■年のはじめに考える■
何のための政権交代だったのか-。
期待を裏切られた国民から、怨嗟(えんさ)と怒りの声が飛び交う。
こんなはずではなかったのに…。
政府と政権党は「ねじれ国会」の厳しい現実と離反する民意にたじろぎ、暗中模索の迷走を繰り返す。
自民党の長期政権に終止符を打ち、民主党に政治再生の希望を託した政権交代から、今年は3年目を迎える。
いま私たちの眼前に広がるのは、政権交代という言葉から直観的に連想した躍動的なダイナミズムとはおよそ正反対の荒涼たる光景である。
停滞、後退、そして混迷。旧態依然の古い政治と決別して新しい政治の秩序を創造しようとすれば、それは必然的な「生みの苦しみ」なのか。
それとも、何かが根本的に狂っているのに、そうではないと見せ掛けるために右往左往しているだけなのか。
1年半前の衆院選で歴史的な政権交代を実現させ、半年前の参院選で与党過半数割れの結果を導いた私たちは、主権者として「3年目の審判」を迫られているのかもしれない。
▼問責決議の重圧
「政治とカネ」と「普天間」で退陣に追い込まれた鳩山由紀夫前首相から政権のバトンを継承した菅直人首相は崖っぷちに追い込まれている。
衆参で多数派が異なる政治状況を首相は「天の配剤」と思い定め、先の臨時国会では与野党が政策本位で合意形成の努力を積み重ねる「熟議の政治」を呼び掛けた。
結果は惨憺(さんたん)たるものだった。補正予算案は参院で否決された。衆院の議決優先という憲法の規定で成立にこぎ着けたものの、仙谷由人官房長官ら2閣僚の問責決議が参院で可決された。
「熟議」どころか、政権運営と国会対策に不慣れな「未熟」ぶりをさらけ出した。
野党は、問責決議を受けた閣僚が関わる国会審議を拒否する構えだ。通常国会は冒頭から審議の入り口で立ち往生しかねない。
首相は内閣改造も検討しているというが、野党に押し込まれた急場しのぎの閣僚人事となれば、政権浮揚の起爆剤とはなり得まい。
強制起訴を控えた小沢一郎元代表をめぐる「政治とカネ」も、国会招致や出処進退まで絡んで時限爆弾のように政権の中枢を脅かす可能性がある。
この問題は国会攻防を舞台とする与野党対立だけでなく、「小沢対脱小沢」という民主党内の権力闘争の様相を深めており、一段と始末に負えない。
八方ふさがりとは、このことである。もし、菅首相がこうした難局を突破できなければ、新年度予算案と予算関連法案の成立と引き換えに、内閣総辞職か衆院解散・総選挙を迫られる-。そんな観測さえ現実味を帯びてきた。
誤解を恐れずに言えば、どう転ぶか分からない不安定な政局がダラダラと続くのが最悪のシナリオである。
▼もう一つの選択肢
長引く景気の低迷、借金で首が回らない財政の危機、社会保障制度の劣化、そして外交・安全保障政策の立て直し。政治が果敢に決断すべきテーマは枚挙にいとまがない。
にもかかわらず、政治が機能不全に陥り、事態打開の道筋さえ提示できない。わが国の針路や国民生活に直結する政策決定の重みと、国民から託された権力は何にどう行使すべきか-という本質論を見失ったかのように漂流する政治との「不均衡な落差」こそ、深刻な問題と認識すべきである。
その第一義的な責任は当然、いまの政府と民主党にあるが、政権奪回の旗印が不鮮明で国民の期待も一向に高まらない自民党など野党もまた、応分の責めを負うべきだろう。
政権交代が可能な二大政党制と言いながら、現時点では確かな「もう一つの選択肢」を持ち得ていないことは私たちも率直に認めざるを得ない。
しかし、そのことが菅内閣や民主党政権の「奇妙な安定」に結び付いているとすれば、それこそ本末転倒の由々しき事態である。
政府・与党が政権運営に行き詰まり、事態打開の方策も尽きたならば、争点を鮮明にして国民の信を正々堂々と問うのが本筋であろう。
少なくとも、表向き「熟議」を唱えながら、連携相手の本命だった公明党がそっぽを向いたからと言って、社民党との復縁を模索したり、たちあがれ日本との連立を無節操に画策したりすることではないはずだ。
政権選択の衆院選とは、「次の首相(党首)」と「政権の枠組み(政権党)」と「基本政策(政権公約)」を3点セットで国民に問うものだ。
振り返れば、政権交代後15カ月余で政権党の党首を兼ねる首相が交代し、連立の枠組みも変質し、政権公約はなし崩し的に見直されつつある。
民主党の思惑や都合とは裏腹に、民意を問う環境と条件は満たされてきたと言えるのではないか。
政治の信頼を取り戻す営みに奇手奇策は通用しないと心得るべきだ。解散・総選挙という正攻法の決断を菅首相はいたずらに恐れてはならない。
=2011/01/03付 西日本新聞朝刊=