乙女達は引き戸を潜って教室の中を見回し、初めて見る光景を珍しがったり、既に何度か同じような光景を見て慣れている翠星石が得意げに雛苺に説明をしたり、と夢の風景を楽しんでいた。
 しかしそうしているうちに、彼女達の契約者の方は次第に顔色を悪くして、遂にはその場に座り込んでしまったのだ。
「どうしたのかしら」
 教室の中から金糸雀が顔を出したときには、ジュンは立てた膝を抱え込んで座り、俯いて上目遣いにぼんやりとした視線を引き戸に向けているだけで、翠星石と雛苺が話し掛けても反応を返さないところまで悪化してしまっていた。
「ジュンは大丈夫かしら」
「ここは、ジュンの心の傷に直に触れる場所なのだわ」
 金糸雀は真紅に目顔で尋ね、真紅は目を伏せて呟いた。
「ジュンも夢に入ることを決めたときに、こうなることをある程度は覚悟していたようなのだけれど……」
「そう……」
 頑張ってジュン、と金糸雀が右腕にそっと触れたが、ジュンはかたかたと震えるだけだった。
 それでもこの場から逃げ出したいと言ったり、目や耳を塞いでしまわないだけ、ジュンとしては意地を張っているのだ。ジュンの服装が制服に変わっているのもその表れだった。
 何度かトラウマに触れたときのジュンを見ている真紅にはそれが痛いほど分かったが、口にするのは躊躇われた。
 意地を張っているということは、この教室はジュンにとって、自分の力で何食わぬ顔で克服したい事柄なのだ。そうであれば、なけなしの意地を張っているなどと見抜かれたくもないだろう。
「貴女達、姿が見えないと思ったらここに居たの」
 水銀燈はもう一つの引き戸から出て廊下を飛んできたが、ジュンの様子を見ると眉根を寄せた。
「……まずいわね」
「あら、どうってことないのだわ」
 真紅は努めて明るい声で言った。
「確かに下僕は少し具合が悪そうだけど、私達に問題はなくてよ。それとも、私達だけでは貴女の用向きに差し障りが出るのかしら」
 水銀燈は何かを言いかけたが、真紅に問い掛けるような視線を向けると、一つ二つ瞬いてその言葉を飲み込み、ふっと息をついて別の台詞を口にした。
「そうね、差し障りはないわ。その気なら中の様子は見えるものね」
 実際には、引き戸を潜らなければ中の様子は見えない。それどころか音もほとんど漏れてこない。だが、水銀燈は厭味でそんなことを言っているわけではなかった。
 水銀燈は翠星石と雛苺の肩に手を置いた。
「貴女達はこっちにいらっしゃい。金糸雀、貴女もね」
 翠星石は抗議の声を上げそうになったが、水銀燈の顔を見て頷いた。部屋の中では少年の記憶が再生されている、それも何か重大な時点の記憶だろう、と見当をつけたからだ。
 そして、それは正しかった。当たっていなければよかったと後悔したくなるほどに正しかった。

 水銀燈に促されて三人がめいめい振り返りながら教室の中に入ってしまうと、真紅はジュンに寄り添って座った。
「ジュン」
 名前を呼ぶのは今日何度目だろうと思う。
 返答はないと思っていたのに、ジュンは僅かに身じろぎして真紅に視線を向けた。
「……お前は、入らなくていいのかよ」
「貴方を置いて行くわけにはいかないもの。全くどうしようもない下僕ね」
 こういうときの突き放した物言いは水銀燈の方が上手いのだろう、と真紅は僅かに羨望を覚えた。自分はどうしても何処かに本音がちらついてしまう。
「どうせ、どうしようもない奴だよ僕は」
 ジュンは恐怖も嫌悪感も何もかもぐるりと一周してしまったのか、膝を抱えるように組んだ腕の中に顔の下半分を埋めたまま淡々と言った。
「ウソの学校の中でも、こうやって教室に入れないで座ってるし」
 真紅は暫く黙ったまま、ジュンの横顔を見詰めていた。
 自虐の言葉には慣れていない。下手に慰めてはいけないのだとは思うが、では何と言葉を掛ければ良いのか、彼女には今ひとつ良い方法が浮かばない。それがもどかしく、そして自虐の言葉を安易に口にするジュンに苛立ちも感じる。
 それならば、と真紅はひとつ息をつき、素直な心境を口にした。
「ホーリエの選択に文句を言う気はないけれど、貴方の一体何処がこの真紅と共鳴しているのかしら」
「……なんだよ、急に」
 真紅は手を伸ばし、今度は顔をこちらに向けたジュンの頬に触れた。
「私の瞳を覗いて御覧なさい」
 ジュンは無言で真紅の瞳を見た。
「どう、何か見えて?」
 ジュンは何回か瞬いたが、よく分からないと言いたげにかすかに首を傾げる。
 真紅は僅かに落胆したが、それを表情には出さずに静かに語り始めた。
「人は皆、心に海を持っている。貴方も行ったことがあるでしょう、あの無限に広がる無意識の海のほんの一部がジュンの心の領海なの」
 人と薔薇乙女が契約するということは、薔薇乙女がその人の心の海から力を汲み上げることを契約することなのだ、と真紅は説明した。だから契約者の心が薔薇乙女に流れ込むことも起き得るのだと。
 だから、人工精霊はそれぞれの乙女の心に似合う心の持ち主を選ぶ。ホーリエがジュンを選んだということは、真紅の心とジュンの心は似通っているか、何処か平仄が合っているということなのだ。
「マスターの心はドールの心。蒼星石がマスターの心の影を壊していたら……あの子の魂は遠くに行ってしまったでしょうね。それ程までに契約者と私達は……今のジュンと真紅は近いものなのよ」
 私の瞳の中に貴方の心は映っていて? と真紅は小さな両手でジュンの頬を挟むようにして顔を近づける。
 だが、ジュンは辛そうな表情になって視線を逸らしてしまった。
「……僕はお前と近くなんかない」
 ジュンは腕を解き、真紅の肩を掴んでそっと引き離した。真紅は何も言わずにジュンを見詰めた。
「わかってるさ、そんなこと」

 真紅がジュンに薔薇乙女と契約者の繋がりを語っている頃、教室の中では過去の情景のリプレイが上演されていた。
 水銀燈がジュンの状態を見て表情を険しくしたのも当然だった。
 リプレイされているのは昨年の文化祭の前、ジュンのクラスから学年対抗プリンセスの候補が選ばれたことが発表されたことから始まる、ジュンにとっては非常に厳しい情景の連続だった。教室に入る前から躓いているのでは、到底正視に耐えられないだろう。
 水銀燈の媒介の少年は、一貫してあまりやる気のない風で教室の真ん中後方に座っている。雛苺の前契約者とは仲が良いようで折々に話はしているが、全体としてみれば何にもあまり関心を向けずにぼんやりと過ごしているようだった。
 リプレイの中のジュンはそうではなかった。プリンセス候補に選ばれた少女の方を熱っぽい視線で見遣り、翌日にはその娘をモデルにした衣装のスケッチを、あろうことか課題のノートに描いてしまっていた。
「随分積極的かしら」
 金糸雀は目をぱちくりさせた。
「でも、あのノートは国語のノートみたいだけど……」
 金糸雀の言葉が届いたわけではないが、ジュンもどうやらノートを提出する寸前にそのスケッチを描いたことを思い出したらしい。ジュンはそのスケッチを描いたページだけをノートから切り取り、鞄に仕舞いこんだ。
 水銀燈以外のドール達が息を呑んだり小さな悲鳴を発したのはその後の場面だった。

 ジュンが衣装のラフスケッチを描いたノートのページが黒板の真ん中に貼り出されている。
 勿論、賞賛の意味合いでなど欠片もない。むしろ反対だった。濃緑色のはずの黒板は色とりどりのチョークで書き殴られた非難、揶揄、悪意ある煽り文句といったもので埋め尽くされ、大袈裟に言えばほとんどその色を留めていない。
 遅れて教室に入った少年が見たのはその黒板の惨状と、その前で座り込んでしまっているジュンの姿だった。
「これは……」
 蒼星石は呆然と黒板を眺めた。
「酷いの……ジュン悪くないのよ」
 雛苺は泣き出し、金糸雀に縋り付いた。
「醜い嫉妬。才のある者が疎まれるのはいつも同じかしら」
「嫉妬だけではないです」
 翠星石はどうにかこらえていた。中傷の一つを指差す。
「男らしくないマイナーな趣味持ってる……って、排斥の対象になってるですよ」
 ジュンは既に数人の大人に抱えられて教室を出ていた。教室の中は事情を知らずに黒板を見て驚く者、黒板に中傷を書いた者を非難する者もちらほらと居たが、大半は黒板を遠巻きにして無感情な顔で眺めているだけだった。
「難しいことはわかんないけどさ、苛めの構図、ってヤツ? あれだよ」
 水銀燈の媒介の少年はドール達を振り向いてそう言い、黒板を消し始めた。しかし、チョークを大量に浪費して書かれた文字たちは分量が多すぎ、なかなか一気に消せない。
 結局少年はバケツに入れた雑巾を持ってきて、濡れ雑巾で黒板を拭いた。
「桜田は頭はいいんだけど、友達を作るのが下手で大抵一人ぼっちだったからさ」
 少年はドール達に向き直り、苦い声で言った。
「お高く止まってる、って言うヤツもいたし、変な趣味持ってるって前から噂を広めてるヤツもいた。そういうのが一気に噴き出したんだよな」
 もちろんジュンの鞄から絵を盗み出して黒板に貼り付けた者が直接の原因なのだが、少年はその一人か数人だけに罪を擦り付ける積もりはないようだった。
「あとは、便乗、便乗さ。多分半分くらいのヤツはただ面白がって書いただけ。雰囲気に乗っただけだ」
 少年はバケツの水で雑巾を洗い、残りをどうにか消してしまった。
「あと、俺みたいなヤツもいる」
 少年は本来の色になった黒板に、何にもしなかったヤツ、と書いた。一拍の間自分の字を見つめて、そして雑巾で拭き取った。
「注意すればできた。前から桜田の粗を探して付き纏ってるヤツがいるのは知ってたし、黒板の事だって、桜田より先に見つけたヤツが消しちまえば、桜田が見ることはなかったんだ」
 みんな最低ヤローだよ、もちろん俺もだ、と少年はクラスメイトを一纏めにして吐き捨てた。
「俺は桜田が課題ノートになんか描いて学校に持ってきたのは知ってたんだ。あのとき学校に持ってくんなよって注意しとけば、何も起きなかったかもしれない」
「意味のない繰言よ。それとも自虐で許しを請いたいの?」
 水銀燈は媒介の妄想を冷徹な言葉で止めた。

 蒼星石が水銀燈の心境を知ったら、微笑むか苦笑したかもしれない。
 媒介は実際には回りくどい方法でジュンにとってのカタストロフィを回避しようとし、それ自体は成功した。ただし、ジュンにとっては更に辛い結果を招来することになった──水銀燈はそのことを説明せずに、彼の言葉だけを窘めて話を終わらせた。
 その行為をしたことで、ある意味で更に酷い結果を招いたのだ、と告げるのは、行為の意図が何処にあったかの記憶を持たない彼にとってあまりに残酷な気がしたからだ。

 自分がそこを敢えて触れないことは、水銀燈が自ら口にしたように「都合の良い記憶の捏造」とも言えるのではないか、という認識は針のように水銀燈の内心のどこかを刺した。だが、彼女はそれを無視して言葉を続けた。
「あちこち記憶を失っていても、後悔する癖は抜けてないようね。卵が割れた責任の所在を後からどう論争しても、卵は元には戻らないわよ」
 その言葉は間接的に媒介のした行為をも赦すものだったが、口にした本人以外は恐らく誰もそのことを知らない。
「……ごめん」
 少年は素直に頭を下げた。
 水銀燈は軽く頷き、今日は本当に悪い方にばかり事が進んだわね、と溜息をつく。一気呵成に物事を進めるというのは、なかなかに骨が折れることだった。



[19752] どうにか。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/08/25 09:23
人数多いのはやりにくいですな。
約100行。

8/25 ひどいところを手直し。最近手直しばっか。

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 教室の風景はまた賑やかな昼休みに戻っていた。
 いち早く気を取り直した金糸雀が少年にあれこれ質問し、少年もすぐにいつもの調子に戻ってそれに答える。どこか薄ぼんやりしていたモノも少年が説明にかかると急にはっきりとした輪郭を持って存在し始めるのは、夢の中特有の光景だった。
 雛苺は巴の姿を見つけて盛んに話し掛け、抱っこしてとおねだりしてみたり、膨れたり笑ったりしてみている。もちろん夢の中の虚像だからろくに反応を返しはしない。雛苺もそれは分かっているはずなのに、楽しそうに巴の隣に寄り添っていた。
 蒼星石と水銀燈も少年の傍でなにやかやと話をしているのを確かめてから、翠星石はそっと教室の引き戸を開けた。ジュンのことが気になっていた。

──まあ、真紅がついてるから、大丈夫なんでしょうけど。

 翠星石にも、自分より真紅の方がジュンに近いのは分かっている。普段の日常では等距離と言ってもいいが、こと重大な局面では真紅とジュンは表裏一体といってよいほど近い存在だった。
 ジュンが何かを乗り越えようとするときは、必ず真紅が関わっていた。nのフィールドに漂っていた腕を取り戻したときもそうだったし、先ほどの人形との戦いでも、ジュンは真紅を必死に護ろうとして何かを吹っ切り、腕を繋ぎなおすことができたのだ。
 真紅がいればジュンには他に助けなど要らないだろう。
 それでも翠星石はジュンの様子を確かめたかった。理由は自分でもよく分からないが、自分だってジュンをマスターにしているのだから当然だ、と思うことにする。
 何処となくもやもやした気分のまま引き戸を開けると、ちょうど真紅が引き戸の前にいた。
「ジュンは……」
 真紅は少しだけ驚いたような表情になったが、大丈夫よ、とはっきりした声で言った。
「これから中に入ろうと思っていたところよ」
 翠星石は真紅の背後を見た。ジュンは廊下の壁に手をついて、前かがみになりながらもどうにか立っている。操り人形のようにぎこちなく、それでも一歩ずつ引き戸に向かってきていた。
 頑張って、と翠星石は声には出さずにジュンを見つめた。これで中に入れれば、ジュンは多分何かもう一つ吹っ切ることができる。
 それは何なのか、具体的には分からないけれど──
「──翠星石」
 思わず身を乗り出していた翠星石を真紅がつつく。
「あ、はい」
「もう水銀燈の用向きは終わってしまったのかしら」
 翠星石は一拍の間考え、いいえ、と答えた。
 教室の中は少年を中心にして雑談に花が咲き、何とはなしに和気藹々といった雰囲気になっている。普段の水銀燈ならそういうことを無駄だと断じて、用事は終わったと皆を追い出してしまうはずだ。
「元々水銀燈はジュンに話したいことがあったはずです。だから、多分」
「中で待っている、ということ?」
「はい」
 もっとも今はみんなアホ人間と騒いでるだけですけどね、と翠星石は水銀燈を真似て肩を竦めてみせた。
「そう。だったら、どうしても中に入らなくてはね。これだけ前座芝居を長く見せて貰ったのですもの、本番くらいはこちらから出向かなくては」
「……だから、そのために、もうここまで来てるだろっ」
 ジュンは青い顔のまま強がってみせる。
「ぼ、僕は別に教室に入れないわけじゃないんだ。ただ、ちょっとこういう世界に慣れてないから、調子が悪いだけで」
「それならば早くなさい、あまり待たせると水銀燈が痺れを切らして襲い掛かってくるかもしれないわよ」
「……わかってるよ」
 いざるように引き戸に近寄るジュンを、真紅は微笑んで見守っている。翠星石は何故かそれを見詰めるのが苦しくて、ジュンの顔に視線を向けた。
 ジュンが減らず口で言い訳ができるような心境になれるまでに真紅がどれだけ頑張ったのか、翠星石にはわからない。ただ、真紅は必要ならばいくらでも時間を掛けてジュンを励ますだろう、ということは知っている。
 真紅は不器用だ、と水銀燈は言った。そうかもしれない。それでも、真紅には時間がかかっても自分のやり方を通すだけの粘り強さと、それを裏付ける賢さと忍耐がある。
 翠星石はそういった資質には劣っている。その代わり、直感で物事を見抜く力や行動力には長けていた。
 そういった長所は、真紅にとってはいっそ眩しいくらいに映ることもあるのだが、今の翠星石自身としては全く意味のないことにしか思えなかった。
 むしろ、如雨露を持たないときの自分は全く無力だ、と思う。いつでも直截な言葉か捻くれた台詞しか掛けてやれないなんて。それでも──

「──頑張るです、ジュン」

 言ってからハッと気づく。今度はつい口に出してしまった。
「言われなくても頑張ってるだろ」
 ジュンは言葉だけはすげなく、しかしあるかなしかの感謝を込めて返事をした。
 翠星石は思わず口元を手で覆った。

──翠星石の気持ちが、通じたのですか。口を滑らせただけなのに……

 そんなことは契約しているから当然なのかもしれない、とは思う。しかし、それでも素直な嬉しさが胸を満たしていく。
 翠星石は泣いているのか笑っているのか自分でもよく分からない顔で、頷く代わりに毒づく。
「そんなヘナヘナな姿勢で言っても説得力ゼロですぅ。悔しかったらもっとシャキっと背中伸ばして二本の足で立ってみやがれですこのチビ人間」
「うるさい!」
 ジュンは顔を真っ赤に染め、今度は本当に怒りを露わにした。
「た、立って堂々とすればいいんだろ。やってやるよ」
 もう、引き戸まではわずか数歩の距離だった。ジュンは翠星石の言ったとおり、壁に寄りかかるのをやめ、背中を伸ばしてギクシャクと引き戸に歩み寄る。
 だが、それはあと僅かのところで止まってしまった。

 三人とも、暫く無言だった。
 あと一歩。それがなかなか踏み出せない。
 こんなときジュンの肩を抱いたり、後ろから支えて導いてあげられたら、と翠星石は思う。偶然にしても気持ちは伝えられるが、そういったことは彼女には無理なのだ。
 それは人形と人間だから、とか、作られたときに与えられた性格付けが、とかいった高尚なこととは無関係だった。単に、彼女とジュンの背丈の差だけの問題だ。
 それでも、できることはないわけではない。彼女は真紅の手を取った。
「翠星石……?」
 真紅の手を、ひどく震えながら引き戸の方に伸ばそうとしているジュンの手に重ね、自分もそこに手を添える。真紅はやっと得心したように頷き、ジュンの手を引き戸の取っ手のところに導いた。
「ほーらジュン、また前かがみじゃねーですか。陰険おじじもびっくりの前傾姿勢ですぅ。いっそ杖でも突きますか?」
 目の前の真紅は安堵したように微笑んでいる。それは先ほどまでの作った微笑ではなく、彼女自身の嬉しさが滲み出た笑いだった。
 ジュンがどもりながら抗議するのを聞きながら、自分は今度はちゃんと笑えているだろうか、と翠星石は思った。


「さて……全員揃ったわけだけど」
 少年はきょろきょろと周囲を見回した。
 彼の近くには蒼星石と水銀燈が座り、雛苺は無理をしてどうにか巴の虚像の膝の上に乗り、他の四人はジュンを真ん中にして、入り口近くの場所に集まっていた。
「みんな集めて、どんな話があるんだい」
 言葉を向けられた水銀燈は、最近お気に入りらしい教卓の上に飛んでいった。そこに腰を掛け、ジュンに視線を向ける。
「初めに言っておくけど、今日はことごとくサイコロに裏切られた心境」
 彼女にとっては概ね悪いほうにばかり転んだわけだが、水銀燈は悔しさや苛立ちは見せなかった。
「そこの媒介が酷い夢を見たお陰で、結果的には話したかったところ以外まで生々しく見せられたわけだけどね」
 皮肉たっぷりの口調で言ったが、当の本人には上手く伝わらなかったようだ。媒介の少年はどちらかと言えばこそばゆいような表情をしている。
 水銀燈はまじまじとその顔を見遣り、全員の視線が少年に集まってから大仰に肩を竦めてみせた。
「ま、事故だと思って頂戴。本人にもどんな夢を見るのかまでは操れないのだから」
 そもそも全員同意の上で同行したのですものねぇ、と言い置くのも忘れない。
 ブーイングこそ出なかったが、何人かはぶすっとした顔になった。
「あの子についても、やはり事故なのかしら」
 真紅は生真面目な表情のまま、真っ直ぐに水銀燈を見る。水銀燈は視線を逸らさずに答えた。
「あの人形の件は私の見込み違いよ。予想外もいいところだったわ。甘く見過ぎていたかもね」
 動き出して立ち上がるくらいのことは想定していたが、真紅を見て一気に記憶が戻るとは思いもよらなかった。しかも完全に全てというわけではなく、考えうる限り最悪の時点まで。
 まるで何者かにその辺りを操られているようでもあった。
 もっとも、仮に操る者がいたとしたら、その正体には大体目星はついているのだが。
「それで話っていうのは……」
 ジュンはそちらに興味が向いているようで、水銀燈を急かした。意地の悪い見方をするならば、彼にとってここは依然として居心地が良くない場所だから用件を早く済ませたいのかもしれない。
「人形のことなのか?」
「まずはそれね」
 単刀直入に言うわ、と水銀燈はジュンに視線を向けた。
「人間、貴方には、あの人形のボディと衣装を作って欲しいの」
「え? ぼ、僕があれの……なんでだよ」
 ジュンは混乱しているようだった。水銀燈はそれを無視して、事も無げに続ける。

「勿論、あの人形を現実世界に存在させるためよ」

 何のことか分かっていない少年以外の全員が一様に息を呑んだ。
 最初に小首を傾げてコメントしたのは金糸雀だった。
「水銀燈らしい大胆な提案ね、でも理由がわからないかしら」
 彼女は水銀燈の意図を肯定も否定もしなかったが、他の反応は概ね否定的だった。
「水銀燈、遂に頭イカレちまったですか」
 翠星石は直截な言葉を放った。
「アンタがその……『水銀燈』に拘りを持ってるのは分かってますけど、無茶苦茶です。そんなことできるかも分からんですし、出来たとしても何になるって言うんですか」
 真紅は翠星石を手で制してジュンを見遣り、水銀燈に視線を戻した。
「此処にいればあの子は曲がりなりにも自分の力で動けるのだわ。此処は幻影──アストラルでも存在することができる場所なのだから。でも現実世界ではそうは行かない。エーテルの体が自律して動くためには誰かが力を与えるか、それに代わるものが必要よ」
 例えばローザミスティカのような──真紅ははっとして水銀燈を見詰めなおす。
「まさか、貴女はローザミスティカを……」
「そうなったら美しいお話ね。でも生憎とただの可哀想な人形にそこまで入れ込むような趣味は持ち合わせてないわ」
 むしろ逆ね、と水銀燈はあっさり首を振った。
「此処を含めて、nのフィールドにあれを置いておくのは危険なのよ。おわかりでしょう、さっきのことだけでも」
 その点について異議のある者はいなかった。
 更にもう一つ、と水銀燈は若干間を置いて続けた。
「あれの力を雪華綺晶──第七ドールが利用する可能性もあるわね」
 真紅は瞬き、先程の水銀燈の言葉を思い起こした。
「貴女、第七に逢ったと言っていたわね、水銀燈」
「ええ。中々の狂いっぷりだったわよ」
 水銀燈は何かを思い出すように視線を天井に向けた。
「彼女は何もかも異質。それに、言わばあれの生みの親でもあるわね。もっとも意図して作り上げたのではなくて、勝手に育ってしまったのでしょうけど」
 真紅は少し顎を引き、金糸雀と視線を交わした。
「詳しく教えて欲しいのだわ、水銀燈。私たちの末妹と、あの子の作られた経緯を」
 水銀燈は頷き、長くなるわよ、話してるこっちがうんざりするほどにね、と前置きをしてから、自分の媒介のこと、そして雪華綺晶のことを順を追って語り始めた。



[19752] メインPCお亡くなり。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:94b9d754
Date: 2010/08/29 00:11
240行くらい。のはず。

8/27訂正:嘘です。140行。240ってなんだよorz すみません。

いつにも増してテンションの低い長話ですみません。
いやもうテメーのテンションが低いもので。

PC早く来ないかなぁ。

8/29 何箇所か修正。

**************************************************

 水銀燈が長い話を終えると、その場には何とも言えない空気が流れた。
 事前に話を知っていた双子の庭師以外の者にとって、水銀燈の媒介が奇妙な存在だったことはもちろん驚くべき事実には違いない。しかし未だに見たことのない第七ドールの異質さはそれを遥かに上回る衝撃だった。
「実体を持たないゆえに、何にも縛られない自由な存在……」
 そんな都合のいいものなのだろうか、と真紅は首を傾げる。
「制約はあるのよ。現実世界に出て行けない、力を振るえない、というのはアリスゲームを遂行する上で絶対的な不利かしら」
 金糸雀は床に丸を描くように傘の先を回した。
「捕食者としては優秀でも、正体を知られて警戒されて、例えばnのフィールドでいつも複数で行動されたら息を潜めてるしかないの」
 今度は動き回っている生徒の虚像を傘の先でひょいひょいと示す。なにやら彼女としては傘を説明の補助に使っているらしいが、お世辞にも役に立っているとは言えなかった。
「それにマスターの心を糧にしてるなら、一人か二人しか起きていない時代に姉妹の数を減らしていったら、下手をするとその先自分の糧が断たれてしまうかしら」
 翠星石は得心したようにぽんと手を鳴らした。
「今まで誰も会ったことがなかったってのは、そういうことだったですか」
「推測だけど、多分間違いないかしら。七人全員が揃って『起きている』時代に一気に勝負を掛けないと雪華綺晶の勝ち目はない。しかも複数を一時に相手取ったら勝てないかもしれない。こいつはハードルゲロ高かしら」

 ただし、と説明をしながら金糸雀は思う。
 こちらとしてもnのフィールドに潜む雪華綺晶を最初のターゲットにするわけには行かないから、初期配置時点ではさほど不利とは言えないかもしれない。
 何しろ何処にいるのかさえ知られていないのだから「誰かの次」の目標にするしかない。そして、雪華綺晶側は戦いの行く末をじっくり観察した上で、戦いがnのフィールドで行われているときを選んで好きなように介入できる。あわよくば漁夫の利を狙うこともできよう。
 気長に考えれば、どこか戦機が動いたところで後の先を取ることが出来る彼女はゲームのプレイヤーとして特殊だが立場は互角とも言えるだろう。
 だが、それは正体が知られるまでの話だ。
 金糸雀は巣を張って昆虫を待ち構える蜘蛛を思った。巣を掛ける場所をどれだけ選んだところで、そこに巣があると分かれば虫はなかなか寄り付かない。
 そして今、最初の待ち伏せに失敗してしまい、巣の在り処を虫達に知らせてしまった蜘蛛はどう行動するのだろうか?
 巣を掛け変えて更に時を待つのか、それとも慣れないけれども襲撃者として動こうとするのか。

「なんか、厭だな俺」
 水銀燈と雛苺がジュンのところに集まり、結果的に少し皆と離れてしまった自分の席で、少年は呟いた。
「どうしたんだい」
 隣の席に器用に座った蒼星石が少年を見上げる。
 彼女にとって、水銀燈の長い話を聞いているのは微妙な心境だった。退屈とは言わないがあらましは知っていたし、言わば当事者の一人でもあったからだ。
 それでも、蒼星石は同意や意見を求められたとき以外は黙って聞き役に徹していた。語る方に加わるには彼女の関わり方は薄すぎた。
 それについては致し方ないと思う。何しろ雪華綺晶が二人を襲撃したとき、彼女は自分自身のことで手一杯だったのだから。
「アリスゲームが大事ってのは知ってるけど、今の説明じゃ……なんていうか」
 昔の俺なら上手く説明できたのかな、と少年は情けない笑いを浮かべて蒼星石をちらりと見る。彼女は困惑して首を傾げることしか出来なかった。
「雪華綺晶って最後に生まれたんだよな」
「そうだね」
 蒼星石は少し遠い目をした。

 人形師にして錬金術師ローゼン、彼女等の父であり創造主は、膨大な時間を費やしてローザミスティカを生成した後、最高の素体──ローゼンメイデンを創り上げた。
 しかしローザミスティカを七つに割ったひと欠けずつを入れられた彼女達も、彼の追い求める究極の少女たり得なかった。
 一体作っては嘆息し、二体作っては絶望に打ちひしがれながらも、ローゼンは自分の娘達に愛情を持って接することは止めなかった。姉妹の数が六人になったときも、彼はまだ創るのを止めようとはしなかった。
 しかし、姉妹の誰にも見せずに七体目を作った後、ローゼンは遂に絶望の淵から帰ってこなかった。彼は近くて遠い何処かに去り、彼女達は野に放たれ、そして──

「作ったときはみんな、その時の最高傑作なんだよな」
 少年はぽつりと言った。蒼星石ははっとして少年の顔に視線を向けたが、少年は考えを言葉に纏めようと必死になっているだけで、その一言に特別に意味を持たせたわけではないようだった。
 蒼星石はまた、そうだね、とだけ答えた。
 彼女達は皆、最高傑作でありながら同時に不完全だった。それが薔薇乙女の誇りであり負い目でもある。
 彼女達が皆アリスになろうとするのは、父に逢いたいという願望のためだけではなく、真の最高傑作かつ完全なモノに成るためでもある。いや、何人かにとってはむしろその方が重要なのかもしれない。
「だったら……どうして雪華綺晶だけ、独りぼっちにしたのかな」
 少年は蒼星石に視線を向けた。彼女は返事に詰まり、その視線をただ受け止めるしかなかった。
「あの説明のままじゃあ、まるでアリスゲームをするためだけに生まれてきたみたいじゃないか」
 それは記憶を失ったことでほとんど何も知らない状態になってしまった少年だからこそ生まれた感想なのかもしれない、と蒼星石は思った。
 幼稚な感想かもしれない。だがいつもそうであるように、今回もまた彼女には頭ごなしにその感想を否定することはできなかった。
「……僕達だって似たようなものさ」
 金糸雀を中心に、雪華綺晶に対してどうすべきか、というような話題になりかけている他の面々を眺めながら蒼星石は呟いた。
「人間が子供を作って自分の遺伝子を残すように、僕たちはアリスゲームを克ち抜いてアリスになる。そう刷り込まれているんだよ」
 どんなに動くさまが似ていても、彼女達は人間ではない。遺伝子を残すことを最初から否定されているという点では生物であるとさえ言えない。
 しかしどれほど外見が同じだからといって、ただの自動人形でもない。自律して自我を持ち、生きる意味と闘う意味を明確に持っているのだから。
「本来、他のことは全てそのための準備や布石に過ぎない。マスターとの生活も、姉妹での語らいも……」
 少年は蒼星石を見詰めた。その視線を感じながら彼女は敢えて淡々と言葉を続ける。
「雪華綺晶の立場では偶々そういったものが周囲に無いだけなんだ。
 それに……これは僕の推測に過ぎないけど、彼女が本当にマスター達の心を吸って生きているのなら、その心に触れることだってあるんじゃないかな」
 最後の一言は、どちらかと言えば蒼星石の願望に近かった。
 少年は暫くの間、どうにか彼女の言葉を納得しようとするように黙り込んでいた。やがて、申し訳なさそうにごめんと首を振った。
「……それでも厭だな、俺。良いとか悪いとかじゃなくて、なんか、上手く言えないけど、厭だ」
 蒼星石はますます困惑して少年を見詰め返した。
 もしかしたら自分は何か大事な視点を欠いているのではないか、とふと感じてしまったからだ。
 少年は何を誤解したのか、ごめんな、とまた頭を下げ、ついでに帽子の上から蒼星石の頭をわしゃわしゃと撫でた。
 どうやら彼なりの謝罪のつもりらしいが、少年の撫で方は壊れ易い人形に対するものというよりは親しい元気な男の子を構ってやるときのように粗雑だった。
 父親からも今までのマスター達からも、こんな撫で方をされたことはなかった。彼等は常に彼女を大切なドールとして丁寧に扱ってくれていたし、そもそも頭を撫でるという行為自体、あまり一般的でない場合が多い。
 しかし、不思議と少年の手の感触は悪いものではなかった。彼女は素直にそのがさつな謝罪を受け入れた。

 蒼星石がもう少し散漫な性格か、そうでなくても気持ちに余裕があれば、少年の直前の言葉の意味をおぼろげなりとも理解したかもしれない。
 しかし、こういった契約者以外との些細な触れ合いが雪華綺晶には有り得ない、彼女の世界は完全に閉じているのだとこの場で再認識するには、蒼星石の感性は生真面目過ぎていた。


 夢から出ると、空はもう真っ暗だった。部屋の真ん中に敷いた布団で相変わらず太平楽な表情で眠っている少年をそのままにして、ユニットバスの鏡からジュンと薔薇乙女達はそれぞれの家に戻った。
 ジュンの部屋に戻った真紅は右手で時計を持って時間を確認し、ひとつ溜息をついた。右腕側で何かをするというのは久しぶりの感覚だった。
 もっとも、真紅にとっては片腕が戻ったことよりも、何処かが欠損していても自分は自分なのだということを知ったときの方が嬉しかった。右腕がなくても不便なだけだ。今なら、負け惜しみでなくはっきりとそう言える。
 今も彼女に背を向けてなにやらパソコンに熱中しているジュンをちらりと見遣り、もう一度時計に視線を落として先程のことを思う。

 別れ際、真紅は最後に鏡の前に残った。ちらりと部屋を振り返る。
「水銀燈」
 蛍光灯が消されて豆電球の明かりだけになった部屋の中で、水銀燈は姉妹達を見送ろうともせず、窓枠に座ってなにやら外を眺めているようだった。
「教えて貰ってもいいかしら」
 薄暗い中で水銀燈がこちらを向いた。真紅は風呂場を出て部屋の戸の前まで歩み寄った。
「あの人形がどうして『真紅』をあれほど憎んでいたのか」
「『そういう風に作られた』では満足できないの? さすが、無駄な知識欲の塊ねぇ」
 くすくすと笑い声が夜風に乗って吹き込んでくる。
「茶化さないで。……知りたいの」
「呆れた」
 水銀燈は肩を竦めた。
「どう考えたって面白くない物語なのはお分かりでしょうに」
「それでも知りたいの。お願い」
 貴女が話したくないのなら諦めるけれど、と言うと、水銀燈は座っていた足を組み替えて視線をまた窓外に向けた。
「腹部のないドールが勝手に動いて貴女の足元に擦り寄ってきたら、貴女はどうする?」
 ああ、聞くまでもなかったわねぇ、と水銀燈はにやりと笑い、先程の光景を思い出した真紅は恥ずかしさとからかわれたことへの怒りで頬を僅かに染めた。
「作られると同時に工房を出され、それからアリスゲームにのみ生きていた『真紅』は違う反応をしたのよ。どうやら、心霊現象には強かったようね。
 ローゼンメイデンの第一ドールと名乗るだけで、ただ『お父様』を求めること以外にろくに記憶も知識も持っていなかったその不完全な人形に手を差し伸べたってわけ」
 とは言っても、そのとき人形はもう逆十字のドレスを着ていたのだけどね、と水銀燈は自分を指差す。真紅はどきりとしたが、黙って頷いた。水銀燈の仕草は、まるで自分自身のことを話しているかのようだった。ただ、それは──
「世に放たれてから幾つかの時代を経て、その間ひたすら姉妹と戦い続けてきた彼女にとっては、その人形に優しくしてあげること自体が慰め……というのは言い過ぎかしらね。癒しだったのかもしれない」
 それは、まるで水銀燈自身が──
「『水銀燈』は作りかけの習作。あるいはジャンク。ローザミスティカも胴体部も持たないのに自律して立って動く化け物とも言えるわね」
 化け物という言葉に真紅が抗議しかけるのを、貴女だって化け物と思ったでしょう、と水銀燈はにやりと笑って制した。
「その人形が、人形らしく楽しく暮らしてくれること。それが彼女の望みだった。
 でも人形はあろうことかローザミスティカを手に入れ、いよいよおおっぴらにローゼンメイデンを名乗ることになってしまった」
 ローザミスティカは誰かから奪ったのではなくて、『お父様』が後から思い直して彼女にくれたらしいわ、と水銀燈はシニカルな笑いを浮かべる。
「どうして……」
「そこは明かされていないの。だから実も蓋もない言い方をすれば、作劇上の都合でしょう。『水銀燈』をより悲劇的に見せる為の。
 劇中の経緯から敢えて推測するなら、やっと『お父様』への想いに気付いて遅まきながら第一ドールとして認めてあげた、という筋なのかもね」
 水銀燈はあっさり切り捨て、あっさりと続けた。
「ともかく、それで彼女は思ったままを口にしてしまうのよ。貴女は作りかけの可哀想なドール、究極を目指して作られた私達とは違う、ってね」
 真紅はなんとも言えない気持ちになって水銀燈を見た。

「『水銀燈』は怒って『真紅』が大切にしていたブローチを壊してしまう。それは『お父様』から貰った大切なもの。それを見て、彼女は遂に本音を吐くのよ。
 『どうして……ジャンクのくせに。作りかけの……ジャンクのくせに!』ってね」

 端折っているけどだいたいこんなところね、と水銀燈は薄く笑った。これじゃ恨まれてもしようがないでしょう? と肩を竦める。
 真紅はありがとうと言い、ごめんなさい、と頭を下げた。
「謝るようなことをされた覚えはないけど」
 水銀燈は首を傾げた。真紅はふるふると首を振った。
「『真紅』のことを話していた貴女は、まるで自分の過去を振り返るようだったわ」
「そう?」
「ええ。貴女──戦いだけに生きていたという『真紅』は、貴女にとてもよく似ていたから。そんな風に突き放して話すのは、辛いのではなくて?」
 それなのに、私は貴女に無理を言ってしまった。ごめんなさい、と真紅は俯いた。
 水銀燈はやや困惑したように黙っていた。そういう視点があるとは思わなかったのかもしれない。
「それから、もう一つ」
 真紅が続けると、水銀燈はくすくすと笑った。
「やけに素直なのね。いいわ、神父の代わりに懺悔を受けてあげる」
「茶化さないで」
 真紅は少しだけむきになったような声を出したが、すぐに改まった調子になった。
「……ジャンクなんて言って悪かったわ」
 水銀燈は今度ははぐらかすようなことは言わなかった。それは『真紅』が『水銀燈』に放った言葉のことでないのは、説明されるまでもなかったのだろう。
 真紅はもう一度、ジャンクなんて言ってごめんなさい、と呟くように言い、顔を上げた。不粋だとは思うが、聞きたいことができたのだ。
「貴女の知っている世界でも、私は同じことを言ったのかしら」
「……シチュエーションに違いはあったけれどね」
 水銀燈は漫画の場面のように激昂する代わりに、真紅の右手を取った。
「そして貴女はこうも言っていた。
 『ジュンが迷子のぬいぐるみや私の右腕を蘇らせたように、呼んでくれる声に気付きさえすれば、誰もジャンクになんてならない。そうジュンが私に教えてくれた』
 ──それは、この世界でも貴女の想いとして捉えていいのかしらね?」
 真紅は目を見張り、それから返事の代わりに水銀燈の手をきゅっと握った。
「本当になんでもお見通しなのね」
 本音を言えば少しだけ怖い。今の水銀燈に仕掛けられたら、勝ち目はないように思う。
「たまたま知ってるだけよ」
 真紅は知らないことだが、水銀燈は以前、自分の媒介が蒼星石に答えた言葉を使った。それなりの諧謔を秘めた言葉なのだが、その意味も真紅には分からなかった。
 ただ、水銀燈に自分の心持ちが伝わっていることだけは、素直に嬉しかった。自分は元々戦いが得意ではない。それよりは、こうして姉妹や契約者、そしてその周囲の人々と心を通わせていたいのだ。

 実のところ、もう一つ真紅が知らずに通過してしまった出来事がある。

 水銀燈が漫画の場面のように激昂しなかったのは当然だった。怒る理由がなかった。
 漫画の世界の真紅は、この時はまだ水銀燈が柿崎めぐと巡り逢って、事実上めぐのために戦っていることを知らずに、水銀燈を激昂させる一言を放ってしまった。
『あなたのように人間を糧としか思わない子に、マスターとドールの絆なんてわからないでしょうけれど』
 それは、少なくとも漫画の世界では真紅が水銀燈の「外面(そとづら)」しか見ていなかったことを示している。水銀燈が決して自分の行動の裏を取らせなかった、とも言える。
 だが、水銀燈は敢えてそのことには触れなかった。

「もう二十一時ですか?」
 回想を破る明るい声が響き、階下でなにやらやっていた翠星石が部屋の扉を開けて入ってきた。真紅は目を上げて微笑んだ。
「いいえ、まだ二十四分三十七秒あるわ」
「じゃ、そんなに急がなくても良かったんですねえ」
 むう、と翠星石は少しだけ口を尖らせた。どうやら、明日の朝食用の何かの下ごしらえをしていたらしい。
「もう一度広げて続けてる時間はないですし、しょうがねーです。明日は早起きです」
「食えないもん作るなよ」
 背中をこちらに向けたまま、ジュンがぼそっと言った。翠星石がむかっ腹を立てて怒り、ジュンはそれを軽くあしらう。そのうちに八時からの番組を見終わった雛苺が階段を上ってきて、部屋の中の雰囲気はいつものこの時間帯のように混沌とし始めた。
 真紅はそんな様子を横目で眺め、ジュンの椅子の後ろに陣取って水銀灯の媒介からプレゼントされた文庫本を開いた。今日の夕方まで、一人では開きにくくページをめくりにくかった本だ。
 彼女は微笑んだ。確かに片腕しかないというのは不便だった。しかし、それより大事なことはある。この場の雰囲気、暖かさ、姉妹とジュンの声。
 些細な日常かもしれない。だが、もし何かのために戦うならばこの日常を守るために戦いたい、と真紅は思った。



[19752] またもやタイムアップ。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:94b9d754
Date: 2010/08/31 00:55
ちょっと資料漁ってるとこれだよ!
書けないですねぇ。停滞してます。

8/31 ちょっと訂正。

********************************************************

「御機嫌宜しゅう、黒薔薇のお嬢さん」
「随分とお久しぶりね、腹黒兎さん」
 二人は同時にお辞儀をする。片方は慇懃無礼に、もう一方はわざとらしく。
「今日もまた御出掛けですか」
「ええ。最近はすっかり暇なんですもの、散歩が日課になってしまったわ」
「おお、それはいけません。変化のない日常はつまらぬもの」
 兎頭の紳士はステッキを傘に変え、ぽんと一挙動で広げてみせる。
「いつ見てもお見事ね、その傘の開き具合は」
 黒衣の少女はくすりと笑う。心底楽しそうに見えないのは、口の端が釣り上がっているからだ。
「ところが魔法の傘だと思っていたそれも、今になってみればごく一般的な自動傘と同じ機能でしかないわねぇ。トリヴィアル(つまらない)!」
「おやおや、これは台詞を取られましたな」
 まさに剥製のような兎の顔からは紳士の表情を読むことはできない。その口調もまた、顔つき以上にその裏側を読めないものだった。
「そうです。科学の進歩は速い。いずれ人は生きて動く人形さえもごく当たり前に作り、それが世に出ることもあるでしょう」
 紳士は傘を畳んだ。傘は元通りステッキに戻っていた。
「そうなったとき、果たして我々は如何様に身を処さねばならないか。非常に重要な案件ですな」
「同情するわ」
 全く心の篭っていない声で少女は答える。紳士は慇懃に帽子を取って礼をした後、小首を傾げて少女を見た。
「ご同情は感謝致しますが、貴女も例には漏れませんぞ」
「ご心配ありがとう。警告として有難く受け取らせてもらうわ。随分貴方らしくない言葉だけど」
 少女は表情を変えずに肩を竦めた。
「でも、ご心配には及ばないわ。私に関してはね」
「それはまた、傾聴に値するお言葉ですな」
 紳士はおどけてステッキをぐるりと回した。
「どんな物も時の流れには無関係では居れません。たとえそれが天才の創り出した最高傑作であっても」
「そうね」
 少女はあっさりと肯定した。
「ただし、それは生きていればの話」
 紳士は首を傾げ、すぐにぽんと音を立てて掌をもう一方の拳で叩いた。
「おお、おお。このうすのろ兎にも話が飲み込めましたぞ。なるほど、なるほど」
 何度も何度も頷いてみせる。
「確かに、アリスはもうすぐ生まれます。そうなれば──」
「──そうなれば用済み。ローザミスティカを失って動きを止める」
 少女は言葉を引き取り、いっそ楽しそうに続ける。
「依然として魂がそこに在ったとしても、物言わぬ人形になってしまえば世俗の自動人形がどうあろうと関係ない。そうでなくて?」
「その通り、いや、まさしくその通り」
 ぱち、ぱち、と紳士は間の不揃いな拍手を送る。まるで歌のように奇妙な拍子を付けていた。
 相手を焦らすように随分長いことそうしてから、口の端を歪める。
「しかし、残念ながら聊かその予測は性急でもあります」
 少女は意外そうな顔を作った。紳士はステッキを振って台詞を続ける。
「死後のことは関係ない、とはよく言われる言葉。しかし首尾良くアリスと成った暁には、果たしてそのように言い切れるでありましょうや?」
「そうね」
 少女はまた、あっさりと肯定した。
「……アリスが生まれるときにはその一部になるのだったわね、皆、一様に」
「そうです、そうですとも、それについてはその通り」
 紳士はまた間の不揃いな拍手をした。
「しかし先程から貴女らしくないお言葉を続けられていらっしゃいますな、黒薔薇のお嬢さん。貴女こそは何を措いてもアリスに成る、そのための生き方を貫いていらっしゃったのではありませんか」
 紳士は少女を覗き込むような仕草をする。少女ははっきりと皮肉な表情を浮かべ、否定も肯定もせずに言葉を返した。
「ところで、私は少々忙しいのだけど。貴方の目的が久闊を叙することだけならば、そろそろお暇乞いをしたいところね」
「おお、これは申し訳ございません」
 紳士はまた慇懃に一礼した。
「わたくしめの用向きなぞ、貴女の貴重なお時間を割かせるほど重大なものではございません。それではこれにて失礼させていただきましょう。また後日」
「悪いわね、ラプラスの魔。それではごきげんよう」
「ごきげんよう、黒薔薇のお嬢さん」
 紳士が帽子を取ろうとしたとき、少女は紳士がしたように不揃いに手を叩いてみせた。紳士は──兎の剥製の顔にそういう表現が許されるなら──微笑に近いものを浮かべ、ぽん、と音を立ててその場から消えた。
 少女は一つ息をついた。
「どういう風の吹き回しなの」
 呟いて、いつものように自分の媒介の夢の扉をくぐった。


 ジュンはパソコンの画面を睨んで口を尖らせている。真紅は当然のようにその膝の上に座り、机の天板に手をついて画面を見守っていた。
「すぐには製作に取り掛からないのね」
 服はあっという間に仕上がったのに、と真紅は壁際のハンガーに掛けられた濃紺の複雑な形状のドレスを見遣る。水銀燈の媒介の少年の夢に入ってから今日までのわずか一週間で、ジュンは水銀燈のものとほぼ同じ形状のドレスを仕上げていた。
 ジュンは型紙さえ殆ど描かなかった。まるで必要な図面が既に全て頭の中にあるように、生地を無駄なく切り、縫い合わせ、刺繍を施して作り上げてしまった。
 しかし工程はそこで止まってしまっていた。服ができてもそれを着させるボディがまだ無かった。
「服のほうは作ったことがあったけど、ボディは初めてなんだ」
 二人が小声なのは、雛苺と翠星石が既に寝ているからだ。
 既に時計は二十三時を回っている。真紅も一度は鞄に入ったのだが、妙に寝つきが悪くて起き出してみると、ジュンがパソコンにかじりついていたのだった。
「フィギュアみたいに型取りしてレジンで複製するか、最初から軽量紙粘土で作る方法しか紹介されてないな……お、ここはビスクの作り方が出てる」
 ジュンは腕の中の真紅をちらりと眺め、何度か見た薔薇乙女達のボディを思い起こしていた。パーツの分割は今風の球体関節人形のように複雑だが、素材はビスク(二度焼き)という手法で作られた、硬くて軽い焼き物……のはずだ。
 本来割れやすいはずのそのボディが強靭なのは、素材や焼き方そのものが特殊なのか、それとも薔薇乙女達の手や顔が自在に動くように何か不可思議な力が働いているのか。
 どちらにしても、今作ろうとしているドールボディにはビスクそのものが使えない。どこかの焼き物工房にでも申し込まなければ、窯のないこの家では焼入れも前段階の素焼きもできない。
「強度的にはウレタンに真鍮線入れるほうがマシなのかな」
 紙粘土は本当に軽量に仕上げられるらしい。その分強度を稼ぐ必要はなくなる。
 しかし、もし水銀燈が意図したように人形が自律して動くなら、薄い粘土ではあまりにも脆すぎるような気がする。いや、その方が都合は良いのかもしれないが。
「でもウレタン型取りだと重さにばらつきが出そうだし……ムクで作ったら重過ぎるだろうし……それはビスクも同じか……」
 ぶつぶつ言いながらページをめくる。真紅は彼女にしては珍しく、興味津々といった風でそれぞれのページの画像を見ていたが、ジュンがページを移動するのに文句を付けることはしなかった。
「やっぱり窯を買って……あれ?」
 ジュンは目をぱちくりさせた。画面が急に真っ暗になってしまったのだ。慌てて本体を見たが、電源LEDは緑に点灯しているし、特に異音もしていない。
「まさか……これってまた」
 その予想は当たっていた。ジュンが真紅を抱えて机の脇に転げ込むのと、画面から黒い羽根が噴き出すのはほぼ同時だった。
「あら」
 肩から先だけ出した水銀燈は、机の横に並んで座ったジュンと真紅を見てにやりとした。
「さすがは真紅のナイトね。準備が良いようで何よりですこと」
「ナイトではなくて下僕だけれど、今の判断は的確だったわ」
 真紅はさらりと言い、下僕かよ、とジュンは口を尖らせた。
「ナイトの方が良いんじゃなくて? 頬が随分赤いわよ」
 パソコンのモニターを窓枠のようにして姿を現すと、水銀燈はそんな軽口を叩きながら一旦モニターから出、真紅の抗議の声を聞き流してまだ波打っている画面の中に腕を突っ込んだ。
「退席するか隠れなさい、真紅。ちょっと厄介なものを引きずり出すから」
 真紅は憮然とした表情になったが、黙って鞄のところまで退却した。それでも完全に鞄を閉じることもなくパソコンの方を見守っている。引きずり出されるものが何なのか、彼女にもだいたい見当はついていた。
 果たして、引きずり出されたものは真紅の推測の通りのモノだった。



[19752] あいも変わらず120行程度。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:94b9d754
Date: 2010/09/04 00:47
更新が遅れちゃいました。

******************************************************

 人形は裸の状態で、やはり相変わらず胴部の無いまま、パソコンのモニターから引き出された。
 胴部がないのにあたかも透明なパーツで繋がったように上下がいちどきに出てきたものの、その身体には全く力は篭っておらず、テンションも掛っていなかった。
「じっ……実体化?」
 いきなりの事態に、ああでもないこうでもないと悩んでいたボディ製作がほとんど必要なくなったことに気が付く余裕もなく、ジュンは目を見張るしかなかった。
「げ、幻影じゃなかったのか」
 妙に軽い音を立てて引き出され、キーボードの上に積み重なったそれは、ドールとしては大きかったものの、どことなく安物の人形のような風情があった。
 引きずり出す、と自分で言っていた水銀燈自身も唖然としている。ただし、彼女の視点はジュンとはまた別のところにあった。
「やけに軽いと思ったら……」
 自分とほぼ同じ背丈の人形を床に降ろし、手早く仰向けにさせると、彼女は内部の見える腰と胸のパーツをしげしげと眺めた。
「やっぱり、未塗装部分を見れば一目瞭然ね」
 人形の表面は白っぽい肌色、というよりは肌色がかったクリーム色に塗装されている。しかし、パーツの内部までは塗装されていなかった。黒い地肌がそのまま表れていた。
「どんな素材で出来てるんだ?……っていうか無茶苦茶だ、なんで実体化できるんだよ。元は想像の中だけのモノなんだろ」
 ジュンは座り込んだまま手を出そうとしない。好奇心に駆られて痛い目を見るのは懲りているのか、それとも別の理由なのか。
「炭素繊維強化プラスチック。俗に言うドライカーボンってやつ。レースマシンのカウルとかに使われている素材よ。軽くて強靭、熱にも強い……ええ、確かに無茶苦茶ね」
 水銀燈はにやりとしてみせた。
「こんな複雑なパーツの塊を全部カーボンで作るなんて。想像が産んだモノか、完全に採算を度外視して作った物でなければ有り得ないわ」
「へえ……ってそこじゃないだろ、僕が言ってるのはなんで実体化できたのかってことだよ」
 とは言うものの、素材の名前が出たせいで興味が勝ったのか、ジュンは水銀燈の隣に来て人形の胴部を覗き込んだ。動かないのを見て取った真紅も鞄から出て人形に触れてみる。
「顔や手は、私たち薔薇乙女そのものだわ」
「あいつもそこまでは材質の想像が及ばなかったようね」
 水銀燈は人の悪い笑みを浮かべた。
「あいつって……雪華綺晶ってやつのことか」
「いいえ。もし雪華綺晶が作るなら、当然陶製の焼き物……ビスクでしょう。末妹が欲しいのは他の姉妹達のようなボディ。こんな素材は美しくないもの」
 水銀燈は言い切って顎に手を当てた。
「これは私の媒介の仕業よ。いくら軽くて強靭な素材だからってドライカーボンで出来たドールを想像するなんて、おぞましいったら」
 あの男らしいと言えばそこまでだけど、と言う口調には嫌悪感だけでなく、妙な懐かしさのようなものも混じっていた。
「この子は雪華綺晶が彼の夢の中に作り出した舞台装置ではないの?」
 真紅は膝の上に人形の頭を乗せ、手櫛で髪を梳いてやりながら首を傾げた。裸の胸の上には可愛らしいハンカチを載せてやっている。
「そして、雪華綺晶が意図しなかったのに舞台装置は何故か勝手に成長して自我を持ち、魂も持った──貴女はそう説明したわ」
 水銀燈はちらりと真紅を見遣り、お優しいこと、と呟いてから答えた。

「成長というよりはあの男が作っていったのかもしれなくてよ。
 恐らく末妹の能力は夢を誘導すること。誘導するための舞台装置の「材料」は本人の中にあるのだから、複雑な部分は夢の主に勝手に作らせているはず。
 あの男は夢の中を緻密に作り上げる方だった。多分最初は薄ぼんやりしていたこれを、あの男は緻密に作りこんでしまった。自分の夢の世界の都合のいい住人としてね。
 そして、本人は無自覚だったとしても、あの男に纏わり付いていた何か奇妙な力が、これを『誰かが夢の中に置いていった実体のある人形』に近いものとしてあそこに生成してしまった」

 全ては憶測でしかないけれどね、と水銀燈は溜息をついてみせた。つくづく厄介なものに関わってしまったと言いたい気分のようだった。
「桜田ジュン」
「なっ、なんだよ」
 いきなりフルネームで呼ばれて、腰の空洞から球体関節の繋ぎ方を観察していたジュンはびくりとした。なんとなく気恥ずかしいような気分になる。
「胴部だけでもお願いできるかしら。素材は何でも構わないわ。そうね、上下の球体関節さえ十分な範囲で可動して、上半身の重量に負けない程度の強度があればいい」
 ジュンは腕を組んだ。
「レジン──ウレタン系のプラや紙粘土でも?」
「任せるわ。私は樹脂や工作粘土の強度については知識が無いから。貴方がそれで十分だと考えるもので構わないわよ」
「かーぼんというのは使えないのかしら」
 真紅が思いついたように言う。
「同じ素材では揃えられないの?」
「それは、原型を作ってドライカーボンのエアロパーツを作っている工場にでも特注すればできないことはないでしょうけど」
 でも高くつきすぎるわ、と水銀燈は眉をひそめた。
「もちろん技術的には問題ないでしょう。でもあまり現実的とは言えないわ」
「そう……」
 真紅は手を止め、残念そうな顔をして人形の顔を見た。
「貴女がそれでいいのなら、私が口を出す事柄ではないけれど」
 でも、と視線を下に向けたまま呟くように続ける。
「それで本当にいいのかしら」
「どういう意味よ」
 ハンガーに吊るされたドレスを見遣っていた水銀燈は視線を真紅に戻し、小首を傾げる。真紅は暫く言い辛そうにしていたが、意を決した風に続けた。
「神業級の職人がいて、良い素材のあてがあって、ここに奇跡のようにこの子がいるのに、それでも簡単な素材しか使えないなんて」
 残念だわ、と真紅は目を閉じる。
「仕方ないでしょう、それは」
 水銀燈はドライな口調で告げた。
「そもそも、人形のボディにカーボンなんてオーバースペックもいいところだもの。加工の手間を考えたらマイナスと言い切ったっていい。
 無理矢理軽量化しなくてはいけない物でもないし、強度はソフトビニールでも間に合う程度のものなのよ。なんでも金銭を積めば良いというものじゃないの」
「そうかしら」
 真紅は顔を上げ、目を開いて水銀燈を真っ直ぐに見た。
「貴女は『真紅』と同じ間違いをしているような気がする」
 水銀燈は虚を突かれたように黙った。真紅はまた目を伏せた。
「貴女は何故、貴女のマスターがこの子のボディを軽くて強靭な素材にしたいと思ったのか、分かっていないのではなくて?」
 私には素材の良し悪しは分からないけれど、その人の想いはおぼろげに理解できるわ、と真紅は人形の背中に手を回し、何かを拾い上げて水銀燈にかざして見せた。
 水銀燈ははっと目を見開き、何度か瞬いた。
「『水銀燈』は軽くて、しかも強くなくてはいけなかったの。自在に飛んで、戦うために」
 真紅がかざして見せたのは、水銀燈のものと見分けが付かない黒い羽根だった。

「ビスクでできたボディよりも強く、しなやかで、軽いボディがあれば」

 真紅は歌うように言った。何かが乗り移ったようにも見えた。

「『真紅』にも誰にも負けなかったかもしれない。
 狂気と言われ、姉妹から憎まれ、『ミーディアム』にも恵まれなかったけれど、いえ、それだからこそ、せめてボディだけは望みうる最高のものを……」

 口を噤み、羽根をそっと手放して、真紅はまた視線を人形の顔に落とした。

「姉妹で最も物理的な力に恵まれ、契約しなくても媒介に困らない貴女には分からないかもしれないけれど」
 真紅は人形の髪を撫でた。
「貴女のマスターはこの子にもう一つの翼を与えたかったのではないかしら。精一杯生きたけれど、最後まで力を満足に振るうことのできなかった『水銀燈』に……」
 水銀燈はふっと息をつき、肩を竦めてみせた。
「それにしては随分と適当な仕事をやらかしたものね。だったら胴のパーツも構築しておけば良さそうなものだけど」
 それもあの男らしいかもしれないけど、と言って、水銀燈はジュンを見た。
「いいわ。自作パーツ関係に強いショップは幾つか知ってる。もしドライカーボンを使いたくなったら言って。口利きはできないけど教えて上げるわ。……強制するわけじゃないけどね」
 ジュンは慌てたように顔を上げた。
「え、でも費用は」
「こちらで持つから心配ないわ。記憶を無くしたといっても本人が作ったものなんだから、作り忘れたパーツの経費くらい捻り出させてもいいでしょう」
 ただし手間賃は貴方に泣いてもらうけどね、と水銀燈はまたにやりとしてみせた。


 水銀燈が窓から去って行くのを見送ってからふと時計を見直すと、もう時刻は零時を回っていた。
「……いつも無駄に緊張させるよな、あいつ」
 はあ、と大きく息をついて、ジュンは真紅を振り返った。
「水銀燈だもの、当然よ」
 真紅もやれやれという表情になっていた。こと、この時代にあってはアリスゲームのために敵対していたから、という部分を差し引いても、元々あまり仲が良いほうではないのだ。苦手と言ってもいい。
「でも、変わったわ」
 真紅は苦労して人形にドロワーズとキャミソールを着せながら微笑んだ。
 ジュンは何故かそれを見ていられずに視線を逸らした。裸のときは胴部が無いことも手伝ってパーツの集合体としてしか意識しなかった人形が、下着を着けただけで急にエロティックな姿に見えてしまったのだ。
「無駄に攻撃的じゃなくなったことか?」
「それはやり方を変えただけかもしれないけれど、他にも変化があるわ」
 真紅は何度も人形の体を不器用にあちらこちらと動かしながら、どうにか下着を着せ終わった。
「他人の言うことを素直に受け入れるようになった。それは、とても大きな変化……」
 言いながら、真紅ははっとして動きを止めた。背中を向けてパソコンを見ていたジュンはその姿には気付かなかったが、真紅の意識に浮かんだ単語を無造作に言い当てた。

「成長って言うんだろ、そういうの」

「……ええ」
 真紅は呆然と頷いた。ジュンからは見えない位置のままだったが。

──私達人形は、成長しない。ただアリスゲームという衝動によって突き動かされているだけ……。

 それが真紅の認識だった。そして、彼女が知り得る範囲内では、今までの時代ではそれは常に正しい認識でもあった。
 彼女達は世に放たれたときのまま、それぞれに付与された精神と性格のまま、眠り、再び起きて契約者を変え、経験と記憶だけを積み上げて生きてきた。そう思っていた。
 そして、その認識こそが真紅の漠然と抱えている絶望でもあった。

──もしかしたら、私はとても大きな勘違いをしていたのかもしれない。

「──ジュン」
 真紅は水銀燈が「真紅のナイト」とふざけて言った、自分の契約者の名前を呼ぶ。
「なんだよ、急に黙り込んだと思ったら……」
 椅子を回してこちらを向いたジュンに、真紅は両手を差し伸べる。
「抱っこして頂戴」
 全くおこちゃまだな、とジュンはいつものように口を尖らせながら、慣れた手つきで彼女を膝の上に引き上げ、パソコンに向き直るでもなく彼女をゆるりと抱いてくれた。
「これでいいか」
 真紅はもぞもぞと位置を直し、いつものように返事をする。
「ええ。抱っこは上手になったわね、合格点だわ」
 手に手を重ねると、お子ちゃまの癖に人を子ども扱いするなよ、とジュンはそっぽを向いてみせた。真紅はいつものように少し気取った顔になり、ゆっくりと目を閉じる。

──もし、私達が成長できるのだとしたら。

 今はまだそう言い切れる材料は整っていない。だが、もし人間のように成長することができるなら。
 私は、何をすることができるのだろう。何をしたいのだろう。
 心地よいジュンの鼓動と心を感じながら、真紅は眠くなってくるまでのひととき、そんな想像を楽しんでみることにした。




[19752] いよいよやばい。いろいろと。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:94b9d754
Date: 2010/09/09 21:32
やばいこと1.このPCやばい。
やばいこと2.なんか体調よくない。
やばいこと3.そろそろ新PCきてセットアップとかやばい。

というわけで間隔開くかもしれませんのでよろしう。

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 数日が過ぎていた。
 ジュンはハンガーに掛けたままのドレスを見遣り、次に壁際に置いた椅子の上を見て少し疲れた表情になった。
 椅子の上には厚手の型紙で作った筒を胴代わりにして、例の胴のない人形を座らせている。下着だけでは可哀想だと雛苺が言うので今はジュンのトレーナーを着せているが、のりに言わせると「よく眠ってるから、お布団掛けてあげたくなるのぅ」ということで、ときどきタオルケットがその上から掛けられていたりもする。
 ただ、人形自体は相変わらずぴくりとも動かない。
 動力源が無いからだと水銀燈は説明していた。必要ならそのときだけ力を付与すれば動けるわよ、と言ってもいたが、その後水銀燈が力を付与してみたときも一向に動き出そうとはしなかった。
 真紅や翠星石の言うところでは「魂はここにある、でも自分の殻に閉じこもっていて殆ど会話が成り立たない。身動きしたくもないらしい」ということだが、それは水銀燈に無理矢理引きずり出されたからじゃないのか、とジュンは疑っている。あの夢の世界の中での暴れ具合を考えると力ずくで水銀燈がこの人形に勝てるとは到底思えないが、どうにもそんな風に思えて仕方がない。
 彼の推測が当たっているかどうかは兎も角として、問題なのは肝心の胴が原型さえ手付かずということだった。
 既存の人形に胴体部分を作りつけるというのは存外に大変なことだ、とジュンが気付くまでにはそう大した時間は必要なかった。
 胸と腰を採寸してそこに合う丸棒を押し込めば良い、というわけにはいかない。上下には関節を仕込まなければならないし、胴体そのものも単純な筒型で間に合わせるわけにはいかないのだ。大分タイトな球体関節の造り付けが必要になるだろう。
 それに加えてもう一つ問題がある。
 胸と腰のパーツを見る限り、人形はドールというよりはキャラクターフィギュアに近いボディラインをしている。要するにアニメのキャラクター、それも高校生から成年女性に設定されているような体型だった。
 それは正直なところ、ジュンにとって完全にではないものの未知の分野だった。当然ながら似たようなフィギュア類の実物は見たことがない。人形の服飾類はいくつも作ったことはあるが、それはドールだったりぬいぐるみだったりしていて、キャラクターフィギュアのようなものは対象外だった。
 いっそ見えない部分だから適当に作ってしまえばいい、と割り切ってしまえば簡単なのだが、それは彼の内心の何かが許さなかった。職人気質とでも言うのだろうか、納得できるまで徹底して作らなければ気が済まないのだ。
「材質なんて考えてる場合じゃなかったな……」
 人形が現れたときの真紅と水銀燈の遣り取りを思い出しても苦笑する余裕さえない。
 椅子の上の人形の髪を撫で、なかなか取り掛かれなくてごめんな、と小さく呟くと、ジュンはアイデアを得ようとパソコンに向き直った。
 部屋の入り口、ドアの陰から小さな黄色い姿がそれを見守っていたが、ジュンはその姿に気付くこともできなかった。

 金糸雀に似た小さな人形はトコトコとぎこちない動きで歩き、廊下の端で待っている二人の元に戻ってきた。
 その報告に何やら耳を傾けた後、金糸雀はふむふむと頷いてみせる。ジュンから貰って以来、金糸雀は「ピチカート二号かしら」といたくお気に入りで、ちょっとした「偵察」に人形をよく使っていた。
 もっとも、人形の外見はピチカート二号というよりはミニ金糸雀と呼ぶ方が相応しいのだが、そこのところは気にならないのか、敢えて自分の名前を避けているのかは分からない。
「確かにちょっと重症かしら。スランプってやつね」
「うー……」
 雛苺は眉を八の字にして、一生懸命にどうしようか考えているらしい。それは金糸雀からは泣き出す数秒前の顔にしか見えなかったが、案に相違して雛苺は涙を見せずに頑張っていた。
「胴体って難しいのね」
 ぽんぽんと自分のお腹の部分を叩く。
「おへそとかあるからかな?」
「おへそは……うーん、あんまり関係ないかしら」
 金糸雀は動きが止まった人形を拾い上げ、胸の下辺りを指差した。
「球体関節のドールは、普通は二分割で作ってあるの。鳩尾──この辺で上下に分けるのね」
「うん」
 雛苺はこくこくと頷いた。金糸雀は人形の足をひょいと持ち上げる。
「球体関節なら脚の付け根がよく曲がるから──この子はただのソフビ人形だからいい具合に曲がらないかしら──ポーズ取らせるだけなら二分割で十分なのよ。みっちゃんのドール達も二分割や分割なしだけど、股関節の球体関節がしっかり動けば大抵のポーズは取れるかしら」
 雛苺は自分の鳩尾のあたりを手で押さえ、はっと顔を上げる。
「あ! でも、あの子は新しいお腹付けたら、二つも関節があるのよ。三分割なのよ」
「そう! そこが大問題かしら。三分割した人形の胴体を壊しちゃうと後からはとても作りにくいの」
 金糸雀はびしっと人形の下腹部を指差した。
「普通は三分割にはしないのね。人間のお腹は柔らかいし背骨も多関節だから、確かに三分割の方が動きの再現性は高いんだけど、実際問題として二分割だと股関節から鳩尾まで綺麗に作れるし、鳩尾のところで球体関節を入れればほとんど人間と同じポーズができるから」
 そして、少し声を落として続ける。
「私達姉妹の中でも、お腹が完全に別パーツなのは水銀燈だけかしら」
「水銀燈は三分割なのー?」
 知らなかったのー、と雛苺は目を見張った。金糸雀はこくりと頷いた。
「水銀燈はいろいろと特殊なの。違う点は他にもいろいろあるけど……お父様が初めて自分で傑作と認めたドールだから、仕上がりはとても美しいわ。他の姉妹と同じに見えるでしょ」
「うん」
 水銀燈おっかないけど綺麗なのよ、と雛苺は無邪気に言う。それを見て金糸雀は何故か言葉に詰まったような素振りを見せたが、すぐに、ええっと、と唇に指を当てた。
「つい脱線してしまったかしら……そうそうそれでね、後から胴体を作るのは大変なのよ」
 金糸雀は人形の胸の辺りと腰の辺りを人差し指と中指で指し示した。
「胴体が壊れると、大体この間がなくなってしまうことになるのね」
 雛苺が自分の体を触ってみたりしてうんうんと頷くのを待って、金糸雀は話を続ける。
「この部分の細さとか、長さとか、お腹の張り具合なんかは、『大人の』フィギュアの美しさの何割かを占める大事な部分なの。特に、あの子みたいなセクシャルボディの子は、お腹が不出来だと全体のバランスが崩れてしまうかしら」
「ほぇー」
 何故か力説し始めた金糸雀に、雛苺は丸い瞳を瞬いた。微妙な反応に気付くこともなく金糸雀は脇腹と背筋とくびれの大切さを語り、ドールと男性向けフィギュアの違いはそこにあると言ってもいい、とまで言った。
「ジュンは今、そこで壁にぶち当たっちゃってるかしら。他の人の作ったところにパーツを組み入れる形だから、自分の美的感覚とボディを作った人の美的感覚も違うだろうし、前途多難かしら」
「ふーん……」
 雛苺は暫く考えていたが、不意にもやもやの晴れた表情になった。
「いいこと思いついたの! 水銀燈に頼んで、お腹のふくせいを作ればいいのよ。水銀燈も『水銀燈』も三分割なんだから」
 ね? ね? と小首を傾げて金糸雀の顔を覗き込むが、今度は逆に金糸雀の方が難しい表情になってしまう。
「それはちょっと無理かしら……」
「なんでー? 水銀燈なら背丈もおんなじくらいだし、少しちょうせいすればきっと合うのよ」
「確かに削ったり盛ったりすれば寸法はどうにかできるけど、そう簡単な問題じゃないかしら」
 金糸雀は手に持った人形の胴体の部分を軽く指で突ついた。
「水銀燈は確かにパーツ分割は同じだけど、基本は少女体型なのね。ぶっちゃけカナ達と同じ、言わばズン胴ってやつかしら」
 でもあの子はモデル体型っていうかフィギュア体型なの、と金糸雀はお手上げといった素振りをする。
「同じ大きさだからってぬいぐるみの胴体をドールにくっつけたら、みっともないおでぶちゃんになっちゃうでしょ? それと同じことかしら」
 大分大袈裟な喩えではあるが、それだけに雛苺にもよく分かったようだ。
「あぅ……」
 雛苺は困り顔になり、ジュンの部屋の方を見遣った。部屋からは何の物音も聞こえてこないが、多分今もジュンはパソコンと向き合って手懸りを模索しているのだろう。
「まあ、手は無いこともないかしら」
 金糸雀はにっこりと、取って置きの腹案があると言いたそうな笑みを浮かべる。
「ここはカナにお任せかしら!」


「……ってカナはゆーんだけど、ヒナは心配なのよ。カナ、たまに『どじっこぞくせい』が出ちゃってカラ回りするから」
 苺大福をもしゃもしゃと食べながら、雛苺は珍しくませた口ぶりで、ジュンというよりは金糸雀の方を心配しているようだった。
 雛苺に手元の大福を取られ、あーあ、といかにも残念そうな情けない声を出した水銀燈の媒介の少年は、雛苺の隣に座って口の周りについたあんこを拭いてやっている柏葉巴に視線を向けた。
「どんなアテがあるんだろ?」
「さあ……」
 巴は微笑みながら小首を傾げる。夕暮れの公園のベンチに座った巴は少し大人びて見え、柏葉ってこんな顔もできるんだなぁ、と少年は妙な感慨を抱いた。
 少年が巴の表情を見たことがあるのはほとんど学校の中だけだから、その感想は当然とも言える。巴のこの笑顔は雛苺の世話をしているとき以外は殆ど見せないものだった。
 こんな場所で三人が顔を揃えるのは偶然もいいところだった。「ぽすとにお手紙を預けに行った」雛苺を部活帰りの巴が見つけて抱き上げ、そこに買出しに来た少年が通りがかったのだった。なにやら確率を操作されているのではないかとさえ思えるような偶然だった。
「カナはね、マスターがたくさんお人形持ってるって言ってたの」
 そんな少年の感慨には気付きもせず、雛苺は話を続ける。
 金糸雀のマスターの草笛みつはドール好きが昂じて今の仕事に鞍替えしたほどで、部屋には大小さまざまのドールが飾られている。金糸雀がドールについて詳しかったのも、以前から人形のボディに興味があったからというわけではなく、マスターの人形を実際にポージングさせたり着替えさせたりと、みつの助手のようなことをやってみた経験から来たものだった。
 雛苺はそこまで詳しいことを知っているわけではなかったが、金糸雀が任せろと胸を張ったのはそういうことだろうと見当を付けていた。それなりに長い付き合いではあるのだ。
「でも、フィギュアまで持ってんのかなー」
「それはわかんないのよ」
 そこが心配だと言いたそうに雛苺は巴を見上げ、巴は元気付けるようにまた微笑んだ。雛苺はその表情を見てにっこり笑い、安心したように巴の胸に頬ずりする。
 微笑ましい二人の世界を眺めて、少年は思ったままをつい口にしてしまう。

「……お母さんって感じだなぁ」

「ふゅ?」
 こちらを向いた雛苺の口に、割った板チョコのひと欠けを押し付ける。雛苺は疑問符を浮かべたような表情のまま、取り敢えずそれを口に入れ、頬の中で転がした。
「いや、柏葉が雛苺のさ。なんか、雰囲気ってゆーのか、そんな感じ」
「えっ……」
 巴は雛苺の口の周りを拭いていた手を止め、ぱちぱちと瞬いてから一拍置いて頬を薄く染める。雛苺は溶けかかったチョコを喉を鳴らせて飲み込んだ。
「トモエがヒナのママ?」
 無邪気そのものの表情で巴を見上げる。巴はますます赤くなったが、何も言わず雛苺を抱き締めた。雛苺は嬉しそうに笑ってまた巴に頬ずりする。ひとしきりそうしていた後、雛苺はもぞもぞと体を動かして少年に向き直った。
「じゃあね、じゃあね、パパは?」
 明らかに一つの答えを待っている言葉だった。少年は間髪入れずに、期待どおりの答えを返した。

「そりゃあ、桜田に決まってるじゃん」

 わーい、と喜ぶ雛苺と、自分の言ったことの意味を把握しているのかどうか、傍目からは判断できない少年の顔を交互に見比べながら、困惑を絵に描いたような巴の顔は西の空の夕焼けよりも赤く染まっていった。



[19752] 復活の300行。でも二日分。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2010/09/09 21:32
PC復活。したと思ったら新PC来た。と思ったらArcadia移転してた。
台風も来た。そんな今日この頃です。
300行くらいありますが二日分なので大して多くありませんな。

そして、今回は大マスター登場の巻でもあります。

*******************************************************
「ええええええええっ、そんなぁぁぁぁぁ」

 日曜の朝の桜田家の応接間に、女性の悲鳴に近い叫びが木霊する。
 実際のところ、それだけならばほぼ毎日のことだ。のりか翠星石か雛苺、あるいは遊びに来た金糸雀。稀には真紅のこともあるが、今日のところはその誰でもないというのが珍しいところだった。
 叫んでいるのは草笛みつ。金糸雀の契約者であり、ドールに対する知識や熱量といったものは、恐らくこの時代に限らず数多の契約者達の中でも最右翼に位置するだろう。
 なにしろ、自分でドールの本体を自作する以外のことは一通りやってしまうだけの熱意があり、その熱意のために仕事も変え、そして将来はドール服のショップを開くという夢さえ持っているのだ。もちろん日本でそういった店を開くことがどれだけ経営的に難しいかは分かっているはずなのだが、それでも夢に向かって突き進んでいる。
 ただ、熱意が昂じて些か猪突猛進が過ぎるきらいはあり、そして、空回りする率もあまり低くはないようだった。

 今日の悲鳴の原因も空回りに近いが、そう言い切ってしまうのは気の毒なところもあった。
「それじゃあ、もう出来上がりってことかしら……」
 ややオーバーに肩を落としているみつの代わりに、金糸雀が恐る恐る尋ねる。あまりの急転直下のしょげっぷりにジュンも気の毒に思うというよりはやや引き気味になっていたが、うん、と小さく頷いた。
「まだこれからが長そうだけど、原型はだいたい出来上がった」
 今朝早くなんだけどさ、と言う口ぶりも幾分歯切れが悪い。
「のり……姉ちゃんも協力するって言ってくれたんだけどさ……」
 どういう種類の協力かはさて置くが、結局ジュンはそれを真っ赤になって断った。のりは非常に残念がっていたが、それもさて置く。天然と言うべきかブラコンと言うべきか、微妙なところだった。
 行き詰まっていたのを解決したのは昨日巴が持ち込んだ、数体の有名メーカー製のフィギュアだった。
 アニメ好きのクラスメートから借り出してきたというそれらは、数年前深夜に放映していたアニメのフィギュアだという話だった。まさに「大きな男の子向け、二次元キャラ立体化フィギュア」と言うべき出来上がりの代物で、真紅に言うところによると凄腕の職人の作品とのことだが、翠星石に言わせれば、チビ人間にはまだ早いです、という品物らしい。
 ともあれ、そのうちの一つがどことなく胴のない人形に似た面影を持っていたこともあって、ジュンは一晩を丸々費やして一気に紙粘土製の原型を粗方完成させてしまっていた。あとは粘土の乾燥を待って球体関節となる部分と接合し、上下のパーツと擦り合わせをすれば原型の完成ということになる。
「──なるほどね。今はどこに置いてあるのかしら」
「僕の部屋。まだスチロール型も外れてないけど」
 その言葉に反応したように、みつはがばっと身を乗り出した。
「ねえ、それ、見せてもらってもいいかな? あ、ううん、文句付けるとか偉そうに指導したいって訳じゃないの。その人形とかジュン君の作った胴体とか凄く興味があるのよ。それからねこれが本命なんだけど──」
「み、みっちゃん、ジュンが引いてるかしら。取り敢えず一旦座るかしら」
 金糸雀は慌ててみつの裾を引っ張った。みつははっと気が付いて座りなおす。
「ごめんなさいね、つい興奮しちゃって」
 てへっ、と舌を出してみせるみつに、ジュンは顔を引き攣らせないように努力しながらこくこくと頷いた。

──なんか、今までで一番凄いのが来たな。

 翠星石といきなり取っ組み合いを始めた水銀燈の媒介もなかなかインパクトが強かったが、彼は一応クラスメートだったこともあってそれなりに馴染みがないでもなかった。しかし今回は全く見ず知らずの女性だし、その上さっきは自己紹介もまともに終わらないうちに真紅と翠星石を両手に抱きしめて頬ずりを始めたのだ。
 巻く・巻かないの話から、自分達がどうやって薔薇乙女を「お迎え」したかというような話をしている間はノーマルだったものの、これでまた暴走しかけた訳だ。やはりこの人は情熱を増幅して少し外れたところにぶち当てる特技でも持っているのではないか、とジュンは半ば嘆息するような気分で考えた。


 水銀燈は宵っ張りで朝に強くない。特に最近は媒介の夢に入り込んでいることもあって、ほとんど昼夜逆転とも言える生活になっていた。
 あまりいい生活習慣と言えないのは分かっている。だが、鞄に入る時間はきちんと取っているし、特段疲労がたまってきているわけでもない。
 それでも自分の夢の中で、知識として知ってはいるが出会うはずのない人物と会話してしまうほどには疲れているのかもしれない。それがごく普通の夢のありようなのだと言ってしまえば、それまでなのだが。
「また君かね」
 長身の男はうんざりしたような素振りで水銀燈を見る。またこの夢か、と水銀燈は舌打ちしたい気分でそっぽを向いた。
「ええ、どういうわけかしらね」
 そこは人形工房だった。小奇麗に整頓されているのに、山のように失敗作のパーツが積まれたままになっている。普通はありえない光景だった。これだけまめに掃除されている仕事場なら、そういうものは誰かが片付けてしまっているはずだ。
「何度来られても、私の人形はそう簡単に完成しないし、もうお披露目先は決まっているんだ。この次の作品までね」
「いいのよ。ここにこうして私がやってくること自体に意味があるのでしょう、きっと」
「それもそろそろ聞き飽きた」
 そう言いながらも、男はいつものように椅子を勧める。水銀燈も素直にそれに座る。そうすると、男は水銀燈に気兼ねすることなく作業を始めるのだ。
「今日もまた、荒唐無稽な話を聴かせてくれるのかね」
 作業台に向いたまま、男は溜息をつくような声で言う。水銀燈はせせら笑った。男が本当はその話を楽しみにしているのは見え見えなのだ。
「気が向いたらね」
 とは言うものの、話さなかったことはない。水銀燈もその話をするのを日課の一つにしているのだった。日課と言ってもあくまで夢の中での話だが。
 暫くの間、男の使う鑿と鑢の音だけが響いていた。
 水銀燈はこの音の出所を知っている。媒介の見たアニメ作品でもなければ、それやら漫画を基に彼が膨らませた想像でもない。自分自身の記憶だ。
 遠い遠い、それでいていつも近い記憶。工房の中で姉妹達が作られて行くのを、水銀燈はこうして椅子に座って見ていた。椅子の上で様々な話を聞いて、様々な受け答えをした。
 ときには椅子を降りて様々にねだりもした。だが、ねだったモノが与えられることはいつもなかった。父親は優しくはあったが、工房の中ではそのときの仕事が最優先だった。
 水銀燈もそれを知っていながらねだるのだった。ほんの少しの間でいいから人形を作っている手を休めて自分の方を振り向いてほしくて。
「その微笑ましい話の娘がまた何故、そんな真っ黒な服を着せられたのかね。ご丁寧に逆十字まで標されて」
 珍しく、男は水銀燈のことを尋ねてきた。所詮自分の明晰夢だ、とあまり関心も無かったので気に留めていなかったが、案外これが初めてかもしれない。
「さあ、何故かしらね」
「はぐらかすのは良くないな」
「はぐらかしているのは貴方のほうでしょう。其処に掛かったドレスと、其処に座った人形が答えよ」
 水銀燈は作業台の上の人形を「座っている」と表現した。実際には、人形には下半身がなかった。
「容姿と服装が似ているからといって、意図するところが同じとは限らん。私には私の、君の父上には君の父上の、それぞれの思惑がある」
 くっ、くっ、くっと男の肩がわずかに震える。笑っているようだった。
「それとも君は、あの出来そこないの作り掛けと自分を同一視しているのかね。あんな、あんな」
 くくくく、と笑いが大きくなる。
「どうしようもない、がらくたと」
 水銀燈は肩を竦める。
「似たようなものでしょ、どちらも。完成に漕ぎ着けたかどうかは別として、所詮は失敗作に過ぎなかった」
「完成したかどうかは重要だと思うがね。それはまだ、失敗作にすらなれていない」
 男は背を向けたまま、持っていた鑿で人形を指し示した。
「作り上げていないからね。完成に近いところまで行ったが作業を放棄した、言わばジャンクの塊の一つに過ぎない」
 そうしてまた、くくく、と笑い、作業を続ける。
「放棄したにしては、随分と未練があるじゃないの。ドレスはこれ見よがしに飾ってあるし、人形自体はがらくたの山に埋もれさせるでもなく、そうして座らせて置いてある。確か名前もついていたわよね。やはり失敗作と見るべきではなくて?」
「私は『まだ、失敗作にすらなれていない』と言ったのだよ。確かにこの時点ではあれはがらくたに過ぎん。そして結果としても、がらくたの域を出なかった。動力源も無しに自ら動き出しただけあって力だけは人一倍あったものの、私の最高傑作に終に及ばなかった。その力を見込んで、後からローザミスティカまで与えてやったのにな」
 まあ、その最高傑作も、結局のところ弟子の作ったドールに敗れたわけだが、と男はさも残念そうに言った。
「結局あれのしたことは、ローゼンメイデンの一人をゲームから退場させ、一人を最後の場面で守ったことくらいか。後者は結果的には無意味な行動だったが。まあ、見方を変えれば与えたモノの対価くらいは支払ったとも言えるだろう」
「あれだけ暴れれば十二分に支払ったと言えるでしょうね」
 水銀燈は人形に視線を向けた。灰白色の髪の人形は動き出す素振りも見せない。
「むしろ貴方の思惑が、アリスゲームという名の下に自分の娘達を殺し合わせる退廃的な娯楽にあったのなら、その人形はどのローゼンメイデンよりも貴方のお眼鏡に適う働きをしたのではなくて? だとしたら、むしろ私と姉妹達なんか足許にも及ばない大成功作よ」
「はは、それは面白い」
 男は鑿を置き、ぱちぱちと手を叩いた。その仕草は誰かによく似ていた。
「だが残念なことに、その人形はがらくたなのだ。今も、そしてこの時点から見た未来においても」
「そうかしら」
「そうなのだよ。何故ならあれは、完璧な少女たり得ない。なにしろ当初は姉妹のうちに数え入れられず、あまつさえ体さえも作り掛けのままなのだから」
「口ではそんなことを言っても、最後の最後で貴方はその人形に対する今までの扱いを見直したのではないの? 復活させるときボディを作ってやったでしょう? まさかお忘れかしら」
「ああそうとも。ご褒美さ。がらくたにしてはよくやったことに対するご褒美。そして新たな、腕力にものを言わせない戦いに挑ませるためのアメ、でもある。実に哀れなものじゃないかね、物理的な力が必要なくなってから物理的な欠損を補ってもらうというのは」
 男の背中がく、く、とまた震えるのを見て、水銀燈はやれやれと肩を竦めた。
「……悪役を気取るなら止めはしないけど、結局のところは薔薇水晶とかいうドールとの戦いの後、貴方はその人形に対しても他のローゼンメイデンと同じスタートラインに立たせることに決めたわけでしょう。だとすれば、その人形はやはりがらくたで終わったわけではないわ。
 むしろ、貴方はその人形をがらくたから失敗作さえ越えて他の姉妹達と同じ場所にまで引き上げるために、ラプラスの魔や自分の弟子までも巻き込んで、現実時間で百何十年も掛けて延々と回りくどいことをやってのけたと言っても過言ではないわね」
 男は黙りこんだ。鑿の音も鑢の音も止まっていた。
「貴方は死んでもそれを認めることはないでしょうけど、貴方達の紡いだ物語は全て、貴方がその人形の立場や状態を他の姉妹達と同じくするための布石だった。言い換えれば他人にも自分にも素直になれない貴方の、その人形に対する不器用な想いの軌跡。そんなふうに見ることも出来なくはないわ」
 かけがえのない自分の作品を二体も犠牲にしてね、と水銀燈はかすかな羨望を交えて言葉を終えた。
 男は黙ってまた作業を始めた。背中が震えているのを除けば、それは会話を始める前と何等変わらない光景だった。

 暫くは、鑿と鑢の音しかその場にはなかった。やがて、男はぽつりと言った。
「君は自分を失敗作だと言い切っている」
 水銀燈は無言で男の背中から視線を逸らし、人形を見た。人形はぴくりとも動かない。水銀燈の夢の中なのだから動き出してもよさそうなものだが、動き出したとしてもそれは現実世界に引き出されて胴部の補修を待っている人形そのものではない。水銀燈の夢の中にある虚像だ。
「それは正しい認識だろうか?」
「……少なくとも私はアリスではなかった。その意味では間違いなく、私は不完全で失敗作よ」
「はぐらかすのは良くないな」
 男は先程と同じ台詞を口に出した。水銀燈は言い返さずに男を見遣った。
「数日前から思っていた。君は自分が他の姉妹より劣っている、だから遮二無二ローザミスティカを集めなければ、姉妹には勝てないと言いたいのではないかと」
 手を止めずに男はぽつぽつと喋った。
「そして様々に類推してみた。黒い翼と服を纏わせられたからなのか。最初に作られたからなのか。契約についての特異性か。それとも、そのボディに欠陥があると思っているのか」
 水銀燈はちらりと人形を横目で見た。相変わらず人形は動く気配すら見せない。
「部分的にはどれも当たっているだろう? そして、君の懸念事項は恐らく、すべからくある意味で正しい。君に不完全な部分、他の姉妹より劣っている部分は確実に存在する」
「……でしょうね」
 素直な声音で水銀燈は答えた。男は向こうを向いたまま軽く首を縦に振った。
「君は紛れもなく、不完全な失敗作だ。だが……」
 男は椅子を引き、できたばかりのパーツを取り上げて木屑を払った。水銀燈の冷静な部分が軽い驚きを感じる。アイホールも開けられていなかったが、それは、彼女の目にはドールの顔部分のように見えた。
「まさか、顔が木彫とはね」
「これは手慰みだよ。本物は粘土で作り、窯で硬く焼き上げる」
 言いながら、彼は人形に歩み寄り、そのうつろな顔面に仮面のように木彫の顔を押し当てた。そして、手早く人形の髪をツインテールに纏め、前髪を梳いた上で、懐から出した赤いボンネット調のヘッドドレスを器用に被せる。
「さあ。何に見えるね?」
 言われるまでもなかった。髪の色は違い、その長さも、末端のカールも無かったが、そこには即製の真紅がいた。
「君の、他の姉妹達との違いなど、私に言わせればこんなものだ。Aの代わりにBを与えられ、Cに劣る分Dで優る。その程度だ。ちょっとしたことで補いはつくし、AとB、CとDを入れ替えれば均質になる。
 君と、君の五人の姉妹達は全て、言ってしまえば私の作った真紅以外のドール達のようなものだ。それぞれ欠けたところがあり、ユニークな部分もある。全てが失敗作であり、彼にとっての最高傑作だ。君の言うとおりだな。
 君のお父上とて全能ではないだろうから、付与された能力の種類によって、結果として優劣は付いてしまったかもしれないがね。まあ、そんなものは些細なことだ」
 男は手際良く人形の頭を元に戻した。再び人形は水銀燈に似た顔に戻り、何事も無かったようにそこに止まっている。


「凄い……凄いわ。神の子を見つけちゃった……」
 ジュンの部屋で、周囲の視線を全く気に留める風も無く、みつは完全に舞い上がっていた。視線は、何気なく壁際のハンガーに掛けられているドレスに釘付けになっている。
「天使。悪魔的天使……。今回のドルフェス出展作のテーマに合わせたとしか思えないわッ。蟲惑的でありなおかつ冷笑的、神にも刃向かう凛とした雰囲気を持ちながら少女の愛苦しさを生かす大胆なデザイン……! 神様神様、年始参りくらいしかやってないけど神様、貴方は私に自らの子を遣わしてくださったの? これも日頃の行い? 毎年お賽銭けちらずに払ってるから? 今年の運勢凶だったのは超クールだと思ってたけどもしかしてツンデレだった? それともこれは貧しい少年が死の間際に見たルーヴェンスの絵画ってこと? いいえまだ私死ねない、到底死ねないわせっかくこんな素晴らしい才能にめぐり合えたっていうのに! あああパトラッシュ私まだ全っ然眠くないから! だから連れて行かないでおじいさんのところには貴方一人じゃなくて一匹で行って明日の朝の牛乳配達は私が全部やっとくからあの牛乳缶クソ重いけど!」
 明らかに天国でなく何処か異次元に行ってしまいそうなみつの雰囲気に、部屋に入りかけた翠星石達はその場で固まってしまった。部屋の中ではジュンが必死に何か言っていたが、一言言うたびに相手のテンションがいちいち上下していくので辟易しているようだった。
「……なんかいろいろとネジがぶっ飛んでやがるです」
「ああなっちゃったらみっちゃんは誰にも止められないかしら……ネジっていえば、初めて巻かれたとき、最初に感じたのは火傷しそうなほっぺの熱だった……」
「カナ、あいと、あいとーなの」
「うう……かえって切なくなってしまったかしら……」
 ぐす、と鼻を鳴らす金糸雀の脇で、真紅は一人冷静な表情だった。
「貴女達」
 部屋の中の喧騒に視線を遣らずに真紅は言った。
「こちらはこちらで話があるの。行きましょう」
 三人は一瞬虚を衝かれたようにぽかんとしたが、顔を見合わせてから揃って頷いた。


「第二ドール金糸雀。彼女の性格は人懐こく明るく、しかし才気走ったものとされた。そして、容易にめげない克己心を根底に持つ。
 小柄で腕力には劣るものの、人工精霊の手助けを得てある程度空中を浮遊でき、音を使った技も持たされた。
 マスターへの依存度は小さいが、性格的にマスターを大切に思うようになることが多かっただろう。
 ローザミスティカへの執着はそれほど大きくないが、目的意識は高い」
 相変わらず背を向けたまま、男は歌うように言った。
「今日は厭に多弁なのね」
 水銀燈は苦笑した。
「やめるかね?」
「いいえ。その調子で全員分お願いするわ」
 男は軽く頷いた。
「そこまでの二人は、言わば個で全てを網羅しようとしたのだろう。どちらも完成度は高かったが、完璧とは言えなかった。そこで彼は考える。ある程度の完成度を持った二人に、お互いの不足を補わせれば良いのではないか。一人では無理でも、二人なら高みに到達できるのではないか。
 そうして作られたのが庭師の双子だった。
 一方は前向きで猪突猛進、臆病な面も見せるが好奇心が旺盛。他方は思い遣りに富み慎重だが容易に曲がらない信念を持ち、いざとなれば冷徹果断になれる。そして、二人とも感受性は強かった。
 技においても二人は表裏一体となった。そして他の姉妹には無い大きな力──他人の心をある程度操れるという能力を付加することで、更に『何か』を獲得させようとしたのかもしれない」
「何か、とは?」
「私は彼ではないから、その点は分からない。私が私の作った姉妹に持たせた能力は、極めてシンプルだから。
 即物的なパワー、音波を操るパワー、心を操るパワー。それらのいずれかをローザミスティカに込めただけだ。だから、私の娘達はローザミスティカを奪えばそのパワーも振るえるようになった訳だが。
 君の父上はそれを人工精霊に与えたり、逆に人工精霊を増幅器としてのみ行使させたりしている。結果は同じだが、そこに至る過程は異質過ぎて推測しかできない」
「ふむ」
 水銀燈はちらりと腕時計を確認するような仕草をした。
「続けて頂戴」
「そのようにかなり大胆な作りをしたのだが、しかし、これは失敗だった。双子は性格付けの強さと二人一組という行動形態、そして何よりあまりにも平仄の合うお互いを持ったゆえに、強く依存し合うようになってしまった。高みに到達する、どころの話ではなくなったわけだ。
 彼はここで初心に帰ることにした。つまり、次のドールは今までの姉妹達の経験を踏まえて、その時点での全てを込めて正攻法で作ったのだ」
 水銀燈は溜息をついた。
「それが真紅」
「そう。高潔で思慮深く、知識欲旺盛だが慎重で、固い信念を持つが他者を思い遣る心を持ち、技に依存することのないよう特異な能力を持たないが、その代わりに物の時間を巻き戻せる時計という重要な品物を持つ」
「でも、彼女も至高の存在には届かなかった」
「それら要素を全て併せ持った結果、彼女はとっつきにくく頭でっかちでか弱い存在となってしまった。後年、ローザミスティカを巡るゲームでは他に弱い立場の姉妹がいない限り繰り返し真っ先に狙われるような。性格付けも厳し過ぎたのだろうが、彼としては気付いていなかったのだろう、作っている間は」
「それでも、彼女は『選ばれた』わよ、マエストロのパートナーに」
「さあ、それも私には分からない方面の話だ。私の真紅は確かに桜田少年を『選んだ』が、これは選ぶ側が逆だからな。君の妹が本当に、君の言うように『選ばれた』のなら、それは私には理解できない世界の話ということだ」
 男はちらりと水銀燈を振り向き、水銀燈は肩を竦めた。
「事ここに至り、彼は自分にほぼ絶望してしまう。結局自分の思う至高の存在など、自らの手では作り出せないのではないかと。神ならぬ自分の想像力や創作力には限界があり、理想を具現化しようとしてもどこかしら届かないのではないかと。
 そして、次の娘には、敢えて彼が避け続けてきた要素だけを盛り込んだ」
「純真無垢、天衣無縫……」
「そして、未完成。雛苺はある意味で他の姉妹とは反対の手法で作られた。その人形としてのボディ以外は。
 だが、そうしてできあがったのはどこにでもいる素直で可愛い子供に過ぎなかった。至極当然だがね。成長することに全てを託したのだから、成長する前の段階で完成しているはずがない」

「結果として、君達は全て何等かの欠陥を抱えたが、それは能力的な不均一という意味でなく、どちらかと言えば性格的なあれこれだった」
 男の言葉に憐れむような響きが幾らか混じった。
 その憐れみが自分達に向けられたものでないことは、水銀燈にはよく分かっていた。
 彼は自分の娘達にやや不均等な能力を与えた。そしてそれは、自分達よりも物理的な力に優り、幾らか戦闘的な彼女達にとっては致命的な格差でもあった。
「よく分かる話だけど、まだ総括には早いのではなくて? 貴方は五人分しか考察を話してないわよ」
「ああ済まない、君の分が未だだったな。だが分かってほしい、私にとって金糸雀から雛苺までの五人は、自分の作品でもあるのだ」
 水銀燈は鼻を鳴らし、素直じゃないこと、と足を組みなおした。
「どこまでも水銀燈はがらくただと言い張りたいわけね」
「それはイエスでもあり、ノーでもあるが、君の話とは無関係だろう」
 男は作業台に道具を置き、水銀燈に向き直った。
「さっきも言ったとおり、君は他の姉妹とさして変わらない。強いて言えば、君と真紅だけにしかない特徴はあるが」
「そのときの実力を注ぎ切った、ということ?」
 男は頷いた。
「君は薔薇乙女として最初の作品だけに、彼は持てるものを全て注ぎ込んだ。仕上がりの美しさを犠牲にして人間に近い動きに拘った腰部と胸部の二重の胴関節こそ、胸部関節の適切化で金糸雀以降は使わなくなったが、君に初めて使い、その後の姉妹達に使いつづけた技法は数多い。むしろほぼ全ての技術は君で既に完成されていたのだ」
「言わばテストベッド。試作品ということね」
 水銀燈の皮肉な言葉に男は渋い顔をする。
「君が試作品かどうかについては興味ある議題だが、今のところは私にはそうは思えない、とだけ答えさせていただこう。
 君のコンセプトは、天使だった。誇り高く自分を貫く意思の強さを持ち、高く羽ばたける翼を身につけている。自分の内面は誰にも見せず、誰かのために一途に生きて行く。無駄なことに脇目を振ることもなく、愚直なまでにまっすぐに」
「誰かに言わせれば『馬車馬みたい』だけどね。全く上手いことを言ったものだわ」
 水銀燈は今では自分の記憶の中にだけある言葉を思い返していた。言ったのは決して好きにはなれなかったが、嫌いにもならなかった人物だった。まだ数ヶ月と経っていないのに遥か昔のことのような気がする一方で、まるで今も薄汚れた作業着姿のまま肩を竦めながら、何か手を出すでもなくこの場をただ眺めているようにも思える。
「君には契約者との繋がりはさほど重要ではなかった。それは、君が個として完成していたからだ。
 他の姉妹達は契約者がいなければ力を振るえないが、その理由は簡単だ。奇形的に性格付けされた彼女達は、傍に人の想いがなければ暴走しかねない。何があっても人から遠ざからないように、彼は言わば保険として契約という行動の制限を設けた。考えてみたまえ──」
 男はほぼ完成しているドールを棚から下ろし、机に横たわらせた。
「君を作り始めたときの彼は、それこそ永年の想いを結晶化させていたはずだ。それこそローザミスティカを生成しようとした頃からの、彼本来の理想だ。その理想には──あくまでその時点までは、だが──揺るぎ無いものがあった。それが苦し紛れの迷走を始めるのは、君を作った後のことだ」
「それは取りも直さず、私が失敗作だったからということでしょう」
「否定する訳ではないが、私が言いたいのはそこではない」
 男は苦笑した。
「少なくとも君は、思いつきやその場のひらめきで作られた代物ではないということだ」
 言葉にもひどい苦味があるように、男の顔は次第に歪んでいった。自分の身に照らして、自分の作品のうちのいずれかに思いを馳せてしまったのだろうか。
 顔を強張らせながら、男は続ける。
「結果的に彼の力が、彼自身が求める水準に及ばなかったとはいえ、君は確固たるコンセプトに沿って作られた。だから君には音を操ったり心を強制的に動かすような奇妙で特殊な力はない。ただ、羽を自在に操ることができるだけだ──これは、ある程度原点に立ち返って作られた真紅も同じだな。彼女は強くあれとすら求められなかったから、能力はより限定されているが」
 水銀燈は眉根を寄せたが、何も言わずに続きを促すような素振りをした。男は苦い顔を隠そうともせず、これで終わりだ、と素っ気無く言った。
「そんなに不満そうな顔をするものじゃない。言っただろう、私から見れば君と他の姉妹の違いなどそんなものだと。

 ──そして、そこの人形は君『達』と根本的に違うのだと」

 男は斜め下に視線を落とし、溜息を一つついてまた机に向き直った。作業を再開しようとしたが暫くして道具を乱暴に置き、抽斗から何かを取り出して抛りつけるように机の上に転がすと頭を抱えた。それは不規則にゆっくりと転がって行くと、机の端から床に落ちた。木と木のぶつかる音がして、それは水銀燈の足許まで転がってきた。

「ああ、ああ、そうだとも。素型を作っているうちから分かっていたさ、その人形が何か異常な力を持ってしまったことくらいは!
 だから私は完成させることを躊躇した。出来上がったが最後、あれは私の手を離れて勝手に動き出すだろう。そして至高の少女どころか悪魔に、神に刃向かうものにすらなりかねない。
 しかし、簡単に打ち棄てることもできなかった。そうするには、あれが作り上げる前から独り手に自我を得たという事実はあまりに魅力的だったのだ。至高の少女となるのに必要なリソースの一つ足り得るのではないか、と思えてしまうほどに」

 水銀燈は立ち上がり、転がり落ちたものを拾い上げた。微妙なラインで構成され、上下に半球状の丸みを付けたそれは、人形の胴のパーツだった。
「ドレスに標された逆十字はそのせいなのね」
 自分の胴とはあまり似ていないそのパーツをためつすがめつしながら、水銀燈は尋ねるというよりは確認する口調で言った。
「仮に完成させていたとしても、悪役扱いは免れなかったということかしら。どう転んでも不幸の種にしかなり得ないじゃないの、その人形は。いっそ後顧の憂いを断つためにも壊してしまえば良かったのに」
「そこであっさりと自分の命題を解く鍵になりそうなものを壊せるような果断で執着心のない人間が、膨大な時間を注いでローザミスティカなどという如何わしい物を作り、自分の作品に埋め込もうなどと考えるはずがないだろう。いや、少なくとも私には壊せなかった。そして」
「ずるずると、それが勝手に動き出した後も見て見ぬ振りを続け、七体目までを完成させてアリスゲームが始まった後もまだ未完成のままとしていた。その認識が変わるのは、貴方の最愛の娘が人形に情けを掛けたから?」
「それもある。だが、あれが言った言葉が引き金だった。『ローゼンメイデン第一ドール』と、あれは名乗ったのだ。
 個々の仕上がりだけでアリスを目指していた頃ならば、戯言を言っているだけだと思っただろう。だが、私はローザミスティカの最後のひとかけらに剣のイメージを宿してあれに渡した。
 力ずくでローザミスティカを奪い合う試練を課したからには、あれにも相応の使い道が出来たのだ。ローザミスティカも力を与えてくれる者もなしに平然と動き回れるのだから、あれにローザミスティカを渡してローゼンメイデンだと言ってやれば、絶好の敵役になれるのだ。事実、そうなった」
 水銀燈はパーツを机に置き、人形を見遣った。
「それだけではないでしょう。今更貴方に認めろとまでは言わないけど、人形に対する愛着も当然あったはず。けれども自分の内心を認めたくない貴方は、パーツを作り付けないままローザミスティカだけを与えた。中途半端な形とは言ってもその人形にも至高の少女になれるチャンスを与えたのは、何か言い訳をしない限り自分の心に嘘を吐けなかったということよ」
 男は黙り込んだ。水銀燈は暫くそのまま待っていたが、やがて元の椅子に戻って腰掛け、足を組んだ。
「貴方が最終的に自分の気持ちに素直になるには、貴方の娘達が弟子の人形一体に全滅させられること、その弟子の人形が見せた純粋な想い、そして無力なはずの一人の契約者が貴方に問い掛ける言葉が必要だった。
 自分が作ったものが自分を慕うくらいの生半可な働きかけ──」
「──そうだ。彼女達からどれだけ愛されようと、私の中で何かが変わることなど有り得ない。娘達が碌に話を交わしたこともない私を慕うのは当然だろう。そういう風に性格付けされているかもしれないのだから。私自身が無意識のうちにそうしていない保証など、何処にもない」
 男は早口で、水銀燈の言葉に被せるように言う。水銀燈は目を閉じ、希代の錬金術師にして人形師がとことん自分を信じられない性格とは皮肉なものね、と呟いてから続けた。

「でも、貴方は気付いた。貴方がドールに与えた全ての能力よりも、力の源としたローザミスティカよりも強く働くものがあり、それは存在を知らなかった新奇なものでも全く見落としていたファクターでもなく、ただ単に重要視しなかっただけのありふれたモノだと。

 それは、ヒトの手によって作られ、魂を持ったモノが自ら持つ『想い』。

 貴方の想いを一身に受けて作られたその人形は、貴方が異様な未知の力だと勘違いするほど強い想いを持った。ローザミスティカを持たずとも勝手に動き出すほどに。
 娘達が貴方を慕ったのも、貴方が製作時に与えた特性ではなくて、自らの想いの発露に過ぎなかった。
 そして、本来ローザミスティカを体内に取り込めば壊れてしまうような、弟子の作った脆弱なはずの人形が、ほんの一時にしろそれを行使までして貴方の最高傑作を打ち破ったのも、弟子と人形のお互いの想いの結果だった。
 それを知ったからこそ、貴方は自分の宣言したルールを破らないぎりぎりの形で貴方の娘達を修復し、ローザミスティカを与えなおした。さり気なくその人形も含めて、ね」


「ま、まさかこんなにボッタクリ価格なんて……」
「由々しき問題かしら……」
 真紅が示した金額を見て、金糸雀と翠星石はこわばってしまった。
「じゅうにまんえんって?」
 雛苺は実感が湧かない様子で、指を唇に当てて小首を傾げる。
「少ない月のみっちゃんの家賃引いた手取りに匹敵するかしら……」
 金糸雀は引き攣った顔を隠そうともしない。みつの場合、その手取りが多かろうと少なかろうと惜しげもなくドール関係に注ぎ込んでしまうことの方がより一層の問題なのだが。
「うー、ますますわかんないのよ」
「お前の好物不死家の苺大福十二個入りを百箱買える値段ですよ。お子ちゃまには過ぎた買い物ですぅ」
 翠星石は言い捨て、早速数え切れないほどの苺大福に囲まれた想像を始めたらしい雛苺をさし置いて真紅に視線を戻した。
「ボッタなのは分かったですが、どうするつもりです? ドールにゃ百円だって稼げねーですよ」
「そうね……でも、なんとかしなければ。言い出したのは私なのだから」
 真紅は珍しく落ち込んだ表情で考え込んでしまった。ふむ、と翠星石は腕を組み、真紅が持ってきた紙を見遣る。
「確かにこれは、なんとかしないとですねぇ。額がでかいってことは、水銀燈やアホ人間にも大変だってことですし」
 ウェブページをそのまま印刷した紙には「フルオーダーワンオフ/ドライカーボンパーツ 60000~ /1点」というところに赤いマーカーで大きく丸が付けられていた。先日家に来た巴に真紅がこっそり頼んでプリントアウトしてもらった、カーボンパーツ専門店の価格表だった。
 胴部のパーツが容易に一体整形できないことは水銀燈から聞いていた。どう繋ぐかは別問題として、二つ以上のパーツ分割が必要らしい。塑像みたいには行かないのよ、と水銀燈が肩を竦めていたことを思い出す。
「私達にはアルバイトはできないし、何か作って売るしかないかしら」
「あ、ヒナいいこと思いついたのよ。翠星石が手作りクッキー作って売るのよ。薔薇乙女特製クッキーなのよ」
 おお、と他の三人がその素晴らしい提案に乗りかけたとき、後方から無慈悲な声が響いた。
「クッキー何枚必要だと思ってんだよ……無理だって」
 ぎくりとして振り向くと、そこにはジュンとみつが並んで立っていた。
「い、いつから聞いてたのかしら」
「『少ない月の……』からかなー?」
 みつが少し強張った顔で言う。
「ごめんねカナ、みっちゃんの手取りが少ないばっかりに……」
「み、みみみみっちゃんごめんなさいかしら! 泣かないでー!」
 思わず駆け寄った金糸雀をみつはひょいと抱き上げる。
「捕獲成功! ああんもうカナったら可愛いんだからぁ。そんなに想ってもらえるなんてみっちゃん幸せ……!」
 言い終わらないうちに、おろしがねで大根おろしを作るような勢いで頬ずりを始める。
「み、みっちゃんほっぺが、ほっぺが摩擦熱でぅぇぇぇぇ!」
 ちょっとした地獄絵図だ、とその場の他の四人は思った。

「十二万円ねぇ……」
 客間に戻り、漸く冷静になって話を聞いたみつは、形の良い顎に指を当てて暫く考えていた。それは金策の方法というよりも、具体的な金額の予測をしている風にも見えた。
「まだ、それと決まったわけではないのだけれど……難題なのだわ」
 真紅は居心地が良くないような風情で斜め下を向いた。みつはその姿とジュンを交互に眺め、ふふ、と笑った。
「多分大丈夫よ。アテがあるの」
 全員の視線がみつに集まる。みつはにっこりと、艶然と言ってもいいような笑みを浮かべた。
「ええ、みっちゃんにどーんと任せちゃって。これでも社会人ウン年目なのよ。だから、ジュンジュン」
「え、その呼称で固定なのかよ」
 抗議は当然のように聞き流し、みつはジュンにびしっと指を突きつける。
「さっきの話、よろしくね♪」
「……なんでそうなるんだよっ」
 口を尖らせながらも、ジュンは嫌だとは言わなかった。


「根本的に間違っていたのだ。至高の少女など限られた特質の中で優劣を競わせて決めるものではない。むしろ長い時間をかけて無数の人々の想いに触れ、そこからも単純な取捨選択をするのでなく、自分なりに全てから何かを汲み取って変化していかなければ生成し得ない」
 男は頭を抱えていた手を伸ばし、水銀燈が置いた胴のパーツを手に取ると机に肘を突いて両手でくるくるとそれを回した。
「そこに気が付くまでに何百年と掛かるとは、私は何処まで頑迷だったことか。より良い何かを生み出すために練成と変化が必要だということは、ローザミスティカを生成する過程でよく分かっていたというのに」
「そうねぇ。でも」
 水銀燈はふっと微笑んだ。
「間違った道を行き止まるまで我武者羅に突き進んだのも、自分の感情に気付かない振りをして遠回りをしてしまったのも、とても……人間らしい。到底賢明とは言えないけど、少なくとも懸命ではあった。
 私は貴方のそういうところ、嫌いじゃないわよ。愛すべき性格とはお世辞にも言えないけどね。
 何を考えているか分からないほど超然としていて、全てを予測してシナリオを組み上げているより余程『生きている』もの」
 男は手を止め、水銀燈を眺めて苦笑した。
「それは……君の父上のことかね」
 さあ、どうかしら、と水銀燈が言うと、男は苦笑を微笑みに変えた。
「君が抱いているのは幻想かもしれないぞ。少なくとも私と彼には──異なる世界の同一人物だ、というのは置いておいても──手法や技術が異質であるとはいえ、それほどの差があるとは思えない。例えば、あれがそうだ」
 水銀燈は男が指した方を見遣り、訝しげに瞬いた。
「その人形と私は似ても似つかない。そう言ったのは貴方じゃなかったかしら」
「そうだとも」
 男は頷いた。
「確かに君とは外見と名前、そして第一ドールという点くらいしか共通点はない。だが、あれに相当するものはいるだろう。生まれたときから異質で、まるで悪役と定められて生まれてきたようなドールが」
 水銀燈は体を何かが走り抜けたような気がした。
「……末妹が、そうだと言うの」
「ああ。彼女こそは私にとってのあれに相当する特異なドールだ」
「仮にあれをドールと呼ぶのなら、という感じだけどね」
 なにしろ物理的な本体さえない。魂だけの存在。どのように製作されたのか、そもそもどうやったらそのようなモノを製作できるのかさえ明らかでない謎のドール、それが雪華綺晶……

──どうやって製作されたか不明……?

「共通点はだいたい理解できたようだね」
 水銀燈の内心を見透かしたように、男は続ける。
「彼の手で作られたものでなく、彼のイデアが『生んだ』モノだとしたらどうだ。ここまでの文脈に沿って、想い、と言い換えてもいい。まるで、あれの自我と同じじゃないか」
 それに、雪華綺晶が取っ掛かりを作り、水銀燈の媒介の記憶の世界の中で信じられないほど急速に自我を持つまでに成長した『水銀燈』とも同じだ、と水銀燈は微かな良心の痛みと共に考える。
「そして、私があれをアリスゲームの悪役駒として活用したような泥縄式でこそなかったが、彼もまたアリスゲームにおける雪華綺晶を独特な立場として設定した」
 男はやや偽悪的な笑みを浮かべた。
 水銀燈は黙って男の顔を見詰めた。男の笑いがまた自虐的な、あるいは自嘲的なものに変わるのではと思ったのだが、どういうわけかその気配はまるでなかった。



[19752] 最後の20行はおやつに含まない。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2010/09/17 22:19
最後の部分は原作の台詞一部改変ですので、その分を除くと110行くか行かないかくらいです。

いやー解説文疲れた。会話文で解説するのに地味に挑戦してみたんだけど、なかなか面倒な割に見返りが少ない感じですな。

9/17 なかなか進まないのでこっちを加筆修正して御茶濁し。

********************************

 水銀燈は左の手首を軽く押さえた。
「雪華綺晶が独特な立場というのは理解できるわよ、多少は末妹のありようを知っているから。誰かから押し付けられた知識だけじゃなしに、実際に危うい目に遭わされたこともある、という意味でね。もっとも出会ったのはそれきりだけど。
 でも、雪華綺晶の特殊な立ち位置というのは存在の異質さに起因しているんじゃなくて? 何かしら後付けの特殊な立場が有り得るのかしら」
 男はくくく、と笑った。ちらりと見ただけで不快になるような厭な笑いだった。
「君には分からんのだろうな、と予想していたが、そのとおりだったな」
 そう言ってから笑いを引っ込め、感情を見せない表情で淡々と続ける。
「偶然生まれてしまったモノと呻吟と試行錯誤の末に生まれたモノという違いはさておき、私と彼のそれらに対しての処置には共通する点がある。それは、手に入れたモノを最大限自分の目的のために活用したことだ。
 生まれてしまった雪華綺晶を見た彼が、私のように『とんでもないモノが宿ってしまった』と思ったのか『遂に実体のないドールの製作に成功した』と喜んだかは知らん。だが少なくともそれが自分の思い描くアリスでないことは即座に理解したはずだ。
 恐らく、彼はそこからいくらの時間も経たぬ内にアリスゲームを始めることを決意した。あれが純粋に私を慕っていたように、君の末妹もまた純粋に彼を慕っていたのだろう。だから、彼女の特性も織り込んでアリスゲームの『汚れ役』をやらせるには丁度良かった」
「分からないわね。悪役だったら私にやらせておけば良いようなものでしょう。なにも現実世界に出て来れない、不利な立場の雪華綺晶に悪役をさせる必要はないでしょうに」
「もし悪役が必要なら君を選んだだろう──極端な性格付けをされていないために最も個として安定していて、特殊な力こそ持たないが戦いとなれば手強い、それに尽きせぬ不安と不信を何処かに抱えている。確かに都合がいい──だが、汚れ役というのは何も悪役だけを指しているわけではないのだよ」
 男は無感動な視線を人形に向けた。

「ゲームを長期間に亙り遂行する上で、どうしても必要だが厄介な廃棄物と化してしまうものがある。それが契約者だ。
 契約を終生のものとした場合、各々の契約者が寿命を終えるまで待っていたら、いつまでもゲームは進まない。また、死に際の契約者を抱えた薔薇乙女はそれだけでゲームの遂行上多大なハンデを背負うことになる。よって、契約は薔薇乙女の側から随意に破棄できるものとしなければならない。
 ところがそうなると、今度は使い終わった契約者が問題になる。薔薇乙女の側から一方的に契約を破棄されれば、精神的な依存が強ければ強かったほど残された契約者は不安定になる。
 最悪の場合は何等かの経路を通じて薔薇乙女の存在を妄りに広めてしまうかもしれない。方法は書籍の執筆、その手のコミュニティへの参加、放送媒体への露出など、幾らでも考えられる。そうなれば、いずれ薔薇乙女自身やらローザミスティカを目当てに暗躍する者も出てくるだろう。
 中には特異な能力を持つ者もいるとはいえ、物理的には薔薇乙女達は大きなお人形に過ぎない。それなりのコミュニティが血眼になって捜索し、手段を選ばずに獲ようと思えば、いずれかの時代の何処かで必ず捕獲されてしまう。そうなればもうアリスゲームどころの話ではない。
 ただ、薔薇乙女に強く依存している契約者だけでも、その場面の全ての契約が終わり、薔薇乙女が眠りに就いた後に隠密裏に始末してしまえば、そういった情報の漏洩は最小限に抑えられるのではないか。つまり──」

 何かを抗議しかけた水銀燈を男は手で制した。
「──雪華綺晶に求められた役割は悪役などではない。むしろ君達姉妹の尻拭いと言った方が良かろう。彼女に期待されたのは、ゲーム環境の維持だ。つまり、君達の名を過度に広めず、同時に、特に君以外の姉妹達が契約を解いた後まで以前の契約者達のことを心残りとして必要以上に引き摺らないように」
 水銀燈は悪寒を感じたように身震いした。
「素養のある者の意識を自分の領域に引き込んで死ぬまで離さない、雪華綺晶にとっては自分の存在を維持するために欠くことの出来ない捕食行為。ゲームのためにそれを利用した、いえ、むしろそういうふうに雪華綺晶を作ったと言いたいわけ?」
 いくらなんでもそれは、と言いかけて、水銀燈は思いとどまった。

──雪華綺晶だけではないかもしれない。

 以前、訝しく思ったことが何度かある。
 他の姉妹がやたらと強調する契約者との繋がり、それは自分にとっては殆ど理解できないほど強いものらしい。ならば、果たして契約の終わった後、時代を超える眠りから目覚めるときまでに、それまでのしがらみをすっかり捨て去ることなどできるのか、と。
 自分だったら、到底忘れることなどできそうもない。
 契約者との繋がりが薄いらしい自分でさえ、最初に契約した人物のことを未だに覚えている。流石に今でこそ懐かしさと寂しさに心を食い荒らされるようなことはなくなったものの、最初の頃は苦労したものだ。
 その経験があったからこそ、それからは契約を交わしても馴れ馴れしくすることはなくなった。煩わしいと思えば契約を結ばずに媒介として利用するだけに留めてしまうこともあったし、それはそれで気楽にやれた。
 今回の相手もそのはずだった。最初に契約を拒まれれば鞄置き場としての役目と螺子を巻く役目だけ押し付ける予定だった──実際にはこれまでにないほど振り回されている訳だが。
 自分ですらこのとおりなのだ。自分よりも感受性が強く契約者との繋がりも深いらしい他の姉妹ともなれば、下手をすれば以前の契約者のことをトラウマとして持ち続けるはずではないのか、と。
 しかし、どの時代で出会ったどの姉妹からも、その折々の契約者に対しての愛情やら共感は感じられるものの、それ以前の契約者に対する未練は全く感知できなかった。それは、今の時代においても全く同じだ。記憶そのものが消えている訳でないのは分かるが、少なくとも精神的な依存は綺麗さっぱり無くしてしまっている。
 それでいて以前からの記憶はそのまま保持しているのだから、不可解だった。
 その不可解さは媒介から得た知識でも深まるばかりだった。雛苺は前の契約者との別れのことを半ばトラウマのように覚えているらしいが、他の姉妹は以前の契約者のことを思い出すような素振りも殆ど見せない。
 彼女達は今までの経験を、それを得たときの情景とは全く切り離して蓄積しているのだろうか、と首を傾げたくなるようなこともあった。それにしては、例えば真紅は猫を苦手にしている理由を以前の契約者と結び付けているらしい。謎だった。
 結局、そのときは分からずじまいだった。どうにもすっきりしないまま、その問題を放り出さざるを得なかった。
 後になって媒介から得た知識も、その問題を解決するための役には立たなかった。そこは漫画でも語られていない部分なのだ。

──しかし、「後から振り返ることのないように作られている」としたら。

 ゲームの遂行のため後付けで設定されたか、それとも作られたときから刷り込まれているのかは分からない。しかしどちらにしても、彼女達の造物主は、彼女達に器と魂と性格、才能、技までを与えたのだ。そこに更なる細工を組み込むことができないはずはない。
 例えば鞄の中で次の時代を待つ間に、前の契約者への依存やら愛情を「懐かしい記憶」に変え、依存の対象を次の契約者へとすんなりと移動できるように作っておく、あるいは刷り込んでおくというような細工は造作も無いだろう。つまり──

「ああ、君の考えていることが概ね分かるというのは良いのか悪いのか、微妙なものだな」
 男は口の端を皮肉に歪めた。
「自分の娘達全員に問い掛けられ、詰られている気分になる。
 ま、それはこちらの事情だが、私の言いたいことは君の考えていることと恐らく殆ど同じだ。つまるところ、君達姉妹は全員、ゲーム遂行のために何等かの──ローザミスティカに対する渇望のようなもの以外にも、ゲーム進行に関する──心理的な後付けの制約を掛けられている。つまりは、ゲームを遂行してアリスに成るためにある程度最適化された、言わばゲームのための駒なのだ」
 水銀燈は何かを言いかけたが思い直して途中でやめ、続けて、と先を促した。
「君の末の妹は実体を持たない。強固な自己イメージで真っ白なドレスを身に着けたアンティークドールという姿を保持しているが、実際はボディを持ったことのない、ただの幻影のようなものだ。彼女に関しては何かしら他とは違った方向性でゲームに参加させる必要があった。
 ただ、それが彼女にとって有利だからといって、例えばnのフィールドの中では姉妹の誰にでも化けて襲撃するというようなありきたりな行動をさせてはいけない。糧となる人間を手当たり次第に確保させてもいけない。そういった見境のない行動は短期的には有効でも、いずれ彼女の意識を拡散させ、消滅させるか、ただの捕食衝動の塊に変化させてしまうだろう。自分の傑作、薔薇乙女である限りは誇り高くなくてはならない。
 彼女に他の姉妹の契約者だった者を選択して糧として確保させることで、これらはそれなりに上手く解決できるわけだ」
 なるほどね、と水銀燈は首を振り、頬杖をついた。
「彼女は厭でもゲームのことを覚えていなければならないし、一旦ゲームが動き出せば関わらざるを得ない。他の姉妹のマスターだった人間を騙し、糧とするために長期間もっともらしい夢を見せ続けることは、直接繋がっていないながらも現実世界の動向を注視する必要と、マスター達の精神に触れる機会を生む、ということね。良く出来ているわ」

「流石に理詰めでゲームシステムを構築するだけのことはある。確かに良く出来てはいた」
 男は皮肉な顔のまま頷いた。
「だが、大きな見落としも同時にしていた。それは、雪華綺晶の心情というものについて殆ど考えなかったことだ」
 そこのところが私と彼の最大の共通点だろうな、と男は肩を震わせて笑った。
「長丁場のゲームの遂行にあたり、半永久的な無機のボディを持つ六体は孤独とは無縁だ。人との出会い、別れはあるが、他の五人のうち一人は必ずどこかにいる。人工精霊も話し相手にはなる。更にその場その場では契約者が彼女達を愛している」
「雪華綺晶には誰もいない、という訳でもないでしょう。元マスター達が必ず自分の世界に──」
 言いかけて水銀燈は息を呑んだ。いや、違う。彼女が確保している契約者達は、すべからく自分の都合のいい夢の中だ。そこに雪華綺晶は当然存在していない。あたかもどこか無人の場所で、配達されてきた物言わぬ人形に囲まれて生活しているようなものだ。
 しかも、悪いことに雪華綺晶は常時それらの世話──目覚めることを忘れているほど楽しい、あるいは美しい夢を見せ続け、夢が悪い方に転がり出したらそれを修正したり──をしなければならないはずだ。
 長く世話をすればするほど彼女の養分にはなるかもしれない。だが、その分手間は多くなる。投げ出せば自分が飢える可能性が出てくる。なにしろ、次いつ新しい糧が得られるかは、完全にあなた任せなのだから。
 そして、彼等は絶対に雪華綺晶そのものを愛してはくれない。それはおろか、存在そのものも感知し得ないし、させてはいけないのだ。
「──更に、彼女には時代をまたぐための眠りすら許されない。ひたすら糧を啜り、時を待つしかない。もっとも彼の考えでは、それがゲームへの執着と自己認識の強化を生起するものと思えたのかもしれないが」
 男は力なく首を振った。
「彼の思惑通りには行かなかったのだろう。『僅か』ここ百数十年の間に、雪華綺晶は疲弊してしまった。そしてアリスに対して独自の解釈を持つに至った」
「要は狂ったわけね」
 水銀燈は彼女らしい割り切った言葉で切り捨てた。
「そこの人形と同じように、自分の欠損部分とゲームの目的を重ね合わせてしまった、ということでしょう。もっとも、アリスになることで欠けた部分を埋める、そのためにゲームを遂行しているのは皆一緒かもしれないけど」
 そういうことだ、と男は溜息をついた。
「まあ、私も彼も、他と異質なモノの本質に対して深く掘り下げて考えるよりは、その特質をどれだけ自分の目的に活用できるかを優先した。そこは多分変わらない、ということだ。そして、恐らく──」
 言い切る前に、男は振り向いた。そして、そこに居た者を見て微笑んだ。
「──来たわね」
 水銀燈は立ち上がり、人工精霊を呼んだ。メイメイは待ってましたとばかりがらくたの山の中から飛び出た。掬い上げるような軌道で勢い良くカーブを描くと水銀燈の頭くらいの高さで急ブレーキをかけ、彼女の隣に控える。
「随分長いこと様子見していたものね、雪華綺晶」
 言いながら水銀燈は左の手首に絡んだ細い白茨を掴み、引き千切った。ぶつりと音を立てて切れた茨から、早くも透明な樹液が垂れる。彼女にはそれが何故か血のように見えた。
 雪華綺晶は無言で工房の隅に立ち尽くしている。どこか虚ろな表情は、以前遭ったときの雰囲気とはまるで異なっていた。
 あまりの違いに水銀燈がやや面食らったように次の行動を起こすのを躊躇っていると、雪華綺晶は視線だけを彼女に向け、体のどこも動かさぬまま、茨の太い束を二本、男に向かわせた。
 男は抵抗する素振りもなければ何か言うでもなく、案山子のように立ったままで左右から包むように押し寄せた茨に巻かれた。
「どうするつもり?」
「糧にいたしますわ」
 雪華綺晶は虚ろな表情のまま、口だけを動かして答えた。水銀燈は眉をしかめた。
「錯乱しているの? 悪いけど、その男は間違っても糧にできるようなモノじゃないわよ」
「糧にできなければ潰してさしあげます。いいえ、いいえ、錯乱などしてはおりませんわ黒薔薇さま。ただ──」
 茨の伸びていない、一つだけの開いた眼から、つうっと一筋の涙が流れた。
「当たらずとも遠からずな推論を語られ、改めて悲しくて寂しい気持ちになったのだろう? 雪華綺晶」
 男が低い声で語り掛けたが、雪華綺晶は視線も向けなかった。返事の代わりに白茨が膨れ上がり、男の体は頭の先からつま先まで白茨の渦に飲み込まれてしまった。
 男を取り込んだ茨はまるで巨大な繭か卵のようにも見えた。だが次の瞬間、それは無残な形に萎んでしまった。
 茨が空しく元のように引き込まれると、その中に捕えていたはずの男の姿は何処にもなかった。繭に包まれた瞬間に忽然と消え失せてしまったようだった。
 嘆くように茨が退却していく間も、雪華綺晶の隻眼は水銀燈を固定されたように見つめていた。
 愛らしい口からぽつりと短い言葉がこぼれた。

「──もう、意地悪しないで」

 水銀燈は何も答えず、何か身振りをすることもなかった。
 二人は暫くそのまま無言で見詰め合っていたが、やがて雪華綺晶は二、三歩あとずさり、それからふっと消えた。自分の領域に移動したようだった。
「神出鬼没、か」
 水銀燈は呟いて、人形を見た。人形は最後まで微動だにしていなかった。ただ、どういうわけかその無機質な眼も今にも泣き出しそうに潤んでいた。
「少し急がなければいけなくなってきたようね」
 誰にでもなくそう言うと、水銀燈は人形の目蓋をゆっくりと閉じさせ、今度ははっきりと人形に向かって言った。
「そんな顔しないで頂戴、広い意味ではみんな同じなのよ。私達は人形劇のマリオネットなのだから」
 ただ、それで終わりたくなくてこれ見よがしに足掻いてみせているか、そうでないかの違いだけだ。
 その違いが大きいか小さいかは水銀燈には分からない。しかしたとえ微細な差であっても、あるいはなにも変わらないとしても、自分は足掻くのを止めないだろうと彼女は思った。それなりの知識を得てしまったからには、それ以前のような真っ直ぐで純朴なアリスゲームのための歯車では居られないのだ。


 膝の上に真紅を抱いて、ジュンは刺繍の針を動かしている。
「……白薔薇ね」
「ああ……生地が水色だから」
 あれから暫く打ち合わせという名目の雑談をして、みつは帰っていった。
「あの話、引き受けるの?」
「……ああ」
 あの話、というのはみつが持ち込んできた、ドール服を作ってほしいという依頼だった。ドルフェスというドール関係の即売会に合わせてデザインしているドール服がなかなか思うように行かないらしい。ジュンの作った人形用のドレスを見たみつはえらい熱の上がりようだった。絶対悪いことにはならないからチャレンジしてみて、と迫られるとジュンとしても首を横に振るわけにもいかなかった。
「みっちゃんの作ったドレス、大したことないなんて言っちゃったけどさ」
 ジュンは下絵もなしに、手早く美しい薔薇の花弁を仕上げていく。真紅は半ばうっとりとそれに見入っていた。
「仕事の合間にコツコツやってるんじゃ、一ヶ月に一着くらいだろうな……値段も原価ぎりぎりだって言うし、好きじゃなきゃやってられないかも……」
 真紅は刺繍針が動いている辺りの布を押さえてぴんと張らせた。
「あ、指危ないぞ」
「……ふふ」
 真紅の笑いに、ジュンはくすぐったいような感覚を覚える。
「どうしたんだよ」
「成長したわね、ジュン」
「……は?」
 一瞬だけ、手が止まる。だが、ジュンはすぐに口を尖らせた。
「呪い人形に言われたくないな、そんなこと」
「──そうね」
 真紅は漸く手をどけた。
「私達人形に成長はない。本来、何かに突き動かされているだけ」
「なに言って……」
「あなたはどう思うかしらジュン、ぜんまいが錆びて朽ちるまで、アリスゲームに生きること。
 人が眠るように、呼吸するように、あるいは心臓の鼓動のように、それが私達の──薔薇乙女に本来求められた、自然であり必然なのだとしたら──」
 遠くを見るような瞳で、真紅は独語するように言った。
「どうって……」
 ジュンは手を止め、暫く次の言葉を探していたが、やがて刺繍を再開した。
「どうしたんだよ。なんかみっちゃんに感化されたりしたんじゃないだろうな」
「──ふふ」
 そうかもしれないわね、と真紅はまた柔らかく微笑んだ。
「……おいおい」
 正面から真紅を見ていたら、その表情に僅かに寂しさと羨望のようなものが混じっていることに気付けたかもしれない。だが、ジュンの視線からは真紅のヘッドドレスと自分の手元しか見えていなかった。
 ジュンの溜息がヘッドドレスをかすかに揺らす。真紅は目を閉じ、ジュンに体を預けるようにした。
「ねえ、ジュン」
「ん……」
「貴方は成長する。そしていつか在りし日の人形遊びを忘れていくでしょう。でも」
 そっとトレーナーの裾をつまんでみる。
「いつかここから貴方が飛び立っていってしまっても、私が眠りに就いて現実世界から消えてなくなってしまっても……」
 きゅ、と少しだけつまんだ手に力を込める。
「私達の時間が交差したこの瞬間は、世界に確かに存在していた。それだけは覚えていて」
「……ん」
 ジュンは不明瞭に返事をして、やや間を置いてから、なに大袈裟なこと言ってんだか、とわざとらしい溜息をついてみせた。
「飛び立つとか何言ってんだよ。僕には無理だ。なにしろ自他共に認めるヒキコモリだし。だけど……」
 また刺繍の手を止める。だいぶ続きを言いづらそうにしていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「お、お前達こそ……ゲームが終わって……アリスになっても、僕のことを忘れるなよ。そ、そりゃ、ヒッキーで取り柄も何もないかもしれないけど、お前達のこと三人も纏めて面倒看てやってるんだからな」
「忘れないわ。貴方は魔法の指を持った神業級の職人。そんな人間のことを忘れるはずがないもの」
 真紅は即答した。
「それに、貴方がたとえ貴方の言うとおりの存在だったとしても──」
 それから口の中で不明瞭に何か続きを呟いた。
「え?」
「──なんでもないわ。ドレスのアイデア出しの邪魔をしてしまったわね。静かにするから続けて」
「……うん」
 真紅はトレーナーの裾を掴んだまま、眼を開けて刺繍が出来ていくのを見守った。
 静かな部屋の中に、ジュンの息遣いと針の進む音だけが僅かに聞こえていた。



[19752] 約110行、うーむ。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2010/09/17 22:47
うーん、実はこういうパート結構面倒。
延々と数人の会話で回したり、二人三人のパートで繋いでく方が楽ですな。

***************************************************

「柏葉ぁ、おはよっ」
 少年が大きく手を振る。竹刀袋を肩に掛けた巴が大きな袋を持ちにくそうにしながらそちらを向くと、少年は慌てたように駆け寄って来た。
「ごめんな、朝練行く途中だってのに寄り道させて、おまけにでかい荷物持たせちゃって」
 片手で拝むような手真似をしながら、少年はにっと笑って袋を受け取り、ありがとな、と頭を下げてから少し心配そうな顔になった。
「ホントに役に立ったのかな? こんなんで。大きさ全然違うし」
「さあ……」
 巴は首を傾げたが、右手を口のところに持っていき、ほんのりと笑顔になった。
「でも桜田君はありがとうって言ってたわ。参考になったって」
「そっか、ならいいや」
 少年はうんうんと頷き、ちらりと袋の中を覗いた。
 袋の中身は何体かのキャラクターフィギュアだった。数年前深夜に放映していたアニメのヒロイン達の立体化ということだが、素人目にはあまりデザインに統一性があるようには思えない。
 強いて言えばどれもこれも露出度が高く、特に胸の下辺りから腰骨の上までは生身が露出している、いわゆるヘソ出しなところが共通点といえば共通点だった。
 言うまでもなく先日、巴がジュンの家に持ち込んだものだ。

 そのときも少年は巴に、でかいし重くて悪いんだけど、と片手で拝むような仕草をして、これを桜田のところに持ってって欲しいんだと袋を差し出したのだ。
 訝しく思っている巴に、少年は胴体のない人形の一件とジュンが胴体を作ることになった経緯をごく簡単に説明し、参考になるかと思ってアニメ好きの友人から借りてきたんだ、と袋を開けて中身を見せた。

──持ってくのは俺より柏葉の方がいいかと思ってさ。

 いつものように理由を言わずに少年は頭を下げてみせた。巴も特に理由を聞かずにこくりと頷いて引き受けた。
 巴がそういう人柄であったり、二人の間に以心伝心とかいう高等な事情があったわけではない。そこで理由を尋ねても、少年に納得の行く説明を求めることが無理だと分かっていたからだ。
 雛苺の言うところではごく最近、少年は昔の記憶を失ってしまい、そのために性格が変わってしまったらしいが、巴にはそうしたところが以前と特に変わったようには思えなかった。クラスメートになってからずっと、外から見る限りにおいては、少年はいつも理屈より感性を信じて動くタイプに見えていたのだ。
 もちろん変わったと思うところがないでもない。どこか世の中を皮肉に眺めていたような眼差しは好奇心が丸出しの素直なものに変わったし、謎のような苦笑は快活な笑いになった。だが、そうした変化でさえごく親しい何人か、そして彼をよほどじっと見つめていた者以外は気付いていないだろう。

「ところでさ、桜田のやつ今日のこと何か言ってなかった?」
 相変わらずのあっけらかんとした声に、巴は短い回想から引き戻された。
「今日?」
 何も言っていなかったけど、と巴が返事をすると、少年は斜め四十五度に首を傾け、眉間に皺を寄せて暫く考えていたが、目の前の巴が怪訝な顔をしているのに気付いてごめんごめんと笑顔になった。
「そっかぁ。いやさ、今日はお出かけみたいなこと聞いてたから」
「お出かけ?」
 意外な言葉に思わず鸚鵡返しに尋ねると、うん、と少年は頷いてみせた。
「金糸雀のマスターが運転して、水銀燈がナビやって、みんなで例の人形の胴体作ってもらいに行くんだってさ」
「そうなんだ……」
 巴は思わず微笑んだ。車の中で大はしゃぎする翠星石と雛苺の姿が見えるようだった。
「柏葉は行かないのか……なんとなく関係者全員なのかなーとか思ってたんだけど。あ、でも朝練あるから当たり前か」
 あら、と巴は瞬いた。
「栃沢君も一緒に行くの?」
「俺? なんでさ」
 少年は驚いたように巴をまじまじと見、ひらひらと手を動かした。
「全然お声もかからなかったって。『ただの媒介』だもん、俺」
 ならばどうして自分が呼ばれると思ったのかと巴が尋ねると、少年は腕を組んで小首を傾げた。
「柏葉は雛苺の元マスターで、今でも雛苺が一番懐いてるじゃん。それに桜田も……」
 それは何かとても重大な勘違いをしている、と巴は赤くなって抗議したが、少年は大きな疑問符を頭の上に浮かべたような表情で首を捻るばかりで、話は上手い具合に噛み合わなかった。


 郊外の幹線道路で、みつはレンタカーを快適に走らせている。日曜日の午前中の道路は適当に空いていて、適当に混んでいた。
「すごいの、とっても速いのよ」
 雛苺は目を丸く見開いて後部座席の背もたれにしがみつき、後ろに流れ去って行く景色を、言わばかぶりつきで見詰めている。あまり外に出かけたことのない彼女には見るもの全てが新鮮で、驚きに満ちているようだった。
「いろんなお店がいっぱいあるのね……」
「後ろ向きで景色見てると三半規管がイカレちまうですよ。おとなしく前向いてやがれです」
 鞄に乗って街の中程度なら何度か行き来している翠星石は、何処で仕入れて来た知識か、最初だけはそんな風に少しばかり姉らしい注意をしてみせたが、雛苺が何あれと興味を示すとその都度隣に並んで指差す方を眺めては適当な答えを返している。
「RED BARONってなに?」
「それはですね……」
 ボソボソと翠星石が雛苺の耳元で何事かを囁くと、雛苺は愕然として首をぶんぶん振った。
「うう……赤男爵さん可哀想なのよ。そんなにじこぎせいしちゃ駄目なのよ」
「レッドバロンは中古バイク屋かしら……」
 流石に何度も似たような問答を繰り返しているせいか、ややうんざりした顔でおざなりな訂正をする金糸雀も、後ろを向いているうちの一人だった。
 彼女がうんざりしている理由は翠星石の出任せだけではなかった。
「ちゅうこばいく、というのは何なの」
「中古……他人が一度は所有したバイクってこと。バイクはわかるかしら?」
「教えて頂戴」
 意外にも通過していく事物に興味深々なのは真紅も同じだった。しかもその知識も雛苺と似たり寄ったりに過ぎない。
 魔法や錬金術、心理学や哲学関係の書籍は読み漁っているくせにニュース関係にはあまり興味が向かないらしい──そのくせワイドショーはよく見ている──彼女の知識はひどく偏っていた。唯一の常識人として相手をしている金糸雀としては、それこそ一般常識の基礎と言えそうなことも全て噛んで含めるようにして説明しなければならない。
 悪いことに、真紅は飛び飛びに知識は持っていて、しかもそれは正しかったり微妙に間違ったり、あるいは古かったりとごちゃ混ぜだった。そこを丁寧に説明すると「知っているのだわ」と不機嫌になったりいじけたりもする。金糸雀は延々と忍耐力を試されているような気分だった。
「──そのうちコンビニを役所とか言い出しかねないな、あいつ」
 助手席のジュンは振り返る気力もないとばかりに溜息をついた。真紅が頓珍漢なことを言い出すのか、翠星石が適当にそう言うのかは特定しなかった。両方有り得ると思ったのかもしれない。
「あの子が活動的になったら苦労しそうね」
 ジュンとみつの間で背もたれに寄り掛かりながら水銀燈はにやりとしてみせた。
「興味が人形劇と小難しい学問からどこか変な方にシフトしないように、一生傍についてて世話を焼いてやらないといけないかもね。ご愁傷様」
「勘弁してくれよ」
 一生呪い人形の世話を続けるなんてどんな笑えない未来だ、と言いながらも、ジュンの顔は満更でもなさそうだった。
「それよりさ、お前」
 ジュンは改めて水銀燈をしげしげと眺めた。
「──いいのか?」
「確かに少し眠いけど、吸血鬼じゃないんだから昼間に弱いって事はないわね。それとも金糸雀の契約者と二人きりが良かった?」
「ジュンジュンと二人きりねえ……それも悪くなかったかな」
 瞬間、みつの横顔が大人の女性らしい艶っぽさを見せる。ジュンはまじまじとそれを見詰めてしまい、かあっと顔を赤くした。
 しかしすぐにそれは過ぎ去り、みつはいつものフェティシストの顔に戻った。
「でもローゼンメイデン五人揃い踏みも実現させたかったのよねぇ。もう幸せで舞い上がっちゃうくらい……」
 みつはマニアが趣味の対象を見るときの目でバックミラーに視線を向ける。そこには色とりどり、四つのドールの後姿が仲良く並んでいた。
「なっ……そうじゃなくって。その、水銀燈は服装とか、そんなんでいいのかって」
 ジュンは赤い顔のまま、慌てたようにぶんぶんと手を振った。
 今日の水銀燈はいつもの凝ったドレス姿ではない。長袖のシャツにジーンズにスニーカー、頭には野球帽を被って度のない眼鏡まで掛けている。
 靴と眼鏡以外はのりが用意したジュンのお下がりだった。紛うことなく五歳児くらいの男の子用の服装なのだが、意外にもよく似合っている。やや脚が長いことと髪の毛が銀色に輝いていることを除けば、どこにでもいる子供だ。いや、白人の子供だと言ってしまえばそれも特に気にならないだろう。
「あまり気に入ったデザインじゃないし翼も広げられないけど、悪くはないわよ。機能的だし」
 一揃い媒介に揃えさせてもいいわね、と水銀燈は薄く笑った。
「ただ、学校や職場に制服があるように、製作者が作ったドレスは私達が私達であることを示すものでもある。無駄にプライドの高い薔薇乙女にとっては、普段からそれ以外の服を着て過ごすのはなかなか勇気が必要なのよ」
 それでもいいなら、と水銀燈は左右の二人を見比べるようにした。
「貴方達が思いの丈を込めてドレスを作ってもいいかもね。綺麗な服を贈ってもらって悪い気はしないはずだから」
 みつはそうよねそうよね、とうんうんと頷いてみせたが、ジュンは若干複雑な表情になってしまった。

──考えてみたら、あいつらに作るより先にあの水銀燈もどきの服作っちゃったことになるな……。

 しかも服を作る間と人形のボディに時間を取られている間、三人の相手もろくにしていなかった。この間みつが来た日の夜中、いつも九時には寝ているはずの真紅が彼の膝の上に乗って刺繍を見せてとせがんできたのも、寂しかったからかもしれない。
 これからはもっと一緒にいる時間を増やした方がいいのだろうか。確かに、例えば蒼星石は起きてから寝るまで結菱老人の傍にいるか家の庭の手入れをしているらしい。真面目な性格もあるのだろうが、そうしていることが幸せらしいと半ば呆れ顔で翠星石が言っていたのを思い出す。
 一方、水銀燈と契約者の関係はほとんど正反対だ。一日のうち二人が顔を合わせている時間は、水銀燈が少年の夢の世界に潜り込んでいる時間を合わせても多分数時間にも満たないはずだ。それでいて水銀燈が少年を蔑ろにしている訳でもないことは、それこそ毎日夢の世界に入ったり、そこにいた人形を危険だからと引きずり出して見せたことでもよく分かる。
 一方少年の方も、水銀燈にとってのアウェーであるはずの桜田宅に自分一人で乗り込んできた。少年自身は気付いているかどうか分からないが、あのときから水銀燈とその媒介の二人に対しての他のドール達の対応は大きく変わった。ばらばらに行動しているけれども、二人の繋がりが弱いようには思えない。
 ケースバイケースということなのかもしれないが、事実上三人の契約者の自分は誰を基準にして対応すればいいのだろうか、などと考え込んでいると、何時の間にか水銀燈の視線がこちらを向いていることに気づいた。
「必要以上に深く考えてもいい考えには辿り着けないこともあるわよ」
 水銀燈はジュンの気持ちを見透かしたように、若干意地の悪い笑みを浮かべた。
「貴方は慕われてる。そして慕ってるドール達も全くの子供って訳じゃないの。裏づけのないモノじゃないんだから、自分に自信を持つべきね」
 その言葉はジュンが黙り込んだ原因に対して誤解を含んだもののようにも思えたが、ジュンは素直にありがとうと答えた。
「それにしても、お前が僕のこと励ましてくれるなんて、ちょっと前には考えられなかったな」
「御生憎様」
 水銀燈は照れた風もなく肩を竦める。
「励ましが必要なら貴方の可愛いお姫様にやってもらいなさい。私が言ったのは掛け値なしに客観的な、貴方が気付こうとしていない現状。それ以上でも以下でもないわ」
 ジュンはふっと息をついた。
「はい、はい……」
「生返事ね、ま、どうでもいいことだけど」
 遣り取りだけは真紅との会話に似ている。しかしやはり水銀燈は水銀燈の言葉と雰囲気を持っていた。
 それが具体的にどういうものかは、まだ漠然としていて上手く説明できない。だが、真紅が持って回った表現で人を励ますのが得意でなく、ついぶっきらぼうな言い方になるか真摯に直截な表現で語ってしまうように、水銀燈も表に出てくる言葉ほどは冷徹な内心を抱えている訳ではないことは、何処となく分かったような気がした。



[19752] 例によって(?) 二日分。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2010/09/21 23:34
本文が内容的に一区切りっぽくなってくれました。

ちょっと次なる実験を考えたいと思います。
かといって新規に話を書くのは面倒くさいので、これの続きということになるかと思いますが。

いい実験を考え付くまでは、この実験続行です。(ぉ
しかし、なんというか、あんまり変わりませんな。オリ主一人称物のときと。
結局のところあまり書き易いわけでもなかったってことですかねー。

**********************************************************

「じゃ、午後二時にこの先の駐車場で」
「分かったわ。みんなの世話はみっちゃんに任せといて♪」
 運転席で片目を瞑ってみせるみつに、車を降りたジュンと水銀燈は顔を見合わせた。その語尾の跳ね上がり方が一番気懸かりだと言いたいのは二人とも同じだったが、お願いしますと形だけは素直に揃って頭を下げた。
「頑張ってねジュン。水銀燈もバレないように気をつけるかしら」
「……余計なお世話よ、お馬鹿さん」
「むう、人がせっかく心配してあげてるのに。水銀燈ったらもう少しは感謝の心を持つべきかしら」
 口を尖らせる金糸雀の隣で、雛苺がぶんぶんと手を振る。
「こうしょう頑張ってなのよ。あいとあいとあいとー!」
「ヒッキーにゃいろんな意味で荷が重いでしょうが、精々頑張りやがれです」
 翠星石はジュンが重そうに持っている大きな鞄に視線を向けた。そこには胴のない人形と、それを完全なものにするための胴部の原型が収められている。
「その子を宜しくお願いするです、ジュン」
「──うん」
 ジュンは鞄を少し持ち上げてみせる。
 鞄の提供者は翠星石だった。段ボールで持って行けばいいとあっさり言う水銀燈にそれではあんまりだと抗議して、自分の鞄を貸し出すことにしたのだ。
 話の転びようによっては、もしかしたら翠星石は一週間以上鞄で寝られないかもしれない。だが、そうなったら大変だと思いはするものの彼女は鞄を貸し出すことを躊躇しなかった。彼女も彼女なりの遣り方で『水銀燈』のことを気に掛けているのだった。
「ジュン」
 真紅は後部座席の窓にしがみつき、目から上だけを出してジュンを見た。暫く、といってもほんの数秒だが、二人の視線が交錯し、真紅の顔が微かに笑みをたたえる。
「行ってらっしゃい、ジュン」
「……うん」
 真紅が何か続きを言いかけたとき、信号が青に変わった。みつは水銀燈に手を振り、車を発進させる。薔薇乙女達の身体はぐらりと揺れ、慣性で後部座席の背もたれに押し付けられたり座席の上に倒れこんだりした。
「感動のお別れシーンが台無しね」
 ぷっ、と水銀燈が吹き出す。
「みっちゃん、急発進しすぎじゃないのか?」
「それもあるし、自動車の動きに慣れてないのよ。金糸雀以外は初めてでしょうね」
 ふと水銀燈は目を閉じた。

 彼女が最後に自動車に乗ったのは、爆弾の雨は降らなくなったものの、まだ時折何処からともなく無人の飛行機や大型のロケット弾が降ってくる街の郊外だった。
 確かアメリカから大量に供与された四輪トラック、戦闘神経症で後送された当時の媒介が運転するそれのサスペンションは、今から思えばあまりにも旧式で、軍用としてはどうか分からないが、人間も運ぶ車としては最低限の機能しか持っていなかった。
 鞄の中に入っていても眠りに就けないほどに手ひどく揺さぶられながら、彼女は媒介の実家に運ばれ、そしてそれきり媒介と会うこともなく長い眠りに入った。
 仮に今生きていたとしても、彼は九十歳近いはずだ。今更会いたいとは思わない。だが、消息が全く気にならないと言えば嘘だった。
 結菱老人の一件の後、少年の目を盗むようにして試しに人名で検索を掛けてみたこともあったが、しかし、それらしい結果には行き当たらなかった。これといった特技や資産のない男だったから当然といえば当然だが、一抹の寂寥感が残ったことも事実だった。

「──行きましょうか」
 まだなんとなく不決断にレンタカーの走り去った方を眺めているジュンを、水銀燈は軽くつついて現実に引き戻した。
「……うん」
 ジュンはひとつ頷くと、水銀燈の後ろについて歩道を歩き出した。
 五歳児くらいの子供の背丈なのに、水銀燈の足はさほど遅くなかった。大股で迷いなく──まるで毎日通って知っている道のように──そのくせ軽やかに歩いていく。まるで羽を広げているようだ、とジュンは思った。実際には彼女の羽は今まで見たことのないほど小さく、近づいて見てもシャツの上からではほとんど存在が分からないほどに畳まれているのだが。
 対して、ジュンの足取りは軽くない。鞄は確かに大きく嵩張っているが、中身が軽いから見た目ほど重いわけではない。足を遅くしているのは別の要因だった。
 服は作ったことはあるが、人形のパーツは初めてなのだ。しかも他の部分を作ったのは自分ではないから、出来上がってしまえば自分の作った胴体部分が他の部分の作風と合わない可能性が大きい。それを、確実に一人以上の赤の他人の目に晒すことになる。
 あれは違う、と思いつつも、どうしても自分の描いたラフスケッチの顛末を思い出してしまう。黒板一杯の中傷の文字、その場の全員の蔑むような冷たい視線、嘔吐してしまった自分を見ても手を出そうとしないクラスメート達。
 額に汗が浮かぶ。しかし、歩みを止めるわけには行かなかった。こんなところで座り込んだらみんなは落胆するだろうし、前を歩いている子供の姿をした黒衣の人形には鼻で笑われてしまうだろう。それは癪だった。
 百メートルほどの距離を歩くと水銀燈は唐突に立ち止まった。振り返って大分遅れているジュンを見ても何か特別なことを言うでもなしに「ここよ」と素っ気無く到着を告げた。
 ジュンはガラス張りのショールームの中に並べられているスポーツバイクや大柄なスクーターを眺め、視線を上げて看板を確認し、それまでよりは幾分ましな歩調で水銀燈の前まで歩み寄った。
 水銀燈は帽子の下でにやりと笑い、両腕を大きく広げてジュンを見上げた。
「機械と油と熱と騒音の世界へようこそ、奇麗な世界のお坊ちゃん」
 ジュンは何度か瞬いた。水銀燈の姿が、何故か長身の男のように見えた気がしたからだ。


「良かったんですか真紅」
 後部座席に並んで座りながら、翠星石は真紅をちらりと見遣った。
「何の事かしら。ジュンのことなら心配要らないわ。水銀燈だって、まさかジュンを焼いて食べたりはしないでしょう」
 澄まして答える真紅に、翠星石は水銀燈のように肩を竦めてみせた。
「ジュンのことはいいんです。ホントは一緒に行きたかったんじゃないですか? ジュンと」
 真紅は翠星石の顔を見、それから視線を前に向けた。金糸雀と雛苺は助手席に移動してみつとはしゃいでいる。肝心の運転が気もそぞろなのは決して誉められることではないのだが、それは経験の乏しい彼女達にはあまりよく分からない種類の事柄だった。
「そうね、水銀燈の代わりになれるのだったら一緒に行ったでしょう」
 でもそれは貴女も同じではなくて? と真紅は翠星石の手に手を重ねる。
「水銀燈のように変装してしまえば、いいえ、貴女ならそのドレスのままでも可愛い女の子で通るわ」
「真紅だってそうじゃねーですか。現に、おじじの家からはみんなで歩いて帰ってきましたよね? あれでも騒がれることがなかったんですから。それにチビチビやチビカナだって平気で外に出てます。いくら小うるさい時代になったからって、その気にさえなりゃ、薔薇乙女には外を闊歩することなんて御茶の子さいさいなんです」
 それなのにどうして、と翠星石は真紅を見詰める。真紅は伏目がちになり、貴女も分かっているのでしょう、と呟くように答えた。
「ジュンは、一度は閉めてしまった扉を開く鍵を手に入れたの。それは偶然与えられたものかもしれないけれど、自分自身で使うべきものよ」
 それを私達が邪魔すべきではないわ、と真紅はちらりと翠星石を見、また前に視線を戻した。
「今日の水銀燈には役割がある。それはジュンの側の私達にはできない役目。代われるものなら代わりたいけれど……」
 翠星石の手に重ねた真紅の手に、僅かばかり力が篭る。
「人は成長するわ。子供は在りし日の人形遊びを忘れていく。ジュンが重い扉を開こうとしているなら、私達はこちら側からそれを見守ることよ」
 それにね、と真紅は固い表情をやや崩した。
「一緒に行ったら、私はきっと嫉妬してしまうわ、水銀燈に」
 ちらりと翠星石の顔を見上げる。どうしてですか、と口には出さなかったが、翠星石の表情がそう尋ねていた。真紅はまた俯き、少しばかり照れたような、それでいて寂しいような顔で続けた。
「彼女にはその場での役割があるもの。でも、私にはなんの役割もない。ただの見物人に過ぎないの。それがきっと妬ましくなってしまう……」
 そうですか、と翠星石はこくりと頷いた。真紅がこんなにはっきりと弱気な部分を見せるのが少しだけ意外だった。

──真紅でも、他人に嫉妬したりすることはあるんですね。

 正直なところ、翠星石がジュンに同行しなかった理由の半分ほどは似たような理由だった。自分が居てもジュンにして上げられることがない、というシチュエーション自体が怖かった。
 今回の件は事務的なことについては水銀燈がいれば全て事足りてしまう。また、もしジュンが精神的にダメージを受けるようなことがあっても、今の水銀燈なら尻を叩いてでもその場は切り抜けさせてしまうだろう。未知の場所に同行してお邪魔者になるだけという図式は、真紅ほどプライドが高くない翠星石であってもやはり楽しいものではない。
 そして、真紅がもう一つ理由を持っているように、翠星石にもそれ以外の理由がある。それは、ついて行くなら真紅も一緒でなければ、という翠星石自身の拘りのようなものだった。
 何故そういう拘りを持ってしまったかについては、翠星石本人にも明確な答えは出せない。ただ漠然と、真紅が片腕を失っていた間自分が感じていたちょっとした疎外感とか、小さな嫉妬とか寂しさのようなものを、自分が味あわせたくはないという気分があるだけだ。
 だから、その部分については翠星石は心の中に仕舞って置くことにした。
「──翠星石も同じですよ」
 彼女は微笑み、真紅の手を取って指を絡み合わせ、助手席で元気一杯にしている二人を見遣った。
「さっきの難しい話は、今は置いておくです。でも、真紅がちょっとだけデレてくれて嬉しかったですよ」
 それは身勝手な思い込みかもしれない。しかしこの場はそういう納得の仕方をしておけばいい、と翠星石は思い、空いている方の手で真紅の肩を抱き寄せた。
「──翠星石?」
 驚いてこちらを見上げる真紅に、翠星石は少し意地の悪い──雛苺や金糸雀に見せるような──にやりとした笑みを見せた。
「いいから、たまにはジュン以外にも甘えるです。お姉ちゃんが抱き締めてやるですよ、このツンデレ妹」
 ひっひっひ、という笑いに真紅が身体を強張らせるのをぐいと抱き寄せ、翠星石は真紅の顔を自分の胸元に押し付けた。真紅がくぐもった声で何か言ったが、翠星石は気付かない振りをして目を閉じた。

 二人は全く気付かなかったが、運転席のみつはバックミラーでそれを確認し、金糸雀に左手の人差し指を立ててみせ、次に親指で後部座席を示した。金糸雀は流れるような動作で敬礼を返すと、懐から取り出したカメラを後部座席に向けて立て続けにシャッターを切った。
「……完璧な連係プレーなの」
 雛苺は目を丸くしてひそひそと囁き、金糸雀は無言で親指を立ててみせた。


「変わった形のパーツですねえ……縮んだ芋虫? おっきな抵抗器? みたいな」
 ショップの受付担当だという女性は、なんとも言いがたい形状をしている原型を見て、ごくありきたりだが的確な形容をした。水銀燈は思わず吹き出し、ジュンは居心地が悪そうな表情になって原型をまた鞄に仕舞った。
「今、担当を呼んで来ますね」
 女性はあくまで笑顔で、事務所の奥に消えた。
「あは、あはははは」
 水銀燈は腹を抱えて笑い出した。
「確かに抵抗よねぇ。細くなってるところにストライプ入れたらそのものだわ」
「なんのことか分かんないぞ」
 ジュンは口を尖らせる。水銀燈はなおも暫く笑ってから、ジュンに向かって人差し指を立てて説明を始めた。
「電子基盤なんかで使われてる抵抗器のことよ。大きさは全然違うけど、形がね──」
「お待たせしました。カーボンパーツ担当です」
 後ろ斜め上から声が降ってくる。振り返ると、ツナギ姿で書類ファイルを脇に抱えた長身の男が立っていて、こちらを見てお辞儀をした。ジュンは慌てたように頭を下げ返し、男はもう一度軽く頭を下げて、どうぞと二人を事務所の隅のテーブルに案内した。

「バイクやクルマのパーツじゃないって事務員から聞いたんですけれども、まず現物を見せて頂いていいですか」
 ジュンははいと頷き、少し苦労しながら鞄をテーブルの上に置くと、そこから白い紙粘土製の原型を取り出した。
「……こりゃまた、凄いですね。フィギュアのヘソんとこみたいな」
 男は原型を手に取り、ざっくばらんな口調になった。形式ばった言い回しは苦手なのだろう。それでもお客相手という意識があるのか、丁寧語だけは使っている。
「フィギュア、というか……」
 ジュンは口ごもってしまう。改めてこうして他人の目に触れさせると、どうにも恥ずかしさが先に立ってしまう。姉や親しい人に作った服を見せたときとは違う感覚だった。
「ご名答。球体関節人形の胴体部よ」
 水銀燈がぼそりと補足した。男は、おや、というような表情をして水銀燈をちらりと見たが、なるほどねぇ、と頷いてまた原型をくるくると回した。
「他の部分はどうなってるんです? これから作成とか……」
「もう、できてます」
 ジュンは少し詰ったような言い方で、なんとか答えた。水銀燈は少し眉根を寄せてそちらを見る。
「それも全部FRPで作るんですか?」
 男は当然の疑問を口にする。まさか、と言わなかったところは商売人と言うべきかもしれない。
「いえ、もう……」
「そのパーツ以外は、完成してるの。ゲルコートも」
 しどろもどろになりかけたジュンの言葉を水銀燈が引き取る。
 真紅が見たら失望の溜息を漏らしたかもしれない。あまり行儀のいいやり方ではないし、ジュンの心を思えばさっさと口を挟むべきところではなかろう。
 ただ、水銀燈には水銀燈の事情があった。野球帽と眼鏡のせいもあって外見にはそう見えないかもしれないが、彼女もまた少なからず緊張しているのだった。
 もっとも、そういう事情がなかったとしても彼女の場合、焦れて口を挟む可能性が無いわけではない。最近変わりつつあるとはいえ、お世辞にも気が長い方ではないのだ。
 そんな二人の事情には気付かないように、ほう、と男は一オクターブ高い声を上げた。
「もしかして全部カーボン……とか?」
「はい」
「そりゃ凄い、いや、これって完成したら全長、全高って言うのかな? 多分一メーターくらいありますよね。それを全部……」
 見てみたいな、と男は子供のような素直な声を出した。ジュンは開いたままの鞄をくるりと回し、男から中身が見えるようにした。
「こりゃ……」
 男は目を見開いて絶句した。人形の出来に目を奪われてしまっているようだった。
「失礼、いや、なんというか」
 暫くして男はやっと口を開いた。視線はまだ人形に注がれている。
「最近はハンドレイアップ……ええと、ウェットカーボンって言った方が通りが良いかな、ホームセンターで売ってる手作りFRPセットのガラス繊維をカーボン繊維に代えたやつ、って言いますかね。そういうのをカーボンって言ってる場合もあるもんで。いやしかし凄いな、これは。物凄く奇麗だ」
 取って付けたように人形の美しさにも言い及んだものの、男の視線は専ら胸部と腰部の内部──塗装されていないために素材が剥き出しになっている部分に注がれているようだった。案外、奇麗だというのもそこの曲面の貼りこみやら仕上げ具合を指したのかもしれない。
 暫くどうしても買って欲しいが買ってもらえない玩具を見る子供のように熱い視線を注いでいたが、やがて嘆息と共に目を上げ、はっとして赤くなり、ありがとうございますと二人に向き直る。
「失礼しました。人形としての形も素晴らしいと思うんですが、仕上がりが美しいですね。つい魅入ってしまいました」
 二人は頷いた。何処の仕上がりかは、言われなくても分かる気がした。

 そこから後暫くは、事務的なつまらない話だった。仕上がりまで一週間以上は必要なこと、雌型が必要になること、肉抜きが上手く出来ない形状なので分割後結合することになること、分割ラインについては一任すること──但し、極力目立たないように分割するし、結合面の強度については責任を持てると彼は言った。
「もちろんばらばらの分割パーツでなく、一つに結合済みの完成品としてお渡しします。それと──」
 男は開いたままの鞄にまた目を遣り、原型の上下を指差した。
「球体関節なんですね、この上下の半球が」
「はい」
 組み合わせてもらっていいですか、とは彼は言わなかった。ただ、ちらちらと鞄の中を見ながら考え込むような素振りをしているのは、頭の中でそれを実行してみているのだろう。
 ジュンは手を伸ばし、水銀燈を促して二人がかりで人形を鞄から取り出し、テーブルの上に寝かせた。原型を胴のところに組み入れると、そこだけ色違いではあるものの人形はどうやら人間の形になった。
「こんな風になるんですけど……」
 背中部分に手を回し、上下の胴部の関節を軽く動かす。首がかくんと後ろに仰け反るのを見て、男は自分も立ち上がって人形の頭を支えた。
「かなり自由に動くんですねえ」
 人形の髪を自然に整えながら、ほうほう、と男は何度か頷いた。
「この原型の状態で、パーツの擦り合わせは出来てるってことですね。分かりました。それを確認したかったもんで」
 ここまで擦り合わせができていれば、後は完成品でどうしても微妙に発生するヒケ、歪みを取ってやる程度でいい、と男は感心したように言った。
「上下のパーツを預かって宜しければ、こちらで擦り合わせをした状態で塗装までやっておきますが」
 どうしますか、と尋ねる男に、ジュンは咄嗟に返事が出来なかった。男はパーツ工場の関係者らしく上下パーツという言い方をしたが、それは要するに人形を預けるということと同義だった。
 確かにパーツ原型の製作者は自分ということになるのだが、その依頼者は水銀燈なのだ。人形を丸ごと預けてしまってよいものなのか。
 だがジュンが視線を向けると、水銀燈はあっさりと頷いた。ジュンは男に頭を下げた。
「お願いします」
 分かりました、お預かりしますと男も頭を下げた。

 さきほどの女性が三人分のコーヒーを持ってきた。テーブルの上の人形を見てまあと口に手を当てる。
「凄いですねぇ。お客さんが作ったんですか?」
「……違います」
 男と女性がジュンに視線を向け、ジュンはちらりと水銀燈を見遣る。水銀燈はポーションタイプのミルクを律儀に垂れ残しのないようにコーヒーに溶かし込み、その表面が微妙な模様を描くのを観察してからジュンを見、そして視線を男に移した。
「原型もパーツ本体も、どこかのパーツ屋に居た人が作ったの」
 水銀燈は子供の声色や喋り方を真似ることもなく、普段どおりの発音で言った。
「でも、今年の冬亡くなったわ。胴部だけ作り残して。中途半端ったらないでしょう」
「そう……それは惜しいなあ。良い仕上がりなのに」
 男はコーヒーを啜り、遺作ってことかぁ、と天井を見上げた。高い天井には大きな換気扇がゆっくりと回っている。
「しかし、そういうこととなれば気合入れて作らないとね」
 正直、まさかカーボン製とは思わなかったんですよ、とジュンを見て苦笑する。
「でもこれなら納得だな。どっかのメーカーで鉄腕アトムのフルカーボン人形作って展示してたけど、あれは非可動フィギュアだった。わざわざ可動人形で、しかも外見に判らないように作るなんて自分の技術の限界に挑戦してみましたって感じで、その、言い方は悪いけど──」
「──バカっぽくて良いでしょう?」
 水銀燈がふっと笑うと、男は何度も頷き、楽しそうに笑った。
「そうそう! 技術と設備持ってる人にしかできない、まさに道楽。これは是非とも完成させないと」
 発注を受けた愛想も幾分かは含まれているかもしれないが、本気でそう思っているらしいことは伝わってくる。

──それにしてもよく喋って笑う人だな。

 男にはドールの話をしているときのみつと同じ雰囲気が何処かにあった。話し好きというのもあるだろうが、専門バカと言うのだろうか、趣味と仕事を一緒にしてしまった人特有の何かだった。
 ジュンはややうんざりしながら男を眺め、コーヒーを啜った。この手の人の相手はあまり得意ではない。
 あまり飲みなれないせいか、それとも豆のせいなのか、コーヒーは少しばかり苦っぽいような味がした。どうにか顔に出さずに水銀燈を見遣る。あまり居心地が良くないんだけど、という気分を視線に込めてみたつもりだった。
 彼女はコーヒーを啜りながら男の顔を見詰めていたが、ジュンの視線に気付くとこちらを横目でちらりと眺めた。その眼にどこか照れのようなものが見えるのは何故だろうとジュンは訝しく思った。


「お疲れ様!」
 待ち合わせ場所の駐車場には、既にみつのレンタカーが待っていた。
「どうだった? 首尾よく無償でご提供いただけそう?」
「それはいくらなんでも無理だろ……」
 ジュンが憮然とした表情で言うと、みつはわざと大きく舌打ちの真似をして見せ、まあいいわ、と何度か首を縦に振った。
「アテはあるもの。取り敢えずは第一関門はクリアしたってところね?」
 ジュンを見て片目を瞑ってみせ、彼が頷くのを確かめると、さあ乗って、とドアを開ける。
「水銀燈──」
 ジュンは斜め後ろを振り返った。来た時と同じ順序なら先に乗るはずの水銀燈は、一歩下がったところで軽くかぶりを振った。
「帰りは寂しがりの誰かを抱いて上げたらどうかしら。もう道案内は要らないでしょう?」
 やや意地の悪い、しかし厭味のない笑顔で水銀燈は後部座席の窓にかじりついてこちらを見ている姉妹達を眺めた。姉妹達は顔を見合わせ、次いでジュンに視線を集める。
 なんてこと言うんだよ、とジュンは水銀燈を睨み、水銀燈は素知らぬ風で肩を竦める。ジュンは一つ溜息をついた。
「──抱いてやるのは一人だけだぞ。もう一人は僕とみっちゃんの間な」
 歓声こそ上がらなかったが、彼女達の表情はぱっと明るくなる。水銀燈は皮肉な笑顔になり、大変ね保父さん、とジュンを肘でつついた。

 短いが白熱したジャンケンの結果、ジュンの膝上のポジションは翠星石の、隣は雛苺の勝ち取るところとなった。雛苺は歓声を上げて座席に座り、翠星石は何か無闇に怒ったような赤い顔で、そのくせしどろもどろな言い訳をしながらジュンに抱かれた。
「そういえば、初めてかもしれないわ」
 後部座席で金糸雀と水銀燈に挟まれるように座った真紅は、幾分眠そうな眼をして呟いた。
「貴女と並んで座るのは1078950時間37分ぶりだけど、初めてではないわよ」
 水銀燈はドアの内張りに寄り掛かり、窓外の景色を眺めたまま否定する。真紅はふっと息をついた。
「それは覚えているわ。あれで喧嘩別れをしてから、食事のときもお茶のときも貴女は私の隣に座ろうとしなかった……」
 でもそのことではないのよ、と真紅はぼうっと微笑む。
「翠星石がジュンの膝の上に座るのは……多分初めて……」
 ふあ、と可愛らしく欠伸をすると、それを待っていたように金糸雀が真紅の肩にこてんと頭を載せる。彼女はもう眠っていた。
「じどうしゃというのは、どうしてこんなに眠くなるの」
 真紅はいつものようにすげなく振り払うこともなく、かと言って慈しむような顔になるわけでもなく、とろんとした眼で誰にともなく呟くとゆっくりと目を閉じた。じきにその頭が金糸雀に寄り掛かる。二人は絵のように可愛らしく寝息を立て始めた。
 水銀燈はちらりと二人の妹を見遣り、素っ気無く呟いた。
「……それは貴女達もそれなりに緊張していたからよ。お疲れ様、真紅」
 そのまま、また窓外に視線を向ける。流れていく景色をぼんやり眺めながら、彼女はさきほどのことを思い出していた。


 ショップからの去り際、建物の外で男は水銀燈を呼び止めた。ジュンは振り向いたが、水銀燈が目顔で頷くと先にその場を歩み去った。二人とも、何処となく男の用件が分かっていたのかもしれない。
「済まないね、君に聞いた方が良いような気がしたもんだから」
 男は照れたように笑った。
「言い難くなかったらでいいんだが、あの人形を作った人の事を教えてくれないかな。ああ、原型じゃなくて……パーツの実物の方を」
 水銀燈は帽子の下で薄く微笑んだが、突き放したような言葉を口にした。
「訊いてどうするの? さっきも言ったけど、もうその人はこの世界の何処にも居ないのよ」
 正確にはそうではないとも言える。だが、少なくとも今現在は、あの人形を作り育てた男は、僅か数人の記憶の中にしか存在していない。前世の記憶こそが彼の本体だとするなら、彼は自分で自分を殺し、自分が宿っていた少年を捨て、その上彼女に文字通り全てを押し付けて去って行ってしまった。
 いっそのこと出来の悪い小説のように自分の中で一つの人格として生きていてくれれば文句の一つも言ってやれるのに、と水銀燈は口惜しく思う。実際に彼女が得たのは、一人の人間が平均寿命よりだいぶ短い時間を生きただけの記憶と知識でしかない。
 有益な情報を含んではいるが、そこに生命は宿っていなかった。膨大ではあるがただの知識だった。
 そんな事情を知るはずもない目の前の男は、何処にも居ないからさ、と両手を広げてみせた。
「生きてれば会うこともあるかもしれない。名前を聞くことがあるかもしれない。なにせ同業者だからね。だがもう会えないってことになれば、ここで聞いとかないとその人のことは謎のままなんだ、俺の中で」
 たった一つのパーツのことで大袈裟かも知れないが、最後の一ピースを組み上げる仕事を任されたからには多少は知っておきたいんだ、と男は真面目な顔で言った。
 水銀燈は少しだけ躊躇い、残念だけど、と男を見上げた。
「名前や住所、会社の名前はちょっと教えられないわ。もっともそんなことは些細なことよね?」
 少し意地の悪い顔になって口の端を持ち上げる。男は腕を組んで苦笑した。
「まあ、そうかな……うん」
「そういうことにしておいて」
 水銀燈は今度ははっきりと微笑んだ。
「そうね……臆病で、死ぬ間際まで好きな人に告白できないような人だったわ」
 そう来るか、と男は首を少し傾げる。その反応を無視して水銀燈は続けた。
「漫画好きでアニメ好きで、ある作品に物凄く入れ込んでたわ。オタクって言うのかもね」
 思わず笑いがこみ上げてくる。
「その思いの丈を籠めたのがあの人形よ。ドールフェチでもあったってことかしら」
「なるほどねぇ」
 男は少し食い足りないような顔で返事を返した。
「──それから」
 言うつもりは無かったのだが、水銀燈はつい口走ってしまった。
「水銀燈を愛していた……」
「え」
 男は何か途轍もない言葉を聞いたかのように固まった。
「えっと……まあフェティシストってのはいろいろあるらしいが……その、水銀灯ってあの水銀灯かい、道路とかにある──」
「──そう、その水銀灯よ」
 視線を下に向け、男の言葉に被せるように水銀燈は言った。
「水銀灯が一番のお気に入りだったわ。愛の告白までしたことがあるのよ」
 可笑しいでしょう、とにやりと笑って男を見上げる。男はなんとも言えない顔になって水銀燈の顔を見詰めた。

「えーとそれは……『愛している、水銀灯、君をこの世の他の誰よりも』……とか?」

 水銀燈の笑顔は仮面のように凍りついた。
 数秒間、どちらもそのまま動きを止めていた。
 男が何かおかしなことを言ってしまったかと焦り始めた頃、水銀燈は表情の消えた顔で呟くように言った。
「もう一度、言ってみて」
 男は問い返さなかった。ごく生真面目な顔になって、少し顎を引いて同じ台詞を言った。
「もう一度……」
 子供がものをせがむような口調で水銀燈が言うと、男は何かを了解したようにそっとかがみこみ、視線の高さを彼女に合わせた。

「君の事を愛している、水銀燈。どの世界の誰よりも」

 水銀燈は何度か瞬いた。そして、物も言わずに彼の首に両腕を回してしがみついた。
 二人がそうしていた時間は大して長くなかった。最初に男が台詞を口にしたときと同じ、精々数秒間だっただろう。男が子供をあやすつもりで彼女の背中に手をやろうとしたときには、水銀燈はもう離れていた。
「ありがとう」
 素直な声音で彼女は頭を下げた。
 男は何かを言いかけて口を閉じ、こちらこそありがとう、と微笑んだ。
 男はそれ以上何も訊かず、水銀燈の方も何も言うこともなく、そのまま踵を返してジュンの待つ街路に向かった。


 車は郊外から彼女達の住む街に戻っていた。水銀燈は空を見上げ、一つ息をついた。
 助手席では翠星石がなにやらジュンと雛苺を罵っている。二人が軽く聞き流しているのを横目で見たみつがくすくすと笑っていた。
 飽きないわねぇ、と水銀燈は呟き、欠伸をして目の端に溜まった涙を指で拭いた。自分にも眠気が忍び寄っている。元々このくらいの時間は寝ているのが彼女の生活リズムだから、当たり前といえば当たり前だった。

──今日くらいは媒介の夢に行かずに寝ておこう。

 もっともその前に桜田宅に寄って着替えなくてはいけなかった。それが面倒だと感じるのも、多分眠気のせいだ。
 特に何か事態が出来しない限り、家に戻ったら明日の夜まで寝てしまおうと水銀燈は思った。媒介は心配するかもしれないが、勝手に心配させておけばいい。とにかく、今は眠りたかった。



[19752] 約100行。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/09/25 00:09
まあ後始末的な。
いつにも増して特に見るべきところのない内容です。

****************************************************

 工房の中では、赤い人形が最後の仕上げの工程に差し掛っていた。
 水銀燈はいつものように足を組み、肘を突いた手に顎を乗せるようにしてそれを見守っていた。
「虚しい作業だ」
 手を動かしながら男は呟いた。
「この上もなく虚しく、そして背徳的な作業だ」
「貴方が言うとちっともおかしくないような気がするから不思議ね。でも、その子に聞かせていい台詞じゃないでしょう」
 水銀燈が言うのは、男が今は髪を梳いている金髪の人形そのもののことだった。
「自覚しているかどうか知らないけど、もうその子に確り意識はあるわよ。多分ローザミスティカを入れるまでは口を開いたり手足を動かすことはできないのでしょうけど」
「知っていたさ」
 だから尚更虚しいのだ、と男は言った。
「私達の世界は閉じているのだ。他の世界と交わる、交わらないではなくて、時間が閉じている。だから私はどこの時間にも存在するし、どの時間にも存在していない。全ては虚しい作業に過ぎない」
 言いながらも男は手を止めようとはしない。水銀燈はその見事な手捌きを半ばうっとりと眺めながら、ぽつりと補足した。
「貴方達の物語は終わってしまったものね。貴方が弟子の人形に壊された娘達を修復したところで」
 男は頷き、カールを掛けていた部分を整える。
「私についてはそれで良かった。娘達がアリスになれる道筋の見込みがついたのだから。だが、そこから先はない。彼女達が踏み出し掛けで止まってしまった時間に、次の一歩を踏み出す機会は永遠に訪れないのだ」
「誰だって最期の瞬間はあるわ。それが分かり易い形で一斉に来ただけのことよ」
 水銀燈は目を閉じた。
「終わりのない人生をこれからも生きていくはずだった貴方には却って理解できないかもしれない。でも人の生き死になんてそんなものじゃなくて? 誰の時間だって、何処かで終わって閉じるのよ。それも大概は望まない時点で、しばしば唐突にね」
 人形だって似たようなものよ、と水銀燈は息をつく。
「人形は死なない、魂が何処か遠くに行くだけ、とは言うけど。要は壊れて捨てられればそこで御仕舞い。形が無くなってしまえば呼び戻してくれる人はいなくなり、二度と生き返ることはできなくなる。ありようが違うとはいえ確実に終わりはあるのよ」
「一種の極論だな、それは。全くもって慰めにならん」
 男は静かに櫛を置き、以前作業台の上の人形に被せてみせた赤いボンネット調のヘッドドレスを取り上げる。しかし、思い直したようにそれを置くと、凝った意匠のブローチを取り上げてそれを見詰めた。
「だが、実に君らしい意見だ。どういう訳か安心できる」
「お褒め頂いて恐縮ですわ、人形師様」
 水銀燈は目を開いて皮肉に口の端を歪めたが、男はちらりと彼女に視線を遣っただけで作業を続ける。暫くは衣擦れの音と時折仕事道具が立てる僅かな音のみがその場を支配していた。

──真紅のときもこうだったわね。

 工房の様子は全く違う。しかし、目の前で最後の化粧と衣装を整えられていくのがよく似た姿の人形であるだけに、思い出はこの場の光景と混ざり合っていくようだった。
「しかし違いはあるだろう」
 男がぽつりと言う。水銀燈は眉を顰めた。
「貴方がこちらの考えを読めることを今更どうこう言う気はないけど、わざわざ回想を邪魔しなくてもいいでしょう」
「懐かしき日々、か。それほど素晴らしかったのかね? むしろ忘れたい部類の記憶ではないのかね」
 男の声の揶揄するような響きに、水銀燈は苦笑する。短い付き合いだが、彼が偽悪的になるのは本心を隠したいときだと分かっていた。
「手元が疎かになるわよ。大事な最後の仕上げでしょうに」
「なに、大した作業ではないさ。ほぼ終わっているようなものだ」
 男は軽く答え、机の上からその人形を丁寧に抱き上げると背凭れのついた椅子に注意深く腰掛けさせ、息をついて一歩脇に退いた。
「見事な出来ね」
 水銀燈はお世辞でなくそう言った。
「可愛らしい顔。切れ長の瞳というのは現代的だけど、丸顔なのがアンバランスでいいわね」
 男は黙って微笑み、人形にヘッドドレスを被せると顎の下で結んだ。
「完成だ、私の娘。何者よりも気高く、力強く、慈しみ深い、私の五番目の娘」
 男が囁くように語り掛けると、人形は蒼い目を薄らと開けて彼を見詰める。彼は微笑んだまま人形を抱き上げ、椅子の脇に置いてあった鞄を取り上げた。
「呆れた。作り上げたと思ったらもう行くの?」
「行かないで欲しいのかね?」
 男は含み笑いのような表情で水銀燈を振り返った。
「残念ながらご希望には添いかねる。先方は既に待ちかねているのだ」
「あっさりしたものだこと」
 水銀燈は肩を竦め、にやりとした。
「引き留めてまで貴方と喋っていたいとは思わないけど、先方とやらにその人形を預ける場面には興味があるわ。許されるならご同道したいところだけど、どうかしら?」
 男は無言で、彼女と同じように肩を竦めてみせた。二人ともそれが無理な注文だというのはよく分かっていた。
「行って来るよ、生意気な黒人形さん」
「行ってらっしゃい、きちがい人形師さん」
 男は軽く一礼して、扉を開けて出ていった。垣間見た扉の向こうの青い空と緑の木々が皮肉だと思えてしまったのは、水銀燈が作業台の上の人形に感情移入してしまっているからかもしれない。

 水銀燈は椅子の上で背中を丸め、膝を抱いた。何か変化があるものと思っていたが、男が出ていってからも工房の風景に変わりはなかった。
 自分の夢の中だというのに奇妙な寂寥感を感じているのも、放置されたままの人形のせいかもしれない。
 その人形は何故か動き出さず、どこか諦観を感じさせる瞳で彼の去った後を見詰めている。いや、それもまた水銀燈の感傷がそう見せているのかもしれない。人形の表情など、見る角度だけで様々に様子を変えるのだから。
 気分を変えるためというわけではないが、そのままの姿勢でぐるりを見渡してみる。飾り気とゴミのない工房の中で仕事机と作業台とがらくたの山だけが目立っていた。
 一通り見回した後、水銀燈の視線は仕事机の上に向けられた。奇麗に揃えて置かれた仕事道具の間に、白い紙のようなものがあることに気付いたのだ。
 椅子から机の上に飛び乗って手に取ると、紙は短い手紙か書置きのようなものだった。宛名は書かれていないが、それが自分に宛てたものであることは文面を見れば確実だった。
「右の三段目……ねぇ」
 手紙を持ったまま机から降り、やや苦労しながら抽斗を引き開ける。有り難いことね、と呟いたのは、抽斗の中身が水銀燈の視点からでもよく見える高さだったからだ。
 抽斗の中を覗き込み、水銀燈は息を呑んだ。
 男の様子から仕事道具が詰まっているとばかり思っていた抽斗の中身はほとんど空だった。ただ、実に無造作に指輪のケースが二つ収まっているだけだった。
「──まさかね」
 そう言いながら、恐らくこれだろうという予感はあった。一つのケースを取り、胸元で開けてみる。
 予想は当たっていたが、溜息が出るのを抑えられなかった。
 中に入っていたのは淡紅色に光り輝く結晶と薔薇の意匠の指輪だった。
 元通り閉じて、もう一つも同じように開けてみる。結晶の形が若干異なることを除けば、全く同じものが収められていた。
「……どうしろって言うのよ、こんなモノを」
 そう言ってみるものの、それも思い当たる用途はある。水銀燈はケースを閉じて手に持った紙を裏返し、そこに書かれていた予想通りの文章を眺めてやれやれと肩を竦めた。
「つまるところ、貴方は出来損ないの第一ドールを他のどの娘よりも愛していたってことじゃない。全く、素直じゃないったら」


「えっ、立て替えるってどういうことですか」
 事務員は目を瞬いた。男は歯切れ悪く、やや照れたような表情で答える。
「ああ、まあ、タダっていうか、こっち持ち……俺持ちでね。これは俺の腕試しみたいなもんだから」
「それにしても、経費くらいは取ったっていいんじゃないですか? これ工賃だけでも相当な額ですよ」
 少し怒ったような顔で事務員の女性は男を見た。男は肩を竦める。
「会社に迷惑はかけない。俺の給料から天引きでも、直に払ってもいいが、兎に角これは俺の持ちにしたいんだ」
 ごめん、と男は長身を曲げて片手で拝むような姿勢になった。
「あの人形、作ったのはあの野球帽の女の子の親父さんじゃないかと思うんだ。あれは多分、形見みたいなものじゃないかな」
 妄想ですか、と事務員は首を振る。
「前から思ってましたけど、子供にはとことん弱いんですね。それともロリータ野郎って言った方がいいですか?」
 膨れっ面になる事務員を、まあまあと男は手で制した。
「それに、実際凄いものだった。俺の作った部分が依頼者から金取れるほどいい出来になったかどうか自信がないんだ」
 言いながら、男はパーツ製作の依頼書を眺める。
 依頼者欄には桜田ジュンという、あの中学生ほどの男の子の名前が書かれていた。ただ、もう一つその隣に別の名前も連署されている。

──水銀燈、ね。

 最初気付いたときには、子供にしては……いや、子供だからわざわざ難しい字を選んだのか、と吹き出しそうになったものの、自分の名前をそんな風に書いてまで「愛している」と言わせたかったのか、と思うと可笑しいというよりも切なさの方が先に立つように思えた。
 男の想像では、人形を作ったのはあの子供の父親だった。人形は彼女に何処となく似ていたし、立たせてみると背丈も殆ど同じだった。
 どうして胴体を最後回しにしたのかは分からないが、兎も角最後のパーツだけを残して、大好きな父親は死んでしまった。そこで彼女は知り合いの少年に頼んで残りのパーツの原型を作って貰った。咄嗟に自分を水銀燈という名前に偽り、男に愛していると言わせたのも死んだ父親への愛情がさせたことだろう──そんなストーリーが男の中には完成していた。
 何もかも知っている視点では、それは酷く大きく間違ったストーリーかもしれない、と男は思う。実際そのとおりなのだが、そのことは男の知るところではない。
 しかし、男が費用を自分で持つと言い出したのはそういったストーリーに酔っ払っただけではなかった。彼の視点からは凄腕としか言えない職人の遺作なのだ。あまり褒められた形ではないかもしれないが、その男に対する手向けというか敬意を表したかった、というのが本当のところだった。
「まあなんだ、CBRはもう一月我慢するよ」
「大馬鹿ですね。専門バカっていうか、無駄に職人気質っていうか」
「褒め言葉と取っていいのかな、それ」
 男が腕を組むと、事務員はべーっと舌を出した。
「生憎と貶してます」
 男は苦笑した。
「そりゃ、どうも。そっちじゃないかとは思ってたけどさ」
 言いながら、男は依頼書を書類入れに仕舞いなおし、まだ何か言いたそうにしている事務員に片手をひらひらと振って事務所から出ていった。



[19752] 120~130くらい。行だけ多いので実質大したことなし。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/09/30 18:59
蒼星石編。
なんかどんどんエピローグモードに?

あとちょっとだけ続くんぢゃよ。
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 今日も蒼星石は庭に出る。持っていくのは自分の得物──庭師の鋏──ではなく、柄がアルミ製の両手鋏だった。
 庭師の鋏は手に馴染んでいるものの、実用品というには装飾過多だった。やはり取り回しでは味も素っ気も無いこちらの方がやり易い。保守的とか頑固とか姉に文句を言われる彼女だが、その点について拘りは無かった。
 薔薇屋敷と言われる彼女の契約者の家の庭は、広大でしかも荒れ放題だった。薔薇園だけは蒼星石の手でどうにか形になってきたものの、他は依然として荒涼たる有様だ。
 もっとも外回りは梅雨になる前に結菱老人が雇った職人が見た目を繕ってくれたようだが、門から足を踏み入れてしまえば、壁の中はちょっとした荒地の体を為してしまっているのがよく分かる。毎日手を入れていても仕事の終わりは一向に見えてこなかった。
 作業が進まないのは彼女にも問題があった。それは主に体格の面で、分かっていてもどうしようもないことだった。大人の体格なら簡単に手が届く場所でも、彼女は踏み台を使い、あるいは脚立を引き摺って来てよじ上らなければならない。物を運ぶにしても、何かをするにしても、小さな彼女にはいちいち面倒なことが多すぎた。
 薔薇の剪定ならそれでもどうにかなった。それは比較的近年まで薔薇だけは手入れされていたからかもしれないし、彼女の意気込みもあったからかもしれない。
 ただ、池の跡らしい湿地に生えている潅木ともなると、視点が低いせいもあってそれが伐っていいものかどうか彼女には判然としない。わざわざ植えたようにも、偶々そこに根付いてしまっただけにも見えてしまう。また伐るにしてもその周囲に蔓延っている──彼女の背丈を超えるものもある──イネ科の草をどう先に片付けるか、先ずそこから考え、計画を立てなくてはならなかった。
 冬が来るまでに目処はつくだろうか、とふと蒼星石は思う。
 年末に近づけば、今度はいよいよ薔薇の剪定の時期になってしまう。薔薇園だけはどうにか綺麗に整えておきたいと思う反面、他の部分があまりにも酷いのも考え物だった。
 もっともこの土地は雪は殆ど降らないというから、あまり神経質にならなくても良いかもしれない。少し寒いのを我慢すれば、剪定と平行して庭の整理もできるだろう。

──気長に行けばいい、か。

 蔦のたぐいが絡まってしまった庭木を見て、蒼星石は微笑した。昨日の土曜日、翠星石がふざけ半分に鎌を振るってその木まで「道」を付けたのだ。
 昨日珍しく尋ねてきた姉は、殆ど手伝いにはならなかったが明るさと楽しさを振り撒いて帰って行った。まだ結菱老人には素直に接することはできないようで、あまり顔を合わせようともしなかったが、その分も蒼星石の近くで賑やかにお喋りをしていった。
 鋏を置いて「道」に足を踏み入れ、左右を見る。繁り放題に繁っている草は彼女の背よりも高く育ってしまっていて、恐らく十数メートルと離れていない道路側の壁も、反対側に目を転じても家の壁もよく見えない。
 まるで草原の真ん中に隔離されているようだ、と苦笑する。青臭い臭いと虫の音に包まれ、これを全部刈るにはどれだけ掛るのだろうと現実的なことを思いながら、同時にどこか幻想的な部分も感じていた。

──マスターは、ずっとこうしていたのだろうか。

 足が弱る前、結菱老人はよく庭に出ていたと言っていた。かといって薔薇園以外は手入れをするわけでもなく、ただ茫然と庭を見回すのが常だったという。
 結菱老人の見ていた風景と、蒼星石の見ているこの無限にも似た草の中の風景は当然違うはずだ。いくら荒れ放題といっても彼の視線まで妨げるほどの丈の草というのはあまりないだろうし、薮蚊も刺しに来るから長いこと立ちっぱなしでいるわけにもいくまい。
 それでも、何処となく分かる気がする。
 何かをすっかり諦めてしまい、静かで緩慢な終末を迎えるだけになっていた老人の孤独が、心を触れ合っているから、というだけでなく、この風景から滲み出てくるような気がするのだ。
 それは多分、彼女自身──
「見つけたっ」
 はっとして振り向いたときには、伸びてきた手が彼女を腋の下でひょいと掴んでいた。そのまま、視点がすっと上に移動する。たちまち草の海は眼下に広がるちょっとした草叢に戻り、庭を囲む壁と建物は本来の存在を主張し始めた。
「こんち、蒼星石」
 斜め下から朗らかというよりは能天気に近い声がした。
「……こんにちは」
 蒼星石は声の主を見下ろして瞬いた。高い高いの要領で彼女を持ち上げたのは、水銀燈の媒介の少年だった。
「い、いきなり蒼星石に何しやがるですかこのノータリン!」
 少年の後ろから翠星石が駈けて来て、思うさま少年の脛を蹴り上げる。辛うじて向う脛でないのは敢えて避けたのか、位置的に蹴りやすいのが脛だったからかは微妙なところだった。
「いててててっ! いて、マジ痛えからそれ」
「何日ぶりだか知らねえですが、他人様に会っていきなり抱き上げるヤツが何処の世界にいるですか! 水銀燈の教育方針は全くもってなってねえです!」
 言いながら更に何発か蹴りを入れる。力の乗ったものではないが、今度は向う脛にも当たりだした。
「てててて、わかった、わかったから止めてくれって」
 少年は翠星石の前に蒼星石を降ろし、数歩後ろに下がって脛をさすった。
「ってー……手加減ってもんがあるだろ、翠星石さんよぉ」
「お前なんかに言われたかねーですよ。他人の契約したドールに手ェ出すヤツはサイテーです」
 ふん、と翠星石はそっぽを向く。スキンシップのつもりだったんだけどなぁ、と少年は腕を組んで首を傾げた。
「んー、じゃ自分のマスターなら良いのな。蒼星石なら結菱さん、翠星石なら桜田ってことか」
 ふむ、と素で頷いてみせ、やっと思いついたというように片方の掌をもう片方の拳でぽんと叩く。
「そういや、この間雛苺も言ってたっけ……」
「チビ苺はベタベタですからね。ジュンやのりだけならいざ知らず、前のマスターにまでデレデレです。誇り高き薔薇乙女にあるまじき媚びの売りっぷりですぅ」
「いやそうじゃなくて、翠星石がさ。桜田に抱っこされて凄く喜んでたって──」
「──ち、違います! まったき誤解でありますです! あれはその、ジャンケンの結果で致し方なく……」
 怒っているのか照れているのか、真っ赤になりながら少年に抗議する翠星石と、天然なのか故意犯なのか分からないがとぼけた調子でのらりくらりと躱す少年を見ながら、蒼星石はふと目を伏せ、幽かな微笑を浮かべた。

──貴方は僕に感傷に浸る暇も与えてくれないんだね。

 それは愚痴のような思いだったが、重くなりかけていた心は不思議なほどに晴れていた。

 俯いて長く息をつくと共にひとつ首を振り、顔を上げて気持ちを切り替えて二人を見直す。奇妙なことに、二人は動きを止めてこちらを窺っていた。
「そ、蒼星石?」
「俺なんかヤバいことやっちまった? ご、ごめんな」
「やっちまった? じゃねーです! お前が要らんことするから蒼星石が悲しんでしまってるじゃねーですか! どう責任取るつもりですかこのどあほうのコンコンチキ」
「違うよ」
 蒼星石は苦笑に近いものを浮かべ、翠星石を見遣る。彼女がぱちぱちと瞬いて見返してくるのを見届けてから、今度は少年を見上げた。翠星石の契約者よりだいぶ背の高い少年は、彼女と同じように瞬いて蒼星石を見返した。
「この草を見て、少し憂鬱になってしまっていたんだ。なにしろ、ほら──」
 翠星石の視線の高さに指を伸ばし、左右を指し示す。翠星石は改めて気付いたように声を上げる。
「──うわ、なんですかこれは。全然壁も家も見えねーです」
 昨日も刈っている最中に見ていた風景のはずだが、あるいは彼女のことだから前だけを見て闇雲に鎌を振るっていたのかもしれない。
「どうら……お、ホントだ。すげえ、ジャングルみたいじゃん」
 少年も屈み込み、半ば感嘆の声を上げた。視点の高さの違いが面白いのか、無闇にきょろきょろとあちこち見回してみている。
「でも、抱き上げてもらって下を見てちょっと安心したんだ」
 蒼星石は爪先立ちになったりちょっと飛び上がったりして左右を見ている翠星石の肩に手をぽんと置いた。
「君も抱き上げてもらったら?」
 翠星石は形ばかりの抗議をしたが、幾分かは興味もあったのか、蒼星石が言うなら、とすぐに折れた。少年は翠星石の腋の下に手を入れ、精一杯上に差し上げた。
「うわ、結構な高さですね……って、上見やがったら承知せんですよアホ人間」
「見ねえって。どうせ中身かぼちゃ半ズボンだし……っていてて! 顔蹴んなって!」
「ドロワーズですぅ! ったくもう」
 もうひとつ、力の乗っていない蹴りを入れて、翠星石は下を見回した。
「あれ? 意外に大したことねーじゃねーですか、これ」
「うん」
 蒼星石はにこりとしてみせた。
「確かに物凄い草ぼうぼうの場所だけど、生えてるのは無限大の広さじゃない。昨日君がやってくれたように少しずつでも刈っていけば、そのうち綺麗にできる。改めてそのことが実感できたんだ」
 だからありがとう、と蒼星石は少年に頭を下げた。
「少し視点をずらしてみるだけで、全貌が理解できるようになる。それに改めて気付けたのは貴方のお陰だ」
「い、いやそれほど大したことじゃーないけどさ、へへ」
 少年は照れたように笑い、そして何かに気付いたように上を見ようとして、すんでのところで思い留まった。蹴りの動作に入っていた翠星石は、やり場をなくした足をぶらぶらさせて口を尖らせる。
「……いいかげん下ろしやがれです」
「おうさ」
 してやったりという表情で少年は頷いた。

 翠星石をそっと地面に降ろすと、少年はもう一度、今度は自分の視線で周囲を見回した。
「結構育っちゃってるけど、まあ行けるんじゃないかなぁ」
「やってやれないことは無い、です。まあ、じゃなくてやるんです」
「へいへい」
 翠星石にひらひらと手を振ってみせ、少年は蒼星石を見た。
「この辺なんだけどさ、俺が刈っちゃってもいいよな?」
 え、と言葉に詰まった蒼星石に、翠星石が得意そうに胸を張ってみせる。
「今日は日曜日、暇面こいてるアホ人間に機械の下僕になるチャンスを与えてやったのです」
「おいおい……」
 少年は肩を竦めてみせた。まだ何のことか分かっていない蒼星石に、にっこりしながら説明する。
「このうちの倉庫? 物置かな、どっちでもいいけど、あそこでいいもの見つけたんだ」
 翠星石はあくまで得意気だった。
「見つけた日は昨日で、見つけたのは翠星石ですけどね。……まあ、機械がデカブツ過ぎて翠星石には扱えそうもなかったんで、こうしてアホ人間を召集したわけです」
 翠星石の言葉が終わるのを合図にしたように少年は元来た方に走っていき、暫くして蒼星石が何処かで嗅いだ記憶のある臭いと共に戻ってきた。
「あれですよ、堤防道路とかで一日中暴れまわってるブンブン機械です」
 少年が片手に持っているのは、自分の背丈よりも長い金属製の丸棒の先端に丸い円盤がつき、逆側の先端に四角いエンジンのついた機械だった。それには蒼星石は見覚えがなかった。
「ジャジャーン! 草刈機だぜ。おじさんちの畑でやらされたことがあるんだ」
 少年は得意そうに機械を置き、翠星石は偉そうに頷く。
「翠星石の眼に狂いはねーです。柔弱ヒッキーのジュンと違って、アホ人間には力仕事くらいは任せられるって寸法です。ま、その代わり頭脳労働は到底無理ですがね」
「あ、ひでぇ」
 はっはっは、と二人は蒼星石の目の前で笑い合った。なんやかやで、気は合っているようだった。

──君に感謝しているよ、水銀燈。

 蒼星石は強引に自分に時間を与えた黒衣の長姉に、面と向かっては到底言えそうもない言葉を心の中で告げた。
 命を助けられたようなものではあるが、それが姉妹愛の発露だと考えるほど、蒼星石は事情を知らないわけではなかった。不完全ながらも水銀燈の媒介の記憶は幾らか得ている。自分を救い、今までの遣り方を放棄して姉妹達と距離を置かなくなったのは恐らく水銀燈の状況判断、もっとはっきり言ってしまえば今後の計画と利害が絡んでのことだろうと理解していた。
 だから蒼星石は未だに水銀燈を好きになれない。その点では、第七ドールを除いた全ての姉妹や媒介達より、彼女は確実に醒めた視点で水銀燈を見ている。水銀燈が何か目論んでいるのならば、手放しでそれに賛同することは恐らく出来ないだろう。

──でも、僕に機会を与えてくれた君に、僕は感謝したい。

 仮初めの時間かもしれないが、前だけを向いていた自分にこうやって周囲を見回すだけの余裕をくれた者。それが水銀燈なのは事実だった。
 そして、自分にとって双子の姉と契約者の次に近しい存在──まだまだ思慮に欠け、智恵も回らず、そして関心は殆ど自分ではない誰かに向いているけれども──を、こうして見出すことができたのも、彼女のお陰だった。
 それが彼女の媒介というのは、些かならず皮肉だけれども。

 笑い終わった少年は蒼星石を、若干自信の無さそうな顔で見詰めた。
「いいかな? 蒼星石の仕事取っちゃうことになるけど……」
 蒼星石はにっこりと笑った。
「ありがとう。嬉しいよ」
 できたらこことあそこと、それからあの辺りも……と言い出した蒼星石に、結構ちゃっかりしてますね、と翠星石は眼を見張り、少年は一体何時間掛るんだろうと帰りの心配をし始める。そうそう、刈り取った草の始末は翠星石と僕でやるからね、と蒼星石はにっこりと、厚かましい笑顔を作った。
「大丈夫、夕食は僕が腕を振るうから」
 そう言って、端から丸一日かける予定なのだと知って急にテンションが下がったらしい二人の反応をそ知らぬ顔で受け流し、丈の高い草の間から空を見上げる。まだ太陽ははっきりと東の空にある時刻だった。
「昼メシも頼むぜ。がっつり食うぜー」
 少年は覚悟を決めたらしく、開き直ったように言ってみせる。翠星石は容赦ない言葉で追い討ちをかけた。
「他人に奢って貰うくせに卑しいヤツです。野良猫並みです」
「肉体労働はカロリーを消費するんだってば」
 もっとしっかり朝飯食って来れば良かったなぁ、とぼやきながら、少年は刈払機のリコイルスターターを勢い良く引いた。短い排気管から白い煙が短く噴き出し、小排気量の2ストロークガソリンエンジン特有の耳障りな音が響き渡る。

──ああ、そうか。

 翠星石に手を引かれて少し離れたところに歩き出しながら、蒼星石は思わず頷いていた。
 どうしたんです、と翠星石が顔を覗き込んできたが、蒼星石は微笑んで首を振った。その音は、それほど以前に聞いたものではなかったが、何故かとても懐かしい音だった。

──やはり、貴方は貴方だね。

 いつか見た心の木を伐る男の背中を少年の後ろ姿と重ね合わせながら、蒼星石は暫く微笑を浮かべたままその場を動かなかった。



[19752] 100行程度。短い短い。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/09/30 19:06
時間が纏まって取れない罠。

そういえば俺大事なこと忘れてた。
梅岡師が出てきてないよ。
まあ、不登校に至る経緯が変わったんで梅岡師の行動も変化しているということでお目こぼしいただきたく。

************************************************************

「はいもしもし、って、ええ? 珍しいじゃん、てか初めてだよな。どしたの」
 少年は受話器を持ったままふんふんと頷いている。人間はどうして電話越しの相手にも頷いたり頭を下げるのだろう、と水銀燈が今更のことを疑問に思っていると、少年は受話器を顔から離し、送話部を手で覆った。
「水銀燈、真紅から。話があるってさ」
「電話で?」
 水銀燈は苦笑したが、少年が頷いてみせると眺めていた小箱の蓋を閉じ、それを持ったまま少年のところに歩み寄って受話器を受け取った。
「もしもし」
『水銀燈? 随分変調してしまうものなのね』
 電話越しの真紅の声は幾分遠かった。
「電話だもの仕方ないでしょう。それで、用件は何?」
『相変わらず短気ね』
 あっさりと返答されたことが物足りないのか、不満そうに溜息をついてから、パーツが出来上がったそうよ、と真紅は言った。
『今日電話があったの。水曜日以外の午前十時から午後七時までの間においでください、と言っていたらしいわ』
「そう」
 水銀燈は目を閉じた。

 意外に話好きで、人生を楽しく送っているようだった男のことを思い出す。
 どういう理解をしたかは兎も角、いきなり抱きついた彼女に戸惑うこともなく受け入れたところを見るとそれなりに包容力と余裕のようなものも持っているのかもしれない。それが生まれ変わってどこか虚無的な態度に変化したのは何故だろうか。
 彼の記憶の前世の部分についてはほぼ完全に──恐らく本人が普通に思い出せていたそれよりも整然として緻密で深く──一群の知識として把握できている彼女だが、彼がこちらの世界に生まれてからの記憶についてはそうではない。流れを追える程度に知っているに過ぎない。
 中途半端な話だったが、彼の前世の記憶そのものがこの世界にとってイレギュラーな存在なのだから致し方ない、と彼女は自分にそんな納得のさせ方をしていた。
 いずれにせよ、彼女にとって彼の変質の原因は謎と言えば謎のままだった。

 ただ、ひとつ思い当たるフシはある。

 少年のパソコンは記憶を失う前から同じもののままだ。その丁寧に階層化されたブックマークの中に、あのショップのサイトもあった。
 少年──その頃はあの男の記憶を持っていた──が、初めてパソコンに触る機会が与えられたとき、まず検索したのがあのショップのサイトだった。
 それなりに技術に自信のあるショップなのだろうか、サイトの中にはスタッフ紹介というページもあり、そこには男の名前と顔写真もあった。まだ肉体的にひどく幼い頃だったとはいえ、それを彼が見逃したはずはなかった。

 妙な話だが、彼女の契約者は薔薇乙女とアリスゲームの行く末だけでなく、この世界の自分に対しても臆病だったのかもしれない。
 生まれ変わった年代が、本来向こうの世界で生まれた年代とずれてしまったこともあるが、彼はこちらの世界にも「自分」が生きていることを知り、改めて思い知ったのだろう。もう、今一度同じ人生を歩むことは出来ない、と。
 以前の知り合いは皆、彼と十数年の年齢差をもって、こちらの世界の「彼」と共に暮らしている。
 彼自身が自分の素性を隠してそこに割り込むことは容易くないとはいえ、不可能ではない。彼はそれを目指して生きても良かったはずだ。
 しかし、そこには「彼」が居る。更に十数年という時間の開きまでも存在する。それは致命的な相違でありズレだ。再び生まれ変わって時間遡行でもしない限り、同じ立ち位置を確保することは永遠に不可能だった。
 所詮この世界では、自分という人間は外から入り込んだ異物に過ぎない。
 その認識が、彼の心を内向きに閉ざしてしまったのではないだろうか。
 確証は何もないし、そもそも今となってはそんな推測に殆ど意味もない。しかし、水銀燈はそんな風に思えているのだった。

 電話の向こうでは真紅が、みつには既に連絡を取っており、次の日曜日に人形を受け取りに行くことに決めたこと、自分達は同行することなどを説明している。ところどころ声が遠くなったりしているのは、翠星石辺りがいちいち注意しているのかもしれない。
 それもまた彼女達らしい、とちらりと考え、話の切れ目で用意していた台詞を告げる。
「私は行かないわよ。請求書は取りに行くから暫く預かっていて頂戴。渡したいものもあるし」
 言いながら、大分世間ずれしたものだ、と思う。自分で用意した台詞とはいえおよそ至高の少女云々などとは懸け離れた内容だった。
 電話の向こうで真紅が長い息をついたようだった。だが、彼女はそれ以上踏み込もうとはせず、わかったわ、と答えた。
「なぁに? 仲良く一緒に行って欲しかったわけ?」
 水銀燈はにやりと、やや意地の悪いからかい言葉を放ってみた。
『そういう意味ではないの』
 躊躇うような間の後、真紅は少しトーンの低い声で続けた。
『パーツを製作してくれた男性が、貴女に逢いたがっているらしいの。電話を受けたジュンがそう言っていたのよ』
 そういうことか、と水銀燈は納得した。
「それなら、尚更行くわけにはいかないわね。生半可に興味を持たれて人形だと知れたら厄介だもの。そうでしょう?」
 真紅はまた少し間を置いた。電話に慣れていないせいで間の取り方を必要以上に気にしているのかもしれない。
『……それで貴女が良いのならば、私からは強く誘わないわ』
 本当にいいのね? と念を押す真紅に、水銀燈は目を閉じ、ええ、と短く答えた。
「用件はそれだけ?」
『ええ、これだけよ。……こういうときは、ごきげんよう、でいいのかしら?』
「この国では『そろそろ失礼します』でも良いのよ。そうね、この時刻だから貴女達には『おやすみなさい』でもいいかもね」
『そうね。それではおやすみなさい、水銀燈』
「おやすみなさい、真紅。良い夢を」
 電話を切ると水銀燈は笑い出した。どうしてわざわざ電話という手段を選んだのかまでは分からないが、最後まで真紅の声の調子が固いままだったのがどうにも可笑しくてならなかった。
 シャワーを浴びてきた媒介の少年がどうしたんだと言いたげに彼女を見たが、彼女は何でもないと手を振りながら暫く笑い続けた。笑い過ぎて薄らと涙が滲むほど笑って、それから彼女は夜の空にふらりと飛び出して行った。


 電話を掛け終えてからも真紅は暫くその場に立ち尽くしていた。やがてぶるっと身体を震わせると、ふっと息をついて漸く受話器を元に戻し、乗っていた踏み台から降りた。
 人形のことを伝えている間付き添っていてくれたジュンと翠星石は、それが済んだところで部屋に引き上げていた。水銀燈との会話ということで真紅に気を遣ってくれたのかもしれない。
「真紅ー、お電話終わったの?」
 廊下の端から真紅を見ていた雛苺が、とてとてと彼女の許に駆け寄る。
「──ええ、終わったわ。水銀燈ったら用件以外ほとんど喋らないのだもの。あの子はもう少し愛想というものを学ぶべきだわ」
 むくれたような顔を作り、真紅は強がってみせた。ほえー、と雛苺は目を瞬いた。

 彼女が水銀燈を苦手にしているのを雛苺は知っている。
 あの薔薇屋敷の一件以来、水銀燈がそれまでと殆ど正反対とも言える行動をするようになってからは、落ち着いて正論を述べる真紅と自己の美学に従って直線的に生きる水銀燈という構図は逆転していた。水銀燈は──多分全部でないことくらいは雛苺にも分かっていたが──自分の知り得たことを姉妹達に語り、真紅はそれを受け入れて今後のことを考え始めている。
 思慮深く優しいとはいえプライドも高い真紅にとっては、それはあまり面白い図式とは言えないだろう。加えて今までの関係が反対になったことで、これまでは時折論破することで辛うじて苦手意識を克服してきた水銀燈に対して、何やら手も足も出せないような気分になりつつあるのかもれしない。
 無論、雛苺はそんな小難しい言葉を並べて考えてみたわけではない。彼女は直感的に「そんな雰囲気」を感じ取り、真紅を気の毒に思っているだけだ。

 そして、雛苺は少しだけ真紅の気分を変えてあげたくて無邪気な笑顔を見せてみる。
「ねーねー、真紅」
 真紅はいつものように、やれやれといった表情でこちらを見る。雛苺はぴょんと飛び跳ねて、大好きな一番下の姉のドレスにしがみついた。
「今日もね、ヒナとっても楽しかったのよ。カナもトモエも来てくれて、翠星石とケーキ作って……怒られちゃったけど」
 えへへ、と少し舌を出す。真紅は一つ二つかぶりを振った。
「あれは翠星石に怒られても仕方なくてよ。生地にカルピスを混ぜるのは一度やって懲りているのではなかったの?」
 以前、真紅がジュンの部屋で読書に耽っている間に、翠星石と雛苺が階下で掃除機を迷走させて窓ガラスに突っ込ませた上、昼食を作ると称して何やら得体の知れない食材のなれの果てを作ったり、電子レンジの中で卵を爆発させたりしてしまったことがあった。
 二人は「のりのお手伝いをしたかった」と言っていたが、実のところは真紅ばかり相手にしていて自分に構ってくれないジュンに対して点数稼ぎをしたかった翠星石が雛苺を唆して家事をやろうとしてみた、というのが正しい。
 結果は無惨なもので、自分達が割ってしまった窓ガラスの破片の掃除以外は何一つ満足にできたことはなかったが、帰宅したのりは言い訳を聞いても怒る素振りを見せずに微笑んだだけだった。
 今日のケーキはそこまで酷くはないものの、食べられない物を作ってしまったという点では何等変わりはない。あれから翠星石の家事の腕は目に見えて上がっているが、雛苺の方はその点で進歩していると言えるかどうかはまだ微妙だった。
「うー、美味しいと思ったんだもん」
 雛苺は口を尖らせたが、すぐにまた笑顔に戻る。
「でも、次は頑張るから。うにゅーに負けないくらい美味しいケーキ、ヒナが作るのよ」
 その意気は買いたいところだけれど、と真紅は微笑んだ。
「間違っても苺大福を入れたケーキ生地を作ったりしては駄目よ」
「どうしてわかったのー!?」
 まだまだ前途は多難そうだった。

 暫くの間、真紅はいつものようにくどくどとお菓子や紅茶のあれこれについて説明し、雛苺はこれもまたいつものように半分聞き流しながら、それでも決して口を挟まずにそれを聞き終えた。
 話が終わると、雛苺はにっこりと笑って真紅を見上げた。
 くどい説明そのものには辟易することが多いが、真紅の話を聞くことは嫌いではない。それに、そういう話をしているときの真紅は何故か楽しそうなのだ。今も、話し終えた真紅は電話を切ったときの少し陰のある雰囲気を何処かに追いやれたようだった。
 もっとも雛苺はそれを、良かったね、と殊更に口には出さず、態度に表すこともしなかった。それは彼女がこの家で暮らすようになってから得た最大の変化かもしれないが、本人さえもそれには気付いていなかった。
「ね、真紅」
 代わりに、雛苺は別の言葉を口にする。
「ヒナはずーっとずーっと、泣き虫の独りぼっちだった。独りになるのがいやで意地悪もしちゃったわ。でも今は違うの。ずーっとみんなで仲良く楽しく過ごしていきたいの」
 真紅が瞬いてこちらを見る。雛苺はまたにっこりした。
「水銀燈も仲良くなってくれるし、いつか……」
 真紅は雛苺の頬に手を伸ばした。漸く彼女が何を言いたいのか分かったような気がした。
「そうね、いつか」
 雪華綺晶、名前だけを伝えられてまだ見ぬ第七ドールのことも、いつか良い方に向く。雛苺が望むように仲良く楽しく過ごせるようになるのかは分からないけれども。

「──私達みんなで、アリスゲームを終わらせるのだわ」

 そう言う真紅の表情が静かな決意に満ちているのを、雛苺は頼もしく思う反面、少しばかり残念にも思う。真紅に重いことばかり考えさせたくなくて話を変えたつもりが、同じところに戻ってしまったからだ。
 優しい姉に微笑みを返しながら、失敗しちゃった、と雛苺は内心でちょっぴり後悔する。
 あるいはこの面でも、まだまだ彼女は成長の途上にあると言えるかもしれない。それでも、彼女は愚図ったりせず、次は頑張ろうとあくまで前向きに思うのだった。



[19752] 150くらい? やや多め。内容はスッカラカン。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/10/03 23:16
うーん。今回はまさにいまいち。
詰め込みすぎなのか、冗長すぎなのか。どっちでしょうねー?

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 日曜日の午後の桜田家の客間は、あまり例がないほど満員御礼だった。
 今しがた人形を受け取ってきた面々に結菱邸の草刈をやっている最中に呼び出されて来た水銀燈の媒介の少年と蒼星石も加わって、二桁に届こうかという人数があまり広くない部屋に詰め込まれている。
 部屋の中央では人形がキッチンから持ってきた椅子の上に座らされている。あまり艶はないがしっかりしてやや多目の灰白色の髪は綺麗に梳かれ、既に真紅と翠星石の手で下着が着せられていた。
 そこに、ジュンが殆ど黒に近い濃紺のドレスを慎重に着せていく。こういった作業にはある意味彼よりも慣れているみつと金糸雀が手伝っていたが、ジュンはまるで作業を何度となくやってきたような手捌きで、決して手早くはないが丁寧に仕事を進め、彼女達の出番はそれほど多くないようだった。
「……すげぇナイスバディってか、エロいな」
 人形を直接見たことがなかった少年は、後から駆け付けたのと背が高いという理由で後ろの方から覗き込むように作業を見ていたが、少し背を伸ばすと相変わらずの直截な表現をした。
「記憶を失う前の貴方の妄想の塊だからよ」
 素材まで含めてね、と行儀悪く家具の上に腰掛けた水銀燈は口の端を吊り上げてみせた。
「何処のモデルよりも美形、というよりは妄想でしか有り得ないプロポーションではあるわね」
「そうねー、いかにも男の子の作ったお人形って感じがするわ」
 でもこういうのもいいわね、とみつは半ばうっとりと呟く。
「みっちゃん、次はドルフィードリームなんて言わないで……ね──」
「ああ、それよ! それいい! ナイスアイディアよカナ! 大人っぽい子、欲しくなっちゃったぁー」
 薮蛇かしら、と金糸雀は引きつり気味の顔に乾いた笑いを浮かべる。既にぎゅう詰めの人形棚に、近日中に新たなラインナップが加わることはほぼ確実な情勢だった。
「自分の妄想が具現化したからって、劣情を催したら承知せんですよ」
 翠星石が振り向き、上目遣いにじろりと少年を睨む。
「催さねえってば。だいじょーぶ」
 少年は顔の前で扇ぐように手を振る。それを創り出したのは記憶を失う前の自分であり、今の自分とは違うのだと指摘することはなかった。
 代わりに、少年は厭味のない賞賛の言葉を口にした。
「でもさ。そーゆーのとは別でさ、なんかすげーよ。ちょっと感動する」
 同じく一歩離れたところから作業を見ていた蒼星石は、何気なく少年の視線を追ってみる。それは人形そのものでなく、服を着せて行くジュンの手つきに向けられていた。
「……うん。凄い」
 そこにはとても繊細で美しい世界があった。蒼星石はもう一度素直に魅入っている少年の顔を見、それから自分達の着ている服についた草の匂いを意識する。とにかく早くと急かされ、庭仕事の後片付けもそこそこに、それこそ着替える暇もなく少年の自転車でやって来たのだ。
 今日の蒼星石は、結菱老人に頼まれて少年が買ってきた子供用のブルーのツナギ服姿だった。
 老人が、遅れ馳せながらドレスのまま庭仕事をさせることの愚に気付いたと言うべきだろうか。あるいは、彼女の態度に何かを感じて、少年とお揃いの服にしてやろうと考えたのかもしれない。何にせよ、今は関係ないことだった。
 自分の服と同じように、泥や草の切れ端は払い落として拭いたものの草の匂いと染みのついたままの少年の服に視線を移し、蒼星石はふっと微笑む。
 塵一つない新品の人形に、繊細なマエストロの手で着せられる新品のドレス。今さっきまで庭の池の跡の湿った土の上で潅木の根掘りに汗を流していたそのままの服装の少年とは、ある意味で正反対の世界だ。
 確かに、彼はジュンのような異能を持ってはいない。取るに足る才能も持ち合わせていないかもしれない。前世の記憶も言わば水銀燈に譲り渡してしまい、恐らく彼の中には幾許かの残滓しか残っていまい。
 それでも、彼には──
「……完成ね」
「ああ」
 ジュンは溜息のような声を上げ、真紅に頷いた。真紅がゆっくりと微笑み、何かを言おうとしたとき、二つの影が二人の間に割って入った。
「ジューン! お疲れ様なのー!」
「ジュン! やっと完成させやがったですコンニャロー!」
 雛苺はぴょんと飛び上がって横合いからジュンに抱きつき、翠星石は逆側からジュンにしがみついた。
「こっこら! 放せ重たいだろっ!」
 中腰だったジュンは焦ったように言ったが、二人がそれと気付いて離れようとする前にバランスを崩して尻餅をついた。
「ってぇ……」
「ドール二人くらい余裕で支えやがれですぅ、ジュンは筋力なさ過ぎです」
 翠星石は開き直って口を尖らせ、大体お前等が、とジュンは当然の抗議の声を上げる。出遅れてしまった真紅は腹立ち紛れなのか、翠星石と雛苺を叱り付けてジュンから引き離した。
「いい雰囲気ねえ……」
 ほぅ、とみつは至福の息をつき、金糸雀はこくこくと頷いて彼女の言葉にだけ同意する。既にすっかりマニアの色に染まってしまっただろうみつの頭の中についてはあまり深く考えないことにした。彼女が構えている一眼レフにも。

 少年はその一場の寸劇のような遣り取りの間もじっと人形を見詰めていたが、やがて水銀燈に視線を向けた。水銀燈はまるでそれを待っていたかのように少年を見返し、ふっと笑みを浮かべると小さな箱を持って人形の正面に舞い降りた。
 下を向いた人形の顎を持ち上げ、咽喉もとの辺りを触れてみる。人間で言えば鎖骨の合わせ目の辺りに、思ったとおりの感触があった。
 流石はあの男の妄想の産物ね、と独りごちる。彼女の契約者はディテールに無駄に拘っていたらしい。
「水銀燈……」
 何をするつもり、と言いたそうな真紅に、水銀燈は手に持った箱を見せた。
「誰かからの力の付与無しに人形が自律して動くには、何等かの動力源が必要。もっとも、この人形のモデルになった存在のように勝手に動き出す個体も存在するけど。まあ、それは何処までも例外。ハプニングと言ってもいいわね」
 全員の視線が自分の方に向いたことを確認して続ける。
「動力源になるかどうかは保証の限りじゃないけど、ここにこんなものがあるわ」
 全員に見えるように人形を背にしてかちりと箱を開けると、薄紅色の目映い光が溢れ出た。
「何の結晶だ……?」
 ジュンが息を呑み、少年は眉間に皺を寄せた。
「LED入りのビーズ? クリスタルかい?」
「それはみっちゃんが人形棚の夜間照明に使ってるのよ……青色LEDだからもう毎晩怖くて……」
 金糸雀はぶるっと身体を震わせてから、そうじゃなくて、と手を一振りする。
「ローザミスティカ……」
 真紅は蒼い眼を見開いていた。
「そんな……貴女、もしかして自分の」
「そういう趣味はないって言ったはずよ、お優しい真紅」
 水銀燈は肩を竦め、自分の胸元に手をかざす。淡い光がそこに生まれ、彼女の中に本人のそれがあることを示した。
「私は貴女ほどこの人形に思い入れを持っているわけじゃない。これはこの人形に思い入れたっぷりのきちがい人形師が私に寄越したモノよ。彼女のために、ってね」
 光の加減のせいかどこか寂しそうにも見える笑いを浮かべると、水銀燈は箱の中に入っていたもう一つのものを摘んで取り出した。
「見てのとおり、契約の指輪らしきものもある。準備は万端ということになるわね」
「きちがい人形師って誰?」
 ジュンに抱きついたまま、雛苺は小首を傾げる。金糸雀も疑問符を浮かべたような表情になった。
「ローザミスティカはお父様が生成したモノ。他に二つと無い物を、七つに割って作られたのが私達のローザミスティカかしら。それが他にもあったということ?」
 少し違うわね、と水銀燈は首を振った。
「この世界には無かった。私達が知覚して移動できる範囲のどの世界にも、と言い換えてもいい。ただ、私の媒介やらこの人形がそうであったように、訳の分からない歪み、ひずみが、ある繋がらないはずの世界を繋げたってわけ。
 その世界は、人形師にとっては理不尽なことに、殺し合いをしていた彼の娘達にそれ以外の方法でも目的は達成できると漸く伝えることができた直後に、時間が閉じてしまった」
「そこから先の時間が無くなってしまったのですか?」
 翠星石がジュンの服の裾をきゅっと握り締める。水銀燈は、私は専門家ではないから、と前置きした。
「無くなってしまったというのか、ある時点から先の未来に進めなくなったというのが正しいのか分からないけど、そういう理解でいいはずよ。彼は『時間が閉じた』と言っていたけどね」
 箱に元どおり指輪を戻し、蓋を閉める。溢れていた光が収まり、部屋の中は僅かに暗くなった。

 そこにこちらの世界が──より正確には水銀燈の夢の世界が──繋がった。何者のせいなのか、それとも偶然なのかは不明だが、どちらにしても閉じた世界の側から見ればこちらの世界は可能性に満ちていたことは間違いない。
 当然のことだった。こちらの世界はまだ明確な終わりに達していないのだから。
 そこで彼は、ある時点で手元に残していた二つのかけらを水銀燈に託すことを思いついた。娘達そのものとは行かないまでも、自分の作り上げた何かを閉じてしまった世界の外で生かしたいと思ったのだろう。
 あるいは最初から自分にこの小さな箱を渡すために、彼の能力で強引にこの世界とあの世界を繋げていたのかもしれない。水銀燈はあの日以来夢に出てこなくなった人形師とその工房に、そんな理解をしていた。それならば、あの世界と繋がったのが自分の夢の世界だった理由も分かる。
 それにしても、とその場の皆に分かるようにかみくだいた説明をしながら彼女は別のことを思う。

──行って来るよ、が別れの言葉になるとは皮肉なものね。

 もっとも彼は、水銀燈に宛てた置手紙と同じようにその言葉も予め用意していたのだろう。
 自分の世界では超越者になってしまった彼にとって水銀燈は久しぶりの、あるいは初めての、ある程度対等に話せる相手だったのではないか。その彼女にまた逢いたいという感情を込めて、さらばではなく行って来るという表現を使った。
 ステレオタイプで俗な想像過ぎるかもしれない。だが、超越者でありながら奇妙に人間臭く虚弱な内心を抱えていた彼には、そういう未練がましい別れ言葉が似合うような気がするのだ。

「羨ましいな」
 水銀燈の短い話を聞き終えた蒼星石はぼそりと言った。
「僕も逢いたかった。逢ったら言いたいことが沢山あるのに」
 全員の視線が集まる。その口調が真剣だったから、というよりはその場の薔薇乙女達の願望を代弁したものでもあったからだろう。父親に逢いたいというのは彼女達に強固に刷り込まれた本能のようなものだった。
 たとえそれが別の世界の住人で、直接彼女達を作った人物でなくても逢いたかったと思うのは当然だった。
「特に、最後に『僕』が復活しなかった理由とかね」
 しかし、にこりと笑ってそう続ける蒼星石の口調は明るかった。
 ただ、意図が周囲に伝わるには少しばかり間の取り方が悪かった。言葉の意味自体も正確に理解できるのは水銀燈だけだった。そのせいでそれが冗談のようなものだと全員が理解するまでには暫くの時間が必要だった。
 やがて、蒼星石が冗談を口にしたという事実に気付いた者がそれぞれに驚きを示し始める。逆に言えばそれほど彼女がその手の言葉を口にすることは珍しかったとも言えるかもしれない。
 周囲の反応を置いてきぼりにして、蒼星石は少年を見上げる。
「その小箱を託したのは、記憶を失う前の貴方が見ていたアニメーションに近い世界の存在。……そうじゃないのかい、水銀燈」
 ええ、と肯定を返しながら水銀燈は他の者とは別の意味で少しばかり驚いていた。
「そこまで知識を受け取っていたのね、貴女」
「たまたま知ってるだけさ」
 蒼星石はいつか水銀燈の媒介が言った台詞を彼女に返した。もっとも、それはユーモアではなかった。掛け値なしの事実でしかない。
「あの場で僕が得てしまったごく僅かの知識の中に紛れ込んでいた。それだけのことなんだ」

──だから君は僕のことは気にしなくていい、好きなようにやればいい。

 蒼星石は流石にそこまで口には出せずに水銀燈を見遣る。彼女が近いうちに、あるいはここから何かを始めようとしているのは明らかだったが、それがどういうことであれ自分はそれに対抗できるほどの知識を得たわけではないし、止める手立ても持っていない。

 視線の意味を正確に理解したかどうかは分からないが、水銀燈は軽く頷いた。異世界の人形師の話をするのを打ち切りたかったのかもしれない。
「まあ、そういう出所の怪しい品物よ。これはね」
 あっさりと言い切って、もう一度箱を開ける。今度は目映い光の源を取り出し、ジュンの手にそれを握らせた。
「ちょっ……お前」
「神の手、と言ったら大袈裟かもしれないけど、多分世界でただ一人の技術を持つ者。そしてその人形の仕上げをした者。最後の仕上げにこれを入れるのは、貴方がもっとも相応しいからよ」
 それに、と少しばかり皮肉な顔になる。
「貴方と貴方のパートナーに、その人形ははっきりと敵対したことがある。本当に動き出させていいのかどうか、その判断も任せるわ。私の依頼した協力の最後の一つと思ってもらってもいいわよ」
「そんな、急に」
 抗議しかけるジュンを水銀燈は手で制した。
「最初にこの人形のボディの製作を依頼したときから貴方にも分かっていたはずよ。もし敵対したときにどれだけ厄介な相手になるか、そして実際に敵に回る可能性が有り得るということも」
 ジュンは言葉に詰まった。それは考えたくないから後回しにしていた事柄でもあった。目の前の魅惑的な作業に没頭するあまり忘れていたというよりは、判断を後送りして、できれば他人に委ねたかった選択だった。
「……お前はどうなんだよ。動かしたいのか、この子を」
 辛うじてそう反撃してみるが、水銀燈はあっさりと頷いてみせた。
「動かしたいと思っているわよ。例えば私が動力を与えた時点でその人形に屠られるとしても。もっとも、そうなったら必死で抵抗はするし、ただで勝たせてやる気なんてさらさらないけどね」
 その言葉もまたあっさりとしたものだったが、表情には最近あまり見せなくなった獰猛さが表れていた。
「私自身はその人形が自律して動くことにその程度の価値はあると思っているということ。ただ、貴方には貴方の価値観があるでしょう。私の意向は置いておいて、それを尊重してくれればいい。これでいいかしら?」
 ジュンは頷いた。
「……わかった」
 手の中のかけらを見遣る。一旦それを軽く握り締めて顔を上げ、ぐるりを見回した。
 翠星石は不安そうに、雛苺はにっこりと、真紅は励ますようにやや固い微笑で彼に視線を返した。金糸雀は成り行きを見守る表情になっており、みつはにっと笑って頷いた。
 視線を斜め後ろに遣る。彼を注視している蒼星石の顔は生真面目だったが、それ以上の感情は読み取れなかった。水銀燈の媒介の少年がにやりと笑い、まるで庇うように半歩蒼星石の方に動き、ジュンに片手の拳を突き出して親指を立ててみせた。
 ジュンは少年に同じように親指を立ててみせる。ドール達にとっては不本意かもしれないが、ジュンには少年とみつの態度が背中を押してくれたように思えた。

「この子に、このクリスタルを入れる」

 改めて水銀燈を見詰め、ジュンは宣言するように言った。彼女の言葉に怯えたわけでも、気圧されまいと意地を張ってみたわけでもない。自分自身に気合いを入れるためだった。
 もっとも、クリスタルが真にローザミスティカに相当するものだったとしても、それを埋め込んだからといって直ぐにどうなるというものでないことは分かっている。
 もし人形の動く原理までが薔薇乙女と同じならば、発条に該当するものを巻いてやることで初めて人形は動き出す。そして永続的に動き続けるためには契約が必要──いや、もし人形が見たまま水銀燈に近い存在であれば、契約は直接必要ないのかもしれないが、どちらにしても動力源を埋め込んだだけでは動き出しはしない。
 それでも、ジュンは自分に気合を入れたい気分だった。

 改めて人形の横顔を見る。これが動き出すかもしれないという想像は、水銀燈の指摘したような危険性とはまた違った何かをジュンに感じさせた。
 画龍点睛という言葉があるが、ある意味ではまさにこれがそうなのだろう。動かないはずの人形に最後の一ピースを付け加えて、自律して動くようにしようというのだから。
 掌をそっと開くと、また光が溢れ出す。妙に輝きの強いそれはやはり何処となく作り物めいていて、少年の言ったようにLEDを仕込んだアクリルの小物にも思えた。
 だが、ジュンにとって今はそれはどうでもいいことだった。人形が薔薇乙女のイミテーションであるなら、これは間違いなく龍の目玉の点一つ、最後の一ピースと言っていい。
 危険は当然のようにあるかもしれない。薔薇乙女六人を相手取って全く退かなかった凶暴な力はジュンの記憶にも新しい。だが、同じく水銀燈が言っていたように、この人形を完成させることにはそのリスク以上の「何か」があるような気がした。
 何より、自分の手でこの人形を完成させることを了解し、胴部の原型を作ったのはジュン自身なのだ。
 彼は意を決したように掌を人形の喉元に持っていく。光源が移動し、動かない人形の顔に微妙な表情をつけた。
「この辺で……いいんだよな」
「そうですぅ」
 小さく肯定の返事をしたのは意外な声だった。
 翠星石はいつの間にかまたジュンの服にしがみつき、彼と一緒に動いていた。
「ここ……です」
 小さな手が僅かに下、鎖骨の合わせ目の辺りを指す。ジュンはその指し示すとおりにクリスタルを置いた。
 一瞬、クリスタルは目映く光ったかと思うと、そのまま溶け込むように人形のボディの中に消えていった。
「これで、いいのか?」
「……です」
 翠星石は腕を回し、ジュンの服に顔をうずめて彼を抱き締めるような姿勢になった。
「よくやりやがったです、ジュン」
「お前が素直に他人を褒めるなんて珍しいな」
「失礼なこと言いやがるんじゃねーです! 翠星石はいつでも率直で素直ですよっ」
 くぐもった声は何故か涙声のようにも聞こえた。
「ははぁ、お前感動して泣いてるな。それで僕の服に顔を押し当ててるんだろ?」
「ばっ、バカ言うなです。泣いてなんかねーです!」
 ジュンのからかいに、服にうりうりと顔を擦り付けながら、翠星石はあくまでそう言い張った。



[19752] 約150行?
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/10/05 22:29
何気に筆が滑る滑る。
滑るように沢山掛けたわけではないところが味噌。

ごめん、名前付け忘れた。

22:30 なんか途中のテキスト切れてたので再コピペしました。

*******************************************

「これで、後は」
 真紅はまた行儀の良くない位置に舞い戻っている水銀燈を見上げた。
「ええ。キーを入れて回すだけよ」
 水銀燈はまるで自動車を始動させるときのような言い方をした。
「薇ではないのかしら」
 金糸雀が訝しげに首を傾げる。雛苺は急に訳知り顔になり、金糸雀をつついて人形の背面に移動した。
「キーなのよ……ほら」
 少し伸び上がるようにして指差したそこには、薔薇乙女達のような丸穴ではなく、細い縦長のスリットがやや斜めに開いていた。
「み、妙に近代的かしら」
「設計した男の趣味の一環ね。全く何を考えていたんだか」
 言いながら、水銀燈は例の小箱にいくらか古びた小さな両面キーを入れた。つまんない品物、と呟いて口の端を歪める。
 それは彼が一番長く乗りつづけ、死んだときにもまだガレージに置いてあったバイクのキーだったが、それについてはいま敢えて語るまでのこともないだろうと彼女は思う。あまりにありきたり過ぎて気が向いた者は何も言わなくてもそれと類推できるだろうし、興味のない者には言う必要もないたぐいの話だった。
「誰が巻いてあげるのかなー?」
 みつは軽い調子で、興味津々という顔で尋ねたが、しかしその眼は笑っていなかった。先程の水銀燈の言葉がまだ耳に残っている。人形がいきなり大暴れを始めないとは限らないのだ。
「それは私が──」
「私が巻くわ」
 ゆっくり口を開こうとした水銀燈を制するように、真紅はやや早口に、しかしはっきりとした口調で言った。
「リスクは分かって言っているのでしょうね? 真紅」
 水銀燈は肩を竦め、十分に分かっているわ、と真紅は頷いた。
「この子の胴部を戦いに堪えられるほど強い素材で作ってと頼んだのは私だもの。目覚めたこの子がまた私を狙うとしても、私がこの子のゼンマイを巻く。それくらいはしても良いでしょう、水銀燈」
「ええ」
 水銀燈はにやりとして床に降り立った。
「貴女がもしバラバラに砕け散っても、ローザミスティカくらいは拾ってあげるわよ」
「生憎だけれど、貴女に託すつもりはないわ。もしものときは……」
 振り向いて、ジュンに縋り付いたままの翠星石に微笑む。
「下僕を共にする貴女に受け取ってもらうわ、翠星石。雛苺との契約も貴女に委ねるけれど、立場が変わっても雛苺を苛めたりしてはだめよ」
「真……紅?」
 翠星石は意外な言葉に戸惑うように瞬いたが、ぶんぶんと首を振る。
「駄目です! そ、そんなのダメなんです! す、翠星石は絶対そんなモン受け取らねーですよ。だから変なこと言わないで……」
「もしものとき、よ。早とちりしてはいけないわ」
 真紅は微笑み、水銀燈から小箱を受け取ろうと歩み寄った。
「ジュンを一番想っている貴女に託すのが、私の──」
 小箱に伸ばした手は、しかし空を掴んだ。横合い、というよりは斜め上から、まだ染みついたままの草いきれの匂いが水銀燈の手の中のものを攫って行った。
「はいはい、誰か忘れてやしませんかっと」
 少年は雑な手付きで箱を開けてキーを取り出し、箱の方は蓋を閉めようともせずにジュンの手にぽんと押し付けた。
「俺にも多少はお鉢回してくれてもいいんじゃね? 元々俺の妄想が作ったもんらしいし、俺がネジ巻いたって構わないよな?」
 呆気に取られたり、出遅れた抗議の声を上げたりするその場の面々を、いっそ呆れたような顔で彼は見回す。
「大体そんな深刻な話じゃないだろ? なんかあったら俺が抑え付けてやるよ」
 それは特段恰好を付けてみたというわけではなく、明らかに、単に事情を知らない人間の発言だった。蒼星石は息を呑む。

──そうだ。この中で、彼と金糸雀のマスターだけは知らない。

 水銀燈のそれとは全く段違いとも言える、無限の羽をまさに自在に操る人形の能力や、少なくとも一度は覚醒した瞬間から圧倒的な憎悪をもって彼等に敵対した事実を。
 あるいはみつは金糸雀から人形の恐るべき力を聞かされていたかもしれない。だが、少年は何も知らされていないようだった。
 蒼星石は警告の声を上げようとしたが、少年の方が先に口を開いた。
「それに、早いとこ動けるようにしてやんないと可哀想じゃん。大体、みんなこの子に失礼だぜ。動けないだけでみんなの話し声は聞こえてるんだろ?」
 蒼星石は言いかけた言葉を飲み込んだ。それはこの場で多分少年──と、敢えてもう一人挙げればみつ──だけが持つことのできる視点だった。
 無論、事情を知らないから、周囲の反応から類推できるほど頭が回っていないから、と切り捨ててしまえばそこまでの話ではある。だが、それでいいのだろうか。
 椅子に座っているのは危険な存在かもしれないとはいえ、ここまで何人もの手を経て漸く完成した人形だ。
 薔薇乙女とは違うベクトルの上に存在するとはいえ、同じように自律して動き、コミュニケーションを取り、考える存在なのだとしたら、それをただの危険物として扱ってよいのだろうか。それは人形だけでなく、この場にいない製作者達、その想いをも踏みにじるものではないのか。
 少年は蒼星石のそんな逡巡に気付くはずもなく、単純に納得できないと言いたげな表情のまま、人形の後ろに回り込む。
「こいつ、俺の夢ん中でずっと独りだったんだろ? ……ごめんな、今、動けるようにしてやっから」
 後ろからわしわしと折角整えた髪を乱暴に撫で、翼の意匠が刻印された小さなキーを差し込んで無造作に捻った。

 水銀燈は思わずびくりと身体を震わせた。丁度いいところだというのに、それを狙い澄ましたようなタイミングですぐ外から矢鱈に金属的で喧しい2stエンジンの吹け上がる音が聞こえたからだ。

──何処の馬鹿野郎よ、一体。

 いつもなら聞き流してしまう音だが、流石にこのタイミングは酷すぎる。かっとなり、窓から羽根でも飛ばしてやろうかと身体を捻って身構えた。
 だが、騒音を振り撒いた相手を探そうとした彼女の目には意外なものが飛び込んできた。
 そこに「窓の外」はなかった。後ろを向いた彼女の視界には小奇麗に整頓された家具類と良く掃除された壁紙しか存在していなかった。
 状況はすぐに飲み込めた。いつものように、繁華街の裏手の安アパートの二階で開いた窓を背にして立っていたわけではなかったのだ。
 ここは閑静な住宅地にある桜田家の、廊下と壁に囲まれて窓のない客間で、彼女は室内で壁を背にして立っている。あまりに近かったエンジンの音に、それをつい忘れてしまっただけの話だった。
 しかし、それは無理もないことだった。仮にこの家のほんの近くで誰かが無闇にスロットルを開けて始動したのだとしても、塀とガラスと壁越しということになる。普通に考えれば、戸外のエンジン音があれほど喧しく聞こえるはずはなかった。

 彼女は一瞬ウロがきたようにぽかんとしたが、はっと気付いて人形の方を見遣った。
 人形の背後で少年がゆっくり息をつくのと同時に、人形は薄っすらと切れ長の瞳を開け始めていた。
「──お目覚めね」
 水銀燈は一つ頭を振り、にやりと、しかしやや固い笑いを浮かべて人形に近づいた。
「初めての実体の気分はどう?」
 人形はゆっくり瞬き、薄紅色の瞳を半眼にしてやや斜め下の水銀燈を見詰め、憎々しささえ感じさせる声音で答えた。
「……最悪」
 言い終わると同時に人形は椅子に手をつき、勢い良く飛び出そうとして──後ろから伸びてきた腕に腋の下を抱えられ、そのままひょいと持ち上げられて椅子から引き離された。
「何っ?」
「窮屈だと思うけど勘弁な。ここで暴れるのは無しってことでさ」
 少年は自分の言葉どおり、身体で抑え込もうとするように人形を後ろから抱きすくめてみせた。
「これでいいだろ?」
「そうね、貴方にしては上出来だわ。初めて役に立ったんじゃない?」
 もっとも肝心なのはその姿勢から羽根を飛ばされたときに圧力に耐えられるかどうかってところね、と水銀燈は乾いた笑い声を立てた。そうなれば少年は到底耐えられまい。
「ま、貴女もこんな大勢を纏めて相手にするつもりはないでしょうけど」
「……ええ、そのとおりよ。ドール六体にミーディアム三人。これ以上の不利はないもの」
 人形は怒りを抑えているような声で言った。薄紅色の瞳は怒りを湛えて紫がかっている。
「忌々しい女。何かといえば数を恃んで威圧するしか能がないの? 見下げ果てたカスだわ」
「挑発しているつもりなら意味がなくてよ、お馬鹿さん。単独では到底貴女を止められないんだもの、何等かの方策を取るのは当たり前でしょうに」
 水銀燈は椅子の上に飛び乗り、人形と視線の高さを合わせた。目が合うと人形の瞳は一層鋭く光ったが、水銀燈は醒めた目でそれを見返した。
「確かに私が貴女をnのフィールドに置いておきたくなかったのは事実。それに同情や憐憫なんてものを絡めたつもりはないわ。まだ自我の定まっていない、記憶も曖昧なところを残している貴女は、私にとってあの場所に置いておくのは危険過ぎた。それが、私が貴女をこちらに引き摺り出した理由よ」
 それに、と水銀燈は怒りに燃えるように小さく揺れる人形の瞳を見詰め返した。
「こちらに出て来たい、というのは貴女の願望でもあったはずじゃないかしら。利害が一致したから私は貴女を現実世界に連れ出し、貴女も敢えてそれを受け入れた。それを忘れてもらっては困るわね」
「……っ」
 人形はぎりっと歯を食いしばる音が聞こえてきそうな表情になった。
 いっそ相手が余裕綽々の、あるいは憐憫たっぷりの態度を取っていれば安易に激発できたかもしれないが、目の前の水銀燈は感情の篭らない言葉とは裏腹に苦虫を噛み潰したような顔をしている。それが人形の気勢を後僅かのところで殺いでしまっていた。
 そして、そのことが人形には酷くもどかしく腹立たしい。
「感謝しろって言いたいわけ? アンタに」
「まさか」
 水銀燈は苦笑した。
「もし誰かに感謝したいなんて殊勝な気分になってるなら、私以外の誰かにすべきね。俗な言い方だけど、誰も見返りを求めずに貴女の完成に手を貸したのだから」
 水銀燈は周りの面々を示すように片手を振り、その手を胸のところに当てた。
「私達を作ったのは一人の人形師。何処までも追っていけば、それは無数の人の手が関わっていると言えば言えるかもしれないけどね。でも、積極的に私達を作ろうとして関わったのは、あくまでその人形師個人に過ぎない」
 唐突に何を言い出すのか、と人形は虚を突かれたような表情になった。水銀燈は視線を逸らさずに続ける。
「でも貴女は違う。少なくともそこの人間──桜田ジュンは、貴女の欠けていた部分を補うために何日も掛けて試行錯誤した末にパーツを完成させた。翠星石はパーツが仕上がるまで貴女のために鞄を提供した。二人とも本来の貴女のボディを作った男とは直接の関わりさえ持たないのにね」
 実際にパーツを作った男のことには、水銀燈は言及しなかった。他の名前を出すだけで人形が思い出すには充分のはずだった。何しろ丸々二週間は男の許に居たのだから。
「何人もの思いが込められてる、と言ったら大袈裟かしらね。ただ、その結果として貴女のそのボディはある。それは間違いないことよ」
 水銀燈は目を伏せ、面倒な話よね、と独り言のように呟いてから、また真っ直ぐに人形を見詰めた。
「係累もいなければ目的も見失っている状態の貴女を現実世界に引っ張ってきたのは酷だったかもしれない。それを恨みたいのなら幾らでも恨んで貰って構わないわよ」
 肩を竦めてふっと息をつき、一拍置いて続ける。
「ただ、貴女に多少なりとも矜持やら誇りというものがあるのなら、恨む相手は私以外に求めないことね。このお人好しの集団は全くの好意だけで貴女の完成に手を貸したに過ぎないのだから」
 それだけよ、と放り出すようなあっさりした口調で水銀燈は話を終え、そのまま人形の顔を眺めた。
「見縊らないで。そんなことくらい分かってる」
 人形は険悪な表情のまま目を細めた。
「分かってるからムカつくのよ。こいつらみんな、結局手前勝手な思い込みを押し付けてきただけじゃない」
「そうね。なまじ思惑も何もなく、貴女への同情と共感と幾らかの楽しい妄想だけで出来上がったのが貴女の胴部と衣装と言えるかもね」
 水銀燈はその場に誰もいないかのようにあっさりと人形の発言を認めた。
「それに、貴女の記憶の中にある『水銀燈』らしくもなく、こうして群れて馴れ合っている──」
「──そうよ! アンタが一番滑稽で汚らしくて気分が悪くなるわ。反吐が出るくらいにね!」
 あはははは、と人形はやや金属的なヒステリックな声で笑った。

「何でも知っています、って澄まし顔してるくせに、やってることは数を恃んで馴れ合ってるだけ!
 逆十字を標された最凶のドールが聞いて呆れるわ! 結局独りじゃ何もできないんじゃない、至高の存在を目指してます、なんて口で言ってるだけ。
 呆れるのを通り越して笑えるわ。おぞましいったらありゃしない」

「そ、それは違──」
「──ええ、そのとおりよ」
 何かを言いかけたのが誰なのかまで気に留めようともせずに水銀燈はその言葉を遮った。

「私は予定調和を壊したい」

 貴女には直接関係のないことだけどね、と人形を見上げる瞳には先程見せた獰猛な光が戻っていた。
「至高の少女となってお父様の愛を得ること。そこは変えようとしても変えられない。当然ね。それは私達薔薇乙女の宿命であり本能のようなものなのだから。
 ただ、自分の経験とあの男の記憶を合わせ持ったことで、私には幾つか見えてきたからくりがある。まだおぼろげに見えているだけではあるけどね」
 最近の新しい視点には自分の夢の中での人形師との会話もヒントになっているのだが、そこまでは彼女は言及しなかった。蛇足に過ぎないし、そのことで大きく視点が変化したわけではない。
「姉妹七人が揃ったこの時代のうちに、それをぶち壊してやる。それが今の私の目的。そのために必要なら姉妹で群れたり馴れ合ったりなんて幾らでもやってやるわ。たとえ私のやってることが蟷螂の斧に過ぎないとしてもね」

──やはり、そうなのか。

 周囲が凝固したように静まり返っている中で、蒼星石は顎を僅かに引いて水銀燈の横顔を見遣った。
 何かを彼女が目論んでいるのは分かっていた。それが造物主である父に牙を剥くものである可能性もあるとは思っていた。
 だが今彼女が口に出したのは、流石に予想できなかった言葉だった。それはアリスゲーム自体を壊すということと同義ではないのか。
 急に自分の体内のローザミスティカの脈動をはっきりと意識する。人間であれば心臓の鼓動がはっきりと聞こえるというところだろうか。まるでなにかと共鳴しているようにさえ感じられるほど、それは大きくなっていた。

──この場でそれを明かすということは……

 自分も凝固したように身体を強張らせ、脈動に耐えながら、蒼星石は考える。
 結論はすぐに出た。

──始めるつもりなのか。ここで、このときから。

 数歩下がった位置から成り行きを見守っていた真紅も、殆ど同じ結論に達していた。
 彼女は蒼星石ほど水銀燈に近い立場にない。水銀燈の媒介の記憶も全く受け取ってはいない。他の姉妹と同じように、ほんの僅かな断片を水銀燈の口から聞いているだけだ。それは水銀燈の状況説明に都合のいい部分だけを取り出したものだろうということも分かっていた。
 それでも、彼女には今まで蓄積してきた知識と積み重ねてきた思索がある。自分なりの展望も持っている。それは水銀燈のように激烈なものではなかったが、広い意味では造物主の意図に沿えないかもしれないと危惧してもいた。

──馴れ合いのときは終わりが近いというの、水銀燈。

 それはいずれ来ると覚悟していたこととはいえ、真紅にとっては哀しい認識だった。
 真紅が、自分の右腕をもいだ相手にも関わらず、契約者であるジュンの不信を諌めてまで苦手な水銀燈と友好的に接してきたのは、もしかしたら水銀燈が自分と似た構想を持ち始めているのではないか、あるいは暫く友好的に過ごしていればこちらに考えが傾いてくれるのではないかという願望も込めてのことだった。実際、水銀燈は次第に軟化してきているようにさえ思えたのだ。
 だが、現実はそれほど甘くはなかったようだった。いつか水銀燈が言っていたように、自分はとんだ甘ちゃんなのかもしれない。
 真紅は唇を噛んだ。哀しみと敗北感と自責の思いで打ちのめされそうになりながら、それでもどうにか真っ直ぐに立っていた。彼女が弱みを見せていいのは、ジュンと二人きりのときだけなのだ。

「……下らない」
 凍りついたようなその場の面々の中で最初に動いたのは、少年の腕の中の人形だった。
「それがアナタの願いなら、わたしは──」
 どっ、と音を立て、人形の背中から黒い羽が噴出する。少年は声にならない呻きを上げ、それでも堪えてみせたが、僅かに腕を緩めた隙を突いて人形は空中に飛び出した。胸板を派手に蹴られた少年はバランスを崩して倒れる。
「──アナタの願いをぶっ壊してやるわ。……レンピカ!」
 青く光る人工精霊がふっと現れ、客間と隣の部屋をつなぐ戸のガラス部分が瞬時に暗黒に変わり、狭い水面に小石を投げたように波立ち始める。
「な、何するつもりですかっ」
 搾り出すような声で翠星石は、どうにかそれだけは口に出した。
 人形は初めて水銀燈以外に薄紅色の視線を向け、翠星石のぎくりとした表情に対して何故か少しばかりの笑みを浮かべる。それは、どういうわけかとても素直で、何処か寂しげな表情だった。
「……アナタ達が仲良しごっこをする分には関係のない事よ」
 そして言い終わらないうちに身を翻し、強引にドアに開けた入り口からnのフィールドへと消えた。
「メイメイ!」
「追って、ピチカート! 2号も!」
 水銀燈と金糸雀が辛うじて人工精霊を呼ぶ。メイメイはいつものような調子付いた動きではなく、珍しく真っ直ぐに入り口をくぐった。小さな人形を投げつけられたピチカートは一瞬たじろぐような動きをしたが、それでもどうにかそれを引っ張るようにしてnのフィールドに消えていき、その背後で暗黒の扉は閉じてしまった。



[19752] 二日分ですがタイムアップっぷ。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/10/13 21:49
二日分になりますが、手直しにかまけてたらタイムアップで尻切れに。
明日はどっちだ。

10/8 14:00 あまりに尻切れなので多少マシなところまで追加。細かいところ手直し。

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 二つの人工精霊が消えてしまうと、客間には凝固したような静寂だけが残った。
 人形の残した黒い羽根がひらりと舞い、ジュンの目の前を横切る。なんと表現していいのか分からない、ただ何処となく後味の悪さと空虚さだけが支配する中で、ジュンはそれを手に取った。
 軸を指で挟み、くるくると回す。羽根はあのときと同じ、水銀燈のそれと全く見分けが付かないものだった。
 この場で一番根拠のない楽しい妄想をしていたのはジュンだったかもしれない。もう少し穏やかな、暖かな、祝福された目覚めになるものと漠然と思っていたのだ。
 だが、蓋を開けてみれば人形をnのフィールドから引き出した水銀燈本人は至ってドライに人形の脅威を指摘し、そして、残念なことにそれはほぼ当っていた。怪我人が出なくて良かったと思ったほうが良さそうなほどの険悪な一幕だった。
 羽根を回すのをやめてふっと息をつく。この一月という時間は何のためにあったのだろう、という徒労感がじわじわと湧いてくるようだった。
 服の裾を引かれる感触があって下を見ると、彼の契約した二人の薔薇乙女がこちらを見上げていた。真紅はジュンを心配するような表情で何処かすまなそうに、翠星石は今にも泣き出しそうな顔で助けを求めるように、並んで彼の顔を仰いでいる。
 ジュンは微笑むように顔を歪めて二人を抱き寄せた。真紅は安堵したように長い息をつき、翠星石はまた涙を誤魔化そうとするように彼の服に顔をうずめた。

 静寂を破ったのは、雛苺の声だった。
「ほんとに痛いとこないの?」
 殆ど誰も気が付かないうちに、彼女は蒼星石よりも水銀燈よりも早く、多分人形が飛び出してすぐに少年のもとに駆け寄っていた。
「うん」
 頭ぶつけてねーし大したことねーよ、と少年はにっこりして雛苺の頭をうりうりと撫で、いてて、と言いながら立ち上がった。蒼星石が心配そうな顔で歩み寄ると、少年はやや丁寧にその頭も撫でた。少年の手は少しばかり草の匂いがした。
「ごめん。逃がしちゃった」
 今までの話をどう聴いていたのか、少年は緊張感のない、悪びれない表情で片手で拝むような仕種をしてみせる。そこここで溜息が洩れ、全員の間にどこか弛緩したような空気が流れた。
「痛いのは大口を叩いた罰ってところかしらね」
 水銀燈は先程の自分の言葉などどうとも思っていないと言いたげな、普段と変わらない態度でにやりと笑う。
「あれを喰らってたじろがない方がおかしいけど。現実世界でも健在だったわね、あの無茶な力は」
「ありゃひでーよ。せいぜい刺すんだろうな、くらいしか思ってなかった……」
 少年は上半身いたるところに刺さった黒い羽根を抜き始めた。
「刺されるのは大丈夫なの?」
 雛苺は目をぱちぱちと瞬いて少年を見上げる。そっちは慣れてるぜー、と肩の辺りの羽根を抜きながら少年はちらりと自分の契約した黒衣のドールを見遣り、それから漸く思い出したように全員を視野に入れて頭を下げた。
「ホントごめん。特に桜田と真紅……」
「全くです。でかい口叩いて暴走するなんて、お前は全くのアホ人間ですぅ」
 翠星石がジュンの服から顔を上げ、眼の端に涙の溜まったまま口を尖らせる横で、真紅は少年の傷だらけの顔を見上げた。
「でも、誰がやってもあの子は止められなかったでしょう」
 まだ顔の強張りが残って、やや固い表情になってしまったが、それでもぎこちなく微笑む。
「ありがとう。私が巻いていたら、本当に壊されていたかもしれない」
 少年は照れたような少しばかり困った顔になり、口の中でもごもごと謝罪なのか感謝なのかよく分からない言葉を呟く。水銀燈は面白そうにそれを眺めた。
「真紅が自分のナイト以外に素直に感謝の言葉を言うなんて殆どないことよ。一生ものだからよく記憶しておきなさい」
 真紅は一瞬意味を掴みかねたような表情になったが、その顔はすぐに真っ赤に染まった。
「……貴女の感謝の言葉なら、翌日は香港で大雪が降るのでしょうね、きっと」
 苦し紛れの言葉に水銀燈はひらひらと手を振って応える。
「あらぁ。そんな素晴らしい効果付きなら、誰かに雇ってもらおうかしら。世界経済に大打撃を与えられるものねぇ」
「物の喩えに決まってるじゃないの」
「分かってるわよ、お利巧さんの真紅ちゃん」
 水銀燈はにやりと笑い、そこまでで真紅をあしらうのを切り上げて床に散乱した黒い羽根を眺めた。椅子の上からその周囲に、まるで烏をまるまる一羽毟ったような量が落ちている。
 ほんの一瞬のことなのに、凄まじい量を放出したものだと思う。人形の怒りがそこに凝縮されているようにも見えた。

──不安と嫉妬、と言うべきかもね。

 やや目を伏せ、飛び去った人形に思いを馳せる。似た姿だから、あくまで知識としてだが同じ記憶をほぼそっくり持っているから、という理由だけではなく、水銀燈には人形の心情がある程度理解できた。
 要するに人形は、ジュンの部屋の雰囲気が堪らなく辛く、自分に向けられる無償の好意が酷く鬱陶しかったのだ。
 自分にはどうやっても戻れない和気藹々とした場所を髣髴とさせる、部屋の中の雰囲気。自分には絶対に占められない位置。その人々から向けられる、「自分たちとは違う可哀相なお人形」に対する同情と憐憫と身勝手な期待のようなもの。
 それらは『水銀燈』が『真紅』から受け、完全にトラウマと化し、最後まで克服できなかった仕打ちと全く同一の種類の、そして恐らくは更に苦しい経験だったはずだ。
 だがプライドの高い『水銀燈』の性格──それは当然ながら水銀燈にもとても近い──と記憶を持たされた人形は、自分がまたもや同じことをされて同じように苦しんだことは直接表に出せなかった。
 それがまた苛立ちと憎悪に拍車をかけ、結局それら諸々は、水銀燈への憎悪という形で収斂したのだろう。
 そして、それは確かに水銀燈の不手際、あるいは見込み違いによるものだったのも事実だ。

 彼女に幾つかの誤算というか見積もり違いがなければ、もう少し友好的な始まりがあったかもしれない。
 例えばジュンの手を経ずに、原型製作から全て誰かに──パーツそのものを作った、こちらの世界のあの男にでも──頼んでしまえばよかったのだろう。
 彼は恐らく相当の時間をかけてパーツを作り、見事なバランスで組み上げ、しかも代金すら全く受け取ろうとしなかったという。普通なら恐らく何万円かにはなるはずの、経費も馬鹿にならない仕事だというのに。
 彼が御伽噺に出てくるような全き善意の塊というわけではないだろう。彼なりに何か感じるものがあったに違いない。それは勘違いに起因するものかもしれないが、それで彼の心が満たされたのなら、好意として受けておいていいのだと彼女は思う。
 胴部のパーツを原型どおりに作るだけでさえそういう思いを持った彼のことだ。確証はないけれども、仮に向こうの世界の彼と同じ立場と技術を持っていると仮定するなら、稚拙な出来になったかもしれないがフィギュアを参考にして胴体部の原型まで自分で作ってしまっただろう。
 衣装についてもどうにかして調達してしまったに違いない。注文するか伝を辿るか、どちらしてもそのくらいの実行力は持っているはずだ。
 そうすれば、人形の心があそこまでこじれることはなかっただろう。むしろ、静かな場所で彼に全てを委ねられたら、酷く穏やかで素直な──夢の世界の中で、二人きりで旅をしていたときのような──心で居られただろう。
 もしかしたら動き出した人形が彼に自分の知り得る全てを明かし、彼とずっと生きていくような道を選ぶことさえ有り得たかもしれない。
 しかし、あれこれと想像の翼を広げたところで今となっては繰言に過ぎない。人形は怒りと新たな傷を抱えて飛び去ってしまった。

──今度会ったときは殺されても仕方がないわね。

 あっさりとそういう考えが浮かび、水銀燈はそのことに納得してしまっている自分が少しばかり可笑しくなった。予定調和を壊したいなどと派手なことを言い放った割には、だいぶ達観してしまっているものだ。

「──水銀燈」
 黙り込んだ水銀燈に最初の一声を掛けたのは金糸雀だった。
「幾つか質問してもいいかしら。私達、貴女から聞いて少しは事情を知っているけど、まだ分からないことが多すぎると思うの」
 水銀燈は視線を上げ、腕を組んだ。
「いいわ。答えられることは答えてあげる。私も無限の知識を持っているわけじゃないけどね」
 あまり力のない笑いが口許に浮かぶ。だがその諧謔を金糸雀は受け取らず、軽く頷いて真剣な表情になった。
「まず、一つ目ね。貴女の言ったこと……からくり、とはどういうことなのかしら」
 いきなり本題に切り込んできたか、と水銀燈は内心苦笑した。
 金糸雀にはそういうところがある。普段は可愛らしく少しばかりそそっかしい少女だが、それだけにこういうところでずばりと本質を突いても許される雰囲気があるし、本人も知っていてそれを利用しているフシもあった。
 真っ直ぐ切り込むことを避け、幾つか得やすいヒントを得てそれを組み合わせることで事実を類推する癖のある真紅、逆に直感に頼って平押しに真っ直ぐな質問を繰り返すことしかしない翠星石と雛苺、一度自分の中でストーリーを組み立ててしまってから確認を取る蒼星石……それら姉妹達にはない手強さが、金糸雀には確実にある。
 そして、ここで仮に水銀燈が説明を拒んでも、彼女は精々不満げに口を尖らせるだけで、けろりとして次の質問に移るだろう。そういう強かさも彼女にはあった。
「まだ正しいかどうかは分からない。ただの見込み違いの可能性もあるけど」
 前置きして、水銀燈は金糸雀の瞳を見詰めた。
「アリスゲームは単純な小石の欠片の奪い合いじゃない。戦いはそれと分からないように何処かで制御され、恐らく姉妹全員が揃ったときでなければ決着は着かないようにできている。その一端が垣間見えたというわけ」
「それが、からくりなのかしら」
 水銀燈は頷く。
「例えば力ずくで奪ったとしても、ローザミスティカは即座にそのドールの力になるわけじゃない。あるいは、力は使えても副作用が残る」
 真紅に視線を移すと、彼女は他愛のない怒りをもう何処かに追い遣り、生真面目な顔でこちらを見詰めていた。
「貴女が雛苺からローザミスティカを奪わずに下僕としたことは、リスクを回避する方策として正しかったようね」
 真紅がそんな意図はないと抗議するのを、知っているわ、そういう側面もあるということよ、と水銀燈は受け流した。
 その遣り取りを見詰めながら、蒼星石はぎゅっと拳を握り締める。

──そして君も、リスク回避のために僕を生かした。そういうことだね。

 予想していたこととはいえ、あまり認めたくない話だった。ローザミスティカの脈動は治まっていたが、逆にその分、冷たいものが体の中を駆け巡っているような気がした。
 あの場で自分が倒れていれば、自分は確実に翠星石にローザミスティカを託していた。漫画の成り行きもそうだったようだが、あの時点で自分に他の選択肢は無かったように思う。
 それは水銀燈にとって嬉しくない展開だったのだろう。一人で二つのローザミスティカを持った翠星石が水銀燈の脅威となるのは確実だし、だからといって横取りしても蒼星石のローザミスティカが水銀燈に副作用をもたらさないとは限らない。
 最も確実で構想を練りやすいのは、蒼星石に恩を売って生かし続けることだ。

──そして僕は、分かっているくせに君の提案に乗った。

 いや、分かっていたからだ。どういう展開が待っているか断片的とはいえ知っていたからこそ、一度はそれを選んだのに、幾つかの短い説得の言葉だけでその選択肢を捨てた。
 そこに、例えば野心などという大層なものはなかった。契約者と双子の姉を悲しませるのが辛く、そして何よりも自分自身が長いこと孤独に彷徨い苦しむという未来図に耐えられなかっただけだ。全ては自分の臆病さが原因だった。
 結局はそこだ、と蒼星石は臍を噛むような思いで自分を責める。水銀燈はあくまで自分に対して、水銀燈の媒介が垣間見せた選択肢を再提示したに過ぎない。やり方は狡猾と言っていいかもしれないが、選んだのは蒼星石自身だった。
 拳に力が篭り、かすかに震える。
 知識を得て、水銀燈は美学という名の直線的なやり方を捨て、形振り構わぬ強さを身に着けたのだろう。人形が表面だけを見て嘲笑したのとは逆に、水銀燈のアリスゲームへの熱意はそこまで高くなっているとも言える。
 対照的に自分は弱くなってしまった、と蒼星石は考える。それは何故なのだろう。あるいはこれが持って生まれた、いや、「持たされた」資質の違い、ということなのだろうか──
 すっと、広い手が彼女の肩に乗せられる。
「──大丈夫か?」
 ひそひそ声は少年のものだった。ごく単純に自分のことを心配しているらしいその顔を振り仰いで、蒼星石は表情を少しだけ弛緩させる。

──もしかしたら。

 自分が弱くなったのはこの少年のせいなのかもしれない、と蒼星石は漠然と思う。
 それでも彼の掌は暖かかった。体の中を暴れまわっていた冷たい塊を溶かし、どこか暖かいものを胸の奥に感じ取れるほどに。
 その暖かさに全てを忘れることができるほど蒼星石は器用ではなかったが、彼の手と態度に敢えて作為のようなものを無理矢理に見付け出すほど猜疑心に溢れているわけでもなかった。
 つまるところ、契約者に全てを託していたときには現れなかったそうした隠れた中庸さが、蒼星石の思う「弱さ」の原因なのかもしれない。だが、彼女がはっきりとそれを意識するのはもう少し後になってからのことだった。

 水銀燈はそちらをちらりと見遣ったが、何も気付かないような素振りでまた金糸雀に向き直った。
「私達姉妹、特に貴女と私は積極的にローザミスティカを集めることを考えてきた。私は力で、貴女は計略で、という手段の違いはあったけどね」
 もっとも貴女はすぐに情に流されてしまうところはあるのだけど、と水銀燈は薄く笑い、金糸雀は少しばかり怒ったような顔になったが、何も言わずに水銀燈を見詰め返した。
「でも、それではゲームには勝てない。もし片っ端から全てのローザミスティカを奪取してその副作用に耐え切ったとしても、恐らくそれだけでは至高の少女としては認められない……」
 加えて、そもそも自分のもの以外の六つものローザミスティカの反応に耐えられるのかと言われれば、それは微妙な話だ。
 水銀燈が媒介の記憶から得た知識の中では、彼女は蒼星石のローザミスティカ一つですら持て余してしまっていた。恐らく二つ三つと増えれば、その分だけ反応は激烈なものになるのだろう。
 彼女に二つのローザミスティカを渡して姿を消した──と表現してもいいだろう──人形師の世界なら良かったのに、と水銀燈はつい思ってしまう。彼等の世界ではローザミスティカは集めれば集めるだけ強くなれるパワーの源で、ご丁寧に各個の技まで使えるようになる。話が幾分単純で、素直なのだ。
「じゃあ、どうすればいいってことかしら」
 金糸雀は小首を傾げた。
「競い合い、奪い合いで決着が付けられないとしたら、何をもって決着がついたと判定されるのかしら。それも難解ね」
 取りようによっては揶揄に近い言葉だったが、金糸雀の口から出ると厭味のない感想に聞こえるのは不思議だった。恐らく揶揄なのだろうとは思っても、金糸雀が真実素朴にそう考えていないとも言い切れないのだ。
 全く厄介な相手だこと、と水銀燈は口には出さずに考える。
 なまじお互いをよく知っている上に技の相性の悪さもあり、彼女はこの次女をあまり得手としてはいない。それは金糸雀にとっても同じかもしれないが、いずれにしても水銀燈がこの時代で真っ先に真紅を標的とした理由にはそういった側面もあったのだ。
 溜息をつきたい気分で水銀燈は答える。
「恐らく、競い合うのは是、しかし奪い合いは非、といったところでしょうね」
 そこでまた真紅に視線を戻す。真紅は何かを掴めたような表情になっていた。
「真紅、貴女の構想を話して頂戴。貴女のアリスゲームの構想をね」
 どうして、とは真紅は尋ねなかった。ただ、彼女はすぐには口を開かず、慎重に水銀燈の次の言葉を待っているようだった。
 もう一押しがなければ話すつもりはないのだろう。水銀燈は肩を竦めたい気分だった。金糸雀も手強いが、真紅は真紅で、これだから御しがたい。
「多分それがゲームクリアの方法に最も近いはずよ」
 それは、分かっていてもあまり言いたくない台詞だった。知識を得るまでの自分の行動を全否定し、真紅が正しかったと認めているようなものだからだ。
 しかし、言い切ってしまうと何故か肩の荷が下りたような気分になったのも事実だった。
「話してくれるわね」
 念を押されて、真紅はすっと息を呑み、蒼い瞳を閉じた。

 二人の姉の視線を感じる。
 姉妹の中で自分だけが行使できる大きなエネルギーを持て余すように襲撃者として生きてきた水銀燈は当然として、金糸雀も好戦的でこそないものの、父親から言われたことをストレートに受け取り、忠実にそれを履行しようとしてきたことを今更のように思い知らされる。
 対して、自分は最初から捻くれていた。それは正攻法に疑問を持ったというよりは、正攻法では勝てないから、という言わば弱者の論理でもあった。
 真紅には力が足りなかった。思索に耽る能力、冷静に物事を考えられる能力は、却ってゲームに臨む前から彼女に自分の限界を思い知らせていた。
 水銀燈の自在に空中を飛び回り変幻自在の羽を操る力、金糸雀の傘とヴァイオリン、双子の庭師の心を操る鋏と如雨露。それらに相当する技能は自分の中にはないか、似たようなものではあっても決定的に劣っている。正面から戦いを挑まれれば、どうにか負けないことはできても勝つことはできない。
 力押しでは自分は勝てないゲームだから、彼女はそれ以外の方法を模索した。
 暫くして辿り着いたそれは水銀燈から見れば美しくなく、金糸雀から見れば馴れ合いの皮を被っているだけかもしれない、搦め手というよりは姑息かもしれない方法だった。しかし、彼女には他の方法は見出せなかった。
 父が知ったら失望するか怒りを感じるかもしれない。それでも真紅は、自分が遂行するアリスゲームとはこれなのだ、と自分自身に言い聞かせてゲームに臨んだ。
 幾つかの出会いと別れ、戦いと休息、不和と和解を経て彼女の考えは幾らかずつ変化してきた。いつしかそれは単にゲームの遂行ではなく、ゲームを終わらせるために自分が採るべき手段として彼女に認識されるようになっていた。
 それを今、ゲームを遂行するための正しい方法に近いものだから開陳しろ、と、これまで真紅の思惑など鼻にも引っ掛けなかった長姉が言っているのだ。
 なんという皮肉だろう、と彼女の中の悲観的な部分が嘆く。だが別の部分は、これが好機かもしれないと沸き立っていた。姉妹殆ど全員の前で、偏っているかもしれないと恐れ、理解されるはずがないと諦めて仄めかす程度に終始してきた自分の展望を堂々と表明することができるのだ。今までは望むべくもなかった好機だった。

「──ええ」
 逡巡していたのは数秒間ほどだったろうか。真紅は眼を開いて水銀燈の顔を見返した。
「私は……誰か独りがアリスゲームに勝ち残ることよりも、私達みんなでアリスゲームを終わらせたい。そう思っているわ。これから話すことは、その前提で聞いてほしいの」
 真紅は振り返り、その場の全員を視野に入れられる位置に移動した。

「アリスゲームは七つに砕かれた魂の欠片を一つにするための闘い……そう認識していることは私もみんなと変わらないわ。
 優れた者が劣った者を倒し、その欠片を取り込んで行けばローザミスティカはいずれ一つになる。確かにそれは直接的で分かりやすい方法でしょう。
 でも、それだけでいいのかしら。
 腕力や策謀勝負なら、確かにより強いものが淘汰されて生き残るでしょう。でも、勝ち残ったそれは至高の少女なのかしら。
 薔薇乙女の宿命とは、幾つもの世代を越えてだらだらと続く最強決定戦ではないと私は思うの。
 私達が生きてきた時間と記憶、想いと絆……それらが全て揃った、其処にアリスは生まれる」
 そう信じたい、と真紅は斜め下を向いて小さな声で言った。ややあって、前を向いてしっかりした発音で続ける。
「主義や主張が違えば、戦いになることもあるでしょう。それを避けようとは思わない。私の言葉はいつも足りないから……時間をかけずに誰かを説得することができないから、最後はきっと戦わなくてはならない。
 それが私のアリスゲーム、私の制すべき戦いということになるかしら。
 ただ、そうして打ち勝ったとしても、負けた相手を物言わぬ人形にすべきではないと思っているわ。最後はみんなが揃って、全員同意の下でアリスを……」
 そこで真紅は珍しい表情をした。少し照れくさそうな顔になったのだ。
「アリスを『生む』の。誰かが『成る』のではなくて、みんなで七分の一のものを一つに還し、アリスを孵すのだわ」

 水銀燈は可笑しいような、感銘を受けたような、何とも言えない表情で真紅の言葉を受け止めた。
 もっとも述べている本人も、それが甘い願望だということは分かっているのだろう。時によれば戦って相手を打ち負かし、不本意に自分に従わせる必要もあるかもしれない。
 それはまだ許容できるとしても、自分の手にかけるのであればまだしも、何処か手の届かぬ場所で姉妹が消えてしまうこともあるだろう。人形に動物のような死はないとはいえ、ボディまで消滅してしまったら普通の方法では魂を呼び戻すことはできない。
 七人が揃っている時代であっても、誰かの意図に同意し、その言葉に従って協力し合うということでさえ、他の姉妹が奪い合いを標榜している中では酷く難しいことなのだ。
 ただ、彼女は粘り強い。あるいはそんな都合のいい夢物語も、偶然と幸運に頼るのではなく時間と労力をかけて現実のものにしてしまうかもしれない雰囲気が、真紅には確かにあった。

──今というタイミングならある程度のところまでは可能ではあるかもね。いえ、既に相当のところまで実現していると言うべきかしら。

 自分がお膳立てしたようなものだが、雪華綺晶を除く六人の姉妹はその契約者も含めて今までになく親しくなっている。総合的に見て良いことなのかどうかは判断が難しいとは思うが、少なくとも真紅の構想を実現させるためにはプラスに働くだろう。
 ただ、それの実現には一つ大きな問題が横たわっているように、水銀燈には思えた。

「──真紅はお父様に逢えなくてもいいの?」
 きょとんとした顔で言ったのは、雛苺だった。
「お父様はアリスにしか会ってくださらないのよ。だからみんな、アリスになるために戦ってるんでしょう? ヒナはもう負けちゃったからダメだけど……」
 できることなら、機会があるのなら、自分だって逢いたい。そう言う代わりに雛苺は手近にいた少年の後ろに隠れてしまった。
「いいもん、ヒナにはパパとママがいるんだから。ねっ、そうよね?」
 ぐいぐいと少年の、まだ少し汚れの残っているツナギ服の脚の部分を引っ張る。少年はなんだっけと一瞬考え込んだが、ぽんと手を叩いてうんうんと頷いた。
「そうそういるいる。ちょっと可愛い系だけど決めるときは決めるかっこいいパパいるもんな」
 誰なんだよ、と言いかけて、ジュンは少年が自分のほうを、いかにも申し訳なさそうな顔をして片手で拝むような姿勢で見ていることに気付いた。
「ちょっ……まさか……」
「えへへっ、パパ大好きなのーっ」
 雛苺はとてとてとジュンに駆け寄り、真後ろから足にしがみついた。みつがふんふんと頷く。
「ジュンジュンと雛苺ちゃん……そういう関係だったのねぇ……」
「ご、誤解だって! ない、ないから!」
 にんまりと笑うみつにジュンは慌ててぶんぶんと手を振った。
「いいのよいいの、ドール好きなら誰でもそうなの。ドールはみんな可愛い子供。もうみんなホント目の中に入れても痛くないくらい可愛いんですもの。うふふふ。
 でもそうなるとママが誰なのか気になるわー、……ねっヒナちゃん、ママは誰なの?」
「もっちろん、ママはトゥ──うぷ」
「わーっ、わーっ」
 ジュンは真っ赤になって雛苺の口を手で塞いだ。
「だ、脱線終わり! 本題に戻って戻って!」
 そこここでくすりと笑いが漏れ、ぎこちなかった空間に僅かに緩みが出たようだった。
 ジュンは赤い顔のまま、まあいいか、と呟く。いきなりのパパ扱いは衝撃的だったが、多少でも雰囲気を明るくできたのなら歓迎すべきなのかもしれない。

「パパ、ママのいる子はいいとして……」
 金糸雀はまだ可笑しいのか、くすりと笑ってから真剣な目で真紅を見る。
「ヒナの言ったことは核心を突いているわ。真紅のプランでは、結局誰もお父様には会えない。それじゃ、みんな認めようにも認められないんじゃないかしら。結局真紅が他の姉妹を従わせて、自分のプランを遂行するだけになってしまわない?」
「……そうね、そのとおりだわ」
 真紅は微かに寂しそうな表情になった。彼女もそれを疾うの昔に分かっていたからこそ、公言することは避けてきたのだ。金糸雀はごく当たり前のことを指摘したに過ぎない。
「私が勝たなくてはゲームが終わらない、という点では私の戦いは何処までも私だけの戦いに過ぎないかもしれない……。誰も賛同はしないでしょうね」
 やや伏目がちになり、一つ息をついて水銀燈を見遣る。
「こんなところでいいのかしら」
「ええ」
 充分よ、と水銀燈は軽く頷いた。
「大体考えていたとおり。実現の道が困難なのかどうかは置いておくとして、真紅のやり方自体は恐らく正解に近いはずよ」
 そこで、何かを決意するような間を置いた。

「──結局、戦って相手を屠り、強引にローザミスティカを奪うことはマイナスにしかならず、全員を納得ずくで味方に付けるか、従わせるか、アリスゲームの完遂にはどちらかが必要だという点でね」

 言い切って水銀燈は周囲を見回し、少しばかり意外な顔になり、それから小さく肩を竦めた。
 思ったよりも反応が薄いことに気が付いたのだ。ローザミスティカに対する執着は水銀燈に次ぐはずの金糸雀も、いかにもその指摘を覚悟していたというような表情で頷いている。翠星石と蒼星石に至っては、ただ真剣な顔で聞き入っているようにさえ見えた。

──なるほどね。

 結局のところ、アリスゲームと言ってもこんなものなのだ、と思う。一人は既に脱落し、二人は最初からゲーム自体への興味が薄く、一人はいざとなれば最も有力かもしれないが、興味そのものはあってもその折々の情や姉妹との関係に流されやすいために些か影が薄い。
 つまるところ、アリスゲームを連呼しているだけでなく、自己の課題として取り組んでいるのは自分と真紅、二人だけだった。
 その点で自分はやはり悪役、またはライバルとして設定されているのだと改めて思う。あの人形師は盛んに否定するようなことを言っていたが、それは所詮外部からの視点に過ぎない。
 内心であまり愉快でない思いを巡らしながら、水銀燈は真紅に視線を向けた。彼女は何故か居づらいような雰囲気で、一人離れたところに立ったままだ。自分の表明した構想が、改めて口に出してみると他者には到底受け入れがたいもののようにでも思えているのだろうか。

──お生憎様。結局のところ、貴女の構想は既にほぼ実現しているのにね。

 水銀燈はなかなか肯定できない自分の荒々しい部分に言い聞かせるように考えを進める。
 真紅がアリスゲームから脱落した雛苺を「家来」として従え、翠星石がそこに舞い込み、金糸雀は中に潜む計算高さと冷徹さを何処かに置き忘れてその輪に入り込んでいる。
 蒼星石は最終的には真紅に協力するだろうし、自分もこうして馴れ合いの輪に入っている。
 後は雪華綺晶に出会い、説得するか従わせることに成功すれば──

 但し、そこから始まる予定調和を許す気は、今の水銀燈には更々ないのだが。

「ただ、納得ずくであれば、恐らく姉妹が揃っている必要はないわ」
 水銀燈は瞬いた。
 蒼星石が翠星石に恐らくそうしようとしていたように、あるいは媒介が読んでいた漫画の世界の中で雛苺が真紅に己を託したように、自発的な意思があれば。
「望まない相手に取り込まれたローザミスティカは副作用として拒絶反応を起こす。しかし、相手に全てを委ねることを望んでいるなら、ローザミスティカは相手の身体にも馴染む。それは真紅の言う時間と記憶は不完全な形でしか提供できないでしょうけど、想いや絆といったものはきっちりと伝わって行くはずよ」

 真紅の言う、全ての姉妹が揃ってアリスを「生む」という、どこか牧歌的なものを感じさせる結末の姿は、水銀燈の考えるところとは違っていた。
 とは言っても、知識を得てしまった彼女は以前のように単純な潰し合いこそが正しく美しいとは到底言えなかった。
 また、例えば、雪華綺晶の思う至高の少女──いつでも個性を着替えられ、どの姉妹にも変化できる存在。それは思いの外アリスに近いのかもしれない。
 だが、それだけでは足りないのもまた分かっている。自在に着替えられるだけでは、単に何人もの少女が入れ替わり立ち代わり出現するのと変わらない。そこに何かを足さなければ、彼女達の造物主が望んだ高みには届かない。
 恐らく至高の少女に必要なのは様々な──恐らく姉妹に分け与えられた全ての──個性を併せ持つだけでなく、姉妹全てを纏め上げるか姉妹全てに慕われる、もっと言ってしまえば自分を委ねてもいいと認められる資質なのだろう。力ずくで屈服させるのでなく、様々な個性から等しく仰がれる──カリスマ性と言ってもいいかもしれない。
 そして、それは彼女達が最初から与えられた特質ではなく、後から獲得して行くべきものだった。
 それを最も強く持った姉妹をベースとして、残りの姉妹達のローザミスティカ──経験と心、知識、個性──を付加されてアリスは「作られる」。
 それが孵化したとき、恐らく役目を終えた薔薇乙女達は皆物言わぬ人形に戻り、魂そのものも消えてなくなるか、もしまだ残滓が何処かに残っていたとしても「どこか遠く」へ散逸してしまうのだろう。
 そのこと自体を理不尽だとは、水銀燈は思わない。生物が生きて子を成し、役目を終えて死ぬように、薔薇乙女はアリスを作るための土台となって動き、役目を終えれば止まるのだ。どちらもそういう風に作られたのだから仕方がない。

 だが、そこに至るまでの過程を彼女は気に入らなかった。

 自分のここまでの経緯にはまだ納得できる。最初の契約者で躓いたことも含め、概ね納得の行く出会いと別れを続けてこれた。
 いい思い出も、思い出したくもない経験もある。それは他の姉妹達のこれまでの年月に比べて遥かに汚く、醜いものばかり内包しているはずだ。その反動もあって、彼女は美学に拘り、怠惰な生を否定してきた。
 それは今となっては却って彼女に「生きてきた」という実感さえ与えているような気がする。本来生きていくには綺麗事では済まないことの方が多いはずなのだ。
 だが、偏った弱い心のよりどころとして契約者が必要という制約をかけられた他の姉妹はどうなのか。
 契約者を愛し、愛され、そして愛した事実さえ一見綺麗に思い出という名前で整頓され、記憶の隅に整然と保存させられていく。後を振り返ることはない。いや、できない。
 性格付けと言ってしまえばそこまでだが、要はそういう風に後腐れないよう最初から作られているのだ。

 契約者まで含めて徹頭徹尾、全てはアリスゲームのためのからくりでしかない。

 雪華綺晶に至っては、もはや存在のありよう自体がゲームのために利用されている。それは異世界の人形師が皮肉たっぷりに評したとおり、まさに他の姉妹の後始末のためにあるようなものだった。
 彼女は最初から最後まで、孤独と渇望と不安に苛まれながら、最後の最後に舞台に立つまで誰にも知られることなく逼塞するほかなかったのだ。

──その哀れな存在に無慈悲にも最初の躓きを与えたのもまた私、というわけか。

 今更ながらそんなことを考え、何処まで悪役として作られているんだか、と改めて可笑しくなる。
 全てはアリスの基礎となるべきドールに成長のきっかけを与えるためだけに、彼女は精一杯生きてきたわけだ。全くそれと知らされず、自分こそがアリスになるのだと叶わない幻想を抱いて。
 この場に誰もいなければ乾いた笑いの一つも浮かべてやりたい気分だった。ここまで思索を進めるといつもそうしているように。

 考えを巡らせていたのは僅かな間に過ぎなかった。
 しかし周囲はそんな水銀燈の内心とは無関係に、途切れた彼女の言葉の続きを待っていた。
「……つまり、お互い恨みっこ無しの正々堂々の勝負に勝って託されたローザミスティカならば拒絶反応も起きないしアリスとなるための条件にもなる、ということかしら」
 なかなか次の言葉が出てこないのに幾分焦れたのか、金糸雀は自分で水銀燈の言葉を纏め、小首を傾げる。
「勝負に勝ったときよりも誰かがアクシデントに見舞われたときの方がありそうだけど。どっちにしてもカナには不利な条件かしら……」
 残念だわ、と言う顔は言葉どおりの残念さを見せていたが、すぐに彼女は気持ちを切り替えたように次の質問に移った。



[19752] 120行程度。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/10/13 21:48
どうにもいけません。
外堀が埋まらない。

******************************************************


「ローザミスティカのことは大体分かったけど、からくりはまだ他にもあるんでしょ?」
 金糸雀は水銀燈に一歩近づいて彼女の顔を見詰める。二人の背の高さの関係で、そうすると金糸雀はやや上目遣いになり、何かを訴えたいような表情にも見えた。
「それは、第七──雪華綺晶のことも含んでいるのではないかしら」
 金糸雀はそのまま小首を傾げてみせる。内心に何かを抱えているのかもしれないが、可愛らしさがそれを上手く覆い隠してしまっていた。
「何故そう思うの?」
 尋ねたのは水銀燈ではなく、真紅だった。彼女は小走りに金糸雀に近づき、金糸雀は顎の先に指を当ててそちらを振り向くとにこりと笑う。
「雪華綺晶という名前しか知らない末妹が、仮に水銀燈の言ったとおりの存在なら……貴女もそう考えてるんじゃないかしら、真紅」
 真紅は瞬き、立ち止まる。僅かに躊躇したようにも見えたが、しっかりと頷いた。
「……ええ。実体を持たないアストラルの彼女には、アリスゲームを遂行する上で何等かの特別な役割が求められるはず。そうでなければ──」
「──そうなの、他の姉妹に比べて不利な立場かしら」
 金糸雀は真紅の台詞の後半を引き取り、水銀燈に向き直った。
「幾ら行使できる力が大きくても、雪華綺晶は本質的に受身の立場。しかも自分の糧を確保していくためには、七人全員が揃った時代でないと迂闊に仕掛けられないのよ。
 もしアリスゲームに何の仕掛けも無ければ、私達他の姉妹は全員揃わなくても少しずつ相手を減らせるし、そしたら雪華綺晶は何もしなくてもますます不利になるから、普通に考えたら雪華綺晶のハンデは大きすぎる……あれ? 前にも言ったかしら」
 うんうんと雛苺が頷く。金糸雀は罰の悪そうな顔になったが、とにかく、と言葉を続けた。
「こう言っちゃ失礼かもだけど、真紅とヒナ、それからカナもね。三人が今まで無事で来れたのも、多分誰かがバランスを取っていたお陰かしら。翠星石と蒼星石はいつも二人一緒だったから手出しされにくいけど、私達はばらばらだったから──」
「──こわぁいお姉さんにいつジャンクにされても可笑しくなかった?」
「そう。バトルホリックの漆黒の堕天使に──って、あ」
 金糸雀ははっと口に手を当てた。それは流石に目の前に本人が居るところで言っていい言葉ではなかった。
 しかし、出た言葉は返って来ない。
「……ごめんなさい」
 金糸雀は素直にぴょこんと頭を下げ、水銀燈は肩を竦めて息をついた。
「いいわ。続けて頂戴」
「え、ええ」
 顔を強張らせながら、金糸雀は推論を再開させた。
「とにかく、アリスゲームが水銀燈の言うように何処かでコントロールされてるのは間違いないかしら。それは多分、誰も負けないように誰も勝たないように……という方向だと思うのね。そうでなければ、特に……」
 金糸雀は少し言い辛そうに真紅の顔を見た。真紅はこくりと頷いた。
「私は多分、本当は何度も負けていたわ」
 この時代だけでも、と真紅は目を伏せた。
「最初は何の疑問も感じなかった。でも」
 いや、この時代で彼女は実際に何度も負けていたはずだ。
 水銀燈との再会のときはまるで水銀燈の退場まで切れるのを待っていたかのようなタイミングで薇が切れ、雛苺との戦いのときには雛苺の契約者は既にまともに力を与えられるような状態とは言えず──それでも雛苺は瞬間的には本来の力を放ってみせたが──、次の戦いでは媒介がついていた上に数の有利がありながら遂に片腕をもがれてしまった。
 そこで何故か水銀燈が取って付けたように仲間として引き込んだはずの蒼星石まで標的にし始め、逆に水銀燈が全員から攻撃を受けかけて不利になりかけると今度は戦いの場としていた夢の世界が壊れた。薔薇乙女五人と契約者一人を巻き込んでいたのに、あのときでさえ勝敗は結局着かずに終わった。
 そして、片腕を失った彼女が酷く不利になったその後はまるでそれを補うかのようなタイミングで水銀燈の態度が軟化し、彼女に腕が戻った後はローザミスティカを巡る戦いそのものが有耶無耶のうちに休戦状態に入って今に至っている。

──これでは、まるで……

 考えを巡らしかけて、止める。それは真紅の自尊心というより潔癖な部分、大袈裟に言ってしまえば倫理観が看過できそうもない想像だった。
 真紅は目を伏せたままかぶりを振って溜息をつき、呟くように続ける。
「……いえ、多分そうね。誰もが脱落しないように、誰も欠けないように。そんな風に何処かで制御されていたのだわ。一番弱かった私が生き延びてこれたのは、多分そういうこと。
 私は生き延びてきたのではなくて、ずっと生かされてきた……」
 考えが到達しそうな事柄は、敢えて口には出さなかった。それでも自嘲気味の言葉になるのは避けられなかった。
 水銀燈が羨ましかった。彼女なら多分、自分自身を含めて全てを突き放した視点から、割り切った口調で斬り捨てるのだろう。みんな所詮哀れな操り人形に過ぎないのだと。
「真紅だけじゃないわ」
 金糸雀はぶんぶんと首を振って笑顔を見せた。
「カナも何度も何度も危ない橋は渡ってきたかしら。アリスゲームだけではないけどね。多分ヒナもだし、他の三人だってきっとそうよ。でもここまで誰もゲームから脱落しなかった。中の要因だけではなくて外部からの干渉からも守られてきたんじゃないかしら。
 薔薇乙女は姉妹全員、戦い合いはしても全てお父様の大きな手の中にいるってことかしら。多分……ね」
 その言葉が潔癖すぎる真紅への慰めになっていないのは承知だったが、何故か言わずには居られなかった。

 それがどちらかと言えば自分自身への言葉になっていることには、金糸雀は気付いていない。
 姉妹は皆同じだから特定の誰かだけが優遇されたり冷遇されているわけではない、と信じたいという気持ち、それに気付いてしまったこと自体を認めたくなかったのかもしれない。
 大きな手の中に守られて居るということは、大きな手の中に囚われていると言い換えることもできる。だが今はまだ、そのことに気付かない振りをしていたかった。
 そうでなければ、これまで懸命に生きてきたことがあまりにも虚しいような気がするのだ。

「話を戻しましょう」
 水銀燈はぱんぱんと手を叩いた。その仕種は誰かに似ていなくもなかったが、その場で気付いたのは雛苺だけだったかもしれない。
「金糸雀の言うとおり、恐らく最初から何処かで戦いは制御されている。それと同じように、雪華綺晶の役割も最初から規定されている。それもからくりの一端でしょうね」
 見ている、というよりは人形師との会話で辿り着いた結論だったが、彼女はそこまでは言わなかった。
 金糸雀に視線を向け、貴女の推測どおりよ、と目顔で伝える。金糸雀は予測が当たって嬉しいというよりは困惑したような、聞きたくなかった言葉を聞かされたというような表情になった。
 そんな顔をするなら賢しらに推測などぶち上げず、真紅のように沈黙の裏で考えを巡らせるだけで済ませておけばいいようなものだが、そこで言葉にしてしまうのが金糸雀の性格なのだろう。

「そして、彼女の役割は──」

 喋り始めてみると、今度の話はどうにも長くなりそうな気がした。
 考えてみれば、媒介の記憶を受け取ってからこの方、何かといえば長口上ばかり言わされているような気がする。

──悪役だけでは足りずに延々と解説役もやらされるわけね。

 皮肉な思考が頭を過ぎり、水銀燈はどうしても苦笑を抑えることができずに口の端を吊り上げるような表情になる。話を聞いている姉妹達には冷笑に見えたかもしれないが、そのことを指摘したり厭な顔をする者はいなかった。
 水銀燈には彼女達の反応が相変わらず薄いようにも思えた。
 それは姉妹それぞれが各々の考えを巡らせているからだったが、水銀燈にもそこまで気を回すだけの余裕はなかった。彼女はただ、何処となく不安と不満と悲しさと苛立ちのない交ぜになった姉妹達の放つ感情の流れだけを感じ取り、それが自分に対しての反感から出たものだろうと考えて多少残念に思っただけだった。
 ついそちらの方に類推が行ってしまう辺りが、あるいは彼女の哀しい限界なのかもしれない。


 人形は漂うように虚空を飛んでいた。
 薄紅色の瞳は閉じられ、黒い翼は畳まれている。脇に寄り添う青い光は途惑うように点滅を繰り返しているが、人形は反応を返そうともせずにただ流れていた。
 彼女は疲労していた。そして、ローゼンメイデン達の鞄のような回復装置を持っていない彼女は、疲労をただじっと動かずに眠ることでしか和らげることはできない。
 今まではここまで疲労したことはなかった。動ける時間より眠らされている時間の方が遥かに長い暮らしを続けてきたのだから当然だと彼女は思った。
 今までと同じように眠ればいい。眠れば、いずれ疲労は回復するだろう。

──そうすればまた──

 はっとして人形は目を開き、自分の漂い飛んできた方角を見詰めた。
 銀色の光点が接近してくる。かなりの速度だった。自分を追跡してきたのは間違いなかった。
「っ!」
 反応が遅れたのを彼女は苛立たしく思う。『レンピカ』が点滅を繰り返していたのはこのためだったのか、と舌打ちする。
 もっとも、その光点に対して逃げ戦をするつもりはない。苛立たしく思ったのは対応時間が短くなったからで、それ以上の理由はなかった。
「何か知らないけど良い度胸じゃない。粉々にしてやる……」
 一瞬、苛立たしさが凶暴な衝動となって人形を駆り立てる。彼女は接近してくる銀色の光に交錯するような軌道を取った。
 すれ違いざまに羽根の一群をお見舞いすれば、相手が何であれただでは済むまい、とにやりと笑う。人形は自分の攻撃能力には自信を持っていた。
 しかし、意気込みは肩透かしを食らった。銀色の光は既に光点ではなく光球と言うべき大きさになっていたが、彼女の羽根の有効射程ぎりぎりで直角に近い急ターンを行って、彼女と等距離を保つような軌道に乗った。
「……監視するつもり、わたしを」
 猪口才な、と人形は下唇を噛み締める。
 そのときには相手が何者であるかについても分かっていた。あの女──水銀燈の人工精霊だ。

 別れ際に見た厭なイメージが頭の中を過る。人を小馬鹿にしたような口振りで話をしているくせに表情は硬く、まるで嫌々ながらもやむを得ず何かをさせられているといった風情だった。
 人形が水銀燈の内心まで読むことができていたら、あるいはまた別の別れ際があったかもしれない。だが人形は少なからず狭量で、しかも自分のことで切羽詰っており、更に心を読むといった特殊な力も持ち合わせていなかった。

 人形は鼻を鳴らした。どれだけの力を持っているか知らないが、人工精霊如きに何ができるというのか。
 人工精霊は監視を続けたいようだが、その意図を挫いてやるのは簡単なのだ。あちらは一つきりだが、こちらは一体ではないのだから。
「レンピカ」
 青い光は二三度瞬いて、彼女の右手に移動してきた。
「追跡してこっちに追い込むのよ」
 了承の合図はなかったが、青い光は大きな弧を描いて銀色の光へと近づいていった。

 人形は一つ思い違いをしていた。
 それは些細なものだったが、この局面では無視できないほどの誤認でもあった。
 彼女が知る世界──水銀燈の媒介が以前生きていたところで視聴していたアニメーションの中の世界──では、人工精霊はさほど重要な位置を担っていたわけではない。自律判断ができる万能の召使ではあったが、ローゼンメイデンとの間には、いざとなれば手放して相手に与えることができるほどの繋がりしか持っていなかった。
 しかし水銀燈が放ったメイメイは、水銀燈の内にあるローザミスティカそのものに繋がり、そこにきつく縛りつけられている。それは、仮にローザミスティカが元の主人の意に沿わぬ相手の許に回収されてしまったとしても、そこに否応無しに付随させられてしまう程の強固な拘束力だった。
 それでいながら、自己の判断力や個性も持っている。それは人工精霊自体がひとつの心を持った生命だと言い換えても良いほどの完成されたものだった。
 そしてメイメイは仕事や役割というよりはあくまで主人を第一に考える個性を持っている。これまでも、時によれば主人の表面的な言葉に逆らっても、自分が主人のためと思うことは躊躇無く実行してきたほどだ。
 主人から与えられた役目は、果たさなければならない。それが人工精霊の誇り、などと言ったら大袈裟だろうし、メイメイには誇りやら矜持といったものは無縁だったが、義務感や使命感は確実に存在していた。
 メイメイは至近で飛び回る青い人工精霊の牽制を半ば無視して、時機を窺い続ける。そこには紛れも無くメイメイ自身の強い意思があった。

 一方の『レンピカ』は言われたことを字義通り忠実に履行しようとしていた。追跡し、相手の軌道を人形の方に変えさせるのがその任務だった。
 威嚇の動きを暫く続けた後、効果がないと理解した『レンピカ』は実力行使に出る。銀色の光球を弾いて軌道を変えさせようとしたのだ。
 だが、その試みは虚しかった。弾こうとして加速して接近してきた『レンピカ』の目前で、メイメイは突然意外なものを召喚してみせたのだ。
 急停止しようとする『レンピカ』を、それは横合いから強かに叩いた。『レンピカ』は為す術もなく弾き飛ばされ、間遠な点滅をしながら漂い遠ざかっていった。

「剣を……勝手に?」
 人形は瞬いた。メイメイが召喚したのは、彼女が少なくとも一度は──幻影が破れ、雪華綺晶が現れたとき──実際に使った両手剣だった。
 形が同じだけの別物ではない。何故か、それが人形には分かってしまった。
 メイメイは剣の腹で『レンピカ』を弾き飛ばした後、剣を脇に従えたまま、茫然としている人形にゆっくりと接近した。
「……何故お前がそれを?」
 主人のいないところで召喚し、行使できるのか。そもそも、何故持っているのか──。
 メイメイはチカチカと点滅し、人形に短い思念を送り付ける。人形の表情は唖然としたものから驚愕に変わった。
「まさか、そんな」
 薄紅色の瞳が大きく見開かれ、視線は剣に固定される。メイメイはそれをそっと押し出すように人形の方へ送った。
 人形の手が剣の柄を掴む。そこまで確認すると、メイメイはまるで手を叩いてでもいるかのように小刻みに数回上下に動き、いつものような調子付いた動きで人形の周りを一周すると、もと来た方向に飛び去っていった。



[19752] 一応120行程度。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/10/21 05:38
んー愚痴ってたせいか、進みません。
ていうか、以前感想掲示板の方にも少し書きましたが、蒼星石が出てくると話が進まない。長くなる!
だが、私は謝らない。


うそです。すみません。ごめんなさい。

**************************************************************

 既に日は沈んでいた。西の空にはまだ薄紅色の夕焼けの残滓が残っているが、暫くすればそれも闇に呑まれていくだろう。
 午後早くから始まった一連の騒動は、あまり後味が良くないものを残しながらだらだらと長く続いて、この時刻になって漸く一応の終わりをみた。
「結局一日まるごとレンタルさせちゃって……ごめん」
 ジュンは肩を落として頭を下げた。みつは一瞬何のことか分からずに金糸雀と顔を見合わせる。
「その……レンタカー」
 みつが例のパーツショップに車を走らせたのは午前中だったから、彼女と金糸雀、そしてジュンにとってはほぼ丸一日が潰れた勘定になる。ジュンはそのことを気にしていた。
「なぁんだ。いいのいいの、そんなの別に。好きでやってるんだし」
 みつは朗らかに笑う。
「今日はねぇ、みんなの真剣な顔が沢山見れてみっちゃん大興奮だったわよ。あのカーボンちゃんの凛々しいお目覚ってのも凄かったわねー。黒い羽根ばさーって。今までこういうシチュってなかったもの。一大スペクタクルって感じ? ほんと感動したわー」
 少しドールマニアのスイッチが入りかかっているのか、みつの目は爛々と輝き始める。だが、ジュンが今一つはっきりしない表情をしているのを見て取ると、さっと生真面目な顔に変わり、その肩にぽんと手を置いた。
「ま、アリスゲームのことはアリス候補生達に任せましょ」
 ジュンは顔を上げ、何度か瞬いた。
「あの子達が真剣に悩んでるときは、マスターはゆったり構えて適当に悩みに応えてあげれば良いの。一緒になって悩んじゃったら、あの子達は本当に頼るものがなくなっちゃうわよ?」
 みつはちらりと後ろを振り返り、助手席の窓にしがみついてこちらを見ている金糸雀ににっこりと笑いかけた。金糸雀は少し難しい顔をしていたが、いつもの笑顔になってこくこくと頷いてみせる。
 みつはジュンに視線を戻し、ジュンジュンにはまだ大変かもしれないけど、と微妙に苦笑のようなものを浮かべた。
「そうねぇ……栃沢くんって言ったっけ、水銀燈ちゃんのマスター。あの子みたいに天然入ってた方がいいとは言わないけど、少し肩の力抜こうか、ジュンジュン」
「……うん」
 それは分かっている、と言いたげにジュンがまた視線を落とすと、みつはばんばんとジュンの肩を二度ほどはたいて、おやすみと言って車に乗り込んでいった。ライトの光条が薄青い辺りの風景を貫き、車はすぐに角を曲がって見えなくなった。
 ふう、と息をついてジュンは肩を押さえる。
「痛って……」
 全く、手加減しろよな、と呟きながら家に入ろうとすると、今度は脇の方から声が掛った。
「桜田」
 今しがた話に出た少年が、青い作業着のまま、同じように青い作業着を着た蒼星石を自転車の前籠に乗せて自転車に跨っていた。
「おやす!」
 別れの挨拶以外の言葉を言わないばかりか、おやすみの「み」まで省略して、少年は大きく手を振って薔薇屋敷の方に自転車を漕ぎ出した。しっかり掴まってろよ、と言う声に蒼星石が律儀にうんと頷いて籠にしがみつくのは見て取れたが、そこから先は薄暗がりの中に紛れ、頼りない自転車の前照灯だけが暫くゆらゆらと見えていた。
 確かに、彼くらいお気楽に振舞えたら楽なのだろう。だが、ごく普通に中学生生活を送っている彼と、そこから追い立てられるようにして弾き出されてしまったジュンでは、内心に抱えている鬱屈の量自体が違っている。
 もっと分かりやすく劣等感と言ってしまってもいいかもしれない。ジュンは誰もが通っている義務教育の場から爪弾きされてしまったことで、他の様々な事柄に対しても余裕を失くしている。
 少なくともジュン自身は自分の内心をそう感じ取っていたし、事実が何処にあれ、そう感じているうちは鬱屈としたものが消えて行くことはないのだった。

「なあ、蒼星石」
 自転車を漕ぎながら少年はぽつりと言う。
「結局のところ、みんな何やってんだろうな」
 蒼星石は少年を振り仰いだ。少年は進路を見詰めながら、先程は全く見せなかった──多分、記憶を失ってからこの方殆ど見せたことのない──生真面目な表情になっていた。
「まぁ今の俺はなんにも言えないし、なんにもしてやれないけどさぁ」
 蒼星石は長い睫毛をやや伏せる。それが誰に対してなのかは言うまでもない、とかすかな寂しさと共に考える。彼は水銀燈の契約者なのだから。
「媒介って結局……契約が終わるまで、契約した子のコンディションを整えてあげて、また新しい契約まで安心して眠っていられるようにするのが仕事なんだと思ってたんだ」
「……そんなことは」
 むしろあべこべだ、と蒼星石は思う。
 記憶を失う前の彼が読んだ漫画の世界で、真紅が何度か言っていたように、薔薇乙女の契約者は言わば束の間の人形遊びを楽しむだけなのだ。薔薇乙女達は彼等に形にならない何かを与え、その代わりに自らの庇護と媒介としての役割を果たしてもらう。
 そして、役目を果たして契約が終われば、薔薇乙女達はまた新たな眠りに就くのだ。契約者達に見送られて。
「それは、うーん」
 蒼星石の説明を聞いても、少年は今ひとつ納得できないようだった。
「俺に『巻いた』ときと同じ記憶がないから、ダメなのかなぁ」
 少し照れたような、困ったときのような表情で蒼星石の顔をちらっと見遣り、また前に視線を向ける。車が一台脇を過ぎていった。
 前籠が少し揺れ、蒼星石も前に向き直って籠を掴む手に力を込めた。
「貴方の義務感は分かるけれど、契約はそこまで一方的なものじゃない。薔薇乙女はマスターのことを愛して、マスターの記憶に何かを残していく……」
 蒼星石はそこで口をつぐんだ。それは水銀燈がさきほど別の言葉で説明したことの焼き直しに過ぎない、と思っただけではない。何か別の理解を見つけたような気がしたからだ。
 残していく。記憶に。

──僕達が確かに居た、僕達に愛されて過したという消せない記憶を。

 それが契約者の心の糧になる場合もあれば、癒えずに心に残った傷となり、負担になる場合もある。
 その負担になってしまう場合──多くは、もっとずっと長く、永遠に一緒に居たいと望んでしまった場合──雪華綺晶が、その元契約者の心を糧として終わらない夢を見させることになる。そういう説明を、今しがた水銀燈から聞いたばかりだった。

「──結局、雪華綺晶もアリスゲームの駒の一つに過ぎない。その意味では私達は少し立ち位置が違うだけのマリオネット同士、哀れな人形姉妹よ」
 水銀燈は雪華綺晶の「からくり」との関係についてそう締め括っていた。
「ただ、彼女にはまだ秘められた力がある。具体的なことは見えてこないし、最初から持っていたのか、ゲームの開始を睨んで付け加えられたものかも分からないけど。それを見極めない限り、雪華綺晶の力量を早計に判断はできないし、警戒を怠ることもできない」
 それが今の状況と言ったところね、と水銀燈は溜息をついてみせたのだった。

 馴れ合うように見せていながら、そしてアリスゲーム自体への不審と不満を抱えながら、水銀燈は結局自分のゲーム進行に全力を注いでいたのだ、と蒼星石は思う。
 蒼星石を生かしておいたのも、媒介の夢をチェックしていたのも、自分の得た情報を問われるままばら撒いて見せたのも、今日の午後、あの人形を放ったのさえ計算ずくだったのかもしれない。
 それらは殆ど全て、未だ彼女しか実物に接触したことのない雪華綺晶の行動を間接的に阻害し、弱らせるものだった。
 それを水銀燈の口から明かされたとき、真紅は哀しそうな表情をし、翠星石はつい不用意な一言を水銀燈に浴びせてしまった。なるほどと頷いてみせたのは金糸雀だけだった。
 ただ、断片的にではあるが雪華綺晶についての知識のある蒼星石には水銀燈の意図が分からないでもなかった。
 もし雪華綺晶が彼女の知るままの力を持っているのなら、どれだけ警戒しようと警戒し過ぎることはないはずだ。直接的な力そのものだけでなく、その性質も異質で厄介な相手なのだから。
 蒼星石を生かしておいた理由の一つは、彼女を失った結菱老人の心を糧とさせず、蒼星石のボディを与えないためだろう。もちろんローザミスティカを自分の中に取り込むリスクの回避という側面もあるはずだが、いずれにしてもメリットの方が大きいと判断したのだろう。
 他の姉妹とも和解し、早くから少しずつではあるが雪華綺晶のことについて明かしてきたのも、今になれば雛苺を狙わせないためと解釈できる。
 そして、彼の夢の中に頻繁に出入りしていたことには、水銀燈自身が言っていたような「夢を捻じ曲げる」ような意図はやはりなかったのだ。彼の夢の中に居たあの人形だけでなく、まだ記憶が穴だらけで不安定な彼自身を渡さないためでもあったのだろう。
 そうやって、水銀燈は確実に雪華綺晶の取れる選択肢を奪っていった。いや、もしかしたら今後も選択肢を切り取り続け、最終的には一つに絞らせてしまうつもりなのかもしれない。

 割り切った言い方をしてしまえば、あの廃教会で三人が顔を揃え、そして彼が記憶を失った日がターニングポイントだった。恐らくその晩から水銀燈の主標的は真紅から雪華綺晶に変更されたのだ。
 以来水銀燈は、不利と見れば出てこない相手に対して罠を掛けるといった積極的な方法でなく、相手の選択肢を減らして行く作業を丁寧かつ周到に続けてきた。その努力には並大抵ではないものがあるはずだ。
 そのやり方は水銀燈らしいとは到底言えない。彼女は常に襲撃する側だった。むしろ周到な策を立てて実行していくような地味なやり方は金糸雀や真紅、そして今それを実行されている方の雪華綺晶にこそ相応しい。
 しかし、何故──

 赤信号で少年はブレーキを掛け、籠がゆさりと揺れる。蒼星石のとりとめのない思いはそこで一旦途切れた。
「ごめん、ちょい急ブレーキだった」
「大丈夫」
 蒼星石は固い表情のまま、少年の顔に視線を向けた。怒らせちゃったかー、と少年は額をぱちんと右手ではたく。芝居じみた動作だったが、彼がやってみせる分にはあまり違和感がなかった。
「怒ってないよ」
 ぎこちなく笑みを浮かべて、でも次はもう少しゆっくり停まってくれると嬉しいな、と注文を付けると、了解しましたと少年は敬礼の真似事をしてみせた。
 信号が青に変わり、蒼星石は改めて籠にしがみつく。動き出すときが一番不安定なのだ、と今日の行き返りの行程で学習していた。

──貴方は、ずっと覚えていてくれるだろうか。自分の契約したドールですらない僕を、こんな風に運んでくれたことを。

 忘れられても仕方がない。自分はあくまで結菱一葉と契約したドールで、彼の契約したドールは水銀燈なのだから。だが、じきに埋もれていってしまう記憶であっても、たまには思い出してほしかった。
 そして、もし覚えていてくれるならば、それは楽しい思い出の端に連なるものとしてであってほしい。契約者の心が雪華綺晶の糧になるというような話は置いておくとしても、寂しく思い出すようなことにはなってほしくなかった。
 我侭だな、と自分の考えに苦笑しながら、今まではそんなことを考えたこともなかった、とふと気付く。
 彼女はずっとマスターと翠星石、それから自分だけを見て生きてきた。アリスゲームに関わることよりも、その時点での契約者の方が優先だった。
 以前の契約者のことを振り返ることもなかった。目覚めてしまえばそこには将来の契約者がいたし、契約してしまえばその相手のために一所懸命に尽くすのが蒼星石だった。
 翠星石は、どうだったのだろう。
 彼女はいつも契約者よりも自分を見ていたように思う。何を置いても双子の妹が心配で、甘えたくて、甘えさせたくて、そして一旦心を開いてしまえば契約者にも大いに甘えていた。

──前の契約者のことを思い出すような素振りを見せたことは無かった。

 それは蒼星石に昔のことを思い出させてしんみりさせることがないように、という配慮だったのかもしれない。だが、仮にそんな話を切り出されても、蒼星石にはそのとき目の前にいる契約者の方が大事だった。
 それを感じ取っていたから、敢えてそういう話を避けていたのだろうか。

──だが、そうでないとしたら。

 先程は別の考えに彷徨い込んでしまった思いを、蒼星石はもう一度、今度ははっきりと意識する。

──僕も翠星石も「昔の契約者のことを過度に思い出さないように」制御されているとしたら。

 ぶるっ、と蒼星石は身を震わせる。背筋が冷たくなるような、薄ら寒いものを感じたからだ。
 戦いは何処かで制御されている。それは、多分もう疑う必要も無いほど明白だった。
 そうであれば、自分達の記憶システムに、前後の経緯に齟齬が出ない形で何等かの枷が嵌められていても全く不思議はない。

 水銀燈が何等かの手段でこのときの蒼星石の考えを読むことができたら、そうねと小さく肯定した後で、貴女がそこまで思いつくとはね、とやや意外そうな顔をしたかもしれない。
 頑固で一途、且つその折々の契約者をマスターと呼んでその命令には絶対服従を貫いてきた蒼星石が、幾つもの示唆があったとはいえ自分でその結論に達するとは水銀燈は思っていない。水銀燈自身ですら、以前から疑問には思いながら夢の中で人形師と会話するまでは確固たるイメージを持てなかった話なのだ。
 時代を越える間に記憶が弄られているかもしれない、いやその可能性の方が高い、という仮説だけは、水銀燈は故意に披露していない。
 それは姉妹達にとって余りにも辛い話であり、それによって激烈な反応が呼び起こされるのも、単純に悲嘆にくれさせてしまうのも水銀燈の本意ではなかったからだ。

 だが、蒼星石は水銀燈とは全く別の思考の道筋を辿ってそこに到達してしまった。
 激しい感情に揺さぶられることもなかった。ただ、戦慄と共に限りなく冷たい何かがごとりと音を立てて胸の奥に転がり、それが果てしなく下に落ち続けていくような感覚を味わっただけだった。
 自分の知識の中で繰り返し真紅が言っていた言葉。それは、こんなものだったように思う。

 「人は成長する。子供は在りし日の人形遊びを忘れていく。やがては老いて土に眠るけれど、人形は人形のまま朽ちて塵へと還るの」

──あべこべだったのは、それの方だ。

 契約者が全てそうであるわけではない。中には納得の行く別れ方をした者も居るはずだ。
 だが、雪華綺晶が糧とするような者については、こう言い換えてしまった方が正しい。

 薔薇乙女は在りし日の契約者達を忘れていく。契約を終えれば鞄に眠るけれども、契約者は取り残されたまま、心はしゃぶり尽くされるまで弄ばれ、動かなくなったその身は朽ちて塵へと還る。

 いや、違う。
 なんのことはない。もっと、シンプルな話だ。
 人形とは契約者のことで、それを使って遊び、満足すれば人形を棄てて眠りに就いてしまう子供が薔薇乙女なのだ。
 彼女達は皆これまで、契約者という名前の人形を幾つも飽きて捨て、あるいは壊れるまで丁寧に遊び相手とし、そうやって打ち捨てた人形達のことなど一顧だにせず、眠りと目覚めを繰り返してきた。まるで移り気な子供が常に新しい玩具に興味を示し、昨日まで遊んでいた古い玩具をすぐに忘れてしまうように。
 それだけのことだった。

 自転車は空走して行き、やがて門の前でゆっくりと停まった。
「着いたぜ。いやーお疲れ様!」
 少年は注意深く後輪スタンドを立て、身を硬くしている蒼星石を籠から抱き上げる。
 今までは、そういったことに注意を逸らされ、思考を中断させられていた。だが、今の彼女は胴部の関節を丸め、手足を強張らせ、胎児のような姿勢のままゆっくりと彼を見上げる。頭の中では負の思考の渦が止まらなかった。
「どした? ご、ごめん、今のブレーキでもそんな怖かった?」
 記憶を失くす前の彼なら、無駄のない仕組みだ、とただ頷いてくれただろうか。それとも、そんなことはない、と一時の励ましをくれただろうか。
 いや、今の彼に話してもいい。彼はきっと彼女の思いの斜め上の、しかしどこか安堵できる答えと、とても月並な気休めをくれるだろう。
「……いや、そんなことはないよ」
 がちがちに強張った首をどうにか横に振る。どうにか微笑みに近いものを浮かべることもできた。
 ただ、臆病な彼女は、結局自分の思考の到達した結果についての話を少年にすることはできなかった。
「だいぶ揺れてたもんな。ホントごめんな」
 蒼星石の態度をどう誤解したのか、彼は照れたような顔つきで言う。
「やっぱサス付きの自転車にするわ。ブレーキももうちょい良いのにする」
 それは、蒼星石をまた乗せるという意思表示のようなものだった。
 ほら、やっぱり。彼のそんな他愛ない一言は、彼女の心のほんの僅かな一部分にではあるけれど、温もりをくれる。
「ありがとう」
 多分、少しだけ赤みの差した顔で、蒼星石は彼に微笑んだ。今度は少しだけ、上手に笑えたように彼女には思えた。



[19752] 170行程度。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/10/21 05:37
時間が取れず難渋し申した。
それに加えて昨日は投稿できず寝てしまった……。
実験を完遂できるか心配。

なに書いてるのかテメーでも分かってないんで、同じことを何度も書いたりしていたらごめんです。

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 少年が結菱老人に蒼星石を送り届け、ついでにちゃっかりと遅目の夕食のご相伴に与っていた頃、ジュンの家の古びた大鏡の前では真紅が水銀燈と対峙していた。
 いや、対峙しているというのは真紅の気構えに過ぎないかもしれない。水銀燈は鏡の近くにあった箪笥に背を凭せて腕を組んでおり、真紅の言葉を待っているだけだ。真紅はそんな、ごく自然体に見える水銀燈に話を切り出すのに躊躇しているのだった。
 ただ、真紅にとっては、これからする質問は気構えしなくてはならない程度に辛いものだった。
「雪華綺晶の糧は乙女達と契約していた者の心、そのもの……」
「確かにそう言ったわよ。わざわざ確認するほどの事でもないでしょうに」
 真紅の声が微かに震えているのに気付いているのかいないのか、水銀燈は彼女の消え入りそうな語尾に被せるようにして答えた。水銀燈は水銀燈で、真紅には話してもいい部分というものがあるようだった。
「全く厄介な相手よ。ここだけの話、私が知ってる範囲だけでも今現在も以前の契約者達は何人か生きてる。その全員について糧にしている可能性が捨てきれない。
 相当に意思堅固な人物でも、年月が過ぎて老い衰えれば薔薇乙女にもう一度逢いたいと思ってしまう気持ちが芽生えてこないとは限らない。悪いことに、生きてさえいれば生命力そのものの大小は雪華綺晶が糧とする分には関係がないわけ」
 意外にそういうケースで糧を得ることも多いのかもしれないわね、あの末妹は、と水銀燈は視線を斜め下に向けて忌々しそうに舌打ちした。その言葉を聞いて真紅が息を呑み、更に表情を険しくしたのには気付いていないようだった。
「とにかく、今契約している媒介達だけでも渡さないように──」
「──水銀燈」
 水銀燈は訝しげに視線を上げて真紅を見遣り、眉根を寄せた。真紅は今度はもう少しはっきりと声を震わせていた。
「私は、覚えているのに思い出していなかったわ」
 真紅は脅えてはいない。ただ、目を伏せ、自分を責めるような口調になっていた。
「いいえ、思い出そうとすれば思い出せる。今までの契約者達の顔も、名前も、印象的な出来事も。彼等から私はとても多くのことを受け取り、学んできた。それなのに……彼等のことを思い出そうとしていなかった」
「……そう」
 やはり来たか、と水銀燈は軽く頷く。姉妹の中で最も思索を好み、外から見る分には常に凛と背を伸ばして傲然と構えているようだが、内面では常に周囲を気にかけている。そんな真紅なら今日の自分の言葉だけでそこに考えが到達するだろう、というのは計算の上だった。
「忘れようとしたわけではないの。いいえ、忘れようとさえ思わなかった。ごく自然に、まるで──」
「──何処かに整頓されて収まってしまっているように……?」
 水銀燈は部屋の入り口に視線を向けた。声の主は、表情こそ逆光になってよく分からないが、言葉の響きだけでどういう顔をしているか想像がついた。
「盗み聞きとは感心しないわね、翠星石。その分だと雛苺もいるんでしょう」
 びくり、とする気配がこちらまで伝わってくる。出てきなさいと言うまでもなく、怒られるのを覚悟しているようなシルエットが翠星石と並んだ。
「うゆ……ごめんなさい」
「ま、貴女達は三人一組みたいなものだものね。媒介も共通だし」
 水銀燈は怒る気も失せたと言うように苦笑した。
「そっちが構わないなら、私は二人増えようが増えまいが同じことだけど」
 どうするの、と真紅に尋ねる。真紅は諦めたように何か一言呟いて視線を上げた。
「……分かったわ。ここにいるみんなで話し合いましょう。ただし、ジュンやのりには伝えないで。これ以上余分な心配を掛けたくないから」
 はい、と二つの返事が返って来る。
「相変わらずの秘密主義ねぇ」
 水銀燈は自分のことを棚に上げてくすくす笑ってみせたが、真紅はそれに応じる余裕はなかった。場所は、と訊かれて鏡の向こうを指す。
 水銀燈は笑いを収めずに頷いてみせた。
「それなら、お誂え向きの世界を見つけてあるわよ」


 nのフィールド。
 水銀燈が選んだのは、ひとつの小さな世界だった。
「ここは誰かの家ですか? なんか懐かしい感じです」
 翠星石は欧風の石造りの高い天井を振り仰いだ。現代日本の家屋にはない広さと、暗さと、生命感のかけらのようなものがある。
 様々な国、時代を過ぎてきた彼女達にとっては、ある意味でごく普通に懐かしさを感じ取れる場所のはずだ。それこそ、敢えて今更言葉にする必要もないほど。
「第32768世界。全てが反転する数の一つ。ゼロに一番遠く、ある意味で一番近い数でもあるわね」
 もっともここを選んだのは数字合わせじゃなくて偶然に過ぎないけど、と水銀燈は言い、部屋の扉を開いた。
「大きな人形工房……」
「ドールのパーツがいっぱいなの」
 雛苺は作業机の方に駆けて行き、そこに吊られて仕上げを待っているアンティークドールの手足を興味深そうに眺めた。
「こっちはちょっと不気味です……」
 翠星石が指差す一方の壁際にはずらりと顔部分のパーツが並んでいた。既に顔の造作から耳まで作られているが、ドールアイの無い眼窩はうつろで髪も睫毛もなく、塗装もされていない。
 部屋の隅に不自然に積まれたジャンクパーツの山や作りかけで放棄されたドールまでは存在しないものの、そこは水銀燈が夢で見た例の人形工房の様相にとても近かった。一昨日の晩発見したときには似すぎていると首を捻ったほどだ。
 案外ここの風景を基にして特徴的な記号を幾つか散らしたのがあの人形工房の姿なのかもしれない、と水銀燈は思っていた。それならば、きちんと整頓された工房の中に唐突にジャンクの山があったことも説明が付く。
 いずれにしても、今はあまり関係がない。ただ一点を除けば。
「適当に狭いし、話をするには悪くないでしょう。我ながら趣味がいい場所とは言えないけどね」
 言いながら水銀燈は持っていた小箱を机の上に置いた。精々数日前の出来事ではあるが、こう一つ物を置いただけで懐かしさが滲んで来るような気がする。
 いつも座っていた椅子ではなく、男が居た作業机の椅子に水銀燈は陣取り、手を広げてみせた。
「適当に座って頂戴。どうせ誰も来ないわ、……多分」
 つい語尾に一抹の期待のようなものを乗せてしまったが、その意味に気付いた者は本人以外には居なかった。三人は薦められるまま、それぞれ部屋の中の思い思いの場所に落ち着いた。

「それで、忘れようともせず、かといって思い出しもしなかった、ということがどうかした?」
 水銀燈は真紅に視線を向け、少し意地の悪い言い方で話し出すよう促してみる。彼女は机の近くの──丁度、水銀燈がずっと座っていた辺りの椅子に腰を下ろしていた。
 真紅は何かに耐えるような表情になった。
「……契約が解けて鞄に入るとき、私はいつもそれまで契約していた人物のことを考えていたわ」
 貴女達はどうなの? と言いたげに真紅は雛苺と翠星石を順番に見る。雛苺は少し難しい顔をして俯いたが否定はせず、翠星石は自分も同じだと肯定した。
「そして、長い眠りの間にその想いが新たな契約の指輪を少しずつ作って行く……そのことに何の疑いも持っていなかった」
 言いながら、真紅は伏目がちになってしまった。彼女が自分の前でこういう表情になるのは珍しい、と水銀燈は妙なところが気になった。真紅が視線を逸らしたり隠すのは、よほど内面で感情が動いているときなのだ。
「眠りから目覚めてしまえば、前の契約者のことは心の中で整理がついていて、新たな契約者のことだけを考えていた。それが自然なことだと疑いもしなかった。でも、それ自体が私達の意志でなかったとしたら……?」
 問い掛けるような視線が水銀燈を見る。
「元契約者の方にも同じことが言えるわ。でも、そちらは……貴女の言ったとおり、私達との再会を強く願ってしまえば雪華綺晶の糧となってしまうのね。けれど私達は、いいえ、だからこそ私達も、不自然な何かを施されているのではなくて?」

──不自然な何か、か。

 それはとても皮肉な言葉であり、考え方だ。そう考えること自体が不自然だとは、どうして考えないのか。
 本来彼女達はアンティークドールだ。動物のような生命は持たない。自律して動くこともない。それを無理矢理人間のような知識と知恵と性格付けを与えられ、動力源を入れられて動かされているに過ぎない。
 元来がヒトの手でヒトの思いを体現したものなのだから、作り上げたヒトの都合のいいように作られていて当たり前なのだ。むしろ、究極に都合のいい存在を創り出すための前段階、それが薔薇乙女だった。
 だが、自分がその究極に都合のいい存在を創り出す過程をどうしても気に入ることができないように、真紅は自分が精神や記憶に作り手の便利な細工を施されて作り出されたとは思いたくないのだろう。どちらも自律した存在だから致し方ないとはいえ、作り手側にしてみれば有り難くなさそうな話だった。
 アリスゲームそのものだけでなく、時間、記憶、契約者といったものに真紅は潔癖な傾向がある。思索や心理学を好むから、却ってそこに絶対的なものや理想を求めるのかもしれない。
 そんな彼女だからこそ「からくり」らしきものが介在していることに気付けばそれを看過できないだろう、ということは、水銀燈は当然のように想定していた。あまりそちらに素養があるとはいえない自分さえ辿り着いたのだから、ヒントさえ与えれば真紅が気付くのは時間の問題だった。
 意外だったのは真紅にとってそれが自制を大量に必要とするほどの事柄らしいということだ。水銀燈が推測していたよりも、真紅は更に潔癖なのかもしれない。
 あるいは、それさえも過度に考えが進まないよう制御されているのか。真紅のようなタイプはともすれば思索の中に沈んでしまう可能性もあるから、真紅がそれなりの積極性も有している事情の裏には、そういった制御の存在も有り得ることだった。

──やはりこうした話は……

 真紅達とではなく金糸雀とする方が良かったのだろう。もっとも、水銀燈としてはどちらが情緒に流れるかをもう少し見極めてから決めるつもりだったのだが、帰宅する前に真紅から呼び出されてしまったという側面もあるにはあった。
 ただ、そこで先に雪華綺晶の糧のことを喋ってしまったのは早計だったかもしれない。真紅の状況を見極めてからの方が得策だった。いくら姉妹の中で最も思索が深いとはいえ、あまり動揺が激しくては共に策を練る相手としては不都合だ。
 まだまだ自分は他人を巻き込んで何かをすることを苦手としている、と水銀燈は苦々しく思う。じっくり観察して得られた情報を考察する余裕もないし、つい行動が先走ってしまう傾向もあるのだろう。この辺りは、当の真紅の方が数段優っている。
 だからこそ期待もしていたわけだが、と思い、そこで水銀燈は自分の思考が円環状に固着し始めていることを感じた。愚痴しか生み出さない、良くない傾向だ。

 気持ちを切り替えて真っ直ぐ真紅に向き直る。
 たちまち破れる詭弁に過ぎないかもしれないという危惧はあるが、真紅の提起した疑問自体には、まともに自分の推論をぶつける以外の回答も用意してあった。
「私達が目指すのは至高の少女。確かにその資質には私達が誰も持っていなかった部分はあるはず。でも元を辿れば、個別の薔薇乙女は、各々そのときのお父様が至高の少女を目指して造られたもの。複数の姉妹に共通する資質が全くないということはむしろ有り得ない」
 むしろ根底に一つくらいは一貫した物があるはずよ、と水銀燈は机の周辺にある完成間近のドール達を手で示す。残念なことにそれらはほぼ同じ型を使って作られたパーツを組み上げた量産品に過ぎないが、この文脈で使う分には別に構わないだろうと水銀燈は思った。
「この工房の中のドールに共通する、この工房だけのデザインの特徴があるように、私達を作った人形師にも『至高の少女』に対する変わらないイメージがあって然るべき。恐らくその一つに、過去に囚われずに現在と未来を見続けることがあるのよ」
 真紅は大きな背凭れの付いた椅子に座ったまま黙っていた。伏目がちのままで、表情は上手く読めない。こう見るとやけに小さく見えるものね、と妙なところにふと気付きながら、水銀燈は続けた。
「過去のしがらみに拘泥せず現在と未来に生きる。それが至高の少女の資質の一つだというイメージが何処かの時点で湧いたとすれば、過去を振り返らず前を向いて歩いていく性格が薔薇乙女に共通に織り込まれていても不思議はないわ」
 それは水銀燈自身の仮説に対する弱い否定でもある。確かに、常に前向きであれ、というのは彼やゲームの都合の良し悪しに関わらず、最初から与えられていてもおかしくはない性格付けだった。
 ただ、この説明は全ての薔薇乙女に適用するには口先だけの気休めに過ぎないことは水銀燈自身にも分かっていたし、少し考えれば理解できることだった。
「……ヒナは……やっぱりダメな子なの?」
 恐る恐る、といった声がした。男が人形を座らせ、最後の仕上げをしていた椅子の上で、雛苺はそのことを確認するのが怖いというよりは発言して良いのかどうかを迷っているような声で真紅と水銀燈を交互に見ていた。
「違います、今のは水銀燈の考えで」
「違うわ雛苺、これは──」
「──どうしてそう思うのか、言って御覧なさいな」
 慌てたように口を開きかけた二人に被せるように水銀燈は雛苺を促した。
「アリスゲームから脱落してしまった貴女の視点は、ゲームの中にいて常に引っ掻き回されている私達には重要かもしれない。離れているからこそ見えてくるものはあるはずよ」
 雛苺は、恐らく真紅が予想していなかった表情をした。とても嬉しそうに、そして懐かしそうに笑ったのだ。
「ヒナはね、よく思い出すのよ。コリンヌの手。ヒナの、前のマスターの……。
 ジュンもトモエもノリも、おっきくてあったかい手でヒナを抱き締めたり撫でたりしてくれるの。でも、コリンヌの手は細くて、とっても柔らかくてすべすべしてたのよ。その手で、そおっとドールを持つの……」
 雛苺は最近持ち歩くようになった、彼女には大きめに見える肩掛けポーチを開け、ジュンが手を入れて彼女に似せた小さな人形を取りだした。
「──こんな風に、宝物みたいに」
 まるで壊れ物を扱うような手付きで、ゆっくりと雛苺は人形の足を曲げ、自分の脇に座らせた。
「コリンヌは沢山お人形を持っていたわ。でも、どのお人形もみんなそうやって大事に扱っていたの。ヒナはあんまり持つのが上手じゃなかったから、棚から床に落として瀬戸物のお顔や手足を壊してしまったりしたわ。そうすると、コリンヌはとっても哀しそうな顔をするの。
 しまいにはコリンヌはヒナと遊ぶときはセルロイドの小さなお人形しか使わなくなっちゃったの。でも、小さなお人形にはおうちのセットがあったから、小さなお人形を使うのも楽しかった」
 ドールハウスのことね、と水銀燈は頷いた。屋根裏部屋で沢山の人形に囲まれた幼い少女二人。何やら微笑ましい光景のような気もする。
「みんなの手も大好きなのよ。でも、コリンヌの手も思い出すの。ひとりでに思い出してしまうの。手も、声も、表情も、胸に抱いてくれたときの心臓の音も……」
 そこで、雛苺は少し照れたような、それでいて寂しげな、曖昧な微笑を浮かべた。
「ヒナはコリンヌのことを憶えているから、お別れを忘れることができなかったから、トモエと出会ったときもトモエにコリンヌの代わりを押し付けてしまったの。一緒に遊んで、一緒に居て、もう独りにしないで、って……。
 優しいトモエは、指輪に引き込まれそうになってもヒナを大事にしてくれたし、今もヒナのことを可愛がってくれる。大好きなのよ。
 でも、ヒナはコリンヌも忘れることができないの。そういうダメな子だから、きっとアリスになれなかったのね」
 雛苺は微笑を浮かべたまま、その視線を床に落とした。
 泣いてはいない。うつろでもない。それは、敢えて言えば限界に到達したことを知ってしまったり、もう自分ではどう変えようもない事柄があることを悟ってしまった表情だった。
 真紅は、何か耐えられないものに突き動かされるようにして椅子を飛び降り、雛苺の座っている椅子によじ登った。
「優しい雛苺」
 雛苺の頬に手を触れる。何か励ますような言葉を言ってやろうとしたとき、雛苺は視線を上げ、逆に真紅に微笑んだ。真紅は口をつぐみ、恐らく言おうとしていた言葉とは別のことを口にした。
「私達みんなでアリスゲームを終わらせる。その約束を破るつもりはなくてよ」
 水銀燈は金髪の姉妹が向き合う様を眺め、なるほど、と思う。

 真紅の意図が通り、彼女がゲームを制することがあれば、誰もアリスにはならない。真紅本人も、アリスを作るための一人にしか過ぎなくなる。そのことがもし誰かの救いになるとしたら、それは既にアリスになることを否定されている雛苺なのかもしれなかった。
 ただ、そういう形にはならないだろう、と水銀燈は醒めた思いが心の底に蠢くのを感じてもいる。恐らく真紅がゲームを制すれば、彼女が拒否しようとしまいと、彼女を基にしてアリスは作られる。
 もっとも、どちらであろうと大して変わりはないとも言える。そうなってしまえば全ては終わっているのだ。
 殆どの人間が百年後の世界を見ることができないように、アリスゲームが正常に終わってしまえば彼女達もその後を知覚することはないだろう。
 アリスゲームを彼女達の生とするなら、その終わりは全員の死を意味する。彼女達のローザミスティカは、そのボディが残っていようといまいと一つに還元され、アリスの生命となるのだから。
 もちろん、何処かに各々の魂は残り、何処か遠くへと当てのない永遠の旅に出て行くのかもしれない。その意味では、アリスゲームの終わりは新しい始まりでもある。だが、それは現実世界とは繋がりを持たない、観念の世界に過ぎない。
 現実から見れば彼女達は停止し、物言わぬ人形となる。水銀燈の想定している通りならばそこに魂が残っているかどうかも怪しい。人間的な判断基準で考えれば、それは死んだと言ってしまって構わないだろう。

「真紅、ヒナはね、こんな風に思ってるの」
 雛苺は微笑んだまま、真紅の手に手を重ねる。
「多分、お父様はヒナを作られるときに、ちょっとだけ背伸びをしちゃったのよ。水銀燈から真紅までのみんなは、とっても強くてお利巧さんに作られてたの。でも、それでもアリスにはなれなかった。だから、お父様はヒナで、ちょっとだけ背伸びをして、後ろ向きなダメな子を作っちゃったの。アリスにはちょっとダメな子のほうがいいんじゃないか、ってつい思っちゃったのよ。
 だから、だからね、水銀燈が言ってること、ヒナは分かるのよ。みんな凛々しくて、前のことなんか振り返らないように、ってお父様が願いを込めて作ったのよ」

 残念だがそれはニュアンスが違うだろう、と水銀燈は目を伏せた。
 雛苺に後ろを振り向かない制約が課せられていないのは、恐らく彼女が精神的に大きく成長するように考えられて製作されたからだ。経験を積み、成長していくためには、過去を振っ切る強さを自分で獲得しなければならない。ただ、それもやはり彼女達の父親が考えるアリスではなかった。
 その意味では、まだまだ雛苺は成長の途上にあるのかもしれない。だが、彼女は既にゲームに負けてしまい、その将来はなくなった。
 成長段階を省略して完成された姉妹達の中に一人だけ成長前の存在を放り込んだのだから、雛苺が敗北するのは当たり前といえば当たり前だった。むしろ、この時代まで脱落せずに過してきた方に、何等かの操作があったと見るべきなのだろう。
 単独でアリスを製作することを諦め、ゲームによって作り出すべく方向転換を行った時点で、雛苺に後付けで過去を振り返らない操作を施さなかったのは、アリスゲームにおいて彼女は最初から負けるべく配置されていたからだ、とも言えるかもしれない。確かに成長に全てを賭けたドールという投機的で異質な存在の雛苺は、その路線を信じて最終的にアリスになるようにゲームを調整するか、最初に脱落させて誰かの補強材料に使うのが妥当な「用途」というものなのだろう。
 そして、彼女の敗北した相手が真紅というのもまた既定の路線と見て間違いない。最後の最後に来て本格的なぶつかり合いが起きたときに、真紅単独では最後まで生き残るには脆弱なのだから。
 事実、真紅は雛苺がいなければ、もっとあからさまな介入がなければ水銀燈に敗北していたはずだ。

 視線を上げて雛苺の椅子を見遣ると、真紅はそこから降りて、律儀に元の椅子に戻っていた。
「雛苺」
 水銀燈は少しばかり迷ったが、言っておくことにした。どうせ、いずれは言わなければならないことの一つなのだ。
「後ろを振り返っているのは貴女だけじゃない。私も似たようなものよ。特に、最初が酷かったわね。
 それからは、後から過去に縛られるのが厭で契約を結ばず、媒介としただけで過した時代の方が多かった。それでも、そんな媒介達のことでもふっと思い出すことはあるわ。懐かしいことばかりじゃなくて、思いだしたくもないのについ思いだす厭な思い出も腐るほどあるけどね」
 それでも、それなりに納得の行く別れ方はしてきたように思う。最初に躓いたこと以外は。
「案外、私の失敗を見て、お父様はその後のドール達には強くあれと願ったのかもしれないわね」
 どうにか中間地点に軟着陸させられただろうか、と水銀燈は真紅を眺めた。こういう話術は不得手もいいところだ。結果は保証の限りではない。
 真紅は何か納得していないような顔をしていたが、彼女が何か言う前に、水銀燈に対する反論が別のところから発せられた。
「でも、それじゃ説明がつかないです。チビ苺はどうして前のマスターのことをこんなに思い出してしまうですか」
 どういうわけか、翠星石は泣きそうな顔をしていた。
「翠星石は、いつでもマスターより蒼星石のほうが大事でした。今は別々のマスターになっちゃいましたけど、いつもいつも蒼星石と一緒だったことを思い出すんです。
 でもマスターのことは、思い出そうとしない限り浮かんでこないですよ……。
 強くあれ、前むいて歩けって願われて作られたんなら、翠星石はぶっ壊れてます。だって蒼星石と一緒だったことも、蒼星石が笑ってくれたことも、怒らせてしまったことも、悲しませてしまったことも、ほんとにしょっちゅう思い出してるんですよ。
 翠星石はいつも後ろ向きなんです。昔と、今のことが大事なんです。
 でも──前のマスターのそういうことは、思い出そうとしないと、思い出さないんです。変ですよ。だって、翠星石は蒼星石が大好きですけど、一番心が近いのは契約したマスターのはずなんですから」
 おかしくないですか、と翠星石は水銀燈を半ば睨むような強い視線で見詰めた。
「それは貴女が常に何よりもまず蒼星石を見ていたからじゃないの? より強い執着対象のことばかりよく覚えていたって別段不思議はないわよ」
 言いながら、大分白々しい言い草だと思う。
「それに貴女達は双子。記憶も一部分共有しているのかもしれない。現に夢の世界は共有しているでしょうに。そんな貴女達なら、後ろを振り返るというよりはお互いの記憶がフラッシュバックすることもありえるんじゃなくて?」
「そ、それは屁理屈ってやつで──」
「──水銀燈」
 真紅が静かに口を開いた。
「翠星石も、もういいわ。二人ともありがとう」
 もう震えていない、しっかりした口調だった。
「私達は人形。強く性格付けされている。それを呪わしく思おうと当然だと受け容れようと、結果は変わらないのね」
 そうなのでしょう、と真紅は水銀燈を見た。思考を連ねた末に全て理解したような、いつもの顔に戻っていた。水銀燈と翠星石の遣り取りの間に、気持ちを整理できたということなのかもしれない。
「アリスゲームのためのからくりだとしても、至高の少女として作られた故の性格付けであったとしても、それを拒むことはできない」
 また後戻りか、と水銀燈は僅かに警戒した。否定的な言葉を連ねているのは、下向きの螺旋に囚われているようにも見えた。
 だが、それは杞憂のようだった。
「出来ることを、出来る範囲で変えて行くしかないのね。私達は。その積み重ねが何処かで実を結び、新たな選択肢を提示してくれるよう願って」
 結局真紅は自分の路線を再確認したのか、と水銀燈は頷いた。それは自分の性格付けを認識したことで随分希望の小さなものになってしまったかもしれないが、それでも未来を見ているのは変わりがない。

──やはり、真紅はアリスたるべく条件付けされているのね。

 全ての果てに絶望と虚無しか見えていない自分と比べて、彼女の未来像には救いがある。それが、毒の蒸気で周囲を照らす物の名前を冠され、闇を示すドレスに反逆者を示す印を標された自分と、人間にとって生命の色である名前を冠された彼女の、最も大きな違いなのかもしれない。



[19752] 更新スパンが長くなって済みませぬ。約140行
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/10/23 14:09
まーた寝ちまったよ。

今日続きが書けると思ったら無理なので、ちまちま目に付いたところだけ訂正してage。
140行程度です。

実験を趣旨どおりの実験として楽しんでらっしゃる人はどれだけいるのか、だんだん疑問になってきた。

****************************************************************

「話したかったのは、それだけ?」
 水銀燈は作業机の丸椅子の上で大きく伸びをしてみせた。実際、今日は昼過ぎ起床という彼女にしてはひどく「早起き」をしたせいで若干眠くなりかけていた。
「いいえ、もう一つあるわ」
 真紅は少しばかり申し訳なさそうに首を振り、水銀燈をじっと見詰めた。
「貴女が目指していることを知りたいの」
 珍しく直球で真紅は水銀燈に切り込んできた。
「貴女は……何を、壊そうとしているの」


「二号、お疲れ様」
 マンションの一室に鎮座している大きな鏡を抜けて来た小さな人形を、金糸雀は両手で受け止め、僅かに力を補充してやった。小さな人形は金糸雀の与えた力を使いきり、まさに止まりかける寸前までnのフィールドに留まっていたのだ。
「メイメイの行方は知れたかしら」
 人形はこくこくと頷いてみせた。口は動かないし本物の人工精霊ほど高い知性を持っているわけでもないが、金糸雀に簡単な内容を伝えることはできる。日頃の猛訓練の賜物だった。
 金糸雀がピチカートと小さな人形に追えと命じたのは、黒衣の人形ではなくメイメイの方だった。人形だけを伝令に遣してピチカートはまだメイメイを追い続けているのだろう。
「ふーん、やっぱりそうなのね……」
 みつの大量のコレクションの手入れを手伝っているお陰で、もはやほとんど習い性になっているとでも言うべきか、ごく自然に人形の服の乱れを直したり髪を整えたりしながら金糸雀はふんふんと頷いてみせた。
「あの剣……大分デンジャラスな感じの代物だったけど、持ち主に返しちゃったのね」
 自分のことを殺してくれと言わんばかりじゃない、と金糸雀は呆れた。
「危険物を自分で持ってるよりは安全だと思ったのかしら。どっちにしても水銀燈らしくない弱気ね」
 これから恐らくアリスゲームも大詰めに入って来るのだろうに、使えそうな物を手許に置いておかないというのは不思議といえば不思議、弱気の現われと言えばそうとも言えそうだった。
「ゲームを諦めたわけでもなさそうなのに、……よくわかんない心理かしら」
 金糸雀は一つ息をついて、人形を人形棚の端に座らせた。なるべく視線は横に動かさないようにする。青色LEDに斜め下から照らし出されている大小さまざまなドールの姿は、怪奇物が苦手な真紅でなくとも目が冴えて眠れなくなる程度には不気味なのだった。


「ただいまー……」
 声を掛けてみたものの、部屋の中には気配はない。
「まだ帰って来てないみたいだな」
 少年は玄関先の蛍光灯を点けながら、後ろに続く小さな影に、どうする? と振り返った。
「マスターに許可を貰ったから……迷惑でなかったら、待たせて貰っても良いかな」
 蒼星石はいつもの服装に着替えているものの、硬いままの表情で少年を見上げる。少年はいいよと笑って、手に持った蒼星石の鞄を下駄箱の上に置いた。
 少年もご相伴に預かった夕食の後、どうしても水銀燈に確認したいことがあるから、と蒼星石は結菱老人に頼み込んで少年と一緒に彼の家に行く了解を取り付けた。老人は意外そうな顔をしたが、微笑を浮かべて頷いた。
「お前が私に頼みごとをするのは初めてだ。よほど大切なことなのだね」
 その事実に気が付いた蒼星石がびくりとして顔を上げると、老人は若干照れくさそうな顔をしながら彼女の頬を手で触れた。
「行ってきなさい、後は私一人で問題はない。少し時間を潰して、眠るだけだ」
 そして少年を何か言いたそうな目で見詰め、少年が訝しげな顔をすると、苦笑して自分から視線を逸らした。
「蒼星石をお願いする」
 少年はその言葉の大仰さに違和感を持つこともなく、真面目な顔になってはいと大きく頷いた。蒼星石も──普段なら言葉の裏まで読んでしまったかもしれないが──許可が下りたという安堵だけを感じて、ありがとうございますと頭を下げた。
 そんな大袈裟な遣り取りまでして来たのに、まだ水銀燈は帰っていない。いささか拍子抜けするような展開だった。
 取り敢えず洗濯物を洗濯機に放り込んで、少年はコーヒーとお茶菓子の用意をすることにした。小さな台所から窺うと、蒼星石は椅子に座ったまま、何かをじっと考えながら小さなテーブルの上に視線を落としていた。


「貴女が壊したい予定調和というものが、私が守りたいものの一つだとしたら」
 真紅は言い辛そうに続ける。
「私は貴女と戦わなければならないかもしれない」
「貴女が考えを変えない限りは、そうなるわね」
 水銀燈はにやりとしてみせた。
「そうなれば少し不利だけど、負けてあげるつもりはないわよ」
「私も、戦うことになれば負けるつもりはないわ」
 そう言いながら辛そうにしてしまうところが真紅の気持ちをよく表していた。本来戦いたくないのだ、と言わなくても表情でそれと知れてしまう。
「でも、貴女の壊したいものが私の戦わなければならないものと同じだとしたら、私達はこれまでのように協力できる。そうでしょう、水銀燈」
 だから教えて欲しい、と真紅は視線を逸らさずに言いきった。
「いいでしょう。ただ、その前に」
 水銀燈は振り返り、奥のドアの方に声を掛ける。
「居るのなら出てきてくれないかしら。盗み聞きと監視は貴方の得意技だけど、たまには真紅とマエストロ以外にも姿を見せても撥は当らないわよ、ラプラス」
 ドアはあまりよく手入れされていない蝶番特有の軋み音を立てて開き、兎の剥製の顔を持った紳士は長身を屈めるようにして部屋に姿を現した。
「これはこれは、このような一大転機となるやも知れぬ会合の場にご招待に与り光栄ですな」
 紳士はシルクハットを取り、慇懃に一礼した。
「合従連衡は戦の常。孤独な戦いは美しいとは言え、それだけでは中々に勝ち進めぬもの。孤高の誇りを捨てても逸早く他に先んじてそれを為そうというわけですかな、黒薔薇の御嬢様。おっと、紅薔薇の御嬢様も同じことをお考えでしたか」
「相変わらず口の減らない兎ね」
 やや憮然とした顔で真紅は文句を付ける。水銀燈は肩を竦めた。
「仕方がないでしょう。大事を為すには多少の我慢は必要というものよ」
「そこにお気付きになるとは、いやはや流石に御目が高い」
「お褒め頂き汗顔の至りですわ」
 水銀燈はわざとらしく笑い、作業机の椅子から仕事台の上──あの作りかけの人形が置かれていた場所に飛び乗った。
「私の席で良かったら座って頂戴、貴方にはお似合いの場所かもしれないわよ」
「おお、これは勿体無いお言葉。では、老兎は有難く座らせていただくことと致しましょう」
 紳士はゆっくりとその椅子に腰を下ろした。長身の彼がそこに座ると、服装こそ場違いなものの、まるでこれから人形作りに取り掛かるような姿にも見える。
「流石、昔取った杵柄というやつかしらね。中々堂に入ってるわよ」
「はてさて、何を仰いますやら」
 紳士は全く意味が分からないと言いたげな素振りをしてみせた。
「ささ、これ以上うすのろ兎にお構いなく。本題を御続けくださいませ、御嬢様方」


 雪華綺晶は、見ていた。
 彼女の最も大きな力は、nのフィールドに居ながらにして姉妹やそれに関わる契約者達を即座に探し当て、監視できる能力なのかもしれない。同時に複数の相手を追跡することもできたし、よほど相手が警戒していない限り勘付かれることも殆どない。
 ただ、今まではその能力を十全に活用できたことはなかった。新たな素養を持つ者を探索し、選定する力は、人工精霊を持たない彼女には備わっていなかったからだ。
 一度でも姉妹達と契約を交わした者か精々その縁者でもなければ、彼女はシュプールを追うことができない。糧としてはどこまでもお下がりを受け容れるしかなく、糧を確保するためには現状を打破することも侭ならなかった。
 それを一挙に解決できそうな事件も起きるには起きていた。現実時間でつい二ヶ月ほど前、水銀燈の契約者が自分で自分の心の木を伐り倒したときだ。
 それは彼女が待ちに待っていた始動のときでもあった。しかし、彼女は無惨にも失敗してしまった。
 雪華綺晶は待つのには慣れている。孤独に心が歪みかけ、糧の夢を操るのにうんざりしていても、待つこと自体は苦にならなかった。
 ただ、襲い掛かるのはやはり得手ではなかったのかもしれない。初めてということで冒険を避け、手慣れている糧を捕獲する方法を拡大したやり方を使ってさえ、完全に失敗してしまった。獲物には全て逃げられ、自分の存在も暴露し、手許には敗北感しか残らなかった。
 彼女は姉妹達のように鞄で寝ていない。この百数十年間はずっと一続きの時間だった。それだけに、待ちに待った初手での躓きは大きかった。彼女は萎縮し、暫くは何も行動を起こす気力さえ湧いて来なかった。
 若干彼女に有利なのは、自分から行動を起こさない限りは他の姉妹に存在を掴ませず、安全圏に逼塞していられることだろう。彼女は白茨を引き寄せ、水晶の檻の中で自分の心が癒えるのを待った。
 孤独な待機の中で、彼女の思いは少しずつ変わっていった。少しずつというのは語弊があるかもしれない。彼女にとって二ヶ月間というのは、今までの孤独な時間と比べればほんの短い間に過ぎない。
 その短い時間の中で、彼女は今までにない感情を育てていた。

──逢いたい。

 自分が初めて捕獲できなかった相手。そして、自分が知り得る範囲の探索の結果とその後の水銀燈の振る舞いなどから見て、もう現実世界の何処にも存在しない人。
 最初は恐怖と、おぞましさのようなものだけがあった。根本的に異質で強大な力の片鱗を見せ付けられたのだから、当たり前だった。
 しかし彼は、nのフィールドにしか存在できない亡霊のような雪華綺晶を、自分と自分の契約した相手を取り込もうとした彼女を、倒そうとはしなかった。

  ──ここは痛み分けってことで、大人しく引いてくれないか。あんたを傷つけるのは本意じゃない。

 雪華綺晶は自分が誰にでも受け容れられる存在だとは思っていない。姉妹達のような体も持たず、糧の種類から存在のありようまで全てが異質。そこは長い時間の間によく把握している。
 それでも、彼はそんな彼女を、敵対したにも関わらず赦した。一つ何かが噛み違えば、自分は糧にされ、水銀燈はボディを奪われて永遠に何処か遠くを彷徨することになっていたかもしれないのに。
 考えてみれば、彼女を彼女と認識して声を掛けた人間は、彼が最初でもあったのだ。彼女を作り上げた主と、ゲームの検分役である兎頭の紳士を除けば。

──逢いたい。好意なんてなくてもいい、憎まれても、忘れられていても構わない。もう一度だけ、言葉を交わしたい。

 できることなら、今度はもう少し友好的な形で。
 だが、彼女の追跡能力でも、彼の痕跡はもう掴めなかった。水銀燈の媒介は今も確かに存在しているが、中身はまるで別人だった。その中にはもう雪華綺晶の逢いたい彼は確認できないのだ。
 彼に逢う方法は、今の自分では到底見つかりそうにない。
 見つけられるとしたら、それは──

 思索はそこで打ち切られた。
「……なんということ」
 雪華綺晶は呆然として呟く。思索に囚われて見失ってしまったのか、いきなり姉妹のうち四人が集まっている世界が見えなくなってしまっていた。
 思いはたちまち甘酸っぱい何かから現実に引き戻される。監視を気付かれたのか、と考えてみるが、もしそうであっても、世界を移動するなりしなければ彼女の目から逃れることはできないはずだ。
 その場に居ながら彼女の目を晦ます、そんな芸当ができるのはただ一人しかいない。少なくとも彼女の知る限りでは。
「でも、貴方は何故こんなことをなさるの? これは貴方の権限から逸脱しているのではありませんか……」
 呟きながら、彼女はその意味について忙しく考えを巡らし始める。無論、他の場所を監視するのはその間も怠っていない。彼のことは既に頭の隅に追い遣っていた。
 雪華綺晶は見続けている。機を窺いつづけている。だが、彼女は一つ二つ大きな見落としをしていた。


 部屋に入ってくる際にラプラスの魔が何かをしたのは水銀燈にも分かっていた。むしろ彼がこの世界に顔を出した目的はそこにあって、部屋に入るかどうかはどちらでも良かったのだろう、とも思っていた。
 ただ、彼女としては、偶にはラプラスの魔の前で喋っても良かろうという思いもあった。
 顔を合わせるのを拒否したところで、彼はどうせその気になれば全てを見聞きできる立場なのだ。ならば、この時代で一度くらいは堂々と彼の前で自説を開陳してやろう、と彼女は考えていた。
「私に情報をくれた媒介も、今後の成り行きを全て把握していたわけじゃない。むしろ今の時点になってしまえば、あいつが知っていたことで役に立ちそうなことは精々、雪華綺晶の最初の暗躍の顛末くらいなもの。その話はしたわね」
 三人は頷いた。それはあの人形と接触した日、彼女の契約者の夢の中で聞いていた。
「チビチビが危ないって話だから、翠星石も真紅もチビチビを独りにしなかったですよ。やばそうなときはジュンや泣きぼくろ女に頼んだりもしたです」
 実際のところは束縛を我慢できずに雛苺が脱走して巴に抱かれて戻って来たこともあった。食事の手伝いを一緒にしてみたものの雛苺がどうしても遊び半分のままで、怒った翠星石が雛苺を部屋の外につまみ出したりもした。
 しかし、ジュンやのりも加えた桜田家の一同が、それまでよりずっと雛苺のことを気に掛けているのは事実だった。
「陰険おじじのところにも、たまには顔出ししてやってるんですよ。もっともおじじには蒼星石がずっと張り付いてますけどね」
 蒼星石もあんなおじじに尽くしてるなんて可哀想です、と翠星石は少し不満そうに口を尖らせた。
 そうだろうか、と水銀燈はふと考える。蒼星石に居場所を与え続けているのは結菱老人の方ではないのか。
 融通が利かず、どちらかと言えば付き合いにくい蒼星石を、老人はそれなりに自然に手許に置いてやっているように見える。自分の我侭で命じたことは通らず、蒼星石が壊そうとして結局壊すことができなかった心の影は恐らく今でも度々彼を悩ましている筈なのに、そういった過去を責めることもなく静かに蒼星石と暮らしている。
 彼女がいることは老人の精神の安定にも役立ってはいるのだろうが、彼をマスターと呼んで諸々の事柄を託している蒼星石こそ、彼が契約を解除せずに以前のままを維持してくれたお陰で安定を得ているのだ。
「……で、それがどうしたって言うですか」
 翠星石はラプラスの魔が居ることで少し緊張気味なのかもしれない。先程までは黙っていたのに、少し口数が多くなってしまっている。
 せっかちねえ、と水銀燈は笑ってみせた。
「だから、ここからは私の推測ということ。当たり外れや足りないところは当然あるから、よく考えて聞いて」
 三人は頷いた。どういうわけか兎頭の紳士も茶々を入れず、帽子を机に置いたまま、兎そのものの目で水銀燈を凝視している。
 水銀燈は小さく息を吸い込み、目を閉じた。たかが自分個人の意見ではあるし、以前から仄めかしてもいる。姉妹達の反応は今までのように薄いだろう。それでもその一言を言うには多少の気構えを必要とした。

「アリスゲームは、最後の形が確定している。勝利するべき姉妹も、最後の組み合わせも確定している。一種の出来レースなのよ」


 結菱老人は就寝前のワインを飲み終わり、若干苦労して車椅子からベッドに体を移した。いつもは蒼星石が子供ほどの力で、介助と言うには足りないまでも手伝ってくれていることを強く意識する。
 時間を潰して寝る、と言ってはみたものの、実のところ寝るまでにすることも特になかった。改めて思えば最近は蒼星石がそこにいて生真面目な顔で何かをしているのを見守っているのが楽しくて、彼女が鞄に入る午後九時まで起きていたようなものだった。
 思い詰めているような蒼星石の顔と、それとはほとんど正反対に近い、楽天的で何かといえばチェシャ猫のようににやにや笑っている少年の顔が目に浮かんだ。
 彼が加わり、蒼星石の双子の姉が時折そこに花を添えれば、随分賑やかな暮らしになるのだろうな、と考える。それは実現不可能な遠い幻想ではなく、老人にとってはささやかだが現実的な未来像の一つだった。今でも、毎週末にはほとんど実現してもいるのだ。
 少年は気付いていないようだが、蒼星石は確実に彼に好感を抱いている。老人としては自分の契約した人形が勝手に他人に恋をしたような形だが、不思議と怒りや嫉妬を感じることはなかった。少なくとも双子の弟に最愛の人を取られたと感じたときのような心の動きはない。
 それは、蒼星石の心が自分と深く繋がっているからという安心感から来ている安易な感情かもしれない。だが、少なくとも表面的には、老人は自分の死後に少年に彼女を託すことも考え始めていたし、蒼星石が少年を選びたいのなら契約を解くことも考えのうちに入っている。
 そうだ、まだ寝るには早い。あまり品が良いとは言えないが、時間潰しには悪くないことがあるではないか。

 老人がまた少し苦労しながら車椅子に戻り、LEDライトを持って屋敷の廊下をゆっくりと移動し始めた頃、彼の寝室の鏡からは、細い白茨が助けを求めるように弱々しく伸び始めていた。
 蒼星石か老人が部屋に居れば異常に気付いたかもしれない。だが、それは暫くすると諦めたようにするりと鏡の中に戻ってしまい、後には何の痕跡も残しては行かなかった。



[19752] 蒼い子パートを除いて90行くらい。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/10/25 20:51
暫くまた間が開いてしまうかもしれませんが、今日のところはこの辺で。

珍しく午前中から書き始めたのでちと早めに切り上げておきます。
しかし最近結構文字数増えてるなぁ。
書きやすくなってきたのか、書きにくいから水増ししてるのか。微妙。

題名には深い意味はありません。

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「遅いな、水銀燈」
 ちびちびと口を付けていたコーヒーは二人ともとうに飲み干してしまい、暇潰しに点けたテレビからは午後九時代のドラマが流れ始めていたが、水銀燈はまだ帰宅しなかった。
 もっとも、彼女がこの時間帯に留守なのは珍しいことではない。むしろ寝ているとき以外は必ずと言っていいほど何処かに出掛けていた。
 それが何処なのかは少年は知らない。だが遊びに出ているのでないことは、少々雨が降っても風が吹き荒れていても外出していることから流石に分かっていた。
 一度などは何処でぶつけたのか翼を折って帰ってきたことさえあった。彼女はどうにか窓際に帰り着くと物も言わずにいきなり彼から力を奪い取り、へなへなと座り込む彼の前でゆっくりと翼を広げ、体力だけはあるのねぇと少し感心した風に苦笑して見せた。
 翌日こそまだ痛みが残っているのか外出は控えていたが、その次の日からはまた出て行くようになっていた。
 そのときばかりは、こんなことが何度か続くようなら水銀燈の出向いている場所やら目的を教えて貰わなければ、と流石の彼も気を揉んだ。だが幸いと言うべきか、彼女が怪我をして帰って来たことはその一度だけで、それからも特に変わった風もなく過ごしてきてはいる。
「でもさ」
 これといった話題もなくなって、そんな日常のあらましを蒼星石に語って聞かせた少年は、先程と同じ言葉を口にした。
「確かに今の俺はなんにも言えないし、なんにもしてやれないけど」
 それだけで良かったのかな、と少年は蒼星石をじっと見詰めた。
「俺は……多分みっちゃんさんもそうだけど、まず自分の生活があって、そんで、水銀燈が居るんだよ。でもさぁ」
「……うん」
 蒼星石には彼の言いたいことが分かるような気がした。水銀燈は、記憶を失ってからの彼には多くの時間と力を割いている。
 それは見方を変えれば要らないお節介でもあろうし、水銀燈からすれば自分自身の思惑のためにしている行動でもある。しかし、結果として彼の欠けた記憶と足りない心を水銀燈が「手で」補ってくれていることは事実なのだ。
 彼とすれば、そこに退け目を感じると言うほどではないにしても、お返しをしてやりたいという気持ちは当然生まれるだろう。
「せめて桜田や結菱さんみたく、一日中ずうっと傍に居てあげられたらいいんだろうなぁ」
 あんな風に真剣にいろいろ悩んだり、みんなに頼られるようには成れそうもないけどさ、と少年は頭を掻く。
「……確かに」
 くすり、と蒼星石は笑ってしまう。雛苺と二人で真紅や水銀燈のお説教を受けている彼をつい想像してしまったからだ。
 周囲に何人もの薔薇乙女が群れて、それを彼が上手いことあしらっている様は想像できなかった。むしろ真紅や翠星石にはずっと頭が上がらず、怒られ通しになってしまいそうだ。
 実のところはジュンも日常ではしょっちゅう真紅や翠星石に叱られたり怒鳴られたりしているのだが、そこまでは蒼星石は知らない。彼女の認識では、ジュンは雛苺と翠星石のマスターで真紅のパートナーであり、恐らく翠星石の好意が向いている相手でもあった。
「さっきも少し話したけど、契約というのはそこまで一方的なものじゃない。水銀燈だって、付かず離れずの距離に貴方が居るからこそ実行できている事柄も多いはずだ」

 蒼星石はふと、彼の記憶の中にあった世界での水銀燈の契約者のことを思った。
 柿崎めぐと言ったか、水銀燈は文字通りあの少女のために戦っていた。蒼星石の断片的な知識では、まるで柿崎めぐが水銀燈の全てだったようにさえ思える。
 もちろん境遇の類似や、めぐの心が水銀燈自身の心の琴線に触れたということもあるだろう。二人はとても似通っていた。
 だが、あまりに似過ぎていた契約者は水銀燈の心を虜にし、彼女は病弱で消えてしまいそうなめぐのために戦ううちに余裕を失って行き、しまいには雪華綺晶にその点をつけこまれてしまった。

 それに比べたら、現実の水銀燈は彼というしっかりとした基盤を持って行動できている。知識を受け取ったことは置いておくとしても、今の彼であっても少なくとも帰る場所と安定した力の供給源にはなっている。
 それは、まるで空気のように見えないけれども、空気のように大切なものだった。水銀燈が一貫して大きな余裕を持ったまま行動できているのは、紛れもなく、柿崎めぐでなく彼と契約したからだ。
 最終的に水銀燈にとってどちらのような契約者が良いのかは分からない。病弱で不幸な契約者のために全力を尽くすというのも、至高の少女として成り立つための条件の一つなのかもしれない。ただ、今のような大胆な行動は、少なくとも彼の存在が確立してあってこそ可能なことだった。
「水銀燈も分かっているはずだ。貴方と契約したからこそ、今の環境があるということが」
 そして、巡り巡って自分が今ここに居るのも、元を辿れば水銀燈の契約者が少年だったからでもある。
「今のままでも、貴方は充分に水銀燈のマスターとして成り立っている。自信を持って」
 蒼星石はうっすらと微笑んでみせた。


「出来レース……とは、いささか通俗的かつ野卑な表現ですな」
 兎頭の紳士は小首を傾げてみせた。
「仮に勝敗が決まったゲームだとしても、少なくとも其処に参加する貴女方御嬢様達はゲームの先行きを御存知ない。所謂八百長の加担者達とはその点が全く異なりますな」
 彼等は分かった上でゲームに細工をするわけですから、と紳士は慇懃な態度を崩さずに言う。水銀燈はそれを予期していたと言いたげににやりと笑った。
「いいえ。私達は所詮プレイヤーではない。プレイヤーに好きなように動かされる駒に過ぎないのよ。動きはサイコロの出目で決められてしまうし、僅かばかり座りが悪くて、ときどきはみ出したり盤から零れ落ちそうになったりするけどね」
 そして、私達を動かしているプレイヤーは、と水銀燈は部屋の天井を見上げる。
「たった一人。お父様だけ。彼の指先だけで私達はあっちへ動かされたり、こっちに飛ばされたり。そして、最後まで手順は決まっているのよ。
 出来レースと言って語弊があるなら、一人遊びのゲームと言ったところね。ただ、中途でそれぞれの駒の動きをサイコロに委ねているだけの」
 紳士はなるほどと顎に手を遣り、それ以上の追求をせずに水銀燈の言葉を待つ態勢に戻った。
「散々サイコロを振り続けて、それぞれの駒の取った得点がある程度以上貯まったら、プレイヤーはゲームを次の局面に移す。駒同士を上手く組み合わせて戦わせ、ある駒に他の全ての駒の得点を集める。そして、得点が最終的にある基準を超えたら、アリスが誕生するかどうかサイコロを振って、誕生すればゲームはプレイヤーの勝利になる」
「もし、誕生しなかったら……?」
「ゲーム自体が失敗だったことになるわね。目的を達成できなかったのだから。お父様はまた別の方法を考え始めるのでしょうよ。多分、今度は二度も失敗した私達のような質の悪い駒に頼らない方法をね」
 真紅は頷いたのか俯いたのか微妙な角度に顔を下げた。質の良くない駒、というのは耳が痛いが、反論しようのない事実だった。
 彼女達は皆、一度はアリスとなることに失敗しているのだ。作られたときにアリスたれと望まれ、生まれ出てすぐに失望させたのだから。
 造物主たる人形師が薔薇乙女をゲームに臨ませたのは、言わば廃物利用のようなものだった。個々の資質ではアリスたり得ないと分かっているモノを、掛け合わせるか競わせることで何かの資質が生まれるのではないかと考えたのだから。
「話を戻すわ」
 ぱんぱんと水銀燈は手を叩いた。真紅ははっと顔を上げる。手を叩いたときの水銀燈が誰に似ていたか、漸く思い出したのだ。
 それは、恐らく偶然の一致だろうが、ラプラスの魔の仕草にそっくりだった。

「勝ち残る姉妹は、最も思慮深く、最も慈愛に満ち、最も高潔で、そして姉妹から最も慕われていなければならない。つまり、真紅。貴女がそれよ」

 聴衆に驚きの反応は見受けられなかった。そうだろう、と水銀燈も予期していた。
 これまでアリスゲームを主導してきたのは、悪役であり敵役でもある自分だった。だが、最も自分に狙われ、敗北も経験し、唯一他の姉妹を従え、常に受け身ではあるがアリスゲームについて最も思索を巡らしている真紅は主役に相応しい。
 更に彼女はマエストロたる桜田ジュンと最初に契約してもいる。現状ではそれがどう今後のゲームに反映されるのかまでは分からないが、桜田ジュンと真紅の関係が特異なのは間違いのないところだった。
 少なくとも彼は一度、真紅の戻らないはずの腕を取り戻し、そして元通りに繋げている。天賦の才を持った者が偶々契約者としての繋がりを持ったわけでもなければ、真紅のことを熱烈に愛しているただの契約者というわけでもないのは明白だ。
 そうした数々の要素を備えた彼女以外に勝ち残る者が居るとしたら、それは常に真紅を襲撃する側である水銀燈しかいない。だが見えない手でゲームが制御されている以上、水銀燈がアリスになるという可能性は無いだろう。
 そのことに気付いたとき、水銀燈は自分が冷静にその考えを受け容れていることをやや意外に思った。本来、激昂してあまりにも理不尽だと叫び出し、あるいは何処か暗い場所に引き篭って膝を抱えて全てを呪っても良いような話だった。
 しかし彼女はどちらの行動も取らなかった。
 忍耐が感情を上回ったわけではなかった。ただ、一抹の寂しさと虚しさが吹き抜けていっただけだった。
 あるいはずっと以前から、彼女は知っていたのかもしれない。それこそ媒介の記憶を知識として得たり、そもそもこの時代で真紅と何度も戦ったりする前から、そんな気配があったようにも感じている。
 詰まるところ、それもゲームの進行者による制御の一環ということなのかもしれない。何をやってみようと、その行為までもが適当に処理されてしまうのかもしれない。
 だが、彼女はそれでも抗ってみたいという気持ちを抑えようとは思わなかった。それもまた、制御された結果の思考なのかもしれないけれども。

 今更のことに思いを馳せていた時間は、恐らく数秒にも満たなかっただろう。周りにはまた勿体ぶっていると見えただけかもしれない。水銀燈はふっと息をつき、気持ちを切り替えて言葉を継いだ。
「そして、それに対抗する者も決まっている。それは雪華綺晶」
 どういう経緯を辿ることになるかは未だ見えてこない。ただ、最後に残る駒──真紅の思惑通りに進めば真紅に従う姉妹達も残ってはいるのだろうが、それはもう真紅という駒の付属物に過ぎない──は、真紅と雪華綺晶でしか有り得ない。
「これも当然ね。雪華綺晶の力は私達の基準からすれば異様に強い。今は最初の躓きのせいで消極的になっているようだけど。勝者の力量を試す最終的な障害、としては文句の付けようがない存在よ」
 一旦自分の手番になってしまえば雪華綺晶の能力は他の姉妹達のそれとは比較にならないほど強大で、姉妹を攻撃するのに都合が良い。だが以前金糸雀が指摘したように、いかに姉妹と戦うには有利であっても、彼女は自分の糧を得るために他人のお下がりを拝借するしかない立場でもある。
 そこに水銀燈が付け入った隙が存在しているわけだが、それが上手く行くかどうかは別として、本来最後の敵として設定されているのは雪華綺晶なのだろう。強大な力を持ちながら最後の最後まで行動を起こせないというのは、逆に見れば最後の敵として設定されているからだとも言える。
「最後は……どっちが勝つんですか」
 翠星石は真紅と水銀燈とを交互に見ながら、縋るような声音で尋ねた。彼女としては真紅が勝つと言い切って欲しいのだろうが、水銀燈はそこで優しい嘘をつく気はなかった。

「どちらが勝つかは、正直どちらでも良いのかもしれないわね。真紅が勝てば雪華綺晶の力を真紅が取り込み、雪華綺晶が勝てば真紅を捕食して……。
 ああ、他の姉妹がまだそこにいても、もちろん全員、全部をね。
 恐らく、どちらの場合も全部のローザミスティカが集まれば雪華綺晶の隠された能力が発揮されて、成功すればアリスが形成される。または、失敗して全てが無に帰す。
 どちらにしても長きに亙ったアリスゲームの終わり、予定調和というわけ」

 それでも、最後に勝利するのは真紅だろうという漠然とした予想が水銀燈にはあった。それは真紅が付き合いが長い、若しくは自分に近しい存在だから勝ち残って欲しいというような意味合いではない。
 彼女達を作り上げた造物主が、いかにも雪華綺晶を可愛がっていないように思えるからだ。そうでなければ、雪華綺晶だけを孤独な場所に独りで半ば放置するような仕打ちをする理由が分からない。
 尤もあの人形師は「勝手に動き出した」自分の第一ドールを畏れ、本来最も愛していたそれを最後の最後まで不完全な姿のまま戦わせていた。同じように、彼女達の造物主も表面上は雪華綺晶を冷遇していながら内心は最も愛しているのかもしれない。
 だが、今のところそれはどちらであっても無関係な話だ。
 水銀燈が気に入らないのは、造物主の内心の機微ではなく、その思惑がゲームとして表出している部分なのだから。

「だから、私はその構図をぶち壊してやりたいのよ」

 そんな重いはずの言葉を、水銀燈は軽く肩を竦めながら口にしてしまった。
 すぐに自分の仕草に気付いて苦笑する。意外に気楽に言い切れたことに自分自身途惑ってしまったのだ。

 暫くの間、誰も口を開かなかった。
 水銀燈には少し想像しにくいことだったが、このときの三人は黙ってそれぞれの思いに沈んでいた。表立って何の反応も返していなくとも内心では考えを纏めていることもあるのだ。
 沈黙を破ったのは翠星石だった。
「それは……」
 翠星石はまた泣きそうな表情になっていた。彼女の感受性が強いのは知っているが、何故泣く必要があるのだろう、と水銀燈は訝しく思う。全てが終わると告げられたからか。真紅の言う「みんなでアリスを生む」という結末を否定するような言い回しにならないように注意してみたのだが。
 言葉に詰まったようになりながら、翠星石は続く言葉を搾り出すように口にした。
「雪華綺晶と戦う前に、真紅を倒してやる、ってことですか……?」
 否定を引き出すための確認か、と水銀燈は軽く納得した。泣き出しそうな理由はまだ明確には分からないが、真紅が戦いに巻き込まれれば翠星石も無関係ではいられない、恐らくその辺りだろう。
 彼女はここ二月ばかりの平穏な日常を、多分どの姉妹よりも謳歌している。だが、それだけにアリスゲームというものから逃れられないことも了解してはいるのだろう。
 その日常が壊れるかもしれない。それは翠星石にしてみれば半ば恐怖に近い感覚かもしれなかった。
「それも考えたけど」
 水銀燈は真紅を見詰め、にやりと笑った。真紅は表情を引き締め、じっとこちらを見ている。
「もし仮に番狂わせが起きたとして、私が全員を手懐けるか屈服させたとしても、雪華綺晶が残っている限りは結果は同じになる。ただ、雪華綺晶と対決するのが真紅になるか私になるかの違いでしかない」
 単純に勝てそうもなかった、というのもあるけどね、と水銀燈は笑ってみせる。

 ただ、真紅から見ればそれは少しばかり見え透いたリップサービスだった。
 媒介から知識を得た時点で、水銀燈が真紅に勝つ方法は幾通りもあったはずだ。なんとなれば全てを見越していることをもっと大っぴらにアピールして真紅を心理的に降伏させ、それこそ真紅が雛苺にしたように従えてしまっても良かっただろう。
 先程は何かがあればローザミスティカを翠星石に渡すと表明してみせたが、今の水銀燈と直接戦って敗北すれば彼女のローザミスティカは素直に水銀燈の元に行くだろう。恐らく蒼星石や金糸雀もある程度納得して水銀燈の一部になるのではないか、と真紅は思う。
 実際、真紅は今現在でも心理的には水銀燈にほぼ負けてしまっている。アリスゲームの先行きに対する見通しの深さは兎も角として、その結末に対するドライな予測が真紅にはできなかった。どこかになけなしの希望を求めてしまっているのだ。
 永遠に近い、ドールとしての成長のない生に絶望しながら、恐らく目前に迫ったアリスを生むゲームのタイムリミットからは救われたいと何処かで思っている。そこが彼女の自覚していない二律背反なのかもしれない。

「じゃあ……水銀燈はゲームを止めちゃうの? 壊しちゃうの?」
 雛苺は何かに脅えているような声で呟くように言った。
「ゲームが止まらなければ、最後は全部同じになっちゃうんでしょう?」
 水銀燈は軽く首を横に振った。
「アリスゲームを完遂させる。アリスに成る。それは私の本能みたいなものよ。正面からそれに背くことはできない」
 たとえそれが不可能だと規定されていても、という言葉だけは水銀燈は口に出さなかった。少しばかりナルシスト過ぎる台詞のように思えたからだ。
「ただ、その過程を弄ってやる。最後の組み合わせが最初から決まってるゲームなんて、面白くないでしょう? プレイヤーさんの面白さのツボは知らないけど、駒であり、同時に一番ゲーム盤に近い観衆でもある私は出来レースなんて見ていて面白くないのよ。だから、そこを壊してやるの」
「その標的が、雪華綺晶……」
 真紅は少し眉を寄せる。複雑な気分だった。
「そういうことになるわね」
 水銀燈は口の端を吊り上げた。
「案外、私のこの行動も予め仕組まれている流れの一つかもしれないけどね」
 そこまで制御されてるならどう足掻きようもないわ、とにやりとする。紅い瞳には獰猛な光が宿っていた。
「仕組まれて制御された考えでも構わない。雪華綺晶をこっちの土俵に引き摺り出して倒す。それが今の私の目標ってことになるかしら。
 末妹を先に倒したことでゲーム全体が止まろうと、壊れようと知ったことじゃない。
 それが私の望んで挑むアリスゲームなんだもの、貫かせて貰うわ」



[19752] 祝Arcadia復活。130行
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/10/30 19:30
困ったときのメイメイ。

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 ぱち、ぱちと間隔の出鱈目な拍手が響いた。
「断片的な知識がおありとはいえ、そこまでお考えになっているとは。やはり長姉たる方の御考察ゆえの鋭さと言えましょうか」
 兎頭の紳士は興が乗ったのか、喋りながらも暫く手を打っていた。
「しかしながら、それとても最終的に同じ結末を生み出すという意味では、少々不徹底の気味があるのではありますまいか」
 紳士はそこで漸く手を机の上に置き、表情と視線の行き先のよく分からない真ん丸な目で真紅と水銀燈を交互に見遣った。
「どのような証明、どのような定理を使ったところで、用意された定数と最終的な回答が同じでは畢竟式の優劣を競うだけに他なりません。それも大切ではありましょうが、予定調和を壊すと言うには聊か足りてはおりません。新公式を以て旧公式の不備を糺す、予定調和という言葉で言い換えれば予定調和を乱す。その程度でありましょう」
 水銀燈は感心したような顔になって頷き、真紅は目を瞬いた。
「貴方がどの口でそんなことを言うの、ラプラス。自分をゲームの審判者と言っていたのは貴方自身ではなくて?」
 それ故に彼はどの姉妹とも付かず離れず、に徹していたはずだ、と真紅は思っていた。
「審判がゲームに口出しをしては、ゲームが成り立たない。そう言いたいの?」
 水銀燈はくすりと笑ってみせた。
 真紅は知らないのか、知ることのないようにされているのだ。ラプラスの魔こそ、一番目につきやすい「からくり」の体現者だった。

 彼が現れるのは、決まって真紅かジュンが窮地に陥ったとき、またはジュンに真紅のために決断を迫るときだった。
 二人には飄げた振舞いと持って回った口調で対しているために──彼等の潔癖な視点からは、どうしても好きになれないタイプの性格に見えることもあって──嫌われているが、彼がいなければジュンが最初にnのフィールドに入った折に無事に戻ることもなかったかもしれないし、真紅の腕がジュンの手元に戻ることはほぼ確実になかっただろう。
 彼がここまでの立場を変えない限り、恐らく真紅以外の姉妹がアリスゲームに勝利することは有り得ない。本人達がそれに気付いていないだけの話だった。
 皮肉なことに、最近になって彼が目立って活動しなくなっているのは水銀燈と彼女の契約者のせいでもあった。
 漫画の世界のとおりに事態が進んでいれば、彼は雪華綺晶についての情報を真紅と翠星石に与え、囚われた彼女達の元にジュンを導き、ほぼ勝利を確定させていた雪華綺晶の手から姉妹の過半を救い出すヒントまでも与えたはずだ。それが必要ない状況になってしまっているのは、水銀燈が契約者から得た知識を活用して極力雪華綺晶に手番を回さないように立ち回ったからだ。
 逆の見方をすれば、水銀燈はラプラスの魔の仕事を肩代わりし、または手伝っただけと言えるのかもしれない。少なくともこれまではそのとおりだった。
 とはいえ、ここから彼がどういう立ち位置でどう行動するのかまでは分からない。
 水銀燈は自分の今後の計画を考えるときは彼の影響を考慮しないことにしていた。最大限の影響力を行使するだろうと想定すると、薔薇乙女達がどんな意思を持って行動するとしても、ゲームはそれとは無関係に彼の手の上で進んでしまうことになるからだ。
 それは悪い意味で思考停止であり、ある意味で自ら負けを認めているようなものでもあった。だが彼の真の意図が読めない以上、一方的に当てにしたり、敵に回ると決め付けておかしな作戦を立てるのは好ましいとは言えまい。

「残念だけど、どうやら私達のゲームの検分役は役目に忠実とは言えないようよ。適当な代わりが居るなら解雇した方が良さそうね」
 水銀燈は口の端を吊り上げながら、そんな言い方をしてみた。直接には今の発言を指しているが、遠回しにラプラスの魔の行動全般を示してもいる。真紅が後で冷静になったときに思い出せば、何等かのヒントになるかもしれない。
 真紅がラプラスの意図に気付かないのならそれはそれでいい。下手に頼ってしまったり、逆に頑なに拒絶したりするよりは、正体不明の謎紳士としておく方がまだ良いのだろう。
 誰にも頼らずに自分の力で道を切り開いていくのはアリスの基になる真紅には必要な資質なのだろうし、彼の言葉を一々拒絶していては、苦境に落ちたときに敗れてしまいかねない。雪華綺晶や、そして水銀燈に。
「これは失敬、言葉足らずでしたかな」
 水銀燈の意図など気付かない風に、ラプラスの魔は小首を傾げてみせた。
「不肖この兎、御嬢様達のゲームの遂行を阻害するようなことは致しません」
 なるほど、と水銀燈はにやりとする。彼は特定の誰かに荷担することまでは否定しないのだ。
「ただ、聊か腑に落ちないのでして。予定調和を壊す、という言葉は激越なもの。そこには白薔薇の御嬢様を主敵とするという方針だけではない、隠された意図を篭めていらっしゃるようにも思えまして」
 ラプラスの魔は兎の目で水銀燈を見詰める。それは彼女の採りたい行動を概ね理解した上で、ここでそれを吐き出してしまえと言っている視線だった。
 水銀燈は真っ直ぐに視線を返した。ラプラスの魔の顔が兎の剥製でなく、元々の人間の顔に戻ればいいのにと思う。こういうときくらい、少しは表情を作ってもいいのではないか。
 今となってはそれこそ繰言か、と息をつく。案外、自分もあの媒介と同じくらい、いや、時間の長さから言えばもっと見苦しく昔を引き摺っているのかもしれない。

──メイメイの見立ては間違っていなかったということね。

 その意味では、水銀燈が彼に抱いていた苛立ちは同属嫌悪のようなものだったのかもしれない。
「隠れた意図、ってほどじゃないけど」
 水銀燈は真紅、翠星石、雛苺と順に視線の先を移した。
「雪華綺晶が居ないアリスゲームは、時代を越えて継続できると思う?」


 テレビの画面の異常に気付いたのは、眠そうな眼つきで手持ち無沙汰にそれを眺めていた蒼星石ではなく、その隣でテーブルの上に課題を広げながらちらちらとそちらを見ていた少年だった。
「あれ? アンテナおかしくなったかな」
「え?」
 蒼星石がぱちぱちと瞬いて少年の顔を見、その視線の先に注意を戻したときには、既に画面はブラックアウトし、音声も途切れていた。
「ああーっ全く、夜中だってのに……」
 少年は額に手をやって立ち上がり、なにやら文句を言いながらテレビに歩み寄る。
「待って」
「え?」
 少年は思わず振り向く。その背後で、テレビ画面は池に小石を投げ入れたように波打ち始めた。
「離れて! 入り口が開く。nのフィールドの」
 蒼星石は椅子から飛び降り、彼とテレビの間に走り寄りながら人工精霊を呼んだ。間髪入れずに青い光球が、半ば開いていた彼女の鞄から飛び出して脇に控える。
 少年は事態を把握したというよりも蒼星石の剣幕に押されるようにして、テーブルまで戻った。戻った、と言っても僅か数歩の距離に過ぎないが、兎も角も彼女は少年とテレビの間に割って入る形になった。
 画面は激しく波打ち、すぐに銀色の光の球がそこから飛び出した。
 蒼星石は一瞬だけ唖然とし、詰めていた息を吐いて苦笑する。それはよく見慣れた相手だった。
「……なんだ、メイメイじゃんか」
 脅かしやがって、と少年は銀色の球を突付く真似をした。
 二人の周りをメイメイはいつもの調子でぐるりと一周し、少年の面前に停止すると何かを訴えるようにチカチカと瞬く。頻りに何かを伝えたがっているような按配だったが、生憎と少年は人工精霊とは会話できなかった。
「ごめん、何言いたいのかわかんない」
 少年はいつものとおり、片手で拝むような仕草でとても申し訳なさそうに謝る。メイメイは困ったようにぐるぐると回ってみせ、蒼星石の前で止まった。
 案外いいコンビなのかもしれない、と蒼星石は頬を緩めかける。だが、メイメイからの念話を受け取るとその表情は硬くなった。
「──分かった。僕が行こう」
 脱いでいた帽子を被り直し、蒼星石は少年を振り向く。二つの人工精霊も彼女の動きに合わせてくるりとこちらを向いた。
「nのフィールドに入らなくてはならなくなったんだ。お風呂場の鏡を使わせて貰っていいかな」
 少年はこくりと頷いたが、続けてにっと笑った。
「何だかわかんないけどさ、俺も行くよ」
 眉を顰める蒼星石に、少年は屈んでひょいと手を伸ばす。彼女が何気なく手を握ろうとすると、彼はそれを素早く躱して両手を彼女の腋の下に差し入れ、上体を起こしざまひょいと一挙動で彼女を肩に担ぎ上げてしまった。
「これで一人じゃ行けなくなっただろー」
 まるで若い父親が小さな子供にするような按配に右肩に後ろ向きに蒼星石を担いで、してやったりといった顔で彼はにやりとした。ただそこで、実は水銀燈に一回やって怒られたんだ、と情けなさそうに付け加える辺りが彼らしい。
 蒼星石は不意打ちされた気分の悪さを隠そうとせず、仏頂面を作った。もっとも、彼からはどんな表情をしていても見えない位置でもある。
「乱暴すぎるよ。何処か関節が抜けたら貴方のせいだ」
「そうなったら桜田に頼むって」
 少年は朗らかに答える。言った相手と状況によっては気分が沈みかけそうな言葉だったが、蒼星石は何故か軽い言葉で返すことができた。
「人形だと思って気楽に言ってくれるね」
 それは、少年の次の言葉が予期できたからかもしれない。
「人間だったらお医者に頼むだけの違いだよ、おんなじおんなじ」
 彼女の思っていたとおりの台詞を言いながら、彼は彼女を担ぎ上げたまま、調子付いた動作でくるくるとその場で一回転してみせた。
「行ってもいいだろ? どんな用件か知らないけど、メイメイは元々俺に頼みに来たんだしさ」
 いいだろ? と少年はぽんぽんと蒼星石の背中を軽く叩く。まるきり子供扱いだね、と蒼星石は苦笑した。
「僕は媒介なしだから向こうに長くは居られない。何かあったら貴方の身の安全が保証できない」
「そんなもんなのかぁ」
 水銀燈は一日中でも入ってられるらしいけど、と少年は少し意外そうな声で言い、軽い調子で尋ねる。
「なんか物騒な話なのかい」
 蒼星石は一瞬躊躇してからメイメイを見詰め、小さく頷いて口を開いた。
「大した事じゃないといいんだけどね。とにかく、少し急いだ方がいいようだ」


「雪華綺晶の役割は、直接操作しづらい媒介達のうち、特にゲームの遂行上危険な──薔薇乙女にもう一度逢いたいと願い、ともすればそれを実行しかねない者を選別し、その意識を自分のフィールドに取り込んで糧とすること。糧になった危険分子は衰弱して果てるまで現実世界で一切行動できなくなる。視点を変えればそんな言い方もできるわね」
 水銀燈はにやりと口許を歪めた。
「さっきも言ったけど、別れてすぐにはさして問題がない媒介達でも、年を取れば心は弱り、昔を懐かしんで薔薇乙女を求めることもあるでしょう。それらが暴発し、おおっぴらに捜索を始めたら、ローゼンメイデンはこれまでのような『幻のアンティークドール』という地味な存在ではなく『謎の生きた人形』として様々な方面から狙われる。
 例えばこの時代なら、サブカルチャー好きの連中や売り上げ第一の番組企画会社や雑誌がまず放っておかないわね。ローザミスティカを無限機関と考えて国家レベルで捕獲に乗り出すところもあるかもしれない。もう、アリスゲームなんてちゃちなお芝居どころの話じゃなくなってしまう」
 真紅は厳しい表情のまま、じっと水銀燈を見詰めている。それは彼女が漠然と考えていたことでもあった。
「薔薇乙女は、間違っても自分からはそういう行動を取らない。でも媒介達の行動までは信用できないし、制御することもできない。
 それを補うためにお父様が掛けた保険の一つが雪華綺晶の立場というわけ。もしかしたら末妹自体が最初からそのために作られたのかもしれないけど、流石にそれは考えたくないわね」
 真紅は目を見開き、翠星石はぶんぶんと首を振った。
「その保険を除いてしまって、次の時代にゲームを持ち越させたらどうなるかを確かめたいというのが貴女の考えだと言うの?」
「無茶苦茶です! 最近少し優しくなったから見直してやったところでしたのに、今度は姉妹全員を危険に晒したいなんてとんだテロリストもいいとこです」
 水銀燈はわざとらしく溜息をつき、話を聞きなさいと肩を竦めた。
「どっちが無茶苦茶なんだか。……いい? そういう保険が切れてしまったら、いい加減長い時間をかけて続けてきたゲームの主宰者はどうするのか。彼の目から見てゴールは目前、後は最終ステージを残すだけなのよ。一番簡単で確実な方法は何だと思う?」
「そりゃ、保険を使わなくてもいい方法でゲームを終わらせてしまえばいい、ですけど……」
 翠星石はもごもごと答える。水銀燈は軽く頷いた。
「そう。ゲームのルールを変えて続行に支障が出なくするか、ゲームをこの時代、もっと言ってしまえば今いる契約者の最初の一人が死ぬ前に確実に終わらせるように仕向けるか。そのどちらかになるわ」
 そして、前者はこの段階では殆ど意味がない。契約者に頼らなくてもいいように姉妹達を変えるのは無理だし、新たな契約者回収のシステムを組むのも大変過ぎるだろう。
 そこまでするなら負けを認めて薔薇乙女とアリスゲームという仕組み自体をすっかり廃棄し、全く新たなアリスの生成方法を模索する方が生産的かもしれない。
「いざとなったときに彼がどう仕組むのかは知らない。でも、彼はそこで予定調和として描いていたシナリオを一旦捨てざるを得なくなる。
 雪華綺晶を先に倒すことに、私はその程度の影響力はあると見ているということよ」
 それだけよ、と水銀燈はラプラスの魔に視線を投げた。兎顔の紳士は珍しく軽口も叩かず、ふむ、と短い毛に覆われた白い顎に白い手袋を嵌めた手を当てた。


「何度来ても薄気味悪い感じがするな、ここ」
 そんなに何度も来ている訳でもなかろうに、少年はそんな言い方で周囲を表現した。
「碌に何も見えないし、何も聞こえて来ないなんてさぁ。風は吹いてるのに風切り音も無しとか……」
「それでも、ここには無数のイメージが交錯している。無意識の海の底……」
 漫画の世界では蒼星石自身が長いこと彷徨っていた場所。そこに、他の姉妹の契約者が来たこともあったらしい。それが誰なのかは詳しく知らないけれども、漫画の主人公は桜田ジュンだったから、多分彼なのだろう。少なくともこの少年ではない。
「何も視えないし聴こえないのは、恐らく貴方の防衛本能のようなものがシャットアウトしているからだ。記憶を失っても、貴方の根底には自分を守ろうとする強い力が働いているのだろう」
 いや、と蒼星石はふと思う。記憶を失くしてしまった今の方が、彼は自己をはっきりとした形で捉えることができているのではないか。
 あの日、水銀燈のボディを現実世界に連れ戻しながら、蒼星石はちらりと彼の存在を感じ取っていた。世界樹の上から姿を消した彼が、無意識の海の底で奔騰する記憶の濁流に揉まれるイメージがあった。
 恐らくそこで彼は雪華綺晶に捕獲され、彼女によって自分の昔の記憶の世界に引き込まれたのだろう。
 そのときの彼は明確に助けを求めていた。流れに揉まれ、呑まれ、押し流されていた。
 同じ無意識の海にいながら、今の彼はそれをただの風としか感じていない。感受性が鈍い、と考えれば残念なことだが、個として確立できていると考えれば水銀燈の苦労の甲斐があったと言うべきかもしれない。
 どちらが良いとは言えない。蒼星石は気分を切り替え、二人を連れて来た依頼主に声を掛けた。
「さあ、導いておくれ、メイメイ」
 メイメイは合点承知とばかり、くるくると二度ばかり回ってから長い弧を描いて飛び出した。蒼星石は少年を促してそれに続こうとしたが、彼が逆に蒼星石の左手を取った。
「よっしゃ、こっちも行っくぜええ」
 先程、碌に何も無いと言った場所で、彼はどういうわけか勢いを付けてメイメイの方に向かって飛び出した。ぐいと引っ張られた腕に痛みを感じるほどだった。もちろん錯覚に過ぎないが、観念の世界であるここでは、腕がもげたと思えばそれは現実になってしまうかもしれない。
「凄い勢いだね」
 そのことは咎めず、蒼星石は少年を見る。ちらりと振り向いた彼は無邪気で得意気な顔になっていた。
「そりゃ、あったりまえ。全身のバネ使ったもん。このままメイメイに追いついてやるぜ」
「ふふ……」
 上下が無いとかそもそも足懸りが無いとかいう細かいことは考えていなかったらしい。この場合はそれで正解なのだが、蒼星石にはそれがなんとなく可笑しかった。
 彼には恐らく、そよ風が吹き抜けているだけの空間なのだろう。だが、蒼星石にはあらゆる方向から押し寄せる奔流の中を、それを押しのけて進んでいるように見える。
 握り合った手──と言っても蒼星石は彼の人差し指と中指を握っているだけだが──に、力を込める。道案内が居るというのに、ここで手を放したら彼に置いて行かれそうな気がする。それほど彼の前進は、いや彼女の目から見るそれは突進だったが、力強く、速かった。
「しっかり掴まっててくれよ。あいつぅ、またスピード上げやがって」
「うん」
 片手で彼の指を握り締め、もう片手でシルクハットを押さえながら、蒼星石は微笑んだ。メイメイの判断は正しかったかもしれない。彼女よりも彼の方が、メイメイの依頼を遂行するには合っているのかもしれなかった。



[19752] 3日も待たせて240行なのだわ。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/11/05 00:26
オディール「アナタニモ、ちぇるしぃ、アゲターイ」

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 兎頭の紳士は暫く考え込んでいた。
 本気で考え込んでいるなら彼にしては珍しいことだったが、考え込んでいるポーズを取っているだけなのかもしれない。それならばいつもの彼以外の何者でもなかった。
 やがて、彼はひとつ頷いて水銀燈に視線を向けた。
「なるほど、そういうことですか」
「ええ」
 水銀燈は軽い調子で肯定する。何か言いたいなら好きに言え、と思った。どうせ、彼は水銀燈の本心などお見通しなのだろう。
「だから、今は他の姉妹にかかずらわってる暇はないの。向こうから出て来ない以上、あの末妹が取れる手段を減らしていって、いずれはこちらの有利な場所に引き摺り出して叩く」
 水銀燈はちらりと真紅を見遣る。さあ言ったわよ、と言ってやりたい気分だった。
 自分が示した方針が彼女の求めるアリスゲームに──彼女が守っていたい何かに抵触するのであれば、この場で即座に戦いになるかもしれない。
 いや、それはあり得ないことか。ここは媒介のいない真紅達にとって不利な場所だし、自分は今のところ真紅と戦う気分にはなれない。
 真紅はまた目を伏せ、何かを一心に考えている。考えているというよりは悩んでいるのかもしれない。
 ややあって、その視線が水銀燈に向き、彼女は躊躇いがちに口を開いた。
「今は」
 考えを纏めたときの彼女らしい、声こそやや小さいがはっきりした口調だった。
「貴女と敵対するつもりはないわ。少なくとも貴女から仕掛けて来なければ、私には貴女と戦う理由がないのだもの。それはずっと前から同じだけれど」
 最後の一言に若干の非難を込めてみせ、でも、と真紅は僅かに間を置いた。
「貴女の企てに協力することもできない。雪華綺晶から攻撃されるまでは、私は雪華綺晶とも戦う理由がないのだから──」
「──白薔薇の御嬢様は現実世界に出ることを願っていらっしゃる。それは皆様既にご存知でしたかな」
 ラプラスの魔は妙なところで口を挟んだ。
 他の四人の視線が兎そのものの顔に集まり、それぞれが思い思いに肯定の意思を伝える。ラプラスはほうほうと感心して見せ、右手の人差し指を立てた。
「しかし、そのためには器が必要となります。何故なら彼女は幻。実体を持たず、nのフィールドにしか存在し得ない」
 水銀燈は腕を組んだ。確かにそのために雪華綺晶は姉妹のボディを狙っている。もっとも、今のところ実際に不意を衝かれ、身体を奪われかけたのは水銀燈だけだが。
「五番目のお嬢さん」
 ラプラスは少し間を置き、珍しい呼び方で真紅に声を掛けた。
「慈悲深い貴女は、妹の切なる願いを叶えて上げたいと思いませんかな」
「……どういう意味かしら」
 真紅はあからさまに不快感を示した。
「ごく普通の人形では器として不適格なのでしょう? どうしろと言いたいの」
 アリスゲームに既に敗北している雛苺は雪華綺晶の標的にされやすいだろう、という話は水銀燈から聞いている。漫画の世界では実際に雛苺が彼女の最初の犠牲者になる展開になったことも知らされていた。
 だから、雛苺が不平不満を漏らしているのを知っていても、nのフィールドに入るときは必ず誰かと一緒にさせ、現実空間でさえ出来る限り目の届く範囲内に居させている。ただ、少しばかり行き過ぎているのか、それとも雛苺の我慢が続かないのか、現実世界ではしばしば脱走されているところはあまり褒められたものではないけれども。
 そんな彼女には、ラプラスの魔の言葉が雛苺を差し出してやれという意味にも聞こえてしまうのだ。
 しかし、兎顔の紳士の話は彼女の予想の斜め上を行っていた。
「なるほど、確かに既製の人形ではいけません。如何に彼女が強い力を持っているとはいえ、既に魂のあるものに宿ることはできない。ですが、最初から彼女のものとして作られた体なら如何です」
 紳士は立てた指を左右に振った。
「御嬢様方。貴女達はそれを可能にする力を持つ人物に心当たりがおありのはず。もっとも今はその力、この老兎の眼から見ましても、お世辞にも開花しているとは申せませんが」


 メイメイは濁流の中を突っ切っていく。いつもの道化た振る舞いを見慣れている蒼星石には、意外なほど力強い動きだった。

──メイメイも彼も、水銀燈とは似ても似つかないのに。

 記憶を失くして性格も変わってしまった彼は兎も角、水銀燈が教育した人工精霊が、何故いつもはあんな風に楽しそうに振舞うのだろう。それを見ていて水銀燈は苛ついたりしないのだろうか。
 蒼星石の教育したレンピカは、主人である彼女よりも更に生真面目だった。一度だけだが、彼女が気弱になったときは叱咤してくれたこともあった。
 薔薇乙女と人工精霊が似た者同士になるとは限らないのだろうか。ああ見えて、水銀燈は気楽な相棒を欲しがっていたのだろうか。
「──分からないな」
「ん? どした?」
 かすかな呟きを、彼は耳聡く聞きつけたようだった。蒼星石は苦笑するしかなかった。
「なんでもないよ。独り言だ」
「そっか」
 彼は前に向き直り、唐突に減速しながら引っ張っていた蒼星石をぐいっと抱え寄せる。乱暴な動作だったが、今度は痛みは感じなかった。
 胸に抱きかかえられる形になって、今日は不意打ちばかりだ、と蒼星石の内心の素直な部分が思う。ずるいよ、とも。
「急に何が……」
「あいつ、なんか見付けたっぽい」
 顔を上げ、もぞもぞと前を向くと、メイメイが何かを示すように回っていた。その先に何かが見える。
「あそこに連れて行きたかったのか?」
 先程まともに話の内容を聞けなかった少年は、その何かを指差してメイメイに尋ねた。メイメイは頷くように上下に小刻みに動いた。
 なるほど、と蒼星石は軽く頷く。あれがメイメイの依頼の対象物というわけだ。
「見付けた物を放っておけないから、回収して欲しい。メイメイはそう言っていたんだ」
「落し物拾いか……俺でもやれそうなお仕事じゃん」
「気を付けて」
 自分でもできそうだということに俄然やる気が出た様子の少年に、蒼星石は釘を刺すことを忘れない。
「何が起きるか分からない。……レンピカ、周囲を警戒するんだ」
 蒼い人工精霊は了解の思念を蒼星石に送りつけると、大きな楕円軌道を描いて二人とメイメイから離れていった。
「行こう」
 蒼星石は彼を見上げ、頭を巡らしてメイメイに頷いた。
「よっしゃ。ラストスパート行くぜ」
 少年の言葉を合図にメイメイは加速し、前方に飛び出して行く。少年は蒼星石を抱いたままそれに続いた。
 彼の腕の中で、蒼星石は身じろぎする。確かにこの方が片手で指二本を掴んでいるより確実だ。しかし、この体勢は少しばかり恥ずかしい気がするのも事実だった。
 少し赤くなった顔を見られたくなくて、彼女は帽子を直す振りをして少し目深に被りなおした。もっとも、こんな場所では彼以外に誰かが見ているという訳でもないのだろうが。


「ジュンに雪華綺晶のボディを作らせろ、ってことですか……」
 翠星石は絶句し、真紅は首を振った。
「ジュンはまだドールを作ったことはないわ。パーツの原型を一つ手がけたことがあるだけで、それもフィギュアを参考にしながら苦心した末のことよ」
 水銀燈は何かを言いかけて、止めた。できるだけこの場に相応しい身振りで、ラプラスの魔の方を見る。他の姉妹達が彼女の仕種を気に留めることはなかった。
 兎顔の紳士はちらりと水銀燈に視線を投げ、水銀燈は他に分からないほどの目の動きでそれに応えた。紳士は二度ほど瞬いて真紅を見遣った。了解した、という意思表示だった。
「左様、今の段階では彼に満足なドールを創ることを求めても空しいでありましょう。ですが将来的には、彼は偉大な人形師となる才能を秘めています。それもまた事実」
「少なくとも雪華綺晶に対する交渉材料にはなる、ってことかしら。随分と迂遠な話ね」
 水銀燈は少し大仰に溜息をついてみせる。ここはそうすべきだった。
「雪華綺晶が欲しいのは『今、随意に動かせる器』ではなくて? それにはそぐわないでしょう、桜田ジュンの成長に期待するという話は」
「さて、そう悲観的になるべきでありましょうか?」
 紳士は頬を僅かに持ち上げるような顔になった。見ただけではどういう感情を表したいのか分からなかったが、機嫌が悪くなるということは有り得なかった。そういう人物なのだ。
「人間の成長は速いもの。士別れて三日即ち更に刮目して相待すべし、等々名言も御座いますな。そしてそれは特に子供において然り。かの少年が全てを傾けて精進すれば、恐らく数年後には薔薇乙女の形骸を作るなど造作もないこととなるでしょう。そう、彼であれば数年でしょうな」
「数年ね」
 水銀燈は鼻で笑った。
「目の前に果実がぶら下がっているというのに、果たして末妹はその不確定な数年を待てるのかしらね」
「彼女が待つことに信が置けないのであれば」
 白兎の顔は、はっきりとある形に歪んだ。
「待つしかないようにさせれば良いのですよ。御嬢様方」
 彼は、声を立てずに笑っていた。それが少しばかり寂しそうな笑いのように思えるのは、水銀燈が彼の思いをおぼろげながら掴んでいるせいかもしれない。
 恐らくそれは正しい理解なのだろう。その証拠に、他の姉妹は彼の笑いをそのようには受け取らなかった。
「──ラプラス」
 真紅は温度を感じさせない口調で言った。
「それは、彼女を屈服させて従わせればいいという意味かしら」
「ええ」
 紳士は笑いを引っ込め、いつもの道化た声と仕種に戻った。だが、その言葉にはいつにない、あからさまで痛烈な皮肉が込められていた。
「守りだけではゲームを制することはできますまい。もっとも、積極的または消極的に関わらずゲームそのものを忌避されるのであればまだ、守りに徹するのも良かれと申せます。紅薔薇の御嬢様、貴女のお望みはゲームを忌避し、水入りさせて時代から時代へと安穏と過して行かれることでしたか」
 真紅は息を呑み、水銀燈は苦笑した。中途で妙なことからおかしな展開になったものだ、と思う。

──もっとも、こっちがラプラスの誘導したかった話なのかもしれないけど。

 どちらにしても、と彼女は貴重な示唆を与えてくれた兎頭の紳士に内心で感謝した。態度に出せないのが少しばかり残念だった。
 水銀燈自身は雪華綺晶そのものにさして含むところはない。確かに一度はボディを乗っ取られかけたが、彼女が雪華綺晶を狙うことにはその意趣返しという意味合いはない。
 できれば戦いたくない相手とかいう湿っぽい事情はないが、いつ仕掛けてくるか分からない潜在的な危険だという感触と、自分の目的のために戦わざるを得ない相手という認識の方が遥かに大きかった。
 雪華綺晶の方でもそれを分かっているはずだ。だからこそ、二度目に遭遇したとき、弱った姿を見せることで水銀燈にその場で仕掛けられる危険を無視してまで、彼女に一言泣き言を呟いてみせたのだろう。
 なるほど、外堀を埋め、相手に出戦を強いて叩く以外にも攻略の方法はあるものだ。但しそれが安易に進められるかどうかは別の話だし、契約者とはいえ他人の、しかも今は隠れている能力に依存することは投機的で危険でもある。

 真紅とラプラスの魔を交互に見遣りながら頭の中では自分の考えを巡らせ、結局今のところは自分の方針のままで行く方が良いのだろう、と水銀燈は結論付けた。
 考えを改めるのは何か変化が起きてからでも遅くはないだろう。今のところ、いずれの方策を採るにせよ現実世界での時間経過は雪華綺晶に味方しない。そうなるように、水銀燈が手を打ってきたからだ。
 もっとも、だからこそ時機は意外に早く訪れるのではないかと水銀燈は踏んでいる。
 大きなところでは、水銀燈とその媒介も、「活きのいい」契約者達も、姉妹達のボディも渡さずにきた。如何に待つのに慣れているとはいえ、そろそろ雪華綺晶も限界のはずだ。このまま我慢を続ければ、糧を全く得られずに干上がりかねない。
 そして、彼女が唯一妨害無しに獲得できる手懸りだけは、水銀燈はそれと知りながら放置している。泳がせている、というのとは違うが、似たようなものではあった。
 後は、果たして雪華綺晶がリスクを承知でそれに喰いついてくるほど進退窮まっているかどうか。問題はそこだけだと思える。

 少なくとも今、この時点では。

 そんな水銀燈の内心などに思いを巡らす余裕もなく、真紅は暫くそのまま固着したように動きを止めていた。
 先程の言葉は一見真摯な意見にも聞こえるが、相手はラプラスの魔だ。こういった言葉遊びに近い煽りや止め立てなどはお手のものなのだろう。
 彼としてはその方が楽しい、理由はそれだけなのかもしれない。ゲームが停滞して一番つまらない思いをするのはラプラスなのだろう。
 そんな風に否定的に忖度しながら、それでも真紅は兎顔の紳士の言ったことを全て戯言だと片付けてしまうつもりはなかった。彼の言葉は大抵いつも、一面の真実は突いている。今回も例に洩れないのだろう。少々癪ではあるがそこは認めざるを得ないのだ。
「……それはできないわ」
 ややあって、真紅は毅然と胸を張った。何があってもそこは曲げられない、という意思表示だった。
「他に方法がないとは思えない。それに、たとえ迂遠だったとしても、話し合いの余地があるのなら私は自分から仕掛けることはしない。それが私のやり方」
 目的を明かしたときの水銀燈の言葉に対抗するような言い方で続ける。
「確かに時間は掛るでしょう。でも、そのために不利になっていったとしても、途中で負けて何処かを欠損することがあっても、敗北してしまうとしても、私は私のやり方を貫くわ」
 王道ね、と水銀燈はちらりと考える。地道にこつこつと、不器用でも自分の道を行く。その粘り強さは姉妹の中でも真紅にしかないものなのだろう。
 それが影からの支援があってこそ成立するものだとしても、やはり泥水を啜りながら歩くような道そのものは、歩む者にとって長く険しいはずだ。真紅にはそれを実行していくだけの強さが確かにあるのだ。


 近づいて行くと、それは一点に静止しているわけではなく、周囲の流れに揉まれ、漂い流されていることが見て取れた。
 少年としてはかなりのスピードで接近しているはずなのだが、何かがあるのを認識してから形がはっきりしてくるまでが異様に長いように感じられた。距離感自体が現実世界の視界とはだいぶ異なるようだった。
 目は悪くないはずの少年が自分よりもその形を認識するのがかなり遅れても、蒼星石は特に不思議には思わなかった。
 観念の世界のようなものだから、そういった感覚には視覚以外のものが働いてくる。当然、個人差もそこにはあった。
 彼は周囲で奔騰している流れ自体を碌に認識していない。それだけを蒼星石と同じほど確実に認識できるとしたら、その方が不思議だっただろう。
「人形……?」
「そうだね。大きなドールだ……多分、僕達ほどの大きさだろう」
 言いながら、蒼星石は少年の腕の中から出たいと身振りで示す。彼は頷き、減速しながら慎重に彼女を体から離し、手を放した。
「メイメイ、間違いないんだね」
 今はもう並んで飛んでいるメイメイは、こくこくと肯定の動きをしてみせる。
「服は違うけどまた白い髪、かぁ」
 漸く少年にもはっきりと見えてきたらしい。さっきの子と同じか白黒違いってやつか、となにやら感心したように頷いている。
「じゃ、ちゃちゃっと回収して行きますか」
 な、と蒼星石を振り向いて、少年は訝しげな顔になった。彼女は何かを思い出そうとしているような視線を人形に向けていた。
「どしたのさ」
「……いや。見覚えがあるような気がしたんだけど……そんなはずはないね」
 蒼星石は人形に視線を向けたまま苦笑し、やや強く首を振った。
 白い編み上げ靴。露出の多い、左右非対称のごく薄いピンクの凝った衣装。さきほど飛び立って行った人形によく似た、しかし細くツーサイドアップにされている白いストレートの髪……

──確かに、見たことはない。だが、なんだろうこの既視感は。

 蒼星石は大きく息をついた。呼吸というのもここでは──そして薔薇乙女には現実世界であっても──観念的な行為だが、何故かそうしないと息が詰まって苦しかった。
「注意しよう。メイメイ、君も警戒してくれないか」
 遠くを巡回するレンピカを指して声を掛けると、メイメイはOKと動きで示してレンピカとは別の軌道を描いて二人を中心に周回し始める。蒼星石はよしと頷いて少年の顔を仰いだ。
「行こう」
 応、と元気良く返事をしてから、少年は心配そうな顔になった。
「大丈夫なのか?」
「大丈夫さ。何かがあれば僕と人工精霊達が貴方を守る」
「そうじゃなくってさぁ」
 少年はややオーバーな身振りをしてみせた。
「蒼星石、さっきから嫌に周りを気にしてるじゃん。いつもそうってわけじゃないんだろ?」
 蒼星石は一瞬目を見開いた。言われてみればそのとおりだった。はっきり自覚してはいなかったが、何かきな臭いものを感じていたのかもしれない。
「なんかよく分かんないけどさ、リラックス、リラックスってやつで行こー。あ、そうだ」
 彼女の反応に気付いたかどうかは定かでないが、少年はごそごそとポケットを漁り、黒っぽい平たい箱を取り出して、そこからキャンディを一つ彼女に差し出した。
「オトナならタバコでも一服やるとこなんだろうけど、お互いまだ未成年だから飴玉ってことで勘弁な」
「……うん」
 ふふ、と微笑みながら蒼星石はそれを受け取った。

──貴方は知ってて言ってるのかな?

 確かに、蒼星石が「起きて」生きて来た時間は、合計するとこの国では成年に到達する年数よりはやや短い。圧倒的に長い時間、彼女は鞄の中で、双子の姉と夢を共有しながら──そうして新たな指輪を作りながら過してきた。
 ただしそれも眠りの一種と考えれば、彼女の年齢は既に人間の寿命など軽く超えている。幾つもの時代、幾人もの契約者の手を経てここまで来た古い古い人形。それが彼女達薔薇乙女だった。
「……酸っぱい」
「あ、苦手だった?」
「いや、美味しいよ」
「そっか。良かった」
 自分は何をやっているんだろう、と思わないでもない。長く居られない、危険だと彼に警告しておきながら、いざ目標を目の前にして呑気に貰ったキャンディを頬張っている。なにやら順番が逆のような気がした。
 それでも、こうしていると気付かない内に張りつめていた心が口の中のキャンディのようにごく僅かずつ溶けて行くような気がするのも事実だ。そして、それは決して悪い気分ではなかった。


「ふむ」
 兎頭の紳士は、今度は他にも分かるようにはっきりと水銀燈に視線を寄越した。一瞬どういう反応を返せばいいのか分からず、取り敢えず彼女は肩を竦めてみせた。
「どうやら我がアリス候補筆頭は、焦らしプレイが殊の外お好きなようよ」
「左様ですな」
 ラプラスの魔は水銀燈の言葉を否定しなかった。

 今日のラプラスの魔は過剰なほどサービス精神旺盛だった。但し、それを理解した者にとっては、という注釈付きだったが。
 今も何気ない一言だったが、その意味は実は大きい。
 水銀燈は名指しを避けたものの、明らかに真紅を指して発言した。それを彼はあっさりと認めた。
 ということは、自分から真紅が最もアリスに近い位置に居ると言ったのも同然だった。彼がゲームの審判とか検分役という肩書きを冠せられていることを考え合わせれば、それは決定的な一言だった。
 ただ、当の真紅本人を含めたこの場の姉妹がその意味に気付いているかは甚だ怪しい、と水銀燈は思う。むしろ、彼は水銀燈に仮説の証明を与えるためにちらちらと口を挟んでいるのではないかとさえ錯覚してしまいそうになる。
 それほど今日の彼の言葉や態度は何の前提知識も持たない者には難解なもののように水銀燈には思えた。

 水銀燈の思いを裏付けるように、彼はまた微妙な言葉を口にした。
「流石は紅薔薇の御嬢様、と申すべきでしょうか。その心掛けの高潔さは確かに素晴らしいもの」
 しかし、と彼は若干意地の悪い声音になった。
「残念ながら、こちらの御嬢様や──」
 と水銀燈を手で示し、もう片方の手で窓外を指した。
「──あちらの御嬢様は待つことがお嫌いのようですぞ」
「それは知っているわ。何が言いたいの」
「お分かりになりませんかな、聡明な貴女が」
 やや苛ついた真紅の態度を見たせいか、兎頭の紳士の声に微かに寂しさか哀れみのようなものが混じる。
「御嬢様と直接の繋がりがない方を白薔薇の御嬢様が目標としたとき、果たして貴女はどう行動されるのか。そのときも、ただ手をこまねいて待っていらっしゃるだけで本当に宜しいのですかな」
「まさか」
 真紅ははっとして翠星石を見る。翠星石はラプラスの魔から真紅に向き直り、慌てたようにまた彼の方を向いた。
「蒼星石を、雪華綺晶が?」
「いいえ」
 兎の頭がゆっくりと左右に振られる。
「いまや、蒼薔薇の御嬢様ほど狙い難い相手もそうそうないでしょう。彼女には強いお味方がついておられる。マスターも心に傷を抱えながらも、彼女と寄り添っていらっしゃる。割り込み、引き裂く隙が御座いません」
 紳士は、今度は水銀燈を見ることさえしなかった。それほど当然だと考えているのか。
「彼女が標的とできるのは、姉妹とその契約者。更に敢えて付け加えるなら、以前の契約者と、それらに例外的に近くなってしまった人物。その程度ですが──」
 紳士は机の上に手を伸ばし、水銀燈が置きっぱなしにしていた例の小箱を手に取った。
「ときに、これは素晴らしい細工物ですな」
「中身も素晴らしいわよ。どうぞ御覧になって」
 突然話を脇に逸らした紳士に姉妹達が非難の視線を向ける中、作業台の上で水銀燈はにやりとしてみせた。紳士は慇懃に礼をし、かちりと小箱の蓋を開けた。
 蓋を開けただけで、暗くないはずの室内に目映い薄紅色の色彩が溢れる。異界のローザミスティカは、先程の桜田宅の客間で見たよりも更に強い光を放っているようだった。
「素晴らしい輝きですな」
 言葉とは裏腹の無感動な言い方だった。水銀燈も笑いを立てずにあっさりと頷く。
「中に電球でも仕込んでありそうな輝きよね。金糸雀はLED入りのクリスタルとか表現してたけど」
「品物の真価は兎も角、見た目としては的確な評価ではありますまいか」
 紳士はひくひくと兎の鼻先をうごめかせ、ぱちりと蓋を閉じた。光の洪水は止んだ。
 紳士は水銀燈に一礼し、小箱を元通りに置いて、机に片肘を突くというラフな恰好を取った。常に慇懃無礼な彼としては珍しいことかもしれない。
「あまり好ましいことではありませんが、本来観測すらできないはずの、そもそも存在すら未知の世界との扉が開いてしまいました。これがその証左の一つですな」
 空いている方の手で小箱を指し示す。水銀燈は苦笑するしかなかった。
「ローゼンメイデンは無数の並行世界にただ一体ずつしか存在し得ない。ローザミスティカも然り。その法則をいとも簡単に破ってくれたってわけね」
「あちらから見ればこちらの御嬢様方はローゼンメイデンではなく異界の自動人形ということになるのでしょうな。そして逆もまた然り。我々から見てそれらは外見が酷似した不思議な人形達に過ぎません。世界自体がそれで納得でき、共存することを受け容れているのであれば問題はないことです」
 と言ってみせるものの、紳士があまり良い気分でないのは明らかだった。まだローザミスティカが二つ出現しただけとはいえ、彼から見れば──終盤とは言えなくても恐らく後半には差し掛かっているはずの──アリスゲームに影響を齎すファクターに成り得るはずだ。
 これでもしドール本体がやって来ようものなら、影響どころか厄災をもたらす、まさに闖入者と言える存在になるだろう。
 彼等の物理的な力はこちらの姉妹たちの誰よりも強い。いざ敵対するとなれば対抗できるのは自分のフィールドに引き込んだときの雪華綺晶くらいではないのか。
 一体では無理でも、数体が協力すればアリスゲームを完全に破壊することができる存在だ。能力が十全に発揮できるのであれば、それぞれがあの人形と同じ程度の力を持っているのだから。

──まさか。

 そこまで考えて、水銀燈はびくりとした。
 彼女等のうちの誰かが、既に世界を飛び越えてやって来ているのではないのか。それを雪華綺晶が発見したら……?
 いや、それだけでは駄目だ。雪華綺晶は既に魂のある器には宿れないから、直接の目標にはしにくい。
 単純に誰かと手を組むにしても、それならば水銀燈の方がまだ有利だ。なにしろ、彼女は『お父様』と親しくしていて、彼からローザミスティカを預かっているほどの立場なのだから。

──では、なんだというの。

 水銀燈は改めて兎頭の紳士を見詰めた。紳士は瞳だけを動かしてこちらを見、素知らぬ顔で一つ二つ瞬いてみせる。本人としては茶目っ気たっぷりのウィンクでもしてみせたつもりなのかもしれないが、生憎横顔しか見えない水銀燈には瞬いたようにしか見えなかった。
 先程までの思いあがっていた自分に溜息をつきたい気分だった。旧知の道化師は、彼女にもまだまだ全てを明かしてくれるつもりはないらしい。



[19752] 120くらい。夜書くと眠い。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/11/08 00:51
白vs白。

*****************************************************

「よっしゃ、始めよか」
「そうだね」
 キャンディを舐め終わるのは殆ど一緒だったようだ。少年は気合を入れるようにぱんぱんと手を叩き、蒼星石は頷いた。
 何分という程の時間が経過したわけでもないが、蒼星石は念のために周囲を回っている二つの人工精霊に思念を送り、異常は見当たらないことの確認を取ってみた。どちらも何もなしという思念を返して寄越した。

──あんなことの後だから過敏になっているのだろうか。

 自分自身で首を傾げてしまいたくなるほど、蒼星石は慎重だった。
 しかし、取り越し苦労だとしても安易に行動するのは慎むべきだった。この場で襲ってくる可能性があるのはあの人形だけではない。未だに水銀燈以外に姿を見せたことのない末妹、雪華綺晶もまたnのフィールドでは恐るべき襲撃者に成り得るのだから。
 むしろ、雪華綺晶の方が脅威としては大きいだろう。姉妹達は取り敢えず一度はあの水銀燈に似た人形とは戦っている。単独では正面から太刀打ちできない相手であることはどうやら認めざるを得ないが、少なくともどういう技を使ってどう攻撃してくるかは分かっていた。
 しかし、水銀燈以外の姉妹で雪華綺晶に相対したことのある者はいない。外観と能力の概略だけは知らされているが、口頭の説明だけでは理解に限りがあった。
 自分が彼から受け取った知識が完全なものでないことが残念だった。雪華綺晶については、殆ど知らない状態と言っていい。

 少年はそんな蒼星石の内心には気付いた様子もなく、白い人形に手が届くところまで近づいた。蒼星石はもう一度異常がないことを人工精霊達に確認してから彼と並んだ。何かが起きても、ここなら彼を守れる。
「……おーい」
 少年は人形の頬を指でつんつんと触れてみたが、すぐに、まるで熱い物に触ったように手を引っ込めた。
「どうなってんだっ」
「何か異常が?」
 蒼星石はひやりとして自分も人形の体に触れてみる。しかし、これといって変わったところは感じられなかった。
 アンティークドールというよりは現代風の創作人形に近いスタイルと服装をしているが、その他は大きさと全体的な作りこみの豪華さ、精緻さ以外は特別なところはない。素体が露出している部分も、塗装を兼ねて上薬は丁寧に重ねてあるようだがごく普通の焼き物の地肌に思える。
「そこじゃない。ここ触ってみて」
 少年は蒼星石の手を取って、人形の顔を触らせた。
「柔らかいだろ?」
「それは、そうだけど……」
 一瞬、からかっているのかと思って蒼星石は少年の顔を見上げてしまった。確かに触感は陶器ではない。人肌のように柔らかい。
 しかしそれの何処が異常なのだ、と考え、一拍置いて彼女は自分の思考の方が異常だと気が付いた。
 つい自分達姉妹の視点でものを見てしまっていた。薔薇乙女達なら確かにそれで普通だ。だが、ただの陶器の人形の顔が、柔らかいはずがなかった。
 彼女は慌てて人形の手に触れてみる。そこも樹脂や陶器の感触ではなかった。
 柔らかく関節も露出していないそれは、まるで。
「こりゃホントにさっきの子のペアかなんかじゃないのか……」
 少年はメイメイを探すつもりなのか、視線を周囲に向け始める。

──違う。

 蒼星石はまた、何か冷たいものが体の中を果てしなく落ちていくような感覚を味わった。
 あの黒翼の人形にペアは存在し得ない。水銀燈の説明を聞くまでもなく、それは明らかだった。
 彼の夢の中にぽつんと置き去りにされていた人形にもし対となる存在や姉妹が存在していたとしても、それは既に消えているはずだ。元々あの人形も含めて雪華綺晶が彼に見せた幻影のごく一部に過ぎない物なのだ。
 そして、あの人形だけが例外と成り得たのは、元を辿れば雪華綺晶がそれを特に作り込んで配置し、彼が多大な体感時間をそれと二人きりで過ごしたことが原因なのだろう。
 同じ条件のモノは存在していない。他の全ては夢と共に消え去っている。だからこそ、あの人形は何もない場所で孤独に存在していたのだ。

──では、これは。

 自問するまでもなかった。
 精緻な陶器の体に生きているように柔らかな手と顔。薄いピンクのドレスとはいえ、白を基調としたデザイン。ドールとしては大きく、バランスが人間に近いそのボディ。
 それは、情報だけを先に知らされているが未だ実際には出逢ったことのなかったローゼンメイデン以外の何者でもないではないか。

「メイメイーっ、あーあ、あんな遠くかよ」
 少年は斜め上を見上げて残念そうな声を上げる。メイメイの周回軌道はかなり遠かった。
「しょうがない奴だなぁ。こっちは聞きたいことがあるってのに」
 頭上を前から後ろに過って行く銀色の光に、少年は些か見当違いな評価をする。蒼星石はまた硬くなった表情を僅かに緩ませながら、彼の裾を引いた。
「とにかく、今はこのドールを回収しよう。詳しいことは後からでも調査できる」
 少年は蒼星石の顔を見下ろし、白い人形に視線を巡らせてから、応、と頷いた。
 仰向けのまま流れている人形の背中と膝下に手を回し、そっと横抱きに抱え上げる。細い首がかくんと後ろに仰け反り、蒼星石はそっとそれを彼の胸に凭せ掛けるように整えた。
「右目、アイパッチなんだな」
 少年が漸く気付いたように声を上げる。服と同色の薄いパッチが人形の右目を覆っていた。
「眼、どうなっちゃったんだろうな」
「ファッションかもしれない。服も左右非対称だし、球体関節をできるだけ意識させない範囲で肌の露出も多くされている。作った人の感性で、美観を損なわない程度に左右の違いにアクセントを持たせたのだろうね」
 少年は感心したように、なるほどねぇ、と呟いて人形の全身を改めて見回した。
「かぼちゃパンツとかズボンじゃない子って初めて見たかも。フィギュアみたいだな」
 それは実に素直な感想だった。蒼星石はこんな状況なのについ、くすりと笑いを零してしまう。
 二週間ばかり前に少年に見せてもらった──ジュンがパーツを作るときに参考にした──フィギュアの服装や形を思い出す。なるほど、確かに彼女達姉妹に比べれば、この人形の造形は現代風で市販のキャラクターフィギュアに近いかもしれない。
「さあ、行こう」
 蒼星石は笑いを引っ込めて少年を見上げた。
「急いだほうがいいと思う。この子は多分──」
 言葉を言い終える前に、彼女はびくりと体を震わせた。レンピカとメイメイが揃って短い思念を送りつけて来たからだ。
「下がって。来る」
「な、何が?」
「単独のときは一番相対したくなかった相手、かな」
 蒼星石は帽子を少し目深に被り直した。
「多分初めて会う相手だけど、よく知ってる。僕の一番下の妹さ」
 そして、多分それは、少年の腕の中のドールと同一人物なのだろう。


「世界が納得して共存を許そうとも、御嬢様方からすればそれらは異世界における御自分達そのもの。それは実体を持たぬ白薔薇の御嬢様においてもまた然り。つまり、彼等は白薔薇の御嬢様にとって追跡でき、標的として見定められ、そしてボディの提供者にも成り得るのです」
 提供者というよりこの場合は捕食の対象と言うべきですかな、と兎頭の紳士は空いている方の手をぱくぱくと鳥の嘴のように動かしてみせた。
「もちろん、彼等には魂もあります。依然として正面から乗っ取り難いものではあるでしょう。しかしながら、ここに既に二つの動力源が本来の持ち主から抜き取られて存在しております。これはつまり」
 紳士は小箱を指で突付いた。
「少なくとも二体の『ローゼンメイデンの空のボディ』が何処かに存在していることをも示しております。更に──」
「──あの人形師が作ったドールも七体。つまり、最後の一体は雪華綺晶に対応している」
 水銀燈は紳士の冗長な言葉を引き取った。
「雪華綺晶にとっては自分自身。仮に相手が弱っていれば乗っ取りは他に比べて容易いかもしれないわね」
「まさしくそのとおり」
 紳士は得たりと頷いた。
「かてて加えてそのボディは、紛れもなく『七番目のお嬢さんのために』作られたもの。異界の産とはいえ、他のボディの比ではありますまい」

 何が比較にならないかは、水銀燈にとっては言われるまでもなかった。
 水銀燈が奪うはずだった蒼星石のローザミスティカ。それを失った後のボディ。それらは、どちらも最終的に新たな所持者を拒絶した。
 蒼星石が特別だった、ということではない。所詮は他者のために作られ、長いことそちらに馴染んで来た物なのだ。それを強引に入手しても、ぴったりと収まってはくれない。
 異世界とはいえ同一人物のボディであれば、そういう心配は少ない、と言いたいのだろう。妥当な意見にも思えた。
 しかし、それは詭弁であるような気配もないではない。
 異世界の同一人物とは言うが、名前と姿が同じというだけで、それぞれ人格も別なら辿って来た道も全く別なのだ。水銀燈自身、『水銀燈』と同一人物だと言われても納得ができない。それならばまだ『真紅』の方が共感できる気がする。少なくとも、ある時点までは。
 ボディにしても同じなのではないか。特に、あの世界のローゼンメイデンは等身やプロポーションもドール的ではなくフィギュア的な作りで、手足は長く胴は細く、眼は切れ長で顔は丸顔といった按配だった。
 雪華綺晶とはさほど長く会話をしたり、何度も戦いを繰り返したりしたわけではない。だが、見た限り衣装などには凝っているものの体型は他の姉妹と大差なく、顔の造作もよく似ていた。
 いくら同一人物というアドバンテージがあっても、作りの違いによる違和感などは拭えないのではないか、と思うのが素朴過ぎる感想だということはあるまい。

 それに、もう一つ問題がある。
「あちらの世界での七番目が実体を持っているとは限らない。むしろ雪華綺晶と同じくnのフィールドの中でしか存在し得ない幻である可能性も高いでしょうに。そこは無視するということ?」
 兎顔の紳士は頭を横に振った。
「残念ながら」
 その声には多少のからかいと言うか、面白がっているような響きがあった。
「あちらの第七ドールはボディを持ちます。それは確認済みなのですよ」
 その言葉がどういう意味を持つか、水銀燈にはよく分かってしまった。彼女は作業台の上で腕を組み、難しい顔になってじっとラプラスの魔を見詰める。兎の剥製の顔は、表情を消して彼女を見返した。


 雪華綺晶は遠目からは渦のようにも見える白い茨の群れと共に現れた。
「ご機嫌よう、そして初めまして、青薔薇のお姉様。私はローゼンメイデン第七ドール雪華綺晶──」
 白い、あくまで純白の衣装と髪の彼女は、そこで少しだけ哀しげな表情になった。
「──お久しぶりです、黒薔薇のお姉様のマスター」
「ごめん、覚えてないんだ」
 少年はドールを抱いているせいでいつもの拝むようなポーズが取れず、代わりにできる限り深々と頭を下げた。雪華綺晶は隻眼をやや伏目がちに細めた。右目の眼窩から直接生えた白い薔薇の花が微かに揺れた。
 彼女がそうした余裕のない仕草をしたのはほんの一呼吸の間だけだった。
「承知しておりますわ、お気になさらないで」
 すぐに柔らかな表情になってそう応え、蒼星石に視線を向けて艶然と微笑む。
「お姉様……良い方を選ばれましたね」
「何のことか分からないよ」
 蒼星石は周回を終えたレンピカを脇に控えさせた。
「具体的に説明してくれないか」
 雪華綺晶は少し面食らったような顔になった。
「あら、お分かりにならない筈はないと思いましたのに」
 くすくすと微笑する。見るからにポーズだと分かる演技だった。
「蒼薔薇のお姉様の殿方のお見立ては流石としか申せませんわ。
 ご自分のマスターを差し置いて、他のドールのマスターとこんなところまで逢引にお出でになっているのに、貴女のマスターは寛大にもそれを許されていらっしゃいます。
 それに、こちらの方はご自分の契約されたドールとは別のドールに異空間に誘われても、にべもなく断りもせずにこうして自然に親しく振る舞われていらっしゃる。
 契約者の方々は数多いらっしゃいました。でも、これほど独占欲が薄い方や契約に縛られない方は見たことがありませんわ」
 それを選ばれるとはやはり慧眼と言うべきでしょう、と雪華綺晶は笑う。その笑みは少しばかり意地が悪く、蒼星石の心をささくれ立たせた。
「随分余裕がないんだね」
 真紅や水銀燈の言い方を真似て皮肉を飛ばしてみる。
「ここは君の庭のようなものなのに、君が慣れない嫌味の言葉まで使って僕を苛立たせようとしているのは何故なのかな。ひょっとして、この──」
 蒼星石は少年の腕の中のドールを指差した。
「──異世界の君が実体を持っているらしいことに嫉妬しているのかい」
 あまり慣れない、安っぽい挑発だった。果たして、雪華綺晶は艶然と微笑を浮かべただけだった。
「いいえ、そんなことはありませんわ」
 雪華綺晶は微笑を浮かべたまま、僅かに距離を詰める。
「だってそれは、これから私のおうちになるのですもの」



[19752] 150くらい。スパゲッチーな文章。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/11/11 22:32
千葉の菓子屋が名古屋の新聞屋に勝ってしまった。
しかも今シリーズ最終戦でよりによって森野が……。
改めてCSの必要性について考えてしまった。

*************************************************************

「おうち……?」
 少年は首を傾げる。
「そりゃ、この子に乗り移るって意味かい」
 雪華綺晶は少年に視線を向けて無邪気そうな顔になり、左目を二三度瞬いた。
「ええ。そのとおりですわ。何故ならそれもまたローゼンメイデン第七ドール。私のおうちに最も相応しい身体でしょう?」
 理解の良くない子供に物を教えるときのような、優しい微笑みを浮かべる。声には一点の曇りも無かった。
「神秘の魂を半永久的な無機の器に宿し、摩訶不思議な動力源を入れられた生きたお人形……それがローゼンメイデン。でも、それでは至高の少女として不足だった。
 無機の器に縛られたのが、その限界を決めているのではないか──六体を作られた末に、お父様はそう結論付けられた。だから、私は無機の器を……実体を持たないのです」

──だが、結局のところそれでも足りなかった。

 皮肉な思いが胸の中に渦巻くのを蒼星石は感じた。
 彼女達の末妹、それはドールと呼んでいいのかどうかさえ微妙な存在だが、もし「人形師」としてのローゼンがそちらの方向を目指していたなら雪華綺晶は究極の人形だったろう。素材や技法の限界を超えてその造作に人形製作者の理想を体現化できるという点では、まさに夢のドールとは呼べるのかもしれない。
 しかし彼が欲しかったのは至高の少女であり、人形としてのドールのボディそのものはあくまでその器に過ぎなかった。素材や技法は水銀燈の時点で既に完成されており、無理にそれ以上を目指す必要はなかった。
 どこかのお話のように、人形師が精魂込めて作った人形がその思いと愛情を一身に受けて独りでに動き出すような幸せなありようとは、自分達は根本的に異なっている。まず先に実現したいモノがあり、それに沿って緻密に設計製作され、そして結果的には当初の目的を達成させることができなかった不完全な作品だ。
 人形としての体はその実現したかったモノのごく一部分に過ぎない。まして、その造作などは些細な枝葉もいいところだった。
 だから雪華綺晶は一種の理想の人形であるのにも関わらず、その「実体に縛られない」という最大の特長であるはずの部分さえ、薔薇乙女として見た場合には単に他の姉妹達との相違点といったところに落ち着いてしまっている。
 いや、雪華綺晶本人から見たそれはむしろ、分かり易い、忌まわしい欠損に過ぎないのだろう。そうでなければ、彼女が他のドールのボディを奪ってまで実体を得たいと思うはずがない。

「えっと」
 少年は首を傾げ、腕の中の人形を確かめるように抱き直した。
 折角の雪華綺晶の説明も、少年の理解を深めることには繋がらなかったらしい。彼は納得できないときによくする表情で暫く考えていたが、結局素直に雪華綺晶に謝った。
「ごめん。よく分かんないんだけど、要するにキラキ……はボディが無いから、よく似てるこの子を自分のボディにしたいってことかな」
「ええ。間違っていませんわ」
 雪華綺晶は落胆した様子こそ見せなかったが、やはり少しばかり寂しそうな表情をした。少年はじっとその顔を見詰め、何かを言いかけてから口を閉じた。
 再び彼が口を開いたときには、言葉は恐らく最初に言おうとしていたこととは別のものに変わっていた。
「それは協力できないかなぁ」
「何故……?」
 雪華綺晶は意外そうな顔をした。表情を作っているのか、本心から意外に思っているのかは外見からは分からない。
「これはアリスゲームとは無関係なこと。私の個人的な望みなのですから。黒薔薇のお姉様にも青薔薇のお姉様にも、ご自分の不利益になることは何一つありませんわ」
「そぉんなことはないだろー」
 やや間延びした言い方で、しかし間髪をいれずに少年は言った。
「もしこの子がローザミスティカ持ってたら、キラキィはそれ使えるようになるんだろ。んで、どんな力か知らないけど、この子達が持ってるローザミスティカは凄いパワーがあるって話じゃんか。それって、俺達にしてみりゃ不利だろ、アリスゲーム的にさ」
 相手の名前を半分以下に略して、少年は聞きようによってはひどく失礼な物言いをした。
 蒼星石は彼の言葉を制止しようとして口を開きかけ、思い直した。少年の意見は水銀燈から聞きかじった知識を繋ぎ合わせた不完全な理解を基にした稚拙なものに過ぎなかったが、それは一面の真実でもあった。
 少年は一拍置いて続ける。視線は真っ直ぐに雪華綺晶に向いている。何故か、雪華綺晶もごく真面目な面持ちでその視線を受け止めていた。
「それに、大事なのはそんなことじゃない。
 キラキィは体を乗っ取ってめでたしめでたしかもしんないけどさ、この子にも魂があるんだろ? それはどうなっちゃうんだい」
「ああ……そのことを気に病んでいらっしゃったのね」
 雪華綺晶は納得したような表情になり、また微笑みを浮かべた顔に戻った。
「ご心配には及びませんわ。ローザミスティカとボディを失ってしまったドールの魂は無力となり、何処か遠くに旅立ってしまいます。それが次のボディを求めて、貴方の大事な想い人──お姉様達を襲うことはありません。お約束できますわ」
 へえ、と少年は軽く頷いた。左胸に凭せ掛けられた白い小さな頭を眺め、それから雪華綺晶に視線を戻す。
「それだけ?」
「そのローザミスティカがご所望でしたら、それも差し上げます。いくら素晴らしい力を秘めていても、私には扱えるかどうかも分からない物なのですから」
「なるほど……じゃ、そっちも別に心配しなくてもいいってわけなんだ」
「ええ」
 雪華綺晶は微笑んだまま、ゆっくりと少年に滑り寄り、すっと手を伸ばす。少年は人形を抱いていた右腕を、人形の膝下に通したままそちらに伸ばした。
「お分かりいただけてとっても嬉しい。──記憶を失っていても、やはり貴方は思ったとおりの方。貴方は私を受け容れてくださいますのね」
 雪華綺晶の微笑みは、感動を含んだものに変わっているようにも見えた。小さな手が、少年の手に触れる。

──どうして。

 蒼星石は半ば呆然とその様を見詰めていた。
 いくら知識が失われ、思慮よりも行動に性格が傾いているとはいえ、少年が簡単に雪華綺晶に手を伸ばすのが信じられない。この隻眼の末妹は口約束を簡単に反古に出来る性格だ、と水銀燈は彼には言っていなかったのか。
 それとも、ここで彼女に恩を売っておくのが有利だと思ったのか。あるいは、彼女に威圧感を覚え、怯えてしまったとでもいうのか。
 いずれにしても、彼女にそのドールのボディを渡すことが他の姉妹に有利に働くことは有り得ないことくらいは、少年でも分かりそうなものだ。それも判断できないほど平常心を保てないでいるのか。

──どちらにしても、それだけはいけない。させてはいけない。

 理屈ではない内心の何かが蒼星石にそう言っていた。
 蒼星石が遅まきながら制止の声を上げようとしたとき、乾いた音が辺りに響いた。


「七番目の子が既に出現しているというの」
 それを声に出したのは水銀燈でなく真紅だった。
「それは……二つの意味で危険だわ」
 短い言葉だが、却ってそれがその場の全員に彼女の考えをよく報せている。真紅はラプラスの魔が示唆したような可能性だけでなく、二人が結託してしまうこともあるのではないかと恐れていた。
 水銀燈は腕を組んで難しい顔をしたまま、真紅に軽く頷いてみせる。
「第七ドールの能力は私も知らない。そういえば名前も聞いてないわね。
 情報を握り込んで時機を窺ってる雪華綺晶が敢えてそんな得体の知れないモノと手を組むかどうかは疑問だけど、仮に似たような能力で更に物理的な力を強化された──真紅に対する『真紅』や蒼星石に対する『蒼星石』のようなものだとしたら。
 二人で結託されて、実体持ちで自由に現実世界に出て来られたらもう私達の手には負えないわね。永きに亙ったアリスゲームの終焉ってところねぇ」
 他人事のように言ってしまうのは最近の水銀燈の癖のようなものだが、今回に限ってはいつもの突き放した物言いとはまた別のニュアンスを含んでいた。仮にそうであれば策を弄する余地のあるような相手ではないと感じてしまっているのだ。
 ただ、もはや手も足も出ない、と絶望しているわけでもない。それには理由があった。
「まあ、雪華綺晶には手を組むメリットがあっても、相手には大して意味がない連携でしょうね。逆に言えば、雪華綺晶からすれば精々上手いこと使い捨てにされるのが落ちの提携関係でもある。その辺は末妹の理性に期待するしかないわね」
「……そうかしら」
 真紅は首を傾げる代わりに僅かに目を伏せた。水銀燈に対して言いにくいことでもあった。
「貴女はドライに割り切れるのかもしれないけれど、私は自分の目の前に『真紅』が現れたら、彼女に手を貸してしまうと思うわ。どちらも同じ自分だもの」
 真紅らしい言葉ではあった。過剰に情に流されると言ってしまえばそれまでなのだが、ある意味ではそれも人間らしい心の動きとも言えるかもしれない。
 そして、彼女が未だ見ぬドールのことを自分に過剰に引き付けて話しているわけではないことも事実だ。真紅はむしろ最悪の状況の一つとしてそれを提示しているに過ぎない。
 そうねぇ、と水銀燈は腕を組んだまま頭を一つ振る。ストレートの髪がさらりと流れた。
「向こうの第七ドールが貴女のような慈悲深い存在でないことを祈ったほうがいいのかもね」
 あっさりと言ってラプラスの魔に視線を移す。兎頭の紳士は相変わらず表情を見せずに真紅を見ていた。
 水銀燈はにやりと口の端を持ち上げる。自分の考えが概ね正しいことを確認できたような気がした。
「どちらにしても、そこの腹黒兎さんがどっしり構えている間は、そう心配する必要はないような気がするのだけど。何か情報は掴んでいるんでしょう」
 紳士は水銀燈を見上げた。初めからそういう風に話が回ってくることを予期していたような仕草だった。
「その点の御買い被りは平にご容赦願いたいところですが……」
 私はゲームの進行者でも、まして支配者でもなく、一介の検分役に過ぎませんから、と慇懃な口調で前口上のような言い訳をしてから、紳士は真紅に視線を戻した。
「ご考察は興味深く承りましたが、紅薔薇の御嬢様の御懸念は無用のものかもしれませんぞ。かの第七ドールは恐らく、ご懸念されているような形では御嬢様達と関わろうとはしないはず」
 何故なら、と紳士は水銀燈に視線を移す。
「そのドールは白薔薇の御嬢様とは似て非なる能力を持っております。そして、扉を抜けたばかりの今は未だ動くことさえ侭なりません。誰かがゼンマイを巻くまでは」
 紳士はひくひくと兎の鼻をうごめかせた。見ようによっては、それはそこに居並ぶ面々を笑っているようにも見えなくもなかった。
「白薔薇の御嬢様にとっては、気の置けぬ仲間や信の置けぬ同盟者というよりは、今そこにある恰好のボディ、といったところでしょうか」
 その言葉が終わらないうちに、窓のところでがたんと音がした。部屋の中の視線がそこに集まり、翠星石が声を張り上げる。
「チビチビ、人が真面目な話してるときに何やってやがるです!」
 雛苺は必死に窓に取り付いていた。
「メイメイが、お外にいるのっ」
 小さな閂を開けると全身の力を込めて窓を開ける。バランスを崩して落ちそうになるのを、横合いから部屋を横断して滑空してきた水銀燈が抱きとめた。
 二人の目の前を銀色に光る球体がすっと過ぎり、ぐるりと回って部屋の真ん中で停止すると、その場の全員に思念を送りつける。水銀燈は思わず笑ってしまった。
「……なるほどね。何時まで経っても帰って来ないと思ったら、そういうこと」
 水銀燈は雛苺を床に下ろすと、仕事机の上に飛び乗り、掻っ攫うように小箱を回収して全員を見渡した。まだ口許には不謹慎な笑いを浮かべている。
「悪いけど、先に失礼させてもらうわ。蒼星石が私を出し抜いて、媒介を連れてとんでもないモノを拾いに行ってるんじゃ、一人だけ知らぬ存ぜぬを通すわけにもいかないものね」


 ぱちん、と音が響く。
 右手を大きく体の左側に弾かれ、雪華綺晶はぐらりと体勢を崩し、ゆったりと滑って近づいていたその速度のまま、左側にゆらりと流れた。
 雪華綺晶の伸ばした手は、少年の手の甲で手荒く払われていた。
 動きを止めた雪華綺晶の前から、少年は後ろに跳躍して間を取り、人形を抱えなおした。
「うん、分かった。だから、駄目だ」
 少年は何故か辛そうに言った。
「キラキィが凄くこの子の体を欲しいのは分かった。でもキラキィが言ってんのは全部俺達の都合だろ。俺の聞きたかったのはそういう話じゃなかったんだ。体をなくしたこの子はどうなるか、そっちの方なんだ。
 俺にはアリスゲームの難しいことは分かんない。誰が勝って誰が死んじゃうにしても、どう終わるにしても、悔しいけどそれがみんなの宿命ならしょうがないと思ってる。でもさ、この子がほんとに他の世界のローゼンメイデンでも、俺達のアリスゲームはこの子には関係ないだろ」
 蒼星石は彼へと伸ばしかけていた手を胸元に引き付け、何か冷たいものを胸元に突き刺されたような気分で彼を見た。
 雪華綺晶だけではない。蒼星石もまた、その視点を忘れていた。単純に自分達の利害だけを考え、その結果として彼を制止しようとしていた。
 だが、結菱老人の愛した女性の心の木を伐り倒すのを翠星石が必死に止めたように、彼もまたゲームの外側に居る者を巻き込むのを嫌っている。それは本来、さほど精密にアリスゲームを理解していない彼よりも、誇り高くあるはずの薔薇乙女達自身が持っていて然るべき視点のはずだった。
「関係ない子をゲームに引き擦り込むのがキラキィのルールなら、俺だって俺ルールを使わせて貰うぜ。この子を最初に見付けたのがメイメイかキラキィかは知らないけど、先に拾ったのは俺だ。だから今んとこ、このドールは俺のもんだ。キラキィには渡さない」
 言葉は稚拙で激しかったが、彼は激昂しているわけではない。水銀燈があの人形に向けて話していたときのような──苦虫を噛み潰したような顔で、駄々をこねる子供のように、言わなくても構わないような言葉を口にしていた。
 しかし、蒼星石の目から見る限り、その子供じみた屁理屈を向けられた方が何処までまともにそれを聞き取っているかは疑問だった。
 雪華綺晶は微笑を顔に貼り付けたまま、凝固したように唇ひとつ動かさずに、蒼星石から見て右側にゆっくりと漂っていく。隻眼も彼に手を払われたときのまま、前に視線を固定し、底知れぬ虚空を見ていた。

──まるで叩かれたはずみに動力が切れた自動人形のようだ。

 ふとそんなことを考える。もちろん雪華綺晶がその程度で活力を失うことは有り得ない。彼の態度に手酷いショックを受けただけの話だろう。
 その場に流されやすい自分の心の動きを蒼星石は感じていた。ついさっきまで考えていたことは棚に上げて、些かならず哀れさが忍び寄って来ている。随分都合のいい話だった。
 しかし、かと言って目の前の末妹に手を差し伸べる気にも、少年を詰る気分にもなれない。敢えて言えば、それは無責任な同情に近い感情だった。
 感受性の高い他の姉妹──真紅や翠星石なら、もっと別の感傷が心に湧くのかもしれない。もしかしたら、普段の自分であっても。
 だが、何故か彼女は雪華綺晶にそこから先まで踏み込んだ共感を持てなかった。何か別の昏い感情が、それを押し留めている。

 彼女は一つ頭を振り、感傷を振り払う。昏い感情が具体的に何なのかは、敢えて考えないことにした。
 無言で二体の人工精霊に思念を飛ばし、雪華綺晶を目視で警戒しながら少年の脇に移動する。レンピカは短い応答をすると雪華綺晶と二人の間で素早く警戒の軌道を取ったが、メイメイからの返答はなかった。
 メイメイは状況を見て水銀燈を呼びに行ったのかもしれない。そういえば、何故メイメイは水銀燈でなく少年を頼ってきたのだろうか、と今更の疑問が心の隅に湧いたが、取り敢えず今はどうでもいいことではあった。
 少年は口をへの字に結んで、見た目にも分かりやすく何かに耐えていたが、蒼星石を見てふっと鼻から息をつき、漸く口を開いた。
「……帰ろうぜ。あんま長くは居られないんだろ」
「そうだね」
 蒼星石が頷いたのと、彼女が注視している先で、白髪の末妹がぎりぎりと軋み音を立てるような動きでこちらに顔を向けたのはほぼ同時だった。蒼星石は咄嗟に彼を庇うように一歩前に出た。
「……何故ですの」
 平板な、抑揚にも大小にも欠けた声だった。今までの何処かお道化た口調とは正反対の、感情の篭っていない声音だったが、それは確かに雪華綺晶の声だった。
 少年がびくりとして雪華綺晶を見詰める。雪華綺晶も彼を見詰めていた。視線が絡んだ。
「私のモノはいつも、どうしてお下がりばかりなのですか。私が自分だけの何かを望んで手に入れることは、そんなに悪いことなのですか」
 ウェーブのかかった白い髪が、どっと脇に流れていく。まるで彼女が抑え込んでいる激情のように、凪いでいた無意識の海の急流が、いきなり横合いから襲ってきたのだ。
 雪華綺晶はその流れに逆らって立ち尽くしている。服が靡き、髪も流れに揉まれていたが、彼女自身は微動だにせず、隻眼の視線を少年に固定して、呪文のように言葉を紡ぎ始めた。

「貴方なら判ってくださると思っていましたのに。……いいえ違う、貴方はもう貴方ではないのですものね。貴方はここでない何処かに流れて行ってしまい、此処に在る人間は貴方の残した形骸に過ぎない。そういうことですものね。私のお会いしたい貴方が私をこんなに苛める訳がありませんもの。嗚呼……それならば、私はその其処に在る形骸を私の姿をした形骸諸共手に入れなくては。貴方と私の宿るおうち。宿を失くした貴方を私は探しに行かなくては。その前に貴方のおうちを今、手元の安全な処に匿わなくてはいけません。そうでなくては、おうちはすぐに流れて行って、他の猫がすぐに住み着いてしまいますもの。そう、其処で此方を見ている薄汚いシルクハットを被った泥棒猫がッ」

 雪華綺晶は鋭く右手を振り、それに合わせたように一群の白茨が二人を目掛けて突き進んできた。
 蒼星石は彼を後ろに突き飛ばそうとしたが、流石に無理があった。体重の差がありすぎるのだ。逆に自分が前に飛び出すような恰好になってしまったが、それはこの際どちらでも良かった。
「先に逃げて! ……レンピカ、鋏を!」
 レンピカは蒼星石の得物を召喚し、蒼星石は白茨をぎりぎりのところで避けながら鋏を振るった。
 剪定鋏としては最低の使い方だが、先端まで鋭く刃の付いた鋏は挟んで切るだけでなく、突くことや斬ることもできなくはない。気を抜くと絡み付いてくる茨を、蒼星石は殆ど反射的に、そうした邪道な遣い方まで駆使してどうにか防ぎ切った。
 だが、漸く開けた視界を見詰めなおした彼女は愕然とした。
 縄のように纏まった白茨の太い束が、彼女のすぐ脇をかすめて後方に向かっている。その先に何があったかは確かめるまでもなかった。
 彼女に向かってきたものとは量と密度が全く違っていたのだろう。彼が居たであろう辺りには人間よりも遥かに巨大な白い薔薇の蕾が禍々しく、あからさまに何かを飲み込んだ形に膨れ上がっていた。
「……っ!」
 蒼星石は声にならない声を上げ、白茨の束に斬りつける。到底挟んで切れるほどの太さではなかった。
 蕾そのものに鋏を向けなかっただけ、まだ彼女は冷静な部分を残していたと言えるかもしれない。しかし、鋏で傷が付けられるとはいっても、束になった白茨に対しては虚しい努力だった。相手の量が多過ぎるのだ。
 二度、三度と鋏を振るうごとに、意気込みが失望と無力感に置き換えられていく。蒼星石は鋏を持ち直し、茨を操る白い姿に向き直った。
「やっとお分かりになりました? 無駄でしょう」
 雪華綺晶はまた、艶然とした微笑を浮かべていた。
「ふふ、怖いお顔。貴女のことを気に入られている方には、凛々しいとか健気に見えるのでしょうけれど」
「……無駄話は好きじゃない」
 蒼星石は鋏を構え、雪華綺晶に向かって突進した。雪華綺晶は笑顔のまま、茨をまた一群送り出す。
 それは先程彼女に向かってきた茨の群より大分少なかったが、それでも彼女の足を止めてしまうには充分だった。

──これじゃ埒が明かない。

 絡み付いてくる白茨と格闘しながら、どうにかしなければ、と蒼星石は考える。しかし、彼女にはどうにかできるだけの余裕も時間もなかった。
 茨を切り続けているうちに、いずれタイムリミットはやってきてしまう。それまでにどうにかしなければ、ここで皆この隻眼の白髪鬼の監獄に囚われてしまうだろう。
 だが、生憎と有効な思案は浮かんでこなかった。絶望がじわじわと滲んでくる中で、彼女は目の前の脅威に対して空しい作業を繰り返し続けるほかなかった。



[19752] 二日分でも200行。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/11/11 22:34
少ないです。

月は出ているか?

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 むせるような薔薇の花の匂いに包まれながら、少年はざまぁねぇやと呟いた。
 蒼星石が最初の茨の群れに飛び込んでいったのを見て、少年は彼女の言葉に従った。理解力に難がある、と詰られることが多い彼だが、雪華綺晶の目標が蒼星石ではなく、自分と自分の抱いている人形だということについては流石に理解していた。
 愚図愚図している暇はない、と彼は思い切り良く身を翻して逃げ出した。不人情と謗られるかもしれない行動だったが、その判断は多分間違っていなかったと少年は思う。
 ただ、相手の実力は少年と蒼星石が想定していたよりも遥かに上だった。
 精一杯ダッシュしたはずなのに、何か巨大なものが凄まじい勢いで背後に迫ったかと思うと、次の瞬間には少年は抱いていた人形諸共、入り組んだ形の白い小部屋に囚われていた。
 多分、いきなり逆上させてしまったのが悪かったのだろう。何か上手い言葉で間を繋いでいれば、穏便に済ませることはできなくても、そのうちに隙を衝いて逃げおおせる機会が見出せたかもしれない。
 しかし、それは語彙の多くない少年と、言葉を弄するのが不得手な蒼星石の二人には荷が重過ぎる選択肢だった。彼等は彼等らしく、正直に雪華綺晶を否定して、強烈なしっぺ返しをされたのだった。
 それは仕方がないことだと彼は思う。実力の差というものを見せ付けられただけだ。ただ、メイメイの──水銀燈の期待に応えられなかったことと、結局腕の中の人形を雪華綺晶に渡してしまうことになるのは残念だったし、何より蒼星石のことが気懸りだった。
 雪華綺晶はどういうわけか、蒼星石のことを目の仇にしていたようだった。理詰めで行けば彼女が恨んで敵視するのはいろいろと彼女の可能性を潰して回っている水銀燈のはずで、蒼星石は無関係もいいところなのに。

 他ならぬ「今現在の」自分自身が二人の争点になっていることには、少年は気付いていなかった。
 彼が単純にそういった心理に致命的に疎いだけであるとか、正確に理解しているのに敢えて気付かない振りをしていたいとかいう恋愛小説的な状態であればまだ上等なのだろうが、生憎とそういう高度な事情は彼にはない。
 彼の認識では、彼の周囲の薔薇乙女達──といっても水銀燈と蒼星石の二人だけだ──が好意を向けているのは、専ら過去の自分だった。今の自分はその延長線上、言い換えれば過去の自分の選択の結果として存在しているから受け容れられているだけで、それ以上でも以下でもない。
 もっと端的に言ってしまえば、自分が捨ててしまったという、生まれる前から持っていた知識と経験と人格の方を彼女達は愛しているように見える。
 そして、少なくとも水銀燈に対してはそれは正しい認識だった。ただそこに、記憶を失う前の彼が既に想い出として美化され始めているという側面があることを少年は知らない。
 先程雪華綺晶が呟いていたように、今の自分は残り滓に過ぎない、というのが少年の現状認識だった。何の役にも立たないし、むしろ何かと水銀燈の手を煩わせているだけだ。
 ただ、無力感に自棄を起こしたり鬱屈していってしまうような繊細さも彼にはなかった。今のところ見放されていないのだから頑張ってできることを見付けて行けばよいという、前向きというよりは楽天的な考えが彼を動かしている。
 蒼星石がむしろそんな彼だからこそ密かな好意を向け始めていることには、向けられている当人は気付いていない。
 まして、雪華綺晶が無自覚だが深い嫉妬を向けているのが、腕の中で眠っているドールでも蒼星石本人でもなく、蒼星石が抱いているささやかな恋心──稀代の錬金術師にして人形師の創り上げた最高傑作の一つというよりは、むしろ平凡な年頃の少女のような──だということなど、考えも及ばないことだった。

 お手上げと言いたいところだったが、少年はどうにか気を取り直すことに成功した。
「なんとかしなくちゃな」
 腕に抱いたままの白い人形に視線を落とす。生きているように愛らしい、というよりは大きくて精巧なフィギュアのような顔だが、美醜はこの際関係がなかった。とにかく、メイメイがわざわざ自分を見込んで頼んできたのだし、何より相手の前で二人で意地を張ってみせたのだから、なんとしても二人でこの人形を回収して現実世界に帰らなければいけない。
 ごめんなと一応謝ってから人形を片手で抱き直し、空いた手で閉じている白い花弁を押してみる。いくらか撓む手応えはあったが、異様に重かった。
 殴りつけ、力任せに蹴飛ばしてみても同じだった。体育館のマットを相手にしているような感覚で、硬くはないがその重量と柔らかさが少々の打撃など吸収してしまうように思える。
「掌底で衝撃を与えるとか……」
 口に出してみると改めて無理だということが分かってしまう。そもそも少年はそういう拳法やら空手のようなものを扱えるわけではなかった。
「──くそ」
 腹いせに思い切り蹴飛ばしてみる。しかし、結果には取り立てて変わったところはなかった。少しばかり余分に靴の先がめり込み、花弁がやや強めに揺れただけだ。

──なんか鎌とか剪定鋏とか……なんかあれば……。

 午後まで庭仕事をしていたせいか、ついそういうものを想像してしまう。包丁やら果物ナイフの方が恐らくこの場では有効なのだろうが、少年の連想はそちらの方向には向かなかった。
 ともかく、見回してみたところで何かが出てくるわけもない、と空いている方の手でごそごそとポケットを漁ってみる。桜田宅に行ったときに着ていたツナギならともかく、普段着に着替えた後では便利なものは出てくるはずもなかった。ハンカチと飴玉程度、後は帰宅したときからそのままになっている財布くらいなものだ。
「小銭とカードか……意味ねえっ」
 言いながらも、人形を抱いた姿勢のまま不器用に財布を取り出し、本屋のレンタル会員券を抜いてそれを手に持ってみる。
「これで切れれば御の字!」
 もしかしたら花びらには歯が立つのではないか、という計算というよりは願望に近い思いで精一杯切り込んでみる。結果は虚しいものだった。
 花弁の表面にはごく浅い傷がついただけで、どういうわけかそれもすぐに回復してしまう。掌に押し当てた爪の跡が瞬時に元通りになるようなものだった。
「なんだよこりゃ……」
 それでも二度、三度とカードで切りつけて、少年はそれが無駄だと悟らされた。形こそ巨大な薔薇の花弁だが、それはどちらかと言えば動物の皮膚に近い、それも回復の異常に早い、異質な何かだった。

──こりゃ、ほんとに草刈機でも持って来なくちゃ駄目だ。

 それも、専用のチップソーが付いたものでないと無理だろう。
 少年は午前中に使った刈払機を思い出していた。沼のようになった池の跡に生えていた灌木を伐るのにはいつものナイロンコードや普通のチップソーでは無理で、彼は初めて「山林下刈専用」という何やら玄人っぽい名前の付いた、刃の数の異様に多いチップソーを刈払機に付けて使ったのだった。
 確か100枚刃だったっけ、と余計なことまで思い出してしまう。小さめの肉抜き穴がびっしり開いた、いかにも普通とは違いますよとアピールしているような品物だった。そして、謳っているとおりかどうかは分からないが、少なくとも灌木はどれも根元近いところですっぱりと切断できたのだ。

──あれがここにあればなぁ。

 あのくらい切れ味が良ければ、多分こんな柔らかいモノなら苦もなく切断して、大穴を開けてやれるはずだ、と少年は思う。有り得ない妄想に逃げるのは一種の逃避行動なのだが、本人はそれに気付いてはいなかった。
「……しいの……?」
 かすかな声がした。少年は思わず花弁の向こうに聞き耳を立てる。雪華綺晶か蒼星石がすぐ外で何かを言ったのではないかと考えてしまったのだ。
 しかし、声はもっと近いところから発せられていた。
「……が、あれば……あなた……出られるの?」
「目ぇ覚めたのか?」
 慌てて視線を人形の顔に戻す。雪華綺晶とよく似た人形は、目を閉じたまま、唇だけを僅かに動かしていた。
「……強く、イメージして」
「なんだって?」
「それを……はっきりと、具体的に」
 途切れ途切れだったが、何を言いたいのかは伝わってきた。少なくとも少年は理解した気分になった。
 彼がもう少し疑い深い性格なら、これは罠ではないかと疑ったかもしれない。思慮分別に富んでいれば、追い込まれたが故の幻想だと悲観してしまったかもしれない。
 だが、彼は良くも悪くも彼に過ぎなかった。いつも薔薇乙女達にそうしているように、特に裏を読まずに素直に彼なりにドールの言葉を理解した。
 よし、と一つ頷いて、少年は自分の考えを纏めるために口に出してみる。
「欲しいのはチップソーじゃないんだ。ああっと、それももちろん必要なんだけど、草刈機全部が揃ってないと駄目だ。燃料も満タンで、すぐ使える状態になってないと」
 顎を引き、目を閉じて眉を寄せながらいつもの工程を思い出す。
 薔薇屋敷の裏手の倉庫の壁に掛けてある刈払機。Uハンドルで、右手側にスロットルレバーが付いている。肩掛け紐はすぐに裏返しになってしまうから、使うときはちゃんと捩れていないか確認してから肩に掛けないといけない。
 混合ガソリンも必要だ。使い終わって壁に掛けてある状態ではガソリンは抜いてあるから、使う前に混合燃料を燃料タンクに八分目になるまで注いでやる。
 給油を終えて現場に持って行ったら、キャブレターの下面にあるゴムのポンプを押してやって、最初の燃料をエンジンに入れ──
「──!」
 急に周囲が暗くなったような気がして、少年ははっと目を開けた。正面には何の異常もない。だが、花で言えば中心に近い方を振り向くと、そこにあったはずの複雑な形をしたものは跡形もなく消え、虚無がぽっかりと口を開けていた。
 抱いていた人形の髪が、風もないのにそちらに靡いていく。人形の身体そのものもそちらに動き出そうとしている。いや、そうではない。人形が、虚無へと引き込まれようとしているのだった。
「なんだよこいつは!」
「焦らないで……集中して、イメージを作って」
 かすれたような声で、人形は懸命に呟いていた。
「だってお前、んな悠長なことやってたら持ってかれちまうんじゃ」
「……余裕があるうちに……早く」
 少年はもう一言言いかけ、そこで漸く理解した。
「畜生、一方通行の会話かよ。分かってたけどさ!」
 彼の声は多分届いていない。人形は彼の感情の流れのようなものだけを感じ取り、自分の意思を伝えるだけで精一杯なのだろう。
 目を閉じていても引き込まれて行かないように両手で人形をきつく抱き直す。額に汗をかきながらぎゅっと目を閉じ、中断してしまった刈払機のイメージをもう一度はっきりさせようと努力した。
 気ばかり焦って、中々それは具体的になってこない。それでも少年は必死で刈払機をイメージした。
 幾つもの意味で時間が切迫してきている。そのくらいは彼でも理解しているのだ。


「ふふ……強情な方」
 先程一瞬だけとはいえ寂しそうな顔を見せたことや、能面のように無表情で呪詛のような言葉を呟いていたことが信じられないほどのにこやかな笑顔で、雪華綺晶は蒼星石に呟いた。
「今なら貴女だけは逃がして差し上げても良いのですよ、青薔薇のお姉様。私の欲しいものは二つとも手に入ったのですから」
「それはもう、二度も聞いた」
 蒼星石は言いながら、レンピカと連携して何度目かの白茨の突進を防いだ。
 白茨の攻撃には一定のパターン、もしくはリズムのようなものがあった。レンピカとの連携が上手くなってきたことも影響しているのか、蒼星石が白茨の群を切り抜けるまでの時間は次第に短くなり、結果として雪華綺晶との間は狭くなってきている。
 それは見て分かっているだろうに攻撃方法を全く変えないのは雪華綺晶の余裕の現われなのか、それとも変えられない理由でもあるのだろうか、とふと蒼星石は考える。
 雪華綺晶が白茨を放ったタイミングで即逃走にかかれば、間隔が少しばかり詰まろうが関係のないことなのだが、雪華綺晶は一向に退こうとしない。恐らく彼と人形を飲み込んだ巨大な白薔薇は雪華綺晶と共に逃走することができないのだろう、と彼女は推測していた。
 しかし、それでも追い詰められているのは蒼星石の方だった。時間というファクターは、今のところ雪華綺晶に有利に働いている。

──あとどの程度なのだろう。五分か、十分か。

 あるいはそれほども残っていないかもしれない。
 nのフィールドの中で、味方に媒介のいない戦いをするのは、考えてみれば水銀燈が真紅の腕をもぎ取って以来だった。
 あのときでさえ、自分はマスター不在だったとはいえ、当初は媒介の必要ない水銀燈がこちら側についていた。有利不利は別にして、少なくとも時間制限を気にするほど長引くような戦いではなかった。
 今は全く事情が違っている。彼女は独りで雪華綺晶を倒すか退却させなくてはならない。それなのに、まだその本体に指一本触れることができていないばかりか、自分に残された時間は刻々と短くなっていく。
 それでも、その刻限が来るまでは鋏を振るい続けよう、と彼女は覚悟を決めていた。
 何かハプニングが雪華綺晶側に起きないとは限らないし、自分の突進が相手に届くこともあるかもしれない。可能性が全くなくなるまでは諦めたくなかった。

 彼女は自分の一番大きな変容に気付いていない。
 以前の彼女なら、そこにもう一言足してしまっていたはずだ。それが僕なのだから、と。
 今の彼女にはそういった理由付けは必要なかった。契約も誇りも意地も、アリスゲームさえも関係なく、敢えて言えば自分の勝手で戦っている。
 それは薔薇乙女として、ひいては至高の少女を目指す者としては大きな退歩かもしれない。至高というよりは俗物的な、夢の少女というモノの反対側、その辺りに転がっている現実の人間に大きく近付いてしまったことと同義だった。
 知識を得て精神的に弱くなった、強くなったなどというのは、それに比べたら些細なことに過ぎない。いや、俗な方向に動いたことを彼女は漠然と「弱くなった」と受け止めているのかもしれない。
 蒼星石が求めてやまなかった「自分」は、彼女自身気付かないうちに獲得できてしまっている。ただ、その衝動が至高の少女の一部となるための動機付けとして用意されたものであるなら、随分と皮肉な形と言うしかなかった。

 いずれにせよ、蒼星石はそういったことを考える間もなく、雪華綺晶に突進しては彼女の繰り出す白茨に阻まれるという行動を続けている。それが次第に雪華綺晶の近辺まで押して来ているのは、雪華綺晶側の圧力不足というよりは、蒼星石の執念の表れのようなものだった。
「何度も何度も同じことばかり……退屈におなりにならないのが不思議ですわ、お姉様」
 雪華綺晶は白茨を放つ合間に揶揄するような笑みを蒼星石に向けた。
 ただ、その瞳は笑っていない。隻眼は先程泥棒猫呼ばわりしたときよりもずっと昏い色で蒼星石を睨み付けている。恐らく蒼星石が白茨を処理している間も、そのまま睨み続けているのだろう。
 その理由は何なのだろうか。自分への嫉妬や嫌悪だけだとしたら、もっと憎しみをはっきりと押し出してもおかしくないはずだ。少なくとも一度は本心を露わにしたのだし、それを今更隠す理由はない。
「僅かずつでも目標に近付いているからね」
 蒼星石はにやりとしてみせた。雪華綺晶は無言で微笑し、新たな白茨を放ってそれに応える。


 少年のイメージは徐々に、刈払機を動かす工程から機械本体の細部に及んでいった。黒いプラスティックのエアクリーナーカバー、赤いチョークレバー、燃料タンクから伸びる給油管と復油管、いつも給脂が必要なギアボックス。刈刃押えは逆ナットだから注意して扱わないといけない。
 漫画風に描けば滑稽極まりない光景かもしれない。白い薔薇の蕾に飲まれ、背後には暗い虚無がぽっかりと口を開けている場所で、少年は大きな人形を胸に抱き締め、額に脂汗まで滲ませながら、一心に冴えない安物の農業機械を思い浮かべている。
 しかし、それは彼にとっては唯一の、現状を打破できそうなアイテムだった。
「……それの、名前……は?」
「名前なんてついてないぞ。ただの草刈機だって」
「……」
 人形の頭がかすかに、頷くように動いたような気がした。
「私と同じ……」
「えっ?」
 少年は思わず目を開け、まじまじと人形の顔を見詰める。人形は金色の瞳を開き、彼を見上げていた。
「名前は個体の識別に必要なもの。それはとても大切なもの。でも、対象の本質を表してはいない、仮の言葉」
 小さいが、はっきりした声だった。人形は視線だけを動かし、白い薔薇の花弁以外何も見えない「上」を眺めた。
「それはただの理屈ではなかったのですね、お父様。現にこうして、名前もない機械をこの人はイメージできた──」
 一瞬だけ人形の体が光ったように少年には思えた。それが収まると、人形はまた目を閉じ、もう声を上げることもなかった。
「おい、大丈夫か、おいっ」
 少年は二、三度人形を揺すってみて、それが再び言葉を喋ろうとしないことをやっと確認した。
 自発的に動かなくなっても、まだ虚無が人形を引き込んで行こうとしていることに変わりはない。現に腕の中から人形が流れて行きそうになっていた。一つ悪態をついて抱き直すと、狭い中だったせいで体勢が崩れた。
「っと……」
 手を突いた先を見ると、よく見慣れた、しかしここにあるはずのない物体がそこに出現していた。
「……すげえ」
 狭い中では取り回すだけで苦労しそうな長い竿の先に小さなエンジン、逆の先に丸鋸によく似た円盤が付いている。気付けば周囲に混合燃料の独特な匂いまで漂っていた。
「やったぜ。すげえじゃんお前! よぉし、これでどうにかしてやれるぜ」
 人形を落ちないように注意して片腕に抱え、その手で刈払機の竿を押えて、少年は空いている方の手でリコイルスターターを勢いよく引いた。小さなエンジンはまるでついさっきまで動いていたように、ぐずりもせず一発で始動した。


 レンピカが蒼星石の指示なしで螺旋を描くような軌道を取り、茨を幾つか切断した。蒼星石は後ろに下がりながら軌道を見定め、右下に沈み込んで直撃を避けながら残りを鋏で切り飛ばす。
 そのまま雪華綺晶の目前まで迫ったとき、微笑みと共に次の一陣が放たれる。圧力に押されながらそれを同じようにして切り落とす。我ながら、まるで同じ映画のシーンを見続けているようだと蒼星石は思った。

──しかし、流石にワンパターン過ぎないか。

 ここまで繰り返されると、その裏を考えざるを得ない。ただ時間を稼いでいるだけではなく、積極的にこれ以上の行動が取れない理由があるのではないか。
 夢中で戦い続けていたから気が回らなかったが、巨大な白薔薇の花も最初の位置から微動だにしないでいる。まるでその状態から動かそうにも動かせないようにさえ見えてしまう。
 自分に向かってくる茨を避ける。雪華綺晶に何が起きているというのかと考えていたせいで一瞬回避が遅れ、彼女は咄嗟に左下に動いて鋏を振るうことになった。半ば機械的に繰り返していた動きとは別の行動になってしまったせいか、それとも鋏の向きが逆手になってしまったためか、茨の処理が遅れた。大分余分に時間が掛ってしまう。
 向きが変わっただけでこうも違うのか、と体勢を立て直しながら考える。パターンに慣れて来たからこそ攻め込めていたものの、もともと間断なく飛んで来る白茨だけでも自分には十二分に脅威だ。それを忘れていただけだった。
 現に今回は前回までより若干距離が遠くなってしまっている。自分の行動こそパターン化しているのもいいところで、白茨の対処だけで殆ど飽和してしまっているではないか──
 彼女はびくりとする。遅まきながら、何かに気付いたような気がした。

──異変が起きて行動が取れないのではない。向こうも最初から飽和しているのだ。

 今の自分がそうであるように、雪華綺晶もまたこの場の維持で手一杯なのだ。そして、自分に常に同じルーチンで対応しているということは、主な注意はこちらに向いていないことを示している。
 必要以上に睨んでいたのはそれを隠すためか、あるいは一番注力している方の進捗がはかばかしくないことの焦りが表れているのだろう。
 それならば、と彼女は賭けに出ることに決めた。
 雪華綺晶の行動全体が罠である可能性も否定はできない。だが、罠を掛けて誘っているということは、逆に余裕がごく少ないことの表れでもある。
 それにどちらにしても、時間は自分に味方しない。仕掛けて損はないはずだ。
 もう数えるのを止めてしまった白茨の攻撃に対してレンピカが同じように力を殺ぎ、蒼星石は再びルーティンに戻り、右下への移動で残った茨をやり過ごし、一直線に伸びているそれらを鋏で切断する。
「残り時間はごく僅か……それなのにまだその動きを繰り返すのですか? お姉様」
 最後の白茨を切り飛ばしている最中に、雪華綺晶はからかい気味にそんな言葉を投げて寄越した。蒼星石は厳しい表情のまま、口周りだけを歪める。
「じゃあ、お望みのとおりに違う動きをさせて貰うよ」
 言いながら、それまでと同じように鋏を構えて真一文字に突進する。
「強気ですこと」
 雪華綺晶は能面のように微笑を貼り付けていた。
「でも違った動きをするのがお口だけでは、相手がただの可愛いお人形でも騙せませんわ。お姉様──」
 雪華綺晶の手が優雅に動き、蒼星石目掛けて白茨を放とうとした瞬間、その作り付けられていない右目の眼窩から生えた白薔薇が蒼い光を受けて一瞬煌き、次いで隻眼に強い蒼い光が届いた。
「──ッ!」
 雪華綺晶は思わず顔を背けて目を閉じ、空いている方の手で顔を覆う。白茨は放ったものの、体勢は大きく崩れていた。

 蒼星石が使ったのは散々使い古された、むしろ古来から定番になっている目晦ましだった。ただ、普通は太陽と鏡を使うそれを、人工精霊が強く瞬いたときの光と鍍金仕立ての鋏の刃で代用しただけのことだ。
 人工精霊は実体のある物には直接触れることができない。自分達の主人たる姉妹達を直接攻撃することも禁じられている。だが、自分の判断で行き場を決めることはできた。
 そして、少なくとも主人との呼吸の合い方と命令を無駄なくこなす能力に限れば、レンピカは六体の人工精霊のうちで最も優秀だった。
 レンピカは螺旋状の軌道で白茨を切断した後、元の位置には戻らず蒼星石と平行して飛び、彼女が鋏を動かしたときに自分の放つ光が雪華綺晶の顔に当たるような位置を取った。微調整は蒼星石が鋏を動かして行うという粗っぽい遣り方だった。
 しかし、その原始的で雑な仕掛けは結果的には大成功だった。偶然なのか何等かの作為が働いていたかは兎も角、光は雪華綺晶の太陽を未だに見たことのない隻眼を直撃したのだった。

 雪華綺晶が再び正面を向くまでにはほんの一拍ほどの間があっただけだった。
 時間的にはごく僅かな隙だったが、タイミングが最悪だった。放たれた白茨は目標を大きく外れ、圧力を失くして途惑うようにゆらゆらと蒼星石を指向する。その間に蒼星石は雪華綺晶に肉薄していた。
「──ごめん」
 先端の尖った鋏の刃を、蒼星石は容赦なく雪華綺晶に突き立てた。
 絶叫が響き渡った。


 何かがあったのは、少年にも伝わっていた。だが、それは彼にとって良い方向に事態が動いたとは決して言えない形だった。
 機械が首尾よく動いたにも関わらず、爆音の割に作業は捗っていなかった。片手に人形を抱えながら、空いている方の腕一本で長物を操作しているから思うように力が入らないのだ。
 それでも、どうにか横に二本の切れ目は入れられた。刈払機を持ち替え、今度は縦に切れ目を入れ始めたところで、魂消るような悲鳴が聞こえてきた。
「蒼星石!?」
 誰の声なのかはよく分からないが、悲鳴はごく細く開いた花弁の隙間からだけでなく、背後に開いた虚無の彼方からも同時に聞こえて来た。エンジンの爆音が響いているのに、まるで別の感覚が感じ取っているかのように明瞭に聴き取れた。
 が、問題はそこではなかった。声が収まらないうちに、虚無への口の縁が崩壊を始めた。白い花弁は茶色に萎び始め、腐って虚無へと落ちて行く。

──やべえ。

 この中に居たら、花弁が全部腐り落ちた時点で虚無に呑まれる。いつものように理屈でなく直感で、気取った言い方をするなら感性で、いつもの彼には似つかわしくなく瞬時に少年はそれを理解した。
 ホラー映画張りの恐怖展開だった。違っているのは、自分が観客の位置に居るのではなく、まさにその中に存在していることだ。
 兎も角もやれることは一つしかない。それにしがみつくように、少年は再び誰かが見ていたら滑稽だと笑い出しそうな作業に集中し直した。



[19752] スランプ気味か。110行程度でタイムアップ。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/11/20 22:58
雪華綺晶ってボディ潰しただけじゃ死なないような気がするんだ。
だってあれ、自分で勝手に作り上げてる虚像みたいなもんだろうし……。

11/16 少々文章入れ替え。

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 僅かに先端が開かれた庭師の鋏は深々と雪華綺晶の胸に突き立った。
 人間であれば動脈を切断するか内臓に深刻な損傷を負わせ、致命傷となったことだろう。彼女達薔薇乙女にとってもまた、そこはローザミスティカのある場所だった。
 鋏の先端は充分その場所に到達しているはずなのに、ローザミスティカの手応えのようなものは感じられない。蒼星石の一撃は単に大きなダメージを与えただけに留まっていた。もっとも、彼女の方も最初から致命傷を与えられるとは思っていない。胸に突き立てられただけでも僥倖と言うべきだった。
 蒼星石は痙攣している雪華綺晶の身体を思い切り蹴り飛ばし、その反動でどうにか突き刺さった刃を抜き取った。
 ボディがない相手のはずなのに、突き立てたときも抜くときにも蒼星石は妙な手応えを感じていた。少なくとも陶器や木材の手応えではなかったが、その具体的な材質について思い巡らす暇もなく彼女は雪華綺晶から離れた。
 その間も雪華綺晶の悲鳴は続いていた。
 だが、魂消るような絶叫を上げつつも雪華綺晶は今までになく大量の白茨を放ち、蒼星石を追わせた。それは痛みや憎悪に任せた苦し紛れの一撃に過ぎないのかもしれなかったが、先程放たれた茨と丁度呼応するような形になり、蒼星石を包み込むように迫って来た。
 かなりのダメージを与えたはずなのにまだこんなに余裕が残っているのか、と蒼星石は思い、すぐに自分の考えを訂正する。

──あの巨大な薔薇を手放したからだ。

 彼女の脇を通って少年がいたはずの地点まで真っ直ぐに伸びていた茨の束は、まるで高速度撮影を見るように醜く朽ち始めていた。枯れる、というような形ではない。まるで樹木ではなく湿地の草のように、不恰好に萎びて腐っていく。
 雪華綺晶のコントロールを外れ、力も供給されなくなったことの証明のようなものだった。茨の先端にある花自体はまだ形を保っているが、早晩同じ状態になるに違いない。
 あれに呑まれるとどうなるか、そこまでは分からない。だが、雪華綺晶があちらをどうにかするためにずっと注意と力そのものの大半を振り向けていたのだろう、ということは理解できた。
 大薔薇を捨てたのは本来の力が出せないほど手酷くダメージを受けたことを示しているのかもしれないが、蒼星石に当てる白茨の量は本命を捨ててしまった分多くできる。考えてみれば単純な話だった。

 思いを巡らしながらも、蒼星石は休みなく迫り来る茨の一部を切り飛ばして飛び抜け、その包囲網を免れた。幸い第二陣は飛来しなかった。
 愚図愚図してはいられなかった。雪華綺晶が痛みに苦しんだり心理的な衝撃に苦しんでいなければ、時間と共に体勢を立て直し、茨のコントロールにも余裕が生まれてくるだろう。
 それまでに腐ってゆく白薔薇から彼を救い出し、今度こそ二人揃って首尾よく退却しなければならない。
 開けた視界で雪華綺晶を一瞥する。純白の末妹は苦痛に呻吟しながら、もがくように大薔薇の方に向かって移動を始めていた。
 もう一撃を加えて意思を挫くべきか、という考えが過ぎる。だが彼女はそれを採らなかった。
 今は時間がない。大薔薇の花が朽ちて腐り落ちてしまう前に囚われた少年を助け出さなければ、恐らく彼は雪華綺晶のフィールドか、もしくはそこですらない容易に追えない何処かに引き込まれてしまうのだろう。
 自分の時間の方こそ余裕がなくなってきていることは、いつしか頭から抜け落ちていた。
 彼女は雪華綺晶に先んじて大薔薇に到達するために精一杯加速する。ちらりと相手の方を見遣ってみたが、雪華綺晶の動きは鈍く、周囲の流れに押されて軌道も安定していなかった。
 莫大な力を持っているらしい彼女も、苦痛には耐えられないらしい。それとも流石にダメージを受けた上に派手な一撃を放てば消耗してしまうということか。いずれにしても、蒼星石には好機だった。

 花に近付くにつれて聞き慣れた音が耳に届き始める。それはここでは有り得ない物が立てる音だったが、蒼星石は軽い驚きを感じる程度でそれを受け容れた。
「貴方はまだ……」
 力を失っていなかったんだね、と、こんな状況にも関わらず微笑みが浮かんでしまう。
 心の木のときはチェーンソーを、この場では刈払機を出現させ、彼女には伐れないものを伐ってくれている。それは相手によっては口惜しい事柄かもしれなかったが、何故か嬉しさが湧いて来るような気がした。
 彼女はすぐに微笑を引っ込め、甲高いエンジン音の響く場所に向かう。後ろから追ってきている相手のことを考えれば──
「──ぁ」
 小さく声が漏れてしまう。かくん、と力が抜け、それまで無視して強引に突き進んでいた身体を流れが翻弄し始めるのが分かった。

──意外に早かったな。

 自嘲気味に考える。nのフィールドでの時間制限よりも早く来てしまうとは思ってもみなかった。
 彼女達のもう一つの限界──媒介なしで行動しているときの、力の限度を超えてしまったのだ。雪華綺晶との戦いで常に全力を振り絞っていたのが原因なのは考えるまでもなかった。
 少年の操る刈払機のチップソーが不恰好な四角い切れ目を花弁に開けつつあることを確認して、蒼星石は後ろを振り向いた。流れに上手く乗ったのか、雪華綺晶は思ったよりもごく近くに迫っていた。
 ゆっくりと鋏を構え直しながら、蒼星石は雪華綺晶の顔を睨めつける。純白に包まれた蒼白の少女の顔は柔らかく微笑んでいた。そして、その目はもう彼女など見てはいなかった。
 白茨でなく雪華綺晶自身の手で、蒼星石は脇に突き飛ばされた。苦し紛れに鋏を動かしてみたものの、力が篭らない得物は流れに押されて狙いを外れ、白い髪を僅かに切り落としただけに終わった。

──ここまできているのに、何もできないのか。

 川面を流されていくセルロイドの人形のように激流の中を漂いながら、蒼星石は無力さを噛み締める。花弁は徐々に遠ざかっていく。
 レンピカがぴったりと彼女に寄り添ったが、忠実な人工精霊にもそれ以上のことはできなかった。
 今は次にレンピカに何を命じるか、それを考えるのが最良の選択肢なのだろうと彼女の冷静な部分が思う。他にできることはないし、手遅れにならないうちに命じなければ、今度は時間制限がやってくる。
 そうなれば彼女の魂と身体はローザミスティカと離れ、身体は雪華綺晶の手に落ちてしまうだろう。自分がどうなるかは兎も角、雪華綺晶に身体を渡すことだけは避けなければならない。
 一瞬だけ唇を噛み締める。理屈では分かっていても、もはやその程度しか為せる事がないという認識は雪華綺晶に力負けしたことよりも遥かに悔しいものだった。
 彼女は息をつき、力を抜いて目を閉じ、体力の消耗をできるだけ抑える体勢を取ってから、レンピカに与える指示を考え始める。時間のあるうちに、有能だが少しばかり頑固で融通の利かない人工精霊に、遺漏なく実行できるように指示を与えなくてはならなかった。


 雪華綺晶は微笑んでいた。彼が朽ち果てていく花から出て来ようとしているのは分かっていた。
 彼を先ず花に閉じ籠めることにしたのは雪華綺晶自身だったが、こうなってしまえば出て来て貰って一向に構わなかった。出て来たところを改めて捕獲すれば良いだけの話だ。むしろその時のために彼女は巨大な薔薇の花に向かっていた。
 邪魔をしていた蒼星石は、彼女に深い一撃を加えはしたもののその代償は大きかった。力を使い過ぎ、限界を超えてしまったのだ。
 電池切れの浅墓な姉を手で押し退け、彼女は大薔薇に取り付く。
 長いウェーブした髪の端が庭師の鋏に切られる感覚があったが、それは無視した。もう、彼女にとって蒼星石は脅威ではない。何ならもう暫くもがき回らせておいて、後から魂とローザミスティカの離れたボディを回収してもいい。それは彼女にとって二つ目の「家」になるだろう。
 痛む胸を薔薇の花弁にぴたりと付けたのは、彼女がそれだけ消耗していることの証だった。無力となった蒼星石に止めを刺さなかったのも同じ理由だ。刺さないのではなく、刺せなかったのだ。

 それもこれも、と雪華綺晶は微笑をいっそう無邪気なものに変える。彼かあの白い人形──多分、彼の方だろうが──の恐ろしいまでの抵抗力のせいだった。
 白薔薇は本来、彼等を呑み込んだところで即座に中身を雪華綺晶の世界に転送し、雪華綺晶はそれと共に退却するか、全力で蒼星石を倒してしまえるはずだった。単独で遣り合えば時間にも力にも制限つきの蒼星石に雪華綺晶の相手が務まるはずもない。
 しかし、彼はそれに苦もなく抵抗してしまった。雪華綺晶は致し方なく、白薔薇そのものに彼女の世界への扉を開け、彼等を吸引しようと試みた。
 それは非常に大きなリソースを必要とした上、継続して力を振り向けてやる必要があった。彼はそれすらも耐え切ってしまった。まるでそういった転送を無効化できる何かが備わっているようでさえあった。
 そして、彼は如何なる魔法を使ったものか、雪華綺晶の力の分配を失って腐り落ちていく薔薇の花弁から、けたたましい音を立てつつ飛び出ようとしてさえいる。
 痛い、力が出せないと言っている場合ではなかった。飛び出してきた厄介な彼を不意打ちで捕獲し、今度は外部からの干渉には弱いが確実な白茨で捕縛して自分のフィールドに連れ帰る好機だった。
 出て来なければ少年はnのフィールドの何処か深部に落ちるだろう。彼女にとってそれもまた悪くない展開だった。nのフィールドの中なら何処であっても彼女は回収に赴ける。ただし、他の姉妹に先に回収されてしまう可能性もないとは言えなかった。
 こちらに出てきたならば此処で捕獲してしまいたい。敢えて大仰に言えばその気持ちが彼女を苦しみながらも大薔薇の花へと向かわせたのだった。

 少年には蒼星石の直面している事態に気付いたり、雪華綺晶が自分の間近に迫ってきていることまで思慮を巡らせる余裕はなかった。
 ゆっくりとではあるが、薔薇の花弁は確実に崩壊している。頼みの綱の刈払機は、狭い中、しかも片手で扱っているせいで思うように動かせず、作業は思うように進まない。
 それでも、流石に専用の機械に専用の刃を付けているだけのことはあった。どうにか、足元まで崩壊が迫る前に花弁に大きく四角く切れ目を入れることには成功した。
「ざまぁ見やがれ! 文明の利器の力ぁ思い知ったか化け物花め。我々の科学力の勝利だ、ってやつだぜ」
 少年は笑い声を上げたが、問題はそこからだった。
 どん、と刈払機の先で切り取った部分を突いてみたものの、切り離せているはずのそこが花弁本体から離れないのだ。二度、三度と繰り返してみたが、ぐらぐらと動くことは動くのに、彼から見て下側の辺にあたる部分が引っかかっているように外れない。
 機械を止めている時間はない。少年は危険を承知で長身を窮屈そうに屈め、視点をどうにかその辺りにもっていく。切断面は暗い線のように見えるのだが、その中央辺りに花弁の色と同色の部分が残っていた。
「ちっくしょう、切り残しかよっ」
 焦っていてそこだけ残してしまったのかもしれない。いや、それしか考えられなかった。
「くっそぉぉぉぉぉぉ」
 崩壊は足元に迫っていた。少年は大声を上げることで恐慌に駆られそうになる自分をどうにか抑え、チップソーを切断面に差し入れる。

 思ったよりも消耗は激しかった。大薔薇のコントロールを切り捨てる踏ん切りを間違えたかもしれない、と薔薇の花に抱きつくように体を押し当てながら雪華綺晶は思う。もっと早期でも良かった。
 ただ、あの時点では蒼星石がどの程度まで戦えるか不明だったし、彼が何やら妙な形のものを持ち出して花を内側から切り刻み始めるのも予想できなかった。仕方のないことなのだ。
 仕方なくはあるが、残念でもある。自分の意識の上で仮に形成しているものとはいえ、ボディにダメージを負ってしまったのも、それがかなり重大なものだったことも残念だった。暫くは回復に専念しなければならないかもしれない。
 しかし、と荒い息をつき、考える。彼が出て来そうなのはとても良いことだ。
 変なものを扱えるらしいことは知っているが、それでも彼は契約者に過ぎない。実体のある薔薇乙女達ほどの能力も持ってはいない。出て来たら確実に捕獲はできる、と彼女は確信していた。
 彼女は歪な四角形に筋の入ったところで花弁に取り付いていた。その裏側に彼が居る。何か異様な音を立て、謎の魔法で筋を作ったらしいけれども。
 内側からどんどんと叩く音がしても、彼女の確信は揺らいでいなかった。
 ただ、それには自分に少しだけ時間が必要だということも分かって来ていた。薔薇を維持していたことによる消耗は思ったよりもずっと激しかったらしい。いや、蒼星石に受けたダメージのせいかもしれない。
 彼女は花弁に、現実世界の良く似た行動で言い表すならば「体重を掛けて」歪な四角形を抑え込んだ。
 花弁が崩壊するまでに少し回復したかった。回復しきれなかったら、このまま花弁が消滅するまで抑え込み続けてもいい。また脱出されてしまうかもしれないことを考えれば、nのフィールドの何処かに漂う彼を回収することなど大した手間ではない。自分は彼が何処に居ても追跡できるのだから。
 ちらりと確保している糧のことを考える。大分、彼女が糧として本来求めているものとは違う部分の力を使ってしまった。数少ない糧だから大事にしなければいけないのに。
 彼を捕獲したら、糧として使ってしまおうか、とまで考える。
「貴方のおうち。元気でなければいけないおうち。でも……」
 少しくらいはいいでしょう? だって、おうちになってしまえばすぐに回復できるのですもの。私のために少しくらい使っても許してくださいますよね──
 彼女が妄想に心からの微笑をしてみせたとき、左足に激痛が走った。

 どういうわけか花弁はそこだけ硬かった。少年は舌打ちをしながら、硬かったせいで切り残したのかもしれない、と瞬間的に考える。
 少年はスロットルを最大に開いた。爆音は異様に高まり、刃の辺りのスキール音も酷くなる。そこに別の音も混じっているのが分かったが、彼にはそれが何かということまで気を回すほどの余裕も残されていなかった。
 抵抗が酷く強いせいで暴れそうになる機械を必死で抑え付ける。ますます酷くなる音と、何かを焦がすような厭な匂いは無視して少年は刈払機を右から左にじりじりと動かした。
 手応えがなくなった、と感じたところで機械をそのまま勢い良く突き出す。ギアケースが壊れるかもしれないやり方だったが、彼はそんなことは一向に頓着しなかった。
 花弁の壁に不恰好な四角の窓が開いた。少年は躊躇なく、全身のバネを使ってそこから飛び出した。
 回転している機械を持ったままなのも、突き飛ばした花弁がどうなったかも気にならなかった。彼にとっては殆ど無風状態の空間に戻ると少年は声を限りに叫んだ。
「蒼星石ッ、大丈夫かあっ」
 辺りを見回すまでもなく、蒼い光が視界の隅にあった。少し遠いが、すぐに辿り着ける位置だ。
 彼は刈払機のキルスイッチを押し、一瞬のうちに静寂を取り戻した世界の中を、その光に向けて飛び出した。後ろを振り返る余裕はなかった。

 雪華綺晶は再び絶叫を上げた。そこから飛び退こうとしたが、どういうわけかどんなに力を振り絞っても体が言うことを利かなくなっていた。
 痛みと恐怖に叫びを上げ続けながら、彼女は悟った。回復する、しないといった次元の問題ではない。自分の力が何かに吸われているのだ。
 意識が徐々に薄くなっていく。それは今、仮のボディを切り刻まれているからというよりも、力そのものを吸われているのが原因だった。

──まさか。どうして。

 思い当たる原因は二つほどある。しかし、どちらであっても有り得ないことだとしか思えない。いや、思いたくなかった。
 彼女が薄れていく意識の中で考えている間にも、刈払機のチップソーは無慈悲に彼女の左の脛を左下から右上へとじりじりと切断して行き、最後に膝の下で切り飛ばした。
 意識がなくなる寸前、彼女は敗北感の中でローザミスティカと魂を自分の世界へと転移させることだけは成功した。それ以上の行動は時間的な余裕は兎も角、残された僅かな力の中では不可能だった。
 止めとばかり、歪な四角形がどんと一際勢い良く内側から突き飛ばされる。雪華綺晶の体はマネキンのように弾き飛ばされ、ゆっくりと漂いながらこの空間から消え失せていった。
 意識が途絶え、本体が自分の世界に帰還したために仮のボディが維持できなくなっただけの話ではあるが、彼女にとって無惨な撤退であることは間違いがなかった。



[19752] 眠いので取り敢えずうp。推敲してないのはいつものことSA
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/11/20 22:58
一部端折り過ぎで建築基準に達しないレベルの手抜き工事ですが、いまんとこ改訂予定はありません。
気が乗るか出来がどうしても気に入らなくなったら水脹れさせるつもり。


************************************************************

 黄色い光に先導された一人の少女と、銀色の光に先導された四人の少女が濁流の中で鉢合わせた。
 それはどちらにとっても予期しない邂逅であり、少なくとも金糸雀にとってはできるだけ避けたかった事柄だった。
「あら、金糸雀じゃない」
「す、水銀燈……奇遇かしら」
 軽く声を掛けられて金糸雀は若干ばつの悪そうな顔をした。

──ばれちゃったかしら……。

 金糸雀はピチカートからの報せを受けて、メイメイと蒼星石が雪華綺晶と戦っていた場所に急いでいたところだった。
 ピチカートはメイメイが白い人形を見付けて水銀燈の媒介の少年を連れに帰った時点では金糸雀の許に戻らずにその場で潜伏を続けていた。メイメイが人形をどうするのか、その行方を見届けるつもりだった。しかし蒼星石と少年を連れたメイメイがその場に戻り、雪華綺晶と戦端を開いてしまうと、流石に帰還して報告の要ありと判断せざるを得なかった。
 ピチカートの行動には問題はなかった。ただ、そちらを追い駆けていたことはできれば知られたくなかった。
 人工精霊に小さな人形まで放って追わせたのがあの黒い人形でなくメイメイだったことは、取りも直さず金糸雀が水銀燈を信用していないということを意味する。それは水銀燈本人にはあまり明かしたくない事柄だった。

 水銀燈の言葉を無条件に信用してはいない、という点では蒼星石も金糸雀と同じだろう。しかし、彼女にはこれといってアリスゲームに関する展望はないようだった。
 恐らく彼女はゲームに勝つことよりも今の契約者に負担を掛けないことを優先するだろう。この時代に限ったことではなく、今までもそうだったし、ゲームが次の時代に持ち越されたとしても変わるまい、と金糸雀は見ている。それが蒼星石の持って生まれた性格なのだ。
 金糸雀は少し違っている。もちろん過度な負担を掛け、契約者を指輪に取り込んでしまうほどの暴走をするつもりはない。だが、ゲームのために必要ならみつの力を借りても構わない、それは迷惑を掛けることとは少し違うのだと思っている。
 薔薇の契約は、一方的なものではないはずなのだ。どちらも恩恵を受け、お互いに助け合う。
 みつにとっては金糸雀の存在そのものが──彼女がドールマニアであることを除いても──救いになっていることは事実だし、金糸雀も出来る範囲で彼女の趣味や風呂敷残業の手伝いはしている。ただの可愛い居候ではないという自負はあった。
 もし、ゲームを遂行する上でみつの力を借りなければならないときが来れば、金糸雀は躊躇なくそうするだろう。むしろそれが薔薇乙女だという認識がある。
 金糸雀が折々に水銀燈のしてきた長話を全て信用しているわけではないのも、半分はそこに理由があった。
 水銀燈はゲームに利用できるものなら何でも──ただし彼女の美的感覚に照らして使うことに躊躇いを抱かないものに限られるのだろうが──利用するだろう。それは彼女の立場とアリスゲームに対する姿勢からはむしろ当然だ、と金糸雀は考えているし、否定するつもりはない。
 ただ、そうした彼女が長年貫いてきた襲撃者というスタイルでなく扇動者のような振る舞いをしているときに、その言葉の裏を読まずに受け容れるのは危険だった。たとえ全く嘘をついていなくても、都合の悪いことについて語らないで済ませることはできる。
 そういう駆け引きを汚いやり方だとか卑怯だとして忌み嫌っていないからこそ、金糸雀は現在も水銀燈に対して過度に近くなり過ぎず、付かず離れずという表現に近い距離を保っている。ある意味で彼女は、姉妹の中で水銀燈を最も良く理解しているとも言えた。
 だが、そう考えて行動することと、それを水銀燈本人にあからさまに示すのは、少しばかり話が別だった。

「確かに奇遇ね。ところで、蒼星石か私の媒介を見てない?」
 水銀燈はあっさりした言葉で、金糸雀がピチカートに追わせていたのがメイメイだと気付いていないということを表明した。ただ、余りに要領よく言われたお陰で、それは額面どおりに取った振りをしろという合図のようにも思えてしまう。
「見てないかしら」
 金糸雀は事実だけを答えた。水銀燈は、そう、と薄く笑った。折悪しく横殴りの流れがやってきて髪をどっと横に払ったお陰で、彼女の笑いに含むところがあるのかどうかは金糸雀には判然としなかった。
「メイメイが何か気になる物を見付けて、あのコンビに回収を依頼したらしいのよ。全く人選が悪過ぎるったら」
 水銀燈は髪を整えながらにやりとする。先を飛んでいたメイメイは抗議するようにチカチカと瞬き、ぐるりと彼等の周りを回って元の位置に戻った。
「水銀燈っ、道草食ってんなです」
 メイメイをぴったりと追尾していた翠星石が、緊張感がないように見えたのか、姉二人を振り向いて非難の声を上げた。
「アンタと違って蒼星石はマスター無しでは長いことここに居られないのです。早く見付けないと大変なことに……」
 自分の言葉が終わらないうちに、翠星石はくるりと反転して、今度はメイメイを急かす。
「さあ、早いとこ蒼星石の居場所に連れて行くです!」
 まるで自分の人工精霊に命令するような態度にメイメイは驚いたような動きをしたが、水銀燈が一つ頷くと承知とばかり加速して先導を再開した。
「妹想いなのは構わないけど、それより雪華綺晶と出会って無事で済んでいるかどうかが問題でしょうに」
 姉妹三人がメイメイに続くのを見て、水銀燈はやや大仰に肩を竦めてみせる。もう一度金糸雀に向き直ると、そういうわけだから、と手を上げて立ち去ろうとした。
 金糸雀はふるふると首を横に振った。
「待って。カナもご一緒させて貰うかしら」
「貴女は貴女の探し物を続けなさい。こっちは人数が余ってるのよ。もっとも──」
 水銀燈はすっと金糸雀に近付いた。
「──貴女があの人形を追ってるなら、だけどね」
 金糸雀は一瞬返事に詰まったが、すぐに水銀燈の手に手を重ね、自分からずいと顔を近づける。水銀燈が僅かに顔を引くほどの勢いだった。
「姉妹の大ピンチかもしれないときなのにカナだけ自分の探し物をするなんて薄情なことはできないかしら。みんながついて来るなって言っても一緒に行かせて貰うわ。それに、雪華綺晶と戦っているのなら手が多いほうが有利でしょう?」
 水銀燈は苦笑した。
「まあ、好きになさい」
 ひらひらと手を振ってみせ、振り向いて先に行ってしまった他の姉妹の後を追いながら、わざと金糸雀に聞こえるように独り言を残していった。
「なるほど、戦いになってたとはね……急ぐ必要が出てきたわね」
 メイメイに追いつこうとしているのか、急激に加速して小さくなっていく姉の後姿を見ながら、金糸雀はもう一度、今度は声に出して呟く。
「……ばれちゃってたかしら」
 ピチカートは同意の点滅をする。金糸雀は非常にばつの悪そうな顔になりながら、それでも懸命に前を追い始めた。


「蒼星石、どこだぁっ」
 少年が呼ぶ声は、蒼星石にも聞こえていた。ただ、彼女は大声を立てたり大きな身振りをして力を無駄に消耗したくなかった。
 よくある指針式の燃料計で言えば疾うに針はEのマークを過ぎている状態といったところだった。少しでも長く力を保たせるためには意識を保つぎりぎりのところまで消耗を抑える必要がある。
 とはいえ、急ぐ必要はあった。刻限が来てしまえばどれほど消耗を抑えようと意味がなくなってしまう。
 レンピカは素早く彼女の意を汲み、改めて命令を与えられるまでもなく代わりに行動に移った。
 焦ってきょろきょろと辺りを見回している少年に近付く。明るい青い光は少年の鈍い感覚でも流石に発見しやすかったのか、それとも視界の中に偶々入っていたのか、彼は先程白い人形を見付けた時とは違ってすぐにレンピカを確認した。
「蒼星石は?」
 レンピカは時間を無駄にしなかった。少年に必要以上に近寄ろうとはせず、綺麗なUターンを行うと一直線に蒼星石の方に向かう。少年はまたダッシュでそれに続いた。
 流されてはいたものの、元々の相対速度がそれほど速かったわけではない。少年の感覚でも、蒼星石を確認するまでにはそれほどの時間は掛らなかった。
「──いた」
 蒼星石は胎児のように丸くなり、帽子を抱え込んで膝を抱いている。眠っているようだったが、ごく間近まで近付くと、薄目を開けて微笑んだように見えた。
 少年は片手で持っていた刈払機を放し、蒼星石に手を伸ばす。くるりと回って流されそうになるのを慌てて押さえ、膝を抱えたままの彼女を片手で強く胸に抱き寄せた。
「キラキィに勝ったんだなぁ、蒼星石」
 顎の辺りに素直な髪の感触を感じながら、答えを待ってみる。蒼星石は表情を動かさず、目を開けることもなかったが、ほんの僅かに頷くような気配が伝わってきた、と少年には思えた。
「ありがとな。蒼星石がいてくれなきゃ、俺完全にアウトだった。あいつが勝ってたら、化け物花から出たとこでやられてたもんな」
 言いながらもぞもぞと彼女を抱え直す。片手なので上手く行かなかったが、それでもどうやら指先で彼女の髪に触れることができた。
 改めて見直すと、彼女の髪は乱れ、服には無数のほつれができている。雪華綺晶の白茨と何度も格闘した証のようなものだった。
 激戦だったんだろうな、と思うと自分の一言が悔やまれる。もう少し相手を大人しくさせておくような言い方ができれば、蒼星石をこんなに酷い姿にすることも、これほどに疲れさせることもなかったかもしれない。
 栗色の、思ったより長めの髪を指先だけで撫でながら、ありがとう、ごめんな、ともう一度少年は呟き、頭を巡らしてレンピカに尋ねる。
「時間があんまりないんだっけか……」
 レンピカは肯定するように瞬いた。
「帰るのを先導してもらっていいかい? 俺、来た道もよく分かんないから」
 レンピカが肯定の印にまた二度ほど瞬いたとき、斜め前の辺りで別の光が点滅するのが見えた。少年はぎくりとする。あまり嬉しくない想像が頭をもたげたからだ。
「キラキィが戻って来た……とか? はは、まさかなぁ」
 レンピカは忙しく瞬いてみせる。しかし、生憎少年にはそれが肯定なのか否定なのかの判別がつかなかった。
 一旦白い人形から手を放し、自分の唯一の得物を手探りする。それは流されもせずに放した場所にあった。肩掛けベルトを引っ掛け、白い人形を苦労して抱え直す。どうにも無理矢理に思える体勢だったが、もし相手が雪華綺晶だったら、何もできずに居るよりはこの方がましだと思えた。
 レンピカはそんな必要はないと強く瞬いたが、相変わらず少年には通じなかった。どうすれば話ができるようになるんだろうな、と彼が考えている間に、一つに見えていた光は二つになり、程なく何人もの姿が見え始めた。
「なんか大勢お出迎えが来ちゃったぜ」
 時間がないってのにな、と少年は苦笑いしてレンピカに視線を戻した。
 堅物で真面目な人工精霊は途惑ったように明滅すると、取り敢えず彼等と合流する方向に彼を先導するように動き始める。彼等が主人の姉妹であることは分かっていたし、そちらがこの場所から抜け出す扉の方角でもあったからだ。
 弁慶宜しく両手にドールを抱いた上に肩にまで長物を引っ掛けた少年は、腕の中の蒼星石を気にしながらそれに続く。レンピカの飛び方は気侭なメイメイとは違い、無駄はないものの彼のことを置いてスパートを掛けるようなこともなく、一定のペースを保ってくれていた。


 彼等と他の姉妹達が合流するまでには、殆ど時間は掛からなかった。
 まず、メイメイを追い越して先頭を切っていた翠星石が挨拶も言わずに蒼星石を少年から奪い取った。彼女が動こうとしないのを見て取ると人工精霊二体を連れて脱兎の勢いでもと来た路を戻って行く。
 水銀燈はメイメイと少年を連れて翠星石の後を追いながら、彼等にお小言を垂れ始める。少年はなんとなく刈払機を持ったまま移動していたが、口答えもせず素直にごめんと頭を下げた。
 雛苺は自分より背の大きな白い人形を少年から受け取り、水銀燈の脇に並びながら、何故かとても上機嫌に笑いながら人形を抱き締める。無表情なフィギュアに見える人形の顔も、何処となく微笑を浮かべたようにも見えた。
 金糸雀は少し下がったところで皆の後を追いながら、思ったより穏やかな展開にほっと息をつく。ピチカートも安心したように瞬いた。

 それらの騒ぎを横目で一通り眺めた後、真紅は振り向いて虚空の奥に視線を向けた。

──また、姿を見ることができなかった。

 真紅はまだ雪華綺晶を直接見てもいない。
 彼女にとって雪華綺晶は、アリスゲームに関する水銀燈の説は兎も角としても、一度はまともに相対して話をしてみたい相手だった。
 まともな会話が成立しないほど狂ってしまっているのかもしれない。好戦的らしいから、会えば会話をする暇もなく攻撃されるかもしれない。
 それでも自分の末の妹であり、アリスゲームの参加者でもある。一度は、少なくとも会話する努力をしてみたかった。
 暫く何処ともない虚空を見詰めた後、真紅は何かを振り払うように一つ首を振った。
「見ているのだったら覚えておいて。この真紅はまた此処に来るわ」
 一旦言葉を切り、言葉を探すような間を置いてから視線を上げる。
「そのときは落ち着いて話をしましょう、雪華綺晶」
 返事の代わりに、流れが彼女に吹き付けた。真紅はボンネット調のヘッドドレスを手で押さえてそれをやり過ごした後、髪をざっと撫で付け、再びもと来た方角へと振り向いて姉妹達を追った。


 雪華綺晶にとっては無惨な敗北だったが、結果的には早期に撤退できたことがむしろ幸いだったと言えるかもしれない。
 愚図愚図と時間を引き延ばしていれば、媒介なしの蒼星石やまともにノウハウを持たず戦意もあるのかないのか疑わしい少年などとは比較にならない、士気の高い手強い相手と戦う破目になっていただろう。
 彼女がそれを知るのは自分のテリトリーとして借用している世界に帰還してからのことだった。ただし、その事実は彼女にとって幾許かの慰めにしかならなかった。
 自分の能力についての疑問と、千歳一遇の好機だと思っていた機会が実は二度とも恐るべき罠ではなかったかという疑念を抱いてしまったからだ。
 それは彼女が、それこそ永い時間を掛けて機会を待っていたことそのものを否定されたようなものだった。
 更に、疑問と疑念はやがて大きな、考えたくないからこそ考えてしまう疑惑に変わっていく気配さえ見せていた。

 皮肉なことに、彼女がそれを相談する相手として適当な人物は、執拗なまでに間接的に彼女を弱らせてきた黒衣の長姉と、彼女とは殆ど会話をしたことのない白兎の顔をした紳士しかいない。
 そして抱いている疑念が正しければ、水銀燈だけでなくラプラスの魔も、彼女にとって中立よりは遥かに向こう側に跨ぎ越してしまっている人物のはずだった。この話を共に語ることなど到底できるはずもなかった。
 いずれにしても、今は休息するしかなかった。他の姉妹のような鞄を持たず、健全な糧も持っていない今の彼女は、時間を掛けて回復するしか選択肢がない。
 眠ろう、と思った。
 鞄の中で夢を紡ぐような上等なものではなくても、人間が毎日そうするように、殆どの外部入出力を遮断して回復に専念しよう。上手く眠れるかどうかは別として、回復時間を短縮するためにはそれが必要だった。
 水晶の棺に入った糧達の中で彼女はいっときの眠りに就いた。案外すんなりと眠れたのだが、彼女にとってその辺りはよく分からないことだった。
 眠りながら、彼女は夢を見る。
 逢いたいと思っている相手は夢の中でますます美化され、現実の彼──既に存在しない者を指すのにその言葉が適切かどうかは置いておいて──とは懸け離れていったが、そのことを彼女に指摘する者はいない。
 ここにいるのは、彼女が幸せな夢の世界に「遊ばせて」いる者と、そのまま既に生命を失ってしまった者だけだ。彼等は、雪華綺晶の存在さえ知らずに都合の良いお仕着せの夢の中に遊んでいる。

 彼女の傍らの水晶は、白い服を着た金髪の少女を映し出している。少女は何かに取り憑かれたようにふらりふらりと昼の住宅街を歩いていた。
 その少女に誰かが気遣わしげな声を掛けた。竹刀袋を肩に掛けた、泣きぼくろが特徴の少女だった。
 後のことを考えれば、雪華綺晶はその状況を確認しているべきだったかもしれない。しかし、既に彼女はしばしの眠りに就いた後だった。
 誰かがその様を見ることがあれば、ケースに入れられた沢山の人形に囲まれた眠り姫のように見えたに違いない。
 彼女は自分が夢の世界に遊ばせている者達と同じように、ひどく幸せそうに微笑みながら眠っている。しかしその眠りは、もう夢から覚める必要のない彼等とは反対の、これから独りで立ち向かわなければならない現実のための休息だった。



[19752] 100行程度。一応一区切り後だというのに書けない書けない。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/11/21 15:07
最近どうにもスランプ気味。3割くらい執筆量が落ちてきてます。
長期化するのか、一時的なものかは不明。

********************************

 外は静かな雨が降っていた。すこしばかり通勤通学が億劫になりそうな月曜日の朝だった。
 水の音で目を覚ました少年は緩慢な動作でカーテンを閉めていない窓を見遣り、窓閉めといて貰って良かったなぁと呟く。御多聞に漏れず雨の中の登校を考え、少し厭そうな顔をしてから狭い部屋の中を見渡した。
 見慣れた大きな鞄が三つになっていた。
「……あれ?」
 誰の分だったっけ、と一瞬考えてから、ぽんと手を叩く。
 昨日の晩、水銀燈に話があると言って彼の家にやってきた蒼星石は、長い話になるからと鞄を持参していた。もう一つは、なんだかんだがあってnのフィールドから帰還した後、蒼星石の双子の姉が開けっ放しになっていた窓から押しかけて来たときに乗って来た物だった。
 そして、最初から置いてある鞄の中身は──
「今朝は珍しく早いじゃない」
 ユニットバスの扉から水銀燈がひょいと顔を出してこちらを見た。ヘッドドレスは取っている。ストレートの銀髪がさらりと揺れた。
 綺麗だなぁ、と少年が惚けたようにそれを見ていると、枕許で目覚まし時計の電子音が鳴り始める。少年は慌ててスイッチを押してそれを止めた。
「結局同じになっちまった……せっかく誉められたのに」
 少年は頭を掻く。水銀燈は、お馬鹿さん、と笑いながら決り文句を言って顔を引っ込めた。
「あ、水銀燈」
「なに?」
「窓ありがと。助かった」
 少年は片手で拝むようにしてみせたが、水銀燈はもう顔も出さなかった。お礼は構わないわよ、と言うのも面倒臭いというように、片手だけを扉のこちら側に出してひらひらと振ってみせる。
 少年は眠い目をこすりながら布団を押入れに仕舞った。無造作にハンガーに掛けてある制服を取り、欠伸をしながらそれに着替える。
 水銀燈がユニットバスを使っている間は歯磨きやら朝食の支度は後回し、というのは二人の間の不文律のようなものだった。以前、気付かずに食事の支度をしようと台所に行っただけで酷い目に遭わされたこともあって、少年もそれだけは確実に守っている。
 ひとつ大きく伸びをして、テレビの側に置いてある二つの鞄がまだ開いていないのを一瞥してから、元々の位置にある鞄に手を伸ばす。鍵が掛かっていないのは知っていた。
 音を立てないように注意しながら、そっと開けてみる。蝶番がかすかに鳴って、中身が視界に入った。
 白い人形は昨晩横たえたままの姿でそこにあった。
 ほっと息をついて鞄を閉じかけたところで、少年はこちらを見上げている視線に気付いた。鞄の一つが開いて中からオッドアイの少女がじっと少年を見詰めている。
「よ、おはよ」
 少年は自然な動作でかちりと鞄を閉じ、片手を上げて挨拶してみせた。
「おはようですぅ」
 翠星石は何故かあまり機嫌の良くない声で少年に応えると、気を取り直したように鞄を威勢良く開けて飛び出すようにそこから出、自分の傍らのもう一つの鞄を気遣わしげに見遣った。
「まだ起きて来てないみたいだけど」
 言わずもがなのことを少年が言うと、翠星石は分かっていると言いたいような若干非難の混じった視線でそれに応え、膝をついて自分の双子の妹が眠っている鞄の前に屈み込んだ。少年もなんとなくそれに並んだが、翠星石はちらりとこちらを見ただけで何も言わず、開けようと手を伸ばすこともなくただじっと視線を鞄に向けていた。
「疲れてんだろうな、よっぽど」
「当たり前です。時間も力も使い果たす寸前だったんですよ」
 翠星石は視線を動かそうともせず、ぴしゃりと言った。
「あんなにぼろぼろになった蒼星石を見たのは、翠星石だって初めてです。ほんとに、ぎりぎりのところだったんですから」
 それは二つの要素を意図的に混ぜた、やや誇張した言い方ではあった。
 実際には、帰り着いてみると時間の方には未だ若干の余裕があった。もっとも主観時間が現実時間と食い違うことの多いnのフィールドの中で、しかも「だいたい三十分」という大雑把な制限なのだから、実際のところ余裕がどの程度だったかまではよく分からない。
 力を使い過ぎた蒼星石の薇が切れる寸前だったことの方は間違いのない事実だった。少年が僅かに遅れて現実世界の彼の部屋に帰還して見たものは、涙を浮かべながら必死に蒼星石の薇を巻いている翠星石の姿だった。
 幸い、意識して極力活動を抑え込んでいた蒼星石は薇を巻かれるとすぐに覚醒し、翠星石は安堵で今度こそ本当に泣き出しながら、苦笑を浮かべる双子の妹を力一杯に抱き締めることができたのだが。
「ごめんな」
 何度目かになる謝罪の言葉を少年は口にした。
「全くです。御し難い大馬鹿ヤローですよ。もっと薔薇乙女のことを理解して、ちっとは大切にしやがれです」
 そう言う間も蒼星石と丁度反対の色のオッドアイで、鞄の中を透かして見ようとするように視線を固定していたが、暫くして彼を見上げた。
「──もう少ししっかりしないと、安心して見てられないですよ」
 ぼそりと言い、少年に考える間を与えまいとするかのようにくるりと背を向けて大仰に溜息をついてみせる。
「はーやれやれ、この家は客人に朝飯も出さねーんですか。仕方がないから翠星石が有り物でなんか作ってやるですよ」
 少年はぽんと手を叩いた。
「おおっ、そりゃー有り難いや」
「普通は別の反応をするもんでしょうが! 全く、水銀燈は媒介の躾がなってねえです」
 翠星石は無闇に怒りながら、さあどの道具が何処にあるか教えるです、と少年を狭い台所へと急かす。丁度ユニットバスの扉を開けて出てきた水銀燈は二人を見て肩を竦めたが、何も言わずに部屋に向かい、電話の受話器を持ち上げた。

「──そうかね、分かった。いや、ゆっくりさせてやってくれないか」
 老人は穏やかな顔で電話越しの声に答え、窓外を見遣った。明け方からの細い雨が降っていた。
「今日の天気では庭仕事もできないだろう。あの子にも休養は必要だ、たまには姉妹揃ってのんびり──ああ、すまない」
 つい口に出してしまった言葉を老人は苦笑して謝罪する。彼は蒼星石と翠星石の二人だけを常に姉妹として意識していた。電話の向こうの少女も含めて七人姉妹だということがどうしても今ひとつ実感できないのは、他の五人とは殆ど面識がないに近いことが原因かもしれない。
「あの……ヒッキーくんだったか、ああ、ジュン君。その子の家でのんびりするのもいい。晩までに帰って来ればいい、たまには双子の姉さんと遊んで来なさいと言っていたと伝えてくれないか」
 肯定の返事を聞いてから、ありがとうと言って老人は電話を置いた。
 部屋を見回し、車椅子を動かして書き物机に近寄ると、昨晩から机の上に広げたままになっている書類に手を伸ばす。少々乱雑に置かれたそれらを整理している間に彼の表情は次第に何かを考え込んでいるようなものに変わっていったが、その間も手は止めなかった。
 書類が全て古びた幾つかの封筒の中に収まってしまうのには、大して時間は掛からなかった。老人はそれを膝の上に置くと、かすかな軋み音を立てながら廊下に出て行った。
 部屋の中の姿見は、窓外の雨を映している。いつもよりも少しばかり静かな朝だった。

 有り合わせの物では凝った料理はできないと翠星石は盛んに嘆いてみせたが、どの道食事を少年の登校時間に合わせるにはあまり長い時間を掛けて凝った食事を作っているわけにもいかなかった。結局少年が手伝いをすることになり、果ては水銀燈までも動員してみたものの、出来上がったものはあまり代わり映えのしない朝食になってしまった。
 ただ、ここのところ毎日のりの手伝いをしていた甲斐はあったらしく、翠星石の作った朝食はそれなりに美味だった。少年は終始美味い美味いを繰り返して食べ終えた。
「ご馳走さん」
 少年は両手を顔の前で合わせ、深々と頭を下げる。最後にもう一度、美味かったぁ、と付け加えた。
「毎日こんな美味いメシだったら最高だなー」
「褒めたって何も出て来やしないですよ」
 翠星石は少しばかり大袈裟に鼻を鳴らした。
「ついでに言うと
『た、たまには作りに来てあげるわよ。アンタのこと好きとかそういうんじゃないから。哀れで見てらんないから作ってやるだけなんだから、か、勘違いしないでよね!』
 とかいうツンデレにフラグ立っちゃいました的展開もないですよ」
「なによそれ」
 ゆっくりと食べ終わって口の周りを拭いていた水銀燈が苦笑する。
「先週、くんくんの次にやってる学園ドラマでヒロインが言ってたんですよ」
「ドラマの台詞ぅ? ああ、あれね」
「あー、あれか……そういや先週は見逃したんだっけ。録っとけば良かったなぁ」
 水銀燈の苦笑は失笑に変わり、少年は少し悔しそうに頷いた。
 番組名も碌に覚えていないドラマを引き合いに出した翠星石は、実に得意そうに胸を張った。
「そうです。あれはお夕飯でしたけどね」
「夕食ね。朝食と弁当も必要そうね、あの彼氏の貧窮振りだと」
「朝メシは買い置きのパンの耳食ってるからいいんじゃね?」
「貴方毎朝パンの耳で我慢できるわけぇ? なんなら、明日から貴方だけやってみなさい、止めないから」
「一週間くらいならやれそうな気がするけどなぁ」
「流石は悪食です。翠星石は絶対に耐えられないですよ」

 暫くそのドラマの話題で盛り上がってから、翠星石は話を元に戻した。
「翠星石は誇り高き薔薇乙女ですから、マスターでもない人間に多少褒められたくらいではびくともしないのです。ましてやさっきのアホ人間の発言は、精々実力を正当に評価しただけってところです。お上手言っただけで見返りを得ようとか思ってるなら救いようのない甘ちゃんってやつです」
 水銀燈は壁の時計を眺め、両の掌を上に向けるとやれやれと首を振った。
「お説ごもっともと言いたい所だけど、前置きが長過ぎたようね。お陰でもう時間ぎりぎりになってるわ」
 何の時間ですか、と翠星石が聞くまでもなかった。少年はがたんと音を立てて椅子から立ち上がり、慌てた様子で通学鞄を手に取った。
「やべ、急がないと遅刻だ」
 空いた食器を手早く集め、流し台に持って行く。水道の蛇口を捻ろうとしてふと気付いたように腕時計を眺め、渋い表情になった。
「ごめん、洗い物は帰ってきてからにする」
 部屋の方に向き直っていつもの顔になり、間に合いそうもないや、と舌を出してみせる。翠星石は椅子から飛び降りて台所の方に踏み出した。
「しょうがない奴ですね。そのくらいやっておいてやるから心配すんなです」
 翠星石は口では強いことを言いながらも少しばかり済まなそうな顔になっていた。三人で無駄話をしていて遅くなったのだから彼女だけが原因とは言い切れないのだが、自分の責任を感じてしまうところに彼女の素直な部分が現れているのかもしれない。
 少年はそんなところに気を回す余裕もなく、いつもの片手で拝むような仕草で、悪いな頼む、と頭を下げる。生死に関わるわけではないが、時間は切迫してきていた。
 忙しく靴を履き、玄関に置いてあるビニール傘を掴んで無粋なデザインの鉄の扉を開けると、彼はもう一度部屋の中を振り返る。アルミ製の脚立型の踏み台に上った翠星石が水道の蛇口に手を伸ばしたところだった。
「言い忘れてた」
 翠星石はびくりと動きを止め、何か流しを使うのに注意事項でもあるのかと少年の方を見遣った。
「蒼星石によろしく。起きたら、俺が昨日はありがとうって言ってたって伝えてくれ」
 なんだそのことか、と翠星石はほっとして息をつき、水銀燈が部屋の中から返事をした。
「伝えとくから、急ぎなさい。本当に遅刻するわよ」
「ありがと。そいじゃ、行って来る」
 自分の言葉が終わらない内に少年は駆け出していく。いってらっしゃいという言葉を掛ける間もないような急ぎ方に翠星石は呆気に取られて目を丸くし、扉がばたんと閉まるまでそちらを眺めていた。
 部屋の中で水銀燈が苦笑していたが、彼女はそれにも気付かず、蛇口に手を伸ばしたまま暫く固まっていた。



[19752] 200くらい。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/11/26 19:31
約200行。
一日置いたけどまだ校正不足。
Arcadiaの上で読み返すと、テキストエディタの上じゃ分からない粗が見えることってありませんか? 私はあります(胸張って言えることじゃねーよなー)

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 相変わらず、雨は静かに降り続いている。
 蒼星石が目を覚ましたのは大分遅く、午前九時を過ぎてからだった。
 鞄を開けて周囲を眺め、立ち上がってふっと息をついたところで翠星石に飛びつかれ、ぎゅっと抱き締められる。
「おはよう、随分寝坊してしまった」
「おはようですぅ」
 言いながら、翠星石は上機嫌で蒼星石の胸に頬ずりする。蒼星石は微笑んで翠星石の背中をとんとんと叩く。昨晩、蒼星石が薇を巻かれて目覚めたときと同じ光景だった。
「今日は一日、ずーっと一緒ですよ」
 翠星石は嬉しそうに蒼星石を見上げる。蒼星石が何か言おうとしたが、翠星石はその唇に人差し指を当てた。
「陰険おじじが言ったんですよ。今日はお休みにするから、のんびりしろって」
 電話をしたのは水銀燈なのだが、翠星石は自分が直に聞いたような言い方をした。その方が蒼星石にするには話が早いと思ったのか、自分のささやかな手柄にするつもりなのかは分からない。
 どちらにしても、蒼星石は頷いてその言葉を信用した。
「マスターが……そう」
 ゆっくり微笑みを浮かべる。それは翠星石と一緒に居られるからというよりは契約者が自分に気を遣ってくれたことの嬉しさから来たものだったが、翠星石はそんなことには頓着せず改めて蒼星石に抱きついた。
「そうですよ。だから今日は一杯遊ぶです」
 お互いに相手の肩の上に顎を乗せるような姿勢で、二人はお互いを抱き締める。ロングスカートとタイツ、対照的だが統一感のある衣装が良いコントラストを作って、無粋な安アパートの空間がそこだけ華やいでいるようにさえ見えた。

「何時見ても本当にベタベタなのね、貴女達」
 水銀燈はテーブルに肘を突いて二人を眺めていたが、あまり興味なさそうにそう言うと欠伸をしながら一つ伸びをする。二人は同時に水銀燈の顔を見詰め、抱き合っていた腕を解いて顔を見合わせた。
「好きな相手にもそのくらい素直にベタベタすればいいのに」
 対照的なドレスを着た双子の反応はやはり対照的だった。翠星石は分かり易く顔を赤く染めてしどろもどろに口の中で何事かを呟き、蒼星石は頬を僅かに染めたものの複雑な表情になって視線を逸らす。
 それぞれの表情を人の悪い笑いを浮かべて観察してから、水銀燈は椅子を飛び降りた。そのまま双子の方には向かわず、少し離れたところに置いてある自分の鞄に歩み寄る。
「蒼星石。起き抜けで悪いけど、貴女達の意見が聞きたいの」
 鞄の前で屈み込み、かちりと開ける。白い人形は先程少年が開けたときと全く変わらない状態で、微動だにせずその中に収まっていた。
「これの事でね」
 振り向いて二人を見ながら、後ろ手に人形を指し示す。蒼星石が軽く頷くのを確認して、また鞄に向き直った。
「貴女に知識があるかどうかは知らないけど、これは私の知っているローゼンメイデン第七ドールの姿に近い。ただし雪華綺晶ではなく、異世界のね」
 蒼星石は自分の手を握っていた翠星石の手を優しく解いて鞄の方に歩み寄り、水銀燈の隣に屈み込んだ。翠星石も一歩遅れてそれに続く。二人とも先程の表情は消え、かすかに緊張感を含んだ顔になっていた。
「君が持っていたあの小箱と同一の世界から来た、と考えていいのかな」
 蒼星石が言ったのはローザミスティカらしきクリスタルと指輪の入っていた小箱のことだった。どういうわけか、ローザミスティカと同一の世界から、と言うのはなんとなく憚られるような気がした。
 鞄の縁に手を添え、覗き込むような姿勢になる。昨晩nのフィールドで間近に見てはいるのだが、照明の関係か、そのときの姿よりも人形らしさが強く出ているように蒼星石には思えた。
 彼女達とほぼ同じ背丈、同じように丁寧に作られた衣装。だが、顔の作りはいかにも別人の手によるものだということを感じさせる。
 手足のデザインも、すらりとし過ぎて彼女達姉妹とは別物という印象を強くしていた。初見で少年が言っていたように、どちらかと言えば自分達姉妹よりもあの黒い翼の人形と共通項が多いようにも思える。
「多分ね。確実なことは言えないけど」
 水銀燈は白い人形に触れる。デザインは異なっているものの、顔と手の質感も、その他の部分の陶器らしい冷たさも薔薇乙女達のそれと全く同じだ、と彼女は感じていた。
「並行世界の原則──無数の世界が並行している中で、私達ローゼンメイデンは常に一人ずつしか存在し得ない、というやつね──を超越されてしまった以上、最早何処から来たモノだとしても不思議はないわ」
 やはりこれはあの人形師の手による作品──本来感知も行き来もできないはずの別の時間軸で存在しているべき、また別のローゼンメイデンなのだ、と水銀燈は思う。

 最後に抱き上げられて部屋を出て行ったあの第五ドールも、他の五体も同じく、自分達の観測できる範囲の世界に彷徨い出て来てしまっているのだろうか。
 もし、更に他の世界にまで行き来が可能になってしまっているのだとすれば、呑気にアリスゲームなどやっている場合ではないのかもしれない。同じ領域に何十人となく自分が蠢くという想像はおぞまし過ぎるし、因果律の外との行き来を世界自体が認めてしまっているのだすれば、それは世界そのものが変容してしまう前触れなのかもしれない。
 だが、そういったあれこれは、薔薇乙女達の手には余る事柄だった。むしろそうであれば彼女達の創造主やあの人形師の方こそ大汗をかいて奔走すべき事態であり、彼女達は今までどおりに日々を過ごし、目標に向かっていくしかない。
 無責任な考え方かもしれないが、それが現実だった。

 そんなことをちらりと思いながら、水銀燈は言葉を続ける。
「ただ、ほぼ確実にあれと同じ世界か、それにごく近い世界だとは言える。その髪型、衣装の色、特徴的な右目を隠すアイパッチ。全て見覚えがあるもの」
 僅かな違いもあるにはあった。アイパッチには確か白い薔薇の花が貼り付けられていたか生えていたはずだが、それがなくなっている。
 但し、この人形の出番はアイパッチから白薔薇が離れて流れて行くところで終わっていた。この人形の姿がその状態を引き継いでいるのだとすれば、これはこれで妥当とも言えなくはない。
「なるほど……」
 蒼星石は先を促すように水銀燈の顔を見遣る。水銀燈は頷き、ひとつ息をついて昨晩のことを簡単に説明した。
 蒼星石が少年と彼女を待っている間、真紅に請われて自分の意図を話していたこと。そこにラプラスの魔が現れ、異世界の第七ドールが出現し、雪華綺晶がその体を狙って行動を起こしていることを報せたこと。
 ラプラスの言うところでは第七ドールの能力は雪華綺晶と「似て非なるもの」であり、彼の見解では雪華綺晶と手を組む可能性について否定的だったこと。
 更に踏み込んだ話に移る前にメイメイがやってきて、それ以上の情報は得られず仕舞いに終わったことまで語ると、水銀燈は肩を竦めた。
「能力の詳細については、直にこの人形から訊き出すつもりだけど──」
 考えを纏めるように、あるいは何か引っ掛かっている部分があるようにゆっくりと言葉を続ける。彼女らしくないことだった。
 自分の思うところに自信が持てないのか、と蒼星石はつい邪推してしまう。性格がこの時代で目覚めてから──特に、媒介が心の木を伐り倒してから──目に見えて変化しているとはいえ、水銀燈がこういう態度を取ることは珍しかった。
「貴女は何かこの人形の能力を見ていて?」
 蒼星石はゆっくり首を横に振った。
「いや、僕はまだその子が覚醒したところさえも見ていない」
 彼女が見ていた範囲では人形は終始無言で、動く気配もなかった。その分まで雪華綺晶と蒼星石は激しく戦っていた、と言うと大袈裟かもしれないが、人形と一緒に居たのは少年の方で、彼女ではなかった。
 ふむ、と水銀燈は顎に手を当てた。
「では、相対した雪華綺晶の能力についてはどう? 何か異質なものは垣間見えたかしら」
 そうか、と蒼星石は内心で頷く。水銀燈が人形の能力を知りたいのは、それが雪華綺晶の能力の全貌を掴む手懸りになる可能性があるからなのだろう。直接相対した蒼星石が何か気付いていれば、それも手懸りになるという訳だ。
 ただ、それは少しばかり期待し過ぎのように彼女には思えた。
「それも、これといったものは感じられなかった」
 彼女に向かって来たのは専ら白茨だけで、この人形と彼を捕獲しかけたのは白薔薇の大輪だった。どちらも水銀燈から事前に聞かされていた、言わば雪華綺晶の「得物」で、目新しいことはなかったように思う。
「ただ、あのとき雪華綺晶は幻影を使わなかった」
 使えれば使った方が有利な状況だったはずなのに、と呟きながら蒼星石は雪華綺晶に似た人形の顔を見詰める。そこに解答があるという訳でないのは分かっているが、考えを纏めたかった。
「フェイクを作るのはお手の物のはずだけど」
 水銀燈は顎に手を当てたまま、考えをそのまま口にするような言い方をする。
「焦っていたのかもしれない。時間が切迫していたとか、何かに力を振り向けていたとか」
 当たらずと言えど遠からず、といった考察だった。少なくとも蒼星石にはそう思えた。

 例えば幻影の白茨の蔓を無数に作り、同時に自分に殺到させる。そんな方法を採っても良かったのではないか。
 自分は前方、しかも雪華綺晶の間近の一点からワンパターンに仕掛けてくる一群に対処することさえ手一杯だった。多少手数が減り、攻撃の間隔が開いてしまったとしても、その方が確実に自分を捕え、拘束するには便利だったはずだ。
 しかし何故か雪華綺晶はそれをしなかった。
 いや、何故か、ではない。そこには理由があるはずだ。
 直接的には、それはあの大薔薇を維持しておくためだろう。だが、それだけでは説明できない部分もありそうだ、と蒼星石は思う。
 そもそも、それほど維持に力を割く必要があるものを、自分という邪魔者が目の前にいるにもかかわらず最初から使ってみせた意図がよく分からない。幻影を使わなかったように見えたことも含め、何か齟齬が生じていたと考える方が適当かもしれない。
 準備不足で戦いに臨んでいたのはこちらだけではなかった、と総括してしまえばそれまでだが、その齟齬が雪華綺晶の能力の──特に水銀燈が知りたがっている、今まで見せてこなかった部分の一端を示しているのではないか。

 それまで黙っていた翠星石が口を開く。
「偽物をでっち上げるには集中力か下準備が必要ってことですか? そうじゃなければ場所や相手を選ぶ、とか……」
「そういう見方もできそうね」
 ただ、案外こんなところかもしれないわよ、と何故かそこで水銀燈はにやりと笑ってみせた。
「貴女がずっと切り続けていた白茨、それそのものがフェイクだった、っていうのはどう? 同じパターンを繰り返していたのは、同じものなら作り出し易いから──幻影では定番の理由の一つでしょう」
 蒼星石は目を見開き、それから力なく苦笑を浮かべた。
「確かにね」
 改めて指摘されると、至極妥当な推測に思える。大量の白茨を放ったように見せて時間を稼ぐのは、大薔薇を維持するのに殆どのリソースを振り向けているならむしろ普通の遣り方なのかもしれない。
 しかし、そうはいっても大量の偽物の中に紛れ込んだ数本かそこらの本物の白茨、もしくは完全に全て虚像のそれらと必死に戦っていた自分を想像するのは、あまり気分のいいものではなかった。
 無意識の海の濁流の中で必死に不恰好な独りきりのダンスを踊っているドール。雪華綺晶が揶揄するような笑みをこちらに向けていた理由が分かるような気がする。さぞかし滑稽な眺めだったろう。
「nのフィールドの中ですから、幻だって実体があるのと変わりませんよ」
 妹の内心を読んでフォローしてみせたのか、水銀燈に対する反論なのか分からなかったが、翠星石はそんな言い方をした。
「体ごとnのフィールドに入ってる翠星石達はなんとなく幻イコール偽物、ハリボテの虚像って考えちまいますけど、あの中では力を持ってる、中身の詰まってる幻影だってアリでしょう。大体雪華綺晶自身が幻みたいなもんじゃないですか」
 だから白薔薇のヤツが使う蔓なんて結局は全部幻影なんです、と翠星石は水銀燈に視線を向ける。水銀燈は軽く頷いてみせた。
「そういう見方もあるでしょうね」
 とはいえ、翠星石の考えは蒼星石が戦って切り落とし続けた白茨が殆ど全て虚像だという仮定とは矛盾しない。それは、戦っていた本人が一番よく分かっていた。
 恐らく「中身の詰まって」いたのは最初に放たれた白茨と、大薔薇を手放した後の最後の一撃だけだ。それ以外は最初の白茨の一部を複製したものか何かだったのだろう、と蒼星石は苦い思いを胸に抱きながら考える。

──本気で相手をされていたら、間違いなく敗北していた。

 虚像だけで相手をしなければならなかったのは雪華綺晶にとっても不本意で、ぎりぎりの選択ではあっただろう。だが、それにまんまと乗って最後まで気付かなかった自分の間抜けさ、あるいは弱さは否めない。
「──次はもう少し上手くやるさ」
 拳を握り締めて呟いたのは、雪華綺晶に対する敵愾心や戦意を奮い起こした結果と言うよりも、自分の不甲斐無さに怒りが湧いたからだった。
 ただ、翠星石はそうは取らなかったらしい。気が付くと彼女はそっと蒼星石の手に手を重ね、少し怯えたような目で顔を覗き込んでいた。
「大丈夫だよ」
 蒼星石は握った手を開き、双子の姉にぎこちなく微笑む。その手で微笑み返しながらもまだ心配そうな翠星石の頬を撫でると、彼女は蒼星石を確かめるようにぎゅっと抱き締めた。

「ま、どっちにしても目新しいところは無かった、ってことか……」
 水銀燈はあっさりと言った。双子の相思相愛振りについてはコメントする気をなくしたらしい。
「やはり訊き出すのが手っ取り早そうね」
 言いながら、白い人形に手を伸ばす。二人はまた身体を離し、立ったまま彼女のすることを覗き込んだ。
 水銀燈は両手で、膝を畳んで腕を組んだ姿勢の人形の身体を触り始める。それはまるで領収した品物の瑕疵を確かめるような手つきで、蒼星石にはそれが少し寂しく思えた。
 何故そんな感慨を抱いたのかは、よく分からない。ただどういうわけか、昨晩少年が雪華綺晶に放った、その場面では見当外れもいいところだった言葉が心の中に浮かんで消えたような気がした。

──結局水銀燈も、この子をゲームを進める上の便利な道具として見ることしかできていないのか。

 それは自分に都合のいい形骸とそれに付随する邪魔な魂、という見方で人形を見ていた雪華綺晶と大して変わらない視点なのではないか。いや、彼女の方がゲームに拠らない自己の欲求にも正直であっただけ、まだマシと言えるかもしれない。
 昨日の黒い人形に対して見せた水銀燈の態度は違っていた。あれは、単に自分に似た容姿だったから情が湧いたということなのだろうか。
 媒介である少年が終始白い人形を「この子」と言っていたことを思い合わせると、皮肉に過ぎる気がする。もっとも彼は、雪華綺晶は嘘をついていて、実際は人形をアリスゲームに利用するつもりだと思っていたのかもしれないが──

 水銀燈はそんな蒼星石の感傷めいた内心に気付く様子もなく、服の上から陶製のボディを点検するように触っている。それが背中の一点に届いたところで軽く頷き、手を引いた。
「ゼンマイの螺子穴はあるわ」
 翠星石は上体を屈めて見入っていたが、その言葉で背中を伸ばした。
「巻いてやれば動き出すって、あの兎の言ってたことは本当みたいですね」
「問題は合う螺子巻きがあるか、そして誰が巻くかってこと」
 水銀燈は人形を見詰めたまま大きく息をつく。翠星石は、むう、と口を尖らせた。
「例の箱には螺子巻きは入ってなかったんですか?」
「生憎、クリスタルと指輪だけ」
 水銀燈に小箱を託した者の目的を達するためにはそれだけで充分だったから、当然といえば当然だった。もっとも、小箱の中のローザミスティカに対応するボディ用の螺子巻きが入っていたとしても、それがこの人形に合うとは限らない。
「ポケットに入ってるとか……」
「そういうデザインには見えないわよ?」
 言いながらも水銀燈はもう一度確かめるように人形のボディと服を改め直す。胴の前面を見ているうちに、ふと胸の前で折り畳まれている腕に視線を向け、にやりと笑った。
「翠星石、半分当たりよ」
 どういうことですか、と翠星石がまた覗き込むと、水銀燈は握りこぶしを作っている人形の手を指差し、それからゆっくりとその指を伸ばしていった。
「──ここでしたか」
 人形の手の中に現れたのは、随所に薔薇の模様をあしらった、見覚えのある意匠の金の螺子巻きだった。
「握り込んでいたとはね」
 起こして貰う気満々ってところかしら、と水銀燈は肩を竦める。
「鞄も人工精霊も無いのに、どうするつもりだったんだか……」
 螺子巻きをつまみ上げ、蛍光灯の光にかざしてみる。それは目映く輝いた。
 少々目映く輝き過ぎている、と思ったのは水銀燈だけではなかった。
「新し過ぎないですか?」
 翠星石は不審そうに眉を寄せる。螺子巻きは何人もの手を経てきた彼女達の持ち物とは違い、まるで作られたばかりのように輝いていた。
「まるで一度も使われたことがないみたいです……」
「実際、使われてないかもしれない」
 水銀燈は立ち上がり、螺子巻きを掌の上に置いて見詰めた。鍍金でなく金であれば錆がないのは当然としても、汚れも傷もなければ模様の摩滅も見当たらない。
「あの人形師の世界で、第七ドールは名前も出てこなかった。誰も存在を知らず、ゲームにも全く参加していなかった。雪華綺晶と同じような特殊な立場でなければ、契約をしたことがなくても辻褄は合うわ」
 そんな存在だから、ボディは持っていても──いや、持っているからこそ推測できるのだが──作られてから未だ世に出ず、一度も契約を交わしていないという可能性もあり得る。新品の螺子巻きはそれを表しているようにも水銀燈には思えた。
「ま、それこそ訊いてみれば済むことね」
 あっさりと自分から想像を止めてしまう言葉を口にして、螺子巻きを人形の脇に置く。
「これで、後は巻くだけ。謎解きはそれからじっくりやればいいわ」
「そうですけど」
 翠星石が小首を傾げる。
「誰がこの子のゼンマイを巻くんですか?」
 それが問題だった。翠星石は水銀燈を見詰め、水銀燈は顎に手を遣って視線を下げた。

 ややあって、暫く黙っていた蒼星石が口を開いた。
「君のマスターが巻くべきだと思う」
 彼女の視線は水銀燈に向けられていた。
「雪華綺晶にその子を渡さなかったのは、彼の意思だ」
 少しばかり誇張した表現をしてみる。但し、彼が自分の判断で雪華綺晶に人形を渡さなかったのは事実だった。
 彼の言い分を聞いた限りでは、それは思い込みか誤解に基づく判断だった可能性もある。しかしそれがあって今この人形がここにあるのもまた事実だった。
「それに、自分のものだと言ってもいたよ」
 思わずくすりと笑みが浮かんでしまう。まるで屁理屈にしかなっていない彼の言い分と、その台詞を放ったときの表情の真面目さのコントラストを思い出してしまったからだ。

 ──先に拾ったのは俺だ。だから今んとこ、このドールは俺のもんだ。キラキィには渡さない。

 あのときは緊張感が勝っていてよく吟味する余裕もなかったが、改めて思い返すと酷く子供っぽい上に、雪華綺晶のそれに負けず劣らずの身勝手な言い分だった。彼の様子から見て、恐らく言いたいことは別にあるのに、咄嗟に言葉にできなかったのだろう。
 大事な場面でそんな台詞しか言えなかった彼に、蒼星石は他の感情でなく可愛らしさのようなものを感じてしまう。笑みが浮かんでしまうのはそのせいだった。
 その拙い台詞が蒼星石を窮地に陥れた、と彼が少しばかり見当違いの反省をしていることまでは、彼女は知らなかった。

「拾った者が総取りなんて言い分が通ったら、この国のお巡りさんの仕事が一つ減ってしまうですよ。とんでもねー屁理屈です」
 彼の言ったという台詞を聞いて、翠星石は少々わざとらしく溜息をついてみせた。現実世界の遺失物の話と混同したのは故意にやっているのだろう。
「水銀燈と契約してるのにまだそれ以上人形を欲しがるなんて、金糸雀のマスターも真っ青の欲深野郎ですよ」
 成り行きとはいえ都合三人と契約しているようなものである自分の契約者を棚に上げ、ばっさりとこき下ろす。ただ、それは翠星石が彼に親近感を持っていることの裏返しのようなものでもあった。
「言ってくれるじゃないの」
 水銀燈はじろりと翠星石を見る。聞いただけで翠星石が首を竦めて蒼星石の後ろに隠れる程の怒気を含んだ声音だったが、その眼は笑っていた。
「ま、確かに勝手な言い分だし、そう言ったにしては肝心のドールを無防備にし過ぎてるのも間抜けだけど」
 言いながらちらりと自分の鞄の中に収まっている白い人形を見る。表情は変わらないはずなのに、先程より穏やかに眠っているように見えた。
 蒼星石に視線を移すと、彼女は笑いを収めて水銀燈を見ていた。君も同意するだろう、と言っているような視線だった。
「私としては桜田ジュンの方が適任に思える。でも彼にそこまで責任を負わせるのは得策じゃないわね」
 もしこの人形の最初の契約者になるのであれば、自分の媒介よりは桜田ジュンの方が「良い契約者」としての資質を備えているだろう。大分確りして来たとはいえ、少年は何かを教えるよりは教わる段階にある。
 そこを無視しても、この人形が昨日の黒い人形のように周囲全てに対して敵対的な行動を取るのでなければ、桜田家に置いてやるのが無難だとは思う。気位は高いが情の深い真紅、意地悪をすることはあっても面倒見のいい翠星石、人懐こい雛苺の三人がいて、楽しく仲良しごっこをするにはこの上ない環境だ。
 ただ、螺子を巻いたからといって契約するところまで行くとは限らないし、契約するとなればジュンは都合四人に力を与えることになる。それは負担が大き過ぎるだろう。
 水銀燈は肩を竦め、大きく息をついた。
「いいでしょう。代案もない。貴女の提案を採用させて貰うわ」
 光栄だね、と蒼星石は水銀燈のやや大袈裟な表現に苦笑する。水銀燈はにやりと笑みを返した。
「さて、そうと決まれば私の話は終わり」
 水銀燈はまた屈み込み、鞄をかちりと閉じた。
「手間を取らせたわね。後は好きにしてくれて構わないわよ」
 翠星石と蒼星石が顔を見合わせる。水銀燈は翠星石に視線を向けた。
「桜田ジュンの家に帰って、貴女の手料理でもご馳走したら? 折角、蒼星石の老マスターから許可が下りてるんだもの」
 翠星石は嬉しそうに水銀燈を見返し、言われなくてもそうするつもりでしたよ、と憎まれ口を叩いた。


 双子がそれぞれの鞄に乗って帰っていった後、水銀燈は開け放った窓から厚い雲を見上げた。今日は行けないわね、と独りごち、なおも暫くそうしていてから窓を閉める。

──それにしても、厄介ったらないわ。

 ユニットバスの扉を開けながら改めて思う。換気のスイッチを入れっぱなしにしているのに、かすかなガソリンの臭いが鼻についた。
 顔をしかめて一つ息をつき、どうしたもんかしらね、と呟きながら、浴槽の壁に斜めに寄り掛けられている長物をつつく。それは安定が悪いせいかぐらぐらと揺れ、まだ残っている混合燃料がちゃぱちゃぱとタンクの中で音を立てた。

──問題は、三人のうち誰の能力か、ってところかしらね。

 全ては少年が帰宅して、人形の螺子を巻いてからということになるのだろう。しかし少しでも早く確定してしまいたいと思うのは、あまりにも場違いなモノを不気味に感じているからかもしれない。
 扉を閉めながら一瞥すると、少年がnのフィールドから持ち出してきた刈払機はまだ小さく揺れていた。
 それはnのフィールドだけで通用する幻ではなかった。確固たる現実世界の物品として存在してしまっていた。



[19752] 150ですぅ。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/11/29 21:55
チラ裏になんか凄い面白そうなローゼンSSが掲載され始めてwktk。
つい読み専に戻ってしまう一瞬。

脇役人間3人揃い踏み。
今回薔薇乙女出番なし!

*****************************

 今にも止みそうな細い雨は、しかし下校時間になっても上がらなかった。
 なんでこんな日に掃除当番だったんだろう、と少年は恨めしげに昇降口の外を眺めながらぼやく。下履きに履き替え、もう傘がまばらにしか残っていない傘立ての方に手を伸ばした。
 まあ、雨が降ってること以外は悪くないか、とぼんやり考える。帰れば、部屋には例の白い人形が待っている。
 少年は少しばかり雪華綺晶に対抗意識のようなものを持っている。それは彼が雪華綺晶の前で取って付けたように口にしたアリスゲームの敵味方というような高尚な意味合いではなかった。自分自身によく似た白い人形をただのモノ扱いした彼女に対して、白い人形も同じように生きて動くということを見せてやろうという子供っぽい動機だった。
 雪華綺晶が白い人形をモノ扱いした背景にどのような思考や感情があるのか、という視点は今の少年にはない。蒼星石が贔屓目に評価しているほどには、彼は純粋でも思慮深くもなかったし、直感に頼っているとはいえ特に感性が研ぎ澄まされているわけでもなかった。
 その平凡な、ともすれば平凡以下の部分が多いかもしれない頭脳で、白い人形はどうやったら動くようになるのか、それを居候の黒衣の天使と一緒に考える仕事も待っている、と少年は考えていた。実際には既に螺子巻きが発見されてそれを回すだけになっているのだが、それは少年の知らない出来事だった。

「──あ」

 すぐ脇で小さな声が上がり、少年は現実に引き戻される。僅かな間ではあったが、ぼんやりしすぎていて周りに注意が向いていなかったらしい。傘に伸ばした手が横合いから伸びてきた細い手に当たってしまっていた。
「あ、ごめん」
 反射的に謝って視線を上げると、あまりこの時間には見ない顔が目の前にあった。少年は背中を伸ばし、意外そうに何度か瞬いた。
「……部活はどしたの」
「今日はお休み」
 と言うものの、柏葉巴はいつものように竹刀袋を肩に掛けている。それを少年が訝しげに見ていると、巴はその視線の意味に気付いて答えた。
「これは朝練で使ったから」
「あ、そうなんだ」
 なるほど、と少年はぽんと手を叩く。それから思い出したように巴のものと思しき傘を傘立てから抜き、彼女に差し出した。
「これだよな」
 巴はこくりと頷き、受け取って靴を履き替える。少年は改めて自分の傘を抜き、昇降口から出て傘を広げた。
「──ん?」
 そこで急に振り返り、怪訝そうな顔で巴を見詰める。
「え、今なんか言った?」
 巴はきょとんとした顔でこちらを見ていたが、ふるふると首を振る。少年は傘を持っていない方の手で頭を掻き、拝むような仕草をした。
「ごめん、なんか空耳だったみたいだ」
「……空耳?」
 巴は眉根を寄せ、少年の方に歩み寄った。少年は釈然としない風だが、周囲を見回しても昇降口の近くと下駄箱には他に人影はなかった。
「うん、今、なんか誰かに呼ばれたような気がしたんだけどさぁ。気のせいっぽい」
 なおも暫く周囲を見回してから、今日は結構多いんだよな、これで三度目くらいかなぁ、と少年は首を傾げる。
「そう」
 やはり、というように巴は何度か瞬いた。
「本当に空耳なら、いいんだけど……」
 斜め下を向いて、呟くように巴は言う。少年は訝しげに彼女を見る。その表情がかすかに曇っているような気がしたからだ。
「え、なんかあんの? 昇降口の怪物とかか? あと自縛霊とか」
「まさか」
 巴は一瞬苦笑する。しかしまたすぐにはっきりしない、それでいて憂いを含んだような表情に戻ってしまった。
「栃沢君、契約してるんだよね。水銀燈って子と」
「うん」
 思わずひそひそ声になる。少年にもその程度の分別はあった。とはいえそれは、あまりおおっぴらに喋ってみんなのことがバレたら厭だな、程度の認識でしかない。
「私は、もう雛苺のマスターじゃないけど」
 巴の声には少しばかり寂しげな色があった。
「前に……契約していた頃、雛苺に呼びかけられたことがあったわ。学校で」
「え、そりゃ……なんでまた」
 ぽん、という軽い音がしてそちらを向くと、昇降口から出てきた上級生が大きな自動傘を広げたところだった。彼は二人の方をじろりと眺め、なんだと言いたそうな顔をすると校門の方に出て行った。
「……歩きながら話そうぜ。長くなりそうな話だし」
 なんとなく居心地が悪いような気分になって、少年はそんな提案をした。巴はこくりと頷いた。


 雨の住宅街を歩きながらひそひそ声で会話するなんてサスペンス映画みたいだな、と色気のないことを頭の隅で考えながら、少年は巴と並んで歩いた。昼間の住宅街は雨降りのせいか閑散としていて、妙に寂しい雰囲気だった。
 巴の話はそれほど長いものではなかった。ただ、どうでもいい話でもなかった。
「雛苺が真紅に負けちゃった話は……聞いてる?」
「うん」

 それは本人から直接聞いたことがあった。雛苺は普段から、一緒に居て欲しいと望むあまり契約者──巴に負荷を掛け過ぎていて、挑発めいた言動に乗って真紅との戦いをしたとき、巴を指輪に引き込みかけてしまったこと。それを知って戦いを放棄し、契約も破棄してしまったこと。
 悪く取れば、真紅が小狡く立ち回って物知らずな上に駆け引きの不得手な雛苺を嵌め、まんまと勝ちを収めてしまったと見ることもできるかもしれない。しかし当の雛苺は、真紅は雛苺がこれ以上巴に迷惑を掛けるのをやめさせようとしたのだと説明していたし、少年も素直にそれを信じていた。
「それまで雛苺は、私と離れているときに寂しくなると私を呼んでいたの。教室でも、登下校の最中も、部活のときもずっと」
 それでも巴は早退して雛苺の待つ自宅に帰ろうとはしなかった。
 部屋に雛苺が居る、ということは同居している父母には秘密だったから、早退するには両親にも疑われない理由を作らなければならなかった。それは咄嗟には中々思いつかなかった──風邪気味で熱がある、程度で早退を許すような親ではなかった──し、大袈裟に言えば学校や部活に対する彼女なりの義務感のようなものもあった。
「帰ってからはなるべく一緒に居るようにしていたけど、雛苺は満足しなかったの」
 雛苺は、なかなか一緒に居てくれない巴と少しでも長く、できればずっと遊んでいたかった。少年に話したとき彼女は「巴に意地悪をしちゃった」と言ったが、恐らく本当は善意も悪意もなく、ただ純粋に巴と遊んでいたかったのだろう。
 ある意味でそのときの雛苺は精神的に少し病んでいたと言えるのかもしれない。だが、そこには理由もあった。
 彼女は後ろを振り向かない性格、あるいはそういう処置済みではなかった。それなのに──恐らく幼い彼女の主観では──前の契約者に唐突に捨てられてしまった。それが強いトラウマになっていたのだ。
 彼女は一所懸命にnのフィールドの中の自分の小さな世界を模様替えした。巴の家の中にそっくりで、尚且つ現実世界の巴の部屋とも接続して、直に行き来の出来るような姿に変えた。そうすれば、巴はずっと自分の傍に居てくれる、もう見捨てて離れて行かないと思ったのだ。
 皮肉なことに、それは彼女に与えられた力では難儀な種類の行為だった。力技でその「模様替え」をするには、自分自身の力だけでなく、契約者から力を分けて貰う必要があった。
 雛苺は黙って巴の力を借りた。正直に言えるはずもなかった。
 巴は雛苺が自分の生命力を吸っていることを薄々気付いていた。だが、彼女は何も言わずに胸に抱え込み、できるだけ普通に振舞った。
 雛苺がもっと一緒に居たいと切実に願っているのに、人間の社会の中の自分が今そうしている以上には応えてやれないことが悔しく、切なかったからだ。せめて力くらいは自由に使わせて上げよう、と思っていた。
「それで、雛苺はどんどん私の力を吸って……真紅と戦ったときは、もう私は指輪に引き込まれる寸前だったみたい」
 戦いの結果は至極当然だった。契約者が消滅しかかっていると真紅に指摘され、巴がどんな状態になってしまったか知った雛苺は、戦いを続けることなどできなかった。
 雛苺は真紅に勝つことよりも、敗北した自分が動かないただの人形になっても巴が消えないことを選んでしまった。ほとんど不戦敗と言っていい状態で、彼女は負けた。
 ただ、彼女は動かない人形にはならなかった。真紅は敗北した雛苺からローザミスティカを召し上げることを良しとしなかった。彼女は自らの信念に基づき、自分の下僕ということにして雛苺をそのまま生かした。

「一日に何回も呼ばれているなら、誰かが栃沢君を呼んでるのかも」
 巴は立ち止まって少年を見上げた。自分の話を語り終わって少し気が晴れたのかもしれない。
「契約した子──水銀燈かもしれないけど、他の子かもしれない。私は呼ばれたとき、呼んでるのが雛苺だってはっきり分かったから」
「水銀燈じゃないとしたら、誰なんだろ」
 少年も視線を巴の顔に向けた。
「心当たりは……えーとないでもない、けど、さ」
 歯切れの悪い言い方で、少年はあまり愉快ではなさそうな顔をする。巴はついと視線を前に向けた。
「私に聞かれても……」
「だよなー」
 少年はそれ以上言葉を続けず、傘を持ったまま腕を組んでゆっくりと歩き始める。巴も歩調を合わせて歩き出した。
 二人は暫く、無人の住宅街を並んで歩いた。大通りとの、信号のある交差点に差し掛かったとき、少年が漸く口を開いた。
「俺、変わったかな」
 え、と呟いて巴は思わず少年の顔を見上げた。少年は赤になっている信号を見上げながら、半ば他人事のように言う。
「記憶失くす前と、今とで、そんな物凄く変わったのかなぁ」

 実はそのことを、少年はあまり深刻に考えたことはない。多分別人に思えるほど変わったんだろうな、というところで思考停止してしまっている。
 記憶を失くしたといっても、それは殆ど生まれる前から持っていた部分らしい。自分の生きて来た記憶の方は、水銀燈の話では「前世の記憶に強く依存していた部分」だけが吊られて抜け落ちてしまい、その部分を健在な記憶で適当に辻褄を合わせて補っている状態だという。
 水銀燈は少し前までほぼ毎日、彼の夢に入ってはその勝手な辻褄合わせを止めさせていた。彼女が知っている範囲内で正しい記憶が分かっていればそちらの方に誘導するなり、可能な限り正しい記憶に近く作り直す。その膨大で面倒くさい作業を、短気なはずの彼女はこつこつと続けてくれたのだ。
 そのお陰もあってか、今の彼は日常生活をすることと、幸か不幸か勉強をする分にも差し障りはない。親しい友人と話をしても、ごく普通に話は繋がる。
 ただ、記憶を失う前の自分が水銀燈や蒼星石達と出会って何を考え、どう話をしていたか、恐らく前世の記憶が強く関わっていたそれらはおぼろげにしか分からない。あまり熱心に見ていなかった映画やテレビのようなもので、ストーリーや場面、場合によっては台詞までは断片的に覚えていても、そのときの思いは殆ど抜け落ちていた。
 例えば記憶を失う日の晩、それも寝入る寸前に──もっとも今の彼の視点で言えば、「水銀燈がそう言っているからその時系列なのだろう」と納得するしかないのだが──水銀燈に好きだと言ったことは覚えている。しかし、そのときの彼女の反応は覚えているものと違っていたらしい。
 彼の覚えている限りでは、水銀燈の反応はクールなものだった。彼のことを人形フェチと呼んで肩を竦めてみせたのだ。殆ど言葉を受け流しただけのその反応以外は、穴だらけらしいその夜の記憶の底からは掬い上げられない。
 だが水銀燈が言うには、それだけではなかったらしい。そもそも、告白したのは寝入る寸前でなく、彼はそれからシャワーを浴び、水銀燈とまた会話を交わした後で眠ったということだ。
 具体的に何を話したのか、それについては水銀燈は教えてくれない。どうせ大した話じゃなかったんだろう、とは思うが、それは心の片隅にしつこく引っ掛ってはいる。
 逆に言えばその程度の事柄でもあった。もう済んだことで、後々大きく関わってきてもいない。
 水銀燈に好きだよと告白したのも、それに対して何かリアクションを返されたのも、そのときの彼であって今の彼ではないのだから。
 一事が万事そんな風なので、普段は少年は記憶を失くす前の自分や、それと今の自分の差についてはあまり深く考えることを止めていた。ドラマやアニメで見る記憶喪失とは違って、以前のままの生活の延長線上で支障なく暮していられるのだし、薔薇乙女達に関することは、必要があれば尋ねればいい。
 ただ、昨日の午後から夜にかけての一連の出来事で、少年は少しばかり記憶を失う前の自分が気になり始めていた。妙な言い方ではあるが、興味を持った、というのが一番近いかもしれない。

「多分、だけど」
 少年は巴に視線を向けた。ほんの僅かに間を置き、最初に言おうとしていたこととは少し違った言葉を口にする。
「呼ばれてるんなら今の俺じゃなくて、昔の俺なんじゃないかって思うんだ」
 だからちょいフィルターが掛ってぼんやりしてんじゃないかなぁ、と、少年は相変わらず他人事のように言った。巴は少し眉根を寄せて不審そうな表情になった。
「どうして?」
「昔の俺って、なんか結構人気あるみたいだからさぁ」
「なにそれ」
 珍しく、巴は可笑しそうに声を上げた。
「栃沢君は前から同じような感じだと思う」
「あ、そう?」
 少年は意外そうな顔になったが、ついさっき零してしまった一言を巴が否定してくれたのが分かると、そうかー、と満更でもない顔つきになった。あまり変わらないと言われて嬉しくなってきたのか、少しばかり調子付いてしまう。
「少しは変わったのかと思ってたんだけどな」
 セイチョーってやつでさ、と何やらそれらしい身振りをしてみせる。
「うん、そうね、少しは」
 巴はふっと人の悪い笑いを浮かべた。
「でも、今より前の方が女子の人気があったとかいうことは、ないから」
「え、それ何気にトドメ刺された感じなんスけど!」

 オーバーな身振りで返してみたものの、呼んでいるのが誰か、となると、少年には思い当たるフシが何人かいる。もちろんそれは──ある意味でとても哀しいことに──誰一人人間の少女ではないけれども。
 水銀燈が昼寝の寝言に何やら呟いているのかもしれないし、蒼星石が心の中でそっと呼び掛けているのかもしれない。あの飛び立っていった黒い人形も昔の彼と長いこと旅をしていたという話だし、雪華綺晶も大分御執心のようだった。
 翻って、今の自分をそんなに切実に呼ぶほどの存在となると、水銀燈がピンチになったときくらいしか考えようがない。もっとも彼には、水銀燈がそういう事態に陥ることがどうしても上手くイメージできなかったし、仮にそうなったら水銀燈は分かり難い呼び掛けではなく、素っ気無く要旨だけの伝言を伝えて来るか、彼を召集するような勢いで何等かの方法で通達してくるに違いない。
 そういう勢いであれば、彼に物事を通達してきそうな相手は他にもう一人居ないでもないが、生憎そちらがピンチになったときに必死に呼び掛ける相手が彼でないことは明白だった。つまりその線でもない。

「まあ、そんなこんなでさ」
 人もまばらな横断歩道を渡りながら纏まらない説明をして、少年は首を振った。
「なぁんかイマイチ、心当たりがないって言うか実感が湧かないんだよな。今の俺、って考えたら呼んでくれそうな子が思いつかないや」
「そう……」
 巴は残念そうな顔を隠さなかった。ただ、少年にとって有難いことに、それは寂しげな雰囲気を伴ってはいなかった。
 彼の周りの女性──全員人形ではあるけれども──がそういう表情をするときは、大抵決まって寂しそうな気配が漂う。その原因は昔の彼を思い出してしまったか、今の彼に昔の彼を重ね合わせてしまうからだ、というのは少年にも分かっていた。
 もちろん相手はそのことで彼自身を問い詰めたりはしない。今の彼に詰問したところでどうしようもないことだし、問い詰められてまともな言葉を返せるほど彼は器用でないことも分かっているからだ。
 しかし、だからこそ少年は困ってしまう。相手に対して申し訳ないような、いちいちそんな顔をして欲しくないという苛立ちもあるような、なんとも言えない気分になってしまうのだった。
 巴の顔にはそういう陰がなかった。単純に、自分の推測と言葉が参考になる程度でそのまま役に立たないことを残念だと思っているだけだ。それは彼の不連続でない一面の方を主に見ているクラスメートとしてはごく普通の反応なのかもしれないが、少年は素直にほっとした。
「でも、ありがとな。教えて貰えて良かった。今のとか昔のとか関係なくてさ、誰かがそんなに呼んでるってことは、また何か事件が起きる前兆かもしれないんだし」
「……そうね」
 巴は少しだけ顔を引き締めた。


 帰り道が分かれる公園が見えてきた。一ヶ月ほど前、買い物に出てきた少年が雛苺と巴に偶然会った場所だ。
「取り敢えず俺、電波源の本命っぽいヤツの所に帰るわ。真っ直ぐ。俺のこと呼ぶ子なんて他に思い当たらないしさ」
 彼は傘を持っていない方の手を挙げ、ありがとさん、と敬礼の真似事をする。巴は片手を小さく上げてそれに応えた。
 少年は公園の向こうで一度だけ振り返って傘を大きく振り、そのまま自宅の方に駈けて行く。長身とはいえ、近くの家の塀に隠れてすぐにその姿は見えなくなった。
 巴は上げたままだった手を下ろし、その手を顎のところに持っていった。ゆっくりと歩き出しながら、やや考え込むような表情になった。
 少年が聞いたのが薔薇乙女の誰かの声だとしたら、また何か始まっているのだろうか。先週雛苺に聞いたところでは、昨日の日曜日に例の大きなフィギュアを受け取ってきたはずだ。案外、その人形が彼を呼んでいたのではないだろうか。
 公園から暫く行ったところの辻で、彼女は立ち止まって腕時計を見る。雨雲が掛っていて分かりにくいが、まだ太陽は高い位置にある時間帯だった。急に中止にならなければ、剣道部の部活であと数時間は遅くなるはずのところだった。
 辻の上であちらとこちらを見渡し、暫く逡巡してから、彼女は自宅とは違う場所に向かう方に足を進めた。

──やはり今日は雛苺に逢いに行こう。

 契約を解除したといっても、彼女は雛苺と深く関わってしまっている。少年が言うように何かが動き始めているとしたら、他人事では済ませたくなかった。
 それに、黒い人形のことも気になる。昨日の午後から夜半にかけて何があったのか、話の成り行きで彼女は少年から聞きそびれてしまっていたが、関心がないわけではなかった。
 商店街の菓子屋のチェーン店に向かい、いつものように手土産として苺大福をひと箱買って店を出たとき、彼女の視界の隅を何かがふわりと横切った。
 控えめだが品のいい香り。白い服。ふわりと流れる金髪。整って可愛く優しいけれどもどこか存在感の希薄な顔立ち。
 まるで良く出来た衣裳人形のようなそれは、しかし、確かに彼女と似た年頃でほんの少し背の高い少女だった。
 巴が何度か瞬いたのは、その少女の容姿に眼を惹かれたからではない。
 見覚えがある人物だった。昨日の朝練の行き帰りにもこの近くを歩いているのを見ている。
 何かを探して歩いているようなのに、要領を今ひとつ得ないような足取り。ふらりふらりと、まるで幻影が彷徨うように少女は歩いていた。
「──あの」
 巴は思わず声を掛けていた。咄嗟に英語は出てこなかったが、それを気にする余裕もなく、彼女は少女を見詰めた。
「何か、お探しですか……?」
 少女は巴を振り向いた。黒目ばかりのようなつぶらで美しい瞳が巴を見、金髪がふわりと揺れ、薔薇の模様をあしらった白い傘が細い雨を不規則に弾いた。
「……はい」
 外人にしか見えない少女は、はっきりした日本語で答えた。
「ある人のおうちを……探しています」



[19752] 前半gdgdの約130。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/12/02 22:37
いろいろgdgdです。

オディールさんは次回。

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「ただいま」
 玄関を開けても返事はない。いつものことだったから、少年は特に感慨を感じることもなく靴を脱いで台所に目を遣った。
 出掛けにこちらを見ていた翠星石を思い出す。関節部分が見えるのも構わず腕捲りして、食器を洗おうと水道に手を伸ばしていた。
 考えてみれば珍しいことだった。水銀燈も蒼星石も、そんな風に肌を見せたりはしない。膝の関節は白いタイツで見えないし、足首や肘はもちろん、手首に至ってもなるべく見せないように服の下に隠している。
 そういえば、翠星石はスカートの中の膝関節も、ロングソックスやタイツは履かずに剥き出しだった。この間薔薇屋敷で肩車をして作業したとき、スカートが上の方に寄ってしまって偶然見えたのだ。少年はどきりとしたが、見られたのがかぼちゃパンツでなく膝だからなのか、翠星石は頓着せず少年の肩の上で作業を続けた。
 桜田家の三人はみんな開放的なのだろうか。それとも翠星石が特別なのだろうか。
 どちらにしても、それはドールのボディであることを素直に認識しているからできることだった。気負わず自然体ってやつで生きているからなんだろうな、と思う。
 自分が比較的親しい二人は、どうなのだろう。なんとなくどちらも、どこかで普通の脊椎動物──もっと端的に言えば人間──と違う自分の身体に違和感や呪わしさを感じているような気がした。
 それは別にどちらであっても重大なことではないように思えたから、どうせいつもの勘違いだろうなぁ、と少年はすぐにそれを打ち消した。なんとなく、が正鵠を射ていることはあまりない。翠星石が珍しいことをやっていたから、ちょっと対照的に見えただけの話だろう。
 それよりも今は、水銀燈の鞄の中に居るはずの存在への関心の方が勝っていた。
 通学鞄を机の上に置き、水銀燈の鞄がいつもの位置にあるのを確認して、汚い手じゃやばいよな、と流しに引き返す。これでもかというほど丁寧に手を洗って、ハンカチで手を拭きながら部屋に戻った。
 屈み込み、かちりと鞄を開け、少年はびくりと硬直した。
 鞄の中に入って眠っていたのは、水銀燈だった。
 慌てて鞄を閉めようとして、少年の視線は水銀燈の手首に向いた。
 いつもより少しだけ袖が上がっているのか、下になっている左手の手首が見えていた。柔らかい、人間のような触感の手は、翠星石と同じように丸い球体関節で硬そうな焼き物の腕と繋がっていた。
 少年は可能な限りそおっと手を伸ばし、慎重な手つきで彼女の左袖を手首が外から見えないように直した。水銀燈はいつもの、少しだけ頭身が大きめではあるけれども、それさえ気にしなければ美人で大人びた人間の子供に見える姿に戻った。
 彼はひとつ息をつき、落ち着いた動作で静かに鞄を閉じた。落ち込んでも高揚してもいない、ただ何とも言えない気分になっていた。

「さて、それで、と」
 少年はきょろきょろと室内を見回した。水銀燈が眠るために鞄から出したのだとすれば、白い人形は何処に移されたのだろう。
 机の上、床、と見て行ったが、白い姿は見当たらない。まさかとユニットバスの扉を開けてみたが、そこでも彼を出迎えたのはガソリンの臭いと彼が持ち出してきた刈払機くらいのものだった。
「あれぇ……?」
 言いながら押入れの襖に手を伸ばす。狭い部屋だ。放り出したのでなければ他には選択肢はない。
 果たして、下の段の前の方、衣装ケースの脇の狭い空間に、座布団を二枚敷いて人形は横たえられていた。脚は伸ばされ、両手は鳩尾の下で組まれ、髪も整えられている。王子様のキスを待つ白雪姫といった風情だった。
「へぇ……」
 妙な気分はあっさり消えて、少年はにっこりと微笑んだ。なんでもない寝かせ方だったが、水銀燈が一人で場所を作り、自分の体ほどもある人形を運んで寝かせているところを想像すると自然に頬が緩んでしまう。

──これが大変で俺のこと呼んでた、とかね。

 ついそんなことを考えてから、それはないよなぁ、と頭を掻く。水銀燈は彼の登下校の時間を把握しているし、その気になれば彼の授業の時間割さえ、自分の記憶の中のデータベースから引き出して確認できるはずだ。
「案外、この子が俺のこと呼んでたりして」
 それもあまりなさそうだったが、口に出してみると逆に全く有り得ないとも思えなくなった。
 この人形はnのフィールドの中で一度、恐らくは動くはずのないときに動いて、自分に話し掛けた。今は風呂場の壁に立て掛けてある機械をあの場で出現させたのもこの人形の力なのかもしれない。いや、多分そうなのだろう。
 今もまた、体を動かすことはできなくても自分に呼び掛けて来ることくらいはできるのではないだろうか。逆に呼ぶ声がはっきりしていなかったのは、人形が僅かな力を振り絞っていたせい、にも思えてくる。
「だったら、早く起こしてやらなくちゃいけないよなぁ」
 うんうんと一人で頷いて、少年は窮屈な場所に上半身を捻じ込み、苦労しながら人形の背中に手を差し入れる。長い髪の毛ごと人形を片手で抱き寄せて、自分の体のあちこちを狭い空間のどこかにぶつけていててと言いながら、どうにか人形は無事に抱え出した。
「こりゃ、専用ベッド作らないと大変だ」
 八十センチほどもある上に手足が長い人形を不器用に横抱きに抱え直しながら、少年はふうと息をついた。
 金糸雀のマスターで人形コレクターのみつは、増えすぎて場所が足りなくなっても人形達を何処かに仕舞わずに棚の上に置いているらしいが、その理由が半分分かったような気がした。外に座らせておく分にはそうでもないが、寝かせて仕舞ってしまうと取り出すのも大変だし、意外に広いスペースが必要になるのだ。
「そうね。鞄もないことだし、眠る場所は必要でしょう。毎度毎度その襖の向こうに行くのは大変よ」
「だよなぁ」
 いつものようにテーブルの上から聞こえてきた声に、少年は溜息混じりの返事を返し、一拍置いてから慌てたようにそちらを振り返った。いつの間に鞄から起き出していたのか、水銀燈は行儀悪くテーブルの上に腰掛けてこちらを見ていた。
「おはよう、人間。お帰りなさいと言うべきかしらね」
「おは……た、だいま」
「なによそれは」
 少年の珍妙な受け答えに、水銀燈はぷっと吹き出した。
「どっちかにしなさい、お馬鹿さん」
「う……じゃ、おはよ」
 どちらにするか逡巡してから少年はなんとなく頭を下げてしまった。水銀燈は笑顔のまま、おはようと口の端を歪めてみせる。

「で、それのことだけど」
 少年の腕の中の人形を指す。少年はすやすやと眠っているようにも見える人形の顔をちらりと見、体ごと水銀燈に向き直った。
「そだ。ありがとな、この子寝かしといてくれて」
「気にしないで。お礼されるようなことじゃないから」
 水銀燈は照れる風もなくひらひらと手を振ると、テーブルの上に立ち上がって少年の方に歩み寄る。彼は抱いている人形を彼女によく見せられるような位置に移動した。
 額に掛る銀色の髪を掻き上げながら、彼女は人形の顔を覗き込む。背中の黒い翼の生え際が一瞬はっきりと見え、彼は思わず息を呑んだ。
「──表情は柔らかいけど、よく似てるわ。あの人形と……」
 水銀燈は彼の表情の変化に気付くこともなく、やっぱりあの人形師の作品ね、と言いながら、人形の前髪を整えた。彼女が半歩退き、胸の下で組んだ人形の手に自分の手を重ねて視線を上げたときには、少年は表情をどうにか元のとおりに戻していた。
「この人形を動かしたいんでしょ、貴方」
 テーブルの上に立つと、水銀燈の視線の高さは少年とあまり変わらなくなる。今も彼女は真っ直ぐ前から彼の瞳を見据えていた。
「うん」
 少年は素直に頷く。水銀燈は空いている方の手を伸ばし、確認するように人形の肩を支えている少年の手に触れた。記憶を失っても契約の指輪は彼の薬指に嵌っていた。
 暫くそれを見詰めてから、水銀燈はまた視線を上げる。
「契約を交わすことは考えていて?」
 え、と少年は言葉に詰まってしまう。彼としては動けるようにしてやりたいというだけで、それ以上のことは何も考えていなかった。
 そんなことだろうと思った、と水銀燈は片手を人形の手に重ねたまま首を竦め、ごめんと少年が謝るとくすりと笑った。
「貴方がそんな先読みをして行動していたら、却って気味が悪いわよ」
 少しばかり意地の悪い笑い方だったが、少年は酷いなぁと言って口を尖らせただけだった。水銀燈は笑いを収め、人形の手を今度は両手で握る。
「まあ、それは追々考えればいいこと。今は──」
 彼女が人形の組んだ指をゆっくり開かせると、その中に魔法のように金色の螺子巻きが現れる。それはあまりにも光沢が鮮やかで、逆に鍍金塗装の玩具のようにさえ見えた。
「──これを巻いて」
 彼女は無造作にそれを彼の、人形の膝下を支えている方の手に握らせた。ありがと、と言いながら彼は人形の顔をまた見詰める。
「持ってたんだ、この子」
 人形の指を丁寧に元通り組ませながら、水銀燈はふんと鼻を鳴らした。
「後生大事に握り締めていたわよ。まるでこれしか頼るものがないって風に」
 それもすこし意地の悪い言い方だったが、少年はただ頷いた。突き放したような言い方をしているときの水銀燈が、いつも突き放した物の見方をしているとは限らない。今もそうなのだ、と分かっていた。


 少年は床に座り、自分の膝に横向きに座らせた人形の腹部を抱えるような姿勢になっている。人形の上半身を前に倒し、長い白髪を左右に分けると、背中の螺子穴はすぐに見付かった。
「巻くよ」
 少年が人形の耳元で囁く。緊張のせいか螺子巻きを持った手は少し震えていた。
 水銀燈はテーブルの上に座ったまま、組んだ脚の上に肘を立ててそれを覗き込んでいたが、ふっと薄く笑った。
「いやらしい言い方」
 ええっ、と少年は上体を大きく揺らし、緊張していた表情を少し情けない風に緩めて水銀燈を見上げる。堪らず彼女が笑い出すのを見て口を尖らせた。
「ひっでーなー。感動の場面なんだぜ」
「見たままを言っただけよ。あは、あははは」
 何がそんなに可笑しかったのか、水銀燈は笑いながら片手をひらひらと振ってみせる。
「貴方はね、そんな恰好付けても似合わないから。いつもどおり自然体で居ればいいのよ」
 くくく、と少し前のめりになってなお暫く笑い、それが収まると姿勢を戻した。
「映画や劇のクライマックスじゃないんだから、肩肘張る必要はないわ。昨日と同じにあっさり行けばいいのよ」
 少年は何か抗議しようとして口を開きかけたが、水銀燈が面白そうに笑っているのを見てそれを呑み込み、了解したよと言う代わりににっと笑った。

 彼にとって、昨日黒い人形の螺子を巻いたときと今はいささか事情が違っている。
 黒い人形は自分の夢の中に居た存在だとはいえ、記憶を失ってからの彼自身は意識がある状態での直接の接触を殆ど持っていない。この現実世界に連れ出したのも水銀燈であって彼自身の意思ではなかったし、話に聞いているところでは人形は記憶を失う前の彼が生み出し、そのときの──あくまでそのときの、であって今のではない──彼に強い執着を持っているということだった。
 むしろ周囲の皆──薔薇乙女達とジュン──の方が、直接対峙したり長いこと部屋の中に置いて過ごしていたりと、人形と触れ合う機会と時間を持っていた。彼はと言えば、初めて見たのは昨日の午後だったし、それから間もなく人形は捨て台詞を吐いて何処かに飛び去ってしまったのだ。会話さえも殆どなかった。
 この白い人形は違う。何処の誰とも分からない異世界の存在ではあるが、nのフィールドで出逢い、一緒に際どい所を乗り越えた仲だ。しかも、彼に貴重な助言もくれている。

 ──強く、イメージして。それを……はっきりと、具体的に。
 ──焦らないで……集中して、イメージを作って。

 どうやら会話は一方通行に過ぎず、彼の言葉は相手に届いていなかったようだが、この人形の助言がなければ、今頃は彼は何処かに漂流しているか、雪華綺晶に囚われていたのだろう。巨大な白薔薇の花の中、切羽詰った状況でも、どうにか刈払機を細部まで明確にイメージできたのはあの助言のお陰だった。
 刈払機を出現させたのも自分自身ではなくこの人形の力によるものだ、とも彼は推測している。確たる根拠はないがそんな気がするのだ。
 もちろん人形が彼に助言をしたのは、彼を助け出したいというよりも自分が囚われたくなかったからだろう。だが、結果的に助かったのは間違いない。そして、メイメイから依頼を受けた事柄とはいえ、現物を確認し、雪華綺晶に遭遇した後で最終的に人形を連れて現実世界に戻るという判断をしたのは、今度は彼自身だった。
 そんな連帯感に恩義と責任のようなものも加わって、彼は白い人形の螺子を巻くということに少なからず気構えを持っていた。そちらにばかり気が向いていて、契約云々には全く考えが回らなかったほどだった。

 ただ、それは空回りしかけていたのかもしれない。水銀燈の言葉でなく笑顔が、理屈でなく感覚で少年にそれを分からせてくれた。
 自分の中で妙な具合に葛藤を繰り広げていても、それは外から見たらただの滑稽な一人芝居に過ぎないのだろう。悩み抜いて結論を出すとか、何かをするだけで周りの者を引き込んで行くといった恰好の良い役柄は彼には似合わないらしい。
 どんなに丁寧に螺子を巻いたところで、彼は所詮彼だった。ならば普段どおりに力を抜いて、いつも水銀燈の薇を巻くのと同じように、または昨日の夕方黒い人形のキーを回したように、ごく自然に螺子を巻いてやればいい。
「んじゃ、巻きますか」
 彼は人形の背中に視線を戻し、無造作に螺子巻きを螺子穴に嵌める。現金なもので、手はもう震えていなかった。
 きりきりとある程度まで一気に螺子を巻く。そこからは見覚えがある光景だった。
 螺子巻きは勝手に回り始め、それとともに人形の眼はうっすらと開いていき、力なく摩擦力だけでポーズを取っていた四肢が少しずつ動き始める。腹部に回して支えていた手をそっと引くと、人形はゆっくりと立ち上がり、左の眼を何度か瞬いた。
 小さな唇が動き、金色の瞳が焦点を結ぶ。数秒間、そうして壁の方を向いていてから、白い人形は少年と水銀燈の方に向き直った。
「……巻いてくれたんですね」
 柔らかな笑顔で人形は言った。おう、と少年は親指を立ててみせる。
 彼の後ろで水銀燈は肩を竦めた。先程は先程で、ぎくしゃくと妙に力の入った仕草に笑ってしまったが、それが少年の持ち味とはいえ、あっと言う間にここまで普段どおりに戻ってしまうのも可笑しかった。本質的に緊張感が持続できない性質なのかもしれない。

──皮肉なものね。

 笑いながら彼女はそう思う。
 昨日の黒い人形と今日の白い人形。よく似ているのにまるで対照的な目覚めだった。
 一方は見返り無しの好意を一身に受け、何人もの手を経てそのボディと動力源を完成したにもかかわらず、あれだけの人を集めた目の前で憎悪と敵対心だけを振り撒いてnのフィールドに戻って行った。
 此方は自分と彼以外の誰にも殆ど関心を向けられていない状態で、こうして祝福されて目を覚ました。
 雪華綺晶がらみで自分達に関わったということまで含めてよく似ている立場なのに、この差はどうしたことなのだろう。

──これが、「お父様」に見守られている存在とそうでない存在の違い、か。

 水銀燈の脳裏に、あの夢の工房の中で出会った人形師が浮かぶ。彼はひどく皮肉に、それでいて少しばかり照れたように笑っていた。
 見守っている「お父様」と考えたときに何故自分達の造物主でなく彼のことを思い浮かべてしまったのか、その理由は彼女には分からない。ただ、少年と自分を見詰めて微笑んでいる白い人形が、あの人形だけでなく、例えば自分の末妹と比較しようもないほど幸せなのだろうということは理解できた。
 少年が白い人形のために飲み物を用意しようと台所に向かう背中を見遣り、若干不安そうな視線を自分の方に向けている人形に視線を戻して、さて、と彼女は気分を切り替える。
 人形から聞き出したいことは幾つもあるのだ。他のことはそれからでいい。



[19752] 140かな? かな?
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/12/03 17:49
プレッツェル辺りいずれ増量したいけど実現するか不明。

※23:07 それとは関係のない部分の行数2行ばかり増大。水増し∩( ・ω・)∩ ばんじゃーい

12/3 スパゲッチな部分を一部訂正。

***********************************************************

「うゅ? 二人で何作ってるの?」
「ビスケットの素ですよ。紅茶入りでチョコがけのソフトビスケットです」
 蒼星石が隣にいるからか、翠星石は機嫌よく雛苺に答える。雛苺はぱあっと顔を明るくした。
「うわーい、ヒナも食べたいの!」
「すぐには無理なんだってさ」
 蒼星石は苦笑する。ついさっき、生地を畳むのを手伝いながら同じ質問をして、翠星石に大仰に溜息をつかれたところだった。
「がっつくなです。まずは冷蔵庫で一時間寝かすですよ。それからオーブンでじっくり三十分。美味しいビスケットに辿り着くまでには、まだまだ先は長いのです」
 踏み台の上で、立てた人差し指を左右に振りながら翠星石は得意気に説明した。雛苺は口をだらしなく開けたままこくこくと頷いて聞いている。
 いい聞き役だな、と蒼星石は頬を緩める。翠星石の講釈に素直に聞き入っている雛苺が、何処となく水銀燈の媒介の少年に重なって見えるような気がした。
 案外、雛苺と少年は似ているのかもしれない。そしてどちらも翠星石といいコンビでもある。怒鳴り散らされてもめげずに子供っぽく自己主張もし、翠星石が笑えば一緒に笑い、時折はしっぺ返しもする。
 そうやって気兼ねなく伸び伸びと付き合える関係は、蒼星石と翠星石の間にはなかった。蒼星石の性格がそちらに向いていないことも原因の一つだったが、お互いがあまりにも近すぎることが一番大きかったように思う。

──敵わないな。

 それが素直な感想だった。
 今の翠星石は、陳腐な言い方かもしれないが輝いている。それを引き出しているのは真紅や雛苺であり、もっと言えば彼女達のマスターであるジュンとその姉も含めたこの場所の雰囲気なのだろう。
 彼女と一緒に居るのが自分とマスターの二人だけという環境では、こうはならなかったはずだ。
 翠星石にとって自分はかけがえのない半身のようなものだった。だから常に一緒に居たがっていたし、本来寂しがり屋の彼女を独りで放って置くことは自分としても耐えられなかった。それは翠星石にとって安心できる環境だったはずだが、同時に彼女を縛っていたのかもしれない。
 やはり彼女は──

「──蒼星石」
 呼び掛けられて蒼星石は我に返る。声のした方を向くと金糸雀がきょとんとした表情で彼女を見上げていた。
「どうしたの?」
 なんでもないよ、と蒼星石は首を振り、作った生地を冷蔵庫に入れながら雛苺の相手をしている翠星石をちらりと見遣ってから踏み台を降りた。
「ごめん。少し気が抜けてたみたいだ」
「そう?」
 金糸雀は冴えない表情のまま首を傾げた。言うか言うまいか少しばかり逡巡するような間を置いてから、にっこりと笑って続ける。
「なら、いいの。笑ってるのに寂しそうな顔してるように見えたから、ちょっとだけ気になったかしら」
「そうかな」
 蒼星石は苦笑する。こんな些細な内心の動きでさえ満足に表情から隠せない自分に少し呆れていた。
「ありがとう。大丈夫だよ、ちょっと昔のことを思い出していただけだから」
 金糸雀はうんうんと頷き、素早く片目を瞑ってから身を翻して雛苺のところに駈けて行った。
 実のところ、回想は蒼星石の考えていたことの半分にも満たなかった。もっとも金糸雀は恐らく理解していて、言い訳まで含めた蒼星石の思いを受け取ってみせたのだろう。

──優しいんだね、金糸雀。

 何とはなしの暖かさのようなものを蒼星石は感じた。ただ、それはまた彼女の思考を少しばかり内向きにしてしまった。
 金糸雀の態度は翠星石と蒼星石が今までお互いに取っていたスタンスと似ていた。
 あまりにもお互いを知っているから、会話は減る。特に、どちらかが心を痛めているときは、発せられるのは労わりの成分を含んで変化した言葉だけだった。
 二人とも臆病なだけに相手を大事にし過ぎ、本音は奥に仕舞われてしまう。嘘とまでは言わないが、それが積み重なっていくにつれ、何処かに作り物の世界を構築して、それが実在することを信じようとするような危うさがついて回った。
 いつも辛うじて一定以上にそれが進まなかったのは、翠星石の性格ゆえだった。自分の内側に全てを落とし込んでしまう性格の蒼星石とは違い、翠星石は双子の妹や契約者に対する思いを表層に近い何処かに溜めていき、いずれそれは噴き出してしまう。
 そこで蒼星石が謝り、限界を超えてしまった翠星石が泣いて、やっと二人は素直な気持ちを確認できるのだった。

 今も多分、翠星石は元気に振り撒いている笑顔とお喋りの裏で、本当に言いたいことの何分の一かは胸の奥に仕舞っているのだろう。もちろん、水銀燈の媒介が垣間見せた漫画の世界──一時的とはいえ蒼星石を失ってしまった世界──の彼女のように、哀しさや不安をひたすらに押し隠している必要はない。しかし、例えばジュンに対する想いは、精神的に追い詰められていたあの世界よりも余裕のある今の彼女の方がはっきりと意識しているだろうし、その分ジュンに対してはその想いを隠そうとしているはずだ。
 似たようなものではあるかもしれない。いずれ同じように想いは噴き出してしまうかもしれない。ただ、それは蒼星石と契約者だけを見ていた頃の、歪で危うい繰り返しとは違うように蒼星石には思えた。具体的に何処が、と言われると返答できない、そんな微妙な違いではあるけれども。

──僕達はマスターを違えて正解だったのかもしれない。

 結菱老人の心の影を壊そうとしたときにちらりと考えたことを、蒼星石ははっきりと意識する。成長、と言ったらおこがましいかもしれないが、本来の契約者のあまりに身勝手な要求が原因とはいえそれぞれに道を踏み出したことで、翠星石も自分もこれまでとは全く違う経験を積むことができた。
 そのことがアリスゲームに有利であるかどうか、至高の少女となるために必要なのかどうかは分からない。そもそも、元来自分達は姉妹の中でも特にアリスゲームに対する執着が希薄だった。
 だが、いつ唐突に──アリスゲームの終焉という名前のタイムリミットが来て──終わるか分からない自分達の一生の中で、この時代、今という時間はこれまでになく有意義で、そして「これから」があるのなら間違いなく大きな礎になるはずだ。
 そこまで考えながら「これから」を無理に望んでしまわないのが、自分自身に後付けで施された操作なのか、あるいは謙虚で欲というものが希薄な性格によるものかは彼女自身には分からない。
 ただ、これからという言葉につい二人の人物を重ねてしまうことは意識していた。それは父親でもなければ姉妹の誰かでもなかった。


「いっちじかんー、いっちじかん」
 妙な節を付けて繰り返しながら、雛苺は自分に似た小さな人形を高い高いするように両手で持って体を揺らしている。それは後ろから見ていると冷蔵庫に祈祷の踊りでも捧げているかのようだった。
「まだかなまだかなー」
「未だも何も、カナはカナかしら!」
「うょ?」
 振り向くと、そこには金糸雀が長細いプレッツェルをこちらに向けて突き出していた。
「ヒナ、いい加減ふしぎなおどりはやめるかしら。迂闊に見てるとMP吸い取られちゃいそう……ってあああ!」
 はっしと雛苺は突き出されたプレッツェルに食いついてしまっていた。金糸雀が咄嗟にプレッツェルを持った手を引くと、両手で人形を頭上に差し上げたまま口だけで食いついていた雛苺は釣られるように前のめりになり、二人は絡み合うようにして倒れた。
「きゃああああ!」
「ふえぇぇぇ?」
「台所で何してやがるですかこのチビどもー!」
 大きな音に居間に戻っていた翠星石が血相を変えて戻ってくるのと、玄関のチャイムが鳴ったのはほぼ同時だった。
 姉妹達は動きを止め、お互いに顔を見合わせる。来客によっては騒いでいるのを見られるのはあまり良くない場合もあった。
 チャイムはまず一度鳴り、それから相手が出てくるのを待つような間を置いてもう一度鳴った。翠星石はひょいとキッチンから顔を引っ込め、ジュンに来客を知らせるために急いで二階に上っていった。
「トゥモエ……かな」
 むく、と上半身を起こして、雛苺はぱちぱちと瞬く。口にはまだプレッツェルの残りを咥えていた。それを飲み込んでキッチンの入り口にとてとてと駆けて行き、細めに開いたドアの陰から玄関の方を見遣る。
「いたた……カナは巴じゃないかしらっ」
 金糸雀は雛苺にぶつかってしまった額をさすりながら起き上がり、その後を追う。しかし並んで廊下を覗き込む前に、雛苺は歓声を上げて玄関に走って行ってしまった。
「トゥモエー!」
 こんにちは、とドアを開けようとしていた巴は、完全に開ききる前に雛苺のボディアタックを受けた。ドアノブと苺大福の箱で両手が塞がっていたが、飛びついてきた可愛い少女を胸の辺りで器用に抱き止める。
「トゥモエトゥモエトゥモエー!」
 雛苺は小さな人形を持ったまま、巴の首に両手を回してしがみついた。いつもの仕草ではあった。
「雛苺……元気してた?」
「花丸元気ぃー! トモエが来てくれたからダブル花丸になっちゃったー」
 言いながら巴の顔を見上げ、雛苺は疑問符を頭の上に浮かべたような表情になった。巴はいつになく冴えない、複雑な表情をして、彼女ではなく脇の方を見遣っていた。
「どうしたの、トゥモエ……」
 訝しげに何度か瞬き、巴の視線を追って行って、雛苺の表情は凍りついた。

「.... Corinne ?」

 視線の先には、まるで人形のように整った顔立ちの、白い服を身に着けた美しい金髪の少女がいた。少女は半ば呆然と、酷く懐かしいものを見るような瞳で雛苺を見詰めていた。
 玄関の庇の外で、細い雨はまだ降り続いている。凝固したようなその場所に、表の通りを車が通り過ぎていく音が、ひどく鮮明に響いてきた。


 温かいココアの香りが、安アパートの部屋の中に漂っている。
 純ココアの粉に砂糖の他に塩も少し入れ、ミルクなどは足さないのが水銀燈のレシピだった。少年にはあまり美味とは言えないような気がする代物だったが、お汁粉もそうでしょう、と言われるとそんなものかなとも思えてくる。
 それは幾つか前の時代に、船員だった当時の媒介が好んでいた味だった。砂糖が切れれば塩だけで飲むこともあったし、船の上では砂糖など入れず塩だけだった、と彼は言っていたが、流石にそれは水銀燈の舌には合わなかった。
「何から訊けばいいかしらね」
 人形を床に敷いた座布団に座らせ、水銀燈は珍しく自分も鞄に腰を下ろして向かい合った。
「まずは名前から、と行きましょうか。私は水銀燈。こちらの世界でのローゼンメイデン第一ドール」
 貴女は? と尋ねられて、人形は両手で持ったカップに視線を落とした。
「わたしはローゼンメイデン第七ドール……名前は」
 そこで何かを決意したように視線を上げ、水銀燈を見詰める。
「名前は、ありません。お父様はわたしに名前をお付けになりませんでした」
 脇で見守っていた少年は驚いたように人形を見詰める。だが、水銀燈は冷静に頷いていた。あの人形師ならありそうな話だ、と思ったからだ。
「名前は個体の識別に必要なもの。とても大事な、それぞれに一つずつのもの。でも、物事の本質を表しているわけではない、些細なもの……呼ばれることがなければ、名前は必要ではないんです」
 少年に、人形は淡々と説明した。
「わたしは最後に作られ、そしてお披露目されずにずっとnのフィールドの中にいました。誰とも契約することなく、お姉様たちの生き方を眺めて来たんです」

 第七ドールを作り始めた時の人形師は大きな壁に行き当たっていたと言えるだろう。
 それまでのドールの集大成というべき第五ドール──『真紅』でも彼の目指した高みには到底届かないことが分かり、思い切って方向を変えた『雛苺』もまた、作り上げてみると『真紅』にも及ばないことが分かった。
 そこまでは、水銀燈達姉妹の造物主も彼も、作ってきたものが違うとはいえ悩みどころは同じだった。つまり、これまでの手法では打つ手がないと絶望してしまったのだ。
 違っていたのはそこからだった。
 水銀燈達の造物主があくまで自分の追究する高みを目指したのに対して、彼は自分以外に解決の手懸りを求めた。弟子を取り、自分の技術と理想を教えながら、最後の一体の製作に新たな視点を持ち込もうとしたのだ。
 それは、人形師でありながら同時に錬金術師でもある、既に殆ど人智を超えた存在となりかけていた彼にとっては大きな決断だった。逆に言えば、そこまで追い詰められていたとも言える。
 残るローザミスティカの欠片は唯一つ、そして自分個人で思いつく手法は全て土がついてしまっている。思い切った行動に出なければ、現状は打開できそうになかったのだろう。

 結論から言えば、それは大失敗だったとも、成功だったとも言える。
 弟子は師匠を上回ろうと文字どおりその全てを投じ、莫大な時間をかけてローザミスティカさえ必要としない人形を作り上げた。
 弟子の思いを一身に受けたそれは、ずっと後になって、第七ドールを詐称して偽りのアリスゲームを扇動することになる。
 最後は体内に取り込んだローザミスティカのパワーにボディが耐えられず崩壊してしまったものの、自分以外に参戦した五体のドールのうち──彼が弟子に繰り返し最高傑作と語った『真紅』を含めて──四体を手ずから倒し、少なくとも戦闘力の面では師匠の作品を完全に超えたことを示した。
 もっとも、こちらの世界で自分達のゲームを戦っている水銀燈の視点から見れば、ドールの単純な戦闘力の大小は至高の少女たる資質の優劣とは直結しないように思える。ひと口に「力」と言っても、それは狡猾さや駆け引き、知恵、その他の資質を含めたものだ、というのはこの時代で媒介から知識を譲られる前から水銀燈の認識としてあったし、他の姉妹達にとっては戦うことそのものが忌まわしく思えているはずだ。
 彼等の世界では戦闘力と「力」はシンプルに繋がっていた。弟子は彼を超え、彼のアリスゲームは一時的にとはいえ破綻してしまった。
 ただし、それは悪い結果とは言い切れない。彼にとっては新たな方向を示された一件でもあった。潰し合いゲームに拠らない究極の少女への道があるということを漸く彼自身が認められたのだ。
 流石に自分の決めたルール──アリスゲームの敗者は二度と動くことのできない人形となる──までは破れなかったものの、彼は弟子のドールに敗北した自分の娘達については修復し、飛び散ったローザミスティカを再び与え、生き返らせた。『真紅』にゲームに拠らずにアリスになる方法があることを伝えることもできた。
 ともあれ、それは第七ドールを製作している時期の彼には予測できないことだった。彼は弟子に刺激を受けながらも、弟子とは全く逆の方向にドールの製作の舵を切った。

「わたしは、力を持たないものとして作られました」
 人形は空になったココアのカップを両手で抱えながら呟くように言った。
「強い力を持ってしまった姉妹たちは、それ故に究極の存在たり得ないのではないかと……お父様は、そう思われたんです」
 彼女は弟子の作った人形が始めた偽のアリスゲームにも参加しなかった。他の姉妹と比べ、あまりにも脆弱でゲームに耐えないと人形師から言われていたらしい。
 ただ、姉妹たちが戦いを始める前までは、有り体に言ってしまえば彼女を作っている間は、人形師はそれが自分の目指すものに近いのだと考えていたのだろう。
「他の六人は凄いパワフルなんだろ? みんなキラキィ以上とか……」
 少年は腕を組んで首を傾げた。
「一人だけ何にもないとか、そりゃ極端過ぎるんじゃね? なんか可哀相だ」
「そうとも言い切れないわよ」
 水銀燈は頬杖を突き、空いた方の手で一枚の黒い羽根を弄んだ。
「例えば……そうね、自転車や徒歩で行動できる範囲でも、自家用車を持ってたらそっちを使ってしまう。その子以外の姉妹はそれと同じ。つい持っている力に依存してしまうわけ。
 そこで最後の一人は敢えて特異な力を持たない者として作り、自分の道を切り拓いていくために積極的に知恵を絞らせるつもりだった、ってところでしょうね。どちらが可哀相か、見方によっては逆にもなる」
 弟子を取って触発されたことでアプローチの方法は変えたものの、それは第六ドールと似た方向ではあった。ただ、第六ドールの場合は大きな力を与え、完成された人格を植え込まずに自然の成長に委ねたところを、第七ドールでは力そのものを抑えて自らの知恵でそのハンデを乗り越えさせ、より自発的に成長させることで彼の考えるところの究極の存在に近付けようとしたのだろう。
 結果的にはそれもまた失敗に終わってしまい、ゲームによるアリスの誕生を目指した時点で彼の新方針は却って裏目に出てしまった。
 nのフィールドに逼塞していたという話も頷ける。パワーのぶつかり合いとなった彼等のゲームには、力を持たない者は耐えられない。戦いを挑まれれば即座に残骸となり、力を持つ者の糧となるだけだった。

──しかし、そうなると……

 ふむ、と水銀燈は黒い羽根を弄る手を止め、人形に視線を移す。そろそろ訊き時ということなのかもしれない。
「貴女にはどんな能力が与えられたの? 戦闘力は皆無に近くても、あの男がまるきり何の能力も付帯させないとは思えないけど」
 弄んでいた羽根を空中で止め、紙飛行機のように飛ばす。羽根は台所の方に放物線を描いて飛んでいったが、途中で力を失ってゆらゆらと漂うように落下した。
「むしろ、直接戦闘に向かない能力が付与されているんじゃないかしら、貴女には」
「わたしの能力……」
 人形はコップをコースターの上に置き、顔を上げた。少年を見遣り、それからやや気弱いようにも見える視線を水銀燈に向ける。
「わたしに出来ることは、強く何かを望んでいる人に、その人が望むものの幻を作ってあげること。それに……何かに焦がれ、それを夢に見ている人のお手伝い」
「それで全部?」
 それだけです、と人形は言った。訝しげな表情からは、何かを隠したり嘘をついている様子は見て取れない。
 水銀燈はまた、ふむ、と息をつく。自分では自分の能力を過小評価しているのか、それとも本当におまけ程度の実行力しかないのかは兎も角として、人形の能力は雪華綺晶のそれに近いものに思える。
 詳しく訊き出せば雪華綺晶の能力の細部を類推する手懸りにはなるだろう。もちろん、却って要らぬ先入観を持ってしまう可能性も否定はできないが、それでも貴重な情報源と言えそうだった。
 それは良い。だが、今の一言は良いことばかりを伝えてくれたわけでもなかった。

──あれはこの子の仕業じゃない、ということになるわね。

 ゆらゆらと不安定に揺れていたユニットバスの刈払機を思い出して、水銀燈は息をつく。半ば予期していたとはいえ、面白くない結論が出てしまいそうな雰囲気だった。
 nのフィールドの中の幻影を現実世界に存在できる実体に変えてしまう能力。それを持っているのはこの人形ではなかった。その場に居た残りの二人のいずれかが、その、ある意味でゲームそのものを崩壊させかねない力を未だに持っているのだ。




[19752] 週が変わる前に130行。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/12/08 22:28
イマイチですが暫定上げ。
今回久々に、そして多分最後のなぞり話。

ほぼなぞりで独自部分との摺り合わせにさして苦労もしなかったのに、ドラグーン作戦調べていたら時間取られてしまった。
コリンヌの生家は多分カンヌからツーロンの間の何処かだと思います。
取り敢えず拙作ではツーロン付近ということにしました。

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 白い服を着た金髪の少女が、同じ色の髪の小さな少女を大事に抱いている。
 桜田家の客間が落ち着いた風情に綺麗に整えられていることも相俟って、写真として残せば美しい一葉としてアルバムの中で輝いて見えそうな光景だった。抱いている方の少女としてもそれは望むところだったかもしれないが、抱かれている少女を含めたその場の他の者にとっては些か事情が違っていた。
「あんにゃろう……いきなりやってきて図々しいにも程があるです」
 ダイニングからドアのガラス越しに客間を覗き込み、翠星石は口を尖らせる。初対面と思しき人物が雛苺を抱いて客間に入る馴れ馴れしさに腹を立て、本当は客間に雪崩込む心積もりだったところをジュンにダイニングに押し込められて必要以上に気が立っていた。
「ジュンもジュンです。チビチビのマスターのくせに、萎縮してなんにも言ってやれないなんてチキン過ぎて涙が出てきますよッ」
「仕方のないことよ」
 真紅は視線を少女達に向けたまま、低い声で諌めた。
「普段は顔を合わせる相手の決まっている狭い世界の中に居るのだもの。唐突に外から現れた子に向かって満足に喋れないのは当然だわ」
 う、と翠星石は言葉に詰まる。それは正論だった。でも、と彼女はちらりと真紅の横顔を盗み見る。
「でも、ヒッキーを甘やかしちゃいかんですぅ」
 何とか返した言葉が大分トーンダウンしていたのは、真紅の顔にかすかな苛立ちと悲しさのようなものが浮かんでいるからだった。それが誰に向けられているのかは分からなかったが、傍らで単純に怒っていられるような雰囲気ではなかった。
「それにしても一体なんなんですかあれは。トモエの友達にしちゃチビに馴れ馴れし過ぎます」
「──雛苺の前のマスターの孫かしら」
 一歩後ろから金糸雀が答える。思わず二人が振り向くと、金糸雀はよく分からないと言いたげな顔で続けた。
「さっき玄関でそう言っていたわ。オディール・フォッセーって名乗って」
「えっ……」
 翠星石は絶句して前に向き直り、ドアにしがみつくようにして向こうを見詰める。真紅は目を伏せて溜息をついた。
「そう、前のマスターの……」
 蒼星石は更に一歩離れたところから、ガラス戸越しに客間の中に視線を向けた。微笑を浮かべている少女とは対照的に、雛苺は酷く緊張しているように見えた。
「それは……辛いだろうね」
「辛いって?」
 金糸雀は事態をよく飲み込めないと言うように首を傾げた。
「どういうことかしら。確かにこんな話、聞いたことはないけど」

 一旦時代を跨いでしまえば、以前の契約者やその係累の者が薔薇乙女の前に現れたり、その子孫がまた契約を結んだりということは起きなかった。そういうことは確率的に起きないのだろう、と金糸雀は漠然と考えていた。
 前者については兎も角、後者は人工精霊が新たな契約者を選ぶときに除外するはずだというのが金糸雀の認識だったし、少なくともこれまではそれを否定するような出来事は起きていなかった。更に、雪華綺晶についての水銀燈の考察が当を得ているなら、彼女達のゲームはその種のハプニングが起きないように制御されているはずでもある。
 ただ、これが慮外の出来事だとしても、あり得ない、何かがおかしい、というのが相応しい場面だ。あるいは水銀燈の考察は外れていた、という台詞でもいい。辛いという言葉が出て来るのが金糸雀には意外だった。

 蒼星石は客間から視線を逸らさず、独語するような調子で答えた。
「契約を解かないまま雛苺を鞄の中に置き去りにしてしまったのは、前のマスターだから」
 壁に添えられていた手がきゅっと握られる。
「どちらにとっても辛い出会いのはずなんだ。でも──」
 蒼星石は言葉を切り、客間のオディール・フォッセーと名乗った少女の顔を見詰めた。
 その表情は辛さを耐えたり、雛苺に申し訳なさを感じているようには到底見えない。少なくとも蒼星石には、その表情からは雛苺を探し当てた安堵感のようなものしか読み取れなかった。
 それは、自分の祖母が雛苺に対して行ってしまった仕打ちを知らされていないか、雛苺が望まない別れをトラウマとして抱えていることに気付いていないだけなのかもしれない。だが蒼星石には、そこに何か別の理由があるように思えてならなかった。


「──私が小さい頃、繰り返し聞かされたお話があります」
 オディールと名乗った少女は名残惜しそうに雛苺を膝から降ろすと、ゆっくりと夢見るような口調で語り始めた。
「ある女の子とお人形の話……」

 コリンヌ・フォッセーが雛苺に出会ったのは、十一歳の誕生日だった。
 南仏の大都市の商家に生まれたコリンヌは、何不自由ない少女時代を過していた。雛苺は、誕生日のプレゼントの一つとして贈られたものの一つだった。
 二人はすぐに仲良しになった。何処に行くにも一緒で、何をするのも二人でだった。コリンヌは人形遊びが大好きで、雛苺はずっとその相手をしていた。
 二人はよく似ていた。美しい金髪で、育ちが良く無邪気で人を疑うことを知らず、そして哀しいほどに世間知らずだった。
 屋根裏で人形遊びをしている少女達が知らないうちに、終わりはすぐそこまで近付いていたのだ。
 ときは第二次大戦のただなかだった。コリンヌの家は直接戦火を蒙らずにいたが、隣接する軍港都市は繰り返し空襲を受けていた。
 一九四四年八月十五日。連合軍の南仏上陸作戦が発動され、地域全体は戦場となってしまった。
 コリンヌの住んでいた屋敷も戦場になった。最初はドイツ軍の、次に自由フランス軍の兵士達が篭って、短いが熾烈な戦闘を行った。
 だが、コリンヌはそのとき、もうその場所には居なかった。作戦が迫っていると知った彼女の家族は、コリンヌを連れてもっと西の都市に引越してしまっていた。
 引越しには混乱はなかったが、時間も持てる物も限られていた。コリンヌは最後まで雛苺を連れて行くと言い張ったが、彼女の家族には大きな鞄に入った玩具を持って行くほどの余裕は残されていなかった。

「隠れんぼしましょう、雛苺」
 何も知らずに眼を覚ました雛苺に、コリンヌはそう言った。他にもっと良い言い訳ができるほど、彼女は世慣れていたり器用だったりはしなかった。
「静かに、見つかるまで鞄に隠れて待っていてね」
 雛苺はこくりと頷いた。コリンヌが何かを隠しているのは分かったが、それを聞くことはできなかった。
「わかったわ」
 少し無理をして雛苺は微笑んでみせた。
「隠れんぼしてずっと待ってるわ」
 コリンヌを呼ぶ声が階下から聞こえてきた。彼女は無言で雛苺を見詰め、雛苺はそっと鞄の中に横たわった。
「……ごめんなさい」
 鞄を閉じる直前、コリンヌは思わず呟いてしまっていた。
「可愛い雛……」
 涙を拭いて立ち上がったときには、家族が彼女を連れに来ていた。何度となく振り返りながら、コリンヌは屋敷を後にした。

 数年後、再び南仏に戻ってきたコリンヌは残酷な現実を目の当りにすることになった。
 美しかった都市は再建の途上にあった。戦禍で崩れてしまった建物が多かったが、今はそれを復旧しようと奇妙な活気が街中に漲っていた。
 彼女の住んでいた屋敷は、復旧の手が加わらないままそこにあった。引っ越す際に売りに出したのだが、時節柄買い手が付かなかったのだ。
 他の建物と比べて大きかったその屋敷は、空襲と砲撃に繰り返し晒された後、更に恰好の陣地として両軍に使われたらしい。屋根はほぼ全部崩れ落ち、分厚い壁も殆ど壊れていた。残った部分にはまだ生々しい弾痕が刻まれていた。
 コリンヌは鞄を探した。だが、当然のようにそれは見つからなかった。

 オディールの声にも翳りが差していた。
「おばあさまは亡くなる直前までそのことを気に病んでいました」
 亡くなる、という言葉のところで雛苺はぴくりとして巴を見た。巴は硬い表情をほぐして微笑んでみせたが、雛苺はすぐにまた俯いてしまった。
「そして私にこれを託したの」
 オディールは両手でかちりと金鍍金の古いロケットペンダントを開けた。
 中には彼女そっくりの少女と雛苺が写った写真が入っている。先程、玄関で雛苺と巴にも見せた品物だった。
「雛苺を探し出し、取り返して欲しいと……」


 蒼星石の思考の中で何かが繋がった。
 少女の言っていることは一見破綻がないように見える。雛苺の前契約者がずっと雛苺を気に掛け続け、あまつさえ孫娘に雛苺を探させたという話は、昨日水銀燈が話していたこと──契約を解いた後になってから薔薇乙女を探すような危険な契約者は、雪華綺晶が糧にすることでその芽を摘む──を否定する内容にも思える。
 だが、そこには恐らく裏がある。
 何より、水銀燈はこの話を知っているに違いない。蒼星石自身は詳しく知らないが、漫画の世界でも似たような展開になっていたとすれば水銀燈は当然その知識を持った上で推論したはずだ。
 その考えは、オディールがロケットを開けたときに確信めいたものに変わった。
 蒼星石はやや顎を引き、ドアの方に歩み寄った。無作法かもしれないが、ここは確かめておかなければならない。それがはっきりすれば、彼女の推測はほぼ間違いない裏付けを得られる。
 だが、彼女がドアを開けようとしたそのとき、無作法どころではない勢いでドアを開け放った者がいた。

「ちょーっと待ったぁぁぁ! 寝言は寝て待てですぅぅぅ!」

 客間の全員がドアに視線を向ける。ジュンが慌てて何か言いかけたが、翠星石はそれを遮るように彼の脇に突進して、低いテーブル越しにオディールを睨みつけた。
「薔薇乙女の姉妹として黙って聞いちゃおれんです! チビ苺のマスターはこのチビ人間ですよッ」
 堪忍袋の緒が切れたと言いたげに鼻息荒くまくし立てる。
「マスターはドールが選ぶもの、しかもチビチビの指輪は砕けて無くなってしまってるです。今、チビ苺がこうして元気にしていられるのは真紅を介してジュンから力を貰ってるからなのですよッ」
 オディールは無言で翠星石を見詰めた。その強い視線に急に生来の人見知りと臆病さが顔を覗かせて、翠星石はそそくさとジュンの背後に隠れてしまった。
「や、やるかー、ですぅ。チビ人間マスタージュンがお相手するですよッ」
「お前な……」
 ジュンは呆れて一つ息をついたが、正面を向いてオディールに何かを言おうとし、半ば口を開けたまま驚きに目を見張る。彼の隣に来ていた真紅が息を呑む気配も伝わってきた。

 少女の左手の薬指には、薔薇の指輪が嵌っていた。見間違うはずはない、契約の指輪だった。

「私にはこれがあるわ」
 オディールはよく指輪が見えるように左手を立て、ゆっくりとそれを胸に抱くような仕種をした。
「これは雛苺の指輪……」
 目を伏せ、顎を少し引いてまたゆっくりとした口調に戻る。
「──夢を見たの。辺り一面にミルク色の深い霧……誰かに呼ばれるみたいに私はその中を歩いているの」

 白い薔薇の咲く、純白の水晶の城。
 水晶の鏡の中で、彼女は誰かの声を聞いた。
「窓を覗いて御覧なさい」
 脇にあった一枚の窓と思しき水晶。覗き込むまでもなくそこには東洋人の少年とそれにじゃれつく幼い巻き毛の少女が映し出されていた。
「雛苺を取り戻しましょう。あるべき姿に戻しましょう」
 囁くように声は告げた。
「あの子はもうゲームの盤から降りなければならない。だから──」
 目が覚めたとき、彼女の指には薔薇の指輪が嵌っていた。

「──私はこの指輪に導かれてここに辿り着いたの」
 オディールは指輪を慈しむように撫でた。
「きっとこの指輪はおばあさまのものだわ。雛苺と別れて壊れて消えてしまった薔薇の指輪……それがきっと私に託されたのだわ」
 ジュンはごくりと唾を飲み込んだ。雛苺を見遣ると、彼女は泣きそうな顔をして俯いていたが、ジュンの視線に気付いて上目遣いに彼を見た。
 ジュンはオディールに向き直った。彼が何かを言おうとしたとき、何かを思い出そうとするように口許に手を当てていた巴が呟いた。
「白……白いいばら……白い薔薇の花……水晶」
「巴?」
 真紅が訝しげにそちらを見る。
「それは……」
「私も……会ったことがあるわ。あのとき雛苺の世界で……」
 どうして忘れていたのかしら、と巴は小首を傾げる。
「誰のこと?」
 金糸雀に尋ねられて、巴はもどかしそうに顎を引き、斜め下に視線を向けて瞬いた。
「白いドール。真っ白な衣装に、真っ白な茨を従えて……何か気になることを言っていたわ。どうして思い出せないのかしら」
「白いドールって……!」
 やっぱり、と言いたげにジュンは周囲を見回す。金糸雀と翠星石は表情を引き締めて頷き、雛苺は困ったような顔をして瞬いた。
 蒼星石は真紅を見る。蒼星石に目を向けたジュンもその視線の先を追うようにして真紅を見た。
 真紅はジュンと蒼星石を交互に見詰め、まだ状況を全く飲み込めていないオディールをちらりと見遣ってから首を横に振る。そして、彼女の方に一歩踏み出した。
「オディールさん」
 静かな声で真紅は言った。
「貴女のお話は私達にとってとても意外だったけど、内容はよく理解できたと思うわ。……ただ、少し時間を頂けないかしら。雛苺にも私達にも、考える時間が必要なの」
「わかりました」
 オディールはこくりと頷いた。相変わらずその瞳は遠くを見詰めているようだったが、言葉ははっきりしていた。
「返事は急ぎません。暫くこちらに滞在する予定でしたから」
 雛苺に手を伸ばす。雛苺は一瞬躊躇したもの、素直に抱き締められた。
 やや長い、きつめの抱擁をして、オディールは雛苺を放して立ち上がった。雛苺は彼女を見上げ、泣きそうな表情で口の中で何か呟いたが、それは彼女の耳には届かなかったようだった。



[19752] 余分なテキストが混入してたので削除しました。ご指摘thx
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/12/11 11:18
ちと数日間時間が取れませんで、今日漸く書けました。
んが、ちっとリアルの方でいろいろ気を取られてるせいか自分でも大分不満の残る出来なんで、特に後半部を改稿(後半の水銀燈のパート全部削除含む)する可能性大です。

普通なら上げる前に直すべきですが、趣旨に沿って無校正のまま。
今日書けた分をそのまんまUP致します。

12/9 結局余り削れず。多少付け足しただけ。冗長なのは仕様ということでひとつ……。<(_ _)>

12/11 なんか余分なテキストが混入していたので削除。申し訳ない……。珍しく後の部分なんか書いといたらこのざまだよ!
 なお、当該部分は多分後日然るべき箇所で再利用いたします(ECO)

*********************************

「自由自在に偽物を作ったり、自分の思いどおりの幻を作り出す能力は、わたしにはありません」
 白い人形は首を振った。細いツーサイドアップにされた髪がふるふると妙な具合に動くのは、ジグザグに強い癖が付けられているせいかもしれない。丁度真紅の巻き毛と同じような按配だった。
「意外と言えば意外ね」
 水銀燈は鞄に腰掛けたまま、片膝を立てて引き付けた。タイツの下の球体関節は、そんなポーズを取っていてもブーツのフリルの陰で目立ちにくい。
「雪華綺晶に拘束されたときに機械を出現させたのも貴女じゃない、ってことかしら」
「それはわたしの能力です」
 また髪が妙な具合に揺れた。少し髪質が軽いようにも見えた。
「人は誰でも、nのフィールドの中で想像や心象を形にする力を持っています。ローゼンメイデン──わたしのお姉様達も、自分の世界の中では自分の望んだ風景を作り出せます……」

 しかし、それは自分の夢や世界の中に限ってのことだった。無意識の海や他の誰かの領域の中では、人は自分として認識しているだけの姿を保持するのが精一杯で、それを自由に組み替えたり、何かを自在に出現させることはできない。
 自分の夢の中でさえ、人間は自分を「その中に居る自分」としてしか認識できない。場合によっては──それが夢の中だと気付くことがなければ──夢を自分の思うように変えることすらできない。
 それに比べれば、薔薇乙女達は幾分自由に行動することができる。ただ、それは現実世界と同じ自己を保ったまま一つ一つの世界を移動するだけであって、自分の力を超えた行動が取れるわけではなかった。
 自分の小さな領域を改変することでさえ、その世界の本来の姿に沿っていなければ大きな力を消費してしまうこともある。雛苺が巴の力を限度以上に使ってしまったのは半ばそれが原因だった。契約者の気に入った環境を作り出そうとして当の本人を消滅寸前まで弱らせてしまったのだから、皮肉としか言いようがない。
 雪華綺晶が昨晩の蒼星石にしてみせたようにnのフィールドで姉妹達を手玉に取れるのは、ある程度ではあるのだろうが、そういった制約を無視できている──または力技で無視できるほど巨大な力を持っている、のかもしれない──ことにあった。nのフィールドの中だけとはいえ、自分の根城にしている領域以外の場所でも自由に幻影を作り出せるという点で彼女は異質だった。
 漫画の世界で金糸雀は音を使って雪華綺晶の幻影を祓ったが、それは逆に言えば何か特殊な手段に拠らなければ幻影を偽物と見破ることはできないということでもある。
 更に厄介なことは、nのフィールドが現実世界と違い、観念が優先する場所だというところにある。翠星石が今朝指摘したように、見方を変えればnのフィールドにのみ存在する物は全て幻影に過ぎないとも言える。
 力を持たないホログラムのようなモノであっても、見ている者がそれを本物だと信じてしまえば、その者にとってそれは本物同然になってしまう。上手く相手を嵌めてしまうことができれば、雪華綺晶は最小のリソースで相手をフェイクだらけの無限の迷路に落とし込んだり、全てを忘れていつまでもその中で遊んでいたいと思わせるような部屋と登場人物達を作り出すことも可能なのだ。
 可能、というよりはそれこそが雪華綺晶の力の振るい方、遣い方と言ってしまっていいだろう。
 前者は実際に昨日の晩、割けるリソースが極小と思しい状況で蒼星石相手に使ってみせたものだ。彼女とnのフィールドの中で戦う者が打破しなければならない案件ということになる。後者は今更考えるまでもなく、彼女が糧を養い、心を吸い上げるために常套手段としている遣り方だった。

 人形の力は、兎頭の紳士が言ったとおり、それとは似ているが全く異なるものだった。
「わたしに近い人が想像を形にしたり夢の世界を作って行くお手伝いをすること……それが、わたしがお父様から頂いた力です」
 人形は片方だけの瞳で真摯に少年を見詰めた。
「その人の世界以外の場所でも、わたしがお手伝いすれば想像を形にできることは知ってました。でも……」
 真正面から視線を受けて、少年は些かならずそわそわとし始める。水銀燈には睨まれ慣れているが、こういう雰囲気で見詰められるのはまた別だった。
 視線を少しだけ逸らす少年を見て人形はきょとんとしたが、少年の仕草を見て目を合わせるのが無作法かもしれないと考えたのか、慌てて自分も顔を逸らす。いいコンビね、と水銀燈はにやりとしてしまった。蒼星石が加われば面白い情景が見られそうだった。
 少年は何が恥ずかしいのかそっぽを向いたまま少し頬を染めながら、続けていいよぉ、と間の抜けた声で言う。人形は素直にはいと答えた。
「あの場所では、はっきりとしたイメージがなければ本物に近いものは作り出せません。あんな複雑な機械を想像どおりの形にするには、それを願った人がとても強くて具体的なイメージを持っていないと」
「つまり、この媒介が」
 水銀燈はふんと鼻を鳴らして少年を指差した。
「機械のイメージを異常なくらい詳細に持つことができたから、貴女はそれを現出させることができた──そういうことね」
「そうです……」
 人形はまた少年を見詰める。なるほど、と水銀燈は少年を見遣って口の端を歪めた。
「何の取り柄も無い割に、夢の世界を事細かに作ったり、妄想する力だけは一流みたいねぇ」
 少年は若干身を乗り出すようにした。
「あ、ひょっとしてそれって褒めてる?」
「褒めてるわけないでしょう、お馬鹿さん」
 ちぇっ、と口を尖らせる少年にひらひらと手を振り、水銀燈は人形に向き直った。
「貴女の力は、確かに他の姉妹とは異質のようね」
「──はい」

 俯く人形を眺めて、水銀燈はひとつ息をついた。
 確かに、人形の力が自分から明かしたものだけであれば、実体を持ちながらnのフィールドに逼塞せざるを得なかったのも分かる。彼女は他の姉妹に対して攻撃のしようもなければ身の守りようもなかった。
 彼女の姉妹は固有の媒体──赤い花弁や黒い羽根といったモノを仲介して自身の力を投射していた。
 媒体はそれぞれ異なっているし、現出の仕方もユニークではあるものの、基本的には同じことだ。要は、自分の力をモノに乗せて実体化し、相手にぶつけている。
 翼を持たない彼女達が現実世界で重力も慣性も存在しないかのように自在に空中を飛び回って戦っていたのも不思議ではない。有り余るエネルギーをそういう形で放射しているだけのことだ。
 しかし、流石にそれまでの方針を大転換して作っただけのことはあるというべきか、彼女だけはまるで反対の能力を持たされた。言わば自分を触媒として他人の想像を増幅させる、限りなくあなた任せの能力であり、また彼女達の尺度で見れば能動的な攻撃力は皆無でもある。
 不幸なことに、本来起死回生を狙ったはずのその方針は無残に失敗した。人形師が再度の方針転換──アリスゲームによってより良いものを見極める──を行った後は、彼女はそこに参加することすらできなくなってしまった。
 随分行き当たりばったりなこと、と水銀燈は息をつく。だが、そこに憎めないものを感じてしまうのも事実だった。


 オディール・フォッセーは、降り止まない雨の中を出て行った。
 翠星石は恨めしげにダイニングのガラス越しに庭を眺めた。
 午後四時過ぎまでは良い一日だった。いつものメンバーに蒼星石が加わっての会話や遊びは、昨日の重苦しい話や蒼星石のピンチも忘れられるくらい楽しかった。
 金髪の少女が来るまでは、忘れられないくらい楽しい一日になるだろうと思っていたのだ。
 それからは反対だった。別の意味で忘れられない一日になるのは間違いがなさそうだった。
 まるで今日の半日が夢か何かだったように、昨日の午後の重苦しい雰囲気に戻ってしまっている。いや、重苦しさはもっと進んでしまっているように彼女には思えた。
 雛苺は折角作ったお菓子にも手を付けず、巴にしがみついて丸まっている。他の姉妹も手を付けようとせず、翠星石がテーブルの上に並べた人数分のビスケットは次第に冷め始めている。
 玄関まで少女を送っていったジュンが戻ってきて、帰った、と言いながら後ろ手にドアを閉めた。お疲れ様、と真紅が言うと、どういうわけかその場の静けさが一層強く感じられた。

──ちょっと目ぇ離すとすぐにこれです。

 ふう、と息をついて、翠星石はくるりと振り向く。大きなスカートと重めの長い髪がふわりと広がるほどの勢いだった。
 その勢いのまま、何か考え事をしていた金糸雀の手を掴み、引き摺るようにしてテーブルに連行する。いきなりのことに金糸雀はじたばたと暴れたが、彼女は一向気にせずに、空いている方の手で途中で立っていた蒼星石の手も取ってテーブルに向かわせた。
「さあさあさあ、冷めない内に食べるですよ。蒼星石が手伝ってくれたありがたーいビスケットです。愛情がいつもの四倍は篭ってますからねっ」
 真紅とジュンの方を向き、手を振り上げて声を張り上げる。
「食べないなら全部翠星石と蒼星石とチビカナで食っちまいますよ。紅茶も出過ぎのアイスティーになっちまいますがいいんですね?」
「お前な、今はそういう状況じゃ……」
「あら、それは大変だわ」
 ジュンが抗議しかけるのを制するように、真紅は軽く頷いて立ち上がった。テーブルに歩き出しながら、ジュンの顔を振り仰ぐ。
「焦っても仕方のないことだわ。少なくとも一晩は猶予があるのだから、ゆっくり食べて、それからじっくり考えましょう」
 真紅は少し硬い微笑を浮かべていた。ジュンは抗議を飲み込み、曖昧に頷いて返事を返す。
「──そうだな……」
 雛苺を抱いている巴をちらりと見ると、巴もジュンを見ていた。巴は確認するように二三度瞬き、それから腕の中の雛苺の耳元に口を寄せて囁いた。
「私達も頂きましょう、雛苺」
「う……うゅ……」
 雛苺は身じろぎして巴の制服をきゅっと握り締め、こくりと頷く。巴は気取られないように小さく息をついて立ち上がった。
「ほらほらー、ちゃっちゃと席に着くです! あ、ジュンは真紅の紅茶淹れる役目があるから暫く立ってろですよ。あと蒼星石、ティーカップ出すの一緒に手伝ってくださいです」
 翠星石はあくまで元気に指図を出す。ジュンはぶつぶつ言いながら紅茶を淹れにキッチンに向かい、椅子に登ろうとしていた蒼星石は苦笑しながらまた翠星石に手を引かれてジュンの後を追った。
「大丈夫よ、雛苺」
 雛苺を抱いたまま椅子に座りながら、巴は囁く。
「ここにはみんなが居るわ。誰も貴女のことを独りにしないから……」
 巴の腕の中で、雛苺は返事の代わりにもう一度制服を強く握った。


 ひととおり訊きたいことを尋ね終えてしまうと、外はもう暗くなりかけていた。水銀燈は些か話し疲れたようにも見える白い人形を改めて眺め、ひとつ頷いた。
「貴女の呼び名が必要ね」
 こちらの世界の第七ドールの名前そのままに『雪華綺晶』でも良いのだろうが、今後その名前を呼ぶことが多くなりそうだった。混同を避けるために呼び分けるとなると、結局別の呼び名を付ける必要が出てしまうだろう。
 白い人形は小首を傾げる。細いツーサイドアップにした白い髪が揺れた。
「この子の名前かぁ」
 ふむ、と大仰に考え始める少年に、水銀燈はひらひらと手を振る。
「それほど重大なものじゃないわよ。暫くの間、私達が誰かと混同しなければそれでいい」
 本物の名前を付けるのに相応しいのは、人形を作った人形師か、あるいは最初の契約者ということになるだろう。どちらにしてもこの場で決められるものではない。
 将来的には可能性がないとは言えないが、少なくとも今は少年は人形と契約することはできない。人形は螺子巻きは握り締めていたものの、契約の指輪は持っていなかった。
 ふーん、と少年は鼻を鳴らして、人形の顔を覗き込むようにした。
「なんか自分でこんなのがいいって名前はあるのかい」
「……いいえ」
 人形は困ったようにかぶりを振った。強く癖の付けられた髪がふるふると動く。水銀燈にはそれが少しばかり作り物めいた動きに見えた。
 もっともそれは少しばかり倒錯した感覚かもしれない。人形は元々作り物なのだ。そして、そう考えている水銀燈自身も紛うことなき作り物だった。
 もし、作り物でない姉妹が居るとしたら、それは──
「──よし」
 ぺたん、と妙に軽い音に、水銀燈は思索を途切らせた。少年が掌を拳でぽんとやった音だった。
「第七ドールだから、ナナってのはどうだい」
「なにそれ、安直過ぎよ」
 思わず吹き出してしまう。
「まあ、貴方らしいネーミングだけど」
「だってさあ……そんな難しく考えなくていいって言うから」
 少年は口を尖らせる。
「決めるのはこの子なんだし、取り敢えず俺はナナって提案してみた、ってことでさあ」
 どうだい、と言われ、人形は左目で水銀燈と少年を交互に見遣ってから、ゆっくりとした口調で答えた。
「呼びやすそうだと思います」
「おー」
 少年はぱっと明るい顔になり、どうだいと水銀燈に向かって得意気に胸を張ってみせる。
「シンプルイズベストってやつだぜ。呼び易いのは正義だろー」
「はいはい」
 水銀燈は肩を竦める。母音を含んだ二音、この国の表音文字にして僅か二文字なのだから呼び易いのは当たり前だった。
「貴女はそれでいいの?」
 人形は僅かに考えるような素振りをしたが、にっこりとして頷いた。
「──はい。ナナが良いです」
 白い髪に金色の目という異相にもかかわらず、人形の笑顔は酷く素直で、むしろあどけなくさえ見えた。



[19752] 170くらい。今更新キャラ登場
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/12/12 09:49
新キャラ登場です。
い、いまさら……。
書いてる人の頭を疑いますね。

※あ、今週2日しか執筆日が取れなかったんで、感想板の方に書き掛けを一つ置いときました。お詫びってことで一つ……。

※↑規約違反かも、とのことなので、分離してチラ裏に投げました。
 「【ネタ】ドールがうちにやってきた【一応ローゼンメイデン二次】」です。

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 結菱老人に言われたとおり、蒼星石は暗くなる前に結菱邸に戻った。
 老人は丸一日振りの彼女を微笑を浮かべて迎えるほど愛想は良くなかったが、帰りが遅くなってしまったことを彼女が後悔するような応対もしなかった。
「ただいま戻りました」
「お帰り」
「お休みを下さってありがとうございました」
「楽しんできたかね」
「はい」
 やや事務的な遣り取りの後、老人は意外なことを口にした。
「栃沢君だったな、日曜日に手伝いに来てくれる彼と……水銀燈と言ったか、あの銀色の髪の少女が来るそうだ」
 蒼星石は目を見張った。
「これから、ですか」
 老人は特に感情の動きを見せない表情で頷いたが、ふと思い出したように笑って車椅子の向きを変え、部屋の大きな姿見に向かい合った。
「鏡を抜けてくるのかと思っていたのだが、窓を開けておいてくれと言われたよ。翠星石といい、お前の姉妹は空を飛ぶのが好きなようだね」
「……はい」
 確認するように振り向いて見詰められ、蒼星石は困った顔になって頷いた。
 翠星石は自力で飛行して来る訳ではない。スィドリームの力を借りて鞄を飛ばすのだ。それは構わないのだが、荒っぽい飛ばし方をしているせいでちょくちょく屋敷の窓ガラスを壊してしまっていた。
 しかし、来訪を事前に連絡するのが水銀燈らしくないのは置いておくとしても──恐らく少年が気を回したのだろう──少年はまた自転車だろうか。
 自転車の前籠の乗り心地を思い出して蒼星石は少しばかり困り顔に苦笑を混ぜる。他に上手いやり方がなかったのは分かっているが、できれば別の方法にしてほしかった。例えば──
「──どうした?」
 はっとして顔を上げると、老人は不審そうに蒼星石の方をまた振り向いていた。大したことではありません、と彼女は首を振る。
「昨日は折角時間を頂いたのに、ハプニングが起きて彼女と会うことができませんでした。恐らく彼女は僕の元々の用件を気にして、話を聞きに来てくれるのだと思います」
「彼女もそう言っていた」
 老人は軽く頷き、自分も一瞬苦笑すると、車椅子を回して蒼星石に向き合った。
「翠星石から聞いていたイメージとは随分違っていたな。面倒見の良さそうな子だったよ、二度ばかり電話越しに遣り取りをした限りの話だが」
「翠星石は少しオーバーに話を膨らませることがありますから……」
「それはあるかもしれないな」
 老人は車椅子をドアに向けた。蒼星石は老人の隣に歩み寄った。車椅子と向きを合わせ、いつものように車椅子の車輪のガイドにそっと手を置く。
 最初の頃は老人の後ろに回って車椅子を押そうとしてみたのだが、それは体格が小さい彼女には手に余る仕事だった。ならばせめて車輪を回す手伝いくらいは、と考えてのことだった。
 もっとも、そのことがどの程度老人の手助けになっているかは正直なところよく分からない。半ば儀式のようなものではあった。
「でも、水銀燈自身かなり変わりました。この時代で」
 手洗いに向かう車椅子の車輪を自分も回しながら、蒼星石は数歩ごとに老人を見上げる。
「彼女が誰か別の姉妹のマスターに話し掛けるなんて、以前は考えられませんでした」
 ふむ、と老人は片手を顎に当てた。
「それはやはり、栃沢君──今のマスターが原因なのかね」
「今の彼のせいなのかは……分かりません。記憶を失う前の彼は、ほとんど別の人間でしたから」
 蒼星石は少し言い淀んだが、正直に答えた。
「水銀燈はその頃の彼をとても気に掛けていました。本人は否定するかもしれませんが」
 不甲斐無さにもどかしくなって心を覗いてしまい、その内部を見てしまうと、あまりの異様さにそれをズタズタにしてしまいたくなるほどに。もちろん、それをした場合の自分のリスクも承知の上で。
 俗な言い方をすれば、それだけ彼を愛してしまった、と言えるのかもしれない。
 そして彼は、彼女の意向を汲み取って、自分で自分を消滅させた。自分が提供できるモノを全て彼女に譲り渡した上で。
「多分今も、彼女は記憶を失う前の彼を求めているのだと思います。心の何処かで」
 それが雪華綺晶や名の無い濃紺の衣装の人形と同じだというのは皮肉だった。互いに相容れないはずの三者は、それぞれ相容れない部分とは全く別のところで、共に一つの、もう何処にも存在しないモノを求めている。
「──そうか」
 ちらちらと見上げている視線に気付いたのか、老人は彼女を見遣り、視線が合うと車椅子を止めて彼女の小さな手に手を重ねた。
「私には真似できないのかもしれないな。お前達にそこまで影響を与えることは。いや、本来それがマスターとしてあるべき姿なのだろうか」
 かすかに自虐の響きの混じった言葉だった。
「そんなことはありません」
 蒼星石は首を振り、きっぱりとした口調で反駁した。
「マスターとドールの契約には様々な形があります。最高や最低なんて決められるものではありません。マスターは、僕のかけがえのないマスターです」
 老人は晴れない表情のまま、ありがとうと彼女の頬に触れた。いえ、と微笑を浮かべながら、蒼星石は自分の言葉が励ましにしかなっていないことを歯痒く思った。
 心理的に追い詰められていたとはいえ、老人は双子の庭師の力を自分自身のために使おうとしていた。昔の想い人を廃人にする寸前まで行き詰めてしまったのだ。翠星石が拒まなければ、その計画は実行されていた。
 彼の視点では、それは水銀燈の契約者がしたこととは対極の行為なのかもしれない。


「ごめんな、前見れなくて」
「いいえ、楽しいです。いろいろ見えますから」
 少年が背中に背負った大きめのデイパックから頭と手だけを出すようにして、ナナは後方を眺めている。夜になったばかりの雨上がりの住宅街の中は、少年にしてみれば特にこれといった眺めではないように思えるのだが、彼女には新鮮に感じられるらしかった。
「もうちょいで薔薇屋敷だぜ」
「……薔薇屋敷?」
「結菱さん、えーっと蒼星石のマスターだけどさ、そのお屋敷なんだ。でっかい庭の半分くらい薔薇園で、結構凄いんだぜ。いろんな薔薇がぶわーっと咲いててさ」
 少年は前を向いたまま説明する。もっとも身体を捻って後ろを向いても、背中のデイパックに収まっているナナの姿は見えない。仕方がないといえば仕方がなかった。
「蒼星石が剪定してて、俺と翠星石も時々手伝ってるんだ。翠星石のやつ、最近はグリーンローズってやつしか面倒看てないらしいけど」
 その分手伝いの量が増えそうだ、と少年はぼやいてみせる。ただ、その声にはどこか楽しそうな響きがあった。
「そうですか……蒼星石……の」
 そんな、少し沈んだ風の呟きが聞こえたような気がした。しかし少年がよく聞き直そうとしている間に、早くも目的地が視界に入ってきた。
「もうちょいで到着だから、暫く我慢してくれよな」
 聞き質す代わりに、少年はそんな風にナナに声をかけた。はい、という声は、今度ははっきりと少年の耳に届いた。

 残念なことに、少年がやや大袈裟に説明してくれた薔薇園は、後ろを向いているナナには十分に見えなかった。そこに向かっているのだから当たり前と言えば当たり前だった。
 少年はしきりに残念がってみせたが、既に辺りは暗くなっていたから、前を向いていたとしてもそれほど素晴らしい眺めとは言えなかったかもしれない。
 門の陰に自転車を停めてナナをデイパックから出してやり、重い玄関のノッカーを鳴らすと、やがて明かりが点いてドアが細めに開けられた。
「いらっしゃい」
 蒼星石は外行きの生真面目な顔で一礼したが、少年の半歩後ろに並んでいるナナの姿を見て僅かに口許を綻ばせた。
「螺子を巻いたんだね」
「おう」
 少年は得意気に、そっくり返るように胸を張った。
「呼び名も俺が決めたんだ。ナナ、って」
「そう」
 蒼星石は目を細めて少年を見、柔らかいがやや儀礼的な微笑を浮かべてナナに向き直った。
「はじめまして、ナナ。僕は蒼星石。──君は知っていたかもしれないけど」
「はじめまして……」
 ナナはぎこちない笑顔で挨拶をした。
「……知っています。こちらの世界のローゼンメイデン、第四ドール。そして、わたしを助けてくれたひと」
 ありがとう、と言う彼女の顔を、穏やかな表情のまま眺めながら、蒼星石は僅かに首を傾げる。
「どうかした?」
 訝しげに尋ねる少年に、なんでもないよ、と蒼星石は笑って返すと、生真面目な表情に戻って二人を屋敷に招き入れた。少年もそれ以上は訊かずにナナを促して後に続く。
 廊下の照明は点けられているが暗かった。その半端な暗さが、あまり手入れの行き届いていない壁の汚れを強調しているように見えた。
 外周りが終わったら中もやった方がいいかな、と少年は呟く。庭の整理すらついていないというのに、何週間先になるか分からない気の長い話だった。
 蒼星石は彼の呟きにふと口許を緩め、先に立って階段を上り始めたが、数段行ってから足を止めて振り向いた。
「水銀燈は?」
「寄るところがあるから、って飛んでったよ」
 少年は階段の窓越しに夜空に視線を向け、ふう、と溜息をついてみせた。
「毎日寄ってるところに行ったんだと思うけどさ。そんなに時間は掛かんないって言ってたから」
「毎日?」
 蒼星石は訝しむような声音で尋ね、数度瞬いた。少年は彼女の言葉の微妙な響きに気付いた風もなく、素直に頷いて答える。
「うん。何処だかは知らないけど、殆ど毎日行ってる。いつも三十分とか一時間とかでうちに帰って来るから、そんなに待たなくても大丈夫だと思うぜ」
「……なるほど」
 蒼星石は少しばかり納得しきれていない表情のまま、頷いてまた階段を上り始めた。


 雨上がりの夜空は清々しい。
 水銀燈は通い慣れた移動経路で、大学病院の裏手に向かった。長いこと古い教会の撤去工事をしていたそこは、既に更地になっていた。
 建物を崩すのは早いものだ、と水銀燈はしみじみ思う。やけに延々と中の物を運び出していると思っていたら、それが途絶えた翌々日の晩には綺麗に片付いてしまっていた。瓦礫さえも即日運び出されてしまったようで、建物があったところは少し黒っぽく土が埋め戻されているだけの平坦な地面に変わってしまっていた。
 教会は、彼の知識の中で水銀燈が自分の家のようにしていた場所だった。そして知識にあったとおり、薔薇屋敷での一件から暫くして壊された。

──同じように進むわけね。

 自分と自分を取り巻く世間の小ささを思い、水銀燈は皮肉に口許を歪めた。
 媒介の持ち込んだ知識によって、姉妹に関わる部分は、本来進むはずだった道から大きく逸れてしまったのかもしれない。少なくとも知識そのものの方向には進んでいないし、彼女自身進ませないように手を加えてきた。
 だが一歩だけ後ろに引いて眺めてみれば、そこには何等変わらない世界がある。彼女達の姉妹喧嘩も、想いも、彼女達の造物主が緻密に造り上げたアリスゲームでさえも、世界の全体から、というような巨視的な視点を持たなくても、ごく些細な日常の一部、関わりのない者にとってみればどちらに進もうと変わりない出来事に過ぎないのだろう。
 彼女達の造物主もまた、それを望んでいるようだった。至高の少女を創り出すという大層な目標を掲げていても、彼にとってアリスゲームは自分が裁量できる箱庭の中の出来事に過ぎないし、逆にそこから広げてはならない事柄なのだろう。
 自分達は、その中で動かされている、やや行動に乱数の幅を持たされている駒に過ぎない。
 それでも、と彼女は病棟を見上げる。そんなちっぽけなゲームが自分達には重要なのだし、少なくとも彼女はゲームのプレイヤーに予測できない動きをしてみたかった。

 建物は撤去されたが、その周りに植えられた樹木にはまだ手が付けられていなかった。その梢を抜けて上昇して行こうとしたとき、彼女は意外な影を病棟の傍で見付けた。
 それは三階の病棟のベランダにへばりつくようにして、窓から中を窺っていた。
「316の入院患者は別人よ」
 水銀燈が声を掛けると、影は一瞬ぎくりとしたが、素早く無駄の無い動きでこちらを見た。白い髪がばさりと風に舞った。
「柿崎めぐの病室は、716号。──どういうわけか最初から違っているのよね。あいつが改変したわけでもないのに」
「……別にそんなこと聞いてないわ」
 薄紅色の瞳は、薄暗がりの中でも炯々と光って見えていた。相変わらず警戒心は張りつめているようだが、内心の動揺を隠すのは苦手なようだった。
「わたしはここに来たかったから来てみただけ。アナタには関係ない」
 確かに関係ないわね、と水銀燈はくすりと笑った。
「私は柿崎めぐに挨拶に来ただけ」
「めぐに……?」
 黒い、名の無い人形は目を見開き、翼を広げた。臨戦態勢だった。
「めぐに何かしたら、タダじゃ置かないわよ」
「何かしてメリットがあるなら、そうするかもしれないわねぇ」
 水銀燈の目にも一瞬だけ獰猛な光が宿ったが、それは本人も自覚する前に消えた。残念ながら特にそういう利害関係はないわ、と肩を竦める。
「生憎、毎日顔を見に来てるだけよ。もっとも昨日は時間が無くて寄れなかったけどね」
 黒い人形は無言で水銀燈を睨み続けていたが、水銀燈は身を翻して再び舞い上がった。
 視線も向けずに人形におざなりに手を振りながら、皮肉な思いが心の中に湧き上がるのを感じる。

──真紅あたりならまた違う反応をするのでしょうけどね。

 彼女が今の水銀燈の立場なら、暫く隣に居て人形の言い分を聞いてやるか、もっと真摯な対応をするのだろう。あるいは人形の目覚めがあのような形になってしまったことに申し訳なさを感じて謝罪するかもしれない。
 しかし水銀燈は、視線を合わせて人形の気持ちを受け止めるほど慈悲深い気分にはなれなかった。
 人形には宿命と呼ぶべきものはないはずだ。アリスゲームを遂行するために生かされている自分達とは根本的に違う。目標は自分自身で見付けるしかないし、それは所詮、制約と宿命に雁字搦めにされて突き動かされている自分達では相談相手にすらなれない種類の悩みでもある。
 柱に沿って上昇を始めたとき、人形は声を上げた。
「待ちなさい」
 水銀燈は待たずにそのまま飛び続け、716号室の窓の前で止まった。中を窺わずにそのまま、窓の外のベランダの手摺りに座る。
 人形がついてきているのは分かっていた。案の定、隣で羽音が聞こえ、次いで翼を畳む気配とふんと鼻を鳴らす音が聞こえてきた。
 水銀燈は窓でなく、夜空を見上げる。
「四ヶ月くらい前、……私がこの時代で目覚めた頃ね。彼女は容態が急変してここに移った。暫くして容態は回復したけど、本人の意向もあったし、容態の急変ってのがこの階の診療科の領分だったんでここに居残ってるらしいわ」
「──他人事みたいに」
「他人事よ」
 水銀燈はあっさりと言い、人形の顔に視線を向ける。人形の瞳は火を噴くような赤紫に輝いたが、すぐにそれは薄紅色に戻った。
「私の人工精霊は、柿崎めぐを最後の最後で候補から落としたらしいわ。そして、私達は今の媒介を選んだ。理由は簡単。柿崎めぐのそのときの容態が、契約に耐えるものではないと判断したから」
 水銀燈は夜景に視線を落とした。
 もう少し遠いか高いところから見れば、いい眺めと言えるかもしれない。残念なことに今の時間帯では賑やかな通りに近過ぎて、綺麗な夜景というよりはごく普通の街の景色としか思えなかった。
「媒介から知識を譲り受けたとき──貴女が生まれたとき、でもあるわね。私は柿崎めぐに興味を持った。私の媒介になるかもしれなかった、そして、あいつがそれまで毎日見舞っていた少女」
 人形が息を呑む気配が伝わってきたが、水銀燈はそちらを向かなかった。救急車が近付いてくる音がした。
「私はあいつの心を壊してしまうつもりだった。蒼星石に取引を持ち掛けてね。当然私も無傷とは行かなかったけど、あいつの心がまともになるならそのくらいのリスクは覚悟できたわ」
 しかしそれは失敗して、結局彼は自分で自分の心の木を伐った。切ったり、斬ったわけではない。あっさりと直截的に、文字どおり伐採してしまった。
「そこに雪華綺晶が付け込んで、貴女を作った」
 救急車のサイレンは足下で止まった。細かく言えば建物の表と裏なのだが、そんな風に感じられた。
「……だから、何だってのよ」
 人形は焦れたような言葉を呟いたが、その声には力が無かった。水銀燈はまたそちらを見、ふっと息をついた。
「何でもないわよ。ただの脱線。だけどあいつが消えてしまって、柿崎めぐを見舞う人が居なくなるってのはなんとなく厭だった。それは間違いのないところね」
「なによ、偽善じゃない、そんなの」
「偽善ですらないわ。誤った義務感って言うべきかもね」
 でもねぇ、と水銀燈は面白そうに口の端を吊り上げた。
「毎日通ってみて──下らない話をしてみたり、泣かれたり、喧嘩してみたりして──分かったけど、面白いのよ、柿崎めぐは。向こうも私のこと面白いと思ってるらしいけど」
 ガラリ、とやや古くなったガラス戸が引かれる音がした。
「へえ、そんな風に見てたんだ」
 張りは無いが明るい声が背後から聞こえてくる。人形はびくりとしたが、水銀燈は肩を竦めただけだった。
「私、急に物凄い乱視になったのかな。水銀燈が二人に見えるんだけど」
「昨日来れなかったから、お詫びに増量セールしてみたのよ。凄いでしょ?」
 慌てる人形の肩を抱き、水銀燈はにやりと後ろを振り向いた。
「新品の子の方が可愛いわ。天使のニセモノじゃなくて、本物の天使みたい」
 柿崎めぐは不健康そうな白い顔に笑みを浮かべながら、いつものような減らず口を叩いた。
「そうねぇ、当たってるかもしれないわ」
 水銀燈は意地の悪そうな笑顔になった。途惑っている人形を抱えるようにして、めぐのほうを向かせる。
「本物の天使かもね、この子は」



[19752] 140くらい。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2010/12/13 21:00
めぐは病弱だから良いと思うんだ。
真ん中以外はおまけみたいなもんです。


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 結菱老人に挨拶をして、ナナは何故かほっとしたような表情になった。
 蒼星石はちらりとそれを見遣ったが、少年は気付いていない様子で、慣れた手つきで人数分の紅茶を淹れ、家から持ってきたお茶菓子を並べた。蒼星石が手伝おうとしたが、すぐ済むよと少年は笑って取り合わなかった。
 手際がいいのだね、と老人が笑うと、鍛えられてますからねー、と少年は胸を張る。誰に、というのは尋ねるまでもなかった。
 それなりに丁寧に並べてみせると、少年は老人に片手で拝むような身振りをしてみせた。
「水銀燈はあんまり好き嫌い煩くないんで、淹れ方とかお茶菓子の取り合わせなんかは滅茶苦茶です。口に合わなかったらすいません」
 ティーカップを口に運びかけていた老人は手を止めて笑いを引っ込めた。
「心しておこう」
 そこでいやいや構わないよと鷹揚に大笑して口に運べないところが結菱老人の子供っぽい、良く言えば素直なところだった。まだ数回しか顔を合わせていない少年にもそれは分かっていた。
 彼が大きな屋敷に住んでいる世間離れした老人に対して気後れせずに──図々しく、と言った方が的確かもしれない──ここに出入りできているのは、老人のそういう側面が却って彼を気楽にしていることも一因だった。老人は自分に正直でところどころ我侭だが、蒼星石には優しい。そのお陰で彼も大分お目溢しをして貰っていた。
 少年にとって幸いなことに、あまり不味そうな風もなく、老人は紅茶を啜った。
 少年はほっと息をつき、そうだ、と思い出して庭仕事の話を始める。それが切っ掛けのようになって、小さなテーブルはそれなりに賑やかな雰囲気に包まれた。
 意外に、ナナは好奇心旺盛だった。適度に物を知らず、そして適度に構われ上手でもあった。三人はそれぞれの言葉で、新しい人形が首を傾げたり質問をするたび、一つ一つ丁寧にものを教えた。

 ひとしきり会話を楽しんでから、老人は椅子に身を沈めるようにして一同を見渡した。少し疲れたのかもしれない。蒼星石は老人の顔を窺ったが、老人は無言で大丈夫だという視線を返して遣した。
 蒼星石は頷いて、今は少年から菓子の袋の破り方を教わっているナナを眺める。改めて見ると奇妙な取り合わせだった。
 老人は既に寝間着にガウンを羽織っており、少年はお世辞にも高価そうには見えない普段着姿で、ナナはいかにも人形らしい凝った作りのごく薄いピンクのドレスを身に纏っている。帽子を脱いでいる蒼星石自身は外出着姿の大身の家の子供にも見えるかもしれない。まるで統一感というものがなかった。
 ばらばらな四人が奇妙な縁で繋がり、こうして集っている。それがアリスゲームという、薔薇乙女達にとっては生と死を同時に意味するモノが原因だとしたら、少なからず皮肉なことだった。
「──盛り上がってるようね」
 窓枠の辺りで声がした、と思ったときには、黒いドレスに身を包んだ少女はテーブルの脇に立ち、翼を畳んでいた。
「こんばんは、水銀燈」
 無礼を咎めることもなく老人が言ったのは、水銀燈があまりにも自然な態度でそこにいたからかもしれない。彼女は老人に歩み寄り、笑みを浮かべて如何にも形だけという風に頭を下げてみせた。
「こんばんは。直接会うのはお久しぶりね、結菱さん」
「初めてと言うべきかもしれないな。以前会ったのは、確か私の夢の中だったはずだ」
「そうだったわね。あれから現実時間で1541時間24分。早いものだわ」
 二人は改めて取って付けたような挨拶を交わし、それからくすりと笑った。
 老人は水銀燈に席を勧めながら蒼星石を見遣る。彼女がかすかに緊張を表しているのを見て取ると安心しなさいというような顔をしてから水銀燈に視線を戻した。
「君のマスターにはいつも世話になっているよ。私も、蒼星石も」
「お世話になってるのは私の媒介の方だと思うけど」
 水銀燈は席に座りながらにやりとして少年を眺める。彼が視線の意味を理解したようにうんうんと頷いて紅茶を淹れに席を立つと、その背中に声を掛けた。
「随分場慣れてるじゃない」
「何度かやらせてもらってっからね」
 少年は振り返らずに答える。
「いい葉が台無しにならないように注意しなさいよ」
「さぁて、そいつは保証の限りじゃありませんねー」
「へぇ、私に不味いお茶を飲ませるつもり? いい度胸じゃないの」
「謹んで微力を尽くさせていただきます、しかし素人ゆえ出来上がりには責任持てません、はい」
「何処で覚えたのよそんな文句」
 お互いに視線も交えず、手も止めず、聞きようによってはやや尖り気味の言葉だけを行き交わす。如何にも気の置けない雰囲気だった。
 当然、水銀燈は多少不味くても彼の淹れた紅茶は飲み干すのだろう。細かいことは言わず、不味い、とだけ文句をつけながら。
 真紅と彼女のマスターとの関係とはまた違った息の合い方だ、と蒼星石は先程の桜田家の風景を思い出した。
 確実に何かを共有しているけれどもそれを表に出さない、少しぎこちなく不器用ではあるけれども深く絡み合った関係。表面上は然も無い風に振舞っているけれども、真紅とジュンにはそんな雰囲気があった。
 恐らく真紅とジュンの結び付きは、水銀燈と少年よりも──そして蒼星石と結菱一葉よりも、ずっと強固なのだろう。蒼星石は水銀燈が昨日姉妹達の前でそれを明言したことは知らなかったが、真紅とジュンのペアが様々な意味で特別だということは何処となく分かっていた。
 ただ、水銀燈と少年の関係も悪いものではないように蒼星石には思えた。
 言いたいことを言いたいように言い合える、古い友人のような関係も、薔薇乙女と契約者の間にあってもいいのだろう。それが最良であるとまでは言えなくても。
 水銀燈が、そういったある種気楽な関係を望むゆえに契約者と一線を引きがちになり、しばしば契約すら結ばずに過ごしてしまったことまでは、蒼星石の想像は届かなかった。そちらに想像を広げようとも思わなかった。

──今は、もっと重要な案件がある。

 その案件のために水銀燈はここに来たのだし、元はと言えばそれを言い出したのは自分だった。
 ナナが不安そうに少年を見上げるのが視界の隅に入った。蒼星石が水銀燈に向けている視線が強いものに変わって行くのを見て取ったか、感じ取ったのかもしれない。
 マスターの前だというのに無作法だな、と蒼星石は自分を詰る。しかし、それでも彼女は表情を緩める気分にはなれなかった。


「──あの女と契約したのは、アナタじゃなくてあの人だったってこと」
「そうそう。私は最初から見捨てられてたってわけなの。水銀燈からもね」
 発作のときに重なったんじゃ仕方ないけどね、と消灯時刻を過ぎて黄色の常夜灯だけが薄暗く照らす病室の中で、柿崎めぐは楽しそうに笑った。
「それなら、ここにわざとらしく顔なんか見せなきゃいいのよ」
 向かい合ってベッドの上に座りながら、人形は本気で怒っていた。
「未練がましいにも程があるわ、あの女。口じゃ大層なこと言ってる癖に、やってることは全部後ろ向き」
「本当に水銀燈が嫌いなのね」
 めぐはくすくすと笑い、憤る人形にお見舞いの品のクッキーを差し出そうとした。人形は一瞬動きを止めてから、寸前でそれを振り払う。
 乾いた音がして、クッキーは床に転がった。予期していたよりも大きな音に人形はびくりとしてめぐの手を見る。幸い出血はしていないようだった。
 めぐは驚きに硬直したような表情のまま、打たれた手に視線を落とし、ややあって人形の方を向いた。
「……ごめんなさい」
 先に謝ったのは人形の方だった。めぐは再びくすりと笑った。
「へえ、素直なんだ」
 言いながらベッドを降り、床に転がったクッキーを無造作にごみ箱に放り入れる。人形は半ば呆然とその仕草を眺めていた。
「水銀燈は貴女のことも少しだけ話してくれたけど、そんなに素直なんて言ってなかったな。嬉しいけどちょっと拍子抜けかも?」
 ベッドの脇に立って、人形を見下ろす姿勢になる。薄暗がりの上に逆光で表情はよく見えないが、笑っている雰囲気があった。
「何が可笑しいのよ」
「だって、さっきから貴女……」
 めぐはもう笑いを隠そうとせず、くっくっと暫くその姿勢のまま下を向いて笑い、それをどうにか収めて呆気に取られている人形の顔を見詰めた。
「水銀燈も随分図々しかったけど、貴女ほどじゃなかった」
 窓から部屋の中に入ってくるまで一週間もかかったのよ、と、ややオーバーな身振りで水銀燈のように肩を竦める。めぐは聞かされていなかったが、それは元々人形のよく知っている人物がしていて、何時の間にか水銀燈の癖にもなっている仕草だった。
「貴女ってまるで、昔から私のこと知ってるのに、必死でそれを隠そう、今日初めて会ったことにしようって頑張ってる感じなんだもの」
 今もそう、とめぐはまた可笑しそうに声を上げた。手を痛くされたことには全く頓着していないようだった。
「本気で私の手を叩こうって考えてなかったでしょ? 頭で『これは振り払わなくっちゃいけないわぁ』って考えてるみたいな顔してたもの。映画とかの場面みたいで、ちょっとびっくりしちゃった」
 人形は言葉に詰まり、黙って目を逸らした。図星を指された、とその表情が物語っていた。
 めぐは笑いを収め、人形に並んでベッドに座り直した。
 真面目な顔になって人形の髪に触れる。人形は今度は拒まなかった。
「でも、いいわ。そういうのってすっごく面白い。本物の天使って話、本当なのかもね」
 肩を抱くように人形の背中に手を回し、腰まである豊かな長い髪を手で梳くようにしながら、台詞の激しさとは裏腹の静かな口調でめぐは言った。
「お生憎様、私はニセモノで紛い物よ」
 人形も静かな口調になっていた。
「ヒトの紛い物。天使の紛い物。ローゼンメイデンの紛い物」
 何処かから抽出してきた記憶を埋め込まれ、有り合わせの形を持たされて即席で作り出された、偽りの芝居のための舞台装置の一部。それがどういうわけか実体を持ってしまった、イレギュラーな存在。
 誰にも望まれず、作り出した存在からは一度は始末されかけ、たった一人で一緒に居てくれた存在も何処かに消えてしまった。
 微妙な姿勢のまま、ぽつりぽつりと、人形はそんな来し方を話した。

 めぐにとっては、それは以前から聞いていた物語だった。暇で仕方がない夜に、何か面白い話はないかと水銀燈にせがんで聞き出した話だった。
 そのときは、水銀燈も凝った作り話が好きなのね、と素っ気無い感想を返しただけだった。そのくらい現実味の無い話に思えたし、水銀燈も話の種が無くてやむなく口にした話だったせいか、めぐの感想に対しては不満そうに鼻を鳴らした程度だった。
 百歩譲って仮に実際にあった話だとしても、現物が目の前に現れるとは思っていなかった。ましてやそれが水銀燈とよく似た容貌をしていることまでは思いもよらなかった。
 しかし、そういった現実感の薄い話が、こうして当事者の告白のような形で繋がってしまうと急に生々しい実在感を持って迫ってくる。ただ、それは純粋な感動とは少し違った感覚だった。

──愚痴って嘆く前に水銀燈に感謝すべきでしょ、貴女。

 彼女の中の冷たい部分がそう考える。
 水銀燈から聞いた話が全て事実なら──彼女はそういう言い方はしなかったが──この人形を孤独な暗闇から解き放ち、あちこちと交渉して完全な形に完成させたのは水銀燈なのだろう。不幸を嘆く暇があったら水銀燈の手伝いの一つもすればいい。元のままでは愚痴を聞かせる相手も居ないところだったのだから。
 ただ、その考えは思考の一部分だけに仕舞いこまれた。全体としてみれば彼女は、人形に感傷と同情、気取った言い方をすれば共感のようなものを感じていた。
 その思いのまま、めぐは人形に声を掛ける。彼女はいつも自分に正直だった。
「でも、貴女のそのお腹のところ、そこだけでも沢山の人の想いが詰まっているんでしょう?」
 髪を梳くのをやめ、ぎこちなく人形の肩を抱き寄せる。拒否されるかもしれないという危惧よりも、珍しく刺を殆ど持っていない自分の気持ちが本物かどうかに自信が持てないことが大きかった。
 意外にあっさりと、人形はめぐに体を凭せ掛けた。
 めぐの中で、いつも癇癪を起こすときのように、何か制御できない激しい感情が込み上げて来た。いつもと違うのは、その感情が怒りや憎しみといったモノでなく、優しさと暖かさのように感じられることだった。
 いつものようにその感情に素直になって、彼女は少し激しい動作で人形を胸に抱き締めた。
「その想いの中に、私も混ざってもいいかな? 全部なんて言わないし、多分そんなに長い間じゃないと思うんだけど」
 まだ名前も無い人形は、答える代わりにめぐの薄い病院着に顔を押し当て、そっと自分も彼女の体に腕を回した。


 結菱老人には、蒼星石の用件──昨日は水銀燈に聞きそびれてしまった、アリスゲームに関わるあれこれの質問──を彼女と一緒に聞くつもりはなかった。アリスゲームについてのあれこれは、直接それが飛び火してくるまで契約者が口を出すべきことではないと老人は思っていた。

 薔薇乙女達の姿勢も殆ど皆それと同じだった。いや、本来お互いに敵である彼女達の方が徹底しているとも言える。契約者だけでなく同じ姉妹達にさえ、彼女達は自分の意図や展望、ゲームに関する情報などを容易には渡して来なかったし、積極的に直接聞き出そうとする者もいなかった。
 ただ、例外はいる。
 意図が全く見えてこない、今のところアリスゲームに対するそれよりも自分自身の欲求の方が上回っているように見える雪華綺晶は除くとしても、もう一人、少なくとも自分の不利にならない情報である限りは積極的に広め、自分の構想を示すようになった姉妹がいる。水銀燈は知識を得てから、そういう方法で目的を達する方を選んでいるようだった。
 当然のように老人は知らなかったが、蒼星石が訊き出したい案件というのは、まさに水銀燈のアリスゲームに関する見解の一端だった。今の彼女ならば自分にも教えるだろう、と蒼星石は思ったのだ。
 前日既に水銀燈はnのフィールドの中の小さな世界で姉妹達に尋ねられるままにそれを答えていたのだが、生憎その姉妹達の中に蒼星石は入っていなかった。そのとき彼女は少年と一緒に無意識の海に入り、ナナ、そして雪華綺晶と接触していた。

 いずれにしても老人は積極的に蒼星石と水銀燈の話し合いに立ち会うつもりはなかった。彼は早々に寝室に引き上げることを決めた。
 少年は少し迷ったが、結局ナナを連れて老人の車椅子を部屋まで押していく方を選んだ。
 それは妥当な判断、というよりはいつものことだった。蒼星石と水銀燈が話し合うだろう内容は彼には理解し難い部分が多そうだったし、自分達が居る場所では話し難い内容もあるだろう、ということは分かっていた。
 ただ、妙な話かもしれないが、二人がそういった話をしているところを見ておきたいという気分が後ろ髪を引いていた。理解力も足りなければ特殊な才能もない契約者が無理な背伸びをするなと言われそうだったが、彼女達と日常を共にするだけにしても、少しは自分も何かを知っておかなければならない、と少年は思うようになっていた。
 結局、少年が老人を寝室に送っていく方を選んだのは、ナナが真剣な面持ちで老人の寝室の姿見を見たいと言い、老人が意外に上機嫌でそれを許したからだった。二人の話し合いが終わる前に老人が先に眠ってしまったらナナは一人になってしまうし、そうでなくても眠そうな老人に余分な手間を掛けさせることになってしまう。
 かちゃりと鍵を開け、車椅子を部屋に入れると、明かりを点けるまでもなく大きな鏡は部屋にでんと鎮座して存在を主張していた。
「これがどうかしたのかね」
 何処にでもある姿見だろう、と老人は言い、自分でその傍らに車椅子を押して行くとあまり興味もなさそうに枠に手を置いた。
「いや、結構でっかいし、歴史有りそうだし……凄いですよ」
「そうかね? 精々百年かそこら前の物だ。先代が作らせたらしい」
 少年は何度か見ている物のはずだが、改めてまじまじと見て何か発見があったのか、吸い込まれそうだなぁ、と素直な声音で言う。確かに蒼星石が通ったことはある、と老人は苦笑した。
「しかし、それならば別に鏡に限らないだろう。人工精霊は鏡面なら殆ど何でも扉を開けると聞いている」
「あ、そうですね」
 自分のアパートの浴室の鏡ですら通路になったことを思い出し、少年は照れて頭を掻いた。
「……いいえ」
 ナナは鏡の面に触れながら、ふるふると首を振った。
「これは特別な鏡です。このままでも、nのフィールドへの入り口になる……」
 部屋の中を映し出していた鏡面が、ナナの触れた周囲だけいきなり波立った。次の瞬間、ナナの手はずぶりと鏡の中に沈んだが、相変わらず波立っているのはその辺りだけで、鏡は依然として部屋の中を映している。
 少年と老人が驚いている前で、ナナは手を引き抜く。鏡面に一度だけ大きな波が広がったが、変わったところといえばそれだけで、鏡はまたごく普通の風景を映していた。
「すげー」
 少年はつんつんと鏡の面をつついてみたが、そこには平面のガラスがあるだけだった。
「ナナすげーじゃん! メイメイなしでnのフィールドに出入りOKってこと?」
「ローゼンメイデン……私の姉妹ならどのドールでもできることです。多分、こちらの世界の人達でも」
 ナナは鏡に向き合ったまま、上の方を見上げる。もう一度鏡面に手を添えたが、今度は鏡は波立たなかった。
「ただ、私達にはどの鏡でも良いというわけじゃありません。この鏡には、その力があります。生命を宿しているから」
 老人はふむと唸って鏡を眺め直したが、あまり興味が湧かない様子でベッドの方に車椅子を動かした。魂の篭った、由緒ある品物に囲まれて生きてきた彼にとって、寝室の姿見はやはり出来は良いが歴史の浅い品物の一つに過ぎなかった。生命を宿していると言われたところで、そうか、という感想しか浮かばないようだった。
 少年が手を貸し、老人がベッドに移る間も、ナナは鏡に見入っていた。車椅子を所定の──老人が自分一人でも乗り移れる──位置に動かした少年が声を掛けようとしたとき、彼女は呟くように言った。
「この鏡──知ってる」
 その声と共に、彼女の薄い色の袖口と足元から、細い白い茨の蔓がゆっくりと伸び始めた。
「おっ、おいっ」
 少年は場所も時間も弁えずに大きな声を上げ、ナナに駆け寄る。白茨には全く良い記憶がないどころか、つい昨晩死にそうな目に遭ったばかりだった。
「大丈夫です──」
 ナナは振り返らずに少年を手で制し、一つしかない目を閉じた。蔓は鏡の枠に絡みついて伸びて行き、天辺で動きを止めた。
 二人の観客が見守る中、ほんの数分、もっと短かったかもしれない。ナナの細い白茨は伸び始めたときと同じように危なっかしく、ゆっくりと元に戻っていった。
 茨を粗方回収してしまうとナナは振り向き、ありがとうございますと老人と少年に礼を言った。
「この鏡とお話をしたかったんです」
 老人は何度か首を縦に振った。
「それで、何か分かったかね」
 ナナは一拍ほどの間、下を向いて躊躇していたが、決意したように顔を上げた。
「退屈で、変な話になるかもしれませんけど、いいですか」
「OKOK、バッチコーイだぜ」
 少年はうんうんと頷き、はっと気付いて慌てて老人を振り返る。ついいつもの調子で返事をしてしまったが、この部屋の主は自分ではなかった。
 老人は苦笑したが、すぐにそれを悪戯っぽい笑みに変える。蒼星石が見たら驚いたかもしれない、滅多に見せない表情だった。
「本当に退屈なら途中で寝てしまうが、いいかね?」
 ナナは少しばかり困ったような顔で、はい、と頷いた。



[19752] 150程度。 
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2010/12/15 23:34
タイムリミットのため、切り悪く。

書きたかった部分の3/5程度なんで、次回投稿分が短いかもしれませぬ。

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 黒衣で銀髪の少女と青い衣に栗色の髪の少女が、夜空を背にして並んで座っている。誰かが見たら仲の良い二人に見えるかもしれない。
 水銀燈が蒼星石と話し合う場所として選んだのは結菱邸の屋根の上だった。
 先程の老人の何気ない一言を思い出し、蒼星石は苦笑する。少なくとも水銀燈は高くて開放的な場所が好きなようだった。
 彼女にとってもここは馴染み深い場所ではあった。老人の心の闇を壊すことに失敗するまで、彼女はよくここまで鞄を飛ばしては、座り込んで考え事をしていた。
 あの頃は睡眠時間も碌に取らなかったし、薔薇園の手入れ以外は何もかもおざなりだった。毎日何度も行動限界に近くなるまでnのフィールドに潜り、ひたすら老人が命じた探し物をしていたのだ。
 ほんの二月ほど前の出来事だというのが信じられないほどだ。懐かしさというより断絶感のようなものがあった。

 風がやや強く吹いた。風に飛ばされないように帽子を胸に抱えて、彼女はまず今日の夕方のことを話した。
 水銀燈は笑いもしなれば驚きも見せなかった。ただ、あまり面白そうでない顔をした。
「少し早かったわね。あっちの世界の人形師やら黒い人形やらにかかずらわって、おざなりになってたわ」
「やはりコリンヌ・フォッセーのことは知っていたんだね」
「ええ。知識にあったもの。あいつの記憶に」
 あいつの、と言ったときの横顔には、幾分懐かしさが含まれているように蒼星石には思えた。
 その人物に、彼女はほんの僅かしか接触を持たなかった。それでも強烈な印象を持っているのは、何処からか取り出した得物で自分で自分の心の木を伐るという行為があったことと、彼女にも幾許かの記憶と思考の流れを残していったからだ。
 当然、水銀燈は彼女の知らない彼の様々な側面を見ていたはずだ。懐かしいのは当たり前だろう。本人に言わせれば契約者との結び付きは他の姉妹より弱いということだが、契約を除いても、二人は数ヶ月の間ずっと共に暮らしていた間柄だった。
 それが妬ましいとは思わない。ただ、今現在の水銀燈が羨ましいかと尋ねられれば素直に頷くけれども。
「分からないことがある」
 言ったところに少し強い風が吹いて、蒼星石は顔に掛る髪を手で押さえた。
「君がオディール・フォッセーを放置していたのは何故なんだ」
 声が風に飛ばされてしまったのか、と思うほど、水銀燈は無反応だった。もう一度同じことを尋ねようとしたとき、漸く返事が返ってきた。
「あれは私が雪華綺晶に残してやった最後の選択肢、ってとこかしらね」
「最後の選択肢?」
 大仰な言葉に、蒼星石は眉を顰めた。少なくとも表面上はごく普通に過ごしていながら、nのフィールドに篭って出てこない相手をそこまで追い詰められるものなのか、というのが素直な感想だった。
「この時代で姉妹が揃って目覚めた時点で、彼女の糧は尽きかけていた」
 水銀燈は事も無げに続けた。
「契約者の誰もが雪華綺晶の糧になる訳ではないし、一旦糧となった者も死んでしまえばもう用を為さない。彼女という白薔薇の苗は常に渇きに怯えてきたわけ」
 それは金糸雀が指摘したことと同じだった。元々、雪華綺晶の糧は常に限られていたのだ。
「新たな糧に餓えた彼女は、この時代でまず雛苺の契約者を狙った。準備が不足していたのと、意外な結果になったためにそれは叶わなかったけどね」

 雪華綺晶は多分看過してしまっているのだろうが、実はそれが第一の、そして大きな躓きだったとも言える。ただし、原因は彼女にはない。真紅の判断の結果だった。
 雛苺はアリスゲームを自分の意志で降りたものの、動かなくなることはなかった。元の雛苺の契約者である巴は雛苺に何時でも会える状態になり、心理的な負担も減った。ある意味で却って絆は深まってしまったとも言える。
 本人はそんな効果など意識していなかっただろうが、雛苺からローザミスティカを奪わないという真紅の判断は様々な意味で真紅を有利に導いた。もはや、雪華綺晶が巴に手を出せるような状況ではなかった。
 ただ、雪華綺晶との邂逅が一瞬だったせいか、あるいは何等かの操作を彼女が行ったのか、巴も雛苺も彼女のことは記憶から抜け落ちてしまった。雪華綺晶の側から結果だけ見れば、最初から企図しなかったことと同じだった。

「次に狙ったのは、私と媒介。これも失敗した」
 風が吹き付け、水銀燈は流れた髪を整える。蒼星石は片手で帽子を胸に抱き、空いている方の手で乱れた髪を直しながら頷いた。
 今更詳しく説明されるまでもなく、それは雪華綺晶の最大の敗北だった。彼女が勝利していれば、そして、それがゲームの支配者の許すところであれば今頃は姉妹全員が彼女の掌中にあったかもしれない。その結果アリスが誕生したかどうかは兎も角として。
「後は簡単でしょう」
 水銀燈は漸く蒼星石を見た。
「特に注意すべきはおつむと心の脆弱な私の媒介。そして雛苺。それを取られないように固めているだけで雪華綺晶は餓え、自分の欲求も叶わずに追い詰められて行く」
 つまり私は流れに乗っただけ、と水銀燈は言った。
 一度は蒼星石の自決を見過ごしてそのローザミスティカを奪うことも考えながら、その方針を撤回したことまでは言及しなかった。彼女に対しては言う必要がないからというより、いまコメントされるのが厭わしいのかもしれない。
 蒼星石も、殊更に口を挟もうとは思わなかった。あの件について言いたいことは幾つもあり、そこに含まれるものは単純な感謝だけでもなければ非難だけでもないが、それはまた別の機会にすればいい。今は本題を外れたくなかった。
「残された糧の候補はひとつ。彼女がごく最近まで糧にしたがっていたのに、機会を得られないうちに死んでしまった雛苺の元契約者の孫娘」
 運の無いことよね、と水銀燈は肩を竦めた。
「もっとも、コリンヌ・フォッセーが雪華綺晶の糧に成り得ず、オディール・フォッセーが契約者となった理由は正確には分からないけどね」
 確かにコリンヌは糧となる条件は満たしているように思える。一方、オディールは本来雪華綺晶には狙われない立場のはずだ。
 だが、蒼星石は何処となくその理由が分かる気がした。オディールを実際に間近に見て、語っているところを聴いたからだった。

 コリンヌが気に掛けていたのは雛苺という親友の消息ではなく、雛苺という人形との別れが無残な形になってしまったことだったのかもしれない。確かに自分を罪深いとは思っていたのだろうが、死の直前に言ったという「取り戻したい」という言葉には、雛苺に対する執着はあっても気遣いは薄いようにも感じられる。
 それは邪推だとしても、孫娘に雛苺を取り戻して欲しいと願うようになったのは、もう酷く老耄してしまってから、それも死ぬ間際だったのではないか。あるいはそれを告げた後、短い間でも雪華綺晶の糧になった可能性もある。
 オディールという少女自身にも、何処かに消えない鬱屈や表に出さない強い執着を抱えているような部分が見て取れた。そうでなければ、いくら雪華綺晶に誘導されたとはいえ、見たこともない雛苺を探して日本までやって来ることはなかっただろう。そもそも、雪華綺晶につけ込まれることもなかったはずだ。
 そして、雪華綺晶がオディールを「狙うことができた」ことは、雪華綺晶の立場に対する水銀燈の推測を裏付けてもいる。
 必要以上に詳細に薔薇乙女のことを知ってしまい、あまつさえ具体的に捜索を始めてしまう可能性が出た者。
 それは、ローゼンメイデンという名前だけを頼りに幻のアンティークドールを追い求めている人々とは全く異なる。ゲームの統括者であり姉妹の造物主である者にとって、リタイアしてからも薔薇乙女を求めてしまう契約者と同等に看過できない危険分子だ。
 しかし、そういう存在への対応策は用意されていた。眠らせて雪華綺晶の糧とするか、あるいは契約者として生きたままゲームに取り込んでしまえばいい。
 雪華綺晶が意識的に決断したか、無意識にそうしたのかは分からないが、彼女はオディール・フォッセーを契約者とした。危険な存在は、無事にゲームに取り込まれたことになる。

 蒼星石の内心の考察とは関係なく、水銀燈は言葉を続けた。
「契約したときに自分ではなく雛苺を騙ったということは、用が済んだら糧とするつもりね。そのくらい切羽詰っていると見るべきか、まだ即座に糧とするまで飢えていないのか、微妙なところだけど」
 ただ、こっちに寄越して雛苺やら桜田ジュンに揺さぶりを掛けるつもりだとしたらお誂え向きなのは確かね、と水銀燈は笑った。
「フォッセー家は南フランスの貿易商。特に第二次大戦後は極東との取引が主になったから、あのオディールって娘も日本は初めてじゃない。むしろ彼女、長いこと横浜で過ごしているはずだから日本語の方が達者なくらいでもおかしくないわね」
「本人もそんなことを言っていた」
「やっぱりね」
 だが、オディールはそこまで詳細には語らなかった。
 ふと蒼星石は疑問を感じた。

──それは、彼から得た知識だけ、なのだろうか。

 この件に限らず、水銀燈はそれ以上の情報を持っているような気がする。
 自分が目覚めてからずっと捜索していた結菱老人の想い人の心の木を先に見付け、取引を持ち掛けて来たのも水銀燈だった。そのときはまだ、彼女は媒介の知識を得ていなかった。
 契約者無しでもnのフィールドに長く留まることができ、媒介達と結びつきが弱いゆえに必要以上に束縛されずに行動できる。その利点を活かし、彼女は情報の収集に長い時間と労力を費やしているのだろう。
 雪華綺晶のように、姉妹全てを自動的に映し出す水晶の城の中で、労せずして情報を手に入れるのとは違う。水銀燈は何を収集するにも泥臭く、いわば自分の手と足で探す必要があるはずだ。

 そこまで考えると、思わず長い溜息が洩れてしまう。今更ながら、水銀燈のアリスゲームにかける熱意と努力に圧倒されたような気がした。
 ごく普通に過ごしていた、訳ではない。恐らく水銀燈は、媒介の知識を得て方針を定めてから、知り得る限りの──恐らく自分だけでなく、他の姉妹のそれも含めて──元契約者達の消息を探ってみたに違いない。
 蒼星石は目を閉じて前を向いた。それは、彼等のことを振り返らなかった自分達には真似のできない事柄だった。

 彼女の仕種を見て何を思ったのか、水銀燈はくっくっと喉を鳴らした。珍しい笑い方だった。
「前置きばかり長くなったけど、後は貴女なら大体分かるでしょう」
 考え込む癖はあるが今ひとつ頭の固い生徒に物を教える教師のように、水銀燈はゆっくりと言った。
「彼女が取って置きのオディール・フォッセーに手を出したということは、もう後がないということ。干上がりかけて、いよいよ仕掛けて来ざるを得なくなったということよ」
 つまりは、そのタイミングを計るために、水銀燈は他の姉妹の契約者や雛苺を渡さないように手配りをする一方でオディールだけには手を出さずに居たのだ。
 水銀燈らしくない消極的な策にも思えるが、下手に半端に手を出して虻蜂取らずになるよりは、一種の警報器として役立てた方がいい、という判断なのだろう。
 それが妥当だったかどうかは、分からない。難しいとは思うが、オディールをも何等かの方法で確保してしまっていれば、雪華綺晶は戦わずに水銀燈に屈服することになったかもしれない。
 もっとも、今からでも遅くはないかもしれない。オディールは恐らく雪華綺晶に騙されて契約を結んでいるのだから、そこを攻めれば契約を解除することは出来ないまでも何かが引き出せる可能性はある。
「ただねぇ……」
 そこで、水銀燈は僅かばかり冴えない口調になった。
 腰掛けた脚を組み替え、一度背筋を伸ばす。背中の翼がゆっくりと広がり、また畳まれた。
「末妹が媒介を得て真っ先に狙うのが、あっちの世界の第七ドールになるとは思わなかった。いくらなんでも斜め上過ぎるでしょう? 予測もできないわよ、そんなの」


 ナナは眠そうな老人が布団に横たわったままでも聞こえるように、彼のベッドの脇、枕元に近いところに立っていた。
 照明は暗くされている。老人が眠るのを妨げないように、という配慮だった。
 なにやら、ナナの話は老人への子守り歌代わりのような恰好になってしまっていたが、彼女はむしろそれを喜ぶような素振りさえ見せて、意外に語り慣れた調子で、ゆっくりと声を潜めるようにして語っていた。

 老人の部屋の鏡は、蒼星石のためのnのフィールドへの扉として使われていた。
 多いときは日に何度も、彼女は扉を潜った。そして、鏡の感覚からするとほとんど間を置かずにまた反対から潜って元の現実世界に戻った。
 何処に行くのか、何をしに行くのか、当然鏡には分からない。
 ただ、何度となく通過していた蒼星石を、鏡はよく覚えていた。そして、彼女があまり通過することがなくなってからは、ぼんやりとその姿を浮かべるようになっていた。
 こちらの世界にやってきたナナは、それを蒼星石本人と間違えた。
 ナナのゼンマイは止まりかけていた。茨の届くところまで近付いて、必死に茨を伸ばして気付いてもらおうとしたが、全く反応がない。
 どうにか手が届くところまで近付くと、それが鏡の浮かべていた虚像に過ぎないことが漸く分かった。ナナはひどく落ち込んで、もう何もしたくなくなった。

「その後でメイメイがナナのこと見付けた訳か」
 少年も出来る限りのひそひそ声になっていた。老人は目を閉じていたが、眠っているのか、寝た振りをして今の珍妙な状況を面白がっているのかは分からない。
「はい」
 ナナは何時の間にか老人の布団に顎を乗せ、床に膝をついている。どうかすると、彼女の方も眠ってしまうのではないかと思わせるような按配だった。
「でも、なんで蒼星石なんだ? それとも最初に見つけたのが偶々蒼星石だっただけで、あの子達なら誰でもよかったとか?」
 なんとなしに自分もやってみたくなって、少年はナナの隣でベッドの脇に座り込んで彼女と視線の高さを合わせる。ナナはぱちぱちと片目を瞬かせ、困ったような顔になったが、少しはっきりした声で言った。
「もっと変な話になるかも知れませんけど、聞いてもらえますか」
「応、聞く聞く」
 少年が布団に顎を乗せてにやっと笑う。ナナが少し硬い表情でありがとうと言いかけたとき、その頭にぽんと手が載せられた。
「面白くない話なら寝てしまうが、いいかね?」
 ナナは驚いて老人の顔を見遣り、こくこくと何度か頷いた。
 老人は彼にしては珍しいことをやってみせた。にっこりと笑い、彼女の髪をひと撫でしたのだ。


 結菱邸の屋上には、いい風が吹いていた。
 帽子を取って座っている蒼星石は、昨夜来聞きたいと思っていた事柄を聞き終えて一つ息をついた。
 隣に腰掛けている水銀燈の横顔を見詰める。語るべきことをほぼ語り終え、蒼星石から聞きたいことを聞き終えた黒衣の長姉の、やや逆光気味の横顔は、やっと面倒臭い話から開放されたと言いたげな清々した表情で空を眺めていた。
「やはり記憶、又は情緒の面で何等かの制御はされている。そう見ていたんだね、君は」
「偶然の要素が強いけどね。私がちょっと違っていたせいで、前から目に付いてはいたのよ」
 水銀燈は右手を胸元に当てるような仕草をした。
「契約者との結び付きが強いはずの貴女達が、何故以前の契約者の記憶を引き摺らないのか。契約者達の方はどうなのか。──むしろ気付くのが遅すぎたかもね。あいつの記憶を引き継いだときに気付いていて然るべきだった」
 なにせあの人形師に聞いてからだもの、と水銀燈はやや自嘲気味に息をついた。
「ナナの『お父様』か。僕も逢ってみたかったな」
 蒼星石は少し緊張を解いて言った。少し別の方向に話題を持って行かなくては気持ちの整理がつかない、という側面もあった。
「そういえば昨日、あの人形に渡したのは『蒼星石』の動力源だった……ということは、『蒼星石』はもう復活できないと見ていいのかな」
「それは逆ね。むしろ、復活させられないからこちらに出現させたのでしょう」
 水銀燈は足を組み、膝に肘を突いて頬を支えた。
「彼等の世界群──一本の世界樹によって支えられている世界全部──の時間は閉じてしまった。あの人形師が望み、自分の娘達に示したアリスゲーム以外でもアリスへの道はあるという言葉も、『真紅』に委ねた『蒼星石』と『雛苺』を復活させるという課題も、全て空しくなってしまった。当然アリスゲームを続けることも。その世界群に留まり続けている間はね」
 時間が閉じた、というのが具体的にどういう形の世界の終焉を指すのか、それについては水銀燈は聞かされていない。
 あの人形師自身、何が起きたかは分かっていなかったのかもしれない。
 彼にとって確かであり、どうにかしなければと思えたのは、その世界の中に留まっている限りは自分の娘達を先に進ませられない、その一事だけだった。
 彼にしてみればその他のことはどうでも良いのだろう。それだけが、自分の作り出した物に対する愛情だけでなく、人形師本人の宿願の成就にも関わることだったからだ。
「どういう手段を使ったかは分からないけど、あの男は自分の世界群の何処かの世界をこちらの世界群の世界の一つに繋げて、私に二つの動力源を渡した」
 ちらりと横目で蒼星石を見遣る。月の光に照らされて、帽子を脱いだ彼女はどういうわけかとても少女らしく見えた。
「時間が動いているこちらの世界群ならば、あの男の娘達は、あの男の望むアリスになれる可能性がある。今は魂が離れている『蒼星石』と『雛苺』を呼び戻すことも、可能かもしれない──ただし、二体の魂をこちらの世界群に持って来ることができれば、だけどね」
「だが、その片方を君はあの人形に渡してしまった」
「ええ。それがあの男の願いだったから」
「僕には理解できないよ。本末転倒じゃないか、それは」
 蒼星石は首を振った。
「それともあちらの姉妹に対する試練ということなのか。そこまで追い詰められて、まだ……」
「追い詰められたから、かもしれない」
 水銀燈は足を組み替えた。
「連中にとって、あの動力源はそのままパワーに直結するんだもの。二つ取り込めば、自分の体内のものと合わせて他者の三倍のパワーってことになるわね。それだけで全体の約半分の力、って言った方が早いかしら。
 そんなものを例えば私に預けっぱなしにしても、ここにあります、と覚えをして置いておくのと何等変わりはないでしょう? 結局、腕力勝負をまた煽るための争点にしかならない。それも早い者勝ちのね」
 そういえば、と水銀燈はくっくっと笑った。
「書置きに『水銀燈』に容易に渡せないように、って理由が書いてあったわ。そのときはまさかと思いもしたけど、第七ドールがこちらに出現したんだから、他の六体がやってきても確かにおかしくはないでしょう」
 蒼星石は難しい顔になって空を見上げた。今まさにそこからナナの姉妹が湧き出してきてもおかしくはないような気がした。
「自分の手を離れた娘達に、できれば相争って究極の少女になる方法を取らず、他の方法を見付け出して全員が究極の少女になってほしい。そう考えてのことだとすれば妥当なのかな」
「ええ」
 水銀燈は空いている方の手を前に伸ばし、握ったり閉じたりした。
 蒼星石はその動きを暫く見遣ってから、もう一つはどうするつもりなのかと尋ねた。人形に入れ込んだのが『蒼星石』のものなら、『雛苺』の方は水銀燈の手元にまだあることになる。
「お誂え向きの子が居るから、その子に上げるわ」
 水銀燈はまたくっくっと笑った。柿崎めぐの笑い方が移ったようだった。
「今までゲームからもアリスになること自体からも逃げていたんだから、この際正面から向き合って大いに悩んで貰いましょう。その方が、動力源の元の持ち主も喜ぶでしょうよ」



[19752] 180くらい?
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2010/12/18 00:50
紛らわしいかなぁ。

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 それは、別の世界のローゼンメイデンの物語。

 七人の姉妹達が一斉に目覚めた時代。それは終わりの始まりだった。
 目覚めたナナは、いつものように姉妹達のかすかなシュプールを追い、やがて他の六体が全て目覚めていることを知った。そして、いつものようにnのフィールドに篭ったまま、姉妹達の前の時代のミーディアムを探した。
 既に死んでしまったミーディアムもいたが、一人だけ、そろそろ老境に差し掛かる女性を探し当てることができた。
 女性はかつて『雛苺』のミーディアムだった。
 ナナは彼女が昔の──『雛苺』と過ごしていた頃の夢を見るのを手伝うつもりで、彼女の夢に入った。そして、あまりのことに驚いた。
 今までナナが接してきたミーディアム達は、ローゼンメイデンのことを懐かしく思い出したり、夢に見たりしていた。そういう姉妹の夢を楽しく、懐かしいものにして、様々なことを語らうのがナナの目覚めている間の過ごし方だった。
 だが、その女性は違った。彼女は『雛苺』との別れを後悔して、それを謝罪したいと思っていた。『雛苺』を夢に見ては、届かない謝罪を繰り返していた。
 ナナは『雛苺』の姿を作り、女性の夢の中で彼女をひたすら慰めた。しかしどれほど慰めや赦しの言葉を掛けたところで、彼女の謝罪は止まなかった。
 どんなに綺麗な、楽しい夢にしようとしても、彼女は分かってしまうのだ。それが夢で、現実ではないと。誰かが作った、都合の良い紛い物だと。
 ナナは困惑した。そして、思った。
 いっそ忘れてしまった方が、幸せなのではないか。どうしても辛いものから楽しいものに裏返らない記憶なら、逃げてしまっても良いのではないか。
 ナナは女性の夢の中に『雛苺』の姿を作るのを止めた。
 しかし、それからも彼女は『雛苺』の夢を見続けた。ナナが作るまでもなく、自分で『雛苺』の姿を作り、それに向かって謝罪を繰り返すのだった。
 彼女を『雛苺』に引き合わせて、『雛苺』の口から赦しを貰うのが一番良いのだろう、というのは最初から分かっていた。それを実行するなら時間に余裕がないというのも分かっていた。

 そのときには既に『雛苺』は『真紅』と戦い、『真紅』を追い詰めた代わりに新しいミーディアムの力を吸い上げ過ぎて殺しかけてしまっていた。
 このままではその人間を殺してしまう、という『真紅』の言葉を受けて『雛苺』は契約を解除し、『真紅』に降伏した。
 『真紅』は『雛苺』の動力源を回収することはしなかった。しかし、どちらも敢えて語らないが知っていた。
 『真紅』の言葉は二者択一を迫るものだった。
 姉妹との戦いに敗れた者は、アリスゲームが始まれば自動的に敗者とみなされる。そして、そう長くない間に止まってしまい、動力源は勝った姉妹の許に行く。それが、彼女達のゲームのルールだった。
 『雛苺』の命は、『真紅』の言葉を受け容れた時点で尽きたのだ。

 最良だというのは理解していてもなかなか踏み切れなかったのは、ナナが意気地なしだったせいだ。
 女性を『雛苺』の処に誘導してしまったら、遅かれ早かれナナ自身の存在が姉妹に知れてしまう。それはナナにとって恐怖以外の何物でもなかった。

 ナナの姉妹達は大きな力を持ち、それぞれの得物に乗せて力を振るって戦うことができた。だが、ナナにはそういった力がない。戦いの補助を務めてくれる人工精霊も持っていなかった。
 究極の少女になる条件として設定された、「姉妹全員の動力源を集める」という目標は、ひとり無力なナナにとっては「存在を知られれば誰かに屠られる」ということと同義だった。
 だから彼女はnのフィールドから出ず、姉妹の誰にも知られないように隠れていた。堂々と現実世界に出てミーディアムを持とうとしないのも他の姉妹に見付からないためだった。
 無力さを受け容れ、それを克服するために智慧と狡猾さを自ら獲得して行くことを望まれて作られたはずのナナは、それとは反対に弱弱しく諦めに満ちた存在になってしまっていた。
 最後の作品たるナナは、作られてすぐに分かるほどの失敗作だった。あまりにも極端に無力でありすぎたのかもしれない。

 どうすればいいのか、とナナが途方に暮れているうちに、女性にとっても、ナナにとっても最悪の事態が起きてしまった。
 ローゼンの弟子の作った薔薇水晶という人形が「第七ドール」を名乗り、師匠の作った姉妹を潰して回るためにアリスゲームを引き起こしてしまったのだ。
 ナナは呆然とした。自分の名前が騙られたことよりも、『雛苺』の止まってしまう刻限がいきなり決まってしまったことがショックだった。
 姉妹の誰かが他の誰かの手に掛ってしまえば、アリスゲームは開始したとみなされる。既に真紅に負けている『雛苺』は早晩動きを止め、動かない人形になってしまう。
 そうなればもう女性を『雛苺』に会わせても意味がない。
 悩んだ末にナナは決心した。

──このひとを『雛苺』に会わせよう。手遅れにならないうちに。

 自分が姉妹に見付かってしまってもいい、とナナは思った。
 それは女性のために自分の存在を知られる危険を冒す、というような美しい決断ではなく、どちらかと言えば少し自棄っぱちな気分だった。
 どうせ、潰し合いが最後まで行ってしまえば、何処にどう隠れていても探し出されて屠られるのだろう。少し早いか、遅いかの差でしかない。それならば、何か一つくらい誰かの記憶に残ることをしよう、と決めたのだ。

 ナナの決断はぎりぎり間に合ったとも言えるし、遅すぎたとも言える。
 薔薇水晶の策略に、姉妹達はさしたる疑いも持たずに引っ掛かり、ほどなく最初の犠牲者が出てしまった。『蒼星石』が、『水銀燈』の手に掛ったのだ。
 『雛苺』の残り時間は、至極あっさりと秒読みに入ってしまった。
 ナナは焦った。もう、形振り構っていられなかった。『雛苺』の夢の世界を見付けると、女性の夢に顔を出して『雛苺』が待っているからとその手を引いた。
 慣れないことに苦労しながら女性の夢を『雛苺』の夢にどうにか繋げたときには、もう『雛苺』は止まってしまう寸前だった。
 『雛苺』は優しかった。唐突に現れたナナに怒りや驚きも見せず、最後の最後に謝罪に現れた女性を赦し、もう恨んでいないと微笑んだ。
 突然棄てられたことに恨みつらみを持っていなかったはずはない。『雛苺』がミーディアムの力を限界まで引き出してしまったのも、元を辿れば女性に突然棄てられ、もう二度と棄てられたくないと思ったからだ。
 『雛苺』はそれをおくびにも出さず、ほんの短い間だったが女性を慰め、どうか末永く生きて欲しいと励ました。
 ただ、その優しさはきっと、死に行くことを悟った者が見せる善なる部分だったに違いない。
 泣いて引き留めようとする女性を諭し、ナナにありがとうと言って『雛苺』は夢に幕を引き、現実世界での別れを済ませに去って行った。
 ナナの初めての姉妹との短い会話は、そのまま姉妹との別れになった。ナナの臆病さが生んだ、哀しい結果だった。

 後は、たった数日の間だった。
 薔薇水晶は──その姿を確認したとき、ナナは愕然とした。自分とよく似た姿で、但し左右対称になるかのように作られ、しかも無力な自分とは正反対に、どの人形よりも狡猾で、強力だった──弱い方から順番に姉妹を葬り去っていき、最後の『真紅』との戦いでは敗北しかけたものの隙を見て勝ちを収めた。

 その間、ナナは姉妹達の戦いを殆ど見ていなかった。元々、それほど便利に姉妹達の様子を見詰めていられる訳でもなかったし、今は『雛苺』の元ミーディアムである老女のことが優先だった。
 誰が勝ってもナナには関係なかった。最後に見つけ出されて殺されるのが自分の役割なのだから、相手は誰でも同じだった。
 『雛苺』と夢で逢ってから、女性はずっと眠り続けた。夢は見ていたが、その世界にはもう殆ど何もなかった。『雛苺』に赦されたことで、気懸りだったことと一緒に生きる気力の張りまで失ってしまったのかもしれない。
 ナナはまた慣れない事をやらなければならなかった。女性にいい夢を見させるのではなく、夢から覚めるように働きかけるのだ。
 女性には現実に戻って少しでも長い間生きて欲しい、というのが『雛苺』の望みだった。ナナはその望みを手伝いたかった。
 しかし、それは空しい努力だった。
 『雛苺』に赦されてからほんの数日後、ナナの目の前から女性の姿が消え、夢の世界も音もなく崩れていった。女性は夢の世界に遊んだまま息を引き取ったのだった。

 ナナは心にぽっかりと穴の開いたような気分だった。
 夢を見せていた元のミーディアム達が死んで行くときは、いつもそうだった。
 ナナが楽しく優しい方に舵を取らなくても、老人達は自分の夢をそちらに向けて行くようになる。夢の時間そのものもどんどん長くなって行く。そして、あるときその優しい夢はぷつりと途切れ、真っ暗になった世界にナナだけが残るのだった。
 そんなとき、ナナは無意識の海の中に飛び出して行く。今回もそうだった。早晩自分の倒される番が来ると思っていても、習い性のようになった行動は止められなかった。
 半分諦めてもいた。もう戦いは粗方終わっているはずだ。どうせ倒されるなら、と考えて、ナナは自分から「九秒前の白」と呼ばれる場所に飛び込んだ。何もなく、何も為さなかった自分が最後を迎えるにはお似合いの場所だと考えていた。
 そこで、ナナは思いがけない出会いをした。


 ナナは結菱老人の横顔を見遣った。夢の中で老人達の相手をすることは多かったが、現実世界で横たわった人の脇で語るのは初めてで、少し違和感もあった。
 自分の声が相手に届いているのかいないのか、まるで分からない。
「寝ちゃったみたいだ」
 少年はひそひそ声で口を挟んだ。
 ナナは気付かなかったか、それが眠ったことのサインだと知らなかったのだろうが、少し前から老人の呼吸が寝息に変わっているのが少年には分かっていた。
「つまらなかったんでしょうか……」
 ナナは残念そうに斜め下を向いて目を閉じた。
 自分語りは、綺麗なお話と違って、盛り上がる山場もなければ風刺の利いた落ちもない。恰好のいい紳士も綺麗なお姫様も出てこない。眠気に負けてしまうのは当然だったかもしれない。
 それでも、老人を起こしておけなかったことが少し口惜しかったのだろう。初めて自分の口で、夢を見せるのでなく「見せないように」話したのに。
「いつもは九時には寝てるらしいから、しょーがないって」
 少年は大きな動作で腕時計を見、ナナの頬を突付いてそれを示した。彼女が左目を開けて見ると、時計の針は十一時を回っていた。
「それにしても、可哀相っていうか、理不尽だよな。負けを認めたらもう完全に終わりなんてさ。こっちの世界でも雛苺は真紅に負けたけど、ピンピンしてるぜ」
 実のところ、雛苺は真紅の下僕となったことで本来の能力の大半を失ってしまっている。今は苺わだちで相手を縛ったりできる程度だった。
 それでも真紅には庇護の対象であるだけでなく貴重な戦力なのだが、いずれにしても腕力にものを言わせることの少なくなった彼女達にはあまり関係のないことではあった。元気一杯に遊んでいられる、そのことが大事なのだ。
「アリスゲームに負けても、ローザミスティカがそこにある限り魂が離れてしまうことがないんでしょうね……」
 ナナは寂しそうな表情を隠そうとせずに答えた。
「ルールが違うんですね。仕方のないこと、だと思います」
「うん……」
 少年は扉の方をちらりと振り返った。まだ誰の気配もない。あちらはあちらで時間が掛っているようだった。
 向き直ると、ナナはじっと老人の横顔を見ている。まだ話したいんだな、と少年はなんとなく気付いた。
「続き、あるんだろ?」
 案の定、ナナはこくりと頷いた。少年はにっと笑った。
「話してよ。一人だけど、最後まで聞くからさ」


 九秒前の白は、吹き溜まり。
 そこで、ナナは最後の時を待つつもりだった。
 怖かったし、寂しかったし、後悔していた。一番の後悔は『雛苺』の元ミーディアムを結局救えなかったことだった。もう少し早く『雛苺』に会わせていれば。もっと沢山『雛苺』と話すことができていたら。
 常に逃げ回っていた自分が初めて能動的に起こした行動が、他ならぬ自分の臆病さのせいで失敗した。
 繰言ということは分かっていた。それでも、無数の存在が交錯しながら誰も自分に語りかけることのない場所で、ナナはうじうじと悩み続けた。

 どれだけそうやっていただろう。ごく近くに、見たことのある姿をナナは見付けた。
 青いドレスに、前下がりの赤銅色のショートボブ。右が緑で左が薄紅色のオッドアイ。間近で見るのは初めての、ナナの姉だった。
「キミは誰?」
 柔らかい声で、彼女はナナに尋ねた。
「変だな……。よく知ってる人に似てるような気がするんだけど、思い出せない」
 困ったように笑う。まるで憑き物の落ちたような、屈託のない表情だった。
「わたしには、名前はありません」
 ナナは首を振った。
「……だから、誰にも会ったことはありません。あなたに会うのも初めてです」
「そう。勘違いだったんだね。ごめん」
 ボクと同じだね、と彼女は言い、ナナがその言葉の意味を測りかねているのを見て取ると、視線を落として少し寂しそうな顔になった。
「ボクは自分の名前が思い出せない。確かにあったはずだけど……今は名前がないのと同じさ」
 何処から来たのかも、何をしていたのかもあやふやだという彼女と、ナナは暫く手を繋いで漂った。
 無言は辛かった。ナナは自分のことを少しずつ話した。彼女はあまり口数は多くなかったが、ナナの語ることに感想を言ったり続きを促したりしてくれた。
 彼女は優しかった。『雛苺』の優しさとはまた違っているように思えたけれども、その優しさが儚さを伴っているのは同じだった。
 やがて、彼女は手を放した。
「ここからはボク一人で行くよ。また自分の名前を探さなくちゃ」
 本当は少し疲れていたんだ、と彼女は照れたように微笑んだ。
「キミに会えて良かった。元気が出た気がするよ。ありがとう」
 少し表情を引き締めて口を閉じ、色の違う瞳でナナを見詰める。ナナが当惑していると、彼女は言い辛そうに続けた。
「ボクと違って、キミは名前はなくても自分を持っている。でもそれはまだ弱々しくて、揺らいでいるんだ。こんな吹き溜まりに長いこと居たら、せっかく持っている自分自身というものが溶けて消えてしまうよ」
 それはとても悲しくて、暗くて冷たくて、淋しい事だから。
「帰る方法を知っているなら、元の場所に帰ったほうがいい。ボクには、戻してあげることはできないけど……」
 はにかむように微笑んで、彼女はナナに背を向けた。
「──『蒼星石』」
 こらえきれずに、ナナは叫んだ。自分が教えて良いものではないことは分かっているのに、黙っていることができなくなってしまった。
「あなたの名前は『蒼星石』。もしその名前が呼ばれたら、思い出して」
 声は届かなかったのかもしれない。青い服の人形は振り向かなかった。そのまま、白い闇の中に呑まれて行った。

 ナナは九秒前の白を抜けた。
 九秒前の白に入ったときは、どうせ消されるのだから、ここで溶けて消えてしまってもいいと思っていた。その考えは変わっていなかった。ただ、それでは『蒼星石』の気持ちを踏みにじってしまうような気がしたのだ。
 無数の夢に通じる、通路のような場所にナナは戻った。特定の世界を自分のものにしていない彼女は、いつも目覚めればそこに居たし、大抵の時間はそこで過していた。
 そこには先客が居た。両手に二つの動力源を持った、兎頭の黒服の男だった。
 彼はナナには敬語を使わずに相対していた。いつもそうだった。ゲームにおいて何の役にも立たないナナには、慇懃に接する必要さえないと思っているのかもしれない。
 彼は二つのことをナナに告げた。

 一つ目は吉報と言えなくもなかった。
 薔薇水晶が仕掛けた偽のアリスゲームは結局のところ全ての姉妹が薔薇水晶に倒され、薔薇水晶も消滅して勝者無しに終わったという。
 思うところがあったのか、ローゼンは自分の最高傑作の『真紅』に「アリスゲーム以外でもアリスになることはできる」と囁き、彼女を元通りに修復した。
 薔薇水晶に倒された他の姉妹も元通り修復されたが『水銀燈』と『真紅』に倒された『蒼星石』と『雛苺』の魂は戻らなかった。動力源もこうして取り上げられたままだ、と男は笑った。

 あまりのことにナナは暫く絶句していた。
 偽であれ何であれ、潰し合いのゲームが終わったということは、また自分には暫くの猶予が与えられたということだった。それは素直に嬉しかった。まだ、何かを為す次の機会が訪れるかもしれない。
 しかし、よりによって自分がかすかに関わりを持った二人だけが元に戻らないというのは辛かった。どうして、と言うこともできない。酷い偶然だった。
 上手く回らない口で恐る恐る、もう復活できないのか、と尋ねると、男は否定した。

「元の持ち主にローザミスティカを戻せば、魂を呼び戻すことは可能ではある」

 ナナはほっとして、ゆっくりと微笑んだ。
 少なくとも『蒼星石』が九秒前の白で彷徨していることを、ナナは知っている。動力源がボディに戻ったら、今度こそ確実に『蒼星石』の名前を呼んで探そう。
 そうすれば遠くからの声よりも確実に、彼女を呼び戻すことができるだろう。もしかしたらその後で『雛苺』も探し出せるかもしれない。

「──だが、それは不可能だ」

 男は笑いを意地の悪そうなものに変えた。兎の顔なのに、何故かそれが明瞭に分かった。
「残念ながらタイムリミットだ」

 二つ目の話は、絶望だけを運んできた。
 原因は分からないが、間もなく世界を貫いている世界樹が枯死する、と男は笑った。
 笑いは意地悪を通り越し、邪悪そのものになっていた。それが偽悪的だと観取できるほどには、ナナは世慣れていなかった。
「ローゼンは大慌てで手を尽くしているが、所詮一人の力など知れている。それに残された時間が圧倒的に足りない。もはや何をしても手遅れだ」
 手遅れ、手遅れ、手遅れ。
 ナナの中でその言葉がぐるぐると渦を巻いた。
 ここのところ、そればかりだった。『雛苺』の元ミーディアムも手遅れだった。『蒼星石』に声を掛けるのも遅過ぎた。そして今は、自分達の手の届かないところで世界の全てが手遅れになってしまったという。
「世界樹が枯れたら、どうなるんですか」
「そんなことも分からないのか。お前、智慧だけは少しは持たされていたのだろう?」
 兎頭の男は心底馬鹿にした声で嘲笑した。
「世界樹は現在と過去を繋ぎ、未来へと続いてゆく。それが枯れるということは、未来がなくなってしまうということだ。世界は終わる。現在は過去から半分切り離され、未来はもはやない。時間が閉じてしまう」
 分かるような、分からないような説明だった。分かったのは、一介のドールにはどうしようもない事態らしいということだけだった。
「ローゼンは自分の娘達だけでも閉じた時間から救い出そうと考えているらしい」
 男はふんと鼻で笑った。
「お前もその一人だ。役に立たなくても、娘の一人であったことを父親に感謝した方が良いだろうな」

 兎頭の男が去った後、ナナは膝を抱いて丸まった。
 僅か数日で、全てがあまりにも激変してしまった。
 姉妹達がここから何処にどう助け出されるかは分からない。しかし自分はいっそ閉じた時間の中に居る方が良いようにも思った。
 閉じるというのがどういう状態になるのかは分からない。ただ、なんとなく世界と共に滅びる方が自分には合っているような気がしていた。

 膝を抱いていたナナの前に、やがて人形師が現れた。
 それは待ち焦がれていた瞬間のはずなのに、何故か喜ぶ気持ちが湧いて来なかった。今までの事を話す気にもなれなかった。
 人形師は何も言わない末の娘にやや途惑い気味だったが、今の状況を説明することは忘れなかった。
 彼は兎頭の男が言っていた話を、言葉は違うが意味するところはほぼ同じように語った。
 そして、自分と兎頭の男の力を使って他の──また別の世界樹に司られた──世界との小さな扉を作ったこと、『蒼星石』と『雛苺』の動力源をその世界の住人に預けたことを明かした。
 その扉を潜ってこの世界を抜け出せと人形師は言った。
「急に見知らぬ場所にいけ、というのはお前には酷かもしれない。扉の先には私の影響力も届かない。だから、無理強いはしない」
 人形師は何も言わないナナを見詰め、その髪に触れた。暫くの間、撫でるのか梳くのか曖昧な動きをしていたが、やがて手を止めた。
「艱難汝を玉にす、という言葉がある。私もその言葉のとおりになればと思っていたのだが、アリスゲームはお前には重すぎる艱難だったかもしれない。許してくれ」
 男は頭を垂れてナナの肩を抱き寄せた。
 ナナは黙ってかぶりを振った。アリスゲームなどより、その一言をずっと待ち望んでいたような気もした。



[19752] 今回書いた部分は140程度
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2010/12/21 01:13
って、すでに日付変わってますが。
末尾一段落は以前書いてあった部分でゲス。

例によって推敲無し。

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「やっと分かったよ」
 唐突な声にナナがはっとして顔を上げると、薄暗い中に栗色の髪の少女が立っていた。
「君が僕を見て辛そうな顔をしていた理由が」
 蒼星石は跪いてベッドに寄り掛かっているナナに歩み寄る。ナナは訳もなくごめんなさいと謝って立ち上がろうとしたが、蒼星石は苦笑してそれを押し留めた。
 少年は老人の寝顔を見遣り、半開きのドアに寄り掛かっている水銀燈に小さな声でお疲れ様と言った。
「いつから聞いてたんだい?」
「九秒前の白の話辺りからね」
 言いながら、水銀燈はドアから背中を離して手招きをした。
「老人を起こしたくないのなら場所を変えるわよ。大した内容じゃないけど、ちょっと話したいことがあるから」

 元いた部屋に戻ると、少年はまた湯を沸かした。話を聞きながら眠ってしまった老人ほどではないが、彼もカフェインの力を借りたい気分だった。そろそろ日付が変わってしまう。
 彼が紅茶を淹れ、蒼星石がお茶菓子の残りを並べると、水銀燈は先ずナナに話の残りを語って欲しいと頼んだ。
 とはいえ、ナナの話は殆ど終わっていた。促された彼女はごく短い補足をしただけだった。

 人形師と短い、そして恐らく最初で最後の会話をした後、猶も暫く心を決めかねて迷ってから、彼女はある決心をしてこちらの世界への扉を潜った。
 彼女の背後で扉は閉じた。急に心細くなって開け直そうとしたが、扉が再び開くことはなかった。こちらの世界の側から開けることはできないようだった。
 もう後戻りできない。扉の前で暫くの間そのことを噛み締めてから、彼女は無数の扉が並ぶ場所を離れ、nのフィールドの中を流れ始めた。彼女の探すべきものはもうこちらにあるかもしれない。そうでなくても、新しい何かを見付けなければいけない。
 彷徨するうちに、彼女は懐かしいものに似た姿をちらりと見たような気がした。

「それが僕の姿だった?」
「はい」
「でも、それは鏡が作った残像だったってことかぁ」
 それで最初の話に繋がるんだよな、と少年は確認して、寝室の鏡が残像を映してたんだってさ、と蒼星石を見遣る。蒼星石は少年を見、水銀燈に視線を移してから目を伏せた。身に覚えがあることだった。
「マスターの恋人だった人の心の木を探していた頃は、毎日何度も往復していたからね。マスターにも大分負担を掛けていたはずだけど、僕達はお互いに疲労することを気にしていなかった」
「契約者が居ないとあっちに留まれないってのも不便なものねぇ」
 水銀燈は妙なところに感心したようだった。
「契約者同様、相当執念深いのね。翠星石の双子の妹だけのことはあるわ」
「……褒め言葉と取っておいていいのかな、この場合は」
 蒼星石は目を開けて苦笑を浮かべる。
「しかし、それでも君に先を越されてしまった。探し物をするのには僕は向いていないのだろう」
 水銀燈は可笑しそうに笑い、偶然よ、と言って紅茶を口に運んだ。
「『たまたま知っていただけ』ということかな」
「そうかもね」
 二人の視線は何気ない風に少年に向いたが、彼はその意味には気がつかなかった。もっとも、気が付いても反応のしようがなかっただろう。その言葉は水銀燈と蒼星石の間だけに通じる、思い出を喚起するスイッチのようなものだった。
 彼は菓子の小袋を破りながらナナを見遣った。
 ナナは強張った面持ちになって水銀燈を見詰めていた。緊張というよりは、次に何を言われるのかという恐怖に近い感情がそこには表れている。蒼星石と水銀燈の、やや謎めいた遣り取りに怯えてしまったのかもしれない。彼女は哀れなほど臆病だった。
 その臆病な彼女に、何の後ろ盾もない異界に飛び出して来る決心をさせた理由というのは何なのだろう。余程他の姉妹が怖かったのだろうか、と少年はやや見当外れの予想をした。
 彼はナナの姉妹というのを見たこともないし具体的な戦い振りなど知らないが、こちらの世界の薔薇乙女達同士の戦いでも、力を持たない存在には十分に恐ろしく思えるだろうなと納得していた。すっかりおミソ扱いされている雛苺の苺わだちでも、彼一人程度ならぐるぐる巻きに縛り上げるくらいは可能だ──ただし、彼が本気で抵抗したときはどうなるか分からないけれども。
 しかし、ナナが蒼星石を見て辛そうな顔をした理由については分からなかった。
「蒼星石は分かったって言ったけど、ナナが蒼星石を気にしたのって何故なんだい」
 どちらにともなく尋ねてみる。ナナは躊躇するように口篭もったが、蒼星石が低い声で答えた。
「外見は似ていても僕と『蒼星石』は違っているのだろう。水銀燈が『水銀燈』と違い、ナナが雪華綺晶と違っているように」
 それは黒衣の人形やら他ならぬナナを見てきた彼等にとっては当たり前のことだった。しかし、ナナはそういう経験に乏しい。そもそも、自分の姉妹達ですら直に顔を合わせて来なかったのだから。
 なまじ似ているだけに、却って些細な部分に違和感を抱いてしまうこともある。悪いことに、こういうときの蒼星石は考えを一度胸に収めてから口にする方で、その言葉は冷たい理詰めでこそないが硬い。
 ナナが自分の世界で出会った『蒼星石』は、そうではなかったのだろう。優しくて柔らかい言葉を掛けてくれたとナナ自身が語っていた。そのギャップは大きいし、逆なら兎も角、まるで拒絶されているような寂しさも募るのだろう。
「『蒼星石』は素直ないい子だったかもしれないけど」
 少年はナナの手を取り、少し強引に蒼星石の手に重ねさせた。
「この蒼星石だって優しい、いい子だぜ。ただ、ちょっとだけ不器用だから、上手く表現できてないだけでさ」
 ナナは少し困ったような顔で上目遣いに蒼星石を見る。蒼星石は生真面目な表情でその視線を受け止め、ちらりと少年を見遣った。その顔つきや態度がますます違和感を与えてしまうかもしれない、とは思い及ばないようだった。

 水銀燈はふっと笑った。
「お馬鹿さんねぇ。そういう話じゃないでしょうに」
 お生憎様、と言わなかったのは、少年と蒼星石の素朴な勘違いを咎めるつもりはなかったからだ。
「どれだけ似ていようといまいと関係ないのよ」
 水銀燈はティースプーンで紅茶にミルクを混ぜた。
「その子がこっちに飛び出してきたのは『蒼星石』の魂を探すためでしょう。だから蒼星石はどんなに似ていても、記憶を励起するだけの別人ってこと」
 そうじゃなくて? と視線を向けられ、ナナは半ば呆然としながら、はいと返事をした。図星だった。
「え、そうなのか」
 驚く少年に、ナナはひとつ頷いて、申し訳なさそうな顔をする。
「『蒼星石』と『雛苺』の魂も探し出してこちらの世界に送る……ってお父様は言ったんです」
 そうすれば、二体にも復活の可能性とアリスゲームに因らない方法でアリスを目指す道とが生まれる。ただ、そのためにはボディと動力源が必要ではあるけれども。
「私のお姉様達が持っている二体のボディ、水銀燈……さんにお父様が預けた小さな宝石箱の中身、そして彷徨っている魂の三者が揃うこと。そこに強い呼び声があれば、二体は元通りに復活することができるかもしれないんです。私は、それをお手伝いしたかった……」
 今でもしたいです、と俯く。
 現在の状況下ではそれが不可能なのは、よく分かっていた。ナナ自身が雪華綺晶に狙われている。魂を探しにnのフィールドに潜った瞬間から彼女自体が危険に晒されてしまい、到底手伝うどころの話ではない。
 それに『蒼星石』の動力源は既に別の人形に渡されている。本来そんなもので縁もゆかりもない人形が動くことは有り得ないはずだが、恐らく人形師が予見したとおり人形はそれを動力源とした。人形が同意しない限り、動力源が返却されることはないだろう。
「それが不可能だから、尚更辛いわけね」
 水銀燈は言い辛いことをあっさりと言った。ナナが情けないような、恥ずかしいような声で肯定の返事を返すと肩を竦めてみせた。
「全く……貴女は粘り強さのない真紅ってところね。諦めが早いったら」
 言いながら、懐から何かを取り出す。例の小箱だった。
 ぱちりと細めに蓋を開けると強い光が漏れ出し、彼女は頷いてまた蓋を閉じる。そして、そのまま手を伸ばしてそれをナナの前に置いた。
 ナナは恐る恐る小箱に手を伸ばした。開けてみなさい、と水銀燈に言われるまま蓋を開けるといきなり部屋の照明を圧倒する眩い光が小箱から溢れる。ナナは慌ててそれを閉じてしまった。
「ローザミスティカ……それに契約の指輪も」
「上げるわ。貴女の探し人の方の動力源じゃないけどね」
 驚いて顔を上げるナナに、水銀燈は人の悪い笑みを浮かべてみせた。
「ただ、一つ条件を付けさせて貰うわよ。持っているだけでは駄目。体内に取り込みなさい。それが出来ないなら、貴女に与えるのは止めておくわ」


 雛苺は一旦鞄に入ったものの、なかなか眠れなかった。
 コリンヌとオディールは別人だ、そして、オディールの指輪は恐らく雪華綺晶のものだ、とジュンと翠星石はくどいほど繰り返してくれた。巴が帰った後は、真紅が珍しく抱き締めてくれた。
「昨日の今日だもの、こちらの準備が整わない内に雪華綺晶が続けて仕掛けてきたということは十分考えられるわ。……だから、惑わされてはいけないのだわ。貴女も、私も」
 どちらかといえば自分に言い聞かせるように真紅は言った。
「考える時間や準備する余裕を与えないようにして、こちらが弱味を見せたところで畳み掛けてくるつもりなのでしょう」
 雛苺を抱く腕にぎゅっと力が込められた。
「貴女はこの真紅の家来よ。直接ではないけれど、私を通じてジュンの力を分けて貰っている。オディール・フォッセーの力ではないのよ」
 三人の励ましや説得は直截で不器用だったけれども、心が篭っていた。もうアリスゲームから脱落してしまった雛苺を、言わば利害抜きで本心から心配してくれている。それは雛苺にもよく分かったし、嬉しかった。
 ただ、雛苺が本当に欲しかった言葉は、そういう「いま」や「これから」に関わるものではなかった。

──コリンヌは、ヒナのことどんな風に「気に掛けてた」の? ずっと、ずーっと寂しかったの? それともたまたま寂しいときに、オディールにそういうお話をしてみただけで、普段はしあわせだったの?

 嘘でもいいから、誰かに答えて欲しかった。それが優しい嘘だと分かっていても、誰かに何か言って貰いたかった。
 雛苺は寂しかった。鞄の中に入って、長い長い眠りに就いていた間、ずっと寂しかった。
 隠れんぼしましょう、という別れの言葉がコリンヌの悲しい嘘だと分かっていたから、別れ際の涙声を聞いてしまっていたから、彼女を忘れて良い思い出に変えることなどできなかった。

 鞄を細く開けて、レースのカーテンが半ば開けられている窓を見る。雲は晴れて、月の光が差し込んでいた。
 その柔らかい光に引かれるように雛苺は鞄を静かに開け、窓に歩み寄る。
「これならお外も歩けそうなのよ」
 ふわふわと漂うように鞄から出てきたベリーベルに囁く。ベリーベルがふらふらと左右に揺れると、雛苺はベッドの上のジュンが寝入っているのを確認して、口に人差し指を当てた。
 ジュンの机の近くに置いてあったお気に入りのポーチを肩に掛け、真紅愛用のラムネの詰まったステッキを借りて、少しだけ危なっかしくドアを開ける。閉じる前にそおっと振り返ってみたが、部屋の中は静まり返り、誰も気が付いてはいないようだった。
 まだ残り湯の温度で暖かな浴槽の蓋の上に乗り、湿気が篭らないようにいつも開けられている窓によじ登る。最初に一人でポストに手紙を投函しに出たときから、そのルートを使うのが雛苺のお決まりのパターンになっていた。
「ねこさん、いないの……?」
 夜だからなのか、偶然なのかは分からないが、彼女の友達は風呂場の窓の下にはいなかった。雛苺は苦労してどうにか地面に降り、ベリーベルと月の光を頼りに歩き出した。
 何処に行こう、という当てや目的があったわけではない。なんとなく、誰にも邪魔をされずに外を歩いてみたかった。歩きながら、誰も気にしてくれていないコリンヌのことを思い出してみたかったのだ。
「夜のお外は、昼間とは違うのね」
 住宅街の通りには街路灯が点いて、その周りや家々の窓の周りだけがぼうっと明るい。古くなっている蛍光灯がちかちかと瞬いていたり、庭や玄関先のLEDの常夜灯が白熱電球や蛍光灯とはまた違う、温度のない光を放っていたりと、夜ならではの光の彩りがそこにはあった。
 前の時代でコリンヌに伴われ、小高い丘の上の建物の窓から街の夜景を見たことがある。それは宝石箱のようで美しかったけれども、ここで地面に立って見る夜の風景は、また違った趣があった。
 迷子にならないように、雛苺は通い慣れた──一人で脱走するときの経路、とも言う──道を歩いた。コリンヌの思い出をあれこれ思い出しては、そのたび溜息をついたりべそをかきそうになったりした。
 時間が時間だけに誰も通行人はおらず、彼女はいつもより早く、目的にしている小さな公園に着いてしまった。
 最初に来た時に跳びついて手紙を投函したポストの脇まで歩いて、雛苺は周囲を見回した。いつもの街のざわめきはなく、公園は薄暗い夜の帳の中に沈んでいた。
 いつもの経路はここでおしまいだった。大抵この辺りで追っ手が追い着いてくるか、時間によっては巴や少年が彼女を見付けて抱き上げるかするのだ。
 今日は、そういうこともない。帰りはまた同じ道を一人で帰るだけだ。

──つまんないのよ。

 道すがらコリンヌのことを考えていたのも事実だったが、そちらもまた偽らざる本音だった。懐かしくて寂しさの残る回想をしながらも、彼女は夜の散策そのものも楽しんでいたのだろう。
 もう少し歩いてみたい、でも迷子になったらどうしよう、と不決断にポストの前でうろうろしていたとき、彼女は遥か彼方から名前を呼ばれたような気がした。
「だれ?」
 きょろきょろと周りを見回すが、相変わらず公園は静けさに包まれていた。
「──気のせいなの?」
 主人のようにきょろきょろと周囲を見回すように飛んでいるベリーベルに尋ねてみる。ベリーベルも何か異常を感知したのは一緒のようだったが、やはり見当はつかないようで、困ったようにふらふらと飛ぶだけだった。
「変なの……」
 なんとなく出鼻を挫かれたような気がして家に帰ろうとしたとき、彼女はもうすこしはっきりと「何か」を感じた。
 呼ばれたのではなかった。ローザミスティカが何かに反応して、脈動しているのだった。


「それを取り込めば、貴女はもう無力で不幸な落ちこぼれじゃなくなる」
 水銀燈の口調は静かだったが、その表情はどうするか見物だと言いたげだった。
「その指輪が使えれば、契約して──ミーディアムだったかしら、契約者を持つこともできる。『ベリーベル』と苺のランナーを操る技、それから念動力に近いような遠隔操作……契約者の消耗を考えなければ『真紅』を軽く圧倒するくらいのパワーも付与される。
 貴女以外の姉妹の中で最弱だった『金糸雀』がドサクサに紛れて取り込んだだけで薔薇水晶の片腕をもぎ取るほどの力を持てたほど、と言った方が正確かもね。ま、比較しても意味がないけど、私達じゃ足元にも及ばないパワーよ」
「……でも」
 ナナは小箱を両手で包むように持ってみたが、開けようとはしなかった。
「そんな力を持ってしまったら、わたし──」
 声が震えているのは、期待や感動などではない。弱気の、というより臆病の虫がそうさせているのだった。
「ええ。もう逃げられないわよ。潰し合いゲームからも、そして貴女を造った人形師の想いからもね」
 水銀燈は少し誇張した言い方をした。
 ナナは緊張した面持ちで頷くだけで、小箱を両掌で包むように持ったままだった。まだ開ける踏ん切りがつかないようだった。
 水銀燈は若干苛ついたような表情になったが、肩を竦めて言葉を続けた。
「貴女特有の事情ってのもあるわね。この世界での行動の自由っておまけが付いてくる」
「それは……」
「探し物をするにも雪華綺晶に怯えなくて済むじゃないの。あの子が正面切って襲ってくるとき限定だけど」
 言われて漸く気がついたのか、ナナは弾かれたように顔を上げた。
「そっか。キラキィより強くなれるんだな」
 ぽん、と少年は掌を拳で打ってみせる。

 蒼星石は眉を顰め、少年の単純な勘違いを指摘しかけたが、すぐに口を閉じて生真面目な表情に戻った。
 水銀燈の限定は殆ど意味がないものだった。雪華綺晶は何か切っ掛けがあって、相手が弱っているか弱味を抱えているときにしか襲撃や待ち伏せという手段を取らない。
 前回気を失った水銀燈を襲撃したときもそうだったし、昨日の待ち伏せも、詳細は分からないが何か読み違いがあっただけで、こちらの隙を突いてきたことには違いがない。その読み違いがあってさえ、蒼星石は殆どパワーを消耗しない方法で良いようにあしらわれた。少年もナナがヒントをくれなければ機械を現出させられずに虚空に呑まれていただろう。
 ただ、それでもナナの視点で見れば無力ゆえに探し物が全くできない状態よりは力を持っている方が幾らかでも良いはずだ。
 いずれにしても、少年の間違いを指摘するのは後からでもできる。今は余分な言葉を差し挟んでナナを迷わせるべきではなかった。

「──やってみます、わたし」
 水銀燈に言ってから、ナナはじっと小箱に視線を注いだ。
 かちりと箱を開けると、動力源は相変わらず薄紅色の強い光を放っていた。ナナはそれに向かって呟く。
「『雛苺』……少しの間、力を貸してください。──あなたと『蒼星石』の魂を見つける間だけ」


 『真紅』は真っ直ぐに虚空を切り裂いて飛んでいる。
 さきほど『水銀燈』と『金糸雀』と話し合ったことを反芻しながら。
 幼い顔だが、大きな蒼い瞳には決意の色がある。
「アリスになるのは後からで構わない──」
 並んで飛ぶ『翠星石』は『真紅』の手をぎゅっと握り締める。吊り目気味のオッドアイは僅かに目尻が下がっている。
「──なれなくても、いいですぅ。『翠星石』は、『蒼星石』を探し出せれば、それで──」
「そんなことを言うものではないわ。わたしたちみんな、全員がアリスになるのよ」
 もう、本当に、それだけしか救いは無いのだから。
 ふたりのミーディアムだった少年は、ここにはいない。もう、逢えない。
「……はい」
「でも、そのためには先ず」
「……『真紅』はチビ苺の、『翠星石』は『蒼星石』の」
「ローザミスティカを見付け出して、復活させる」
 再びぎゅっと小さな手を握り合い、二体のドールは赤と緑の光となって駈ける。
 自分達の世界でない、何処とも判らない虚空を。
「馬鹿馬鹿しい……つきあってられなぁい」
 『水銀燈』はゆっくりと飛翔している。その口振りとは裏腹に、顔はやり場の無い哀しみに沈んでいる。
「──めぐ……」
 赤と緑の光が視界を過ぎって行く中、探し人すらいない自分の孤独を『水銀燈』は思う。
「お父様……お父様はどうして……」
 ふと呟く言葉は後に取り残され、『水銀燈』は次第に加速して別の方角に消えて行く。薄い赤紫の光となって。
 通った後に、呟きと共にきらりと涙の粒が取り残されている。
「行ってあげるべきかしら……」
 その光を見ながら、『金糸雀』は呟く。
「カナには『水銀燈』のミーディアムの代わりはできないけれど……」
 自分の力を思う。音波を操るヴァイオリン。それは攻撃にしか使えないわけではない。
「……あなたを慰めるくらいはできるのよ」
 黄色の光は赤紫の光を追う。
 一度だけ、もう戻れない場所を確認するように僅かに止まり、再び勢いよく赤紫の光を追い始める。
「さようなら、お父様。みっちゃん。……さあ、何が待っているのかしら」
 彼女は泣いてはいない。独りではないから。前を行く光の主がいるから。
 『水銀燈』の残していった小さな涙の粒を撥ね散らして、黄色い光は速度を上げてゆく。



[19752] 180ほど。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2010/12/24 00:46
蒼星石で始まり、蒼星石で終わる。
正しい。

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 目覚ましで叩き起こされると、開いている押入れの襖が視界に入った。少年は大欠伸をしながら一つ伸びをして、掛け布団をなるべくそおっと畳み、襖の奥を見遣る。
 昨日水銀燈が作った即席の寝床では、ナナとお客がまだ眠っていた。毛布の下でよく分からないが、お客の方はナナに横合いから抱き着いているようだった。ナナの体が水銀燈ほどの大柄で、頭身も薔薇乙女達とは少し違い、お客はお客で少し小柄なせいで、なんとなしに年の離れた仲のいい姉妹に見えないでもなかった。
 暫くそれを眺めてから、そうだ、と少年は思いついて電話を掴んだ。まだ少し早めの時間ではあったが、構わず電話番号を押す。
 みんなが起きる時間になったら桜田家は大騒ぎになってしまうに違いない。少しでも早く知らせた方がいいだろう。

 うろうろしている雛苺とベリーベルを最初に「見つけた」のは、眠さを我慢しつつ自転車を漕いでいた少年ではなく、前を向いてもいなかったナナの方だった。もちろん視覚ではなく、何か別の感覚だった。
 蒼星石に見送られて薔薇屋敷を出てからすぐに、ナナは奇妙なことを少年に告げた。
「ローザミスティカが……何かに反応してるみたいなんです」
 少年は思わず急ブレーキを掛け、自転車はギッと音を立てて止まった。眠気が一気に覚めていくような気がした。
「そ、それまさか副作用とか? 例の……」
 昨日、──日付では既に一昨日だが、水銀燈が言っていたことが思い出される。

 ──力ずくで奪ったとしても、ローザミスティカは即座にそのドールの力になるわけじゃない。あるいは、力は使えても副作用が残る。

 それは、元々少年が懸念していたことでもある。水銀燈が蒼星石のローザミスティカを奪うと言っていた頃の話だが、それを止めさせようとして桜田家に乗り込んだほど本気で気にしていた事だった。
「それは大丈夫です」
 ナナはしっかりした声で答えた。彼女達の動力源はそういう副作用を持っていない。もっとも弟子の作った人形は最終的に崩壊してしまったから、耐えられるように作られていると言った方が正しいかもしれない。
「でも……変なんです」
 自信が無さそうに続ける。
「胸の辺りがどきどきして……」
 少年は上空を見回す。しかし、別ルートで家に向かっているのか、先に出た水銀燈もメイメイも見当たらなかった。
「早くうちに帰ろう」
 帰れば水銀燈もいるし、と言ってペダルに足を掛ける。ナナは返事をしなかったが、少年は肯定と受け取ることにした。
 暫く、なるべく揺らさないように静かに走っていると、ナナは自転車を停めて欲しいと言い出した。
「今……少し、どきどきが強くなったんです」
「うちまであと少しだから、頑張って」
「あの、そういう意味じゃなくて……」
 あまり要領を得ない説明だったが、少し手前の交差点を通過したとき辺りにどきどきが大きくなった、という内容のことを彼女は言った。
「もしかしたら、『雛苺』の何かが、ローザミスティカに反応しているのかもしれません」
 そう言われてしまえば、付き合わないわけにはいかなかった。少年はナナの言うままに自転車を走らせ、ものの数分と走らないうちにピンク色の光球を伴ってうろうろしている金髪の少女を見付けたのだった。

 うちに帰りたくない、ナナちゃんと一緒に居る、と駄々をこねる雛苺を無理に送っていくわけにもいかずに連れて帰宅すると、水銀燈はもう帰宅していた。
「どうせそんなことじゃないかと思ってたわ」
 水銀燈は雛苺を見ても呆れた顔になっただけで、特に驚きはしなかった。ナナに『雛苺』の動力源を渡したときに半ば予期していたのだろう。
「反応していたのは『雛苺』と雛苺のローザミスティカだったってわけね」
「はい……」
 ナナは失望と申し訳なさ半々のような、落胆した声で返事をした。
「ま、走り回った甲斐はあったじゃない。その迷子になりかけの子を保護したんだから」
 うろうろしていた雛苺を迷子呼ばわりして、水銀燈は人の悪い笑みを浮かべた。
「で、貴女はどうするの? 泊って行くつもり?」
「うー……」
 雛苺は水銀燈とナナをちらちらと見比べてどうしたらいいのか迷っている風だったが、数拍の間を置いて頷いた。水銀燈はわざとらしく欠伸をしてみせ、座っていたテーブルの上から飛び降りた。
「鞄は貸さないわよ」
 一瞬置いて、それが肯定の返事だと理解すると、雛苺はぱあっと表情を明るくした。
「わぁー! ありがとうなの水銀燈!」
「どう致しまして。ナナと一緒でいいのね?」
「うんっ! 一緒がいいの!」
 相手の返答も聞かずにナナに飛びつくと、雛苺は嬉しそうに頬ずりする。どういう訳か、彼女はナナが気に入ってしまっているらしい。
 雛苺の気に入り振りは水銀燈には少々意外らしく、彼女は考え込むような素振りをしていた。
 もっともそれは、水銀燈がなまじ知識を持っていて、どうしてもある程度雪華綺晶とナナを重ねて見てしまうせいかもしれない。漫画の世界では雪華綺晶が雛苺を捕食している。言わば雛苺にとって雪華綺晶は天敵のようなものだった。
 冷静になって考えれば、同じ第六ドールのローザミスティカ同士の共鳴のようなものが原因なのだろう。ナナにとっては「胸がどきどきする」というその現象が、雛苺にはもう少し別の形で現れているのだ。
 どうしたら良いのか分からない、と言いたげにこちらを見ているナナの表情ににやりと笑みを返して、水銀燈はパジャマに着替えて電話の辺りで逡巡していた少年に視線を投げる。
「もう遅いから明日でいいじゃない。監視が行き届かなかったのは真紅の不始末なんだから、その分少しばかり慌てさせたって構わないわ」
「そっかぁ?」
 とは言うものの、普段電話を掛けていない相手に午前一時を過ぎてから電話を掛ける勇気は少年にもなかった。留守番電話にしろ、相手を起こしてしまいかねないのは同じだ。
 携帯電話相手ならメールを送るという手もあるのだが、生憎少年はジュンの携帯電話の番号もアドレスも知らない。そもそも、ジュンは携帯電話を持っていないのかもしれなかった。せめてパソコンのメアドくらい教えて貰おう、と少年はぼんやりと考える。
「大体、雛苺だってやる気ならいつでもあの家の大鏡に抜けて行けるでしょうに、帰りたくないって本人が駄々を捏ねているのよ。騒ぎになったところでこっちの責任じゃないわ」
 水銀燈の言葉は大分不人情な言い分ではあったが、眠くなってきていた少年にはむしろ福音だった。
「んじゃ、お言葉に甘えるとしますか……」
 ふわぁ、と自分も大欠伸をして、少年は自分の布団を敷いて潜り込んだ。自分で感じていたよりも眠気は強かったようで、彼はすぐに眠りに就き、そのまま朝まで寝てしまった。

 電話はすぐに繋がった。固定電話の受話器を取ったのは予想していたとおり、のりだった。
 やっぱり朝早いんだな、と少年は思い、忙しいところ済みませんと断ってから本題に入る。
「実はヒナ──雛苺が昨日の晩、うちに来てお泊まりしたんですけど……」
『あらぁ、そうだったのぅ? まだみんな起きて来る時間じゃないから、気が付かなかった』
 詳しい事情は聞かされていないながら、雛苺を一人にしないようにというジュンと真紅の方針は知っているはずだ。かてて加えて忙しく食事の支度をしているはずなのに、のりの声はいつものように──と言っても、少年は殆ど顔を合わせたことはないのだが──朗らかだった。
 その朗らかさと翠星石の元気の良さが、どうしても尖りがちなジュンと、つい突き放したような言葉になってしまう真紅が中心の桜田家の空気を和ませ、明るくしている。こと雰囲気作りに関する限り、二人は桜田家の両輪のようなものだった。
 もっとも少年はそんな難しいことを考えたわけではない。ほんわかしていいお姉さんだなぁ、と思っただけだ。
「まだ寝てるんで、起きたら帰らせるようにしますから」
『はぁい。ありがとぅ。じゃ、翠ちゃんには先に言っておかないと……そろそろ起きる頃だから』
「すいません、お願いします」
 甲高い声と、転げ落ちるような勢いで階段を駆け下りてくるような物音が電話の向こうから聞こえてきたのは、彼の言葉が終わるか終わらないうちだった。
『たっ大変ですぅーっ、チビチビが……!』
『どうしたのぅ? あ、ヒナちゃんなら……』
『チビチビのヤツ、遂に家出しちまったです! お菓子持てるだけ持って!』
 上ずった声で喚いているのは確かに翠星石だった。いつものことなんだろうなー、と少年は苦笑する。
 ただ、次に聞こえて来た声には耳を疑った。
『雛苺……! よりによって私のステッキとプチくんくんフィギュアを持ち出すとは許せないのだわ。帰って来たら折檻よ』
 いつもより半オクターブばかり低い、ドスの効いた声は多分真紅のものだった。
 受話器を置きながら、少年は溜息をついた。雛苺の持っていたステッキはラムネか何かのお菓子のパッケージだし、プチくんくんフィギュアは確か食玩か、飲料メーカーがタイアップしていたときにペットボトルのおまけで付いて来た物だ。
 完璧少女だとばかり思っていた真紅も、素の部分では普通の女の子らしい。しかし、今までのイメージとのギャップの激しさに、少年は些かの驚きと何とはなしの落胆を禁じ得なかった。


 雛苺は昔の夢を見ていた。
 コリンヌと遊んでいる夢だった。南仏の美しい街並みを見下ろす別荘で、汽車の中で、あるときは船の上で、いつも雛苺はコリンヌと一緒だった。
 今よりもずっと厳しく、何をするにも「誰かがいるときは動いては駄目よ」がまるで口癖のような約束だったが、その分、今よりもずっと移動範囲は広かった。皮肉なことに、その頃の彼女は外の世界などに興味はなく、専らコリンヌだけを見ていたのだが。
 一番長く一緒に居たのは、コリンヌの部屋の中だった。数十年物の大きな──雛苺ほどもある──何処かコリンヌに似ているビスクドールのケースから一段下がったところの棚に並べられている人形達を使って、二人は遊んでいた。
「棚に戻すときは私に言ってね」
 コリンヌは困ったように微笑みながらそう言う。
「古いお人形は焼き物で出来ているから、落とすと壊れてしまうことがあるの」
「ヒナ、ちゃんと戻せるもん」
「でも、危ないから……あっ」
「あ!」
 頑張って背伸びをして棚に戻そうとした、雛苺が一番気に入っていた人形は、ぐらりと傾いて顔から床に落ちてしまった。コリンヌが駆け寄ってきたが、間に合わなかった。
 がしゃん、という音。慌てて上向きにしてみると顔はひびが入り、可愛らしかった目は片方が無残に落ち窪んでしまっている。白い、汚れもないドレスが却って痛々しく見えた。
「ごめんなさい……」
 雛苺は俯いた。いいのよ、とコリンヌは微笑んだが、その微笑みは悲しさしか表していないように雛苺には思えた。
 次の日から、もう人形は棚には並ばなくなっていた。暫くして、雛苺は恐る恐る人形のことをコリンヌに尋ねてみた。
「修理してってパパにお願いしたんだけど……」
 コリンヌはまた、あの微笑を浮かべた。
「ベルギーの職人さんに頼んだとしても、元どおりにはならないんだって。それに、新しい人形を買う方が安いからって……」
 そう言って、彼女は同じような白い衣装を着た人形を雛苺に見せた。アメリカ製だという、セルロイド製の可愛らしくて美しい人形だった。
「ね、前の子に負けないくらい可愛いでしょう。それにこの子なら軽くて、落としても壊れないわ」
「う……うゅ……ありがとう」
 釈然としないながらも、雛苺は頷いて御礼を言った。
「前のお人形は、どうなっちゃったの……?」
 コリンヌははっとして、それからばつの悪い顔になった。雛苺はその意味を理解する余裕もなく、もう一度尋ねてしまう。
「前のお人形は、捨ててしまったの?」
 コリンヌは言葉に詰まり、それから小さな声で肯定した。
「壊れてしまったら、捨てるしかないんだもの……」
 ごめんなさい、とコリンヌは言い、雛苺をぎゅっと抱き締めた。
「コリンヌ……」
 雛苺には、聞きたいことがあった。この時には聞けなかったことだった。
 ずっと聞きたくて、しかし六十年以上も聞けなかった事柄だった。聞くのはとても怖かったし、まともに答えが返ってくるとは思えなかった。コリンヌはあの悲しい微笑で、優しい嘘をつくのだろう。いつものように。
 今でも怖いのは変わらない。けれども、今なら真正面から尋ねてもコリンヌは真摯な答えを返してくれる、と何故か思えた。
「なあに、雛苺」
「コリンヌは……コリンヌはヒナを捨ててしまったの? 要らない子だから、もう遊びたくないから捨ててしまったの?」
 コリンヌは口篭もった。なかなか、答えを返してくれなかった。
 白茨が、二人を包むように纏わりついていた。


 ナナは困惑していた。
 夢の扉を開けて中に入るのは、彼女にとっては殆ど日課のようなものだった。nのフィールドの中だけで暮らしていた彼女は、そうして他人の夢の中で遊びながら、その夢を少しずつ変えて行く。
 悲しい夢や無力感に苛まれた夢、切ない夢は嫌だった。夢の世界から出れば、扉ばかりのところに逼塞するしかない無力な自分が居る。誰か──それは往々にして他の姉妹の昔のミーディアムだった──の夢の中で遊んでいるときくらいは、そういったネガティブな諸々の事柄を忘れていたかった。
 それがどうしても変えられなかったこともあった。最近では『雛苺』の元ミーディアムがそうだった。
 ナナの力は、夢を見ている当人の、心の何処かで願っている救いのある展開や、夢の中でさえそんな風に進まないと分かっていながら、それでも心の隅で期待している楽しく暖かい場面に、その夢を導くものだった。まったき絶望や完全に救われることがないという諦観しか持たない人には、何の効果もない。
 今、彼女が目にしている光景は、彼女に抱き着くようにして眠っている雛苺の夢のものだった。
 夢は、楽しくもあり優しく物悲しくもあった。それは、既にこの続きが切なく哀しいものに繋がると夢の主が分かっているからなのかもしれない。
 彼女はコリンヌを少しだけ雛苺の期待するように変えようとしてみた。それが成功したのかはよく分からないが、雛苺は納得して夢を見続けてくれた。
 しかし最後になって、雛苺はコリンヌに難しい質問をぶつけてきた。それは、コリンヌの後ろで夢を盗み見ているナナに対するものでもあるように彼女には思えた。

 これまでであれば、こういうときナナは躊躇なく、コリンヌに雛苺を慰める言葉を言わせるか、またはお別れなんてなかった、と安易な嘘へと誘導してしまっただろう。
 後者は特に、悪しき虚偽に満ちた行為かもしれない。
 しかしそれは朝になるまでの間の、ほんの短い時間の戯れなのだ。意識が戻ってくれば全て忘れてしまうかもしれない、おぼろげに覚えていてもそこまでの、儚い嘘だった。
 そんな短くて優しい嘘くらいついたっていいだろう、というのがこれまでのナナの考えだった。誰も傷つかない、後にも多分残りはしない嘘なのだから。
 だが、『雛苺』の元ミーディアムの一件は、彼女の考えを揺るがせていた。
 こんな真摯な問い掛けに、安易な嘘を吐いて良いものなのだろうか。仮に嘘を吐いたとしても、それは結局受け容れられず、却ってこの人に傷を残してしまうのではないだろうか。
 だが、真摯な質問だからこそ、そこに救いを求めているのではないのか。全ての人が、あの元ミーディアムのように絶望と届かない謝罪の中に自分を落し込んでいるとは限らない。この人は安易な優しい嘘を待っているのではないだろうか。
 ナナは暫く考えていた。思案は中々纏まらなかったが、雛苺をそう長いことは待たせておけなかった。


 白茨が二人を取り囲み始めていた。しかし雛苺はそれに気付くこともなく、一心にコリンヌの答えを待ち続けていた。
 コリンヌは、やがてゆっくりと雛苺の髪を梳き始めた。彼女も自分を取り巻き始めている白茨には気が付かないようだった。
「雛苺は、友達よ」
 コリンヌはゆっくりとした口調で言った。
「私の、一番のお友達。壊れたからって捨てられる人形じゃないわ」
「じゃあ、どうしてヒナを置いて行ってしまったの? 契約もそのままにして……」
「それは……」
 コリンヌはぎゅっと雛苺を抱き締めた。
「ごめんなさい、捨てて行ったのではないの」
 言い訳になってしまうけど聞いてほしい、と言われ、雛苺は頷いた。コリンヌはありがとうと息をつき、小さな声で語り始めた。
「戻って来るつもりだったの。パパは家を売りに出してしまったけど、売れないことは分かっているって言っていたから……」
 コリンヌの考えは、事情を知らない子供ゆえの甘いものだった。
 戦闘になる、だから兎に角急いで別宅に逃げるのだと聞いていても、自分の家が壊されたり、兵士達の陣地とされるかもしれないということは頭になかった。既に北仏でも、イタリア半島でも実際にそうして戦闘が行われている時だったが、戦場のごく近くに居ながら殆どそういったものを身近に感じられなかった少女には、無理のないことだったのかもしれない。
「何ヵ月後か、何年後になるか分からないけど、必ず帰ってくるつもりだった。そのときに貴女にまた会えるように、鞄もそのままにして……」
 その思いのとおりに、コリンヌは我が家に帰ってきた。
 だが、家は無残にも破壊され、雛苺の鞄は無くなっていた。細い腕で瓦礫を掻き回しながら鞄を探している間に、彼女は何時の間にか契約の指輪が自分の指から消えていたことに気付いた。
「ごめんなさい、私の小さな雛苺」
 コリンヌは涙声になっていた。髪を梳いていた手は止まり、ただ雛苺を抱き締めて泣きじゃくっていた。
「いいの、コリンヌ」
 雛苺は首を振った。
「ヒナのこと、大事に考えていてくれたのね。ありがとう」
 小さな手をコリンヌの頬に当て、涙の浮かんだ顔で微笑む。
「あのね、ヒナね、もう一つ聞きたいことがあったの。コリンヌ……」
 そこで少し口篭もり、暫く不決断にコリンヌの髪を指で弄んでいたが、やがて顔を上げて尋ねた。
「コリンヌは、幸せだった? ずっと寂しかったの? それとも、たまに寂しいだけで、いつもは優しく笑っていられた?」
 コリンヌは目を開けて雛苺を見詰めた。
「──幸せだったわ。貴女を忘れたことはなかったけれど、その心を埋めてくれる人がいたの。私はその人の子供を産み、その子がまた子供を産んで、今はみんなで暮らしているわ。貴女はどう? 今は幸せ?」
 雛苺は限りなく優しい笑顔になった。
「ヒナも幸せだよ。コリンヌのことは今でも思い出すの。でも寂しくはないわ。今は真紅も翠星石もいるし、金糸雀も、蒼星石も、水銀燈も。姉妹みんな居てくれるのよ。お父様にはもう会えないけど、ジュンとトモエがヒナのパパとママなの」
 だから、とっても楽しいし、幸せだよ、と雛苺は笑った。
 コリンヌは返事の代わりに、ゆっくりと微笑んだ。それは悲しくない、優しい微笑だった。


 ナナは扉を潜り抜けて元の空間に戻り、蹲った。
 結局、彼女は今度も優しい嘘の方に夢を誘導してしまった。
 大きな事をしたわけではないし、そもそも彼女にはそこまでの構成力などない。いつもと同じように最初の取っ掛かりを与えただけだ。後は、雛苺が自分の古い記憶と、多分最近何処かから得た──実際には、昨日コリンヌの孫娘が言っていた──情報を元にして、自分に都合の良いように夢を作り上げただけの話だった。
「私のしたことは、その場逃れのでっち上げなんでしょうか」
 後ろに立っている影に、彼女は尋ねた。
「──気付いていたんだね」
 言いながら、蒼星石は後ろ手に扉を閉めた。
「君には悪いけど、白茨が雛苺の夢から漂い出ているのが見えた。それで暫く監視させて貰っていた」
 ナナはかぶりを振った。白茨には彼女以外にも遣い手が居る。そちらが雛苺を狙っているという話は聞いていたし、自分のことを監視していたとしてもおかしい話ではなかった。
 現に、自分は雛苺の夢を誘導していたのだから。
「僕には夢に手を加えることの是非までは分からない」
 蒼星石の言葉は慎重だったし、取りようによってはやや冷たいものだったが、顔を上げて見遣ると彼女は気遣わしげな表情をしていた。
「ただ、君が雛苺にしたことが彼女のためを思ってのことならば、そして結果に対して君が責任を取るつもりなら──」
 蒼星石は片膝をつき、右手をナナに差し出した。
「君は蹲って後悔する必要はない、と僕は思う」
 それはとても不器用だったが、彼女なりの慰め、あるいは励ましなのかもしれなかった。ナナは差し出された手を取り、まだ少し自信が無さそうに微笑んだ。
「さあ、僕達はお互い、もうここから出なくては」
 ナナを引っ張るようにして立ち上がりながら、少し照れ臭そうに蒼星石は言った。
「もう起床時間だからね。次は現実世界で会おう」
「はい」
 素直な声でナナは答えた。彼に宜しく、と蒼星石は微笑んだ。その表情はやはり『蒼星石』とは違っていたが、ナナはもうそんなことは気にならなくなっていた。



[19752] 110程度ですが、タイムアップにて。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2010/12/28 16:09
ちょっとがさがさした感じですみません。
取り敢えず、翠星石らしくなかったらごめんなさいとだけ。

※12/28 翠星石の台詞メンテ。

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 真紅の折檻はお流れになった。物置部屋の大鏡から帰ってきた雛苺が、水銀燈とナナを伴っていたからだ。
 水銀燈が居ようと居まいと雛苺のしたことは変わらない、と言いつつも、子供っぽいわねぇとにやりとされると対抗心やら恥ずかしさのようなものが先に立ってしまうらしい。雛苺に厳しく外出を禁じ過ぎたことが何度も脱走をさせる結果になっていることも、指摘されるまでもなく分かってはいる。
 結局持ち出したものを返した雛苺を巻き毛でぺしりと叩いただけで真紅のお仕置きは終わりとなった。放免された雛苺は、挨拶を終えて部屋の中をきょろきょろと見回しているナナを促してジュンの部屋に退散した。
 もっとも、真紅があっさりと雛苺を放免したのは、別に大きな理由もあった。

「雛苺を送ってくれたのは感謝するけれど、それだけではないのでしょう」
 物置部屋の鏡に寄り掛って未だにやにやが収まらない風の水銀燈に、真紅は真面目な表情に戻って尋ねる。それが今の一件を誤魔化すための言葉でないことは水銀燈にも見て取れた。
「ご明察よ」
 水銀燈は人の悪い笑いを引っ込めて真紅を見た。
「オディール・フォッセーの件でね。ちょっと腑に落ちないところがあるのと、貴女達には私の構想を話しておいたほうが良さそうだから」
 一瞬、真紅の顔に緊張が走った。だが彼女はすぐに平静な表情に戻り、蒼星石なのかしら、と確認するように尋ねた。
「ええ。昨日聞いたわ。薔薇屋敷でね。それに雛苺本人からも、少しは」
 水銀燈は翠星石を見遣る。蒼星石の双子の姉は部屋の入り口から、会話に入りたいものの切っ掛けが掴めないような按配でこちらを見ていた。
「大分性急な要求をしてきたらしいじゃない、あの人間」
「無礼なヤツでしたよ」
 言いながら部屋に入ってきた翠星石は、オディールの態度を思い出したのかまた腹を立てそうになっていた。
「いきなり現れてチビチビを渡せとか、自分がマスターだとか」
「それは雪華綺晶に操られていたからではないかしら。あの様子はまるで何かに憑かれているようだったもの」
 真紅は翠星石に向かってそう言った後、やや視線を下げる。推理のパズルのピースを嵌め込む作業を始めているようだった。
「操られているとしてもムチャクチャです。強引過ぎるですよ。あんなすぐばれちまうような嘘をつかせて、何の意味があるんですか」
 捲くし立てて、翠星石はふうと息をついた。大した鼻息ねぇ、と水銀燈は肩を竦める。
「確かにじわじわと夢の中から攻めて来る方がまだ末妹らしいわね」
「そうかしら。敢えてそうせず、マスターをこちらに見せ付けた事に意味があるのではなくて?」
 真紅は視線を上げ、水銀燈を見た。
「雛苺のマスター、という言い分は見え透いているけれど、私達に彼女をマスターとしたこと、彼女が騙されていることを伝えるためと考えれば……それが私達に対するメッセージだとすれば、辻褄は合うのだわ」
 そう言いながらもこちらに問い掛けるような視線に、水銀燈は鼻を鳴らして答えた。
「それにしては弱々しいメッセージね。むしろ、私困ってますって言ってるようなものでしょう」
 手近にあった古い小さな燭台を手に取り、鏡の脇に置く。その隣に、小さな人形を立たせた。ジュンが最近漸く彼女に渡した、水銀燈に似た人形だった。
「末妹の最大の強みは、力が強いことでもなければ人間に夢を見せて細かく操れることでもない。こっちの通り道に網を張って待ち構えて攻撃し──」
 燭台で人形を突き倒し、それから燭台だけをすっと鏡の後ろに入れてしまう。
「──都合が悪くなれば捕捉できない所まで退却して次の機会を待てることよ」

 条件さえ揃えば、彼女は自分の情報を全く渡さないまま、隙を窺って一方的に襲撃を繰り返すことも可能だろう。確かに都合の良すぎる話ではあり、成功し続ければ、または失敗しても後を尾行されないでいれば、という極端な前提の上でもあるけれども。
 しかし常にお互いの居場所を概ね感知し合っており、手の内も分かっていれば力量の差もさほどではない他の姉妹達に比べれば、彼女の優位は歴然としていた。実際に今までの二度の襲撃──巴と雛苺に対する未遂も含めれば三度になる──は、失敗はしたもののいずれも追撃を全く許さずに終わっている。
 最後の襲撃に至っては水銀燈による間接的な妨害が効果を上げているにも関わらず、しかもアリスゲームと直接的な関係のないように思える行為であるのに、少なくとも襲撃のタイミングと退き際は鮮やかだったように見える。
 それらはこちらを常に監視し続けていることと、こちらの目からは自在に逃れられることを示してもいる。
 言い換えれば、自分に関する情報の秘匿性こそが雪華綺晶の強みなのだ。
 逆に、例えば彼女の根城としている世界を特定し、そこに糧として囚われている魂を解放してしまうことが可能ならば、彼女はもはや拠るべきものすら持てなくなる。また、今という時点に限定するならば、オディール・フォッセーを強引に契約者でも糧でもなくしてしまえるなら、それだけで彼女は餓えてしまうだろう。

 水銀燈はそんな内容のことを説明して、やや曖昧な表情を浮かべて続けた。
「それが、自分から契約者をこちらの目に晒してくることは有り得ない。何かの拍子に自分の情報が漏らされないとも限らないもの。現に雛苺の前の契約者は、オディール・フォッセーに出会ったことで、末妹に遭遇していたことを思い出してしまった訳でしょう」
 今更なこととはいえ、雪華綺晶が水銀燈や少年を狙ったのは決して偶然などではなく、常に監視の目を光らせて姉妹達や契約者が弱ったところを付け狙っている、ということが暴露されたとも言える。それはある意味で大きな情報ではあった。
「これは案外末妹の窮状を示しているのかもね。一昨日の一件で受けたダメージが意外に大きくて、今までのように強力に暗示なり夢なりでコントロールできなくなり、契約者に奔放な行動を許してしまっている、ということ」
 水銀燈は鏡の後ろから人形を拾いながら真紅を見た。
「そうかしら」
 真紅は懐疑的だった。
「むしろそうして私達の油断を誘い、罠を張っているのではなくて?」

 雪華綺晶の「庭」はあくまでnのフィールドだ。何をするにしても一度はそちらに敵を引き込まなくては、戦うにしても詐術で翻弄するにしても話が始まらない。
 夢から次第に侵食していくにしても、薔薇乙女本人や彼女達と繋がりの深い人物以外狙えないのでは、食い込んで行くのは難しい。特に彼女の存在が知れてしまっている今は、時間を掛けて少しずつ、という方法さえ取りにくい。時間を掛ければ掛けただけ、存在が暴露されてしまう可能性が高くなるからだ。
 そうした状態で、以前のように蜘蛛の巣に相手を引っ掛けるには、相手の油断を誘うのが最も手っ取り早い。契約者に支離滅裂な行動を取らせ、同時に雛苺の古傷を抉ることで幾らかでも動揺を誘えるとあれば、一石二鳥ではないのか。契約者は都合が悪くなればいつでも糧に変えることができるのだから。
 また、水銀燈が考えているほどには雪華綺晶は弱らされていない可能性もある。偽物を作り出すのが生業のような末妹だけに、自らが弱っているように見せかけるのも簡単だろう。
 弱っているという欺瞞情報を発して、場合によってはオディール・フォッセーそのものを餌として他の姉妹を順繰り、あるいは纏めて自分のフィールドに引き込もうとしているのではないか。
 それが雪華綺晶の焦りを示すものだとするならば、機会を与えずに守りを固めることが重要だ。本格的な宣戦布告を示すものだとすれば、相手に惑わされずに対応を図らなければならない。

「なるほどね。一応筋は通るわ」
 水銀燈は頷いてみせた。
 真紅の意見はあくまで慎重だった。今までひたすらに身を守ってきた彼女らしい考えではある。
 消極的過ぎる、とは今日は水銀燈も言わなかった。最後まで言い切る前にラプラスの魔に口を挟まれてしまったものの、既に先日、向こうから攻撃して来るまでは争わないと真紅は表明している。
 攻撃してくる、という基準は曖昧ではある。どの程度のところで線を引いているのかは判然としないが、いずれにしてもあくまで自分からは手を出さないというのが今の真紅のスタンスなのだろう。
「──貴女はどう思うの」
 水銀燈は振り向いてドアの辺りに顔を向けた。
「真紅と私の説明をよく聞いているだけが能じゃないでしょうに」
「す、翠星石ですか?」
 翠星石は先程の勢いを失い、入り口のところから何歩も踏み込めないまま、結局二人の会話を聞いていた。
 水銀燈の言うことは理に適っているように思えたし、真紅の言うことももっともだった。そして、二人ほど明確にアリスゲームに対する見通しを持っていない彼女には、口を挟むことができないレベルの会話に思えていたのだ。
「そうよ。貴女には貴女の視点と考えがあるでしょう。それとも、そのローザミスティカは誰かに奪われるまで可愛いお人形型のケースに保管されてるだけ、ってわけ?」
「水銀燈!」
 久し振りの、ある意味で水銀燈らしい煽り言葉に真紅は声を荒げた。
「翠星石が戦いや争い事を好んでいないことは貴女もよく知っているはずではなくて? どうして今になってそんなことを」
「今だから、よ」
 水銀燈は笑っても、皮肉な表情をしてもいなかった。真紅の言葉に答えた形ではあるが、視線も言葉も翠星石に向けられていた。
「貴女以外の姉妹は皆──脱落してしまった雛苺は別だけど──ゲームに関して何がしかの展望を持ち始めた。昨日の晩に聞いた分には、あの媒介べったりの蒼星石でさえもね。持たざるを得なくなった、とも言えるけど」
 追い詰められたにしろ、真紅が言うようにいよいよ攻撃に踏み出したにしろ、あの末妹も含めてね、と水銀燈は腕を組んでまた鏡に背中を預けた。
「元々貴女はかなり極端な立場を取っていたとも言えるわね。積極的に戦いを否定し、双子の妹の方を何よりも優先してきた。蒼星石と争うくらいなら、自分のローザミスティカを彼女に差し出す、と決めていたほどに」
「そこまで……」
「そうですよ」
 真紅が視線を向けると、翠星石は水銀燈に頷いてみせ、真紅にも力のない視線を向けて微笑んだ。

「蒼星石はしっかりしてますけど、本当は甘えんぼで、とっても寂しがり屋で、ぶきっちょで、マスターや翠星石が居ないとなんにもできなかったんです。
 だから、翠星石はずっとずっと一緒に居て、あの子が立ち止まっていたら、道が分かんなくても歩き出して来ました。そうして最初の一歩だけ背中を押してあげれば、あの子はしっかりした子ですから、後は迷わずに歩いていけるんです。
 だから翠星石はいつも強がって、失敗しても気にしない振りをしてやってきました。そうすると、そのうちあの子が困った顔をしながらフォローしてくれるんです。あの子はとても優しいから。
 それが二人の暮らしだったんです。でも」

「この時代では、違っていた」
 水銀燈は素っ気無い言葉を掛けた。翠星石の話が脱線しているとは思っていないようだった。
「蒼星石が貴女より先に目覚め、貴女が悲しむのを承知で契約者の意向を汲んで動いていた」
「そうです……」
 翠星石は視線を下げた。
「私達はずっと、二人で一人でした。歩き出すのは翠星石の役目で、しっかりその後を固めてくれるのが蒼星石でした。でも、蒼星石はもう一人で歩き出せるようになってたんです。蒼星石は気付いていないようでしたし、翠星石は一人で歩けるようになったなんて言ってくれましたけど……この時代で目覚めたときには、置いて行かれたのは翠星石の方でした」
 だから、と翠星石は真紅を見た。
「分からないんです。どっちに行けば良いのか、何処に向かえば良いのか。だって、もう自分から歩き出す必要もなくて、後から支えてくれる人も居なくて。だから、翠星石は……」
 水銀燈に視線を向け、ごめんなさいです、と俯く。何故謝らなければならないのか、自分でもよく分かっていなかった。ただ、何かとても申し訳ないような気がしたのだ。
「展望とか見通しとか、翠星石は持ってないし、持てないんです。今の暮らしがずうっと続けばいいって思ってます。永遠に続く訳なんてないことは分かってますけど……」

 水銀燈は軽く頷いた。翠星石が長い前置きをしたのを責めるつもりはなかったし、まだ雪華綺晶の件に関して触れる素振りもないのを指摘するつもりもない。
 それはアリスゲームに対して何も考えていないからというよりは、蒼星石に対する依存がそれだけ強かったこと、翠星石の心がまだまだ自立して間もないことを意味しているように彼女には思えた。
 敢えて言ってしまえば、翠星石にとっては自分のアリスゲームのことなど考える余裕はなかったし、増して雪華綺晶の意図など推し量ることなどできない。それが正しい答えなのだろう。
 恐らく、今の翠星石は自分を必要としてくれる人、もっと言ってしまえば翠星石自身が「この人は自分がいないとやって行けない」と思える人が欲しいのだろう。そして、それは自分をきちんと見てくれている人なら、何人居ても構わないはずだ。
 どれだけ全員に目配りするのが大変になっても、自分を必要としていると思えて、自分を見ていてくれる人がいる限り、翠星石はその全員に尽くすのだろう。
 それはこれまでの時代では蒼星石の役割であり、契約者もその中に入っていたのかもしれない。そして、今は桜田家の全員がその対象なのだろう。
 その日常を守りたいし、できることならいつまでも日常を謳歌していたい、というのが翠星石の思いなのだ。

「だから真紅と一緒に居る、そういうことね。真紅なら、貴女と一緒に今の暮らしを守ってくれるから」
 水銀燈の言葉は相変わらず素っ気無い、突き放したものだったが、口調は柔らかく、皮肉な響きはなかった。翠星石は頷いた。

「もちろん、厭だけど我慢して真紅と一緒に居る、なんてことはないです。
 真紅はちょっと高慢ちきな所もありますけど優しいし、好きですよ。
 ジュンのことは──ジュンが一番好きなのも、ジュンを一番好きなのも真紅だって知ってますけど、それでも──マスターかどうかなんて関係なく、大好きです。ずっと、ずっと一緒に、近いところで見ていたいです。
 チビ苺のヤツも嫌いじゃないです。のりも面倒がらずに丁寧にお料理教えてくれますし、すぐ近くに蒼星石もいくれて、チビカナもちょくちょく顔出してくれて。
 今のみんなが居るから、今の暮らしを守りたいし、少しでも長く続けていたいんです」

 最後の方は、涙こそ出なかったけれども、恥ずかしさと申し訳なさのようなものでくぐもってしまっていた。
 真紅が歩み寄ってその髪を撫でる。心配そうな表情になっているのは、言いたくないことを言わせてしまったのではないかという気持ちが表に出ているようだった。
 翠星石は顔を上げ、微笑んでいきなり真紅を抱き締めた。思いがけない行動に真紅が途惑っていると、翠星石は目を閉じてはっきりした声で言った。
「翠星石には難しい理屈は分かりません。でも、真紅がみんなを倒さないで、チビ苺みたいに動けるままにしておいてくれるなら。そして、アリスゲームが終わって、みんなが楽しく暮らせるなら。翠星石は喜んで真紅の下僕になってやりますよ」
「……翠星石」
 真紅はおずおずと翠星石の背中に腕を回し、そっと抱き締める。
「ありがとう。その言葉だけでも十分だわ」
 ふっと水銀燈の顔に素直な笑みが浮かぶ。三番目の妹と五番目の妹が抱き合う様は珍しかった。そこに嘘がないと思えるのは、美しくもあった。
 その笑みが少しばかり意地の悪いものに変わる。尋ねたいことをこのタイミングで言い出すのは可哀相かもしれないが、面白いと思ってしまう自分が居た。
「二人がもし敵対したら、蒼星石よりも真紅を優先できるの? 貴女は」
 視線の先で、翠星石が抱きかかえている真紅の背中がびくりと動く。だが、翠星石は彼女を抱く腕に少し力を込めただけだった。
「……さあ、それはわかんねえです。翠星石は気まぐれですからね」
 目を閉じたままの翠星石の顔には微笑みが浮かんでいた。
「でも、たとえ蒼星石がすることでも、『今』を壊すことになるなら許せんです。真紅が壊すほうに回ったときは、『今』を守ってくれる人が他に居れば、その人に速攻鞍替えしてやるです。誰も『今』を守ってくれないときが来たら、そのときは──」
 目を開け、視線を上げて水銀燈を見る。少しだけ挑戦的な視線だった。
「──翠星石は、一人でも戦います」
 水銀燈は皮肉に口許を歪めることもなければ、怒りや苛立ちに眉を顰めることもなかった。その様子に少し安心したように息をついて翠星石は言葉を続ける。
「雪華綺晶の細かいことは分かりませんし、そういう頭を使うことは真紅とアンタに任せるです。今は、翠星石は真紅のことを信じて力を貸します。そう決めているのです。それは目的が同じだから、そして、真紅も翠星石の守りたいものの中に入っているからですよ」
 これでいいですか、と翠星石は小さい声で尋ねる。水銀燈は返事の代わりに軽く頷き、腕の中の真紅も小さく息を吐いて翠星石の背中に回した手にきゅっと力を込めた。




[19752] 150ほどです。新境地にチャレンジいちねんせい。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2010/12/29 22:04
8x8=64。
末広がりの二乗ということで縁起がいい数字らしい。
なので痒い話を書こうと努力してみました。

結論:俺には満足に書けませんでした。修行をしないといけないらしい。

12/29 無駄な~足掻きと~知りながら~♪ 多少修正&増量。

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「ジュンどうしたの? お顔が赤いのよ」
 ジュンが自分に似たように改造してくれたお気に入りの人形を抱え、後ろに頭一つほども背丈の違うナナを従えて、雛苺は廊下で立ったままのジュンを見上げた。
 ジュンは自分の部屋と物置部屋の中間で、歩いている姿勢のまま固まったような風に立ち竦んでいた。

 先程雛苺がナナを連れて部屋にやってきて、さっぱり要領を得ない紹介をした。ナナ自身の自己紹介もあまり要領を得なかった。ある種の幼さという意味では良いコンビかもしれないが、そのお陰でジュンは結局ローゼンメイデンもどきがまた一体現れたという認識しか持てなかった。
 その後、ジュンからの挨拶もそこそこに、雛苺はナナを連れまわして部屋の中のあれこれに関する講義を始めた。それがまた悉く要領を得ないものだった。
 輪を掛けて悪いことに、雛苺の説明のくどくどしさだけは真紅譲りだった。
 あまりのことに辟易して、彼は足音も立てないようにしてこっそりと部屋を抜け出した。そのまま聞き続けて居たら頭がどうにかなってしまいそうだったが、一々突っ込む気力も失せていた。
 階下に行ってお茶でも飲もう、と思った。思っていた。物置部屋から、翠星石の声が聞こえてくるまでは。
 その内容は、彼を硬直させてしまうのに充分だった。

「……なんでもない」
 ジュンはぎこちなく首を振ったが、部屋をこっそり抜け出されたのを少し根に持っているのか、雛苺は珍しく食い下がった。
「でも、なんだか怖い顔してるのに、お顔赤いのよ。変なのよ」
「なんでもないって言ってるだろ」
 やや乱暴な言い方をしながら、ジュンは照れ隠しのようにひょいと雛苺を抱き上げた。
「うわぉ! ジュンが抱っこしてくれるの、珍しいのよ」
「い……いつも登ってるじゃないかお前。ジュン登りとか言って」
 何故か取り繕うような言い方をして、ジュンは雛苺を肩車するような体勢になった。
「いつもはヒナがお願いしないと抱っこしてくれないのよ。自分から抱っこしてくれるのはとっても珍しいの」
 持ち上げられた肩の上から、雛苺はナナに何故か得意気に解説した。
「そうなんですか?」
 ナナはごく真面目な顔でジュンを見上げ、首を傾げた。
「……違う、いや違わないけどさ、その……け、結果的に抱っこしてやってるのは変わらないだろ」
「騒がしいわね、どうしたっていうのよ」
 しどろもどろな言い訳をしている彼の前に、水銀燈が物置部屋からするりと舞い出てきた。ぎくりとするジュンにナナは疑問を抱いたようだったが、結局何も言わずに、物置部屋から続いて姿を現した二人の方を見てぺこりとお辞儀をした。
 どういうわけか、ジュンの姿を見て翠星石も顔を赤くしている。ナナはますます疑問を深めたように瞬き、ジュンの頭の上では雛苺が同じように盛んに首を捻っていた。
「あら、部屋に居たんじゃなかったの? 流石にマエストロは神出鬼没ねぇ」
 水銀燈はジュンと視線の高さを合わせ、遠慮のない視線でその顔を眺める。聞いてたわね、と言いたそうな笑いを含んだ表情に、ジュンは更に顔を赤くした。
 すっとその耳元に顔を寄せ、水銀燈は人の悪い笑みを浮かべて囁く。
「翠星石と真紅、両手に花ね。どっちも素直じゃないけど。愛されてて良かったじゃないの」
「お、お前だって……自分のマスターとかあのバイク屋の人に好かれてるだろ、素直に甘えればいいじゃないか」
 水銀燈はほんの一瞬だけ笑いを消し、低い声で囁き返す。
「あの媒介は蒼星石のものだし、職人の件なら見当違いよ。お生憎様」
 ばっと翼を伸ばし、水銀燈はたじろいでいるジュンの肩から雛苺をもぎ取るように抱き取る。そのままゆっくりと低空飛行し、ジュンの部屋の前に降り立つと、雛苺はそれでなくても大きな目を真ん丸に見開いた。
「水銀燈も抱っこして飛んでくれたのー! おにのかくらんなのよ。明日は雪と羽根が一緒に降るのよ」
「素直にありがとうって言えないわけぇ? 貴女は。ちょっとこっちに来なさい」
「わー! ナナ助けてぇー」
 水銀燈に引き摺られてジュンの部屋の中に連れて行かれながら、雛苺はナナに一つウィンクしてみせる。ナナは相変わらずよく分からないという顔をしながら、呼ばれるままにジュンの部屋に駆け込んでいった。

 振り返ってそちらを見ながら、嘘吐き、と声には出さずにジュンは思う。

 それは、多分ジュンだけが気付いていることだった。
 誰にも話していないけれども、あの日、帰り際に水銀燈が長身の男に抱きついたところをジュンは見ている。
 そんな大胆なことをした訳も、人形を引き取りに行ったときに同行しなかった理由も、そのときは分からなかった。だが、今はなんとなく見当が付いていた。
 抱きつかれた男もそんな水銀燈を悪くは思っていない。それは彼女が抱いてしまった想いとは全く別の種類の、どちらかと言えば大人が不遇な子供に感じるような好意だ、というのはジュンでも分かるけれども、少なくとも悪感情を持っている訳ではない。
 水銀燈自身は同行しなかったが、完成した人形を引き取りに行ったときには、男は彼女のことを気遣うような、そして明らかに彼女がいないことを残念に思っている素振りをしていた。それはお客に対する儀礼的なものだけではないようにジュンには見えた。
 それでも、いや、そういう好意を向けられているからこそ、いつ消えるか分からない自分が、これ以上彼と深く関わったり、アリスゲームに彼を巻き込む可能性が出てくるような行動を取ってはならない。水銀燈はそんな風に考えているのだろう。
 彼女は、真紅と同じくこの時代でアリスゲームを終わらせるつもりでいる。一昨日の口振りではそれは真紅の言う意味とは違い、彼女自身も死ぬことが前提になっているはずだ。
 その「死」についても彼女の考えは真紅のそれとは違っているのだが、そこまではジュンも知らない。
 ただ、あの男とはこれ以上関わらない、という彼女の意思は確かに感じ取っていた。共感という言葉は大袈裟かもしれないが、少なくともその気持ちはよく分かる気がしている。
 だが、とジュンは思いもするのだ。
 彼女はあまりにストイック過ぎるのではないか。もうそれほど時間が残っていないと思っているならばそれこそ、好きな誰かに甘えるくらい悪くないじゃないか、素直になれよ、と。

 そう考えてしまうことがジュンの限界でもあった。
 水銀燈からすれば、ある種の繋がりはあるとはいえ、初対面の他人に思わず自分の気持ちをぶつけてしまった、それだけでも既に行き過ぎだった。瞬間的に膨れ上がった好意などは、本来なら自分の心の中にだけ留めておくべきことだった。
 別世界の同一人物とはいえ、彼は、彼女の媒介として生まれ変わった男、そのものではない。ただの他人だった。
 それ以上甘えたり、もっと深い関係を持ったりすることは、後に残す人の心に傷を残しかねない。好意を持っている相手だからこそ、そうした傷を与えたくない、というのが水銀燈の思いだった。
 もっとも、ジュンもそういう想いの形もあるということを頭では分かっている。分かっているのだが、それは一種の臆病さとしか思えなかった。
 もしかしたらそれは、恵まれた環境で育ち、いきなり社会から弾き出された過去を持つジュンの感性では理解できない種類の、哀しいほど優しい思いなのかもしれない。

 いずれにしても、ジュンがつい囁いてしまった言葉を水銀燈は必要以上に悪くも良くも取らなかった。素っ気無い一言ずつの応酬だったが、それはジュンにも伝わっている。
 だから、彼は感傷的にはなっていない。それに、今は水銀燈の色恋に気を取られていられるような状況でもなかった。


 自分の部屋の方を振り向いていたのは数秒ばかりの間だった。向き直ると、そこには顔を赤くしたままの翠星石がいて、その向こうで真紅が階段を下りていくのが見えた。
 真紅は一度振り返り、ジュンがこちらを見ているのを確認して微笑を浮かべたが、何も言わずにそのまま階下に降りていった。彼女には少々段差の大きな階段を慎重に下りて行く足音が遠ざかり、やがて何処かの部屋のドアが開閉する音が響いた。
 ジュンは一歩翠星石に近付いた。二人の距離は思ったよりも近く、上半身を屈めると、手を伸ばせば翠星石の髪に触れられそうだった。
 手を伸ばしかけ、それを一度引っ込めて、ジュンは体を起こして廊下の壁に背を凭せ掛ける。そのままずるずると腰を落として行き、ぺたんと尻を床につけた。
 翠星石にはそれが、隣に座れという合図に見えた。とことこと彼に歩み寄り、並んで同じように腰を下ろす。
「──話、聞いてたですか」
「……ああ」
 互いに視線を合わすことなく、同じ壁に向いて言葉を交わす。
「思わなかったよ」
「っなな、何をですか」
「お前もそこまで考えてたなんて、さ」
 え、あ、と翠星石は言葉に詰まって意味不明な音声を発した。残念なような、ほっとしたような奇妙な気分だった。

──最後だけでしたか、聞いていたのは……

 大好き、と言ってしまったところは聞かれていなかったのかもしれない。てっきりそこを聞かれたと思っていて、どうしていいか分からなくなっていたのに。
 翠星石にとって、肝心なところはその部分だった。最後に言った、これからのことや真紅に力を貸すなどということは、当たり前過ぎてどうでもいい話だった。
 あんな話でいいなら何度でも言ってやる。録音してテープが擦り切れるまでエンドレスで回しても構わない。自分の考えは変わらないし、恥ずかしいことは何もないのだから。
 大事なのはそんなことではないのだ。しかし……

──たったあれだけの話で顔を赤くして硬直してるとか、なんてチキン野郎なんですか。やっぱりお前はチビ木の持ち主のチビ人間です。

 そう思ってしまうと、何とはなしに腹が立ってくる。
「し、しっつれいしちゃうですよ。翠星石はいつも沈思黙考しているのです。そりゃ、真紅や蒼星石に比べればちょっとは違うかもしれないですけど、似たようなもんだって水銀燈は言ってたし、翠星石もそう思うのです」
「なんだそれ……」
 ジュンははあっと大きな息をついた。その様子に、翠星石はますます腹が立ってくる。
「な、なんですか。なんなんですかその態度は! だいたいジュンはチキン過ぎます! なんであれっぱかしのことで顔真っ赤にして硬直するんですか! 翠星石だって今後のことくらい少しは──」
「──あれくらい、じゃないだろ」
 捲くし立てる翠星石の言葉に被せて、ジュンはまた息をついた。
「そりゃ、お前にはちっぽけな事かもしれないけどさ。いいか、僕にとってはおおごとなんだぞ」
 ジュンは立てた膝を抱くような姿勢になった。
「真紅とお前が敵同士になるかもしれないなんてさ……」
 翠星石ははっとして、ジュンの顔を見上げる。立っているときや勉強机の椅子に座っているときとは違って、ジュンの顔はとても近くに見えた。
 翠星石は気持ちが凋んでいくのを感じた。気勢が殺がれた、というよりは照れと怒りがすうっと何処かに抜けていくような気がした。
 契約しているドール同士が敵味方になったら、という話にしてはジュンの言葉はいつになく女々しかった。そもそもそういう話で青い顔でなく真っ赤になるのはおかしいのだが、その辺りの事柄は冷静さを完全に欠いてしまっている翠星石の思考からはすっかり抜け落ちていた。
 彼女はまた前を向き、勢いのなくなった声で呟くように言った。
「そうなったら、翠星石の契約は……解除するですよ」

 彼女とジュンの契約は、元々水銀燈に三人纏めて倒されかけた姉妹達を助けるために結んだもので、ジュンが契約の相手になったのはそのときその場に居た唯一の人間だったからに過ぎない。言わばイレギュラーなケースだった。
 元々、翠星石の人工精霊であるスィドリームがレンピカと共に選んだ契約者は結菱一葉だった。それなのに契約を結ばずに飛び出してしまい、真紅を頼って桜田家に居着いてしまったのは翠星石の我儘なのだ。
 真紅は違う。彼女の人工精霊ホーリエは最初からジュンを契約者に選び、真紅自身も彼を選んだ。
 どちらも正式な契約ではある。それはジュンの指輪が一回り大きくなっていることでも分かることだ。だが、もし真紅と自分のどちらかが契約を解除しなければならないとしたら、それは自分だという認識が翠星石にはあった。
 真紅が契約を結んだときも、ジュンが目の前に生死をちらつかされて必要に迫られて已む無く指輪を嵌めたということは、翠星石は聞いていない。しかし、もし知っていたとしても考えを変えることはないだろう。それはどちらかと言えば結菱老人と蒼星石に対する負い目のようなものだった。

「でも、それはもし、もしも真紅が翠星石の気に入らない厭なヤツになったり、欲に目が眩んでおかしなことを始めたりした時の話です。真紅がそんな子になることなんてないですよ。だから、安心して──」
「──そんなこと言ってるんじゃない」
 ジュンは怒声というほどではなかったが、少し語気を荒げて彼女の言葉を遮った。
「契約なんて……どっちでもいいんだ。そんなの、大したことじゃない。お前だってそう言ってたじゃないか」
 翠星石は瞬いてジュンを見上げる。ジュンはまた顔を赤くしていた。それは怒りのためだけではないように見えた。
「僕だって、それほど朴念仁じゃないんだぞ」
 言いながら、ジュンは膝にますます赤くなって行く顔を埋めるようにした。そうして、眼鏡の奥の目だけでちらちらと翠星石を見る。
「そりゃ、お前は人形で、僕は人間だけど。でも、ずっと傍にいてギャアギャア煩いお前が、僕のこと……その、あんな言い方されれば、雛苺が言うのと全然別の意味だってことくらい、分からないとでも思うのかよ」
 言うことが次第に支離滅裂になって行くのと比例するように、ジュンの顔も赤くなって行く。それがどういうことを意味しているのか、翠星石にも頬の熱と共にじわじわと分かってきた。
 やはり、ジュンは聞いていたのだ。
 なんと言っていいのか分からず、おずおずと翠星石は尋ねてみる。
「驚いた、です……?」
「驚くに決まってるだろ!」
 翠星石の方に顔を向けて、押し殺した声だったが、翠星石がびくりと視線を逸らし、俯いてしまうほど激しい調子でジュンは言った。
 性悪人形で、いつもヒネクレてて、抱っこしてくれとか抱きついて来たりとかしたこともなくて、口を開けば悪口ばかり。双子の妹にはデレデレで、うちでは真紅と姉ちゃんにだけ懐いてる。
 そんな奴だと思ってたのに、まさか僕のことを、と。
「好きだ、なんて言われて、お、驚かないわけないじゃないか。しかも……」
 その翠星石が真紅と敵同士に分かれるかもしれない、とその口で言われたのだ。可能性は薄いと言うものの、全く無いわけではない。
「いきなりすぎるじゃないか。どうしたらいいかわかんないのはこっちの方だって──」
「──いきなりじゃないです!」
 翠星石はジュンの言葉を遮った。
「いきなりなんかじゃ、ない、ですよ……」
 言いながら、顔を上げる。真っ赤で、くしゃくしゃに歪んで、大きな瞳の端からは涙がぼろぼろと零れて、その上泣き笑いのような妙な表情だった。

「翠星石はジュンが好きでしたよ。もう何ヶ月も前から、ずっとずっと好きでしたよ。
 でも、そのときには、もうジュンには真紅が居たんです。自分じゃ気付かない振りしてますけどジュンは真紅が好きで、真紅もジュンのこと大好きなんですよ。見てたらすぐに分かりますよそんなこと。
 翠星石はアリスゲームなんて大っ嫌いですけど、でも私達は最後は戦うように宿命付けられてるんです。だから、どこまで行っても私達は敵同士なんです。で、でもそれなのに翠星石は、蒼星石の次に真紅が好きで、ちびちびの雛苺も嫌いじゃなくて……おまけにジュンのこと、真紅が大好きなジュンのこと、大好きなんです。どうしようもないんです。こんなぶっ壊れた気持ち、どうしようもないじゃないですか。
 だから、だからジュンには内緒にしてたのに、ジュンには言わないでおこうと思ってましたのに」

 ぱしっ、と翠星石はジュンの腕を叩いた。力は篭っていないが、何故か常日頃の彼女の怒りに任せた連打よりよほど痛いようにジュンには思えた。
 翠星石は一つ叩いて箍が外れてしまったのか、そのまま立ち上がって膝を抱えた姿勢のままのジュンの身体を叩きつづける。いてっ、とジュンは言ったが、そのまま動かずに彼女の出鱈目な攻撃を受け続けた。
「盗み聞きなんて最低です。オオバカヤローです。出歯亀もいいとこです。この甲斐性なし、ヒキニート、チビ人間……」
 それから暫く、ぽかぽかとあまり力の篭らないままジュンを殴りつけながら、思いつく限りのジュンの悪口を翠星石は並べ立てた。
 振り上げる拳は次第に間遠になっていき、やがて最後の、全く力の入らない手がジュンの袖辺りを叩く。その手を引くと彼女は小さな体を精一杯伸ばしてジュンに縋り付き、肩の辺りに顔を押し付けた。
「……でも、ごめんなさい、やっぱり大好きです、ジュン」
 顔をジュンの服に埋めたまま彼女は半分泣いたような声で言った。
「翠星石の我儘なのも、こんなこと言ってもジュンが困るだけなのも分かってますけど……」
 呟くような声は、くぐもっていたがジュンにはよく聴き取れた。
 ジュンは何と答えていいか分からなかった。ただ、今どうすればいいのかはおほろげに理解していた。
 膝を抱えていた腕を解き、跪いて視線の高さを翠星石と合わせる。小さな少女は、みっともないほど顔をくしゃくしゃにして、それでも色の違う瞳だけは大きく開いて彼を見詰めていた。
 ジュンは正面から、彼の少女をきつく抱き締めた。
 翠星石は素直にジュンの腕の中に収まり、彼の背中に小さな腕を回した。ジュンの抱き方は少々力が入り過ぎだったし、彼の体は彼女が蒼星石にしているような抱き締め方をするには少々大き過ぎたが、暖かくて心地良かった。
「……大好きです」
 もう一度翠星石は繰り返した。ごめんなさい、はもう言わなかった。
 僕もだ、とジュンは囁いた。



[19752] 130程で2010年の実験〆。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2011/01/03 22:05
切りが悪いですが、今年の駄文は今年のうちにと言うことで。

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 ジュンの部屋のドアは閉められていたが、廊下の物音が完全に聞こえて来ないわけではなかった。翠星石の罵声が始まり、暫くして止むのはよく分かった。
「ドールと人間の恋……しかも二人で同じ契約者をねぇ。これからどうするつもりなんだか。まあ、知ったことじゃないけど」
 そう言いつつ、水銀燈は呆れたように肩を竦めた。ナナが複雑な表情をする横で、雛苺は訳知り顔でふんふんと鼻を鳴らした。
「真紅と翠星石がずっと仲良しならいいのよ。もんだいかいけつなのよ」
「ま、二人とも独占欲が無い聖人なら、それで解決ね」
 流石にそんなことは有り得ないけど、と水銀燈は失笑する。
「どっちかが桜田ジュンに、自分だけを見ていて欲しいって思ったらそこでお仕舞いよ。……遅かれ早かれそうなるでしょうね。薔薇乙女にとって彼はとても魅力的な要素を持っているから」
 そしてこれから、益々魅力的な人物に成長していくのだろう。姉妹達をあしらうのが上手いだけでなく、周囲のものを上手に愛するようになり、服だけでなく自分自身の乙女すら作れるようになり──

──しかし、そのときに彼はそちらの道を選ぶだろうか。

 それは少しだけ面白そうな問い掛けだった。明るく順風満帆であるだけでなく、自分が見届けることはない未来図だと思えるから、余計無責任な立場で考えられる。
「ならないかもしれないのよ」
 屈託の無い声が異議を唱えた。そちらを見ると、雛苺は少しだけ痛快そうにこちらを見ていた。
「その前に誰かがアリスゲームを終わらせれば、二人とも仲違いしないでジュンの永遠の恋人で居られるのよ。そうでしょ?」
 水銀燈は一瞬面食らったような表情になり、それからにやりと笑ってみせる。

 確かに少々意外ではある。しかしそれは雛苺らしく直感的な、そして姉妹の中では既にアリスゲームに勝利するという命題からは解き放たれてしまった雛苺にしか持ち得ない視点のように思えた。
 同時に、その言葉には重大な示唆も含まれている。それは、彼女が翠星石とは違い、真紅の言った希望的な未来像を肯定してはいないということだった。
 無論、雛苺は真紅の下僕という立場ではあるし、何かが起きたときは立場を抜きにしても真紅に全面的に協力するだろう。できることならば、大好きな人達、大好きなこの場をいつまでも守りたいというのは彼女にしても同じなのだ。
 だが、真紅の思い描く楽観的な結末には必ずしも同意しているわけではない。
 誰かがアリスゲームを終わらせ、姉妹全員が物言わぬ人形になってしまえば、ジュンにとっては翠星石も真紅も手の届くところに形骸だけを残した永遠の存在になってしまう。もう逢いたいと思おうが何をしようが取り戻せない、美しい思い出の中だけの、結晶化した恋人となる。
 雛苺は理屈でなく、聞き逃してしまえば何気なく聞こえる一言でそれを示してみせたのだろう。

「名案ねぇ」
 人の悪い笑みを浮かべながらも、水銀燈の口調は素直なものになっていた。現金なものだ、と自分でも思う。
「確かにそれなら永遠になるわ。争いを躱すには良い方法かもしれないわね」
「うん」
 雛苺は気の無い風に肯定し、水銀燈が考えていた方向とは少し別のことを付け加えた。
「ジュンのこと好きなのは、二人だけじゃないもん」
 雛苺は窓の向こうを見るような目つきになった。偶然かもしれないが、その方向には彼女の前の契約者の家がある。もっとも家そのものは他の家並に邪魔されて見えないけれども。
「恋人で終わる方がいいの。ジュンのしょうがいのはんりょは、薔薇乙女なんかじゃない方がいいのよ。ジュンは、お父様じゃないんだから」
 取りようによっては酷く冷たい言葉を、憂いと同情がない混ぜになった表情で雛苺は呟いた。脇で見守っていたナナが息を呑み、水銀燈が意外そうな顔をするほどに大人びた顔だった。
 しかし、その表情はすぐに消えてしまった。ナナがおずおずと手を伸ばすと、雛苺は甘えた声を上げてナナに抱きついた。


 オディール・フォッセーが姿を現したのは、日も大分傾いた時刻になってからだった。
 巴は居らず、のりもまだ帰宅していなかったが、雛苺はジュンと真紅に挟まれるようにして怯えも不安も見せずに座っていた。むしろ、隣室からガラス戸越しに様子を見詰めているナナの方がよほど不安そうだった。
「オディールは雛苺の元契約者のコリンヌ・フォッセーと瓜二つらしいけど、『雛苺』の媒介──ミーディアム、か。その人物とは似ていて?」
「いいえ」
 水銀燈の問い掛けに、ナナはふるふると首を振る。
「夢の中では、彼女は若いときの……『雛苺』を捨ててしまったときのままでした。でも、あの人とは似ていません」
 ふむ、と水銀燈は顎に手を遣った。

 双子の庭師の契約者が──それに、自分の契約者も──全くの別人だったことを考えると、やはり二つの世界の相違点は大きいのかもしれない。
 両方の世界に存在する人物達も、それぞれ異なった部分を持っている。

 今はあまり深く考える余裕はないし、考えたくもないが、ナナの姉妹達がこちらの世界に出現したとして、例えば『真紅』は桜田ジュンをどう思うだろうか。
 彼等の歴史や思考が水銀燈の知る知識のままならば『真紅』は彼女の契約者──ミーディアムと、ほとんど恋愛的な意味合いで相思相愛だった。そして『彼』の方も、ジュンよりもずっとはっきりと、『真紅』を守って行くと腹を据えていた。
 『彼』が神業級の職人としての資質や技術をはっきりと持っていたかどうかは分からない。ぬいぐるみを再生したり、人形の服を修繕することはしていたものの、少なくともあの人形師は特別な契約者であることを否定していたし、その弟子も同様の台詞を放っていた。
 もし資質を持っていなかったとすれば、『彼』は殆ど『真紅』に対する想いだけで『真紅』の砕けた腕──真紅のそれのようにただもがれた訳ではなく、肩関節が破壊され細かな破片が飛び散っていた──を修復し、最後の場面で人形師を呼びつけることまでやってのけたことになる。技術でなく桁外れの想いを持っていた、ということだ。
 彼等の物語としては、その方が似合っている気もする。
 『水銀燈』は製作者への想いだけで動き出した。本来動力源のパワーに耐えられない筈の、弟子の作った人形も、一身に受けたその想いと自らの製作者への想いで、最終的には崩壊してしまうものの都合六つの動力源を取り込むところまでは行った。
 目立って特徴のない、ごく普通の契約者であるはずの『彼』の『真紅』への想いが二度に亙って彼女を再生したというのは、その延長線上にあると考えれば実に平仄の合う話ではある。

 一方、今隣室で、オディール・フォッセーへの慣れない応対をぎくしゃくとこなしている桜田ジュンには、そうした素直な部分がやや欠けているように見える。または自分でそれと認めることを拒んでいるのだろう。
 彼が少なくとも契約者として特殊であり特異なのは、水銀燈にはよく分かっている。彼でなければならない場面というのは今までも幾つかあったし、恐らくアリスゲームの終焉が予定されていたこの時代で、アリスの基礎となるべく調製されてきた真紅の──恐らくは最後の──契約者として選ばれたことがそもそも特殊でもある。
 いや、むしろ彼のパートナーとして真紅が選ばれ、目覚めさせられた、というべきかもしれない。
 彼はマエストロとしての素質は十分でも、最低限の社会への適応を欠いてしまうところだった。それが真紅という不器用ではあるけれども慈愛に溢れた存在を得、どうにか前を向き始めているように見える。
 今後、いつ真紅がジュンの目の前から去ることになってしまっても、彼女が去り際の言動さえ間違わなければ彼は前を見て進んで行ける筈だし、彼女が大きく間違うこともまたないだろう。ゲームの進行者から見れば、それは神業級の職人が世に出ることを可能とすることになる。

 しかし、そんな風に見えない手でがっちりと手厚く保障された、盤上から逃れることのできないゲームの住人に対して『真紅』はどういう視線を送るだろうか。
 ある意味で完璧主義者の『真紅』のことだ。冷ややかな目で見るかもしれないし、あるいは「よく出来たゲームの盤の上で踊らされている可哀想な操り人形」に憐憫の眼差しを向けるのかもしれない。
 それは例えば、関わってしまった者に対して真摯な姿勢でしか臨めなくなる真紅とは対極の位置からの視線だろう。それとも、初めての敗北と目指すものが突然消えるという二つの大きな挫折を経て、真の意味で高慢だった『真紅』の性格も──水銀燈が持っている知識のそれとは──少しは変わっただろうか。

 水銀燈はやれやれと頭を振る。全て、あまり考えることに意味があるとも思えない、果ても見えない憶測だ。
 いずれにしても、姿や立場は酷似していても、二つの世界の住人の間には相違点が多い。それだけは推測でなく確かなことだった。
「とても弱々しくて……折れてしまいそう」
 ナナがぽつりと呟く。ある意味で二つの世界の相違を体現しているような彼女の声で、水銀燈は短い思索から引き戻された。
「確かに操られているか、何かに突き動かされてる感じよね、あの人間」
 ナナは振り向き、こくりと頷いてまた前を向いた。
「自分で考えて歩いているんだと思います。でも、周りを見る気持ちは持てていないみたいです」
 ナナは考え考え、といった調子で慎重に喋る。自分だけの言葉にならないように、ひどく平易な言葉だけを選んでいた。会話そのものを殆どしたことのない彼女には、まだまだ語彙が足りていない。
「意志の力は感じますけど、心が弱っているように見えるんです……」
 上手い言葉が出てこなくてもどかしそうなナナに、当然ね、と水銀燈は自分もまた客間の中を覗き込む。
「雪華綺晶の糧は、薔薇乙女に近しい、近くありたい人間の心。契約して、一定以上に力を与えているか奪われているって証のようなものね」
「心を……」
 ぶるっ、とナナは身を震わせる。相対したときの雪華綺晶のことを思い出したのかもしれない。ただ、そのときのナナはネジの切れた状態だったから、雪華綺晶の具体的な部分については殆ど何も知覚することはできなかったはずだが。
「同じ夢を誘導するにしても、末妹のやり方はむしろ貴女の姉妹が力を振るうときに近い、力ずくのものよ。積極的にフェイクを使い、大規模なときは小さな世界のフェイクを丸ごと作ることもする。自分の望む夢を見させるんだから当然の下準備といえばそこまでだけどね」
 水銀燈は口許を歪めた。そんな異質で、nのフィールドから出ることもできない蜘蛛か蟻地獄のような雪華綺晶だが、それでもやはり彼女の方が、ここで隣に並んで隣室の様子にはらはらしているナナよりも、自分に近い存在なのだ。
 何と言っても雪華綺晶は自分の姉妹であり、同じアリスゲームを戦っている駒同士だった。敵同士、ではあるけれども。
「その分、一旦契約を結んでしまえば契約者にも多大な負担が掛るのでしょう。たとえ、契約者から吸い上げる分など末妹の力の一部に過ぎないとしてもね」
 自分達姉妹は誰でも、契約を結んでしまえば否が応でもその相手を自分に関わらせてしまう。雪華綺晶は行使できる力が大きく、また糧への依存度が大きいだけに、それと気をつけていなければ契約者から無意識に力を搾取してしまうのかもしれない。
 非難する気にも同情する気にもなれないが、不便なものだ、とは思う。

 所詮、薔薇乙女は不完全な存在だ。雪華綺晶以外の姉妹とて人間に依存しなくては行動できないのは同じことだった。他ならぬ水銀燈も含めて。
 彼女達は連続した自己と記憶を保ったまま、nのフィールドを介して世界樹で繋がっている限りの世界を行き来できるものの、世界樹の枝分かれが起きて現実世界が無限に分岐していっても、他の生命のようにその各々の先で繁栄することも許されない。
 その意味で、薔薇乙女達は世界樹の一部としてある生命というよりは世界樹に寄生した虫のようなものだった。
 世界樹の司る生命そのものとは直接関係なく、そこに別個のものとして存在しているから、常に一人ずつしか存在できない。逆に、だからこそ世界樹の上をある程度自由に行き来でき、その表面に限れば多少の工作もできる。
 普段は世界樹の樹液を不器用に吸いながら生かしてもらっているが、契約者という存在を経由して一時的に大量の樹液を吸い上げ、より活発に活動することもできる。そんな存在だった。
 水銀燈は他の姉妹より若干吸い上げる能力が高い、と言えるだろう。契約を結ばなくても人間を媒介として力を行使できる。そして、幾らか自由に世界樹の上を飛び回ることが可能でもある。
 そういうイレギュラーな存在であること自体は、彼女達の殆どにとって、取り立てて重荷にはなっていなかった。
 真紅だけはそこを重要視して自分達の無限に近い孤独に寂しさと諦観に似たものを持っている。また、だからこそ相対的に弱者でありながらアリスゲームを完遂させてアリスという存在を生み出すことに拘りを抱えてもいるようだった。思索や推理を好み、心理学や哲学書を読み耽るのが趣味の彼女らしい考えではある。
 他の姉妹は敢えてそこまで深く考えようとせずに居るか「そういう者として存在してしまっているのだから」という割り切りのようなものを持って生きている。人間がどう足掻いても猫になれないようなもので、ある意味で当然の割り切りではあった。
 ただ水銀燈自身に関して言えば、そういった部分に他の姉妹に比べて試作品的なきらいがあるのが──今は「多少の」と言えるほどに軽くなってはいるが──引け目でもあり、他の姉妹よりもアリスゲームに執着してきた原因の一つでもある。
 試作品の自分が至高の少女となることで皆を見返してやろう、というほど単純明快な心理ではないが、少なくとも彼女は自分がゲームの駒として自立度が高く、それがゲームの上で有利に働くことは自覚していた。アリスゲームは潰し合いだという認識もあったから、有利な部分を生かすことは重要だった。
 この時代で媒介から知識という置き土産を得て、彼女はアリスゲームに対する姿勢を大きく変えた。少なくとも自分ではそう思っている。
 ただ、翠星石のようにゲームを忌避したり、まして軽く見るようになった訳ではない。それまでとはやや別の視点から、大詰めに差し掛かりつつあるはずのゲームそのものの段取りに対してささやかな反抗を始めてみせているつもりだった。

 ふん、と鼻を鳴らして水銀燈は壁に寄り掛った。大分注意力が散漫になっているのか、つい蒼星石のような取り留めない思索をしてしまう。
 隣室の情勢に動きが殆ど無いことも、その原因の一つだった。
 待ちが基本姿勢の真紅と応対にまだ慣れていないジュンは、どちらもオディールの言葉を待っているだけのような状態に水銀燈には見える。それは言葉尻を捉えて自分の言葉を捻じ込もうという抜け目の無いものではなく、雪華綺晶に偽りを見せられている彼女を気の毒がっているのと、彼女の様子を見極めたいという思惑もあるようだった。
 オディールは挨拶を交わしてから雛苺を膝の上に抱き上げ、うっとりと目を閉じているだけのようなものだ。意外にも、雛苺も落ち着いて彼女の腕の中に収まっている。
 雛苺が昨日のように不安定でなくなったのはナナが今朝方見せた夢の影響が大きいのだが、水銀燈はそこまでは知らない。ただ、雛苺が何とか思い出にけりを付けられたのだろうということは察していた。
 二人はぽつりぽつりと言葉は交わしているが、これからの話題やら彼女が騙されているらしいというような重要な事柄ではなかった。断片的に聞こえてくるところでは、恐らく昔話──コリンヌ・フォッセーに係る話題のようだった。それも、出逢いや別れに関するものではなく、ごく些細なものばかりだ。
 ナナは幾分羨望の混じった、何とも言えない表情で二人を見詰めていたが、やがて水銀燈を振り向いた。
「心を吸われ尽くしたら、ミーディアムはどうなってしまうんですか」
 水銀燈はナナの言葉の間違いを訂正しなかった。
「他の姉妹の契約者と同じでしょうね。指輪に取り込まれ、ドールに飲み込まれて消滅する」
 ただ、その前に多分意識を失って行動できなくなるだろう。いや、その前に所謂廃人になってしまい、起きていようが夢を見ていようが同じ状態に陥るのか。
 どちらにしてもそこまで酷い状態にするよりは、さっさと糧として心全体を確保してしまう方が雪華綺晶には得策の筈だ。彼女の糧となれる存在もまた限られているのだから。
「雪華綺晶が途轍も無く窮地に陥っているか、別の糧を確保していなければ、あの人間がそこまで追い詰められることはないでしょうよ」
「そうですか……」
 ナナは安堵したような表情になって、また隣室を覗く。彼女にとっては何の関わり合いもないはずの人物のことを気に懸けているのは、彼女が体内に取り込んだ『雛苺』の動力源のせいなのかもしれない。
 水銀燈はその後姿を眺めてから、翠星石が何やらいい匂いをさせ始めたキッチンの方に視線を向けた。
 つい先程、偶然の後押しがあって漸く自分の気持ちを契約者に伝えることができた、中々素直になれない心の庭師は、今という時間を精一杯謳歌するのだというように、如何にも楽しげに人数分のお茶菓子を作っていた。
 いっそ庭師を辞めて花嫁修業でもすれば良いのに、と無理なことを呟くと、水銀燈は舞い上がってキッチンに向かう。ナナよりは自分の方が多少なりとも翠星石の手伝いにはなるだろう。小奇麗なクッキーよりも、飯盒で作るパンの焼き加減を見る方が得意ではあるのだが。


 ガラス戸越しに見ている冷静な視点とは違い、当のジュンは困惑していた。
 昨日は訳の分からない相手、というイメージしか持てなかった。
 そもそも巴が連れて来た相手だったし、雛苺は終始怯えていて、しかも中途で翠星石が乱入してきた。お陰で彼としてはオディールを半ば敵のようなものとして捉えていればそれで良かった。
 しかし、今日は全く違っていた。心此処に在らずというか、妙にふわふわした印象は同じなのだが、雛苺に柔らかな言葉を掛け、雛苺の方も満更でもなさそうな様子でそれに答えている。
 美しく可愛らしい薔薇乙女と美貌の妙齢の女性ばかりに囲まれている彼が見ても、オディールは何処か浮世離れした、人形のように可愛らしく、美しい少女だった。人形であるはずの薔薇乙女達よりも人間である彼女の方が「人形のように」可愛らしい、というのは本来酷くおかしな話なのだが、ジュンにはそのことを深く考えるだけの余裕もない。
 敢えて言えば、彼は少しあがってしまっているのだった。神業級の職人でもなければ二人の薔薇乙女に愛されている契約者でもない、自分に少し自信のないただの少年が、可愛い少女と向かい合っている状態だった。
 幸か不幸か、可愛い少女は彼の方を殆ど見ていない。夢見るようなぼうっと優しい面持ちで、腕の中に抱いている年の離れた妹のような雛苺とぽつりぽつりと語らっている。それもまた、彼の困惑を大きくしていた。

──これじゃ、とても入り込めないじゃないか。

 元々、彼はオディール・フォッセーに雛苺を渡すのを拒否して、何か文句を言われたら本当のこと──彼女と契約しているのが雛苺でなく雪華綺晶だということ──を告げてやる、程度の気持ちでいた。雛苺の直近のマスターは巴だったし、今は自分がマスターの役目を半分担っている。そこは譲れなかった。
 偽りの情報に惑わされ、フランスから遥々来たことは可哀想だとは思う。しかし雛苺を怯えさせ、弱らせて雪華綺晶の餌にさせる訳には行かないのだ。
 そんな風に自分を恰も正義の味方のように正当化しようとしていたのだが、その意気込みはごくあっさりと裏切られた。オディールは相変わらず物静かで昨日の続きを一向に言い出さないし、雛苺は雛苺で今日は怯えも不安も見せずに彼女の腕の中で昔話を交わしている。
 雛苺を連れ帰る気ならさっさと用件を切り出せばいいじゃないか、と苛々した気分が持ち上がって来る。そうすれば妙な居心地の悪さも感じないでこっちの言い分を突き付けられるのに。
 傍らの真紅をちらりと見る。彼を一番好きな子、と翠星石が言っていた少女は、優しい視線をオディールと雛苺に向けていたが、ちらりとジュンを見上げた。視線が交錯して、真紅は彼を安心させるような微笑を浮かべる。
 その笑顔にどきりとして、ジュンは慌てて視線を逸らした。こんなときなのに頬が赤くなって来るのが自分でも分かってしまう。
 可愛い少女に気後れする、どころの話ではない。彼の隣にも、高飛車で不器用で優しい、しかも彼にだけは可愛いところや弱いところを見せても良いと思うほどに彼を信頼している少女が座っているのだった。
 纏まらない頭のままもう一度オディールを見遣ると、金髪の少女は茫漠とした視線を彼に向けていた。今にも眠りそうに細く開けられた、白目の部分が殆ど見えず蒼い瞳だけがきらきらと輝いている目は幻想的な美しささえ感じさせる。
 ジュンは頭を振ってあらぬ方に視線を向ける。話を始める切っ掛けは、益々掴めそうもないように思えてきた。



[19752] 130程度でごんす。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/01/03 22:04
おまえら、もうちょっとましな場所&タイミングで告れや、と。

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 蒼星石は鋏を忙しく動かしながら、ちらちらと傍らに視線を向けている。
 視線の先では少年が相変わらず庭の片付けをやっている。一旦帰宅したものの、誰も家に居なかったからという理由で、彼は一昨日結菱老人と話していた作業に手を付けていた。
 薔薇園の手入れは彼女の日課で、最近はそれを少年が手伝うのも珍しいことではなかったが、それが平日となると初めてだった。
 しかし、蒼星石はそのことに感慨を抱いて気を散らしているわけではない。
 彼女が気にしているのは少年の表情だった。元々──記憶を無くしてからは、だが──彼は考えていることがすぐに顔に出る。あまりそういうところから他人の感情を読むのが得手でない彼女にもよく分かるほどだった。
 今の彼の表情は、不安か疑念を抱えているように見える。
 それを忘れるか拭い去りたくて、誰か他人の居る所で仕事に没頭したかったのではないだろうか。そんな風に彼女は思い、結菱老人に挨拶するのもそこそこに彼が作業を始めても黙って薔薇の手入れを続けていた。
 だが、彼女の見るところでは、彼の疑念と困惑は先程珍しく徒歩で薔薇屋敷に来たときよりも、今の方がむしろ大きく膨らんでいるようだった。

──尋ねてみるべきだろうか。

 そんな風に自問すること自体自分らしくない振る舞いかもしれない、と考えながらも彼女は中々声を掛けられずにいた。少年が長いことそんな顔をしているのは今までになかったことだったし、それは何かの前兆のような気がしていたからだ。
 有体に言ってしまえば、彼女はその件に触れることを怖れていたのだろう。

 結局一時間ほどお互いの仕事をこなした後で、話を切り出してきたのは少年の方だった。蒼星石の作業がひと段落するのを待って、彼は彼女を屋敷の脇の倉庫の方に誘った。
 そこは庭園の手入れをするための道具や用具を置いてある場所だった。少年が使った刈払機も、蒼星石の愛用している軽い脚立も、一日の作業が済めばそこに仕舞う、ごくありきたりな場所ではあった。
「これさ」
 少年が指差したのは、例の刈払機だった。つい一昨日、チップソーを矢鱈に刃の多いものに換えて庭の灌木を伐ったときのままの状態で、壁に立て掛けてある。
「これが、どうかしたのかい」
 機械にこれといって変わったところはなかった。昼に彼女が見たときより少し移動されていることと、一昨日時間がなかったので掃除していなかったのが軽く拭かれたように綺麗になっている程度だ。少年が先程掃除して立て掛け直しただけの話だろう。
 掃除をしたということかな、と尋ねると、少年はうーんと唸ってみせた。彼流の不同意の印だ、というのが蒼星石には分かった。
「そっくりに見えるよな、やっぱり」
 少年はそう言うと、反対側を向いてスチール棚の上に腕を伸ばし、長物を半分ほど引き出してみせた。
 蒼星石は目を見張った。それは、昼に彼女が見たまま、汚れもそのままの、いつもの刈払機だった。彼女は壁に立て掛けてある方の機械に視線を戻し、信じられないと言いたげに口を開いた。
「──雪華綺晶の白薔薇を切った機械が、幻影でなく実体を持っていた……?」

 あのとき、あの場で機械を現出させたのは恐らくナナの力だろうというのは、ナナ本人や水銀燈に改めて説明は求めなかったものの想像が付いていた。ナナがどういう力を持っているかは今朝の雛苺の夢で確認済みだったし、少年が詳細かつ緻密に夢を構成するのはよく分かっている。
 少年のその──一つの異能と言って良いほどに──詳細な構成力に、ナナの力が加わって、刈払機のような複雑なものがそこに現出したのだろう。
 ただ、それは何処までもnのフィールドの中だけの幻影であるはずだった。実体を持って現実世界に出現するはずはないのだ。
 蒼星石が真紅の右腕の一件をもっとよく知っていれば、真紅の腕が囚われていた鳥籠が少なくとも暫くの間は実体を持って現実世界に現れたことと、この機械が実体を持ったことの関連性を疑ったかもしれない。だが、彼女はその辺りの事情に多少疎かった。
 彼女が閃くように関連を思ったのは、あの黒い翼の人形だった。他の姉妹ほどにはあの人形に関わっていない彼女ではあったが、共通項の多さはすぐに浮かんで来る。

「うん」
 少年はあっさりと頷き、引き出した方の機械をずるずると元の位置に戻すと、蒼星石は知らなかったのか、とやや意外そうに言った。
「うちの風呂場にずっと置いといたのにな」
「気が付かなかったよ」
 蒼星石は苦笑する。自分の鈍感さと共に、そのことを敢えて話そうとしなかった水銀燈の態度にも憤りや猜疑ではない、何か可笑しさに似た感覚を覚えていた。
「僕達は風呂場もトイレも使わないからね。其処は家の中では縁遠い所だ」
 物を食べても便は出さない。水を飲んでも汗はかかない。そんな歪な存在が自分達だ、と蒼星石は思うことがある。それは、少年の作業ツナギが汗で汚れていたり、結菱老人の車椅子をトイレに押して行ったりするときに特に意識することだった。
 ただ、今はそういう情緒的な気分に浸るつもりはなかった。
「そう言われれば、そうだよな……」
 少年は照れたように鼻の頭を指で掻いた。
 彼にしてみれば、水銀燈は毎日のようにユニットバスで髪や身体を洗ったりしているから、蒼星石も起きたら顔を洗いに行き、そのときに当然刈払機も見ていただろうと思っていた、それだけの話だった。しかし、彼女が自分の身体を洗うのは庭園の作業が済んだ後程度だった。
 水銀燈が身体を洗うのは毎晩空を飛んでいるからであり、身体から排出された老廃物を洗い流すためではない。蒼星石が作業の後に顔や手を洗うのと同じ事で、それ以上無理に清潔にする必要はないのだが、そこまでは少年の考えは及ばなかった。
 いずれにしても彼もそのことを深くは追及しなかった。
「まあでも、二つ目が出てきちゃったことは、今はちょっと保留でさ。刃のところをちょっと見て欲しいんだ」
 そう言って、彼は立て掛けてあった方の刈払機を床に置いた。
 蒼星石は作業着の膝を床につき、帽子の庇を持ち上げて刈払機の先端に付いている大判のチップソーの刃先を見詰めた。
 刃は新品に近いはずなのに、大分黒く汚れている。改めて見ると、オリジナルの方とは違った汚れ方だということが分かる。nのフィールドの中での、短いが連続した切断作業を物語っているようだった。
「ここから、この辺りまでなんだけどさ」
 少年は指で刃を押さえた。チップソーに何かがこびりついている。木や草の脂や渋、石に削られた跡、そんなものがチップソーに同心円状に付着したり刻まれたりするのは、少年が使った後の機械を見ている蒼星石にもよく分かっている。だが、彼の指先の辺りにこびり付いている物はそのどちらとも違っていた。
「溶けて固まり直したプラかなんかに見えないかい? これ」
「こういうのはあまり見慣れないけど……合成樹脂のようには見えるね」
 蒼星石も彼の指の後に続けてチップソーの表面をなぞる。ざらざらした、というよりはごつごつという表現の方が似合うほど手酷くこびり付いたそれは、妙に油気がなく、そのくせ刃の表面に頑強に噛り付いていた。
「色は……茶色? いや、ベージュか」
「いや、もっとずっと明るい。汚れ落としたら、きっと……」
 少年は、刃をなぞっている小さな手に人差し指を当てた。
「こんな色になる」
 蒼星石は彼を振り向いた。少年は何度か瞬き、深呼吸をするように長い息を吸い、それを吐いてから、彼女と視線を合わせた。
「あのでっかい花に閉じ込められたとき、俺、確かに一度四角く穴を開けたんだ。ちょっと難しかったけど、手応えは軽かった。それに切ったところから外も見えたんだ」

 しかしひととおり穴を開けたはずなのに、四角く切った所は押しても突いても中々外れなかった。よく見直すと切り損なったらしい部分があり、彼はその部分だけもう一度切断し直して、漸く脱出することができたのだった。
 その部分だけは、恐らく材質も異なっていたのだろう。粘り気があって硬いというのか、潅木を伐ったときとはまた異なった「厭な」手応えがあって、足許まで花弁の崩壊が進んでいたこともあって少年は気が気ではなかった。
 幸いなことにその部分は切断方向に対してそれほど長くなく、彼はどうにか花弁が崩壊しきる前に今度こそ切り抜き終え、脱出することに成功した。
 思い返すと他にも不審なことはある。
 それは、硬い部分を切断しているとき、明らかに刃の立てるスキール音やエンジン音だけでなく、何かの叫び声のようなものが聞こえてきたことと、切断しているときにプラスティックか何かが焦げるような厭な臭いが漂っていたことだった。

「まさかとは思うんだけどさ……」
 少年は指を滑らせて、また刃にこびり付いたプラスティックらしいものに触れた。
「あのとき、俺、キラキィを切っちまったのかもしれない。胴体みたいなでっかいところじゃなくて、腕とか、足とか」
 最初に切り終えたはずのところに切り残しがあったというのも、最初に何度か突いたり押したりしても外れなかったのも、雪華綺晶が大薔薇に取り付いてその場所を押さえ込もうとしていたとしたら辻褄が合う。
 蒼星石を払いのけ、大薔薇に向かった後の雪華綺晶が突然消えてしまったように思えるのも、刈払機に何処かを切り落とされてダメージを受けての撤退だと考えれば無理がない。
 蒼星石は首を振った。小さな手を彼の手に重ね、指と指を絡め合わせ、きゅっと握り締める。
 翠星石が見れば、慌てて蒼星石を抱き締めたに違いない。全くの無意識にしたことだったが、それは彼女が不安になったときに翠星石の手にしていた仕草だった。
「しかし、彼女にはそんなことをする理由がない。むしろ、花弁に穴を開けて脱出して来た貴方を白茨で捕獲する方がずっと確実だ」
 雪華綺晶は大薔薇を維持するのに殆ど全力を振り向けていたはずだ。大ダメージを受けたとはいえそれを手放し、邪魔な蒼星石も力の使い過ぎで戦線離脱してしまったのだから、後は悠々と彼を捕獲すれば話は済んでしまう。何も、わざわざ大薔薇そのものに穴を開ける作業を邪魔する必要はない。
「それに彼女の身体は……幻影のはずだ。実体を持っていない彼女は、まず雛苺や水銀燈を、そしてこの間はより彼女に近いものとしてナナのボディを狙った。彼女にとってボディを得たいという欲求は、アリスゲームの遂行や糧の確保と同等に大きいものだ」
 本人もそう言っていた、と蒼星石は殆ど体ごと向き直るようにして彼の瞳を見詰めて抗議してしまう。自分でもよく理由が分からないが、少しだけむきになっていた。
「僕の鋏を受け、貴方に身体の一部分を切断されるような傷を受けた彼女が、何の痕跡も残さずに即座に消え失せたというのも不可解だ。
 それに、もし彼女にボディがあったとしたら、それは──」
 そこまで言って、彼女ははっとして言葉を呑み込んだ。

 雪華綺晶を鋏で力一杯突いたときの、不可解な感触。木でもなければ陶器や金属でも、まして──自分達の身体が今そうなっているような──人肌に似た柔軟な素材でもない。
 それは、殆ど中心までムクでできた、少し柔らかめの合成樹脂か何かのような感触ではなかったのか。
 実際にそんなものを、しかも鋏で突き通したことはなかったから、そのときは不可思議な感触としか思えなかった。だが、そういう材質だと考えれば、意外に深いところまで鋏が入ったことも、蹴り飛ばさなければ鋏が抜けなかったことも説明がつく。
 雪華綺晶の作る幻影には「中身の詰まった」ものがある、と言ったのは翠星石だった。雪華綺晶自身が幻影なのだ、とも。
 ならば、今の彼女はその姿さえ仮のもの──彼女が自在に生成する他の幻影と同じ物──なのだから、むしろ同じように形成していると考える方が自然ではないのか。そして、彼女の作り出す彼女自身の仮ボディにも、時宜に応じて「中身が詰まって」いたとしても不思議はないだろう。
 逆に考えれば「中身が詰まって」おり、その維持にリソースを振り向けており、ある程度以上彼女自身にもダメージがフィードバックする──もしくは、維持そのものに彼女自身の構成要素、場合によっては魂を必要とするほど精緻な──ものであったからこそ、蒼星石の攻撃によって大きなダメージを受けたのだ。
 そして、少年の刈払機によって仮のボディに許容できないほどのダメージを受けてしまった彼女は、ボディを破棄して自分の領域に退却せざるを得なかった。

 仮ボディは、彼女が欲している「本物の」ボディとは当然異なる。彼女自身が糧の心を吸い続けなければ存続できないように、幻影のボディは便利ではあっても、維持していくには常にリソースが必要なのだ。
 むしろ、仮のボディを維持することの不便さが、彼女に他の姉妹のような「本物の」ボディを得たいという欲求を持たせてしまうのかもしれない。
 薔薇乙女達のボディは本来はビスクでありながら、彼女達がその姿を保っている間はまるで人肌のように暖かく、柔らかく、小さな傷は自然に治癒し、経年劣化とも無縁の、まさに神秘の器なのだから。そして当然のように、それを維持することには何等の労力も必要としない。
 しかもそれは薔薇乙女の魂が迷子になり、ローザミスティカさえ失われてもなお継続する。恐らくは人形としてのボディそのものの記憶──それもまた魂と言い換えてもいいのかもしれない──が失われない限り、彼女達の造物主が作り上げた無機の器に掛けられた魔法は機能し続けるのだろう。

「──どうした?」
 急に言葉を止めてしまった蒼星石を、少年が覗き込んだ。彼女は一つ二つかぶりを振り、ごめんと謝った。
「僕の思い込みだった。恐らく、貴方の考えていることは正しいと思う」
 彼を白茨で捕獲する方法を選ばなかった理由は分からないが、ダメージを回復するために時間が欲しかったのか、あるいはその場の何等かの状況がそれを許さなかったのだろう。
 その他は、多分彼の言ったとおりなのだ。雪華綺晶はあの崩壊していく大薔薇に取り付き、そして仮のボディに大ダメージを受けて撤退した。
「そっか」
 少年は一言で済ませた。それ以上の追及や質問はしなかった。彼にしてみれば、蒼星石が何か記憶と情報を突き合わせて推理し直したのだろうと思っただけの話だ。彼自身はそういう推理は苦手だった。
 ただ、いつものように直感で理解していることもあった。
「ま、そんじゃ、この話はおしまい、な」
 空いている方の手を、今は向かい合うようにしてお互い膝をついて座り込んでいる彼女の背中に回す。お揃いの青いツナギ服を着た少女を抱き寄せると、小さな彼女は素直に彼の左肩の辺りに顔を埋めるような恰好になった。
 彼にしてみれば、蒼星石が無意識に抱いている不安や焦燥のようなものを取り除いてやりたいと思ったに過ぎなかった。子供を抱いてあやしてやろうとするのと似たような気分のはずだった。
 ただ、抱き寄せてみると、一昨日のことがフラッシュバックするように思い出されて、彼は思わず小さな少女を抱く腕に力を込めてしまう。
 握り合った蒼星石の手にも力が込められ、彼女の空いている方の手がおずおずと彼の背中を抱いた。

 蒼星石は目を閉じる。肩に強く顔を押し付けられて、彼の鼓動が感じられるような気がした。不安も、こういった勘違いをしたときに現れる自己嫌悪に近い感覚も、一瞬浮かびかけた雪華綺晶への同情に似た思いも、全て静かに収まっていた。
 彼の服は相変わらず汗と草いきれの匂いがする。多分、冬になるまでその匂いのままなのだろう。
 冬の間はどうなのだろう。そして次の春は、夏は、その先は。
 それを、ずっと傍で感じていたいと思うのは高望みが過ぎるだろうか。彼だけでなく、結菱老人と、できれば他の姉妹達と、この薔薇屋敷で。
 アリスゲームが大詰めに差し掛かっているのは、水銀燈の言葉を聞くまでもなく分かっている。七人が揃い、少なくとも一人が脱落し、最も力を持っているはずの一人が追い詰められ、少なくとも二人の姉妹が積極的に動いている。
 だが、それを分かっていても、蒼星石は未来を見ていたかった。無機の器が滅びるまでの半ば無限の未来ではなく、ほんの暫くの、だがゲームの刻限よりは恐らくずっと先の未来だった。
 不思議なことに、彼女はその未来像に、彼と共に成長し、老いて行く自分を当て嵌めていた。
 そんなことは、有り得ない。それは幾つもの時代を渡って来た薔薇乙女達にはよく分かっていることなのに。

「俺って変だよなぁ」
 くすくすと彼は笑う。そこには少しだけ自嘲が含まれているのだが、蒼星石はそれに気付かない振りをした。
「貴方は最初に会ったときから変だったよ」
「あ、そうなんだ」
 彼は他人事のような言い方をする。いや、実際に殆ど他人事だった。彼女に初めて出会ったのは、彼であって彼ではない。そのときの彼は、生前から持っていたという記憶と共に何処かに消えてしまった。
「水銀燈はその頃の変なヤツが好きなんだ。今でも」
 そういう恋は、見果てぬ夢とどう違うのだろう。絶対に届かないはずの想いを抱えて、水銀燈はそれとは全く無関係な、もっと重大な目標に向かって邁進している。
 その先が見えてしまっているから、小さな恋よりもずっと大きな愛憎がそこにあるから、あまり気にならないのだろうか。
「蒼星石も──そうなんだって、知ってるのにさ、俺」
 え、と蒼星石が絶句している間に、彼はやや早口で続けた。
「でも俺さ、君のこと……多分。契約してるわけでもないのにさ、変なんだけど、記憶失くす前の俺が、水銀燈に告白したみたいに、その、なんていうか」
 次第にしどろもどろになっていきながらも、彼はひとつえへんと咳払いをして、どうにか次の言葉を捻り出した。

「好きだ」

 蒼星石はそろそろと息を吐いた。言われてみると、そんなことは言われるまでもなくずっと前から分かっていたような気がした。それこそ、彼自身が気付くより、ずっと前から。

「僕もだよ」

 ただ、貴方は一つだけ勘違いをしてる、と蒼星石は少し人の悪い笑みを浮かべた。
「僕が好きなのは、記憶を失う前の貴方じゃない。いま、僕に告白してくれた貴方だ」
 言いながら、また目を閉じて蒼星石は少年の肩口に頬ずりした。
 少年はびくりとして、何か意味不明な言葉を口の中で呟いている。それが彼女には少しばかり痛快だった。


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