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働乱の時代に:第1部・ものづくりの現場から/3 海渡る日本人技術者

宍田光紀さん
宍田光紀さん

 <働乱(どうらん)の時代に>

 ◇活気求め大手に見切り

 年の瀬、韓国ソウル近郊の冷え込みは厳しい。水原市にあるサムスン電子の研究所で働く日本人技術者の忘年会は恒例の乾杯で始まる。「サムスンチョンジャ、ウィ、ハ、ヨ(サムスン電子のために)」

 パソコン(PC)開発部門で技術者を束ねる宍田光紀さん(48)は杯を重ねた。「久しぶりに日本語で話しながら飲む酒はうまいな」

 同社は10年4~9月期の最終利益が約6200億円。日本の電機大手8社の合計を上回る。外国人技術者の中途採用を続け、水原の「サムスン日本人会」も100人以上。土日もなく働くが、入社した日本人の半分以上は2~3年で姿を消す。宍田さんが入社した9年前も約100人いたのに、今や2番目の古参だ。

 大阪で生まれ、大学を出て86年に松下電器産業(現パナソニック)に入社した。ワープロとPCの設計・開発に携わり、ワープロではシェア首位をつかんだ。PC部門は低迷し、ITバブル崩壊で社内にはトップを狙う余裕もない。全盛期の熱気を知る身には物足りなさが募った。特別早期退職の募集が始まる中、来日したサムスン役員に「一緒に世界一を目指そう」と誘われた。骨をうずめる覚悟で転職した。

 横浜市のサムスン横浜研究所には日本人社員が約200人在籍し、20~30代も増えた。若い人には日本の大手と同じ就職先になりつつある。

 だが、宍田さんは「日の丸を背負っている」という自負が自分を支えてきた気がする。サムスンは日本の技術も吸収し、その差は確実に縮まっている。部品の性能が高い日系メーカーとも取引しているが、韓国勢に追い抜かれればおそらく切り捨てられる。そうなれば悔しい。「もっとレベルアップしてください」。思わずメーカー幹部に伝えた。

 昨年10月、東京都大田区の区産業プラザ。サムスンの躍進ぶりを講演した元日本法人顧問の石田賢さん(61)は、町工場の経営者から次々に「取引を仲介してほしい」と頼まれた。町工場は日本の大手からの受注が減って苦しむ。契約内容を外に明かさず「秘密保持契約」を結び、高性能部品の試作を請け負うところも出始めた。

 人材ばかりでなく、高い技術を持つ町工場もサムスンに引き寄せられている。

    ◇

 サムスンで7年間、プリンター部門の首席研究員を務めた常見宏一さん(52)は昨年2月に帰国した。

 83年の東芝入社以来、プリンター用トナーの材料開発一筋。だが、転職後にインクジェットが主流となり、トナーは苦戦が続いた。「もう少し頑張ってもらわないと」。上司の一言で心が動いた。次は「クビ宣告」かもしれない。自分の旬も過ぎた。退社を決断した。

 今は神奈川県寒川町の印刷関連「森村ケミカル」で研究開発担当部長を務める。従業員50人。給料もサムスン時代の3分の2に減った。しかし、アジア企業の攻勢を受けてもいまだに危機感が足りないように見える日本の大手とは職場の雰囲気が違う。

 「ときめきを感じて働ける」。生き残りに懸命なこの会社には活気があふれている。=つづく

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毎日新聞 2011年1月3日 東京朝刊

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