47NEWS >  スポーツ >  格闘技 >  強さ持っていく場なかった非運も 谷津嘉章が引退
格闘技
強さ持っていく場なかった非運も 谷津嘉章が引退

2010年12月21日

引退試合で胴上げされる谷津嘉章
引退試合で胴上げされる谷津嘉章

30年前、「日本アマレス界最強の男」として華々しく新日本プロレス入りした谷津嘉章が、11月30日の新宿FACE大会をもって正式にリングを降りた。1976年モントリオール五輪で2勝を挙げ、アジア王者に輝くこと2度。人材の少なかった日本の重量級の中で、モスクワ五輪(日本はボイコット)ではメダル獲得も期待された逸材だった。

今でこそ、学生王者にさえなれなかった選手でもプロレスへ進むが、この頃プロレスへ進む選手というのは、五輪の代表の中でもずば抜けて強かった選手だけという時代だった。谷津には、ジャンボ鶴田、長州力に続くスター(当時、長州はまだスター候補)としてアマレス界にも大成を願う人は多かった。

しかし30年近くの選手生活では、鶴田とのタッグチームでやや光ったところがあったものの、個人で光ったことはなかった。五輪に出場できなかった永田裕志や中邑真輔、杉浦貴らが東京ドームや日本武道館でシングルマッチのメーンを張るのだから、谷津にもそうした舞台があって然るべきだった。プロレス雑誌で谷津が表紙を飾ったのはアマに復帰参戦した時だけだったとか。

日本デビュー戦でアブドーラ・ザ・ブッチャーとスタン・ハンセンにボコボコにされた「愛のムチ」が響いたとも言われる。私は谷津が自らを輝かせる華を持っていなかったことが最大の要因だと思っている。

強いことが評価されるアマチュアスポーツと違い、プロレスは自己を最高に輝かせる能力がなければならない。道場ではどんなに強くとも、ファンに訴える力がなければメーンイベンターとして失格。「日本レスリング界最強の男」は、この意味でプロレスラーになり切れなかったと思う。

総合格闘技がある時代なら、藤田和之のようにプロレスでは光ることができなくとも強さでファンにアピールする道を選べた。当時は強さを持っていく場がなかった。非運と考えるべきか、進む道を間違ったと考えるべきか。とにかく、30年間、ご苦労さまでした。(格闘技ライター・樋口郁夫)